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[[画像:Tokaido02 Kawasaki.jpg|thumb|right|250px|川崎宿([[歌川広重]]『東海道五十三次』より)]]
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'''川崎宿'''(かわさきしゅく、かわさきじゅく<!--いずれかの読みが著しく妥当性を欠く場合は適宜除去して下さい-->)は、[[東海道五十三次]]の2番目の[[宿場]]である。
'''川崎宿'''(かわさきしゅく、かわさきじゅく<!--いずれかの読みが著しく妥当性を欠く場合は適宜除去して下さい-->)は、[[東海道五十三次]]の2番目の[[宿場]]である。
[[武蔵国]][[橘樹郡]]川崎領(現在の[[神奈川県]][[川崎市]][[川崎区]])に置かれた。代官頭・[[長谷川長綱]]
[[武蔵国]][[橘樹郡]]川崎領(現在の[[神奈川県]][[川崎市]][[川崎区]])に置かれた。

川崎宿は他の宿場より遅く、[[元和 (日本)|元和]] 9年([[1623年]])に正式な[[宿駅]]となったといわれる。
== 概要 ==
[[川崎大師]]が近く、参拝客で賑わった。
[[東海道]]の成立時点では正式な宿場となっていなかったが、[[品川宿]] - [[神奈川宿]]間が往復十里と長く、[[伝馬]]の負担が重かったために、[[1623年]](元和9年)に設置された<ref name="ふるさと川崎下41">『[[#ふるさと川崎下|ふるさと川崎の自然と歴史(下)]]』、p.41。</ref>。
[[多摩川]]は、矢口や丸子の渡しを利用して渡った。

設置後には伝馬を務める農民の負担ばかりでなく、[[問屋場]]が破産に追い込まれるなどの窮状に陥り、[[1632年]]([[寛永]]9年)には、宿役人が幕府へ川崎宿の廃止を訴える事態となった<ref name="ふるさと川崎下41" />。幕府は問屋場などへの支援を行ったものの、廃止の願いが受け入れられることはなく、さらには伝馬の負担引き上げ、地震や富士山の噴火などで財政は困窮を極めた<ref>『[[#ふるさと川崎下|ふるさと川崎の自然と歴史(下)]]』、pp.41-42。</ref>。

そんな中で問屋・名主・本陣の当主を一身に兼ねた[[田中休愚]]は、幕府に働きかけを行い、[[六郷の渡し]]の権益を川崎宿のものとしたほか、さらに救済金を取り付けるなど、川崎宿再建のために大きな役割を果たした<ref name="ふるさと川崎下42">『[[#ふるさと川崎下|ふるさと川崎の自然と歴史(下)]]』、p.42。</ref>。

川崎宿維持の負担に苦しめられたのは宿の住民だけでなく、近隣の農民も[[助郷]]として負担を強いられていた<ref name="五十三話32">『[[#五十三話|川崎の歴史五十三話]]』、p.32。</ref>。[[1694年]](元禄7年)の制度発足当時は先に召集される定助郷8村と、定助郷でも不足な場合の大助郷30村というように分かれていたが、東海道の交通量増加で定助郷村の負担が過大となった結果、[[1725年]]([[享保]]10年)には定助郷・大助郷の区分を廃止し、後にはさらに遠方の16村に加助郷が命ぜられている<ref name="ふるさと川崎下47">『[[#ふるさと川崎下|ふるさと川崎の自然と歴史(下)]]』、p.47。</ref>。助郷負担の見返りに出る手当は微々たるものであり、またその間は農作業にもかかれず<ref>『[[#五十三話|川崎の歴史五十三話]]』、pp.32-33。</ref>、さらには川崎宿特有の問題として[[多摩川]]が川止めになれば何日も拘束されてしまうなど<ref name="ふるさと川崎下48">『[[#ふるさと川崎下|ふるさと川崎の自然と歴史(下)]]』、p.48。</ref>負担は重く、助郷の免除願が出されたり<ref name="ふるさと川崎下48" />、出勤簿だけ書いて逃走したり<ref name="五十三話34">『[[#五十三話|川崎の歴史五十三話]]』、p.34。</ref>と、負担回避のための行動が行われた。[[延享]]年間以降には金納する例も現れたが、支払う金銭は高額であり、依然として助郷村は苦しむこととなった<ref name="ふるさと川崎下48" />。

== 施設 ==
川崎宿は[[砂子 (川崎市)|砂子]]・久根崎・新宿・小土呂の4町からなっており、[[本陣]]は田中本陣・佐藤(惣左衛門)本陣・惣兵衛本陣があったが、惣兵衛本陣は江戸後期には廃業していた<ref name="ふるさと川崎下38">『[[#ふるさと川崎下|ふるさと川崎の自然と歴史(下)]]』、p.42。</ref>。ただ、度重なる災害や各藩の財政窮乏もあって<ref name="五十三話24">『[[#五十三話|川崎の歴史五十三話]]』、p.24。</ref>幕末には本陣も衰微しており、[[1857年]]([[安政]]4年)には、[[タウンゼント・ハリス]]が田中本陣に泊まる予定であったものの、荒廃のため[[万年屋]]へ移るということが起こっている<ref name="ふるさと川崎下39">『[[#ふるさと川崎下|ふるさと川崎の自然と歴史(下)]]』、p.39。</ref>。この万年屋は東海道から[[川崎大師]]への分岐点にあったという地の利もあって隆盛を誇り<ref name="ふるさと川崎下33">『[[#ふるさと川崎下|ふるさと川崎の自然と歴史(下)]]』、p.33。</ref>、[[1877年]]([[明治]]10年)には[[和宮親子内親王]]も泊まる<ref name="ふるさと川崎下34">『[[#ふるさと川崎下|ふるさと川崎の自然と歴史(下)]]』、p.34。</ref>など、本陣を衰微させるとまでいわれた繁栄を誇っていたが、[[1882年]](明治15年)には[[国道15号|第一京浜]]の工事のため姿を消した<ref name="五十三話40">『[[#五十三話|川崎の歴史五十三話]]』、p.40。</ref>。

[[旅籠]]は72軒あり、そのうち[[飯盛女]]を置いていた「飯売り旅籠」が新宿に集中して33軒、置いていない「平旅籠」が39軒であった<ref name="五十三話41">『[[#五十三話|川崎の歴史五十三話]]』、p.41。</ref>。旅籠1軒あたり飯盛女は2人までということとなってはいたが、実態としてはほとんど守られておらず、また取り締まりが必要なほど服装も華美になっていっていた<ref name="五十三話42">『[[#五十三話|川崎の歴史五十三話]]』、p.42。</ref>。こうした事情もあり、平旅籠と飯売り旅籠の間にはしばしば紛争が起きたという<ref name="ふるさと川崎下52">『[[#ふるさと川崎下|ふるさと川崎の自然と歴史(下)]]』、p.52。</ref>。飯売り旅籠は、明治に入っても「貸座敷」と称して同様の営業を続けていたが、のちに[[南町 (川崎市)|南町]]へ移された<ref name="五十三話44">『[[#五十三話|川崎の歴史五十三話]]』、p.44。</ref>。

== 沿革 ==
*[[1623年]]([[元和 (日本)|元和]]9年)- 東海道の宿場となる。
*[[1627年]]([[寛永]]4年)- 砂子・久根崎に加え、新宿・小土呂も川崎宿の一部となる<ref name="地名辞典6">『[[#地名辞典|川崎地名辞典]]』、p.6。</ref>。
*[[1628年]](寛永5年)- 田中本陣が設けられる<ref name="ふるさと川崎下39" />。
*[[1640年]](寛永17年)- 常備すべき伝馬が36疋から100疋に引き上げられる<ref name="ふるさと川崎下42" />。
*[[1694年]]([[元禄]]7年)- [[助郷]]が制度化される。
*[[1704年]]([[宝永]]元年)- [[田中休愚]]が田中本陣の名主となる<ref name="ふるさと川崎下40">『[[#ふるさと川崎下|ふるさと川崎の自然と歴史(下)]]』、p.40。</ref>。
*[[1709年]]([[宝永]]6年)- 六郷の渡しの権利を得る<ref name="ふるさと川崎下42" />。
*[[1725年]]([[享保]]10年)- 定助郷・大助郷が一本化される。
*[[1729年]](享保14年)- [[ベトナム]]から[[徳川吉宗]]へ献上された[[ゾウ]]が当地を通る。多摩川は[[舟橋]]で渡った<ref>『[[#五十三話|川崎の歴史五十三話]]』、pp.30-31。</ref>。
*[[1742年]]([[寛保]]2年)- 台風により多摩川が洪水。被害を受ける<ref name="地名辞典17">『[[#地名辞典|川崎地名辞典]]』、p.17。</ref>。
*[[1761年]]([[宝暦]]11年)- 大火<ref name="地名辞典17" />。
*[[明和]]年間 - [[万年屋]]が旅籠となる<ref name="ふるさと川崎下32">『[[#ふるさと川崎下|ふるさと川崎の自然と歴史(下)]]』、p.32。</ref>。
*[[1836年]]([[天保]]7年)- [[天保の大飢饉]]。過半数が飢餓となる<ref name="地名辞典18">『[[#地名辞典|川崎地名辞典]]』、p.18。</ref>。
*[[1855年]]([[安政]]2年)- [[安政の大地震]]。全壊18軒、半壊38軒<ref name="地名辞典7">『[[#地名辞典|川崎地名辞典]]』、p.7。</ref>。
*[[1857年]](安政4年)- [[タウンゼント・ハリス]]が[[万年屋]]泊。
*[[1866年]]([[慶応]]2年)- [[打ちこわし]]が勃発<ref name="角川102">『[[#角川|角川日本地名大辞典 14 神奈川県]]』、p.102。</ref>。
*[[1868年]]([[明治]]元年)- [[明治維新]]。当地は[[神奈川県]]所属となる。
*[[1869年]](明治2年)- 川崎宿4町が「川崎駅」と総称されるようになる<ref name="地名辞典18" />。
*[[1871年]](明治4年)- [[伝馬]]・[[飛脚]]が廃止<ref name="地名辞典7" />。
*[[1872年]](明治5年)- [[日本の鉄道開業|日本初の鉄道が開通]]。[[川崎駅]]が設置され、川崎宿から交通機能も失われた<ref name="地名辞典7" />。
*[[1889年]](明治22年)- [[町村制]]の施行により、川崎駅の4町と堀之内村が合併し[[川崎町 (神奈川県)|川崎町]]が成立。
*[[1924年]](大正13年)- 川崎町・[[大師町]]・[[御幸村 (神奈川県)|御幸村]]の合併で[[川崎市]]が発足。
*[[1972年]](昭和47年)- 川崎市が[[政令指定都市]]に移行。当地は川崎市[[川崎区]]に属する。


== 隣の宿場 ==
== 隣の宿場 ==
[[品川宿]] - '''川崎宿''' - [[神奈川宿]]
[[品川宿]] - '''川崎宿''' - [[神奈川宿]]


== 脚注 ==
{{reflist}}

== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=高橋嘉彦|year=2010|title=ふるさと川崎の自然と歴史|volume=下|ref=ふるさと川崎下}}
*{{Cite book|和書|author=三輪修三|year=1986|title=川崎の歴史五十三話|ref=五十三話|publisher=多摩川新聞社}}
*{{cite book | 1=和書 | title=川崎地名辞典(上) | publisher=川崎市 | year=2004 | ref=地名辞典 | others=日本地名研究所 編}}
*{{cite book |1=和書| title=[[角川日本地名大辞典]] 14 神奈川県 | publisher=[[角川書店]] | year=1984 | ref=角川}}

== 関連項目 ==
*[[五街道]]
*[[東海道五十三次]]
*[[佐藤惣之助]] - 佐藤本陣家の出。


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[[Category:川崎市の歴史]]
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[[en:Kawasaki-juku]]
[[en:Kawasaki-juku]]

2012年8月23日 (木) 15:10時点における版

川崎宿(歌川広重『東海道五十三次』より)

川崎宿(かわさきしゅく、かわさきじゅく)は、東海道五十三次の2番目の宿場である。 武蔵国橘樹郡川崎領(現在の神奈川県川崎市川崎区)に置かれた。

概要

東海道の成立時点では正式な宿場となっていなかったが、品川宿 - 神奈川宿間が往復十里と長く、伝馬の負担が重かったために、1623年(元和9年)に設置された[1]

設置後には伝馬を務める農民の負担ばかりでなく、問屋場が破産に追い込まれるなどの窮状に陥り、1632年寛永9年)には、宿役人が幕府へ川崎宿の廃止を訴える事態となった[1]。幕府は問屋場などへの支援を行ったものの、廃止の願いが受け入れられることはなく、さらには伝馬の負担引き上げ、地震や富士山の噴火などで財政は困窮を極めた[2]

そんな中で問屋・名主・本陣の当主を一身に兼ねた田中休愚は、幕府に働きかけを行い、六郷の渡しの権益を川崎宿のものとしたほか、さらに救済金を取り付けるなど、川崎宿再建のために大きな役割を果たした[3]

川崎宿維持の負担に苦しめられたのは宿の住民だけでなく、近隣の農民も助郷として負担を強いられていた[4]1694年(元禄7年)の制度発足当時は先に召集される定助郷8村と、定助郷でも不足な場合の大助郷30村というように分かれていたが、東海道の交通量増加で定助郷村の負担が過大となった結果、1725年享保10年)には定助郷・大助郷の区分を廃止し、後にはさらに遠方の16村に加助郷が命ぜられている[5]。助郷負担の見返りに出る手当は微々たるものであり、またその間は農作業にもかかれず[6]、さらには川崎宿特有の問題として多摩川が川止めになれば何日も拘束されてしまうなど[7]負担は重く、助郷の免除願が出されたり[7]、出勤簿だけ書いて逃走したり[8]と、負担回避のための行動が行われた。延享年間以降には金納する例も現れたが、支払う金銭は高額であり、依然として助郷村は苦しむこととなった[7]

施設

川崎宿は砂子・久根崎・新宿・小土呂の4町からなっており、本陣は田中本陣・佐藤(惣左衛門)本陣・惣兵衛本陣があったが、惣兵衛本陣は江戸後期には廃業していた[9]。ただ、度重なる災害や各藩の財政窮乏もあって[10]幕末には本陣も衰微しており、1857年安政4年)には、タウンゼント・ハリスが田中本陣に泊まる予定であったものの、荒廃のため万年屋へ移るということが起こっている[11]。この万年屋は東海道から川崎大師への分岐点にあったという地の利もあって隆盛を誇り[12]1877年明治10年)には和宮親子内親王も泊まる[13]など、本陣を衰微させるとまでいわれた繁栄を誇っていたが、1882年(明治15年)には第一京浜の工事のため姿を消した[14]

旅籠は72軒あり、そのうち飯盛女を置いていた「飯売り旅籠」が新宿に集中して33軒、置いていない「平旅籠」が39軒であった[15]。旅籠1軒あたり飯盛女は2人までということとなってはいたが、実態としてはほとんど守られておらず、また取り締まりが必要なほど服装も華美になっていっていた[16]。こうした事情もあり、平旅籠と飯売り旅籠の間にはしばしば紛争が起きたという[17]。飯売り旅籠は、明治に入っても「貸座敷」と称して同様の営業を続けていたが、のちに南町へ移された[18]

沿革

隣の宿場

品川宿 - 川崎宿 - 神奈川宿

脚注

参考文献

  • 高橋嘉彦『ふるさと川崎の自然と歴史』 下、2010年。 
  • 三輪修三『川崎の歴史五十三話』多摩川新聞社、1986年。 
  • 『川崎地名辞典(上)』日本地名研究所 編、川崎市、2004年。 
  • 角川日本地名大辞典 14 神奈川県』角川書店、1984年。 

関連項目