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歴史
京阪神地区は、JRと複数の私鉄が並行していることから、歴史的に激しいサービス競争が繰り広げられている。
関西急電
関西地方で最初に開業した鉄道は旧・日本国有鉄道(国鉄・官営鉄道)の路線で、1874年(明治7年)に大阪 - 神戸間、1877年(明治10年)に京都 - 大阪間の路線をそれぞれ開業させた。当時、輸送の多くは国有鉄道の独占であった。
しかし、1905年(明治38年)4月に阪神電気鉄道が大阪出入橋 - 神戸三宮間(現在の阪神本線)、1910年(明治43年)4月に京阪電気鉄道が京都五条 - 大阪天満橋間の路線(現在の京阪本線)を開業させて以来、大阪 - 神戸間の阪急神戸線(梅田 - 三宮)、京都 - 大阪間で新京阪鉄道 - 京阪新京阪線 - 阪急京都線(西院駅 - 天神橋駅)、兵庫 - 姫路間においては山陽電気鉄道本線(兵庫駅 - 山陽姫路駅)と、競合する並行私鉄が複数誕生し、市街地への近さ、短い駅間隔、短編成ながら頻繁な運転を売り物とし、国有鉄道から客の多くを奪うことに成功する。
私鉄に対抗すべく国有鉄道は、1930年(昭和5年)に阪神間・京阪間などで蒸気機関車牽引の快速列車を設定、1934年(昭和9年)7月に吹田駅 - 須磨駅で電気運転が開始され、大阪駅 - 神戸駅間に28分運転(各駅停車は当時38分)を行う「急行電車」(いわゆる関西急電と呼ばれる、料金不要の優等列車。)を設定、その後1937年(昭和12年)10月に京都駅までの電気運転が開始されると運転区間を京都駅 - 神戸駅間に拡大した。それに先立つ1935年(昭和10年)10月には、急行用の車両として当時としては斬新な流線形の車体デザインを採用した52系を登場させている。戦後の急行電車に用いられた80系や、後に新快速用車両として登場した117系で採用された茶色&クリーム色の塗装、223系1000・2000番台の側面窓周辺の茶色は、急行時代の52系の塗装を意識したものであり、大鉄局やJR西日本が関西急電を誇りとし、新快速がこの流れを受け継いでいることを明示する役割も果たしている。
当時の急行の京都駅 - 神戸駅間の中間停車駅は、大阪・三ノ宮・元町(1936年(昭和11年)4月1日から停車)の3駅だけであった。
その後、1942年(昭和17年)には太平洋戦争による戦時体制強化に伴い運転を休止するが、1949年(昭和24年)4月に復活した。1957年(昭和32年)に茨木駅 - 大阪駅間の複々線が復活した時に「急行電車」を「快速電車」へと名称を変更している。これは料金が必要な急行列車・準急列車との区別が紛らわしいという理由からである。
新快速の設定
新快速は「快速」の更なる速達化として、1970年(昭和45年)10月の日本万国博覧会(大阪万博)の終了直後に初めて設定された。当初の運転区間は京都駅 - 西明石駅間で、新幹線停車駅である新大阪駅を通過し、途中停車駅は大阪駅・三ノ宮駅・明石駅のみとした。運転本数は日中の毎時1本の6往復のみであった。
- 1971年(昭和46年)4月26日:運転区間が草津駅へ延長される。草津駅までの停車駅は、大津駅と石山駅。この当時は横須賀色(スカ色)の113系を使用していた。そもそも横須賀色の113系は万博輸送のために横須賀線から転入した車両で、関西では見慣れない色だったため識別には都合が良かったが、のちに湘南色に変更された車が多く、113系末期は混色での運転が多かった。
- 1972年(昭和47年)3月:山陽新幹線の岡山延伸開業により余剰となった急行形電車の153系(いわゆる「東海形」)を投入[1]し、日中京都駅 - 大阪駅 - 明石駅間で毎時4本運転の大増発を行った。
この時新快速に転用された153系は「新快速色」と呼ばれる白地に青帯の塗装[2]に変更し、「ブルーライナー」の車両愛称を付与した。
「新快速」は15分間隔のパターンダイヤで設定され、大阪駅 - 京都駅間を29分で運転し、両駅で1分停車するため、大阪駅と京都駅の出発時刻が揃えられており、宣伝では、時刻表不要の高頻度と時刻のわかりやすさが強調された。京都駅および大阪駅の駅舎壁面上部に時計を形どり「29分間」を強調した広告がこの頃存在した。ただし、当時の幹線では保守間合いと呼ばれる列車の運転休止時間帯があり、日によっては運転間隔は一定でなかった。当時は草津駅 - 西明石駅間運転の列車と、京都駅 - 姫路駅間運転の列車があり、姫路駅発着の列車は西明石駅を通過していた。
当時の特急「雷鳥」は、大阪駅を毎時0分に新快速と同時発車していた。しかし「雷鳥」は新快速よりも大阪駅 - 京都駅間の余裕時分を多く取っていた[3]。そのため、共に新大阪を通過した後に新快速が「雷鳥」を抜き去って行く光景が、北陸方面に向かう「雷鳥」が走る度に繰り広げられた。「雷鳥」が走る列車線(外側線)のダイヤを作成・管理していた国鉄本社は、これではあまりにみっともないという事で、新快速のダイヤを管理する大阪鉄道管理局に、新快速のダイヤをずらすように指示したものの、大阪管理局はパターンダイヤを変更する事は利用者にとって不便になるという理由を付けて拒否した。本音は、(東京)本社への対抗心だった事は容易に推察され、当時の国鉄OBもそれを認める発言をしている[4]。やむを得ず本社側が折れ、「雷鳥」のダイヤを5分ずらす事にした。また市販の時刻表では、「雷鳥」と新快速を意識的に併記しないようにしていた。
- 1973年(昭和48年):姫路駅発着列車が毎時2本に増発される。
- 1974年(昭和49年)7月:湖西線が開業し、毎時1本の列車が堅田駅(観光シーズンは近江今津駅)まで乗り入れるようになった。
- 1978年(昭和53年)10月2日改正:神戸駅が停車駅に追加された。
- 1980年(昭和55年)1月:117系が投入される。
- この当時は国鉄の度重なる値上げで私鉄との並行がない京都以東以外においては利用客の激減が進み、「冬の時代」になっていた(いわゆる「国鉄離れ」)。
- 京阪間で並行する阪急が6300系、京阪が3000系という転換クロスシートを持った特急専用車を運転していたのに対し、新快速はボックス型の固定シートであった。これらに対抗するため、料金不要車両ながら転換クロスシートを持ち、シートに枕カバーが付く、極端なまでの「標準化」を推進する当時の国鉄としては破格の車両が誕生した。これが117系であり、導入にあたって「シティライナー」の車両愛称を付与され、ヘッドマークの公募も行われた。この117系は戦前の関西急電の生まれ変わりとも言えるクリーム色と茶色をまとって登場し、この茶色はのちの新快速車両にも受け継がれることになる。当時の新快速は私鉄に比べてまだ劣勢ではあったが、117系の評判は良く、同年7月の時点で、6両編成×21本が出揃い、153系の置き換えが急ピッチで行われていった。
- この時期、国鉄の普通列車において表定速度が時速70km(キロメートル)以上の列車は44本あり[5]、その全てが新快速であった[5]。その中で、京都発大阪行きの新快速「3681M」は京都駅→大阪駅間を30分で走行し、他の新快速が29分で走っていたことを考えればやや遅い列車であったものの、表定速度は1980年当時の普通列車の中では最速となる時速85.6kmであった[5]。これは、当時の国鉄在来線の全列車の中でも2番目に速い[5]もので、当時最も速い特急列車であった「加越5号」(表定速度・時速86.1km)以外の全ての特急よりも速かった[5]。
- 1985年(昭和60年)3月14日:朝夕に各駅停車ながら彦根駅発着列車の運行を開始し、日中の草津駅発着列車が毎時2本に増発された。同時に新大阪駅が停車駅に追加された。高槻駅以西の最高速度が100km/hから110km/hに引き上げられた効果で、新大阪駅に追加停車しても、京都駅 - 大阪駅間を29分で運転できるようになった。これまで新幹線が停車する新大阪駅の通過は、新幹線利用の遠方客を中心に誤乗を招いていたが、パターンダイヤを維持するための新大阪駅通過が解消されることとなった。
- 1986年(昭和61年)11月1日:山科駅に新たに停車し、西明石駅にも全列車が停車するようになり、西側は全列車が姫路駅発着となり、東側も彦根駅と近江舞子駅(湖西線内は各駅停車に変更)まで毎時1本ずつ延長されるとともに、草津駅以東各駅停車であった新快速の停車駅が削減され、現在の停車パターンによる速達運転が開始された。また分割民営化を控えて、従来国鉄本社直轄だった「外側線」・「列車線」が大阪鉄道管理局に開放され、草津駅 - 西明石駅間の複々線区間で新快速はそれまでの「内側線」(電車線)から外側・列車線走行に変更となり、大阪駅 - 京都駅間、大阪駅 - 神戸駅間などでそれぞれ3 - 5分程の時間短縮が図られた。のちに新大阪駅 - 大阪駅間と京都駅以東は平日朝夕ラッシュ時以外内側線を走行するようになった。マイナーチェンジ版の117系100番台が6両×3編成増備される。この時点においても朝夕ラッシュ時には新快速の設定はなく(姫路駅発着は少ないながらも設定されていた)、外側線を走行する快速がラッシュ時の最速列車であった。また国鉄の鉄道管理局の境界が彦根駅 - 米原駅間であり、新快速の東端は彦根駅発着であった。
民営化後
- 1987年(昭和62年)4月1日:国鉄分割民営化により、JR西日本(西日本旅客鉄道株式会社)が発足した。新会社発足時の時刻は国鉄最後のダイヤ改正(1986年11月1日)時のダイヤをそのまま継承した。
- 1988年(昭和63年)3月13日:夕ラッシュ時に10往復あまりが増発された。同時間帯に米原駅直通が設定された。
- 1989年(平成元年)3月11日:初めて朝の通勤時間帯に新快速を運転し、また終発を三ノ宮(神戸)・京都方面ともに大阪駅23時発に繰り下げ、現在の終日に渡って新快速を運転するダイヤの基礎ができた。また221系が新製投入されはじめ、新快速の一部列車でも運用を開始する。琵琶湖線(東海道本線)の運転区間を全列車彦根駅から米原駅まで延長した。
- 1990年(平成2年)3月10日:昼間時間帯の新快速が高槻駅と芦屋駅に停車。最高速度を110km/hから115km/hに引き上げ、京都駅 - 大阪駅間を高槻駅に追加停車しながらもダイヤ改正前と同じ29分で運転した。同時に京都駅以東で内側運転に戻されている。
- 1991年(平成3年)
- 1993年(平成5年)
- 新快速の全列車を8両以上とする。
- 3月18日:休日朝時間帯の新快速が高槻駅・芦屋駅に停車するようになる。
- 1995年(平成7年)
- 1996年(平成8年)3月16日:湖西線の運転区間が近江舞子駅から近江今津駅、一部永原駅にまで延長されるとともに、線内の快速運転が復活する。大半の米原駅での折り返し列車が長浜駅まで延長される(すなわち、日中に長浜駅に来るのは新快速のみに)。朝夕の臨時列車が定期列車に格上げされる。
- 1997年(平成9年)
- 1999年(平成11年)5月10日:朝通勤時間帯の新快速を223系に統一。これにより、草津駅 - 西明石駅間で通勤電車としては国内初の130km/hでの運転を開始するようになった。この改正に合わせ223系2000番台が登場し、その後も増備が続くことになる。最後まで残っていた117系使用列車1往復が221系に置き換えられ、117系の新快速運用はなくなった。
- 2000年(平成12年)3月11日:車種を223系に統一し、米原駅 - 姫路駅間で全列車130km/hの運転を開始した[7]。大阪駅 - 京都駅間で27分、大阪駅 - 三ノ宮駅間は18分の運転となり、このときの運転時分が新快速の最速記録である。そのため1972年以来の京都駅基準の00・15・30・45分発が崩れることになった。なお、新快速の最高速度の引き上げに合わせて同区間を走行する特急列車の最高速度が引き上げられ、特急と新快速はほぼ平行ダイヤ[8]となり、京都駅 - 姫路駅間では各線へ直通する特急が新快速の等間隔間に割って入る形になった。
- 2003年(平成15年)12月1日:芦屋駅が全日・全列車停車となり、このため、大阪駅 - 三ノ宮駅間の所要時間は19分に延びた。また、夕方ラッシュ時の外側快速(大阪駅 → 姫路方面)1本を新快速に変更した。
- 2004年(平成16年)10月16日:朝のラッシュ時に増発が行われ、京都方面から大阪駅へ向かう新快速の8分間隔運転が実現するようになった。また夕ラッシュ時のピーク時に京都方面に基本15分ヘッドの間に大阪駅始発の新快速が増発され、7.5分間隔で運転されるようになった。この改正で、朝に走っていた米原駅 → 西明石駅間の下り快速を新快速に変更したため18年ぶりに「西明石行き」の新快速が復活した。
- 2005年(平成17年)
- 3月1日:昼間時間帯にも赤穂線・播州赤穂駅まで毎時1本が直通運転されるようになった。この時間帯の上郡・岡山方面発着の普通列車は相生駅発着になり、播州赤穂駅発着の新快速に接続できるよう考慮されている。長浜市が新快速の乗り入れにより観光客の誘致に成功し、敦賀市も直流化による乗り入れを働きかけたのを見て、赤穂市でも同様の目的で新快速の日中乗り入れを働きかけたことによる。同時に加古川駅の高架工事の完成に伴って同駅で両方向とも相互接続するようになった。(以前は姫路方面のみ相互接続、大阪方面は東加古川駅で待避設定)
- 10月:同年4月に発生したJR福知山線脱線事故を受け若干の余裕時分が作られた。震災後の私鉄からの転移、芦屋駅の追加停車などで乗客数が増加傾向にあり、かつ普通列車との接続などで遅延が多発していたためである。
- 2006年(平成18年)
- 3月18日:再度余裕時分の見直しが行われ、新快速も所要時間が伸び、再び京都駅基準では00・15・30・45分発となった。また、日中の播州赤穂駅への直通列車は利用好評で、姫路駅以西で以前の4両から8両で直通するようになった。これにより従来8両固定編成を主に充当していた近江今津駅・長浜駅発着の系統を敦賀駅への乗り入れに備えて4+4両編成に変更している[9]。
- 10月21日:北陸本線・長浜駅 - 敦賀駅間と湖西線・永原駅 - 近江塩津駅間が直流電化に切り替えられ、日中の新快速が湖西線・米原駅経由ともに近江塩津駅・敦賀駅まで直通運転を開始した。これによって最長列車で総距離275.5km、所要時間3時間59分の敦賀発米原経由播州赤穂行きが登場した(この最長記録は2009年3月14日改正時点でも破られておらず、登場以来総距離トップの座を守り続けている)。この改正で223系2000番台の6両J編成同士連結の新快速運用がなくなり、これまでの米原駅・京都駅・姫路駅・網干駅に加え近江今津駅では増解結も行われるようになる[10]。
- 2008年(平成20年)3月15日:土曜・休日ダイヤの一部列車が編成増強された。この運用変更により、敦賀発米原経由播州赤穂行き列車は、列車としてはつながっているものの、敦賀発は最長網干駅までとなり、全区間を直通する車両運用はなくなった(但し近江塩津発米原経由播州赤穂行き(総距離ランキングにして第3位)には1本だけ全区間通しての車両運用が設定されている)。
- 2009年(平成21年)3月14日:快速列車からの格上げの形で新快速が増発され、大阪駅基準でそれまでの平日では23時40分発、土休日では23時20分発だった終発が京都方面は野洲・京都行きで0時と25分、三ノ宮・神戸方面は姫路行きで0時、西明石行きで25分発まで運転時間帯が拡大した。西明石行き終発は兵庫駅 → 西明石駅間で電車線での運転となった[11]。この改正で再び6両J編成同士の連結(12両)の新快速運用が復活している。また、新快速通過駅の救済のため、西明石発姫路行の最終列車(普通列車)を1本増発した。
並行私鉄との競争
概要の項で述べたとおり、新快速の登場は平行する私鉄との乗客獲得競争によるものである。高い運賃、均等でない運転間隔の利用しにくいダイヤなど、国鉄は常時劣勢な立場であった。特に距離の長い京阪間では、阪急電鉄・京阪電気鉄道が転換クロスシートを持つ特急料金不要の特急専用車を京阪間無停車で頻発運転させており、「関西は私鉄王国」といわれる所以でもあった。
しかし、JR西日本発足後は並行する私鉄は一転して防戦に追われた。これはJR東海に対する名古屋鉄道にも当てはまるが、国鉄時代末期の京阪間では、117系の登場と前後して、阪急・京阪ともに特急車の置き換えが行われており、さらには京阪本線の出町柳駅への延長(鴨東線開業)を機会に新型車を登場させ、後にダブルデッカーを組み込むまでにエスカレートしている。さらに京阪中之島線に開業時(2008年)にも同線直通(快速急行)用の車両としてグレードの高い車両を導入している。また、阪神電気鉄道や山陽電気鉄道にも転換クロスシート車両が登場し、1998年(平成10年)2月より阪神梅田駅 - 山陽姫路駅間の直通特急「姫路ライナー」・「大阪ライナー」を運転するなどの対抗策を打ち出した。また2009年3月20日に阪神なんば線が開通し 神戸方面から大阪南部・奈良・和歌山方面への利便性が格段に向上した。阪神なんば線開通後は大阪ミナミへ乗り換えなしで行けることを積極的にPRしている。
それでも、かつての国家プロジェクトの賜物である線形の良さと複々線の容量を存分に生かして成長するJRの新快速に対し、速度・所要時間では対抗できず、苦戦を強いられている。新快速の高槻停車直前に阪急が特急の高槻市駅停車を始めたものの、JRから利用客を取り戻す材料にはならなかった。さらにはJRが複々線を生かした緩急接続で普通列車のみ停車の小駅に対しても時間短縮の効果を上げ、私鉄との所要時間差は決定的なものになった。そのため、各私鉄は京阪間・阪神間の直通輸送を重視する施策から、最速達列車を中間の拠点駅(中核駅)に停車させ、中間各駅からターミナル駅への利便性向上を重視する施策へと次々と転換していった。
躍進の功罪
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JR発足後は221系の登場で、従来の速さに加え、大きな窓と明るい車内で新生JRの格好のPR材料となり、「昼間特割きっぷ」の周知とも相まって、徐々に私鉄からの乗客の転移が見られるようになった。主要駅周辺の金券ショップで本来は12枚綴りの回数券である「昼間特割きっぷ」のばら売りがされるようになったことは主婦層を中心とした利用拡大に寄与した。
さらに大きな転機となったのが、1995年(平成7年)1月の阪神・淡路大震災である。この震災で各鉄道が大きな被害を受け、長期運休を余儀なくされた。その中から、阪神間でもっとも早く開通したのがJRであった。貨物輸送も担う幹線であり、復旧が急がれ、またJR各社の応援を得られたことも大きかった。
復旧後のJR神戸線は、複々線の大きな線路容量を生かして、未だ不通区間のあった他私鉄からの転移客も吸収した。特に混雑の激しい新快速は予備車を使って増発し、その後223系1000番台を急遽追加投入して輸送力確保に努めた。その結果、高速運転や頻発運転、さらには通勤定期代の安さなども認知され、他私鉄が開通後もそのままJRを利用する転移客が目立った。また被害の激しかった阪神間での沿線人口が減り、加古川・姫路方面への転居者が多かったこともJRに有利に働いた。
また、京阪間においても最速27分という高速運転や、奈良線・嵯峨野線の増発による京都経由の新たなルートの確立(京阪宇治線・近鉄京都線 - 京阪本線、嵐電 - 阪急京都線の流動がそれぞれJR側に動いた)、さらには京都駅ビル自身の集客力強化などといった施策が功を奏し、並行私鉄から乗客を集めることに成功した。また、京都を越えて直通運転する琵琶湖線沿線、特に草津市・守山市を中心とする(大都市へ直接アクセスする)並行私鉄のない地域では、新快速による時間短縮効果が大阪・京都への通勤客を中心とする人口増を呼ぶとともに、京都市内からの大学の新キャンパス設置や滋賀県内への企業誘致など、新たな需要の拡大を生んでいる。
他社からの利用者流入など、JR化後の各種施策の成果により、新快速の乗客は徐々に増えてきた。221系投入後は2扉の117系が客扱いで遅延を起こすようになり、早々に撤退を余儀なくされ、また221系の新快速ものちに8両編成主体に変わっていった。ちなみに221系の初回投入時は新快速用が6両、快速用は4両同士連結の8両の編成であった。
震災後に乗客が急増した神戸線の増発用として急遽製作された223系1000番台は、扉間の座席を1列減らしてドア周囲を広く取ると同時に、その空間を利用した補助席を新たに設け、ラッシュ時の混雑緩和と日中時間帯の着席サービスの確保を計った。朝夕時間帯の新快速の増発は、さらに利用客の新快速への集中を招くことになったため、223系の増備が進むに従い、朝の快速も223系使用で揃えられ、新快速への集中を抑えるため、神戸駅 → 大阪駅間で快速が先着になるなど、ダイヤにも手が加えられている。また223系の大量増備で各列車の足並みが揃えられ、所要時間の短縮に大きく貢献している。
JR西日本の独り勝ち状態と言われた矢先の2005年(平成17年)4月25日にJR福知山線脱線事故が発生、私鉄との競争を意識しすぎた余裕のないダイヤが一因であるとの批判を浴びた。そのため翌2006年(平成18年)3月18日のダイヤ改正では余裕時間の見直しが行われ、主要駅での停車時間の延長、余裕を持った折り返し運用などが実施され、京都駅 - 大阪駅間が28分に、大阪駅 - 三ノ宮駅間では20分にと、それぞれ改正前より1分の所要時間増となった。所要時間が増えたのは新快速運転開始以来初めてのことである。福知山線事故、そしてこの所要時間増と逆風のもとで、JRを利用していた客の私鉄への再転移も報じられたが、結果的にはJR京都・JR神戸両線への大きな影響はなかった。
また、主要駅に設置されていた新快速の宣伝看板も、事故を機に撤去されるようになった。
このように利用客を確実に伸ばしていった反面、混雑が激しい列車が多くなっている。大阪駅起点で、現行の昼間のダイヤでは下り三ノ宮・姫路方面は明石駅以西で、上り京都・米原方面では京都駅以東の最先着列車となる。土休日の12両編成列車の増発や、救済となる臨時列車を運転する等の対策を行っているが、平日夕方ラッシュ時に8両編成で運転される列車も残るなど、充分に対応しきれていない状況も見られる。但し、2011年春のダイヤ改正では、全列車を12両編成にするとの新聞報道もされており、これが実現すると混雑はかなり緩和されるとみられる。
- ^ 所定に対しクハ153形が1両不足したため、165系のクハ165形で代用されている。
- ^ 局内での呼称は「BW塗装」。
- ^ 当時の「雷鳥」の大阪駅 - 京都駅間の所要時間は30~33分で、新快速よりも長く、当時の新快速の最高速度が110km/h(昭和47年3月以降、ただし高槻以西は100km/h)であるにもかかわらず、最高速度がそれより10km/h速いはずの特急が追い抜かれたというエピソードが残っている点や、所要時間の差から見ても、特急が大阪 - 京都間ではいかにゆっくり走っていたかが窺い知れる。なお、JR発足後に「雷鳥」も所要時間29分、2000年(平成12年)には27分へと短縮されている。
- ^ 内側線(通称電車線)は大鉄局の管理下で、ダイヤ改正のたびに、急行と各駅停車の運転時分の差(追い越そうにも外側線を使えない)や線路容量の逼迫(外側線には余裕があった)に悩まされており、私鉄との競争と、地元の事情を解せず融通の効かない本社との板ばさみの状態が長年にわたって続いていた。後に117系の性能要件を本社に提出する際も、「内側線だけしか使わせていただけないならば、超高性能車が必要。」とばかりに、実現不可能な要求を突きつけている。
- ^ a b c d e 『コロタン文庫 鉄道No.1全百科』p82(1981年・小学館)
- ^ アーバンネットワーク秋のダイヤ改正について (Internet Archive)- 西日本旅客鉄道 1997年7月18日
- ^ 平成12年春 ダイヤ改正について (Internet Archive) - 西日本旅客鉄道プレスリリース 1999年12月17日
- ^ その後現在まで新快速が特急に抜かれる場面は近江今津駅・姫路駅での分割併合に伴う長時間停車や京都駅以東の複々線区間(待避に伴う長時間停車はない)でのみ見ることができる。
- ^ 但し、4両+4両の場合、8両固定編成より座席定員が減少する(補助席を除く総座席数は8両固定編成の場合、1000番台は428席、2000番台は424席であるのに対し、4両+4両編成は1000番台×2の408席、2000番台×2の400席、1000番台+2000番台の404席に)のみならず立客スペースも狭まるうえに車内の通り抜けもできない
- ^ 元々、近江中庄・マキノ・永原の3駅では8両編成の停車はできるが、近江塩津・新疋田・敦賀の3駅はホーム高さの関係で4両編成までしか停車できないため。
- ^ 平成21年春ダイヤ改正について(詳細) (PDF) - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2008年12月19日