コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「信濃 (空母)」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Xqbot (会話 | 投稿記録)
m ロボットによる 変更: es:Portaaviones Shinano (1944)
大和型戦艦の項目の再編集
タグ: ビジュアルエディター モバイル編集 モバイルウェブ編集
 
(100人を超える利用者による、間の330版が非表示)
1行目: 1行目:
{{Infobox 艦艇
{| class="wikitable" style="clear:right; float:right; margin: 0em 0em 1em 1em; width: 300px; background:#ffffff"
|名称 = 信濃
|colspan="2"|[[Image:Japanese aircraft carrier Shinano.jpg|300px]]
|画像 = Japanese_aircraft_carrier_Shinano.jpg
|-
|画像説明 = [[東京湾]]にて公試航行中の信濃([[1944年]][[11月11日]])。<br>取り舵をとっているため、右舷に傾斜している。
!colspan="2" style="background: #f0f0f0"|艦歴
|運用者 = {{navy|Empire of Japan}}
|-
|種別 = [[大和型戦艦]](3番艦)→[[航空母艦]]<ref name="S19内令第804号" />
|起工
|前級 = [[雲龍型航空母艦]]
| [[1940年]][[5月4日]]
|次級 = [[伊吹 (空母)|伊吹]](未成)
|-
|建造所 = [[横須賀海軍工廠]]<ref name="S19達第212号">[[#昭和19年6月~7月 海軍公報(部内限)/7月(1)]]画像5、海軍公報(部内限)第四七二九號 昭和十九年七月三日(月) 海軍大臣官房〔 達第二一二號 横須賀海軍工廠ニ於テ建造中ノ軍艦一隻ニ左ノ通命名セラル 昭和十九年七月一日 海軍大臣 軍艦 信濃(シナノ) 〕</ref>
|進水
|計画 = [[④計画|マル4計画]](戦艦として)<ref name="#1">[[#戦史叢書31海軍軍戦備1]]p.576</ref>
| [[1944年]][[10月8日]]
|発注 = [[1939年]]建造訓令<ref>原勝洋「PART 2|「信濃」の誕生とその最後」[[#歴史群像22信濃]]p.97</ref>
|-
|起工 = [[1940年]][[4月7日]]<ref name="海軍軍備(2)28" /><ref name="軍備(4)13a" /><ref name="#2">[[#海軍造船技術概要]]p.1674</ref><br />もしくは[[5月4日]]<ref name="海軍造船技術概要p295">[[#海軍造船技術概要]]p.295</ref>
|就役
|進水 = [[1944年]][[10月8日]]<ref name="海軍造船技術概要p295" />、もしくは10月6日<ref name="#2"/>、10月5日<ref name="#1"/>
| [[1944年]][[11月19日]]
|竣工 = [[1944年]][[11月19日]]<ref name="海軍造船技術概要p295" /><ref name="海軍軍備(2)28" />
|-
|就役 =
|その後
|除籍 = [[1945年]][[8月31日]]<ref name="海軍公報5175" />
| [[1944年]][[11月29日]]、米潜水艦[[アーチャーフィッシュ (潜水艦)|アーチャーフィッシュ]]の攻撃により沈没
|最後 = [[1944年]][[11月29日]]沈没<ref name="日本航空母艦史p100">[[#日本航空母艦史]]p.100</ref>
|-
|母港 = 横須賀<ref name="S19内令第1154号" />
|除籍
|建造費 = 戦艦時成立予算 130,000,000円<ref name="戦史叢書31海軍軍戦備1pp564-565">[[#戦史叢書31海軍軍戦備1]]pp.564-565の艦種別金額、及びその注</ref><br />実質予算 147,700,000円<ref name="戦史叢書31海軍軍戦備1pp564-565" />
| [[1945年]][[8月31日]]
|要目注記 = <ref name="川崎空母戦歴88">[[#川崎戦歴]]88頁</ref><ref name="幻信濃寸法">[[#安藤 信濃]]11-14頁</ref><ref name="叢書(88)30">[[#戦史叢書海軍戦備(2)]]30-31頁</ref>
|-
|基準排水量 = 62,000[[トン|英トン]]<ref name="叢書(88)30" /><ref name="海軍造船技術概要p296">[[#海軍造船技術概要]]p.296</ref>
!colspan="2" style="background: #f0f0f0"|性能諸元
|公試排水量 = 68,059トン<ref name="海軍造船技術概要p296" /><br />または68,060トン<ref>[[#昭和造船史1]]pp.780-781</ref>、69,100トン<ref name="#3">[[#海軍造船技術概要]]pp.141-142</ref>
|-
|満載排水量 = 71,890トン<ref name="幻信濃寸法" />
| style="white-space:nowrap;" |[[排水量]]
|全長 = 266.0[[メートル|m]](艦首より後部機銃フラット後端まで<ref>[[#歴史群像22信濃]]の特別綴込付録[1]、『「信濃」公式図 艦内側面』</ref>)<ref name="海軍造船技術概要p296" /><ref group="注釈">[[#歴史群像22信濃]]ワイド折り込み[8]の『空母「信濃」船体線図』によると、水線長256.000m、艦首まで6.000m、艦尾まで3.500mで船体の全長は265.500m。船尾楼甲板を含む</ref>
| 基準:62,000 トン<br />公試:68,060 トン<br />満載:71,890 トン
|水線長 = 256.0m<ref name="海軍造船技術概要p296" />
|-
|垂線間長 = 244m<ref name="海軍造船技術概要pp141-142">[[#海軍造船技術概要]]pp.141-142</ref>
|全長
|全幅 = 38.90m(水線下)<ref name="写真日本の軍艦第4巻p92">[[#写真日本の軍艦第4巻]]p.92「改装空母要目一覧」</ref> または38.0m<ref name="日本航空母艦史p100" />
| 266.1 m 飛行甲板長: 256m
|水線幅 = 36.30m<ref name="海軍造船技術概要p296" /><ref group="注釈">阿部安雄(1994)「主要艦艇要目表」[[#日本海軍全艦艇史]]資料篇pp.33,43では水線最大幅38.0mで、阿部安雄(1996)「日本海軍航空母艦・水上機母艦要目表」[[#日本空母物語]]pp441-443では36.30mに訂正している。</ref>または36.9m<ref name="#3"/>
|-
|深さ = 18.915m<ref name="昭和造船史1pp780-781" /><ref name="写真日本の軍艦第4巻p92" /><br />24.81m(飛行甲板側線まで)<ref name="海軍造船技術概要p296" />
|全幅
|吃水 = 10.312m<ref name="海軍造船技術概要p296" /><br />10.3m(T.W.L)、10.4m(1.W.L.)<ref>[[#歴史群像22信濃]]ワイド折り込み[8]の『空母「信濃」船体線図』。「T.W.L.」、「1.W.L.」は基本計画時(船体線図決定時)の公試吃水線と、計画吃水線。</ref>
| 40 m, <br/>水線長:36.3 m
|高さ =
|-
|飛行甲板 = 256.00 x 40.00m<ref name="叢書(88)30" /><ref name="海軍造船技術概要p296" />、または256.000x39.400m<ref>[[#海軍艦艇史3]]p.328「飛行甲板比較表」</ref><ref group="注釈">[[#歴史群像22信濃]]の特別綴込付録[1]、『「信濃」公式図』によると長さ256.000m。一方、同書ワイド折り込み[8]、『空母「信濃」船体線図』の側面線図によると飛行甲板は水線長256.000mより艦尾に2.500m長く、長さ258.500m。幅は同じく正面線図による39.400m。</ref><br />エレベーター2基<ref name="海軍造船技術概要p296" />
|吃水
|推進 = 4軸<ref name="海軍造船技術概要p296" /> x 225[[rpm (単位)|rpm]]、直径5.100m<ref name="海軍造船技術概要p1678">[[#海軍造船技術概要]]p.1678</ref>
| 10 m
|主機 = [[艦本式タービン]](高低圧2組<ref name="昭和造船史1pp780-781">[[#昭和造船史1]]pp.780-781</ref>)4基<ref name="日本航空母艦史p100" />
|-
|出力 = 150,000[[馬力|hp]]<ref name="海軍造船技術概要p296" /><br />または160,000shp<ref name="川崎空母戦歴88" />
|機関
|ボイラー = [[ロ号艦本式缶]](空気余熱器付<ref name="昭和造船史1pp780-781" />)12基<ref name="日本航空母艦史p100" />
| タービン4基4軸, 153,000 HP
|速力 = 27.0[[ノット]](予定)<ref name="叢書(88)30" /><ref name="海軍造船技術概要p296" /> または 27.3ノット<ref name="川崎空母戦歴88" />
|-
|燃料 = 8,900トン(満載)<ref name="海軍造船技術概要p296" /> または 9,000トン<ref name="海軍艦艇史3p331">[[#海軍艦艇史3]]p.331</ref> または7,350トン<ref name="川崎空母戦歴88" />
|最大速
|航続距離 = 10,000[[カイリ]] / 18ノット<ref name="叢書(88)30" /><ref name="海軍造船技術概要p296" />
| 27 [[ノット]]
|乗員 = 2,400名<ref name="海軍造船技術概要p296" /><br />1944年10月1日付定員 2,515人{{Efn|〔 内令員第一九二五號 海軍定員令中左ノ通改正セラル 昭和十九年十月一日 海軍大臣 航空母艦定員表其ノ十三ヲ別表ノ如ク定ム(別表一葉添)』。同画像18、『| 第五十二表ノ十 | (昭和十九年内令員第一九五二號) | 航空母艦定員表其ノ十三 | 信濃 |(詳細、備考略)| 〕<ref name="S19内令員1925">[[#S1909-1912/内令員昭和19年10月(1)]]画像11</ref> 士官88人、特務士官52人、准士官66人、下士官582人、兵1727人。海軍定員令による定員で戦時の臨時増減は含まない。}}
|-
|搭載量 =
|航続距離
|兵装 = 12.7cm連装高角砲8基16門<ref name="叢書(88)30" /><ref name="海軍造船技術概要p296" /><br />25mm3連装機銃 37基<ref name="信濃兵装図">[[#歴史群像22信濃]]ワイド折り込み[4]の『「信濃」兵装図』。</ref>または35基<ref>[[#戦史叢書海軍戦備(2)]]30-31頁、[[#海軍造船技術概要]]p.296</ref><br />同単装機銃40基<ref name="叢書(88)30" /><ref name="海軍造船技術概要p296" /><br />12cm28連装噴進砲12基(後日装備){{Efn|〔 そのほか一二センチ二八連装噴進砲一二基も装備されたといわれるが、一説には噴進砲の装備は呉回航時、松山で搭載する予定であったといわれている 〕<ref>[[#写真日本の軍艦第4巻]]p.89</ref>より。}}
| 10,000 [[海里]](18ノット時)
|装甲 = 飛行甲板 20mmDS+75mmCNC鋼<ref name="海軍艦艇史3p331" /><br />舷側 160-270mmNVNC鋼(傾斜20度)<ref name="海軍艦艇史3p331" /><br />甲板 190mmNVNC鋼<ref name="海軍艦艇史3p331" /><br />軽質油タンク舷側25mmDS鋼2枚、同甲板25mmDS+70mm鋼<ref>原勝洋「PART 2|「信濃」の誕生とその最後」[[#歴史群像22信濃]]p.99</ref>
|-
|搭載艇 =
|乗員
|搭載機 =
|士官、兵員2,400名
|レーダー = [[21号電探]]2基<ref name="日本の航空母艦p294">[[#日本の航空母艦]]p.294</ref><br />[[13号電探]]2基<ref name="日本の航空母艦p294" />
|-
|ソナー =
|兵装
|その他 =
|12.7cm連装高角砲8基16門<br />25mm3連装機銃37基<br />25mm単装機銃40基<br />12cm28連装噴進砲12基
|備考 =
|-
}}
|搭載機
|常用42機、補用5機<br />(総数50機という説も)
|}
'''信濃'''(しなの)は、かつて[[大日本帝国海軍]]に所属した[[航空母艦]]である。建造中の[[大和型戦艦]]三番艦を戦局の変化に伴い、[[戦艦]]から航空母艦に設計変更したものである。艦名は[[令制国|旧国名]]の[[信濃国]]から採られている。[[1944年]]、未完成のまま回航中に米潜水艦の雷撃を受け、一度も実戦に使用されることなく沈没した。


'''信濃'''(しなの)は、[[大日本帝国海軍]]の[[航空母艦]]<ref name="S19達第212号" /><ref name="空母二十九隻332">[[#空母二十九隻]] 332-333頁〔 信濃(しなの) 〕</ref>。艦名は[[令制国|旧国名]]の[[信濃国]]から採られた。[[第二次世界大戦]]に参加した最大の航空母艦であった<ref>{{Cite book|和書|author=Enright, Joseph F. & Ryan, James W. |year=1987|month=3|title=Shinano!: The Sinking of Japan's Secret Supership|publisher=New York: St. Martin's Press|isbn=0-312-00186-X|ref=Enright_Ryan}}</ref>。
[[1961年]]に[[アメリカ海軍]]の[[原子力空母]]である[[エンタープライズ (CVN-65)|エンタープライズ]]が登場するまでは、史上最大の[[排水量]]を持つ空母であった。


== 改装までの経緯 ==
== 概要 ==
軍艦'''信濃'''(しなの)は<ref name="S19達第212号" />、日本海軍が建造した航空母艦{{Efn|name="tht19511022p9"|東京(共同)<ref>{{Cite web|和書|url= https://hojishinbun.hoover.org/en/newspapers/tht19511022-01.1.9 |pages=09|title = 沈没空母「信濃」の調査に乗出す <small>引揚れば時價十數億円</small> |publisher= Hawaii Times, 1951.10.22 |work = Hoji Shinbun Digital Collection | accessdate = 2024-02-11}}</ref> 廿二日發=戰艦大和、武藏の[[:en:Sister_ship|姉妹艦]]で當時世界最大の空母と謂はれた信濃(六五,〇〇〇トン)は太平洋戰爭末期に三重縣志摩半島沖合一一浬の海上で雷撃のため沈没、戰體<!-- 原文まま。船體ではない -->が確認されないため連合軍から未返還のまゝ今日に至つてゐるが東海財務局では目下申請中の沈没調査費が到着次第明春四月ごろから[[海洋サルベージ|優秀なサルベーヂ]]を使ひ本格的調査を開始することになつた、當時の乗組員中若干は救助されてゐるので沈没簡所<!-- 原文まま -->は略確認されており、これが判明次第連合軍に返還を申請、許可があれば拂下を行つて國庫に収める鋼材だけでも五萬トン、それに重油、各種物件を合せると時價十數億圓の價値があるものと見られてゐる(記事おわり)}}。
=== 大和型110号艦 ===
[[④計画]]にもとづき[[横須賀海軍工廠]]で[[1940年]](昭和15年)5月に起工した[[大和型戦艦]]3番艦('''110号艦''')を{{Efn|三.戰艦信濃及紀伊の建造工事中止<ref>[[#海軍軍備(3)]] p.10</ref> ④計畫に基く戰艦信濃及紀伊は夫々横須賀及呉海軍工廠に於て起工(紀伊は予定より六ヶ月繰上げ)し二重底迄の船殻工事を終つた時期に主として甲鈑の製造遅延の為一時建造工事を中止するに至つたが後日開戰後の軍備戰備計畫の大改變に基き信濃は航空母艦として再現せしめ得たが紀伊は遂に解体することとなつたものである。}}、[[ミッドウェー海戦]]以降の戦局の変化に伴い<ref name="海軍軍備(4)14" />、[[戦艦]]から航空母艦に設計変更した[[改造空母]]である<ref name="高松宮7巻p558" />{{Efn|呉工廠の一一一號艦は一一〇號艦に比し約半年遅れて起工しているので解体可能(所要工數數千)とされたので遂に昭和十七年初に工事中止が確定された。斯くて兩艦共進水の偉容さえ観ることなく、次項に述べるミツドウエー海戰の結果もあり、一一〇號艦は航空母艦として再出發、一一一號艦は解体することに決定された<ref name="軍備(4)13b">[[#海軍軍備(4)]]p.13</ref>。}}。
第四次補充計画の中で大和型戦艦建造番号110号艦と[[111号艦]]の計2隻の建造が決定された。この2隻は、先に建造された[[大和 (戦艦)|大和]]と[[武蔵 (戦艦)|武蔵]]の不具合を改善するなど、より完成度の高い艦として建造されることとなった。


[[1944年]](昭和19年)[[11月19日]]、航空母艦として竣工<ref name="叢書一〇二257">[[#叢書102|戦史叢書102巻]] 257頁「昭和19年(1944年)10月8日〔88-311・318〕」</ref>。[[11月28日]]、空襲を避けるため未完成<ref name="海軍航空部隊編制42信濃" />のまま横須賀から呉へ[[回航]]される{{Efn|(中略)<ref>{{Cite web|和書|url= https://hojishinbun.hoover.org/en/newspapers/hst19490110-01.1.2 |pages=02|title = 日本海軍の最後 <small>「初めて知られる太平洋戰の秘密誌」</small> ミツドウエー嶋の悲劇(三)<small>田代喜久夫</small> |publisher= Hawai Sutā, 1949.01.10 |work = Hoji Shinbun Digital Collection | accessdate = 2024-02-11}}</ref> 本州沿岸での
110号艦は、[[横須賀海軍工廠]]第六船渠で建造されることとなり、まず[[ドック]]の拡張工事が行われ<ref>武蔵のように陸上の船台によって建造する手法を選ばずに巨大な乾ドックを新たに作る事に決めたのは、大和型の超大型艦が合計4隻も建造される予定に対して、将来的に発生するであろう修理・改造工事に使用可能なのが呉にある1つのドックだけでは順番待ちなどの恐れが生じることや、横須賀も呉に並ぶ海軍の重要拠点としたいという意向があったためである。</ref>、6年の歳月と約1,700万円(当時)の費用をかけて全長336メートル、<!--前幅48.5メートル・深さ13.4メートル-->全幅62メートル、深さ18メートルのドックが完成した。この時に排出した土砂は、隣接していた海軍砲術学校の海岸埋め立てに使用され、広いグラウンドとなった。{{和暦|1940}}[[5月4日]]、ドックの完成と同時に110号艦の起工式が行われたが、この時のお祓いも、機密保持のために工事に関係しない本職の神主を呼ぶのではなく、工廠の関係者から神主の資格を持つ工員の組長1人をようやく探し出して行ったという<ref name="空母入門">佐藤和正著、『空母入門』、光人社、1997年10月10日発行、ISBN 4769821743</ref><ref>安藤日出男『幻の空母信濃』 第2章 超弩級戦艦一一〇誕生への胎動 p31</ref>。
沈没艦艇中、空母'''信濃'''に戰艦[[陸奥 (戦艦)|陸奥]]の最後が不可解である。/ 陸奥が沈んだのは昭和十八年六月の八日の白晝である。當時呉に假泊中であつた陸奥は突然、轟然たる大音響とゝもに、火災を天に注し<!-- 原文まま -->、瞬時にして沈んだ。未だに原因不明であるが、過酷なる制裁に耐へかねた下級水兵の腹イセの仕業と言ふ説が流布された。/ 信濃は十九年の十一月廿九日の夜半に名古屋の沖で沈んだ。横須賀で竣工以來わずか一週間足らず、日本最短命の軍艦である。信濃は大和、武藏等の巨艦と同一の艦形で建造中途から空母に改造名實共に、世界最大の空母だつた。戰爭末期に誕生したこの巨艦は、呉に廻港<!-- 原文まま -->中、米潜水艦の魚雷攻撃を受け、たつた一發の命で沈み去つた。乗員が職工であつたゝめ防水戸を閉めなかつたことが、その原因だといわれる(以下略)(註:実際に命中した魚雷は4本)}}。
第十七駆逐隊([[磯風 (陽炎型駆逐艦)|磯風]]、[[浜風 (陽炎型駆逐艦)|浜風]]、[[雪風 (駆逐艦)|雪風]])に護衛されて航行中の[[11月29日]]午前3時20分{{Efn|〔11-29〕<ref name="S1911経過下41">[[#S19.11.16~11.30経過概要|経過概要(昭和19年11月下)]] p.41</ref>〔 信濃 17dg(磯風 浜風 雪風)護衛 横須賀→呉/0320潮岬ノ110°75′ニ於テ(潜水艦)(魚雷)四本右舷中部ニ命中 11ktニテ紀伊水道ニ向フ/0700航行不能 1035頃 潮岬ノ111°55′ニテ転覆沈没、救助(准士官以上55 下士官兵1025) 〕}}、[[紀伊半島]][[潮岬]]沖合で[[アメリカ海軍]]の[[潜水艦]]「[[アーチャーフィッシュ (潜水艦)|アーチャーフィッシュ]]」より[[魚雷]]攻撃を受ける<ref>[[#潜水艦戦争]] 393頁〔『信濃』の最期 〕</ref>。魚雷4本が命中<ref name="S1911経過下41" />、浸水が止まらず、午前10時50分頃に転覆して沈没した<ref name="第17駆29" />。竣工から沈没まで艦命は僅か10日間であった<ref name="空母二十九隻332" />。


=== 建造中断 ===
== 艦歴 ==
=== 建造 ===
{{和暦|1945}}初頭の完成を目指し工事が進められている途中、[[太平洋戦争]]が勃発した。開戦当初の[[真珠湾攻撃]]と[[マレー沖海戦]]の結果、多数の[[航空機]]による攻撃に対しては戦艦も脆弱であるのが明らかとなったことや、戦時急造艦の建造などで資材に余裕が無くなったため、111号艦(紀伊)は建造が中止されて、即時解体([[伊勢 (戦艦)|伊勢]]、[[日向 (戦艦)|日向]]の[[航空戦艦]]化の資材として一部使用)となり、ある程度船体ができていた110号艦(信濃)はドックから出せる程度まで工事が進められたものの、その後の予定が取り消しとなった<ref name="空母入門"/>。その後は建造資材を損傷艦に廻されるなどして、工事も延び(一説には停滞)となってしまい、錆びたままドックに放置される状態になった。
==== 大和型戦艦 ====
[[第一次世界大戦]]後締結された[[ワシントン海軍軍縮条約]]及び[[ロンドン海軍軍縮会議|ロンドン海軍軍縮条約]]で海軍力を制限された日本海軍は、国力・経済力で圧倒的優位に立つアメリカに対し量を質で凌駕するという発想から、46cm砲を搭載した[[大和型戦艦]]を計画する。条約明けの[[1937年]](昭和12年)、第1号艦[[大和 (戦艦)|大和]]・第2号艦[[武蔵 (戦艦)|武蔵]]・第5号艦[[日進 (水上機母艦)|日進]]等は第70回帝国議会に提出された[[③計画|第三次海軍軍備補充計画(③計画)]]により予算が承認され、建造が始まった。


翌年、日本海軍は[[④計画|第四次海軍軍備充実計画(④計画)]]を立ち上げ、艦齢30年が経過した[[金剛型戦艦]]3番艦[[榛名 (戦艦)|榛名]]、4番艦[[霧島 (戦艦)|霧島]]の代艦として大和型戦艦建造番号'''第110号艦'''、[[111号艦|第111号艦]]、計2隻の建造を決定した。この2隻は、先に建造された第1号艦(大和)、第2号艦(武蔵)の不具合を改善し、より完成度の高い戦艦となるはずだった<ref>[[#猛き艨艟]]325頁</ref><ref name="庭田54">[[#庭田、建艦秘話]] 54-55頁〔 2.第百十一号艦について 〕</ref>{{Efn|〔 (艦種)<ref>[[#海軍軍備(2)]]p.25</ref> 戰艦|單艦屯數(基準排水量)六四,〇〇〇|(隻數)二|(合計屯數)一二八,〇〇〇|(速力)二七.〇|(航續力)一六-七,二〇〇|(主要兵装)四十六糎砲 九/十五.五糎砲 一二/十糎高角砲 一二/飛行機 六|(備考)一隻は建造中止解体 一隻は空母に改造となる 〕}}。
=== 航空母艦への変更 ===
[[ミッドウェー海戦]]の結果、保有[[正規空母]]の2/3に当たる4隻を失った海軍は、[[戦時設計|戦時急造]]空母の建造を決定すると共に、戦艦として設計されて船体部分までが建造されたまま放置されていた110号艦を、空母へ設計変更して急ぎ完成させることが決定された<ref>横須賀の乾ドックに建造途中のまま置かれていた110号艦は、空母への設計変更が決まった時点では、艦前方の弾火薬庫の床の取り付けが完了し、船体中央は中甲板レベルの隔壁の組立中であって、艦尾は弾火薬庫の床が完成してその上の構造物に取り掛かった状態であった。</ref><ref name="空母入門"/>。


{{main|横須賀海軍施設ドック}}
110号艦の航空母艦への設計変更と改造にあたっては、艦政本部長の岩村清一中将より「本艦の空母としての性能は従来の空母を一変せしめ、洋上の移動航空基地たらしめる。すなわち原則として飛行機格納庫を備えず、従って固有の攻爆撃機を搭載しない。本艦は最前線に進出し、後方の空母より発艦した飛行機は本艦に着艦し、燃料、弾薬、または魚雷を急速に補給して進発する。しかして巨大な飛行甲板に充分な甲鈑防御をほどこし、敵の空襲下にあくまで洋上の基地として任務を達成する。しかし自艦防衛上、直衛機(戦闘機)のみは搭載し、この分の格納庫だけは設ける」<!--戦艦としての防御力を持つ船体に重防御を施した[[飛行甲板]]を装備して不沈空母化し、格納庫も搭載機も持たない」-->という案が示された。<!--よく「このコンセプトは[[大鳳 (空母)|大鳳]]の延長である」との意見があるが、大鳳があくまで「既存の空母の弱点である飛行甲板の防御」という構想から建造されたのに対し、-->この初期案ではあくまで「洋上の航空基地」であることを第一として考えられている。また、ミッドウェー海戦での「航空母艦は被弾損傷に脆弱である」という戦訓から、爆弾を満載した攻撃機や爆撃機を艦内に満載しないという発想でもある。
[[File:Verny drydock in Yokosuka.jpg|thumb|right|220px|第110号艦(信濃)を建造した横須賀海軍施設六号ドック]]


第110号艦は[[横須賀海軍工廠]]に[[横須賀海軍施設ドック#6号ドックと空母信濃|第六船渠]]を新造し、そこで建造されることが決まった<ref>[[#安藤 信濃]]33頁、[[#歴史群像22信濃]]97頁</ref>。大和型戦艦の排水量は7万トンを超える。このクラスの超大型艦が合計4隻も建造される予定に対して、将来的に発生するであろう修理・改造工事に使用可能なのが呉にある1つの[[乾ドック|船渠]](ドライドック)だけでは順番待ちなどの恐れが生じることや、横須賀を呉に並ぶ海軍の重要拠点としたいという意向があったため、姉妹艦の武蔵(長崎、三菱重工)のように船台での建造を選ばず、大和型戦艦用の第6船渠を新たに作る事になった<ref name="#4">[[#歴史群像22信濃]]96頁</ref><ref name="野元航母158">[[#野元、航母(2013)]]158-160頁「三四〇メートルの大ドック」</ref>。当時の横須賀最大のドックは、[[長門型戦艦]]「[[陸奥 (戦艦)|陸奥]]」が建造中に入渠した第5船渠だった<ref>海軍艦艇史1pp.364-367</ref>。2年3ヶ月の期間と約1,700万円(当時)の費用をかけて全長336m、全幅62m、深さ18mのドックが完成した<ref>[[#安藤 信濃]]29頁、[[#歴史群像22信濃]]78,96頁</ref>。この時に排出した土砂は、隣接していた海軍砲術学校の海岸埋め立てに使用され<ref>[[#田中2017、横鎮]]68頁</ref>、広いグラウンドとなった。
しかしこの初期案は、軍令部や航空本部側からの反発を招き、2ヶ月近い議論の末にこの艦政本部による初期案は放棄された。結局は、大鳳の着想と結果としてはほとんど似たものとなり、つまり、万が一敵からの攻撃をある程度受けても戦艦構造や強固な飛行甲板によって継戦能力を失わずに、仮に他の空母が攻撃を受けて航空機の母艦としての能力を失っても、それらの空母に所属していた航空機を受け入れることで、艦隊としての航空戦闘能力を保持し続ける、というものであった。この構想は、自ら搭載・運用する直衛機に加えて攻撃用の航空機を搭載し、さらに他の空母の航空機用の燃料や爆弾、魚雷までも用意しておくというものであった。


[[復員庁|第二復員局]]がまとめた資料では、110号艦の起工日は[[1940年]](昭和15年)[[4月7日]]となっている<ref name="海軍軍備(2)28">[[#海軍軍備(2)]] p.28〔 <ins>④計画艦艇工事経過</ins> 戰艦|110号 〕</ref><ref name="軍備(4)13a">[[#海軍軍備(4)]] p.13〔 一一〇號艦は予定通り昭和十五年四月七日、一一一號艦は予定を半年繰上げ同年十一月七日起工され、大和型の第三、第四番大戰艦の工事がスタートした 〕</ref>。
全面的に変更された空母用の最終的な設計は、この構想を実現するために、装甲飛行甲板と航空機用格納庫に加えて、燃料庫や弾火薬庫が拡充されることになり、1942年(昭和17年)11月に空母「信濃」の設計が決定された。船体規模に比べて搭載機数が少ないが補給品類の搭載量が増された通常型の航空母艦として、建造が{{和暦|1942}}6月から再開された<ref name="空母入門"/>。


[[5月4日]]、ドックの完成と同時に第110号艦の起工式が行われる<ref>[[#牧野ノート]]195頁、[[#安藤 信濃]]16-17頁、保科実雄(主任技師)談。</ref>。第110号艦自体の予算は約1億4770万円(当時)で、国会議事堂(2570万円)が6つ建設できる計算となる<ref>[[#安藤 信濃]]16-17頁、[[#歴史群像22信濃]]96頁</ref>。この時のお祓いも機密保持を考慮し、外部から本職の神主を呼ぶのではなく、工廠の関係者の中から神主の資格を持っていた足場組長の大須賀種次が選ばれ、大役が任された<ref name="空母入門">佐藤和正『空母入門』</ref><ref>[[#安藤 信濃]]31頁「超弩級戦艦一一〇誕生への胎動」</ref>。大和、武蔵が予算計上時は一号艦、二号艦と呼ばれていたことから、本艦にも三号艦の俗称があった<ref>[[#諏訪 撃沈]]13-14頁</ref>。また工員達の間では第110号艦を略して「110」と呼ばれていた<ref>[[#歴史群像22信濃]]160頁、神谷武久(学徒報国隊・信濃工員)談。</ref>。
== 特徴 ==
=== 飛行甲板 ===
飛行甲板には75mmNVNC甲板を装着した。装甲部分は長さ約210m、幅約29mと下部の格納庫と同じ範囲に施された。また[[装甲]]部分の前後に設けられた航空機用[[エレベーター]]にも飛行甲板と同じく75mmNVNC甲板が装着され、重量は前部昇降機(寸法15m×14m)が180t、後部昇降機(寸法13m×13m)は110tに達した。後部昇降機は第3主砲塔の位置に、前部昇降機は第1主砲塔の位置に設置された。


第110号艦は[[1943年]](昭和18年)10月進水、[[1944年]](昭和19年)4月主砲積込み、[[1945年]](昭和20年)3月末の完成を目指し工事が進められていた<ref>[[#猛き艨艟]]329頁</ref>。だが、艦底防御の計画変更などにより建造工程は遅れ気味であった<ref name="叢書(88)29">[[#戦史叢書海軍戦備(2)]]29頁</ref>。建造中、アメリカとの開戦が決定的となった。
=== 格納庫 ===
格納庫は一層しか持っていないが、建造が再開された当時の110号艦は、艦中央部では既に中甲板付近まで工事が進んでいて、多層の格納庫をその上に積み上げると背が高くなるが、それでなくとも飛行甲板の全面に厚い装甲板を用いるので船体が不安定となり、復元力の確保のためには上部構造物を軽くするか低くする必要があったため、一層となった<ref>搭載機数が大幅に少ない事に関しては他にも、大鳳と同様に[[烈風]]や[[流星艦上攻撃機|流星]]などの大型化した新鋭機の搭載を最初から想定していたためという説もある。</ref>。


[[1941年]](昭和16年)11月、戦艦を含めた艦艇建造計画の見直しが行われ、潜水艦と航空機の生産優先が決定し、大型艦の建造が中止となる<ref>[[#川崎戦歴]]87頁、[[#安藤 信濃]]59頁</ref>。[[111号艦|第111号艦]]はミッドウェー海戦後に正式に建造中止となり即時解体<ref name="叢書(88)24">[[#戦史叢書海軍戦備(2)]] 24-25頁〔 既定軍戦備計画の修正 〕</ref><ref name="軍備(4)13b" />。後日、資材や艦体の一部は[[伊勢型戦艦]]2隻<!--([[伊勢 (戦艦)|伊勢]]、[[日向 (戦艦)|日向]])-->の[[航空戦艦]]化<ref name="#5">[[#歴史群像22信濃]]79頁</ref>、ドイツ客船シャルンホルスト(空母「[[神鷹 (空母)|神鷹]]」)の空母改造工事に利用された<ref>[[#護衛空母入門]]145頁</ref>。甲鉄のうち製造済みのものは横須賀に運ばれ、110号艦にも利用されたという<ref>[[#庭田、建艦秘話]]55頁(庭田は海軍技術中将。111号艦担当)</ref>。
日本空母のほとんどが密閉式[[ハンガー (航空)|格納庫]]であったのに対して、本艦では攻撃機搭載用の前部約125mは開放式で、戦闘機搭載用の後部約83mだけが厚さ25mmの防護用特殊鋼鈑を使った側壁による密閉式という形態となっていた<ref>夜間の灯火管制時にも開放式前部で機体整備が行えるように、開放部には帆布製の遮光幕を張ってから内部で電気照明を点灯するようになっていた。</ref>。前部が開放式なのは、攻撃を受け火災が発生した際、そこから[[爆弾]]や[[魚雷]]を投棄するためとされる<ref name="空母入門"/>。ただし、開放式格納庫の開放部分は、長さ10m以上に及ぶ開口部が片舷1ヵ所ずつのみとなっている。


開戦時([[12月8日]])の第110号艦は、船体工事は前後部が弾薬庫床部分まで、中央部は下甲板附近まで、全体としては下部構造の工事進行中だったという<ref name="叢書(88)29" />。そこで「本艦は戦艦としての工事を中止し、浮揚出渠せさるに必要な工事のみを進め、なるべく速やかに出渠(しゅっきょ)せしむべし」として船体のみを建造し、ドックを中型空母建造や損傷艦修理のために開けるよう命じられる<ref>[[#川崎戦歴]]87頁、[[#安藤 信濃]]60頁、[[#牧野ノート]]196頁</ref>。1942年(昭和17年)10月の船体完成を目指すが、建造資材を損傷艦に廻されたり、工員の士気も下がるなどして、工事は停滞状態となった<ref>[[#豊田 信濃生涯]]77頁、[[#歴史群像22信濃]]79頁</ref>。連合艦隊参謀長[[宇垣纏]]少将の陣中日誌[[戦藻録]]には、4月23日に杉浦軍令部第三課長と[[神重徳]]軍令部一課部員が連合艦隊司令部を訪れ、「戦艦建造を『第三号艦』迄とし、其余力を空母建造に集中するを可とす」とした他、[[B65型大型巡洋艦|超甲巡]]の建造見送り、潜水艦と航空機の増産などが話し合われたと記されている<ref>[[#戦藻録(九版)]]108頁</ref>。
=== 搭載機 ===
固有の航空機には、新鋭の「烈風」「流星」「彩雲」の搭載が検討・予定されていた。航空本部の計画案では「烈風」24機(補用1機)、「流星」17機(補用1機)、「彩雲」7機(補用0機)とされていた。ただし「烈風」は艦上戦闘機として不採用となったため「紫電改」の艦戦型に変更される予定だったという。また、本艦の爆弾・魚雷・航空燃料の搭載予定量は、翔鶴型や大鳳、雲龍型よりも少なく「中継基地空母」としての運用は考慮されていない。<ref>『<small>歴史群像シリーズ</small> 日本の航空母艦パーフェクトガイド』(学習研究社、2003年)P109「信濃の搭載機」</ref>。


=== 船体防護 ===
==== 空母化 ====
1942年(昭和17年)春、アメリカが[[両洋艦隊法]]により大型航空母艦多数を建造しているという情報を得た日本軍は、[[改⑤計画]]で[[改大鳳型航空母艦]]や[[雲龍型航空母艦|改飛龍型航空母艦]]など、空母の保有数を増やすことを検討していた<ref name="川崎空母戦歴87">[[#川崎戦歴]]87頁</ref>。
本艦は、当初、大和型戦艦として建造されていたため、元々、空母としては十分すぎる防御設計が施されていた。空母としての再設計時における防護性能では、舷側水線防御は射距離1万メートルから放たれる20cm砲弾に耐えることや、水平防御では高度4000メートルから投下される800Kg爆弾に耐えること。また、飛行甲板は500Kg爆弾の急降下爆撃に耐えうるものとされた<ref>当初の案では、飛行甲板は800Kg爆弾の[[急降下爆撃]]に耐えることとなっていたが、甲板の重量増加と製造能力の関係から、500Kg爆弾を用いた急降下爆撃に耐えうるものへと変更された。</ref>。これらの要求を満たすため、格納庫天井に20mmDS鋼板と14mmDS鋼板を張り合わせられた。


4月18日、空母[[ホーネット (CV-8)|ホーネット]]から発進した[[B-25 (航空機)|B-25爆撃機]]16機が日本を空襲した([[ドーリットル空襲]])<ref>[[#叢書102|戦史叢書102巻]]116頁「昭和17年(1942年)4月18日 米機動部隊、日本本土初空襲」</ref>。横須賀にも1機が飛来し、第110号艦の近くで空母に改造中だった潜水母艦[[大鯨 (潜水母艦)|大鯨]](後の空母[[龍鳳 (空母)|龍鳳]])に爆弾1発が命中した<ref>[[#戦史叢書29北東方面]]179頁</ref><ref name="幻信濃73">[[#安藤 信濃]]73-74頁</ref>。第110号艦に被害はなく、またアメリカ軍機にも発見されなかった<ref name="幻信濃73" />。
大和型戦艦から空母へと設計変更されたことに伴い、水線上の舷側装甲が410ミリから200ミリへと装甲が減らされ、対巡洋艦程度の装甲となった。主砲弾薬庫は、そのまま空母の高角砲弾・機銃弾・爆弾・魚雷庫へと転用され、航空機用燃料庫には、通常使用される25ミリに111号艦の弾薬庫の底部装甲を貼り合わせ、航空機用ガソリンが艦内に漏れ出したために沈没した大鳳の戦訓から、後に周囲の区画には[[コンクリート]]を充填した。


このドーリットル空襲は6月上旬に実施予定であった[[ミッドウェー島]][[MI作戦|攻略作戦]]にも影響を与えたが<ref>[[#戦史叢書29北東方面]] 196-197頁〔 四ドゥリットル空襲の影響 〕</ref>、作戦中に発生した[[ミッドウェー海戦]]で日本軍は、[[正規空母|主力空母]]4隻<!--([[赤城 (空母)|赤城]]、[[加賀 (空母)|加賀]]、[[蒼龍 (空母)|蒼龍]]、[[飛龍 (空母)|飛龍]])-->を失った<ref>[[#叢書102|戦史叢書102巻]]124頁『昭和17年(1942年)6月5日 ミッドウェー海戦(大敗し主力空母4隻・全飛行機喪失、大巡1隻喪失、攻略不成功敗退等)』</ref><ref>[[#海軍軍備(4)]] p.14〔 一.經緯並びに實行計畫 〕</ref>。
艦底は、磁気[[機雷]]や艦艇起爆魚雷への対策として、大和型戦艦の二重底から三重底へと強化されている。また[[バルジ]]の一部にもコンクリートを注入した。<!-- しかし、このコンクリートの粉末が、甲板上の[[マスト]]や昇降機に悪影響を及ぼしたともされている。<ref>『歴史群像太平洋戦史シリーズ 空母大鳳・信濃』{{疑問点}}</ref> -->


日本海軍は空母機動部隊を再建すべく、[[戦時設計|戦時急造]]空母([[大鷹型航空母艦|商船改造空母]]、[[雲龍型航空母艦]]、[[改大鳳型航空母艦]]等)の急造を計画<ref>[[#戦史叢書海軍戦備(2)]] 16頁〔 航空母艦緊急増勢 〕</ref>、6月30日に海軍大臣の即時決裁をうけ建造を決定・開始する<ref>[[#叢書102|戦史叢書102巻]]128頁『昭和17年(1942年)6月30日〔43-626、88-16〕』</ref>{{Efn|官房機密第八一〇七號 昭和十七年六月三十日決裁 航空母艦増勢實行ニ關スル件仰裁<ref name="海軍軍備(4)14">[[#海軍軍備(4)]] pp.14-15</ref> 首題ノ件ニ關シテハ省部間研究ノ結果意見一致セルヲ以テ左記方針ニ依リ直ニ其ノ實行ニ着手シ極力整備促進ヲ圖ルコトニ取計可然哉 追テ軍令部ヨリノ商議手續ハ他ノ艦種ニ關スルモノト共ニ別途處理スルコトト致度 記 一.昭和十七年度ニ於テ改装完了ノコトニ豫定シアル左ノ三隻ハ出來得ル限リ速ニ之ヲ完成ス [[飛鷹 (空母)|飛鷹]]、[[龍鳳 (空母)|大鯨]]、[[冲鷹 (空母)|新田丸]]/二.昭和十八年度ニ於テハ左ノ五隻ヲ航空母艦ニ改装スルモノトシ極力其ノ工事ヲ促進ス [[あるぜんちな丸|アルゼンチナ丸]]、[[神鷹 (空母)|シャルンホルスト號]]、[[千歳 (空母)|千歳]]、[[千代田 (空母)|千代田]]、[[ぶらじる丸|ブラジル丸]](朱書)ブラジル丸ニ對シテハ驅逐艦用機關ノ換装使用ニ關シ研究ノ上成ルベク其ノ實現ヲ圖ルモノトス/三.第一一〇號艦ハ概ネ昭和十九年十二月末完成ヲ目途トシ航空母艦ニ改装スルモノトシ尚出來得ル限リ工事ヲ促進ス/四.飛龍型及第一三〇號艦型建造計畫(飛龍型ハ第三〇二號艦ヲ加ヘ十四隻、第一三〇號艦型ハ同型ヲ加ヘ六隻ノ豫定、別紙及別表参照)中建造中ノモノハ極力工事ヲ促進、直ニ建造又ハ建造準備着手ヲ要スルモノハ速ニ之ニ着手シ極力其ノ工事ヲ促進ス/五.航空母艦艤装ニ關シテハ完成期ヲ遅延セシメザル範圍ニ於テ戰訓ニ基ク改善事項ヲ實施シ又出來得ル限リ艤装簡單化ニ關シ研究實行ス|(朱書)(イ)艤装簡單化及戰訓取入ニ關シテハ別途研究ス/(ロ)航空機運搬艦的ノ簡易ナル航空母艦ノ建造(商船改造)及[[浅間丸]][[秩父丸|級]][[龍田丸|三隻]]ノ改装問題(驅逐艦用機關使用)ニ關シテハ別途研究スルコトトス(別紙、別表添)(終)}}。
=== 艦橋 ===
艦橋は右舷中央部に大型の島型艦橋が設置された。艦橋の後部は煙突であり、外側に傾斜した上方排出の煙突となっていた。[[二式二号電波探信儀一型|二一号電探]]と通信マストも配備された。


その一環として横須賀第6ドックから第110号艦をどかし、中型空母「飛龍」を改修した[[雲龍型航空母艦]](17,500トン)2隻を同時建造する意向を示した<ref name="幻信濃98">[[#安藤 信濃]]98頁</ref>。しかし2年をかけて船体進行率70%という状態まで形状が出来ていた第110号艦の解体はそれだけでも大事業となり、横須賀工廠の現場からは机上の空論とみなされている<ref name="幻信濃98" />。だが大和型戦艦の象徴でもある46cm砲を呉工廠から横須賀工廠へ運搬するために必要な[[重量物運搬船|専用輸送船]]「[[樫野 (給兵艦)|樫野]]」が9月4日に米潜水艦[[グロウラー (潜水艦)|グロウラー]]に撃沈され、第110号艦を大和型戦艦として建造することも難しくなっていた<ref name="#5"/><ref name="福井補助274">[[#日本補助艦艇物語]]274-275頁『樫野の経歴』</ref>。仮に第110号艦(信濃)を大和型戦艦として完成させる場合、46cm主砲塔を細かく分解して特務艦「[[知床 (給油艦)|知床]]」(戦艦砲塔運搬可能)で輸送するか、第110号艦(信濃)を横須賀から呉に回航して主砲塔搭載工事を行わねばならなかった<ref name="福井補助274" />。
=== 速力 ===
改装時にはすでに大和型戦艦としての基礎ができあがっていたため、速力もそのままの27ノットの予定であった。正規空母としては低速であり、当時5tを超えていた[[艦上攻撃機]][[流星艦上攻撃機|流星]]の発艦に不安がある可能性を指摘する意見もある。しかし、20ノット程度の航行状態<ref>横須賀を出港した時点では、信濃の擬装は未完であり、[[ボイラー]]もまだ完動状態になかった。このため、本来の全速力よりも遅い状態である。</ref>でも4t近い[[紫電改]]<ref>元々は艦上戦闘機ではないが、[[烈風]]の開発の遅れから、同じ2,000hp級で既に実績のある紫電改を艦載機化する計画があり、試験が行われていた。詳細は[[紫電改#派生型|当該項目(紫電四一型の記述)]]を参照。</ref>の離発着テストでは支障なく、操縦者も飛行甲板が大きいので離発着は良好とコメントを残している。


ここに至り日本海軍は大和型戦艦・第110号艦を[[航空母艦]]へ設計変更し、1944年(昭和19年)12月末を目指し空母として就役させることを決定する<ref name="海軍軍備(4)14" /><ref>[[#戦史叢書海軍戦備(2)]]28頁</ref>。第110号艦は、タービン機械、ボイラー9基、艦前方の弾火薬庫の床の取り付けが完了し、船体中央は中甲板レベルの隔壁の組立中、艦尾は弾火薬庫の床が完成して、その上の構造物に取り掛かった状態であった<ref>[[#牧野ノート]]196頁、[[#安藤 信濃]]98頁</ref>。
== 完成まで ==
=== 二転三転する竣工時期 ===
建造が再開されたのは1942年(昭和17年)9月、竣工は1945年(昭和20年)2月末の予定とされた。ところが、[[ガダルカナル島の戦い|ガダルカナル島をめぐる戦い]]から多数の艦艇を喪失し、さらにその後も敗走などにより損失艦が続出した。


第110号艦の空母改装に当たっては「航空母艦艤装に関しては完成期を遅延せしめざる範囲に於いて、戦訓に基づく改善事項を実施し、また出来得る限り艤装簡単化に関し研究実行す」と[[軍令部]]・[[艦政本部]]の空母急速増産計画には記載されている<ref>[[#安藤 信濃]]100頁</ref>。1942年7月16日、軍令部次長が海軍次官に宛てた「第110号艦(改装)主用要目に関する件協議」では、排水量や速力の他、以下の項目を記載している<ref>[[#川崎戦歴]]87頁、[[#安藤 信濃]]114頁、[[#牧野ノート]]199頁</ref>。
{{和暦|1943}}3月「損傷艦の修理、[[松型駆逐艦]]及び[[潜水艦]]の建造」を最優先とし、同年8月、110号艦の建造は再度中断されることとなる。ところが不思議なことに、竣工時期は1945年(昭和20年)1月と1ヶ月以上早められている。


*主用兵装搭載機は艦戦36、艦攻18、艦偵9。但し格納庫は艦戦18に対する分を完備し、艦攻18以上なるべく多数の応急格納し支障なからしめ、その余は甲板繋止めとす。
しかし、その3ヶ月後に発生した[[マリアナ沖海戦]]で、[[翔鶴 (空母)|翔鶴]]・[[大鳳 (空母)|大鳳]]・[[飛鷹 (空母)|飛鷹]]と三隻を失う敗北をし、その後進攻してくるアメリカ軍に対抗するために110号艦が必要との意見があがり、同年7月、{{和暦|1944}}[[10月15日]]までに竣工させよとの命令が下ると共に、「軍艦信濃の本籍を[[横須賀鎮守府]]とする」との発令が下ることとなる。
*飛行甲板防御は500kg爆弾の急降下爆撃に対し安全ならしむ。但し後部飛行機格納庫は800kg急降下爆撃に対し安全ならしむ。
*舷側防御:第130号艦に準ず(第130号艦は[[大鳳 (空母)|大鳳]]のこと。同艦は巡洋艦20cm砲弾防御)。
*爆弾、魚雷、航空燃料の搭載量は第130号艦程度とし、飛行機に対する補給を急速容易に実施可能ならしむ。


第110号艦の航空母艦への設計変更と改造にあたっては、艦政本部、軍令部(航空関係者)、航空本部員の間に、基本構想と意見の食い違いがあった<ref>[[#猛き艨艟]]330頁、[[#幻の航空母艦]]258頁</ref>。
=== 進水式まで ===
ただでさえ建造予定が遅れているにもかかわらず、初期の竣工時期より5ヶ月近く短縮した上に、熟練工を[[兵役]]で取られ、その不足を補うために民間造船所の工員や[[海軍工機学校]]の生徒のみならず、畑違いともいえる他の学部の生徒(中には女子工員もいたといわれる)も動員されることとなる。「信濃の完成が日本を救うこととなる」との思いがお互いに良い刺激となり、作業は順調に進んだという美談として扱われる事もあるが、実際の仕上がりはつぎはぎだらけだったとされる。


[[艦政本部]]長の[[岩村清一]]中将より「本艦の空母としての性能は従来の空母を一変せしめ、洋上の移動航空基地たらしめる。すなわち原則として飛行機格納庫を備えず、従って固有の[[艦上攻撃機]]・[[艦上爆撃機]]を搭載しない。本艦は最前線に進出し、後方の空母より発艦した飛行機は本艦に着艦し、燃料、[[弾薬]]、または[[魚雷]]を急速に補給して進発する。しかして巨大な[[飛行甲板]]に充分な甲鈑防御をほどこし、敵の空襲下にあくまで洋上の基地として任務を達成する。しかし自艦防衛上、直衛機(戦闘機)のみは搭載し、この分の格納庫だけは設ける」という案が示された<ref>[[#安藤 信濃]]113頁、[[#牧野ノート]]198頁</ref><ref name="叢書(88)29" />。「戦艦としての防御力を持つ船体に重防御を施した飛行甲板を装備して[[不沈空母]]化し、格納庫も搭載機も持たない」との意見さえあったとする主張もある<ref>[[#豊田 信濃生涯]]90頁、[[#牧野ノート]]198頁</ref>。
工事の簡略化のため、兵装や艦内装備は最小限にとどめ、艦内の水密試験も最低限(一説では省略)しか行われなかったとされ、気密試験については行われなかった。信濃は同海軍工廠で建造された最後の艦艇であり、文字どおり同海軍工廠に残る全ての資材が投入された。


[[大鳳 (空母)|大鳳型航空母艦]]があくまで『既存の空母の弱点である飛行甲板の防御』という構想から建造されたのに対し<ref>[[#川崎戦歴]]41頁</ref>、この初期案ではあくまで『洋上の航空基地』であることを第一として考えられている。また、[[ミッドウェー海戦]]での「航空母艦は被弾損傷に脆弱である」という戦訓から、爆弾や魚雷を装備した攻撃機や爆撃機を艦内に搭載しないという発想でもある<ref>[[#川崎戦歴]]47頁</ref>。
過労や事故により10名以上の死者を出しながら[[10月5日]]工事終了。そして、午前8時30分頃よりドックに注水することとなる。


しかしこの初期案は軍令部や航空本部側からの反発を招いた<ref name="叢書(88)29" />。[[神重徳]](軍令部参謀)は[[アウトレンジ戦法]]に強く反対し、第110号艦を攻撃用空母とするよう強く主張している<ref>[[#豊田 信濃生涯]]91頁</ref>。結局、「万が一敵からの攻撃をある程度受けても戦艦構造や強固な飛行甲板によって継戦能力を失わない。仮に他の空母が攻撃を受けて航空機の母艦としての能力を失っても、それらの空母に所属していた航空機を受け入れることで、艦隊としての航空戦闘能力を保持し続け」、搭載・運用する直衛機に加えて攻撃用の航空機を搭載し、さらに他の空母の航空機用の燃料や爆弾、魚雷までも用意しておくという大鳳型の着想と似たものとなった<ref name="牧野ノート198">[[#牧野ノート]]198頁</ref>。
=== 不幸に見舞われた進水式 ===
予定では、ドックに半注水し艦を浮揚、その段階で艦のバランス等を確認することとなっていたが、その作業中、突然ドックの扉船が外れ、外洋の[[海水]]がなだれ込むこととなった。これは扉船のおもりとしてバラストタンクへ海水を注水しなければならないのに、それを忘れるという人為的ミスであった。


全面的に変更された空母用の最終的な設計は、この構想を実現するために、装甲飛行甲板と航空機用格納庫に加えて、燃料庫や弾火薬庫が拡充されることになった。1942年(昭和17年)7月末、空母への設計変更が決定し、1ヶ月で基本計画完了、9月早々海軍大臣に報告がおこなわれた<ref name="牧野ノート199">[[#牧野ノート]]199頁</ref>。艦政本部の基本設計が終わったのは11月、横須賀工廠で詳細設計を進め、工事再開は1943年初頭となった<ref name="牧野ノート205">[[#牧野ノート]]205頁</ref>。
この海水の奔流にのって信濃は前後に動きだし、その結果、艦を固定するロープが切れて左舷をこすりつけながら艦首の[[バルバス・バウ]]がドックの壁面に何度も繰り返し激突するという信じられない事態が発生。甲板上にいた技術士官等が海上に放り出され、バルバス・バウ内の水中[[ソナー]]も破損してしまった。すぐに調査が行われ、ここでも実に単純なミスが発覚した。本来、信濃のバラストタンクへも海水を入れなければならないのに、これが全く注水されていないという人為的ミスであった<ref>佐藤和正著 光人社 空母入門 悪霊にとりつかれた「信濃」 p228より</ref>。作業ミスといってしまえばそれまでだが、性急すぎる工期短縮が招いた結果ともいえる<ref>安藤日出男『幻の空母信濃』 第7章 兇運を暗示した進水式 p167~p172</ref>。


第110号艦(信濃)の建造が再開されたのは[[1942年]](昭和17年)9月、竣工は[[1945年]](昭和20年)2月末の予定だった<ref name="歴群22信濃83">[[#歴史群像22信濃]]83頁</ref>。ところが、日本海軍は[[ガダルカナル島の戦い|ガダルカナル島をめぐる戦い]]から多数の艦艇を喪失し、損失艦が続出した。
このアクシデントにより再びドックに戻され修理されることとなるが(111号艦の資材を一部使用)、竣工は一月遅れて[[11月19日]]となってしまい、その間に海軍最後の艦隊戦である[[レイテ沖海戦]](捷一号作戦)が起こり、連合艦隊は壊滅状態となる。しかし仮にレイテ沖海戦に参戦できていても信濃に乗せる航空機はすでになかったのが現実である([[雲龍 (空母)|雲龍]]なども完成したが載せる航空機がなかったので輸送船として使用された)。また横浜を出航した時点でも本艦は未完成なこと甚だしく、参戦どころか訓練への参加も到底無理な状態であった。


[[1943年]](昭和18年)3月25日、[[嶋田繁太郎]]軍令部総長は各工廠に「損傷艦の修理を優先し、新造艦は[[松型駆逐艦]]及び[[潜水艦]]に限定せよ」と通達<ref name="歴群22信濃83" />。同年8月、「第110号艦」の建造は再度中断されることとなる<ref>[[#田中2017、横鎮]]188-190頁「信濃」</ref>。その上、横須賀工廠は[[雲龍型航空母艦]]1番艦([[雲龍 (空母)|雲龍]])<ref>[[#田中2017、横鎮]]187-188頁『雲龍』</ref>、[[阿賀野型軽巡洋艦|軽巡]]([[能代 (軽巡洋艦)|能代]])<ref>[[#田中2017、横鎮]]186-187頁「能代」</ref>、[[松型駆逐艦]]<ref>[[#田中2017、横鎮]]190-191頁「駆逐艦「松」型・「橘」型」</ref>、[[丙型海防艦]]<ref>[[#田中2017、横鎮]]192-193頁「海防艦第二号型(丁型)」</ref>の建造や艤装工事、水上機母艦[[千歳型水上機母艦|千代田]]を[[千歳型航空母艦|軽空母]]に改造する作業、空母[[翔鶴 (空母)|翔鶴]]修理作業([[南太平洋海戦]]で大破)、空母[[飛鷹 (空母)|飛鷹]]修理作業(昭和18年6月、潜水艦雷撃で大破)、軽巡洋艦「[[大淀 (軽巡洋艦)|大淀]]」や重巡「[[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]]」等各種艦艇の修理整備作業を抱えており<ref name="艨艟332">[[#猛き艨艟]] 332-336頁〔 思わぬ進水時の事故 〕</ref>、工員4,000人を増員しても手一杯であった<ref name="幻信濃119">[[#安藤 信濃]]119頁</ref>。不思議なことに、竣工時期は1945年(昭和20年)1月と1ヶ月以上早められている<ref name="歴群22信濃83" />。
== 最期 ==
=== 呉への回航 ===
東京湾内での航空公試で[[横須賀航空隊]]により局地戦闘機紫電改を艦上型に改造した機体や流星、[[彩雲 (航空機)|彩雲]]等による発着艦実験が行われ、成功を収めている。これが信濃で航空機が発着艦を行った唯一の事例であった。それらの結果から、紫電改や流星・彩雲などの洋上基地として活用を期待され、[[11月28日]]、残された艤装や兵装の搭載の実施と、横須賀地区の空襲から逃れるため、[[呉海軍工廠]]へ回航すべく出港することとなる<ref>横須賀海軍工廠の上空を[[B-29 (航空機)|B-29]]が飛行しており、近日中に空襲があることが予測されていた。事実米軍の航空写真にも信濃は撮影されていたのが判明している。</ref>。


1943年(昭和18年)6月24日、[[昭和天皇]]は横須賀沖に停泊中の戦艦「[[武蔵 (戦艦)|武蔵]]」(当時、[[連合艦隊]]旗艦)に行幸する<ref>[[#武藏上]]146-148頁</ref><ref>[[#叢書102|戦史叢書102巻]]183頁『昭和18年(1943年)6月24日〔62-346〕』</ref>。これに先立ち、[[高松宮宣仁親王]](天皇弟宮、海軍大佐)が110号艦を視察している<ref>[[#高松宮日記6巻]] 382-383頁〔 六月二十四日(木)晴 快晴、珍シク晴レワタル。〇八二二新橋発横ヘ。110号艦ヲ見テ一〇一〇逸見発「武蔵」ヘ。行幸ヲ御迎ヘス(以下略) 〕</ref>。
信濃の内部では建造工事が続けられており、[[高角砲]]、機銃はほとんど搭載されておらず、機関も12基ある缶(ボイラー)の内8基しか完成しておらず、前述した出せる速力も20ノットという状態であった。


1944年(昭和19年)6月19日から20日にかけて発生した[[マリアナ沖海戦]]において、日本海軍は大敗北を喫した<ref>[[#叢書102|戦史叢書102巻]]237-238頁「昭和19年(1944年)6月19日 マリアナ沖海戦(~20日、聯合艦隊敗退)」</ref>。主力空母3隻([[翔鶴 (空母)|翔鶴]]、[[大鳳 (空母)|大鳳]]、[[飛鷹 (空母)|飛鷹]])を一挙に失ったのである。特に第110号艦(信濃)の原型となった大鳳喪失は関係者に衝撃を与えた<ref>[[#安藤 信濃]]121頁、[[#相良 信濃]]102頁</ref>。その後、進攻してくるアメリカ軍に対抗するために110号艦(信濃)が必要との意見があがった<ref>[[#豊田 信濃生涯]]114頁、[[#歴史群像22信濃]]83頁</ref><ref name="艨艟332" />。
呉海軍工廠へ回航に際して、航空機は搭載されなかったが、代わりに[[特攻兵器|特攻機]]の[[桜花 (航空機)|桜花]]を貨物として搭載した。沿岸部ルートと外洋ルートが検討されたが、「夜明け前に出航外洋航海」の進路を取った。護衛の駆逐艦は第17駆逐隊の[[磯風 (陽炎型駆逐艦)|磯風]]、[[浜風 (陽炎型駆逐艦)|浜風]]、[[雪風 (駆逐艦)|雪風]]の三隻<ref>この戦隊は、捷一号作戦からの帰投時、浦風とともに日本への回航時に戦艦[[金剛 (戦艦)|金剛]]を護衛していたが、警戒航行の之字運動(ジグザク航行)をしていたにもかかわらず金剛と浦風を潜水艦に沈められている。</ref>だったが、既に海軍艦艇の水中捜索能力より敵艦の静寂能力が上回る状態であり、また、連日の作業による艦乗員の疲労や練度不足により見張りも完全とはいえなかった。


7月1日附達212号をもって第110号艦は'''軍艦 信濃'''と命名され<ref name="S19達第212号" /><ref name="叢書(88)30" />、航空母艦として登録される(以後、110号艦は信濃と表記)<ref name="S19内令第804号">[[#内令昭和19年7月]]p.3「内令第八〇四號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十九年七月一日 海軍大臣|軍艦、航空母艦ノ部中雲龍型ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ|| |信濃|」</ref>。同時に「[[1944年]](昭和19年)[[10月15日]]までに竣工させよ」との命令が下る<ref name="叢書(88)30" />。また「一度戦闘に参加し得るに必要なる設備のみ取りあえず完成せしめ、その他は帰港の上工事」と定められた<ref name="叢書(88)30" />。『海軍造船技術概要』によれば、軍令部が横須賀海軍工廠長に命じた内容は以下の項目である<ref>[[#安藤 信濃]]129頁「徹底的に簡略化し突貫工事」</ref><ref name="叢書(88)30" />。
=== アーチャーフィッシュの攻撃 ===
東京湾を出てまもなく、米[[ガトー級潜水艦]][[アーチャーフィッシュ (潜水艦)|アーチャーフィッシュ]](USS Archerfish, SS-311)に発見される。発見当初、アーチャーフィッシュでは信濃の甲板上に飛行機の姿を確認できなかったことなどから艦種を特定しかねており、[[タンカー]]ではないかとも考えていた。しかし、どうあれ非常に大型の船であったことから、攻撃のために追尾することを決めた。信濃は全速の20ノットで航行しており、攻撃は困難であったが数時間に渡る追従の結果、之字運動の関係で信濃が突如転進し、皮肉にも好発射点につくことができた。[[11月29日]]午前3時13分、[[浜名湖]]南方176kmにてアーチャーフィッシュは魚雷を発射した。日本側は雷撃を受けるまでアーチャーフィッシュの存在を確認できなかった。


#居住設備は士官より兵員に至るまで簡素にして最小限のものとする。
発射された魚雷は6発。3本ずつ角度をずらせて発射された。これは最初の3発の破孔に次の魚雷が飛び込むことを期待したと、アーチャーフィッシュの艦長は手記に記載している。また魚雷は大型艦を転覆させるために、命中深度を通常より浅く設定して発射された。命中した魚雷は4発。命中深度を浅く設定された魚雷は、信濃のコンクリートが充填されたバルジより浅い部分に命中した。[[海上護衛隊#第三海上護衛隊|第三海上護衛隊]]司令部で被害無線を傍受。命中後も信濃は速力を落とさず20ノットで現場から退避したため、アーチャーフィッシュは引き続き追撃を行うことは出来なかった。随伴駆逐艦から爆雷も投下されたが、あてずっぽうの投下でアーチャーフィッシュにとって脅威にはならなかった。
#事務倉庫以外の倉庫設備も極力簡単にする。
#戦闘時の火災を防ぐため、木材部分を極力少なくする。
#防毒区画の気密試験を省略する。
#中甲板以上の区画の気密試験を省略する。
#造機、造兵関係工事もできるだけ後回しとする。
#工期目標、10月5日進水。10月8日、命名式後沖繋留。10月15日、竣工。
#周辺県の造船所から工員を借り受け、海軍工作学校からの応援も受ける。


建造予定が遅れているにもかかわらず、大鳳喪失を補うためにも初期の竣工時期より5ヶ月近く短縮された<ref>[[#相良 信濃]]</ref>。熟練工を[[兵役]]で取られ、その不足を補うために民間造船所の工員や[[海軍工機学校]]の生徒のみならず、畑違いともいえる他の学部の生徒を学徒勤労報国隊で集め、朝鮮人工員や台湾人工員、[[女子挺身隊]]も狩り出された<ref>[[#安藤 信濃]]147頁「劣悪な作業環境下の重労働」</ref>。「110号(信濃)の完成が日本を救うこととなる」「信濃がなければ、戦争に負ける」等の決意が作業を促進したという指摘もある<ref name="空母二十九隻231">[[#空母二十九隻]]231-233頁「マンモス空母信濃の性能」</ref><ref name="空母二十九隻240">[[#空母二十九隻]]240-241頁「力の限界点での建造工事」</ref>。
=== 沈没 ===
信濃は未だ建造中だったため、通路にはケーブル類が多数放置されており、防水ハッチを閉めることができないなど、防水作業に支障があった。また閉めることが出来た防水ハッチも、隙間から空気が漏れてくる有様だった。注排水指揮所からの指令によって反対側への注水作業は実行され、少なくとも3000トンの注水は実行された。信濃はただちに陸地に向かうことはせず、とりあえず大阪(神戸?)を目指すこととなったが、浸水が留まるところを知らず次第に傾斜が増大。復水器が使用できなくなりボイラー用の真水が欠乏したため、洋上で機関停止するに至った。海水を使用してボイラーを炊くことも検討されたが、一度海水を使うと補修に多大な手間がかかることより見送られた。駆逐艦による曳航も検討されたが、信濃の7万トンの巨体に対して3隻の駆逐艦では如何ともし難く、また折からの波浪もあり断念せざるを得なかった<ref>『雪風ハ沈マズ』等では磯風と浜風が曳航策を渡したが千切れてしまったと伝えられている。反面、『世界奇跡の駆逐艦 雪風』では、「作業の当事者」を自称する人物が、以上の記述は全くのフィクションであり、浜風、磯風が信濃の両舷に接舷しこれを支え、雪風が一隻で曳航すると言う、明らかに「無謀な作戦」であり、曳航策を受け渡しする前に作業は放棄されたとしている(p.371 -)。</ref>。


だが大和型戦艦2番艦[[武蔵 (戦艦)|武蔵]]で19ヶ月かかった艤装を3ヶ月で強行した仕上がりには問題があった<ref>[[#安藤 信濃]]149頁、神谷武久(学徒報国隊員、二等海佐)</ref>。海軍省関係の性能審議委員会の参加者であった[[牧野茂 (軍人)|牧野茂]] (海軍技術大佐、大和型戦艦設計者)は、信濃/第110号艦の居住区には調度品が一切なく殺風景で、気密試験は続行中、まるで「鉄の棺桶」だったと述べている<ref>[[#安藤 信濃]]181頁</ref>。このように工事の簡略化のため、兵装や艦内装備は最小限にとどめ、艦内の水密試験も最低限(一説では省略)しか行われなかった<ref>[[#牧野ノート]]205頁、[[#相良 信濃]]51頁</ref>。その一方で、大鳳喪失の教訓から航空燃料タンク周辺にコンクリートを流し込む作業は行われた<ref name="幻信濃131">[[#安藤 信濃]]131頁</ref>。信濃は横須賀海軍工廠で建造された最後の艦艇であり、文字どおり工廠の総力をもって作業が進められた<ref name="空母二十九隻240" />。
ここに至り初めて事の重大性を認識した艦長であったが、時既に遅く、被雷してから7時間もの時間があったにもかかわらず、名古屋への退避や乗員の駆逐艦への移乗、救援の要請はされなかった。同日午前10時57分(55分説あり)、[[潮岬]]沖南東48kmの地点で信濃は転覆し、艦尾から沈没した。信濃の艦歴は、世界の海軍史上最も短いものとなった。アーチャーフィッシュは遠方で大きな音がするのを聴取している。攻撃そのものでは、殆ど死傷者を出さなかったにもかかわらず、多数の1300名以上の乗員が水死することとなった。阿部俊雄艦長も信濃と運命を共にした。


== 沈没点 ==
=== 進水式 ===
[[ファイル:Abe Toshio.jpg|代替文=|サムネイル|278x278ピクセル|信濃艦長の[[阿部俊雄]]大佐]]
大まかな沈没点は確認されているが、現場が6000 - 7000メートルの深海のため信濃の船体は未だ発見されていない。沈没時には[[雲龍 (空母)|雲龍]]のように搭載した特攻兵器は誘爆せず、[[大和 (戦艦)|大和]]や[[武蔵 (戦艦)|武蔵]]のような爆発もなかったので、もし信濃が発見されれば、比較的原型を留めた状態で大和型の船体を見られる可能性がある。
信濃は過労や事故により10名以上の殉職者を出しながら軍艦として形を整えた。軍需省航空兵器総局総務局長[[大西瀧治郎]]中将は、110号艦(信濃)を[[タンカー|油槽船]]に改造し、[[スマトラ島]]より燃料を運ぶ計画を立てていた<ref>[[#戦士の肖像]]197-199頁「大西中将の「特攻の真意」」</ref>。


[[8月15日]]、日本海軍は[[阿部俊雄]]大佐(軽巡洋艦[[大淀 (軽巡洋艦)|大淀]]艦長)を、信濃艤装委員長に任命する<ref name="辞令1567">{{アジア歴史資料センター|C13072100600|昭和19年8月18日(発令8月15日付)海軍辞令公報(甲)第1567号 p.13}}</ref>。
== 沈没の原因 ==
建造の練度不足のため十分な防水作業も出来ず、艦搭乗員も内部に精通したものが皆無で、被弾後に対しても艦内は突然の事態に混乱し、右往左往するばかりで、満足に応急処置すら行えない状況であった。


[[8月17日]]、横須賀海軍工廠に信濃艤装員事務所を設置{{Efn|○事務開始<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070496300|昭和19年8月25日 秘海軍公報 第4780号 p.8}}</ref> 呂號第五十五潜水艦艤装員事務所ヲ八月十九日岡山縣玉野市三井造船株式會社玉野造船所内ニ設置シ事務ヲ開始セリ/第三百三十三設営隊事務所ヲ舞鶴市宇公文名舞鶴海軍施設第一設営班内ニ設置シ事務ヲ開始セリ/驅逐艦[[榧 (松型駆逐艦)|榧]]艤装員事務所ヲ八月十五日舞鶴海軍工廠内ニ設置シ事務ヲ開始セリ/信濃艤装員事務所ヲ八月十七日横須賀海軍工廠内小海桟橋前ニ設置シ事務ヲ開始セリ/伊號第三百六十九潜水艦艤装員事務所ヲ八月二十日横須賀海軍工廠内ニ設置シ事務ヲ開始セリ }}。
また傾斜によって注排水弁が海中から上がってしまい、追加の注水が出来なかったのではという推論もなされている(反対意見あり)。突貫工事による影響で、ねじ山が根元まで切られていない[[ボルト (部品)|ボルト]]や2cmも隙間の空く防水ハッチなど、竣工とは名ばかりの未完成艦であり、艦長の判断以前に魚雷命中の時点で沈没が確定されていたといってよい惨状だった。<ref>当時、[[海上護衛総司令部]][[参謀]]を務めていた[[大井篤]][[大佐]]は「火の用心はあまりしないで、消防夫が悪いから丸焼けにされたとうらみを言っているように聞こえて仕様がなかった。根本的には航海計画が悪かったのだ。」と述べている(学研M文庫『海上護衛戦』357頁)。</ref>


[[10月1日]]、阿部艤装員長は正式に信濃艦長となる<ref name="辞令1612">{{アジア歴史資料センター|C13072101400|昭和19年10月6日(発令10月1日付)海軍辞令公報(甲)第1612号 p.28}}</ref>。
== アーチャーフィッシュの功績 ==
アーチャーフィッシュの乗員は、非常に大きな空母を攻撃したことは認識していたが、撃沈の確信を持つことは出来なかった。また米軍はB-29からの偵察写真に信濃が写っていたのにもかかわらず、当時信濃の存在を把握しておらず、アーチャーフィッシュの報告も半信半疑の扱いであった。


同日附で[[第一航空戦隊]](司令官[[古村啓蔵]]少将)が新設される<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072101400|昭和19年10月6日(発令10月1日付)海軍辞令公報(甲)第1612号 p.27}}</ref><ref>{{アジア歴史資料センター|C12070502900|昭和19年10月4日 海軍公報第4817号 p.15}}〔 ○事務開始 第一航空戰隊司令部ハ十月一日開隊松山航空基地ニ於テ事務ヲ開始セリ 〕-〔 ○殘務整理 第三航空戰隊司令部殘務整理ハ第一航空戰隊司令部ニ於テ之ヲ行フ 〕</ref>{{Efn|○書類(除兵備品)引継ニ關スル件<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070503000|昭和19年10月13日 海軍公報第4825号 p.29}}</ref> 本日附第三航空戰隊司令部ハ解散シ第一航空戰隊司令部新設セラレタル所従来第三航空戰隊司令部ニ配布又ハ貸與シアル首題物件ハ總テ當部ニ引継受領セシニ付了承相成度(第一航空戰隊司令部)}}。当時は雲龍型空母3隻([[雲龍 (空母)|雲龍]]、[[天城 (空母)|天城]]、[[葛城 (空母)|葛城]])という戦力だった<ref>[[#海軍航空部隊編制]] pp.39-40〔 GF|1KdB|(×)3F|天城、雲龍、◎葛城|各0 〕</ref>。
当時世界最大の空母を撃沈したと知るのは、戦後のことである。信濃撃沈の功績に対して、殊勲部隊章がアーチャーフィッシュに与えられた。信濃は潜水艦が撃沈した最も巨大な船である。


[[10月5日]]、信濃艤装員事務所を撤去{{Efn|○事務所撤去<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070497400|昭和19年10月16日 秘海軍公報 第4828号 p.47}}</ref> 第三十九號海防艦艤装員事務所ハ九月二十七日之ヲ撤去セリ/驅逐艦[[檜_(松型駆逐艦)|檜]]艤装員事務所ハ九月三十日之ヲ撤去セリ/焼津航空基地(假称)設立準備員事務ハ十月一日之ヲ撤去セリ/信濃艤装員事務所ハ十月五日之ヲ撤去セリ/[[伊号第三百六十九潜水艦|伊號第三百六十九潜水艦]]艤装員事務所ハ十月九日之ヲ撤去セリ }}。
{{main|アーチャーフィッシュ (潜水艦)}}


同日午前8時から8時30分頃、ドックに注水を開始<ref>[[#豊田 信濃生涯]]122頁、[[#安藤 信濃]]168頁</ref>。予定では、ドックに半注水し艦を浮揚、その段階で艦のバランス等を確認・調整することになっていた<ref name="艨艟332" />。その作業中、注水予定10mのところ推定8mまで達したところで突然ドックの[[扉船]]が外れ、外洋の[[海水]]が流れ込んだ<ref>[[#豊田 信濃生涯]]136頁。沢本倫生(中尉、甲板士官)</ref><ref name="空母二十九隻241">[[#空母二十九隻]] 241-242頁〔 宿命の艦の不吉な前兆 〕</ref>。この海水の奔流に乗って艦体は前後に動きだし、艦を固定する100本以上のワイヤーロープと50本の麻ロープが切れた<ref>[[#豊田 信濃生涯]]137頁</ref><ref name="空母二十九隻241" />。これにより甲板上にいた技術士官等が海上に放り出されると同時に、艦首の[[バルバス・バウ]]がドックの壁面に何度も繰り返し激突する事態が生じ、バルバス・バウと内部の水中[[ソナー]]、プロペラ翼端が破損した<ref>[[#豊田 信濃生涯]]138頁、[[#歴史群像22信濃]]100頁</ref>。
== その他 ==

* 信濃に搭載される予定だった主砲塔前楯は戦後アメリカ軍が技術調査で押収してアメリカ本土に持ち帰った。主砲前面の厚さ65センチの装甲板は至近距離から発射された40センチ砲によって破壊され、その残骸が[[ワシントン海軍工廠]]の公園に展示されており、現在も見学することができる。日本より返還要求があったが拒否された<ref name="yamato2">『<small>歴史群像太平洋戦史シーリズ20</small> 大和型戦艦2 <small>最新の模型・考証・資料で今甦る超超弩級艦の実相</small>』([[学研ホールディングス|学習研究社]]、1998年) ISBN 4-05-601919-3 原勝洋「米海軍の16インチ徹甲弾で射抜かれた戦艦「信濃」?の主砲塔前楯」 p103~p108、また多賀一史「ワシントン海軍工廠の大和型砲楯前鈑」 p140~p142
調査の結果、単純なミスが発覚した。扉船内部のバラストタンクへおもりとして海水を注水しなければならない筈が、それを忘れるという人為的ミスであった<ref>[[#豊田 信濃生涯]]141頁、[[#安藤 信濃]]171頁、[[#歴史群像22信濃]]100頁</ref>。バラストタンクへも海水を入れなければならないのに、全く注水されていないという人為的ミスという異説もある<ref>佐藤和正「空母入門」228頁「悪霊にとりつかれた『信濃』」</ref>。作業ミスではあるが、性急すぎる工期短縮が招いた結果ともいえる<ref>[[#安藤 信濃]]167-172頁「第7章 兇運を暗示した進水式」</ref>。10月6日命名式の予定は延期(軍艦籍登録のみ10月6日付)<ref>[[#高松宮日記7巻]] 605頁〔 6日「信濃」命名式ノ予定ノ処、門扉ノ操作ヲ誤リ損傷シ延期。〕</ref><ref>{{アジア歴史資料センター|C12070497400|昭和19年10月11日 秘海軍公報 第4823号 p.23}}〔 内令第一一五四號 軍艦 信濃 右本籍ヲ横須賀鎮守府ト定メラル 昭和十九年十月六日 海軍大臣 〕</ref>。
<br/>

[http://www.ships-net.co.jp/detl/201002z/ 世界の艦船 2010年2月号増刊 「戦艦大和 100のトリビア」 (出版共同社)]
[[10月8日]]に命名式は行われ<ref name="叢書一〇二257" />、昭和天皇の代理として[[米内光政]]海軍大臣が式場に臨席した<ref>[[#豊田 信濃生涯]]144頁、[[#安藤 信濃]]176頁</ref>。[[皇族]]の派遣はなかった<ref name="高松宮7巻p558">[[#高松宮日記7巻]] 558頁〔 十月六日(金)荒天準備、雨(略)〔予定約束〕〇八一五「信濃」(戦艦改造空母)命名式。皇族御差遣ナシ。海軍大臣来レル由 〕</ref>。命名式では阿部艦長が「未完成の空母・信濃」と発言しようとしたという<ref name="完本太平洋戦争下185">[[#完本太平洋戦争下]]185頁</ref>。ここに「信濃」は正式に[[横須賀鎮守府]]籍と定められた<ref name="S19内令第1154号">[[#秘海軍公報昭和19年10月(2)]] p.23〔 内令第一一五四號 <strong>軍艦 信濃</strong> 右本籍ヲ横須賀鎮守府ト定メラル|昭和十九年十月六日 海軍大臣 〕</ref>。起工以来約4年5ヶ月が経過していた<ref name="艨艟332" />。
[http://www.ships-net.co.jp/detl/201002z/140-141.pdf p140~p141 「第6章 戦後譚 91 アメリカに残る大和型の装甲鈑」 (PDFファイル)]

その後は再びドックに戻され、[[111号艦|第111号艦]]の資材を一部使用して修理が行われた<ref>[[#相良 信濃]]22頁</ref>。修理は10月23日に終わり、ドックを出て沖合いに繋留された<ref>[[#豊田 信濃生涯]]190頁</ref>。だが竣工は1ヶ月遅れた[[11月19日]]となる<ref name="叢書(88)30" /><ref>[[#海軍軍備(4)]] p.17〔 新艦|信濃(一一〇號艦)|(予定完成期)一九.一二.末|(竣工年月日)一九.一一.一九 〕</ref>。その間、日本海軍最後の大規模艦隊戦である[[レイテ沖海戦]](捷一号作戦)が起こり、連合艦隊は壊滅状態となる<ref>[[#叢書102|戦史叢書102巻]]260-261頁『昭和19年(1944年)10月23日 フィリピン沖海戦(~26日)』</ref>。

しかし仮にレイテ沖海戦に参戦できていても、本艦に乗せる航空機はすでになかった。実際、健在だった第四航空戦隊([[龍鳳 (空母)|龍鳳]]、[[隼鷹 (空母)|隼鷹]])は搭載機がなく、海戦に投入されなかった。横須賀で建造された空母[[雲龍 (空母)|雲龍]]も同様であり、[[特攻兵器]]「[[桜花 (航空機)|桜花]]」の輸送船として使用され、潜水艦の雷撃で沈没した<ref>[[#叢書102|戦史叢書102巻]]272頁『昭和19年(1944年)12月19日〔48-554、93-95〕』</ref>。第111号艦の資材を流用して[[航空戦艦]]に改造された[[伊勢型戦艦|戦艦]]2隻([[伊勢 (戦艦)|伊勢]]、[[日向 (戦艦)|日向]])も搭載する航空機がなく、通常の戦艦としてレイテ沖海戦に参加した。

同年11月、信濃は航空公試で各種艦載機の離着艦実験を行った。戦況の悪化から[[東京湾]]外での実験は危険として湾内で実施、横浜本牧沖から千葉市の沖に向かい、その間に着艦実験をすることになったが、信濃が速いのですぐに千葉沖に達してしまい、何回も往復することになった<ref name="#6">小福田晧文『指揮官空戦記』光人社NF文庫336頁</ref>。11月11日には[[零式艦上戦闘機|零戦]]や[[天山 (航空機)|天山艦上攻撃機]]などの在来機<ref>碇義朗『最後の戦闘機紫電改』(光人社、1994)227頁</ref><ref name="幻信濃179">[[#安藤 信濃]]179-180</ref>、11月12日には[[横須賀航空隊]]により[[要撃機|局地戦闘機]]・[[紫電改]]を艦上型に改造した「試製紫電改二(N1K3-A)」や[[流星 (航空機)|流星]]、[[彩雲 (航空機)|彩雲]]等による発着艦実験が実施され、いずれも成功を収めている<ref name="幻信濃179" /><ref name="母艦航空隊326" />。ただし監督していた川西航空機の[[菊原静男]]技師は、信濃乗組員の技量や動作に不安の念を覚えている<ref name="母艦航空隊326" />。これが本艦で航空機が発着艦を行った唯一の事例であった。11月15日、[[志賀淑雄]]少佐は信濃飛行長に任命される<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072102000|昭和19年11月18日(発令11月15日付)海軍辞令公報(甲)第1646号 p.11}}</ref>。

=== 呉回航 ===
==== 会敵前 ====
1944年(昭和19年)[[11月19日]]<ref name="叢書一〇二257" />、公試運転を経て性能審議委員会の承認をうけ、海軍に引き渡される<ref name="艨艟332" />。[[第一航空戦隊]]に編入<ref name="幻航空母艦266">[[#幻の航空母艦]]266頁</ref><ref name="海軍航空部隊編制42信濃">[[#海軍航空部隊編制]] p.42〔 ◎信濃(1sfへ 11/19 (×)(沈 11/29 〕</ref>。この時点で、同隊は本艦をふくめて空母6隻となった<ref>[[#海軍航空部隊編制]] p.41〔 19-12-1|GF|附属|1sf|(×)[[雲龍 (空母)|雲龍]] [[葛城 (空母)|葛城]] [[隼鷹 (空母)|隼鷹]] [[天城 (空母)|天城]] (×)信濃 [[龍鳳 (空母)|龍鳳]]|各0 〕</ref>。

11月24日、連合艦隊司令長官[[豊田副武]]大将はGF電令550号にて「『信濃』及び第十七駆逐隊は、『信濃』艦長之を指揮し横須賀発、機宜、内海西部に回航すべし」と命じた<ref>[[#猛き艨艟]]336頁、[[#安藤 信濃]]189頁</ref>{{Efn|(昭和19年11月)<ref>[[#S1911二水戦日誌(1)]] p.23</ref> 二十四日一二二五(長官)GF 二十四日一九一五信濃(司令官)2sd 17dg(長官2F)|聯合艦隊電令第五五〇號 信濃第十七駆逐隊ハ信濃艦長之ヲ指揮シ機宜横須賀發内海西部ニ回航スベシ 内海西部着後第十七駆逐隊ニ對スル信濃艦長ノ指揮ヲ解ク }}
。残された艤装や兵装搭載の実施と、横須賀地区の空襲から逃れるための[[呉海軍工廠]]への回航命令である<ref>[[#空母二十九隻]]244-245頁『悪魔の精につかれた信濃』</ref>。これは横須賀海軍工廠の上空を[[B-29 (航空機)|F-13]](B-29の偵察型)が飛行しており、近日中に空襲があることが予測されていたことも関係している<ref>[[#豊田 信濃生涯]]143,191頁、[[#安藤 信濃]]189頁</ref>。アメリカ軍が撮影した航空写真にも信濃の姿が映っていた(下記参照)<ref>[[#豊田 信濃生涯]]33頁、[[#幻の航空母艦]]265頁。B29撮影写真(信濃の写真)。</ref>。ただし、アメリカ軍は大和の推測データや武蔵の沈没情報は持っていても、信濃については把握していなかった<ref>[[#豊田 信濃生涯]]192頁、[[#エンライト 信濃!]]52、97-98頁</ref>。

本艦の呉回航を後押しした原因はもう一つ存在した。徴用工の多用による横須賀工廠の技術力低下を懸念した日本海軍は、呉海軍工廠で艤装工事を行うことを検討していた<ref name="前間大和上432">前間『戦艦大和誕生』上巻432-433頁</ref>。海軍の打診に対し[[大和型戦艦]]の造船主任である[[西島亮二]]海軍技術大佐は、「信濃の残工事(艤装)は引き受ける」と意欲的だったため、海軍は呉回航を決定したという<ref name="前間大和上432" />。のちに西島大佐は自らの発言を後悔する念を述べている<ref name="前間大和上432" />。この時点に於いても、信濃内部では建造工事が続けられており、[[高角砲]]、噴射砲、機銃はほとんど搭載されていなかった<ref name="完本太平洋戦争下185" />。機関も12基ある缶(ボイラー)の内8基しか完成しておらず、最大発揮速力も20-21ノット程度という状態であった<ref>[[#豊田 信濃生涯]]198-199頁、[[#歴史群像22信濃]]100頁</ref>。便乗した工員数は、信濃通信長によれば約1000名である<ref name="野元航母185" />。

呉海軍工廠へ回航に際して航空機は搭載されず、信濃飛行長[[志賀淑雄]]少佐も横須賀で待機することになった<ref name="母艦航空隊328" />。しかし、甲板士官の沢本倫生によれば、艦上爆撃機(機種不明)を3機搭載しており<ref>[[#武藏下]]426頁</ref>、呉で最後の艤装を終えた後は、桜花を台湾へ輸送する予定だったという<ref name="完本太平洋戦争下185" />。この他に、桜花を50機、貨物として搭載していたという説や<ref>文藝春秋 編『人間爆弾と呼ばれて 証言・桜花特攻』([[文藝春秋]]、2005年)337頁</ref>、[[震洋]]数隻を搭載したという説もある<ref>[[#豊田 信濃生涯]]211頁、[[#安藤 信濃]]186頁</ref>。これについて「信濃の出撃が特攻にならなければいいが」という冗談が出たとする証言もある<ref>[[#豊田 信濃生涯]]212頁</ref>。

信濃を護衛する[[駆逐艦]]は第十七駆逐隊の[[陽炎型駆逐艦]]3隻([[浜風 (陽炎型駆逐艦)|浜風]](司令駆逐艦)、[[磯風 (陽炎型駆逐艦)|磯風]]、[[雪風 (駆逐艦)|雪風]])だったが、既に海軍艦艇の水中捜索能力よりアメリカ軍潜水艦の静寂能力が上回る状態であった。また、第十七駆逐隊は[[レイテ沖海戦]]以来まとまった上陸や休養もなく、艦乗員の疲労や練度不足により、見張りも完全とはいえなかった<ref>[[#豊田 信濃生涯]]214頁、[[#雪風ハ沈マズ新装]]388頁</ref>。艦自体も、2隻(磯風、浜風)はレイテ沖海戦の損傷で水中探査機が使えず、特に浜風は海戦で被弾し、28ノット以上を出せない状態だった<ref>[[#豊田 信濃生涯]]27頁、[[#安藤 信濃]]189頁</ref>。さらに第十七駆逐隊は、捷一号作戦から日本への帰投時に護衛していた戦艦[[金剛 (戦艦)|金剛]]および同駆逐隊司令駆逐艦[[浦風 (陽炎型駆逐艦)|浦風]]を米潜水艦[[シーライオン (SS-315)|シーライオン]](''USS Sealion, SS-315'')の雷撃で沈められ<ref>[[#叢書102|戦史叢書102巻]]266頁『昭和19年(1944年)11月15日 聯合艦隊、第1遊撃部隊主力の内地回航を下令(16日ブルネイ発、23日内海西部着、21日戦艦金剛・駆逐艦1雷撃を受け沈没〔56-549、93-67〕』</ref>、第十七駆逐隊司令[[谷井保]]大佐も浦風轟沈時に戦死、駆逐隊も司令不在という状況だった<ref>[[#S1911二水戦日誌(1)]]pp.10-11『十一月十六日「ブル子ー」ヲ出撃セル第一遊撃部隊ノ大部ハ同二十三日内海西部着本回航中十七駆(浦風)ハ敵潜ノ雷撃ヲ受ケ沈没セリ』</ref><ref>[[#海上護衛戦(角川)]]355-356頁</ref>。

11月25日午後2時過ぎ、第十七駆逐隊(浜風、雪風、磯風)は戦艦[[長門 (戦艦)|長門]](レイテ沖海戦で損傷)を護衛して横須賀に到着<ref>[[#S1911十七駆日誌(1)]] p.26〔 二五 一四四五長門(宛略)長門一七駆(浦風欠)横須賀着一四四五|無線 〕</ref>、信濃乗組員は飛行甲板に出て長門隊を出迎えた<ref name="長門七分隊176">[[#長門七分隊]] 176頁〔 入港ラッパはひびく 〕</ref>。この後の信濃側と第十七駆逐隊の打ち合わせでは、航路を巡って議論となった。第十七駆逐隊側は潜水艦の待ち伏せを警戒して日本軍哨戒機の応援を受けられる昼間沿岸移動を主張したが、阿部艦長は夜間の21ノット航行で敵潜水艦を回避できると提案を却下している<ref>[[#武藏下]]423-245頁、[[#豊田 信濃生涯]]215-217頁、[[#エンライト 信濃!]]75頁、116-117頁</ref>。これは軍令部から対潜哨戒機を出せないという通達があり、信濃自身1機の航空機も搭載していないという事情もあった<ref>[[#エンライト 信濃!]]118頁</ref>。また阿部艦長は、潜水艦の脅威よりも、日本近海で活動中のアメリカ軍機動部隊に襲撃されることを恐れたという見解もある<ref>[[#豊田 信濃生涯]]37頁、[[#雪風ハ沈マズ新装]]388頁</ref>。当時信濃主計長であった鳴戸少佐の回想によると、信濃の航路を決定する会議の中、夜間・外洋航海ルートを取る策に対して航海長兼任の中村副長、護衛の駆逐艦長たちは口々に異を唱え、特に雪風の寺内艦長が最も強硬に反対したという<ref>[[#鳴戸 硯滴録]]139頁</ref>。議論の結果、信濃部隊は夜明け前に出航外洋航海の進路を取った。万一アメリカ軍潜水艦が出現しても、満月に近い月のため発見しやすい事を考慮していた<ref>[[#エンライト 信濃!]]119頁</ref>。

[[大井篤]](海上護衛総司令部参謀)によれば、信濃出港直前に[[連合艦隊]]([[慶應義塾大学#日吉寮|慶応大学日吉校舎地下壕]])から[[海上護衛総司令部]]([[海軍大学校]]校舎在)に電話連絡があり、[[海上護衛隊]]にも一応の協力を求めたが<ref>[[#海上護衛戦(角川)]]356-357頁。大井によれば、立花参謀は『駆逐艦3隻があるからたいてい大丈夫』と発言したという。</ref>、洋上沖合では海上護衛部隊でも協力できず、大井は沿岸ルートもしくは昼間航行をするよう勧めたが、覆らなかったという<ref>[[#海上護衛戦(角川)]]357-358頁</ref>。

==== 戦闘 ====
[[File:USS_Archerfish;0831110.jpg|thumb|220px|信濃を撃沈した[[アーチャーフィッシュ (潜水艦)|アーチャーフィッシュ]]]]
[[File:Torpedo_impact_damage_to_the_aircraft_carrier_Shinano,_1944.png|thumb|220px|信濃の[[魚雷]]が命中した箇所と浸水区域。命中した箇所と浸水区域。赤は即時、朱色は徐々に浸水した区域。黄色は傾斜復旧のために注水した反対側のボイラー室]]

[[11月28日]]午後1時30分、信濃隊は横須賀を出港した<ref>[[#猛き艨艟]]336頁</ref>。艦隊の配置は、先頭は第十七駆逐隊司令駆逐艦浜風、中央に信濃、信濃右舷に雪風、左舷に磯風<ref name="手塚武藏426">[[#武藏下]]426頁</ref>。あるいは先頭磯風、右浜風、左雪風であった<ref>[[#エンライト 信濃!]]73頁</ref>。長門では乗組員が甲板に整列し帽子をふって見送り、信濃側もそれに応えた<ref name="長門七分隊176" />。

4隻(信濃、浜風、雪風、磯風)は金田湾で時間調整したのち、午後6時30分に外洋へ出た<ref name="手塚武藏426" />。信濃艦内では機械室やガソリンタンク周辺で工事が続けられており、機関未完成のため、最大発揮速力は20ノット前後であった<ref name="安藤幻195">[[#安藤 信濃]]195頁</ref>。

同日午後7時、磯風は敵潜水艦の電波をとらえ、警戒を強める<ref>[[#井上 磯風]]251頁</ref>。同様に信濃側も探知し、阿部艦長は乗組員に警戒するよう通達を出した<ref>[[#エンライト 信濃!]]75-77頁</ref>。午後9時頃、[[電波探知機|電波探知機(逆探)]]で右後方に追尾する船舶を発見し、阿部艦長は信濃右舷にいた駆逐艦に偵察を命じた<ref name="完本太平洋戦争下185">[[#完本太平洋戦争下]]185頁</ref><ref>[[#武藏下]]427頁、[[#豊田 信濃生涯]]224頁。沢本(中尉、信濃甲板士官)、[[#雪風ハ沈マズ新装]]389頁。柴田(大尉、雪風艦橋当直)</ref>。調査に向かった駆逐艦は「味方識別に応ぜざるも、乾舷高く、漁船と思われる」と報告、信濃甲板士官の沢本中尉は「怪しい影」は[[アメリカ海軍]]の[[バラオ級潜水艦]]「[[アーチャーフィッシュ (潜水艦)|アーチャーフィッシュ]](''USS Archerfish, SS-311'')」ではなかったかと回想している<ref name="完本太平洋戦争下185" />。戦後、沢本と同様の見解を持つ作家もおり<ref>[[#豊田 信濃生涯]]225頁、[[#安藤 信濃]]195頁、[[#雪風ハ沈マズ新装]]389頁</ref>、作家の[[豊田穣]]は、戦後、アーチャーフィッシュの艦長[[ジョゼフ・F・エンライト|ジョセフ・F・エンライト]]少佐に詳しく取材したことを根拠にしている<ref>[[#豊田 信濃生涯]]225頁</ref>。一方、エンライト艦長の著書では、この時アーチャーフィッシュは信濃の進路後方ではなく、前方を占位していたと証言している<ref name="#7">[[#エンライト 信濃!]]95頁</ref>。それによれば、アーチャーフィッシュは接近する信濃を右舷艦首方向に発見<ref>[[#エンライト 信濃!]]89-90頁</ref>、更に信濃艦首側、アーチャーフィッシュにより近い側に護衛艦1隻を確認した<ref name="#7"/>。エンライト艦長は追跡班に「前方より追跡を開始せよ」と命じてアーチャーフィッシュを転舵させると、艦尾方向に信濃を確認し、同一進路を前進しながら監視を続けたとある<ref>[[#エンライト 信濃!]]87-88頁、95頁</ref>。エンライト艦長は、信濃右舷側を進む駆逐艦が直衛を離れ、調査に向かってきたのも、識別信号を発信したのも確認していないという<ref>[[#エンライト 信濃!]]96-98頁</ref>。

午後10時、艦隊の先頭にいた浜風は前方6,000mに並走するマスト2本の水上目標を発見する<ref>[[#武藏下]]427頁</ref>。同艦は増速すると距離3,000mまで接近して照準を定めたが、信濃は「引き返せ」と命じた<ref name="手塚武藏429">[[#武藏下]]429頁</ref>。これは「護衛艦は敵潜水艦を深追いして直衛に隙間をあけない」という事前の取り決めによるものだった<ref name="手塚武藏429" />。午後10時45分、信濃は右舷前方に浮上した潜水艦を発見し、誰何信号を送った。アーチャーフィッシュも信濃のマストに10秒-20秒-10秒という赤色発光信号を確認し、護衛駆逐艦の攻撃を予想して乗員が不安を感じたとしている<ref>[[#豊田 信濃生涯]]229頁</ref>。浜風・雪風は砲撃態勢をとったが、阿部艦長は所在の暴露を恐れて発砲を許可しなかった<ref>[[#井上 磯風]]251-253頁</ref>。この頃信濃艦内では、乗組員に[[汁粉]]([[ぜんざい]])が配られていたという<ref>[[#信濃少年兵]] 67頁、[[#豊田 信濃生涯]]230-231頁</ref><ref name="野元航母179" /><ref name="完本太平洋戦争下185" />。上甲板、艦中央部にあった通信室では、通信科の下士官兵達が[[オーストラリア]]の[[メルボルン]]から発信される日本語の[[プロパガンダ|対日プロパガンダ放送]]を聴いて楽しんでいたとする主張もある<ref>[[#諏訪 撃沈]]46-51頁「デマ放送」</ref>。

[[11月29日]]午前0時30分、[[遠州灘]]に差しかかった頃、艦隊はペリスコープらしきものを備えた影を発見し、この時、雪風は最も近くにいた浜風が影を確認しにいったと思ったが、浜風と磯風の艦長は、雪風に影を確認してもらう事に決め、その旨を磯風より通信したが、雪風側は受信していない<ref name="伊藤栄光角川268">[[#連合艦隊の栄光(角川)]]268-269頁</ref>。この混乱について、第十七駆逐隊司令と司令駆逐艦の浦風を台湾沖で喪失した影響であり、正式な司令が着任していれば防げたという意見もある<ref name="伊藤栄光角川268" />。この影は信濃でも見張員が発見していたが、多数が望遠鏡を見た結果、雲であると判断し、そのまま南進を続けた<ref name="伊藤栄光角川269">[[#連合艦隊の栄光(角川)]]269頁</ref>。信濃通信長の荒木勲中佐は、右舷に敵潜水艦らしきものを発見して左斉動(南方へ転針)を行い、その後も対潜水艦回避行動を行ったと回想している<ref name="野元航母185">[[#野元、航母(2013)]] 185-188頁〔 午前二時過ぎか、魚雷命中音 〕</ref>。信濃艦長伝令の梅田耕一水兵長(航海科信号員)の記録によれば、「[[11月29日]]午前2時45分、右30度距離7000に敵潜水艦らしきもの発見、右舷駆逐艦(磯風)と交信、3時5分に敵潜を見失う」とあり、アーチャーフィッシュ側も「0305、100度に変針、潜航。潜望鏡の空母、距離6400m、護衛艦は点滅発光信号受信のため空母に接近」と記録している<ref>[[#猛き艨艟]]338頁</ref>。

[[浜名湖]]の南100マイル(約161km)沖で待機していたアーチャーフィッシュは、不時着した[[B-29 (航空機)|B-29]]乗員の救援任務を切り上げ、商船を襲うべく東京湾へ向かった<ref>[[#潜水艦戦争]]394頁、[[#エンライト 信濃!]]80-81頁</ref>。[[11月28日]]午後8時30分、レーダーの修理が完了<ref>[[#エンライト 信濃!]]88頁</ref>。午後8時48分、エンライト艦長は、「島が動いている」というレーダー士官の報告を元に、信濃を発見した<ref>[[#豊田 信濃生涯]]224頁、[[#エンライト 信濃!]]89-90頁</ref>。発見当初、アーチャーフィッシュでは信濃甲板上に飛行機の姿を確認できなかったことなどから、艦種を特定しかねており、[[タンカー]]だと考えていた<ref>[[#豊田 信濃生涯]]17頁。豊田のエンライト艦長に対する取材より。</ref>。しかし非常に大型の船であったことから、攻撃のために追尾することを決める(同艦は護衛駆逐艦を4隻と記録)<ref>[[#潜水艦戦争]]394頁(同艦航海日誌より)</ref>。アーチャーフィッシュは浮上すると、最大全速19ノットで追跡を開始した<ref>[[#豊田 信濃生涯]]220頁</ref>。浮上航走のうち、アーチャーフィッシュは目標が[[飛鷹型航空母艦]](米軍呼称ハヤタカ)<ref>[[#猛き艨艟]]337頁</ref>や[[大鳳 (空母)|大鳳型航空母艦]]とは異なる新型大型空母であることを確信する<ref>[[#豊田 信濃生涯]]28頁</ref>。これは信濃艦首の形状を観察し、大鳳型にはない開放格納庫を確認したためである<ref>[[#エンライト 信濃!]]144-145頁</ref>。午後10時45分、アーチャーフィッシュは彼らに向けて1隻の駆逐艦が距離3,000mまで突進してくるのを発見し<ref>[[#エンライト 信濃!]]155頁</ref>、潜航退避する寸前まで追い詰められた<ref>[[#エンライト 信濃!]]157-158頁</ref>。だが、信濃のマストに赤色信号が見えると駆逐艦は引き返したため、アーチャーフィッシュは難を逃れた<ref>[[#エンライト 信濃!]]159頁</ref>。アーチャーフィッシュのエンライト艦長の手記では、これを磯風としているが<ref>[[#エンライト 信濃!]]167頁</ref>、前述のように浜風の可能性もある<ref name="手塚武藏429" />。午後11時30分、エンライト艦長は目標を捕捉できない可能性を考慮し、友軍潜水艦の応援を暗に求め、最高司令部宛に以下の無電を発信する<ref>[[#豊田 信濃生涯]]233頁</ref>。

「アーチャーフィッシュより太平洋艦隊総司令部、太平洋方面潜水艦隊司令部ならびに日本領海のすべての潜水艦宛。我れ大型空母を追跡中、護衛駆逐艦3隻あり、位置北緯32度30分、東経137度45分、速力20ノット」。信濃に傍受される危険をおかした無線(実際に傍受された<ref>[[#エンライト 信濃!]]179-180頁。山岸泰忍(電信兵曹)</ref>)に対するアメリカ潜水艦隊司令部の返電は「追跡を続けよ、ジョー、成功を祈る」。ニミッツ提督司令部からは「相手は大物だ。君のバナナは今ピアノの上にある。逃がすな」だった<ref>[[#豊田 信濃生涯]]234頁</ref>。

エンライト艦長が期待していた増援の潜水艦は手配されず、結局アーチャーフィッシュは単艦での信濃部隊追跡を続行した。11月29日午前2時40分には「目標の左舷8マイルにして追跡中、魚雷発射の射点に占位し得るや疑問なり」と発信した<ref>[[#豊田 信濃生涯]]235頁</ref>。信濃は全速の20ノットで航行しており、浮上最大発揮速力19ノットのアーチャーフィッシュでは追いつけない筈だったが、「相手のジグザグ運動のために、きわめてゆっくりと追い越すことができる」という状態になった<ref>[[#潜水艦戦争]]395頁</ref>。さらに日付変更直前、信濃機関部で右舷の中間軸受けが過熱したため<ref>[[#空母二十九隻]] 332-333頁〔 悲運!米潜はいた 〕</ref>、速力を18ノットに落としていたという<ref>[[#エンライト 信濃!]]174-177頁。三浦(機関少佐)</ref>。アーチャーフィッシュも信濃の速力低下を確認していた<ref>[[#エンライト 信濃!]]215-216頁</ref>。

アーチャーフィッシュ襲撃時点の日本側の護衛陣形には諸説あり、「先頭に雪風、中央に信濃、右に浜風、左に磯風」という浜風水雷長説や、「磯風が先頭、右に浜風、左に雪風」という雪風砲術長説、「浜風が先頭、右に雪風、左に磯風」という雪風水雷長説がある<ref>[[#雪風ハ沈マズ新装]]390頁、[[#豊田 信濃生涯]]217-218頁</ref>。この混乱は之字運動をする関係で時刻によって駆逐艦の位置が常に変化しているためであり、外洋ではおおむね十七駆司令駆逐艦の浜風が先頭を航行していたという<ref>[[#雪風ハ沈マズ新装]]389頁</ref>。

[[11月29日]]午前3時13分、浜名湖南方沖176kmにてアーチャーフィッシュは、魚雷6本を発射した<ref>[[#エンライト 信濃!]]259-260頁</ref>。日本側はアーチャーフィッシュの存在には気付いており、午前3時5分には信濃が第十七駆逐隊に潜水艦警報を発し<ref>[[#エンライト 信濃!]]239頁</ref>、同隊も潜水艦と思われる電波を傍受したが、位置の特定はできていなかった<ref>[[#豊田 信濃生涯]]248頁</ref>。

潜航状態(潜望鏡発射)、1,400ヤード(約1,280m)の距離から発射された魚雷は、調停深度水面下10フィート(約3m)で6本<ref>[[#猛き艨艟]]337-338頁</ref>。3本ずつ角度をずらせる150%射法にて発射された<ref>[[#エンライト 信濃!]]295頁</ref>。これは最初の3本の破孔に次の魚雷が飛び込むことを期待したと、エンライト艦長は手記に記載している。また魚雷は重量物が水線よりも上に集中している不安定な空母を転覆させるために、命中深度を通常より浅く設定して発射された<ref>[[#豊田 信濃生涯]]239頁</ref>。午前3時16-17分、魚雷4本が信濃右舷に命中<ref name="S1911経過下41" /><ref>[[#豊田 信濃生涯]]244頁</ref>。生存者の証言では2本、アーチャーフィッシュは6本命中を主張<ref>[[#エンライト 信濃!]]287頁</ref>。命中深度を浅く設定された魚雷は、信濃右舷後部のコンクリートが充填されたバルジより浅い部分に命中し、ガソリン貯蔵用空タンク、右舷外側機械室付近、3番罐室即時満水、亀裂で隣の1番罐室・7番罐室に浸水、空気圧縮機室が被害を受けた<ref>[[#安藤 信濃]]211頁、[[#エンライト 信濃!]]263-264頁</ref>。最初の報告では、後部冷却機室、機関科兵員室、注排水指揮所近辺、第一発電機室などに浸水、右舷6度傾斜というものである<ref>[[#豊田 信濃生涯]]246頁</ref>。

[[海上護衛隊#第三海上護衛隊|第三海上護衛隊]]司令部で被害無線を傍受。命中後、一時13度傾斜したが、左舷注水により右傾斜9度に回復した<ref name="完本太平洋戦争下185" />。信濃は速力を落とさず、傾斜しながら20ノットで現場から退避したため、アーチャーフィッシュは北西に向かう信濃を追撃することは出来なかった<ref>[[#安藤 信濃]]203頁</ref>。随伴駆逐艦から爆雷も投下されたが、アーチャーフィッシュは約15分間、爆発14回を記録し、脅威にはならなかった<ref>[[#豊田 信濃生涯]]315頁</ref>。3時30分、信濃は信号で被雷したことを告げた<ref>[[#S1911十七駆日誌(1)]] p.27〔 二八 〇三三〇信濃|二八 〇三三〇各|我魚雷ヲ受ケタリ附近ヲ警戒セヨ 〕</ref>。3時45分、アーチャーフィッシュは巨大な爆発音が20分続くのを聴音し、沈没する大型艦艇の爆発だと判断した<ref name="潜水艦戦争396">[[#潜水艦戦争]]396頁</ref>。6時14分に潜望鏡をあげ、洋上に何もない事を確認<ref name="潜水艦戦争396" />。それから4時間後、大爆発音を聴音した<ref name="潜水艦戦争396" />。

===== 沈没 =====
書類上、信濃は軍艦籍に入って完成艦として扱われていたが、実際は建造中の未完成艦だった<ref name="野元航母185" />。通路にはケーブル類が多数放置されており、防水ハッチを閉められなかった<ref name="安藤幻185">[[#安藤 信濃]]185頁</ref>。防水ハッチを閉める訓練すら、軍令部が工期を急がせたため、行ったことがなかった<ref>[[#豊田 信濃生涯]]195頁</ref>。かろうじて閉めることが出来た防水ハッチも、隙間から空気が漏れる有様であった<ref>[[#豊田 信濃生涯]]245頁</ref>。さらに[[大和型戦艦]]の艦内は複雑で迷路同然であり、慣熟するのに1年でも足りないとされた<ref name="安藤幻185" /><ref>[[#野元、航母(2013)]]177-179頁『完成後すぐの出撃は無理』</ref>。そのため、乗艦して数ヶ月程度では、自分の現在位置を把握することすら難しかったとされる<ref>[[#豊田 信濃生涯]]193頁、三上(内務長)</ref><ref name="完本太平洋戦争下185" />。それでも、応急員達は注排水指揮所からの指令によって反対側への注水作業を実行した。少なくとも3,000tの注水実行が報告され、傾斜は若干回復した<ref name="安藤幻204">[[#安藤 信濃]]204頁、[[#豊田 信濃生涯]]247頁</ref><ref name="空母二十九隻247" />。しかし、注水開閉弁が故障したため、それ以上の注水は不可能となる<ref name="安藤幻204" />。信濃はただちに潮岬方面に向かったが<ref name="豊田生涯247">[[#豊田 信濃生涯]]247頁</ref>、浸水は止まらず、次第に傾斜が増大し、速力も低下する<ref>[[#猛き艨艟]]340頁『〇四〇〇頃、傾斜右一〇度、艦の速力落ちる。〇四三〇頃、右一五度に傾く。〇五〇〇頃、傾斜増大甚だしく、機械運転不能となる。左舷注水を試みるも不能、速力停止。〇六〇〇頃、傾斜二〇度となる』</ref>。沢本中尉によれば、13度に傾斜した時点で主ボイラーを止めてしまったため、電気や蒸気が使えなくなり、やむを得ず手動ポンプで排水作業を実施した<ref name="完本太平洋戦争下185" />。戦闘詳報では「午前5時30分、速力11ノット」と記録している<ref>[[#S1911十七駆日誌(1)]] p.28〔 二九 〇六〇〇信濃|雪風|左ノ電転電被度 宛大阪警備府小松島航空隊 発信濃 本艦雷撃ヲ受ケ潮岬ニ向ヒツツ有リ針路三〇〇度速力一一節〇五三〇ノ一潮岬一一三度七二浬 〕</ref>。機関科兵の回想では、午前5時ごろに右舷タービンが停止したという<ref>[[#豊田 信濃生涯]]266頁。上野四郎(右舷外側機関室)談。</ref>。午前5-6時、[[復水器]]が使用できなくなり、ボイラー給水用の真水が欠乏したため、午前8時前には、洋上で完全に停止するに至った<ref>[[#豊田 信濃生涯]]261、280頁</ref>。

[[海上護衛総司令部]]では、信濃被雷を受けて大阪警備府や各地港湾部に曳船の手配をはじめたが、関西地方から信濃被雷地点まで180海里(約330km)もあり、すぐに到着できる状況ではなかった<ref>[[#海上護衛戦(角川)]]359頁</ref>。
なお、[[海上護衛隊#第三海上護衛隊|第三海上護衛隊]]からの伝令を受けた伊勢防備隊は[[第十四号駆潜艇|駆潜14号]]を急派し、[[尾鷲港|尾鷲]]にいた駆逐艦[[沢風 (駆逐艦) |澤風]]および水雷艇[[千鳥 (千鳥型水雷艇)|千鳥]]は準備でき次第、現場へ急行し「味方損傷空母(信濃)」の曳航および護衛協力が下命された。同時に[[串本海軍航空隊]]に対しても哨戒機の派遣命令が下り、熊野灘部隊の金津丸(C型[[戦時標準船#戦時標準船の型式|戦時標準船]] 2,724トン)には曳航を準備した上での待機命令が下る。
翌日30日、第三海上護衛隊は澤風を指令艦とした掃討隊の結成および被雷地点での敵潜水艦への徹底的掃討を命じた<ref>{{アジア歴史資料センター|C08030419800|昭和18年9月1日~昭和19年 11月30日 伊勢防備隊戦時日誌戦闘詳報(14)}}</ref>。

信濃は随伴2隻(雪風、浜風)に対し「傾斜のため運転不能」と発信、曳航を命じた<ref>[[#S1911十七駆日誌(1)]] p.28〔 二九 〇七四五信濃|雪風|本艦傾斜ノ爲運転不能曳船用意 〕</ref><ref>[[#S1911十七駆日誌(1)]] p.27〔 二八 〇八〇〇信濃|二八 〇八〇〇濱風|本艦傾斜ノ爲運転不能トナル引船用意 〕</ref>。海水を使用してボイラーを炊くことも検討されたが、一度海水を使うと、補修に多大な手間と時間がかかるため、見送られた<ref>[[#豊田 信濃生涯]]273頁</ref>。艦前部にある予備真水タンクは、パイプが切断されており、役にたたなかった<ref>[[#エンライト 信濃!]]303頁</ref>。阿部艦長は工廠関係者を飛行甲板にあげるよう命じたが、「工廠関係者飛行甲板(「工廠の工員、上甲板」とも)」の命令が、伝令により「総員飛行甲板(総員上甲板)」と誤って伝わり、混乱を招いた<ref>[[#安藤 信濃]]212頁、[[#豊田 信濃生涯]]268頁、282頁</ref><ref name="完本太平洋戦争下186">[[#完本太平洋戦争下]]186頁</ref>。一方、この命令誤認のため、艦底にいた応急作業員や機関科兵が脱出できたという一面もある<ref>[[#エンライト 信濃!]]277頁</ref>。機関科分隊長の三浦治は、機関科への退避命令は、左舷罐室への注水と傾斜復元も意図していたとみられると語っている<ref name="空母二十九隻247">[[#空母二十九隻]] 247-249頁〔 一縷の望みもたえて 〕</ref>。

午前7時45分、信濃は駆逐艦2隻(磯風、浜風)に曳航のため接近せよとの手旗信号を送った<ref>[[#井上 磯風]]258頁</ref>。浜風(司令駆逐艦)は磯風と浜風で曳航すると通信<ref>[[#S1911十七駆日誌(1)]] p.28〔 二九 〇八五五浜風|雪風|浜風磯風ニテ順曳ス 〕- 〔 二九 〇九一〇浜風|二九 〇九一〇雪風磯風|浜風磯風ニテ順引ス 〕</ref>。阿部艦長自ら信濃の艦首で作業を監督したが、駆逐艦2隻では浸水して沈下した巨艦を曳航することができず、[[ワイヤー|曳航索]]が切れてしまった<ref>[[#空母二十九隻]] 249-250頁〔 甲板を洗う水、水 〕</ref>。そこで駆逐艦の後部高角砲塔に曳航索をグルグル巻きにして再度曳航を試みたが、加重に耐えれずまた切断してしまい、曳航は断念されるに至った<ref>[[#安藤 信濃]]215頁、[[#雪風ハ沈マズ新装]]393頁、[[#信濃少年兵]]81頁</ref>。第十七駆逐隊戦闘詳報によれば、磯風と浜風が曳航索を渡したが千切れてしまったという。一方、雪風下士官の豊田義雄(内務・運用)によれば、この記述は全くの作り話であり、浜風、磯風が信濃の両舷に接舷しこれを支え、雪風が1隻で曳航するという無謀な作戦であり、曳航索を受け渡しする前に作業は放棄されたという。ただし、豊田はどの指揮系統の命令であったか、また命令の詳細についても明確な記憶はないという<ref>『世界奇跡の駆逐艦』p.371-372</ref>。元乗員は、信濃に繋いだワイヤーが切れた際、勢いで空高くワイヤーが舞い上がり、それが落ちてきた拍子に駆逐艦の乗員に当たり、首が切断する瞬間を目撃したと証言している<ref name = NHKBS1>[https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2019100739SA000/index.html BS1スペシャル 「幻の巨大空母“信濃”~乗組員が語る 大和型“不沈艦”の悲劇~」(後編)]</ref>。午前8時の時点で上甲板が波で洗われており、乗組員は格納庫甲板の排水に駆りだされた<ref>[[#信濃少年兵]]79頁</ref>。午前8時30分、注排水指揮所まで水没し、稲田文雄大尉ら9名が水死した<ref>[[#豊田 信濃生涯]]270頁</ref>。

注排水指揮所の全滅と曳航作業が失敗した事で、喪失は確定した<ref>[[#安藤 信濃]]215頁</ref>。9時32分、[[御真影]]をカッターに移し、まだロープで結ばれていた浜風に移そうとしたが<ref>[[#武藏下]]432頁</ref><ref>[[#S1911十七駆日誌(1)]] p.28〔 二九 〇九三二信濃|二九 〇九三二浜風|今カラ御眞影ト人員ノ一部ヲ移載ス 〕</ref>、悪天候のためカッターは信濃右舷バルジに乗り上げて転覆した<ref>[[#安藤 信濃]]216頁、[[#豊田 信濃生涯]]286頁</ref>。10時25分、傾斜35度に達し、[[軍艦旗]]降下<ref>[[#安藤 信濃]]218頁</ref>。10時27分、総員退去用意<ref>[[#S1911十七駆日誌(1)]] p.28〔 二九 一〇二七信濃|隊三|今ヨリ總員退去ス 〕</ref>。10時37分、総員退去令<ref>[[#S1911十七駆日誌(1)]] p.29〔 二九 一〇三七信濃|二九 一〇三七駆|總員退去ス 〕</ref>。この時の艦長命令は「各自自由に行動せよ」だったという幹部士官の証言がある<ref>[[#安藤 信濃]]220頁</ref>。荒木勲(信濃通信長)や安間孝正(信濃軍医長)によれば、阿部艦長は退艦命令を出すことを逡巡しており、横手克己(信濃砲術長)が「艦長!総員退艦はまだですか」と強く進言したため、阿部艦長は退艦を発令したという<ref name="続くろしお108">[[#続海軍くろしお]]108-109頁</ref>。10時57分{{Efn|(昭和19年11月)<ref name="第17駆29">[[#S1911十七駆日誌(1)]] p.29</ref> 二九 一一三〇浜風駆逐艦長|二九 一一三〇(長官)GF (司令官)1sf (司令)阪警 (長官)呉鎮 (長官)横鎮 大海参一部長(2F長官、2sd司令官、紀伊防)|〇八三〇ヨリ信濃ヲ曳航準備中(曳索取終リ)一〇五七大傾斜顛覆沈没セリ位置潮岬ノ一一一度五五浬乗員救助中救難後呉ニ同航ノ予定 }}(55分説あり)、[[潮岬]]沖南東48kmの地点で転覆<ref name="第17駆29" />、艦尾から沈没した<ref>[[#エンライト 信濃!]]322-323頁、[[#安藤 信濃]]223-225頁、[[#奇跡の駆逐艦]]374-375頁</ref><ref name="野元航母181">[[#野元、航母(2013)]]181-183頁『巨艦の最後』</ref>。

信濃の艦歴は、世界の海軍史上最も短いものとなった。竣工から10日、出港してからはわずか17時間であった<ref>[[#諏訪 撃沈]]25-26頁、[[#エンライト 信濃!]]379頁</ref><ref name="空母二十九隻274" />。被雷時点での戦死者数名、負傷者は同程度だったにもかかわらず<ref name="野元航母181" />、総員退去の命令が艦内放送装置が使えず巨大な艦内に伝わらなかったり、エレベーター穴や艦体と飛行甲板の隙間に落ちたり、低温の海での漂流と強い波浪により<ref name="安藤幻223" /><ref name="野元航母190">[[#野元、航母(2013)]]190-191頁『黒潮に立つ鉄の墓標』</ref>、多数の乗組員が行方不明となった<ref>[[#エンライト 信濃!]]309、313頁</ref>。沈没する艦体に多数の兵がしがみついていたのも目撃されている<ref name="信濃!322">[[#エンライト 信濃!]]322-323頁、[[#安藤 信濃]]223-225頁</ref>。阿部艦長は艦首で総員退去命令を出したあと<ref>[[#諏訪 撃沈]]129、143、171頁</ref><ref name="安藤幻223">[[#安藤 信濃]]223-225頁</ref>、信濃と運命を共にした<ref name="信濃!322" />。中村馨(信濃航海長)や、総員退艦を進言した横手砲術長も信濃と共に沈んだ<ref name="続くろしお108" />。急な召集により訓練が十分でない乗員が多かったために、泳げない者も多く、海に投げ出されて溺死したり、泳げる者にしがみつく者もいたという<ref name = NHKBS1/>。一方、爆薬や燃料を搭載していない桜花が海面に浮かび、多くの乗組員が掴っている光景が救助作業中の浜風から目撃されたという証言もある<ref name="手塚武藏433">[[#武藏下]]433頁、武田水雷長</ref>。戦後、武田が桜花開発者の1人に会って桜花が人命救助に役立ったことを話すと、技術者は複雑な表情を浮かべたという<ref name="手塚武藏433" />。

生存者は準士官以上55名、下士官兵993名、工員32名{{Efn|(昭和19年11月)<ref name="第17駆30">[[#S1911十七駆日誌(1)]] p.30</ref> 二九 一六〇〇(司令)17dg(宛略)一.一四〇〇信濃乗員収容准士官以上五五名(内便乗者二名)下士官兵一〇二五名(内工員三二名)合計一〇八〇名/二.御寫眞ハ浜風ニ奉安/三.機密書類ハ鎖鑰ノ儘亡失ノ虞ナシ(水深四〇〇〇米以上)/四.明三〇日〇七〇〇豊後水道経由一四〇〇呉着収容者竝ニ輸送方手配アリ度 }}。戦死者は「信濃会」の調査によると791名(工員28名、軍属11名を含む)<ref>[[#安藤 信濃]]226頁、[[#豊田 信濃生涯]]318頁</ref>。これには建造中の110号艦(信濃)から逃亡したのち行方不明となった脱走兵2名も含まれている<ref>[[#空母機動部隊(2010)]]286-287頁</ref>。生存者の一人には後に映画やテレビで活躍した俳優の[[深江章喜]]がいる。御真影は<ref name="第17駆30" />、浜風(駆逐艦長[[前川万衛]]中佐、海兵52期)に奉安された<ref name="続くろしお109">[[#続海軍くろしお]]109-110頁</ref>。対空ロケット砲装備のため呉で待機していた技術者達は、入港した第十七駆逐隊から信濃の沈没を知らされ、海軍の終焉を実感している<ref>[[#海軍技術研究所]]252頁</ref>。生存した乗員たちは随行の艦に救助され、広島に到着後は機密保持のため[[三ツ子島 (広島県)|三ツ子島]]の施設に抑留された<ref name = NHKBS1/>。

沈没地点は[[潮岬]]東南東沖{{coord|33|06|N|136|46|E|}}の地点とされる<ref name="安藤幻223" />。現場の深度は6,000 - 7,000mと深く、正確な沈没位置は確定されていない。[[米内光政]]海軍大臣より信濃沈没の報告を受けた[[昭和天皇]]は「惜しいことをした」と述べたという<ref>[[#猛き艨艟]]342頁</ref><ref name="空母二十九隻233">[[#空母二十九隻]]233-236頁『突貫工事のもたらした悲劇』</ref>。

[[1945年]](昭和20年)[[4月7日]]、[[坊ノ岬沖海戦]]で戦艦「[[大和 (戦艦)|大和]]」と[[第二水雷戦隊]]の5隻([[矢矧 (軽巡洋艦)|矢矧]]、[[磯風 (陽炎型駆逐艦)|磯風]]、[[浜風 (陽炎型駆逐艦)|浜風]]、[[霞 (朝潮型駆逐艦)|霞]]、[[朝霜 (駆逐艦)|朝霜]])が沈没、駆逐艦「[[涼月 (駆逐艦)|涼月]]」も大破、帝国海軍が決行した最後の大型水上艦による攻撃となった。それにともない、沈没した2隻(大和、信濃)および空母「[[葛城 (空母)|葛城]]」(健在)は第一航空戦隊から除かれる事になる{{Efn|(昭和20年4月)<ref>[[#S1911十七駆日誌(9)]] pp.35-37</ref> 一三一三三九大海参謀第一部長|帝國海軍戰事編制ヲ左ノ通改定ノコトニ手續中四月三十日附(中略)(五)大和 葛城 信濃ヲ第一航空戰隊ヨリ矢矧 第二十一駆逐ヲ第二水雷戰隊ヨリ除キGF附属(以下略) }}。4月20日、[[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]]および[[第一航空戦隊]]は解隊された<ref>[[#海軍航空部隊編制]] pp.47-48〔 20-4-1|GF|(×)2F|(×)|天城、葛城、大和、隼鷹|各0 〕-〔 (×)1sf(2F)4/20 〕</ref>。

[[8月31日]]、本艦を含めて太平洋戦争末期に沈没した戦艦や空母は帝国軍艦籍から除籍された{{Efn|内令第七五〇號<ref name="海軍公報5175">{{アジア歴史資料センター|C12070509300|昭和20年9月3日(月)海軍公報 第5175号 p.1}}</ref> 横須賀鎮守府在籍 軍艦 [[山城 (戦艦)|山城]] 軍艦 [[武蔵 (戦艦)|武藏]] 軍艦 [[翔鶴 (空母)|翔鶴]] 軍艦 信濃/呉鎮守府在籍 軍艦 [[扶桑 (戦艦)|扶桑]] 軍艦 [[大和 (戦艦)|大和]] 軍艦 [[瑞鶴 (空母)|瑞鶴]]/舞鶴鎮守府在籍 軍艦 [[大鳳 (空母)|大鳳]]|右帝國軍艦籍ヨリ除カル 昭和二十年八月三十一日 海軍大臣 }}。

===== 原因 =====
建造の簡略化により十分な防水作業が出来ず、艦搭乗員も練度不足で内部に精通したものが皆無だった<ref>[[#豊田 信濃生涯]]197頁、[[#安藤 信濃]]185頁</ref><ref name="空母二十九隻274">[[#空母二十九隻]] 274-276頁〔 出港後十七時間、魚雷四本に斃れた信濃の悲運 〕</ref>。配属されてから長い者で数ヶ月という状態では、被弾後も突然の事態に混乱し、右往左往するばかりで、満足に応急処置すら実行できない状況であった。空母[[翔鶴 (空母)|翔鶴]]運用長として[[珊瑚海海戦]]や[[南太平洋海戦]]で同艦の応急措置に奔走した[[福地周夫]]大佐(信濃砲術長[[横手克己]]大佐とは、海軍兵学校第52期の同期生)は、翔鶴処女航海(竣工昭和16年8月8日、初航海8月23日)と信濃処女航海を対比<ref name="続くろしお104">[[#続海軍くろしお]]104-105頁</ref>。竣工直後の同艦でも乗員の訓練は不充分で、防水扉の閉鎖方法すらわからず、仮に魚雷が命中していれば「当時の翔鶴なら沈んだだろう」と評している<ref name="続くろしお104" />。大和内務科士官として艦内防御を担当した士官も、竣工時の大和艦底マンホールには不具合点が約500ヶ所(ボルトやパッキン不備、脱落、緊締不良、ボルト穴開け違い等)もあり、時間をかけて順次改善していったと回想<ref name="戦艦十二46">[[#戦艦十二隻(2014)]]46-47頁</ref>。信濃沈没についても、艦底マンホールに多数の欠陥があったと推定している<ref name="戦艦十二46" />。また傾斜によって左舷の注排水弁が海中から上がってしまい、追加の注水が出来なかったという推論もなされている<ref>[[#豊田 信濃生涯]]332頁</ref><ref name="空母二十九隻247" />。

これには反対意見もある。その注排水についても、出港前に傾斜復元テストは行われず、また電源がどの程度の震動で故障するかも不明だった<ref>[[#豊田 信濃生涯]]210頁</ref>。実際に排水ポンプは故障で作動しなくなっている<ref name="豊田生涯247" />。突貫工事による影響で、ねじ山が根元まで切られていない[[ボルト (部品)|ボルト]]や2cmも隙間の空く防水ハッチ<ref>[[#相良 信濃]]192頁</ref>、右舷艦尾に命中した魚雷の衝撃で艦首部分の甲板リベットから浸水する<ref>[[#豊田 信濃生涯]]264頁</ref>、さらに隔壁の気密検査が未実施など、竣工とは名ばかりの未完成艦であり、艦長の判断以前に魚雷命中の時点で沈没が確定されていたといってよい惨状だった<ref>[[#安藤 信濃]]231頁、[[千早正隆]](海軍参謀)</ref>。エンライト艦長の判断(魚雷の深度を約3メートルと浅くし、水線近くを浸水させることで重心点の高い空母の転覆を狙った)が適確で、信濃側の不具合に乗じる結果となった<ref>[[#猛き艨艟]]341頁</ref>。

呉工廠造船部長として大和の進水・艤装時を監督した[[庭田尚三]](海軍技術中将)は、横須賀海軍工廠が気水密試験を省略したことについて「かような試験は手を抜こうと思えばできないことではないが、当事者として見れば責任上良心的にどうしてもそのような無責任な気持ちにはならないものだ」「このような地味な縁の下の力持ちのような試験作業は実に困難であっても、完璧を期さなくては現場技術者としての資格はないと私は信ずるのであります」と回想している<ref>[[#庭田、建艦秘話]]48頁</ref>。大和も1942年(昭和17年)6月15日竣工を予定していたが、艦政本部からの要請で竣工を1941年(昭和16年)12月16日に早めた経緯がある<ref>[[#庭田、建艦秘話]]53頁『(ロ)工事概括予定と実際』</ref>。

[[牧野茂 (軍人)|牧野茂]](大和型戦艦設計者)の話によると、「[[大和型戦艦]]は1本目の魚雷命中で戦列を離れず、2本目でも戦闘力を持続し、3本目では沈没することなく基地に帰投可能」という方針で浸水計算がなされており、4本目については十分な検討がなされていなかったと述べている<ref name="相良信濃194">[[#相良 信濃]]194-195頁、[[#牧野ノート]]207頁</ref>。乗組員の訓練と慣熟の不足、未完成艦だったことを考慮しつつ、牧野によれば「信濃の沈没責任全てが防水工事の不備にもとづくものであると断定するには忍びない」としている<ref name="相良信濃194" />。

雪風下士官の豊田義雄は、護衛駆逐艦側の問題として、第十七駆逐隊司令駆逐艦(浦風)の沈没と駆逐隊司令の戦死により指揮系統が混乱しており、各艦や信濃との連携が十分ではなかったという<ref>[[#奇跡の駆逐艦]]371頁</ref>。[[海上護衛総司令部]]参謀の[[大井篤]]大佐は「火の用心はあまりしないで、消防士が悪いから丸焼けにされたとうらみを言っているように聞こえて仕様がなかった。根本的には航海計画が悪かったのだ。それは敵の潜水艦およびその魚雷の威力をあなどったことからきていたのだ」と述べている<ref>[[#海上護衛戦(角川)]]359-360頁</ref>。他にも敵潜出没海面に3隻の駆逐艦の護衛をつけただけの夜間航海計画を立案した軍令部の責任が大きいという指摘もある<ref>[[#相良 信濃]]195-196頁</ref>。

12月28日、東京で[[三川軍一]]中将のもと信濃の沈没原因を調査するための「S事件調査委員会」が開かれた<ref>[[#相良 信濃]]200頁</ref><ref name="空母二十九隻250">[[#空母二十九隻]] 250頁〔 ついに沈んだ不沈空母 〕</ref>。「信濃」は事故ではなく敵の攻撃を受けて沈没したため、建前上は査問ではなく調査の形がとられたが、委員会に出席した信濃の生存者は彼らを詰問する軍令部や工廠関係者に対し「脆い艦を作った造船関係、気密試験も省略させて出港させた軍令部、駆逐艦3隻だけの護衛で出港させた上層部」に対する怒りを抑えられなかったという<ref>[[#豊田 信濃生涯]]329-331頁、[[#相良 信濃]]205-2026頁</ref>。会議の結果、責任を問われる当事者が多すぎたため、表立った処分を受けた者は誰もいなかった<ref>[[#エンライト 信濃!]]340頁</ref>。S事件の報告は「工廠工事の粗漏、水密試不施行等及艦乗員の復元に対する不徹底等」だったという<ref>[[#高松宮日記8巻]]12頁『一月九日(火)半晴(略)S事件報告』</ref><ref name="空母二十九隻250" />。

アーチャーフィッシュの乗員は、非常に大きな空母を攻撃したことは認識していたが、撃沈の確信を持つことは出来なかった<ref>[[#豊田 信濃生涯]]317頁</ref>。またアメリカ軍は[[B-29 (航空機)|B-29]]からの偵察写真に「信濃」が写っていたが本艦の存在を把握しておらず、アーチャーフィッシュの報告も半信半疑の扱いであった。上官コーバス中佐は日本の暗号解読で判明した「信濃」という艦名から、信濃川の名をつけた巡洋艦改造空母を撃沈したと判断し、それで満足しろとエンライト艦長を説得している<ref name="信濃!329">[[#エンライト 信濃!]]329-332頁</ref>。エンライト艦長は「信濃」のスケッチを提出し、2万8000トン(2万9000トンとも)空母撃沈認定をもらった<ref name="信濃!329" /><ref name="潜水艦戦争396" />。当時世界最大の空母を撃沈したと乗組員達が知るのは、戦後のことである<ref name="信濃!337">[[#エンライト 信濃!]]337-338頁</ref>。信濃撃沈の功績に対して、殊勲部隊章がアーチャーフィッシュに与えられた。

また[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]は[[NHKラジオ第1放送]]・[[NHKラジオ第2放送|第2放送]]を通じて『[[眞相はかうだ]]』の放送を開始、この中で「信濃」沈没について報道した{{Efn|「航空母艦『信濃』の眞相をお知らせ下さい」<ref>[[#真相はかうだ]]コマ11-12</ref>「航空母艦『信濃』は昭和十九年十一月十一日に就役致しました。『信濃』はもと戦艦『大和』と同型の[[戦艦|戦闘艦]]として造られ、のち航空母艦に改造されたものであります。『信濃』の撃沈されたのは昭和十九年十一月二十九日、つまり就役して僅かに十八日目のことでありました。場所は本州の南で、アメリカの一潜水艦のために撃沈されたのであります」}}。
1947年には生存者の回顧録が出版され、翌年には[[アメリカ合衆国]]でも発売された<ref>{{Cite web|和書|url= https://hojishinbun.hoover.org/en/newspapers/tht19480316-01.1.11 |pages=11|title = <small>七萬一千噸、世界最大の怪物航空母艦「信濃」の劇的最後</small> ○沈みゆく信濃 |publisher= Hawaii Times, 1948.03.16 |work = Hoji Shinbun Digital Collection | accessdate = 2024-02-11}}</ref>。

「信濃」は潜水艦に撃沈された最も巨大な船である<ref name="信濃!337" />。

戦後の1978年(昭和53年)5月17日、輸送艦[[あつみ (輸送艦)|あつみ]]艦上に於いて、信濃の現地洋上慰霊祭が生存者32名・遺族89名が参列して営まれた<ref name="続くろしお109" />。

== 特徴 ==
[[大和型戦艦]]由来の艦体を持つ巨大空母であり、[[1961年]]に就役したアメリカの原子力空母[[エンタープライズ (CVN-65)|エンタープライズ]]が登場するまで、また、戦艦を改造して建造された空母([[イーグル (空母・初代)|イーグル]]、[[ベアルン (空母)|ベアルン]]、[[加賀 (空母)|加賀]]等)と比較しても史上最大の[[排水量]]を持っていた<ref>[[#猛き艨艟]]324頁</ref>([[アメリカ海軍]]最後の[[通常動力推進空母]][[キティホーク (空母)|キティホーク]](満載 83,301t)も信濃の排水量を上回るが、基準排水量では信濃が上。現在では基準排水量は諸元として使用されていない)。

爆弾・魚雷・航空燃料の搭載予定量は、翔鶴型や大鳳型、雲龍型よりも少なく「800kg爆弾または500kg爆弾90発、250kg爆弾468発、60kg爆弾468発、九一式45cm航空魚雷・不定」程度であり、「中継基地空母」としての運用は考慮されていない<ref>[[#歴史群像22信濃]]82頁、『日本の航空母艦パーフェクトガイド』109頁「信濃の搭載機」</ref>。また「爆弾は800kgまたは500kg 54個、250kg 216個、60kg 216個、魚雷36本、航空燃料670トン」とする文献もある<ref name="パーフェクトガイドp109">『日本の航空母艦パーフェクトガイド』109頁</ref>。航空燃料は680トンとする文献もある<ref name="昭和造船史1pp780-781" />。

上記の信濃の全体を写した唯一の写真からは、対潜用の迷彩塗装らしきものが判別できる<ref>[[#歴史群像22信濃]]ワイド折込み、水野行雄『空母信濃のリサーチについて』</ref>。基本色は外舷1号色(若草色。米海軍報告書によれば外舷2号色と白を1:1で混ぜたもの)で、外舷2号色(錆緑、暗いオリーブグリーン)により商船の迷彩が施されていた<ref>[[#歴史群像22信濃]]・信濃1/300スケールモデル解説より、163-164頁</ref>。喫水線下は赤系統とする工員の目撃証言が多い<ref>[[#歴史群像22信濃]]163頁、「横須賀海軍工廠外史」等の孫引き</ref>。

=== 構造 ===
;飛行甲板
大和型戦艦の最大幅39mという船体の上に設置された[[飛行甲板]]は、最大幅40mであった<ref>[[#相良 信濃]]98頁、[[#牧野ノート]]202頁</ref>。幅50mという元乗組員による証言もある<ref name="諏訪沈16">[[#諏訪 撃沈]]16頁</ref>。

信濃改造艤装委員で零戦で着艦実験をした[[小福田晧文]]少佐は「じつにゆうゆう広々とした甲板で、着艦もまことに楽であった」と語っている<ref name="#6"/>。太平洋戦争<!-- 第二次世界大戦ではない -->開戦時の加賀搭乗員であり、信濃飛行長に任命されていた[[志賀淑雄]]少佐は、加賀より広大な信濃の飛行甲板に感嘆している<ref name="母艦航空隊328">[[#母艦航空隊]] 328-329頁〔 信濃飛行長を命ず 志賀淑雄 〕</ref>。

飛行甲板には20mmDS鋼板の上に75mmNVNC甲板を装着した<ref name="幻信濃117">[[#安藤 信濃]]117-118頁。稲川精一(海軍技術大佐、艦政本部第4部)</ref>。装甲部分は長さ約210m、幅約30mと下部の格納庫と同じ範囲に施された<ref>[[#牧野ノート]]202頁、[[#歴史群像22信濃]]99頁</ref>。その大重量を支えるために、箱形の梁を作り、そこにも14mm鋼鉄を張った<ref>[[#安藤 信濃]]117頁、[[#相良 信濃]]98頁、[[#牧野ノート]]202頁</ref>。日本空母として最初に飛行甲板を装甲化した大鳳の一部が木甲板だったのに対し、信濃は工事簡略化のため、全体が鋸屑入セメント張りだった<ref>[[#歴史群像22信濃]]99頁、[[#川崎戦歴]]88頁</ref>。[[ミッドウェー海戦]]の戦訓を踏まえ、[[艦載機|搭載機]]に[[ガソリン]]を積む場所を飛行甲板に変更し、また爆弾・魚雷装着場所も従来の日本空母とは異なり飛行甲板としている<ref name="牧野ノート189">[[#牧野ノート]]189頁</ref>。このため揚爆弾筒、揚魚雷筒は格納庫を素通りして飛行甲板に直接揚げる構造となった<ref name="牧野ノート189" />。また[[装甲]]部分の前後に設けられた航空機用[[エレベーター]]にも飛行甲板と同じく75mmNVNC甲板が装着され、重量は前部昇降機(寸法15m×14m)が180t、後部昇降機(寸法13m×13m)は110tに達した<ref>[[#安藤 信濃]]117-118頁、[[#牧野ノート]]202頁</ref>。また、元[[乗員]]の証言によれば、飛行甲板には新開発の[[蛍光灯]]が埋めこまれていたという<ref>【ビジュアル解析】戦艦「大和」別冊宝島編集部 p.52</ref>。

;装甲
戦艦として建造されていたため、空母としては十分すぎる防御設計が施されていた。空母としての再設計時における防御性能では、舷側水線防御は射距離10,000mから放たれる20cm砲弾に耐えることや、水平防御では高度4,000mから投下される800kg爆弾に耐えることだった<ref>[[#川崎戦歴]]87頁、[[#歴史群像22信濃]]80頁</ref>。また、当初の案では、飛行甲板は800kg爆弾の[[急降下爆撃]]に耐えることとなっていたが、甲板の重量増加と製造能力の関係から、飛行甲板は500kg爆弾の急降下爆撃に耐えうるものと変更された<ref name="川崎空母戦歴87" />。これらの要求を満たすため、格納庫天井に20mmDS鋼板と14mmDS鋼板を張り合わせた。

戦艦から空母へと設計変更されたことに伴い、第110号艦の水線上舷側装甲は410mmから200mmへと減り、対巡洋艦程度の装甲となった<ref name="牧野ノート203">[[#牧野ノート]]203頁</ref>。主砲弾薬庫は、そのまま空母の[[高射砲|高角砲]]弾・機銃弾・爆弾・魚雷庫へと転用された<ref>[[#相良 信濃]]98頁、[[#歴史群像22信濃]]100頁</ref>。航空機用燃料タンクは、主要部の前後にある[[重油]]タンク部分に増設された<ref name="牧野ノート201" />。本来装甲のない部分だったため、通常使用される25mmに加えて、解体した姉妹艦[[111号艦|第111号艦]]の弾薬庫の底部80mm装甲をタンク直上下甲板に貼った<ref>[[#安藤 信濃]]117頁、[[#牧野ノート]]201頁</ref>。当初はタンク周辺に空白区画を設けて2,000tの水を満たしておく設計であったが、後述する大鳳爆沈時の戦訓から、周囲の区画には[[コンクリート]]を充填している<ref>[[#相良 信濃]]110頁</ref>。

艦底は、磁気[[機雷]]や艦底起爆魚雷への対策として、先行艦(大和、武蔵)の二重底から三重底へと強化されている<ref>[[#牧野ノート]]195頁</ref>。本艦では砲塔が搭載されず、戦艦級の装甲も施されないために艦体が軽くなり、喫水が1m上昇するため、大和型と比較してバルジの上端を1m下げた<ref name="牧野ノート203" />。その後、本艦の設計に影響を与えた大鳳が1944年(昭和19年)6月の[[マリアナ沖海戦]]において敵潜水艦の魚雷1本の命中であっけなく爆沈したことは、関係者に強い衝撃を与えた<ref name="相良信濃102">[[#相良 信濃]]102頁</ref>。大鳳沈没の主要要因は、魚雷の命中により航空機用ガソリンが艦内に漏れ出し、ダメージコントロールの失敗により、6時間後に大爆発・大火災を起こした事である。そこで応急対策として、水線下の[[バルジ]]など航空機用燃料タンクの周辺に数日間かけてコンクリートを流し込み、固めた<ref>[[#豊田 信濃生涯]]131頁、[[#諏訪 撃沈]]15頁、[[#安藤 信濃]]131頁</ref>。<!-- しかし、このコンクリートの粉末が、甲板上の[[マスト]]や昇降機に悪影響を及ぼしたともされている。<ref>『歴史群像太平洋戦史シリーズ 空母大鳳・信濃』{{疑問点}}</ref> -->最終的に、公試常態排水量は初期計画の62,000tから68,000tに増加した。結局バルジの位置変更は無意味となり、設計者の[[牧野茂 (軍人)|牧野茂]]は「余計なことだった」と述べている<ref name="牧野ノート203" />。<!--位置を変更した設計者当人が牧野なのと、当初喫水があがっていたためバルジ位置を下げたことは合理的でした。追加された不沈対策で重くなり、結果として「余計」になったので。ニュアンス的には「当惑・反省」です。-->

また信濃軍医長は、便乗した造船将校から、本当の排水量は76,000t(部内65,000t)と教えられたと述べている<ref name="野元航母179">[[#野元、航母(2013)]] 179-181頁〔 処女航海についた信濃 〕</ref>。飛行甲板から弾薬庫に至るまで重装甲で固めた結果、信濃の船殻重量は大和に比べて1,900t、防御重量2,800t、艤装重量1,200t、計5,900t増加、35万から40万工数という工事量増加となった<ref name="幻信濃117" />。

大和型戦艦の内部は「地下街」と表現される<ref>辺見じゅん・原勝洋 編『戦艦大和発見』(角川春樹事務所ハルキ文庫、2004年)69頁</ref>ほど複雑かつ広大であり、艦内伝令が自転車を使っていたという証言もあるほどである<ref>小林昌信ほか『戦艦「大和」檣頭下に死す』22頁</ref>。これは、同型艦である信濃も同様だった。乗員の慣熟が足りていなかったのも加わって、艦内で半日迷子になったり<ref>[[#豊田 信濃生涯]]129頁。正田真五(兵曹長、操舵長)</ref>、工員が自分の担当現場を探すだけで一苦労したというエピソードもある<ref>[[#安藤 信濃]]148頁</ref>。

;艦橋
[[艦橋]]は右舷中央部に、煙突と一体化した大型のものが設置された。艦橋と煙突の一体化は米英空母では広く採用されていたが、従来の日本海軍空母は、大型艦、小型艦問わず、排煙が着艦の邪魔にならぬよう、舷側から突出した湾曲の付いた煙突で海面に向けて排気する方式だった。信濃の場合、船体上部甲板と飛行甲板の間の高さがとれず、舷側に煙突を設置することができなかったため<ref>[[#エンライト 信濃!]]66頁</ref>、艦橋と一体化させ、上部で外側に26度傾斜した上方排出の煙突となっている<ref name="相良信濃99">[[#相良 信濃]]98頁</ref>。これは[[大鳳 (空母)|大鳳型航空母艦]]の重心低下の設計結果として、やむを得ず採用するのに先行して、改造空母である[[隼鷹型航空母艦]]([[飛鷹 (空母)|飛鷹型]])で実験的に採用したものを踏襲したものである。本艦に設置する前に実物大艦橋模型を航空学校の屋上に建造し、36基の12cm対空双眼鏡を据え付けて実地試験を行った<ref>[[#安藤 信濃]]115-116頁</ref>。竣工直前の1944年(昭和19年)9月4日にも、防空指揮所装備について[[第一機動艦隊]]側の意見を聴く形で改装をおこなっている<ref>[[#高松宮日記7巻]] 543頁〔 九月四日(月)晴 〇六五七品川発、[[海軍砲術学校|横砲校]]へ。〇九〇〇工廠ニテ「信濃」防空指揮所装備ニツキ研究アリ。機動艦隊ノ意見ニヨル改装ニ決スル 〕</ref>。[[福田啓二]]造船中将は、美的ではなかったと回想している<ref>[[#エンライト 信濃!]]66、352頁。千早正隆訳「私が設計したマンモス空母信濃の秘密」丸1960年11月号より孫引き。</ref>。[[二式二号電波探信儀一型|二一号電探]]と通信マストも配備された。

;機関
改装時にはすでに大和型戦艦としての基礎ができあがっていたため、機関配置や予定機関出力は同型艦と全く同じであった。[[プロペラ]]の回転数も同じ設定であったが、大和型戦艦のプロペラは直径5mだったのに対して信濃のものは直径5.1mであり、ピッチも異なっていた<ref>『[[丸 (雑誌)|丸]]』2011年2月号</ref>。速力もそのままの27ノットの予定だった。大和型戦艦に比べて主砲塔や各部装甲を減じているが、そのぶん飛行甲板や弾薬庫に重防御を施した結果、満載排水量は大和型72,000tに対し第110号艦71,000tである。正規空母としては低速であり、当時5tを超えていた[[流星 (航空機)|流星]]の発艦に不安がある可能性が指摘されていた。横須賀で実施された試験において[[ボイラー]]8基のみ稼動、20ノット程度の航行状態で、当時の風速は不明ではあるが[[紫電改|紫電改(紫電41型)]]や流星艦上爆撃機、[[天山 (航空機)|天山艦上攻撃機]](雷撃機)の離着陸テストに成功している。紫電改[[テストパイロット]]を務めた山本重久大尉も、日本空母の中でも特に大型だった[[赤城 (空母)|赤城]]や[[翔鶴 (空母)|翔鶴]]より信濃の飛行甲板は大きく、離着艦は良好と証言している<ref>『最強戦闘機紫電改』136-137頁</ref>。この時に着艦した紫電改は、陸上基地での運用を主体とする[[局地戦闘機]]であり、[[艦上戦闘機]]ではなかった<ref name="母艦航空隊326">[[#母艦航空隊]]326-328頁『艦上戦闘機「紫電改」信濃飛行甲板上の勇姿 菊原静男』</ref>。

=== 設備 ===
;格納庫
日本空母として最大の排水量の巨艦であったが、格納庫は一層のみである<ref>[[#相良 信濃]]98頁、[[#歴史群像22信濃]]99頁</ref>。建造再開時、艦中央部では既に中甲板付近まで工事が進んでいたことに加えて<ref name="牧野ノート196">[[#牧野ノート]]196頁</ref>、戦況対応のための早期の竣工、煙路の配置や飛行甲板に重装甲を施したことと、また航空機の搭載数から当然の帰結だった<ref name="牧野ノート201">[[#牧野ノート]]201頁</ref>。格納庫予定位置の両側に高角砲や機銃弾の揚弾筒を準備されたため、格納庫面積も狭くなった<ref>[[#幻の航空母艦]]262頁</ref>。

また、船体の縦強度構造からも2段は困難だった<ref name="海軍造船技術概要p288">[[#海軍造船技術概要]]p.288</ref>。
大和型戦艦の最上甲板は一番砲塔付近で下がり二番砲塔付近で上がる「大和坂」と呼ばれた傾斜がついていたが、これを艦載機の格納庫に支障ない傾斜にするための<!--全くの水平ではない-->工事に手間がかかった<ref>[[#相良 信濃]]98頁、[[#牧野ノート]]201-202頁</ref>。

本艦に強い影響を与えた大鳳型航空母艦を含め、日本空母のほとんどは密閉式[[格納庫]]である。これに対して、本艦では攻撃機搭載用の前部約125mは攻撃を受け火災が発生した際にはそこから熱風を逃し、爆弾や魚雷を投棄するため、開放式になっている<ref>[[#相良 信濃]]99頁、[[#牧野ノート]]190頁</ref>。夜間の灯火管制時にも開放式前部で機体整備が行えるように、開放部には帆布製の遮光幕を張ってから内部で電気照明を点灯するようになっていた<ref name="牧野ノート190">[[#牧野ノート]]190頁</ref>。ただし、開放式格納庫の開放部分は、長さ10m以上の開口部が片舷1ヵ所ずつのみとなっており、航空機の海中投棄は不可能だったという<ref name="牧野ノート190" />。戦闘機搭載用の後部約83mだけ、厚さ25mmのDS鋼を2枚重ねた<ref name="牧野ノート203" />側壁による密閉式という形態となっていた<ref name="幻信濃117" />。火災に対しては可能な限りの対策が施され、格納庫全域に降り注ぐ泡沫消火装置や、防御区画内3箇所に独立した消火ポンプを設置し、格納庫側壁の複数箇所に防御を施した管制指揮所を設けた<ref name="牧野ノート190" />。航空機格納庫は従来型電灯と蛍光灯の併設、居住区は蛍光灯のみが備えられていたという証言がある<ref>[[#歴史群像22信濃]]167頁、神谷武久(工員)談。</ref>。

;搭載機
搭載機の種類や数は、戦時中または戦後期に出版された原典やその計画時期の違いからと思われる相異が文献によってある。
{| class="wikitable" style="margin:0 auto"
|+各資料での空母信濃搭載可能数<ref>[[#安藤 信濃]]11-14頁、[[#歴史群像22信濃]]82頁</ref><ref name="海軍造船技術概要p296" /><ref name="川崎空母戦歴88" />
! 資料名 !! 常用機種と数 !! 補用機<ref group="注釈">>常時運用する常用機と異なり、分解収納して修理の際の部品として使用したり、未搭載であっても予算上確保していて、損失機が出た時に即座に(手続き上)補充できるようにしている機体のこと</ref>種と数 !! 合計
|-
| align="left" | [[#昭和造船史1]] || 戦闘機18機<br/>攻撃機24機 || 戦闘機2機<br/>攻撃機3機 || 47機(うち補用機5機)
|-
| align="left" | [[#海軍造船技術概要]] || [[烈風]]18機<br/>[[流星 (航空機)|流星]]18機<br/>[[彩雲 (航空機)|彩雲]]6機 || [[烈風]]2機<br/>[[流星 (航空機)|流星]]2機<br/>[[彩雲 (航空機)|彩雲]]1機 || 47機(うち補用機5機)
|-
| align="left" | 航空本部計画案 || 烈風25機<br/>流星25機<br/>彩雲7機 || 2機(機種記載なし) || 59機(うち補用機2機)
|-
| align="left" | 空母及搭載艦関係報告資料<ref group="注釈">>昭和19年10月19日作成</ref> || 烈風24機<br/>流星17機<br/>彩雲7機 || 烈風1機<br/>流星1機 || 50機(うち補用機2機)
|}

ただし烈風は開発が大幅に遅延したため[[紫電改]]の艦戦型に変更される予定だった(後述)。
;銃火器
対空火器として、12.7cm連装高角砲8基16門(片弦4基)、25mm3連装機銃37基<ref name="信濃兵装図" />、同単装40挺の合計151挺、28連装噴進砲(ロケット砲)12基を舷側に装備する予定だった。3連装機銃35基、単装40挺の計145挺<ref name="幻信濃寸法" />や、機銃合計140門とする文献もある<ref name="牧野ノート204">[[#牧野ノート]]204頁</ref>。出港時ロケット砲は搭載されていなかったが<ref>[[#諏訪 撃沈]]15頁、[[#海軍技術研究所]]251頁</ref>、[[志賀淑雄]]少佐(信濃飛行長)や神谷武久(工員)によれば、他の武装については、若干装備していたという<ref>碇義朗『最後の戦闘機紫電改』(光人社、1994)229頁、[[#歴史群像22信濃]]161頁</ref>。諏訪繁治(兵曹、通信科)によれば、脱出時、高角砲甲板に高射砲弾が転がっていたという<ref>[[#豊田 信濃生涯]]308頁、諏訪繁治(兵曹、通信科)</ref>。

== 遺物 ==
* 信濃に搭載される予定だった主砲塔前楯は戦後アメリカ軍が技術調査で押収して[[アメリカ合衆国本土]]に持ち帰った。主砲前面の厚さ65センチの装甲板は至近距離から発射された40センチ砲によって破壊され、その残骸が[[ワシントン海軍工廠]]の公園に展示されており、現在も見学することができる。日本より返還要求があったが拒否された<ref name="yamato2">『{{small|歴史群像太平洋戦史シーリズ}}大和型戦艦2 {{small|最新の模型・考証・資料で今甦る超超弩級艦の実相}}』([[学研ホールディングス|学習研究社]]、1998年) ISBN 4-05-601919-3 原勝洋「米海軍の16インチ徹甲弾で射抜かれた戦艦信濃?の主砲塔前楯」 p103~p108、また多賀一史「ワシントン海軍工廠の大和型砲楯前鈑」 p140~p142
[http://www.ships-net.co.jp/detl/201002z/ 世界の艦船 2010年2月号増刊 「戦艦大和 100のトリビア」 (出版共同社)]
[http://www.ships-net.co.jp/detl/201002z/140-141.pdf p140~p141 「第6章 戦後譚 91 アメリカに残る大和型の装甲鈑」 (PDFファイル)]
</ref>。
</ref>。
* 信濃用の46センチ砲身は7本完成しており、うち2本がアメリカ軍に押収されアメリカ本土に運ばれたが、試射はされず分解されスクラップにされたといわれる<ref name="yamato2" />。残りの砲身は武器に転用されず、大和、武蔵とも、砲身交換をすることもなく沈没したこともあって、日本国内で破壊された。
* 信濃用の46センチ砲身は7本完成しており、うち2本がアメリカ軍に押収されアメリカ本土に運ばれたが、試射はされず分解されスクラップにされたといわれる<ref name="yamato2" />。残りの砲身は武器に転用されず、大和、武蔵とも、砲身交換をすることもなく沈没したこともあって、日本国内で破壊された。
* 信濃を詳細に捉えた写真は、東京湾内で公試中に、[[横浜市|横浜]]沖で[[IHI|石川島造船所]]の技師、荒川浩が撮影した上記のものが唯一確認されている。他には、米軍の偵察機が横須賀港を空撮した写真に、航行中の様子が偶然写り込んだものが1枚現存する。この他、横須賀港の6号乾ドックに入渠した状態を空撮した写真が発見されており、専門家の分析の結果、建造中の信濃であると断定されている<ref>[https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2019100738SA000/index.html3 BS1スペシャル 「幻の巨大空母“信濃”~乗組員が語る 大和型“不沈艦”の悲劇~」(前編)]</ref><ref name = NHKBS1/><ref>『[[丸 (雑誌)|丸]]』2019年11月号</ref>。
* 信濃の写真は、本項目にも使われているものや、米軍の横須賀偵察時の空撮での不鮮明な状態の二枚しか現存せず、細かい部分については不明な点も多い。
* 信濃を建造した6号乾ドックは、[[在日米軍]]の空母や各種艦船の整備用に現在も使用されており、ドックの外壁は当時のまま残されている。現用の軍事施設であるため、特別な許可を得た場合を除き、一般人は立ち入り禁止となっている<ref name="#4"/>。
* 信濃は横須賀海軍工廠で建造された、最後の日本海軍艦艇となった。建造資材が欠乏する中、文字通り工廠中の資材をかき集めて建造されたといわれる。

* 信濃を建造した3号乾ドックは、その後在日米軍のアメリカ空母や各種艦船の整備に使用され、日米関係上から、日本人は基本的に立ち入り禁止となっている。<ref>しかし、横須賀を基地とした歴代米空母は、信濃と同様必ずと言って良いほどトラブルや事故(航空機部品落下や、艦体の工事によるアスベスト問題等)を起こしている。</ref>
==引き揚げ計画==
終戦直後、沈没地点は[[志摩半島]]の西南2マイルの沖合と推定されており、[[連合国軍最高司令官総司令部]]の許可さえ得られれば、引き揚げは比較的容易であると考えられていた。[[1951年]]10月には<ref>「青鉛筆」『朝日新聞』昭和26年10月21日</ref>、連合国軍最高司令官総司令部から[[大蔵省]]へ艦体が返還されるとの話がもちあがり、[[東海財務局]]が水深調査などの引き揚げ準備を始めたと報道されたが{{Efn|name="tht19511022p9"}}、実現することはなかった。


== 艦長 ==
== 艦長 ==
;艤装員長
* [[阿部俊雄]]大佐
* [[阿部俊雄]] 大佐:1944年8月15日<ref name="辞令1567" /> - 1944年10月1日<ref name="辞令1612" />
;艦長
* 阿部俊雄 大佐:1944年10月1日<ref name="辞令1612" /> - 11月29日戦死(少将進級2月16日)<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072103400|昭和20年2月16日(昭和19年11月29日付)海軍辞令公報(甲)第1723号 p.42}}</ref>

==脚注==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*[https://dl.ndl.go.jp/ 国立国会図書館デジタルコレクション] - [[国立国会図書館]]
* 安藤日出男『幻の空母信濃』([[朝日ソノラマ]]文庫航空戦史シリーズ、1987年) ISBN 4-257-17093-X
**{{Cite book|和書|author=第二復員局残務處理部|year=1950|month=6|title=海軍の軍備竝びに戦備の全貌. 其の二((3)及び(4)計画附支那事変に伴う海軍軍備) |url={{NDLDC|8815710}}|publisher=|ref=海軍軍備(2)}}
* [[豊田穣]]『空母「信濃」の生涯 <small>巨大空母悲劇の終焉</small>』(光人社NF文庫、2000年) ISBN 4-7698-2275-8
**{{Cite book|和書|author=第二復員局残務處理部|year=1951|month=2|title=海軍の軍備竝びに戦備の全貌. 其の三(開戦直前の応急軍備、戦備と(5)及び(6)計画の概要) |url={{NDLDC|8815683}}|publisher=|ref=海軍軍備(3)}}
* J.F.エンライト & J.W.ライアン 著\高城肇 訳『信濃! <small>日本秘密空母の沈没</small>』(光人社NF文庫、1994年) ISBN 4-7698-2039-9
**{{Cite book|和書|author=第二復員局残務處理部|year=1951|month=6|title=海軍の軍備竝びに戦備の全貌. 其の四(開戦から改(5)計画発足まで)|url={{NDLDC|8815691}} |publisher=|ref=海軍軍備(4)}}
* 雑誌「丸」編集部『<small>写真</small> 日本の軍艦 第4巻 <small>空母Ⅱ</small>』([[潮書房|光人社]]、1989年) ISBN 4-7698-0454-7
**{{Cite book|和書|author=第二復員局残務處理部|year=1949|month=7|title=太平洋戦争中に於ける日本海軍航空部隊編制及飛行機定数表(外戦部隊) |url={{NDLDC|8815634}}|publisher=|ref=海軍航空部隊編制}}
* 『<small>歴史群像太平洋戦史シリーズ</small> 空母大鳳・信濃』([[学研ホールディングス|学習研究社]]、1999年) ISBN 4-05-602062-0
** {{Cite book|和書|author=連合軍総司令部民間情報教育局編|year=1946|month=8|title={{small|連合軍最高司令部民間情報教育局編 ラヂオ放送「眞相箱」の再録}} 眞相はかうだ {{small|第一輯}}|url={{NDLDC|1042022}}|publisher=総合プレス社|ref=真相はかうだ}}
* 蟻坂四平・岡健一『空母信濃の少年兵 <small>死の海からのダイブと生還の記録</small>』(元就出版社、2004年) ISBN 4-86106-005-2

* 豊田穣『雪風ハ沈マズ <small>強運駆逐艦 栄光の生涯</small>』(光人社、1983年) ISBN 4-7698-0208-0
* [https://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)](防衛省防衛研究所)
* 駆逐艦雪風手記編集委員会『激動の昭和 世界奇跡の駆逐艦 雪風』(駆逐艦雪風手記刊行会、1999年10月)
** Ref.C08011233600「艦艇特務艦艇籍一覧表」
* 『<small>歴史群像シリーズ</small> 戦艦大和』(学習研究社、1998年) ISBN 4-05-603432-X
** Ref.C08030585900「昭和19年12月19日 軍艦雲龍戦闘詳報」
* 『<small>歴史群像シリーズ</small> 日本の航空母艦パーフェクトガイド』(学習研究社、2003年) ISBN 4-05-603055-3
**Ref.{{Cite book|和書|id=C08030102400|title=昭和19年11月20日~昭和19年12月30日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)|ref=S1911二水戦日誌(1)}}
**Ref.{{Cite book|和書|id=C08030147000|title=昭和19年11月1日~昭和20年5月31日 第17駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(1)|ref=S1911十七駆日誌(1)}}
**Ref.{{Cite book|和書|id=C08030147800|title=昭和19年11月1日〜昭和20年5月31日 第17駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(9)|ref=S1911十七駆日誌(9)}}
**Ref.{{Cite book|和書|id=C16120646600|title=昭和19.9.1~昭和19.11.30太平洋戦争経過概要 その10/19年11月16日~19年11月30日|ref=S19.11.16~11.30経過概要}}
**Ref.{{Cite book|和書|id=C12070195500|title=自昭和19年1月至昭和19年7月内令/昭和19年7月|ref=内令昭和19年7月}}
**Ref.{{Cite book|和書|id=C12070215100|title=昭和19年9月.昭和19年12月 内令員/内令員 昭和19年10月(1)|ref=S1909-1912/内令員昭和19年10月(1)}}
**Ref.{{Cite book|和書|id=C12070497400|title=昭和19年9月~12月秘海軍公報号外/10月(2)|ref=秘海軍公報昭和19年10月(2)}}
**Ref.{{Cite book|和書|id=C12070479600|title=昭和19年6月~7月 海軍公報(部内限)/7月(1)|ref=昭和19年6月~7月 海軍公報(部内限)/7月(1)}}
**Ref.{{Cite book|和書|id=C12070530400|title=昭和20年8月 昭和20年11月 海軍公報(終戦関係)|ref=昭和20年8月 昭和20年11月 海軍公報(終戦関係)}}

<!-- ウィキペディア推奨スタイル、著者五十音順 -->
* <!-- アイラ? -->{{Cite book|和書|author=相良俊輔|authorlink=相良俊輔|year=1975|month=11|title=まぼろしの空母 信濃|publisher=講談社|ref=相良 信濃}}
* <!-- アリサカ? --->{{Cite book|和書|author=蟻坂四平|authorlink=蟻坂四平|coauthors=[[岡健一]]|year=2004|title=空母信濃の少年兵 {{small|死の海からのダイブと生還の記録}}|publisher=元就出版社|isbn=4-86106-005-2|ref=信濃少年兵}}
* <!-- アンドウ -->{{Cite book|和書|author=安藤日出男|authorlink=安藤日出男|year=1987|title=幻の空母信濃|publisher=[[朝日ソノラマ]]文庫航空戦史シリーズ|isbn=4-257-17093-X|ref=安藤 信濃}}
* <!-- イトウ -->{{Cite book|和書|author=伊藤正徳|coauthors=|authorlink=|chapter=第七章 世界一の好運艦雪風|year=1974|month=7|title=連合艦隊の栄光|publisher=角川書店|ISBN=|ref=連合艦隊の栄光(角川)}}
* <!-- イノウエ1999 -->{{Cite book|和書|author=井上理二|authorlink=井上理二|year=1999|title=駆逐艦磯風と三人の特年兵|publisher=光人社|isbn=4-7698-0935-2|ref=井上 磯風}}
* <!-- イノウエ2011 -->{{Cite book|和書|author=井上理二|oldyear=1999|year=2011|month=10|title=駆逐艦磯風と三人の特年兵|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-2709-2|ref=磯風特年兵(文庫)}}
* <!-- ウガキ -->{{Cite book|和書|author=宇垣纏|authorlink=宇垣纏|coauthors=[[成瀬恭]]発行人|year=1968|title=[[戦藻録]]|publisher=原書房|ref=戦藻録(九版)}}
* <!-- エンライト -->{{Cite book|和書|author=J.F.エンライト & J.W.ライアン|coauthors=[[高城肇]]訳|year=1994|title=信濃! {{small|日本秘密空母の沈没}}|publisher=光人社|isbn=4-7698-2039-9|ref=エンライト 信濃!}}<br />[[千早正隆]]監修。エンライトはアーチャーフィッシュの艦長。日本側記述は豊田穣『空母信濃の生涯』を参考文献としている。
* <!-- オオイ2014 -->{{Cite book|和書|author=大井篤|authorlink=大井篤|coauthors=|year=2014|month=5|origyear=1953|title=海上護衛戦|chapter= |publisher=角川文庫|isbn=978-4-04-101598-8|ref=海上護衛戦(角川)}}
* <!-- オオウチ2005 -->{{Cite book|和書|author=大内建二|authorlink=|year=2005|month=4|title=護衛空母入門 {{small|その誕生と運用メカニズム}}|publisher=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2451-3|ref=護衛空母入門}}
* <!-- オオウチ2006 -->{{Cite book|和書|author=大内建二|authorlink=|year=2006|month=12|title=幻の航空母艦 {{small|主力母艦の陰に隠れた異色の艦艇}}|publisher=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2514-5|ref=幻の航空母艦}}
* <!-- カイグンレキシ -->海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第一法規出版、1995年。
* <!-- カワサキ -->{{Cite book|和書|author=川崎まなぶ|authorlink=川崎まなぶ|year=2009|title=日本海軍の航空母艦 {{small|その生い立ちと戦歴}}|publisher=大日本絵画|isbn=978-4-499-23003-2|ref=川崎戦歴}}
* <!-- クチクカンユキカゼ -->{{Cite book|和書|author=駆逐艦雪風手記編集委員会|year=1999|month=9|title={{small|激動の昭和・世界奇跡の駆逐艦}} 雪風|publisher=駆逐艦雪風手記刊行会|isbn=|ref=奇跡の駆逐艦}}
* <!-- コウダチ -->{{Cite book|和書|author=神立尚紀|year=2004|month=8|title=戦士の肖像|chapter=角田和男 {{small|「特攻の真意」と慰霊の旅}}|publisher=文春ネスコ|isbn=4-89036-206-1|ref=戦士の肖像}}
* <!-- コバヤシ -->{{Cite book|和書|author=小林昌信ほか|year=2014|month=8|title=戦艦十二隻 {{small|国威の象徴"鋼鉄の浮城"の生々流転と戦場の咆哮}}|publisher=光人社|isbn=978-4-7698-1572-3|ref=戦艦十二隻(2014)}}
**{{small|当時「大和」内務科分隊長・海軍中尉}}今井賢二『戦艦「大和」ミッドウエー防禦戦闘 {{small|応急部指揮官としてダメージコントロールから見た知られざる不沈艦の秘密}}』
* <!-- サトウ -->{{Cite book|和書|author=佐藤和正|authorlink=佐藤和正|year=1997|month=10|title=空母入門|publisher=光人社|isbn=4-7698-2174-3|ref=佐藤 空母}}
* <!--スワ-->{{Cite book|和書|author=諏訪繁治|authorlink=諏訪繁治|year=2010|month=11|title=沈みゆく信濃{{small|知られざる撃沈の瞬間}}|publisher=光人社|isbn=978-4-7698-2658-3|ref=諏訪 撃沈}}<br />「沈みゆく信濃」(民鐘出版、1947年)を改訂。著者の体験談だが、一部人名を仮名としてある。
* <!--セカイ2010-->{{Cite book|和書|volume=世界の艦船 2011年1月号増刊 第736集(増刊第95集)|title=日本航空母艦史|publisher=海人社|date=2010-12|ref=日本航空母艦史}}
* <!--タカマツ1997六巻-->{{Cite book|和書|author=高松宮宣仁親王|authorlink=高松宮宣仁親王|coauthors=[[嶋中鵬二]]発行者|title=高松宮日記 第六巻 {{small|昭和十八年 二月~九月}}|publisher=中央公論社|year=1997|origyear=|ISBN=4-12-403396-6|ref=高松宮日記6巻}}
* <!--タカマツ1997七巻-->{{Cite book|和書|author=高松宮宣仁親王|authorlink=高松宮宣仁親王|coauthors=[[嶋中鵬二]]発行人|title=高松宮日記 第七巻 {{small|昭和十八年十月一日~昭和十九年十二月三十一日}}|publisher=中央公論社|year=1997|month=7|ISBN=4-12-403397-4|ref=高松宮日記7巻}}
* <!--タカマツ1997八巻-->{{Cite book|和書|author=高松宮宣仁親王|authorlink=高松宮宣仁親王|coauthors=[[嶋中鵬二]]発行人|title=高松宮日記 第八巻 {{small|昭和二十年一月一日~昭和二十二年十一月五日}}|publisher=中央公論社|year=1997|month=12|ISBN=4-12-403398-2|ref=高松宮日記8巻}}
* <!-- タカハシ -->{{Cite book|和書|author=高橋定ほか|coauthors=|year=2013|month=1|origyear=|title=母艦航空隊 {{smaller|体験で綴る空母機動部隊の一挙一動と海空戦の真相!}}|publisher=潮書房光人社|isbn=978-4-7698-1538-9|ref=母艦航空隊}}
**空母「信濃」着艦テストと飛行長 {{small|元川西航空機設計技師}}菊原静男/{{small|元「信濃」飛行長・海軍少佐}}志賀淑雄
* <!-- タナカ -->{{Cite book|和書|author=田中宏巳|coauthors=|year=2017|month=5|title=横須賀鎮守府|publisher=有隣堂|series=有隣堂新書|isbn=978-4-89660-224-1|ref=田中2017、横鎮}}
* <!-- ノモト2013 -->{{Cite book|和書|author=野元為輝ほか|coauthors=|year=2013||month=06|title=航空母艦物語 {{small|体験で綴る日本空母の興亡と変遷!}}|publisher=潮書房光人社|isbn=978-4-7698-1544-0|ref=野元、航母(2013)}}
**{{small|当時横須賀工廠造船部員・海軍技師}}立川義治『戦艦「信濃」を空母に改装するまで {{small|世界最大の空母。しかし戦艦からの改装は技術者泣かせだった}}』
**横須賀工廠技術陣『超大空母「信濃」は私たちが造った {{small|座談会/技術の枠を結集した一一〇号艦建造秘話}}』
**{{small|当時「信濃」軍医長・海軍軍医少佐}}安間孝正『処女航海で沈んだ七万トン空母の最後 {{small|沈没の修羅場から生還した軍医長の手記}}』
**{{small|元「信濃」通信長・海軍中佐}}荒木勲『大傾斜七十度 巨艦「信濃」の末路 {{small|悪夢のごとき一瞬に生涯をかけた通信長の証言}}』
* <!-- テヅカ -->{{Cite book|和書|author=手塚正己|authorlink=手塚正己|year=2009|title=軍艦武藏 上巻|publisher=新潮文庫|isbn=|ref=武藏上}}
* <!-- テヅカ -->{{Cite book|和書|author=手塚正己|authorlink=手塚正己|year=2009|title=軍艦武藏 下巻|publisher=新潮文庫|isbn=|ref=武藏下}}<br />下巻(2009年版)に浜風の磯山航海長、武田水雷長の信濃の護衛時談話を掲載
*<!-- トヤマ -->外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。ISBN 4-7698-1246-9
* <!-- トヨダ1983 -->{{Cite book|和書|author=豊田穣|authorlink=豊田穣|year=1983|title=雪風ハ沈マズ {{small|強運駆逐艦 栄光の生涯}}|publisher=光人社|isbn=4-7698-0208-0|ref=豊田 雪風}}
** <!-- トヨダ2004 -->{{Cite book|和書|author=豊田穣|authorlink=豊田穣|coauthors=|year=2004|title=雪風ハ沈マズ {{small|強運駆逐艦栄光の生涯}}|publisher=光人社NF文庫新装版|isbn=978-4-7698-2027-7|ref=雪風ハ沈マズ新装}}
* <!-- トヨダ2000 -->{{Cite book|和書|author=豊田穣|authorlink=豊田穣|year=2000|title=空母信濃の生涯 {{small|巨大空母悲劇の終焉}}|publisher=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2275-8|ref=豊田 信濃生涯}}
* <!-- ナカガワ -->{{Cite book|和書|author=中川靖造|authorlink=中川靖造|coauthors=|year=1990|month=10|title=海軍技術研究所 {{small|エレクトロニクス王国の先駆者たち}}|publisher=講談社|isbn=4-06-184790-2|ref=海軍技術研究所}}
* <!-- ナナブンタイ? -->{{Cite book|和書|author=七分隊長門会|authorlink=|year=1982|month=8|title=長門七分隊 {{small|機銃群隊員の鎮魂記録}}|publisher=原書房|ref=長門七分隊}}
* {{Cite book|和書|author=鳴戸清爾|authorlink=鳴戸清爾|year=1994|title=硯滴録 わが海軍戦記|publisher=出版芸術社|ref=鳴戸 硯滴録}}
* <!--ニホンゾウセン1977-->{{Cite book|和書|volume=明治百年史叢書 第207巻|title=昭和造船史(第1巻)|editor=(社)日本造船学会|edition=第3版|publisher=原書房|date=1981|origdate=1977-10|isbn=4-562-00302-2|ref=昭和造船史1}}
* <!--ニワタ-->{{Cite book|和書|author=庭田尚三|authorlink=庭田尚三|year=1965|month=9|title={{small|元海軍技術中将 庭田尚三述}} 建艦秘話|chapter=|publisher=船舶技術協会|isbn=|ref=庭田、建艦秘話}}
* <!--ハセガワ-->{{Cite book|和書|author=長谷川藤一|title=<small>軍艦メカニズム図鑑</small> 日本の航空母艦|publisher=グランプリ出版|origdate=1997-09|date=1998-12|edition=第3刷|isbn=4-87687-184-1|ref=長谷川-日本の航空母艦}}
* <!--ハラ-->{{Cite book|和書|author=原勝洋|chapter=「信濃」の誕生とその最期 空母「信濃」|title=猛き艨艟 {{small|太平洋戦争日本軍艦戦史}}|publisher=文春文庫|year=2000|month=8|origyear=|ISBN=4-16-745602-8|ref=猛き艨艟}}
* <!--フクイ1982-->{{Cite book|和書|author=福井静夫|authorlink=福井静夫|date=1982-04|title=海軍艦艇史 3 航空母艦、水上機母艦、水雷・潜水母艦|publisher=KKベストセラーズ|isbn=4-584-17023-1|ref=海軍艦艇史3}}
* <!-- フクイ1993 -->{{Cite book|和書|author=福井静夫|authorlink=福井静夫|year=1993|title= 福井静夫著作集第10巻 日本補助艦艇物語|publisher=光人社|isbn=4-7698-0658-2|ref=日本補助艦艇物語}}
* <!--フクイ1994-->{{Cite book|和書|author=福井静夫|authorlink=福井静夫|date=1994|title=写真 日本海軍全艦艇史|publisher=ベストセラーズ|isbn=4-584-17054-1|ref=日本海軍全艦艇史}}<!-- 上巻、下巻、資料篇 -->
* <!--フクイ1996-->{{Cite book|和書|author=福井静夫|authorlink=福井静夫|date=1996-08|volume=福井静夫著作集第7巻|title=日本空母物語|publisher=光人社|isbn=4-7698-0655-8|ref=日本空母物語}}
* <!-- フクチ -->{{Cite book|和書|author=福地周夫|authorlink=福地周夫|year=1982|month=6|chapter=「総員退艦」はまだですか {{small|―空母信濃沈没悲話}}|title=続・海軍くろしお物語|publisher=光人社|isbn=4-7698-0179-3|ref=続海軍くろしお}}
* <!--フタバシヤ-->{{Cite book|和書|authorlink=双葉社|author=双葉社|year=2006|month=12|title=3DCGシリーズ34 大和型戦艦|publisher=双葉社|isbn=4-575-47890-3|ref=双葉社}}
* <!-- ブンゲイ -->{{Cite book|和書|author=文藝春秋編|year=1991|month=12|chapter=沢本倫生(当時信濃士官)「まぼろしの空母・信濃への挽歌」(初出文藝春秋臨時増刊「太平洋戦争 日本軍艦戦記」昭和45年11月)|title=完本・太平洋戦争(下)|publisher=[[文藝春秋]]|isbn=4-16-345930-8|ref=完本太平洋戦争下}}
* <!-- ペイヤ -->{{Cite book|和書|author=レオンス・ペイヤール|coauthors=長塚隆二訳|title=潜水艦戦争 {{small|1939-1945}}|publisher=早川書房|year=1973|month=12|ISBN=|ref=潜水艦戦争}}
* <!--ボウエイチョウ29-->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|authorlink=|year=1969|month=8|title=戦史叢書29 北東方面海軍作戦|publisher=朝雲新聞社|ref=戦史叢書29北東方面}}
* <!--ボウエイチョウ31-->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで|volume=第31巻|year=1969|publisher=[[朝雲新聞社]]|ref=戦史叢書31海軍軍戦備1}}
* <!--ホウエイチョウ43 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 ミッドウェー海戦|volume=第43巻|year=1971|month=3|publisher=朝雲新聞社|ref=叢書43ミッドウェー海戦}}
* <!--ボウエイチョウ88 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|authorlink=|year=1975|month=10|title=戦史叢書88 海軍戦備(2) {{small|開戦以後}}|publisher=朝雲新聞社|ref=戦史叢書海軍戦備(2)}}
*<!--ホウエイチョウ102 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 陸海軍年表 {{small|付 兵器・兵語の解説}}|volume=第102巻|year=1980|month=1|publisher=朝雲新聞社|ref=叢書102}}
* <!-- マエマ -->{{Cite book|和書|author=前間孝則|authorlink=前間孝則|year=1999|title=戦艦大和誕生 {{small|西島技術大佐の未公開記録}}|publisher=講談社|isbn=4062564017|ref=前間 大和誕生}}
* <!--マキノ1987-->{{Cite book|和書|editor1=牧野茂|editor1-link=牧野茂 (軍人)|editor2=福井静夫|editor2-link=福井静夫|date=1987-05|title=海軍造船技術概要|publisher=今日の話題社|isbn=4-87565-205-4|ref=海軍造船技術概要}}
* <!-- マキノ1987 -->{{Cite book|和書|author=牧野茂|authorlink=牧野茂 (軍人)|year=1987|title=艦船ノート|publisher=出版共同社|isbn=4-87970-045-2|ref=牧野ノート}}<br />牧野は大和型戦艦設計者の一人。信濃の空母改造にも携わった。
* <!--マル1989-10-->{{Cite book|和書|title=<small>写真</small>日本の軍艦 第4巻 <small>空母II</small>|editor=雑誌『丸』編集部|editor-link=丸 (雑誌)|publisher=光人社|date=1989-10|isbn=4-7698-0454-7|ref=写真日本の軍艦第4巻}}
* <!-- マル2010 -->{{Cite book|和書|author=雑誌「丸」編集部|coauthors=|year=2010||month=7|chapter={{small|元信濃の乗組・海軍上等兵曹}}諏訪繁治『巨大空母信濃十七時間の生涯|title=空母機動部隊 {{small|私は非情の海空戦をこう戦った!}}|publisher=光人社|isbn=|ref=空母機動部隊(2010)}}
* <!-- マル2010 -->{{Cite book|和書|author=「丸」編集部編|year=2010|title=最強戦闘機紫電改 {{small|蘇る海鷲}}|publisher=光人社|isbn=978-4-7698-1456-6|ref=蘇る海鷲}}
** 山本重久海軍技廠実験部員「テストパイロット試乗機」
* <!-- ヨコイ2016 -->{{Cite book|和書|author=横井俊之ほか|coauthors=|year=2016||month=2|title=空母二十九隻 {{small|日本空母の興亡変遷と戦場の実相}}|publisher=潮書房光人社|isbn=978-4-7698-1611-9|ref=空母二十九隻}}
**{{smaller|当時「信濃」設計担当・海軍造船中将}}福田啓二『私が設計したマンモス空母「信濃」の秘密 {{smaller|誕生の由縁から性能特長および悲劇の周辺まで秘密空母の素顔}}』
**{{smaller|当時「信濃」建造現場担当・海軍技術大佐}}前田龍夫『宿命を背負った空母「信濃」の予期せぬ出来事 {{smaller|進水命名式を前にドック内で繋留ワイヤロープ切断の一大事}}』
**{{smaller|当時「信濃」機械分隊長・海軍少佐}}三浦治『機関科分隊長が体験した信濃沈没の悲運 {{smaller|四年半のドック生活の果て出港沈没したマンモス空母の十七時間}}』
**{{smaller|戦史研究家}}伊達久『日本海軍航空母艦戦歴一覧 {{smaller|伊吹および雲龍型未成艦をふくむ空母二十九隻の太平洋戦争}}』
*<!-- レキシグンゾウ1998 -->『{{small|歴史群像シリーズ}} 戦艦大和』(学習研究社、1998年) ISBN 4-05-603432-X
* <!-- レキシグンゾウ1999 -->{{Cite book|和書|author={{small|歴史群像太平洋戦史シリーズ22}}|year=1999|month=7|title=空母大鳳・信濃{{small|造艦技術の粋を結集した重防御大型空母の偉容}}|publisher=[[学研ホールディングス|学習研究社]]|isbn=4-05-602062-0|ref=歴史群像22信濃}}
*<!-- レキシグンゾウ2003 -->『{{small|歴史群像シリーズ}} 日本の航空母艦パーフェクトガイド』(学習研究社、2003年) ISBN 4-05-603055-3


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
{{Commonscat}}
* [[大日本帝国海軍艦艇一覧]]


* [[大和型戦艦]]
== 脚注 ==
* [[信濃丸]]
<references />
* [[深江章喜]](映画やテレビ等で悪役で活躍した俳優。生存した乗組員の一人。沈没時に12時間漂流して救助された。)


{{日本の航空母艦}}
{{日本の航空母艦}}
{{日本の戦艦}}


{{デフォルトソート:しなの}}
[[Category:日本の航空母艦|しなの]]
[[カテゴリ:大和型戦艦]]
{{Link GA|en}}
[[カテゴリ:中止になった日本の計画戦艦]]

[[カテゴリ:日本の航空母艦]]
[[bg:Шинано (самолетоносач)]]
[[カテゴリ:第二次世界大戦の日本の航空母艦]]
[[cs:Šinano (letadlová loď)]]
[[Category:改造空母]]
[[de:Shinano (1944)]]
[[カテゴリ:1944年進水船]]
[[el:Ιαπωνικό αεροπλανοφόρο Σινάνο]]
[[カテゴリ:1944年竣工船]]
[[en:Japanese aircraft carrier Shinano]]
[[カテゴリ:第二次世界大戦の沈没船]]
[[es:Portaaviones Shinano (1944)]]
[[カテゴリ:横須賀海軍工廠が建造した艦船]]
[[fi:Shinano]]
[[fr:Shinano (porte-avions)]]
[[hu:Shinano (repülőgép-hordozó)]]
[[it:Shinano (portaerei)]]
[[ko:일본 항공모함 시나노]]
[[lb:Shinano (1944)]]
[[nl:Shinano (vliegdekschip)]]
[[pl:Shinano]]
[[pt:Porta-aviões japonês Shinano]]
[[ru:Синано (авианосец)]]
[[sk:Šinano (lietadlová loď)]]
[[sr:Јапански носач авиона Шинано]]
[[sv:Shinano]]
[[vi:Shinano (tàu sân bay Nhật)]]
[[zh:信濃號航空母艦]]

2024年11月23日 (土) 02:05時点における最新版

信濃
東京湾にて公試航行中の信濃(1944年11月11日)。 取り舵をとっているため、右舷に傾斜している。
東京湾にて公試航行中の信濃(1944年11月11日)。
取り舵をとっているため、右舷に傾斜している。
基本情報
建造所 横須賀海軍工廠[1]
運用者  大日本帝国海軍
艦種 大和型戦艦(3番艦)→航空母艦[2]
前級 雲龍型航空母艦
次級 伊吹(未成)
建造費 戦艦時成立予算 130,000,000円[3]
実質予算 147,700,000円[3]
母港 横須賀[4]
艦歴
計画 マル4計画(戦艦として)[5]
発注 1939年建造訓令[6]
起工 1940年4月7日[7][8][9]
もしくは5月4日[10]
進水 1944年10月8日[10]、もしくは10月6日[9]、10月5日[5]
竣工 1944年11月19日[10][7]
最期 1944年11月29日沈没[11]
除籍 1945年8月31日[12]
要目([13][14][15]
基準排水量 62,000英トン[15][16]
公試排水量 68,059トン[16]
または68,060トン[17]、69,100トン[18]
満載排水量 71,890トン[14]
全長 266.0m(艦首より後部機銃フラット後端まで[19][16][注釈 1]
水線長 256.0m[16]
垂線間長 244m[20]
最大幅 38.90m(水線下)[21] または38.0m[11]
水線幅 36.30m[16][注釈 2]または36.9m[18]
深さ 18.915m[22][21]
24.81m(飛行甲板側線まで)[16]
飛行甲板 256.00 x 40.00m[15][16]、または256.000x39.400m[23][注釈 3]
エレベーター2基[16]
吃水 10.312m[16]
10.3m(T.W.L)、10.4m(1.W.L.)[24]
ボイラー ロ号艦本式缶(空気余熱器付[22])12基[11]
主機 艦本式タービン(高低圧2組[22])4基[11]
推進 4軸[16] x 225rpm、直径5.100m[25]
出力 150,000hp[16]
または160,000shp[13]
速力 27.0ノット(予定)[15][16] または 27.3ノット[13]
燃料 8,900トン(満載)[16] または 9,000トン[26] または7,350トン[13]
航続距離 10,000カイリ / 18ノット[15][16]
乗員 2,400名[16]
1944年10月1日付定員 2,515人[注釈 4]
兵装 12.7cm連装高角砲8基16門[15][16]
25mm3連装機銃 37基[27]または35基[28]
同単装機銃40基[15][16]
12cm28連装噴進砲12基(後日装備)[注釈 5]
装甲 飛行甲板 20mmDS+75mmCNC鋼[26]
舷側 160-270mmNVNC鋼(傾斜20度)[26]
甲板 190mmNVNC鋼[26]
軽質油タンク舷側25mmDS鋼2枚、同甲板25mmDS+70mm鋼[30]
レーダー 21号電探2基[31]
13号電探2基[31]
テンプレートを表示

信濃(しなの)は、大日本帝国海軍航空母艦[1][32]。艦名は旧国名信濃国から採られた。第二次世界大戦に参加した最大の航空母艦であった[33]

概要

[編集]

軍艦信濃(しなの)は[1]、日本海軍が建造した航空母艦[注釈 6]④計画にもとづき横須賀海軍工廠1940年(昭和15年)5月に起工した大和型戦艦3番艦(110号艦)を[注釈 7]ミッドウェー海戦以降の戦局の変化に伴い[36]戦艦から航空母艦に設計変更した改造空母である[37][注釈 8]

1944年(昭和19年)11月19日、航空母艦として竣工[39]11月28日、空襲を避けるため未完成[40]のまま横須賀から呉へ回航される[注釈 9]。 第十七駆逐隊(磯風浜風雪風)に護衛されて航行中の11月29日午前3時20分[注釈 10]紀伊半島潮岬沖合でアメリカ海軍潜水艦アーチャーフィッシュ」より魚雷攻撃を受ける[43]。魚雷4本が命中[42]、浸水が止まらず、午前10時50分頃に転覆して沈没した[44]。竣工から沈没まで艦命は僅か10日間であった[32]

艦歴

[編集]

建造

[編集]

大和型戦艦

[編集]

第一次世界大戦後締結されたワシントン海軍軍縮条約及びロンドン海軍軍縮条約で海軍力を制限された日本海軍は、国力・経済力で圧倒的優位に立つアメリカに対し量を質で凌駕するという発想から、46cm砲を搭載した大和型戦艦を計画する。条約明けの1937年(昭和12年)、第1号艦大和・第2号艦武蔵・第5号艦日進等は第70回帝国議会に提出された第三次海軍軍備補充計画(③計画)により予算が承認され、建造が始まった。

翌年、日本海軍は第四次海軍軍備充実計画(④計画)を立ち上げ、艦齢30年が経過した金剛型戦艦3番艦榛名、4番艦霧島の代艦として大和型戦艦建造番号第110号艦第111号艦、計2隻の建造を決定した。この2隻は、先に建造された第1号艦(大和)、第2号艦(武蔵)の不具合を改善し、より完成度の高い戦艦となるはずだった[45][46][注釈 11]

第110号艦(信濃)を建造した横須賀海軍施設六号ドック

第110号艦は横須賀海軍工廠第六船渠を新造し、そこで建造されることが決まった[48]。大和型戦艦の排水量は7万トンを超える。このクラスの超大型艦が合計4隻も建造される予定に対して、将来的に発生するであろう修理・改造工事に使用可能なのが呉にある1つの船渠(ドライドック)だけでは順番待ちなどの恐れが生じることや、横須賀を呉に並ぶ海軍の重要拠点としたいという意向があったため、姉妹艦の武蔵(長崎、三菱重工)のように船台での建造を選ばず、大和型戦艦用の第6船渠を新たに作る事になった[49][50]。当時の横須賀最大のドックは、長門型戦艦陸奥」が建造中に入渠した第5船渠だった[51]。2年3ヶ月の期間と約1,700万円(当時)の費用をかけて全長336m、全幅62m、深さ18mのドックが完成した[52]。この時に排出した土砂は、隣接していた海軍砲術学校の海岸埋め立てに使用され[53]、広いグラウンドとなった。

第二復員局がまとめた資料では、110号艦の起工日は1940年(昭和15年)4月7日となっている[7][8]

5月4日、ドックの完成と同時に第110号艦の起工式が行われる[54]。第110号艦自体の予算は約1億4770万円(当時)で、国会議事堂(2570万円)が6つ建設できる計算となる[55]。この時のお祓いも機密保持を考慮し、外部から本職の神主を呼ぶのではなく、工廠の関係者の中から神主の資格を持っていた足場組長の大須賀種次が選ばれ、大役が任された[56][57]。大和、武蔵が予算計上時は一号艦、二号艦と呼ばれていたことから、本艦にも三号艦の俗称があった[58]。また工員達の間では第110号艦を略して「110」と呼ばれていた[59]

第110号艦は1943年(昭和18年)10月進水、1944年(昭和19年)4月主砲積込み、1945年(昭和20年)3月末の完成を目指し工事が進められていた[60]。だが、艦底防御の計画変更などにより建造工程は遅れ気味であった[61]。建造中、アメリカとの開戦が決定的となった。

1941年(昭和16年)11月、戦艦を含めた艦艇建造計画の見直しが行われ、潜水艦と航空機の生産優先が決定し、大型艦の建造が中止となる[62]第111号艦はミッドウェー海戦後に正式に建造中止となり即時解体[63][38]。後日、資材や艦体の一部は伊勢型戦艦2隻の航空戦艦[64]、ドイツ客船シャルンホルスト(空母「神鷹」)の空母改造工事に利用された[65]。甲鉄のうち製造済みのものは横須賀に運ばれ、110号艦にも利用されたという[66]

開戦時(12月8日)の第110号艦は、船体工事は前後部が弾薬庫床部分まで、中央部は下甲板附近まで、全体としては下部構造の工事進行中だったという[61]。そこで「本艦は戦艦としての工事を中止し、浮揚出渠せさるに必要な工事のみを進め、なるべく速やかに出渠(しゅっきょ)せしむべし」として船体のみを建造し、ドックを中型空母建造や損傷艦修理のために開けるよう命じられる[67]。1942年(昭和17年)10月の船体完成を目指すが、建造資材を損傷艦に廻されたり、工員の士気も下がるなどして、工事は停滞状態となった[68]。連合艦隊参謀長宇垣纏少将の陣中日誌戦藻録には、4月23日に杉浦軍令部第三課長と神重徳軍令部一課部員が連合艦隊司令部を訪れ、「戦艦建造を『第三号艦』迄とし、其余力を空母建造に集中するを可とす」とした他、超甲巡の建造見送り、潜水艦と航空機の増産などが話し合われたと記されている[69]

空母化

[編集]

1942年(昭和17年)春、アメリカが両洋艦隊法により大型航空母艦多数を建造しているという情報を得た日本軍は、改⑤計画改大鳳型航空母艦改飛龍型航空母艦など、空母の保有数を増やすことを検討していた[70]

4月18日、空母ホーネットから発進したB-25爆撃機16機が日本を空襲した(ドーリットル空襲[71]。横須賀にも1機が飛来し、第110号艦の近くで空母に改造中だった潜水母艦大鯨(後の空母龍鳳)に爆弾1発が命中した[72][73]。第110号艦に被害はなく、またアメリカ軍機にも発見されなかった[73]

このドーリットル空襲は6月上旬に実施予定であったミッドウェー島攻略作戦にも影響を与えたが[74]、作戦中に発生したミッドウェー海戦で日本軍は、主力空母4隻を失った[75][76]

日本海軍は空母機動部隊を再建すべく、戦時急造空母(商船改造空母雲龍型航空母艦改大鳳型航空母艦等)の急造を計画[77]、6月30日に海軍大臣の即時決裁をうけ建造を決定・開始する[78][注釈 12]

その一環として横須賀第6ドックから第110号艦をどかし、中型空母「飛龍」を改修した雲龍型航空母艦(17,500トン)2隻を同時建造する意向を示した[79]。しかし2年をかけて船体進行率70%という状態まで形状が出来ていた第110号艦の解体はそれだけでも大事業となり、横須賀工廠の現場からは机上の空論とみなされている[79]。だが大和型戦艦の象徴でもある46cm砲を呉工廠から横須賀工廠へ運搬するために必要な専用輸送船樫野」が9月4日に米潜水艦グロウラーに撃沈され、第110号艦を大和型戦艦として建造することも難しくなっていた[64][80]。仮に第110号艦(信濃)を大和型戦艦として完成させる場合、46cm主砲塔を細かく分解して特務艦「知床」(戦艦砲塔運搬可能)で輸送するか、第110号艦(信濃)を横須賀から呉に回航して主砲塔搭載工事を行わねばならなかった[80]

ここに至り日本海軍は大和型戦艦・第110号艦を航空母艦へ設計変更し、1944年(昭和19年)12月末を目指し空母として就役させることを決定する[36][81]。第110号艦は、タービン機械、ボイラー9基、艦前方の弾火薬庫の床の取り付けが完了し、船体中央は中甲板レベルの隔壁の組立中、艦尾は弾火薬庫の床が完成して、その上の構造物に取り掛かった状態であった[82]

第110号艦の空母改装に当たっては「航空母艦艤装に関しては完成期を遅延せしめざる範囲に於いて、戦訓に基づく改善事項を実施し、また出来得る限り艤装簡単化に関し研究実行す」と軍令部艦政本部の空母急速増産計画には記載されている[83]。1942年7月16日、軍令部次長が海軍次官に宛てた「第110号艦(改装)主用要目に関する件協議」では、排水量や速力の他、以下の項目を記載している[84]

  • 主用兵装搭載機は艦戦36、艦攻18、艦偵9。但し格納庫は艦戦18に対する分を完備し、艦攻18以上なるべく多数の応急格納し支障なからしめ、その余は甲板繋止めとす。
  • 飛行甲板防御は500kg爆弾の急降下爆撃に対し安全ならしむ。但し後部飛行機格納庫は800kg急降下爆撃に対し安全ならしむ。
  • 舷側防御:第130号艦に準ず(第130号艦は大鳳のこと。同艦は巡洋艦20cm砲弾防御)。
  • 爆弾、魚雷、航空燃料の搭載量は第130号艦程度とし、飛行機に対する補給を急速容易に実施可能ならしむ。

第110号艦の航空母艦への設計変更と改造にあたっては、艦政本部、軍令部(航空関係者)、航空本部員の間に、基本構想と意見の食い違いがあった[85]

艦政本部長の岩村清一中将より「本艦の空母としての性能は従来の空母を一変せしめ、洋上の移動航空基地たらしめる。すなわち原則として飛行機格納庫を備えず、従って固有の艦上攻撃機艦上爆撃機を搭載しない。本艦は最前線に進出し、後方の空母より発艦した飛行機は本艦に着艦し、燃料、弾薬、または魚雷を急速に補給して進発する。しかして巨大な飛行甲板に充分な甲鈑防御をほどこし、敵の空襲下にあくまで洋上の基地として任務を達成する。しかし自艦防衛上、直衛機(戦闘機)のみは搭載し、この分の格納庫だけは設ける」という案が示された[86][61]。「戦艦としての防御力を持つ船体に重防御を施した飛行甲板を装備して不沈空母化し、格納庫も搭載機も持たない」との意見さえあったとする主張もある[87]

大鳳型航空母艦があくまで『既存の空母の弱点である飛行甲板の防御』という構想から建造されたのに対し[88]、この初期案ではあくまで『洋上の航空基地』であることを第一として考えられている。また、ミッドウェー海戦での「航空母艦は被弾損傷に脆弱である」という戦訓から、爆弾や魚雷を装備した攻撃機や爆撃機を艦内に搭載しないという発想でもある[89]

しかしこの初期案は軍令部や航空本部側からの反発を招いた[61]神重徳(軍令部参謀)はアウトレンジ戦法に強く反対し、第110号艦を攻撃用空母とするよう強く主張している[90]。結局、「万が一敵からの攻撃をある程度受けても戦艦構造や強固な飛行甲板によって継戦能力を失わない。仮に他の空母が攻撃を受けて航空機の母艦としての能力を失っても、それらの空母に所属していた航空機を受け入れることで、艦隊としての航空戦闘能力を保持し続け」、搭載・運用する直衛機に加えて攻撃用の航空機を搭載し、さらに他の空母の航空機用の燃料や爆弾、魚雷までも用意しておくという大鳳型の着想と似たものとなった[91]

全面的に変更された空母用の最終的な設計は、この構想を実現するために、装甲飛行甲板と航空機用格納庫に加えて、燃料庫や弾火薬庫が拡充されることになった。1942年(昭和17年)7月末、空母への設計変更が決定し、1ヶ月で基本計画完了、9月早々海軍大臣に報告がおこなわれた[92]。艦政本部の基本設計が終わったのは11月、横須賀工廠で詳細設計を進め、工事再開は1943年初頭となった[93]

第110号艦(信濃)の建造が再開されたのは1942年(昭和17年)9月、竣工は1945年(昭和20年)2月末の予定だった[94]。ところが、日本海軍はガダルカナル島をめぐる戦いから多数の艦艇を喪失し、損失艦が続出した。

1943年(昭和18年)3月25日、嶋田繁太郎軍令部総長は各工廠に「損傷艦の修理を優先し、新造艦は松型駆逐艦及び潜水艦に限定せよ」と通達[94]。同年8月、「第110号艦」の建造は再度中断されることとなる[95]。その上、横須賀工廠は雲龍型航空母艦1番艦(雲龍[96]軽巡能代[97]松型駆逐艦[98]丙型海防艦[99]の建造や艤装工事、水上機母艦千代田軽空母に改造する作業、空母翔鶴修理作業(南太平洋海戦で大破)、空母飛鷹修理作業(昭和18年6月、潜水艦雷撃で大破)、軽巡洋艦「大淀」や重巡「摩耶」等各種艦艇の修理整備作業を抱えており[100]、工員4,000人を増員しても手一杯であった[101]。不思議なことに、竣工時期は1945年(昭和20年)1月と1ヶ月以上早められている[94]

1943年(昭和18年)6月24日、昭和天皇は横須賀沖に停泊中の戦艦「武蔵」(当時、連合艦隊旗艦)に行幸する[102][103]。これに先立ち、高松宮宣仁親王(天皇弟宮、海軍大佐)が110号艦を視察している[104]

1944年(昭和19年)6月19日から20日にかけて発生したマリアナ沖海戦において、日本海軍は大敗北を喫した[105]。主力空母3隻(翔鶴大鳳飛鷹)を一挙に失ったのである。特に第110号艦(信濃)の原型となった大鳳喪失は関係者に衝撃を与えた[106]。その後、進攻してくるアメリカ軍に対抗するために110号艦(信濃)が必要との意見があがった[107][100]

7月1日附達212号をもって第110号艦は軍艦 信濃と命名され[1][15]、航空母艦として登録される(以後、110号艦は信濃と表記)[2]。同時に「1944年(昭和19年)10月15日までに竣工させよ」との命令が下る[15]。また「一度戦闘に参加し得るに必要なる設備のみ取りあえず完成せしめ、その他は帰港の上工事」と定められた[15]。『海軍造船技術概要』によれば、軍令部が横須賀海軍工廠長に命じた内容は以下の項目である[108][15]

  1. 居住設備は士官より兵員に至るまで簡素にして最小限のものとする。
  2. 事務倉庫以外の倉庫設備も極力簡単にする。
  3. 戦闘時の火災を防ぐため、木材部分を極力少なくする。
  4. 防毒区画の気密試験を省略する。
  5. 中甲板以上の区画の気密試験を省略する。
  6. 造機、造兵関係工事もできるだけ後回しとする。
  7. 工期目標、10月5日進水。10月8日、命名式後沖繋留。10月15日、竣工。
  8. 周辺県の造船所から工員を借り受け、海軍工作学校からの応援も受ける。

建造予定が遅れているにもかかわらず、大鳳喪失を補うためにも初期の竣工時期より5ヶ月近く短縮された[109]。熟練工を兵役で取られ、その不足を補うために民間造船所の工員や海軍工機学校の生徒のみならず、畑違いともいえる他の学部の生徒を学徒勤労報国隊で集め、朝鮮人工員や台湾人工員、女子挺身隊も狩り出された[110]。「110号(信濃)の完成が日本を救うこととなる」「信濃がなければ、戦争に負ける」等の決意が作業を促進したという指摘もある[111][112]

だが大和型戦艦2番艦武蔵で19ヶ月かかった艤装を3ヶ月で強行した仕上がりには問題があった[113]。海軍省関係の性能審議委員会の参加者であった牧野茂 (海軍技術大佐、大和型戦艦設計者)は、信濃/第110号艦の居住区には調度品が一切なく殺風景で、気密試験は続行中、まるで「鉄の棺桶」だったと述べている[114]。このように工事の簡略化のため、兵装や艦内装備は最小限にとどめ、艦内の水密試験も最低限(一説では省略)しか行われなかった[115]。その一方で、大鳳喪失の教訓から航空燃料タンク周辺にコンクリートを流し込む作業は行われた[116]。信濃は横須賀海軍工廠で建造された最後の艦艇であり、文字どおり工廠の総力をもって作業が進められた[112]

進水式

[編集]
信濃艦長の阿部俊雄大佐

信濃は過労や事故により10名以上の殉職者を出しながら軍艦として形を整えた。軍需省航空兵器総局総務局長大西瀧治郎中将は、110号艦(信濃)を油槽船に改造し、スマトラ島より燃料を運ぶ計画を立てていた[117]

8月15日、日本海軍は阿部俊雄大佐(軽巡洋艦大淀艦長)を、信濃艤装委員長に任命する[118]

8月17日、横須賀海軍工廠に信濃艤装員事務所を設置[注釈 13]

10月1日、阿部艤装員長は正式に信濃艦長となる[120]

同日附で第一航空戦隊(司令官古村啓蔵少将)が新設される[121][122][注釈 14]。当時は雲龍型空母3隻(雲龍天城葛城)という戦力だった[124]

10月5日、信濃艤装員事務所を撤去[注釈 15]

同日午前8時から8時30分頃、ドックに注水を開始[126]。予定では、ドックに半注水し艦を浮揚、その段階で艦のバランス等を確認・調整することになっていた[100]。その作業中、注水予定10mのところ推定8mまで達したところで突然ドックの扉船が外れ、外洋の海水が流れ込んだ[127][128]。この海水の奔流に乗って艦体は前後に動きだし、艦を固定する100本以上のワイヤーロープと50本の麻ロープが切れた[129][128]。これにより甲板上にいた技術士官等が海上に放り出されると同時に、艦首のバルバス・バウがドックの壁面に何度も繰り返し激突する事態が生じ、バルバス・バウと内部の水中ソナー、プロペラ翼端が破損した[130]

調査の結果、単純なミスが発覚した。扉船内部のバラストタンクへおもりとして海水を注水しなければならない筈が、それを忘れるという人為的ミスであった[131]。バラストタンクへも海水を入れなければならないのに、全く注水されていないという人為的ミスという異説もある[132]。作業ミスではあるが、性急すぎる工期短縮が招いた結果ともいえる[133]。10月6日命名式の予定は延期(軍艦籍登録のみ10月6日付)[134][135]

10月8日に命名式は行われ[39]、昭和天皇の代理として米内光政海軍大臣が式場に臨席した[136]皇族の派遣はなかった[37]。命名式では阿部艦長が「未完成の空母・信濃」と発言しようとしたという[137]。ここに「信濃」は正式に横須賀鎮守府籍と定められた[4]。起工以来約4年5ヶ月が経過していた[100]

その後は再びドックに戻され、第111号艦の資材を一部使用して修理が行われた[138]。修理は10月23日に終わり、ドックを出て沖合いに繋留された[139]。だが竣工は1ヶ月遅れた11月19日となる[15][140]。その間、日本海軍最後の大規模艦隊戦であるレイテ沖海戦(捷一号作戦)が起こり、連合艦隊は壊滅状態となる[141]

しかし仮にレイテ沖海戦に参戦できていても、本艦に乗せる航空機はすでになかった。実際、健在だった第四航空戦隊(龍鳳隼鷹)は搭載機がなく、海戦に投入されなかった。横須賀で建造された空母雲龍も同様であり、特攻兵器桜花」の輸送船として使用され、潜水艦の雷撃で沈没した[142]。第111号艦の資材を流用して航空戦艦に改造された戦艦2隻(伊勢日向)も搭載する航空機がなく、通常の戦艦としてレイテ沖海戦に参加した。

同年11月、信濃は航空公試で各種艦載機の離着艦実験を行った。戦況の悪化から東京湾外での実験は危険として湾内で実施、横浜本牧沖から千葉市の沖に向かい、その間に着艦実験をすることになったが、信濃が速いのですぐに千葉沖に達してしまい、何回も往復することになった[143]。11月11日には零戦天山艦上攻撃機などの在来機[144][145]、11月12日には横須賀航空隊により局地戦闘機紫電改を艦上型に改造した「試製紫電改二(N1K3-A)」や流星彩雲等による発着艦実験が実施され、いずれも成功を収めている[145][146]。ただし監督していた川西航空機の菊原静男技師は、信濃乗組員の技量や動作に不安の念を覚えている[146]。これが本艦で航空機が発着艦を行った唯一の事例であった。11月15日、志賀淑雄少佐は信濃飛行長に任命される[147]

呉回航

[編集]

会敵前

[編集]

1944年(昭和19年)11月19日[39]、公試運転を経て性能審議委員会の承認をうけ、海軍に引き渡される[100]第一航空戦隊に編入[148][40]。この時点で、同隊は本艦をふくめて空母6隻となった[149]

11月24日、連合艦隊司令長官豊田副武大将はGF電令550号にて「『信濃』及び第十七駆逐隊は、『信濃』艦長之を指揮し横須賀発、機宜、内海西部に回航すべし」と命じた[150][注釈 16] 。残された艤装や兵装搭載の実施と、横須賀地区の空襲から逃れるための呉海軍工廠への回航命令である[152]。これは横須賀海軍工廠の上空をF-13(B-29の偵察型)が飛行しており、近日中に空襲があることが予測されていたことも関係している[153]。アメリカ軍が撮影した航空写真にも信濃の姿が映っていた(下記参照)[154]。ただし、アメリカ軍は大和の推測データや武蔵の沈没情報は持っていても、信濃については把握していなかった[155]

本艦の呉回航を後押しした原因はもう一つ存在した。徴用工の多用による横須賀工廠の技術力低下を懸念した日本海軍は、呉海軍工廠で艤装工事を行うことを検討していた[156]。海軍の打診に対し大和型戦艦の造船主任である西島亮二海軍技術大佐は、「信濃の残工事(艤装)は引き受ける」と意欲的だったため、海軍は呉回航を決定したという[156]。のちに西島大佐は自らの発言を後悔する念を述べている[156]。この時点に於いても、信濃内部では建造工事が続けられており、高角砲、噴射砲、機銃はほとんど搭載されていなかった[137]。機関も12基ある缶(ボイラー)の内8基しか完成しておらず、最大発揮速力も20-21ノット程度という状態であった[157]。便乗した工員数は、信濃通信長によれば約1000名である[158]

呉海軍工廠へ回航に際して航空機は搭載されず、信濃飛行長志賀淑雄少佐も横須賀で待機することになった[159]。しかし、甲板士官の沢本倫生によれば、艦上爆撃機(機種不明)を3機搭載しており[160]、呉で最後の艤装を終えた後は、桜花を台湾へ輸送する予定だったという[137]。この他に、桜花を50機、貨物として搭載していたという説や[161]震洋数隻を搭載したという説もある[162]。これについて「信濃の出撃が特攻にならなければいいが」という冗談が出たとする証言もある[163]

信濃を護衛する駆逐艦は第十七駆逐隊の陽炎型駆逐艦3隻(浜風(司令駆逐艦)、磯風雪風)だったが、既に海軍艦艇の水中捜索能力よりアメリカ軍潜水艦の静寂能力が上回る状態であった。また、第十七駆逐隊はレイテ沖海戦以来まとまった上陸や休養もなく、艦乗員の疲労や練度不足により、見張りも完全とはいえなかった[164]。艦自体も、2隻(磯風、浜風)はレイテ沖海戦の損傷で水中探査機が使えず、特に浜風は海戦で被弾し、28ノット以上を出せない状態だった[165]。さらに第十七駆逐隊は、捷一号作戦から日本への帰投時に護衛していた戦艦金剛および同駆逐隊司令駆逐艦浦風を米潜水艦シーライオン(USS Sealion, SS-315)の雷撃で沈められ[166]、第十七駆逐隊司令谷井保大佐も浦風轟沈時に戦死、駆逐隊も司令不在という状況だった[167][168]

11月25日午後2時過ぎ、第十七駆逐隊(浜風、雪風、磯風)は戦艦長門(レイテ沖海戦で損傷)を護衛して横須賀に到着[169]、信濃乗組員は飛行甲板に出て長門隊を出迎えた[170]。この後の信濃側と第十七駆逐隊の打ち合わせでは、航路を巡って議論となった。第十七駆逐隊側は潜水艦の待ち伏せを警戒して日本軍哨戒機の応援を受けられる昼間沿岸移動を主張したが、阿部艦長は夜間の21ノット航行で敵潜水艦を回避できると提案を却下している[171]。これは軍令部から対潜哨戒機を出せないという通達があり、信濃自身1機の航空機も搭載していないという事情もあった[172]。また阿部艦長は、潜水艦の脅威よりも、日本近海で活動中のアメリカ軍機動部隊に襲撃されることを恐れたという見解もある[173]。当時信濃主計長であった鳴戸少佐の回想によると、信濃の航路を決定する会議の中、夜間・外洋航海ルートを取る策に対して航海長兼任の中村副長、護衛の駆逐艦長たちは口々に異を唱え、特に雪風の寺内艦長が最も強硬に反対したという[174]。議論の結果、信濃部隊は夜明け前に出航外洋航海の進路を取った。万一アメリカ軍潜水艦が出現しても、満月に近い月のため発見しやすい事を考慮していた[175]

大井篤(海上護衛総司令部参謀)によれば、信濃出港直前に連合艦隊慶応大学日吉校舎地下壕)から海上護衛総司令部海軍大学校校舎在)に電話連絡があり、海上護衛隊にも一応の協力を求めたが[176]、洋上沖合では海上護衛部隊でも協力できず、大井は沿岸ルートもしくは昼間航行をするよう勧めたが、覆らなかったという[177]

戦闘

[編集]
信濃を撃沈したアーチャーフィッシュ
信濃の魚雷が命中した箇所と浸水区域。命中した箇所と浸水区域。赤は即時、朱色は徐々に浸水した区域。黄色は傾斜復旧のために注水した反対側のボイラー室

11月28日午後1時30分、信濃隊は横須賀を出港した[178]。艦隊の配置は、先頭は第十七駆逐隊司令駆逐艦浜風、中央に信濃、信濃右舷に雪風、左舷に磯風[179]。あるいは先頭磯風、右浜風、左雪風であった[180]。長門では乗組員が甲板に整列し帽子をふって見送り、信濃側もそれに応えた[170]

4隻(信濃、浜風、雪風、磯風)は金田湾で時間調整したのち、午後6時30分に外洋へ出た[179]。信濃艦内では機械室やガソリンタンク周辺で工事が続けられており、機関未完成のため、最大発揮速力は20ノット前後であった[181]

同日午後7時、磯風は敵潜水艦の電波をとらえ、警戒を強める[182]。同様に信濃側も探知し、阿部艦長は乗組員に警戒するよう通達を出した[183]。午後9時頃、電波探知機(逆探)で右後方に追尾する船舶を発見し、阿部艦長は信濃右舷にいた駆逐艦に偵察を命じた[137][184]。調査に向かった駆逐艦は「味方識別に応ぜざるも、乾舷高く、漁船と思われる」と報告、信濃甲板士官の沢本中尉は「怪しい影」はアメリカ海軍バラオ級潜水艦アーチャーフィッシュUSS Archerfish, SS-311)」ではなかったかと回想している[137]。戦後、沢本と同様の見解を持つ作家もおり[185]、作家の豊田穣は、戦後、アーチャーフィッシュの艦長ジョセフ・F・エンライト少佐に詳しく取材したことを根拠にしている[186]。一方、エンライト艦長の著書では、この時アーチャーフィッシュは信濃の進路後方ではなく、前方を占位していたと証言している[187]。それによれば、アーチャーフィッシュは接近する信濃を右舷艦首方向に発見[188]、更に信濃艦首側、アーチャーフィッシュにより近い側に護衛艦1隻を確認した[187]。エンライト艦長は追跡班に「前方より追跡を開始せよ」と命じてアーチャーフィッシュを転舵させると、艦尾方向に信濃を確認し、同一進路を前進しながら監視を続けたとある[189]。エンライト艦長は、信濃右舷側を進む駆逐艦が直衛を離れ、調査に向かってきたのも、識別信号を発信したのも確認していないという[190]

午後10時、艦隊の先頭にいた浜風は前方6,000mに並走するマスト2本の水上目標を発見する[191]。同艦は増速すると距離3,000mまで接近して照準を定めたが、信濃は「引き返せ」と命じた[192]。これは「護衛艦は敵潜水艦を深追いして直衛に隙間をあけない」という事前の取り決めによるものだった[192]。午後10時45分、信濃は右舷前方に浮上した潜水艦を発見し、誰何信号を送った。アーチャーフィッシュも信濃のマストに10秒-20秒-10秒という赤色発光信号を確認し、護衛駆逐艦の攻撃を予想して乗員が不安を感じたとしている[193]。浜風・雪風は砲撃態勢をとったが、阿部艦長は所在の暴露を恐れて発砲を許可しなかった[194]。この頃信濃艦内では、乗組員に汁粉ぜんざい)が配られていたという[195][196][137]。上甲板、艦中央部にあった通信室では、通信科の下士官兵達がオーストラリアメルボルンから発信される日本語の対日プロパガンダ放送を聴いて楽しんでいたとする主張もある[197]

11月29日午前0時30分、遠州灘に差しかかった頃、艦隊はペリスコープらしきものを備えた影を発見し、この時、雪風は最も近くにいた浜風が影を確認しにいったと思ったが、浜風と磯風の艦長は、雪風に影を確認してもらう事に決め、その旨を磯風より通信したが、雪風側は受信していない[198]。この混乱について、第十七駆逐隊司令と司令駆逐艦の浦風を台湾沖で喪失した影響であり、正式な司令が着任していれば防げたという意見もある[198]。この影は信濃でも見張員が発見していたが、多数が望遠鏡を見た結果、雲であると判断し、そのまま南進を続けた[199]。信濃通信長の荒木勲中佐は、右舷に敵潜水艦らしきものを発見して左斉動(南方へ転針)を行い、その後も対潜水艦回避行動を行ったと回想している[158]。信濃艦長伝令の梅田耕一水兵長(航海科信号員)の記録によれば、「11月29日午前2時45分、右30度距離7000に敵潜水艦らしきもの発見、右舷駆逐艦(磯風)と交信、3時5分に敵潜を見失う」とあり、アーチャーフィッシュ側も「0305、100度に変針、潜航。潜望鏡の空母、距離6400m、護衛艦は点滅発光信号受信のため空母に接近」と記録している[200]

浜名湖の南100マイル(約161km)沖で待機していたアーチャーフィッシュは、不時着したB-29乗員の救援任務を切り上げ、商船を襲うべく東京湾へ向かった[201]11月28日午後8時30分、レーダーの修理が完了[202]。午後8時48分、エンライト艦長は、「島が動いている」というレーダー士官の報告を元に、信濃を発見した[203]。発見当初、アーチャーフィッシュでは信濃甲板上に飛行機の姿を確認できなかったことなどから、艦種を特定しかねており、タンカーだと考えていた[204]。しかし非常に大型の船であったことから、攻撃のために追尾することを決める(同艦は護衛駆逐艦を4隻と記録)[205]。アーチャーフィッシュは浮上すると、最大全速19ノットで追跡を開始した[206]。浮上航走のうち、アーチャーフィッシュは目標が飛鷹型航空母艦(米軍呼称ハヤタカ)[207]大鳳型航空母艦とは異なる新型大型空母であることを確信する[208]。これは信濃艦首の形状を観察し、大鳳型にはない開放格納庫を確認したためである[209]。午後10時45分、アーチャーフィッシュは彼らに向けて1隻の駆逐艦が距離3,000mまで突進してくるのを発見し[210]、潜航退避する寸前まで追い詰められた[211]。だが、信濃のマストに赤色信号が見えると駆逐艦は引き返したため、アーチャーフィッシュは難を逃れた[212]。アーチャーフィッシュのエンライト艦長の手記では、これを磯風としているが[213]、前述のように浜風の可能性もある[192]。午後11時30分、エンライト艦長は目標を捕捉できない可能性を考慮し、友軍潜水艦の応援を暗に求め、最高司令部宛に以下の無電を発信する[214]

「アーチャーフィッシュより太平洋艦隊総司令部、太平洋方面潜水艦隊司令部ならびに日本領海のすべての潜水艦宛。我れ大型空母を追跡中、護衛駆逐艦3隻あり、位置北緯32度30分、東経137度45分、速力20ノット」。信濃に傍受される危険をおかした無線(実際に傍受された[215])に対するアメリカ潜水艦隊司令部の返電は「追跡を続けよ、ジョー、成功を祈る」。ニミッツ提督司令部からは「相手は大物だ。君のバナナは今ピアノの上にある。逃がすな」だった[216]

エンライト艦長が期待していた増援の潜水艦は手配されず、結局アーチャーフィッシュは単艦での信濃部隊追跡を続行した。11月29日午前2時40分には「目標の左舷8マイルにして追跡中、魚雷発射の射点に占位し得るや疑問なり」と発信した[217]。信濃は全速の20ノットで航行しており、浮上最大発揮速力19ノットのアーチャーフィッシュでは追いつけない筈だったが、「相手のジグザグ運動のために、きわめてゆっくりと追い越すことができる」という状態になった[218]。さらに日付変更直前、信濃機関部で右舷の中間軸受けが過熱したため[219]、速力を18ノットに落としていたという[220]。アーチャーフィッシュも信濃の速力低下を確認していた[221]

アーチャーフィッシュ襲撃時点の日本側の護衛陣形には諸説あり、「先頭に雪風、中央に信濃、右に浜風、左に磯風」という浜風水雷長説や、「磯風が先頭、右に浜風、左に雪風」という雪風砲術長説、「浜風が先頭、右に雪風、左に磯風」という雪風水雷長説がある[222]。この混乱は之字運動をする関係で時刻によって駆逐艦の位置が常に変化しているためであり、外洋ではおおむね十七駆司令駆逐艦の浜風が先頭を航行していたという[223]

11月29日午前3時13分、浜名湖南方沖176kmにてアーチャーフィッシュは、魚雷6本を発射した[224]。日本側はアーチャーフィッシュの存在には気付いており、午前3時5分には信濃が第十七駆逐隊に潜水艦警報を発し[225]、同隊も潜水艦と思われる電波を傍受したが、位置の特定はできていなかった[226]

潜航状態(潜望鏡発射)、1,400ヤード(約1,280m)の距離から発射された魚雷は、調停深度水面下10フィート(約3m)で6本[227]。3本ずつ角度をずらせる150%射法にて発射された[228]。これは最初の3本の破孔に次の魚雷が飛び込むことを期待したと、エンライト艦長は手記に記載している。また魚雷は重量物が水線よりも上に集中している不安定な空母を転覆させるために、命中深度を通常より浅く設定して発射された[229]。午前3時16-17分、魚雷4本が信濃右舷に命中[42][230]。生存者の証言では2本、アーチャーフィッシュは6本命中を主張[231]。命中深度を浅く設定された魚雷は、信濃右舷後部のコンクリートが充填されたバルジより浅い部分に命中し、ガソリン貯蔵用空タンク、右舷外側機械室付近、3番罐室即時満水、亀裂で隣の1番罐室・7番罐室に浸水、空気圧縮機室が被害を受けた[232]。最初の報告では、後部冷却機室、機関科兵員室、注排水指揮所近辺、第一発電機室などに浸水、右舷6度傾斜というものである[233]

第三海上護衛隊司令部で被害無線を傍受。命中後、一時13度傾斜したが、左舷注水により右傾斜9度に回復した[137]。信濃は速力を落とさず、傾斜しながら20ノットで現場から退避したため、アーチャーフィッシュは北西に向かう信濃を追撃することは出来なかった[234]。随伴駆逐艦から爆雷も投下されたが、アーチャーフィッシュは約15分間、爆発14回を記録し、脅威にはならなかった[235]。3時30分、信濃は信号で被雷したことを告げた[236]。3時45分、アーチャーフィッシュは巨大な爆発音が20分続くのを聴音し、沈没する大型艦艇の爆発だと判断した[237]。6時14分に潜望鏡をあげ、洋上に何もない事を確認[237]。それから4時間後、大爆発音を聴音した[237]

沈没
[編集]

書類上、信濃は軍艦籍に入って完成艦として扱われていたが、実際は建造中の未完成艦だった[158]。通路にはケーブル類が多数放置されており、防水ハッチを閉められなかった[238]。防水ハッチを閉める訓練すら、軍令部が工期を急がせたため、行ったことがなかった[239]。かろうじて閉めることが出来た防水ハッチも、隙間から空気が漏れる有様であった[240]。さらに大和型戦艦の艦内は複雑で迷路同然であり、慣熟するのに1年でも足りないとされた[238][241]。そのため、乗艦して数ヶ月程度では、自分の現在位置を把握することすら難しかったとされる[242][137]。それでも、応急員達は注排水指揮所からの指令によって反対側への注水作業を実行した。少なくとも3,000tの注水実行が報告され、傾斜は若干回復した[243][244]。しかし、注水開閉弁が故障したため、それ以上の注水は不可能となる[243]。信濃はただちに潮岬方面に向かったが[245]、浸水は止まらず、次第に傾斜が増大し、速力も低下する[246]。沢本中尉によれば、13度に傾斜した時点で主ボイラーを止めてしまったため、電気や蒸気が使えなくなり、やむを得ず手動ポンプで排水作業を実施した[137]。戦闘詳報では「午前5時30分、速力11ノット」と記録している[247]。機関科兵の回想では、午前5時ごろに右舷タービンが停止したという[248]。午前5-6時、復水器が使用できなくなり、ボイラー給水用の真水が欠乏したため、午前8時前には、洋上で完全に停止するに至った[249]

海上護衛総司令部では、信濃被雷を受けて大阪警備府や各地港湾部に曳船の手配をはじめたが、関西地方から信濃被雷地点まで180海里(約330km)もあり、すぐに到着できる状況ではなかった[250]。 なお、第三海上護衛隊からの伝令を受けた伊勢防備隊は駆潜14号を急派し、尾鷲にいた駆逐艦澤風および水雷艇千鳥は準備でき次第、現場へ急行し「味方損傷空母(信濃)」の曳航および護衛協力が下命された。同時に串本海軍航空隊に対しても哨戒機の派遣命令が下り、熊野灘部隊の金津丸(C型戦時標準船 2,724トン)には曳航を準備した上での待機命令が下る。 翌日30日、第三海上護衛隊は澤風を指令艦とした掃討隊の結成および被雷地点での敵潜水艦への徹底的掃討を命じた[251]

信濃は随伴2隻(雪風、浜風)に対し「傾斜のため運転不能」と発信、曳航を命じた[252][253]。海水を使用してボイラーを炊くことも検討されたが、一度海水を使うと、補修に多大な手間と時間がかかるため、見送られた[254]。艦前部にある予備真水タンクは、パイプが切断されており、役にたたなかった[255]。阿部艦長は工廠関係者を飛行甲板にあげるよう命じたが、「工廠関係者飛行甲板(「工廠の工員、上甲板」とも)」の命令が、伝令により「総員飛行甲板(総員上甲板)」と誤って伝わり、混乱を招いた[256][257]。一方、この命令誤認のため、艦底にいた応急作業員や機関科兵が脱出できたという一面もある[258]。機関科分隊長の三浦治は、機関科への退避命令は、左舷罐室への注水と傾斜復元も意図していたとみられると語っている[244]

午前7時45分、信濃は駆逐艦2隻(磯風、浜風)に曳航のため接近せよとの手旗信号を送った[259]。浜風(司令駆逐艦)は磯風と浜風で曳航すると通信[260]。阿部艦長自ら信濃の艦首で作業を監督したが、駆逐艦2隻では浸水して沈下した巨艦を曳航することができず、曳航索が切れてしまった[261]。そこで駆逐艦の後部高角砲塔に曳航索をグルグル巻きにして再度曳航を試みたが、加重に耐えれずまた切断してしまい、曳航は断念されるに至った[262]。第十七駆逐隊戦闘詳報によれば、磯風と浜風が曳航索を渡したが千切れてしまったという。一方、雪風下士官の豊田義雄(内務・運用)によれば、この記述は全くの作り話であり、浜風、磯風が信濃の両舷に接舷しこれを支え、雪風が1隻で曳航するという無謀な作戦であり、曳航索を受け渡しする前に作業は放棄されたという。ただし、豊田はどの指揮系統の命令であったか、また命令の詳細についても明確な記憶はないという[263]。元乗員は、信濃に繋いだワイヤーが切れた際、勢いで空高くワイヤーが舞い上がり、それが落ちてきた拍子に駆逐艦の乗員に当たり、首が切断する瞬間を目撃したと証言している[264]。午前8時の時点で上甲板が波で洗われており、乗組員は格納庫甲板の排水に駆りだされた[265]。午前8時30分、注排水指揮所まで水没し、稲田文雄大尉ら9名が水死した[266]

注排水指揮所の全滅と曳航作業が失敗した事で、喪失は確定した[267]。9時32分、御真影をカッターに移し、まだロープで結ばれていた浜風に移そうとしたが[268][269]、悪天候のためカッターは信濃右舷バルジに乗り上げて転覆した[270]。10時25分、傾斜35度に達し、軍艦旗降下[271]。10時27分、総員退去用意[272]。10時37分、総員退去令[273]。この時の艦長命令は「各自自由に行動せよ」だったという幹部士官の証言がある[274]。荒木勲(信濃通信長)や安間孝正(信濃軍医長)によれば、阿部艦長は退艦命令を出すことを逡巡しており、横手克己(信濃砲術長)が「艦長!総員退艦はまだですか」と強く進言したため、阿部艦長は退艦を発令したという[275]。10時57分[注釈 17](55分説あり)、潮岬沖南東48kmの地点で転覆[44]、艦尾から沈没した[276][277]

信濃の艦歴は、世界の海軍史上最も短いものとなった。竣工から10日、出港してからはわずか17時間であった[278][279]。被雷時点での戦死者数名、負傷者は同程度だったにもかかわらず[277]、総員退去の命令が艦内放送装置が使えず巨大な艦内に伝わらなかったり、エレベーター穴や艦体と飛行甲板の隙間に落ちたり、低温の海での漂流と強い波浪により[280][281]、多数の乗組員が行方不明となった[282]。沈没する艦体に多数の兵がしがみついていたのも目撃されている[283]。阿部艦長は艦首で総員退去命令を出したあと[284][280]、信濃と運命を共にした[283]。中村馨(信濃航海長)や、総員退艦を進言した横手砲術長も信濃と共に沈んだ[275]。急な召集により訓練が十分でない乗員が多かったために、泳げない者も多く、海に投げ出されて溺死したり、泳げる者にしがみつく者もいたという[264]。一方、爆薬や燃料を搭載していない桜花が海面に浮かび、多くの乗組員が掴っている光景が救助作業中の浜風から目撃されたという証言もある[285]。戦後、武田が桜花開発者の1人に会って桜花が人命救助に役立ったことを話すと、技術者は複雑な表情を浮かべたという[285]

生存者は準士官以上55名、下士官兵993名、工員32名[注釈 18]。戦死者は「信濃会」の調査によると791名(工員28名、軍属11名を含む)[287]。これには建造中の110号艦(信濃)から逃亡したのち行方不明となった脱走兵2名も含まれている[288]。生存者の一人には後に映画やテレビで活躍した俳優の深江章喜がいる。御真影は[286]、浜風(駆逐艦長前川万衛中佐、海兵52期)に奉安された[289]。対空ロケット砲装備のため呉で待機していた技術者達は、入港した第十七駆逐隊から信濃の沈没を知らされ、海軍の終焉を実感している[290]。生存した乗員たちは随行の艦に救助され、広島に到着後は機密保持のため三ツ子島の施設に抑留された[264]

沈没地点は潮岬東南東沖北緯33度06分 東経136度46分 / 北緯33.100度 東経136.767度 / 33.100; 136.767の地点とされる[280]。現場の深度は6,000 - 7,000mと深く、正確な沈没位置は確定されていない。米内光政海軍大臣より信濃沈没の報告を受けた昭和天皇は「惜しいことをした」と述べたという[291][292]

1945年(昭和20年)4月7日坊ノ岬沖海戦で戦艦「大和」と第二水雷戦隊の5隻(矢矧磯風浜風朝霜)が沈没、駆逐艦「涼月」も大破、帝国海軍が決行した最後の大型水上艦による攻撃となった。それにともない、沈没した2隻(大和、信濃)および空母「葛城」(健在)は第一航空戦隊から除かれる事になる[注釈 19]。4月20日、第二艦隊および第一航空戦隊は解隊された[294]

8月31日、本艦を含めて太平洋戦争末期に沈没した戦艦や空母は帝国軍艦籍から除籍された[注釈 20]

原因
[編集]

建造の簡略化により十分な防水作業が出来ず、艦搭乗員も練度不足で内部に精通したものが皆無だった[295][279]。配属されてから長い者で数ヶ月という状態では、被弾後も突然の事態に混乱し、右往左往するばかりで、満足に応急処置すら実行できない状況であった。空母翔鶴運用長として珊瑚海海戦南太平洋海戦で同艦の応急措置に奔走した福地周夫大佐(信濃砲術長横手克己大佐とは、海軍兵学校第52期の同期生)は、翔鶴処女航海(竣工昭和16年8月8日、初航海8月23日)と信濃処女航海を対比[296]。竣工直後の同艦でも乗員の訓練は不充分で、防水扉の閉鎖方法すらわからず、仮に魚雷が命中していれば「当時の翔鶴なら沈んだだろう」と評している[296]。大和内務科士官として艦内防御を担当した士官も、竣工時の大和艦底マンホールには不具合点が約500ヶ所(ボルトやパッキン不備、脱落、緊締不良、ボルト穴開け違い等)もあり、時間をかけて順次改善していったと回想[297]。信濃沈没についても、艦底マンホールに多数の欠陥があったと推定している[297]。また傾斜によって左舷の注排水弁が海中から上がってしまい、追加の注水が出来なかったという推論もなされている[298][244]

これには反対意見もある。その注排水についても、出港前に傾斜復元テストは行われず、また電源がどの程度の震動で故障するかも不明だった[299]。実際に排水ポンプは故障で作動しなくなっている[245]。突貫工事による影響で、ねじ山が根元まで切られていないボルトや2cmも隙間の空く防水ハッチ[300]、右舷艦尾に命中した魚雷の衝撃で艦首部分の甲板リベットから浸水する[301]、さらに隔壁の気密検査が未実施など、竣工とは名ばかりの未完成艦であり、艦長の判断以前に魚雷命中の時点で沈没が確定されていたといってよい惨状だった[302]。エンライト艦長の判断(魚雷の深度を約3メートルと浅くし、水線近くを浸水させることで重心点の高い空母の転覆を狙った)が適確で、信濃側の不具合に乗じる結果となった[303]

呉工廠造船部長として大和の進水・艤装時を監督した庭田尚三(海軍技術中将)は、横須賀海軍工廠が気水密試験を省略したことについて「かような試験は手を抜こうと思えばできないことではないが、当事者として見れば責任上良心的にどうしてもそのような無責任な気持ちにはならないものだ」「このような地味な縁の下の力持ちのような試験作業は実に困難であっても、完璧を期さなくては現場技術者としての資格はないと私は信ずるのであります」と回想している[304]。大和も1942年(昭和17年)6月15日竣工を予定していたが、艦政本部からの要請で竣工を1941年(昭和16年)12月16日に早めた経緯がある[305]

牧野茂(大和型戦艦設計者)の話によると、「大和型戦艦は1本目の魚雷命中で戦列を離れず、2本目でも戦闘力を持続し、3本目では沈没することなく基地に帰投可能」という方針で浸水計算がなされており、4本目については十分な検討がなされていなかったと述べている[306]。乗組員の訓練と慣熟の不足、未完成艦だったことを考慮しつつ、牧野によれば「信濃の沈没責任全てが防水工事の不備にもとづくものであると断定するには忍びない」としている[306]

雪風下士官の豊田義雄は、護衛駆逐艦側の問題として、第十七駆逐隊司令駆逐艦(浦風)の沈没と駆逐隊司令の戦死により指揮系統が混乱しており、各艦や信濃との連携が十分ではなかったという[307]海上護衛総司令部参謀の大井篤大佐は「火の用心はあまりしないで、消防士が悪いから丸焼けにされたとうらみを言っているように聞こえて仕様がなかった。根本的には航海計画が悪かったのだ。それは敵の潜水艦およびその魚雷の威力をあなどったことからきていたのだ」と述べている[308]。他にも敵潜出没海面に3隻の駆逐艦の護衛をつけただけの夜間航海計画を立案した軍令部の責任が大きいという指摘もある[309]

12月28日、東京で三川軍一中将のもと信濃の沈没原因を調査するための「S事件調査委員会」が開かれた[310][311]。「信濃」は事故ではなく敵の攻撃を受けて沈没したため、建前上は査問ではなく調査の形がとられたが、委員会に出席した信濃の生存者は彼らを詰問する軍令部や工廠関係者に対し「脆い艦を作った造船関係、気密試験も省略させて出港させた軍令部、駆逐艦3隻だけの護衛で出港させた上層部」に対する怒りを抑えられなかったという[312]。会議の結果、責任を問われる当事者が多すぎたため、表立った処分を受けた者は誰もいなかった[313]。S事件の報告は「工廠工事の粗漏、水密試不施行等及艦乗員の復元に対する不徹底等」だったという[314][311]

アーチャーフィッシュの乗員は、非常に大きな空母を攻撃したことは認識していたが、撃沈の確信を持つことは出来なかった[315]。またアメリカ軍はB-29からの偵察写真に「信濃」が写っていたが本艦の存在を把握しておらず、アーチャーフィッシュの報告も半信半疑の扱いであった。上官コーバス中佐は日本の暗号解読で判明した「信濃」という艦名から、信濃川の名をつけた巡洋艦改造空母を撃沈したと判断し、それで満足しろとエンライト艦長を説得している[316]。エンライト艦長は「信濃」のスケッチを提出し、2万8000トン(2万9000トンとも)空母撃沈認定をもらった[316][237]。当時世界最大の空母を撃沈したと乗組員達が知るのは、戦後のことである[317]。信濃撃沈の功績に対して、殊勲部隊章がアーチャーフィッシュに与えられた。

またGHQNHKラジオ第1放送第2放送を通じて『眞相はかうだ』の放送を開始、この中で「信濃」沈没について報道した[注釈 21]。 1947年には生存者の回顧録が出版され、翌年にはアメリカ合衆国でも発売された[319]

「信濃」は潜水艦に撃沈された最も巨大な船である[317]

戦後の1978年(昭和53年)5月17日、輸送艦あつみ艦上に於いて、信濃の現地洋上慰霊祭が生存者32名・遺族89名が参列して営まれた[289]

特徴

[編集]

大和型戦艦由来の艦体を持つ巨大空母であり、1961年に就役したアメリカの原子力空母エンタープライズが登場するまで、また、戦艦を改造して建造された空母(イーグルベアルン加賀等)と比較しても史上最大の排水量を持っていた[320]アメリカ海軍最後の通常動力推進空母キティホーク(満載 83,301t)も信濃の排水量を上回るが、基準排水量では信濃が上。現在では基準排水量は諸元として使用されていない)。

爆弾・魚雷・航空燃料の搭載予定量は、翔鶴型や大鳳型、雲龍型よりも少なく「800kg爆弾または500kg爆弾90発、250kg爆弾468発、60kg爆弾468発、九一式45cm航空魚雷・不定」程度であり、「中継基地空母」としての運用は考慮されていない[321]。また「爆弾は800kgまたは500kg 54個、250kg 216個、60kg 216個、魚雷36本、航空燃料670トン」とする文献もある[322]。航空燃料は680トンとする文献もある[22]

上記の信濃の全体を写した唯一の写真からは、対潜用の迷彩塗装らしきものが判別できる[323]。基本色は外舷1号色(若草色。米海軍報告書によれば外舷2号色と白を1:1で混ぜたもの)で、外舷2号色(錆緑、暗いオリーブグリーン)により商船の迷彩が施されていた[324]。喫水線下は赤系統とする工員の目撃証言が多い[325]

構造

[編集]
飛行甲板

大和型戦艦の最大幅39mという船体の上に設置された飛行甲板は、最大幅40mであった[326]。幅50mという元乗組員による証言もある[327]

信濃改造艤装委員で零戦で着艦実験をした小福田晧文少佐は「じつにゆうゆう広々とした甲板で、着艦もまことに楽であった」と語っている[143]。太平洋戦争開戦時の加賀搭乗員であり、信濃飛行長に任命されていた志賀淑雄少佐は、加賀より広大な信濃の飛行甲板に感嘆している[159]

飛行甲板には20mmDS鋼板の上に75mmNVNC甲板を装着した[328]。装甲部分は長さ約210m、幅約30mと下部の格納庫と同じ範囲に施された[329]。その大重量を支えるために、箱形の梁を作り、そこにも14mm鋼鉄を張った[330]。日本空母として最初に飛行甲板を装甲化した大鳳の一部が木甲板だったのに対し、信濃は工事簡略化のため、全体が鋸屑入セメント張りだった[331]ミッドウェー海戦の戦訓を踏まえ、搭載機ガソリンを積む場所を飛行甲板に変更し、また爆弾・魚雷装着場所も従来の日本空母とは異なり飛行甲板としている[332]。このため揚爆弾筒、揚魚雷筒は格納庫を素通りして飛行甲板に直接揚げる構造となった[332]。また装甲部分の前後に設けられた航空機用エレベーターにも飛行甲板と同じく75mmNVNC甲板が装着され、重量は前部昇降機(寸法15m×14m)が180t、後部昇降機(寸法13m×13m)は110tに達した[333]。また、元乗員の証言によれば、飛行甲板には新開発の蛍光灯が埋めこまれていたという[334]

装甲

戦艦として建造されていたため、空母としては十分すぎる防御設計が施されていた。空母としての再設計時における防御性能では、舷側水線防御は射距離10,000mから放たれる20cm砲弾に耐えることや、水平防御では高度4,000mから投下される800kg爆弾に耐えることだった[335]。また、当初の案では、飛行甲板は800kg爆弾の急降下爆撃に耐えることとなっていたが、甲板の重量増加と製造能力の関係から、飛行甲板は500kg爆弾の急降下爆撃に耐えうるものと変更された[70]。これらの要求を満たすため、格納庫天井に20mmDS鋼板と14mmDS鋼板を張り合わせた。

戦艦から空母へと設計変更されたことに伴い、第110号艦の水線上舷側装甲は410mmから200mmへと減り、対巡洋艦程度の装甲となった[336]。主砲弾薬庫は、そのまま空母の高角砲弾・機銃弾・爆弾・魚雷庫へと転用された[337]。航空機用燃料タンクは、主要部の前後にある重油タンク部分に増設された[338]。本来装甲のない部分だったため、通常使用される25mmに加えて、解体した姉妹艦第111号艦の弾薬庫の底部80mm装甲をタンク直上下甲板に貼った[339]。当初はタンク周辺に空白区画を設けて2,000tの水を満たしておく設計であったが、後述する大鳳爆沈時の戦訓から、周囲の区画にはコンクリートを充填している[340]

艦底は、磁気機雷や艦底起爆魚雷への対策として、先行艦(大和、武蔵)の二重底から三重底へと強化されている[341]。本艦では砲塔が搭載されず、戦艦級の装甲も施されないために艦体が軽くなり、喫水が1m上昇するため、大和型と比較してバルジの上端を1m下げた[336]。その後、本艦の設計に影響を与えた大鳳が1944年(昭和19年)6月のマリアナ沖海戦において敵潜水艦の魚雷1本の命中であっけなく爆沈したことは、関係者に強い衝撃を与えた[342]。大鳳沈没の主要要因は、魚雷の命中により航空機用ガソリンが艦内に漏れ出し、ダメージコントロールの失敗により、6時間後に大爆発・大火災を起こした事である。そこで応急対策として、水線下のバルジなど航空機用燃料タンクの周辺に数日間かけてコンクリートを流し込み、固めた[343]。最終的に、公試常態排水量は初期計画の62,000tから68,000tに増加した。結局バルジの位置変更は無意味となり、設計者の牧野茂は「余計なことだった」と述べている[336]

また信濃軍医長は、便乗した造船将校から、本当の排水量は76,000t(部内65,000t)と教えられたと述べている[196]。飛行甲板から弾薬庫に至るまで重装甲で固めた結果、信濃の船殻重量は大和に比べて1,900t、防御重量2,800t、艤装重量1,200t、計5,900t増加、35万から40万工数という工事量増加となった[328]

大和型戦艦の内部は「地下街」と表現される[344]ほど複雑かつ広大であり、艦内伝令が自転車を使っていたという証言もあるほどである[345]。これは、同型艦である信濃も同様だった。乗員の慣熟が足りていなかったのも加わって、艦内で半日迷子になったり[346]、工員が自分の担当現場を探すだけで一苦労したというエピソードもある[347]

艦橋

艦橋は右舷中央部に、煙突と一体化した大型のものが設置された。艦橋と煙突の一体化は米英空母では広く採用されていたが、従来の日本海軍空母は、大型艦、小型艦問わず、排煙が着艦の邪魔にならぬよう、舷側から突出した湾曲の付いた煙突で海面に向けて排気する方式だった。信濃の場合、船体上部甲板と飛行甲板の間の高さがとれず、舷側に煙突を設置することができなかったため[348]、艦橋と一体化させ、上部で外側に26度傾斜した上方排出の煙突となっている[349]。これは大鳳型航空母艦の重心低下の設計結果として、やむを得ず採用するのに先行して、改造空母である隼鷹型航空母艦飛鷹型)で実験的に採用したものを踏襲したものである。本艦に設置する前に実物大艦橋模型を航空学校の屋上に建造し、36基の12cm対空双眼鏡を据え付けて実地試験を行った[350]。竣工直前の1944年(昭和19年)9月4日にも、防空指揮所装備について第一機動艦隊側の意見を聴く形で改装をおこなっている[351]福田啓二造船中将は、美的ではなかったと回想している[352]二一号電探と通信マストも配備された。

機関

改装時にはすでに大和型戦艦としての基礎ができあがっていたため、機関配置や予定機関出力は同型艦と全く同じであった。プロペラの回転数も同じ設定であったが、大和型戦艦のプロペラは直径5mだったのに対して信濃のものは直径5.1mであり、ピッチも異なっていた[353]。速力もそのままの27ノットの予定だった。大和型戦艦に比べて主砲塔や各部装甲を減じているが、そのぶん飛行甲板や弾薬庫に重防御を施した結果、満載排水量は大和型72,000tに対し第110号艦71,000tである。正規空母としては低速であり、当時5tを超えていた流星の発艦に不安がある可能性が指摘されていた。横須賀で実施された試験においてボイラー8基のみ稼動、20ノット程度の航行状態で、当時の風速は不明ではあるが紫電改(紫電41型)や流星艦上爆撃機、天山艦上攻撃機(雷撃機)の離着陸テストに成功している。紫電改テストパイロットを務めた山本重久大尉も、日本空母の中でも特に大型だった赤城翔鶴より信濃の飛行甲板は大きく、離着艦は良好と証言している[354]。この時に着艦した紫電改は、陸上基地での運用を主体とする局地戦闘機であり、艦上戦闘機ではなかった[146]

設備

[編集]
格納庫

日本空母として最大の排水量の巨艦であったが、格納庫は一層のみである[355]。建造再開時、艦中央部では既に中甲板付近まで工事が進んでいたことに加えて[356]、戦況対応のための早期の竣工、煙路の配置や飛行甲板に重装甲を施したことと、また航空機の搭載数から当然の帰結だった[338]。格納庫予定位置の両側に高角砲や機銃弾の揚弾筒を準備されたため、格納庫面積も狭くなった[357]

また、船体の縦強度構造からも2段は困難だった[358]。 大和型戦艦の最上甲板は一番砲塔付近で下がり二番砲塔付近で上がる「大和坂」と呼ばれた傾斜がついていたが、これを艦載機の格納庫に支障ない傾斜にするための工事に手間がかかった[359]

本艦に強い影響を与えた大鳳型航空母艦を含め、日本空母のほとんどは密閉式格納庫である。これに対して、本艦では攻撃機搭載用の前部約125mは攻撃を受け火災が発生した際にはそこから熱風を逃し、爆弾や魚雷を投棄するため、開放式になっている[360]。夜間の灯火管制時にも開放式前部で機体整備が行えるように、開放部には帆布製の遮光幕を張ってから内部で電気照明を点灯するようになっていた[361]。ただし、開放式格納庫の開放部分は、長さ10m以上の開口部が片舷1ヵ所ずつのみとなっており、航空機の海中投棄は不可能だったという[361]。戦闘機搭載用の後部約83mだけ、厚さ25mmのDS鋼を2枚重ねた[336]側壁による密閉式という形態となっていた[328]。火災に対しては可能な限りの対策が施され、格納庫全域に降り注ぐ泡沫消火装置や、防御区画内3箇所に独立した消火ポンプを設置し、格納庫側壁の複数箇所に防御を施した管制指揮所を設けた[361]。航空機格納庫は従来型電灯と蛍光灯の併設、居住区は蛍光灯のみが備えられていたという証言がある[362]

搭載機

搭載機の種類や数は、戦時中または戦後期に出版された原典やその計画時期の違いからと思われる相異が文献によってある。

各資料での空母信濃搭載可能数[363][16][13]
資料名 常用機種と数 補用機[注釈 22]種と数  合計
 #昭和造船史1 戦闘機18機
攻撃機24機
戦闘機2機
攻撃機3機
47機(うち補用機5機)
 #海軍造船技術概要 烈風18機
流星18機
彩雲6機
烈風2機
流星2機
彩雲1機
47機(うち補用機5機)
 航空本部計画案 烈風25機
流星25機
彩雲7機
2機(機種記載なし) 59機(うち補用機2機)
 空母及搭載艦関係報告資料[注釈 23] 烈風24機
流星17機
彩雲7機
烈風1機
流星1機
50機(うち補用機2機)

ただし烈風は開発が大幅に遅延したため紫電改の艦戦型に変更される予定だった(後述)。

銃火器

対空火器として、12.7cm連装高角砲8基16門(片弦4基)、25mm3連装機銃37基[27]、同単装40挺の合計151挺、28連装噴進砲(ロケット砲)12基を舷側に装備する予定だった。3連装機銃35基、単装40挺の計145挺[14]や、機銃合計140門とする文献もある[364]。出港時ロケット砲は搭載されていなかったが[365]志賀淑雄少佐(信濃飛行長)や神谷武久(工員)によれば、他の武装については、若干装備していたという[366]。諏訪繁治(兵曹、通信科)によれば、脱出時、高角砲甲板に高射砲弾が転がっていたという[367]

遺物

[編集]
  • 信濃に搭載される予定だった主砲塔前楯は戦後アメリカ軍が技術調査で押収してアメリカ合衆国本土に持ち帰った。主砲前面の厚さ65センチの装甲板は至近距離から発射された40センチ砲によって破壊され、その残骸がワシントン海軍工廠の公園に展示されており、現在も見学することができる。日本より返還要求があったが拒否された[368]
  • 信濃用の46センチ砲身は7本完成しており、うち2本がアメリカ軍に押収されアメリカ本土に運ばれたが、試射はされず分解されスクラップにされたといわれる[368]。残りの砲身は武器に転用されず、大和、武蔵とも、砲身交換をすることもなく沈没したこともあって、日本国内で破壊された。
  • 信濃を詳細に捉えた写真は、東京湾内で公試中に、横浜沖で石川島造船所の技師、荒川浩が撮影した上記のものが唯一確認されている。他には、米軍の偵察機が横須賀港を空撮した写真に、航行中の様子が偶然写り込んだものが1枚現存する。この他、横須賀港の6号乾ドックに入渠した状態を空撮した写真が発見されており、専門家の分析の結果、建造中の信濃であると断定されている[369][264][370]
  • 信濃を建造した6号乾ドックは、在日米軍の空母や各種艦船の整備用に現在も使用されており、ドックの外壁は当時のまま残されている。現用の軍事施設であるため、特別な許可を得た場合を除き、一般人は立ち入り禁止となっている[49]

引き揚げ計画

[編集]

終戦直後、沈没地点は志摩半島の西南2マイルの沖合と推定されており、連合国軍最高司令官総司令部の許可さえ得られれば、引き揚げは比較的容易であると考えられていた。1951年10月には[371]、連合国軍最高司令官総司令部から大蔵省へ艦体が返還されるとの話がもちあがり、東海財務局が水深調査などの引き揚げ準備を始めたと報道されたが[注釈 6]、実現することはなかった。

艦長

[編集]
艤装員長
艦長
  • 阿部俊雄 大佐:1944年10月1日[120] - 11月29日戦死(少将進級2月16日)[372]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ #歴史群像22信濃ワイド折り込み[8]の『空母「信濃」船体線図』によると、水線長256.000m、艦首まで6.000m、艦尾まで3.500mで船体の全長は265.500m。船尾楼甲板を含む
  2. ^ 阿部安雄(1994)「主要艦艇要目表」#日本海軍全艦艇史資料篇pp.33,43では水線最大幅38.0mで、阿部安雄(1996)「日本海軍航空母艦・水上機母艦要目表」#日本空母物語pp441-443では36.30mに訂正している。
  3. ^ #歴史群像22信濃の特別綴込付録[1]、『「信濃」公式図』によると長さ256.000m。一方、同書ワイド折り込み[8]、『空母「信濃」船体線図』の側面線図によると飛行甲板は水線長256.000mより艦尾に2.500m長く、長さ258.500m。幅は同じく正面線図による39.400m。
  4. ^ 〔 内令員第一九二五號 海軍定員令中左ノ通改正セラル 昭和十九年十月一日 海軍大臣 航空母艦定員表其ノ十三ヲ別表ノ如ク定ム(別表一葉添)』。同画像18、『
  5. ^ 〔 そのほか一二センチ二八連装噴進砲一二基も装備されたといわれるが、一説には噴進砲の装備は呉回航時、松山で搭載する予定であったといわれている 〕[29]より。
  6. ^ a b 東京(共同)[34] 廿二日發=戰艦大和、武藏の姉妹艦で當時世界最大の空母と謂はれた信濃(六五,〇〇〇トン)は太平洋戰爭末期に三重縣志摩半島沖合一一浬の海上で雷撃のため沈没、戰體が確認されないため連合軍から未返還のまゝ今日に至つてゐるが東海財務局では目下申請中の沈没調査費が到着次第明春四月ごろから優秀なサルベーヂを使ひ本格的調査を開始することになつた、當時の乗組員中若干は救助されてゐるので沈没簡所は略確認されており、これが判明次第連合軍に返還を申請、許可があれば拂下を行つて國庫に収める鋼材だけでも五萬トン、それに重油、各種物件を合せると時價十數億圓の價値があるものと見られてゐる(記事おわり)
  7. ^ 三.戰艦信濃及紀伊の建造工事中止[35] ④計畫に基く戰艦信濃及紀伊は夫々横須賀及呉海軍工廠に於て起工(紀伊は予定より六ヶ月繰上げ)し二重底迄の船殻工事を終つた時期に主として甲鈑の製造遅延の為一時建造工事を中止するに至つたが後日開戰後の軍備戰備計畫の大改變に基き信濃は航空母艦として再現せしめ得たが紀伊は遂に解体することとなつたものである。
  8. ^ 呉工廠の一一一號艦は一一〇號艦に比し約半年遅れて起工しているので解体可能(所要工數數千)とされたので遂に昭和十七年初に工事中止が確定された。斯くて兩艦共進水の偉容さえ観ることなく、次項に述べるミツドウエー海戰の結果もあり、一一〇號艦は航空母艦として再出發、一一一號艦は解体することに決定された[38]
  9. ^ (中略)[41] 本州沿岸での 沈没艦艇中、空母信濃に戰艦陸奥の最後が不可解である。/ 陸奥が沈んだのは昭和十八年六月の八日の白晝である。當時呉に假泊中であつた陸奥は突然、轟然たる大音響とゝもに、火災を天に注し、瞬時にして沈んだ。未だに原因不明であるが、過酷なる制裁に耐へかねた下級水兵の腹イセの仕業と言ふ説が流布された。/ 信濃は十九年の十一月廿九日の夜半に名古屋の沖で沈んだ。横須賀で竣工以來わずか一週間足らず、日本最短命の軍艦である。信濃は大和、武藏等の巨艦と同一の艦形で建造中途から空母に改造名實共に、世界最大の空母だつた。戰爭末期に誕生したこの巨艦は、呉に廻港中、米潜水艦の魚雷攻撃を受け、たつた一發の命で沈み去つた。乗員が職工であつたゝめ防水戸を閉めなかつたことが、その原因だといわれる(以下略)(註:実際に命中した魚雷は4本)
  10. ^ 〔11-29〕[42]〔 信濃 17dg(磯風 浜風 雪風)護衛 横須賀→呉/0320潮岬ノ110°75′ニ於テ(潜水艦)(魚雷)四本右舷中部ニ命中 11ktニテ紀伊水道ニ向フ/0700航行不能 1035頃 潮岬ノ111°55′ニテ転覆沈没、救助(准士官以上55 下士官兵1025) 〕
  11. ^ 〔 (艦種)[47] 戰艦
  12. ^ 官房機密第八一〇七號 昭和十七年六月三十日決裁 航空母艦増勢實行ニ關スル件仰裁[36] 首題ノ件ニ關シテハ省部間研究ノ結果意見一致セルヲ以テ左記方針ニ依リ直ニ其ノ實行ニ着手シ極力整備促進ヲ圖ルコトニ取計可然哉 追テ軍令部ヨリノ商議手續ハ他ノ艦種ニ關スルモノト共ニ別途處理スルコトト致度 記 一.昭和十七年度ニ於テ改装完了ノコトニ豫定シアル左ノ三隻ハ出來得ル限リ速ニ之ヲ完成ス 飛鷹大鯨新田丸/二.昭和十八年度ニ於テハ左ノ五隻ヲ航空母艦ニ改装スルモノトシ極力其ノ工事ヲ促進ス アルゼンチナ丸シャルンホルスト號千歳千代田ブラジル丸(朱書)ブラジル丸ニ對シテハ驅逐艦用機關ノ換装使用ニ關シ研究ノ上成ルベク其ノ實現ヲ圖ルモノトス/三.第一一〇號艦ハ概ネ昭和十九年十二月末完成ヲ目途トシ航空母艦ニ改装スルモノトシ尚出來得ル限リ工事ヲ促進ス/四.飛龍型及第一三〇號艦型建造計畫(飛龍型ハ第三〇二號艦ヲ加ヘ十四隻、第一三〇號艦型ハ同型ヲ加ヘ六隻ノ豫定、別紙及別表参照)中建造中ノモノハ極力工事ヲ促進、直ニ建造又ハ建造準備着手ヲ要スルモノハ速ニ之ニ着手シ極力其ノ工事ヲ促進ス/五.航空母艦艤装ニ關シテハ完成期ヲ遅延セシメザル範圍ニ於テ戰訓ニ基ク改善事項ヲ實施シ又出來得ル限リ艤装簡單化ニ關シ研究實行ス
  13. ^ ○事務開始[119] 呂號第五十五潜水艦艤装員事務所ヲ八月十九日岡山縣玉野市三井造船株式會社玉野造船所内ニ設置シ事務ヲ開始セリ/第三百三十三設営隊事務所ヲ舞鶴市宇公文名舞鶴海軍施設第一設営班内ニ設置シ事務ヲ開始セリ/驅逐艦艤装員事務所ヲ八月十五日舞鶴海軍工廠内ニ設置シ事務ヲ開始セリ/信濃艤装員事務所ヲ八月十七日横須賀海軍工廠内小海桟橋前ニ設置シ事務ヲ開始セリ/伊號第三百六十九潜水艦艤装員事務所ヲ八月二十日横須賀海軍工廠内ニ設置シ事務ヲ開始セリ
  14. ^ ○書類(除兵備品)引継ニ關スル件[123] 本日附第三航空戰隊司令部ハ解散シ第一航空戰隊司令部新設セラレタル所従来第三航空戰隊司令部ニ配布又ハ貸與シアル首題物件ハ總テ當部ニ引継受領セシニ付了承相成度(第一航空戰隊司令部)
  15. ^ ○事務所撤去[125] 第三十九號海防艦艤装員事務所ハ九月二十七日之ヲ撤去セリ/驅逐艦艤装員事務所ハ九月三十日之ヲ撤去セリ/焼津航空基地(假称)設立準備員事務ハ十月一日之ヲ撤去セリ/信濃艤装員事務所ハ十月五日之ヲ撤去セリ/伊號第三百六十九潜水艦艤装員事務所ハ十月九日之ヲ撤去セリ
  16. ^ (昭和19年11月)[151] 二十四日一二二五(長官)GF 二十四日一九一五信濃(司令官)2sd 17dg(長官2F)|聯合艦隊電令第五五〇號 信濃第十七駆逐隊ハ信濃艦長之ヲ指揮シ機宜横須賀發内海西部ニ回航スベシ 内海西部着後第十七駆逐隊ニ對スル信濃艦長ノ指揮ヲ解ク
  17. ^ (昭和19年11月)[44] 二九 一一三〇浜風駆逐艦長|二九 一一三〇(長官)GF (司令官)1sf (司令)阪警 (長官)呉鎮 (長官)横鎮 大海参一部長(2F長官、2sd司令官、紀伊防)|〇八三〇ヨリ信濃ヲ曳航準備中(曳索取終リ)一〇五七大傾斜顛覆沈没セリ位置潮岬ノ一一一度五五浬乗員救助中救難後呉ニ同航ノ予定
  18. ^ (昭和19年11月)[286] 二九 一六〇〇(司令)17dg(宛略)一.一四〇〇信濃乗員収容准士官以上五五名(内便乗者二名)下士官兵一〇二五名(内工員三二名)合計一〇八〇名/二.御寫眞ハ浜風ニ奉安/三.機密書類ハ鎖鑰ノ儘亡失ノ虞ナシ(水深四〇〇〇米以上)/四.明三〇日〇七〇〇豊後水道経由一四〇〇呉着収容者竝ニ輸送方手配アリ度
  19. ^ (昭和20年4月)[293] 一三一三三九大海参謀第一部長|帝國海軍戰事編制ヲ左ノ通改定ノコトニ手續中四月三十日附(中略)(五)大和 葛城 信濃ヲ第一航空戰隊ヨリ矢矧 第二十一駆逐ヲ第二水雷戰隊ヨリ除キGF附属(以下略)
  20. ^ 内令第七五〇號[12] 横須賀鎮守府在籍 軍艦 山城 軍艦 武藏 軍艦 翔鶴 軍艦 信濃/呉鎮守府在籍 軍艦 扶桑 軍艦 大和 軍艦 瑞鶴/舞鶴鎮守府在籍 軍艦 大鳳|右帝國軍艦籍ヨリ除カル 昭和二十年八月三十一日 海軍大臣
  21. ^ 「航空母艦『信濃』の眞相をお知らせ下さい」[318]「航空母艦『信濃』は昭和十九年十一月十一日に就役致しました。『信濃』はもと戦艦『大和』と同型の戦闘艦として造られ、のち航空母艦に改造されたものであります。『信濃』の撃沈されたのは昭和十九年十一月二十九日、つまり就役して僅かに十八日目のことでありました。場所は本州の南で、アメリカの一潜水艦のために撃沈されたのであります」
  22. ^ >常時運用する常用機と異なり、分解収納して修理の際の部品として使用したり、未搭載であっても予算上確保していて、損失機が出た時に即座に(手続き上)補充できるようにしている機体のこと
  23. ^ >昭和19年10月19日作成

出典

[編集]
  1. ^ a b c d #昭和19年6月~7月 海軍公報(部内限)/7月(1)画像5、海軍公報(部内限)第四七二九號 昭和十九年七月三日(月) 海軍大臣官房〔 達第二一二號 横須賀海軍工廠ニ於テ建造中ノ軍艦一隻ニ左ノ通命名セラル 昭和十九年七月一日 海軍大臣 軍艦 信濃(シナノ) 〕
  2. ^ a b #内令昭和19年7月p.3「内令第八〇四號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十九年七月一日 海軍大臣|軍艦、航空母艦ノ部中雲龍型ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ|| |信濃|」
  3. ^ a b #戦史叢書31海軍軍戦備1pp.564-565の艦種別金額、及びその注
  4. ^ a b #秘海軍公報昭和19年10月(2) p.23〔 内令第一一五四號 軍艦 信濃 右本籍ヲ横須賀鎮守府ト定メラル|昭和十九年十月六日 海軍大臣 〕
  5. ^ a b #戦史叢書31海軍軍戦備1p.576
  6. ^ 原勝洋「PART 2|「信濃」の誕生とその最後」#歴史群像22信濃p.97
  7. ^ a b c #海軍軍備(2) p.28〔 ④計画艦艇工事経過 戰艦|110号 〕
  8. ^ a b #海軍軍備(4) p.13〔 一一〇號艦は予定通り昭和十五年四月七日、一一一號艦は予定を半年繰上げ同年十一月七日起工され、大和型の第三、第四番大戰艦の工事がスタートした 〕
  9. ^ a b #海軍造船技術概要p.1674
  10. ^ a b c #海軍造船技術概要p.295
  11. ^ a b c d #日本航空母艦史p.100
  12. ^ a b 昭和20年9月3日(月)海軍公報 第5175号 p.1」 アジア歴史資料センター Ref.C12070509300 
  13. ^ a b c d e #川崎戦歴88頁
  14. ^ a b c #安藤 信濃11-14頁
  15. ^ a b c d e f g h i j k l #戦史叢書海軍戦備(2)30-31頁
  16. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r #海軍造船技術概要p.296
  17. ^ #昭和造船史1pp.780-781
  18. ^ a b #海軍造船技術概要pp.141-142
  19. ^ #歴史群像22信濃の特別綴込付録[1]、『「信濃」公式図 艦内側面』
  20. ^ #海軍造船技術概要pp.141-142
  21. ^ a b #写真日本の軍艦第4巻p.92「改装空母要目一覧」
  22. ^ a b c d #昭和造船史1pp.780-781
  23. ^ #海軍艦艇史3p.328「飛行甲板比較表」
  24. ^ #歴史群像22信濃ワイド折り込み[8]の『空母「信濃」船体線図』。「T.W.L.」、「1.W.L.」は基本計画時(船体線図決定時)の公試吃水線と、計画吃水線。
  25. ^ #海軍造船技術概要p.1678
  26. ^ a b c d #海軍艦艇史3p.331
  27. ^ a b #歴史群像22信濃ワイド折り込み[4]の『「信濃」兵装図』。
  28. ^ #戦史叢書海軍戦備(2)30-31頁、#海軍造船技術概要p.296
  29. ^ #写真日本の軍艦第4巻p.89
  30. ^ 原勝洋「PART 2|「信濃」の誕生とその最後」#歴史群像22信濃p.99
  31. ^ a b #日本の航空母艦p.294
  32. ^ a b #空母二十九隻 332-333頁〔 信濃(しなの) 〕
  33. ^ Enright, Joseph F. & Ryan, James W.『Shinano!: The Sinking of Japan's Secret Supership』New York: St. Martin's Press、1987年3月。ISBN 0-312-00186-X 
  34. ^ 沈没空母「信濃」の調査に乗出す 引揚れば時價十數億円”. Hoji Shinbun Digital Collection. Hawaii Times, 1951.10.22. pp. 09. 2024年2月11日閲覧。
  35. ^ #海軍軍備(3) p.10
  36. ^ a b c #海軍軍備(4) pp.14-15
  37. ^ a b #高松宮日記7巻 558頁〔 十月六日(金)荒天準備、雨(略)〔予定約束〕〇八一五「信濃」(戦艦改造空母)命名式。皇族御差遣ナシ。海軍大臣来レル由 〕
  38. ^ a b #海軍軍備(4)p.13
  39. ^ a b c 戦史叢書102巻 257頁「昭和19年(1944年)10月8日〔88-311・318〕」
  40. ^ a b #海軍航空部隊編制 p.42〔 ◎信濃(1sfへ 11/19 (×)(沈 11/29 〕
  41. ^ 日本海軍の最後 「初めて知られる太平洋戰の秘密誌」 ミツドウエー嶋の悲劇(三)田代喜久夫”. Hoji Shinbun Digital Collection. Hawai Sutā, 1949.01.10. pp. 02. 2024年2月11日閲覧。
  42. ^ a b c 経過概要(昭和19年11月下) p.41
  43. ^ #潜水艦戦争 393頁〔『信濃』の最期 〕
  44. ^ a b c #S1911十七駆日誌(1) p.29
  45. ^ #猛き艨艟325頁
  46. ^ #庭田、建艦秘話 54-55頁〔 2.第百十一号艦について 〕
  47. ^ #海軍軍備(2)p.25
  48. ^ #安藤 信濃33頁、#歴史群像22信濃97頁
  49. ^ a b #歴史群像22信濃96頁
  50. ^ #野元、航母(2013)158-160頁「三四〇メートルの大ドック」
  51. ^ 海軍艦艇史1pp.364-367
  52. ^ #安藤 信濃29頁、#歴史群像22信濃78,96頁
  53. ^ #田中2017、横鎮68頁
  54. ^ #牧野ノート195頁、#安藤 信濃16-17頁、保科実雄(主任技師)談。
  55. ^ #安藤 信濃16-17頁、#歴史群像22信濃96頁
  56. ^ 佐藤和正『空母入門』
  57. ^ #安藤 信濃31頁「超弩級戦艦一一〇誕生への胎動」
  58. ^ #諏訪 撃沈13-14頁
  59. ^ #歴史群像22信濃160頁、神谷武久(学徒報国隊・信濃工員)談。
  60. ^ #猛き艨艟329頁
  61. ^ a b c d #戦史叢書海軍戦備(2)29頁
  62. ^ #川崎戦歴87頁、#安藤 信濃59頁
  63. ^ #戦史叢書海軍戦備(2) 24-25頁〔 既定軍戦備計画の修正 〕
  64. ^ a b #歴史群像22信濃79頁
  65. ^ #護衛空母入門145頁
  66. ^ #庭田、建艦秘話55頁(庭田は海軍技術中将。111号艦担当)
  67. ^ #川崎戦歴87頁、#安藤 信濃60頁、#牧野ノート196頁
  68. ^ #豊田 信濃生涯77頁、#歴史群像22信濃79頁
  69. ^ #戦藻録(九版)108頁
  70. ^ a b #川崎戦歴87頁
  71. ^ 戦史叢書102巻116頁「昭和17年(1942年)4月18日 米機動部隊、日本本土初空襲」
  72. ^ #戦史叢書29北東方面179頁
  73. ^ a b #安藤 信濃73-74頁
  74. ^ #戦史叢書29北東方面 196-197頁〔 四ドゥリットル空襲の影響 〕
  75. ^ 戦史叢書102巻124頁『昭和17年(1942年)6月5日 ミッドウェー海戦(大敗し主力空母4隻・全飛行機喪失、大巡1隻喪失、攻略不成功敗退等)』
  76. ^ #海軍軍備(4) p.14〔 一.經緯並びに實行計畫 〕
  77. ^ #戦史叢書海軍戦備(2) 16頁〔 航空母艦緊急増勢 〕
  78. ^ 戦史叢書102巻128頁『昭和17年(1942年)6月30日〔43-626、88-16〕』
  79. ^ a b #安藤 信濃98頁
  80. ^ a b #日本補助艦艇物語274-275頁『樫野の経歴』
  81. ^ #戦史叢書海軍戦備(2)28頁
  82. ^ #牧野ノート196頁、#安藤 信濃98頁
  83. ^ #安藤 信濃100頁
  84. ^ #川崎戦歴87頁、#安藤 信濃114頁、#牧野ノート199頁
  85. ^ #猛き艨艟330頁、#幻の航空母艦258頁
  86. ^ #安藤 信濃113頁、#牧野ノート198頁
  87. ^ #豊田 信濃生涯90頁、#牧野ノート198頁
  88. ^ #川崎戦歴41頁
  89. ^ #川崎戦歴47頁
  90. ^ #豊田 信濃生涯91頁
  91. ^ #牧野ノート198頁
  92. ^ #牧野ノート199頁
  93. ^ #牧野ノート205頁
  94. ^ a b c #歴史群像22信濃83頁
  95. ^ #田中2017、横鎮188-190頁「信濃」
  96. ^ #田中2017、横鎮187-188頁『雲龍』
  97. ^ #田中2017、横鎮186-187頁「能代」
  98. ^ #田中2017、横鎮190-191頁「駆逐艦「松」型・「橘」型」
  99. ^ #田中2017、横鎮192-193頁「海防艦第二号型(丁型)」
  100. ^ a b c d e #猛き艨艟 332-336頁〔 思わぬ進水時の事故 〕
  101. ^ #安藤 信濃119頁
  102. ^ #武藏上146-148頁
  103. ^ 戦史叢書102巻183頁『昭和18年(1943年)6月24日〔62-346〕』
  104. ^ #高松宮日記6巻 382-383頁〔 六月二十四日(木)晴 快晴、珍シク晴レワタル。〇八二二新橋発横ヘ。110号艦ヲ見テ一〇一〇逸見発「武蔵」ヘ。行幸ヲ御迎ヘス(以下略) 〕
  105. ^ 戦史叢書102巻237-238頁「昭和19年(1944年)6月19日 マリアナ沖海戦(~20日、聯合艦隊敗退)」
  106. ^ #安藤 信濃121頁、#相良 信濃102頁
  107. ^ #豊田 信濃生涯114頁、#歴史群像22信濃83頁
  108. ^ #安藤 信濃129頁「徹底的に簡略化し突貫工事」
  109. ^ #相良 信濃
  110. ^ #安藤 信濃147頁「劣悪な作業環境下の重労働」
  111. ^ #空母二十九隻231-233頁「マンモス空母信濃の性能」
  112. ^ a b #空母二十九隻240-241頁「力の限界点での建造工事」
  113. ^ #安藤 信濃149頁、神谷武久(学徒報国隊員、二等海佐)
  114. ^ #安藤 信濃181頁
  115. ^ #牧野ノート205頁、#相良 信濃51頁
  116. ^ #安藤 信濃131頁
  117. ^ #戦士の肖像197-199頁「大西中将の「特攻の真意」」
  118. ^ a b 昭和19年8月18日(発令8月15日付)海軍辞令公報(甲)第1567号 p.13」 アジア歴史資料センター Ref.C13072100600 
  119. ^ 昭和19年8月25日 秘海軍公報 第4780号 p.8」 アジア歴史資料センター Ref.C12070496300 
  120. ^ a b c 昭和19年10月6日(発令10月1日付)海軍辞令公報(甲)第1612号 p.28」 アジア歴史資料センター Ref.C13072101400 
  121. ^ 昭和19年10月6日(発令10月1日付)海軍辞令公報(甲)第1612号 p.27」 アジア歴史資料センター Ref.C13072101400 
  122. ^ 昭和19年10月4日 海軍公報第4817号 p.15」 アジア歴史資料センター Ref.C12070502900 〔 ○事務開始 第一航空戰隊司令部ハ十月一日開隊松山航空基地ニ於テ事務ヲ開始セリ 〕-〔 ○殘務整理 第三航空戰隊司令部殘務整理ハ第一航空戰隊司令部ニ於テ之ヲ行フ 〕
  123. ^ 昭和19年10月13日 海軍公報第4825号 p.29」 アジア歴史資料センター Ref.C12070503000 
  124. ^ #海軍航空部隊編制 pp.39-40〔 GF|1KdB|(×)3F|天城、雲龍、◎葛城|各0 〕
  125. ^ 昭和19年10月16日 秘海軍公報 第4828号 p.47」 アジア歴史資料センター Ref.C12070497400 
  126. ^ #豊田 信濃生涯122頁、#安藤 信濃168頁
  127. ^ #豊田 信濃生涯136頁。沢本倫生(中尉、甲板士官)
  128. ^ a b #空母二十九隻 241-242頁〔 宿命の艦の不吉な前兆 〕
  129. ^ #豊田 信濃生涯137頁
  130. ^ #豊田 信濃生涯138頁、#歴史群像22信濃100頁
  131. ^ #豊田 信濃生涯141頁、#安藤 信濃171頁、#歴史群像22信濃100頁
  132. ^ 佐藤和正「空母入門」228頁「悪霊にとりつかれた『信濃』」
  133. ^ #安藤 信濃167-172頁「第7章 兇運を暗示した進水式」
  134. ^ #高松宮日記7巻 605頁〔 6日「信濃」命名式ノ予定ノ処、門扉ノ操作ヲ誤リ損傷シ延期。〕
  135. ^ 昭和19年10月11日 秘海軍公報 第4823号 p.23」 アジア歴史資料センター Ref.C12070497400 〔 内令第一一五四號 軍艦 信濃 右本籍ヲ横須賀鎮守府ト定メラル 昭和十九年十月六日 海軍大臣 〕
  136. ^ #豊田 信濃生涯144頁、#安藤 信濃176頁
  137. ^ a b c d e f g h i #完本太平洋戦争下185頁
  138. ^ #相良 信濃22頁
  139. ^ #豊田 信濃生涯190頁
  140. ^ #海軍軍備(4) p.17〔 新艦|信濃(一一〇號艦)|(予定完成期)一九.一二.末|(竣工年月日)一九.一一.一九 〕
  141. ^ 戦史叢書102巻260-261頁『昭和19年(1944年)10月23日 フィリピン沖海戦(~26日)』
  142. ^ 戦史叢書102巻272頁『昭和19年(1944年)12月19日〔48-554、93-95〕』
  143. ^ a b 小福田晧文『指揮官空戦記』光人社NF文庫336頁
  144. ^ 碇義朗『最後の戦闘機紫電改』(光人社、1994)227頁
  145. ^ a b #安藤 信濃179-180
  146. ^ a b c #母艦航空隊326-328頁『艦上戦闘機「紫電改」信濃飛行甲板上の勇姿 菊原静男』
  147. ^ 昭和19年11月18日(発令11月15日付)海軍辞令公報(甲)第1646号 p.11」 アジア歴史資料センター Ref.C13072102000 
  148. ^ #幻の航空母艦266頁
  149. ^ #海軍航空部隊編制 p.41〔 19-12-1|GF|附属|1sf|(×)雲龍 葛城 隼鷹 天城 (×)信濃 龍鳳|各0 〕
  150. ^ #猛き艨艟336頁、#安藤 信濃189頁
  151. ^ #S1911二水戦日誌(1) p.23
  152. ^ #空母二十九隻244-245頁『悪魔の精につかれた信濃』
  153. ^ #豊田 信濃生涯143,191頁、#安藤 信濃189頁
  154. ^ #豊田 信濃生涯33頁、#幻の航空母艦265頁。B29撮影写真(信濃の写真)。
  155. ^ #豊田 信濃生涯192頁、#エンライト 信濃!52、97-98頁
  156. ^ a b c 前間『戦艦大和誕生』上巻432-433頁
  157. ^ #豊田 信濃生涯198-199頁、#歴史群像22信濃100頁
  158. ^ a b c #野元、航母(2013) 185-188頁〔 午前二時過ぎか、魚雷命中音 〕
  159. ^ a b #母艦航空隊 328-329頁〔 信濃飛行長を命ず 志賀淑雄 〕
  160. ^ #武藏下426頁
  161. ^ 文藝春秋 編『人間爆弾と呼ばれて 証言・桜花特攻』(文藝春秋、2005年)337頁
  162. ^ #豊田 信濃生涯211頁、#安藤 信濃186頁
  163. ^ #豊田 信濃生涯212頁
  164. ^ #豊田 信濃生涯214頁、#雪風ハ沈マズ新装388頁
  165. ^ #豊田 信濃生涯27頁、#安藤 信濃189頁
  166. ^ 戦史叢書102巻266頁『昭和19年(1944年)11月15日 聯合艦隊、第1遊撃部隊主力の内地回航を下令(16日ブルネイ発、23日内海西部着、21日戦艦金剛・駆逐艦1雷撃を受け沈没〔56-549、93-67〕』
  167. ^ #S1911二水戦日誌(1)pp.10-11『十一月十六日「ブル子ー」ヲ出撃セル第一遊撃部隊ノ大部ハ同二十三日内海西部着本回航中十七駆(浦風)ハ敵潜ノ雷撃ヲ受ケ沈没セリ』
  168. ^ #海上護衛戦(角川)355-356頁
  169. ^ #S1911十七駆日誌(1) p.26〔 二五 一四四五長門(宛略)長門一七駆(浦風欠)横須賀着一四四五|無線 〕
  170. ^ a b #長門七分隊 176頁〔 入港ラッパはひびく 〕
  171. ^ #武藏下423-245頁、#豊田 信濃生涯215-217頁、#エンライト 信濃!75頁、116-117頁
  172. ^ #エンライト 信濃!118頁
  173. ^ #豊田 信濃生涯37頁、#雪風ハ沈マズ新装388頁
  174. ^ #鳴戸 硯滴録139頁
  175. ^ #エンライト 信濃!119頁
  176. ^ #海上護衛戦(角川)356-357頁。大井によれば、立花参謀は『駆逐艦3隻があるからたいてい大丈夫』と発言したという。
  177. ^ #海上護衛戦(角川)357-358頁
  178. ^ #猛き艨艟336頁
  179. ^ a b #武藏下426頁
  180. ^ #エンライト 信濃!73頁
  181. ^ #安藤 信濃195頁
  182. ^ #井上 磯風251頁
  183. ^ #エンライト 信濃!75-77頁
  184. ^ #武藏下427頁、#豊田 信濃生涯224頁。沢本(中尉、信濃甲板士官)、#雪風ハ沈マズ新装389頁。柴田(大尉、雪風艦橋当直)
  185. ^ #豊田 信濃生涯225頁、#安藤 信濃195頁、#雪風ハ沈マズ新装389頁
  186. ^ #豊田 信濃生涯225頁
  187. ^ a b #エンライト 信濃!95頁
  188. ^ #エンライト 信濃!89-90頁
  189. ^ #エンライト 信濃!87-88頁、95頁
  190. ^ #エンライト 信濃!96-98頁
  191. ^ #武藏下427頁
  192. ^ a b c #武藏下429頁
  193. ^ #豊田 信濃生涯229頁
  194. ^ #井上 磯風251-253頁
  195. ^ #信濃少年兵 67頁、#豊田 信濃生涯230-231頁
  196. ^ a b #野元、航母(2013) 179-181頁〔 処女航海についた信濃 〕
  197. ^ #諏訪 撃沈46-51頁「デマ放送」
  198. ^ a b #連合艦隊の栄光(角川)268-269頁
  199. ^ #連合艦隊の栄光(角川)269頁
  200. ^ #猛き艨艟338頁
  201. ^ #潜水艦戦争394頁、#エンライト 信濃!80-81頁
  202. ^ #エンライト 信濃!88頁
  203. ^ #豊田 信濃生涯224頁、#エンライト 信濃!89-90頁
  204. ^ #豊田 信濃生涯17頁。豊田のエンライト艦長に対する取材より。
  205. ^ #潜水艦戦争394頁(同艦航海日誌より)
  206. ^ #豊田 信濃生涯220頁
  207. ^ #猛き艨艟337頁
  208. ^ #豊田 信濃生涯28頁
  209. ^ #エンライト 信濃!144-145頁
  210. ^ #エンライト 信濃!155頁
  211. ^ #エンライト 信濃!157-158頁
  212. ^ #エンライト 信濃!159頁
  213. ^ #エンライト 信濃!167頁
  214. ^ #豊田 信濃生涯233頁
  215. ^ #エンライト 信濃!179-180頁。山岸泰忍(電信兵曹)
  216. ^ #豊田 信濃生涯234頁
  217. ^ #豊田 信濃生涯235頁
  218. ^ #潜水艦戦争395頁
  219. ^ #空母二十九隻 332-333頁〔 悲運!米潜はいた 〕
  220. ^ #エンライト 信濃!174-177頁。三浦(機関少佐)
  221. ^ #エンライト 信濃!215-216頁
  222. ^ #雪風ハ沈マズ新装390頁、#豊田 信濃生涯217-218頁
  223. ^ #雪風ハ沈マズ新装389頁
  224. ^ #エンライト 信濃!259-260頁
  225. ^ #エンライト 信濃!239頁
  226. ^ #豊田 信濃生涯248頁
  227. ^ #猛き艨艟337-338頁
  228. ^ #エンライト 信濃!295頁
  229. ^ #豊田 信濃生涯239頁
  230. ^ #豊田 信濃生涯244頁
  231. ^ #エンライト 信濃!287頁
  232. ^ #安藤 信濃211頁、#エンライト 信濃!263-264頁
  233. ^ #豊田 信濃生涯246頁
  234. ^ #安藤 信濃203頁
  235. ^ #豊田 信濃生涯315頁
  236. ^ #S1911十七駆日誌(1) p.27〔 二八 〇三三〇信濃|二八 〇三三〇各|我魚雷ヲ受ケタリ附近ヲ警戒セヨ 〕
  237. ^ a b c d #潜水艦戦争396頁
  238. ^ a b #安藤 信濃185頁
  239. ^ #豊田 信濃生涯195頁
  240. ^ #豊田 信濃生涯245頁
  241. ^ #野元、航母(2013)177-179頁『完成後すぐの出撃は無理』
  242. ^ #豊田 信濃生涯193頁、三上(内務長)
  243. ^ a b #安藤 信濃204頁、#豊田 信濃生涯247頁
  244. ^ a b c #空母二十九隻 247-249頁〔 一縷の望みもたえて 〕
  245. ^ a b #豊田 信濃生涯247頁
  246. ^ #猛き艨艟340頁『〇四〇〇頃、傾斜右一〇度、艦の速力落ちる。〇四三〇頃、右一五度に傾く。〇五〇〇頃、傾斜増大甚だしく、機械運転不能となる。左舷注水を試みるも不能、速力停止。〇六〇〇頃、傾斜二〇度となる』
  247. ^ #S1911十七駆日誌(1) p.28〔 二九 〇六〇〇信濃|雪風|左ノ電転電被度 宛大阪警備府小松島航空隊 発信濃 本艦雷撃ヲ受ケ潮岬ニ向ヒツツ有リ針路三〇〇度速力一一節〇五三〇ノ一潮岬一一三度七二浬 〕
  248. ^ #豊田 信濃生涯266頁。上野四郎(右舷外側機関室)談。
  249. ^ #豊田 信濃生涯261、280頁
  250. ^ #海上護衛戦(角川)359頁
  251. ^ 昭和18年9月1日~昭和19年 11月30日 伊勢防備隊戦時日誌戦闘詳報(14)」 アジア歴史資料センター Ref.C08030419800 
  252. ^ #S1911十七駆日誌(1) p.28〔 二九 〇七四五信濃|雪風|本艦傾斜ノ爲運転不能曳船用意 〕
  253. ^ #S1911十七駆日誌(1) p.27〔 二八 〇八〇〇信濃|二八 〇八〇〇濱風|本艦傾斜ノ爲運転不能トナル引船用意 〕
  254. ^ #豊田 信濃生涯273頁
  255. ^ #エンライト 信濃!303頁
  256. ^ #安藤 信濃212頁、#豊田 信濃生涯268頁、282頁
  257. ^ #完本太平洋戦争下186頁
  258. ^ #エンライト 信濃!277頁
  259. ^ #井上 磯風258頁
  260. ^ #S1911十七駆日誌(1) p.28〔 二九 〇八五五浜風|雪風|浜風磯風ニテ順曳ス 〕- 〔 二九 〇九一〇浜風|二九 〇九一〇雪風磯風|浜風磯風ニテ順引ス 〕
  261. ^ #空母二十九隻 249-250頁〔 甲板を洗う水、水 〕
  262. ^ #安藤 信濃215頁、#雪風ハ沈マズ新装393頁、#信濃少年兵81頁
  263. ^ 『世界奇跡の駆逐艦』p.371-372
  264. ^ a b c d BS1スペシャル 「幻の巨大空母“信濃”~乗組員が語る 大和型“不沈艦”の悲劇~」(後編)
  265. ^ #信濃少年兵79頁
  266. ^ #豊田 信濃生涯270頁
  267. ^ #安藤 信濃215頁
  268. ^ #武藏下432頁
  269. ^ #S1911十七駆日誌(1) p.28〔 二九 〇九三二信濃|二九 〇九三二浜風|今カラ御眞影ト人員ノ一部ヲ移載ス 〕
  270. ^ #安藤 信濃216頁、#豊田 信濃生涯286頁
  271. ^ #安藤 信濃218頁
  272. ^ #S1911十七駆日誌(1) p.28〔 二九 一〇二七信濃|隊三|今ヨリ總員退去ス 〕
  273. ^ #S1911十七駆日誌(1) p.29〔 二九 一〇三七信濃|二九 一〇三七駆|總員退去ス 〕
  274. ^ #安藤 信濃220頁
  275. ^ a b #続海軍くろしお108-109頁
  276. ^ #エンライト 信濃!322-323頁、#安藤 信濃223-225頁、#奇跡の駆逐艦374-375頁
  277. ^ a b #野元、航母(2013)181-183頁『巨艦の最後』
  278. ^ #諏訪 撃沈25-26頁、#エンライト 信濃!379頁
  279. ^ a b #空母二十九隻 274-276頁〔 出港後十七時間、魚雷四本に斃れた信濃の悲運 〕
  280. ^ a b c #安藤 信濃223-225頁
  281. ^ #野元、航母(2013)190-191頁『黒潮に立つ鉄の墓標』
  282. ^ #エンライト 信濃!309、313頁
  283. ^ a b #エンライト 信濃!322-323頁、#安藤 信濃223-225頁
  284. ^ #諏訪 撃沈129、143、171頁
  285. ^ a b #武藏下433頁、武田水雷長
  286. ^ a b #S1911十七駆日誌(1) p.30
  287. ^ #安藤 信濃226頁、#豊田 信濃生涯318頁
  288. ^ #空母機動部隊(2010)286-287頁
  289. ^ a b #続海軍くろしお109-110頁
  290. ^ #海軍技術研究所252頁
  291. ^ #猛き艨艟342頁
  292. ^ #空母二十九隻233-236頁『突貫工事のもたらした悲劇』
  293. ^ #S1911十七駆日誌(9) pp.35-37
  294. ^ #海軍航空部隊編制 pp.47-48〔 20-4-1|GF|(×)2F|(×)|天城、葛城、大和、隼鷹|各0 〕-〔 (×)1sf(2F)4/20 〕
  295. ^ #豊田 信濃生涯197頁、#安藤 信濃185頁
  296. ^ a b #続海軍くろしお104-105頁
  297. ^ a b #戦艦十二隻(2014)46-47頁
  298. ^ #豊田 信濃生涯332頁
  299. ^ #豊田 信濃生涯210頁
  300. ^ #相良 信濃192頁
  301. ^ #豊田 信濃生涯264頁
  302. ^ #安藤 信濃231頁、千早正隆(海軍参謀)
  303. ^ #猛き艨艟341頁
  304. ^ #庭田、建艦秘話48頁
  305. ^ #庭田、建艦秘話53頁『(ロ)工事概括予定と実際』
  306. ^ a b #相良 信濃194-195頁、#牧野ノート207頁
  307. ^ #奇跡の駆逐艦371頁
  308. ^ #海上護衛戦(角川)359-360頁
  309. ^ #相良 信濃195-196頁
  310. ^ #相良 信濃200頁
  311. ^ a b #空母二十九隻 250頁〔 ついに沈んだ不沈空母 〕
  312. ^ #豊田 信濃生涯329-331頁、#相良 信濃205-2026頁
  313. ^ #エンライト 信濃!340頁
  314. ^ #高松宮日記8巻12頁『一月九日(火)半晴(略)S事件報告』
  315. ^ #豊田 信濃生涯317頁
  316. ^ a b #エンライト 信濃!329-332頁
  317. ^ a b #エンライト 信濃!337-338頁
  318. ^ #真相はかうだコマ11-12
  319. ^ 七萬一千噸、世界最大の怪物航空母艦「信濃」の劇的最後 ○沈みゆく信濃”. Hoji Shinbun Digital Collection. Hawaii Times, 1948.03.16. pp. 11. 2024年2月11日閲覧。
  320. ^ #猛き艨艟324頁
  321. ^ #歴史群像22信濃82頁、『日本の航空母艦パーフェクトガイド』109頁「信濃の搭載機」
  322. ^ 『日本の航空母艦パーフェクトガイド』109頁
  323. ^ #歴史群像22信濃ワイド折込み、水野行雄『空母信濃のリサーチについて』
  324. ^ #歴史群像22信濃・信濃1/300スケールモデル解説より、163-164頁
  325. ^ #歴史群像22信濃163頁、「横須賀海軍工廠外史」等の孫引き
  326. ^ #相良 信濃98頁、#牧野ノート202頁
  327. ^ #諏訪 撃沈16頁
  328. ^ a b c #安藤 信濃117-118頁。稲川精一(海軍技術大佐、艦政本部第4部)
  329. ^ #牧野ノート202頁、#歴史群像22信濃99頁
  330. ^ #安藤 信濃117頁、#相良 信濃98頁、#牧野ノート202頁
  331. ^ #歴史群像22信濃99頁、#川崎戦歴88頁
  332. ^ a b #牧野ノート189頁
  333. ^ #安藤 信濃117-118頁、#牧野ノート202頁
  334. ^ 【ビジュアル解析】戦艦「大和」別冊宝島編集部 p.52
  335. ^ #川崎戦歴87頁、#歴史群像22信濃80頁
  336. ^ a b c d #牧野ノート203頁
  337. ^ #相良 信濃98頁、#歴史群像22信濃100頁
  338. ^ a b #牧野ノート201頁
  339. ^ #安藤 信濃117頁、#牧野ノート201頁
  340. ^ #相良 信濃110頁
  341. ^ #牧野ノート195頁
  342. ^ #相良 信濃102頁
  343. ^ #豊田 信濃生涯131頁、#諏訪 撃沈15頁、#安藤 信濃131頁
  344. ^ 辺見じゅん・原勝洋 編『戦艦大和発見』(角川春樹事務所ハルキ文庫、2004年)69頁
  345. ^ 小林昌信ほか『戦艦「大和」檣頭下に死す』22頁
  346. ^ #豊田 信濃生涯129頁。正田真五(兵曹長、操舵長)
  347. ^ #安藤 信濃148頁
  348. ^ #エンライト 信濃!66頁
  349. ^ #相良 信濃98頁
  350. ^ #安藤 信濃115-116頁
  351. ^ #高松宮日記7巻 543頁〔 九月四日(月)晴 〇六五七品川発、横砲校へ。〇九〇〇工廠ニテ「信濃」防空指揮所装備ニツキ研究アリ。機動艦隊ノ意見ニヨル改装ニ決スル 〕
  352. ^ #エンライト 信濃!66、352頁。千早正隆訳「私が設計したマンモス空母信濃の秘密」丸1960年11月号より孫引き。
  353. ^ 』2011年2月号
  354. ^ 『最強戦闘機紫電改』136-137頁
  355. ^ #相良 信濃98頁、#歴史群像22信濃99頁
  356. ^ #牧野ノート196頁
  357. ^ #幻の航空母艦262頁
  358. ^ #海軍造船技術概要p.288
  359. ^ #相良 信濃98頁、#牧野ノート201-202頁
  360. ^ #相良 信濃99頁、#牧野ノート190頁
  361. ^ a b c #牧野ノート190頁
  362. ^ #歴史群像22信濃167頁、神谷武久(工員)談。
  363. ^ #安藤 信濃11-14頁、#歴史群像22信濃82頁
  364. ^ #牧野ノート204頁
  365. ^ #諏訪 撃沈15頁、#海軍技術研究所251頁
  366. ^ 碇義朗『最後の戦闘機紫電改』(光人社、1994)229頁、#歴史群像22信濃161頁
  367. ^ #豊田 信濃生涯308頁、諏訪繁治(兵曹、通信科)
  368. ^ a b 歴史群像太平洋戦史シーリズ大和型戦艦2 最新の模型・考証・資料で今甦る超超弩級艦の実相』(学習研究社、1998年) ISBN 4-05-601919-3 原勝洋「米海軍の16インチ徹甲弾で射抜かれた戦艦信濃?の主砲塔前楯」 p103~p108、また多賀一史「ワシントン海軍工廠の大和型砲楯前鈑」 p140~p142 世界の艦船 2010年2月号増刊 「戦艦大和 100のトリビア」 (出版共同社) p140~p141 「第6章 戦後譚 91 アメリカに残る大和型の装甲鈑」 (PDFファイル)
  369. ^ BS1スペシャル 「幻の巨大空母“信濃”~乗組員が語る 大和型“不沈艦”の悲劇~」(前編)
  370. ^ 』2019年11月号
  371. ^ 「青鉛筆」『朝日新聞』昭和26年10月21日
  372. ^ 昭和20年2月16日(昭和19年11月29日付)海軍辞令公報(甲)第1723号 p.42」 アジア歴史資料センター Ref.C13072103400 

参考文献

[編集]
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C08011233600「艦艇特務艦艇籍一覧表」
    • Ref.C08030585900「昭和19年12月19日 軍艦雲龍戦闘詳報」
    • Ref.『昭和19年11月20日~昭和19年12月30日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。C08030102400。 
    • Ref.『昭和19年11月1日~昭和20年5月31日 第17駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。C08030147000。 
    • Ref.『昭和19年11月1日〜昭和20年5月31日 第17駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(9)』。C08030147800。 
    • Ref.『昭和19.9.1~昭和19.11.30太平洋戦争経過概要 その10/19年11月16日~19年11月30日』。C16120646600。 
    • Ref.『自昭和19年1月至昭和19年7月内令/昭和19年7月』。C12070195500。 
    • Ref.『昭和19年9月.昭和19年12月 内令員/内令員 昭和19年10月(1)』。C12070215100。 
    • Ref.『昭和19年9月~12月秘海軍公報号外/10月(2)』。C12070497400。 
    • Ref.『昭和19年6月~7月 海軍公報(部内限)/7月(1)』。C12070479600。 
    • Ref.『昭和20年8月 昭和20年11月 海軍公報(終戦関係)』。C12070530400。 
  • 相良俊輔『まぼろしの空母 信濃』講談社、1975年11月。 
  • 蟻坂四平岡健一『空母信濃の少年兵 死の海からのダイブと生還の記録』元就出版社、2004年。ISBN 4-86106-005-2 
  • 安藤日出男『幻の空母信濃』朝日ソノラマ文庫航空戦史シリーズ、1987年。ISBN 4-257-17093-X 
  • 伊藤正徳「第七章 世界一の好運艦雪風」『連合艦隊の栄光』角川書店、1974年7月。 
  • 井上理二『駆逐艦磯風と三人の特年兵』光人社、1999年。ISBN 4-7698-0935-2 
  • 井上理二『駆逐艦磯風と三人の特年兵』光人社〈光人社NF文庫〉、2011年10月。ISBN 978-4-7698-2709-2 
  • 宇垣纏成瀬恭発行人『戦藻録』原書房、1968年。 
  • J.F.エンライト & J.W.ライアン、高城肇訳『信濃! 日本秘密空母の沈没』光人社、1994年。ISBN 4-7698-2039-9 
    千早正隆監修。エンライトはアーチャーフィッシュの艦長。日本側記述は豊田穣『空母信濃の生涯』を参考文献としている。
  • 大井篤『海上護衛戦』角川文庫、2014年5月(原著1953年)。ISBN 978-4-04-101598-8 
  • 大内建二『護衛空母入門 その誕生と運用メカニズム』光人社NF文庫、2005年4月。ISBN 4-7698-2451-3 
  • 大内建二『幻の航空母艦 主力母艦の陰に隠れた異色の艦艇』光人社NF文庫、2006年12月。ISBN 4-7698-2514-5 
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第一法規出版、1995年。
  • 川崎まなぶ『日本海軍の航空母艦 その生い立ちと戦歴』大日本絵画、2009年。ISBN 978-4-499-23003-2 
  • 駆逐艦雪風手記編集委員会『激動の昭和・世界奇跡の駆逐艦 雪風』駆逐艦雪風手記刊行会、1999年9月。 
  • 神立尚紀「角田和男 「特攻の真意」と慰霊の旅」『戦士の肖像』文春ネスコ、2004年8月。ISBN 4-89036-206-1 
  • 小林昌信ほか『戦艦十二隻 国威の象徴"鋼鉄の浮城"の生々流転と戦場の咆哮』光人社、2014年8月。ISBN 978-4-7698-1572-3 
    • 当時「大和」内務科分隊長・海軍中尉今井賢二『戦艦「大和」ミッドウエー防禦戦闘 応急部指揮官としてダメージコントロールから見た知られざる不沈艦の秘密
  • 佐藤和正『空母入門』光人社、1997年10月。ISBN 4-7698-2174-3 
  • 諏訪繁治『沈みゆく信濃知られざる撃沈の瞬間』光人社、2010年11月。ISBN 978-4-7698-2658-3 
    「沈みゆく信濃」(民鐘出版、1947年)を改訂。著者の体験談だが、一部人名を仮名としてある。
  • 『日本航空母艦史』 世界の艦船 2011年1月号増刊 第736集(増刊第95集)、海人社、2010年12月。 
  • 高松宮宣仁親王嶋中鵬二発行者『高松宮日記 第六巻 昭和十八年 二月~九月』中央公論社、1997年。ISBN 4-12-403396-6 
  • 高松宮宣仁親王嶋中鵬二発行人『高松宮日記 第七巻 昭和十八年十月一日~昭和十九年十二月三十一日』中央公論社、1997年7月。ISBN 4-12-403397-4 
  • 高松宮宣仁親王嶋中鵬二発行人『高松宮日記 第八巻 昭和二十年一月一日~昭和二十二年十一月五日』中央公論社、1997年12月。ISBN 4-12-403398-2 
  • 高橋定ほか『母艦航空隊 体験で綴る空母機動部隊の一挙一動と海空戦の真相!』潮書房光人社、2013年1月。ISBN 978-4-7698-1538-9 
    • 空母「信濃」着艦テストと飛行長 元川西航空機設計技師菊原静男/元「信濃」飛行長・海軍少佐志賀淑雄
  • 田中宏巳『横須賀鎮守府』有隣堂〈有隣堂新書〉、2017年5月。ISBN 978-4-89660-224-1 
  • 野元為輝ほか『航空母艦物語 体験で綴る日本空母の興亡と変遷!』潮書房光人社、2013年6月。ISBN 978-4-7698-1544-0 
    • 当時横須賀工廠造船部員・海軍技師立川義治『戦艦「信濃」を空母に改装するまで 世界最大の空母。しかし戦艦からの改装は技術者泣かせだった
    • 横須賀工廠技術陣『超大空母「信濃」は私たちが造った 座談会/技術の枠を結集した一一〇号艦建造秘話
    • 当時「信濃」軍医長・海軍軍医少佐安間孝正『処女航海で沈んだ七万トン空母の最後 沈没の修羅場から生還した軍医長の手記
    • 元「信濃」通信長・海軍中佐荒木勲『大傾斜七十度 巨艦「信濃」の末路 悪夢のごとき一瞬に生涯をかけた通信長の証言
  • 手塚正己『軍艦武藏 上巻』新潮文庫、2009年。 
  • 手塚正己『軍艦武藏 下巻』新潮文庫、2009年。 
    下巻(2009年版)に浜風の磯山航海長、武田水雷長の信濃の護衛時談話を掲載
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。ISBN 4-7698-1246-9
  • 豊田穣『雪風ハ沈マズ 強運駆逐艦 栄光の生涯』光人社、1983年。ISBN 4-7698-0208-0 
  • 豊田穣『空母信濃の生涯 巨大空母悲劇の終焉』光人社NF文庫、2000年。ISBN 4-7698-2275-8 
  • 中川靖造『海軍技術研究所 エレクトロニクス王国の先駆者たち』講談社、1990年10月。ISBN 4-06-184790-2 
  • 七分隊長門会『長門七分隊 機銃群隊員の鎮魂記録』原書房、1982年8月。 
  • 鳴戸清爾『硯滴録 わが海軍戦記』出版芸術社、1994年。 
  • (社)日本造船学会 編『昭和造船史(第1巻)』 明治百年史叢書 第207巻(第3版)、原書房、1981年(原著1977年10月)。ISBN 4-562-00302-2 
  • 庭田尚三元海軍技術中将 庭田尚三述 建艦秘話』船舶技術協会、1965年9月。 
  • 長谷川藤一『軍艦メカニズム図鑑 日本の航空母艦』(第3刷)グランプリ出版、1998年12月(原著1997年9月)。ISBN 4-87687-184-1 
  • 原勝洋「「信濃」の誕生とその最期 空母「信濃」」『猛き艨艟 太平洋戦争日本軍艦戦史』文春文庫、2000年8月。ISBN 4-16-745602-8 
  • 福井静夫『海軍艦艇史 3 航空母艦、水上機母艦、水雷・潜水母艦』KKベストセラーズ、1982年4月。ISBN 4-584-17023-1 
  • 福井静夫『福井静夫著作集第10巻 日本補助艦艇物語』光人社、1993年。ISBN 4-7698-0658-2 
  • 福井静夫『写真 日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1 
  • 福井静夫『日本空母物語』 福井静夫著作集第7巻、光人社、1996年8月。ISBN 4-7698-0655-8 
  • 福地周夫「「総員退艦」はまだですか ―空母信濃沈没悲話」『続・海軍くろしお物語』光人社、1982年6月。ISBN 4-7698-0179-3 
  • 双葉社『3DCGシリーズ34 大和型戦艦』双葉社、2006年12月。ISBN 4-575-47890-3 
  • 文藝春秋編「沢本倫生(当時信濃士官)「まぼろしの空母・信濃への挽歌」(初出文藝春秋臨時増刊「太平洋戦争 日本軍艦戦記」昭和45年11月)」『完本・太平洋戦争(下)』文藝春秋、1991年12月。ISBN 4-16-345930-8 
  • レオンス・ペイヤール、長塚隆二訳『潜水艦戦争 1939-1945』早川書房、1973年12月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書29 北東方面海軍作戦』朝雲新聞社、1969年8月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで』 第31巻、朝雲新聞社、1969年。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 ミッドウェー海戦』 第43巻、朝雲新聞社、1971年3月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書88 海軍戦備(2) 開戦以後』朝雲新聞社、1975年10月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 陸海軍年表 付 兵器・兵語の解説』 第102巻、朝雲新聞社、1980年1月。 
  • 前間孝則『戦艦大和誕生 西島技術大佐の未公開記録』講談社、1999年。ISBN 4062564017 
  • 牧野茂福井静夫 編『海軍造船技術概要』今日の話題社、1987年5月。ISBN 4-87565-205-4 
  • 牧野茂『艦船ノート』出版共同社、1987年。ISBN 4-87970-045-2 
    牧野は大和型戦艦設計者の一人。信濃の空母改造にも携わった。
  • 雑誌『丸』編集部 編『写真日本の軍艦 第4巻 空母II』光人社、1989年10月。ISBN 4-7698-0454-7 
  • 雑誌「丸」編集部「元信濃の乗組・海軍上等兵曹諏訪繁治『巨大空母信濃十七時間の生涯」『空母機動部隊 私は非情の海空戦をこう戦った!』光人社、2010年7月。 
  • 「丸」編集部編『最強戦闘機紫電改 蘇る海鷲』光人社、2010年。ISBN 978-4-7698-1456-6 
    • 山本重久海軍技廠実験部員「テストパイロット試乗機」
  • 横井俊之ほか『空母二十九隻 日本空母の興亡変遷と戦場の実相』潮書房光人社、2016年2月。ISBN 978-4-7698-1611-9 
    • 当時「信濃」設計担当・海軍造船中将福田啓二『私が設計したマンモス空母「信濃」の秘密 誕生の由縁から性能特長および悲劇の周辺まで秘密空母の素顔
    • 当時「信濃」建造現場担当・海軍技術大佐前田龍夫『宿命を背負った空母「信濃」の予期せぬ出来事 進水命名式を前にドック内で繋留ワイヤロープ切断の一大事
    • 当時「信濃」機械分隊長・海軍少佐三浦治『機関科分隊長が体験した信濃沈没の悲運 四年半のドック生活の果て出港沈没したマンモス空母の十七時間
    • 戦史研究家伊達久『日本海軍航空母艦戦歴一覧 伊吹および雲龍型未成艦をふくむ空母二十九隻の太平洋戦争
  • 歴史群像シリーズ 戦艦大和』(学習研究社、1998年) ISBN 4-05-603432-X
  • 歴史群像太平洋戦史シリーズ22『空母大鳳・信濃造艦技術の粋を結集した重防御大型空母の偉容学習研究社、1999年7月。ISBN 4-05-602062-0 
  • 歴史群像シリーズ 日本の航空母艦パーフェクトガイド』(学習研究社、2003年) ISBN 4-05-603055-3

関連項目

[編集]
  • 大和型戦艦
  • 信濃丸
  • 深江章喜(映画やテレビ等で悪役で活躍した俳優。生存した乗組員の一人。沈没時に12時間漂流して救助された。)