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|在位期間=[[荘襄王]]3年[[5月23日 (旧暦)|5月23日]]<ref name=ShinHon70>{{cite web|url=http://ctext.org/shiji/qin-ben-ji/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 『史書』秦本紀 70 |publisher=網站的設計與内容|accessdate=2011-12-20}}</ref> - 始皇帝37年[[7月22日 (旧暦)|7月22日]]<br>([[紀元前247年|前247年]][[7月6日]] - [[紀元前210年|前210年]][[9月10日]]) |
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|母=[[趙姫 (荘襄王)|趙姫]]<ref name="Huang">Huang, Ray. ''China:A Macro History'' Edition:2, revised. (1987). M.E. Sharpe publishing. ISBN 1563247305, 9781563247309. pg 32.</ref> |
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[[File:Qin first emperor annals.JPG|thumb|『史記・秦始皇本紀』]] |
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'''始皇帝'''(しこうてい、[[紀元前259年]][[2月18日]] - [[紀元前210年]][[9月10日]]<ref>{{cite news |url=http://www.travelchinaguide.com/attraction/shaanxi/xian/terra_cotta_army/qin_shihuang_1.htm |title=Emperor Qin Shi Huang -- First Emperor of China |publisher=TravelChinaGuide.com |language=英語|accessdate=2011-12-20}}</ref><ref name="Wood1">Wood, Frances. (2008). ''China's First Emperor and His Terracotta Warriors''. Macmillan publishing. ISBN 0312381123, 9780312381127. p 2.</ref>)は、[[中国]]の初代[[皇帝]](在位:[[紀元前221年]] - 紀元前210年)<ref name="duik">Duiker, William J. Spielvogel, Jackson J. Edition:5, illustrated. (2006). ''World History:Volume I:To 1800''. Thomson Higher Education publishing. ISBN 0495050539, 9780495050537. pg 78.</ref>。[[戦国時代 (中国)|古代中国の戦国時代]]の[[秦]]の第31代君主(在位:[[紀元前247年]] - [[紀元前210年]])。6代目の王(在位:紀元前247年 - [[紀元前221年]])。[[姓]]は'''[[嬴]]'''(えい)または'''趙'''(ちょう)<ref> 『史記』秦始皇本紀に「名を政と為し、趙氏を姓とす。」 の記載有り。[http://gongsunlong.web.fc2.com/sinsikou-h.pdf 秦始皇本紀訳文]。[[s:史記/卷040|楚世家]]にも同様の記載有り。</ref>、[[氏]]は'''[[趙 (姓)|趙]]'''(ちょう)、[[諱]]は'''政'''(せい)または'''正'''(せい)<ref>[[趙正書]]の記載による。[https://researchmap.jp/takushikudo/published_papers/18287425/attachment_file.pdf 北京大学蔵西漢竹書『趙正書』における「秦」叙述 工藤卓司]</ref>。現代中国語では'''秦始皇帝'''<ref>{{ピン音|Qín Shǐ Huángdì}}、チンシーフアンディー</ref>または'''秦始皇'''<ref>{{ピン音|}} {{Audio|Qin shi huang pronunciation 2.ogg|Qín Shǐ Huáng}}、チンシーフアン</ref>と表現する。 |
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'''始皇帝'''(しこうてい)は[[秦|秦朝]]の[[皇帝]]。[[姓]]は'''嬴'''(えい)、[[諱]]は'''政'''(せい)。現代中国語では、'''始皇帝''' ({{lang|zh-hans|Shǐ Huángdì}}, <small>シーフアンティ</small>) または'''秦始皇''' ({{lang|zh-hans|Qín Shǐ Huáng}}, <small>チンシーフアン</small>) と称される。 |
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'''秦王'''に即位した後、勢力を拡大し[[戦国七雄|他の諸国]]を次々と攻め滅ぼして、紀元前221年に中国史上初めて[[天下統一]]を果たした([[秦の統一戦争]])。統一後、王の称号から歴史上最初となる新たな称号「皇帝」に改め、その始めとして「'''始皇帝'''」と号した<ref name="duik" />。 |
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治政としては重臣の[[李斯]]らとともに主要経済活動や[[政治改革]]を実行した<ref name="duik" />。統一前の秦に引き続き[[法律]]の厳格な運用を秦国全土・全軍統治の根本とするとともに、従来の配下の一族等に領地を与えて領主が[[世襲]]して統治する[[封建制]]から、中央政権が任命・派遣する[[官僚]]が治める[[郡県制]]への地方統治の全国的な転換を行い、中央集権・官僚統治制度の確立を図ったほか、国家単位での[[貨幣]]や[[度量衡|計量単位]]の統一<ref name="柿沼2015">柿沼2015</ref>、道路整備・[[交通規則]]の制定などを行った。[[万里の長城]]の整備・増設や、等身大の[[兵馬俑]]で知られる[[秦始皇帝陵及び兵馬俑坑|秦始皇帝陵]]の造営といった[[世界遺産]]として後世に残ることになった大事業も行った。[[法家]]を重用して法による統治を敷き、批判する[[儒者|儒家]]・[[方士]]の弾圧や書物の規制を行った[[焚書坑儒]]でも知られる<ref name="Ren">Ren, Changhong. Wu, Jingyu. (2000). ''Rise and Fall of the Qin Dynasty''. Asiapac Books Pte Ltd. ISBN 9812291725, 9789812291721.</ref>。 |
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== 略歴 == |
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=== 出生 === |
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父の子楚(後の[[荘襄王 (秦)|荘襄王]])は[[趙 (戦国)|趙]]の[[邯鄲]]で捨て駒同然の人質となっていたが、大商人[[呂不韋]]の支援により[[孝文王 (秦)|孝文王]]の太子となり、後に秦王に即位した。子楚は呂不韋から愛人を譲り受けたが、この愛人との間に生まれたのが政である。 |
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統一後に何度か各地を旅して長距離を廻ることもしており、紀元前210年に旅の途中で49歳([[数え年]]だと50歳)で急死するまで、秦に君臨した。 |
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しかし、その愛人は子楚の元にやってきた際には既に懐妊していたと言われ、これに従えば始皇帝の父親は子楚ではなく呂不韋となる。この風聞は当時広範囲に流布していたと考えられ、『[[史記]]』でも呂不韋列伝に史実として記載されているが、秦始皇本紀には記載されていない。[[司馬遷]]は両論併記を採用したともいえる。『史記』秦始皇本紀所収の[[班固]]の上書部では「呂政」と表記されており、始皇帝と秦王室の血縁関係を否定しているが、これは[[前漢|漢朝]]が秦朝の正統性を否定する意味合いが強い。また、同時代の[[春申君]]にも同様の故事が存在することから、史実でないとする[[歴史家]]もいる。また子楚が後見人である呂不韋の愛人と通じて懐妊させたために、呂不韋が已む無く愛人を子楚に差し出したと考える歴史家もいる。この呂不韋を始皇帝の実父とする風聞が広く流布した背景には、始皇帝に悪意を持つ六国の遺民によって、始皇帝に不利な風聞が広められたことも要因として挙げられる。 |
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{{TOC limit|3}} |
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政の容貌や性格について、[[史記]]には「鼻が高く、目は切れ長で、声は豺狼([[ヤマイヌ]])の如く、恩愛の情に欠け、虎狼のように残忍な心の持ち主」と記載されている。 |
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==称号「始皇帝」== |
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=== 即位 === |
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[[Image:始皇帝 (篆文).svg|thumb|right|100px|[[小篆体]]で書かれた始皇帝。]] |
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[[紀元前258年]]、政誕生直後に秦が趙を攻め邯鄲を包囲する。趙が報復として処刑が決まった父子楚を呂不韋が逃がすために工面するが、政母子は邯鄲に残されかくまわれた。 |
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===意味=== |
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[[紀元前251年]]、子楚が帰国した後、[[昭襄王 (秦)|昭襄王]]が薨去し、[[孝文王 (秦)|孝文王]]が秦の王となり子楚が太子となる。子楚が太子となったことを知った趙は政母子を丁重に秦へ返した。 |
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[[周]]の時代およびその後([[紀元前700年]] - [[紀元前221年]])の[[中国]]独立国では、「大王」の称号が用いられていた。紀元前221年に[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]に終止符を打った趙政は事実上中国全土を統治する立場となった。これを祝い、また自らの権勢を強化するため、政は自身のために新しい称号「秦始皇帝」(最初にして最上位の秦皇帝)を設けた。時に「始皇帝」と略される<ref name=Yoshi107>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.107-113、第四章 天下統一‐皇帝の誕生‐1]]</ref>。 |
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*「始」は「最初(一番目)」の意味である<ref name="Wood2">Wood, Frances. (2008). ''China's First Emperor and His Terracotta Warriors''. Macmillan publishing. ISBN 0312381123, 9780312381127. pp 23-24, 26.</ref>。「皇帝」の称号を受け継ぎ、代を重ねる毎に「二世皇帝」「三世皇帝」と名乗ることになる<ref>Hardy, Grant. Kinney, Anne Behnke. (2005). ''The Establishment of the Han Empire and Imperial China''. Greenwood Publishing Group. ISBN 031332588X, 9780313325885. p 10.</ref>。 |
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*「皇帝」は、神話上の[[三皇五帝]]より'''皇'''と'''帝'''の二字を合わせて作られた<ref>‘‘The Great Wall''. (1981). Luo, Zhewen Luo. Lo, Che-wen. Wilson, Dick Wilson. Drege, J. P. Contributor Che-wen Lo. McGraw-Hill. ISBN 0070707456, 9780070707450. pg 23.''</ref>。ここには、始皇帝が[[黄帝|天皇神農黄帝]]の尊厳や名声にあやかろうとした意思が働いている<ref>Fowler, Jeaneane D. (2005). ''An Introduction to the Philosophy and Religion of Taoism:Pathways to Immortality''. Sussex Academic Press. ISBN 1845190866, 9781845190866. pg 132.</ref>。 |
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*さらに、漢字「皇」には「光輝く」「素晴らしい」という意味があり、また頻繁に「天」を指す形容語句としても用いられていた<ref>{{cite book |last=Lewis |first=Mark Edward |title=The Early Chinese Empires:Qin and Han |year=2007 |publisher=[[ハーバード大学]]出版局Belknap Press |id={{ISBN2|067402477X|978-0674024779}} |page=52 |url=https://books.google.co.jp/books?id=EHKxM31e408C&lpg=PA52&dq=the+early+chinese+emperors+lewis+%22was+most+frequently+used+as+an+epithet+of+Heaven%22&pg=PA52&redir_esc=y&hl=ja#v=onepage&q&f=false}}</ref>。 |
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*元々「帝」は「天帝」「上帝」のように天を統べる神の呼称だったが、やがて地上の君主を指す言葉へ変化した。そこで神の呼称として「皇」が用いられるようになった。始皇帝はどの君主をも超えた存在として、この二文字を合わせた称号を用いた<ref name=Yoshi107 />。 |
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===『史記』における表記=== |
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[[紀元前250年]]、孝文王が薨去した。これによって子楚は荘襄王として即位すると、呂不韋は[[丞相]]として政権を掌握した。 |
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[[司馬遷]]が編纂した『[[史記]]』においては、「秦始皇帝」と「秦始皇」の両方の表記がみられる。「秦始皇帝」は「秦本紀」にて<ref name=ShinHon70 /><ref name="shijichapter5">[http://zh.wikisource.org/w/index.php?title=%E5%8F%B2%E8%A8%98/%E5%8D%B7005&variant=zh-hant Wikisource ''Records of the Grand Historian'' Chapter 5].</ref>や6章(「秦始皇本紀」)冒頭や14節<ref>[[#史記「秦始皇本紀」|「秦始皇本紀」1]]</ref>、「秦始皇」は「秦始皇本紀」章題にて遣っている<ref name="shijichapter6">[http://zh.wikisource.org/w/index.php?title=%E5%8F%B2%E8%A8%98/%E5%8D%B7006&variant=zh-hant Wikisource ''Records of the Grand Historian'' Chapter 6].</ref><ref>Book.sina.com.cn. "[http://vip.book.sina.com.cn/book/chapter_78679_53894.html Sina]." ''帝王相貌引起的歴史爭議.'' Retrieved on 2009-01-18.</ref>。趙政は「皇」と「帝」を合わせて「皇帝」の称号を用いたため、「秦始皇帝」の方が正式な称号であったと考えられる<ref>see ''Chinese Emperors'' by Ma Yan. ISBN 978-1-4351-0408-2.</ref>。 |
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== 生涯 == |
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[[紀元前246年]]、荘襄王が薨去すると、13歳であった政が秦王に即位する。即位当初は呂不韋が実権を掌握していたが、政は弟である[[成キョウ|成蟜]]の謀反と実母の愛人である[[ロウアイ|嫪毐]]による反乱を鎮圧した後、[[紀元前238年|前238年]]には呂不韋を中央から遠ざけて[[親政]]を始めた。 |
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===生誕と幼少期=== |
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秦人の発祥は[[甘粛省]]で秦亭と呼ばれる場所と伝えられ、現在の[[天水市]][[清水県]]秦亭鎮にあたる。秦朝の「秦」はここに通じ、始皇帝は統一して、郡、県、郷、亭を置いた<ref>[http://www.bytravel.cn/Landscape/32/qintingguzhi.html 秦亭故址] Bytravel (中国語)</ref> 。 |
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====人質の子==== |
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政は[[韓]]の公子[[韓非]]が記述した「[[韓非子]]」に感動し韓非の思想を取り入れようとした。だが、呂不韋の食客で韓非の同門である[[李斯]]が韓非を自殺に追い込んだため李斯を重臣として採用した。李斯主導の下に[[法家]]思想を政治に採用し、君主独裁、[[郡県制]]、厳罰主義を推進し、強力な独裁体制を築いた。また秦軍の少数精鋭化も断行した。外征面では将帥に[[王翦]]、[[王賁]]親子や[[李信]]などを起用し、韓・趙・[[魏 (戦国)|魏]]を次々に滅ぼした。 |
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{{main|[[呂不韋#奇貨居くべし|奇貨居くべし]]}} |
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秦の公子であった父の異人(後の[[荘襄王]])<ref>後に紀元前257年に邯鄲を脱出して秦に帰り、華陽夫人と初めて謁見した際に子楚と改名《戦国策・秦策》:異人至,不韋使楚服而見。王后悦其状,高其知,曰:「吾楚人也。」而自子之,乃変其名曰楚。</ref> は[[休戦協定]]で[[人質]]として[[趙 (戦国)|趙]]へ送られていた<ref name="Huang" />。ただ、父の異人は公子とはいえ、秦の太子<ref>昭襄王42年([[紀元前265年]])に2年前亡くなった兄の[[悼太子]]に代わって太子に指名された 史記 巻5 秦本紀 (秦昭襄王)四十年,悼太子死魏…四十二年,安国君為太子。</ref> である祖父の安国君(異人の父。後の[[孝文王]]。曾祖父の[[昭襄王]]の次男)にとって20人以上の子の一人に過ぎず、また[[妾]]であった異人の生母の[[夏姫 (秦孝文王)|夏姫]]は祖父からの寵愛を失って久しく二人の後ろ盾となる人物も居なかった。 |
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秦王を継ぐ可能性がほとんどない異人は、昭襄王が協定をしばしば破って軍事攻撃を仕掛けていたことで秦どころか趙でも立場を悪くし、いつ殺されてもおかしくない身であり、人質としての価値が低かった趙では冷遇されていた<ref name=Yoshi21>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.21-30、第一章 奇貨居くべし‐始皇帝は呂不韋の子か‐1]]</ref>。 |
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[[紀元前227年]]、[[燕 (春秋)|燕]]の[[太子丹]]は隣国の趙が秦に滅ぼされたことで危機感を抱き、政の[[暗殺]]を計画して[[荊軻]]を刺客として送りこんだ。荊軻は、秦軍の改革に反対して家族を処刑され、秦から亡命していた将軍[[樊於期]]の首を持参して使者として秦王政に拝謁。巻物の中に隠した[[匕首]]で政を襲撃した。殿上に武器を持って上がることは秦の法で禁じられていたため、衛兵や家臣たちは荊軻を阻止できずにいた。政は長剣を帯びていたがうまく鞘から抜くことが出来ず、生命の危機に直面したが、侍医の機転によって長剣を抜き、荊軻を斬殺した。この暗殺計画に憤慨した政は王賁に命じて燕を攻撃し、翌年に滅亡させている。 |
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そこで[[韓 (戦国)|韓]]の裕福な商人であった[[呂不韋]]が目をつけた。安国君の[[継室]]ながら太子となる子を産んでいなかった[[華陽太后|華陽夫人]]に大金を投じて工作活動を行い、また異人へも交際費を出資し評判を高めた<ref name="Ren" />。異人は呂不韋に感謝し、将来の厚遇を約束していた。そのような折、呂不韋の妾([[趙姫 (荘襄王)|趙姫]])<ref name="Huang" /> を気に入って譲り受けた異人は、昭襄王48年(前259年)の冬に男児を授かった。「政」と[[諱]]を名付けられたこの赤子は秦ではなく趙の首都[[邯鄲]]で生まれたため「趙政」とも呼ばれた<ref group="注">当時は男女で姓と氏を使い分けていたので、「趙氏嬴姓の政」はいずれにせよ「趙政」と呼ばれていたともされる。</ref><ref name="RGH">‘‘Records of the Grand Historian:Qin Dynasty'' (English translation). (1996). Ssu-Ma, Ch'ien. Sima, Qian. Burton Watson as translator. Edition:3, reissue, revised. Columbia. University Press. ISBN 0231081693, 9780231081696. pg 35. pg 59.''</ref>。後に始皇帝となる<ref name="Wood1" /><ref name=Yoshi21 /><ref name="RGH" />。 |
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[[紀元前225年]]、秦は最大の敵国である楚を攻撃するが失敗、楚軍は逆に秦へ侵攻してきた。これに対して政は既に引退していた王翦を将軍として全権を委ねた。王翦は楚軍を撃退してそのまま楚に攻め込み、[[項燕]]([[項羽]]の祖父)率いる楚軍を壊滅させて楚を滅亡させた。 |
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====実父に関する議論==== |
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[[紀元前221年]]、秦は戦国六国の中で最後に残った[[田斉|斉]]を滅ぼし、中国統一を達成した。 |
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[[漢]]時代に成立した『史記』「呂不韋列伝」には、政は異人の実子ではなかったという部分がある。呂不韋が趙姫を異人に与えた際にはすでに妊娠していたという<ref name="Huang" /><ref name=ShikiRo5>[[#史記「呂不韋列傳」|「呂不韋列傳」5]]</ref><ref name=Yoshi30>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.30-37、第一章 奇貨居くべし‐始皇帝は呂不韋の子か‐2]]</ref>。[[後漢]]時代の[[班固]]も『[[漢書]]』にて始皇帝を「呂不韋の子」と書いている<ref>{{cite web|url=http://ctext.org/han-shu/wu-xing-zhi/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 『漢書』五行志下49 |publisher=網站的設計與内容|accessdate=2011-12-20}}</ref>。 |
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始皇帝が[[非嫡子]]であるという意見は死後2000年経過して否定的な見方が提示されている<ref name=Wood2/>。呂不韋が父親とするならば、現代医学の観点からは、[[臨月]]の期間と政の[[誕生日|生誕日]]との間に矛盾が生じるという<ref name="LuAnnal">Lü, Buwei. Translated by Knoblock, John. Riegel, Jeffrey. ''The Annals of Lü Buwei'':Lü Shi Chun ''Qiu:a Complete Translation and Study''. (2000). Stanford University Press. ISBN 0804733546, 9780804733540.</ref>。『呂氏春秋』を翻訳したジョン・ノブロック、ジェフリー・リーゲルも、「作り話であり、呂不韋と始皇帝の両者を誹謗するものだ」と論じた<ref>{{Cite book|title=The Annals of Lü Buwei|others=Knoblock, John and Riegel, Jeffrey Trans.|publisher=Stanford University Press|year=2001|isbn=978-0804733540}} p. 9</ref>。 |
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=== 統一 === |
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[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]には、七国の君主すべてが[[王]]を名乗っていた(秦王が西帝、斉王が東帝と称したことはあった)。統一事業を達成した後に旧来の称号は相応しくないと考えた政は、家臣たちに対し新しい称号の考案を命じた。 |
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[[郭沫若]]は、『十批判書』にて3つの論拠を示して呂不韋父親説を否定している<ref name=Yoshi30 /><ref group="2-">郭沫若 著、『中国古代の思想家たち』(上・下)「呂不韋と秦王政との批判」、野原四郎・佐藤武敏・上原淳道三 訳、岩波書店</ref>。 |
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家臣たちは古の[[三皇五帝|三皇]]で最も尊敬を集めた泰皇の使用を上奏したが、既存の称号に満足しない政は泰皇の「皇」と太古の「帝」号を複合した'''皇帝'''の称号を使用することを宣言した。また同時に王命を'''制'''、王令を'''詔'''、天子の自称として'''朕'''(後に真人に改めた。始皇帝死後は再び朕が使用された)の使用を定めた。さらに[[諡|諡号]]制度は子や臣下が先君を批評することになり、不敬であるとの理由で廃止し、以後は自分を始皇帝とし、後は二世皇帝、三世皇帝……、と呼称することを定めた。 |
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#『史記』の説は異人と呂不韋について多く触れる『[[戦国策]]』にて一切触れられていない。 |
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#『戦国策』「楚策」や『史記』「春申君列伝」には、[[楚 (春秋)|楚]]の[[春申君]]と[[幽王 (楚)|幽王]]が実は親子だという説明があるが、呂不韋と始皇帝の関係にほぼ等しく、[[小説]]的すぎる。 |
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#『史記』「呂不韋列伝」そのものに矛盾があり、始皇帝の母について「邯鄲諸姫」(邯鄲の歌姫<ref name=ShikiRo5 />)と「趙豪家女」(趙の富豪の娘<ref name=ShikiRo6>[[#史記「呂不韋列傳」|「呂不韋列傳」6]]</ref>)の異なる説明がある。政は「大期」(10カ月または12カ月)を経過して生まれたとあり<ref name=ShikiRo5 />、事前に妊娠していたとすればおかしい。 |
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[[陳舜臣]]は「秦始皇本紀」の冒頭文には「秦始皇帝者,秦荘襄王子也」(秦の始皇帝は荘襄王の子である)と書かれていると、『史記』内にある他の矛盾も指摘した<ref name=Chin154>[[#陳1998|陳 (1998)、pp.154-194、乱世の果て]]</ref>。 |
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====死と隣り合わせの少年==== |
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広大な領土の統治には、始皇帝の子を封建して統治することが臣下より提案されたが、李斯は[[周|周朝]]が封建した諸侯により滅亡した史実を挙げてこれに反対、郡県制を施行すべきと進言した。郡県制を採用した始皇帝は全国を三十六郡(後に四十八郡)に分割し、それぞれに守(行政担当)・尉(軍事担当)・監(監察担当)を設置し、郡の下部に県を設置して統治した。また[[亭]]と称される交番を制度化して街道の十里ごとに設置、人夫徴発や治安維持、官吏用宿泊施設として活用した。また都城・咸陽には全国の富豪十二万戸を強制移住させた。さらに滅ぼした六国の王宮に模した建物を咸陽に建てた。 |
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政の父・異人は呂不韋の活動の結果、華陽夫人の養子として安国君の次の太子に推される約定を得た。だが、曾祖父の昭襄王は未だ趙に残る孫の異人に一切配慮せず趙を攻め、昭襄王49年(紀元前258年)には[[王陵]]、昭襄王50年(紀元前257年)には[[王齕]]に命じて邯鄲を包囲した。そのため、趙側に処刑されかけた異人だったが、番人を買収して秦への脱出に成功した。しかし妻子を連れる暇などなかったため、政は母と置き去りにされた。趙は残された二人を殺そうと探したが巧みに潜伏され見つけられなかった<ref name=Yoshi30 />。陳舜臣は、敵地のまっただ中で追われる身となったこの幼少時の体験が、始皇帝に怜悧な観察力を与えたと推察している<ref name=Chin154 />。その後、邯鄲のしぶとい籠城に秦軍は撤退した。 |
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昭襄王56年(紀元前251年)、昭襄王が没し、1年の喪を経て、孝文王元年(紀元前250年)10月に安国君が孝文王として即位すると、呂不韋の工作どおり当時子楚と改名した異人が太子と成った。そこで趙では国際信義上やむなく、10歳になった<ref name=Yoshi287>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.287-291、秦の始皇帝年譜]]</ref> 政を母の[[趙姫 (荘襄王)|趙姫]]と共に秦の[[咸陽市|咸陽]]に送り返した。ところが孝文王はわずか在位3日で亡くなり、「奇貨」子楚が荘襄王として即位すると、呂不韋は[[丞相]]に任命された<ref name=Yoshi30 />。 |
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始皇帝は、民間の武器所持を禁止して没収し、中国統一の象徴として巨大な像を作った。さらに[[度量衡]](度=長さ、量=体積、衡=重さの単位)、[[貨幣]]、車の幅を統一(「軌を一にする」の故事)した。また、[[漢字]]はそれまで地方ごとに異なる字体が使用されていたが、これを改め、秦の字体を標準字体として採用した。 |
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===即位=== |
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ここに、後世の中国統一王朝の範となる、精密で合理的な支配体制を有する中央集権国家が誕生した。 |
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====若年王の誕生と呂不韋の権勢==== |
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荘襄王と呂不韋は周辺諸国との戦いを通じて秦を強勢なものとした<ref name=Yoshi30 />。しかし、荘襄王3年(前247年)5月に荘襄王は在位3年という短い期間で死去し、13歳の政が王位を継いだ<ref name="Ancient">Donn, Lin. Donn, Don. ''Ancient China''. (2003). Social Studies School Service. Social Studies. ISBN 1560041633, 9781560041634. pg 49.</ref>。まだ若い政を補佐するため、周囲の人間に政治を任せ、特に呂不韋は[[相国]]となり[[戦国七雄]]の他の六国といまだ戦争状態にある秦の政治を執行した<ref name="Wood2" />。 |
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秦王政6年([[紀元前241年]])、[[楚 (春秋)|楚]]・[[趙 (戦国)|趙]]・[[魏 (戦国)|魏]]・[[韓 (戦国)|韓]]・[[燕 (春秋)|燕]]の五国[[合従連衡|合従軍]]が秦に攻め入ったが、秦軍は函谷関で迎え撃ち、これを撃退した([[函谷関の戦い (紀元前241年)|函谷関の戦い]])<ref name="shiki6">『史記』秦始皇本紀</ref>。このとき、全軍の総指揮を執ったのは、この時点で権力を握っていた呂不韋と考えられている{{Sfn|島崎晋|2019|p=79}}。 |
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=== 皇帝として === |
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[[ファイル:Greatwall-SA11.jpg|250px|thumb|万里の長城(写真の[[レンガ]]の長城は[[明]]代のもので、始皇帝時代のものは[[版築]][[土塁]]でできていた。また位置も明代よりも北方にあった)]] |
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[[紀元前214年|前214年]]、北方の[[匈奴]]による進入を防ぐために[[万里の長城]]を修復し、将軍[[蒙恬]]に命じて 30 万の軍勢で匈奴を討伐させ、[[オルドス地方]]に版図を広げ、さらに[[箕子朝鮮]]を服属させた。また罪人を兵として徴兵し、南の[[嶺南 (中国)|嶺南]]([[ベトナム]]北部)を征服して郡を設置した。その際に揚子江の支流・[[湘江]]と、広東地方の西江へと流れる漓江を結ぶ運河[[霊渠]]を築いた。 |
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そして、呂不韋は仲父と呼ばれるほどの権威を得て、多くの[[食客]]を養い、秦王政8年([[紀元前239年]])には『[[呂氏春秋]]』の編纂を完了した<ref name="Yoshi38">[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.38-45、第一章 奇貨居くべし‐始皇帝は呂不韋の子か‐3]]</ref>。 |
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[[紀元前213年|前213年]]、李斯の進言により周朝の再興を願い秦朝を批判する[[儒者]]を牽制するため、医書や農書などの実用書を除く書籍の焼却処分を実施している([[焚書]])。翌年には不老不死の仙薬作りを命じられていた[[侯生]]と[[盧生]]が、仙薬が完成できないことを恐れて逃亡、これに怒った始皇帝は[[咸陽市|咸陽]]の学者<!--儒者だけではない-->たちを拘束し、460 人を穴埋めにした([[坑儒]])。始皇帝の長子であった[[扶蘇]]が始皇帝のこうした施政に諫言したが、逆に始皇帝の怒りを買い、扶蘇は蒙恬の下へと送られて北方防衛に当たることとなった。 |
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だが、呂不韋はひとつ問題を抱えていた。それは[[皇太后|太后]]となった[[趙姫 (荘襄王)|趙姫]]とまた関係を持っていたことである。発覚すれば身の破滅につながるが、淫蕩な彼女がなかなか手放してくれない<ref name="Yoshi45">[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.45-53、第一章 奇貨居くべし‐始皇帝は呂不韋の子か‐4]]</ref>。そこで呂不韋は自分の代わりを探し、適任の男の{{lang|zh|[[嫪アイ|嫪毐]]}}を見つけた<ref name="Mah">Mah, Adeline Yen. (2003). ''A Thousand Pieces of Gold:Growing Up Through China's Proverbs''. Published by HarperCollins. ISBN 0060006412, 9780060006419. p 32-34.</ref>。あごひげと眉を抜き、[[宦官]]に成りすまして後宮に入った嫪毐はお気に入りとなり、[[列侯]]となった<ref name="Yoshi45" />。やがて太后は妊娠した。人目を避けるため旧都[[雍城|雍]]に移ったのち、嫪毐と太后の間には二人の男児が生まれた<ref name="Yoshi45" /><ref name="Mah" />。 |
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始皇帝は五回に及ぶ大規模な巡幸を行い、同時に全国の交通網整備([[古代道路]])が推進され、中国国内の長城を破壊した。この巡幸は[[項籍|項羽]]と[[劉邦]]も見物しており、項羽は「{{lang|zh|彼可取而代也}}」(彼は取りて代はるべきなり / やつに取って代わってやる)と述べ、劉邦は「{{lang|zh|嗟乎大丈夫當如此也}}」(ああ、大丈夫當に此くの如くなるべきなり / ああ、立派な男たるものまさにかような者であるべきだ)と述べたと伝えられている。 |
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秦王政9年(前238年)、政が22歳の時にこのことが露見する。政は[[元服]]の歳を迎え、しきたりに従い雍に入った<ref name=Yoshi45 />。『史記』「呂不韋列伝」では嫪毐が宦官ではないという告発があった<ref name=ShikiRo12>[[#史記「呂不韋列傳」|「呂不韋列傳」12]]</ref> と言い、同書「始皇本紀」では嫪毐が反乱を起こしたという<ref name=Chin154 />。ある説では、呂不韋は政を廃して嫪毐の子を王位に就けようと考えていたが、ある晩餐の席で嫪毐が若王の父になると公言したことが伝わったともいう<ref name="Mah" />。または秦王政が雍に向かった隙に嫪毐が太后の[[印章]]を入手し[[軍隊]]を動かし[[クーデター]]を企てたが失敗したとも言う<ref name="Mah" />。結果的に嫪毐は政によって一族そして太后との二人の子もろとも殺された<ref name=Yoshi45 /><ref name="Mah" />。 |
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[[紀元前219年|前219年]]の二度目の巡幸では[[泰山]]での[[封禅]]の儀式が行われている。この儀式の詳細を古例に詳しい[[儒家]]に尋ねたが、古代の儀式であったため儒家の回答も一定でなく、結局始皇帝は儒家の発言を無視して儀式を行い、記念に泰山刻石を設置した。 |
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事件の背景が調査され、呂不韋の関与が明らかとなった。しかし過去の功績が考慮され、また弁護する者も現れ、相国罷免と封地の河南での[[蟄居]]が命じられたのは翌年となった<ref name=Yoshi287 /><ref name=Yoshi45 />。だが呂不韋の名声は依然高く、数多くの客人が訪れたという。 |
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[[紀元前218年|前218年]]の三度目の巡幸では博浪沙(はくろうさ)を通過した際に、大きな鉄鎚が始皇帝の車めがけて投げつけられた。[[張良]]による始皇帝暗殺計画であったが、鉄鎚は副車に当たり暗殺は失敗に終わった。始皇帝は犯人捜索を命じたが、張良は逃げのびている。 |
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秦王政12年(前235年)、政は呂不韋へ書状を送った<ref name=Yoshi45 />。 |
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=== 晩年 === |
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{{Quotation|{{Lang|zh-tw|君何功於秦。秦封君河南,食十萬戸。君何親於秦。號稱仲父。其與家屬徙處蜀!}}<br><br>秦に対し一体何の功績を以って河南に十万戸の領地を与えられたのか。秦王家と一体何のつながりがあって仲父を称するのか。一族諸共蜀に行け。|史記「呂不韋列伝」14<ref name=ShikiRo14>[[#史記「呂不韋列傳」|「呂不韋列傳」14]]</ref>}} |
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始皇帝は中国統一の頃から[[不老不死]]を求めて[[方士]]を重用するようになった。前出の侯生と盧生も方士出身であるが、特に[[徐福]]の事績は有名である。二度目の巡幸で始皇帝は斉に滞在し、徐福に対して東方にあるという[[蓬莱 (伝説)|蓬莱]]国へ向かい、仙人を連れてくるようにと命じた。この蓬莱は[[日本]]の事を指していると言われ、日本各地には徐福の最期の地といわれる場所が複数ある(徐福伝説)。 |
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[[流刑]]の地・蜀へ行ってもやがては死を賜ると悟った呂不韋は、服毒[[自殺]]した<ref name=Wood2/><ref name=Mah/>。[[吉川忠夫]]は嫪毐事件の裏にあった呂不韋の関与は秦王政にとって予想外だったと推測した<ref name=Yoshi45 /> が、陳舜臣は青年になった政がうとましい呂不韋を除こうと最初から考えていた可能性を示唆し、事件から処分まで3年をかけた所は政の慎重さを表すと論説した<ref name=Chin154 />。秦王政は呂不韋の葬儀で哭泣した者も処分した<ref name=Chin154 />。 |
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===専制=== |
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徐福を初めとして方士たちは不老不死には懐疑的であったと思われ、いかがわしい方士によって国庫から金銭が詐取される事態になっていた。また始皇帝は方士以外にも宦官である[[趙高]]を重用し、自らは咸陽周辺の数百の宮殿を復道<ref>道路の上にさらに架け渡した道路。</ref>や甬道<ref>道の両側に壁があり外から通行人を認識できない道路。</ref>で連絡してそこを行き来し、自ら朝廷に赴くことも少なくなり、趙高らを通して朝政を執るようになっていった。 |
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====李斯と韓非==== |
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秦王政による親政が始まった年、[[灌漑]]工事の技術指導に招聘されていた韓の[[鄭国]]が、実は国の財政を疲弊させる工作を図っていたことが判明した。これに危機感を持った大臣たちが、他国の人間を政府から追放しようという「[[逐客令]]」が提案された<ref name=Yoshi54>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.54-62、第二章 駆客令‐秦国の発展‐1]]</ref>。反対を表明した者が[[李斯]]だった。呂不韋の食客から頭角を現した楚出身の人物で、李斯は「逐客令」が発布されれば地位を失う位置にあった。しかし的確な論をもっていた。秦の発展は外国人が支え、[[穆公 (秦)|穆公]]は[[虞 (春秋)|虞]]の大夫であった[[百里奚]]や[[宋 (春秋)|宋]]の[[蹇叔]]らを登用し<ref name=Yoshi54 />、[[孝公 (秦)|孝公]]は[[衛]]の[[公族]]だった[[商鞅]]から<ref name=Yoshi62>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.62-69、第二章 駆客令‐秦国の発展‐2]]</ref>、[[恵文王 (秦)|恵文王]]は[[魏 (戦国)|魏]]出身の[[張儀]]から<ref name=Yoshi69>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.69-74、第二章 駆客令‐秦国の発展‐3]]</ref>、昭襄王は魏の[[范雎]]から<ref name=Yoshi74>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.74-80、第二章 駆客令‐秦国の発展‐4]]</ref> それぞれ助力を得て国を栄えさせたと述べた。李斯は[[性悪説]]の[[荀子]]に学び、人間は環境に左右されるという[[思想]]を持っていた<ref name=Yoshi54 />。秦王政は彼の主張を認めて「逐客令」を廃案とし、李斯に深い信頼を寄せた<ref name=Yoshi81>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.81-88、第三章 統一への道‐六国併合‐1]]</ref>。 |
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商鞅以来、秦は「法」を重視する政策を用いていた<ref name=Yoshi62 />。秦王政もこの考えを引き継いでいたため、同じ思想を説いた『[[韓非子]]』に感嘆した。著者の[[韓非]]は韓の公子であったため、事があれば使者になると見越した秦王政は韓に攻撃を仕掛けた。果たして秦王政14年(前233年)に<ref name=Yoshi287 /> 使者の命を受けた韓非は謁見した。韓非はすでに故国を見限っており、自らを覇権に必要と売り込んだ<ref>{{cite web|url=http://ctext.org/hanfeizi/chu-jian-qin/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 『韓非子』《初見秦》|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2011-11-20}}なお、『韓非子』におけるこの篇は後世の法家による偽作と見られている</ref>。しかし、これに危機を感じた李斯と[[姚賈]]の謀略にかかり死に追いやられた<ref name=Yoshi81 />。秦王政が感心した韓非の思想とは、『韓非子』「孤憤」節1の「術を知る者は見通しが利き明察であるため、他人の謀略を見通せる。法を守る者は毅然として勁直であるため、他人の悪事を正せる」という部分と<ref>{{cite web|url=http://ctext.org/hanfeizi/gu-fen/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 『韓非子』《孤憤》1 |publisher=網站的設計與内容|accessdate=2011-11-20}}</ref>、「五蠹」節10文末の「名君の国では、書([[詩経]]・[[書経]])ではなく法が教えである。師は先王ではなく官吏である。勇は私闘ではなく戦にある。民の行動は法と結果に基づき、有事では勇敢である。これを王資という」の部分であり<ref name=KanGo>{{cite web|url=http://ctext.org/hanfeizi/wu-du/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 『韓非子』《五蠹》10-13 |publisher=網站的設計與内容|accessdate=2011-11-20}}</ref>、また国に巣食う蟲とは「儒・俠・賄・商・工」の5匹(五蠹)である<ref name=KanGo /> という箇所にも共感を得た<ref name=Yoshi81 />。 |
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蒙恬による匈奴遠征も、この時期に方士が持参した預言書に「秦を滅ぼすものは胡なり」と記載されていたことから胡族(異民族)討伐の動機になったとも言われる(後に、この胡とは異民族の事ではなく、二世皇帝の[[胡亥]]であると言われた)。 |
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====韓・趙の滅亡==== |
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始皇帝は方士による仙薬(一説では[[水銀]])で健康を害するようになった。[[紀元前210年|前210年]]の五度目の巡幸では、みずから海へ出て大魚を射殺したが、その直後に発病し、咸陽へ帰還できないまま巡幸の途中で崩御した。趙高によって崩御は咸陽に帰還するまで秘匿されることとなり、始皇帝の遺体の[[死臭]]を隠すため、趙高は始皇帝の車の後ろに魚の干物を乗せた車を用意させ、始皇帝崩御を隠し通した。 |
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{{main|秦の統一戦争}} |
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秦は強大な軍事力を誇り、先代の荘襄王治世の3年間にも領土拡張を遂げていた<ref name=Yoshi30 />。秦王政の代には、魏出身の[[尉繚子|尉繚]]の意見を採用し、他国の人間を買収してさまざまな工作を行う手段を用いた。一度は職を辞した尉繚は留め置かれ、軍事顧問となった<ref name=Yoshi81 />。 |
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秦王政17年(前230年)、韓非が死んだ3年後、韓は陽翟が陥落して[[韓王安]]が捕縛されて滅んだ([[韓攻略|韓の滅亡]])<ref name=Yoshi81 />。 |
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始皇帝は長子の扶蘇を後継者とする遺詔を趙高に托していたが、扶蘇が皇帝に即位することで自らの権勢が危うくなることを恐れた趙高は、李斯と結託して胡亥を後継者とする遺詔を捏造した。始皇帝崩御の翌年には[[陳勝・呉広の乱]]が発生し、秦は一気に滅亡へと突き進んでいく。 |
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秦王政18年(前229年)、秦は王翦・[[楊端和]]・[[羌瘣]]に[[趙 (戦国)|趙]]を攻めさせた。次の標的になった趙には、[[幽繆王]]の臣である[[郭開]]への買収工作がすでに完了していた。[[田斉|斉]]との連合も情報が漏れ、[[旱魃]]や[[地震]]災害<ref>Hk.chiculture.net. "[http://hk.chiculture.net/php/sframe.php?url=http://hk.chiculture.net/0105/htmlBackup/0105c12.html HKChinese culture]." ''破趙逼燕.'' Retrieved on 2009-01-18.</ref><ref name="Haw">Haw, Stephen G. (2007). ''Beijing a Concise History''. Routledge. ISBN 978041539906-7. p 22 -23.</ref> につけこまれた秦の侵攻にも、趙王が讒言で[[李牧]]を誅殺し、[[司馬尚]]を解任してしまい、簡単に敗れた。 |
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始皇帝の子孫は、二世皇帝の胡亥の権力を脅かすとして趙高らに罪を着せられて男女を問わずほとんどが処刑され、また、胡亥の死後に三世皇帝に即位した[[子嬰]]も、秦を滅亡させた項羽によって処刑された。 |
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秦王政19年(前228年)、趙王は捕虜となり、国は秦に併合された([[趙攻略|趙の滅亡]])<ref name=Yoshi88>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.88-94、第三章 統一への道‐六国併合‐2]]</ref>。生まれた邯鄲に入った秦王政は、母の[[趙姫 (荘襄王)|太后]]の実家と揉めていた者たちを生き埋めにして秦へ戻った<ref name=Yoshi88 />。 |
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== 始皇帝の大土木事業 == |
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[[ファイル:Guerriers Xian.jpg|right|400px|thumb|兵馬俑]] |
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始皇帝は外征とともに大土木事業を数多く実施し、その負担は民衆の生活を圧迫した。これは後世から暴君と呼ばれる理由の一つとなっている。しかし[[万里の長城]]建設のように、必要性の高い事業も多く実施している。漢代になると[[匈奴]]には[[冒頓単于]]が登場して強勢となり、漢軍を打ち破っている。匈奴の勢力拡大を牽制させるために長城を建設し、蒙恬による匈奴遠征を実施した始皇帝は先見の明があったとも言える。 |
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趙王は捕らえられたが、その兄の[[代王嘉|公子嘉]]は[[代郡]]([[河北省]])に逃れ、亡命政権である[[代 (戦国)|代]]を建てた。 |
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また、韓の[[鄭国]]は秦を疲弊させるために大規模な[[灌漑]]事業を行わせた。鄭国の目論みは発覚するものの、秦には鄭国のような技術者がいなかったために始皇帝は鄭国を処刑せずに事業を継続し成功させ、今まで荒野だった土地を豊かにさせる結果となり、現代まで引き継がれている。 |
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====暗殺未遂と燕の滅亡==== |
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しかし、咸陽の大拡張工事、美女を三千人集めたという[[阿房宮]](「[[阿呆]]」の語源と言われる)、[[1974年]]に発見された[[兵馬俑]]を初めとする大規模な[[始皇帝陵]]造営などは大きな財政負担となり、その工事に民衆を強制的に徴用したことから陳勝・呉広の乱が発生した。従って、大土木工事は秦帝国崩壊の直接的な原因であると言える。 |
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{{Main|荊軻}} |
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[[燕 (春秋)|燕]]は弱小な国であった<ref name="Firsteselect">Sima Qian. Dawson, Raymond Stanley. Brashier, K. E. (2007). ''The First Emperor:Selections from the Historical Records''. Oxford University Press. ISBN 0199226342, 9780199226344. pg 15 - 20, pg 82, pg 99.</ref>。[[燕太子丹|太子の丹]]はかつて人質として趙の邯鄲で過ごし、同じ境遇の政と親しかった。政が秦王になると、丹は秦の人質となり咸陽に住んだ。このころ、彼に対する秦の扱いは礼に欠けたものになっていた<ref name=Yoshi88 />。『燕丹子』という書によると、帰国の希望を述べた丹に秦王政は「烏の頭が白くなり、馬に角が生えたら返そう」と言った。ありえないことに丹が嘆息すると、白い頭の烏と角が生えた馬が現れた。やむなく政は帰国を許したという<ref name=Yoshi88 />。実際は脱走したと思われる<ref name=Chin196>[[#陳1998|陳 (1998)、pp.196-227、天下統一]]</ref> 丹は秦に対し深い恨みを抱くようになった<ref name=Yoshi88 /><ref>{{cite web|url=http://ctext.org/shiji/ci-ke-lie-zhuan/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 『史書』刺客列傳 26|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2011-12-20}}</ref>。 |
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[[Image:Jin Ke assassination attempt Wu Family Shrine.jpg|thumb|left|300px|逃げる秦王政(左)と襲いかかる荊軻(右)。中央上に伏せる者は秦舞陽、下は樊於期の首。[[武氏祠]]石室。]] |
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== 歴史的評価 == |
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両国の間にあった趙が滅ぶと、秦は幾度となく燕を攻め、燕は武力では太刀打ちできなかった<ref name="Firsteselect" />。丹は非常の手段である[[暗殺]]計画を練り、[[荊軻]]という[[刺客]]に白羽の矢を立てた<ref name="Ren" /><ref name="Firsteselect" />。 |
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[[ファイル:Cin Shihhuang Shaanxi statue.jpg|200px|thumb|始皇帝の銅像]] |
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始皇帝に先見性があり有能な皇帝であったことは広く認められている。始皇帝が人材を好んでいたことを示す話として[[韓非]]や[[尉繚子]]らに対してのものがある。秦が崩壊した原因の一端は始皇帝にあるが、その一方でもし始皇帝がこの時代にいなければ、中国の統一は実現されず、分裂したまま歴史が進んだのではないかとも推測できる<ref>作家[[陳舜臣]]は『小説十八史略』にて、「始皇帝がいなければ、中国はヨーロッパの様な分裂した国家群になっていただろう」と述べている。</ref>。 |
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秦王政20年(前227年)、荊軻は[[秦舞陽]]を供に連れ、督亢(とくごう)の地図と秦の元将軍で燕に亡命していた[[樊於期]]の首を携えて政への謁見に臨んだ<ref name=Yoshi88 /><ref name="Firsteselect" />。秦舞陽は手にした地図の箱を差し出そうとしたが、恐れおののき政になかなか近づけなかった。荊軻は、「供は[[天子]]の威光を前に目を向けられないのです」と言いつつ進み出て、地図と首が入る二つの箱を持ち進み出た<ref name="Firsteselect" />。受け取った秦王政が巻物の地図をひもとくと、中に隠していた匕首<!--匙のような形状の暗器のことであり、短刀ではない-->が最後に現れ、荊軻はそれをひったくり政へ襲いかかった。政は身をかわし逃げ惑ったが、護身用の長剣を抜くのに手間取った<ref name="Firsteselect" />。宮殿の官僚たちは武器所持を、近衛兵は許可なく殿上に登ることを秦の「法」によって厳しく禁じられ、大声を出すほかなかった。しかし、従医の[[夏無且]]が投げた薬袋が荊軻に当たり、剣を背負うよう叫ぶ臣下の言に政はやっと剣を手にし、荊軻を斬り伏せた<ref name="Firsteselect" /><ref name=Yoshi95>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.95-101、第三章 統一への道‐六国併合‐3]]</ref>。 |
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[[儒教]]を重視する立場からは、焚書坑儒を行った始皇帝は[[暴君]]と位置づけられていた。しかし、近年は始皇帝は既存の封建体制を法治思想による新たな国家体制へ変革させたとして評価する意見もある。[[漢]]が[[前漢]]・[[後漢]]を合わせて約400年続いたのは、秦の政治的な成果を民衆の反発を受けることなく継承したことが大きい。 |
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政はこれに激怒し、同年には燕への総攻撃を仕掛け、燕・代の連合軍を易水の西で破った。 |
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一方で、文化や背景の異なる六国を統一した後、急激な[[中央集権]]化、厳格な法治主義、統一直後からの大規模工事を行い、征服された国ばかりか自国の民衆の反感を買ったことは事実である。後世、詩人の[[李白]]は『国風』四十八<ref>{{Quotation|<poem>{{Lang|zh-tw|秦皇按寶劍 赫怒震威神}}(<ruby><rb>秦皇</rb><rp>(</rp><rt>しんこう</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>寶劍</rb><rp>(</rp><rt>ほうけん</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>按</rb><rp>(</rp><rt>あん</rt><rp>)</rp></ruby>じ、<ruby><rb>赫怒</rb><rp>(</rp><rt>かくど</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>威神</rb><rp>(</rp><rt>いしん</rt><rp>)</rp></ruby>を<ruby><rb>震</rb><rp>(</rp><rt>ふる</rt><rp>)</rp></ruby>う。) |
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そして、秦王政19年(前226年)、暗殺未遂の翌年に首都[[房山区|薊]]を落とした。荊軻の血縁をすべて殺害しても怒りは静まらず、ついには町の住民全員も殺害された<ref name=Yoshi95 />。その後の戦いも秦軍は圧倒し、[[遼東]]に逃れた[[燕王喜]]は丹の首級を届けて和睦を願ったが聞き入れられず、5年後には捕らえられた([[燕攻略|燕の滅亡]])<ref name=Chin196 /><ref name=Yoshi95 />。 |
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====魏・楚・斉の滅亡==== |
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次に秦の標的となった魏は、かつて五国の[[合従]]軍を率いた[[信陵君]]を失い弱体化していた。 |
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秦王政22年(前225年)、秦王政は[[王賁]]に魏を攻めさせ、その首都・[[開封市|大梁]]を包囲した。魏は[[黄河]]と梁溝を堰き止めて大梁を水攻めされても3か月耐えたが、ついに降伏し、魏も滅んだ([[魏攻略|魏の滅亡]])<ref name=Yoshi95 />。 |
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同年、秦と並ぶ強国・楚との戦いに入った<ref>''Sima Qian:The First Emperor''. Tr. by Raymond Dawson. Oxford University Press. Edition 2007, Chronology, p. xxxix</ref>。秦王政は若い[[李信]]と[[蒙恬]]に20万の兵を与え指揮を執らせた。緒戦こそ優勢だった秦軍だが、前年に民の安撫のため楚の公子である元右丞相の[[昌平君]]を配した楚の旧都郢陳で起きた反乱<ref>史記 王翦列伝 また昌平君の項を参照の事</ref> と楚軍の猛追に遭い大敗した。秦王政は将軍の[[王翦]]に秦の全軍に匹敵する60万の兵を託し、秦王政24年([[紀元前223年]])に楚を滅ぼした([[楚攻略|楚の滅亡]])<ref name=Chin196 /><ref name=Ousen>{{cite web|url=http://ctext.org/shiji/bai-qi-wang-jian-lie-zhuan/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 『史書』白起王翦列傳10-12|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2011-12-20}}</ref>。 |
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最後に残った斉は約40年間ほとんど戦争をしていなかった。それは、秦が買収した宰相の[[后勝]]とその食客らの工作もあった。秦に攻められても斉は戦わず、后勝の言に従い無抵抗のまま降伏し滅んだ([[斉攻略|斉の滅亡]])<ref name=Yoshi101>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.101-106、第三章 統一への道‐六国併合‐4]]</ref>。秦が戦国時代に幕を引いたのは、秦王政26年(前221年)のことであり、政は39歳であった<ref name=Yoshi101 />。 |
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===統一王朝=== |
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[[Image:Qin Shi Huang statue.jpg|195px|thumb|right|現代になって兵馬俑近郊に建設された始皇帝像]] |
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====皇帝==== |
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[[中国統一|中国が統一]]され、初めて強大なひとりの権力者の支配に浴した。最初に秦王政は、重臣の[[王綰]]・[[馮劫]]・李斯らに称号を刷新する審議を命じた。それまで用いていた「王」は[[周]]の時代こそ天下にただ一人の称号だったが、[[春秋時代|春秋]]・戦国時代を通じ諸国が成立し、それぞれの諸侯が名乗っていた。統一を成し遂げた後には「王」に代わる尊称が求められた。王綰らは、[[五帝]]さえ超越したとして三皇の最上位である「[[泰皇]]」の号を推挙し、併せて指示を「命」→「制」、布告を「令」→「詔」、自称を謙譲的な「寡人」→「朕」にすべしと答申した。秦王政は答えて「去『泰』、著『皇』、采上古『帝』位號、號曰『皇帝』。他如議。」「始皇本紀第六」「泰皇の泰を去り、上古の帝位の号を採って皇帝と号し、その他は議の通りとしよう」(『史記Ⅰ本記』ちくま学芸文庫 小竹文夫・小竹武夫訳 P145)と、新たに「皇帝」の称号を使う決定を下した<ref name=Yoshi107 />。 |
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====五徳終始==== |
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始皇帝はまた戦国時代に成立した[[五行思想]](木、火、土、金、水)と王朝交代を結びつける説を取り入れた。これによると、周王朝は「赤」色の「火」で象徴される徳を持って栄えたと考えられる。続く秦王朝は相克によって「火」を討ち滅ぼす「黒」色の「水」とされた。この思想を元に、儀礼用衣服や皇帝の旗(旄旌節旗)には黒色が用いられた<ref name="Wood4">Wood, Frances. (2008). ''China's First Emperor and His Terracotta Warriors''. Macmillan publishing. ISBN 0312381123, 9780312381127. p 27.</ref>。史記の伝説では秦の始祖、大[[費]](柏翳)が成功し、舜に黒色の旗を貰った、と有る。五行の「水」は他に、[[方位]]の「[[北]]」、[[季節]]の「[[冬]]」、[[数字]]の「[[6]]」でも[[象徴]]された<ref>Murowchick, Robert E. (1994). ''China:Ancient Culture, Modern Land''. University of Oklahoma Press, 1994. ISBN 0806126833, 9780806126838. p105.</ref><ref name=Yoshi114>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.114-123、第四章 天下統一‐皇帝の誕生‐2]]</ref>。 |
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====政治==== |
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始皇帝は周王朝時代から続いた古来の支配者観を根底から覆した<ref name="Clements">Clements, Jonathan (2006). ''The First Emperor of China''. Sutton Publishing. ISBN 0750939591. pp. 82, 102-103, 131, 134.</ref>。[[政治]]支配は[[中央集権]]が採用されて被征服国は独立国の体を廃され<ref name="Imperialism">Imperialism in Early China. CA. 1600BC - 8AD'. University of Michigan Press. ISBN 0472115332, 9780472115334. p 43-44'</ref>、代わって36の[[郡]]が置かれ、後にその数は48に増えた。郡は「県」で区分され、さらに「郷」そして「里」と段階的に小さな行政単位が定められた<ref name="Chang">Chang, Chun-shu Chang. (2007). ''The Rise of the Chinese Empire:Nation, State, and Imperialism in Early China, CA. 1600BC - 8AD''. University of Michigan Press. ISBN 0472115332, 9780472115334. p 43-44</ref>。これは[[郡県制]]を中国全土に施行したものである<ref name=Yoshi114 />。 |
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統一後、臣下の中では従来の[[封建制#中国史における封建制|封建制]]を用いて王子らを諸国に封じて統治させる意見が主流だったが、これは古代中国で発生したような政治的混乱を招く<ref name=Imperialism/><ref name=Yoshi128>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.128-136、第四章 天下統一‐皇帝の誕生‐4]]</ref> と強硬に主張した李斯の意見が採られた<ref name=Yoshi114 />。こうして、過去の緩やかな同盟または連合を母体とする諸国関係は刷新された<ref name="Veeck">Veeck, Gregory. Pannell, Clifton W. (2007). ''China's Geography:Globalization and the Dynamics of Political, Economic, and Social Change''. Rowman & Littlefield publishing. ISBN 0742554023, 9780742554023. p57-58.</ref>。伝統的な地域名は無くなり、例えば「楚」の国の人を「楚人」と呼ぶような区別はできなくなった<ref name="Chang" /><ref>The source also mention ch'ien-shou was the new name of the Qin people. The may be the Wade-Giles romanization of (秦受) "subjects of the Qin empire".</ref>。人物登用も、家柄に基づかず能力を基準に考慮されるようになった<ref name="Chang" />。 |
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====経済など==== |
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始皇帝と李斯は、[[度量衡]]や[[通貨]]<ref name="柿沼2015"/>、[[荷車]]の[[軸 (機械要素)|軸]]幅(車軌)、また[[位取り記数法]]<ref>{{Cite book|和書|author=監修:今井秀孝|title=トコトンやさしい計量の本|chapter=第1章 計るって何だろう|pages=22-23|publisher=[[日刊工業新聞社]]|year=2007|edition=第1刷|isbn=978-4-526-05964-3}}</ref> などを統一し、[[市制 (単位系)|市制]]の標準を定めることで経済の一体化を図った<ref name="Veeck" /><ref name=Yoshi123>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.123-128、第四章 天下統一‐皇帝の誕生‐3]]</ref>。さらに、各地方の交易を盛んにするため[[道路]]や[[運河]]などの広範な[[交通]]網を整備した<ref name="Veeck" />。各国でまちまちだった通貨は[[半両銭]]に一本化された<ref name="Chang" /><ref name=Yoshi123 />。そして最も重要な政策に、[[漢字]][[書体]]の統一が挙げられる。李斯は秦国内で[[篆書体]]への一本化を推進した<ref name=Yoshi128 />。皇帝が使用する文字は「篆書」と呼ばれ、これが標準書体とされた<ref name=Fuji69>[[#藤枝1999|藤枝 (1999)、pp.69-70、四 皇帝の文字 文字改革]]</ref>。臣下が用いる文字は「[[隷書体|隷書]]」として、[[程邈]]という人物が定めたというが、一人で完成できるものとは考えにくい<ref name=Fuji93>[[#藤枝1999|藤枝 (1999)、pp.93-97、五 政治の文字 隷書]]</ref>。その後、この書体を征服したすべての地域でも公式のものと定め、中国全土における通信網を確立するために各地固有の書体を廃止した<ref name="Chang" /><ref name=Yoshi128 />。 |
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度量衡を統一するため、基準となる長さ・重さ・容積の標準器が製作され各地に配られた。これらには篆書による以下の詔書([[権量銘]])が刻まれている<ref name=Fuji75>[[#藤枝1999|藤枝 (1999)、pp.75-79、四 皇帝の文字 度量衡]]</ref>。 |
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{{Quotation|{{Lang|zh-tw|廿六年 皇帝盡并兼天下 諸侯黔首大安 立號為皇帝 乃詔丞相狀綰 法度量則 不壹嫌疑者 皆明壹之}}<br>始皇26年、始皇帝は天下を統一し、諸侯から民衆までに平安をもたらしたため、号を立て皇帝となった。そして丞相の状(隗状)と綰(王綰)に度量衡の法を決めさせ、嫌疑が残らないよう統一させた。|青銅詔版<ref name=Fuji75 /><ref>{{Cite web|和書|url=http://abc0120.net/words03/abc2010051201.html |title=青銅詔版の権量銘|publisher=考古用語辞典|accessdate=2011-11-20}}</ref>}} |
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===大土木事業=== |
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{{Anchors|大土木事業}} |
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[[Image:Epang-Palast.jpg|170px|thumb|right|阿房宮図。清代の袁耀作。]] |
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====咸陽と阿房宮==== |
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始皇帝は各地の富豪12万戸を首都・咸陽に強制移住させ、また諸国の武器を集めて鎔かし{{仮リンク|十二金人|en|12 Jin Ren}}を製造した。これは地方に残る財力と武力を削ぐ目的で行われた<ref name=Yoshi151>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.151-157、第五章 咸陽‐阿房宮と驪山陵‐3]]</ref>。咸陽城には滅ぼした国から娼妓や美人などが集められ、その度に宮殿は増築を繰り返した。人口は膨張し、従来の[[渭水]]北岸では手狭になった<ref name=Yoshi151 />。 |
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始皇35年(前212年)、始皇帝は皇帝の居所にふさわしい宮殿の建設に着手し、渭水南岸に広大な[[阿房宮]]建設に着手した。ここには[[恵文王 (秦)|恵文王]]時代に建設された宮殿があったが、始皇帝はこれを300里前後まで拡張する計画を立てた。最初に1万人が座れる前殿が建設され、門には[[磁石]]が用いられた。居所である紫宮は四柱が支える大きな[[庇|ひさし]](四阿旁広)を持つ<ref name=Yoshi151 /> 巨大な宮殿であった<ref name=Chin228 />。 |
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名称「阿房」とは仮の名称である<ref>司馬遷『史記』秦始皇本紀「阿房宮未成。'''成、欲更択令名名之'''」</ref>。この「阿房」は史記・秦始皇本紀には「作宮阿房、故天下謂之阿房宮(宮を阿房に作る。故に天下之を阿房宮と謂う)」とあり地名<ref>陝西省長安の西北にある山の名。新釈漢文大系38「史記一(本紀)」吉田賢抗著、349頁。</ref> であるが、学者は「阿」が近いという意味から咸陽近郊の宮を指すとも<ref name=Yoshi151 />、四阿旁広の様子からつけられたとも<ref name=Yoshi151 />、始皇帝に最も寵愛された妾の名<ref>Chang, Kwang-chih. Xu, Pingfang. Lu, Liancheng. Allan, Sarah. (2005). ''The Formation of Chinese Civilization:An Archaeological Perspective''. Yale University Press. ISBN 0300093829, 9780300093827. pg 258.</ref> とも言う。 |
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====始皇帝陵 (驪山)==== |
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秦王に即位した紀元前247年には自身の陵墓建設に着手した。それ自体は寿陵と呼ばれ珍しいことではないが、陵墓は規模が格段に大きかった。阿房宮の南80里にある[[驪山]](所在地:{{Coord|34|22|52.75|N|109|15|13.06|E|type:landmark}})が選ばれ始められた建設は、統一後に拡大された<ref name=Yoshi158>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.158-164、第五章 咸陽‐阿房宮と驪山陵‐4]]</ref>。始皇帝の晩年には阿房宮と驪山陵の建設に隠宮の徒刑者70万人が動員されたという記録がある<ref>司馬遷『史記』秦始皇本紀「隠宮徒刑者七十余万人、乃分作阿房宮、或作驪山。」</ref>。 |
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木材や石材が遠方から運ばれ、地下水脈に達するまで掘削した陵の周囲は銅で固められた。その中に宮殿や楼観が造られた。さらに[[水銀]]が流れる川が100本造られ、「[[天体]]」を再現した装飾がなされ、侵入者を撃つ[[石弓]]が据えられたという<ref name=Yoshi158 /><ref>Man, John. ''The Terracotta Army'', Bantam Press 2007 p170. ISBN 978-0593059296.</ref>。珍品や豪華な品々が集められ、俑で作られた官臣が備えられた<ref name=Yoshi158 />。これは、死後も生前と同様の生活を送ることを目的とした荘厳な建築物であり、現世の宮殿である阿房宮との間80里は閣道で結ばれた<ref name=Yoshi158 />。 |
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1974年3月29日、井戸掘りの農民たちが[[兵馬俑]]を発見したことで、始皇帝陵は世界的に知られるようになった<ref>Huang, Ray. (1997). ''China:A Macro History''. Edition:2, revised, illustrated. M.E. Sharpe publishing. ISBN 1563247313, 9781563247316. p 37</ref>。ただし、始皇帝を埋葬した陵墓の発掘作業が行われておらず、比較的完全な状態で保存されていると推測される<ref>Jane Portal and Qingbo Duan, ''The First Emperor:China's Terracotta Arm'', British Museum Press, 2007, p. 207.</ref>。現代になり、考古学者は墓の位置を特定して、[[探針]]を用いた調査を行った。この際、自然界よりも濃度が約100倍高い水銀が発見され、伝説扱いされていた建築が事実だと確認された<ref name="wright" />。 |
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なお、現在は「始皇帝陵」という名前が一般的になっているが、このように呼ばれるようになったのは漢代以降のことであり、それ以前は「[[驪山]]」と呼ばれていた<ref>鶴間和幸「始皇帝陵と東方世界~大河・山川・海」・東アジアの歴史都市と自然環境-先端科学が拓く「古都・長安学」(学習院大学 国際研究教育機構)2013年11月16日にて講演。 |
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『宇宙と地下からのメッセージ-秦始皇帝陵とその自然環境』(共著書、鶴間和幸・惠多谷雅弘監修)D-CODE、2013年3月 |
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</ref>。 |
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[[File:GreatWallChina1.png|thumb|200px|秦代の長城。小さな点は戦国時代までにあったもの。大きな点が始皇帝によって建設された部分。後の王朝も改修や延長を行い現在に至る。]] |
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[[File:Lingqu Canal.jpg|thumb|200px|現代に残る[[霊渠]]]] |
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====万里の長城==== |
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{{Main|万里の長城}} |
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中国は統一されたが、始皇帝はすべての敵を殲滅できたわけではなかった。それは北方および北西の[[遊牧民]]であった。戦国七雄が争っていたころは[[匈奴]]も[[東胡]]や[[月氏]]と牽制し合い、南に攻め込みにくい状態にあった。しかし、中国統一のころには勢力を強めつつあったので、防衛策を講じた。<ref name=Chin228>[[#陳1998|陳 (1998)、pp.228-257、万里の長城]]</ref>。始皇帝は[[蒙恬]]を北方防衛に当たらせた<ref name=Chin228 />。そして巨大な防衛壁建設に着手した<ref name="Haw" /><ref name="Li">Li, Xiaobing. (2007). ''A History of the Modern Chinese Army''. University Press of Kentucky, 2007.ISBN 0813124387, 9780813124384. p.16</ref>。逮捕された不正役人を動員して建造した<ref>司馬遷『史記』秦始皇本紀「三十四年、適'''治獄吏不直者'''、築長城及南越地」</ref> この壁は、現在の[[万里の長城]]の前身にあたる。これは、過去400年間にわたり趙や[[中山国]]など各国が川や崖と接続させた小規模な国境の壁をつなげたものであった<ref name=Chin228 /><ref name="Clements_p102-103">Clements, Jonathan (2006). ''The First Emperor of China''. pp. 102-103.</ref><ref>Huang, Ray. (1997). ''China:A Macro History''. Edition:2, revised, illustrated. M.E. Sharpe publishing. ISBN 1563247313, 9781563247316. p 44</ref>。 |
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====霊渠==== |
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{{Main|霊渠}} |
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中国南部の有名なことわざに「北有長城、南有霊渠」というものがある<ref>Sina.com. "[http://news.sina.com.cn/c/2005-07-26/15497329339.shtml Sina.com]." ''秦代三大水利工程之一:靈渠.'' Retrieved on 2009-02-02.</ref>。始皇33年(前214年)、始皇帝は軍事輸送のため大[[運河]]の建設に着手し<ref name="Mayhew">Mayhew, Bradley. Miller, Korina. English, Alex. ''South-West China:lively Yunnan and its exotic neighbours''. Lonely Planet. ISBN 186450370X, 9781864503708. pg 222.</ref>、中国の南北を接続した<ref name="Mayhew" />。長さは34kmに及び、[[長江]]に流れ込む[[湘江]]と、[[珠江]]の注ぐ[[漓江]]との間をつないだ<ref name="Mayhew" />。この運河は中国の主要河川2本をつなぐことで秦の南西進出を支えた<ref name="Mayhew" />。これは、万里の長城・[[四川省]]の[[都江堰]]と並び、古代中国三大事業のひとつに挙げられる<ref name="Mayhew" />。 |
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===天下巡遊=== |
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中国を統一した翌年の紀元前220年に始皇帝は天下巡遊を始めた。最初に訪れた隴西([[甘粛省]]東南・旧[[隴西郡]])と北地(甘粛省[[慶陽市]][[寧県]]・旧[[寧州 (甘粛省)|北地郡]])は<ref name=ShikiSikou18>[[#史記「秦始皇本紀」|「秦始皇本紀」18]]</ref> いずれも秦にとって重要な土地であり、これは祖霊に統一事業の報告という側面があったと考えられる<ref name=Yoshi165>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.165-173、第六章 天下巡遊‐刻石と『雲夢秦簡』‐1]]</ref>。 |
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しかし始皇28年(前219年)以降4度行われた巡遊は、皇帝の権威を誇示し、各地域の視察および祭祀の実施などを目的とした距離も期間も長いものとなった。これは『[[書経]]』「虞書・舜典」にある[[舜]]が各地を巡遊した故事<ref>{{cite web|url=http://ctext.org/shang-shu/yu-shu/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 『尚書』《虞書》《舜典》3-4|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2011-11-20}}</ref> に倣ったものとも考えられる。始皇帝が通行するために、幅が50歩(67.5m)あり、中央には[[松]]の木で仕切られた皇帝専用の通路を持つ「馳道」が整備された<ref name=Yoshi165 />。 |
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[[Image:Qin tours.jpg|240px|thumb|right|始皇帝の天下巡遊路]] |
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順路は以下の通りである<ref name=Yoshi165 />。 |
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*始皇28年(前219年、第1回):咸陽‐嶧山(山東省[[鄒城市]])‐泰山(山東省[[泰安市]])‐黄(山東省[[竜口市]])‐腄(山東省[[煙台市]][[福山区]])‐成山(山東省[[栄成市]])‐[[芝罘区|之罘]](山東省煙台市芝罘区)‐瑯琊(山東省[[青島市]][[黄島区]])‐彭城([[江蘇省]][[徐州市]])‐衡山([[湖南省]][[湘潭市]])‐南郡([[湖北省]]南部)‐湘山祠(湖南省[[岳陽市]][[君山区]])‐武関([[陝西省]][[丹鳳県]])‐咸陽<ref name=ShikiSikou1926>[[#史記「秦始皇本紀」|「秦始皇本紀」19-26]]</ref><ref group="注">[[#吉川2002|参考文献「秦の始皇帝」p.166]]では、衡山の後は湘山祠、南郡、武関の順序となっているが、ここでは『史記』「始皇帝本紀」26にならう。</ref> |
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*29年:咸陽‐陽武([[河南省]][[新郷市]][[原陽県]])‐之罘‐瑯琊‐上党([[山西省]][[長治市]])‐咸陽<ref name=ShikiSikou2731>[[#史記「秦始皇本紀」|「秦始皇本紀」27-31]]</ref> |
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*始皇32年(前215年、第3回):咸陽‐碣石([[河北省]][[秦皇島市]][[昌黎県]])‐上郡([[陝西省]]北部)‐咸陽<ref name=ShikiSikou3436>[[#史記「秦始皇本紀」|「秦始皇本紀」34-36]]</ref> |
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*始皇37年(前210年、第4回):咸陽‐雲夢(湖北省[[雲夢県]])‐海渚([[安徽省]][[安慶市]][[迎江区]])‐丹陽(江蘇省[[南京市]])‐銭唐([[浙江省]][[杭州市]])‐会稽(浙江省[[紹興市]])‐呉(江蘇省[[蘇州市]])‐瑯琊‐成山‐之罘‐平原津(山東省[[徳州市]][[平原県]])‐沙丘(河北省[[邢台市]][[広宗県]])<ref name=ShikiSikou4346>[[#史記「秦始皇本紀」|「秦始皇本紀」43-46]]</ref> |
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これら巡遊の証明はもっぱら『史記』の記述のみに頼っていた。しかし、1975-76年に湖北省[[孝感市]][[雲夢県]]の戦国‐秦代の古墳から発掘された[[睡虎地秦簡]]の『編年紀』と名づけられた[[竹簡]]の「今二十八年」条の部分から「今過安陸」という文が見つかった。「今」とは今皇帝すなわち始皇帝を指し、「二十八年」は始皇28年である紀元前219年の出来事が書かれた部分となる。「今過安陸」は始皇帝が安陸(湖北省南部の地名)を通過したことを記録している。短い文章ではあるが、これは同時期に記録された巡遊を証明する貴重な資料である<ref name=Yoshi173>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.173-180、第六章 天下巡遊‐刻石と『雲夢秦簡』‐2]]</ref>。 |
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====封禅==== |
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[[File:秦始皇帝東巡雕塑.jpg|thumb|始皇帝の東方の巡遊]] |
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第1回目の巡遊は主に東方を精力的に回った。{{Anchors|封禅}}途中の[[泰山]]にて、始皇帝は[[封禅]]の儀を行った。これは天地を祀る儀式であり、天命を受けた天子の中でも功と徳を備えた者だけが執り行う資格を持つとされ<ref name=Chin9>[[#陳1998|陳 (1998)、pp.9-41、秦山風物]]</ref>、かつて斉の[[桓公 (斉)|桓公]]が行おうとして[[管仲]]が必死に止めたと伝わる<ref name=Hou12>[[#史記「封禪書」|「封禪書」12]]</ref>。始皇帝は、自らを五徳終始思想に照らし「火」の周王朝を次いだ「水」の徳を持つ有資格者と考え<ref name=Hou19>[[#史記「封禪書」|「封禪書」19]]</ref>、この儀式を遂行した<ref name=Yoshi195>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.195-202、第七章 方士と儒生‐封禅と焚書坑儒‐1]]</ref>。 |
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しかし管仲の言を借りれば、最後に封禅を行った天子は周の[[成王 (周)|成王]]であり<ref name=Hou12 />、すでに500年以上の空白があった。式次第は残されておらず<ref name=Chin9 />、始皇帝は儒者70名ほどに問うたが、その返答はばらばらで何ら参考になるものはなかった<ref name=Yoshi195 /><ref name=Hou20>[[#史記「封禪書」|「封禪書」20]]</ref>。結局始皇帝は彼らを退け、秦で行われていた祭祀を基にした独自の形式で封禅を敢行した<ref name=Chin9 /><ref name=Yoshi195 />。頂上まで車道が敷かれ、南側から登った始皇帝は山頂に碑を建て、「封」の儀式を行った。下りは北側の道を通り、隣の梁父山で「禅」の儀式を終えた<ref name=Yoshi195 />。 |
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この封禅の儀は、詳細が明らかにされなかった<ref name=Hou20 />。排除された儒家たちは「始皇帝は暴風雨に遭った」など推測による誹謗を行ったが、儀礼の不具合を隠す目的があったとか<ref name=Yoshi195 />、我流の形式であったため後に正しい方法がわかったときに有効性を否定されることを恐れたとも言われる<ref name=Chin9 />。吉川忠夫は、始皇帝は泰山で自らの[[不老不死]]を祈る儀式も行ったため、全容を秘匿する必要があったのではとも述べた<ref name=Yoshi195 />。 |
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====神仙への傾倒==== |
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[[File:La expedición de Xu Fu, por Utagawa Kuniyoshi.jpg|thumb|left|不死の妙薬を求めて紀元前219年に出航した[[徐福|徐巿]]の船。]] |
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泰山で封禅の儀を行った後、始皇帝は[[山東半島]]を巡る。これを司馬遷は「求僊人羨門之屬」と書いた<ref name=Hou22>[[#史記「封禪書」|「封禪書」22]]</ref>。僊人とは[[仙人]]のことであり、始皇帝が[[神仙思想]]に染まりつつあったことを示し<ref name=Yoshi202>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.202-206、第七章 方士と儒生‐封禅と焚書坑儒‐2]]</ref>、そこに取り入ったのが[[方士]]と呼ばれる者たちであった<ref name="Ong">Ong, Siew Chey. Marshall Cavendish. (2006). ''China Condensed:5000 Years of History & Culture''. ISBN 9812610677, 9789812610676. p 17.</ref>。方士とは不老不死の秘術を会得した人物を指すが、実態は「怪迂阿諛苟合之徒」<ref name=Hou23>[[#史記「封禪書」|「封禪書」23]]</ref> と、怪しげで調子の良い(苟合)話によって権力者にこびへつらう(阿諛 - ごまをする)者たちであったという<ref name=Yoshi195 />。 |
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その代表格が、始皇帝が瑯琊で石碑(瑯琊台刻石)を建立した後に謁見した[[徐福|徐巿]]である。斉の出身である徐巿は、東の海に伝説の[[蓬萊|蓬萊山]]など仙人が住む山(三神山)があり、それを探り1000歳と言われる仙人の{{仮リンク|安期生|zh|安期生}}を伴って帰還する<ref>Fabrizio Pregadio. ''The Encyclopedia of Taoism''. London:Routledge, 2008:199</ref> ための出資を求める上奏を行った。始皇帝は第1回の巡遊で初めて海を見たと考えられ、中国一般にあった「海は晦なり」(海は暗い‐未知なる世界)で表される神秘性に魅せられ、これを許可して数千人の童子・童女を連れた探査を指示した<ref name=Yoshi202 /><ref name="Wintle" />。第2回巡遊でも瑯琊を訪れた始皇帝は、風に邪魔されるという風な徐巿の弁明に疑念を持ち、他の方士らに仙人の秘術探査を命じた<ref name=Yoshi202 />。言い逃れも限界に達した徐巿も海に漕ぎ出し、手ぶらで帰れば処罰されると恐れた一行は逃亡した。伝説では、[[日本]]にたどり着き、そこに定住したともいう<ref name="Ong" /><ref name=Yoshi218>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.218-227、第七章 方士と儒生‐封禅と焚書坑儒‐5]]</ref>。 |
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====刻石==== |
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各地を巡った始皇帝は、伝わるだけで7つの碑([[始皇七刻石]])を建立した。第1回では嶧山と封禅を行った泰山そして瑯琊、第2回では之罘に2箇所、第3回では碣石、第4回では会稽である。現在は泰山刻石と瑯琊台刻石の2碑が極めて不完全な状態で残されているのみであり、碑文も『史記』に6碑が記述されるが嶧山刻石のそれはない<ref name=Yoshi165 />。碑文はいずれも[[篆書体|小篆]]で書かれ、始皇帝の偉業を称える内容である<ref name=Yoshi165 />。 |
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====逸話==== |
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始皇帝の巡遊にはいくつかの[[逸話]]がある。第1回の旅で彭城に立ち寄った際、[[鼎]]を探すため[[泗河|泗水]]に千人を潜らせたが見つからなかったと『史記』にある<ref name=ShikiSikou26>[[#史記「秦始皇本紀」|「秦始皇本紀」26]]</ref>。これは昭王の時代に周から秦へ渡った九つの鼎の内の失われた一つであり、始皇帝は全てを揃え王朝の正当性を得ようとしたが、かなわなかった<ref name=Yoshi173 />。この件について[[北魏]]時代に[[酈道元]]が撰した『[[水経注]]』では、鼎を引き上げる綱を[[竜]]が噛みちぎったと伝える。[[後漢]]時代の[[武氏祠]]石室には、この事件を伝える画像石「泗水撈鼎図」があり、切れた綱に転んだ者たちが描かれている<ref name=Yoshi173 />。 |
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『三斉略記』は、第3回巡遊で碣石に赴いた際に海神とのやりとりがあったことを載せている。この地で始皇帝は海に石橋を架けたが、この橋脚を建てる際に海神が助力を与えた。始皇帝は会見を申し込んだが、海神は醜悪な自らの姿を絵に描かないことを条件に許可した。しかし、臣下の中にいた画工が会見の席で足を使い筆写していた。これを見破った海神が怒り、始皇帝は崩れゆく石橋を急ぎ引き返して九死に一生を得たが、画工は溺れ死んだという<ref name=Yoshi202 />。 |
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===暗殺未遂=== |
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{{main|始皇帝の暗殺未遂}} |
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始皇帝は秦王政の時代に荊軻の暗殺計画から辛くも逃れたが、皇帝となった後にも少なくとも3度生命の危機にさらされた<ref name=Yoshi232>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.232-237、第八章 祖竜死す‐秦帝国の崩壊‐1]]</ref>。 |
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====高漸離の暗殺未遂==== |
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{{Main|高漸離}} |
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荊軻と非常に親しい間柄だった高漸離は[[筑]]の名手であった。燕の滅亡後に身を隠していたが筑の演奏が知られ、始皇帝にまで聞こえ召し出された。ところが荊軻との関係が露呈してしまった。この時は腕前が惜しまれ、眼をつぶされることで処刑を免れた。こうして始皇帝の前で演奏するようになったが、復讐を志していた<ref>Elizabeth, Jean. Ward, Laureate. (2008). ''The Songs and Ballads of Li He Chang''. ISBN 1435718674, 9781435718678. p 51</ref>。高漸離は筑に[[鉛]]塊を仕込み、それを振りかざして始皇帝を打ち殺そうとした。しかしそれは空振りに終わり、高漸離は処刑された<ref name=Yoshi232 /><ref name="Wu">Wu, Hung. ''The Wu Liang Shrine:The Ideology of Early Chinese Pictorial Art''. Stanford University Press, 1989. ISBN 0804715297, 9780804715294. p 326.</ref>。この後、始皇帝は滅ぼした国に仕えた人間を近づけないようにした<ref name=Yoshi232 />。 |
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====張良の暗殺未遂==== |
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{{Main|張良}} |
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第2回巡遊で一行が陽武近郊の博浪沙という場所を通っていた時、突然120[[斤]](約30kg<ref name=Chin228 />)の鉄錐が飛来した。これは別の車を砕き、始皇帝は無傷だった<ref name="Wintle">Wintle, Justin Wintle. (2002). ''China''. Rough Guides Publishing. ISBN 1858287642, 9781858287645. p 61. p 71.</ref>。この事件は、滅んだ韓の貴族だった[[張良]]が首謀し、怪力の勇士を雇い投げつけたものだった<ref name="Wintle"/>。この事件の後、大規模な捜査が行われたが張良と勇士は逃げ延びた<ref name="Mah" /><ref name=Yoshi232 /><ref>{{cite web|url=http://ctext.org/shuo-yuan/fu-en/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 儒家 説苑 復恩 14|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2011-12-20}}</ref>。 |
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====咸陽での襲撃==== |
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始皇31年(前216年)、始皇帝が4人の武人だけを連れたお忍びの夜間外出を行った際、蘭池という場所で盗賊が一行を襲撃した。この時には取り押さえに成功し、事なきを得た。さらに20日間にわたり捜査が行われた<ref name=Yoshi232 /><ref name=ShikiSikou33>[[#史記「秦始皇本紀」|「秦始皇本紀」33]]</ref>。 |
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===「真人」の希求=== |
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天下を統一し封禅の祭祀を行った始皇帝は、すでに自らを歴史上に前例のない人間だと考え始めていた。第1回巡遊の際に建立された琅邪台刻石には「古代の五帝三王の領地は千里四方の小地域に止まり、統治も未熟で鬼神の威を借りねば治まらなかった」と書かれている<ref name=ShikiSikou24>[[#史記「秦始皇本紀」|「秦始皇本紀」24]]</ref>。このように[[五帝]]や三王([[夏 (三代)|夏]]の[[禹|禹王]]、[[殷]]の[[湯王]]、[[周]]の[[文王 (周)|文王]]または[[武王 (周)|武王]])を評し、遥かに広大な国土を[[法治主義]]で見事に治める始皇帝が彼らをはるかに凌駕すると述べている<ref name=Yoshi173 />。逐電した徐巿<ref name="Ong" /> に代わって始皇帝に取り入ったのは燕出身の方士たちであり、特に[[盧生]]は様々な影響を与えた<ref name=Yoshi206>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.206-211、第七章 方士と儒生‐封禅と焚書坑儒‐3]]</ref>。 |
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====『録図書』と胡の討伐==== |
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盧生は徐巿と同様に不老不死を餌に始皇帝に近づき、秘薬を持つ仙人の探査を命じられた。仙人こそ連れて来なかったが、『録図書』という予言書を献上した。その中にある「秦を滅ぼす者は胡」<ref name=ShikiSikou36>[[#史記「秦始皇本紀」|「秦始皇本紀」36]]</ref> という文言を信じ、始皇帝は周辺民族の征伐に乗り出した<ref name=Yoshi206 />。 |
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万里の長城を整備したことからも、秦王朝にとって外敵といえば、まず匈奴が挙げられた。始皇帝は北方に駐留する蒙恬に30万の兵を与えて討伐を命じた。軍が[[オルドス地方]]を占拠すると、犯罪者をそこに移し、44の県を新設した。さらに現在の[[内モンゴル自治区]][[包頭市]]にまで通じる軍事道路「直道」を整備した<ref name=Yoshi206 />。 |
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一方で南には[[嶺南 (中国)|嶺南]]へ圧迫を加え、そこへ逃亡者や働かない婿、商人ら<ref>司馬遷『史記』秦始皇本紀「三十三年、発諸嘗'''逋亡人、贅婿、賈人'''略取陸梁地、為桂林、象郡、南海。以適遣戍」。</ref> を中心に編成された軍団を派遣し<ref name=Yoshi206 />、現在の[[広東省]]や[[ベトナム]]の一部も領土に加えた<ref name="Haw" />。ここにも新たに3つの郡が置かれ、犯罪者50万人を移住させた<ref name=Yoshi206 />。 |
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==== 不老不死の薬 ==== |
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[[2002年]]に[[湖南省]]の井戸の底から発見された3万6000枚に及ぶ[[木簡]]の中に、始皇帝が国内各地で不死の薬を探すよう命じた布告や、それに対する地方政府の返答が含まれていた。この発見により布告が辺境地域や僻村にまでも通達されていたことが分かった。 |
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地方政府の返答には「そのような妙薬はまだ見つかっていないが引き続き調査している」「地元の霊山で採取した薬草が不老不死に効くかもしれない」など当惑した様子がうかがわれる。<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3156672?act=all|title=「不老不死の薬探せ!」始皇帝の命令、木簡から発見|accessdate=2020-09-22|publisher=AFP}}</ref> |
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===焚書坑儒=== |
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====焚書==== |
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始皇34年(前213年)、胡の討伐が成功裏に終わり開かれた祝賀の席が、[[焚書]]の引き金となった。臣下や博士らが祝辞を述べる中、博士の一人であった[[淳于越]]が意見を述べた。その内容は、古代を手本に郡県制を改め封建制に戻すべしというものだった<ref name=ShikiSikou38>[[#史記「秦始皇本紀」|「秦始皇本紀」38]]</ref>。始皇帝はこれを群臣の諮問にかけた<ref>司馬遷『史記』秦始皇本紀「始皇下其議」</ref> が、郡県制を推進した李斯が再反論し、始皇帝もそれを認可した<ref>司馬遷『史記』秦始皇本紀「制曰、可。」</ref>。その内容は、農学・医学・占星学・占術・秦の歴史を除く全ての書物を、博士官にあるものを除き焼き捨て、従わぬ者は顔面に刺青を入れ、労役に出す。政権への不満を論じる者は[[族誅]]するという建策を行い、認められた<ref>司馬遷『史記』秦始皇本紀「臣請、史官非秦記、皆焼之。非博士官所職、天下敢有蔵詩・書・百家語者、尽詣守、尉雑焼之。」</ref><ref name="Lih">Li-Hsiang Lisa Rosenlee. Ames, Roger T. (2006). ''Confucianism and Women:A Philosophical Interpretation''. SUNY Press. ISBN 079146749X, 9780791467497. p 25.</ref>。特に『[[詩経]]』と『[[書経]]』の所有は、博士官の蔵書を除き<ref group="注">この蔵書は紀元前206年に[[項羽]]が咸陽宮に火をかけたことで消失した。''Records of the Grand Historian'', translated by Raymond Dawson in ''Sima Qian:The First Emperor''. [[オックスフォード大学出版局]], ed. 2007, pp. 74-75, 119, 148-9</ref> 厳しく罰せられた<ref name=Yoshi211 />。 |
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始皇帝が信奉した『韓非子』「五蠹」には「優れた王は不変の手法ではなく時々に対応する。古代の例にただ倣うことは、切り株の番をするようなものだ」と論じられている<ref>{{cite web|url=http://ctext.org/hanfeizi/wu-du/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 法家 韓非子 五蠹 1|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2011-12-20}}</ref>。こういった統治者が生きる時代背景に応じた政治を重視する考えを「後王思想」と言い、特に儒家の主張にある先王を模範とすべしという考えと対立するものだった<ref name=Yoshi211>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.211-218、第七章 方士と儒生‐封禅と焚書坑儒‐4]]</ref>。始皇帝自身がこの思想を持っていたことは、巡遊中の各刻石の文言からも読み取れる<ref name=Machi>{{cite journal |和書|url=https://doi.org/10.15017/18048 |title=秦の思想統制について : 雲夢秦簡ノート|author=町田三郎 |journal=中国哲学論集 |year=1978 |issue=4 |pages=1-17|naid=120002386608 |publisher=九州大学中国哲学研究会 |accessdate=2020-05-29}}</ref>。 |
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すでに郡県制が施行されてから8年が経過した中、淳于越がこのような意見を述べ、さらに審議された背景には、先王尊重の思想を持つ集団が依然として発言力を持っていた可能性が指摘される<ref name=Machi />。しかし始皇帝は淳于越らの意見を却下した。『韓非子』「姦劫弑臣」には「愚かな学者らは古い本を持ち出してはわめき合うだけで、目前の政治の邪魔をする」とある<ref>{{cite web|url=http://ctext.org/hanfeizi/jian-jie-shi-chen/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 法家 韓非子 姦劫弑臣|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2011-12-20}}</ref>。この焚書は、旧書体を廃止し篆書体へ統一する政策の促進にも役立った<ref name="Clementsp131">Clements, Jonathan (2006). ''The First Emperor of China''. p. 131.</ref>。 |
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====坑儒==== |
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始皇帝に取り入ろうとした方士の盧生は「真人」を説いた。真人とは『[[荘子 (書物)|荘子]]』「内篇・大宗師」で言う水で濡れず火に焼かれない人物とも<ref>{{cite web|url=http://ctext.org/hanfeizi/wu-du/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 道家 荘子 内篇 大宗師 1|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2011-12-20}}</ref>、「内篇・斉物論」で[[神]]と言い切られた存在<ref>{{cite web|url=http://ctext.org/zhuangzi/adjustment-of-controversies/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 道家 荘子 内篇 齊物論 11|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2011-12-20}}</ref> を元にする超人を指した<ref name=Yoshi218 />。盧生は、身を隠していれば真人が訪れ、不老不死の薬を譲り受ければ真人になれると話した。始皇帝はこれを信じ、一人称を「朕」から「真人」に変え、宮殿では複道を通るなど身を隠すようになった。ある時、丞相の行列に随員が多いのを見て始皇帝が不快がった。後日見ると丞相が随員を減らしていた。始皇帝は側近が我が言を漏らしたと怒り、その時周囲にいた宦者らすべてを処刑したこともあった<ref>司馬遷『史記』秦始皇本紀「始皇帝幸梁山宮、從山上見丞相車騎衆、不善也。中人或告丞相、丞相後損車騎。始皇怒曰、此中人洩吾語。案問莫服。当是時、詔捕諸時在旁者、皆殺之」</ref>。ただし政務は従来通り、咸陽宮で全て執り行っていた<ref>司馬遷『史記』秦始皇本紀「聴事、群臣受決事、悉於咸陽宮」。</ref>。 |
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しかし真人の来訪はなく、処罰を恐れた盧生と侯生は始皇帝の悪口を吐いて逃亡した。一方始皇帝は方士たちが巨額の予算を引き出しながら成果を挙げず、姦利を以って争い、あまつさえ怨言を吐いて逃亡したことを以って<ref>司馬遷『史記』秦始皇本紀「今聞韓衆去不報、徐巿等費以巨萬計、終不得藥、徒姦利相告日聞。盧生等吾尊賜之甚厚、今乃誹謗我、以重吾不徳也」</ref> 監察に命じて方士らを尋問にかけた。彼らは他者の告発を繰り返し、法を犯した者約460人が拘束されるに至った。始皇35年(前212年)、始皇帝は彼らを生き埋めに処し<ref name="Wood5">Wood, Frances. (2008). ''China's First Emperor and His Terracotta Warriors''. p 33.</ref>、これがいわゆる[[坑儒]]であり、前掲の焚書と合わせて[[焚書坑儒]]と呼ばれる<ref name=Yoshi218 />。『史記』には「儒」とは一字も述べられておらず「諸生」<ref name=ShikiSikou41>[[#史記「秦始皇本紀」|「秦始皇本紀」41]]</ref> と表記しているが、この行為を諌めた長子の[[扶蘇]]<ref>Twitchett, Denis. Fairbank, John King. Loewe, Michael. ''The Cambridge History of China:The Ch'in and Han Empires 221 B.C.-A.D. 220''. Edition:3. Cambridge University Press, 1986. ISBN 0521243270, 9780521243278. p 71.</ref> の言「諸生皆誦法孔子」<ref name=ShikiSikou38 /> から、儒家の比率は高かったものと推定される<ref name=Yoshi227>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.227-231、第七章 方士と儒生‐封禅と焚書坑儒‐6]]</ref>。 |
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諫言を不快に思った始皇帝は扶蘇に、北方を守る蒙恬を監察する役を命じ、上郡に向かわせた<ref name=Yoshi218 />。『史記』は、始皇帝が怒った上の懲罰的処分と記しているが<ref name=ShikiSikou38 />、陳舜臣は別の考えを述べている。30万の兵を抱える蒙恬が匈奴と手を組み反乱を起こせば、統一後は軍事力を衰えさせていた秦王朝にとって大きな脅威となる。蒙恬を監視し抑える役目は非常に重要なもので、始皇帝は扶蘇を見込んでこの大役を任じたのではないかという。また、他の諸皇子は公務につかない限り平民として扱われていた<ref>淳于越の発言「今陛下有海内、而子弟為匹夫」、二世皇帝胡亥の発言「願與妻子為黔首、比諸公子」など。</ref> が、扶蘇は任務に就いたことで別格となっている。いずれにしろこの処置は秦にとって不幸なものとなった<ref name=Chin228 />。 |
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坑儒について、別な角度から見た主張もある。これは、お抱えの学者たちに不老不死を目指した[[錬金術]]研究に集中させる目的があったという。処刑された学者の中には、これら超自然的な研究に携わった者も含まれる。坑儒は、もし学者が不死の解明に到達していれば処刑されても生き返ることができるという究極の試験であった可能性を示唆する<ref name="Clementsp131_p134">Clements, Jonathan (2006). ''The First Emperor of China''. pp. 131, 134.</ref>。 |
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===祖龍の死=== |
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====不吉な暗示==== |
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『史記』によると、始皇36年(前211年)に東郡(河南・河北・山東の境界に当たる地域)に落下した[[隕石]]に、何者かが「始皇帝死而地分」(始皇帝が亡くなり天下が分断される)という文字を刻みつける事件が起きた<ref name="LiangY">Liang, Yuansheng. (2007). ''The Legitimation of New Orders:Case Studies in World History''. Chinese University Press. ISBN 962996239X, 9789629962395. pg 5.</ref>。周辺住民は厳しく取り調べられたが犯人は判らず、全員が殺された<ref name=ShikiSikou42>[[#史記「秦始皇本紀」|「秦始皇本紀」42]]</ref> 上、隕石は焼き砕かれた<ref name="RGH" />。空から降る隕石に文字を刻むことは、それが天の意志であると主張した行為であり、渦巻く民意を代弁していた<ref name=Yoshi232 />。 |
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また同年秋、ある使者が平舒道という所で出くわした人物から「今年祖龍死」という言葉を聞いた。その人物から滈池君へ返して欲しいと玉璧を受け取った使者は、不思議な出来事を報告した。次第を聞いた始皇帝は、祖龍とは人の先祖のこと、それに山鬼の類に長い先のことなど見通せまいとつぶやいた。しかし玉璧は、第1回巡遊の際に神に捧げるため長江に沈めたものだった。始皇帝は占いにかけ、「游徙吉」との告げを得た。そこで「徙」を果たすため3万戸の人員を北方に移住させ、「游」として始皇37年(前210年)に4度目の巡遊に出発した<ref name=Yoshi232 /><ref name=ShikiSikou42 />。 |
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====最後の巡遊==== |
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末子の[[胡亥]]と左丞相の李斯を伴った第4回巡遊<ref name=ShikiSikou43>[[#史記「秦始皇本紀」|「秦始皇本紀」43]]</ref> は東南へ向かった。これは、方士が東南方向から天子の気が立ち込めているとの言を受け、これを封じるために選ばれた。500年後に金陵([[南京]])にて天子が現れると聞くと、始皇帝は山を削り丘を切って防ごうとした<ref name=Yoshi238>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.238-243、第八章 祖竜死す‐秦帝国の崩壊‐2]]</ref>。また、海神と闘う夢を見たため[[弩]]を携えて海に臨み、之罘で[[大鮫魚]]を仕留めた<ref name=Yoshi238 /><ref name=ShikiSikou45>[[#史記「秦始皇本紀」|「秦始皇本紀」45]]</ref>。 |
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ところが、平原津で始皇帝は病気となった。症状は段々と深刻になり、ついに蒙恬の監察役として北方にとどまっている<ref name="Tung">Tung, Douglas S. Tung, Kenneth. (2003). ''More Than 36 Stratagems:A Systematic Classification Based On Basic Behaviours''. Trafford Publishing. ISBN 1412006740, 9781412006743.</ref> 長子の扶蘇に「咸陽に戻って葬儀を主催せよ」との遺詔を口頭で、信頼を置く宦官の[[趙高]]<ref name=Yoshi243>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.243-246、第八章 祖竜死す‐秦帝国の崩壊‐3]]</ref> に作成させ託した。 |
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始皇37年(紀元前210年)<ref>司馬遷『史記』秦始皇本紀では旧暦7月22日(ユリウス暦9月10日)、『洪範五行伝』では旧暦6月21日(ユリウス暦7月11日)</ref>、始皇帝は沙丘の平台(現在の河北省邢台市[[広宗県]]<ref>{{cite web|url=http://japanese.cri.cn/chinaabc/chapter14/chapter140406.htm |title=中国百科 秦の始皇帝陵|publisher=CRI online |accessdate=2011-12-20}}</ref>)にて崩御<ref name=ShikiSikou46 /><ref name=Yoshi238 /><ref>{{cite web|url=https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=779950#p7 |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 『開元占経』 |publisher=網站的設計與内容|accessdate=2020-12-20}}</ref>。伝説によると彼は、宮殿の学者や医師らが処方した不死の効果を期待する[[水銀]]入りの薬を服用していたという<ref name="wright">{{cite book|title=The History of China|year=2001|author=Wright, David Curtis|publisher=Greenwood Publishing Group|isbn=031330940X|page=49}}</ref>。 |
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===死後=== |
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====隠された崩御==== |
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始皇帝の崩御が天下騒乱の引き金になることを[[李斯]]は恐れ<ref name="Firsteselect" />、秘したまま一行は[[咸陽市|咸陽]]へ向かった<ref name="Firsteselect" /><ref>O'Hagan Muqian Luo, Paul. (2006). ''讀名人小傳學英文:famous people''. 寂天文化. publishing. ISBN 9861840451, 9789861840451. p16.</ref><ref>Xinhuanet.com. "[http://big5.xinhuanet.com/gate/big5/news.xinhuanet.com/newscenter/2005-03/20/content_2719803.htm Xinhuanet.com] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20090318222506/http://big5.xinhuanet.com/gate/big5/news.xinhuanet.com/newscenter/2005-03/20/content_2719803.htm |date=2009年3月18日 }}." ''中國考古簡訊:秦始皇去世地沙丘平臺遺跡尚存.'' Retrieved on 2009-01-28.</ref>。[[崩御]]を知る者は[[胡亥]]、[[李斯]]、[[趙高]]ら数名だけだった<ref name=ShikiSikou46 /><ref name=Yoshi238 />。死臭を誤魔化す為に大量の魚を積んだ車が伴走し<ref name=ShikiSikou46 /><ref name="Firsteselect" />、始皇帝がさも生きているような振る舞いを続けた<ref name="Firsteselect" /> 帰路において、趙高は胡亥や李斯に甘言を弄し、謀略に引き込んだ。[[扶蘇]]に宛てた遺詔は握りつぶされ、[[蒙恬]]ともども死を賜る詔が偽造され送られた<ref name="Tung" /><ref name=Yoshi243 /><ref name=Yoshi246>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.246-253、第八章 祖竜死す‐秦帝国の崩壊‐4]]</ref>。この書を受けた扶蘇は自殺し、疑問を持った蒙恬は獄につながれた<ref name=Yoshi246 />。 |
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====二世皇帝==== |
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始皇帝の崩御から2か月後、咸陽に戻った20歳の胡亥が即位し二世皇帝となり(紀元前210年)<ref name="Firsteselect" />、始皇帝の遺体は驪山の陵に葬られた。そして趙高が権勢をつかんだ<ref name=Yoshi253>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.253-258、第八章 祖竜死す‐秦帝国の崩壊‐5]]</ref>。蒙恬や[[蒙毅]]をはじめ、気骨ある人物はことごとく排除され、[[陳勝・呉広の乱]]を皮切りに各地で始まった反秦の反乱さえ趙高は自らへの権力集中に使った<ref name=Yoshi253 />。そして李斯さえ陥れて処刑させた<ref name=Yoshi258>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.258-264、第八章 祖竜死す‐秦帝国の崩壊‐6]]</ref>。 |
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しかし反乱に何ら手を打てず、二世皇帝3年(前207年)には反秦の反乱の一つの勢力である[[劉邦]]率いる軍に武関を破られる。ここに至り、二世皇帝は言い逃ればかりの趙高を叱責したが、逆に兵を仕向けられ自殺に追い込まれた<ref name=Yoshi264>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.264-270、第八章 祖竜死す‐秦帝国の崩壊‐7]]</ref>。趙高は二世皇帝の兄とも兄の子とも伝わる[[子嬰]]を次代に擁立しようとしたが、趙高は子嬰の命を受けた[[韓談]]によって刺し殺された。翌年、子嬰は皇帝ではなく秦王に即位したが、わずか46日後に劉邦に降伏し、[[項羽]]に殺害された<ref name=Yoshi264 />。予言書『録図書』にあった秦を滅ぼす者「胡」とは、辺境の異民族ではなく[[胡亥]]のことを指していた<ref name=Yoshi264 /><ref>{{cite web|url=http://ctext.org/lunheng/shi-zhi/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 儒家 論衝 實知 2|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2011-12-20}}</ref>。 |
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==== 『趙正書』の記述 ==== |
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{{Wikisourcelang|zh|趙正書}} |
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{{seealso|趙正書}} |
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以上の始皇帝死去前後の経過は『史記』に基づくが、[[北京大学蔵西漢竹書]]の一つである『趙正書』にはこれと食い違う経過が記されている。大きな相違点の一つが胡亥即位の経緯で、『史記』は李斯・趙高の陰謀によるものとするのに対し、『趙正書』では、群臣が跡継ぎに胡亥を推薦し、嬴政がそれを裁可するという手続きを踏んだことになっている<ref>{{Cite book|和書|title=人間・始皇帝|date=2015/9/18|year=2015|publisher=岩波書店|author=鶴間和幸|authorlink=鶴間和幸|isbn=9784004315636|page=175}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=工藤卓司|year=2017|title=北京大学蔵西漢竹書『趙正書』における「秦」叙述|url=https://hdl.handle.net/11094/70152|journal=中国研究集刊|volume=63|pages=188-212|publisher=大阪大学中国学会|ISSN=0916-2232|NAID=120006498351}}</ref>。 |
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==人物== |
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『史記』は、同じ時代を生きた人物による始皇帝を評した言葉を記している。[[尉繚]]は秦王時代に軍事顧問として重用された<ref name=Yoshi81 /> が、一度暇乞いをしたことがあり、その理由を以下のように語った<ref name=Chin154 />。 |
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{{Quotation|{{Lang|zh-tw|秦王為人,蜂準,長目,鷙鳥膺,豺聲,少恩而虎狼心,居約易出人下,得志亦輕食人。我布衣,然見我常身自下我。誠使秦王得志於天下,天下皆為虜矣。不可與久游。}}|史記「秦始皇本紀」4<ref name=ShikiSikou4>[[#史記「秦始皇本紀」|「秦始皇本紀」4]]</ref>}} |
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秦王政の風貌を、準(鼻)は蜂(高く尖っている)、目は切れ長、膺(胸)は鷙鳥(鷹のように突き出ている)、そして声は豺(やまいぬ)のようだと述べる。そして恩を感じることなどほとんどなく、虎狼のように残忍だと言う。目的のために下手に出るが、一度成果を得れば、また他人を軽んじ食いものにすると分析する。布衣(無冠)の自分にもへりくだるが、中国統一の目的を達したならば、天下はすべて秦王の奴隷になってしまうだろうと予想し、最後に付き合うべきでないと断ずる<ref name=Chin154 /><ref name=Yoshi81 />。 |
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将軍・王翦は強国・楚との戦いに決着をつけた人物である。他の者が指揮した戦いで敗れたのち、彼は秦王政の要請に応じて出陣した。このとき、王翦は財宝や美田など褒章を要求し、戦地からもしつこく念を押す書状を送った。その振る舞いをみっともないものと諌められると、彼は言った<ref name=Chin196 /><ref name=Yoshi101 />。 |
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{{Quotation|{{Lang|zh-tw|夫秦王怚而不信人。}}|史記「白起王翦列伝」11<ref name=Ousen />}} |
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怚は粗暴を意味し、秦王政が他人に信頼を置かず一度でも疑いが頭をもたげればどのような令が下るかわからないという。何度も褒章を求めるのも、反抗など思いもよらない浅ましい人物を演じることで、秦のほとんどと言える兵力を指揮下に持つ自分が疑われて死を賜る命令が下りないようにしているのだと述べた。<ref name=Chin196 /><ref name=Yoshi101 />。 |
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方士の盧生と侯生が逃亡する前に始皇帝を評した言が残っている。 |
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{{Quotation|{{Lang|zh-tw|始皇為人,天性剛戾自用,起諸侯,并天下,意得欲從,以為自古莫及己。專任獄吏,獄吏得親幸。博士雖七十人,特備員弗用。丞相諸大臣皆受成事,倚辨於上。上樂以刑殺為威,天下畏罪持祿,莫敢盡忠。(中略)。天下之事無小大皆決於上,上至以衡石量書,日夜有呈,不中呈不得休息。貪於權勢至如此,(後略)}}|史記「秦始皇本紀」41<ref name=ShikiSikou41>[[#史記「秦始皇本紀」|「秦始皇本紀」41]]</ref>}} |
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始皇帝は生まれながらの強情者で、成り上がって天下を取ったため、歴史や伝統でさえ何でも思い通りにできると考えている。獄吏ばかりが優遇され、70人もいる博士は用いられない。大臣らは命令を受けるだけ。始皇帝の楽しみは処刑ばかりで天下は怯えまくって、うわべの忠誠を示すのみと言う。決断はすべて始皇帝が下すため、昼と夜それぞれに重さで決めた量の書類を処理し、時には休息さえ取らず向かっている。まさに権勢の権化と断じた<ref name=Yoshi218 />。 |
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民間では、秦王を「白帝子」と呼んでいる。白帝は「金徳」を司る天帝少昊で、秦国の祭祀では白帝の地位が高いため、秦皇室は「白帝子」と呼ばれている。 |
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==后妃と子女== |
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始皇帝の后妃については、史書に記載がなく不明。ただし、『史記』秦始皇本紀に、「始皇帝が崩御したときに後宮で子のないものがすべて殉死させられ、その数がはなはだ多かった」といっているため、多くの后妃があっただろうということは推測できる。 |
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子女の数は明らかでない。『史記』[[李斯]]列伝には、始皇帝の公子は20人以上いたが、二世皇帝が公子12人と[[公主]]10人を殺したことを記す。名前の知られている子は以下のものがある。 |
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*[[扶蘇]](長子) |
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*[[胡亥]](末子) |
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また、具体的な親族の血縁上の位置づけが不明な男子がいる。 |
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*[[子嬰]] - 『史記』「[[六国年表]]第三」では、「胡亥の兄」とされる。一方、『史記』「秦始皇本紀」では「胡亥の兄の子」とされており、「兄」が誰の事なのかは記録されていない。また、『史記』「[[李斯]]列伝」では始皇帝の弟とされている。『史記』「李斯列伝」集解[[徐広]]の説では、「一本曰『召始皇弟子嬰,授之璽』」と記述され、始皇帝の弟の子の(嬴)嬰とする説がある。[[就実大学]]人文科学部元教授の李開元はこの説を支持し、嬴嬰を始皇帝の弟である[[成蟜|嬴成蟜]]の子であると言う説を発表している。この場合、子嬰は始皇帝の甥、扶蘇と胡亥の従兄弟になる。また、李開元は成蟜が趙攻めの際に秦に叛いた際([[成蟜の乱]])、趙で生まれたのが子嬰であると言う。これが事実であれば、子嬰の生年は[[紀元前239年]](秦王政8年)となり、紀元前206年に項羽によって処刑された際の年齢は34歳頃と思われる。つまり、「始皇帝の弟」、「始皇帝の子」、「始皇帝の孫」、「始皇帝の甥」という四つの説が並立しているのが現状である。 |
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*[[公子高]] - 二世皇帝のとき、趙高より始皇帝に殉死させられた。 |
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*[[将閭]] - 二世皇帝のとき、趙高より自殺させられた。同母弟2人がいたが、みな自殺した。 |
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==評価== |
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===暴虐な君主として=== |
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始皇帝が暴虐な君主だったという評価は、次の王朝である[[漢]]の時代に形成された<ref name=Yoshi278>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.278-282、終章 秦時の轆轢鑽‐後世の始皇帝評価‐3]]</ref>。『[[漢書]]』「五行志」(下之上54)では、始皇帝を「奢淫暴虐」と評する<ref>{{cite web|url=http://ctext.org/han-shu/wu-xing-zhi/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 漢書 五行志 下之上 54 |publisher=網站的設計與内容|accessdate=2011-12-20}}</ref>。この時代には「無道秦」<ref>{{cite web|url=http://ctext.org/shiji/gao-zu-ben-ji/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 史記 高祖本紀19|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2011-12-20}}</ref>や「暴秦」<ref>{{cite web|url=http://ctext.org/han-shu/gao-di-ji-xia/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 漢書 高帝紀下 6|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2011-12-20}}</ref> 等の言葉も使われたが、王朝の悪評は皇帝の評価に直結した<ref>{{cite web|url=http://ctext.org/analects/zi-zhang/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 論語 子張 20|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2011-12-20}}</ref>。特に[[前漢]]の[[武帝 (漢)|武帝]]時代以降に儒教が正学となってから、始皇帝の焚書坑儒は学問を絶滅させようとした行為(滅学)と非難した<ref name=Yoshi271>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.271-275、終章 秦時の轆轢鑽‐後世の始皇帝評価‐1]]</ref>。詩人・政治家であった[[賈誼]]は『過秦論』を表し、これが後の儒家が考える秦崩壊の標準的な根拠となった。修辞学と推論の傑作と評価された賈誼の論は、前・後漢の歴史記述にも導入され、孔子の理論を表した古典的な実例として中国の政治思想に大きな影響を与えた<ref>Loewe, Michael. Twitchett, Denis. (1986). ''The Cambridge History of China:Volume I:the Ch'in and Han Empires, 221 B.C. - A.D. 220''. Cambridge University Press. ISBN 0521243270.</ref>。彼の考えは、秦の崩壊とは人間性と正義の発現に欠けていたことにあり、そして攻撃する力と統合する力には違いがあるということを示すというものであった<ref>Lovell, Julia. (2006). ''The Great Wall:China Against the World, 1000 BC-AD 2000''. Grove Press. ISBN 0802118143, 9780802118141. pg 65.</ref>。 |
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[[唐]]代の詩人・[[李白]]は『国風』四十八<ref>{{Quotation|<poem>{{Lang|zh-tw|秦皇按寶劍 赫怒震威神}}(<ruby><rb>秦皇</rb><rp>(</rp><rt>しんこう</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>寶劍</rb><rp>(</rp><rt>ほうけん</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>按</rb><rp>(</rp><rt>あん</rt><rp>)</rp></ruby>じ、<ruby><rb>赫怒</rb><rp>(</rp><rt>かくど</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>威神</rb><rp>(</rp><rt>いしん</rt><rp>)</rp></ruby>を<ruby><rb>震</rb><rp>(</rp><rt>ふる</rt><rp>)</rp></ruby>う。) |
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{{Lang|zh-tw|逐日巡海右 驅石駕滄津}}(日を逐って<ruby><rb>海右</rb><rp>(</rp><rt>かいゆう</rt><rp>)</rp></ruby>を巡り、石を駆って滄津に<ruby><rb>駕</rb><rp>(</rp><rt>か</rt><rp>)</rp></ruby>す。) |
{{Lang|zh-tw|逐日巡海右 驅石駕滄津}}(日を逐って<ruby><rb>海右</rb><rp>(</rp><rt>かいゆう</rt><rp>)</rp></ruby>を巡り、石を駆って滄津に<ruby><rb>駕</rb><rp>(</rp><rt>か</rt><rp>)</rp></ruby>す。) |
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{{Lang|zh-tw|征卒空九寓 作橋傷萬人}}(卒を征して九寓空しく、橋を作って萬人傷つく。) |
{{Lang|zh-tw|征卒空九寓 作橋傷萬人}}(卒を征して九寓空しく、橋を作って萬人傷つく。) |
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{{Lang|zh-tw|但求蓬島藥 豈思農扈春}}(<ruby><rb>但</rb><rp>(</rp><rt>ただ</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>蓬島</rb><rp>(</rp><rt>ほうとう</rt><rp>)</rp></ruby>の薬を求む、<ruby><rb>豈</rb><rp>(</rp><rt>あ</rt><rp>)</rp></ruby>に農扈の春を思わんや。) |
{{Lang|zh-tw|但求蓬島藥 豈思農扈春}}(<ruby><rb>但</rb><rp>(</rp><rt>ただ</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>蓬島</rb><rp>(</rp><rt>ほうとう</rt><rp>)</rp></ruby>の薬を求む、<ruby><rb>豈</rb><rp>(</rp><rt>あ</rt><rp>)</rp></ruby>に農扈の春を思わんや。) |
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{{Lang|zh-tw|力盡功不贍 千載為悲辛}}(力<ruby><rb>盡</rb><rp>(</rp><rt>つ</rt><rp>)</rp></ruby>きて功<ruby><rb>贍</rb><rp>(</rp><rt>ゆたか</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>不</rb><rp>(</rp><rt>なら</rt><rp>)</rp></ruby>ず、<ruby><rb>千載</rb><rp>(</rp><rt>せんざい</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>為</rb><rp>(</rp><rt>ため</rt><rp>)</rp></ruby>に<ruby><rb>悲辛</rb><rp>(</rp><rt>ひしん</rt><rp>)</rp></ruby>す。)</poem>|李白『国風』四十八|nobullet=yes}}</ref>で、統一を称えながらも始皇帝の行いを批判している。 |
{{Lang|zh-tw|力盡功不贍 千載為悲辛}}(力<ruby><rb>盡</rb><rp>(</rp><rt>つ</rt><rp>)</rp></ruby>きて功<ruby><rb>贍</rb><rp>(</rp><rt>ゆたか</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>不</rb><rp>(</rp><rt>なら</rt><rp>)</rp></ruby>ず、<ruby><rb>千載</rb><rp>(</rp><rt>せんざい</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>為</rb><rp>(</rp><rt>ため</rt><rp>)</rp></ruby>に<ruby><rb>悲辛</rb><rp>(</rp><rt>ひしん</rt><rp>)</rp></ruby>す。)</poem>|李白『国風』四十八|nobullet=yes}}</ref> で、統一を称えながらも始皇帝の行いを批判している。 |
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阿房宮や始皇帝陵に膨大な資金や人員を投じたことも非難の対象となった。[[北宋]]時代の『[[景徳伝灯録]]』など禅問答で「秦時の轆轢鑽(たくらくさん)」<ref group="注">[[#吉川2002|参考文献「秦の始皇帝」終章のタイトルやp.277表記]]では「轆」でなく「車へんに度」の文字が使われている。仮に「轆」を用いる根拠は [http://edba.ncl.edu.tw/ChijonTsai/SIX/six-17.htm 雲門文偃] に基づく。</ref> という言葉が使われる。元々これは穴を開ける建築用具だったが、転じて無用の長物を意味するようになった<ref name=Yoshi275>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.275-277、終章 秦時の轆轢鑽‐後世の始皇帝評価‐1]]</ref>。 |
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なお、[[中華人民共和国]]で[[文化大革命]]が発生すると、[[林彪]]の失脚を受けての批林批孔運動が高まり、始皇帝の[[焚書坑儒]]は[[階級闘争]]であると規定して讃美する論文が続出した。[[魯迅]]は始皇帝の[[焚書坑儒]]を[[ナチス]]の[[焚書]]とは明白に区別しており、前者に肯定的な評価を与えている。 |
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===封建制か郡県制か=== |
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== 関連事項 == |
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始皇帝の評価にかかわらず、漢王朝は秦の制度を引き継ぎ<ref name=Machi />、以後2000年にわたって継続された<ref name=Yoshi278 />。特に郡県制か封建制かの議論において、郡県制を主張する論者の中には始皇帝を評価する例もあった。[[唐]]代の[[柳宗元]]は「封建論」にて、始皇帝自身の政治は「私」だが、彼の封建制は「公」を天下に広める先駆けであったと評した<ref name=Yoshi278 />。[[明]]の末期から[[清]]の初期にかけて活躍した[[王夫之|王船山]]は『読通鑑論』で始皇帝を評した中で、郡県制が2000年近く採用され続けている理由はこれに道理があるためだと封建制主張者を批判した<ref name=Yoshi278 />。 |
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=== 史料 === |
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『[[史記]]』「秦始皇本紀」 |
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[[Image:First Emperor.jpg|right|300 px|thumb|始皇帝と臣下らの現代彫刻。[[西安市]]]] |
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=== 映画 === |
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===近代以降の評価=== |
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* 日本 |
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{{Anchors|近代以降の評価}}[[清末民初]]の[[章炳麟]]は『秦政記』にて、権力を一人に集中させた始皇帝の下では、すべての人間は平等であったと説いた。もし始皇帝が長命か、または扶蘇が跡を継いでいたならば、始皇帝は三皇または五帝に加えても足らない業績を果たしただろうと高く評価した<ref name=Yoshi278 />。 |
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** [[秦・始皇帝]]([[1962年]]、[[大映 (映画)|大映]]、監督:[[田中重雄]]、始皇帝 役:[[勝新太郎]]) |
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* 中国・香港 |
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** [[テラコッタ・ウォリア 秦俑]]([[1989年]]、監督:[[チン・シウトン]]、始皇帝 役:[[陸樹銘]]) |
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** [[異聞・始皇帝謀殺]]([[1996年]]、監督:[[周暁文]]、始皇帝 役:[[姜文]]) |
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** [[始皇帝暗殺]]([[1998年]]、監督:[[陳凱歌]]、秦王政 役:[[李雪健]]) |
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** [[HERO (2002年の映画)|HERO]]([[2003年]]、監督:[[張芸謀]]、秦王政 役:[[陳道明]]) |
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日本の[[桑原隲蔵]]は1907年の日記にて始皇帝を不世出の豪傑と評し、創設した郡県制による中央集権体制が永く保たれた点を認め、また焚書坑儒は当時必要な政策であり過去にも似た事件はあったこと、宮殿や墳墓そして不死の希求は当時の流行であったことを述べ、始皇帝を弁護した<ref name=Yoshi278 />。 |
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=== オペラ === |
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* [[譚盾]]「始皇帝」(''The First Empror'', 2006) |
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馬非百は [[歴史修正主義]]の視点から伝記『秦始皇帝傳』を1941年に執筆し、始皇帝を「中国史最高の英雄の一人」と論じた。馬は、[[蔣介石]]と始皇帝を比較し、経歴や政策に多くの共通点があると述べ、この2人を賞賛した。そして[[中国国民党]]による[[北伐 (中国国民党)|北伐]]と南京での新政府樹立を、始皇帝の中国統一に例えた。 |
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=== 漫画 === |
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* 『[[史記 (横山光輝)|史記]]』([[横山光輝]]作の漫画。司馬遷の史記を漫画化) |
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* 『[[鄭問|東周英雄伝]]』([[鄭問]]作の漫画。春秋戦国時代の人物を描いた[[オムニバス]]) |
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* 『[[鄭問|始皇]]』([[鄭問]]作の漫画。始皇帝を主人公とした作品) |
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* 『[[キングダム (漫画)|キングダム]]』([[原泰久]]作の漫画。始皇帝時代の武将、[[李信]]を主人公とした作品。[[集英社]]・[[週刊ヤングジャンプ]]で連載中) |
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[[文化大革命]]期には、始皇帝の再評価が行われた。当時は、儒家と法家の闘争(儒法闘争)という面から中国史を眺める風潮が強まった。[[中国共産党]]は儒教を反動的・反革命的なものと決めつけた立場から、孔子を奴隷主貴族階級の[[イデオロギー]]([[批林批孔運動|批林批孔]])とし、相対的に始皇帝を地主階級の代表として高い評価が与えられた<ref name=Yoshi278 />。そのため、始皇帝陵の発見は1970年代当時の中国共産党政府によって大々的に世界に宣伝された<ref>{{cite web|url=http://www.bmy.com.cn/2014new/contents/222/13859.html|title=世界的奇迹 民族的骄傲 (五)|work=秦始皇帝陵博物院|date=2014-11-04|accessdate=2019-07-25}}</ref>。 |
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=== ゲーム === |
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* 『[[史記英雄伝]]』(主人公の妹の息子「セイ」として登場。最終的には始皇帝として国を統一し、最後の敵として立ちはだかる) |
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* 『[[真・三國無双 MULTI RAID 2]]』(三国志の時代に甦り、不老不死と帝国の復活を目論む。重要キャラであり、最終ボスでもある) |
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文字という側面から[[藤枝晃]]は、始皇帝は君主が祭祀や政治を行うためにある文字の権威を取り戻そうとしたと評価した。周王朝の衰退そして崩壊後、各諸侯や諸子百家も文字を使うようになっていた。焚書坑儒も、この状態を本来の姿に戻そうとする側面があったと述べた<ref name=Fuji69 />。また、秦代の記録の多くが失われ、漢代の記録に頼らざるを得ない点も、始皇帝の評価が低くなる要因だと述べた<ref name=Fuji68>[[#藤枝1999|藤枝 (1999)、pp.68-69、四 皇帝の文字 始皇帝の天下統一]]</ref>。 |
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== 脚注 == |
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<div class="references-small"><references/></div> |
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==登場する作品== |
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== 関連項目 == |
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<!-- この項目は、加筆前の日本語版および翻訳前の英語版において、出典が明記されているもの、または新たに加えることができたもののみを残す。また「せりふに名前が出てくる」程度のものは瑣末として消す。追加する場合は最低限出典を明記願います。 --> |
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===エッセー=== |
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*[[アルゼンチン]]の[[作家]]である[[ホルヘ・ルイス・ボルヘス]](1899年 - 1986年)は、1952年に『続審問』({{lang|es|Otras Inquisiciones}})の中で「{{lang|es|La muralla y los libros}}」(「壁と書」の意味)を書いた。これは始皇帝についてのエッセーであり、万里の長城建設と焚書に対して否定的な見解を述べている<ref>Southerncrossreview.org. "[http://www.southerncrossreview.org/54/borges-muralla.htm Southerncrossreview.org]." "The Wall and the Books". Retrieved on 2009-02-02.</ref>。 |
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===小説=== |
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*1956年にイギリスで出版されたロナルド・フレーザー作『Lord of the East』は、始皇帝の娘を主人公とした歴史小説である。彼女は恋人と駆け落ちをするが、本作の中で始皇帝は若いカップルに立ちはだかる障害として描かれている<ref>Openlibrary.org. "[http://openlibrary.org/b/OL6212357M Openlibrary.org]." ''The Lord of the East.'' Retrieved on 2009-02-02.</ref>。日本未出版。 |
|||
*『流亡記』。[[開高健]]の小説<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=h4I-PwAACAAJ&dq=%E6%B5%81%E4%BA%A1%E8%A8%98&hl=ja&sa=X&ei=26UMUdzcN8m2kAWB1YDQCg&ved=0CDgQ6AEwAA]</ref>。始皇帝の支配体制を一民衆の視点から描いている。 |
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*『始皇帝復活』『始皇帝逆襲』。[[蕪木統文]]の小説<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=T_tWPQAACAAJ&dq=%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D&hl=ja&sa=X&ei=0oPwTpXwFOn9mAW__uyoAg&ved=0CFYQ6AEwCDgK]</ref>。 |
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*『秦の始皇帝』(1995年)。[[陳舜臣]]の小説。 |
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*『始皇帝 中華帝国の開祖』(1998年)。[[安能務]]の小説。始皇帝の統治を公正にして厳格、始皇帝自身も合理的精神をもった開明的な人物と高く評価している。 |
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*『小説 秦の始皇帝』(1999年)。[[津本陽]]の小説。 |
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*『始皇帝』(2006年)。[[塚本靑史]]の小説。 |
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*『天下一統 始皇帝の永遠』(2016年)。[[小前亮]]の小説。 |
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===映画=== |
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*『[[秦・始皇帝]]』(1962年)。中国統一後の始皇帝を描いた日本映画。[[勝新太郎]]が始皇帝を演じた<ref>{{Cite web|和書|url=http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD13553/index.html |title=秦・始皇帝|publisher=goo映画|accessdate=2011-11-20}}</ref><ref name=uemura>{{Cite book|和書|title=カリスマ先生の世界史|chapter=映画の世界史|author=植村光雄|publisher=PHP研究所|page=70|url=https://books.google.co.jp/books?id=_P9CNEqywx8C&pg=PA70&dq=%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D&hl=ja&ei=bqbTTv-WHsTHmAWnosnhDQ&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=1&ved=0CDAQ6AEwADgK#v=onepage&q=%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D&f=false}}</ref>。 |
|||
*『[[テラコッタ・ウォリア 秦俑]]』(1989年)。輪廻転生とタイムスリップを題材とした香港・中国合作のSFアクション映画。[[陸樹銘]]が始皇帝を演じた<ref name=uemura />。 |
|||
*『[[異聞 始皇帝謀殺]]』(1996年、原題:秦頌)。始皇帝と高漸離の交流を描いた中国映画。[[姜文|チャン・ウェン]]が始皇帝を演じた<ref>NYTimes.com. "[http://movies.nytimes.com/movie/review?res=9A0DE1DF113DF93BA25751C1A96E958260 NYtimes.com]." ''Film review.'' Retrieved on 2009-02-02.</ref>。 |
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*『[[始皇帝暗殺]]』(1998年)。秦王政と、彼が愛した架空の女性・趙姫、そして暗殺者の荊軻の3者の愛憎を描いた中国映画。[[李雪健|リー・シュエチェン]]が秦王政を演じた<ref name=uemura /><ref>IMDb.com. "[https://www.imdb.com/title/tt0162866/ IMDb-162866]." ''Emperor and the Assassin.'' Retrieved on 2009-02-02.</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD2782/index.html |title=始皇帝暗殺|publisher=goo映画|accessdate=2011-11-20}}</ref>。 |
|||
*『[[HERO (2002年の映画)|HERO]]』(2002年)。秦王(後の始皇帝)の命を狙う架空の刺客たちを描いた中国の武侠映画。[[陳道明|チェン・ダオミン]]が秦王を演じた<ref name=uemura />。 |
|||
*『[[キングダム (映画)|キングダム]]』(2019年)。下記漫画作品の実写映画化。[[吉沢亮]]が[[キングダムの登場人物一覧#嬴政|嬴政]]を演じた。 |
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===テレビドラマ=== |
|||
*『秦始皇帝』(1997年)。[[中華人民共和国|中国]]のTVドラマ『[[東周列国 戦国篇]]』より抜粋編集した日本版DVD。少年時代は[[林偉]]、成人後は[[郭涛 (俳優)|郭涛]]が嬴政を演じた。 |
|||
*『[[始皇帝烈伝 ファーストエンペラー]]』(2001年)。始皇帝の生涯をフィクションを交えて描いた中国のTVドラマ。[[張豊毅|チャン・フォンイー]]が始皇帝を演じた<ref>CCTV. "[http://big5.cctv.com/news/ttxw/20011225/100002.html CCTV] {{webarchive|url=https://archive.is/20120701160335/http://big5.cctv.com/news/ttxw/20011225/100002.html |date=2012年7月1日 }}." ''List the 30 episode series.'' Retrieved on 2009-02-02.</ref>。 |
|||
*『亂世英雄 呂不韋』(2001年)。秦国相邦として生きた[[呂不韋]]を描いた中国のTVドラマ。[[吴军忱 (俳優)|ウー・チュン]]が秦王政を演じた<ref>{{Cite web|url=https://ent.sina.com.cn/ku/tv_info_index.d.html?type=tv&id=fyhryex5918643|title=亂世英雄呂不韋|accessdate=2021.01.01|publisher=新浪網}}</ref>。日本未公開。 |
|||
*『[[始皇帝暗殺 荊軻]]』(2004年)。秦王政を暗殺しようとした荊軻を主人公とする中国のTVドラマ。[[邵兵|シャオ・ピン]]が秦王政を演じた<ref>[http://data.ent.sina.com.cn/tv/1862.html 新浪網 荊軻伝奇サイト]</ref>。 |
|||
*『[[始皇帝 -勇壮なる闘い-]]』(2009年)。直道建設にまつわる陰謀譚を描いた中国のTVドラマ。{{仮リンク|寇世勳|zh|寇世勳|label=コウ・シーシュン}}が始皇帝を演じた<ref>[http://www.epcott.co.jp/shikoutei/movie.html 日本版公式サイト]</ref>。 |
|||
*『{{仮リンク|麗姫と始皇帝〜月下の誓い〜|zh|秦时丽人明月心}}』(2017年、原題:秦時麗人明月心)。架空の女性・麗と秦王・嬴政を軸に戦国時代の秦の進出を描いた中国のTVドラマ。{{仮リンク|張彬彬|zh|张彬彬|label=チャン・ビンビン}}が嬴政を演じた<ref>[http://www.eigeki.com/special/reikiden 衛星劇場公式サイト]</ref>。 |
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*『[[始皇帝 天下統一]]』(2020年、原題:大秦赋)。全78話。後の始皇帝・秦の大王嬴政により西の大国であった秦が統一王朝へと成長する過程を描いた中国のTVドラマ。{{仮リンク|張魯一|zh|张鲁一|label=チャン・ルーイー}}が始皇帝を演じた<ref>{{Cite web|和書|title=張魯一(チャン・ルーイー)主演歴史ドラマ『大秦賦/Qin Dynasty』|url=https://enjoychina.blog.jp/archives/vod_qin_dynasty.html|website=中華エンタメ情報 Enjoy China|accessdate=2021-01-01|language=ja|publisher=}}</ref>。 |
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* 『[[新・信長公記〜クラスメイトは戦国武将〜]]』(2022年)。2120年の日本を舞台に戦国武将の[[クローン]]が不良高校で総長となるため争う[[日本テレビ]]のSFドラマ。[[マシュー・ペリー]]提督や[[ジャンヌ・ダルク]]とともにクローンとして蘇り、戦国武将たちのクローンに戦いを挑む。侯偉が始皇帝を演じた。 |
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===漫画・テレビアニメ=== |
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*『[[史記 (横山光輝の漫画)|史記]]』- [[横山光輝]] の漫画。7巻「若き支配者」8巻「始皇帝」における主人公格として登場。また、その他にも李斯や張良などが主役のエピソードにおいても脇役として登場する。 |
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*『[[墨攻#漫画|墨攻]]』- 作画・[[森秀樹 (漫画家)|森秀樹]] (脚本・[[久保田千太郎]])の漫画。[[酒見賢一]]原作の小説を元に小説以降の内容を描いた漫画。小説では戦国時代初期を舞台としているが、漫画化において秦代初期に差し替えられており、敵の首魁の一人として登場。 |
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*『[[東周英雄伝]]』『刺客列伝』『始皇』- [[鄭問]]の漫画。刺客列伝では荊軻を主人公としたエピソードに登場。この作品では敵役と言う役柄もあってか、容姿が東周英雄伝や始皇の二作と大きく異なっている。 <br>東周英雄伝では即位間もない頃の呂不韋の執政時代から嫪毐の叛乱制圧を経て秦の実権を握るに至るまでが描かれ、王翦と李信が主役のエピソード「貪財将軍」では脇役として登場する。<br>始皇では六国の攻略に乗り出し、趙を平定するに至るまでが描かれている。 |
|||
*『[[キングダム (漫画)|キングダム]]』(2006年 - 連載中)-[[原泰久]]による漫画作品。中華一の[[大将軍]]を目指す少年・[[キングダムの登場人物一覧#李信|信]]の成長と活躍を軸に、中華統一を目指す[[キングダムの登場人物一覧#主要人物|嬴政]]の[[キングダムの登場人物一覧#秦|秦]]と[[六国]]の攻防を描く<ref>[http://youngjump.jp/manga/kingdom/ キングダム - 週刊ヤングジャンプ公式サイト]</ref>。2012年6月から[[日本放送協会|NHK]][[BSプレミアム]]で[[キングダム (アニメ)|テレビアニメ化]]され放映されており、[[福山潤]]が政を演じた<ref>{{Cite web|和書|publisher=NHKアニメワールド キングダム|url=http://www9.nhk.or.jp/anime/kingdom/|title=テレビアニメ|accessdate=2012-06-16}}</ref>。2019年には上記の通り実写映画化された。 |
|||
*『[[達人伝-9万里を風に乗り-]]』-[[王欣太]]の漫画作品。主人公である壮丹と同じ生まれ故郷出身の朱姫が、故郷を秦の将軍・黥骨に滅ぼされた後に記憶を失って彷徨っている所を拾った呂不韋との間に身篭った子であるが、それを秘したまま秦の太子・異人の元で生まれ、その子として育つ。幼いながらも卓越した思考力と冷徹さを持ち呂不韋や母・朱姫を恐れさせる。 |
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*『劉邦』- [[高橋のぼる]]の漫画。主人公劉邦と直接絡む事は無かったが、政務を取りしきる中で阿房宮の工夫として賦役についていた劉邦が[[炮烙]]を生きて渡って放免されたとの李斯からの報告に、その存在に一抹の危惧を抱きつつも一顧だにしない冷徹な帝王として描かれた。また、今作の太公望([[呂尚]]ではなく、張良に兵法を指南した架空人物)と全土統一の計を練った人物でもあり、全土統一を果たして始皇帝となった後に我欲に狂うまでは崇高な理想を持った人物であったとも彼に評されていた。 |
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*『[[終末のワルキューレ]]』(2018年 - 連載中) - 原作[[梅村真也]]、作画[[アジチカ]]、構成[[フクイタクミ]]による漫画。ヴァルハラ評議会にて、神々による人類存亡会議が行われていた。会議の結果、神々は人類を滅亡させ、終末を迎えることを決める。しかしそこに待ったをかけたのがワルキューレの長女[[ブリュンヒルデ]]。彼女は神々に神対人類のタイマン勝負、ラグナロクの開催を提案、そして受理される。そのラグナロク第七回戦の人類側代表として始皇帝が出場。 |
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===テレビ番組=== |
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*『Secrets of China's First Emperor, Tyrant and Visionary』(2006年)。[[ナショナルジオグラフィック協会]]製作のドキュメンタリー<ref>Blockbuster. "[http://www.blockbuster.com/browse/catalog/movieDetails/395943 Blockbuster]." ''Secrets of China's First emperor.'' Retrieved on 2009-02-02.</ref>。日本未公開。 |
|||
*『China's First Emperor([[:en:China's First Emperor|英語版]])』(2008年)。[[アメリカ合衆国]]のテレビチャンネル「[[ヒストリー (TVチャンネル)|ヒストリー]]」製作のドキュメンタリー<ref>Historychannel.com. "[http://www.historychannelasia.com/china/ Historychannel.com] {{webarchive|url=https://archive.is/20080618144441/http://www.historychannelasia.com/china/ |date=2008年6月18日 }}." ''China's First emperor.'' Retrieved on 2009-02-02.</ref>。日本未公開。 |
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===音楽=== |
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*『The First Emperor([[:en:The First Emperor|英語版]])』。始皇帝を描いた[[オペラ]]<ref>[http://www.metoperafamily.org/metopera/season/production.aspx?id=8798]</ref>。日本未公開。 |
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===ゲーム=== |
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*1997年に[[シャングリラ (曖昧さ回避)|株式会社シャングリ・ラ]]が製作発売した[[PlayStation (ゲーム機)|プレイステーション]]用ソフト『{{Wayback|url=https://www.jp.playstation.com/software/title/slps00863.html |title=秦始皇帝 |date=20191025185619}}』は、始皇帝の嫪毐の叛乱から中国統一までを描いたシミュレーションゲームである。 |
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*2005年発売のTVゲーム『[[シヴィライゼーション|Sid Meier's Civilization IV]]』では、中国の指導者として始皇帝が登場する<ref>Gamefaqs.com. "[http://www.gamefaqs.com/computer/doswin/file/932340/50165 Gamefaqs-165]." ''Civilization IV.'' Retrieved on 2009-02-03.</ref>。 |
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*『[[真・三國無双 MULTI RAID 2]]』では始皇帝が三国時代に復活して登場する。 |
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*2021年発売のゲーム『[[ストロングホールド|Stronghold: Warlords]]』では、中国の指導者として始皇帝が登場する。 |
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*Fate/Grand Orderの2部3章は始皇帝が不老不死を成し遂げ世界統一を成し遂げた世界が舞台である |
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===クイズ=== |
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*2021年9月26日に[[テレビ朝日]]系列にて放送された『[[パネルクイズ アタック25]] 最終回1時間スペシャル 史上最強のチャンピオン決定戦』での宮古島旅行(放送当日はインペリアルスイート)を賭けた映像問題に始皇帝が出題された。 |
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===アトラクション=== |
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*1989年に[[横浜市|横浜]]・[[名古屋市|名古屋]]・[[福岡市|福岡]]の三都市で開催の[[博覧会|地方博覧会]]で公開された[[日立グループ館]]の[[じゃんけん|ジャンケン]]ゲーム「タイムジャンプ」の映像内で、巨大な国家を作った4人のうちの一人として、中国のシーンで始皇帝が登場した(声:[[青野武]])。 |
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==脚注== |
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{{脚注ヘルプ}} |
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===注釈=== |
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{{Notelist2}} |
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===注=== |
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{{Reflist|25em}} |
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===注2=== |
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ここでは、出典・注内で提示されている「出典」を示しています。 |
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==参考文献== |
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*{{Cite book|和書|title=秦の始皇帝|author=吉川忠夫|authorlink=吉川忠夫|publisher=[[講談社]]学術文庫|edition=第1刷|year=2002|isbn=4-06-159532-6|ref=吉川2002}} |
|||
*{{Cite book|和書|title=中国の歴史(二)|author=陳舜臣|authorlink=陳舜臣 |publisher=講談社文庫|edition=第12刷|date=1998年(初版1990年)|isbn=4-06-184783-X|ref=陳1998}} |
|||
*{{Cite book|和書|title=文字の文化史|author=藤枝晃|authorlink=藤枝晃|publisher=[[講談社]]学術文庫|edition=第1刷|year=1999|isbn=4-06-159409-5|ref=藤枝1999}} |
|||
*{{Cite book|和書|title=中国古代の貨幣:お金をめぐる人びとと暮らし|author=柿沼陽平|authorlink=柿沼陽平|publisher=[[吉川弘文館]]歴史文化ライブラリー|edition=第1刷|year=2015|isbn=9784642057950|ref=柿沼2015}} |
|||
*{{Citation |和書 |author=島崎晋 |title=春秋戦国の英傑たち | volume= | volume-title= |publisher=[[双葉社]] |date=2019 |isbn=978-4-575-45788-9 }} |
|||
*{{cite book|title=史記|chapter=秦始皇本紀|author=[[司馬遷]]|publisher=「諸子百家 中國哲學書電子化計劃」網站的設計與内容|url=http://ctext.org/shiji/qin-shi-huang-ben-ji/zh |language=漢文|ref=史記「秦始皇本紀」}} |
|||
*{{cite book|title=史記|chapter=呂不韋列傳|author=司馬遷|publisher=「諸子百家 中國哲學書電子化計劃」網站的設計與内容|url=http://ctext.org/shiji/lv-bu-wei-lie-zhuan/zh |language=漢文|ref=史記「呂不韋列傳」}} |
|||
*{{cite book|title=史記|chapter=封禪書|author=司馬遷|publisher=「諸子百家 中國哲學書電子化計劃」網站的設計與内容|url=http://ctext.org/shiji/feng-chan-shu/zh |language=漢文|ref=史記「封禪書」}} |
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==読書案内== |
|||
{{wikisourcelang|zh|史記/卷006|『史記』巻六 秦始皇本紀 第六}} |
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||
{{Wikiquote|始皇帝}} |
{{Wikiquote|始皇帝}} |
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{{Commons| |
{{Commons&cat|秦始皇|Qin Shi Huang}} |
||
*{{Cite book|和書|title=秦の始皇帝 多元世界の統一者|author=籾山明|authorlink=籾山明|publisher=[[白帝社]] |edition=|year=1994|isbn=9784891742287 }} |
|||
*{{Cite book|和書|title=秦の始皇帝 伝説と史実のはざま|author=鶴間和幸|authorlink=鶴間和幸|publisher=[[吉川弘文館]] |edition=|year=2001|isbn=9784642055321}} |
|||
*{{Cite book|和書|title=始皇帝の地下帝国|author=鶴間和幸|publisher=講談社学術文庫|edition=|year=2001|isbn=406209732X}} |
|||
*{{Cite book|和書|title=ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国 ([[中国の歴史 (講談社)|中国の歴史]] 3)|author=鶴間和幸|publisher=講談社学術文庫|edition=|year=2004|isbn=9784062740531}} |
|||
*{{Cite book|和書|title=秦の始皇帝|author=鎌田重雄|publisher=河出書房新社|edition=|year=1962|isbn=}} |
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*{{Cite book|和書|title=中国古代の貨幣:お金をめぐる人びとと暮らし|author=柿沼陽平|authorlink=柿沼陽平|publisher=[[吉川弘文館]]歴史文化ライブラリー|edition=第1刷|year=2015|isbn=9784642057950|ref=柿沼2015}} |
|||
*{{citation|last=Bodde|first=Derk|editor1-last=Twitchett|editor1-first=Denis|editor2-last=Loewe|editor2-first=Michael|title=The Cambridge history of China|year=1978|publisher=Cambridge Univ. Press|location=Cambridge|isbn=0521214475|chapter=The State and Empire of Ch'in|volume=1}} |
|||
*{{citation|last=Clements |first=Jonathan |title=The First Emperor of China |publisher=Sutton Publishing |year=2006 |isbn=978-07509-3960-7 }} |
|||
*{{citation|last=Cotterell|first=Arthur|title=The first emperor of China:the greatest archeological find of our time|year=1981|publisher=Holt, Rinehart, and Winston|location=New York|isbn=0030598893}} |
|||
*{{citation|last1=Guisso|first1=R.W.L.|last2=Pagani|first2=Catherine |last3=Miller|first3=David|title=The first emperor of China|year=1989|publisher=Birch Lane Press|location=New York|isbn=1559720166}} |
|||
*{{citation|editor-last=Yu-ning|editor-first=Li|title=The First Emperor of China|year=1975|publisher=International Arts and Sciences Press|location=White Plains, N.Y.|isbn=0873320670}} |
|||
*{{citation|last=Portal |first=Jane |title=The First Emperor, China's Terracotta Army |publisher=British Museum Press |year=2007 |isbn=9781932543261 }} |
|||
*{{citation|last=Qian|first=Sima|title=Records of the Grand Historian:Qin dynasty|year=1961|publisher=Columbia Univ. Press|location=New York|others=Burton Watson, trans}} |
|||
*{{citation|last=Wood |first=Frances |title=The First Emperor of China |publisher=Profile |year=2007 |isbn=1846680328 }} |
|||
*{{citation|last=Yap |first=Joseph P|title=Wars With the Xiongnu, A Translation From Zizhi tongjian |publisher=AuthorHouse |year=2009 |isbn=978-1-4490-0604-4 }} |
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==関連項目== |
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* [[焚書坑儒]] |
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* [[秦氏]] - 始皇帝の末裔を称した日本の氏族 |
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* [[中国帝王一覧]] |
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* [[紹興市]] - 史記には、始皇帝は中国統一直後に会稽山に登って、自らの王朝を称える言葉を刻んだとある。 |
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* [[秦氏]]-始皇帝の末裔を称した日本の氏族 |
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* [[つのだじろう]] - 秦の始皇帝の子孫を自認している。 |
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** [[羽田孜]]、[[羽田雄一郎]] |
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==外部リンク== |
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{{先代次代|[[秦]]の[[中国帝王一覧|王]]|前246年 - 前221年|[[荘襄王 (秦)|荘襄王]]|―}} |
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* [https://www.chinawikipedia.com/chinahistory.html History of China] |
|||
{{秦の皇帝|前221年 - 前210年}} |
|||
* [http://heritage-key.com/china_whats-inside-qin-shi-huangs-tomb.html "What's Inside Qin Shi Huang's Tomb?"] |
|||
* {{Kotobank}} |
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* {{DNB-Portal|118819097}} |
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{{秦の君主|王:前246年 - 前221年 / 皇帝:前221年 - 前210年||王/皇帝}} |
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{{DEFAULTSORT:しこうてい}} |
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{{秦の統一戦争}} |
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[[Category:中国の皇帝]] |
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[[ta:சின் ஷி ஹுவாங்]] |
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[[th:จักรพรรดิฉินที่ 1]] |
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[[tr:Çin Şi Huang]] |
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[[tt:Цинь Шихуанди]] |
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[[tw:Qin Shi Huang]] |
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[[ug:چىن شىخۇاڭ]] |
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[[uk:Цінь Ши Хуан-ді]] |
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[[vi:Tần Thủy Hoàng]] |
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[[war:Qin Shi Huang]] |
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[[wo:Qin Shi Huang]] |
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[[xal:Цинь Шихуанди]] |
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[[yi:קין שי הואנג]] |
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[[za:Caenz Hij Vuengz]] |
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[[zh:秦始皇]] |
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[[zh-classical:秦始皇帝]] |
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[[zh-min-nan:Chîn Sí Hông]] |
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[[zh-yue:秦始皇]] |
2024年9月25日 (水) 07:23時点における最新版
始皇帝 | |
---|---|
秦朝 | |
初代皇帝 | |
王朝 | 秦朝 |
在位期間 |
荘襄王3年5月23日[1] - 始皇帝37年7月22日 (前247年7月6日 - 前210年9月10日) |
都城 | 咸陽 |
姓・諱 | 趙政 |
生年 |
昭襄王48年12月28日[注 1] (前259年2月18日) |
没年 |
始皇帝37年7月22日[2] (前210年9月10日) |
父 | 荘襄王 |
母 | 趙姫[3] |
陵墓 | 驪山陵 |
始皇帝(しこうてい、紀元前259年2月18日 - 紀元前210年9月10日[4][5])は、中国の初代皇帝(在位:紀元前221年 - 紀元前210年)[6]。古代中国の戦国時代の秦の第31代君主(在位:紀元前247年 - 紀元前210年)。6代目の王(在位:紀元前247年 - 紀元前221年)。姓は嬴(えい)または趙(ちょう)[7]、氏は趙(ちょう)、諱は政(せい)または正(せい)[8]。現代中国語では秦始皇帝[9]または秦始皇[10]と表現する。
秦王に即位した後、勢力を拡大し他の諸国を次々と攻め滅ぼして、紀元前221年に中国史上初めて天下統一を果たした(秦の統一戦争)。統一後、王の称号から歴史上最初となる新たな称号「皇帝」に改め、その始めとして「始皇帝」と号した[6]。
治政としては重臣の李斯らとともに主要経済活動や政治改革を実行した[6]。統一前の秦に引き続き法律の厳格な運用を秦国全土・全軍統治の根本とするとともに、従来の配下の一族等に領地を与えて領主が世襲して統治する封建制から、中央政権が任命・派遣する官僚が治める郡県制への地方統治の全国的な転換を行い、中央集権・官僚統治制度の確立を図ったほか、国家単位での貨幣や計量単位の統一[11]、道路整備・交通規則の制定などを行った。万里の長城の整備・増設や、等身大の兵馬俑で知られる秦始皇帝陵の造営といった世界遺産として後世に残ることになった大事業も行った。法家を重用して法による統治を敷き、批判する儒家・方士の弾圧や書物の規制を行った焚書坑儒でも知られる[12]。
統一後に何度か各地を旅して長距離を廻ることもしており、紀元前210年に旅の途中で49歳(数え年だと50歳)で急死するまで、秦に君臨した。
称号「始皇帝」
[編集]意味
[編集]周の時代およびその後(紀元前700年 - 紀元前221年)の中国独立国では、「大王」の称号が用いられていた。紀元前221年に戦国時代に終止符を打った趙政は事実上中国全土を統治する立場となった。これを祝い、また自らの権勢を強化するため、政は自身のために新しい称号「秦始皇帝」(最初にして最上位の秦皇帝)を設けた。時に「始皇帝」と略される[13]。
- 「始」は「最初(一番目)」の意味である[14]。「皇帝」の称号を受け継ぎ、代を重ねる毎に「二世皇帝」「三世皇帝」と名乗ることになる[15]。
- 「皇帝」は、神話上の三皇五帝より皇と帝の二字を合わせて作られた[16]。ここには、始皇帝が天皇神農黄帝の尊厳や名声にあやかろうとした意思が働いている[17]。
- さらに、漢字「皇」には「光輝く」「素晴らしい」という意味があり、また頻繁に「天」を指す形容語句としても用いられていた[18]。
- 元々「帝」は「天帝」「上帝」のように天を統べる神の呼称だったが、やがて地上の君主を指す言葉へ変化した。そこで神の呼称として「皇」が用いられるようになった。始皇帝はどの君主をも超えた存在として、この二文字を合わせた称号を用いた[13]。
『史記』における表記
[編集]司馬遷が編纂した『史記』においては、「秦始皇帝」と「秦始皇」の両方の表記がみられる。「秦始皇帝」は「秦本紀」にて[1][19]や6章(「秦始皇本紀」)冒頭や14節[20]、「秦始皇」は「秦始皇本紀」章題にて遣っている[21][22]。趙政は「皇」と「帝」を合わせて「皇帝」の称号を用いたため、「秦始皇帝」の方が正式な称号であったと考えられる[23]。
生涯
[編集]生誕と幼少期
[編集]秦人の発祥は甘粛省で秦亭と呼ばれる場所と伝えられ、現在の天水市清水県秦亭鎮にあたる。秦朝の「秦」はここに通じ、始皇帝は統一して、郡、県、郷、亭を置いた[24] 。
人質の子
[編集]秦の公子であった父の異人(後の荘襄王)[25] は休戦協定で人質として趙へ送られていた[3]。ただ、父の異人は公子とはいえ、秦の太子[26] である祖父の安国君(異人の父。後の孝文王。曾祖父の昭襄王の次男)にとって20人以上の子の一人に過ぎず、また妾であった異人の生母の夏姫は祖父からの寵愛を失って久しく二人の後ろ盾となる人物も居なかった。
秦王を継ぐ可能性がほとんどない異人は、昭襄王が協定をしばしば破って軍事攻撃を仕掛けていたことで秦どころか趙でも立場を悪くし、いつ殺されてもおかしくない身であり、人質としての価値が低かった趙では冷遇されていた[27]。
そこで韓の裕福な商人であった呂不韋が目をつけた。安国君の継室ながら太子となる子を産んでいなかった華陽夫人に大金を投じて工作活動を行い、また異人へも交際費を出資し評判を高めた[12]。異人は呂不韋に感謝し、将来の厚遇を約束していた。そのような折、呂不韋の妾(趙姫)[3] を気に入って譲り受けた異人は、昭襄王48年(前259年)の冬に男児を授かった。「政」と諱を名付けられたこの赤子は秦ではなく趙の首都邯鄲で生まれたため「趙政」とも呼ばれた[注 2][28]。後に始皇帝となる[5][27][28]。
実父に関する議論
[編集]漢時代に成立した『史記』「呂不韋列伝」には、政は異人の実子ではなかったという部分がある。呂不韋が趙姫を異人に与えた際にはすでに妊娠していたという[3][29][30]。後漢時代の班固も『漢書』にて始皇帝を「呂不韋の子」と書いている[31]。
始皇帝が非嫡子であるという意見は死後2000年経過して否定的な見方が提示されている[14]。呂不韋が父親とするならば、現代医学の観点からは、臨月の期間と政の生誕日との間に矛盾が生じるという[32]。『呂氏春秋』を翻訳したジョン・ノブロック、ジェフリー・リーゲルも、「作り話であり、呂不韋と始皇帝の両者を誹謗するものだ」と論じた[33]。
郭沫若は、『十批判書』にて3つの論拠を示して呂不韋父親説を否定している[30][2- 1]。
- 『史記』の説は異人と呂不韋について多く触れる『戦国策』にて一切触れられていない。
- 『戦国策』「楚策」や『史記』「春申君列伝」には、楚の春申君と幽王が実は親子だという説明があるが、呂不韋と始皇帝の関係にほぼ等しく、小説的すぎる。
- 『史記』「呂不韋列伝」そのものに矛盾があり、始皇帝の母について「邯鄲諸姫」(邯鄲の歌姫[29])と「趙豪家女」(趙の富豪の娘[34])の異なる説明がある。政は「大期」(10カ月または12カ月)を経過して生まれたとあり[29]、事前に妊娠していたとすればおかしい。
陳舜臣は「秦始皇本紀」の冒頭文には「秦始皇帝者,秦荘襄王子也」(秦の始皇帝は荘襄王の子である)と書かれていると、『史記』内にある他の矛盾も指摘した[35]。
死と隣り合わせの少年
[編集]政の父・異人は呂不韋の活動の結果、華陽夫人の養子として安国君の次の太子に推される約定を得た。だが、曾祖父の昭襄王は未だ趙に残る孫の異人に一切配慮せず趙を攻め、昭襄王49年(紀元前258年)には王陵、昭襄王50年(紀元前257年)には王齕に命じて邯鄲を包囲した。そのため、趙側に処刑されかけた異人だったが、番人を買収して秦への脱出に成功した。しかし妻子を連れる暇などなかったため、政は母と置き去りにされた。趙は残された二人を殺そうと探したが巧みに潜伏され見つけられなかった[30]。陳舜臣は、敵地のまっただ中で追われる身となったこの幼少時の体験が、始皇帝に怜悧な観察力を与えたと推察している[35]。その後、邯鄲のしぶとい籠城に秦軍は撤退した。
昭襄王56年(紀元前251年)、昭襄王が没し、1年の喪を経て、孝文王元年(紀元前250年)10月に安国君が孝文王として即位すると、呂不韋の工作どおり当時子楚と改名した異人が太子と成った。そこで趙では国際信義上やむなく、10歳になった[36] 政を母の趙姫と共に秦の咸陽に送り返した。ところが孝文王はわずか在位3日で亡くなり、「奇貨」子楚が荘襄王として即位すると、呂不韋は丞相に任命された[30]。
即位
[編集]若年王の誕生と呂不韋の権勢
[編集]荘襄王と呂不韋は周辺諸国との戦いを通じて秦を強勢なものとした[30]。しかし、荘襄王3年(前247年)5月に荘襄王は在位3年という短い期間で死去し、13歳の政が王位を継いだ[37]。まだ若い政を補佐するため、周囲の人間に政治を任せ、特に呂不韋は相国となり戦国七雄の他の六国といまだ戦争状態にある秦の政治を執行した[14]。
秦王政6年(紀元前241年)、楚・趙・魏・韓・燕の五国合従軍が秦に攻め入ったが、秦軍は函谷関で迎え撃ち、これを撃退した(函谷関の戦い)[38]。このとき、全軍の総指揮を執ったのは、この時点で権力を握っていた呂不韋と考えられている[39]。
そして、呂不韋は仲父と呼ばれるほどの権威を得て、多くの食客を養い、秦王政8年(紀元前239年)には『呂氏春秋』の編纂を完了した[40]。
だが、呂不韋はひとつ問題を抱えていた。それは太后となった趙姫とまた関係を持っていたことである。発覚すれば身の破滅につながるが、淫蕩な彼女がなかなか手放してくれない[41]。そこで呂不韋は自分の代わりを探し、適任の男の嫪毐を見つけた[42]。あごひげと眉を抜き、宦官に成りすまして後宮に入った嫪毐はお気に入りとなり、列侯となった[41]。やがて太后は妊娠した。人目を避けるため旧都雍に移ったのち、嫪毐と太后の間には二人の男児が生まれた[41][42]。
秦王政9年(前238年)、政が22歳の時にこのことが露見する。政は元服の歳を迎え、しきたりに従い雍に入った[41]。『史記』「呂不韋列伝」では嫪毐が宦官ではないという告発があった[43] と言い、同書「始皇本紀」では嫪毐が反乱を起こしたという[35]。ある説では、呂不韋は政を廃して嫪毐の子を王位に就けようと考えていたが、ある晩餐の席で嫪毐が若王の父になると公言したことが伝わったともいう[42]。または秦王政が雍に向かった隙に嫪毐が太后の印章を入手し軍隊を動かしクーデターを企てたが失敗したとも言う[42]。結果的に嫪毐は政によって一族そして太后との二人の子もろとも殺された[41][42]。
事件の背景が調査され、呂不韋の関与が明らかとなった。しかし過去の功績が考慮され、また弁護する者も現れ、相国罷免と封地の河南での蟄居が命じられたのは翌年となった[36][41]。だが呂不韋の名声は依然高く、数多くの客人が訪れたという。
秦王政12年(前235年)、政は呂不韋へ書状を送った[41]。
君何功於秦。秦封君河南,食十萬戸。君何親於秦。號稱仲父。其與家屬徙處蜀!
秦に対し一体何の功績を以って河南に十万戸の領地を与えられたのか。秦王家と一体何のつながりがあって仲父を称するのか。一族諸共蜀に行け。 — 史記「呂不韋列伝」14[44]
流刑の地・蜀へ行ってもやがては死を賜ると悟った呂不韋は、服毒自殺した[14][42]。吉川忠夫は嫪毐事件の裏にあった呂不韋の関与は秦王政にとって予想外だったと推測した[41] が、陳舜臣は青年になった政がうとましい呂不韋を除こうと最初から考えていた可能性を示唆し、事件から処分まで3年をかけた所は政の慎重さを表すと論説した[35]。秦王政は呂不韋の葬儀で哭泣した者も処分した[35]。
専制
[編集]李斯と韓非
[編集]秦王政による親政が始まった年、灌漑工事の技術指導に招聘されていた韓の鄭国が、実は国の財政を疲弊させる工作を図っていたことが判明した。これに危機感を持った大臣たちが、他国の人間を政府から追放しようという「逐客令」が提案された[45]。反対を表明した者が李斯だった。呂不韋の食客から頭角を現した楚出身の人物で、李斯は「逐客令」が発布されれば地位を失う位置にあった。しかし的確な論をもっていた。秦の発展は外国人が支え、穆公は虞の大夫であった百里奚や宋の蹇叔らを登用し[45]、孝公は衛の公族だった商鞅から[46]、恵文王は魏出身の張儀から[47]、昭襄王は魏の范雎から[48] それぞれ助力を得て国を栄えさせたと述べた。李斯は性悪説の荀子に学び、人間は環境に左右されるという思想を持っていた[45]。秦王政は彼の主張を認めて「逐客令」を廃案とし、李斯に深い信頼を寄せた[49]。
商鞅以来、秦は「法」を重視する政策を用いていた[46]。秦王政もこの考えを引き継いでいたため、同じ思想を説いた『韓非子』に感嘆した。著者の韓非は韓の公子であったため、事があれば使者になると見越した秦王政は韓に攻撃を仕掛けた。果たして秦王政14年(前233年)に[36] 使者の命を受けた韓非は謁見した。韓非はすでに故国を見限っており、自らを覇権に必要と売り込んだ[50]。しかし、これに危機を感じた李斯と姚賈の謀略にかかり死に追いやられた[49]。秦王政が感心した韓非の思想とは、『韓非子』「孤憤」節1の「術を知る者は見通しが利き明察であるため、他人の謀略を見通せる。法を守る者は毅然として勁直であるため、他人の悪事を正せる」という部分と[51]、「五蠹」節10文末の「名君の国では、書(詩経・書経)ではなく法が教えである。師は先王ではなく官吏である。勇は私闘ではなく戦にある。民の行動は法と結果に基づき、有事では勇敢である。これを王資という」の部分であり[52]、また国に巣食う蟲とは「儒・俠・賄・商・工」の5匹(五蠹)である[52] という箇所にも共感を得た[49]。
韓・趙の滅亡
[編集]秦は強大な軍事力を誇り、先代の荘襄王治世の3年間にも領土拡張を遂げていた[30]。秦王政の代には、魏出身の尉繚の意見を採用し、他国の人間を買収してさまざまな工作を行う手段を用いた。一度は職を辞した尉繚は留め置かれ、軍事顧問となった[49]。
秦王政17年(前230年)、韓非が死んだ3年後、韓は陽翟が陥落して韓王安が捕縛されて滅んだ(韓の滅亡)[49]。
秦王政18年(前229年)、秦は王翦・楊端和・羌瘣に趙を攻めさせた。次の標的になった趙には、幽繆王の臣である郭開への買収工作がすでに完了していた。斉との連合も情報が漏れ、旱魃や地震災害[53][54] につけこまれた秦の侵攻にも、趙王が讒言で李牧を誅殺し、司馬尚を解任してしまい、簡単に敗れた。
秦王政19年(前228年)、趙王は捕虜となり、国は秦に併合された(趙の滅亡)[55]。生まれた邯鄲に入った秦王政は、母の太后の実家と揉めていた者たちを生き埋めにして秦へ戻った[55]。
趙王は捕らえられたが、その兄の公子嘉は代郡(河北省)に逃れ、亡命政権である代を建てた。
暗殺未遂と燕の滅亡
[編集]燕は弱小な国であった[56]。太子の丹はかつて人質として趙の邯鄲で過ごし、同じ境遇の政と親しかった。政が秦王になると、丹は秦の人質となり咸陽に住んだ。このころ、彼に対する秦の扱いは礼に欠けたものになっていた[55]。『燕丹子』という書によると、帰国の希望を述べた丹に秦王政は「烏の頭が白くなり、馬に角が生えたら返そう」と言った。ありえないことに丹が嘆息すると、白い頭の烏と角が生えた馬が現れた。やむなく政は帰国を許したという[55]。実際は脱走したと思われる[57] 丹は秦に対し深い恨みを抱くようになった[55][58]。
両国の間にあった趙が滅ぶと、秦は幾度となく燕を攻め、燕は武力では太刀打ちできなかった[56]。丹は非常の手段である暗殺計画を練り、荊軻という刺客に白羽の矢を立てた[12][56]。
秦王政20年(前227年)、荊軻は秦舞陽を供に連れ、督亢(とくごう)の地図と秦の元将軍で燕に亡命していた樊於期の首を携えて政への謁見に臨んだ[55][56]。秦舞陽は手にした地図の箱を差し出そうとしたが、恐れおののき政になかなか近づけなかった。荊軻は、「供は天子の威光を前に目を向けられないのです」と言いつつ進み出て、地図と首が入る二つの箱を持ち進み出た[56]。受け取った秦王政が巻物の地図をひもとくと、中に隠していた匕首が最後に現れ、荊軻はそれをひったくり政へ襲いかかった。政は身をかわし逃げ惑ったが、護身用の長剣を抜くのに手間取った[56]。宮殿の官僚たちは武器所持を、近衛兵は許可なく殿上に登ることを秦の「法」によって厳しく禁じられ、大声を出すほかなかった。しかし、従医の夏無且が投げた薬袋が荊軻に当たり、剣を背負うよう叫ぶ臣下の言に政はやっと剣を手にし、荊軻を斬り伏せた[56][59]。
政はこれに激怒し、同年には燕への総攻撃を仕掛け、燕・代の連合軍を易水の西で破った。
そして、秦王政19年(前226年)、暗殺未遂の翌年に首都薊を落とした。荊軻の血縁をすべて殺害しても怒りは静まらず、ついには町の住民全員も殺害された[59]。その後の戦いも秦軍は圧倒し、遼東に逃れた燕王喜は丹の首級を届けて和睦を願ったが聞き入れられず、5年後には捕らえられた(燕の滅亡)[57][59]。
魏・楚・斉の滅亡
[編集]次に秦の標的となった魏は、かつて五国の合従軍を率いた信陵君を失い弱体化していた。
秦王政22年(前225年)、秦王政は王賁に魏を攻めさせ、その首都・大梁を包囲した。魏は黄河と梁溝を堰き止めて大梁を水攻めされても3か月耐えたが、ついに降伏し、魏も滅んだ(魏の滅亡)[59]。
同年、秦と並ぶ強国・楚との戦いに入った[60]。秦王政は若い李信と蒙恬に20万の兵を与え指揮を執らせた。緒戦こそ優勢だった秦軍だが、前年に民の安撫のため楚の公子である元右丞相の昌平君を配した楚の旧都郢陳で起きた反乱[61] と楚軍の猛追に遭い大敗した。秦王政は将軍の王翦に秦の全軍に匹敵する60万の兵を託し、秦王政24年(紀元前223年)に楚を滅ぼした(楚の滅亡)[57][62]。
最後に残った斉は約40年間ほとんど戦争をしていなかった。それは、秦が買収した宰相の后勝とその食客らの工作もあった。秦に攻められても斉は戦わず、后勝の言に従い無抵抗のまま降伏し滅んだ(斉の滅亡)[63]。秦が戦国時代に幕を引いたのは、秦王政26年(前221年)のことであり、政は39歳であった[63]。
統一王朝
[編集]皇帝
[編集]中国が統一され、初めて強大なひとりの権力者の支配に浴した。最初に秦王政は、重臣の王綰・馮劫・李斯らに称号を刷新する審議を命じた。それまで用いていた「王」は周の時代こそ天下にただ一人の称号だったが、春秋・戦国時代を通じ諸国が成立し、それぞれの諸侯が名乗っていた。統一を成し遂げた後には「王」に代わる尊称が求められた。王綰らは、五帝さえ超越したとして三皇の最上位である「泰皇」の号を推挙し、併せて指示を「命」→「制」、布告を「令」→「詔」、自称を謙譲的な「寡人」→「朕」にすべしと答申した。秦王政は答えて「去『泰』、著『皇』、采上古『帝』位號、號曰『皇帝』。他如議。」「始皇本紀第六」「泰皇の泰を去り、上古の帝位の号を採って皇帝と号し、その他は議の通りとしよう」(『史記Ⅰ本記』ちくま学芸文庫 小竹文夫・小竹武夫訳 P145)と、新たに「皇帝」の称号を使う決定を下した[13]。
五徳終始
[編集]始皇帝はまた戦国時代に成立した五行思想(木、火、土、金、水)と王朝交代を結びつける説を取り入れた。これによると、周王朝は「赤」色の「火」で象徴される徳を持って栄えたと考えられる。続く秦王朝は相克によって「火」を討ち滅ぼす「黒」色の「水」とされた。この思想を元に、儀礼用衣服や皇帝の旗(旄旌節旗)には黒色が用いられた[64]。史記の伝説では秦の始祖、大費(柏翳)が成功し、舜に黒色の旗を貰った、と有る。五行の「水」は他に、方位の「北」、季節の「冬」、数字の「6」でも象徴された[65][66]。
政治
[編集]始皇帝は周王朝時代から続いた古来の支配者観を根底から覆した[67]。政治支配は中央集権が採用されて被征服国は独立国の体を廃され[68]、代わって36の郡が置かれ、後にその数は48に増えた。郡は「県」で区分され、さらに「郷」そして「里」と段階的に小さな行政単位が定められた[69]。これは郡県制を中国全土に施行したものである[66]。
統一後、臣下の中では従来の封建制を用いて王子らを諸国に封じて統治させる意見が主流だったが、これは古代中国で発生したような政治的混乱を招く[68][70] と強硬に主張した李斯の意見が採られた[66]。こうして、過去の緩やかな同盟または連合を母体とする諸国関係は刷新された[71]。伝統的な地域名は無くなり、例えば「楚」の国の人を「楚人」と呼ぶような区別はできなくなった[69][72]。人物登用も、家柄に基づかず能力を基準に考慮されるようになった[69]。
経済など
[編集]始皇帝と李斯は、度量衡や通貨[11]、荷車の軸幅(車軌)、また位取り記数法[73] などを統一し、市制の標準を定めることで経済の一体化を図った[71][74]。さらに、各地方の交易を盛んにするため道路や運河などの広範な交通網を整備した[71]。各国でまちまちだった通貨は半両銭に一本化された[69][74]。そして最も重要な政策に、漢字書体の統一が挙げられる。李斯は秦国内で篆書体への一本化を推進した[70]。皇帝が使用する文字は「篆書」と呼ばれ、これが標準書体とされた[75]。臣下が用いる文字は「隷書」として、程邈という人物が定めたというが、一人で完成できるものとは考えにくい[76]。その後、この書体を征服したすべての地域でも公式のものと定め、中国全土における通信網を確立するために各地固有の書体を廃止した[69][70]。
度量衡を統一するため、基準となる長さ・重さ・容積の標準器が製作され各地に配られた。これらには篆書による以下の詔書(権量銘)が刻まれている[77]。
大土木事業
[編集]
咸陽と阿房宮
[編集]始皇帝は各地の富豪12万戸を首都・咸陽に強制移住させ、また諸国の武器を集めて鎔かし十二金人を製造した。これは地方に残る財力と武力を削ぐ目的で行われた[79]。咸陽城には滅ぼした国から娼妓や美人などが集められ、その度に宮殿は増築を繰り返した。人口は膨張し、従来の渭水北岸では手狭になった[79]。
始皇35年(前212年)、始皇帝は皇帝の居所にふさわしい宮殿の建設に着手し、渭水南岸に広大な阿房宮建設に着手した。ここには恵文王時代に建設された宮殿があったが、始皇帝はこれを300里前後まで拡張する計画を立てた。最初に1万人が座れる前殿が建設され、門には磁石が用いられた。居所である紫宮は四柱が支える大きなひさし(四阿旁広)を持つ[79] 巨大な宮殿であった[80]。
名称「阿房」とは仮の名称である[81]。この「阿房」は史記・秦始皇本紀には「作宮阿房、故天下謂之阿房宮(宮を阿房に作る。故に天下之を阿房宮と謂う)」とあり地名[82] であるが、学者は「阿」が近いという意味から咸陽近郊の宮を指すとも[79]、四阿旁広の様子からつけられたとも[79]、始皇帝に最も寵愛された妾の名[83] とも言う。
始皇帝陵 (驪山)
[編集]秦王に即位した紀元前247年には自身の陵墓建設に着手した。それ自体は寿陵と呼ばれ珍しいことではないが、陵墓は規模が格段に大きかった。阿房宮の南80里にある驪山(所在地:北緯34度22分52.75秒 東経109度15分13.06秒 / 北緯34.3813194度 東経109.2536278度)が選ばれ始められた建設は、統一後に拡大された[84]。始皇帝の晩年には阿房宮と驪山陵の建設に隠宮の徒刑者70万人が動員されたという記録がある[85]。
木材や石材が遠方から運ばれ、地下水脈に達するまで掘削した陵の周囲は銅で固められた。その中に宮殿や楼観が造られた。さらに水銀が流れる川が100本造られ、「天体」を再現した装飾がなされ、侵入者を撃つ石弓が据えられたという[84][86]。珍品や豪華な品々が集められ、俑で作られた官臣が備えられた[84]。これは、死後も生前と同様の生活を送ることを目的とした荘厳な建築物であり、現世の宮殿である阿房宮との間80里は閣道で結ばれた[84]。
1974年3月29日、井戸掘りの農民たちが兵馬俑を発見したことで、始皇帝陵は世界的に知られるようになった[87]。ただし、始皇帝を埋葬した陵墓の発掘作業が行われておらず、比較的完全な状態で保存されていると推測される[88]。現代になり、考古学者は墓の位置を特定して、探針を用いた調査を行った。この際、自然界よりも濃度が約100倍高い水銀が発見され、伝説扱いされていた建築が事実だと確認された[89]。
なお、現在は「始皇帝陵」という名前が一般的になっているが、このように呼ばれるようになったのは漢代以降のことであり、それ以前は「驪山」と呼ばれていた[90]。
万里の長城
[編集]中国は統一されたが、始皇帝はすべての敵を殲滅できたわけではなかった。それは北方および北西の遊牧民であった。戦国七雄が争っていたころは匈奴も東胡や月氏と牽制し合い、南に攻め込みにくい状態にあった。しかし、中国統一のころには勢力を強めつつあったので、防衛策を講じた。[80]。始皇帝は蒙恬を北方防衛に当たらせた[80]。そして巨大な防衛壁建設に着手した[54][91]。逮捕された不正役人を動員して建造した[92] この壁は、現在の万里の長城の前身にあたる。これは、過去400年間にわたり趙や中山国など各国が川や崖と接続させた小規模な国境の壁をつなげたものであった[80][93][94]。
霊渠
[編集]中国南部の有名なことわざに「北有長城、南有霊渠」というものがある[95]。始皇33年(前214年)、始皇帝は軍事輸送のため大運河の建設に着手し[96]、中国の南北を接続した[96]。長さは34kmに及び、長江に流れ込む湘江と、珠江の注ぐ漓江との間をつないだ[96]。この運河は中国の主要河川2本をつなぐことで秦の南西進出を支えた[96]。これは、万里の長城・四川省の都江堰と並び、古代中国三大事業のひとつに挙げられる[96]。
天下巡遊
[編集]中国を統一した翌年の紀元前220年に始皇帝は天下巡遊を始めた。最初に訪れた隴西(甘粛省東南・旧隴西郡)と北地(甘粛省慶陽市寧県・旧北地郡)は[97] いずれも秦にとって重要な土地であり、これは祖霊に統一事業の報告という側面があったと考えられる[98]。
しかし始皇28年(前219年)以降4度行われた巡遊は、皇帝の権威を誇示し、各地域の視察および祭祀の実施などを目的とした距離も期間も長いものとなった。これは『書経』「虞書・舜典」にある舜が各地を巡遊した故事[99] に倣ったものとも考えられる。始皇帝が通行するために、幅が50歩(67.5m)あり、中央には松の木で仕切られた皇帝専用の通路を持つ「馳道」が整備された[98]。
順路は以下の通りである[98]。
- 始皇28年(前219年、第1回):咸陽‐嶧山(山東省鄒城市)‐泰山(山東省泰安市)‐黄(山東省竜口市)‐腄(山東省煙台市福山区)‐成山(山東省栄成市)‐之罘(山東省煙台市芝罘区)‐瑯琊(山東省青島市黄島区)‐彭城(江蘇省徐州市)‐衡山(湖南省湘潭市)‐南郡(湖北省南部)‐湘山祠(湖南省岳陽市君山区)‐武関(陝西省丹鳳県)‐咸陽[100][注 3]
- 29年:咸陽‐陽武(河南省新郷市原陽県)‐之罘‐瑯琊‐上党(山西省長治市)‐咸陽[101]
- 始皇32年(前215年、第3回):咸陽‐碣石(河北省秦皇島市昌黎県)‐上郡(陝西省北部)‐咸陽[102]
- 始皇37年(前210年、第4回):咸陽‐雲夢(湖北省雲夢県)‐海渚(安徽省安慶市迎江区)‐丹陽(江蘇省南京市)‐銭唐(浙江省杭州市)‐会稽(浙江省紹興市)‐呉(江蘇省蘇州市)‐瑯琊‐成山‐之罘‐平原津(山東省徳州市平原県)‐沙丘(河北省邢台市広宗県)[103]
これら巡遊の証明はもっぱら『史記』の記述のみに頼っていた。しかし、1975-76年に湖北省孝感市雲夢県の戦国‐秦代の古墳から発掘された睡虎地秦簡の『編年紀』と名づけられた竹簡の「今二十八年」条の部分から「今過安陸」という文が見つかった。「今」とは今皇帝すなわち始皇帝を指し、「二十八年」は始皇28年である紀元前219年の出来事が書かれた部分となる。「今過安陸」は始皇帝が安陸(湖北省南部の地名)を通過したことを記録している。短い文章ではあるが、これは同時期に記録された巡遊を証明する貴重な資料である[104]。
封禅
[編集]第1回目の巡遊は主に東方を精力的に回った。途中の泰山にて、始皇帝は封禅の儀を行った。これは天地を祀る儀式であり、天命を受けた天子の中でも功と徳を備えた者だけが執り行う資格を持つとされ[105]、かつて斉の桓公が行おうとして管仲が必死に止めたと伝わる[106]。始皇帝は、自らを五徳終始思想に照らし「火」の周王朝を次いだ「水」の徳を持つ有資格者と考え[107]、この儀式を遂行した[108]。
しかし管仲の言を借りれば、最後に封禅を行った天子は周の成王であり[106]、すでに500年以上の空白があった。式次第は残されておらず[105]、始皇帝は儒者70名ほどに問うたが、その返答はばらばらで何ら参考になるものはなかった[108][109]。結局始皇帝は彼らを退け、秦で行われていた祭祀を基にした独自の形式で封禅を敢行した[105][108]。頂上まで車道が敷かれ、南側から登った始皇帝は山頂に碑を建て、「封」の儀式を行った。下りは北側の道を通り、隣の梁父山で「禅」の儀式を終えた[108]。
この封禅の儀は、詳細が明らかにされなかった[109]。排除された儒家たちは「始皇帝は暴風雨に遭った」など推測による誹謗を行ったが、儀礼の不具合を隠す目的があったとか[108]、我流の形式であったため後に正しい方法がわかったときに有効性を否定されることを恐れたとも言われる[105]。吉川忠夫は、始皇帝は泰山で自らの不老不死を祈る儀式も行ったため、全容を秘匿する必要があったのではとも述べた[108]。
神仙への傾倒
[編集]泰山で封禅の儀を行った後、始皇帝は山東半島を巡る。これを司馬遷は「求僊人羨門之屬」と書いた[110]。僊人とは仙人のことであり、始皇帝が神仙思想に染まりつつあったことを示し[111]、そこに取り入ったのが方士と呼ばれる者たちであった[112]。方士とは不老不死の秘術を会得した人物を指すが、実態は「怪迂阿諛苟合之徒」[113] と、怪しげで調子の良い(苟合)話によって権力者にこびへつらう(阿諛 - ごまをする)者たちであったという[108]。
その代表格が、始皇帝が瑯琊で石碑(瑯琊台刻石)を建立した後に謁見した徐巿である。斉の出身である徐巿は、東の海に伝説の蓬萊山など仙人が住む山(三神山)があり、それを探り1000歳と言われる仙人の安期生を伴って帰還する[114] ための出資を求める上奏を行った。始皇帝は第1回の巡遊で初めて海を見たと考えられ、中国一般にあった「海は晦なり」(海は暗い‐未知なる世界)で表される神秘性に魅せられ、これを許可して数千人の童子・童女を連れた探査を指示した[111][115]。第2回巡遊でも瑯琊を訪れた始皇帝は、風に邪魔されるという風な徐巿の弁明に疑念を持ち、他の方士らに仙人の秘術探査を命じた[111]。言い逃れも限界に達した徐巿も海に漕ぎ出し、手ぶらで帰れば処罰されると恐れた一行は逃亡した。伝説では、日本にたどり着き、そこに定住したともいう[112][116]。
刻石
[編集]各地を巡った始皇帝は、伝わるだけで7つの碑(始皇七刻石)を建立した。第1回では嶧山と封禅を行った泰山そして瑯琊、第2回では之罘に2箇所、第3回では碣石、第4回では会稽である。現在は泰山刻石と瑯琊台刻石の2碑が極めて不完全な状態で残されているのみであり、碑文も『史記』に6碑が記述されるが嶧山刻石のそれはない[98]。碑文はいずれも小篆で書かれ、始皇帝の偉業を称える内容である[98]。
逸話
[編集]始皇帝の巡遊にはいくつかの逸話がある。第1回の旅で彭城に立ち寄った際、鼎を探すため泗水に千人を潜らせたが見つからなかったと『史記』にある[117]。これは昭王の時代に周から秦へ渡った九つの鼎の内の失われた一つであり、始皇帝は全てを揃え王朝の正当性を得ようとしたが、かなわなかった[104]。この件について北魏時代に酈道元が撰した『水経注』では、鼎を引き上げる綱を竜が噛みちぎったと伝える。後漢時代の武氏祠石室には、この事件を伝える画像石「泗水撈鼎図」があり、切れた綱に転んだ者たちが描かれている[104]。
『三斉略記』は、第3回巡遊で碣石に赴いた際に海神とのやりとりがあったことを載せている。この地で始皇帝は海に石橋を架けたが、この橋脚を建てる際に海神が助力を与えた。始皇帝は会見を申し込んだが、海神は醜悪な自らの姿を絵に描かないことを条件に許可した。しかし、臣下の中にいた画工が会見の席で足を使い筆写していた。これを見破った海神が怒り、始皇帝は崩れゆく石橋を急ぎ引き返して九死に一生を得たが、画工は溺れ死んだという[111]。
暗殺未遂
[編集]始皇帝は秦王政の時代に荊軻の暗殺計画から辛くも逃れたが、皇帝となった後にも少なくとも3度生命の危機にさらされた[118]。
高漸離の暗殺未遂
[編集]荊軻と非常に親しい間柄だった高漸離は筑の名手であった。燕の滅亡後に身を隠していたが筑の演奏が知られ、始皇帝にまで聞こえ召し出された。ところが荊軻との関係が露呈してしまった。この時は腕前が惜しまれ、眼をつぶされることで処刑を免れた。こうして始皇帝の前で演奏するようになったが、復讐を志していた[119]。高漸離は筑に鉛塊を仕込み、それを振りかざして始皇帝を打ち殺そうとした。しかしそれは空振りに終わり、高漸離は処刑された[118][120]。この後、始皇帝は滅ぼした国に仕えた人間を近づけないようにした[118]。
張良の暗殺未遂
[編集]第2回巡遊で一行が陽武近郊の博浪沙という場所を通っていた時、突然120斤(約30kg[80])の鉄錐が飛来した。これは別の車を砕き、始皇帝は無傷だった[115]。この事件は、滅んだ韓の貴族だった張良が首謀し、怪力の勇士を雇い投げつけたものだった[115]。この事件の後、大規模な捜査が行われたが張良と勇士は逃げ延びた[42][118][121]。
咸陽での襲撃
[編集]始皇31年(前216年)、始皇帝が4人の武人だけを連れたお忍びの夜間外出を行った際、蘭池という場所で盗賊が一行を襲撃した。この時には取り押さえに成功し、事なきを得た。さらに20日間にわたり捜査が行われた[118][122]。
「真人」の希求
[編集]天下を統一し封禅の祭祀を行った始皇帝は、すでに自らを歴史上に前例のない人間だと考え始めていた。第1回巡遊の際に建立された琅邪台刻石には「古代の五帝三王の領地は千里四方の小地域に止まり、統治も未熟で鬼神の威を借りねば治まらなかった」と書かれている[123]。このように五帝や三王(夏の禹王、殷の湯王、周の文王または武王)を評し、遥かに広大な国土を法治主義で見事に治める始皇帝が彼らをはるかに凌駕すると述べている[104]。逐電した徐巿[112] に代わって始皇帝に取り入ったのは燕出身の方士たちであり、特に盧生は様々な影響を与えた[124]。
『録図書』と胡の討伐
[編集]盧生は徐巿と同様に不老不死を餌に始皇帝に近づき、秘薬を持つ仙人の探査を命じられた。仙人こそ連れて来なかったが、『録図書』という予言書を献上した。その中にある「秦を滅ぼす者は胡」[125] という文言を信じ、始皇帝は周辺民族の征伐に乗り出した[124]。
万里の長城を整備したことからも、秦王朝にとって外敵といえば、まず匈奴が挙げられた。始皇帝は北方に駐留する蒙恬に30万の兵を与えて討伐を命じた。軍がオルドス地方を占拠すると、犯罪者をそこに移し、44の県を新設した。さらに現在の内モンゴル自治区包頭市にまで通じる軍事道路「直道」を整備した[124]。
一方で南には嶺南へ圧迫を加え、そこへ逃亡者や働かない婿、商人ら[126] を中心に編成された軍団を派遣し[124]、現在の広東省やベトナムの一部も領土に加えた[54]。ここにも新たに3つの郡が置かれ、犯罪者50万人を移住させた[124]。
不老不死の薬
[編集]2002年に湖南省の井戸の底から発見された3万6000枚に及ぶ木簡の中に、始皇帝が国内各地で不死の薬を探すよう命じた布告や、それに対する地方政府の返答が含まれていた。この発見により布告が辺境地域や僻村にまでも通達されていたことが分かった。
地方政府の返答には「そのような妙薬はまだ見つかっていないが引き続き調査している」「地元の霊山で採取した薬草が不老不死に効くかもしれない」など当惑した様子がうかがわれる。[127]
焚書坑儒
[編集]焚書
[編集]始皇34年(前213年)、胡の討伐が成功裏に終わり開かれた祝賀の席が、焚書の引き金となった。臣下や博士らが祝辞を述べる中、博士の一人であった淳于越が意見を述べた。その内容は、古代を手本に郡県制を改め封建制に戻すべしというものだった[128]。始皇帝はこれを群臣の諮問にかけた[129] が、郡県制を推進した李斯が再反論し、始皇帝もそれを認可した[130]。その内容は、農学・医学・占星学・占術・秦の歴史を除く全ての書物を、博士官にあるものを除き焼き捨て、従わぬ者は顔面に刺青を入れ、労役に出す。政権への不満を論じる者は族誅するという建策を行い、認められた[131][132]。特に『詩経』と『書経』の所有は、博士官の蔵書を除き[注 4] 厳しく罰せられた[133]。
始皇帝が信奉した『韓非子』「五蠹」には「優れた王は不変の手法ではなく時々に対応する。古代の例にただ倣うことは、切り株の番をするようなものだ」と論じられている[134]。こういった統治者が生きる時代背景に応じた政治を重視する考えを「後王思想」と言い、特に儒家の主張にある先王を模範とすべしという考えと対立するものだった[133]。始皇帝自身がこの思想を持っていたことは、巡遊中の各刻石の文言からも読み取れる[135]。
すでに郡県制が施行されてから8年が経過した中、淳于越がこのような意見を述べ、さらに審議された背景には、先王尊重の思想を持つ集団が依然として発言力を持っていた可能性が指摘される[135]。しかし始皇帝は淳于越らの意見を却下した。『韓非子』「姦劫弑臣」には「愚かな学者らは古い本を持ち出してはわめき合うだけで、目前の政治の邪魔をする」とある[136]。この焚書は、旧書体を廃止し篆書体へ統一する政策の促進にも役立った[137]。
坑儒
[編集]始皇帝に取り入ろうとした方士の盧生は「真人」を説いた。真人とは『荘子』「内篇・大宗師」で言う水で濡れず火に焼かれない人物とも[138]、「内篇・斉物論」で神と言い切られた存在[139] を元にする超人を指した[116]。盧生は、身を隠していれば真人が訪れ、不老不死の薬を譲り受ければ真人になれると話した。始皇帝はこれを信じ、一人称を「朕」から「真人」に変え、宮殿では複道を通るなど身を隠すようになった。ある時、丞相の行列に随員が多いのを見て始皇帝が不快がった。後日見ると丞相が随員を減らしていた。始皇帝は側近が我が言を漏らしたと怒り、その時周囲にいた宦者らすべてを処刑したこともあった[140]。ただし政務は従来通り、咸陽宮で全て執り行っていた[141]。
しかし真人の来訪はなく、処罰を恐れた盧生と侯生は始皇帝の悪口を吐いて逃亡した。一方始皇帝は方士たちが巨額の予算を引き出しながら成果を挙げず、姦利を以って争い、あまつさえ怨言を吐いて逃亡したことを以って[142] 監察に命じて方士らを尋問にかけた。彼らは他者の告発を繰り返し、法を犯した者約460人が拘束されるに至った。始皇35年(前212年)、始皇帝は彼らを生き埋めに処し[143]、これがいわゆる坑儒であり、前掲の焚書と合わせて焚書坑儒と呼ばれる[116]。『史記』には「儒」とは一字も述べられておらず「諸生」[144] と表記しているが、この行為を諌めた長子の扶蘇[145] の言「諸生皆誦法孔子」[128] から、儒家の比率は高かったものと推定される[146]。
諫言を不快に思った始皇帝は扶蘇に、北方を守る蒙恬を監察する役を命じ、上郡に向かわせた[116]。『史記』は、始皇帝が怒った上の懲罰的処分と記しているが[128]、陳舜臣は別の考えを述べている。30万の兵を抱える蒙恬が匈奴と手を組み反乱を起こせば、統一後は軍事力を衰えさせていた秦王朝にとって大きな脅威となる。蒙恬を監視し抑える役目は非常に重要なもので、始皇帝は扶蘇を見込んでこの大役を任じたのではないかという。また、他の諸皇子は公務につかない限り平民として扱われていた[147] が、扶蘇は任務に就いたことで別格となっている。いずれにしろこの処置は秦にとって不幸なものとなった[80]。
坑儒について、別な角度から見た主張もある。これは、お抱えの学者たちに不老不死を目指した錬金術研究に集中させる目的があったという。処刑された学者の中には、これら超自然的な研究に携わった者も含まれる。坑儒は、もし学者が不死の解明に到達していれば処刑されても生き返ることができるという究極の試験であった可能性を示唆する[148]。
祖龍の死
[編集]不吉な暗示
[編集]『史記』によると、始皇36年(前211年)に東郡(河南・河北・山東の境界に当たる地域)に落下した隕石に、何者かが「始皇帝死而地分」(始皇帝が亡くなり天下が分断される)という文字を刻みつける事件が起きた[149]。周辺住民は厳しく取り調べられたが犯人は判らず、全員が殺された[150] 上、隕石は焼き砕かれた[28]。空から降る隕石に文字を刻むことは、それが天の意志であると主張した行為であり、渦巻く民意を代弁していた[118]。
また同年秋、ある使者が平舒道という所で出くわした人物から「今年祖龍死」という言葉を聞いた。その人物から滈池君へ返して欲しいと玉璧を受け取った使者は、不思議な出来事を報告した。次第を聞いた始皇帝は、祖龍とは人の先祖のこと、それに山鬼の類に長い先のことなど見通せまいとつぶやいた。しかし玉璧は、第1回巡遊の際に神に捧げるため長江に沈めたものだった。始皇帝は占いにかけ、「游徙吉」との告げを得た。そこで「徙」を果たすため3万戸の人員を北方に移住させ、「游」として始皇37年(前210年)に4度目の巡遊に出発した[118][150]。
最後の巡遊
[編集]末子の胡亥と左丞相の李斯を伴った第4回巡遊[151] は東南へ向かった。これは、方士が東南方向から天子の気が立ち込めているとの言を受け、これを封じるために選ばれた。500年後に金陵(南京)にて天子が現れると聞くと、始皇帝は山を削り丘を切って防ごうとした[152]。また、海神と闘う夢を見たため弩を携えて海に臨み、之罘で大鮫魚を仕留めた[152][153]。
ところが、平原津で始皇帝は病気となった。症状は段々と深刻になり、ついに蒙恬の監察役として北方にとどまっている[154] 長子の扶蘇に「咸陽に戻って葬儀を主催せよ」との遺詔を口頭で、信頼を置く宦官の趙高[155] に作成させ託した。
始皇37年(紀元前210年)[156]、始皇帝は沙丘の平台(現在の河北省邢台市広宗県[157])にて崩御[2][152][158]。伝説によると彼は、宮殿の学者や医師らが処方した不死の効果を期待する水銀入りの薬を服用していたという[89]。
死後
[編集]隠された崩御
[編集]始皇帝の崩御が天下騒乱の引き金になることを李斯は恐れ[56]、秘したまま一行は咸陽へ向かった[56][159][160]。崩御を知る者は胡亥、李斯、趙高ら数名だけだった[2][152]。死臭を誤魔化す為に大量の魚を積んだ車が伴走し[2][56]、始皇帝がさも生きているような振る舞いを続けた[56] 帰路において、趙高は胡亥や李斯に甘言を弄し、謀略に引き込んだ。扶蘇に宛てた遺詔は握りつぶされ、蒙恬ともども死を賜る詔が偽造され送られた[154][155][161]。この書を受けた扶蘇は自殺し、疑問を持った蒙恬は獄につながれた[161]。
二世皇帝
[編集]始皇帝の崩御から2か月後、咸陽に戻った20歳の胡亥が即位し二世皇帝となり(紀元前210年)[56]、始皇帝の遺体は驪山の陵に葬られた。そして趙高が権勢をつかんだ[162]。蒙恬や蒙毅をはじめ、気骨ある人物はことごとく排除され、陳勝・呉広の乱を皮切りに各地で始まった反秦の反乱さえ趙高は自らへの権力集中に使った[162]。そして李斯さえ陥れて処刑させた[163]。
しかし反乱に何ら手を打てず、二世皇帝3年(前207年)には反秦の反乱の一つの勢力である劉邦率いる軍に武関を破られる。ここに至り、二世皇帝は言い逃ればかりの趙高を叱責したが、逆に兵を仕向けられ自殺に追い込まれた[164]。趙高は二世皇帝の兄とも兄の子とも伝わる子嬰を次代に擁立しようとしたが、趙高は子嬰の命を受けた韓談によって刺し殺された。翌年、子嬰は皇帝ではなく秦王に即位したが、わずか46日後に劉邦に降伏し、項羽に殺害された[164]。予言書『録図書』にあった秦を滅ぼす者「胡」とは、辺境の異民族ではなく胡亥のことを指していた[164][165]。
『趙正書』の記述
[編集]以上の始皇帝死去前後の経過は『史記』に基づくが、北京大学蔵西漢竹書の一つである『趙正書』にはこれと食い違う経過が記されている。大きな相違点の一つが胡亥即位の経緯で、『史記』は李斯・趙高の陰謀によるものとするのに対し、『趙正書』では、群臣が跡継ぎに胡亥を推薦し、嬴政がそれを裁可するという手続きを踏んだことになっている[166][167]。
人物
[編集]『史記』は、同じ時代を生きた人物による始皇帝を評した言葉を記している。尉繚は秦王時代に軍事顧問として重用された[49] が、一度暇乞いをしたことがあり、その理由を以下のように語った[35]。
秦王為人,蜂準,長目,鷙鳥膺,豺聲,少恩而虎狼心,居約易出人下,得志亦輕食人。我布衣,然見我常身自下我。誠使秦王得志於天下,天下皆為虜矣。不可與久游。 — 史記「秦始皇本紀」4[168]
秦王政の風貌を、準(鼻)は蜂(高く尖っている)、目は切れ長、膺(胸)は鷙鳥(鷹のように突き出ている)、そして声は豺(やまいぬ)のようだと述べる。そして恩を感じることなどほとんどなく、虎狼のように残忍だと言う。目的のために下手に出るが、一度成果を得れば、また他人を軽んじ食いものにすると分析する。布衣(無冠)の自分にもへりくだるが、中国統一の目的を達したならば、天下はすべて秦王の奴隷になってしまうだろうと予想し、最後に付き合うべきでないと断ずる[35][49]。
将軍・王翦は強国・楚との戦いに決着をつけた人物である。他の者が指揮した戦いで敗れたのち、彼は秦王政の要請に応じて出陣した。このとき、王翦は財宝や美田など褒章を要求し、戦地からもしつこく念を押す書状を送った。その振る舞いをみっともないものと諌められると、彼は言った[57][63]。
夫秦王怚而不信人。 — 史記「白起王翦列伝」11[62]
怚は粗暴を意味し、秦王政が他人に信頼を置かず一度でも疑いが頭をもたげればどのような令が下るかわからないという。何度も褒章を求めるのも、反抗など思いもよらない浅ましい人物を演じることで、秦のほとんどと言える兵力を指揮下に持つ自分が疑われて死を賜る命令が下りないようにしているのだと述べた。[57][63]。
方士の盧生と侯生が逃亡する前に始皇帝を評した言が残っている。
始皇為人,天性剛戾自用,起諸侯,并天下,意得欲從,以為自古莫及己。專任獄吏,獄吏得親幸。博士雖七十人,特備員弗用。丞相諸大臣皆受成事,倚辨於上。上樂以刑殺為威,天下畏罪持祿,莫敢盡忠。(中略)。天下之事無小大皆決於上,上至以衡石量書,日夜有呈,不中呈不得休息。貪於權勢至如此,(後略) — 史記「秦始皇本紀」41[144]
始皇帝は生まれながらの強情者で、成り上がって天下を取ったため、歴史や伝統でさえ何でも思い通りにできると考えている。獄吏ばかりが優遇され、70人もいる博士は用いられない。大臣らは命令を受けるだけ。始皇帝の楽しみは処刑ばかりで天下は怯えまくって、うわべの忠誠を示すのみと言う。決断はすべて始皇帝が下すため、昼と夜それぞれに重さで決めた量の書類を処理し、時には休息さえ取らず向かっている。まさに権勢の権化と断じた[116]。
民間では、秦王を「白帝子」と呼んでいる。白帝は「金徳」を司る天帝少昊で、秦国の祭祀では白帝の地位が高いため、秦皇室は「白帝子」と呼ばれている。
后妃と子女
[編集]始皇帝の后妃については、史書に記載がなく不明。ただし、『史記』秦始皇本紀に、「始皇帝が崩御したときに後宮で子のないものがすべて殉死させられ、その数がはなはだ多かった」といっているため、多くの后妃があっただろうということは推測できる。
子女の数は明らかでない。『史記』李斯列伝には、始皇帝の公子は20人以上いたが、二世皇帝が公子12人と公主10人を殺したことを記す。名前の知られている子は以下のものがある。
また、具体的な親族の血縁上の位置づけが不明な男子がいる。
- 子嬰 - 『史記』「六国年表第三」では、「胡亥の兄」とされる。一方、『史記』「秦始皇本紀」では「胡亥の兄の子」とされており、「兄」が誰の事なのかは記録されていない。また、『史記』「李斯列伝」では始皇帝の弟とされている。『史記』「李斯列伝」集解徐広の説では、「一本曰『召始皇弟子嬰,授之璽』」と記述され、始皇帝の弟の子の(嬴)嬰とする説がある。就実大学人文科学部元教授の李開元はこの説を支持し、嬴嬰を始皇帝の弟である嬴成蟜の子であると言う説を発表している。この場合、子嬰は始皇帝の甥、扶蘇と胡亥の従兄弟になる。また、李開元は成蟜が趙攻めの際に秦に叛いた際(成蟜の乱)、趙で生まれたのが子嬰であると言う。これが事実であれば、子嬰の生年は紀元前239年(秦王政8年)となり、紀元前206年に項羽によって処刑された際の年齢は34歳頃と思われる。つまり、「始皇帝の弟」、「始皇帝の子」、「始皇帝の孫」、「始皇帝の甥」という四つの説が並立しているのが現状である。
- 公子高 - 二世皇帝のとき、趙高より始皇帝に殉死させられた。
- 将閭 - 二世皇帝のとき、趙高より自殺させられた。同母弟2人がいたが、みな自殺した。
評価
[編集]暴虐な君主として
[編集]始皇帝が暴虐な君主だったという評価は、次の王朝である漢の時代に形成された[169]。『漢書』「五行志」(下之上54)では、始皇帝を「奢淫暴虐」と評する[170]。この時代には「無道秦」[171]や「暴秦」[172] 等の言葉も使われたが、王朝の悪評は皇帝の評価に直結した[173]。特に前漢の武帝時代以降に儒教が正学となってから、始皇帝の焚書坑儒は学問を絶滅させようとした行為(滅学)と非難した[174]。詩人・政治家であった賈誼は『過秦論』を表し、これが後の儒家が考える秦崩壊の標準的な根拠となった。修辞学と推論の傑作と評価された賈誼の論は、前・後漢の歴史記述にも導入され、孔子の理論を表した古典的な実例として中国の政治思想に大きな影響を与えた[175]。彼の考えは、秦の崩壊とは人間性と正義の発現に欠けていたことにあり、そして攻撃する力と統合する力には違いがあるということを示すというものであった[176]。
唐代の詩人・李白は『国風』四十八[177] で、統一を称えながらも始皇帝の行いを批判している。
阿房宮や始皇帝陵に膨大な資金や人員を投じたことも非難の対象となった。北宋時代の『景徳伝灯録』など禅問答で「秦時の轆轢鑽(たくらくさん)」[注 5] という言葉が使われる。元々これは穴を開ける建築用具だったが、転じて無用の長物を意味するようになった[178]。
封建制か郡県制か
[編集]始皇帝の評価にかかわらず、漢王朝は秦の制度を引き継ぎ[135]、以後2000年にわたって継続された[169]。特に郡県制か封建制かの議論において、郡県制を主張する論者の中には始皇帝を評価する例もあった。唐代の柳宗元は「封建論」にて、始皇帝自身の政治は「私」だが、彼の封建制は「公」を天下に広める先駆けであったと評した[169]。明の末期から清の初期にかけて活躍した王船山は『読通鑑論』で始皇帝を評した中で、郡県制が2000年近く採用され続けている理由はこれに道理があるためだと封建制主張者を批判した[169]。
近代以降の評価
[編集]清末民初の章炳麟は『秦政記』にて、権力を一人に集中させた始皇帝の下では、すべての人間は平等であったと説いた。もし始皇帝が長命か、または扶蘇が跡を継いでいたならば、始皇帝は三皇または五帝に加えても足らない業績を果たしただろうと高く評価した[169]。
日本の桑原隲蔵は1907年の日記にて始皇帝を不世出の豪傑と評し、創設した郡県制による中央集権体制が永く保たれた点を認め、また焚書坑儒は当時必要な政策であり過去にも似た事件はあったこと、宮殿や墳墓そして不死の希求は当時の流行であったことを述べ、始皇帝を弁護した[169]。
馬非百は 歴史修正主義の視点から伝記『秦始皇帝傳』を1941年に執筆し、始皇帝を「中国史最高の英雄の一人」と論じた。馬は、蔣介石と始皇帝を比較し、経歴や政策に多くの共通点があると述べ、この2人を賞賛した。そして中国国民党による北伐と南京での新政府樹立を、始皇帝の中国統一に例えた。
文化大革命期には、始皇帝の再評価が行われた。当時は、儒家と法家の闘争(儒法闘争)という面から中国史を眺める風潮が強まった。中国共産党は儒教を反動的・反革命的なものと決めつけた立場から、孔子を奴隷主貴族階級のイデオロギー(批林批孔)とし、相対的に始皇帝を地主階級の代表として高い評価が与えられた[169]。そのため、始皇帝陵の発見は1970年代当時の中国共産党政府によって大々的に世界に宣伝された[179]。
文字という側面から藤枝晃は、始皇帝は君主が祭祀や政治を行うためにある文字の権威を取り戻そうとしたと評価した。周王朝の衰退そして崩壊後、各諸侯や諸子百家も文字を使うようになっていた。焚書坑儒も、この状態を本来の姿に戻そうとする側面があったと述べた[75]。また、秦代の記録の多くが失われ、漢代の記録に頼らざるを得ない点も、始皇帝の評価が低くなる要因だと述べた[180]。
登場する作品
[編集]エッセー
[編集]- アルゼンチンの作家であるホルヘ・ルイス・ボルヘス(1899年 - 1986年)は、1952年に『続審問』(Otras Inquisiciones)の中で「La muralla y los libros」(「壁と書」の意味)を書いた。これは始皇帝についてのエッセーであり、万里の長城建設と焚書に対して否定的な見解を述べている[181]。
小説
[編集]- 1956年にイギリスで出版されたロナルド・フレーザー作『Lord of the East』は、始皇帝の娘を主人公とした歴史小説である。彼女は恋人と駆け落ちをするが、本作の中で始皇帝は若いカップルに立ちはだかる障害として描かれている[182]。日本未出版。
- 『流亡記』。開高健の小説[183]。始皇帝の支配体制を一民衆の視点から描いている。
- 『始皇帝復活』『始皇帝逆襲』。蕪木統文の小説[184]。
- 『秦の始皇帝』(1995年)。陳舜臣の小説。
- 『始皇帝 中華帝国の開祖』(1998年)。安能務の小説。始皇帝の統治を公正にして厳格、始皇帝自身も合理的精神をもった開明的な人物と高く評価している。
- 『小説 秦の始皇帝』(1999年)。津本陽の小説。
- 『始皇帝』(2006年)。塚本靑史の小説。
- 『天下一統 始皇帝の永遠』(2016年)。小前亮の小説。
映画
[編集]- 『秦・始皇帝』(1962年)。中国統一後の始皇帝を描いた日本映画。勝新太郎が始皇帝を演じた[185][186]。
- 『テラコッタ・ウォリア 秦俑』(1989年)。輪廻転生とタイムスリップを題材とした香港・中国合作のSFアクション映画。陸樹銘が始皇帝を演じた[186]。
- 『異聞 始皇帝謀殺』(1996年、原題:秦頌)。始皇帝と高漸離の交流を描いた中国映画。チャン・ウェンが始皇帝を演じた[187]。
- 『始皇帝暗殺』(1998年)。秦王政と、彼が愛した架空の女性・趙姫、そして暗殺者の荊軻の3者の愛憎を描いた中国映画。リー・シュエチェンが秦王政を演じた[186][188][189]。
- 『HERO』(2002年)。秦王(後の始皇帝)の命を狙う架空の刺客たちを描いた中国の武侠映画。チェン・ダオミンが秦王を演じた[186]。
- 『キングダム』(2019年)。下記漫画作品の実写映画化。吉沢亮が嬴政を演じた。
テレビドラマ
[編集]- 『秦始皇帝』(1997年)。中国のTVドラマ『東周列国 戦国篇』より抜粋編集した日本版DVD。少年時代は林偉、成人後は郭涛が嬴政を演じた。
- 『始皇帝烈伝 ファーストエンペラー』(2001年)。始皇帝の生涯をフィクションを交えて描いた中国のTVドラマ。チャン・フォンイーが始皇帝を演じた[190]。
- 『亂世英雄 呂不韋』(2001年)。秦国相邦として生きた呂不韋を描いた中国のTVドラマ。ウー・チュンが秦王政を演じた[191]。日本未公開。
- 『始皇帝暗殺 荊軻』(2004年)。秦王政を暗殺しようとした荊軻を主人公とする中国のTVドラマ。シャオ・ピンが秦王政を演じた[192]。
- 『始皇帝 -勇壮なる闘い-』(2009年)。直道建設にまつわる陰謀譚を描いた中国のTVドラマ。コウ・シーシュンが始皇帝を演じた[193]。
- 『麗姫と始皇帝〜月下の誓い〜』(2017年、原題:秦時麗人明月心)。架空の女性・麗と秦王・嬴政を軸に戦国時代の秦の進出を描いた中国のTVドラマ。チャン・ビンビンが嬴政を演じた[194]。
- 『始皇帝 天下統一』(2020年、原題:大秦赋)。全78話。後の始皇帝・秦の大王嬴政により西の大国であった秦が統一王朝へと成長する過程を描いた中国のTVドラマ。チャン・ルーイーが始皇帝を演じた[195]。
- 『新・信長公記〜クラスメイトは戦国武将〜』(2022年)。2120年の日本を舞台に戦国武将のクローンが不良高校で総長となるため争う日本テレビのSFドラマ。マシュー・ペリー提督やジャンヌ・ダルクとともにクローンとして蘇り、戦国武将たちのクローンに戦いを挑む。侯偉が始皇帝を演じた。
漫画・テレビアニメ
[編集]- 『史記』- 横山光輝 の漫画。7巻「若き支配者」8巻「始皇帝」における主人公格として登場。また、その他にも李斯や張良などが主役のエピソードにおいても脇役として登場する。
- 『墨攻』- 作画・森秀樹 (脚本・久保田千太郎)の漫画。酒見賢一原作の小説を元に小説以降の内容を描いた漫画。小説では戦国時代初期を舞台としているが、漫画化において秦代初期に差し替えられており、敵の首魁の一人として登場。
- 『東周英雄伝』『刺客列伝』『始皇』- 鄭問の漫画。刺客列伝では荊軻を主人公としたエピソードに登場。この作品では敵役と言う役柄もあってか、容姿が東周英雄伝や始皇の二作と大きく異なっている。
東周英雄伝では即位間もない頃の呂不韋の執政時代から嫪毐の叛乱制圧を経て秦の実権を握るに至るまでが描かれ、王翦と李信が主役のエピソード「貪財将軍」では脇役として登場する。
始皇では六国の攻略に乗り出し、趙を平定するに至るまでが描かれている。 - 『キングダム』(2006年 - 連載中)-原泰久による漫画作品。中華一の大将軍を目指す少年・信の成長と活躍を軸に、中華統一を目指す嬴政の秦と六国の攻防を描く[196]。2012年6月からNHKBSプレミアムでテレビアニメ化され放映されており、福山潤が政を演じた[197]。2019年には上記の通り実写映画化された。
- 『達人伝-9万里を風に乗り-』-王欣太の漫画作品。主人公である壮丹と同じ生まれ故郷出身の朱姫が、故郷を秦の将軍・黥骨に滅ぼされた後に記憶を失って彷徨っている所を拾った呂不韋との間に身篭った子であるが、それを秘したまま秦の太子・異人の元で生まれ、その子として育つ。幼いながらも卓越した思考力と冷徹さを持ち呂不韋や母・朱姫を恐れさせる。
- 『劉邦』- 高橋のぼるの漫画。主人公劉邦と直接絡む事は無かったが、政務を取りしきる中で阿房宮の工夫として賦役についていた劉邦が炮烙を生きて渡って放免されたとの李斯からの報告に、その存在に一抹の危惧を抱きつつも一顧だにしない冷徹な帝王として描かれた。また、今作の太公望(呂尚ではなく、張良に兵法を指南した架空人物)と全土統一の計を練った人物でもあり、全土統一を果たして始皇帝となった後に我欲に狂うまでは崇高な理想を持った人物であったとも彼に評されていた。
- 『終末のワルキューレ』(2018年 - 連載中) - 原作梅村真也、作画アジチカ、構成フクイタクミによる漫画。ヴァルハラ評議会にて、神々による人類存亡会議が行われていた。会議の結果、神々は人類を滅亡させ、終末を迎えることを決める。しかしそこに待ったをかけたのがワルキューレの長女ブリュンヒルデ。彼女は神々に神対人類のタイマン勝負、ラグナロクの開催を提案、そして受理される。そのラグナロク第七回戦の人類側代表として始皇帝が出場。
テレビ番組
[編集]- 『Secrets of China's First Emperor, Tyrant and Visionary』(2006年)。ナショナルジオグラフィック協会製作のドキュメンタリー[198]。日本未公開。
- 『China's First Emperor(英語版)』(2008年)。アメリカ合衆国のテレビチャンネル「ヒストリー」製作のドキュメンタリー[199]。日本未公開。
音楽
[編集]ゲーム
[編集]- 1997年に株式会社シャングリ・ラが製作発売したプレイステーション用ソフト『秦始皇帝 - ウェイバックマシン(2019年10月25日アーカイブ分)』は、始皇帝の嫪毐の叛乱から中国統一までを描いたシミュレーションゲームである。
- 2005年発売のTVゲーム『Sid Meier's Civilization IV』では、中国の指導者として始皇帝が登場する[201]。
- 『真・三國無双 MULTI RAID 2』では始皇帝が三国時代に復活して登場する。
- 2021年発売のゲーム『Stronghold: Warlords』では、中国の指導者として始皇帝が登場する。
- Fate/Grand Orderの2部3章は始皇帝が不老不死を成し遂げ世界統一を成し遂げた世界が舞台である
クイズ
[編集]- 2021年9月26日にテレビ朝日系列にて放送された『パネルクイズ アタック25 最終回1時間スペシャル 史上最強のチャンピオン決定戦』での宮古島旅行(放送当日はインペリアルスイート)を賭けた映像問題に始皇帝が出題された。
アトラクション
[編集]- 1989年に横浜・名古屋・福岡の三都市で開催の地方博覧会で公開された日立グループ館のジャンケンゲーム「タイムジャンプ」の映像内で、巨大な国家を作った4人のうちの一人として、中国のシーンで始皇帝が登場した(声:青野武)。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『史記索隠』が引く『竹書紀年』によると、前漢の武帝の治世以前の年始は冬10月と記述されている。
- ^ 当時は男女で姓と氏を使い分けていたので、「趙氏嬴姓の政」はいずれにせよ「趙政」と呼ばれていたともされる。
- ^ 参考文献「秦の始皇帝」p.166では、衡山の後は湘山祠、南郡、武関の順序となっているが、ここでは『史記』「始皇帝本紀」26にならう。
- ^ この蔵書は紀元前206年に項羽が咸陽宮に火をかけたことで消失した。Records of the Grand Historian, translated by Raymond Dawson in Sima Qian:The First Emperor. オックスフォード大学出版局, ed. 2007, pp. 74-75, 119, 148-9
- ^ 参考文献「秦の始皇帝」終章のタイトルやp.277表記では「轆」でなく「車へんに度」の文字が使われている。仮に「轆」を用いる根拠は 雲門文偃 に基づく。
注
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- ^ 『史記』秦始皇本紀に「名を政と為し、趙氏を姓とす。」 の記載有り。秦始皇本紀訳文。楚世家にも同様の記載有り。
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秦皇按寶劍 赫怒震威神(
秦皇 寶劍 按 じ、赫怒 威神 を震 う。)
逐日巡海右 驅石駕滄津(日を逐って海右 を巡り、石を駆って滄津に駕 す。)
征卒空九寓 作橋傷萬人(卒を征して九寓空しく、橋を作って萬人傷つく。)
但求蓬島藥 豈思農扈春(但 蓬島 の薬を求む、豈 に農扈の春を思わんや。)
力盡功不贍 千載為悲辛(力盡 きて功贍 不 ず、千載 為 に悲辛 す。) - ^ 吉川 (2002)、pp.275-277、終章 秦時の轆轢鑽‐後世の始皇帝評価‐1
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注2
[編集]ここでは、出典・注内で提示されている「出典」を示しています。
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参考文献
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- 司馬遷. “秦始皇本紀” (漢文). 史記. 「諸子百家 中國哲學書電子化計劃」網站的設計與内容
- 司馬遷. “呂不韋列傳” (漢文). 史記. 「諸子百家 中國哲學書電子化計劃」網站的設計與内容
- 司馬遷. “封禪書” (漢文). 史記. 「諸子百家 中國哲學書電子化計劃」網站的設計與内容
読書案内
[編集]- 籾山明『秦の始皇帝 多元世界の統一者』白帝社、1994年。ISBN 9784891742287。
- 鶴間和幸『秦の始皇帝 伝説と史実のはざま』吉川弘文館、2001年。ISBN 9784642055321。
- 鶴間和幸『始皇帝の地下帝国』講談社学術文庫、2001年。ISBN 406209732X。
- 鶴間和幸『ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国 (中国の歴史 3)』講談社学術文庫、2004年。ISBN 9784062740531。
- 鎌田重雄『秦の始皇帝』河出書房新社、1962年。
- 柿沼陽平『中国古代の貨幣:お金をめぐる人びとと暮らし』(第1刷)吉川弘文館歴史文化ライブラリー、2015年。ISBN 9784642057950。
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- Wood, Frances (2007), The First Emperor of China, Profile, ISBN 1846680328
- Yap, Joseph P (2009), Wars With the Xiongnu, A Translation From Zizhi tongjian, AuthorHouse, ISBN 978-1-4490-0604-4
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- History of China
- "What's Inside Qin Shi Huang's Tomb?"
- 『始皇帝』 - コトバンク
- 始皇帝の著作および始皇帝を主題とする文献 - ドイツ国立図書館の蔵書目録(ドイツ語)より。