柳澤蔵之助
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柳澤 蔵之助 | |
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聯合艦隊首席参謀時代 | |
生誕 |
1898年(明治31年)2月20日 日本、長野県 |
死没 | 1944年(昭和19年)3月31日 (46歳没) |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1918年(大正8年) - 1944年(昭和19年) |
最終階級 | 海軍少将 |
柳澤 蔵之助(やなぎさわ くらのすけ、1898年(明治31年)2月20日 - 1944年(昭和19年)3月31日)は、日本の海軍軍人。海兵46期、海大29期(首席)。最終階級は海軍少将。長野県佐久市出身。
略歴
[編集]旧制長野県野沢中学校より、海軍兵学校および陸軍士官学校(第30期)を受験し、双方に合格している。海軍兵学校第46期入校。入校時成績順位は131名中第6位、卒業時成績順位は124名中第16位。
柳澤は、海軍通信学校高等科課程を修了しているが、当時の日本海軍で通信関係に進むものに、成績優秀かつ健康に恵まれた者は比較的少なく、このことが海軍の情報軽視の背景の一つであったとされる。柳澤は首席で卒業している。
→詳細は「海軍大学校卒業生一覧 § 甲種29期」を参照
国連海軍代表随員、ジュネーブ海軍軍縮会議随員と国際経験を重ね、第二航空戦隊首席参謀、支那方面艦隊作戦参謀、仏印派遣委員長を歴任した。第二艦隊首席参謀として太平洋戦争開戦を迎え南方攻略作戦の計画にあたり[2]、この作戦は成功した。その後内地へ帰還し海軍省首席副官を務めた。
古賀峯一連合艦隊司令長官のもと連合艦隊首席参謀となった高田利種が病気となり、交代要員として柳澤が補職される。この人事は横山一郎に発令される可能性もあったが、第二艦隊の参謀経験がある点を買われたものだった[3]。パラオにあった連合艦隊司令部は機動部隊空襲を受けてダバオに脱出することとなり、柳澤は古賀と同じ飛行艇に搭乗したが、同機は行方不明となった(海軍乙事件)。柳澤は殉職[4]認定を受け海軍少将に特別進級している。
年譜
[編集]- 1898年(明治31年)2月20日- 長野県南佐久郡野沢町(現在の佐久市)生
- 1911年(明治44年)4月1日- 長野県野沢中学校入学
- 1915年(大正4年)8月31日- 長野県野沢中学校中途退学
- 9月4日- 海軍兵学校入校
- 1918年(大正7年)11月21日- 海軍兵学校卒業 ・任 海軍少尉候補生・装甲巡洋艦「吾妻」乗組・練習艦隊近海航海出発
- 1919年(大正8年)2月7日- 帰着
- 1920年(大正9年)5月31日- 海軍砲術学校普通科学生
- 1921年(大正10年)4月20日- 装甲巡洋艦「出雲」乗組 海軍少尉候補生指導官附
- 1922年(大正11年)3月20日- 海軍大学校選科学生 東京外国語専門学校英語科委託学生(但し入校は帰国後)
- 4月4日- 帰着
- 1924年(大正13年)3月18日- 海軍大学校選科修了
- 1925年(大正14年)6月15日- 佐世保鎮守府附
- 1926年(大正15年)11月27日- 海軍通信学校高等科優等修了
- 1927年(昭和2年)12月1日- 1等海防艦「八雲」分隊長 海軍少尉候補生指導官
- 1928年(昭和3年)4月23日- 練習艦隊遠洋航海出発 上海~基隆~馬公~マニラ~シンガポール~バタヴィア~フリーマントル~アデレード~メルボルン~ホバート~シドニー~ウェリントン~オークランド~スバ~ホノルル~ヤルート~トラック~パラオ方面巡航
- 1929年(昭和4年)1月16日- 帰着
- 1930年(昭和5年)12月1日- 任 海軍少佐
- 1931年(昭和6年)11月27日- 海軍大学校甲種卒業 卒業時成績順位20名中首席
- 1932年(昭和7年)6月1日- 海軍省軍令部参謀 パリ出張
- 1933年(昭和8年)11月15日- 兼 空軍代表随員
- 12月28日- 免 空軍代表随員
- 1934年(昭和9年)8月28日- 兼海軍省出仕 兼軍事普及部委員
- 9月29日- 免 ジュネーヴ国際会議全権随員
- 1935年(昭和10年)1月8日- 帰朝
- 11月15日- 任 海軍中佐
- 1936年(昭和11年)2月1日- 海軍軍令部出仕 兼海軍省副官 兼軍事普及部委員
- 1937年(昭和12年)11月20日- 兼 大本営海軍報道部員
- 12月1日- 第2航空戦隊参謀
- 1938年(昭和13年)12月1日- 支那方面艦隊司令部附 兼第3艦隊司令部附
- 1939年(昭和14年)1月10日- 兼 中支那派遣軍参謀
- 1940年(昭和15年)1月15日- 横須賀鎮守府附
- 1943年(昭和18年)1月27日- 海軍軍令部兼海軍省出仕
- 1944年(昭和19年)3月31日- 搭乗機行方不明に依り殉職認定 享年46 海軍少将に特別進級
栄典
[編集]脚注
[編集]- ^ 外山操篇 『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』では次席となっている。
- ^ 『聯合艦隊作戦室から見た太平洋戦争』P180
- ^ 『海へ帰る』P167~168。横山は先任副官を柳澤から引き継いでいる。
- ^ 柳澤の死を「戦死」とする文献があるが、公式には「殉職」である。
- ^ 『官報』第2132号「叙任及辞令」1919年9月11日。
- ^ 『官報』第4793号、昭和18年1月7日
参考文献
[編集]- 戦史叢書・第68巻 大本営陸軍部 大東亜戦争開戦経緯(2) (防衛庁防衛研修所戦史部編・朝雲新聞社)
- 戦史叢書・第72巻 中国方面海軍作戦(1) (防衛庁防衛研修所戦史部編・朝雲新聞社)
- 戦史叢書・第79巻 中国方面海軍作戦(2) (防衛庁防衛研修所戦史部編・朝雲新聞社)
- 高松宮日記(細川護貞・阿川弘之・大井 篤・豊田隈雄編・中央公論新社) ISBN 4-12-490040-6 C0320
- 高木惣吉日記と情報・上下巻(みすず書房) ISBN 4-622-03506-5 C3031
- 統帥乱れて 北部仏印進駐事件の回想 (大井篤著・毎日新聞社) ISBN 4-620-30443-3 C0020
- 井上成美(阿川弘之著・新潮社) ISBN 4-10-300414-2 C0093
- 横山一郎 (海へ帰る・原書房)
- 中島親孝 (聯合(ママ)艦隊作戦室から見た太平洋戦争・光人社NF文庫)
- 日本陸海軍制度・組織・人事(日本近代史料研究会編・東京大学出版会)
- 海軍兵学校沿革・第2巻(海軍兵学校刊)
- 海軍兵学校出身者名簿(小野崎誠 編・海軍兵学校出身者名簿作成委員会)