永井要造
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永井要造 ながい ようぞう | |
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生年月日 | 1889年7月16日 |
出生地 | 日本 山梨県甲府市 |
没年月日 | 1962年7月13日(72歳没) |
出身校 |
市立甲府商業学校 (現甲府市立甲府商業高等学校)卒業 |
前職 | 横浜商工会議所議員 |
所属政党 |
(民主党→) 自由党 |
選挙区 | 旧神奈川2区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1949年1月 - 1952年8月28日 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1930年 - 1938年 |
永井 要造(ながい ようぞう、1889年(明治22年)7月16日[1] - 1962年(昭和37年)7月13日[1][2])は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。
経歴
[編集]山梨県[1][2][3] 甲府市下一条町[4](現城東)で、雑穀商・永井忠兵衛の長男として生まれる[1]。市立甲府商業学校(現甲府市立甲府商業高等学校)を卒業後[1][4]、満州、朝鮮に渡ったが帰国した[1][4]。
1923年(大正12年)3月、横浜の日清製菓 (株) を買収し合資会社に改組して代表社員に就任[1][3][4]。その他、日清煉乳取締役社長、ABC製菓取締役社長、日清化学食産社長、早川鉄工監査役、横浜商工会議所議員などを務めた[1][2][3][4]。
1930年(昭和5年)横浜市会議員に選出され同参事会員も務め、1938年(昭和13年)まで2期在任した[1][2][4]。また、神奈川県会議員、同参事会員、所得税調査委員、商事調停委員なども務めた[2]。
横浜大空襲で日清製菓横浜工場が焼失し、戦後のインフレーションと経済統制の逆境の中で奮闘し再建を果たした[3]。
1949年(昭和24年)1月の第24回衆議院議員総選挙に神奈川県第2区から民主党所属で出馬して当選し[5]、衆議院議員に1期在任した[2]。この間、自由党総務などを務めた[2]。
国政選挙歴
[編集]- 第23回衆議院議員総選挙(神奈川県第2区、1947年4月、民主党公認)落選[6]
- 第24回衆議院議員総選挙(神奈川県第2区、1949年1月、民主党)当選[5]
- 第3回参議院議員通常選挙(神奈川県地方区、1953年4月、自由党)次点落選[7]
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 横浜貿易新報社編『神奈川県名鑑』横浜貿易新報社、1935年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第23回』衆議院事務局、1948年。
- 夕刊都新聞社編集部同人編『日本政経人評伝 第1集』夕刊都新聞社、1950年。
- 神奈川県県民部県史編集室編『神奈川県史 別編1』人物 : 神奈川県歴史人名事典、神奈川県、1983年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『国政選挙総覧 1947-2016』日外アソシエーツ、2017年。