「瀬底島」の版間の差分
119.245.157.11 (会話) による ID:39537710 の版を取り消し |
|||
(38人の利用者による、間の68版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
{{Infobox 島 |
{{Infobox 島 |
||
|島名=瀬底島 |
|島名= 瀬底島 |
||
|画像=[[File:Sesoko Island. |
|画像= [[File:Sesoko Island ISS045.jpg|300px]]<br/>[[国際宇宙ステーション|ISS]]より撮影(2015年10月)。 |
||
|座標={{ウィキ座標2段度分秒|26|38|46|N|127|51|54|E|}} |
|座標= {{ウィキ座標2段度分秒|26|38|46|N|127|51|54|E|region:JP-47_type:isle|display=inline,title|name=瀬底島}} |
||
|面積=2.99 |
|面積= 2.99 |
||
|周囲= |
|周囲= 7.3 |
||
|標高= |
|標高= 76.0 |
||
|最高峰= |
|最高峰= |
||
|最大都市= |
|最大都市= |
||
|諸島= [[沖縄諸島]] |
|諸島= [[沖縄諸島]] |
||
|海域=[[東シナ海]] |
|海域= [[東シナ海]] |
||
|国={{JPN}}・[[沖縄県]][[国頭郡]][[本部町]] |
|国= {{JPN}}・[[沖縄県]][[国頭郡]][[本部町]] |
||
|地図 = {{Location map|沖縄本島#Japan Okinawa Prefecture#Japan|relief=1|float=center|label=瀬底島}} |
|||
|OSMズーム = 11 |
|||
}} |
}} |
||
{{本部半島}} |
|||
'''瀬底島'''(せそこじま)は、[[沖縄県]][[国頭郡]][[本部町]]に属する[[島]]である。 |
|||
'''瀬底島'''(せそこじま)は、[[沖縄県]][[国頭郡]][[本部町]]に属する[[島]]で<ref name="rito-kankei7">「2.島しょ」、『平成27年1月 離島関係資料』(2015年)、p.7</ref>、[[本部半島]]の西方沖約600メートルの[[東シナ海]]に位置する<ref name="kadokawa-sesokojima">「瀬底島」、『角川日本地名大辞典』(1991年)、p.423</ref>。 |
|||
== |
== 地理 == |
||
[[セイヨウナシ]]の形をした台地状の低平な島で<ref name="kadokawa-sesokojima"/>、[[沖縄諸島]]に含まれる<ref name="ootaka">「瀬底島」、『島嶼大事典』(1991年)、pp.286 - 287</ref>。面積2.99[[平方キロメートル]]<ref name="island-area">{{Cite web|和書|date=2020-10-01|url=https://www.gsi.go.jp/KOKUJYOHO/MENCHO/backnumber/GSI-menseki20201001.pdf|title=令和2年全国都道府県市区町村別面積調(10月1日時点)|format=PDF|publisher=[[国土地理院]]|page=92|accessdate=2020-12-29}}</ref>、周囲7.3平方キロメートル<ref name="shimadas1185">「瀬底島」、『SHIMADAS 第2版』(2004年)、p.1185</ref>、標高76.0メートル<ref name="rekishi-sesoko508jo">「瀬底島・瀬底村」、『日本歴史地名大系』(2002年)p.508上段</ref>、[[2012年]]4月現在の[[人口]]は817人である<ref name="katou2012-139">「瀬底島」、加藤(2012年)、p.139</ref>。 |
|||
[[沖縄本島]]の北端、[[東シナ海]]に浮かぶ瀬底島は、周囲約8km小さな島である。[[1985年]](昭和60年)に全長762mの瀬底大橋で沖縄島と接続された。島の西側に白い砂浜が広がる静かな瀬底ビーチがある。ビーチから眺める[[伊江島]]や[[水納島 (沖縄県本部町)|水納島]]の情景も美しく、特に島の向こうに沈む[[夕日]]が周囲を染めていく様子は圧巻である。また瀬底ビーチでは、[[海水浴]]シーズンには売店もオープンし、[[キャンプ]]を楽しむ家族連れや若者達で、夜通しにぎわう。瀬底大橋を渡って、気軽に遊びにいけるのが魅力であるが故にリゾート[[ホテル]]の建設が始まり土砂による[[海洋汚染]]および[[生態系]]の変化が心配される。 |
|||
隆起[[サンゴ礁]]の島で、主に[[琉球石灰岩]]で構成され<ref name="ootaka"/><ref name="okinawa-sesokojima">中山満「瀬底島」、『沖縄大百科事典 中巻』(1983年)、p.568</ref>、島中央部は今帰仁帯と呼ばれる[[三畳紀]]の基盤岩類からなる<ref name="kadokawa-sesokojima"/><ref>中村(1996年)、p.101</ref>。2段または3段の[[海岸段丘]]が見受けられ<ref name="okinawa-sesokojima"/><ref name="nakata166">仲田(2009年)、p.166</ref><ref>河名(1988年)、p.69</ref>、その段丘面には[[カルスト地形]]の一つである[[ドリーネ]]が、さらに島北部にはカレンフェルトも発達している<ref name="kadokawa-sesokojima"/>。北方からの強風に晒されるため、[[防風林]]が設置されている箇所もある<ref name="nakata166"/>。島の周囲に砂浜が点在し、内陸部のほとんどが平坦な地形で、河川が存在しない<ref name="sesoko-1">「瀬底島の地形」、『瀬底誌』(1995年)、p.1</ref>。集落は島の中央部にあり、その外周を農地が囲んでいる<ref name="keikaku-120">「地区別 現状と課題 第6章 南部地区」、本部町企画政策課編(2016年)、p.120</ref>。島南岸には[[琉球大学]]熱帯生物圏研究センターの研究施設が所在する<ref name="kadokawa-sesokojima"/>。 |
|||
なお、[[1985年]](昭和60年)の瀬底大橋完成までは、上陸用舟艇の渡し船が行き来した。ちなみに、[[渥美清]]主演の映画「[[男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花]]」で、リリーが東京に帰ったと聞いて寅さんがあわてて飛び乗るのがこの船であった。そんな船に乗っても[[東京]]には帰れないぞ、と思ってみてると、島づたいに一ヶ月かけて帰り着いたとあとで説明されてあった。 |
|||
島内に[[リュウキュウマツ]]、[[フクギ]]、[[ガジュマル]]、アコウなどの[[植物]]が生育し<ref name="sesoko-4">「植物」、『瀬底誌』(1995年)、p.4</ref>、島北部に[[アダン]]や[[ソテツ]]の群落が分布している<ref name="keikaku-11">「第1章 本部町の概況 動植物・天然記念物」、本部町企画政策課編(2016年)、p.11</ref>。また、[[ハブ (動物)|ハブ]]が多く生息している<ref name="sesoko-2">「動物」、『瀬底誌』(1995年)、p.2</ref>。 |
|||
南岸に[[琉球大学]]熱帯生物圏研究センター瀬底実験所がある。 |
|||
== |
== 行政区画 == |
||
島全域は本部町の[[大字]]である「瀬底」に属し、瀬底島西約6キロメートルの海上にある[[水納島 (沖縄県本部町)|水納島]]も同字に帰属する<ref name="kadokawa-motobu891">「瀬底(本部町〔現行行政地名〕)」、『角川日本地名大辞典』(1991年)、p.891</ref>。 |
|||
* 面積:2.99km² |
|||
* 人口:442人 |
|||
* 小学校:1校 |
|||
* 信号:1ヶ所 |
|||
* 医療施設:無し |
|||
瀬底島は元来[[今帰仁村|今帰仁]][[間切]]の所属であったが、[[1666年]]に今帰仁間切から新たに伊野波間切として分割された<ref name="kadokawa-motobu886">『角川日本地名大辞典』「本部町 〔沿革〕 本部間切の村々」(1991年)p.886</ref>。翌年[[1667年]]に本部間切に名称を変更、『[[琉球国由来記]]』にも本部間切瀬底村と記述されている<ref name="kadokawa-sesoko-earlymodern">「瀬底村〔近世〕」、『角川日本地名大辞典』(1991年)、p.422</ref>。琉球王国時代初頭は瀬底村の1村のみであったが、[[1736年]]に石嘉波(いしかわ)村が農地開拓のため本部半島から移り2村体制となり、[[1896年]](明治29年)に両村とも国頭郡へ編入、[[1903年]]([[明治]]36年)に石嘉波村は瀬底村に合併された<ref name="kadokawa-ishikawa">「石嘉波村」、『角川日本地名大辞典』(1991年)、p.422</ref>。そして[[1908年]](明治41年)に本部村瀬底、[[1940年]]([[昭和]]15年)に本部町へ町制施行した<ref name="kadokawa-sesoko-earlymodern"/><ref name="kadokawa-sesoko-modern">「瀬底村〔近代〕」、『角川日本地名大辞典』(1991年)、p.422</ref>。 |
|||
== 道路 == |
|||
[[File:Sesoko Bridge.jpg|thumb|240px|瀬底大橋]] |
|||
* [[沖縄県道172号瀬底健堅線]]([[都道府県道|一般県道]]) |
|||
** 瀬底大橋 |
|||
*:[[1985年]](昭和60年)[[2月13日]]に開通した。全長762mで完成当時、沖縄県で最長の橋であった。 |
|||
== |
== 歴史 == |
||
[[沖永良部与論沖縄北部諸方言|方言]]で「瀬底」は「シーク」また「シスク」といい<ref name="rekishi-sesoko508jo"/>、島民からは「シマー(島)」と呼ばれる<ref name="sesoko-8">仲田善明「地名の由来」、『瀬底誌』(1995年)、p.8</ref>。『[[海東諸国紀]]』には「師子島」とあり、沖縄本島間の海域は「世々九浦」と記載されている<ref name="rekishi-sesoko508jo"/>。『[[マシュー・ペリー|ペリー]]提督沖縄訪問記』<ref name="kadokawa-sesokojima"/>と『ペリー艦隊日本遠征記』<ref name="rekishi-sesoko508jo"/>には「スコ島 (''Suco Island'')」と記され、瀬底島内の集落名は「シスコ (''Sisuco'')」とある<ref name="rekishi-sesoko508jo"/>。瀬底島は『琉球国高究帳』に記載されて以降、この地名は一般に広まったとされる<ref name="kadokawa-sesokojima"/>。 |
|||
* 渡久地バス停 |
|||
: [[名護バスターミナル]]より[[沖縄本島のバス路線#65番・66番|系統番号65番]]、[[沖縄本島のバス路線#65番・66番|66番]]、[[沖縄本島のバス路線#70番・76番|70番]]、[[沖縄本島のバス路線#70番・76番|76番]]に乗車、「渡久地」下車。ビーチまでは渡久地よりタクシーで3.5kmほどである(バス便数:1日平日47便、休日40本)。 |
|||
=== 先史から琉球王朝まで === |
|||
* 瀬底公民館前バス停 |
|||
[[先史時代]]の[[貝塚]]や[[グスク時代]]の遺構が発見され<ref name="sugata">「瀬底島」、『日本の島事典』(1995年)、pp.192 - 193</ref>、瀬底グスク(ウチグスク)では、[[青磁]]や染付けされた[[陶磁器]]が出土している<ref name="okinawa-sesokogusuku">嵩元政秀「瀬底グスク」、『沖縄大百科事典 中巻』(1983年)、p.568</ref>。伝承によると、ウチグスク周辺に生活していた7世帯が瀬底島を開闢したとされ、[[1469年]]に[[第一尚氏]]王統最後の[[尚徳王]]が死去すると、同系の今帰仁[[按司]]の一人の子供がウチグスクに住み渡り、瀬底島に村落を形成したといわれている<ref name="kadokawa-sesoko">「瀬底」、『角川日本地名大辞典』(1991年)、p.422</ref>。また、[[沖縄本島]]中部の[[具志川市|具志川]]や[[石川市|石川]]([[うるま市]]の一地域)<ref name="sugata"/>からの移住者が、集落を築いたとも伝えられている<ref name="kadokawa-sesoko"/>。 |
|||
: 名護バスターミナルより下記「外部リンク」の様に系統番号65番、66番の瀬底経由、または76番に乗車、「瀬底公民館前」下車。ビーチまでは徒歩1kmほどである(バス便数:全日1日4往復、全8便)。 |
|||
『[[球陽]]』([[1394年]]条)には、瀬底島の島民によって放たれた[[家畜]]が農作物を食い荒らしたと、[[沖縄本島]]の健堅村の住民が非難したが、島民はこの苦情を聞き入れなかったという<ref name="rekishi-sesoko508jo"/>。『球陽』([[1736年]]条)には、本部間切の村々の農地が狭く、木を焼き払って田畑を開墾したという<ref name="rekishi-ishikawa508ge">「石嘉波村」、『日本歴史地名大系』(2002年)、p.508下段</ref>。そこで、土地に余裕のある瀬底島に、本島から海を渡って石嘉波村が移転した<ref name="rekishi-ishikawa508ge"/>。その際、村人によって[[石嘉波神社]]が作られた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.town.motobu.okinawa.jp/application/files/3515/8503/3558/HP_.pdf |title=瀬底島GUIDE MAP |website=www.town.motobu.okinawa.jp |accessdate=2023-09-08}}</ref>。 |
|||
※参考:[http://www.kotsu-okinawa.org バスマップ沖縄] |
|||
島内には[[水田]]はなく、また[[麻疹]]・[[天然痘]]などの[[疫病]]が度々発生し、[[1826年]]に飢饉による困窮のため、瀬底村は金銭を借り入れている<ref name="kadokawa-sesoko-earlymodern"/>。島中央部に位置する土帝君の祠は瀬底の[[親雲上]]である上間家の一人が[[1712年]]に[[清]]へ渡航した際、持ち帰った木像を祀ったのが始まりとされる<ref name="kadokawa-sesoko-earlymodern"/>。代々上間家は本部間切の[[琉球の位階#地方役人の位階|地頭代]]を務め、[[1772年]]に沖縄本島全域に疫病が流行した際、間切全土の復興支援を行った<ref name="kadokawa-motobu887">「土帝君と上間家(本部町 〔沿革〕)」、『角川日本地名大辞典』(1991年)、p.887</ref>。特に5代目は貧民救援に尽力した功績が認められ、[[1831年]]に王府から[[掛軸]]と[[上布]]を与えられた<ref name="rekishi-doteikun508ge">「瀬底土帝君祠」、『日本歴史地名大系』(2002年)、p.508下段</ref>。 |
|||
{{gallery |
|||
|ファイル:Sesoko beach.JPG|瀬底ビーチ |
|||
=== 明治以降 === |
|||
}} |
|||
[[File:Sesoko Elementary School.JPG|thumb|本部町立瀬底小学校・幼稚園]] |
|||
[[1890年]](明治23年)に島内に「瀬底簡易小学校」が設立、その後に本部尋常小学校の分校となり、[[1893年]](明治26年)に「瀬底尋常小学校」へ分離された<ref name="sesoko-70-71">「島の歴史 第六節 近代(県政時代の瀬底)」、『瀬底誌』(1995年)、pp.70 - 71</ref>。[[1900年]](明治33年)、後の[[大正天皇]]の成婚記念として、校舎を背景に生徒と職員を撮影した写真が献上された<ref name="sesoko-72">「島の歴史 第六節 近代(県政時代の瀬底)」、『瀬底誌』(1995年)、p.72</ref>。[[1909年]](明治42年)、青年の社会教育を進める「瀬底夜学会」が結成され<ref name="sesoko-488-489">「教育 第二節 社会教育」、『瀬底誌』(1995年)、pp.488 - 489</ref>、また「[[毛遊び]]」を取り締まるべく、[[瀬底小学校]]の職員らが指導にあたり、島内の風俗改良に努めた<ref name="sesoko-78">「島の歴史 第六節 近代(県政時代の瀬底)」、『瀬底誌』(1995年)、p.78</ref>。[[1921年]]([[大正]]10年)に[[高等科]]の新設に伴い、[[尋常小学校]]から「瀬底尋常高等小学校」へ改称され、高等科のある沖縄本島へ渡らずに通学できるようになった<ref name="sesoko-73">「島の歴史 第六節 近代(県政時代の瀬底)」、『瀬底誌』(1995年)、p.73</ref>。 |
|||
[[1944年]](昭和19年)[[10月10日]]の[[十・十空襲]]では、瀬底島と沖縄本島の崎本部との海域に停泊していた[[潜水母艦]]「[[迅鯨 (潜水母艦)|迅鯨]]」が、アメリカ軍の攻撃により沈没した<ref name="sesoko-520">「沖縄戦と瀬底島」、『瀬底誌』(1995年)、p.520</ref>。この空襲による島内の被害として、民家と学校が焼失、島民1名が死亡した<ref name="sesoko-85">「島の歴史 第六節 現代」、『瀬底誌』(1995年)、p.85</ref>。翌年の[[1945年]](昭和20年)[[4月22日]]、アメリカ軍は瀬底島に上陸、[[沖縄戦]]における島内出身の軍人・軍属72名と一般住民102名が犠牲となった<ref name="sesoko-88-89">「島の歴史 第六節 近代(県政時代の瀬底)」、『瀬底誌』(1995年)、pp.88 - 89</ref>。 |
|||
戦時中、本部町民は[[久志村|久志]]、[[辺野古]]の収容所へ移動させられ、当地で終戦を迎えたが、瀬底の住民は収容されなかった<ref name="keikaku-6">「第1章 本部町の概況 沿革」、本部町企画政策課編(2016年)、p.6</ref>。これは島の主要な人物が、学校再開を条件にアメリカ軍と交渉し、島民は移動を免れたとされる<ref name="sesoko-458">「教育 戦後の教育」、『瀬底誌』(1995年)、p.458</ref>。[[1953年]](昭和28年)、島内に[[砂糖|製糖]]工場が建設されたが、[[1960年]](昭和35年)に大型の工場が[[今帰仁村]]に設立され、島内の工場は買収され、[[サトウキビ]]の生産のみとなった<ref name="sesoko-94">「島の歴史 第六節 現代」、『瀬底誌』(1995年)、p.94</ref>。 |
|||
瀬底島に[[井戸]]は存在せず、昔から[[雨|天水]]に依存し、雨水を蓄える[[貯水池]]が[[御嶽 (沖縄)|御嶽]]に残存している<ref name="kadokawa-sesoko-modern423">「瀬底村〔近代〕」、『角川日本地名大辞典』(1991年)、p.423</ref>。旱魃で[[水不足]]に陥ると、沖縄本島から生活用水を輸送していたが、[[1964年]](昭和39年)に[[ボーリング]]機材を用いて[[地下水]]を汲み上げ、幾分水不足は解消された<ref name="kadokawa-sesoko-modern423"/>。そして[[1982年]](昭和57年)に沖縄本島から海底送水が実施された<ref name="kadokawa-motobu891"/>。1973年(昭和48年)に[[電話]]回線が開設<ref name="kadokawa-sesoko-modern423"/>、また電力も対岸の本部半島から[[海底ケーブル]]で送電されている<ref name="okinawa-sesokojima"/>。[[1985年]](昭和60年)、瀬底島と本島間を結ぶ[[瀬底大橋]]が完成<ref name="sesoko-97">「島の歴史 第六節 現代」、『瀬底誌』(1995年)、p.97</ref>、[[1992年]](平成4年)に瀬底区[[公民館]]が竣工した<ref name="sesoko-98">「島の歴史 第六節 現代」、『瀬底誌』(1995年)、p.98</ref>。[[2012年]](平成24年)、瀬底中学校の閉校式が行われ<ref name="keikaku-7">「第1章 本部町の概況 沿革」、本部町企画政策課編(2016年)、p.7</ref>、[[本部町立本部中学校|本部中学校]]へ統合された<ref name="shimadas2019">「瀬底島」、『新版 SHIMADAS』(2019年)、p.1526</ref>。 |
|||
== 産業 == |
|||
[[ファイル:Sesoko beach.JPG|thumb|瀬底ビーチ]] |
|||
主な産業は[[農業]]で、[[サトウキビ]]、[[スイカ]]、菊が主要な産物で<ref name="ootaka"/><ref name="okinawa-sesokojima"/><ref name="sugata"/><ref name="okinawa-sesoko">具志堅興作「瀬底」、『沖縄大百科事典 中巻』(1983年)、p.568</ref>、[[花卉]]類は通常の出荷時期を変えて生産を行っている<ref name="katou2012-141">「瀬底島」、加藤(2012年)、p.141</ref>。過去に[[サツマイモ]]や[[麦]]、[[豆]]類が栽培され<ref name="kadokawa-sesoko-modern423"/>、[[大正]]時代には鰹節の生産が行われていた<ref name="sesoko-130">「産業・経済 第二節 戦前の産業」、『瀬底誌』(1995年)、p.130</ref>。昭和初期に石灰質岩石の[[トラバーチン]]を産出し<ref name="okinawa-sesokojima"/>、[[国会議事堂]]の建材にも使用された<ref name="sesoko-131">「産業・経済 第二節 戦前の産業」、『瀬底誌』(1995年)、p.131</ref>。 |
|||
「ムンジュル笠」と呼ばれる[[麦わら]](方言で「ムンジュル」)を編んで作った[[菅笠]]状の日笠が瀬底島の[[工芸品]]で、沖縄本島北部では「シーク笠(瀬底笠)」ともいわれる<ref name="okinawa-munjurugasa">上江洲均「ムンジュル笠」、『沖縄大百科事典 下巻』(1983年)、p.645</ref>。明治時代から[[1960年代]]まで農家の副業として生産されたが、その後に多種多様な[[帽子]]が大量に製造され<ref name="kadokawa-sesoko-modern423"/>、ムンジュル笠の生産人口は2020年(令和2年)現在、1人のみとなった<ref name="motobu202009-8">『広報もとぶ 2020年9月号』(2020年)、p.8</ref>。 |
|||
島西部海岸には、全長約800メートルの「瀬底ビーチ(クンリ浜)」があり、瀬底大橋の橋詰付近に「アンチ浜」と呼ばれる[[砂浜]]が広がる<ref name="shimadas-1525">「瀬底島」、『新版 SHIMADAS』(2019年)、p.1525</ref>。瀬底ビーチ隣接地には、「都市デザインシステム」(現:UDS)が約360室の高級[[リゾートホテル]]として300億円を掛けて約10万坪の敷地の開発を進め、100%出資会社「瀬底ビーチリゾート」として運営する計画があった。しかし、[[世界金融危機 (2007年-)|2008年の金融危機]]による影響で資金繰りが悪化し両社とも民事再生法を申請し、倒産<ref>{{Cite news |title=「都市デザインシステム」が民事再生法申請-不動産倒産続く |newspaper=シブヤ経済新聞 |date=2008-09-01 |url=https://www.shibukei.com/headline/5539/ |accessdate=2017-11-13}}</ref><ref>[http://www.tsr-net.co.jp/news/flash/1195977_1588.html 倒産速報 (株)都市デザインシステムほか1社] - 東京商工リサーチ</ref>。施設は6割完成時点で建設中止となり放置されていた。[[2015年]]12月、[[森トラスト]]が当時土地を所有していた「合同会社瀬底ビーチプロジェクト」(同社は2017年3月21日に会社清算<ref>[https://www.houjin-bangou.nta.go.jp/henkorireki-johoto.html?selHouzinNo=3010003013796 合同会社瀬底ビーチプロジェクトの情報 法人番号公表サイト] - [[国税庁]]</ref>)から土地取得に関する売買契約を締結。[[2018年]]より再開発(建物の再構築等)を行なった上で、[[2020年]]7月1日に約300室規模のホテル「ヒルトン沖縄瀬底リゾート」を開業。[[2021年]]には、132室の会員制タイムシェアリゾート、「ヒルトン・グランド・バケーションズ」(アジア初)の2ホテル体制で開業した<ref>{{Cite news |title=会員制「タイムシェア」も 沖縄・瀬底島にヒルトンの2ホテル 2020・21年に順次開業 |newspaper=沖縄タイムス |date=2017-11-14 |url=http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/170282 |accessdate=2017-11-14}}</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.mori-trust.co.jp/pressrelease/2017/20171113_2.pdf 森トラスト、ヒルトン・グランド・バケーションズ、ヒルトン、沖縄県瀬底島に建設する宿泊施設の契約の締結を発表]}} - [[森トラスト]]</ref>。 |
|||
== 文化 == |
|||
[[ファイル:Sesoko Earth God 01.JPG|thumb|瀬底土帝君一郭]] |
|||
瀬底島中央部に、古来より[[中国]]における農業の神様として崇拝された土帝君の祠([[瀬底土帝君]])があり、当地で毎年[[旧暦2月2日]]に豊年祭が行われる<ref name="kadokawa-sesoko-earlymodern"/>。またこの祭祀施設は[[2000年]]に国の[[重要文化財]]に指定されている<ref name="rekishi-doteikun508ge"/>。周囲は石灰岩の石積みで囲まれ、その中に赤瓦屋根の祠がある<ref name="rekishi-doteikun508ge"/>。戦時中に土帝君像は焼失し、戦後新たに作られた<ref name="shimadas-1525"/>。 |
|||
昭和初期まで[[氏神]]に奉げる村踊りと綱引きは毎年交互に行われたが、[[1935年]](昭和10年)から4年ごとに1回交互に開催するようになった<ref name="kadokawa-sesoko-modern"/>。村踊りは[[旧暦8月]]中旬の4日間、綱引きは[[旧暦8月11日|11日]]に行われ、帰省者や近郊の沖縄本島から訪れる観客で賑わう<ref name="kadokawa-sesoko-modern"/>。島南部には「参詣毛(サンケーモー)」と呼ばれる小高い丘があり、そこから毎年[[旧暦5月15日]]に[[酒]]と[[肴]]を用意し祖先の故郷([[本部町|本部]]や[[石川市|石川]]など)を訪れ、参拝する「グングヮチウマチー(5月祭り)」を行う<ref name="kadokawa-sesokojima"/><ref name="ootaka"/><ref name="okinawa-sesokojima"/><ref name="sugata"/>。[[獅子舞]]踊りや[[旧暦7月]]に[[伝統芸能]]「[[シヌグ]]」も催される<ref name="kadokawa-sesokojima"/><ref name="okinawa-sesokojima"/>。シヌグは作物の収穫終了後と次の農作へ移行する間に開催する祭事で、沖縄本島北部や[[奄美群島]]の一部でも行われる<ref name="okinawa-shinugu">源武雄「シヌグ」、『沖縄大百科事典 中巻』(1983年)、p.317</ref>。毎年5月と11月に「ピージャーオーラサイ」もしくは「ピージャーオーラセー」といわれる[[ヤギ]]どうしで闘う伝統行事が行われる<ref name="katou2012-139"/>。瀬底島の島民らが一体となって、島内行事に取り組んでいる<ref name="keikaku-121">「地区別 現状と課題 第6章 南部地区」、本部町企画政策課編(2016年)、p.121</ref>。 |
|||
瀬底島で使用される[[方言]]は[[沖永良部与論沖縄北部諸方言|沖縄北部方言]]に含まれるが、この方言の特徴である[[有気音]]と[[無気音]]の区別はない。それ以外の[[発音]]は他の[[琉球方言]]と比較して際立った特徴は見受けられず、また[[文法]]もほぼ変わらない。水納島は瀬底島から移住した人々で構成されているため、瀬底島と同一である<ref name="okinawa-sesokohogen">内間直仁「瀬底島の方言」、『沖縄大百科事典 中巻』(1983年)、p.568</ref>。 |
|||
== 交通 == |
|||
古くから瀬底島の沖合は荒れやすく、王朝時代から[[船舶]]の[[転覆]]・[[座礁]]事故が発生していた<ref name="kadokawa-sesoko-earlymodern"/>。それに対して瀬底島と本部半島に挟まれた[[海峡]]は穏やかであるため、外航船の避難港として利用されていた<ref name="rekishi-motobuport507chu">「本部港」、『日本歴史地名大系』(2002年)、p.507中段</ref>。この一帯の海域は『球陽』には「瀬底二仲(シークタナカ)」、明治時代の水路誌には「瀬底港」と記されている<ref name="rekishi-motobuport507chu"/>。[[1911年]](明治44年)に[[アメリカ]]の軍艦アルバニー号が来航、1944年(昭和19年)の[[十・十空襲]]では、停泊していた[[潜水母艦]]「[[迅鯨 (潜水母艦)|迅鯨]]」などの艦船が攻撃を受けている<ref name="rekishi-motobuport507chu"/>。 |
|||
沖縄本島と架橋する以前は[[渡し船]]が唯一の交通手段で、[[1946年]](昭和21年)から橋梁完成まで[[汽船]]が運航した<ref name="kadokawa-sesoko-modern"/>。当時の瀬底港と沖縄本島側の浜崎港(両港とも[[2006年]]に[[本部港]]に統合)<ref name="motobu-port">{{Cite web|和書|year=2009|month=10|url=http://www.pref.okinawa.jp/kowan/okinawa/H21kouwan/motobu.pdf|title=沖縄の港湾 本部港|format=PDF|publisher=沖縄県土木建築部港湾課|accessdate=2013-02-16}}</ref>を1日11便で結び<ref name="kadokawa-motobu891"/>、朝方と夕方には島内の学生が沖縄本島の学校へ通学するために利用していた<ref name="katou">「瀬底島」、加藤(2010年)、p.336</ref>。現在は近くの[[砂浜|ビーチ]]が観光資源として整備されている<ref name="motobu-port"/>。 |
|||
[[1972年]](昭和47年)から7年間、[[瀬底大橋]]の建設に関する調査が行われた<ref name="okinawa-sesoko-oohashi">末吉哲「瀬底大橋」、『沖縄大百科事典 中巻』(1983年)、p.568</ref>。[[1974年]](昭和49年)に島内の主要道路が[[沖縄県道172号瀬底健堅線]]に指定され、[[1979年]](昭和54年)に工事を着工した<ref name="kadokawa-sesoko-oohashi">「瀬底大橋」、『角川日本地名大辞典』(1991年)、p.423</ref>。[[1985年]](昭和60年)[[2月13日]]に完成し<ref name="shimatate">{{Cite web|和書|year=2002|month=10|url=http://www.shimatate.or.jp/20kouhou/simatatei/sima_23/sima23-17.pdf|title=復帰30年特集シリーズ 4.技術者たちの声|format=PDF|publisher=一般社団法人 沖縄しまたて協会|pages=68 - 69|accessdate=2013-02-16}}</ref>、全長762メートルで当時の沖縄県において最長の橋であった<ref name="kadokawa-sesoko-oohashi"/>。また翌月の[[3月31日]]に完成を祝して島内に開通[[記念碑]]が建立された<ref name="shimatate"/>。開通後は、島民の生活道路のみでなく、[[景勝地]]として観光資源の役割も果たしている<ref name="kadokawa-sesoko-oohashi"/><ref name="shimatate"/>。 |
|||
瀬底大橋の完成後の[[1986年]](昭和61年)、瀬底島に[[沖縄バス]]によるバス路線が導入された<ref name="sesoko-204">「交通・通信 第四節 バス路線の開通」、『瀬底誌』(1995年)、p.98</ref>。瀬底大橋を渡り本部町中心部や[[名護市]]と瀬底島を結ぶ路線バスが[[琉球バス交通]]と沖縄バスにより運行されているが、65番・66番がそれぞれ1本づつ経由、76番が瀬底を起終点として2往復運行<ref>{{PDFlink|[http://okinawabus.com/wp/wp-content/uploads/2014/02/65_timetbl.pdf 65番]}}・{{PDFlink|[http://okinawabus.com/wp/wp-content/uploads/2014/02/66_timetbl.pdf 66番本部半島一周線]}}のうち瀬底経由の便と、{{PDFlink|[http://okinawabus.com/wp/wp-content/uploads/2014/02/76_timetbl.pdf 76番瀬底線]}}が経由する。</ref>、他にやんばる急行バス四島線がヒルトン沖縄瀬底リゾートを起終点、本部町内、今帰仁村、[[屋我地島]]を経由して[[古宇利島]]へ3往復運行されている<ref>[https://yanbaru-expressbus.com/yontosen/ 四島線運行のご案内] - やんばる急行バス、2020年11月3日閲覧</ref>。 |
|||
<gallery widths="220px"> |
|||
ファイル:Sesoko bridge3.JPG|瀬底大橋 |
|||
ファイル:Sesoko bridge memorial.jpg|瀬底大橋開通記念碑 |
|||
ファイル:Jingei cenotaph 02.JPG|本部港の潜水母艦「迅鯨」鎮魂碑。後方に瀬底島を望む。 |
|||
</gallery> |
|||
== 当地を舞台にした作品 == |
|||
*『[[男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花]]』([[男はつらいよ]]シリーズ、1980年)<ref name="shimadas-1525"/> |
|||
*『[[風音 (映画)|風音]]』(2004年)<ref name="shimadas-1525"/> |
|||
*『[[子宮の記憶 ここにあなたがいる]]』(2007年)<ref name="shimadas-1525"/> |
|||
*『[[クソ野郎と美しき世界]]』(2018年)の[[ロケーション撮影|ロケ地]]<ref name="shimadas-1525"/> |
|||
*『えびすじゃっぷ SCOLER JAPAN』(2020年)の[[ロケ地]] |
|||
== 出典 == |
|||
{{Reflist|2}} |
|||
== 参考文献 == |
|||
* 沖縄県企画部地域・離島課編 『平成27年1月 離島関係資料』 [[沖縄県庁|沖縄県企画部地域・離島課]]、2015年。 |
|||
* 沖縄大百科事典刊行事務局編 『[[都道府県別百科事典|沖縄大百科事典]]』 [[沖縄タイムス|沖縄タイムス社]]、1983年。{{全国書誌番号|84009086}} |
|||
* 加藤庸二 『原色 日本島図鑑』 [[新星出版社]]、2010年。ISBN 978-4-405-07130-8 |
|||
* 加藤庸二 『原色ニッポン 《南の島》大図鑑 <small>小笠原から波照間まで 114の"楽園"へ</small>』 [[阪急コミュニケーションズ]]、2012年。ISBN 978-4-484-12217-5 |
|||
* 角川日本地名大辞典編纂委員会編 『[[角川日本地名大辞典]] 47.沖縄県』 [[角川書店]]、1991年。ISBN 4-04-001470-7 |
|||
* 河名俊男 『琉球列島の地形』 新星図書出版〈シリーズ沖縄の自然 3〉、1988年。{{全国書誌番号|88030779}} |
|||
* 公益財団法人日本離島センター編 『新版 日本の島ガイド SHIMADAS(シマダス)』 公益財団法人日本離島センター、2019年。ISBN 978-4-931230-38-5 |
|||
* 財団法人日本離島センター編 『日本の島ガイド SHIMADAS(シマダス) 第2版』 財団法人日本離島センター、2004年。ISBN 4-931230-22-9 |
|||
* 菅田正昭編著、財団法人日本離島センター監修 『日本の島事典』 [[三交社]]、1995年。ISBN 4-87919-554-5 |
|||
* 瀬底誌編集委員会編 『瀬底誌』 本部町字瀬底、1995年。{{全国書誌番号|96027437}} |
|||
* 仲田邦彦 『沖縄県の地理』 編集工房東洋企画、2009年。ISBN 978-4-938984-68-7 |
|||
* 中村和郎ほか 『日本の自然 地域編 8 南の島々』 [[岩波書店]]、1996年。ISBN 4-00-007938-7 |
|||
* 日外アソシエーツ編 『島嶼大事典』 [[日外アソシエーツ]]、1991年。ISBN 4-8169-1113-8 |
|||
* 平凡社地方資料センター編 『[[日本歴史地名大系]]第四八巻 沖縄県の地名』 [[平凡社]]、2002年。ISBN 4-582-49048-4 |
|||
* 本部町企画政策課編 『第4次本部町総合計画 <small>太陽と海と緑 - 観光文化のまち</small>』 本部町企画政策課、2016年。 |
|||
* 本部町企画商工観光課編集・発行 『広報もとぶ 2020年9月号』、2020年。 |
|||
== 関連項目 == |
|||
{{Commonscat|Sesoko Island}} |
|||
* [[日本の地理]] |
|||
* [[日本の島の一覧]] |
|||
* [[日本の離島架橋]] |
|||
* [[南西諸島]] |
|||
== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
||
* [https://www.town.motobu.okinawa.jp/doc/2023111000125/ 瀬底行政区] - 本部町役場 |
|||
* [http://parade.psend.com/aquattb/sezokTTB.htm バス時刻表](旭橋駅(那覇) → 瀬底公民館前(本部町)) |
|||
* [ |
* [https://www.motobu-ka.com/tourist_info/tourist_info-post-696/ 瀬底島] - 一般社団法人本部町観光協会 |
||
* [https://tbc.skr.u-ryukyu.ac.jp/sesoko/ 琉球大学熱帯生物圏研究センター瀬底研究施設] |
|||
* [http://www.motobu.or.jp/ 国頭郡本部町商工会] |
|||
* 瀬底島に関係する映像作品 - 何れも[http://cine-oki.jp/list/index1984.html 1984年にシネマ沖縄が制作] |
|||
* [http://town.motobu.okinawa.jp/ 本部町役場] |
|||
** [https://www.youtube.com/watch?v=Of5nkSS8C4Y くがに橋-瀬底大橋建設の記録-] - 瀬底大橋が開通するまでを島の人々の生活を取りいれつつ総合的に描く。[https://www.pref.okinawa.lg.jp/kensei/kochokoho/1014705/1023161.html 沖縄県YouTube内公式アカウント]より |
|||
** [https://www.youtube.com/watch?v=fSYRHQpm9wk 風車(かじまやー)のまわる島] - 架橋前の瀬底島の歴史と生活について子どもを中心に描く。本部町教育委員会と瀬底小中学校が制作に協力している。『[[科学映像館]]』より《→[https://www.kagakueizo.org/movie/community/6281/ 『科学映像館』内映像掲載ページ]》 |
|||
{{沖縄諸島}} |
{{沖縄諸島}} |
||
{{Normdaten}} |
|||
{{DEFAULTSORT:せそこしま}} |
{{DEFAULTSORT:せそこしま}} |
||
[[Category:沖縄諸島]] |
[[Category:沖縄諸島]] |
||
[[Category:本部町]] |
[[Category:本部町]] |
||
[[Category:カルスト地形]] |
2024年11月20日 (水) 07:59時点における最新版
瀬底島 | |
---|---|
ISSより撮影(2015年10月)。 | |
所在地 | 日本・沖縄県国頭郡本部町 |
所在海域 | 東シナ海 |
所属諸島 | 沖縄諸島 |
座標 | 北緯26度38分46秒 東経127度51分54秒 / 北緯26.64611度 東経127.86500度座標: 北緯26度38分46秒 東経127度51分54秒 / 北緯26.64611度 東経127.86500度 |
面積 | 2.99 km² |
海岸線長 | 7.3 km |
最高標高 | 76.0 m |
プロジェクト 地形 |
瀬底島(せそこじま)は、沖縄県国頭郡本部町に属する島で[1]、本部半島の西方沖約600メートルの東シナ海に位置する[2]。
地理
[編集]セイヨウナシの形をした台地状の低平な島で[2]、沖縄諸島に含まれる[3]。面積2.99平方キロメートル[4]、周囲7.3平方キロメートル[5]、標高76.0メートル[6]、2012年4月現在の人口は817人である[7]。
隆起サンゴ礁の島で、主に琉球石灰岩で構成され[3][8]、島中央部は今帰仁帯と呼ばれる三畳紀の基盤岩類からなる[2][9]。2段または3段の海岸段丘が見受けられ[8][10][11]、その段丘面にはカルスト地形の一つであるドリーネが、さらに島北部にはカレンフェルトも発達している[2]。北方からの強風に晒されるため、防風林が設置されている箇所もある[10]。島の周囲に砂浜が点在し、内陸部のほとんどが平坦な地形で、河川が存在しない[12]。集落は島の中央部にあり、その外周を農地が囲んでいる[13]。島南岸には琉球大学熱帯生物圏研究センターの研究施設が所在する[2]。
島内にリュウキュウマツ、フクギ、ガジュマル、アコウなどの植物が生育し[14]、島北部にアダンやソテツの群落が分布している[15]。また、ハブが多く生息している[16]。
行政区画
[編集]島全域は本部町の大字である「瀬底」に属し、瀬底島西約6キロメートルの海上にある水納島も同字に帰属する[17]。
瀬底島は元来今帰仁間切の所属であったが、1666年に今帰仁間切から新たに伊野波間切として分割された[18]。翌年1667年に本部間切に名称を変更、『琉球国由来記』にも本部間切瀬底村と記述されている[19]。琉球王国時代初頭は瀬底村の1村のみであったが、1736年に石嘉波(いしかわ)村が農地開拓のため本部半島から移り2村体制となり、1896年(明治29年)に両村とも国頭郡へ編入、1903年(明治36年)に石嘉波村は瀬底村に合併された[20]。そして1908年(明治41年)に本部村瀬底、1940年(昭和15年)に本部町へ町制施行した[19][21]。
歴史
[編集]方言で「瀬底」は「シーク」また「シスク」といい[6]、島民からは「シマー(島)」と呼ばれる[22]。『海東諸国紀』には「師子島」とあり、沖縄本島間の海域は「世々九浦」と記載されている[6]。『ペリー提督沖縄訪問記』[2]と『ペリー艦隊日本遠征記』[6]には「スコ島 (Suco Island)」と記され、瀬底島内の集落名は「シスコ (Sisuco)」とある[6]。瀬底島は『琉球国高究帳』に記載されて以降、この地名は一般に広まったとされる[2]。
先史から琉球王朝まで
[編集]先史時代の貝塚やグスク時代の遺構が発見され[23]、瀬底グスク(ウチグスク)では、青磁や染付けされた陶磁器が出土している[24]。伝承によると、ウチグスク周辺に生活していた7世帯が瀬底島を開闢したとされ、1469年に第一尚氏王統最後の尚徳王が死去すると、同系の今帰仁按司の一人の子供がウチグスクに住み渡り、瀬底島に村落を形成したといわれている[25]。また、沖縄本島中部の具志川や石川(うるま市の一地域)[23]からの移住者が、集落を築いたとも伝えられている[25]。
『球陽』(1394年条)には、瀬底島の島民によって放たれた家畜が農作物を食い荒らしたと、沖縄本島の健堅村の住民が非難したが、島民はこの苦情を聞き入れなかったという[6]。『球陽』(1736年条)には、本部間切の村々の農地が狭く、木を焼き払って田畑を開墾したという[26]。そこで、土地に余裕のある瀬底島に、本島から海を渡って石嘉波村が移転した[26]。その際、村人によって石嘉波神社が作られた[27]。
島内には水田はなく、また麻疹・天然痘などの疫病が度々発生し、1826年に飢饉による困窮のため、瀬底村は金銭を借り入れている[19]。島中央部に位置する土帝君の祠は瀬底の親雲上である上間家の一人が1712年に清へ渡航した際、持ち帰った木像を祀ったのが始まりとされる[19]。代々上間家は本部間切の地頭代を務め、1772年に沖縄本島全域に疫病が流行した際、間切全土の復興支援を行った[28]。特に5代目は貧民救援に尽力した功績が認められ、1831年に王府から掛軸と上布を与えられた[29]。
明治以降
[編集]1890年(明治23年)に島内に「瀬底簡易小学校」が設立、その後に本部尋常小学校の分校となり、1893年(明治26年)に「瀬底尋常小学校」へ分離された[30]。1900年(明治33年)、後の大正天皇の成婚記念として、校舎を背景に生徒と職員を撮影した写真が献上された[31]。1909年(明治42年)、青年の社会教育を進める「瀬底夜学会」が結成され[32]、また「毛遊び」を取り締まるべく、瀬底小学校の職員らが指導にあたり、島内の風俗改良に努めた[33]。1921年(大正10年)に高等科の新設に伴い、尋常小学校から「瀬底尋常高等小学校」へ改称され、高等科のある沖縄本島へ渡らずに通学できるようになった[34]。
1944年(昭和19年)10月10日の十・十空襲では、瀬底島と沖縄本島の崎本部との海域に停泊していた潜水母艦「迅鯨」が、アメリカ軍の攻撃により沈没した[35]。この空襲による島内の被害として、民家と学校が焼失、島民1名が死亡した[36]。翌年の1945年(昭和20年)4月22日、アメリカ軍は瀬底島に上陸、沖縄戦における島内出身の軍人・軍属72名と一般住民102名が犠牲となった[37]。
戦時中、本部町民は久志、辺野古の収容所へ移動させられ、当地で終戦を迎えたが、瀬底の住民は収容されなかった[38]。これは島の主要な人物が、学校再開を条件にアメリカ軍と交渉し、島民は移動を免れたとされる[39]。1953年(昭和28年)、島内に製糖工場が建設されたが、1960年(昭和35年)に大型の工場が今帰仁村に設立され、島内の工場は買収され、サトウキビの生産のみとなった[40]。
瀬底島に井戸は存在せず、昔から天水に依存し、雨水を蓄える貯水池が御嶽に残存している[41]。旱魃で水不足に陥ると、沖縄本島から生活用水を輸送していたが、1964年(昭和39年)にボーリング機材を用いて地下水を汲み上げ、幾分水不足は解消された[41]。そして1982年(昭和57年)に沖縄本島から海底送水が実施された[17]。1973年(昭和48年)に電話回線が開設[41]、また電力も対岸の本部半島から海底ケーブルで送電されている[8]。1985年(昭和60年)、瀬底島と本島間を結ぶ瀬底大橋が完成[42]、1992年(平成4年)に瀬底区公民館が竣工した[43]。2012年(平成24年)、瀬底中学校の閉校式が行われ[44]、本部中学校へ統合された[45]。
産業
[編集]主な産業は農業で、サトウキビ、スイカ、菊が主要な産物で[3][8][23][46]、花卉類は通常の出荷時期を変えて生産を行っている[47]。過去にサツマイモや麦、豆類が栽培され[41]、大正時代には鰹節の生産が行われていた[48]。昭和初期に石灰質岩石のトラバーチンを産出し[8]、国会議事堂の建材にも使用された[49]。
「ムンジュル笠」と呼ばれる麦わら(方言で「ムンジュル」)を編んで作った菅笠状の日笠が瀬底島の工芸品で、沖縄本島北部では「シーク笠(瀬底笠)」ともいわれる[50]。明治時代から1960年代まで農家の副業として生産されたが、その後に多種多様な帽子が大量に製造され[41]、ムンジュル笠の生産人口は2020年(令和2年)現在、1人のみとなった[51]。
島西部海岸には、全長約800メートルの「瀬底ビーチ(クンリ浜)」があり、瀬底大橋の橋詰付近に「アンチ浜」と呼ばれる砂浜が広がる[52]。瀬底ビーチ隣接地には、「都市デザインシステム」(現:UDS)が約360室の高級リゾートホテルとして300億円を掛けて約10万坪の敷地の開発を進め、100%出資会社「瀬底ビーチリゾート」として運営する計画があった。しかし、2008年の金融危機による影響で資金繰りが悪化し両社とも民事再生法を申請し、倒産[53][54]。施設は6割完成時点で建設中止となり放置されていた。2015年12月、森トラストが当時土地を所有していた「合同会社瀬底ビーチプロジェクト」(同社は2017年3月21日に会社清算[55])から土地取得に関する売買契約を締結。2018年より再開発(建物の再構築等)を行なった上で、2020年7月1日に約300室規模のホテル「ヒルトン沖縄瀬底リゾート」を開業。2021年には、132室の会員制タイムシェアリゾート、「ヒルトン・グランド・バケーションズ」(アジア初)の2ホテル体制で開業した[56][57]。
文化
[編集]瀬底島中央部に、古来より中国における農業の神様として崇拝された土帝君の祠(瀬底土帝君)があり、当地で毎年旧暦2月2日に豊年祭が行われる[19]。またこの祭祀施設は2000年に国の重要文化財に指定されている[29]。周囲は石灰岩の石積みで囲まれ、その中に赤瓦屋根の祠がある[29]。戦時中に土帝君像は焼失し、戦後新たに作られた[52]。
昭和初期まで氏神に奉げる村踊りと綱引きは毎年交互に行われたが、1935年(昭和10年)から4年ごとに1回交互に開催するようになった[21]。村踊りは旧暦8月中旬の4日間、綱引きは11日に行われ、帰省者や近郊の沖縄本島から訪れる観客で賑わう[21]。島南部には「参詣毛(サンケーモー)」と呼ばれる小高い丘があり、そこから毎年旧暦5月15日に酒と肴を用意し祖先の故郷(本部や石川など)を訪れ、参拝する「グングヮチウマチー(5月祭り)」を行う[2][3][8][23]。獅子舞踊りや旧暦7月に伝統芸能「シヌグ」も催される[2][8]。シヌグは作物の収穫終了後と次の農作へ移行する間に開催する祭事で、沖縄本島北部や奄美群島の一部でも行われる[58]。毎年5月と11月に「ピージャーオーラサイ」もしくは「ピージャーオーラセー」といわれるヤギどうしで闘う伝統行事が行われる[7]。瀬底島の島民らが一体となって、島内行事に取り組んでいる[59]。
瀬底島で使用される方言は沖縄北部方言に含まれるが、この方言の特徴である有気音と無気音の区別はない。それ以外の発音は他の琉球方言と比較して際立った特徴は見受けられず、また文法もほぼ変わらない。水納島は瀬底島から移住した人々で構成されているため、瀬底島と同一である[60]。
交通
[編集]古くから瀬底島の沖合は荒れやすく、王朝時代から船舶の転覆・座礁事故が発生していた[19]。それに対して瀬底島と本部半島に挟まれた海峡は穏やかであるため、外航船の避難港として利用されていた[61]。この一帯の海域は『球陽』には「瀬底二仲(シークタナカ)」、明治時代の水路誌には「瀬底港」と記されている[61]。1911年(明治44年)にアメリカの軍艦アルバニー号が来航、1944年(昭和19年)の十・十空襲では、停泊していた潜水母艦「迅鯨」などの艦船が攻撃を受けている[61]。
沖縄本島と架橋する以前は渡し船が唯一の交通手段で、1946年(昭和21年)から橋梁完成まで汽船が運航した[21]。当時の瀬底港と沖縄本島側の浜崎港(両港とも2006年に本部港に統合)[62]を1日11便で結び[17]、朝方と夕方には島内の学生が沖縄本島の学校へ通学するために利用していた[63]。現在は近くのビーチが観光資源として整備されている[62]。
1972年(昭和47年)から7年間、瀬底大橋の建設に関する調査が行われた[64]。1974年(昭和49年)に島内の主要道路が沖縄県道172号瀬底健堅線に指定され、1979年(昭和54年)に工事を着工した[65]。1985年(昭和60年)2月13日に完成し[66]、全長762メートルで当時の沖縄県において最長の橋であった[65]。また翌月の3月31日に完成を祝して島内に開通記念碑が建立された[66]。開通後は、島民の生活道路のみでなく、景勝地として観光資源の役割も果たしている[65][66]。
瀬底大橋の完成後の1986年(昭和61年)、瀬底島に沖縄バスによるバス路線が導入された[67]。瀬底大橋を渡り本部町中心部や名護市と瀬底島を結ぶ路線バスが琉球バス交通と沖縄バスにより運行されているが、65番・66番がそれぞれ1本づつ経由、76番が瀬底を起終点として2往復運行[68]、他にやんばる急行バス四島線がヒルトン沖縄瀬底リゾートを起終点、本部町内、今帰仁村、屋我地島を経由して古宇利島へ3往復運行されている[69]。
-
瀬底大橋
-
瀬底大橋開通記念碑
-
本部港の潜水母艦「迅鯨」鎮魂碑。後方に瀬底島を望む。
当地を舞台にした作品
[編集]- 『男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花』(男はつらいよシリーズ、1980年)[52]
- 『風音』(2004年)[52]
- 『子宮の記憶 ここにあなたがいる』(2007年)[52]
- 『クソ野郎と美しき世界』(2018年)のロケ地[52]
- 『えびすじゃっぷ SCOLER JAPAN』(2020年)のロケ地
出典
[編集]- ^ 「2.島しょ」、『平成27年1月 離島関係資料』(2015年)、p.7
- ^ a b c d e f g h i 「瀬底島」、『角川日本地名大辞典』(1991年)、p.423
- ^ a b c d 「瀬底島」、『島嶼大事典』(1991年)、pp.286 - 287
- ^ “令和2年全国都道府県市区町村別面積調(10月1日時点)” (PDF). 国土地理院. p. 92 (2020年10月1日). 2020年12月29日閲覧。
- ^ 「瀬底島」、『SHIMADAS 第2版』(2004年)、p.1185
- ^ a b c d e f 「瀬底島・瀬底村」、『日本歴史地名大系』(2002年)p.508上段
- ^ a b 「瀬底島」、加藤(2012年)、p.139
- ^ a b c d e f g 中山満「瀬底島」、『沖縄大百科事典 中巻』(1983年)、p.568
- ^ 中村(1996年)、p.101
- ^ a b 仲田(2009年)、p.166
- ^ 河名(1988年)、p.69
- ^ 「瀬底島の地形」、『瀬底誌』(1995年)、p.1
- ^ 「地区別 現状と課題 第6章 南部地区」、本部町企画政策課編(2016年)、p.120
- ^ 「植物」、『瀬底誌』(1995年)、p.4
- ^ 「第1章 本部町の概況 動植物・天然記念物」、本部町企画政策課編(2016年)、p.11
- ^ 「動物」、『瀬底誌』(1995年)、p.2
- ^ a b c 「瀬底(本部町〔現行行政地名〕)」、『角川日本地名大辞典』(1991年)、p.891
- ^ 『角川日本地名大辞典』「本部町 〔沿革〕 本部間切の村々」(1991年)p.886
- ^ a b c d e f 「瀬底村〔近世〕」、『角川日本地名大辞典』(1991年)、p.422
- ^ 「石嘉波村」、『角川日本地名大辞典』(1991年)、p.422
- ^ a b c d 「瀬底村〔近代〕」、『角川日本地名大辞典』(1991年)、p.422
- ^ 仲田善明「地名の由来」、『瀬底誌』(1995年)、p.8
- ^ a b c d 「瀬底島」、『日本の島事典』(1995年)、pp.192 - 193
- ^ 嵩元政秀「瀬底グスク」、『沖縄大百科事典 中巻』(1983年)、p.568
- ^ a b 「瀬底」、『角川日本地名大辞典』(1991年)、p.422
- ^ a b 「石嘉波村」、『日本歴史地名大系』(2002年)、p.508下段
- ^ “瀬底島GUIDE MAP”. www.town.motobu.okinawa.jp. 2023年9月8日閲覧。
- ^ 「土帝君と上間家(本部町 〔沿革〕)」、『角川日本地名大辞典』(1991年)、p.887
- ^ a b c 「瀬底土帝君祠」、『日本歴史地名大系』(2002年)、p.508下段
- ^ 「島の歴史 第六節 近代(県政時代の瀬底)」、『瀬底誌』(1995年)、pp.70 - 71
- ^ 「島の歴史 第六節 近代(県政時代の瀬底)」、『瀬底誌』(1995年)、p.72
- ^ 「教育 第二節 社会教育」、『瀬底誌』(1995年)、pp.488 - 489
- ^ 「島の歴史 第六節 近代(県政時代の瀬底)」、『瀬底誌』(1995年)、p.78
- ^ 「島の歴史 第六節 近代(県政時代の瀬底)」、『瀬底誌』(1995年)、p.73
- ^ 「沖縄戦と瀬底島」、『瀬底誌』(1995年)、p.520
- ^ 「島の歴史 第六節 現代」、『瀬底誌』(1995年)、p.85
- ^ 「島の歴史 第六節 近代(県政時代の瀬底)」、『瀬底誌』(1995年)、pp.88 - 89
- ^ 「第1章 本部町の概況 沿革」、本部町企画政策課編(2016年)、p.6
- ^ 「教育 戦後の教育」、『瀬底誌』(1995年)、p.458
- ^ 「島の歴史 第六節 現代」、『瀬底誌』(1995年)、p.94
- ^ a b c d e 「瀬底村〔近代〕」、『角川日本地名大辞典』(1991年)、p.423
- ^ 「島の歴史 第六節 現代」、『瀬底誌』(1995年)、p.97
- ^ 「島の歴史 第六節 現代」、『瀬底誌』(1995年)、p.98
- ^ 「第1章 本部町の概況 沿革」、本部町企画政策課編(2016年)、p.7
- ^ 「瀬底島」、『新版 SHIMADAS』(2019年)、p.1526
- ^ 具志堅興作「瀬底」、『沖縄大百科事典 中巻』(1983年)、p.568
- ^ 「瀬底島」、加藤(2012年)、p.141
- ^ 「産業・経済 第二節 戦前の産業」、『瀬底誌』(1995年)、p.130
- ^ 「産業・経済 第二節 戦前の産業」、『瀬底誌』(1995年)、p.131
- ^ 上江洲均「ムンジュル笠」、『沖縄大百科事典 下巻』(1983年)、p.645
- ^ 『広報もとぶ 2020年9月号』(2020年)、p.8
- ^ a b c d e f 「瀬底島」、『新版 SHIMADAS』(2019年)、p.1525
- ^ “「都市デザインシステム」が民事再生法申請-不動産倒産続く”. シブヤ経済新聞. (2008年9月1日) 2017年11月13日閲覧。
- ^ 倒産速報 (株)都市デザインシステムほか1社 - 東京商工リサーチ
- ^ 合同会社瀬底ビーチプロジェクトの情報 法人番号公表サイト - 国税庁
- ^ “会員制「タイムシェア」も 沖縄・瀬底島にヒルトンの2ホテル 2020・21年に順次開業”. 沖縄タイムス. (2017年11月14日) 2017年11月14日閲覧。
- ^ 森トラスト、ヒルトン・グランド・バケーションズ、ヒルトン、沖縄県瀬底島に建設する宿泊施設の契約の締結を発表 (PDF) - 森トラスト
- ^ 源武雄「シヌグ」、『沖縄大百科事典 中巻』(1983年)、p.317
- ^ 「地区別 現状と課題 第6章 南部地区」、本部町企画政策課編(2016年)、p.121
- ^ 内間直仁「瀬底島の方言」、『沖縄大百科事典 中巻』(1983年)、p.568
- ^ a b c 「本部港」、『日本歴史地名大系』(2002年)、p.507中段
- ^ a b “沖縄の港湾 本部港” (PDF). 沖縄県土木建築部港湾課 (2009年10月). 2013年2月16日閲覧。
- ^ 「瀬底島」、加藤(2010年)、p.336
- ^ 末吉哲「瀬底大橋」、『沖縄大百科事典 中巻』(1983年)、p.568
- ^ a b c 「瀬底大橋」、『角川日本地名大辞典』(1991年)、p.423
- ^ a b c “復帰30年特集シリーズ 4.技術者たちの声” (PDF). 一般社団法人 沖縄しまたて協会. pp. 68 - 69 (2002年10月). 2013年2月16日閲覧。
- ^ 「交通・通信 第四節 バス路線の開通」、『瀬底誌』(1995年)、p.98
- ^ 65番 (PDF) ・66番本部半島一周線 (PDF) のうち瀬底経由の便と、76番瀬底線 (PDF) が経由する。
- ^ 四島線運行のご案内 - やんばる急行バス、2020年11月3日閲覧
参考文献
[編集]- 沖縄県企画部地域・離島課編 『平成27年1月 離島関係資料』 沖縄県企画部地域・離島課、2015年。
- 沖縄大百科事典刊行事務局編 『沖縄大百科事典』 沖縄タイムス社、1983年。全国書誌番号:84009086
- 加藤庸二 『原色 日本島図鑑』 新星出版社、2010年。ISBN 978-4-405-07130-8
- 加藤庸二 『原色ニッポン 《南の島》大図鑑 小笠原から波照間まで 114の"楽園"へ』 阪急コミュニケーションズ、2012年。ISBN 978-4-484-12217-5
- 角川日本地名大辞典編纂委員会編 『角川日本地名大辞典 47.沖縄県』 角川書店、1991年。ISBN 4-04-001470-7
- 河名俊男 『琉球列島の地形』 新星図書出版〈シリーズ沖縄の自然 3〉、1988年。全国書誌番号:88030779
- 公益財団法人日本離島センター編 『新版 日本の島ガイド SHIMADAS(シマダス)』 公益財団法人日本離島センター、2019年。ISBN 978-4-931230-38-5
- 財団法人日本離島センター編 『日本の島ガイド SHIMADAS(シマダス) 第2版』 財団法人日本離島センター、2004年。ISBN 4-931230-22-9
- 菅田正昭編著、財団法人日本離島センター監修 『日本の島事典』 三交社、1995年。ISBN 4-87919-554-5
- 瀬底誌編集委員会編 『瀬底誌』 本部町字瀬底、1995年。全国書誌番号:96027437
- 仲田邦彦 『沖縄県の地理』 編集工房東洋企画、2009年。ISBN 978-4-938984-68-7
- 中村和郎ほか 『日本の自然 地域編 8 南の島々』 岩波書店、1996年。ISBN 4-00-007938-7
- 日外アソシエーツ編 『島嶼大事典』 日外アソシエーツ、1991年。ISBN 4-8169-1113-8
- 平凡社地方資料センター編 『日本歴史地名大系第四八巻 沖縄県の地名』 平凡社、2002年。ISBN 4-582-49048-4
- 本部町企画政策課編 『第4次本部町総合計画 太陽と海と緑 - 観光文化のまち』 本部町企画政策課、2016年。
- 本部町企画商工観光課編集・発行 『広報もとぶ 2020年9月号』、2020年。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 瀬底行政区 - 本部町役場
- 瀬底島 - 一般社団法人本部町観光協会
- 琉球大学熱帯生物圏研究センター瀬底研究施設
- 瀬底島に関係する映像作品 - 何れも1984年にシネマ沖縄が制作
- くがに橋-瀬底大橋建設の記録- - 瀬底大橋が開通するまでを島の人々の生活を取りいれつつ総合的に描く。沖縄県YouTube内公式アカウントより
- 風車(かじまやー)のまわる島 - 架橋前の瀬底島の歴史と生活について子どもを中心に描く。本部町教育委員会と瀬底小中学校が制作に協力している。『科学映像館』より《→『科学映像館』内映像掲載ページ》