下関条約
日清両国媾和条約 | |
---|---|
通称・略称 | 日清講和条約、下関条約、馬関条約 |
署名 | 1895年(明治28年)4月17日(光緒21年3月23日)調印(調印地: 日本・山口県赤間関市) |
発効 | 1895年(明治28年)5月8日(光緒21年4月14日)批准(批准地: 清・山東省芝罘) |
主な内容 | 日清戦争の講和条約 |
条文リンク | 東京大学東洋文化研究所 |
ウィキソース原文 |
下関条約(しものせきじょうやく)または日清講和条約(にっしんこうわじょうやく)とは、日清戦争(1894年-1895年)で大日本帝国が清国に勝利したことにより、山口県下関市の料亭春帆楼(しゅんぱんろう)での講和会議を経て、1895年(明治28年)4月17日(光緒21年3月23日)に調印された条約である。調印者は、日本側全権伊藤博文・陸奥宗光、清国側全権李鴻章・李経方[1]。
前文および11か条からなり、付属議定書があり、解釈・批准等について規定している[1]。
- かつては、会議が開かれた山口県赤間関市(現、下関市)の通称だった「馬関」[注釈 1]をとって、一般に馬関条約(ばかんじょうやく)と呼ばれた[注釈 2]。「下関条約」は、日本で戦後定着した呼称である[注釈 3]。もう一方の当事国である中国では、今日でも「馬関条約」(簡体字: 马关条约; 繁体字: 馬關條約; 拼音: Mǎguān tiáoyuē)と呼んでいる。
概要
調印者
調印日時・場所
条約内容
おもな調印内容は以下のとおり[2][3][4][5][6][7]。
- 清国は朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認し、独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止する。(第一条)
- 清国は遼東半島、台湾、澎湖諸島など付属諸島嶼の主権ならびに該地方にある城塁、兵器製造所及び官有物を永遠に日本に割与する。(第二条、第三条)
- 清国は賠償金2億テールを日本に支払う。(第四条)
- 割与された土地の住人は自由に所有不動産を売却して居住地を選択することができ、条約批准2年後も割与地に住んでいる住人は日本の都合で日本国民と見なすことができる。(第五条)
- 清国は沙市、重慶、蘇州、杭州を日本に開放する。日本国臣民は清国の各開市・開港場において自由に製造業に従事することができる。また清国は、日本に最恵国待遇を認める。(第六条)
- 日本は3か月以内に清国領土内の日本軍を引き揚げる。(第七条)
- 清国は日本軍による山東省威海衛の一時占領を認める。賠償金の支払いに不備があれば日本軍は引き揚げない。(第八条)
- 清国にいる日本人俘虜を返還し、虐待もしくは処刑してはいけない。日本軍に協力した清国人にいかなる処刑もしてはいけないし、させてはいけない。(第九条)
- 条約批准の日から戦闘を停止する。(第十条)
- 条約は大日本国皇帝および大清国皇帝が批准し、批准は山東省芝罘で明治28年5月8日、すなわち光緒21年4月14日に交換される。(第十一条)
賠償金のテール(両)は、1テール=庫平銀37.3gで2億両(746万kg相当)の銀払いだった。2億テールは日本円に換算すると約3億1,100万円に相当した[3]。なお、日清戦争にともなう国交断絶により、1871年成立の日清修好条規が失効したため、第6条において日清両国は改めて新しい通商条約をヨーロッパ諸国と同じ条件で結ぶことが定められ、1896年7月21日、北京にて日清通商航海条約(日本側全権は林董、清側全権は張蔭桓)が結ばれた[1][8][注釈 4]。
講和交渉の推移
戦況と日本の講和条件案
1894年(明治27年)9月の黄海海戦と平壌陥落によって、朝鮮半島を確保するという日本側の第1期作戦が勝利のうちに終了し、第2期作戦は直隷平野(華北平原)での決戦をめざし、10月以降、山県有朋率いる帝国陸軍第一軍は鴨緑江渡河、大山巌率いる第二軍は遼東半島攻略へと乗り出した[2]。
一方、清国では摂政体制を布いていた西太后が講和に傾斜しつつあり、夫咸豊帝の弟で10年来政治から離れていた恭親王奕訢が総署大臣に返り咲いて、戦争終結のため、諸外国に調停を打診すべく行動した[10]。
10月8日、イギリスは、戦火が清国全土に拡大するのを怖れて、駐日公使パワー・ヘンリー・ル・プア・トレンチを通じて日本政府に講和を打診した[3][4][11]。「日本国政府ハ各国ニテ朝鮮ノ独立ヲ担保スルコト及軍費トシテ日本国ヘ償金ヲ払フコトヲ以テ媾和(こうわ)ノ条件トシテ承諾スヘキヤ」というものであった[4][11]。これを受けて第2次伊藤内閣の外務大臣陸奥宗光は、内閣総理大臣の伊藤博文と協議して、講和条件として甲・乙・丙の3案を起草したが、その詳細をイギリス政府には伝えなかった[4][11]。3案のうち、甲・乙の両案は李氏朝鮮の独立とともに賠償金と領土割譲について言及しており、賠償金額は両案とも提示しておらず、領土に関しては、甲案が旅順口および大連湾、乙案が台湾であった[4][11]。イギリス政府は、列国会議を開いて連合仲裁のかたちでの調停を試みたが、列強の同意を得られず、英国民も同調しなかったので、この案は曖昧なまま立ち消えとなった[11]。
戦勝国側が敗戦国に対して過酷な条約を提示し、それをもって休戦とする例は、この時期の列強間にも数多くみられ、日本がこの戦争において参照したのは普仏戦争(1870年-71年)における事例であった[4]。すなわち、1871年のフランクフルト講和条約において、戦勝国プロイセン(ドイツ帝国)は敗戦国フランスに対し、アルザス(エルザス)・ロレーヌ(ロートリンゲン)の2州を割譲させ、50億フランの賠償金を獲得したのであった[4]。
ロシア帝国やアメリカ合衆国もまた、日清戦争の終結に関心をもっており、11月上旬からは米・英・露の各国が調停のための斡旋を開始した[2][3][11]。11月6日には、東京駐在のエドウィン・ダン駐日アメリカ公使より、友誼的仲裁の申し入れがなされた[12]。しかし、清国との決戦を戦争目的の一つとみなしていた日本政府は、この段階での講和成立を無用と判断した[2]。また、陸奥個人としては、交渉当事者が勝者と敗者である以上、仲裁役は不要であるとしていたが、ただし、国交断絶中の両国の意志を取り次ぐ役目を果たす第三国は必要と考えており、その場合は、シナ大陸に多くの権益を有するイギリスよりもアメリカの方が好ましいと判断していた[10]。
11月21日、日本陸軍第二軍は旅順口の戦いで清国軍を破った[10]。とはいえ、清国は東アジアの大国であり、旅順口や大連湾で激しい攻防がなされているとき、北京では歌舞音曲のなか、西太后の還暦を祝う祝宴が盛大に催されていた[13]。旅順の陥落によって、陸奥はそろそろ講和に向けた準備が必要であるとの考えに至ったが、当時、李鴻章の懐刀といわれた清朝お抱えのドイツ人、グスタフ・デットリングが李の内命を受け、講和の瀬踏みを目的として神戸を訪れ、兵庫県知事を介して伊藤首相との面会を求めた[10][11]。彼は、首相あて親書を持参したが、もとより正式な使節ではなく、日本側も彼との公式な接触を避けた[10]。一方、北京駐在の駐清アメリカ公使チャールズ・ハーヴェイ・デンビーは、総署大臣の恭親王奕訢に対し、機が熟せばアメリカが調停に入ることになっているはずなのに、デットリングなるドイツ人が不審な動きをしており、不快であるとの苦情を申し入れた[10][11]。デットリングは李鴻章からの天津発の電報で引き返し、親書を大本営のある広島市に郵送した[10][11]。ただし、デットリングの得た日本での感触から、日本側が強気の姿勢で交渉に臨み、講和条件も厳しいものとなるであろうことを李鴻章も感じとったのである[10][11]。なお、一方の陸奥外相は李鴻章のデットリング派遣について、「すこぶる児戯に類した」と酷評している[10][11]。
11月22日、デンビー駐清アメリカ公使は、清国政府が日本政府に対し、朝鮮独立承認と償金弁済をもって講和交渉を開くことを申し出た旨、東京駐在のダン駐日アメリカ公使に電報で伝えた[12]。
12月4日、伊藤博文首相は、「威海衛を衝き台湾を略すべき方略」という意見書を広島大本営に提出した[2]。それによれば、このまま直隷決戦に向け、シナ本土に侵出するのは必ずしも得策ではなく、清朝瓦解の畏れもあって、そうなればかえって諸列強の戦争介入は強まり、日本は一転して外交的に不利な立場に立たされる可能性がある、というものであった[2][注釈 5]。それゆえ、第一軍・第二軍のいずれか一方は渤海を渡って威海衛(現、山東省威海市)の制圧へ、もう一方は台湾占領作戦へと転進すべきであり、特に台湾は実際に占領に及ばなければ、世論に訴え、台湾の譲渡を和平条約の要件として盛り込むことはできないと論じて、当初立てた第2期作戦の変更を提案したのである[2]。
1895年(明治28年)1月に入ると日本では講和条約案が議されるようになった[8]。前年末に、アメリカ合衆国を介して、清国から講和使節派遣の申し入れがあったからである[12][16]。日本軍の連戦連勝のさなかでの講和であることから、「対外硬」と呼ばれた人士はもとより、政府部内にあっても取れるだけのものはできるだけ取っておきたいという雰囲気が濃厚で、外務大臣の陸奥宗光をおおいに悩ませた[8][12]。
1895年1月27日、広島大本営において日清講和に関する御前会議が開かれた[12][16]。
席上、陸奥外相から、
- 朝鮮独立の承認
- 領地の割譲と償金支払い
- 欧米並みの特権の提供
を骨子とする方針が示され、参加者各位より諒承された[12][16]。帝国海軍は台湾全島および澎湖諸島の割譲を望んだ[4][5][8][16]。それに対し、陸軍は最も多くの血を流した戦地、遼東半島の割譲を求めた[4][5][8][16][注釈 6]。財政を担当する大蔵省は、戦後経営のことを考慮して巨額の補償金を欲し、松方正義にいたっては、のちに10億両(テール)という驚異的な額を口にした[5][8][12][16]。なお、テールとは清国税関の庫平銀の単位であり、当時の10億両は日本円に換算すると約15億円に相当した[5]。
駐露公使の西徳次郎は、ロシアを刺激する領土要求よりも償金を優先すべきという考えであり、領土割譲は多額の償金の担保という名目で行った方がロシアなどからの干渉を極力排除できると説き、駐英公使の青木周蔵は、盛京省および吉林・直隷両省の一部を割譲させて将来的な日本の軍事的根拠地をそこに建設し、償金は英貨1億ポンドとすべきことを主張した[4][12][16]。また、当時の外務省のアメリカ人顧問ヘンリー・デニソンが示した賠償金は、甲案が3億円、乙案が5億円であった[4]。
立憲改進党の一部や在野の対外硬派は、和議の交渉をしている間も戦闘を続行することを要望し、そのうえで相手が停戦に応じたら、台湾割譲、償金3億円以上のほか、山東省・江蘇省・福建省・広東省の日本領有を清国に認めさせるべきであるという意見を主張した[5][8][12]。対外硬とは一線を画しているはずの自由党ですら、東3省すなわち黒竜江省・吉林省・盛京省および台湾割譲を主張した[5][8][12]。伊藤博文・陸奥宗光・山県有朋ら政府首脳はいずれも、事と次第によっては第三国の干渉を受けることを予想しており、それを念頭に置きつつ交渉に臨まなければならないと考えていた[8]。
第一次使節の来日と広島談判
1895年1月、清国は正式の使節を日本に派遣することを決定した[10]。使節に任じられたのは、戸部侍郎の張蔭桓と湖南巡撫の邵友濂であった[10][12]。張蔭桓はアメリカ、ペルー、スペインの駐在公使を務めた経験があり、邵友濂は台湾巡撫を3年務めた実績があった[10]。使節派遣の取り次ぎを行うのはアメリカ合衆国で、北京のデンビー駐清公使と東京のダン駐日公使が連絡を取り合うことで、その任を果たした[10][12][17]。
清国側は会見地として長崎を希望し、日本が全権委員を任命した日に休戦開始の日程を定めることを提案したが、日本側はいずれも拒否し、会見地を広島とした[10]。清国使節の張蔭桓と邵友濂は日本側の意向を受け容れ、1月26日、上海を出発し、28日には長崎港に入って、1月31日に広島に到着した[10][16][18]。会見場所としては広島県庁があてられた[10]。日本政府は、31日、伊藤首相と陸奥外相を全権弁理大臣に任命した[10][16]。日本側全権が首相と外相であるのに対し、清国側全権は財務次官と地方知事にすぎず、この格の違いは清国使節の面目を失わせるに充分であった[10]。
翌2月1日の会談において、両者の持参した書簡を清国使節は「国書」と称したのに対し、陸奥全権はそれは一種の信任状ないし単なる紹介状にすぎず、全権委任状ではありえないと述べ、また、日本側は講和のための会談・記名・調印の全権を天皇より委任されているのに対し、清国使節はどうなのかと問い詰め、結局、使節の地位についても不十分であり、この状態では講和を結ぶことはできないと述べた[10][16][17][注釈 7]。日本政府が交渉を拒否した2月2日、日本軍は北洋艦隊の根拠地威海衛を占領した[16]。
広島を退去するしかなくなった清国使節団であったが、伊藤博文は顔を見知っていた使節団随員の伍廷芳を呼び止め、「交渉継続を拒否したのは、決して日本が兵火を好むからではなく、正当な資格を有する全権使臣が来るならば、交渉再開を躊躇する理由はない」旨を述べた[10][18]。伍は、アメリカ留学の経験があったため、伊藤首相と直接英語で話せたのである[10][18]。伍廷芳は思い切って「使臣の官位名望の低いことが不都合なのか」と伊藤に質問したところ、伊藤は「そうではない。全権委任状を帯有する者であれば誰でもよい」と答えはしたものの、一方では「恭親王もしくは李中堂(李鴻章)のごとき人」という個人名を挙げながら、「官位名望が低いよりは高い方がよい。というのは、交渉結果は単に紙上の空文ではなく、必ずこれを実行しうる有力者を必要とするからである」と語った[10][18]。
清国第一次使節団は2月12日、長崎より帰国した。同日、威海衛の戦いが日本陸海軍勝利のうちに終結し、北洋艦隊は降伏して水師提督の丁汝昌は自決した[6][16]。軍艦「鎮遠」は日本海軍の戦利品となり、これには多くの日本国民が歓喜の声をあげた[20]。ただし、台湾占領作戦の方は、予定していた第一軍が遼河平原における戦闘で苦戦し、威海衛の攻略よりもはるかに取りかかりが遅れたのであった[2]。
新使節李鴻章と彼を取りまく状況
北洋艦隊壊滅後まもなく、清国の朝廷は直隷総督で北洋大臣の李鴻章を全権大臣として日本に派遣することを決定した[20]。李鴻章は内閣大学士首揆、すなわち他国にあっては首相にも相当する政界の重鎮であった[16]。李鴻章はこのとき、はげしく主戦論を唱えた翁同龢に対し、対日講和交渉への同行を求めた[20]。翁は、自身が外交に通じていないことを理由に使節となることを謝絶した[20]。これによって、李鴻章は政敵であった翁同龢の外交に関する発言を封じたのであった[20]。
1月の日本の御前会議のようすなどが、おぼろげながら清国に伝わってくると、領土割譲なくして講和は不可能であるとの判断が清の識者ではしだいに広がっていった[20]。北京駐在の列国の公使たちも領土割譲は不可避であるとの認識に立っており、ドイツ公使などは、割譲を拒むならば北京を放棄して内陸部に遷都し、徹底抗戦するほかないと具申している[20]。徹底抗戦は、少数民族である満洲族政権からすれば大いに危険がともない、太平天国の乱のような内乱を引き起こす怖れさえあった[20]。清国上層部で主戦論を唱えていた人々も、前線に出陣して勝てる見込みはなく沈黙せざるをえなくなった[20]。
李鴻章はこの時期あえて主戦論を唱え、「領土譲与やむなし」の世論が浸透するのを待ち、そのうえで、3月2日、領土の一部割譲は不可避であることを上奏した[20]。その際、李は、安史の乱以後、河西回廊を吐蕃に奪われたのちも唐朝はなお「中興」と呼ばれる時代をつくったことや、燕雲十六州を遼に割譲してもなお全盛時代を築いた宋(北宋)朝の例、さらには普仏戦争の事例をも引いて、「奪われた土地は奪い返すことができる」と説いた[20]。
翌3月3日、北京紫禁城内で、西太后臨席のもと軍機大臣が参集して会議が開かれ、そのなかで李鴻章に割地交渉の許可を与えることを認めた[20]。そのなかには、李鴻藻や翁同龢といった彼の政敵のすがたもあった[20]。これにより、李鴻章は日本に対し交渉の場で領土割譲について認めても「国賊」のそしりを免れることができたのである[20]。3月4日、李は西太后と光緒帝に正式に訓令を請い、それを受けた[20]。
下関での交渉と李鴻章狙撃事件
1895年3月、日本軍は遼東湾岸に達し、3月6日には営口・田庄台を占領した[16]。ここで従来案にみえた直隷決戦の可能性も出てきたが、決戦派だった山県有朋もこの頃には決戦回避に転じていた[16]。
その後、清国はアメリカ合衆国を介して李鴻章を欽差頭等全権(第一等の天子の使臣)とする使節団の派遣を日本に申し入れてきた[2][16][17][21][22]。日本政府としては結局、遼東半島と威海衛を完全に占領したのち、清国側の講和申し入れを受け容れたのである[2][3][7]。会談地は山口県下関を指定した[21]。このたびは李鴻章に敬意を払い、前回のように広島に呼びつける非礼は避けたのであった[21]。
3月19日、ドイツ船で天津を発した全権大臣李鴻章とその甥で養子の李経方は、伍廷芳ら随員125名とともに福岡県門司港(現、北九州市)に到着した[2][5][17][21]。李鴻章が外国を訪問したのは、これが初めてであり、そのことは欧米のメディアでも報じられた[21]。翌3月20日、使節団は対岸の赤間関(下関)に上陸し、同地の割烹旅館藤野楼(春帆楼)において、日本側全権の伊藤博文および陸奥宗光との間で全権委任状を持っていることを互いに確認し、講和交渉が始まった(第1回談判)[2][16][17][21][22]。
前回の広島談判では、日本側は清国使節の持参した委任状を問題視したのであったが、これは世界的には、むしろ不評を買っていた[21]。第一次使節が全権委任を証明するのに瑕疵があったのは確かではあるが、アヘン戦争以来、清国が外国と結んだ膨大な数の条約にはそのような事例は数多くあり、とりわけ、使節の資格が問題になることはきわめて稀であり、諸外国からはあまりに露骨な引き延ばし策とみられたからであった[21]。なお、李鴻章ら清国使節は、会談が済めば船に帰り、船中泊することとなっていたが、日本側は、それでは不便であろうと気を遣い、赤間関の浄土宗寺院、引接寺を一行の宿舎に供した[21]。
下関春帆楼での条約交渉は、前後7回におよんだ[17]。第1回談判では、伊藤博文と李鴻章は1885年の天津条約以来の旧知の間柄であり、李は日本の近代化の進展を高く評価し、その指導者としての伊藤の実績を賞賛し、「今次の日清戦で清国が長い間の迷夢を日本によって破られたことに感謝する」と述べたうえで、「今後は西洋列強の圧力に対し、日清両国は兄弟のごとく連携しなければならない」と語るなど終始和やかなようすで交渉が始まった[5]。陸奥外相は、李の印象として「古稀以上の老齢に似ず容貌魁偉言語壮快で、人を圧服するに足りる」ものがあると記し、「さすがに清国当世の一人物に恥じず」と評価している[5][22]。
この交渉で陸奥は「時間はたっぷりあるのでゆっくりと話し合おう」と清国側に呼びかけた[21]。しかし、陸奥本人としては内心ヨーロッパ諸国の干渉が気がかりで、実は一刻も早い講和成立を願っていた[21]。李鴻章が列強の干渉の動きに気づけば、交渉を引き延ばしにかかったり、あるいは打ち切って清国に引き上げてしまうことも考えられたので、決して急いではいないというポーズをあえてとったのである[21]。
イギリスは日清両国が排他的な同盟を結べば香港の繁栄が危ぶまれることから、これをおおいに警戒し、断固反対を唱えた[21]。青木駐英公使は、日清同盟となる可能性はまったくないことをイギリス側に説明し、これによりイギリスからの干渉の可能性は大幅に減じた[21]。ロシアはフランスと結び、日本が清国に対し、過剰な要求を突きつけた場合には共同で干渉することを協議していた[21]。ドイツはイギリスに共同で干渉することを提案したが、このようないきさつでイギリスはこの申し出を断っている[21]。ドイツはいきおい、露・仏の側に接近したのであった[21]。李鴻章も恭親王もさかんに諸外国への働きかけをおこなっていたものの、列強のこうした動向をよく把握していなかった[21]。清国側はまず、日清間の休戦を強く望んだ[5][16][17]。
日本側は、3月21日の2回目の交渉で、休戦の条件として
の4条件を提示した[5][16][17][23]。これについては、さすがの李鴻章も顔面蒼白となって「苛酷、苛酷」と叫び、前日の休戦申し入れを撤回した[5][16][23]。李鴻章としては、すでに日本軍が占領した営口・田荘台の線で停戦し、担保としてそれに若干の地域の保障占領を許すことは考えていたが、日本側の条件はそれをはるかに上回り、想定外に厳しいものだったのである[23]。
日本としては、当面は休戦の必要がないことから、講和条件の方を先議しようと考え、そのため清国にとっては苛酷であることを承知のうえでこのような条件を出したのであった[5]。日本側全権は、休戦なしに講和の話し合いに入ってもよいし、休戦してからでもよいが、後者の場合は上記4条件のみであって他に代案はないと述べた[23]。清国側は、それでは講和条件の案を指し示して欲しいと求めると、清国が休戦提案を撤回しない限り講和の案は出せないと応答し、そして、いったん撤回したならば休戦について再び話し合うことはできないと付言した[23]。李鴻章は「日本側がもし両国の和平を真に望むなら、清国の名誉についても少し配慮してもらいたい」と懇願し、日本側はこれに対し、講和条件先議の件について清国側に3日間の猶予をあたえた[5][22]。
その間、日本側は3月23日に歩兵1個旅団を台湾島西方の澎湖諸島に上陸させ、台湾攻略の前進基地とした[2][3][7]。台湾割譲を講和条件に入れるには、正式交渉開始までの占領が必要であり、台湾島に属する澎湖諸島の占領は、その条件を満たすためのものであった[2]。
猶予期間を終えた3月24日の第3回談判に際して、清国側は休戦よりも講和条約の締結を望むと返答した[23]。その日、日本は小松宮彰仁親王を征清大総督に任じたが、会談自体は早く終わって陸奥と李経方の事務的な打ち合わせがなされるだけとなった[23]。陸奥と李経方は次席全権同士で、李経方は駐日公使を務めた経験があり、日本語も流暢で、陸奥とは以前より面識があったので、李経方のみ残って、李鴻章と随員一行は宿舎の引接寺に帰ることとなった[23]。随員たちは人力車で帰り、李鴻章は輿に乗って移動した[23]。
ところが、引接寺までもう少しというところで、輿に乗っていた李鴻章が、講和に反対する一青年によりピストルで近距離から狙撃される事件が起こったのである[3][5][8][16][17][22][23]。この青年は、李鴻章こそ東洋に正義をなさんとする日本の邪魔をする元凶であると考えた自由党の壮士、小山豊太郎(六之助)であった[3][5][16][22][23]。李鴻章は一命を取り留めたものの、眼鏡が割れ、左眼下に重傷を負った[5][8][23]。引接寺では中国人医師より救急治療が施された[23]。一報を受けた李経方は早急に引接寺に戻り、伊藤首相・陸奥外相・伊東巳代治内閣書記官長はすぐに見舞いに行った[23]。そのとき李鴻章は、「このようなことは、多少、覚悟して来ましたよ」と語ったといわれている[23]。日本では4年前の1891年、大津事件が起こっていた[8][17]。日本にとって下関講話会議は、戦争をつづけながら交渉するというきわめて有利な状況下での会議であった[8]。しかし、この李鴻章狙撃事件はそうした両国の力関係を一挙に覆しかねない出来事であった[8]。
この事件に対し、当時の日本国民の多くは痛嘆・狼狽し、全国から個人・団体を問わず、電報や郵便で見舞いの意を表し、各種の贈り物を届けた[8]。また、それまで李鴻章に悪口雑言を吐いていた人士も、事件後は美辞をならべて功績を賞賛するなどの豹変ぶりを示した[5][8][22]。清の交渉団の宿には「群衆市をなす」と形容されるほどの人が集まり、日本国民全体が李に同情した[8][22]。日本政府は、陸軍軍医総監石黒忠悳・佐藤進の両博士のほか名だたる専門医を下関に派遣し、またフランス公使館付の医師も招かれた[23]。明治天皇・昭憲皇后夫妻は、李鴻章見舞いのために侍従武官の中村覚を派遣し、とくに皇后は御製の繃帯を届けている。原保太郎山口県知事はその責めを負って知事を辞任し、山口県警察部の後藤松吉郎もまた部長職を解任された[23]。天皇による異例の勅語も発せられた[23]。日本側は、あらゆる手段を講じて国際世論からの非難をかわそうと尽力したが、李鴻章もまたしたたかで、自身に起こった不幸を清国にとっての幸福に転換させようと図った[5][23]。
この事件により李鴻章が交渉の席を蹴って帰国する怖れがないわけではなかった[23]。講和交渉の使節に危害を加えるような国で交渉継続は無理であるという説明は、世界中の人々を納得せしめるものであり、継戦は可能であるとはいえ、その場合、世界は日本の戦争を不義の戦いとみるであろうことが予想された[23]。小松宮率いる征清軍が出征すれば、今度は日本国内を防衛する兵士が不在となり、このことは各国公使が本国に報告していた[23]。このとき、日本は他国の干渉に最も脆弱な状態にあったのである[23]。戦勝国民が講和使節を殺害しようとする不祥事に各国の同情も清国に集まり、必ずや第三国の干渉を招く事態になると判断した陸奥外相は、即座に手を打ち、清にとって有利なはずの停戦を日本側のリーダーシップによっていち速く実現すべきことを伊藤に訴えた[5][8][17][22]。伊藤はこれを受けて、反対する日本軍部を数日間でまとめ、かなり早い段階で清に伝え、李鴻章狙撃事件のダメージを最小限にとどめることに成功した[5][8][17][22]。とはいえ、軍部は無条件停戦に対しては頑強に反対した[23]。伊藤は天皇を動かして3月27日に勅許を得ており、また、3万のロシア軍が清国の北方に移動するという軍事情報が入ったことで山県有朋もようやく休戦に同意したのであった[23]。また、ダン駐日アメリカ公使も林董外務次官に無条件停戦を助言しており、林はそれを陸奥に報告していた[23]。
李鴻章は銃弾摘出手術を断って交渉継続の意思を示した[23]。時間の浪費は許されないと考え、交渉終了後に手術することとしたのであった[23]。もし、李鴻章がロシア軍が動いていることを知っていたならば、手術を理由に交渉を引き延ばすことも考えられた[23]。
3月28日、日本側は休戦条約の草案を病床の李鴻章に提示したが、清側が「台湾、澎湖列島およびその付近において交戦に従事する所の遠征軍を除く他」の文面の訂正を求めたのに対し、日本側は「日清両帝国政府は盛京省・直隷省・山東省地方に在て下に記する所の條項に従ひ両国海陸軍の休戦を約す」という文面の変更に応じて両者が合意に達し、3月30日、休戦定約が締結され、日本は無条件で3週間の休戦に応じた[2][3][5][16][17][22][24]。
講和条約の締結
4月1日、陸奥全権は李経方参議に対し講和条約の草案を提示し、4日以内の回答を求めた[4][17][25][26]。日本側が清国に示した条件とは、
- 清国において朝鮮の完全無欠なる独立国であることを確認すること
- 清国は(甲)奉天省南部の土地(遼東半島)および(乙)台湾全島およびその付属諸島嶼および澎湖列島を日本に割与すること
- 清国は清国通貨である庫平銀3億両(テール)を日本軍費賠償として5ヶ年賦を以て支払うこと
- 清国と欧州各国とのあいだに存在する諸条約を基礎とし、日清新条約を締結すること。列強なみの最恵国待遇と通商特権の拡張
- 従来の各開市港場のほか、北京、沙市、湘潭、重慶、梧州、蘇州、杭州の各市港を日本臣民の住居営業のために開くこと
- 旅客および貨物運送のため日本国汽船の航路を拡張すべきこと
- 日本国民が輸入のさい、原価2パーセントの抵代税を納入した上は、清国内地の一切の税金・賦課金・取立金を免除すること。また、日本国民が清国内で購買した貨物で輸出であることが言明された場合は、抵代金・一切の税金・賦課金・取立金を免除すること
- 日本国民は清国内地において購買し、またはその輸入にかかる貨物を倉入するため何らの税金や取立金を納めずして倉庫を貸与する権利を有すること
- 日本国臣民は清国の課税および手数料を庫平銀を以て納めること。ただし日本国本位銀貨を以てこれを代納することも可とする
- 日本国臣民は清国において、各種の製造業に従事し、また各種の器械類を輸入することができる
- 清国は黄浦江河口にある呉淞浅瀬を取り除くことに着手する
の諸点について、清国が日本に譲与することを求め、さらに、奉天府と威海衛を担保占領地とすることを要求した[25][26]。
これらは、日本国内における陸軍と海軍、双方の要求を盛り込んだものであると同時に産業革命を迎えた日本資本主義の要求でもあった[17]。また、権益に関するこまごまとした譲与の部分は、従来イギリスが清に対してしばしば要求・交渉したものの未だ実現されていない内容と同じであった[25][26]。すなわち、日本がこの条約に調印すれば、イギリスは既得の最恵国条項によって、自動的に同じ権益を享受できたのである[25]。日本にとって、差し迫った必要のないものまで要求事項に含めていたのは、こうして列強、とりわけイギリスからの干渉を封じるためであった[25]。李鴻章は原案の内容を総理衙門に極秘裡に打電し、割地に関する条項を北京駐在の英・露・仏の公使に漏洩すべきとしながらも通商権益に関しては伏せるよう指示した[24][25]。そして、日本側の条件は苛酷であり、とくに遼東半島割譲は認められないと訴えたのである[24]。これがのちに三国干渉を引き起こす直接の原因となった[24]。これに対し、陸奥宗光は逆に、通商権益に関する条項に重点を置いて広報するよう指示した[24][25]。通商権益の成文化は列国としては歓迎すべきことであったため、結果としては、三国干渉による 2.割譲地のうち、遼東半島の割譲 以外に関しては、列強の干渉はなかったのである[1][24]。
4月5日、清側は草案について以下のような修正を望んだ。
- 朝鮮の独立については、清側だけでなく両国が認めるというかたちに訂正すること
- 割譲地は全面拒否
- 賠償金の大幅な減額
- 開港場所の見直し他
であった[26]。
また、このころ、顔面を負傷して療養中だった李鴻章は、以下のような長文の覚書を日本全権に送っている[17]。
領土割譲は清国民に復讐心を植えつけ、日本を久遠の仇敵とみなすだろう。日本は開戦にあたり、朝鮮の独立を図り、清国の土地をむさぼるものではない、と内外に宣言したではないか。その初志を失っていないならば、日清間に友好・援助の条約を結び、東アジアの長城を築き、ヨーロッパ列強からあなどられないようにすべきである[17]。
陸奥宗光が「実に筆意精到」「一篇の好文辞」と記したように、この覚書は日清友好と東洋平和の理想を掲げた堂々たる文章であったが、もはや日本政府・陸海軍はもとより日本国民も李の訴えを受け容れる余地はなかった[17][26]。
4月8日からは、日本側は李鴻章に代わって李経方に欽差全権大臣として清国側の回答を促した[17][26]。4月9日の清側による訂正案としては、1.については前回と同様、2.の割譲地については、奉天省内の安東県・寛甸県・鳳凰県・岫巖州および澎湖列島にとどめ台湾を除くこと、3.の賠償金については無利子の1億両とすることなどが示された[17][26]。
4月10日、日本側は、
- 朝鮮については訂正を許さず
- 台湾は絶対の条件だということ
- 賠償金は2億両に減額
- 新規開港の数は減らす
などの対案を提示し、遼東半島の割譲地は鴨緑江と遼河にはさまれた地域の営口・海城・鳳凰城を結んだ線より南側だけとし、償金を5か年賦を7か年賦に緩めることとして、これについて受諾するか否かのみを問うた[17][26]。清側は、2.については、台湾は武力で占領されたものではないので受け入れ不可であること、また、奉天省についても営口を除くことを主張し、3.については、さらなる賠償金の減額を求めた[26]。4月11日、清側は重ねて、2.台湾の除外と3.賠償金のさらなる減額を求めたが、日本側はこれを退けた[26]。
伊藤首相は、交渉にあたって当初から「清国の代表が、現在の状況を深く理解されることを望む。それは日本は勝者で、清国は敗者だということである。もし談判が破裂すれば、6〜70隻の輸送船は舳艪(じくろ)相ふくんで、増派の大軍を戦地に送り、その場合は北京の安危は言うに忍びざるものがある」と述べており、最終段階が近づくと「戦争というものは、先行きがどうなるものかわからないものであり、現在の講和条件もそのままかどうかわからない」と説いて清国側に受諾を迫った[24]。日本側は担保占領地を威海衛のみとし、駐兵費用の減額にも応じたことから、清国側も、もはや日本の決意は固いとみて、あとは列国の干渉にゆだねることとした[24]。割譲地の微細な変更や支払いの方法等の調整がなされて最終妥結案がまとまったのは、4月15日の第6回談判においてであった[17][26]。
4月17日午前、日本側伊藤博文・陸奥宗光、清国側李鴻章・李経方が春帆楼に会同し、日清講和条約(下関条約)が調印された[2][3][4][17][26]。調印された内容は別項(#条約内容)で示す通りである。同日の午後には李鴻章ら清国使節団は帰国していった[2][17][26]。
三国の干渉と条約の批准
明治天皇の批准と李鴻章の帰国
1895年4月20日、広島の明治天皇による批准・裁可を経て、内閣書記官長の伊東巳代治が全権大臣として清国の外交都市である芝罘(現、山東省煙台市)に向かった[2][4][17][26]。
一方、李鴻章一行は同じ4月20日に天津に着き、伍廷芳とアメリカ人外交顧問のジョン・フォスターが北京に赴いて総理衙門に条約書を届けた[25]。フォスターはアメリカ合衆国国務長官を経験した大物政治家で全権団顧問として下関にも同行した人物であり、おそらくは、ヨーロッパ諸国の干渉の動きをつかんでいたと思われる[25]。日本側はフォスターを通じて干渉の動向が清国側に伝えられるのを怖れたが、フォスターはアメリカの調停で始まった講和会議を決裂させたくなかったため、李鴻章にはこのことを伏せていたとみられる[25]。
三国の干渉
これに先立つ4月8日、ロシア帝国政府は「日本の旅順併合は、清国と日本が良好な関係を結ぶことにたいして永久的な障害となり、東アジアの平和の不断の脅威となるであろう、というのが、ヨーロッパ列強の共通の意見である——ということを、友好的な形式で日本へ申し入れる」ことを、列国に提議した[27]。日清戦争が始まって以来、ヨーロッパ列強はこの戦争に共同干渉を加えようとしばしば試みてきたが、いずれもドイツの反対で歩調が合わず実現されなかった[28]。しかし、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、ドイツのヨーロッパにおける安全のためにはロシアが極東において積極政策をとることが得策であると判断し、ロシア皇帝に対し、強くこれを推奨したのであった[28]。
一方、同じ4月8日、イギリスでは閣議が開かれて「極東問題」に対する基本方針が話し合われ、日清講和に対しては不干渉政策を採用することを決定した[27]。すなわちイギリス政府は共同干渉には参加しない方針をとることとしたのである[27]。ここで、ドイツは当初日本に対してイギリスと共同干渉するつもりであったのに、イギリス不参加のため、ロシアの呼びかけに応じることに転じた[27]。そこには、「ヨーロッパ政策」と「世界政策」の複雑なからみあいがあったのである[28]。
明治天皇による批准の3日後の4月23日、東京駐在のロシア、ドイツ、フランスの3国の公使が外務省を訪れ、病気で兵庫県舞子に静養中だった陸奥外相に代わり、それに応接した林董外務次官に対し、日本が遼東半島を恒久的に領有することは東アジアの平和を乱すものとして、遼東還付を勧告する覚書を手渡した(三国干渉)[17][27][29][30]。日本の遼東領有が自国の南下政策にとって脅威であるとみたロシアが、露仏同盟によって同盟国となったフランスを誘い、ドイツをも巻き込んで干渉したものであったが、以後10年間、ドイツはロシアの極東進出を支持する路線を保持した[17][29]。ロシアはまた、武力行使も辞さない強硬さを示した[17][30]。
翌4月24日、日本政府は広島で御前会議をひらき、列国会議を召集してこの問題を処理する方針を決定した[27][30]。しかし、舞子で静養中の陸奥はこれには断固反対した[27][30]。当時の日本陸海軍の実力では列強3国を相手にしてかなうはずがなかったし、列国会議はまた三国干渉以上の干渉の場になってしまうというのが陸奥の意見であった[17][27][30]。当初、日本政府はイギリスに期待し、また、そのように期待するのにも理由があった[27]。というのも、ロシアとのグレート・ゲームにおいて清国が強力な防波堤であるようにみえたとき、イギリスは親清的であったが、その清に勝利した日本はいっそう強力な防波堤であることが明らかになったわけであり、イギリス世論は今や相当に親日的になりつつあったからである[27]。しかし、イギリスとしても独・仏・露3国との関係を悪化させてまで日本に肩入れするのは不可能であった[27][30]。4月29日、イギリス外相のキンバーリー伯爵は駐英日本公使の加藤高明に対し、この件についてイギリスは中立を守り、日本には援助できない旨を伝えた[27][30]。
窮地に立たされた伊藤博文らが最も恐れたのは、清国が講和条約の批准を拒否することであった[17][30]。日本政府は、「三国に対しては遂に全然譲歩せざるを得ざるに至るも、清国に対しては一歩も譲らざるべし」という苦渋の決断を下し、旅順口を除く遼東半島放棄の意向を伝えた[17][30]。しかし、ロシアはそれに応じようとせず、清国もまた三国干渉を理由に批准書交換の延期を申し入れてきた[17][30]。打開策を持たない日本政府は、5月4日の閣議で全遼東半島の放棄を決め、翌5月5日、独・仏・露の駐日公使に通告した[17][27][30]。
批准書の交換と遼東還付交渉
5月8日、調印の規定に予定された通り、中国の芝罘で批准書の交換がなされ、講和条約が発効した[2][4][25][26]。清国では各地で批准拒否運動が起こった[25]。
遼東半島還付にともなう代償金問題はその後、清国・ロシア・ドイツ・フランス4か国との交渉を経て10月7日に決着し、11月8日に日清両国は改めて北京で遼東還付条約を結んだ[17]。代償金は3,000万両(日本円で約4,665万円)であった[17]。調印したのは日本側が林董、清国側が李鴻章であった。
条約の影響
華夷秩序によって維持されてきた伝統的な東アジアの世界秩序に対し、その異端児ともいえる日本は明治維新以来、琉球処分(1872年)・台湾出兵(1874年)・壬午軍乱(1882年)・甲申事変(1884年)と揺さぶりをかけており、日清戦争および下関条約はその集大成と呼ぶべき位置をしめた[13]。朝鮮・台湾を失った清国はモンゴル方面に対する支配の強化を図っていったが、日清戦争敗北による清国の衰亡は、東アジアの伝統的世界が帝国主義列強を中心とする世界システムに呑み込まれる契機となった[13][31]。
朝鮮
清国は朝鮮を「完全無欠の独立自主の国」であることを認め、朝鮮に対する宗属関係の廃止を承認した[31][32]。1894年12月に成立した金弘集と朴泳孝の連立政権は、内閣制度の創設や裁判所の設置(司法と行政の分離)、予算制度の採用や還穀の廃止などの財政・税制改革、地方制度改革(二十三府制)、軍政改革など、後世「甲午改革(第2期改革)」と称される諸改革を進めた[33]。その多くは1895年4月に実施されたものであり、冊封体制から脱して清から独立したことから、王・王妃ともに尊称を「陛下」に改めるなど王室の位置づけが清国と同格になり、また、清からの勅使を送迎するために建てられた迎恩門が取り壊された[33]。なお、三国干渉後の宮廷では、ロシアに接近して日本を牽制しようとする勢力が台頭した[32]。
一方、市民層に浸透した開化思想は、義兵などとは異なるタイプのナショナリズムを展開させていった[34]。1896年7月、徐載弼をリーダーとする独立協会が結成され、同年11月には機関誌を発行して自主独立思想が鼓吹され、また、迎恩門の跡地には独立協会の尽力で独立門が建立された[34]。独立協会はさらに、ロシア人軍事・財政顧問の罷免に成功し、漢城府で街頭集会や万民共同会をひらいて官民共同選出の議会設立を朝鮮政府に認めさせた[34][注釈 8]
下関条約によって清からの独立が確定した朝鮮は、日本の軍事的・政治的圧力のもと、一元的な万国公法体制、国民国家システムに組み込まれることとなった[31][32]。
台湾
日本に割譲されることとなった台湾では中国人による抵抗が続いていた[36]。日本政府は1895年5月10日、海軍軍令部長だった樺山資紀を初代台湾総督に任じた[37]。樺山は、大連から直行することとなった北白川宮能久親王を師団長とする近衛師団の将兵とともに台湾に向かった[37]。台湾では日本の領有に反対し、独立国を樹立する運動が起こり、5月23日、台湾民主国宣言が発表され、台湾巡撫だった唐景崧が総統に、台湾守備軍副司令官だった劉永福が大将軍に選ばれた[36][37]。日本軍は5月29日、台湾北部の澳底に上陸し、基隆・台北への進撃を開始した[37]。台湾占領作戦(乙未戦争)の始まりである。
6月2日、清国全権の李経方と樺山資紀総督が基隆港外の洋上で会見し、台湾授受の調印がなされた[36][37]。6月7日、日本軍は台北を占領、唐景崧はシナ本土に逃亡したが、台湾民衆の抗日活動は以後いっそう本格化した[37]。かれらは劉永福を台湾民主国の新総統に選任し、抵抗の拠点を台南に移した[37]。台湾民主国は、列強の干渉を引き出し、清国の支援を期待し、それによって独立を達成しようとしたが、列国も清国も冷淡であり、外部からの支援はまったくなかった[37]。6月17日に台北で台湾総督府始政式を挙行した樺山総督は、台湾占領のための増援部隊の派遣を要請し、その到着を待った[36][37]。近衛師団は8月29日に彰化を占領し、そこにとどまっていたが、増援部隊到着後の10月5日、再び南進を開始し、10月9日には嘉義を占領、さらに台南をめざした[36][37]。澎湖島からの部隊も二手に分かれて台湾本島南部に上陸し、それぞれ台南をめざした[37]。このとき、旧清国軍2万は決戦を挑むことなく潰走し、劉永福将軍も厦門に脱出し、10月21日、日本軍は台南を占領して台湾全島を平定した[36][37]。この戦争で実際にはげしく戦ったのは旧正規軍ではなく、猟銃や竹槍などで武装した民衆の義兵であり、その多くはゲリラ戦であった[37]。こうした武装闘争は、その後も続いた[36][37]。
日本帝国最初の植民地となった台湾では、1895年以降、6年半の歳月をかけて土地調査事業がおこなわれ、近代的土地所有が定着し、また、これによって創出された小農経営は植民地台湾の経済発展の基礎となった[37]。こののち、第4代総督児玉源太郎と民生局長後藤新平が8年半あまりコンビを組み、インフラの整備や農産品の専売など経済振興を柱とする近代化政策を推し進めていった[37]。日本の植民地経営で採算がとれたのは、結局、台湾だけであった[16]。
日本
日本は、日清戦争の戦勝により、明治維新以来追求してきた不羈独立を達成し、国家目標を「主権線」の維持から「利益線」の維持・拡張へと転換させる契機となった[16][31]。さらに、下関条約において認められた製造業営業権や開市開港の規定は、ヨーロッパ列強の利益と合致していた[38]。したがって、遼東半島割譲問題を除けば日本は帝国主義列強の利益を代弁していたといってもよく、条約調印前からすでに日本と列強との間では利益の連帯性が成り立っていたとみなすこともできる[38]。そのうえ、下関交渉の結果、自国の最恵国待遇を清国に認めさせ、戦勝国として清国に敗戦条約を課し、多額の賠償金を取ったのであるから、その点でも日本は独力で列強と同等の地位に立ち、列強の仲間入りを果たしたといえる[4][38]。また、日本帝国が植民地として台湾を初めて領有したのも下関条約の成果であった[4]。下関条約は、日本の国際的立場を飛躍的に高め、その後の進路を決定づけた運命的な条約であった[38]。
賠償金2億両と遼東還付金の3,000万両は、大蔵省預金部に入った[4][注釈 9]。預金部は郵便貯金と同一会計であり、その使途に関する情報は開示されていなかった[4][注釈 10]。賠償金はロンドンの銀行に預けて運用し、そのことでイギリスと国際金融資本の歓心を買うと同時に長年の悲願だった金本位制復帰の資金とした[4]。1897年、第2次松方内閣は、平価を半分に切り下げた貨幣法を施行し、金本位制に移行している[40]。日本は清国に対して3年分割で金貨3808万英ポンドで支払わせた[4][41]。償金は当時の日本円に換算すると3億6,407万円にのぼった[41]。当時の日本の国家予算はおよそ8,000万円程度だったので歳入の4年分に相当する莫大な金額であった[4][41]。
賠償金の多くは軍事費に充てられた[41]。銀貨ではなく英貨で受け取ったのは、銀価格の低落により海外からの軍艦・兵器購入費が膨張するのを防ぎ、欧米への支払いを円滑に行うためでもあった[41][注釈 11]。一方、日本経済はこれにより綿工業を中心とする産業革命の段階に入った[4]。とくに以後増強されることとなる陸軍の装備には大量の綿布が用いられた[4]。のちに国内鉄鋼業の中心となる官営八幡製鉄所の建設資金の一部にも充用された[43]。筑豊炭田を後背地とする福岡県八幡村に製鉄所の建設が始まったのは1897年のことであった[43]。償金はまた、小学校の用地取得や校舎建設費の補助などといった教育の振興にもおおいに活用された[4]。
清国
日清戦争中の清国の外債は約4,000万両であった[44]。それに賠償金2億両、遼東還付金3,000万両を加えた支払いは清国にとって大きな負担となった[4][44][45]。清朝政府の財政規模は日本政府のそれと大きく異ならず、8,000万両程度であったから、清国としては数年分の税収を失う大きな痛手であった[4][44]。巨額の賠償金を日本に支払うため、清国は外国銀行から多額の借款を受けざるを得なくなった[46]。1895年から1898年にかけて、露仏銀行から1億両、英独銀行から2億700万両を借り入れ、その担保として関税や塩税・厘金をあてたため、清国はその対外貿易と交通運輸の命脈を外国銀行によって握られることとなった[46]。
製造業営業権は、最恵国待遇により日本と同じ恩恵を受けることができたイギリスなど欧米各国に巨大な利益をもたらした一方、清国内の商工業の発展を圧迫した[6][46][注釈 12]。1895年から1902年までの8年間の列国の在華企業への投資総額は、それ以前の30倍にも達した[46][注釈 13]。
軍事的には、アジアの超大国で「眠れる獅子」と見なされてきた清国が日本に敗北したことにより、その弱体性を世界に露呈した[2][49]。列強は、古くて強大な国家と見なされてきた清国の抵抗力に何ら幻想を持たなくなった[49]。西欧諸国はいっそう中国分割に乗り出すようになるが、その先頭を切ったのが清国の「友人」として遼東還付勧告をおこなったロシア・ドイツ・フランスの3国であった[49]。清国に対する借款の供与に始まって、鉄道利権の設定や租借地の割譲、列強による「勢力範囲」の設定は、下関条約調印後の2, 3年の間に急速に進展した[29][46][50]。
従来の「ヨーロッパ政策」の行き詰まりから「世界政策」に転じたドイツは、1895年、天津と漢口に租界を設定した[44]。また、1897年11月に山東省で起こったカトリック宣教師殺害事件を理由に陸海軍を派遣して膠州湾を占領、膠済鉄道の敷設権を得て、翌1898年3月には清国と条約を結んで膠州湾を99年間貸与することと、その後背地である山東省をドイツの「勢力範囲」とすることを承認させた[44][46][49]。
ロシアは1896年6月に露清同盟密約を結んで日本に対する共同防衛を清国に約束し、同時に露清銀行の設立や東清鉄道の敷設に関する特権を得た[44][49]。また、1897年12月には旅順と大連を占領した[44][49]。1898年3月、ロシアは清国と条約を結んで遼東半島先端部分(旅順・大連)の25年間租借と東清鉄道支線敷設の権利を獲得し、満洲と万里の長城以北に勢力圏を築いていった[44][46][49]。
フランスは、1895年、雲南省・広東省・広西省の鉱山採掘の優先権とアンナン鉄道の竜州・昆明までの延長を獲得し、1897年3月に海南島の第三国への不割譲を清国に約束させ、1898年4月には仏領インドシナのトンキンに隣接する清国領土の不割譲、同じ年の11月には広州湾の租借をそれぞれ清国に承認させた[44][46][49]。
一方、日本は1898年4月、台湾の対岸にあたる福建省の第三国への不割譲を清国に約束させた[44][49]。日本の行動は、他の帝国主義列強と歩調を合わせたものであり、さらにいうと、列強そのものであった[49]。
従来「自由貿易の旗手」を任じてきたイギリスは、当時の資本主義世界における最先進国であり、最も古くから清国に既得権や軍事的拠点を保有してきた国であったことから、このような「勢力範囲」を本来は必要としなかった[29][49]。むしろ、清国全体が自国の通商や投資の対象として開放されたままの状態にある方が国益に合致していたのである[49]。しかし、列国による中国分割の進展という事態に直面して、貿易に関しては従来どおり「機会均等」を唱えながらも、輸出資本、鉄道利権、軍事基地については、独・仏・露などとの対抗上、「勢力範囲」を設定しなければならない立場に立たされた[29]。他の列強がそれぞれに「勢力範囲」を設定することは、その部分だけイギリスの通商・投資の場が縮小されることでもあり、一方、現有の中国貿易を維持していくうえでも独・仏・露の勢力影響下にある鉄道や港湾において差別待遇などの不利益を蒙らないよう配慮しなければならなかったのである[29]。
イギリスは清国に対し、1,200万ポンドの借款を供与する代償として、ビルマから長江沿岸にいたる鉄道の敷設権、長江流域の第三国への不割譲、清国の関税の管理をイギリス人におこなわせることなどを要求し、1898年2月には長江流域の不割譲を認めさせた[46][49]。同じ年の6月9日には香港対岸の九龍半島の99年間の租借権を得た[46][49]。また、日本軍が1898年5月、保障占領を終えて威海衛より撤退すると、イギリス軍は即座に同地を占領し、7月1日の条約で威海衛の25年間租借を清国に認めさせた[46][49]。
列強の中国分割により設定された租借地は、開港場における租界とともに、国内にまた別の国があるようなものであり、中国の行政にとって大きな障害となったが、一面では、新文化の紹介や普及といった効果があったことも事実である[50]。一方、従来イギリスが主唱してきた「機会均等」の原則は、1898年8月にスペインとの戦争(米西戦争)に勝利してフィリピン領有を決め、ようやくこれから中国貿易を本格的に推し進めようというアメリカ合衆国にとってはいっそう切実であった[29]。ジョン・ヘイ合衆国国務長官は、1899年9月に門戸開放と機会均等、1900年7月に中国の領土保全を、列強諸国(英・独・仏・露・日・伊)に向けて求める、いわゆる「門戸開放通牒」を発した[29][46]。こうして合衆国の介入によって一応中国貿易の機会均等は保障され、中国をめぐる列強の利権獲得競争は一段落した[29]。
清国国内では帝国主義列強に蚕食される危機的な状況から従来の洋務運動の限界が露呈する一方、国家の意識や民族の意識が形成され、また、対外的な脅威に対抗して国際的な地位を確保していくためには、清朝の支配体制を変革して、近代的な国家を形成しようという試みがみられるようになった[6][51]。その中心となったのが康有為・梁啓超・譚嗣同らによる変法自強運動である[6][51]。「祖法」の変更(政治制度改革)を訴える変法論が急に力を得たのは、小国日本が大国清を破ったのは明治維新以来、日本が統治のあり方を変革するのに成功したからであると考えられたためであり、とくに康有為は、孔子は聖人であるという以上に当時の改革者であったという大胆な再解釈を加え、また、1895年、会試受験のために北京に来ていた1,000人をこえる受験者に日清停戦への抗議を呼びかけ、変法と富国強兵を訴えた(公車上書)[6][51]。一方、孫文は日清開戦とほぼ同時に、革命によって清朝を打倒して共和国の樹立を唱えた[6]。
清朝を維持しながら日本を見倣って強固な支配体制をつくり、立憲君主制をめざす変法派の政見は若き光緒帝を動かし、1898年6月の「国是の詔」により正式に始動した[6][51]。しかし、西太后ら保守派によるクーデターによってわずか3か月で挫折し、西太后は皇帝から政権をうばって垂簾聴政に復した[6][51]。このクーデターを「戊戌の政変」、短期間で終わった上からの改革を「戊戌の変法」または「百日維新」と呼んでいる[6][51]。
東アジアと国際政治
19世紀後半、清国はロシアに沿海州を割譲し、イギリスによって朝貢国ビルマが、フランスによって同じくベトナムがそれぞれ植民地化されるなど、いわゆる「辺境の喪失」が相次いだ[6]。そして、下関条約では朝鮮の宗主権を失い、領土台湾を日本に植民地として割譲することになった[6]。こうして、朝貢システムは崩壊し、中華帝国としての内実は完全に失われてしまった[6]。下関条約は東アジアの国際関係を、華夷秩序による中華帝国システムから万国公法による国民国家システムへと最終的に移行させる役割を担ったのである[31][注釈 14]。
別の観点から東アジア全体を俯瞰すると、日清戦争以前は、加藤祐三(中国近現代史)によって定義づけられた、
の4類型のうち、アヘン戦争などによって開国・不平等条約を強いられた清国が 3.敗戦条約国、マシュー・ペリーの黒船来航によって開国した日本は 4.交渉条約国 に相当した[4]。これが、下関条約の結果、日本が 2.植民地(台湾)を獲得して、清国に 3.敗戦条約を課して多額の賠償金を得たことで 1.列強の仲間入りを果たし、同時に条約改正を実現していったことから、4.交渉条約国 ではなくなった[4]。その結果、東アジアには 4.交渉条約国 が存在しなくなり、内側に 1.列強 と 3.植民地をかかえた、1.〜3. の3類型から成る地域へと変貌した[4]。
こうした東アジアの政治変動は国際政治、とくにアジア太平洋地域に大きな波紋を呼んだ[4]。アフリカ大陸や中南米地域では、すでに植民地分割が終わろうとしていた[4]。1か国による植民統治ではなく、互いに競争しつつ共同で管理しうる国として列強が注目したのが、広大な領土と巨大な人口を有する清国であり、その中心部は列強による分割最後の処女地であった[4][44]。この時期、19世紀中葉の清国の混乱を利用した列強による圧力はいったん収まっていたが、日清戦争と下関条約により、列強はアジア太平洋への侵出を再び本格化させていくのである[2]。
超大国イギリスは、南下政策をとるロシアとの宿命的な対立を一部日本に肩代わりさせる政策に転じ、「距離の落差」を補う必要から、従来の「光栄ある孤立」を捨てて日本との関係を強化し、1902年には日英同盟の調印に踏み切った[4][29]。1891年にシベリア鉄道を着工したロシアは、シベリア・沿海州方面から東アジアへと南下する政策をとった[4]。満洲から朝鮮半島に勢力を伸ばし、旅順などの不凍港を軍港として押さえようというものであったが、ユーラシア大陸内陸部を横断するシベリア鉄道はイギリスの海軍力の脅威にさらされない唯一のルートであり、それゆえドイツやフランスにとっても、ロシアの極東進出を後押しすることはイギリスのアジア支配に挑戦していくうえで安全確実な方法であった[4][29]。ロシアの東アジア侵出に対し、力不足の日本はイギリスとの連携でこれに対抗しようとした[4]。米西戦争に勝利してフィリピン、グァムをスペインから割譲させて太平洋へと勢力を伸ばしたアメリカは1898年にハワイ併合を断行し、同年、アメリカに本拠を置くモルガン会社は、武漢と広州を結ぶ粤漢鉄道の敷設権を獲得した[4][44]。その上で、上述のように、2度にわたって門戸開放通牒を発し、中国の利権をアメリカにも開放するよう求めたのである[4]。
日本、イギリス、アメリカ、ロシア、これら列強間の熾烈な闘争が東アジアを舞台に繰り広げられることになるが、どの国も単独では主導権を握ることができず、連合しつつ互いに対抗した[4]。
一方、清国の戊戌変法に対しては、イギリスをはじめとする列強が交渉相手として光緒帝の政府を好ましいものとして歓迎し、変法運動にも好意的であったが、西太后の政界復帰により関係が悪化し、列強間で失望が広がった[6]。西太后の側では、清国内の政治秩序の混乱は列強がもたらし、助長したものであるとして外国に対する反感をつのらせた[6]。こうしたとき、清国朝廷の力ではもはやコントロールできない大衆的な帝国主義列強に対する武力抵抗が引き起こされ、1900年の義和団の乱へと発展していったのである[6][29][53][注釈 15]。
関連する史跡・遺構
1937年(昭和12年)6月、条約調印地である下関市春帆楼の敷地内に「日清講和記念館」が設置された[54]。館内には講和会議のようすが再現されており、浜離宮から下賜されたといわれる椅子や会議で使用された調度品などが展示されている[54]。
なお、春帆楼と清国使節一行の宿舎であった引接寺を結ぶ道路は、「李鴻章道」と通称されている[55]。
伊藤博文と李鴻章の交流を示すものに、伊藤の神奈川県大磯町の別荘「滄浪閣」(1896年5月竣工)の扁額がある。この扁額は李鴻章が揮毫したものであった。滄浪閣はのちに伊藤の本宅となるが、扁額は長く伊藤家の玄関に飾られた[17]。
脚注
注釈
- ^ 「赤間関」は「赤馬関」とも表記され、これを江戸時代の漢学者が縮めて「馬関」としたもの。
- ^ 明治時代に作られた「鉄道唱歌」の第二集(山陽九州編)でも、「世界にその名いと高き 馬関条約結びたる 春帆楼の跡とひて 昔しのぶもおもしろや」との歌詞で紹介されている。
- ^ 調印後に「馬関」(赤間関市)が「下関」(下関市)に、「馬関海峡」が「関門海峡」に、それぞれ改称されても「馬関条約」の名称は長らく使われ続けた。「下関条約」という言い換えが完全に定着するのは、第二次世界大戦後になってからのことである。
- ^ この条約は、1900年の義和団の乱(北清事変)後の北京議定書をもとに「日清間の追加通商航海条約」が調印され、日本の利権はいっそう拡充された[9]。
- ^ 伊藤首相と同様の観測は民間にもあり、たとえば1895年1月12日の『東京経済雑誌』では、北京の紫禁城が陥落しても、清の皇帝は降伏せず、退去して抗戦するケースを想定している[14]。また、同誌では、当時の日本国民が開戦時に高唱した「義戦」もまた、東洋にあっては聞こえがよいものであっても実は虚飾にすぎず、ヨーロッパ列強はただ利のみを図っているのであり、それゆえ介入の心配は常にせねばならないのであり、日本国内における、義のために国富と人命を消耗することを良しとする考えは愚かであることも指摘している[15]。
- ^ 海軍部内には台湾全島を望んだ上で、遼東半島は朝鮮に任せてもよいという意見があった。陸軍では遼東半島のほかに山東半島の領有を望む声もあった。海軍の樺山資紀も山東半島領有を望んだ。
- ^ 国交断絶中の国同士に「国書」交換なるものが存在しないのは確かであった[19]。
- ^ しかし、こののち徐載弼は朝鮮王高宗によって命をねらわれ、高宗の勅令によって独立協会が強制的に解散させられたため、立憲君主制の芽は摘まれてしまった[35]。
- ^ 賠償金2億両は庫平銀では746万kgに相当し、還付金の111.9万kgを合わせると857.9万kgに達する。2011年4月現在の日中銀取引相場価格では銀1kgが12万円程度なので、それをもとに計算すると1兆294億円前後にのぼる。
- ^ 使途が開示されなかったことから、当時の大蔵省預金部は「伏魔殿」と称されていた[39]。
- ^ この措置によって、軍拡にともなう艦船やその資材、兵器弾薬などの輸入が促進され、1896年から1903年までのそれらの輸入額は1億5,000万円弱に達した[42]。
- ^ 台湾の割譲以上に賠償金借款の抵当と通商権益について警鐘を鳴らしたのが譚嗣同であった。彼は、これにより外国人はどこでも機械類をはじめとする諸商品を製造することができることから、中国人の商工業の利益は一網打尽となり、清国民の生計・生活もすべて外国人に握られ、中国の4億の民は、ことごとく日本の蝦夷、アメリカのインディアンないし黒人奴隷のような境遇に置かれてしまうだろうと訴えた[47]。
- ^ 条約の上では下関条約にいたるまで外国企業設立の法的根拠はなかったはずではあるが、実際には既成事実が積み重ねられていた結果でもあり、とくに上海は最大の外資投下の対象であった[48]。
- ^ アンソニー・ギデンズによれば、国民国家とは、他の国民国家と形づくる複合体のなかに存在し、画定された境界をともなう領土に対して独占的管理権を保有する一連の統治制度形態であり、この国民国家による支配は、法と、さらに国内的および対外的暴力手段に対する直接の統制によって正統化される状態を指している[52]。
- ^ 義和団鎮圧のために北シナに軍を派遣した列強は英・米・露・日・仏・独・伊およびオーストリア=ハンガリーの8か国で、なかでも陸軍戦力については日本とロシアが突出していた。
出典
- ^ a b c d 下村(1979)pp.426-427
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 原田(2007)pp.84-87
- ^ a b c d e f g h i j 猪木(1995)pp.12-17
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an 加藤祐三(1998)pp.389-393
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 隅谷(1971)pp.35-47
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 並木(1998)pp.347-352
- ^ a b c 小島・丸山(1986)pp.43-46
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 御厨(2001)pp.302-305
- ^ 下村(1979)p.427
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 陳(1983)pp.44-50
- ^ a b c d e f g h i j k 『新版 蹇蹇録』(1983)pp.199-215
- ^ a b c d e f g h i j k l 『新版 蹇蹇録』(1983)pp.216-234
- ^ a b c 小松(2009)pp.45-46
- ^ 原田(2007)p.85
- ^ 隅谷(1971)p.36
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 佐々木(2002)pp.143-146
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak 海野(1992)pp.69-73
- ^ a b c d 『新版 蹇蹇録』(1983)pp.235-250
- ^ 陳(1983)pp.47-48
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 陳(1983)pp.50-54
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 陳(1983)pp.54-58
- ^ a b c d e f g h i j k 『新版 蹇蹇録』(1983)pp.251-270
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac 陳(1983)pp.58-63
- ^ a b c d e f g h 岡崎(2009)pp.489-493
- ^ a b c d e f g h i j k l m 陳(1983)pp.63-71
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『新版 蹇蹇録』(1983)pp.271-301
- ^ a b c d e f g h i j k l m 中山(1990)pp.117-122
- ^ a b c 岡部(1969)pp.102-108
- ^ a b c d e f g h i j k l 河合(1969)pp.70-71
- ^ a b c d e f g h i j k 『新版 蹇蹇録』(1983)pp.302-324
- ^ a b c d e 加藤陽子(2002)pp.126-131
- ^ a b c 糟谷(2000)pp.242-244
- ^ a b 糟谷(2000)pp.244-247
- ^ a b c 海野(1992)pp.92-94
- ^ 糟谷(2000)p.244
- ^ a b c d e f g 原田(2007)pp.96-101
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 海野(1992)pp.82-86
- ^ a b c d 中山(1990)pp.115-117
- ^ 加藤(1998)p.391
- ^ 原田(2007)pp.122-126
- ^ a b c d e 海野(1992)pp.104-108
- ^ 海野(1992)p.106
- ^ a b 海野(2007)pp.118-120
- ^ a b c d e f g h i j k l 中村(1969)pp.362-367
- ^ 近藤(1971)pp.494-502
- ^ a b c d e f g h i j k l 小島・丸山(1986)pp.46-49
- ^ 近藤(1971)p.497
- ^ 中村(1969)pp.345-348
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 中山(1990)pp.122-125
- ^ a b 宮崎(1978)pp.540-543
- ^ a b c d e f 小島・丸山(1986)pp.49-52
- ^ 加藤陽子(2002)p.126
- ^ 小島・丸山(1986)pp.52-55
- ^ a b 「日清講和記念館」下関市立歴史博物館
- ^ “日本下關有一條“李鴻章小路”” (中国語). 人民網 (4 June 2018). 28 December 2019閲覧。
参考文献
- 猪木正道『軍国日本の興亡』中央公論社〈中公新書〉、1995年3月。ISBN 4-12-101232-1。
- 海野福寿『集英社版 日本の歴史18 日清・日露戦争』集英社、1992年11月。ISBN 4-08-195018-0。
- 岡崎久彦『〔新装版〕陸奥宗光とその時代』PHP研究所、2009年12月。ISBN 978-4-569-77588-3。
- 岡部健彦「2 世界政策と国際関係」『岩波講座 世界の歴史22 帝国主義時代I』岩波書店、1969年8月。
- 糟谷憲一 著「第5章 朝鮮近代社会の形成と展開」、武田幸男 編『朝鮮史』山川出版社〈新版 世界各国史2〉、2000年8月。ISBN 4-634-41320-5。
- 加藤祐三「8 日本開国とアジア太平洋」『世界の歴史25 アジアと欧米世界』中央公論社、1998年10月。ISBN 4-12-403425-3。
- 加藤陽子『戦争の日本近現代史』講談社〈講談社現代新書〉、2002年3月。ISBN 4-06-149599-2。
- 河合秀和「1 ヨーロッパ帝国主義の成立」『岩波講座 世界の歴史22 帝国主義時代I』岩波書店、1969年8月。
- 小島晋治・丸山松幸『中国近現代史』岩波書店〈岩波新書〉、1986年4月。ISBN 4-00-420336-8。
- 小松裕『全集日本の歴史第14巻 「いのち」と帝国日本』小学館、2009年1月。ISBN 978-4-09-622114-3。
- 近藤邦康「27 アジアにおける思想的変革 一中国の近代と伝統思想」『岩波講座 世界の歴史21 近代世界の展開V』岩波書店、1971年8月。
- 佐々木隆『日本の歴史21 明治人の力量』講談社、2002年8月。ISBN 4-06-268921-9。
- 下村富士男 著「下関条約」、日本歴史大辞典編集委員会 編『日本歴史大辞典第5巻 さ-し』河出書房新社、1979年11月。
- 隅谷三喜男『日本の歴史22 大日本帝国の試練』中央公論社〈中公バックス〉、1971年9月。
- 陳舜臣『中国の歴史14 中華の躍進』平凡社、1983年4月。ISBN 4582487149。
- 中村義「5-三 洋務運動と改良主義」『岩波講座 世界の歴史22 帝国主義時代I』岩波書店、1969年8月。
- 中山治一『世界の歴史21 帝国主義の開幕』河出書房新社〈河出文庫〉、1990年3月。ISBN 4-309-47180-3。
- 並木頼寿 著「第6章 動揺する中華帝国」、尾形勇・岸本美緒 編『中国史』山川出版社〈新版 世界各国史3〉、1998年6月。ISBN 978-4-634-41330-6。
- 原田敬一『シリーズ日本近現代史3 日清・日露戦争』岩波書店〈岩波新書〉、2007年2月。ISBN 4582487149。
- 御厨貴『日本の近代3 明治国家の完成1890-1905』中央公論新社、2001年5月。ISBN 4-12-490103-8。
- 宮崎市定『中国史 下』岩波書店〈岩波全書〉、1978年6月。
- 陸奥宗光(中塚明校注)『新版 蹇々録』岩波書店〈岩波文庫〉、1983年7月。ISBN 4-00-331141-8。