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「天武天皇」の版間の差分

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[[ファイル:Emperor family tree38-50.png|thumb|220px|天皇系図38~50代]]
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'''天武天皇'''(てんむてんのう、[[舒明天皇]]3年([[631年]])? - [[朱鳥]]元年[[9月9日 (旧暦)|9月9日]]([[686年]][[10月1日]]))は、『[[皇統譜]]』によると第40代[[天皇]]である(在位:天武天皇2年[[2月27日 (旧暦)|2月27日]]([[673年]][[3月20日]]) - 朱鳥元年9月9日(686年10月1日))。


== 概要 ==
[[漢風諡号]]である「天武天皇」は、代々の天皇と同様、[[奈良時代]]に[[淡海三船]]によって撰進され、「天は武王を立てて悪しき王(紂王)を滅ぼした」から名付けられたとされる。
[[舒明天皇]]と[[皇極天皇]](斉明天皇)の子として生まれ、中大兄皇子([[天智天皇]])にとっては両親を同じくする弟にあたる。皇后の鸕野讃良皇女は後に[[持統天皇]]となった。


天智天皇の死後、[[672年]]に[[壬申の乱]]で大友皇子([[弘文天皇]])を倒し、その翌年に即位した。その治世は14年間、即位からは13年間にわたる。[[飛鳥浄御原宮]]を造営し、その治世は続く持統天皇の時代とあわせて天武・持統朝などの言葉で一括されることが多い。日本の統治機構、宗教、歴史、文化の原型が作られた重要な時代だが、持統天皇の統治は基本的に天武天皇の路線を引き継ぎ、完成させたもので、その発意は多く天武天皇に帰される<ref>北山茂夫『天武朝』253頁。</ref>。文化的には[[白鳳文化]]の時代である。
== 人物 ==
和風(国風)[[諡号]]は'''天渟中原瀛真人天皇'''(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)。この和風諡号は極めて[[道教]]的な諡号である。天武13年([[684年]])10月に旧来の[[氏姓制度]]の改革として定められた[[八色の姓]](やくさのかばね)の筆頭が「[[真人]]」であった。


天武天皇は、人事では皇族を要職につけて他氏族を下位におく[[皇親政治]]をとったが、自らは皇族にも掣肘されず、専制君主として君臨した。[[八色の姓]]で[[氏姓制度]]を再編するとともに、律令制の導入に向けて制度改革を進めた。[[飛鳥浄御原令]]の制定、新しい都([[藤原京]])の造営、『[[日本書紀]]』と『[[古事記]]』の編纂は、天武天皇が始め、死後に完成した事業である。
即位前の名は'''大海人皇子'''(おおあまのみこ、おほしあまのみこ、おおさまのみこ)といい、幼少期に養育を受けた[[凡海氏]]([[海部]]一族の[[伴造]])にちなむもので当時では養育者より幼名をとるのは慣例だった。また、凡の字が異なるのは[[諱]]となることを避けてのことといわれている。[[舒明天皇]]の第三[[皇子]]で母は宝皇女([[皇極天皇]])であり、[[天智天皇]](中大兄皇子)、[[間人皇女]]の同母弟とされる。


[[道教]]]に関心を寄せ、[[神道]]を整備して[[国家神道]]を確立し、[[仏教]]を保護して[[国家仏教]]を推進した。その他日本土着の伝統文化の形成に力があった。[[天皇]]を称号とし、[[日本]]を国号とした最初の天皇とも言われる。
『[[日本書紀]]』には才能に恵まれ、武徳に優れ天文・占星の術を得意としたとある<ref>(原文)「天渟中原瀛眞人天皇。[[天智天皇|天命開別天皇]]同母弟也。幼曰大海人皇子。生而有岐嶷之姿。及壯雄拔神武。能天文遁甲。納天命開別天皇女菟野皇女爲正妃。天命開別天皇元年立爲東宮(以下略)」<br/>(書き下し文)「天渟中原瀛眞人天皇(あまのぬはらおきのまひとすめらみこと)。天命開別天皇(あめみことひらかすわけのすめらみこと)の同母弟(いろと)なり(中略)'''天文遁甲(てんもんとんこう)を能し'''(略)」<br/>[[日本書紀]]巻二八・天武(前紀)冒頭より。天渟中原瀛眞人天皇とは天武天皇のことで、大海人は天武天皇の[[諱]]である。ちなみに瀛とは道教における東方[[三神山]][[瀛洲山]](残る2つは[[蓬莱]]、[[方丈]])のことである。</ref>。


== 名 ==
[[双六]]を好み、臣下を招いて[[双六]]を講じた際に臣下に対し褒美を与えたという。天武天皇の事跡の多くは『日本書紀』に述べられているが、これは『[[日本書紀]]』の作成を命じたのが天武天皇であり、編纂の中心人物が天武天皇の息子の[[舎人親王]]であることから、潤色が加えられているとの見方もある。また同書では、当初から兄・天智天皇の[[皇太弟]]であったと記されているが、[[弘文天皇|大友皇子]]立太子の事実を否定した記述であり、天武天皇の[[皇位継承]]正当化の意図が見える。
名の'''大海人''は、幼少期に養育を受けた[[凡海氏]]([[海部]]一族の[[伴造]])にちなむ。『日本書紀』に直接そのように記した箇所はないが、天武天皇の殯に[[凡海麁鎌]]が壬生(養育)のことを誄したことからこのように推測されている<ref>『日本書紀』朱鳥元年9月27日条。西郷信綱『壬申紀を読む』14-15頁。</ref>。


和風(国風)[[諡号]]は'''天渟中原瀛真人天皇'''(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)。瀛とは道教における東方[[三神山]][[瀛洲山]](残る2つは[[蓬莱]]、[[方丈]])のことである。真人(しんじん)は優れた道士をいい、瀛とともに道教的な言葉である<ref>福永光司「タオイズムから見た壬申の乱」22-23頁。福永・千田・高橋『日本の道教遺跡を歩く』42頁。</ref>。
天武天皇がそれ以前の[[大王 (ヤマト王権)|大王]]という呼称を「[[天皇]]」に改めるよう命じたとする説がある。[[天皇]]の称号は天武天皇が始めたとする説が広く支持されており、非常に有力となっている。これによれば、天武天皇が事実上の初代天皇だったこととなる(ただし、天皇号をより早く推古期に求める説や、遅く大宝以降とする説もある)。また、宮廷歌人柿本人麻呂の歌にも「大君は神にしませば」で始まる歌があるように天皇自身の存在もそれまでとは違う神格的な存在となっていった。

[[漢風諡号]]である「天武天皇」は、代々の天皇と同様、[[奈良時代]]に[[淡海三船]]によって撰進された。近代に[[森鴎外]]は推測して、『国語』楚語下にある「天事は武、地事は文、民事は忠信」を出典の候補として挙げた。別に、[[前漢]]の[[武帝 (漢)|武帝]]になぞらえたものとする説<ref>山本幸司『天武の時代』112頁。</ref>、「天は武王を立てて悪しき王(紂王)を滅ぼした」から名付けられたとする説もある。

== 生涯 ==

=== 出生 ===
系図上では父が[[舒明天皇]]で[[天智天皇]]の弟とされているが、「天武天皇は天智天皇の異母兄、若しくは異父兄だったのではないか」といった説も一部に存在する。[[鎌倉時代]]に成立した『[[一代要記]]』や『[[本朝皇胤紹運録]]』『[[皇年代略記]]』でそれぞれ生年が[[推古天皇]]30年([[622年]])・31年([[623年]])と考えられ、『日本書紀』での天智天皇の生年・推古天皇34年([[626年]])を上回る事等がその根拠とされている。

特に、母[[皇極天皇]]が舒明天皇の前に結婚していた[[高向王]]との間に生まれた[[漢王]]と同一人物ではないかとする考え(天武異父兄説)が有名であるが、同一史料には矛盾は見られない(詳しくは下記参照)。いずれにせよ、正確な生年は未詳である。

日本書紀以外の主な史料の天智・天武の生年(左が天智、右が天武の生年)。
* [[一代要記]]…推古天皇27年([[619年]])・30年([[622年]])
* [[仁寿鏡]]…推古天皇22年([[614年]])・不明
* [[興福寺略年代記]]…舒明天皇3年([[631年]])・12年([[640年]])
* [[神皇正統記]]・[[如是院年代記]]…共に推古天皇22年([[614年]])
* [[神皇正統録]]・[[本朝皇胤紹運録]]…推古天皇22年([[614年]])・30年([[622年]])
* [[皇年代略記]]…推古天皇22年([[614年]])・31年([[623年]])

これらの説については、後世の史料の信頼性を疑問視する反論もあり、「『一代要記』などの65歳は56歳(同55歳)の写し間違いであり、逆算して631年生まれである」との説が有力である。

=== 斉明天皇の死まで ===

中大兄皇子が[[皇極天皇]]4年([[645年]])6月に20歳で[[乙巳の変]]を起こしたとき、大海人皇子は年少であり、おそらく陰謀には関わらなかった<ref>森田悌『天武・持統天皇と律令国家』3-4頁。</ref>。事件の結果皇極天皇は退位し[[孝徳天皇]]が即位した。後、白雉4年([[653年]])に中大兄皇子が孝徳天皇と袂を分かち難波京から倭(やまと)に移ったとき、行動をともにした<ref>『日本書紀』白雉4年是歳条。</ref>。やがて孝徳天皇は病死し、皇極天皇が斉明天皇として再び天皇になった。

大海人皇子は中大兄皇子の娘を次々に4人まで妻とした。[[百済]]復興のための朝鮮半島出兵で、斉明天皇と中大兄皇子とが筑紫(九州)に宮を移したときには、大海人皇子も妻を連れて従った<ref>後述する妃の出生からの推測。</ref>。旅の途中、斉明天皇7年1月8日に妻の[[太田皇女]]が大伯海<ref>大伯は後の[[邑久郡]]で、現在の[[岡山県]]東部。</ref>で[[大伯皇女]]を生み、[[大津皇子]]の名も筑紫の娜大津<ref>現在の[[福岡市]]。[[奴国]]に連なる。</ref>での出生に由来すると言われる。大海人皇子は[[額部女王]]を妻として子を儲けたが、後に女王は中大兄皇子の妃になった。この三角関係が後の兄弟の不和の原因となったとする説があり、賛否ある。

=== 天智天皇の大皇弟 ===
母の斉明天皇が亡くなってから、中大兄皇子は即位せずに称制で統治した。[[天智天皇]]3年([[664年]])2月9日に、大海人皇子は中大兄皇子の命を受け、[[冠位26階制]]を敷き、[[氏上]]を認定し、民部と家部を定めることを群臣に宣べ伝えた。

天智天皇6年([[667年]])2月27日にようやく斉明天皇の葬儀があり、間人皇女が斉明天皇と合葬になり、大田皇女がその陵の前に葬られた。それぞれ、大海人にとっては母、姉(または妹)、妻にあたる人たちであった。

7年([[668年]])1月7日に、中大兄皇子が即位した。このとき大海人皇子が東宮になった。このことは『日本書紀』で巻28、天武天皇の即位前紀に記され、巻27の天智天皇紀には触れられていない。天智天皇紀で大海人皇子は大皇弟<ref>『日本書紀』天智天皇3年2月丁亥(27日)条、7年5月5日条、8年5月壬午(5日)条。</ref>、東宮太皇弟<ref>『日本書紀』天智天皇10年正月甲辰(6日)条。</ref>、東宮<ref>『日本書紀』天智天皇10年10月庚辰(17日)条、壬午(19日)条。</ref>などと記される。書紀は壬申の乱の挙兵前から大海人皇子を「天皇」と記し、天武の地位について信頼を置けないところがある。大海人皇子を皇太子にあたるとする学者もいるが、皇太弟などは壬申の乱での天武天皇の行動を正当化するための文飾で、事実はそのような地位になかったとする説、大皇弟などは単なる尊称であって皇位継承予定者を意味するものではないなど<ref>森田悌『天武・持統天皇と律令国家』5-7頁。</ref>、疑う説も有力である。皇位継承者と認定されていたかはともかく、天智天皇の朝廷で大海人皇子は非常に重要な役割を果たしていたことは認められている。

『[[藤氏家伝]]』は、ある日の宴会で激した大海人皇子が長槍で床板を貫き、怒った天智天皇が皇子を殺そうとしたという話を伝える。時期も理由も不明だが、[[藤原鎌足]]が取りなして事なきを得たという。

天智天皇10年([[671年]])1月2日、天智天皇は大友皇子を[[太政大臣]]に任命し、[[左大臣]]、[[右大臣]]と[[御史大夫]]を付けた。太政大臣は国政を総覧する官職で、その職務は大海人皇子が果たしてきた仕事と重なる。『日本書紀』にはこの直後に東宮太皇弟が冠位・法度のことを施行させたと記すが、「或本に云わく」として大友皇子がしたとも注記する。また、『[[懐風藻]]』は大友皇子が天智天皇10年に皇太子になったと記す。多くの歴史学者は書紀の或本のほうを採るか、この記事を天智天皇3年(664年)2月9日の冠位26階制の重出と見る<ref>新編古典文学全集『日本書紀』3、287頁注30。</ref>。ともかくも、大海人皇子は朝廷から全く疎外されたようである<ref>川崎庸之『天武天皇』78-80頁。</ref>。天智天皇に、大友皇子をして皇位を継がせる意図があったためと言われる<ref>森田悌『天武・持統天皇と律令国家』8頁。</ref>。

=== 壬申の乱 ===
天智天皇は、病がいよいよ深くなった10年([[671年]])10月17日に、大海人皇子を病床に呼び寄せて、後事を託そうとした。[[蘇我安麻呂]]の警告を受けた大海人皇子は、[[倭姫]]皇后が即位し大友皇子が執政するよう薦め、自らは出家してその日のうちに剃髪し、吉野に下った<ref>『日本書紀』巻第27の天智天皇10年10月庚辰条と、巻28の冒頭部にある4年10月庚辰条に大筋一致する内容がある。4年は称制を含めない天智天皇即位からの年数で、書紀のあるべき編年では10年にあたる。</ref>。

吉野では鸕野讃良皇女([[持統天皇]])と[[草壁皇子]]らの家族と、少数の[[舎人]]、女儒とともに住んだ。[[近江大津宮]]では、天智天皇が死ぬと、大友皇子が(即位したかどうかは不明ながら<ref>[[大友皇子即位説]]を参照。</ref>)朝廷を主宰して後継に立った。

翌年、天武天皇元年([[672年]])6月22日に、大海人皇子は挙兵を決意して美濃に[[村国男依]]ら使者を派遣し、2日後に自らもわずかな供を従えて後を追った。大海人皇子は不破道を封鎖して近江朝廷と東国の連絡を遮断し、兵を興す使者を東山([[信濃国|信濃]]など)と東海[[尾張国]]など)に遣わした。大和盆地では、[[大伴氏]]が挙兵して飛鳥の倭京を急襲、占領した。やがて東国から数万の軍勢が不破に集結し、近江と倭の二方面に発進した。近江方面の軍が[[琵琶湖]]東岸を進んでたびたび敵を破り、7月23日に大友皇子を自殺に追い込んだ。

=== 天皇の治世 ===
天武天皇は、大友皇子の死後もしばらく美濃にとどまり、戦後処理を終えてから飛鳥の[[島宮]]に、ついで[[飛鳥岡本宮]]に入った。岡本宮に加えて東南に少し離れたところに新たに[[大極殿]]を建てた。二つをあわせて[[飛鳥浄御原宮]]と名付けたのは晩年のことである。

天武天皇2年([[673年]])2月27日に即位した天皇は、鸕野讃良皇女を皇后に立て、一人の大臣も置かず、直接に政務をみた。皇后は壬申の乱のときから政治について助言したという。系譜が知られない皇族の諸王が要職を分掌し、これを[[皇親政治]]という。天皇は[[伊勢神宮]]に[[大来皇女]]を[[斎王]]として仕えさせ、父が創建した[[百済大寺]]を移して高市大寺とするなど、神道と仏教の振興政策を打ち出した。伊勢神宮については、壬申の乱での加護に対する報恩の念があった。その他諸政策については、後述の「[[#天武朝の政策]]」で解説する。

皇子らが成長すると、[[679年]]に天武天皇と皇后は天武の子4人と天智の子2人とともに吉野に赴き、そこで誓いを立てた。天皇・皇后は6人を父母を同じくする子のように遇し、子はともに協力するという、いわやる[[吉野の誓約]]である。6人は平等ではなく、[[草壁皇子]]が第一、[[大津皇子]]が次、最年長の[[高市皇子]]が3番目に誓いを立て、この序列は天武の治世の間維持された。天智天皇の子は皇嗣から外されたものの、天武の子である草壁は天智の娘阿閉皇女([[元明天皇]])と結婚し、同じく大津は[[山辺皇女]]を娶り、天智天皇の子[[河島皇子]]は天武の娘[[泊瀬部皇女]]と結婚した。天武の皇后も天智の娘であるから、天智・天武の両系は近親婚によって幾重にも結びあわされたことになる。

天皇と皇后は10年([[681年]])2月25日に律令を定める計画を発令し、同時に草壁皇子を皇太子に立てた。しかし12年([[683年]])2月1日から有能な大津皇子にも朝政をとらせた。

天皇は、15年([[686年]])7月24日に病気になった。仏教の効験によって快癒を願ったが、効果はなく、7月15日に政治を皇后と皇太子に委ねた。7月20日に元号を定めて[[朱鳥]]とした。その後も神仏に祈らせたが、9月11日に病死した。

== 葬儀と陵 ==
10月2日に大津皇子は謀反の容疑で捕らえられ、3日に死刑になった。[[殯]]の期間は長く、皇太子が百官を率いて何度も儀式を繰り返し、持統天皇2年([[688年]])11月21日に大内陵に葬った。持統天皇3年([[689年]])3月に13日に草壁皇子が死んだため、皇后が即位した。[[持統天皇]]である。

陵は檜隈大内陵([[奈良県]][[高市郡]][[明日香村]]大字野口)、[[野口王墓|野口王墓古墳]]。妻持統天皇との夫婦合葬墓である。この陵は古代の[[天皇陵]]としては珍しく、治定に間違いがないとされる。しかし、[[1235年]]([[文暦]]2年)に盗掘に遭い、大部分の副葬品を盗まれた。棺も暴かれたが遺骸はそのままの状態で、天皇の頭蓋骨にはまだ白髪が残っていた。しかしながら天皇の妻の持統天皇の遺骨は火葬されたため[[銀]]の[[骨壺]]に収められていたが、骨壺だけ奪い去られて遺骨は近くに遺棄された。[[藤原定家]]が『[[明月記]]』に盗掘の顛末を記す。また、盗掘の際に作成された『[[阿不幾乃山陵記]]』に石室の様子がある。

== 天武朝の政策 ==

=== 統治開始の抱負 ===
壬申の乱に勝利した天武天皇は、天智天皇が宮を定めた[[近江国|近江]][[大津宮]]に足を向けることなく、飛鳥の古い京に帰還した。2年([[673年]])閏6月に来着した[[耽羅]]の使者に対して、8月25日に、即位祝賀の使者は受けるが、前天皇への弔喪使は受けないと詔した。天武天皇は[[壬申の乱]]によって「新たに天下を平けて、初めて即位」したと告げ、天智天皇の後継者というより、新しい王統の創始者として自らを位置づけようとしたのである<ref>上野修「日並皇子挽歌に現われた天武天皇神話の意義について」17-19頁。</ref>。

=== 天皇専制と皇親政治 ===
吉野での逼塞から、わずかな供を連れ逃れるように東行し、たちまち数万の軍を起こして勝利を得た天武天皇は、人々に強い印象を与えた。天武天皇の高い権威を象徴するものとして決まって引かれるのが、『[[万葉集]]』におさめられた「おおきみは神にしませば]]」ではじまる複数の歌である<ref>亀田隆之『壬申の乱』184-185頁。熊谷公男『大王から天皇へ』334-335頁。</ref>。

天武天皇は、一人の大臣も置かず、法官、兵政官などを直属させて自ら政務をみた。要職に皇族をつけたのが特徴で、これを[[皇親政治]]という<ref>井上光貞「律令体制の成立」500-501頁。。倉本一宏「天武天皇殯宮に誄した官人について」48-49頁。</ref>。皇族は[[冠位26階制]]と別に一位から五位までの皇族専用の位を帯びた。

しかし皇族が政権を掌握したというわけではなく、権力はあくまで天皇個人に集中した<ref>亀田隆之『壬申の乱』206-213頁。</ref>。重臣に政務を委ねることなく、臣下の合議や同意に寄りかかることもなく、天皇自らが君臨しかつ統治した点で、天武天皇は日本史上にまれな最高度の権力集中をなしとげた。天武天皇は強いカリスマを持ち<ref>西郷信綱『壬申紀を読む』222頁、229-231頁。熊谷公男『大王から天皇へ』335頁、347頁。。</ref>、古代における天皇専制の頂点となった<ref>[[北山茂夫]]「大化改新」『日本古代政治史の研究』40-47頁。同「壬申の乱」『日本古代政治史の研究』96-97頁、101-104頁、『日本古代内乱史論』63-64頁、71-76頁。また山本幸司『天武の時代』78頁。</ref>。

ただ、専制といっても、中国で時になされたような草莽の士の大抜擢は一切なく、[[壬申の功臣]]でも地方出身者は旧来の貴族層の下に置かれたままことも注意を要する。壬申の乱が大規模であっても本質的に皇位継承争いを出なかったこともあるが、最高度の専制においても貴族制的限界が大きかったということでもある<ref>石母田正『日本の古代国家』220-223頁。山本幸司『天武の時代』112-113頁。</ref>。

日本ではじめて[[天皇]]を称したのは、天武天皇だとする説が有力である<ref>もう一つの説は[[推古天皇]]。天武説が多数の学者に支持されていることは、西郷信綱『壬申紀を読む』221-222頁、熊谷公男『大王から天皇へ』335頁、吉村武彦『古代王権の展開』313-317頁など。</ref>。一説に、天皇はもと天武というただ一人の偉大な君主のために用いられた尊称であった。彼のカリスマを継承するために、天皇を君主の号とすることが後に定められたという<ref>『日本書紀』の持統紀に、単に「天皇」と書いて持統天皇でなく天武天皇を指している箇所がある。熊谷公男『大王から天皇へ』335-338頁。</ref>。

=== 官制改革 ===
天武天皇は、即位後間もない2年([[673年]])5月1日に、初めて宮廷に使える者をまず[[大舎人]]とし、ついで才能によって役職につける制度を用意した。あわせて婦女で望む者にはみな宮仕えを許した。天武天皇5年には、[[畿内]]・[[陸奥国|陸奥]]・[[長門国|長門]]以外の国司には大山位以上を任命することを定めた。[[官位相当]]の法定である。7年([[678年]])には毎年官人の勤務評定を行って[[位階]]を進めることとし、その事務を[[法官]]がとること、法官の官人については[[大弁官]]がとることを定めた。天武天皇14年([[685年]])には新しい[[冠位]]を定めた。こうして整えられた官制は、生まれによる差別を否定するものではない。天武天皇11年([[682年]])に、天皇が考選(勤務評定)において族姓を第一の基準とするよう命じたことからもわかるように、官僚制度の中に織り込まれるべきものであった<ref>井上光貞「律令体制の成立」505-506頁。</ref>。

天武天皇10年([[681年]])2月25日に、[[律令]]を定め、法式を改める大事業に取りかかった。官人を分担させて進められたようだが、存命中には完成せず、[[持統天皇]]3年([[689年]])6月29日に令のみが発布された。[[飛鳥浄御原令]]である。

冠位制度は、天智天皇が定めた[[大織]]から[[小建]]までの[[冠位26階制]]を踏襲した。実際に見える存命中の冠位は諸王(親王すなわち皇子以外の皇族)が[[美濃王]]の[[小紫]]、臣下では[[坂本財]]の[[大錦上]]が最高である。死後の[[贈位]]ではこれより高い位も授けられた。これと平行して天武天皇4年([[675年]])3月16日を初見として諸王対象に[[四位]]、[[五位]]など数字に「位」を付ける[[諸王の位]]が作られた。存命中の人の位としては三位から五位までが見える。このときも親王には位が授けられなかった。天武天皇14年([[685年]])1月21日に新しい[[冠位48階制]]を定めた。皇族と臣下では異なる位階を用意し、親王にも位が授けられた。実際に授けられた最高位は[[草壁皇子]]の[[浄広壱]]である。明・浄・正・直といった修飾語は、神道が尊ぶ価値で、天武天皇の道徳・宗教観を反映したものであろう。

天武天皇が確立したこれらの諸制度には、後の大宝律令・養老律令と細かな点で異なるところが見受けられるが、実質的な意義・内容は同じで、律令官人制の骨格をなすものである<ref>井上光貞「律令体制の成立」511頁。</ref>。当時の官制は明確に知られていないが、政務を議論する複数の[[納言]]からなる[[太政官]]、その下に[[民官]]・[[法官]]・[[兵政官]]・[[大蔵]]・[[理官]]・[[刑官]]など六官、さらにその他の官司があったと推定されている。学者により天武朝の重みの評価は異なるが、「天武政権のもとで、日本律令体制の基礎が定まった」<ref>井上光貞「律令体制の成立」525頁。</ref>など、天武朝の意義を最大とみる説も有力である。

=== 氏族・民政 ===
天武天皇は、豪族・寺社の土地と人民に対する私的支配を否定した上で、諸豪族を官人秩序に組み込み、国家の支配を貫徹しようとする政策をとった<ref>亀田隆之『壬申の乱』178-179頁。</ref>。まず、[[天武天皇]]4年([[675年]])2月15日に、天智天皇3年([[664年]])から諸氏の[[部曲]]と、皇族・臣下・寺院に与えられていた山沢、島浦、林野、池を取り上げるという詔を下した。続いてまず、各氏が私的に支配地を取り上げ、国家から個人の官位官職や功績に応じて[[封戸]](食封)を与える形式に切り替えた<ref>北山茂夫『天武朝』144-146頁。</ref>。この転換は何年かかけて段階的に進められたようで、まず5年([[676年]])5月14日に西国にある封戸の税を取り上げて東国に替えた。長期間同じ場所に封じることで発生する主従的関係を断ち切るためとされる。8年8月2日に、[[小錦]]以上の皇族・臣下に一斉に食封を与え、新制度への転換が完了した。これと前後して8年([[679年]])4月5日に寺の食封の調査を明治、9年([[680年]])4月にその年限を30年に限った。判じかねるのは11年([[682年]])3月28日の詔で、食封を止めて公に返せと命じたが、実際にはこの後も封戸は続いている。何らかの制度改正、おそらく食封の管理への関与を禁じるような措置ではないかと推測されている<ref>亀田隆之『壬申の乱』200-202頁。</ref>。

豪族の私的支配の否定は、天皇を頂点とする国家の支配を貫徹しようとするものではあったが、生まれの貴賤による差別を否定したり、平等な能力主義にもとづく官僚制を志向するものではなかった。天皇はまずいくつかの氏族の姓([[カバネ]])を引き上げて優遇する措置をとり、天武天皇13年([[684年]]d)10月1日に[[八色の姓]]をもって姓を全面的に再編成した。皇族の裔を[[真人]]、旧来の[[臣]]の氏族を[[朝臣]]、[[連]]を[[宿禰]]などとして、壬申の乱での功績も加味するものであった。氏族政策については、壬申の乱の支持勢力にかんする説と関係してその意図が様々に唱えられる。一つは中小豪族を統べて大豪族を抑圧したとする説<ref>直木孝次郎『</ref>、もう一つは畿内豪族の優遇にあるとする説<ref>井上光貞「律令体制の成立」501-502頁。</ref>、特定階層を優遇したとは言えないとする説である<ref>亀田隆之『壬申の乱』179-182頁。</ref>

最初の貨幣とされる[[富本銭]]が鋳造されたのは、天武天皇の時代である。ただ、富本銭はまじない用で流通貨幣ではなかったという説、富本銭に先行して[[無文銀銭]]があったとする説もある。

=== 粛清と威嚇 ===
天武天皇は、皇族臣下の高位者に流罪以下の処分を多く下した。天武天皇4年([[675年]])4月8日に朝参(宮に仕事にくること)を禁じられた[[当摩広麻呂]]と[[久努麻呂]]に始まり、4月23日に[[因幡国|因幡]]に流された[[三位]]の[[麻続王]]のような高官に及んだ。11月3日には宮の東の山に登って妖言して自殺した人が出た。「妖言」の内容は伝わらないが、天皇の政治を批判したものであろう。5年9月12日には、[[筑紫大宰]]の[[屋垣王]]が土左([[土佐国|土佐]])に流され、6年4月11日には[[杙田名倉]]が伊豆島に流された。杙田名倉は天皇を非難したためだが、他の人の処罰理由は伝わらず、麻続王については『[[万葉集]]』に同情する人との歌のやりとりが採録された。人々の心が歌にみるような天皇賛美一色で染まっていたと考えるべきではない。

威嚇的な詔も複数回だされた。4年(675年)2月19日に、群臣、百寮、天下の人民に、諸悪をするなと詔を下した。6年([[677年]])6月には、[[東漢氏]]が政治謀議に加わった過去を数十年前まで遡って責め、大恩を下して赦すが今後は赦さないと詔した。8年([[679年]])10月2日には、王卿らが怠慢で悪人を見過ごしていると言って責めた。

こうした処罰は、専制君主の猜疑の現れと評される<ref>北山茂夫『天武朝』158-163頁。</ref>。だが、処罰は天武天皇4年(675年)から6年(677年)に集中しており、威嚇的な詔もこれに重なる。この頃、天皇は部曲と山沢などを取り上げる詔を出し、食封の改革を進めていた。これが不利益を被る層の反発を生み、処罰が続いたのかとも言われる<ref>北山茂夫『天武朝』146-149頁。</ref>。ただ、壬申の乱の戦後処理をのぞき高官への死刑は宣告していない。恩赦もしばしば下し、8年([[679年]])12月2日の恩赦によってそれまでに流罪になった者も赦されたはずである。

=== 外交 ===
壬申年の挙兵は、唐の使者[[郭務悰]]が5月30日に帰国してから約1か月後の22日に決断された。[[白村江の戦い]]での敗戦はあったが、唐と新羅は互いに朝鮮半島の支配をめぐって戦って日本との通交を求めており、外交的な環境はやや好転していた。天皇は征服・干渉のための軍を起こさず、即位後は内外に戦争がなかった<ref>北山茂夫『天武朝』173頁。</ref>。

天武朝の朝廷は低姿勢をとる新羅と使者をやりとりし、文化を摂取する一方で、唐には使者を遣わさず、大国としての体面を繕った。この時代には西方海上の[[済州島]]にあった[[耽羅]]からも使節が来た。[[南西諸島]]の多禰([[種子島]])、掖玖([[屋久島]])、阿麻禰([[奄美島]])を探索した。東北では、陸奥の[[蝦夷]]に[[冠位]]を授け、越の蝦夷[[伊高岐那]]に[[評]]を建てることを認めた。

天智天皇との対比で、天武天皇は親百済的だった前代と異なり親新羅外交をとったと評される。ただ、特別に新羅系の[[渡来人]]を優遇したわけではなく、百済系の人を冷遇したということでもない。天武天皇2年([[673年]])閏6月6日の[[沙宅昭明]]、3年([[674年]])1月10日の[[百済王昌成]]への贈位、14年([[685年]])10月4日の百済僧[[常輝]]への封戸30戸など、百済人への恩典は多い。朝鮮半島から帰化した人には元年([[672年]])から10年([[681年]])まで課税を免除し、10年後にはそのとき子供だった者にも免除を広げた。

=== 軍事 ===
天武天皇は、官人と畿内の武装強化を特別な政策とした<ref>井上光貞「律令体制の成立」501頁。森田悌『天武・持統天皇と律令国家』204頁。</ref>。天武天皇4年([[675年]])10月20日に諸王以下、初位以上の官人の武装を義務付けた。。命じた後には、5年([[676年]])と8年([[679年]])に馬と武器を検査し、10年([[681年]])に軍事演習を行った。その後、13年([[684年]])閏4月に「政の要は軍事である」と述べて文武の官と諸人に用兵と乗馬を習えと改めて命じ、武装に欠ける者がいれば罰すると詔した14年([[685年]])にも京と畿内の人夫の武器を検査した。官人武装政策は、天武・持統朝に特徴的で、前後には見られない。

律令制下で国軍主力の位置にあった[[軍団 (古代日本)|軍団]]は、この時代にはまだ設置されていなかった。官人の武装化は軍団創設以前の事情に対応したものだろうが、この当時の全国的な兵制については学説が分かれている。[[評造]]・[[評督]]が兵士を率いる[[評制軍]](評造軍)があったとする説、軍団とほぼ同じものが成立していたとする説<ref>北山茂夫『天武朝』216頁</ref>、[[国造]]が伝統的な支配下の人民を領導する[[国造軍]]がそのまま続いていたみる説<ref>森田悌『天武・持統天皇と律令国家』。</ref>がある。</ref>

=== 宮と造都 ===
天武天皇は壬申の乱の勝利後しばらくは美濃にとどまり、9月になって岡本宮([[飛鳥岡本宮]])に入り、この年に新たに宮室を建ててそこに移り住んだ。飛鳥岡本宮は[[舒明天皇]]・[[斉明天皇]]の宮殿で、近江に都が移ってからも維持されていたのである。天武天皇の宮は死の2か月前、[[朱鳥]]元年([[685年]])7月20日に[[飛鳥浄御原宮]]と名付けられた。考古学者がいう飛鳥宮(伝承飛鳥板葺宮)III-B期にあたる<ref>林部均「飛鳥浄御原宮の成立」25頁。</ref>。斉明天皇の飛鳥岡本宮をそのまま使い、考古学者がいうエビノコ郭を追加したものが主要部である。エビノコ郭には一つの大きな殿舎があり、当時これを[[大極殿]]と呼んでいた。旧岡本宮部分には[[大安殿]]、外安殿、内安殿、向小殿があったが、発掘された建物との対応関係については未だ諸学者の一致をみない<ref>林部均「飛鳥浄御原宮の成立」28-30頁、同「発掘された飛鳥の諸宮」59-64頁。志村佳名子「飛鳥浄御原宮における儀礼空間の復元的考察」。</ref>。

飛鳥浄御原宮の周辺には京と呼ばれるような都市的な広がりがあったが、南北・東西道が整然と直交する方形の都市計画は敷かれなかった。宮の北北東には[[飛鳥池遺跡]]と呼ばれる国家工房があり、[[富本銭]]はここで鋳造された。

天武天皇はこの宮に満足せず、代変わりごとに宮を移す旧慣をあらため、永続的な都を建設する抱負を持って適地を探した。天武天皇5年([[676年]])に、新城、すなわち後に藤原京として完成する都の計画を始めた<ref>『日本書紀』天武天皇5年是年条。</ref>。元あった起伏をならして整地し、道路には側溝を掘った。『万葉集』には、「大君は神にしませば」田や沼を都となした、とする歌が2首あり、このことを指すと考えられる<ref>小澤均「藤原京の成立」130-131頁。</ref>。このときは、方位に規制されていなかった既存の道路と建物をいったん廃絶し、南北線を軸とするように作り替えたが、遷都はできなかった<ref>林部均「発掘された飛鳥の諸宮」64-65頁。</ref>。

天武天皇11年([[682年]])3月1日に[[三野王]]らに命じて地形を視させ、16日には天皇自身も新城に行幸した。翌12年(683年)の7月18日にも京を見てまわり、13年(684年)3月9日に宮室の地を定めた。この頃から修正された都市計画で工事が再開した。天皇の死で中断されたが、天皇の陵は新しい都の中軸線を南に延長した先に築かれた。本格的な造営は天武天皇の死後、持統天皇の手で進められ、完成した。日本最初の本格的都城と評価される<ref>木下正史「飛鳥から藤原京へ」18頁。</ref>。

天武天皇は、都を二、三置くべきだと考え([[副都制]])、12年(683年)12月17日に[[難波京]]を置いた。建造物は[[孝徳天皇]]によって作られた難波宮をそのまま受け継いだも。東にも副都を置こうとしたのか、13年(684年)2月28日に[[信濃国|信濃]]に視察の使いを派遣したが、そちらは着手に至らず終わった。

=== 文化政策 ===
天武天皇は古来の伝統的な文芸・伝承を掘り起こすことに力を入れた。外来のものが排斥されたわけではないが、以前と以後の諸天皇の事業と比べると、土着文化の掘り起こしと整頓に向けた努力は著しい。天武天皇が壬申の乱に敗れていれば、『[[古事記]]』『[[万葉集]]』に代表されるような土着的な文化は、『[[日本書紀]]』『[[懐風藻]]』に代表されるような中国風の文化に侵食され、あるいは伝わらないまま終わっていたかもしれないとさえ言われる<ref>西郷信綱『壬申紀を読む』11頁。</ref>。

倭に変えて国号を日本と定め、君主の号を天皇とした始めは、天武天皇であるとの説が有力である。資料的には推古天皇の代を指すものが複数あるが、中国で天皇号が君主に用いられた時期より前になること、個々の資料の性格に疑いがはさまれることにより、天武朝まで下げる。

天武天皇は民間習俗を積極的にとりこみ、それを国家的祭祀とした<ref>北山茂夫『萬葉の時代』38-39頁。村井康彦『律令制の虚実』73-77頁。</ref>。[[五節の舞]]がその確実な例であり、[[新嘗祭]]を国家的祭祀に高め、特に[[大嘗祭]]を設けたのは、天武天皇であろうと言われる<ref>大嘗の初見は『日本書紀』天武天皇2年12月丙戌(5日)条にある。これを大嘗祭の初めとみるのは、森田悌『天武・持統天皇と律令国家』41-44頁など。</ref>。現代の歴史学者の多くが、後述する神道の祭祀も含め、後代に伝統として伝えられた主要な宮廷儀式の多くが、天武天皇によって創始されたか大成されたと推測している。

天武天皇4年([[675年]])2月9日には畿内とその周辺から歌が上手な男女、侏儒、伎人を宮廷に集めるよう命じ、4月23日に彼ら才芸者に禄を与えた。14年([[685年]])9月15日には優れた歌と笛を子孫に伝えるよう命じ、15年([[686年]])1月18日には俳優と歌人に褒賞を与えた。

天皇は、親王、臣下多数に命じて歴史の編纂を行わせた。後に完成した『日本書紀』編纂事業の開始と言われる。また、[[稗田阿礼]]に帝皇日継と先代旧辞([[帝紀]]と[[旧辞]])を詠み習わせた<ref>『古事記』序第2段。岩波文庫版15-16頁。</ref>。後に筆録されて『[[古事記]]』となる。いずれも完成は天皇の没後になったが、これらが日本に現存する最古の史書である。二書を並行させた意図には定説がないが、内容は天皇家の支配を正当化する点で共通する。長大な漢文で、一貫性を犠牲にして多数の説を併記した『日本書紀』が合議・分担で編纂されたのに対し、短く首尾一貫した『古事記』のほうには天武個人の意志がかなり入った可能性が指摘される<ref>松前健「天武天皇と古事記神話の構成」49-52頁。</ref>。

天武天皇は、本人が天文に長じており<ref>『日本書紀』巻28、天武天皇即位前紀。</ref>、天武天皇4年(675年)1月5日に初の[[占星台]]を建てさせた。

天武4年[[4月17日 (旧暦)|4月17日]]([[675年]][[5月19日]])のいわゆる肉食禁止令で[[4月1日 (旧暦)|4月1日]]([[5月3日]])から[[9月30日 (旧暦)|9月30日]]([[10月27日]])までの間、稚魚の保護と五畜([[ウシ]]・[[ウマ]]・[[イヌ]]・[[ニホンザル|サル]]・[[ニワトリ]])の[[肉食]]を禁止した。律令国家を目指しての政策の一環としてか、天武11年([[681年]])にはそれまでの日本独自の髪型である[[角髪]]を改めるように命じている。これ以後、冠を被るのにふさわしい形の髷になった。また、天武12年([[682年]])には[[位階]]を示す色を従来の冠の色から朝服の色に変更した。

=== 宗教政策 ===

==== 神道 ====

天武天皇は日本古来の神の祭りを重視し、地方的な祭祀の一部を国家の祭祀に引き上げた。神道の振興は、外来文化の浸透に対抗する日本の民族意識を高揚させるためであったと説かれる<ref>滝川政次郎『人物新日本史』112-113頁。</ref>。だがその努力は各地の伝統的な祭祀をそのまま保存することではなく、[[天照大神]]を祖とする天皇家との関係に各地の神を位置づけ、体系化して取り込むことにあり、究極的には天皇権力の強化に向けられていた。それぞれの地元で祀られていた各地の神社・祭祀は保護と引き換えに国家の管理に服し、古代の[[国家神道]]が形成された。

その際、天武天皇は[[伊勢神宮]]を特別に重視し、この神社が日本の最高の神社とされる道筋をつけた<ref>直木孝次郎「古代の伊勢神宮」、「伊勢神宮の成立について」。</ref>。[[壬申の乱]]のとき、挙兵して伊勢に入った大海人皇子は、迹太川のほとりで[[天照大神]]を望拝した。具体的には伊勢神宮の方角を拝んだことを意味すると考えられている。即位後の天皇は、娘の[[大来皇女]]を伊勢神宮に送り、[[斎王]]として仕えさせた<ref>『日本書紀』天武天皇2年4月己巳(14日)条、3年10月乙酉(9日)条。</ref>。4年2月13日には娘の[[十市皇女]]と天智天皇の娘阿閉皇女([[元明天皇]])が伊勢神宮に参詣した。伊勢神宮の[[式年遷宮]]開始年については天武天皇14年([[685年]])と持統天皇2年([[688年]])の二通りの本があるが、いずれにせよ天武天皇の発意であろう<ref>中西正幸『神宮式年遷宮の歴史と祭儀』24-25頁。</ref>。また、伊勢神宮を[[五十鈴川]]沿いの現在地に建てたのは天武天皇で、それ以前は[[宮川 (三重県)|宮川]]上流の[[滝原宮]]にあったと推定されている<ref>滝川政次郎『人物新日本史』108-112頁。</ref>。

そもそも天照大神という神を造り出したのが天武天皇であるという説もある。もとより無から想像・創作したというのではなく、伊勢地方で祀られていた太陽神を、天皇家が祀っていた神と合体させて天照大神としたという<ref>田村圓澄『伊勢神宮の成立』112-115頁。「『天照大神』と天武天皇」3-7頁、『飛鳥時代 倭から日本へ』。新谷尚紀『伊勢神宮と出雲大社』。松前健「天武天皇と古事記神話の構成」54-60頁。</ref>。斎王は、[雄略天皇]]から[[推古天皇]]のときまであった旧習を復活させたものと『日本書紀』『古事記』に記されているが、これについても大来皇女が最初なのだとする説がある<ref>筑紫申真『アマテラスの誕生』140-148頁。</ref>。

他に、天武天皇3年([[674年]])8月3日には[[石上神宮]]に[[忍壁皇子]]を遣わして神宝を磨かせた。天武天皇4年([[675年]])4月10日には、竜田の風神を祀るために[[美濃王]]らを、広瀬の大忌神を祀るために、[[間人大蓋]]らを遣わした。後世まで両神を祀るために勅使が遣わされる初めとされる<ref>森田悌『天武・持統天皇と律令国家』49-49頁。</ref>。この年1月23日に諸々の社を祭ったのを、[[祈年祭]]の始まりとみる説もある<ref>森田悌『天武・持統天皇と律令国家』49-49頁。</ref>。

==== 仏教 ====
天皇の仏教保護も手厚いものがあった。即位前には出家して吉野に退いた経歴を持つ。即位後、2年([[673年]])3月に[[川原寺]]で[[一切経]]書写の事業を起こした。5年([[676年]])には使者を全国に派遣して『[[金光明経]]』と『[[仁王経]]』を説かせ、8年([[679年]])には倭京の24寺と宮中で『金光明経』を説かせた。『金光明経』は、国王が天の子であり、生まれたときから守護され、人民を統治する資格を得ていると記すもので、天照大神の裔による現人神思想と軌を一にするものであった<ref>田村圓澄「『天照大神』と天武天皇」11-12頁、『伊勢神宮の成立』116-117頁。『飛鳥時代 倭から日本へ』137-140頁。田村は天照大神は『金光明経』をふまえて天武天皇が作ったのではないかという(『伊勢神宮の成立』118-127頁)。</ref>。

天武天皇2年(673年)12月17日に、[[美濃王]]と[[紀訶多麻呂]]を[[造高市大寺司]]に任命し、百済大寺を高市に移して高市大寺とした。皇后の病気に際しては[[薬師寺]]建立を祈願し、自らの病に際しても様々に仏教に頼って快癒を願った。

天武天皇14年([[685年]])3月27日には、家ごとに仏舎を作って礼拝供養せよという詔を下した。「家」がどの程度の人数の単位なのかは不明だが、仏教を広めようとした。この時期まで畿内を除く地方に寺院は少なかったが、天武・持統朝には全国で氏寺が盛んに造営された。遺跡から出る瓦からは、中央の少数の寺院が地域を分担して建設を指導したことがうかがわれ、政策的な後押しが想定できる<ref>田村圓澄『飛鳥時代 倭から日本へ』132-136頁。</ref>。

天武天皇の仏教保護は、反面、僧尼に寺院にこもって天皇や国家のための祈祷に専念することを求めるもので、仏教を国家に従属させようとするものでもあった。国家神道に対応する[[国家仏教]]である<ref>丸山茂「天武朝の宗教環境」162-166頁。</ref>。天武天皇4年に諸寺に与えられていた山林・池を取り上げ、8年には食封を見直して寺院の収入を国家が決定することにした。中央統制機関としては、推古朝に設けられ[[十師]]によって廃止された[[僧正]]・[[僧都]]を復活して[[僧綱]]制を整えた<ref>井上光貞「日本における仏教統制機関の確立過程」333-341頁。。</ref>。加えて天武朝では僧尼の威儀・服装まで規制し、すべての寺院と僧侶を国家の統制下に置こうとするころまで国家統制が強まったく<ref>丸山茂「天武朝の宗教環境」163頁。</ref>。

天皇の仏教理解、姿勢については、現世利益を求めた皮相的なものと説かれることがある。天皇が命じて読ませたのは護国の経典で、個人の救済が重視されたようには見えない<ref>丸山茂「天武朝の宗教環境」163頁。</ref>。天皇個人が仏教に求めたのは、皇后と自身の病気治癒で、仏教の自我否定や利他の思想を実現しようとするものではなかった<ref>二葉憲香「古代天皇の祭祀権と仏教」51-52頁。</ref>。

==== 道教 ====
天皇の宗教観には道教の要素が色濃く出ている。「天皇は神にしませば」と詠まれるときの神は、神仙思想の神、つまり仙人の上位にいる存在であったとの説がある<ref>福永・千田・高橋『日本の道鏡遺跡を歩く』14頁。</ref>。[[八色の姓]]の最上位は真人であり、天皇自身の[[和風諡号]]は天渟中原瀛真人という。瀛州は東海に浮かぶ神山の一つ、真人は仙人の上位階級で、天皇も道教の最高神である<ref>福永光司「タオイズムから見た壬申の乱」22-23頁。福永・千田・高橋『日本の道教遺跡を歩く』42頁。</ref>。天皇が得意だった天文遁甲は、道教的な技能である<ref>福永光司「タオイズムから見た壬申の乱」</ref>。葬られた[[八角墳]]は、東西南北に北東・北西・南東・南西を加えた[[八紘]]を指すもので、これも道教的な方角観である。

道教への関心は天武天皇だけのものではなく、母の斉明天皇に顕著であり、天武没後も続く。天武天皇の、そして日本の道教は、神道と分かちがたく融合しており、独立には存在していない。影響をどこまで大きく評価するかは見方が分かれる。

== 人物像 ==
天武天皇は、宗教や超自然的力に関心が強く、神仏への信仰も厚かった<ref>森田悌『天武・持統天皇と律令国家』35-36頁。</ref>。『日本書紀』には天文遁甲をよくするとあり<ref>『日本書紀』巻第28天武天皇即位前紀。岩波文庫版『日本書紀』第5分冊66頁、391頁。</ref>、壬申の乱では自ら式をとって将来を占ったが<ref>『日本書紀』巻第28、6月甲申(24日)条(ただし、占ったのは翌日)。岩波文庫版『日本書紀』第5分冊76頁、394頁。</ref>、これらは道教的な技能である。即位後の政治からも、宗教・儀式への関心が伺えるが、占いの活用や神仏への祈願で目的を達しようとする姿勢が強い。

『古事記』は、天武天皇が夢の中の歌を解き、夜の水に投じて自分が皇位につくことを知ったと記す<ref>『古事記』序第二段、岩波文庫版14頁。</ref>。『日本書紀』では、壬申の乱のときに式をとって占い天下二分の兆しと解き<ref>『日本書紀』巻之第28、天武天皇元年6月甲申条(24日深夜)。新編日本古典文学全集4『日本書紀』3、313頁。</ref>、また天神地祇に祈って雷雨を止ませたという<ref>『日本書紀』巻之第28、天武天皇元年6月丁亥条(27日)。新編日本古典文学全集4『日本書紀』3、323頁。</ref>。このような予言者的能力によって天皇は神と仰がれるカリスマ性を身に帯びた<ref>山本幸司『天武の時代』10-11頁、157-158頁。</ref>。

天武天皇の和歌は、藤原夫人と交わしたからかい交じりの歌、吉野の「よし」を繰り返す歌、そして吉野の道の寂しさを歌う暗い歌などが伝わる。漢詩を作ったとする史料はない。伝えられていないだけとする人もいるが、そこに彼の趣味嗜好の向きを見る人もいる。天武天皇の趣味は無端事(なぞなぞ)のように庶民的なものがあり<ref>天武天皇15年([[675年]])1月2日に[[大極殿]]、16日に[[大安殿]]で宴があり、天皇が出した「無端事」への正解者に褒美があった。</ref>、[[すごろく]](賭がつきもので天皇の死後3年で禁止になった)のように遊侠的でさえあった。「#文化政策」で挙げた各種芸能者への厚遇も、天皇の好みと無関係ではないだろう。これらをもって、人心収攬に長けていたと評する人もいる<ref>森田悌『天武・持統天皇と律令国家』30-34頁。</ref>。

[[文暦]]2年([[1235年]])の盗掘後の調査『阿不之山陵記』に、天武天皇の骨について記載がある。首は普通より少し大きく、赤黒い色をしていた。脛の骨の長さは1尺6寸(48センチメートル)、肘の長さ1尺4寸(42センチメートル)あった。ここから身長175センチメートルくらい、当時としては背が高いほうであったと推定される<ref>猪熊兼勝「天武天皇陵」53頁。</ref>。[[藤原定家]]の日記『[[明月記]]』によれば、骨と白髪が残っていたという<ref>『明月記』嘉禎元年4月22日。猪熊兼勝「天武天皇陵」53頁。</ref>。


== 系譜 ==
== 系譜 ==
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** [[泊瀬部皇女]](?-741)- [[川島皇子]]妃
** [[泊瀬部皇女]](?-741)- [[川島皇子]]妃
** [[託基皇女]](?-751) - [[施基親王]]妃
** [[託基皇女]](?-751) - [[施基親王]]妃

== 子孫 ==
[[ファイル:Kiyohara.png|thumb|400px|清原氏系図]]
[[玄孫]]の[[孝謙天皇#称徳天皇|称徳天皇]]の[[崩御]]により、皇統は天武系から天智天皇の孫である[[光仁天皇]]に移った。光仁天皇には[[皇后]][[井上内親王]]を通じて天武系の血を引く[[皇太子]]・[[他戸親王]]がいたが[[廃太子]]され、[[側室]]を母に持つ[[桓武天皇]]の系統が長く現在まで続く事になる。

天武天皇の血筋は皇統からは完全に絶えたものの、[[舎人親王]]の子孫が清原真人の姓を賜り[[清原氏]]の祖となり、[[高市皇子]]の子孫が高階真人の姓を賜り[[高階氏]]の祖となるなど、後世まで長く繁栄する。但し、[[吉備内親王]]を通じて唯一妻・持統天皇の血筋を伝えていた高階氏に関しては、天武天皇の雲孫(8代孫)に当たる[[高階師尚]]を[[在原業平]]の[[落胤]]とし、以降天武天皇・持統天皇の血筋は継いでいないとする<ref>『尊卑分脈』、『高階氏系図』(『群書類従』巻第63、『続群書類従』巻第174 所収)による。</ref>。


== 系図 ==
== 系図 ==
{{皇室白鳳奈良}}
{{皇室白鳳奈良}}

== 政策・事績 ==
[[壬申の乱]]で天智天皇の息子である大友皇子([[弘文天皇]])を滅ぼし、[[飛鳥浄御原宮]]で[[即位]]する。『[[日本書紀]]』は、次期天皇として有力視され実力にも恵まれていた大海人皇子に対して反乱を起こした大友皇子が滅ぼされたとする歴史叙述を行っている。この際に大友皇子がすでに即位していたか否かで正統性が一方に傾くため、この点に関しての議論は絶えない。もし大友皇子がその時までに正統に即位していたのならば、大海人皇子は[[弘文天皇]]の[[皇位簒奪|皇位を簒奪]]したことになる。

ともあれ、天皇即位後は[[飛鳥浄御原令]]の制定を命じ(天武10年([[681年]])2月)、[[律令国家]]の確立を目指す。天武元年([[673年]])5月に官僚機構の整備として[[畿内]]出身者で宮仕えするものはまず[[大舎人]]としその後才能を斟酌して[[官職]]を与えるようにした。しかし、同時にこの大舎人の門戸は[[官人]]のみならず庶民にも門戸を開いていたものでもあった。

天武5年([[676年]])、畿外の人々にも官人への道を開き、彼らには最初は[[兵衛]]として[[宮城]]の警護の役目を与えた。また天武7年([[678年]])、[[官人]]の勤務評定(考)や[[官位]]の昇進(選)に関して考選法を定めた。さらに天武13年([[684年]])、[[八色の姓]]を制定して[[朝廷]]の身分秩序を確立し新冠位制を施行して冠位賦与を[[親王]]にまで拡大した。[[豪族]]の弱体化策として[[豪族]]に与えられていた[[部曲]](かきべ)を廃止し、[[食封]]制度も改革した。

さらに一貫した[[皇族]]だけの[[皇親政治]]を行った。これに対応して行政機構も[[太政官]]と[[大弁官]]が並立し、上層官僚[[貴族]]には実質的な権力を伴わない納言の官職が与えられ、天皇の命令は主に大弁官を通じて地方に伝達された。また、天武天皇は皇親政治を徹底するためにその治世中、大臣を1人も置かなかった。地方の支配体制を明確にするために『日本書紀』天武13年([[684年]])10月の条に「伊勢王等を遣して、諸国の堺を定めしむ」とあり、地方の行政組織づくりが進んだ。

天皇の宗教的権威も高められた。[[伊勢神宮]]の祭祀が重視され広瀬・竜田祭が国家事業として行われた。[[斎宮]]が制度化されたのも天武朝の時代であると言われている。またこの頃から[[新嘗祭]]と[[大嘗祭]]の区別などがされ、現在にまで継承されている。[[仏教]]に対しても[[大官大寺]]等の造営が進められるとともに僧尼の統制が強化された。

天武天皇から、「大王(オオキミ)」ではなく「天皇(スメラミコト)」と呼ばれるようになる。壬申の乱での伊勢神宮の神がかりから、天皇は「現人神」ともなり、「世俗」的な権力だけではなく「神聖」な存在としての地位も固める。「天皇現人神」を定着させるために、各地の伝承をまとめて、そこにゆかりの人物(神)を登場させる「風土記」、神話を一つにまとめて天皇家につなげた「古事記」、その後の治世の正当性とカリスマ性を血族に宿らせた「日本書紀」の編纂にとりかかる。現天皇家が、現在も存続して決して途絶えなかった最大の礎を築いたのが天武天皇である。一方では、「神道」を生き渡らせ社稷を守るために、「平等」を唱える仏教の流布は禁止させた。

天皇自身、占星を得意としたのに加え、当時[[陰陽道]]などが律令国家である[[唐]]や[[新羅]]で盛んに行われたのが影響もしてか占星台や[[陰陽寮]]も設置させている。[[皇后]](後の[[持統天皇]])の病気平癒を祈って[[薬師寺]]を建立させている。ただしこの薬師寺の建立地は飛鳥であり、現在の地ではない(現在、この薬師寺の址として[[奈良県]][[橿原市]]に本薬師寺址という史跡が存在する)。

[[飛鳥浄御原宮]]を建造したほか難波にも宮殿を建造した。この難波の宮殿は唐などの[[複都制]]に倣った陪都(副都)であるとされている。また、[[藤原京]]の建造を開始したのも天武天皇のときであるとする説もある。

外交面においては[[新羅]]の[[朝鮮半島]]統一([[676年]])により新羅使の来朝を受け[[遣新羅使]]を派遣、新羅との国交保持のため新羅と対立していた[[唐]]との国交を断絶した。

文化面では[[帝紀]]と[[旧辞]]を記し校訂する修史事業が行われた。後に、『[[古事記]]』編纂の際に語り部を行った稗田阿礼は天武天皇からこの帝紀を暗誦するよう命じられたといわれる。また、[[五節の舞]]を始めとする宮廷儀礼の定式化も進められた。

天武4年[[4月17日 (旧暦)|4月17日]]([[675年]][[5月19日]])のいわゆる肉食禁止令で[[4月1日 (旧暦)|4月1日]]([[5月3日]])から[[9月30日 (旧暦)|9月30日]]([[10月27日]])までの間、稚魚の保護と五畜([[ウシ]]・[[ウマ]]・[[イヌ]]・[[ニホンザル|サル]]・[[ニワトリ]])の[[肉食]]を禁止する。
: 庚寅詔諸國曰 自今以後 制諸漁獵者 莫造檻阱 及施機槍等類 亦四月朔以後 九月三十日以前 莫置比滿沙伎理梁 且莫食牛 馬 犬 猿 雞之肉 以外不在禁例 若有犯者罪之 - 『日本書紀』

「'''政(まつりごと)の要は軍事(いくさのこと)なり'''」と記した[[詔]]を発し、[[畿内]]の[[官人]]らに武器や乗馬の訓練をするように命じている。日本最古の[[貨幣]]とされている「[[富本銭]]」も天武天皇の時代に発行された。

律令国家を目指しての政策の一環としてか、天武11年([[681年]])にはそれまでの日本独自の髪型である[[角髪]]を改めるように命じている。これ以後、冠を被るのにふさわしい形の髷になった。また、天武12年([[682年]])には[[位階]]を示す色を従来の冠の色から朝服の色に変更している。

=== 複都制 ===
天武天皇は[[683年]](天武12年)に「凡そ都城宮室は一処にあらず、必ず両参を造らん。故に先ず[[難波]]を都とせんと欲す」と[[詔]]し、飛鳥ともに[[難波京]]を都とした([[複都制]])。

== 生没年 ==
系図上では父が[[舒明天皇]]で[[天智天皇]]の弟とされているが、「天武天皇は天智天皇の異母兄、若しくは異父兄だったのではないか」といった説も一部に存在する。[[鎌倉時代]]に成立した『[[一代要記]]』や『[[本朝皇胤紹運録]]』『[[皇年代略記]]』でそれぞれ生年が[[推古天皇]]30年([[622年]])・31年([[623年]])と考えられ、『日本書紀』での天智天皇の生年・推古天皇34年([[626年]])を上回る事等がその根拠とされている。

特に、母[[皇極天皇]]が舒明天皇の前に結婚していた[[高向王]]との間に生まれた[[漢王]]と同一人物ではないかとする考え(天武異父兄説)が有名であるが、同一史料には矛盾は見られない(詳しくは下記参照)。いずれにせよ、正確な生年は未詳である。

日本書紀以外の主な史料の天智・天武の生年(左が天智、右が天武の生年)。
* [[一代要記]]…推古天皇27年([[619年]])・30年([[622年]])
* [[仁寿鏡]]…推古天皇22年([[614年]])・不明
* [[興福寺略年代記]]…舒明天皇3年([[631年]])・12年([[640年]])
* [[神皇正統記]]・[[如是院年代記]]…共に推古天皇22年([[614年]])
* [[神皇正統録]]・[[本朝皇胤紹運録]]…推古天皇22年([[614年]])・30年([[622年]])
* [[皇年代略記]]…推古天皇22年([[614年]])・31年([[623年]])

これらの説については、後世の史料の信頼性を疑問視する反論もあり、「『一代要記』などの65歳は56歳(同55歳)の写し間違いであり、逆算して631年生まれである」との説が有力である。


== 年譜 ==
== 年譜 ==
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* 朱鳥元年([[686年]]) [[崩御]]。
* 朱鳥元年([[686年]]) [[崩御]]。


== 子孫 ==
[[ファイル:Kiyohara.png|thumb|400px|清原氏系図]]
[[玄孫]]の[[孝謙天皇#称徳天皇|称徳天皇]]の[[崩御]]により、皇統は天武系から天智天皇の孫である[[光仁天皇]]に移った。光仁天皇には[[皇后]][[井上内親王]]を通じて天武系の血を引く[[皇太子]]・[[他戸親王]]がいたが[[廃太子]]され、[[側室]]を母に持つ[[桓武天皇]]の系統が長く現在まで続く事になる。

天武天皇の血筋は皇統からは完全に絶えたものの、[[舎人親王]]の子孫が清原真人の姓を賜り[[清原氏]]の祖となり、[[高市皇子]]の子孫が高階真人の姓を賜り[[高階氏]]の祖となるなど、後世まで長く繁栄する。但し、[[吉備内親王]]を通じて唯一妻・持統天皇の血筋を伝えていた高階氏に関しては、天武天皇の雲孫(8代孫)に当たる[[高階師尚]]を[[在原業平]]の[[落胤]]とし、以降天武天皇・持統天皇の血筋は継いでいないとする<ref>『尊卑分脈』、『高階氏系図』(『群書類従』巻第63、『続群書類従』巻第174 所収)による。</ref>。

== 陵 ==
陵は檜隈大内陵([[奈良県]][[高市郡]][[明日香村]]大字野口)、[[野口王墓|野口王墓古墳]]。妻持統天皇との夫婦合葬墓である。この陵は古代の[[天皇陵]]としては珍しく、治定に間違いがないとされる。しかし、[[1235年]]([[文暦]]2年)に盗掘に遭い、大部分の副葬品を盗まれた。棺も暴かれたが遺骸はそのままの状態で、天皇の頭蓋骨にはまだ白髪が残っていた。しかしながら天皇の妻の持統天皇の遺骨は火葬されたため[[銀]]の[[骨壺]]に収められていたが、骨壺だけ奪い去られて遺骨は近くに遺棄された。

[[藤原定家]]の『[[明月記]]』に盗掘の顛末が記されている。また、盗掘の際に作成された『阿不幾乃山陵記』に石室の様子が書かれている。


== 脚注・参照 ==
== 脚注・参照 ==

2011年5月1日 (日) 13:54時点における版

天武天皇
『集古十種』「天武帝御影」

元号 朱鳥(あかみとり)
時代 飛鳥時代
先代 弘文天皇
次代 持統天皇

誕生 631年?
崩御 686年10月1日
大和国
陵所 檜隈大内陵
大海人(おおあま)
別称 天渟中原瀛真人天皇
浄御原天皇
父親 舒明天皇
母親 宝皇女(皇極天皇/斉明天皇
皇后 鸕野讃良皇女(持統天皇
夫人 藤原氷上娘
藤原五百重娘
蘇我大蕤娘
子女 草壁皇子
高市皇子
舎人親王
皇居 飛鳥浄御原宮
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天皇系図38~50代

概要

舒明天皇皇極天皇(斉明天皇)の子として生まれ、中大兄皇子(天智天皇)にとっては両親を同じくする弟にあたる。皇后の鸕野讃良皇女は後に持統天皇となった。

天智天皇の死後、672年壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)を倒し、その翌年に即位した。その治世は14年間、即位からは13年間にわたる。飛鳥浄御原宮を造営し、その治世は続く持統天皇の時代とあわせて天武・持統朝などの言葉で一括されることが多い。日本の統治機構、宗教、歴史、文化の原型が作られた重要な時代だが、持統天皇の統治は基本的に天武天皇の路線を引き継ぎ、完成させたもので、その発意は多く天武天皇に帰される[1]。文化的には白鳳文化の時代である。

天武天皇は、人事では皇族を要職につけて他氏族を下位におく皇親政治をとったが、自らは皇族にも掣肘されず、専制君主として君臨した。八色の姓氏姓制度を再編するとともに、律令制の導入に向けて制度改革を進めた。飛鳥浄御原令の制定、新しい都(藤原京)の造営、『日本書紀』と『古事記』の編纂は、天武天皇が始め、死後に完成した事業である。

道教]に関心を寄せ、神道を整備して国家神道を確立し、仏教を保護して国家仏教を推進した。その他日本土着の伝統文化の形成に力があった。天皇を称号とし、日本を国号とした最初の天皇とも言われる。

名の'大海人は、幼少期に養育を受けた凡海氏海部一族の伴造)にちなむ。『日本書紀』に直接そのように記した箇所はないが、天武天皇の殯に凡海麁鎌が壬生(養育)のことを誄したことからこのように推測されている[2]

和風(国風)諡号天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)。瀛とは道教における東方三神山瀛洲山(残る2つは蓬莱方丈)のことである。真人(しんじん)は優れた道士をいい、瀛とともに道教的な言葉である[3]

漢風諡号である「天武天皇」は、代々の天皇と同様、奈良時代淡海三船によって撰進された。近代に森鴎外は推測して、『国語』楚語下にある「天事は武、地事は文、民事は忠信」を出典の候補として挙げた。別に、前漢武帝になぞらえたものとする説[4]、「天は武王を立てて悪しき王(紂王)を滅ぼした」から名付けられたとする説もある。

生涯

出生

系図上では父が舒明天皇天智天皇の弟とされているが、「天武天皇は天智天皇の異母兄、若しくは異父兄だったのではないか」といった説も一部に存在する。鎌倉時代に成立した『一代要記』や『本朝皇胤紹運録』『皇年代略記』でそれぞれ生年が推古天皇30年(622年)・31年(623年)と考えられ、『日本書紀』での天智天皇の生年・推古天皇34年(626年)を上回る事等がその根拠とされている。

特に、母皇極天皇が舒明天皇の前に結婚していた高向王との間に生まれた漢王と同一人物ではないかとする考え(天武異父兄説)が有名であるが、同一史料には矛盾は見られない(詳しくは下記参照)。いずれにせよ、正確な生年は未詳である。

日本書紀以外の主な史料の天智・天武の生年(左が天智、右が天武の生年)。

これらの説については、後世の史料の信頼性を疑問視する反論もあり、「『一代要記』などの65歳は56歳(同55歳)の写し間違いであり、逆算して631年生まれである」との説が有力である。

斉明天皇の死まで

中大兄皇子が皇極天皇4年(645年)6月に20歳で乙巳の変を起こしたとき、大海人皇子は年少であり、おそらく陰謀には関わらなかった[5]。事件の結果皇極天皇は退位し孝徳天皇が即位した。後、白雉4年(653年)に中大兄皇子が孝徳天皇と袂を分かち難波京から倭(やまと)に移ったとき、行動をともにした[6]。やがて孝徳天皇は病死し、皇極天皇が斉明天皇として再び天皇になった。

大海人皇子は中大兄皇子の娘を次々に4人まで妻とした。百済復興のための朝鮮半島出兵で、斉明天皇と中大兄皇子とが筑紫(九州)に宮を移したときには、大海人皇子も妻を連れて従った[7]。旅の途中、斉明天皇7年1月8日に妻の太田皇女が大伯海[8]大伯皇女を生み、大津皇子の名も筑紫の娜大津[9]での出生に由来すると言われる。大海人皇子は額部女王を妻として子を儲けたが、後に女王は中大兄皇子の妃になった。この三角関係が後の兄弟の不和の原因となったとする説があり、賛否ある。

天智天皇の大皇弟

母の斉明天皇が亡くなってから、中大兄皇子は即位せずに称制で統治した。天智天皇3年(664年)2月9日に、大海人皇子は中大兄皇子の命を受け、冠位26階制を敷き、氏上を認定し、民部と家部を定めることを群臣に宣べ伝えた。

天智天皇6年(667年)2月27日にようやく斉明天皇の葬儀があり、間人皇女が斉明天皇と合葬になり、大田皇女がその陵の前に葬られた。それぞれ、大海人にとっては母、姉(または妹)、妻にあたる人たちであった。

7年(668年)1月7日に、中大兄皇子が即位した。このとき大海人皇子が東宮になった。このことは『日本書紀』で巻28、天武天皇の即位前紀に記され、巻27の天智天皇紀には触れられていない。天智天皇紀で大海人皇子は大皇弟[10]、東宮太皇弟[11]、東宮[12]などと記される。書紀は壬申の乱の挙兵前から大海人皇子を「天皇」と記し、天武の地位について信頼を置けないところがある。大海人皇子を皇太子にあたるとする学者もいるが、皇太弟などは壬申の乱での天武天皇の行動を正当化するための文飾で、事実はそのような地位になかったとする説、大皇弟などは単なる尊称であって皇位継承予定者を意味するものではないなど[13]、疑う説も有力である。皇位継承者と認定されていたかはともかく、天智天皇の朝廷で大海人皇子は非常に重要な役割を果たしていたことは認められている。

藤氏家伝』は、ある日の宴会で激した大海人皇子が長槍で床板を貫き、怒った天智天皇が皇子を殺そうとしたという話を伝える。時期も理由も不明だが、藤原鎌足が取りなして事なきを得たという。

天智天皇10年(671年)1月2日、天智天皇は大友皇子を太政大臣に任命し、左大臣右大臣御史大夫を付けた。太政大臣は国政を総覧する官職で、その職務は大海人皇子が果たしてきた仕事と重なる。『日本書紀』にはこの直後に東宮太皇弟が冠位・法度のことを施行させたと記すが、「或本に云わく」として大友皇子がしたとも注記する。また、『懐風藻』は大友皇子が天智天皇10年に皇太子になったと記す。多くの歴史学者は書紀の或本のほうを採るか、この記事を天智天皇3年(664年)2月9日の冠位26階制の重出と見る[14]。ともかくも、大海人皇子は朝廷から全く疎外されたようである[15]。天智天皇に、大友皇子をして皇位を継がせる意図があったためと言われる[16]

壬申の乱

天智天皇は、病がいよいよ深くなった10年(671年)10月17日に、大海人皇子を病床に呼び寄せて、後事を託そうとした。蘇我安麻呂の警告を受けた大海人皇子は、倭姫皇后が即位し大友皇子が執政するよう薦め、自らは出家してその日のうちに剃髪し、吉野に下った[17]

吉野では鸕野讃良皇女(持統天皇)と草壁皇子らの家族と、少数の舎人、女儒とともに住んだ。近江大津宮では、天智天皇が死ぬと、大友皇子が(即位したかどうかは不明ながら[18])朝廷を主宰して後継に立った。

翌年、天武天皇元年(672年)6月22日に、大海人皇子は挙兵を決意して美濃に村国男依ら使者を派遣し、2日後に自らもわずかな供を従えて後を追った。大海人皇子は不破道を封鎖して近江朝廷と東国の連絡を遮断し、兵を興す使者を東山(信濃など)と東海尾張国など)に遣わした。大和盆地では、大伴氏が挙兵して飛鳥の倭京を急襲、占領した。やがて東国から数万の軍勢が不破に集結し、近江と倭の二方面に発進した。近江方面の軍が琵琶湖東岸を進んでたびたび敵を破り、7月23日に大友皇子を自殺に追い込んだ。

天皇の治世

天武天皇は、大友皇子の死後もしばらく美濃にとどまり、戦後処理を終えてから飛鳥の島宮に、ついで飛鳥岡本宮に入った。岡本宮に加えて東南に少し離れたところに新たに大極殿を建てた。二つをあわせて飛鳥浄御原宮と名付けたのは晩年のことである。

天武天皇2年(673年)2月27日に即位した天皇は、鸕野讃良皇女を皇后に立て、一人の大臣も置かず、直接に政務をみた。皇后は壬申の乱のときから政治について助言したという。系譜が知られない皇族の諸王が要職を分掌し、これを皇親政治という。天皇は伊勢神宮大来皇女斎王として仕えさせ、父が創建した百済大寺を移して高市大寺とするなど、神道と仏教の振興政策を打ち出した。伊勢神宮については、壬申の乱での加護に対する報恩の念があった。その他諸政策については、後述の「#天武朝の政策」で解説する。

皇子らが成長すると、679年に天武天皇と皇后は天武の子4人と天智の子2人とともに吉野に赴き、そこで誓いを立てた。天皇・皇后は6人を父母を同じくする子のように遇し、子はともに協力するという、いわやる吉野の誓約である。6人は平等ではなく、草壁皇子が第一、大津皇子が次、最年長の高市皇子が3番目に誓いを立て、この序列は天武の治世の間維持された。天智天皇の子は皇嗣から外されたものの、天武の子である草壁は天智の娘阿閉皇女(元明天皇)と結婚し、同じく大津は山辺皇女を娶り、天智天皇の子河島皇子は天武の娘泊瀬部皇女と結婚した。天武の皇后も天智の娘であるから、天智・天武の両系は近親婚によって幾重にも結びあわされたことになる。

天皇と皇后は10年(681年)2月25日に律令を定める計画を発令し、同時に草壁皇子を皇太子に立てた。しかし12年(683年)2月1日から有能な大津皇子にも朝政をとらせた。

天皇は、15年(686年)7月24日に病気になった。仏教の効験によって快癒を願ったが、効果はなく、7月15日に政治を皇后と皇太子に委ねた。7月20日に元号を定めて朱鳥とした。その後も神仏に祈らせたが、9月11日に病死した。

葬儀と陵

10月2日に大津皇子は謀反の容疑で捕らえられ、3日に死刑になった。の期間は長く、皇太子が百官を率いて何度も儀式を繰り返し、持統天皇2年(688年)11月21日に大内陵に葬った。持統天皇3年(689年)3月に13日に草壁皇子が死んだため、皇后が即位した。持統天皇である。

陵は檜隈大内陵(奈良県高市郡明日香村大字野口)、野口王墓古墳。妻持統天皇との夫婦合葬墓である。この陵は古代の天皇陵としては珍しく、治定に間違いがないとされる。しかし、1235年文暦2年)に盗掘に遭い、大部分の副葬品を盗まれた。棺も暴かれたが遺骸はそのままの状態で、天皇の頭蓋骨にはまだ白髪が残っていた。しかしながら天皇の妻の持統天皇の遺骨は火葬されたため骨壺に収められていたが、骨壺だけ奪い去られて遺骨は近くに遺棄された。藤原定家が『明月記』に盗掘の顛末を記す。また、盗掘の際に作成された『阿不幾乃山陵記』に石室の様子がある。

天武朝の政策

統治開始の抱負

壬申の乱に勝利した天武天皇は、天智天皇が宮を定めた近江大津宮に足を向けることなく、飛鳥の古い京に帰還した。2年(673年)閏6月に来着した耽羅の使者に対して、8月25日に、即位祝賀の使者は受けるが、前天皇への弔喪使は受けないと詔した。天武天皇は壬申の乱によって「新たに天下を平けて、初めて即位」したと告げ、天智天皇の後継者というより、新しい王統の創始者として自らを位置づけようとしたのである[19]

天皇専制と皇親政治

吉野での逼塞から、わずかな供を連れ逃れるように東行し、たちまち数万の軍を起こして勝利を得た天武天皇は、人々に強い印象を与えた。天武天皇の高い権威を象徴するものとして決まって引かれるのが、『万葉集』におさめられた「おおきみは神にしませば]]」ではじまる複数の歌である[20]

天武天皇は、一人の大臣も置かず、法官、兵政官などを直属させて自ら政務をみた。要職に皇族をつけたのが特徴で、これを皇親政治という[21]。皇族は冠位26階制と別に一位から五位までの皇族専用の位を帯びた。

しかし皇族が政権を掌握したというわけではなく、権力はあくまで天皇個人に集中した[22]。重臣に政務を委ねることなく、臣下の合議や同意に寄りかかることもなく、天皇自らが君臨しかつ統治した点で、天武天皇は日本史上にまれな最高度の権力集中をなしとげた。天武天皇は強いカリスマを持ち[23]、古代における天皇専制の頂点となった[24]

ただ、専制といっても、中国で時になされたような草莽の士の大抜擢は一切なく、壬申の功臣でも地方出身者は旧来の貴族層の下に置かれたままことも注意を要する。壬申の乱が大規模であっても本質的に皇位継承争いを出なかったこともあるが、最高度の専制においても貴族制的限界が大きかったということでもある[25]

日本ではじめて天皇を称したのは、天武天皇だとする説が有力である[26]。一説に、天皇はもと天武というただ一人の偉大な君主のために用いられた尊称であった。彼のカリスマを継承するために、天皇を君主の号とすることが後に定められたという[27]

官制改革

天武天皇は、即位後間もない2年(673年)5月1日に、初めて宮廷に使える者をまず大舎人とし、ついで才能によって役職につける制度を用意した。あわせて婦女で望む者にはみな宮仕えを許した。天武天皇5年には、畿内陸奥長門以外の国司には大山位以上を任命することを定めた。官位相当の法定である。7年(678年)には毎年官人の勤務評定を行って位階を進めることとし、その事務を法官がとること、法官の官人については大弁官がとることを定めた。天武天皇14年(685年)には新しい冠位を定めた。こうして整えられた官制は、生まれによる差別を否定するものではない。天武天皇11年(682年)に、天皇が考選(勤務評定)において族姓を第一の基準とするよう命じたことからもわかるように、官僚制度の中に織り込まれるべきものであった[28]

天武天皇10年(681年)2月25日に、律令を定め、法式を改める大事業に取りかかった。官人を分担させて進められたようだが、存命中には完成せず、持統天皇3年(689年)6月29日に令のみが発布された。飛鳥浄御原令である。

冠位制度は、天智天皇が定めた大織から小建までの冠位26階制を踏襲した。実際に見える存命中の冠位は諸王(親王すなわち皇子以外の皇族)が美濃王小紫、臣下では坂本財大錦上が最高である。死後の贈位ではこれより高い位も授けられた。これと平行して天武天皇4年(675年)3月16日を初見として諸王対象に四位五位など数字に「位」を付ける諸王の位が作られた。存命中の人の位としては三位から五位までが見える。このときも親王には位が授けられなかった。天武天皇14年(685年)1月21日に新しい冠位48階制を定めた。皇族と臣下では異なる位階を用意し、親王にも位が授けられた。実際に授けられた最高位は草壁皇子浄広壱である。明・浄・正・直といった修飾語は、神道が尊ぶ価値で、天武天皇の道徳・宗教観を反映したものであろう。

天武天皇が確立したこれらの諸制度には、後の大宝律令・養老律令と細かな点で異なるところが見受けられるが、実質的な意義・内容は同じで、律令官人制の骨格をなすものである[29]。当時の官制は明確に知られていないが、政務を議論する複数の納言からなる太政官、その下に民官法官兵政官大蔵理官刑官など六官、さらにその他の官司があったと推定されている。学者により天武朝の重みの評価は異なるが、「天武政権のもとで、日本律令体制の基礎が定まった」[30]など、天武朝の意義を最大とみる説も有力である。

氏族・民政

天武天皇は、豪族・寺社の土地と人民に対する私的支配を否定した上で、諸豪族を官人秩序に組み込み、国家の支配を貫徹しようとする政策をとった[31]。まず、天武天皇4年(675年)2月15日に、天智天皇3年(664年)から諸氏の部曲と、皇族・臣下・寺院に与えられていた山沢、島浦、林野、池を取り上げるという詔を下した。続いてまず、各氏が私的に支配地を取り上げ、国家から個人の官位官職や功績に応じて封戸(食封)を与える形式に切り替えた[32]。この転換は何年かかけて段階的に進められたようで、まず5年(676年)5月14日に西国にある封戸の税を取り上げて東国に替えた。長期間同じ場所に封じることで発生する主従的関係を断ち切るためとされる。8年8月2日に、小錦以上の皇族・臣下に一斉に食封を与え、新制度への転換が完了した。これと前後して8年(679年)4月5日に寺の食封の調査を明治、9年(680年)4月にその年限を30年に限った。判じかねるのは11年(682年)3月28日の詔で、食封を止めて公に返せと命じたが、実際にはこの後も封戸は続いている。何らかの制度改正、おそらく食封の管理への関与を禁じるような措置ではないかと推測されている[33]

豪族の私的支配の否定は、天皇を頂点とする国家の支配を貫徹しようとするものではあったが、生まれの貴賤による差別を否定したり、平等な能力主義にもとづく官僚制を志向するものではなかった。天皇はまずいくつかの氏族の姓(カバネ)を引き上げて優遇する措置をとり、天武天皇13年(684年d)10月1日に八色の姓をもって姓を全面的に再編成した。皇族の裔を真人、旧来のの氏族を朝臣宿禰などとして、壬申の乱での功績も加味するものであった。氏族政策については、壬申の乱の支持勢力にかんする説と関係してその意図が様々に唱えられる。一つは中小豪族を統べて大豪族を抑圧したとする説[34]、もう一つは畿内豪族の優遇にあるとする説[35]、特定階層を優遇したとは言えないとする説である[36]

最初の貨幣とされる富本銭が鋳造されたのは、天武天皇の時代である。ただ、富本銭はまじない用で流通貨幣ではなかったという説、富本銭に先行して無文銀銭があったとする説もある。

粛清と威嚇

天武天皇は、皇族臣下の高位者に流罪以下の処分を多く下した。天武天皇4年(675年)4月8日に朝参(宮に仕事にくること)を禁じられた当摩広麻呂久努麻呂に始まり、4月23日に因幡に流された三位麻続王のような高官に及んだ。11月3日には宮の東の山に登って妖言して自殺した人が出た。「妖言」の内容は伝わらないが、天皇の政治を批判したものであろう。5年9月12日には、筑紫大宰屋垣王が土左(土佐)に流され、6年4月11日には杙田名倉が伊豆島に流された。杙田名倉は天皇を非難したためだが、他の人の処罰理由は伝わらず、麻続王については『万葉集』に同情する人との歌のやりとりが採録された。人々の心が歌にみるような天皇賛美一色で染まっていたと考えるべきではない。

威嚇的な詔も複数回だされた。4年(675年)2月19日に、群臣、百寮、天下の人民に、諸悪をするなと詔を下した。6年(677年)6月には、東漢氏が政治謀議に加わった過去を数十年前まで遡って責め、大恩を下して赦すが今後は赦さないと詔した。8年(679年)10月2日には、王卿らが怠慢で悪人を見過ごしていると言って責めた。

こうした処罰は、専制君主の猜疑の現れと評される[37]。だが、処罰は天武天皇4年(675年)から6年(677年)に集中しており、威嚇的な詔もこれに重なる。この頃、天皇は部曲と山沢などを取り上げる詔を出し、食封の改革を進めていた。これが不利益を被る層の反発を生み、処罰が続いたのかとも言われる[38]。ただ、壬申の乱の戦後処理をのぞき高官への死刑は宣告していない。恩赦もしばしば下し、8年(679年)12月2日の恩赦によってそれまでに流罪になった者も赦されたはずである。

外交

壬申年の挙兵は、唐の使者郭務悰が5月30日に帰国してから約1か月後の22日に決断された。白村江の戦いでの敗戦はあったが、唐と新羅は互いに朝鮮半島の支配をめぐって戦って日本との通交を求めており、外交的な環境はやや好転していた。天皇は征服・干渉のための軍を起こさず、即位後は内外に戦争がなかった[39]

天武朝の朝廷は低姿勢をとる新羅と使者をやりとりし、文化を摂取する一方で、唐には使者を遣わさず、大国としての体面を繕った。この時代には西方海上の済州島にあった耽羅からも使節が来た。南西諸島の多禰(種子島)、掖玖(屋久島)、阿麻禰(奄美島)を探索した。東北では、陸奥の蝦夷冠位を授け、越の蝦夷伊高岐那を建てることを認めた。

天智天皇との対比で、天武天皇は親百済的だった前代と異なり親新羅外交をとったと評される。ただ、特別に新羅系の渡来人を優遇したわけではなく、百済系の人を冷遇したということでもない。天武天皇2年(673年)閏6月6日の沙宅昭明、3年(674年)1月10日の百済王昌成への贈位、14年(685年)10月4日の百済僧常輝への封戸30戸など、百済人への恩典は多い。朝鮮半島から帰化した人には元年(672年)から10年(681年)まで課税を免除し、10年後にはそのとき子供だった者にも免除を広げた。

軍事

天武天皇は、官人と畿内の武装強化を特別な政策とした[40]。天武天皇4年(675年)10月20日に諸王以下、初位以上の官人の武装を義務付けた。。命じた後には、5年(676年)と8年(679年)に馬と武器を検査し、10年(681年)に軍事演習を行った。その後、13年(684年)閏4月に「政の要は軍事である」と述べて文武の官と諸人に用兵と乗馬を習えと改めて命じ、武装に欠ける者がいれば罰すると詔した14年(685年)にも京と畿内の人夫の武器を検査した。官人武装政策は、天武・持統朝に特徴的で、前後には見られない。

律令制下で国軍主力の位置にあった軍団は、この時代にはまだ設置されていなかった。官人の武装化は軍団創設以前の事情に対応したものだろうが、この当時の全国的な兵制については学説が分かれている。評造評督が兵士を率いる評制軍(評造軍)があったとする説、軍団とほぼ同じものが成立していたとする説[41]国造が伝統的な支配下の人民を領導する国造軍がそのまま続いていたみる説[42]がある。</ref>

宮と造都

天武天皇は壬申の乱の勝利後しばらくは美濃にとどまり、9月になって岡本宮(飛鳥岡本宮)に入り、この年に新たに宮室を建ててそこに移り住んだ。飛鳥岡本宮は舒明天皇斉明天皇の宮殿で、近江に都が移ってからも維持されていたのである。天武天皇の宮は死の2か月前、朱鳥元年(685年)7月20日に飛鳥浄御原宮と名付けられた。考古学者がいう飛鳥宮(伝承飛鳥板葺宮)III-B期にあたる[43]。斉明天皇の飛鳥岡本宮をそのまま使い、考古学者がいうエビノコ郭を追加したものが主要部である。エビノコ郭には一つの大きな殿舎があり、当時これを大極殿と呼んでいた。旧岡本宮部分には大安殿、外安殿、内安殿、向小殿があったが、発掘された建物との対応関係については未だ諸学者の一致をみない[44]

飛鳥浄御原宮の周辺には京と呼ばれるような都市的な広がりがあったが、南北・東西道が整然と直交する方形の都市計画は敷かれなかった。宮の北北東には飛鳥池遺跡と呼ばれる国家工房があり、富本銭はここで鋳造された。

天武天皇はこの宮に満足せず、代変わりごとに宮を移す旧慣をあらため、永続的な都を建設する抱負を持って適地を探した。天武天皇5年(676年)に、新城、すなわち後に藤原京として完成する都の計画を始めた[45]。元あった起伏をならして整地し、道路には側溝を掘った。『万葉集』には、「大君は神にしませば」田や沼を都となした、とする歌が2首あり、このことを指すと考えられる[46]。このときは、方位に規制されていなかった既存の道路と建物をいったん廃絶し、南北線を軸とするように作り替えたが、遷都はできなかった[47]

天武天皇11年(682年)3月1日に三野王らに命じて地形を視させ、16日には天皇自身も新城に行幸した。翌12年(683年)の7月18日にも京を見てまわり、13年(684年)3月9日に宮室の地を定めた。この頃から修正された都市計画で工事が再開した。天皇の死で中断されたが、天皇の陵は新しい都の中軸線を南に延長した先に築かれた。本格的な造営は天武天皇の死後、持統天皇の手で進められ、完成した。日本最初の本格的都城と評価される[48]

天武天皇は、都を二、三置くべきだと考え(副都制)、12年(683年)12月17日に難波京を置いた。建造物は孝徳天皇によって作られた難波宮をそのまま受け継いだも。東にも副都を置こうとしたのか、13年(684年)2月28日に信濃に視察の使いを派遣したが、そちらは着手に至らず終わった。

文化政策

天武天皇は古来の伝統的な文芸・伝承を掘り起こすことに力を入れた。外来のものが排斥されたわけではないが、以前と以後の諸天皇の事業と比べると、土着文化の掘り起こしと整頓に向けた努力は著しい。天武天皇が壬申の乱に敗れていれば、『古事記』『万葉集』に代表されるような土着的な文化は、『日本書紀』『懐風藻』に代表されるような中国風の文化に侵食され、あるいは伝わらないまま終わっていたかもしれないとさえ言われる[49]

倭に変えて国号を日本と定め、君主の号を天皇とした始めは、天武天皇であるとの説が有力である。資料的には推古天皇の代を指すものが複数あるが、中国で天皇号が君主に用いられた時期より前になること、個々の資料の性格に疑いがはさまれることにより、天武朝まで下げる。

天武天皇は民間習俗を積極的にとりこみ、それを国家的祭祀とした[50]五節の舞がその確実な例であり、新嘗祭を国家的祭祀に高め、特に大嘗祭を設けたのは、天武天皇であろうと言われる[51]。現代の歴史学者の多くが、後述する神道の祭祀も含め、後代に伝統として伝えられた主要な宮廷儀式の多くが、天武天皇によって創始されたか大成されたと推測している。

天武天皇4年(675年)2月9日には畿内とその周辺から歌が上手な男女、侏儒、伎人を宮廷に集めるよう命じ、4月23日に彼ら才芸者に禄を与えた。14年(685年)9月15日には優れた歌と笛を子孫に伝えるよう命じ、15年(686年)1月18日には俳優と歌人に褒賞を与えた。

天皇は、親王、臣下多数に命じて歴史の編纂を行わせた。後に完成した『日本書紀』編纂事業の開始と言われる。また、稗田阿礼に帝皇日継と先代旧辞(帝紀旧辞)を詠み習わせた[52]。後に筆録されて『古事記』となる。いずれも完成は天皇の没後になったが、これらが日本に現存する最古の史書である。二書を並行させた意図には定説がないが、内容は天皇家の支配を正当化する点で共通する。長大な漢文で、一貫性を犠牲にして多数の説を併記した『日本書紀』が合議・分担で編纂されたのに対し、短く首尾一貫した『古事記』のほうには天武個人の意志がかなり入った可能性が指摘される[53]

天武天皇は、本人が天文に長じており[54]、天武天皇4年(675年)1月5日に初の占星台を建てさせた。

天武4年4月17日675年5月19日)のいわゆる肉食禁止令で4月1日5月3日)から9月30日10月27日)までの間、稚魚の保護と五畜(ウシウマイヌサルニワトリ)の肉食を禁止した。律令国家を目指しての政策の一環としてか、天武11年(681年)にはそれまでの日本独自の髪型である角髪を改めるように命じている。これ以後、冠を被るのにふさわしい形の髷になった。また、天武12年(682年)には位階を示す色を従来の冠の色から朝服の色に変更した。

宗教政策

神道

天武天皇は日本古来の神の祭りを重視し、地方的な祭祀の一部を国家の祭祀に引き上げた。神道の振興は、外来文化の浸透に対抗する日本の民族意識を高揚させるためであったと説かれる[55]。だがその努力は各地の伝統的な祭祀をそのまま保存することではなく、天照大神を祖とする天皇家との関係に各地の神を位置づけ、体系化して取り込むことにあり、究極的には天皇権力の強化に向けられていた。それぞれの地元で祀られていた各地の神社・祭祀は保護と引き換えに国家の管理に服し、古代の国家神道が形成された。

その際、天武天皇は伊勢神宮を特別に重視し、この神社が日本の最高の神社とされる道筋をつけた[56]壬申の乱のとき、挙兵して伊勢に入った大海人皇子は、迹太川のほとりで天照大神を望拝した。具体的には伊勢神宮の方角を拝んだことを意味すると考えられている。即位後の天皇は、娘の大来皇女を伊勢神宮に送り、斎王として仕えさせた[57]。4年2月13日には娘の十市皇女と天智天皇の娘阿閉皇女(元明天皇)が伊勢神宮に参詣した。伊勢神宮の式年遷宮開始年については天武天皇14年(685年)と持統天皇2年(688年)の二通りの本があるが、いずれにせよ天武天皇の発意であろう[58]。また、伊勢神宮を五十鈴川沿いの現在地に建てたのは天武天皇で、それ以前は宮川上流の滝原宮にあったと推定されている[59]

そもそも天照大神という神を造り出したのが天武天皇であるという説もある。もとより無から想像・創作したというのではなく、伊勢地方で祀られていた太陽神を、天皇家が祀っていた神と合体させて天照大神としたという[60]。斎王は、[雄略天皇]]から推古天皇のときまであった旧習を復活させたものと『日本書紀』『古事記』に記されているが、これについても大来皇女が最初なのだとする説がある[61]

他に、天武天皇3年(674年)8月3日には石上神宮忍壁皇子を遣わして神宝を磨かせた。天武天皇4年(675年)4月10日には、竜田の風神を祀るために美濃王らを、広瀬の大忌神を祀るために、間人大蓋らを遣わした。後世まで両神を祀るために勅使が遣わされる初めとされる[62]。この年1月23日に諸々の社を祭ったのを、祈年祭の始まりとみる説もある[63]

仏教

天皇の仏教保護も手厚いものがあった。即位前には出家して吉野に退いた経歴を持つ。即位後、2年(673年)3月に川原寺一切経書写の事業を起こした。5年(676年)には使者を全国に派遣して『金光明経』と『仁王経』を説かせ、8年(679年)には倭京の24寺と宮中で『金光明経』を説かせた。『金光明経』は、国王が天の子であり、生まれたときから守護され、人民を統治する資格を得ていると記すもので、天照大神の裔による現人神思想と軌を一にするものであった[64]

天武天皇2年(673年)12月17日に、美濃王紀訶多麻呂造高市大寺司に任命し、百済大寺を高市に移して高市大寺とした。皇后の病気に際しては薬師寺建立を祈願し、自らの病に際しても様々に仏教に頼って快癒を願った。

天武天皇14年(685年)3月27日には、家ごとに仏舎を作って礼拝供養せよという詔を下した。「家」がどの程度の人数の単位なのかは不明だが、仏教を広めようとした。この時期まで畿内を除く地方に寺院は少なかったが、天武・持統朝には全国で氏寺が盛んに造営された。遺跡から出る瓦からは、中央の少数の寺院が地域を分担して建設を指導したことがうかがわれ、政策的な後押しが想定できる[65]

天武天皇の仏教保護は、反面、僧尼に寺院にこもって天皇や国家のための祈祷に専念することを求めるもので、仏教を国家に従属させようとするものでもあった。国家神道に対応する国家仏教である[66]。天武天皇4年に諸寺に与えられていた山林・池を取り上げ、8年には食封を見直して寺院の収入を国家が決定することにした。中央統制機関としては、推古朝に設けられ十師によって廃止された僧正僧都を復活して僧綱制を整えた[67]。加えて天武朝では僧尼の威儀・服装まで規制し、すべての寺院と僧侶を国家の統制下に置こうとするころまで国家統制が強まったく[68]

天皇の仏教理解、姿勢については、現世利益を求めた皮相的なものと説かれることがある。天皇が命じて読ませたのは護国の経典で、個人の救済が重視されたようには見えない[69]。天皇個人が仏教に求めたのは、皇后と自身の病気治癒で、仏教の自我否定や利他の思想を実現しようとするものではなかった[70]

道教

天皇の宗教観には道教の要素が色濃く出ている。「天皇は神にしませば」と詠まれるときの神は、神仙思想の神、つまり仙人の上位にいる存在であったとの説がある[71]八色の姓の最上位は真人であり、天皇自身の和風諡号は天渟中原瀛真人という。瀛州は東海に浮かぶ神山の一つ、真人は仙人の上位階級で、天皇も道教の最高神である[72]。天皇が得意だった天文遁甲は、道教的な技能である[73]。葬られた八角墳は、東西南北に北東・北西・南東・南西を加えた八紘を指すもので、これも道教的な方角観である。

道教への関心は天武天皇だけのものではなく、母の斉明天皇に顕著であり、天武没後も続く。天武天皇の、そして日本の道教は、神道と分かちがたく融合しており、独立には存在していない。影響をどこまで大きく評価するかは見方が分かれる。

人物像

天武天皇は、宗教や超自然的力に関心が強く、神仏への信仰も厚かった[74]。『日本書紀』には天文遁甲をよくするとあり[75]、壬申の乱では自ら式をとって将来を占ったが[76]、これらは道教的な技能である。即位後の政治からも、宗教・儀式への関心が伺えるが、占いの活用や神仏への祈願で目的を達しようとする姿勢が強い。

『古事記』は、天武天皇が夢の中の歌を解き、夜の水に投じて自分が皇位につくことを知ったと記す[77]。『日本書紀』では、壬申の乱のときに式をとって占い天下二分の兆しと解き[78]、また天神地祇に祈って雷雨を止ませたという[79]。このような予言者的能力によって天皇は神と仰がれるカリスマ性を身に帯びた[80]

天武天皇の和歌は、藤原夫人と交わしたからかい交じりの歌、吉野の「よし」を繰り返す歌、そして吉野の道の寂しさを歌う暗い歌などが伝わる。漢詩を作ったとする史料はない。伝えられていないだけとする人もいるが、そこに彼の趣味嗜好の向きを見る人もいる。天武天皇の趣味は無端事(なぞなぞ)のように庶民的なものがあり[81]すごろく(賭がつきもので天皇の死後3年で禁止になった)のように遊侠的でさえあった。「#文化政策」で挙げた各種芸能者への厚遇も、天皇の好みと無関係ではないだろう。これらをもって、人心収攬に長けていたと評する人もいる[82]

文暦2年(1235年)の盗掘後の調査『阿不之山陵記』に、天武天皇の骨について記載がある。首は普通より少し大きく、赤黒い色をしていた。脛の骨の長さは1尺6寸(48センチメートル)、肘の長さ1尺4寸(42センチメートル)あった。ここから身長175センチメートルくらい、当時としては背が高いほうであったと推定される[83]藤原定家の日記『明月記』によれば、骨と白髪が残っていたという[84]

系譜

子孫

清原氏系図

玄孫称徳天皇崩御により、皇統は天武系から天智天皇の孫である光仁天皇に移った。光仁天皇には皇后井上内親王を通じて天武系の血を引く皇太子他戸親王がいたが廃太子され、側室を母に持つ桓武天皇の系統が長く現在まで続く事になる。

天武天皇の血筋は皇統からは完全に絶えたものの、舎人親王の子孫が清原真人の姓を賜り清原氏の祖となり、高市皇子の子孫が高階真人の姓を賜り高階氏の祖となるなど、後世まで長く繁栄する。但し、吉備内親王を通じて唯一妻・持統天皇の血筋を伝えていた高階氏に関しては、天武天皇の雲孫(8代孫)に当たる高階師尚在原業平落胤とし、以降天武天皇・持統天皇の血筋は継いでいないとする[85]

系図


 
 
 
 
34 舒明天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
古人大兄皇子
 
38 天智天皇
(中大兄皇子)
 
間人皇女(孝徳天皇后)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
40 天武天皇
(大海人皇子)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
倭姫王
(天智天皇后)
 
41 持統天皇
(天武天皇后)
 
43 元明天皇
(草壁皇子妃)
 
39 弘文天皇
(大友皇子)
 
志貴皇子
 
 
 
 
 
高市皇子
 
草壁皇子
 
大津皇子
 
忍壁皇子
 
 
 
 
 
長皇子
 
 
 
 
 
舎人親王
 
 
 
 
 
新田部親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
葛野王
 
49 光仁天皇
 
 
 
 
 
長屋王
 
44 元正天皇
 
42 文武天皇
 
吉備内親王
(長屋王妃)
 
 
 
 
 
文室浄三
(智努王)
 
三原王
 
47 淳仁天皇
 
貞代王
 
塩焼王
 
道祖王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
池辺王
 
50 桓武天皇
 
早良親王
(崇道天皇)
 
桑田王
 
 
 
 
 
45 聖武天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
三諸大原
 
小倉王
 
 
 
 
 
清原有雄
清原氏
 
氷上川継
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
淡海三船
淡海氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
礒部王
 
 
 
 
 
46 孝謙天皇
48 称徳天皇
 
井上内親王
(光仁天皇后)
 
 
 
 
 
 
文室綿麻呂
文室氏
 
清原夏野
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
石見王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
高階峯緒
高階氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

年譜


脚注・参照

  1. ^ 北山茂夫『天武朝』253頁。
  2. ^ 『日本書紀』朱鳥元年9月27日条。西郷信綱『壬申紀を読む』14-15頁。
  3. ^ 福永光司「タオイズムから見た壬申の乱」22-23頁。福永・千田・高橋『日本の道教遺跡を歩く』42頁。
  4. ^ 山本幸司『天武の時代』112頁。
  5. ^ 森田悌『天武・持統天皇と律令国家』3-4頁。
  6. ^ 『日本書紀』白雉4年是歳条。
  7. ^ 後述する妃の出生からの推測。
  8. ^ 大伯は後の邑久郡で、現在の岡山県東部。
  9. ^ 現在の福岡市奴国に連なる。
  10. ^ 『日本書紀』天智天皇3年2月丁亥(27日)条、7年5月5日条、8年5月壬午(5日)条。
  11. ^ 『日本書紀』天智天皇10年正月甲辰(6日)条。
  12. ^ 『日本書紀』天智天皇10年10月庚辰(17日)条、壬午(19日)条。
  13. ^ 森田悌『天武・持統天皇と律令国家』5-7頁。
  14. ^ 新編古典文学全集『日本書紀』3、287頁注30。
  15. ^ 川崎庸之『天武天皇』78-80頁。
  16. ^ 森田悌『天武・持統天皇と律令国家』8頁。
  17. ^ 『日本書紀』巻第27の天智天皇10年10月庚辰条と、巻28の冒頭部にある4年10月庚辰条に大筋一致する内容がある。4年は称制を含めない天智天皇即位からの年数で、書紀のあるべき編年では10年にあたる。
  18. ^ 大友皇子即位説を参照。
  19. ^ 上野修「日並皇子挽歌に現われた天武天皇神話の意義について」17-19頁。
  20. ^ 亀田隆之『壬申の乱』184-185頁。熊谷公男『大王から天皇へ』334-335頁。
  21. ^ 井上光貞「律令体制の成立」500-501頁。。倉本一宏「天武天皇殯宮に誄した官人について」48-49頁。
  22. ^ 亀田隆之『壬申の乱』206-213頁。
  23. ^ 西郷信綱『壬申紀を読む』222頁、229-231頁。熊谷公男『大王から天皇へ』335頁、347頁。。
  24. ^ 北山茂夫「大化改新」『日本古代政治史の研究』40-47頁。同「壬申の乱」『日本古代政治史の研究』96-97頁、101-104頁、『日本古代内乱史論』63-64頁、71-76頁。また山本幸司『天武の時代』78頁。
  25. ^ 石母田正『日本の古代国家』220-223頁。山本幸司『天武の時代』112-113頁。
  26. ^ もう一つの説は推古天皇。天武説が多数の学者に支持されていることは、西郷信綱『壬申紀を読む』221-222頁、熊谷公男『大王から天皇へ』335頁、吉村武彦『古代王権の展開』313-317頁など。
  27. ^ 『日本書紀』の持統紀に、単に「天皇」と書いて持統天皇でなく天武天皇を指している箇所がある。熊谷公男『大王から天皇へ』335-338頁。
  28. ^ 井上光貞「律令体制の成立」505-506頁。
  29. ^ 井上光貞「律令体制の成立」511頁。
  30. ^ 井上光貞「律令体制の成立」525頁。
  31. ^ 亀田隆之『壬申の乱』178-179頁。
  32. ^ 北山茂夫『天武朝』144-146頁。
  33. ^ 亀田隆之『壬申の乱』200-202頁。
  34. ^ 直木孝次郎『
  35. ^ 井上光貞「律令体制の成立」501-502頁。
  36. ^ 亀田隆之『壬申の乱』179-182頁。
  37. ^ 北山茂夫『天武朝』158-163頁。
  38. ^ 北山茂夫『天武朝』146-149頁。
  39. ^ 北山茂夫『天武朝』173頁。
  40. ^ 井上光貞「律令体制の成立」501頁。森田悌『天武・持統天皇と律令国家』204頁。
  41. ^ 北山茂夫『天武朝』216頁
  42. ^ 森田悌『天武・持統天皇と律令国家』。
  43. ^ 林部均「飛鳥浄御原宮の成立」25頁。
  44. ^ 林部均「飛鳥浄御原宮の成立」28-30頁、同「発掘された飛鳥の諸宮」59-64頁。志村佳名子「飛鳥浄御原宮における儀礼空間の復元的考察」。
  45. ^ 『日本書紀』天武天皇5年是年条。
  46. ^ 小澤均「藤原京の成立」130-131頁。
  47. ^ 林部均「発掘された飛鳥の諸宮」64-65頁。
  48. ^ 木下正史「飛鳥から藤原京へ」18頁。
  49. ^ 西郷信綱『壬申紀を読む』11頁。
  50. ^ 北山茂夫『萬葉の時代』38-39頁。村井康彦『律令制の虚実』73-77頁。
  51. ^ 大嘗の初見は『日本書紀』天武天皇2年12月丙戌(5日)条にある。これを大嘗祭の初めとみるのは、森田悌『天武・持統天皇と律令国家』41-44頁など。
  52. ^ 『古事記』序第2段。岩波文庫版15-16頁。
  53. ^ 松前健「天武天皇と古事記神話の構成」49-52頁。
  54. ^ 『日本書紀』巻28、天武天皇即位前紀。
  55. ^ 滝川政次郎『人物新日本史』112-113頁。
  56. ^ 直木孝次郎「古代の伊勢神宮」、「伊勢神宮の成立について」。
  57. ^ 『日本書紀』天武天皇2年4月己巳(14日)条、3年10月乙酉(9日)条。
  58. ^ 中西正幸『神宮式年遷宮の歴史と祭儀』24-25頁。
  59. ^ 滝川政次郎『人物新日本史』108-112頁。
  60. ^ 田村圓澄『伊勢神宮の成立』112-115頁。「『天照大神』と天武天皇」3-7頁、『飛鳥時代 倭から日本へ』。新谷尚紀『伊勢神宮と出雲大社』。松前健「天武天皇と古事記神話の構成」54-60頁。
  61. ^ 筑紫申真『アマテラスの誕生』140-148頁。
  62. ^ 森田悌『天武・持統天皇と律令国家』49-49頁。
  63. ^ 森田悌『天武・持統天皇と律令国家』49-49頁。
  64. ^ 田村圓澄「『天照大神』と天武天皇」11-12頁、『伊勢神宮の成立』116-117頁。『飛鳥時代 倭から日本へ』137-140頁。田村は天照大神は『金光明経』をふまえて天武天皇が作ったのではないかという(『伊勢神宮の成立』118-127頁)。
  65. ^ 田村圓澄『飛鳥時代 倭から日本へ』132-136頁。
  66. ^ 丸山茂「天武朝の宗教環境」162-166頁。
  67. ^ 井上光貞「日本における仏教統制機関の確立過程」333-341頁。。
  68. ^ 丸山茂「天武朝の宗教環境」163頁。
  69. ^ 丸山茂「天武朝の宗教環境」163頁。
  70. ^ 二葉憲香「古代天皇の祭祀権と仏教」51-52頁。
  71. ^ 福永・千田・高橋『日本の道鏡遺跡を歩く』14頁。
  72. ^ 福永光司「タオイズムから見た壬申の乱」22-23頁。福永・千田・高橋『日本の道教遺跡を歩く』42頁。
  73. ^ 福永光司「タオイズムから見た壬申の乱」
  74. ^ 森田悌『天武・持統天皇と律令国家』35-36頁。
  75. ^ 『日本書紀』巻第28天武天皇即位前紀。岩波文庫版『日本書紀』第5分冊66頁、391頁。
  76. ^ 『日本書紀』巻第28、6月甲申(24日)条(ただし、占ったのは翌日)。岩波文庫版『日本書紀』第5分冊76頁、394頁。
  77. ^ 『古事記』序第二段、岩波文庫版14頁。
  78. ^ 『日本書紀』巻之第28、天武天皇元年6月甲申条(24日深夜)。新編日本古典文学全集4『日本書紀』3、313頁。
  79. ^ 『日本書紀』巻之第28、天武天皇元年6月丁亥条(27日)。新編日本古典文学全集4『日本書紀』3、323頁。
  80. ^ 山本幸司『天武の時代』10-11頁、157-158頁。
  81. ^ 天武天皇15年(675年)1月2日に大極殿、16日に大安殿で宴があり、天皇が出した「無端事」への正解者に褒美があった。
  82. ^ 森田悌『天武・持統天皇と律令国家』30-34頁。
  83. ^ 猪熊兼勝「天武天皇陵」53頁。
  84. ^ 『明月記』嘉禎元年4月22日。猪熊兼勝「天武天皇陵」53頁。
  85. ^ 『尊卑分脈』、『高階氏系図』(『群書類従』巻第63、『続群書類従』巻第174 所収)による。

在位年と西暦との対照表


天武天皇を扱った作品

関連項目