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重明親王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
重明親王
時代 平安時代前期 - 中期
生誕 延喜6年(906年
薨去 天暦8年9月14日954年10月13日
改名 将保 → 重明
別名 吏部王
官位 三品式部卿
父母 父:醍醐天皇、母:源昇
兄弟 勧子内親王宣子内親王恭子内親王克明親王保明親王慶子内親王代明親王勤子内親王婉子内親王都子内親王重明親王常明親王修子内親王敏子内親王式明親王雅子内親王有明親王普子内親王時明親王長明親王源高明兼明親王源兼子靖子内親王、源厳子、源自明韶子内親王源允明康子内親王英子内親王斉子内親王朱雀天皇章明親王村上天皇源為明盛明親王
藤原寛子藤原登子
源邦正、源行正、源信正、徽子女王悦子女王、祐子女王、藤原朝光室、麗子女王
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重明親王(しげあきらしんのう)は、平安時代前期から中期にかけての皇族。初名は将保(まさやす)。醍醐天皇の第四皇子。官位三品式部卿。別名吏部王式部卿唐名)。

経歴

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延喜8年(908年親王宣下。初名は将保であったが、延喜11年(911年)他の兄弟とともに改名し重明と名乗る。延喜21年(921年清涼殿において元服した。延喜23年(923年)に兄の保明親王延長3年(925年)その子の慶頼王春宮が相次いで夭折。次の春宮に立てられた弟の寛明親王はまだ幼く、さらに延長5年(927年)には長兄の克明親王も没したことから、重明が皇位継承者として浮上したが実現はしなかった[1]

醍醐朝末の延長6年(928年上野太守任官。延長8年(930年朱雀天皇即位後まもなく弾正尹承平7年(937年中務卿を歴任し、天慶6年(943年)には三品に叙された。村上朝では式部卿を務めている。

天暦8年(954年)9月14日に薨去享年49。最終官位は三品式部卿

人物

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皇位を巡る争いとは生涯無縁であったが、学識豊かで楽才にも優れた風流人であり、父の醍醐天皇崩御の間際に重明親王を代明親王共々召して遺詔を託したとされている。また、異母弟・村上天皇の宮中でもことに重んじられて、管弦の宴などでは必ず和琴に加わった。

摂関家との関係も良好で、始めに太政大臣藤原忠平の娘寛子と結婚。天慶8年(945年)に寛子が没すると、天暦2年(948年)には右大臣藤原師輔の娘で寛子の姪にあたる登子を後妻としている。また寛子所生の長女の徽子女王・次女の悦子女王が相次いで斎宮に卜定、徽子女王は斎宮を退下したのち村上天皇に入内して斎宮女御と称された。

重明親王の日記『吏部王記』は原本も写本も現存しないが、後世の日記や書物に引用された逸文から見て、朝議に関する詳細な記録を書き留めたものであったらしく、当時の朝廷儀式典礼に関する貴重な史料となっている。

逸話

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重明親王は一風変わった逸話の多い人物で、以下の話が伝わっている。

  • 日輪が家に入り金鳳が飛来する夢を見て、将来帝位に関わる兆しかと期したという伝説がある(親王の邸宅は後に藤原兼家に伝領された東三条殿) 。
  • ある時、蕃客(渤海の使者)が参入した時、親王が鴨毛の車に黒貂の皮衣を八重重ねで纏っていたので使者たちが大いに恥じたと言われ、風雅を愛する一方で豪気な一面も持ち合わせていたらしい(『江家次第』)。
  • 東三条殿の庭園に怪しい太った五位が夜な夜な姿を見せるので、親王が怪しんで陰陽師に占わせると東南の隅から銅の提(ひさげ)が現れ、以後五位は姿を見せなくなったという(『今昔物語』)。

官歴

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系譜

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脚注

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  1. ^ 『朝日日本歴史人物事典』
  2. ^ a b c 『日本紀略』
  3. ^ a b 『西宮記』
  4. ^ 『朝野群載』第12
  5. ^ a b 『九暦』
  6. ^ 『扶桑略記』

参考文献

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外部リンク

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