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この問題の解決に、渡邉は西武オーナー・堤義明、オリックスオーナー・[[宮内義彦]]らとプロ野球1リーグ構想を画策したものの、[[ライブドア]]社長(当時)の[[堀江貴文]]が近鉄の買収を名乗り出ている状況下、世論の反発を招くこととなった。<ref>堀江は[[仙台ライブドアフェニックス]]設立構想を持っていたが, この構想は[[楽天]]のプロ野球チーム・[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]の影響で立ち消えとなっている</ref>。 |
この問題の解決に、渡邉は西武オーナー・堤義明、オリックスオーナー・[[宮内義彦]]らとプロ野球1リーグ構想を画策したものの、[[ライブドア]]社長(当時)の[[堀江貴文]]が近鉄の買収を名乗り出ている状況下、世論の反発を招くこととなった。<ref>堀江は[[仙台ライブドアフェニックス]]設立構想を持っていたが, この構想は[[楽天]]のプロ野球チーム・[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]の影響で立ち消えとなっている</ref>。 |
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2リーグ12球団の維持を主張していた[[古田敦也]][[日本プロ野球選手会]]会長([[ヤクルトスワローズ]])による経営者側との会談の提案を拒否し、この件に関するインタビューの中で「無礼な事を言うな。分をわきまえなきゃいかんよ。たかが選手の分際で」と発言 |
2リーグ12球団の維持を主張していた[[古田敦也]][[日本プロ野球選手会]]会長([[ヤクルトスワローズ]])による経営者側との会談の提案を拒否し、この件に関するインタビューの中で「無礼な事を言うな。分をわきまえなきゃいかんよ。'''たかが選手の分際で'''」と発言<ref>[http://www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20110317/bbl1103171224002-n1.htm 渡辺会長×選手会全面戦争再燃、25日強制開幕でスト必至]zakzak 2011年3月17日</ref>。この発言によって世論の反発を招き、選手やファンの怒りを買った。このことから「'''球界の独裁者'''」とも通称されている。このスポーツ記者([[西村欣也]])の質問とは、「明日、選手会と代表レベルの意見交換会があるんですけれども、古田選手会長が代表レベルだと話にならないんで、できれば、オーナー陣といずれ会いたいと(言っている)」というもので、のちに古田自身が全面否定した。 |
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8月13日、プロ野球再編騒動の最中に、明治大学の[[一場靖弘]]をめぐる[[一場靖弘を巡る裏金事件|裏金事件]]が発覚。渡邉は土井誠球団社長、[[三山秀昭]]球団代表とともに責任をとって辞任、[[滝鼻卓雄]]読売新聞東京本社社長にオーナーの座を譲った。 |
8月13日、プロ野球再編騒動の最中に、明治大学の[[一場靖弘]]をめぐる[[一場靖弘を巡る裏金事件|裏金事件]]が発覚。渡邉は土井誠球団社長、[[三山秀昭]]球団代表とともに責任をとって辞任、[[滝鼻卓雄]]読売新聞東京本社社長にオーナーの座を譲った。 |
2011年11月12日 (土) 03:11時点における版
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わたなべつねお 渡邉恒雄 | |
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生誕 |
1926年5月30日(98歳) 東京府 |
出身校 | 東京帝国大学文学部哲学科 |
職業 | 読売新聞グループ本社代表取締役会長 |
渡邉 恒雄(わたなべ つねお、1926年(大正15年)5月30日 - )は、日本の実業家。読売新聞グループ本社代表取締役会長・主筆。読売巨人軍会長。「ナベツネ」の通称で知られる。
生い立ち~学生時代
生い立ち
1934年(昭和9年)、恒雄が8歳のとき、不動貯金銀行(旧協和銀行の前身・現りそな銀行)に勤めていた父・平吉が東京・杉並区の自宅玄関で突然吐血、胃がんで一週間後に死去した[1]。父が残した十一軒の貸家からの家賃収入で当面の生活費には困らなかったが、稼ぎ手をなくした一家には将来の生活の不安が重くのしかかった[2]。
母・花はいつもこう言って恒雄を叱咤したという。「お前は総領だ。総領というのは跡継ぎだ。だからお前は勉強して偉くならないかん。成績も全甲(全学科の成績が優秀であること)でないと、援助してくれている目黒の伯父さん[3]に報告できない[4]。」
学生時代
第一志望の府立高、第二志望の武蔵高、第三志望の府立一中と、つづけざまに受験に失敗し、ようやく第四志望の開成中にビリに近い成績ですべり込んだ。同い年のいとこが府立一中に合格したこともあって母・花は「あんなボロ中学に入って情けない」と親類の前でオイオイ泣いたという[5]。
1943年(昭和18年)4月、開成4年修了で東京高等学校に入学。
読売新聞社での歩み
政治記者時代
東京大学文学部哲学科卒業後は読売新聞社に採用試験次席で入社(その年の採用試験首席は、後に作家となる三好徹)。「朝日新聞社に入社したかったが採用試験で不採用になった」と週刊朝日のインタビューで答えているが、本心なのかリップサービスなのかは不明。
『週刊読売』(後の『読売ウイークリー』)記者を経て、政治部記者となる。『週刊読売』の記者時代、鳩山一郎が脳出血で倒れたときに、鳩山邸(現鳩山会館)で張り込みをしていた。あわただしい気配がしたため、屋敷の中をのぞいたが、当時秘書だった石橋義夫が大きな犬を連れてきて、追い出された。その後、屋敷を出てきた大野伴睦に「誰が倒れたのですか」と質問したが無視され、次に現れた政治評論家の岩淵辰雄には、「(自分は)鳩山家の者ではない」と言われた。結局、鳩山が倒れた確証を得られないまま、デスクからの「死んだのでないのなら放っておけばいい。そろそろ帰ってこい」と指示された[6]。警視庁出身の社長正力松太郎の眼鏡にかなって、自民党党人派の大物大野伴睦の番記者になった。以後保守政界と強い繋がりを持つようになり、大野の事務所を行き交う札束攻勢を目の当たりにする[7]。
渡邉に対する大野の信頼は篤く、渡邉は大野の依頼を受けて自民党総裁や衆議院議長ポスト獲得交渉の代行、自民党政治家のゴーストライターとして週刊誌の論説の執筆まで引き受ける[8]。児玉誉士夫と懇意になり、児玉の指令のもとに九頭竜ダム建設の補償問題や日韓国交正常化交渉の場でも暗躍したとされている[9]。
また鳩山一郎の次の自民党総裁・総理大臣を狙っていた正力松太郎が、中曽根康弘を参謀格に自分の派閥を結成して総裁選出馬準備を進めていた際、正力から中曽根との連絡役を命じられて付き合いが始まり[10]、大野の死後は中曽根と親密になった
中曽根とは1957年の自民党総裁選の最中に出会った。渡邉は、初入閣を望む中曽根と副総裁の大野伴睦との仲を取り持った。大野は造船疑獄の際に、自らを追及した中曽根を快く思っていなかったが、渡邉の執り成しによって態度を変え、入閣を確約した。1982年の総裁選の時には、渡邉は中曽根擁立のため、田中角栄の秘書早坂茂三に引き合わせ働きかけた[11]。1966年の国有地払い下げ問題でも大きな役割を果たしている[12]。
なお、政治記者としてよりは、若いころからジャーナリストとして多くの著作で知られる存在だったが、魚住昭は「戦後に現れた組織ジャーナリストの中でも、彼はテクニックにおいては最高の人でしょう」と評している[13]。
新聞社幹部として
1977年、編集局総務(局長待遇)に就任、同年2月18日付の『読売新聞』社説は百里基地訴訟一審判決の違憲立法審査権の存在意義を説いていたが、1981年7月8日付紙面では一転し、二審判決の統治行為論を支持して裁判所の政治介入を制限する主張に変わった。読売新聞が渡邉の主張を取り入れて、中道から保守に傾斜していく過程の一エピソードである。同年、取締役論説委員長に就任した。1984年からは元旦の社説を執筆するようになった。1991年に読売新聞社社長、横綱審議委員、1999年には日本新聞協会会長に就任した。
世論の大多数が憲法改正そのものを否定していた1990年代初頭より読売新聞は憲法第9条の改正を含む改憲キャンペーンを展開し、それまで半ばタブー視されていた改憲論議の口火を切る。その後、世論調査では憲法改正自体への賛成が反対を上回ることが多々見られるようになった[14]。
1996年6月5日の衆議院の規制緩和に関する特別委員会(議題は「規制緩和に関する件」(著作物の再販制度:新聞社・出版社が、取引先である卸売業者や小売店に対して卸売価格や小売価格を指示してこれを維持させていること))に新聞協会を代表して参考人として出席し、新聞には文化的な価値、公共性があること、新聞ほど競争激烈な商品はない、価格も硬直的でない、再販により安売り競争で弱い所がつぶれてゆくなどの理由から、新聞の再販を認めるべきではないとの見解を示した[15]。その際に適用除外廃止の意見を伝え実質的に意味のある報道をなぜしないか?との質問に対して、「凶悪な人達の議論を大々的に報道をする義務を感じない。オウム真理教の教祖の理論を長々と書かないのと同じだ」と述べた。
2005年、読売新聞グループ本社の会長に就任。2007年、第54回カンヌ国際広告祭で世界のメディア業界の中から傑出した人物を讃える「メディアパーソン・オブ・ザ・イヤー」を受賞。朝夕刊で1400万部の世界一の発行部数である読売新聞ほか、テレビ局、出版社、プロ野球球団など広告媒体としても大きな影響力を持つグループを率いていることが評価された。
保守的な言動で知られているが、首相の靖国参拝や歴史修正主義の動きには反対の立場を取っている。軍隊生活で上官に暴行を受けた経験などから日本の軍国主義に対し嫌悪感を抱いているとされる。特攻については「人間を物体としての兵器と化した軍部当事者の非人間性は、日本軍の名誉ではなく汚辱だと思わざるを得ない」と述べている[16]。
盟友の中曽根を強引に引退させた[17]小泉純一郎政権に対しては極めて批判的であった。小泉首相の靖国神社参拝に際し、「もしもメルケル(ドイツ首相)がヒトラーの墓参りをしたらどうなるのか」「(靖国神社の)遊就館は非常に有害な場所であり、あれは閉鎖しなければならない。産経新聞を除いて日本のメディアは戦争の責任と靖国神社等の問題について重要な共通認識をもっている」「日本の首相の靖国神社参拝は、私が絶対に我慢できないことである。今後誰が首相となるかを問わず、いずれも靖国神社を参拝しないことを約束しなければならず、これは最も重要な原則である。…もしその他の人が首相になるなら、私もその人が靖国神社を参拝しないと約束するよう求めなければならない。さもなければ、私は発行部数1000数万部の『読売新聞』の力でそれを倒す」と答えている[18]。
自民党員および元自民党員ら保守系議員に多大な影響力を持ち、中曽根康弘と共に2007年の自民党と民主党の大連立構想の黒幕であったと報じられている。小沢一郎は朝日新聞の2007年11月16日付のインタビューで、渡邉を「大連立構想の張本人」と答えている。
2007年10月26日付日本新聞協会会報のインタビュー記事で「社論と反対の社説を執筆した論説委員に執筆を禁じた」と述べ、虚偽の発言で名誉を毀損された(社論に反する社説を書いた事実は一切ない)として、2010年11月25日に読売新聞の前澤猛・元論説委員(“執筆を禁じ”られた当人)から提訴されている[19][20][21]。
読売ジャイアンツにおける活動
渡邉が巨人の経営に参加するようになったのは、読売新聞社副社長時代の1989年に球団内で組織された最高経営会議のメンバーに選ばれてからである(他のメンバーは務臺光雄(同社名誉会長)・小林與三次(同社社長)・正力亨(巨人軍オーナー)‐)。1991年に務臺が死去した後しばらくは沈黙していた渡邉だったが、務臺の一周忌が済むとその発言が徐々に球界に強い影響力を及ぼすようになり、1996年に正力を名誉オーナーに祭り上げる形で自身がオーナーに就任。「野球はやったこともなく興味もなかった」と公言するも、その後野球界をすばやく学習し、これまでの巨人軍の人気、資金、読売新聞と日本テレビ放送網という巨大メディアを背景に、影響力のあるチームオーナーとして球界に君臨、コミッショナーの人事も決める男と言われた。
巨人軍オーナーとして
日本プロ野球選手会は、米メジャーリーグにならってドラフト制度を改革し、同時にFA制度を導入することを希望していた。その選手会の要望に端を発したFA制度導入論に勢いを得て、資金力のある球団が有利になるドラフト制度逆指名システムやフリーエージェント(FA)制度などの導入に際して、渡邉はオーナー会議の席上で、(大新聞・系列スポーツ紙は価格カルテルや再販制度、記者クラブ等で自由競争をしていないことが問題視されているにもかかわらず)「自由主義社会なら自由競争するのが当たり前」と言い放ち、「反対するなら脱退して新リーグを結成することも辞さない」などと発言をして、意見を異にする他球団の同意を強く求め、同制度を実現。現実に導入されたシステムでは「戦力の均衡」という理念が大きく損なわれていた。ドラフト制度が改革されて逆指名システムが導入され、大学生と社会人は行きたい球団を指名できることになり、資金力のある球団が有力な新人選手と契約できることになった。また同時にFA制度が導入されて、一定期間を経た選手の移籍契約が自由になったため、資金力のある球団が有利になることになってしまった。(メジャー・リーグは外国人制限もなく、ドラフト制度は、前年度成績の低かった球団の順に、新人選手を採用できる完全ウェーバー方式を採用しており、戦力を均衡するという理念によって成り立っている。またドラフトで選手の球団選択が制限されていることの見返りに、FAによって、入団後一定の期間を得た選手が他球団への移籍を自分で決めることができ、選手の選択の自由も保障されている)。
この制度の導入後、巨人はパ・リーグを中心とする他球団から多くの有力な選手を高い報酬で次々と獲得した。この逆指名システムやFA制度によって選手の契約金、裏金、年俸の相場が桁外れに暴騰した。
スター・システムの考え方に基づきチームを強化するため、資金力を背景にフリーエージェント制度を利用して他チームの有名選手を集めたが、監督には他球団で功績を挙げた優秀な人材を得ようとはせず、長嶋茂雄のような巨人生え抜きのスターにこだわった。長嶋の希望により清原和博や江藤智、広澤克実、石井浩郎ら各球団の4番バッターや工藤公康らエースを集めた。しかし峠を越えたスター選手は巨額の複数年契約を結んでも、額面通りの活躍には程遠い成績に終わることが多かった(在任8年間での優勝回数は2回。優勝確率2割5分)。また、他チームから有名選手を引き抜いたために他球団のファンなどからその経営姿勢を強く批判されたり、プロ野球全体の戦力バランスを損ねている、という批判もなされた。
2003年終盤にリーグ優勝の望みが絶たれ、球団は翌年のコーチ編成や他球団からのエース級の大型補強を嫌う原辰徳監督と対立、原が監督を辞任して堀内恒夫の監督就任で事態が収拾したが、これについて渡邉は「読売グループ内の人事異動だ」と発言した。
2005年、堀内が成績不振で辞任することになり、星野仙一の監督就任をもくろんだが失敗。再び原を監督に復帰させている[22]。
プロ野球再編問題とオーナー辞任
2004年、パ・リーグにおいて、人気が低迷していた大阪近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブ(現:[[]])の間に合併話が持ち上がった。更に、同リーグの福岡ダイエーホークスと西武ライオンズ親会社の経営危機による身売り説が飛び交っていた。
この問題の解決に、渡邉は西武オーナー・堤義明、オリックスオーナー・宮内義彦らとプロ野球1リーグ構想を画策したものの、ライブドア社長(当時)の堀江貴文が近鉄の買収を名乗り出ている状況下、世論の反発を招くこととなった。[23]。
2リーグ12球団の維持を主張していた古田敦也日本プロ野球選手会会長(ヤクルトスワローズ)による経営者側との会談の提案を拒否し、この件に関するインタビューの中で「無礼な事を言うな。分をわきまえなきゃいかんよ。たかが選手の分際で」と発言[24]。この発言によって世論の反発を招き、選手やファンの怒りを買った。このことから「球界の独裁者」とも通称されている。このスポーツ記者(西村欣也)の質問とは、「明日、選手会と代表レベルの意見交換会があるんですけれども、古田選手会長が代表レベルだと話にならないんで、できれば、オーナー陣といずれ会いたいと(言っている)」というもので、のちに古田自身が全面否定した。
8月13日、プロ野球再編騒動の最中に、明治大学の一場靖弘をめぐる裏金事件が発覚。渡邉は土井誠球団社長、三山秀昭球団代表とともに責任をとって辞任、滝鼻卓雄読売新聞東京本社社長にオーナーの座を譲った。
世論に後押しされる形で日本プロ野球選手会は経営者側と激しく対立し、9月17日・18日に日本プロ野球史上初のストライキが挙行され、打撃を受けた経営側が折れる形で2リーグ制が維持されることになった。11月に、ライブドアと同じIT企業の楽天の新規参入が認められて、東北楽天ゴールデンイーグルスが設立された。
その後1年足らずで会長となり現在に至る。
巨人軍会長として
2011年、3月11日に発生した東日本大震災の影響でプロ野球の開幕が当初の3月25日の予定から延期になることについて、3月16日の読売巨人軍激励会の挨拶で、「この前の大戦争で負けた後、選手、監督から3カ月でやりたいという声が上がってプロ野球をやった歴史もある」と話し、予定通り25日の開幕を主張した[25]。また延期を決めたパ・リーグに対しては「こういう時には何もやらない方が良いというなら勝手にしろ」と話したがその後文部科学省の通達によりすぐに撤回した[要出典]。その後セ・リーグもパ・リーグ同様4月12日に開幕になったが渡邉は「いいんじゃないか。もう、しゃあない。(国などが)ガーガー言ってるんだから」と話した[26]。
2011年11月11日、「専務取締役」としての清武英利(専務取締役球団代表・オーナー代行兼総務本部長コンプライアンス担当)は「読売巨人軍のコンプライアンス上の重大な件」とする記者会見を行い、球団が発表した岡崎郁ヘッドコーチの留任について、渡邉がそれを覆し江川卓をヘッドコーチに決めたことについて、「ツルの一声で決めてしまうなど、球団を私物化するようなことがあっていいものか」として渡邉を批判している[27]。
他のスポーツとの関係
相撲
渡邉は1991年から2005年までの間横綱審議委員として活動。2001年から2年間は委員長を務め、若貴ブームにわく大相撲界に影響を及ぼし、さまざまな角度から意見した。また、大関・魁皇の横綱昇進には最後まで否定的だった。
Jリーグとの関係
読売グループでは、1968年のメキシコオリンピックで日本代表が銅メダルを獲得したことによるサッカー人気の高まりに乗る形で、1969年に読売サッカークラブを創設。1977年からは当時のトップリーグである日本サッカーリーグ (JSL) 1部に昇格し、1980年代にはJSLや天皇杯を何度も制する強豪チームに育て上げていた。
1992年、読売サッカークラブを母体に「ヴェルディ川崎(現「東京ヴェルディ」)」を設立し、翌1993年に正式スタートした日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に参加。三浦知良・ラモス瑠偉などの人気選手を擁して優勝し、初代チャンピオンの栄誉を獲得した。なお、1993年8月1日に目黒区内のサレジオ教会で行われた三浦と日テレの歌番組出演していた設楽りさ子の結婚式では、媒酌人も務めた。
その後、地域に根差したクラブの運営により裾野からのサッカー人気向上を図るJリーグや日本サッカー協会と、「読売ヴェルディ」の巨人化を目論む読売グループ間の対立が表面化した。グループ放送局のテレビ中継で使用していた「読売ヴェルディ」の呼称を「ヴェルディ川崎」に改めるようJリーグ執行部から指摘を受け、1994年からJリーグの勧告を受け入れ、「読売」を外して「ヴェルディ川崎」とアナウンス・表記されるようになった。
元々ヴェルディは東京都内に本拠地を予定していたが、ホームスタジアムとして使えるスタジアムがなかったため川崎市に本拠地を置いた経緯があったが、同じような経緯で旧浦和市を本拠地にした浦和レッズがJリーグ屈指の人気チームに成長したため本拠地を巡るヴェルディと川崎市の確執が浦和とレッズの成功例と対比される事も多い。また、川崎市との確執がサッカーファンにも渡邊の印象を悪くしている面は否めない。その後1998年に読売新聞はヴェルディの株式を全て日本テレビに売却し、日本テレビ100%出資の状態が続いたが、2001年から本拠を東京都(味の素スタジアム)に移し、稲城市や地元企業などの共同出資による「東京ヴェルディ1969」になり2005年のJ2降格と2007年のJ1再昇格を経て、2008年に現名称の「東京ヴェルディ」となった。
オリンピック
渡邉はオリンピックに対して敵愾心を露にしてきた。2000年シドニー大会野球競技アジア最終予選に際して韓国・台湾のプロ選手が参加を表明したため、アマチュアの日本野球連盟は日本プロ野球機構にプロ選手派遣を要請した。日頃、オリンピックの商業主義を批判してきた渡邉は、巨人からの選手派遣を拒否したが、2004年アテネ大会に際しては、長嶋茂雄日本代表監督をバックアップする形で主力選手を参加させて協力することとなった。
人物
- 政界では中曽根康弘との親交の深さが殊に知られている。ほかにも、大手新聞社の実力者であることを武器に、様々な分野において影響力を誇示してきた。趣味は読書(哲学書など。新進気鋭の哲学者の著書は必ず目を通すという)とクラシック音楽鑑賞。ハムスターを飼っている。葉巻とパイプ、野鳥の餌付けをこよなく愛する。TVドラマ『渡る世間は鬼ばかり』(橋田壽賀子脚本)の大ファン。
- 『私の死亡記事』(文藝春秋 2004年)という本の中では、自分の死去はカラスを打ち落とそうとして、屋根から転落死(実際、自宅の庭に置いてある野鳥のエサを食べに来たカラスをゴム鉄砲で打ち落そうとしたが、石につまづいて大怪我をした事がある。その後、それが元で日本野鳥の会を除名された)。葬儀は音楽葬の形式で、また、読売ジャイアンツが2000年から2019年に亘って20連覇し、2018年には長嶋茂雄が世界最年長のプロ野球監督としてこの年新設された“ノーベルスポーツ賞”を初受賞する事が、最大の私への餞別だと記載している(ただし、この分野のノーベル賞は2010年現在、現実には存在しない)。
- あまり知られていないが大変な愛妻家である。妻が事故により認知症になった今でも、出かけるときはキスを忘れない(本人談)。長い夫婦生活で妻は空気のような存在になっていたが、認知症の発症により自分が面倒を見なければならなくなり、妻が愛おしくなったと渡邉は自伝で記している。
- アクの強いキャラクターから、いしいひさいちの四コマ漫画ではよくネタとして取り上げられており、朝日新聞(朝刊)連載中の四コマ漫画ののちゃんに、町内会長のナベツネツネオ(時にワンマンマンというヒーローに変身する)として、準レギュラーで登場している。ナベツネツネオは人差し指を立てて円を描くように振り回しながら「バカヤロー、バカヤロー」と連呼するのが特徴。
- 酒豪と健啖でも知られ、長嶋一茂が連れて行ったカレー専門店では、5種類ほどあったその店の全種類のカレーを注文しすべて平らげたという[28]。
略年譜
- 春 - 開成中学校に入学。
- 1945年(昭和20年)
- 1946年(昭和21年)
- 1949年 (昭和24年)
- 1950年(昭和25年)
- 11月 - 読売新聞に入社。読売ウィークリーに配属される。高校時代からの学友である氏家齊一郎を誘う。
- 1952年(昭和27年)
- 日本共産党山村工作隊を取材するため奥多摩のアジトに潜入し、拘束されるも、無事解放される。このとき隊のリーダーだった人物が、『生きることの意味』の著者、高史明であったという。このスクープが認められて政治部に異動[32]。
- 1954年(昭和29年)
- 1956年(昭和31年)
- 中曽根康弘と知り合う。
- 1958年(昭和33年)
- 児玉誉士夫と知り合う。初の著作『派閥』を上梓。
- 1959年(昭和34年)
- 児玉誉士夫邸を初訪問。
- 1960年(昭和35年)
- 1968年(昭和43年)
- 9月 - ワシントン支局赴任のため渡米。
- 1972年(昭和47年)
- 1月 - ワシントンでの任務を終えて、帰国。編集局参与に、
- 10月 - 解説部長。
- 1975年(昭和50年)
- 6月 - 政治部長兼局次長。
- 1977年(昭和52年)
- 7月 - 編集局総務(局長待遇)。
- 1979年(昭和54年)
- 6月 - 取締役論説委員長。読売の論調に変化。
- 1987年(昭和62年)
- 6月 - 筆頭副社長。
- 1991年(平成3年)
- 1996年(平成8年)
- 読売ジャイアンツのオーナーに就任。
- 1999年(平成11年)
- 2000年(平成12年)
- 中央公論新社から『渡邉恒雄回顧録』を出版。
- 2003年(平成15年)
- 日本新聞協会会長を任期満了に伴い退任。
- 2004年(平成16年)
- 一場靖弘を巡る裏金事件の責任をとってジャイアンツオーナーを辞任。
- マスコミ集中排除原則対策としての渡邉名義日本テレビ株の解消に際し、同社株が管理ポストに割り当てられる。
- 2005年(平成17年)
- 横綱審議委員を任期満了で退任。
- ジャイアンツ代表取締役会長に就任。
- 2006年(平成18年)
- 1月5日に刊行された論座(朝日新聞社)において、靖国神社への首相参拝を非難する内容の対談を若宮啓文・『朝日新聞』論説委員と行う。この年に白内障の手術を受ける。
- 12月 日本経済新聞「私の履歴書」執筆(2007年11月に「君命も受けざる所あり―私の履歴書―」として出版)。
- 2007年(平成19年)
- 第54回カンヌ国際広告祭でメディアパーソン・オブ・ザ・イヤーをアジア人では二番目の受賞。
- 2009年(平成21年)
親族
父・平吉が勤めていた不動貯金銀行(旧協和銀行の前身・現りそな銀行)の重役だった柳井信治は伯父(母・花の実兄)。柳井信治は苦学の末、巨額の資産を築いた立志伝中の人である[33]。
受賞歴
- 2002年(平成14年) - 第14回日本メガネベストドレッサー賞経済部門を受賞
- 2008年(平成20年) - 旭日大綬章受章
著書
単著・共著・編著
- 『派閥――保守党の解剖』(弘文堂, 1958年/増補版, 1964年)
- 『大臣』(弘文堂, 1959年)
- 『党首と政党――そのリーダーシップの研究』(弘文堂, 1961年)
- 『政治の密室――総理大臣への道』(雪華社, 1966/「派閥と多党化時代」に増補改題, 1967年)
- 『ホワイトハウスの内幕――アメリカの権力政治』(読売新聞社, 1971年/「ウォーターゲート事件の背景」に増補改題, 1973年)
- 『大統領と補佐官――キッシンジャーの権力とその背景』(日新報道, 1972年)
- 『保革連立政権論―― 一九七〇年代後半の政治展望』(ダイヤモンド社, 1974年)
- 『永田町見聞録――政界・派閥・権力の実像』(編著, 東洋経済新報社, 1980年)
- 『ポピュリズム批判――直近15年全コラム』(博文館新社, 1999年)
- 『天運天職――戦後政治の裏面史、半生、巨人軍を明かす』(光文社, 1999年)
- 『渡邉恒雄回顧録』(中央公論新社, 2000年/中公文庫, 2007年)
- 『わが人生記――青春・政治・野球・大病』(中央公論新社[中公新書ラクレ], 2005年)
- 『「靖国」と小泉首相――渡辺恒雄・読売新聞主筆vs.若宮啓文・朝日新聞論説主幹』(論座編集部編, 朝日新聞社, 2006年)
- 『君命も受けざる所あり――私の履歴書』(日本経済新聞社, 2007年)
訳書
- ジェイムズ・M・キャノン編『政界入門』(弘文堂, 1962年)
- セオドア・ホワイト『大統領になる方法(上・下)』(弘文堂, 1964年/「大統領への道」に一冊本に改題, 1965年/「大統領職をめぐる死闘」に再改題, 1968年)
関連項目
参考文献
- 魚住昭『渡邉恒雄 メディアと権力』(講談社文庫)ISBN 4-06-209819-9
- 伊藤隆, 御厨貴, 飯尾潤 『渡邉恒雄回顧録』(中央公論新社)ISBN 4-12-002976-X
- 『君命も受けざる所あり―私の履歴書―』(日本経済新聞社)ISBN 4-53-216643-4
脚注
- ^ 魚住昭著『渡邉恒雄 メディアと権力』23頁
- ^ 魚住昭著『渡邉恒雄 メディアと権力』23-24頁
- ^ 母・花の実兄で、不動貯金銀行(旧協和銀行の前身・現りそな銀行)の重役・柳井信治のこと
- ^ 魚住昭著『渡邉恒雄 メディアと権力』25頁
- ^ 魚住昭著『渡邉恒雄 メディアと権力』26頁
- ^ 水木楊『誠心誠意、うそをつく 自民党を生んだ男・三木武吉の生涯』177頁~178頁
- ^ 『渡邉恒雄 メディアと権力』145頁。
- ^ 『渡邉恒雄回顧録』第3章・第4章などを参照。大野の回想録(『大野伴睦回想録』弘文堂)も大半を渡邉が執筆している。
- ^ 『渡邉恒雄 メディアと権力』154-155頁、160-166頁、204-216頁。
- ^ 杉山隆男『メディアの興亡』(文藝春秋、1986年)349ー350頁。
- ^ 『渡邉恒雄 メディアと権力』132-134頁、355-360頁。
- ^ 『渡邉恒雄 メディアと権力』260-274頁。この件については、杉山隆男『メディアの興亡』下巻などにも詳しい記述がある。
- ^ 知のゆくえ 第十四回魚住昭 第2週 渡邉恒雄氏の魅力[1]
- ^ 西川伸一 "読売新聞の論調にみる「改憲意識インプット戦略」" 社会主義理論学会会報 第56号 (2004)
- ^ 第136回国会 衆議院 規制緩和に関する特別委員会 第9号(1996年6月5日)
- ^ 世界の海軍にあって最も下劣 なぜ、今、戦争責任の検証か。渡邉恒雄(読売新聞・主筆)
- ^ 衆議院への小選挙区比例代表並立制導入に際し、中曽根が小選挙区における公認を求めない代償として、中曽根を終身的に比例北関東ブロックの名簿一位に載せるという約束を中曽根と当時の自民党執行部(自民党総裁橋本龍太郎及び自民党幹事長加藤紘一)が交わしていたが、小泉は党規の比例代表候補73歳定年制を厳格に適用すべくこの約束を反故とした。
- ^ 『北京週報』電子版(2007年8月10日付)
- ^ 読売新聞:元論説委員、渡辺会長を提訴 毎日新聞 2010年11月25日
- ^ 渡辺恒雄氏を元部下が提訴 「虚偽の発言で名誉棄損」47NEWS・共同通信社 2010年12月25日
- ^ メディア・ウォッチング―Tokyo Journalim Review
- ^ 原は渡邉の説得を受け入れ、渡邉自身は特別顧問の肩書で引き続き球団に残った
- ^ 堀江は仙台ライブドアフェニックス設立構想を持っていたが, この構想は楽天のプロ野球チーム・東北楽天ゴールデンイーグルスの影響で立ち消えとなっている
- ^ 渡辺会長×選手会全面戦争再燃、25日強制開幕でスト必至zakzak 2011年3月17日
- ^ 巨人・渡辺会長、25日開幕を主張=プロ野球 時事ドットコム 2011年3月16日
- ^ プロ野球:巨人・渡邉会長「しゃあない」 開幕日再延期 - 2011年4月4日
- ^ 巨人・清武代表、涙の告発「渡辺会長の球団私物化許せない」デイリースポーツ 2011年11月11日閲覧
- ^ 『長嶋一茂の言いたいこと言えなかったコト』第34回 週刊新潮2010年1月14日号
- ^ 氏家が尋常科4年に進級した時、渡邉は東高に入学した。氏家によると、渡邉との出会いは6月頃、東高の校庭であった。以来、2人は共に劇場や純喫茶に繰り出す仲になった。『渡邉恒雄 メディアと権力』36-37頁。
- ^ 『渡邉恒雄 メディアと権力』48-49頁。
- ^ 渡邉自身は自著で敗戦後天皇退位を主張した唯一の政治団体が共産党であったことが入党の理由であると記している。
- ^ 高史明は『青春無明』(1983年、径書房)で、渡邉恒雄は『わが人生記』(2005年、中公新書ラクレ)でこの事件について詳しい回想文を書いている。
- ^ 『渡邉恒雄 メディアと権力』25頁。