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「大正」の由来は『[[易経]]』の「'''大'''享以'''正'''天之道也」(大いに享を正すをもって天の道なり)から。「大正」は過去に4回候補に上がったが、5回目で採用された。 |
「大正」の由来は『[[易経]]』の「'''大'''享以'''正'''天之道也」(大いに享を正すをもって天の道なり)から。「大正」は過去に4回候補に上がったが、5回目で採用された。 |
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==大正年間の流れ== |
==大正年間の流れ1== |
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=== 概要 === |
=== 概要 === |
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大正年間には、2度に及ぶ[[護憲運動]]([[憲政擁護運動]]・[[大正政変]])が起こり、[[桂太郎]]を中心とする保守的な[[藩閥]]支配体制が揺らいで、[[政党]]勢力が進出した。それは[[大正デモクラシー]]と呼ばれ、[[尾崎行雄]]・[[犬養毅]]らがその指導層となった。[[大正デモクラシー]]時代は、大正7年の[[米騒動]]の前と後で分けられることが多いが、[[米騒動]]後、初めて爵位を持たず、衆議院に議席を持つ平民宰相として南部藩出身の[[原敬]]内閣が成立した。しかし原はその登場期に期待された程の改革もなさないままに終わり、一青年により東京駅頭で暗殺された。大正期には、[[普選運動]]が活発化し、[[平塚雷鳥]]や[[市川房枝]]らの[[婦人参政権運動]]も活発となった。大正14年には、[[普通選挙法]]が成立したが、同時に[[治安維持法]]が制定された。言論界も活況を呈し、[[天皇制]]と[[民主主義]]を折衷しようとした[[吉野作造]]の[[民本主義]]などが現れた。大正12年に[[関東大震災]]が起こり、首都が壊滅的な打撃を受けたが、程なく復興した。震災後、[[山本権兵衛]]内閣が成立した。その後、第二次護憲運動(憲政擁護運動)が起こり、[[護憲三派]]内閣として[[加藤高明]]内閣が成立した。大正末期には、[[ベルサイユ]]・[[ワシントン体制]]に順応的な[[幣原外交]](加藤内閣)が展開され、[[中国]]への内政不干渉、[[ソビエト連邦|ソ連]]と国交回復など、一定の民主的な色彩を示した。また文学界には、[[芥川龍之介]]や[[白樺派]]の[[ヒューマニズム|人道主義]](ヒューマニズム)が台頭した。 |
大正年間には、2度に及ぶ[[護憲運動]]([[憲政擁護運動]]・[[大正政変]])が起こり、[[桂太郎]]を中心とする保守的な[[藩閥]]支配体制が揺らいで、[[政党]]勢力が進出した。それは[[大正デモクラシー]]と呼ばれ、[[尾崎行雄]]・[[犬養毅]]らがその指導層となった。[[大正デモクラシー]]時代は、大正7年の[[米騒動]]の前と後で分けられることが多いが、[[米騒動]]後、初めて爵位を持たず、衆議院に議席を持つ平民宰相として南部藩出身の[[原敬]]内閣が成立した。しかし原はその登場期に期待された程の改革もなさないままに終わり、一青年により東京駅頭で暗殺された。大正期には、[[普選運動]]が活発化し、[[平塚雷鳥]]や[[市川房枝]]らの[[婦人参政権運動]]も活発となった。大正14年には、[[普通選挙法]]が成立したが、同時に[[治安維持法]]が制定された。言論界も活況を呈し、[[天皇制]]と[[民主主義]]を折衷しようとした[[吉野作造]]の[[民本主義]]などが現れた。大正12年に[[関東大震災]]が起こり、首都が壊滅的な打撃を受けたが、程なく復興した。震災後、[[山本権兵衛]]内閣が成立した。その後、第二次護憲運動(憲政擁護運動)が起こり、[[護憲三派]]内閣として[[加藤高明]]内閣が成立した。大正末期には、[[ベルサイユ]]・[[ワシントン体制]]に順応的な[[幣原外交]](加藤内閣)が展開され、[[中国]]への内政不干渉、[[ソビエト連邦|ソ連]]と国交回復など、一定の民主的な色彩を示した。また文学界には、[[芥川龍之介]]や[[白樺派]]の[[ヒューマニズム|人道主義]](ヒューマニズム)が台頭した。 |
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[[1924年]]には護憲三派(憲政会、政友会、革新倶楽部)による加藤高明内閣が成立し、ついに[[普通選挙]]実現の運びとなると共に、その後[[1932年]]の[[五・一五事件]]まで続く、政党内閣時代(憲政の常道)が開始されるのである。 |
[[1924年]]には護憲三派(憲政会、政友会、革新倶楽部)による加藤高明内閣が成立し、ついに[[普通選挙]]実現の運びとなると共に、その後[[1932年]]の[[五・一五事件]]まで続く、政党内閣時代(憲政の常道)が開始されるのである。 |
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== 大正年間の流れ2 == |
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[[1914年]]には[[第一次世界大戦]]が勃発した。日本は直接的戦闘地域は殆どなかったにもかかわらず元老の[[井上馨]]はその機会を「天佑」と言い、[[日英同盟]]を理由に参戦し戦勝国の一員となった。実質的損害はなく、戦火に揺れたヨーロッパの列強各国に代わり[[日本]]と当時まだまだ新興国家だった[[アメリカ合衆国|米国]]は貿易を加速させ、空前の好景気となり日本では[[成金]]などが出現するなど大きく経済を発展させた。 |
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しかし1917年には[[ロシア革命]]が起こり、[[ソビエト連邦|ソ連]]が成立した。日本は革命政権の転覆のためシベリアに出兵したが、折から国内では米価が暴騰し、富山県から[[米騒動]]が起こり、全国に広がった。政府はようやくそれを鎮圧したが、[[シベリア出兵]]を推進した[[寺内正毅]]首相は退陣し、代わって初めて爵位がなく、また衆議院に議席を持つ平民宰相として[[政友会]]の[[原敬]]が首相となった。政友会でも、[[西園寺公望]]が[[薩摩藩閥]]と結び付きが強かったのに対し、原敬は[[長州藩閥]]と結び付きが強かった。原敬の祖先は[[南部地方 (青森県)|南部]][[盛岡藩]]の[[藩士]]であったが、大正10年、東京駅頭で一青年に暗殺された。 |
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この当時、[[社会問題]]の深刻化が見られ、社会保障をめぐる議論も盛んとなり、米騒動後には、政府・地方で[[社会局]]の創設が相次いだ。 |
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[[1923年]](大正12年)には[[関東大震災]]が生じた。この未曾有の大災害に[[東京]]は大きな損害を受けるが、震災後、[[山本権兵衛]]内閣が成立し、その内務相となった[[後藤新平]]が辣腕を振るった。震災での壊滅を機会に江戸時代以来の東京の街を大幅に改良し、道路拡張や区画整理などを行い[[インフラ]]が整備され、大変革を遂げた。また[[ラジオ]]放送が始まるなど近代都市へと復興を遂げた。しかし、一部に計画された[[パリ]]や[[ロンドン]]を参考にした環状道路や放射状道路等の理想的な近代都市への建設は行われず、日本は戦後の自動車社会になってそれを思い知らされることとなり、戦後の[[首都高速]]の建設につながる。一方、この震災に乗じて、暴動が生じるというデマが振り撒かれ、朝鮮人や共産主義者の虐殺が行われた[[亀戸事件]]などが起こったことは、歴史の負の側面であろう。 |
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大正期を特色付けるのは、[[大正デモクラシー]]と称される政治の新しい動向である。明治末期にかけては[[軍部]]や[[元老]][[山県有朋]]の下で[[藩閥政治]]が続いていたが、大正初期にかけては山県系列の[[桂太郎]]と比較的リベラルな西園寺公望が交代で組閣し、[[桂園時代]]とも呼ばれていた。明治45年、第2次西園寺内閣の陸軍大臣[[上原勇作]](俳優の[[加山雄三]]の曽祖父)が、内閣が2個師団増設を否決したことに抗議して単独辞任し、[[陸軍]]は後任陸相を出さなかったため[[軍部大臣現役武官制]]によって陸相を欠いた西園寺内閣は総辞職した。その後、桂太郎が議会での交代のルールを無視して[[宮中]][[侍従長]]から3度目の首相に返り咲こうとした。桂太郎は、パーティなどでニコニコしながら相手の肩をポンと叩いて情誼を通じることが癖で、「ニコポン首相」と呼ばれていた。この桂の返り咲きに対して、都市部の[[知識階級]]を中心にその反発は強まった。そして[[尾崎行雄]]・[[犬養毅]]らによる[[憲政擁護運動]]([[護憲運動]])が起こり、[[新聞]]の批判も起こった外、民衆が国会を取り囲む事態も生じ、大正デモクラシーへと発展していった(第一次大正政変)。このため山本権兵衛(第1次)に組閣の命が下った。山本内閣は軍部大臣現役武官制を緩和するなど、事実上政友会に近い姿勢を示したが、[[シーメンス事件]]で退陣し、次いで庶民的で大衆に人気のあった[[大隈重信]]が組閣した。その後、関東大震災や[[虎ノ門事件]]の発生は、それまでの藩閥に危機意識を抱かせ、第2次山本権兵衛内閣が虎ノ門事件で倒れた後、枢密院議長から天下って[[清浦奎吾]]が内閣を組織しようとした。それに対し[[憲政会]]・[[革新倶楽部]]・政友会の三派は、普選の採用、政党内閣制の樹立を掲げて、藩閥・官僚勢力を主体とした[[政友本党]]に対抗した。[[護憲三派]]は選挙で勝利し、[[護憲三派内閣]]として[[加藤高明]]内閣が成立した(第二次大正政変)。加藤内閣は、[[1925年]](大正14年)、身分や財産によらず成人男子すべてに[[選挙権]]を与える[[普通選挙法]]を成立させた。普選は、婦人の参政権は認めず、生活貧困者の選挙権も認めないなどの制約があった。またそれは「革命」の安全弁としての役割も期待されていたが、それと同時に[[治安維持法]]を成立させ、「国体の変革」「私有財産否定」の活動を厳重に取り締まった。しかしこれによって[[政党]]政治が定着するようになった。この後、昭和7年に犬養毅内閣が[[五・一五事件]]で倒れるまで、[[政党政治]]が続き、明治以来の藩閥政治は一応終焉し、政治は、[[官僚]]や軍部を基盤にしつつも政党を中心に動いていくこととなった。 |
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このころまでに近代[[日本語]]が多くの文筆家らの努力で形成された。今日に続く文章日本語のスタイルが完成し、[[芥川龍之介]]、[[有島武郎]]・[[武者小路実篤]]・[[志賀直哉]]ら[[白樺派]]、[[中里介山]]の『[[大菩薩峠]]』や『[[文芸春秋]]』の経営にも当った[[菊池寛]]などの文芸作品が登場した。同時期の大正10年には、[[小牧近江]]らによって雑誌『[[種蒔く人]]』が創刊され、昭和初期にかけて[[プロレタリア文学]]運動に発展した。また大正13年には、演劇で[[小山内薫]]が[[築地小劇場]]を創立し、[[新劇]]を確立させた。新聞、同人誌等が次第に普及し、新しい絵画や音楽、写真や「活動写真」と呼ばれた映画などのエンターテイメントも徐々に充実した。 |
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==略年表== |
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2005年7月22日 (金) 14:12時点における版
大正(たいしょう)は日本の元号の一つ。明治の後、昭和の前。大正天皇の在位期間である1912年7月30日から1926年12月25日までの期間を指す。
改元
出典
「大正」の由来は『易経』の「大享以正天之道也」(大いに享を正すをもって天の道なり)から。「大正」は過去に4回候補に上がったが、5回目で採用された。
大正年間の流れ1
概要
大正年間には、2度に及ぶ護憲運動(憲政擁護運動・大正政変)が起こり、桂太郎を中心とする保守的な藩閥支配体制が揺らいで、政党勢力が進出した。それは大正デモクラシーと呼ばれ、尾崎行雄・犬養毅らがその指導層となった。大正デモクラシー時代は、大正7年の米騒動の前と後で分けられることが多いが、米騒動後、初めて爵位を持たず、衆議院に議席を持つ平民宰相として南部藩出身の原敬内閣が成立した。しかし原はその登場期に期待された程の改革もなさないままに終わり、一青年により東京駅頭で暗殺された。大正期には、普選運動が活発化し、平塚雷鳥や市川房枝らの婦人参政権運動も活発となった。大正14年には、普通選挙法が成立したが、同時に治安維持法が制定された。言論界も活況を呈し、天皇制と民主主義を折衷しようとした吉野作造の民本主義などが現れた。大正12年に関東大震災が起こり、首都が壊滅的な打撃を受けたが、程なく復興した。震災後、山本権兵衛内閣が成立した。その後、第二次護憲運動(憲政擁護運動)が起こり、護憲三派内閣として加藤高明内閣が成立した。大正末期には、ベルサイユ・ワシントン体制に順応的な幣原外交(加藤内閣)が展開され、中国への内政不干渉、ソ連と国交回復など、一定の民主的な色彩を示した。また文学界には、芥川龍之介や白樺派の人道主義(ヒューマニズム)が台頭した。
本時代は後世から振り返った時、大正デモクラシーに基づいた安定期として見られる事が多い。しかし同時代的には、近代日本の象徴であった明治天皇の崩御、そして当初暗君と噂された大正天皇の即位、という不安感を拭きれない状況から始まったのである。
第二次西園寺公望内閣が上原勇作陸相の辞任問題をきっかけとして倒れた後、1912年12月に第三次桂太郎内閣が発足すると、国民からは強い反発が起こり(第一次護憲運動)、ついには僅か数ヶ月で倒閣となった(大正政変)。
続く山本権兵衛内閣は、立憲政友会の援助を受け、原敬内相の下、安定した政権運営を行ったが、シーメンス事件をきっかけに再び世論の反発を受け、最終的には貴族院との関係悪化から倒れた。
その後、元老井上馨の後押しにより大隈重信が組閣し、1914年に勃発した第一次世界大戦では、加藤高明外相が中国に二十一か条の要求を提出した。
大隈内閣崩壊後には、二大政党制を目指し、1913年に桂が死の直前に結成した立憲同志会が他党を取り込むかたちで憲政会へと拡大した。 これとほぼ同時に組閣した寺内正毅内閣下では、大戦景気によるインフレとシベリア出兵をきっかけとして米価が暴騰し、米騒動が起こった。
そして、1918年本格的政党内閣として原敬内閣が成立する。しかし、1921年に原が暗殺されたことで首相となった高橋是清は政友会の調整能力に欠き、高橋内閣倒閣後は非政党内閣が続いた。
1923年(大正12年)には関東大震災が発生した。この未曾有の大災害に東京は大きな損害を受けるが、これを機会に江戸時代以来の東京の街を大幅に改良し、道路拡張や区画整理などを行いインフラが整備され、大変革を遂げた。またラジオ放送が始まるなど近代都市へと復興を遂げた。しかし、一部に計画されたパリを参考にした環状道路や放射状道路等の理想的な近代都市への建設は行われず、日本は戦後の自動車社会になってそれを思い知らされることとなり、戦後の首都高速の建設につながる。
1924年には護憲三派(憲政会、政友会、革新倶楽部)による加藤高明内閣が成立し、ついに普通選挙実現の運びとなると共に、その後1932年の五・一五事件まで続く、政党内閣時代(憲政の常道)が開始されるのである。
大正年間の流れ2
1914年には第一次世界大戦が勃発した。日本は直接的戦闘地域は殆どなかったにもかかわらず元老の井上馨はその機会を「天佑」と言い、日英同盟を理由に参戦し戦勝国の一員となった。実質的損害はなく、戦火に揺れたヨーロッパの列強各国に代わり日本と当時まだまだ新興国家だった米国は貿易を加速させ、空前の好景気となり日本では成金などが出現するなど大きく経済を発展させた。 しかし1917年にはロシア革命が起こり、ソ連が成立した。日本は革命政権の転覆のためシベリアに出兵したが、折から国内では米価が暴騰し、富山県から米騒動が起こり、全国に広がった。政府はようやくそれを鎮圧したが、シベリア出兵を推進した寺内正毅首相は退陣し、代わって初めて爵位がなく、また衆議院に議席を持つ平民宰相として政友会の原敬が首相となった。政友会でも、西園寺公望が薩摩藩閥と結び付きが強かったのに対し、原敬は長州藩閥と結び付きが強かった。原敬の祖先は南部盛岡藩の藩士であったが、大正10年、東京駅頭で一青年に暗殺された。 この当時、社会問題の深刻化が見られ、社会保障をめぐる議論も盛んとなり、米騒動後には、政府・地方で社会局の創設が相次いだ。
1923年(大正12年)には関東大震災が生じた。この未曾有の大災害に東京は大きな損害を受けるが、震災後、山本権兵衛内閣が成立し、その内務相となった後藤新平が辣腕を振るった。震災での壊滅を機会に江戸時代以来の東京の街を大幅に改良し、道路拡張や区画整理などを行いインフラが整備され、大変革を遂げた。またラジオ放送が始まるなど近代都市へと復興を遂げた。しかし、一部に計画されたパリやロンドンを参考にした環状道路や放射状道路等の理想的な近代都市への建設は行われず、日本は戦後の自動車社会になってそれを思い知らされることとなり、戦後の首都高速の建設につながる。一方、この震災に乗じて、暴動が生じるというデマが振り撒かれ、朝鮮人や共産主義者の虐殺が行われた亀戸事件などが起こったことは、歴史の負の側面であろう。
大正期を特色付けるのは、大正デモクラシーと称される政治の新しい動向である。明治末期にかけては軍部や元老山県有朋の下で藩閥政治が続いていたが、大正初期にかけては山県系列の桂太郎と比較的リベラルな西園寺公望が交代で組閣し、桂園時代とも呼ばれていた。明治45年、第2次西園寺内閣の陸軍大臣上原勇作(俳優の加山雄三の曽祖父)が、内閣が2個師団増設を否決したことに抗議して単独辞任し、陸軍は後任陸相を出さなかったため軍部大臣現役武官制によって陸相を欠いた西園寺内閣は総辞職した。その後、桂太郎が議会での交代のルールを無視して宮中侍従長から3度目の首相に返り咲こうとした。桂太郎は、パーティなどでニコニコしながら相手の肩をポンと叩いて情誼を通じることが癖で、「ニコポン首相」と呼ばれていた。この桂の返り咲きに対して、都市部の知識階級を中心にその反発は強まった。そして尾崎行雄・犬養毅らによる憲政擁護運動(護憲運動)が起こり、新聞の批判も起こった外、民衆が国会を取り囲む事態も生じ、大正デモクラシーへと発展していった(第一次大正政変)。このため山本権兵衛(第1次)に組閣の命が下った。山本内閣は軍部大臣現役武官制を緩和するなど、事実上政友会に近い姿勢を示したが、シーメンス事件で退陣し、次いで庶民的で大衆に人気のあった大隈重信が組閣した。その後、関東大震災や虎ノ門事件の発生は、それまでの藩閥に危機意識を抱かせ、第2次山本権兵衛内閣が虎ノ門事件で倒れた後、枢密院議長から天下って清浦奎吾が内閣を組織しようとした。それに対し憲政会・革新倶楽部・政友会の三派は、普選の採用、政党内閣制の樹立を掲げて、藩閥・官僚勢力を主体とした政友本党に対抗した。護憲三派は選挙で勝利し、護憲三派内閣として加藤高明内閣が成立した(第二次大正政変)。加藤内閣は、1925年(大正14年)、身分や財産によらず成人男子すべてに選挙権を与える普通選挙法を成立させた。普選は、婦人の参政権は認めず、生活貧困者の選挙権も認めないなどの制約があった。またそれは「革命」の安全弁としての役割も期待されていたが、それと同時に治安維持法を成立させ、「国体の変革」「私有財産否定」の活動を厳重に取り締まった。しかしこれによって政党政治が定着するようになった。この後、昭和7年に犬養毅内閣が五・一五事件で倒れるまで、政党政治が続き、明治以来の藩閥政治は一応終焉し、政治は、官僚や軍部を基盤にしつつも政党を中心に動いていくこととなった。
このころまでに近代日本語が多くの文筆家らの努力で形成された。今日に続く文章日本語のスタイルが完成し、芥川龍之介、有島武郎・武者小路実篤・志賀直哉ら白樺派、中里介山の『大菩薩峠』や『文芸春秋』の経営にも当った菊池寛などの文芸作品が登場した。同時期の大正10年には、小牧近江らによって雑誌『種蒔く人』が創刊され、昭和初期にかけてプロレタリア文学運動に発展した。また大正13年には、演劇で小山内薫が築地小劇場を創立し、新劇を確立させた。新聞、同人誌等が次第に普及し、新しい絵画や音楽、写真や「活動写真」と呼ばれた映画などのエンターテイメントも徐々に充実した。
略年表
- 1913年(大正2年) 大正政変
- 1914年(大正3年) 第一次世界大戦勃発、シーメンス事件
- 1918年(大正7年) シベリア出兵、米騒動
- 1919年(大正8年) パリ講和会議、選挙法改正
- 1920年(大正9年) 国際連盟設立
- 1921年(大正10年) 原敬首相東京駅で暗殺
- 1923年(大正12年) 関東大震災
- 1925年(大正14年) 治安維持法制定、普通選挙法
西暦との対照表
大正 | 元年 | 2年 | 3年 | 4年 | 5年 | 6年 | 7年 | 8年 | 9年 | 10年 |
西暦 | 1912年 | 1913年 | 1914年 | 1915年 | 1916年 | 1917年 | 1918年 | 1919年 | 1920年 | 1921年 |
干支 | 壬子 | 癸丑 | 甲寅 | 乙卯 | 丙辰 | 丁巳 | 戊午 | 己未 | 庚申 | 辛酉 |
大正 | 11年 | 12年 | 13年 | 14年 | 15年 |
西暦 | 1922年 | 1923年 | 1924年 | 1925年 | 1926年 |
干支 | 壬戌 | 癸亥 | 甲子 | 乙丑 | 丙寅 |
その他
明治天皇が崩御して、新元号をスクープしたのが朝日新聞の緒方竹虎である。彼は記者時代の新元号スクープにより出世し、同社編集長、更に後には政治家へと栄転する。
大正を名乗る企業・団体
- 大正製薬
- 大正大学
- 大正火災海上保険(後に三井火災海上保険。現三井住友海上火災保険)