「大阪大空襲」の版間の差分
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戦略爆撃と大量虐殺は等しくない&軍需工場もあり |
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[[File:Osaka after the 1945 air raid.JPG|thumb|300px|空襲後の大阪市街<br/><sub>左端は南海[[難波駅]]、右手前には松坂屋大阪店(現[[高島屋]]東別館)、中央に[[大阪歌舞伎座]]が認められる。</sub>]] |
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'''大阪大空襲'''(おおさかだいくうしゅう)は[[第二次世界大戦]]末期に[[アメリカ軍]]が繰り返し行った、[[大阪市]]を中心とする地域への[[戦略爆撃]]ないし無差別爆撃の総称である。 |
'''大阪大空襲'''(おおさかだいくうしゅう)は[[第二次世界大戦]]末期に[[アメリカ軍]]が繰り返し行った、[[大阪市]]を中心とする地域への[[戦略爆撃]]ないし無差別爆撃の総称である。 |
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[[1945年]]([[昭和]]20年)[[3月13日]]深夜から翌日未明([[日本標準時|日本時間]]、以下同様)にかけてに最初の大阪空襲が行なわれ、その後、[[6月1日]]、[[6月7日]]、[[6月15日]]、[[6月26日]]、[[7月10日]]、[[7月24日]]、[[8月14日]]に空襲が行なわれた。これらの空襲で一般市民 10,000人以上が死亡したと言われている。 |
[[1945年]]([[昭和]]20年)[[3月13日]]深夜から翌日未明([[日本標準時|日本時間]]、以下同様)にかけてに最初の大阪空襲が行なわれ、その後、[[6月1日]]、[[6月7日]]、[[6月15日]]、[[6月26日]]、[[7月10日]]、[[7月24日]]、[[8月14日]]に空襲が行なわれた。これらの空襲で一般市民 10,000人以上が死亡したと言われている。 |
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== 第1回大阪大空襲 |
== 第1回大阪大空襲-3月13日・14日 == |
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[[1945年]]([[昭和]]20年)3月13日23時57分 - 14日3時25分の約3時間半にわたり行われた。[[B-29_(航空機)|B-29]]が274機襲来。[[グアム]]からの第314航空団の43機が23時57分 - 14日1時にかけて大阪市上空に達した。[[アメリカ軍|米軍]]の照準点は、[[北区 (大阪市)|北区]]扇町、[[西区 (大阪市)|西区]][[阿波座]]、[[港区 (大阪市)|港区]]市岡元町、[[浪速区]]塩草で、都心部を取り囲む住宅密集地を標的にしており、夜間低空爆撃として約2,000mの低空からの一般家屋をねらった夜間爆撃だった。先導機が[[ナパーム弾]](大型の[[焼夷弾]])を港区市岡の照準点に投下し大火災発生。他の機はそれを目印に次々とクラスター焼夷弾(内蔵した48個の小型焼夷弾が空中で分散して落下する)を投下した。続いて[[テニアン島|テニアン]]から第313航空団の107機が14日0時10分から3時25分にかけて爆撃。浪速区塩草を照準点として投弾した。さらに[[サイパン島|サイパン]]から第73航空団の124機が14日0時20分から2時25分にかけて爆撃。照準点は北区扇町と西区阿波座。すでに大火災が発生している中で、北区は米軍のねらい通りには爆撃できず、他の場所に被害が広がった。中心市街地を焼き尽くしたこの空襲では、3,987名の死者と678名の行方不明者が出た。山を挟んだ[[奈良県]]や[[亀岡盆地]]側では、火炎が山の向こうに夕焼けのように見えたという。 |
[[1945年]]([[昭和]]20年)3月13日23時57分 - 14日3時25分の約3時間半にわたり行われた。[[B-29_(航空機)|B-29]]が274機襲来。[[グアム]]からの第314航空団の43機が23時57分 - 14日1時にかけて大阪市上空に達した。[[アメリカ軍|米軍]]の照準点は、[[北区 (大阪市)|北区]]扇町、[[西区 (大阪市)|西区]][[阿波座]]、[[港区 (大阪市)|港区]]市岡元町、[[浪速区]]塩草で、都心部を取り囲む住宅密集地を標的にしており、夜間低空爆撃として約2,000mの低空からの一般家屋をねらった夜間爆撃だった。先導機が[[ナパーム弾]](大型の[[焼夷弾]])を港区市岡の照準点に投下し大火災発生。他の機はそれを目印に次々とクラスター焼夷弾(内蔵した48個の小型焼夷弾が空中で分散して落下する)を投下した。続いて[[テニアン島|テニアン]]から第313航空団の107機が14日0時10分から3時25分にかけて爆撃。浪速区塩草を照準点として投弾した。さらに[[サイパン島|サイパン]]から第73航空団の124機が14日0時20分から2時25分にかけて爆撃。照準点は北区扇町と西区阿波座。すでに大火災が発生している中で、北区は米軍のねらい通りには爆撃できず、他の場所に被害が広がった。中心市街地を焼き尽くしたこの空襲では、3,987名の死者と678名の行方不明者が出た。山を挟んだ[[奈良県]]や[[亀岡盆地]]側では、火炎が山の向こうに夕焼けのように見えたという。 |
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この話は長く知られてこなかったが、[[1997年]]([[平成]]9年)3月に[[朝日新聞]]の「声」欄に、京都大学名誉教授の村松繁による心斎橋駅から電車に乗って梅田に逃れた体験談が掲載された<ref>村松が後に[[読売新聞]]に体験を語った記事がある[http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/kikaku/026/2.htm]。</ref>。これを受けて[[大阪市交通局]]の[[労働組合]](大阪交通労働組合)が調査を開始した。しかし、交通局には戦争末期の市営交通に関する資料がほとんどなく、当時の証言を集めることとなった<ref>資料が現存しない点について、「大交」の記事では「敗戦直後に戦争責任の追及を避けるため意図的に廃棄した」としている。</ref>。この動きを知った[[毎日新聞]]大阪社会部の記者が同年7月、記事を掲載するとともに、情報提供を呼びかけた。毎日新聞は同年10月23日に調査結果と分析を掲載した。組合は[[1998年]](平成10年)3月に機関紙「大交」に2回にわたって記事を掲載した<ref>公営交通研究所が[[1999年]]([[平成]]11年)に刊行した『大阪大空襲と市営交通事業』に資料として収録。このほか、証言が記載された資料について、以下の[[大阪市立中央図書館]]レファレンス事例に紹介がある。 |
この話は長く知られてこなかったが、[[1997年]]([[平成]]9年)3月に[[朝日新聞]]の「声」欄に、京都大学名誉教授の村松繁による心斎橋駅から電車に乗って梅田に逃れた体験談が掲載された<ref>村松が後に[[読売新聞]]に体験を語った記事がある[http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/kikaku/026/2.htm]。</ref>。これを受けて[[大阪市交通局]]の[[労働組合]](大阪交通労働組合)が調査を開始した。しかし、交通局には戦争末期の市営交通に関する資料がほとんどなく、当時の証言を集めることとなった<ref>資料が現存しない点について、「大交」の記事では「敗戦直後に戦争責任の追及を避けるため意図的に廃棄した」としている。</ref>。この動きを知った[[毎日新聞]]大阪社会部の記者が同年7月、記事を掲載するとともに、情報提供を呼びかけた。毎日新聞は同年10月23日に調査結果と分析を掲載した。組合は[[1998年]](平成10年)3月に機関紙「大交」に2回にわたって記事を掲載した<ref>公営交通研究所が[[1999年]]([[平成]]11年)に刊行した『大阪大空襲と市営交通事業』に資料として収録。このほか、証言が記載された資料について、以下の[[大阪市立中央図書館]]レファレンス事例に紹介がある。 |
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*[http://crd.ndl.go.jp/GENERAL/servlet/detail.reference?id=1000039007 国会図書館レファレンス協同データベース]</ref>。 |
* [http://crd.ndl.go.jp/GENERAL/servlet/detail.reference?id=1000039007 国会図書館レファレンス協同データベース]</ref>。 |
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毎日新聞によると、電車に乗った時間帯は午前3 - 4時頃と5時前後に大きく分かれる。前者は心斎橋周辺で駅に逃げ込み、「[[梅田駅|梅田]]の方は燃えていない」と誘導されて乗車。後者は空襲直後に駅構内に入り、「一番電車が出る」と言われて乗車したという(こちらは[[天王寺駅]]行きに乗ったという証言もある)。駅構内に入ることができた経緯については、「[[憲兵 (日本軍)|憲兵]]が中に入るよう指示した」(心斎橋駅)、「駅員を説き伏せてシャッターを開けさせた」(大国町駅)、「閉鎖されているはずのシャッターが開いていた」(本町駅)など状況は一様ではないが、駅員の判断により駅構内に避難させていたと推測された。また、大国町駅から「一番電車」と駅員に聞いて乗った証言者は「それまで電車は全く見なかった」としたため、同紙は午前5時頃の電車は始発電車、午前3~4時の電車は心斎橋駅発の臨時で、前夜の空襲警報発令時に運転を打ち切った最終電車の車両を「職員の機転で運転させた可能性が極めて高い」とした。 |
毎日新聞によると、電車に乗った時間帯は午前3 - 4時頃と5時前後に大きく分かれる。前者は心斎橋周辺で駅に逃げ込み、「[[梅田駅|梅田]]の方は燃えていない」と誘導されて乗車。後者は空襲直後に駅構内に入り、「一番電車が出る」と言われて乗車したという(こちらは[[天王寺駅]]行きに乗ったという証言もある)。駅構内に入ることができた経緯については、「[[憲兵 (日本軍)|憲兵]]が中に入るよう指示した」(心斎橋駅)、「駅員を説き伏せてシャッターを開けさせた」(大国町駅)、「閉鎖されているはずのシャッターが開いていた」(本町駅)など状況は一様ではないが、駅員の判断により駅構内に避難させていたと推測された。また、大国町駅から「一番電車」と駅員に聞いて乗った証言者は「それまで電車は全く見なかった」としたため、同紙は午前5時頃の電車は始発電車、午前3~4時の電車は心斎橋駅発の臨時で、前夜の空襲警報発令時に運転を打ち切った最終電車の車両を「職員の機転で運転させた可能性が極めて高い」とした。 |
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一方、「大交」の記事では当日に駅や列車で勤務した職員の証言は得られず、翌日の出勤だった関係者はいずれも「特別なことがあれば業務引継のとき必ず報告があるが、そうした話題は出なかった」と証言した。また、終電のあと送電は止めることになっていたが、当日心斎橋変電所に勤務していた職員が「指示があって電車を動かす電気を送り続けた」と証言したことで、少なくとも電車を動かすことが可能な状況であったことが判明した<ref>「大交」の記事には3月13日の朝に大阪鉄道局長の[[佐藤栄作]](後に首相)が大阪市電気局(現在の交通局)局長に「今夜空襲のおそれ、要注意」と電話をかけていたという話(『続東区史』別巻(1979年)からの引用)が紹介されているが、送電指示との関連は不明。</ref>。避難列車について運転手の組長だった元職員は「5時過ぎの初発か、初発の前に職員を乗せて走る『お送り電車』ではなかったでしょうか」という推測を述べている。 |
一方、「大交」の記事では当日に駅や列車で勤務した職員の証言は得られず、翌日の出勤だった関係者はいずれも「特別なことがあれば業務引継のとき必ず報告があるが、そうした話題は出なかった」と証言した。また、終電のあと送電は止めることになっていたが、当日心斎橋変電所に勤務していた職員が「指示があって電車を動かす電気を送り続けた」と証言したことで、少なくとも電車を動かすことが可能な状況であったことが判明した<ref>「大交」の記事には3月13日の朝に大阪鉄道局長の[[佐藤栄作]](後に首相)が大阪市電気局(現在の交通局)局長に「今夜空襲のおそれ、要注意」と電話をかけていたという話(『続東区史』別巻(1979年)からの引用)が紹介されているが、送電指示との関連は不明。</ref>。避難列車について運転手の組長だった元職員は「5時過ぎの初発か、初発の前に職員を乗せて走る『お送り電車』ではなかったでしょうか」という推測を述べている。 |
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この避難列車については、[[日本放送協会|NHK]]が[[1998年]](平成10年)3月29日に「列島リレードキュメント」の中で「空襲の夜 |
この避難列車については、[[日本放送協会|NHK]]が[[1998年]](平成10年)3月29日に「列島リレードキュメント」の中で「空襲の夜 地下鉄は走った」と題して放送[http://archives.nhk.or.jp/chronicle/B10001200999803290130129/?n=7&q=%E5%88%97%E5%B3%B6%E3%83%AA%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%89%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88&o=701&np=20&or=d]。それから9年後の[[2007年]]([[平成]]19年)7月25日深夜に[[フジテレビジョン|フジテレビ]]が[[NONFIX]]で「千の風プロジェクト 大阪大空襲の夜 地下鉄は走ったのか」と題して取り上げた<ref>[http://www.fujitv.co.jp/nonfix/library/2007/550.html NONFIX 千の風プロジェクト 大阪大空襲の夜 地下鉄は走ったのか]。大空襲のあった地元の[[関西テレビ放送|関西テレビ]]では[[2008年]]([[平成]]20年)1月20日深夜に放送。</ref>。番組では証言や分析をふまえながら新たな検証を試み、運行に不可欠な運転手の確保については、(地下鉄構内を貯蔵場とする)非常用物資の移動のために、初電の前に業務用に電車を走らせた可能性もあるとした。また、終電後の送電については、深夜に電車が走ったと思われる電流計器の動きがあったという元職員の証言を紹介した。そのうえで証言や記録から、空襲警報解除後の交通機関に対する救援指令で運行された電車<ref>「大交」の記事によると、午前3時30分頃にNHKラジオで「警報解除後、電車を運転するので、防空要員は復旧に当たってほしい」と3度放送があったという(「[[鉄道ピクトリアル]]」[[1965年]](昭和40年)8月号掲載の「大阪市路面電車戦災の記」(宮本政幸)からの引用)。</ref>、もしくは初電前の職員輸送用の電車が避難民を発見して輸送したのではないかという仮説を立てたが、決定的な証拠は得られなかった。関係者側の証言がほとんどないことについて、出演した元運転手は「人を助けるのは職務上あまりにも当然のことであり、特別のことではないから、当人達に特別な事をしたという意識がなく、そのため証言が出てこないのではないか」と語っている。 |
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一方、[[1997年]](平成9年)の調査にあたった組合内の公営交通研究所の担当者は、[[2009年]](平成21年)の新聞記事で「見るに見かねて被災者を駅に入れ、お送り電車などに乗せたのかもしれない。当時は職務違反の恐れがあり、語り継ぐこともなかったのではないか」と述べている<ref>[http://www.asahi.com/kansai/travel/ensen/OSK200912260039.html 「大空襲 |
一方、[[1997年]](平成9年)の調査にあたった組合内の公営交通研究所の担当者は、[[2009年]](平成21年)の新聞記事で「見るに見かねて被災者を駅に入れ、お送り電車などに乗せたのかもしれない。当時は職務違反の恐れがあり、語り継ぐこともなかったのではないか」と述べている<ref>[http://www.asahi.com/kansai/travel/ensen/OSK200912260039.html 「大空襲 一夜の奇跡 地下鉄・御堂筋線」朝日新聞大阪版2009年12月26日]</ref>。 |
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== 第2回大阪大空襲 |
== 第2回大阪大空襲-6月1日 == |
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[[File:Boeing B-29A-45-BN Superfortress 44-61784 6 BG 24 BS - Incendiary Journey.jpg|right|thumb|都島区の鐘紡淀川工場付近<br>(右下は柴島浄水場と長柄橋)<!-- 画像説明には6月1日とあるが、罹災地域から考えて6月7日の第3回空襲かと思われる。-->]] |
[[File:Boeing B-29A-45-BN Superfortress 44-61784 6 BG 24 BS - Incendiary Journey.jpg|right|thumb|都島区の鐘紡淀川工場付近<br/>(右下は柴島浄水場と長柄橋)<!-- 画像説明には6月1日とあるが、罹災地域から考えて6月7日の第3回空襲かと思われる。-->]] |
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[[1945年]]([[昭和]]20年)6月1日9時28分から11時にかけての約1時間半にわたっておこなわれた。[[大阪港]]と[[旧淀川|安治川]]右岸の臨港地区や、城南の陸軍施設周辺を攻撃目標とし、計509機が来襲した。米軍の照準点は[[福島駅 (大阪府)|福島駅]]近辺、福島区大開町、[[安治川口駅]]近辺、港区・[[大阪市立運動場]](現在の[[八幡屋公園]])、[[大正区]]福町(現在の鶴町5丁目)、東区(現中央区)上町、東雲町、森之宮・玉造周辺。大阪市西部を中心に8.2平方キロメートルに被害を及ぼした。この空襲では、港区と大正区に壊滅的な被害が出た。また[[P-51 (航空機)|P51]]が初めて来襲し、[[機銃掃射]]をおこなっている。 |
[[1945年]]([[昭和]]20年)6月1日9時28分から11時にかけての約1時間半にわたっておこなわれた。[[大阪港]]と[[旧淀川|安治川]]右岸の臨港地区や、城南の陸軍施設周辺を攻撃目標とし、計509機が来襲した。米軍の照準点は[[福島駅 (大阪府)|福島駅]]近辺、福島区大開町、[[安治川口駅]]近辺、港区・[[大阪市立運動場]](現在の[[八幡屋公園]])、[[大正区]]福町(現在の鶴町5丁目)、東区(現中央区)上町、東雲町、森之宮・玉造周辺。大阪市西部を中心に8.2平方キロメートルに被害を及ぼした。この空襲では、港区と大正区に壊滅的な被害が出た。また[[P-51 (航空機)|P51]]が初めて来襲し、[[機銃掃射]]をおこなっている。 |
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== 第3回大阪大空襲 |
== 第3回大阪大空襲-6月7日 == |
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[[1945年]]([[昭和]]20年)6月7日11時9分から12時28分の約1時間20分にわたっておこなわれた。米軍の照準点は、焼夷弾は[[都島区]]高倉町、[[鶴橋駅]]付近、[[天王寺駅]]付近。また城東の[[大阪砲兵工廠|大阪陸軍造兵廠]]をねらって大型爆弾を投下した。この空襲では、都島区を中心とした大阪市東部と[[兵庫県]][[尼崎市]]に被害を及ぼした。 |
[[1945年]]([[昭和]]20年)6月7日11時9分から12時28分の約1時間20分にわたっておこなわれた。米軍の照準点は、焼夷弾は[[都島区]]高倉町、[[鶴橋駅]]付近、[[天王寺駅]]付近。また城東の[[大阪砲兵工廠|大阪陸軍造兵廠]]をねらって大型爆弾を投下した。この空襲では、都島区を中心とした大阪市東部と[[兵庫県]][[尼崎市]]に被害を及ぼした。 |
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大阪陸軍造兵廠を狙った爆弾は、目標を大きく外れて市街地に落下するケースが相次いだ。この空襲では[[長柄橋]]に爆弾が直撃し、さらに機銃掃射も加えられたため、橋の下に避難していた市民約400人が犠牲になった。また[[大阪市水道局柴島浄水場|柴島浄水場]]が破壊され、上水道供給機能が停止した。 |
大阪陸軍造兵廠を狙った爆弾は、目標を大きく外れて市街地に落下するケースが相次いだ。この空襲では[[長柄橋]]に爆弾が直撃し、さらに機銃掃射も加えられたため、橋の下に避難していた市民約400人が犠牲になった。また[[大阪市水道局柴島浄水場|柴島浄水場]]が破壊され、上水道供給機能が停止した。 |
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== 第4回大阪大空襲 |
== 第4回大阪大空襲-6月15日 == |
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[[1945年]]([[昭和]]20年)6月15日8時44分から10時55分にかけての約2時間10分にわたっておこなわれた。米軍の照準点は[[阪神本線]][[出屋敷駅]]付近、[[日本国有鉄道|国鉄]][[福知山線]]支線[[金楽寺駅]]付近、[[西淀川区]]・[[神崎大橋]]南詰、鶴橋駅付近、天王寺駅付近の5か所。この空襲では計511機が来襲し、大阪市および尼崎市をはじめ、[[堺市]]や[[布施市]](現在の[[東大阪市]])、[[豊中市]]、守口町(現在の[[守口市]])などに被害を及ぼし、477人が死亡した。 |
[[1945年]]([[昭和]]20年)6月15日8時44分から10時55分にかけての約2時間10分にわたっておこなわれた。米軍の照準点は[[阪神本線]][[出屋敷駅]]付近、[[日本国有鉄道|国鉄]][[福知山線]]支線[[金楽寺駅]]付近、[[西淀川区]]・[[神崎大橋]]南詰、鶴橋駅付近、天王寺駅付近の5か所。この空襲では計511機が来襲し、大阪市および尼崎市をはじめ、[[堺市]]や[[布施市]](現在の[[東大阪市]])、[[豊中市]]、守口町(現在の[[守口市]])などに被害を及ぼし、477人が死亡した。 |
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== 第5回大阪大空襲 |
== 第5回大阪大空襲-6月26日 == |
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[[1945年]]([[昭和]]20年)6月26日、重要工業拠点への精密爆撃を狙っておこなわれた。米軍の照準点は[[此花区]]北港の住友金属工場、および大阪陸軍造兵廠(砲兵工廠)という2つの軍需工場。住友金属には命中したが、砲兵工廠への爆弾はその周辺部に被害を及ぼした。 |
[[1945年]]([[昭和]]20年)6月26日、重要工業拠点への精密爆撃を狙っておこなわれた。米軍の照準点は[[此花区]]北港の住友金属工場、および大阪陸軍造兵廠(砲兵工廠)という2つの軍需工場。住友金属には命中したが、砲兵工廠への爆弾はその周辺部に被害を及ぼした。 |
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== 第6回大阪大空襲 |
== 第6回大阪大空襲-7月10日 == |
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[[1945年]]([[昭和]]20年)7月10日1時33分から3時6分の約1時間半にわたっておこなわれた。この空襲は一般的に「'''堺大空襲'''」呼ばれ、堺市中心部に大きな被害を受けた。 |
[[1945年]]([[昭和]]20年)7月10日1時33分から3時6分の約1時間半にわたっておこなわれた。この空襲は一般的に「'''堺大空襲'''」呼ばれ、堺市中心部に大きな被害を受けた。 |
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中小都市爆撃作戦の一環として、サイパン島アイズレイ飛行場第73航空団の116機が、堺市中心部に約1万3000発・778.9トンの爆弾を落とした。大阪市中心部を狙った第1回空襲以来の夜間空襲で、堺市では2.64平方メートル・約5万5000人が被災し、死者1,370人・重軽傷者1,472人・行方不明者3人、家屋の全半焼14,797戸の被害を出した。この空襲では堺市のほか、大阪市[[住吉区]]や[[貝塚市]]でも被害を出している。 |
中小都市爆撃作戦の一環として、サイパン島アイズレイ飛行場第73航空団の116機が、堺市中心部に約1万3000発・778.9トンの爆弾を落とした。大阪市中心部を狙った第1回空襲以来の夜間空襲で、堺市では2.64平方メートル・約5万5000人が被災し、死者1,370人・重軽傷者1,472人・行方不明者3人、家屋の全半焼14,797戸の被害を出した。この空襲では堺市のほか、大阪市[[住吉区]]や[[貝塚市]]でも被害を出している。 |
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== 第7回大阪大空襲 |
== 第7回大阪大空襲-7月24日 == |
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[[1945年]]([[昭和]]20年)7月24日に住友金属工場および大阪陸軍造兵廠を狙っておこなわれた。117機が[[木津川飛行場]]および伊丹飛行場(現在の[[大阪国際空港]])を爆撃したあと、住友金属工場および大阪陸軍造兵廠へそれぞれ向かった。しかし大阪陸軍造兵廠へ向かった飛行機は、一部の機が造兵廠への爆撃を実施したものの、大半の機は上空の視界不良・天候不良として爆撃を断念し、予備の攻撃目標とされていた[[三重県]][[桑名市]]へ向かい桑名空襲を起こしている。 |
[[1945年]]([[昭和]]20年)7月24日に住友金属工場および大阪陸軍造兵廠を狙っておこなわれた。117機が[[木津川飛行場]]および伊丹飛行場(現在の[[大阪国際空港]])を爆撃したあと、住友金属工場および大阪陸軍造兵廠へそれぞれ向かった。しかし大阪陸軍造兵廠へ向かった飛行機は、一部の機が造兵廠への爆撃を実施したものの、大半の機は上空の視界不良・天候不良として爆撃を断念し、予備の攻撃目標とされていた[[三重県]][[桑名市]]へ向かい桑名空襲を起こしている。 |
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== 第8回大阪大空襲 |
== 第8回大阪大空襲-8月14日 == |
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[[画像:大阪大空襲京橋駅爆撃被災者慰霊碑.JPG|thumb|京橋駅南口の大阪大空襲京橋駅爆撃被災者慰霊碑]] |
[[画像:大阪大空襲京橋駅爆撃被災者慰霊碑.JPG|thumb|京橋駅南口の大阪大空襲京橋駅爆撃被災者慰霊碑]] |
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[[File:Kyobashi Station Osaka in 1946.jpg|thumb|空襲から10ヶ月後の京橋駅(1946年6月)]] |
[[File:Kyobashi Station Osaka in 1946.jpg|thumb|空襲から10ヶ月後の京橋駅(1946年6月)]] |
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== 日本国に対する訴訟 == |
== 日本国に対する訴訟 == |
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大阪大空襲の民間人被災者とその遺族らが[[2008年]]([[平成]]20年)[[12月8日]]に、国は旧[[軍人]]・[[軍属]]には援護制度を整備しているのに対し、民間人被災者については何ら援護せず放置してきており、国による被害の放置は違法だとして、1人当たり1,100万円の[[損害賠償]]と謝罪などを求め、[[大阪地方裁判所|大阪地裁]]に集団で訴訟を起こした。第二次世界大戦中の日本への空襲を巡り被災者から訴訟が起こされるのは、[[2007年]](平成19年)[[3月]]に[[東京地方裁判所|東京地裁]]に起こされた[[東京大空襲]]を巡る訴訟に次ぎ2例目<ref>[http://www.asahi.com/national/update/1208/OSK200812080069.html 大阪大空襲の被災者ら、賠償求め集団提訴4府県18人] 朝日新聞 2008年12月8日</ref>。[[2011年]][[12月7日]]に同地裁は、「軍人・軍属らとの補償の差は[[国会 (日本)|国会]]の裁量で講じられており、明らかに不合理とは言えない」として、原告の請求を棄却した<ref>[http://www.asahi.com/national/update/1207/OSK201112070067.html 空襲被災者らの請求棄却 |
大阪大空襲の民間人被災者とその遺族らが[[2008年]]([[平成]]20年)[[12月8日]]に、国は旧[[軍人]]・[[軍属]]には援護制度を整備しているのに対し、民間人被災者については何ら援護せず放置してきており、国による被害の放置は違法だとして、1人当たり1,100万円の[[損害賠償]]と謝罪などを求め、[[大阪地方裁判所|大阪地裁]]に集団で訴訟を起こした。第二次世界大戦中の日本への空襲を巡り被災者から訴訟が起こされるのは、[[2007年]](平成19年)[[3月]]に[[東京地方裁判所|東京地裁]]に起こされた[[東京大空襲]]を巡る訴訟に次ぎ2例目<ref>[http://www.asahi.com/national/update/1208/OSK200812080069.html 大阪大空襲の被災者ら、賠償求め集団提訴4府県18人] 朝日新聞 2008年12月8日</ref>。[[2011年]][[12月7日]]に同地裁は、「軍人・軍属らとの補償の差は[[国会 (日本)|国会]]の裁量で講じられており、明らかに不合理とは言えない」として、原告の請求を棄却した<ref>[http://www.asahi.com/national/update/1207/OSK201112070067.html 空襲被災者らの請求棄却 大阪など5空襲訴訟で地裁判決] 朝日新聞 2011年12月7日</ref>。 |
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2012年8月25日 (土) 10:54時点における版
大阪大空襲(おおさかだいくうしゅう)は第二次世界大戦末期にアメリカ軍が繰り返し行った、大阪市を中心とする地域への戦略爆撃ないし無差別爆撃の総称である。
1945年(昭和20年)3月13日深夜から翌日未明(日本時間、以下同様)にかけてに最初の大阪空襲が行なわれ、その後、6月1日、6月7日、6月15日、6月26日、7月10日、7月24日、8月14日に空襲が行なわれた。これらの空襲で一般市民 10,000人以上が死亡したと言われている。
第1回大阪大空襲-3月13日・14日
1945年(昭和20年)3月13日23時57分 - 14日3時25分の約3時間半にわたり行われた。B-29が274機襲来。グアムからの第314航空団の43機が23時57分 - 14日1時にかけて大阪市上空に達した。米軍の照準点は、北区扇町、西区阿波座、港区市岡元町、浪速区塩草で、都心部を取り囲む住宅密集地を標的にしており、夜間低空爆撃として約2,000mの低空からの一般家屋をねらった夜間爆撃だった。先導機がナパーム弾(大型の焼夷弾)を港区市岡の照準点に投下し大火災発生。他の機はそれを目印に次々とクラスター焼夷弾(内蔵した48個の小型焼夷弾が空中で分散して落下する)を投下した。続いてテニアンから第313航空団の107機が14日0時10分から3時25分にかけて爆撃。浪速区塩草を照準点として投弾した。さらにサイパンから第73航空団の124機が14日0時20分から2時25分にかけて爆撃。照準点は北区扇町と西区阿波座。すでに大火災が発生している中で、北区は米軍のねらい通りには爆撃できず、他の場所に被害が広がった。中心市街地を焼き尽くしたこの空襲では、3,987名の死者と678名の行方不明者が出た。山を挟んだ奈良県や亀岡盆地側では、火炎が山の向こうに夕焼けのように見えたという。
地下鉄による避難
3月13日、14日の大空襲は深夜に行われた。難波、心斎橋は猛火に包まれており、既に避難の術がなかった。通常、この時間には地下鉄は営業しておらず、駅の扉も開いていないはずであった。しかし、このときに心斎橋駅や本町駅[1]、大国町駅に入り、電車に乗って避難したという体験者が複数存在する[2]。
この話は長く知られてこなかったが、1997年(平成9年)3月に朝日新聞の「声」欄に、京都大学名誉教授の村松繁による心斎橋駅から電車に乗って梅田に逃れた体験談が掲載された[3]。これを受けて大阪市交通局の労働組合(大阪交通労働組合)が調査を開始した。しかし、交通局には戦争末期の市営交通に関する資料がほとんどなく、当時の証言を集めることとなった[4]。この動きを知った毎日新聞大阪社会部の記者が同年7月、記事を掲載するとともに、情報提供を呼びかけた。毎日新聞は同年10月23日に調査結果と分析を掲載した。組合は1998年(平成10年)3月に機関紙「大交」に2回にわたって記事を掲載した[5]。
毎日新聞によると、電車に乗った時間帯は午前3 - 4時頃と5時前後に大きく分かれる。前者は心斎橋周辺で駅に逃げ込み、「梅田の方は燃えていない」と誘導されて乗車。後者は空襲直後に駅構内に入り、「一番電車が出る」と言われて乗車したという(こちらは天王寺駅行きに乗ったという証言もある)。駅構内に入ることができた経緯については、「憲兵が中に入るよう指示した」(心斎橋駅)、「駅員を説き伏せてシャッターを開けさせた」(大国町駅)、「閉鎖されているはずのシャッターが開いていた」(本町駅)など状況は一様ではないが、駅員の判断により駅構内に避難させていたと推測された。また、大国町駅から「一番電車」と駅員に聞いて乗った証言者は「それまで電車は全く見なかった」としたため、同紙は午前5時頃の電車は始発電車、午前3~4時の電車は心斎橋駅発の臨時で、前夜の空襲警報発令時に運転を打ち切った最終電車の車両を「職員の機転で運転させた可能性が極めて高い」とした。
一方、「大交」の記事では当日に駅や列車で勤務した職員の証言は得られず、翌日の出勤だった関係者はいずれも「特別なことがあれば業務引継のとき必ず報告があるが、そうした話題は出なかった」と証言した。また、終電のあと送電は止めることになっていたが、当日心斎橋変電所に勤務していた職員が「指示があって電車を動かす電気を送り続けた」と証言したことで、少なくとも電車を動かすことが可能な状況であったことが判明した[6]。避難列車について運転手の組長だった元職員は「5時過ぎの初発か、初発の前に職員を乗せて走る『お送り電車』ではなかったでしょうか」という推測を述べている。
この避難列車については、NHKが1998年(平成10年)3月29日に「列島リレードキュメント」の中で「空襲の夜 地下鉄は走った」と題して放送[2]。それから9年後の2007年(平成19年)7月25日深夜にフジテレビがNONFIXで「千の風プロジェクト 大阪大空襲の夜 地下鉄は走ったのか」と題して取り上げた[7]。番組では証言や分析をふまえながら新たな検証を試み、運行に不可欠な運転手の確保については、(地下鉄構内を貯蔵場とする)非常用物資の移動のために、初電の前に業務用に電車を走らせた可能性もあるとした。また、終電後の送電については、深夜に電車が走ったと思われる電流計器の動きがあったという元職員の証言を紹介した。そのうえで証言や記録から、空襲警報解除後の交通機関に対する救援指令で運行された電車[8]、もしくは初電前の職員輸送用の電車が避難民を発見して輸送したのではないかという仮説を立てたが、決定的な証拠は得られなかった。関係者側の証言がほとんどないことについて、出演した元運転手は「人を助けるのは職務上あまりにも当然のことであり、特別のことではないから、当人達に特別な事をしたという意識がなく、そのため証言が出てこないのではないか」と語っている。
一方、1997年(平成9年)の調査にあたった組合内の公営交通研究所の担当者は、2009年(平成21年)の新聞記事で「見るに見かねて被災者を駅に入れ、お送り電車などに乗せたのかもしれない。当時は職務違反の恐れがあり、語り継ぐこともなかったのではないか」と述べている[9]。
第2回大阪大空襲-6月1日
1945年(昭和20年)6月1日9時28分から11時にかけての約1時間半にわたっておこなわれた。大阪港と安治川右岸の臨港地区や、城南の陸軍施設周辺を攻撃目標とし、計509機が来襲した。米軍の照準点は福島駅近辺、福島区大開町、安治川口駅近辺、港区・大阪市立運動場(現在の八幡屋公園)、大正区福町(現在の鶴町5丁目)、東区(現中央区)上町、東雲町、森之宮・玉造周辺。大阪市西部を中心に8.2平方キロメートルに被害を及ぼした。この空襲では、港区と大正区に壊滅的な被害が出た。またP51が初めて来襲し、機銃掃射をおこなっている。
第3回大阪大空襲-6月7日
1945年(昭和20年)6月7日11時9分から12時28分の約1時間20分にわたっておこなわれた。米軍の照準点は、焼夷弾は都島区高倉町、鶴橋駅付近、天王寺駅付近。また城東の大阪陸軍造兵廠をねらって大型爆弾を投下した。この空襲では、都島区を中心とした大阪市東部と兵庫県尼崎市に被害を及ぼした。
大阪陸軍造兵廠を狙った爆弾は、目標を大きく外れて市街地に落下するケースが相次いだ。この空襲では長柄橋に爆弾が直撃し、さらに機銃掃射も加えられたため、橋の下に避難していた市民約400人が犠牲になった。また柴島浄水場が破壊され、上水道供給機能が停止した。
第4回大阪大空襲-6月15日
1945年(昭和20年)6月15日8時44分から10時55分にかけての約2時間10分にわたっておこなわれた。米軍の照準点は阪神本線出屋敷駅付近、国鉄福知山線支線金楽寺駅付近、西淀川区・神崎大橋南詰、鶴橋駅付近、天王寺駅付近の5か所。この空襲では計511機が来襲し、大阪市および尼崎市をはじめ、堺市や布施市(現在の東大阪市)、豊中市、守口町(現在の守口市)などに被害を及ぼし、477人が死亡した。
第5回大阪大空襲-6月26日
1945年(昭和20年)6月26日、重要工業拠点への精密爆撃を狙っておこなわれた。米軍の照準点は此花区北港の住友金属工場、および大阪陸軍造兵廠(砲兵工廠)という2つの軍需工場。住友金属には命中したが、砲兵工廠への爆弾はその周辺部に被害を及ぼした。
第6回大阪大空襲-7月10日
1945年(昭和20年)7月10日1時33分から3時6分の約1時間半にわたっておこなわれた。この空襲は一般的に「堺大空襲」呼ばれ、堺市中心部に大きな被害を受けた。
中小都市爆撃作戦の一環として、サイパン島アイズレイ飛行場第73航空団の116機が、堺市中心部に約1万3000発・778.9トンの爆弾を落とした。大阪市中心部を狙った第1回空襲以来の夜間空襲で、堺市では2.64平方メートル・約5万5000人が被災し、死者1,370人・重軽傷者1,472人・行方不明者3人、家屋の全半焼14,797戸の被害を出した。この空襲では堺市のほか、大阪市住吉区や貝塚市でも被害を出している。
第7回大阪大空襲-7月24日
1945年(昭和20年)7月24日に住友金属工場および大阪陸軍造兵廠を狙っておこなわれた。117機が木津川飛行場および伊丹飛行場(現在の大阪国際空港)を爆撃したあと、住友金属工場および大阪陸軍造兵廠へそれぞれ向かった。しかし大阪陸軍造兵廠へ向かった飛行機は、一部の機が造兵廠への爆撃を実施したものの、大半の機は上空の視界不良・天候不良として爆撃を断念し、予備の攻撃目標とされていた三重県桑名市へ向かい桑名空襲を起こしている。
第8回大阪大空襲-8月14日
1945年(昭和20年)8月14日にB29約150機が大阪への空襲をおこなった。米軍機は大阪陸軍造兵廠を狙い、約700トンの1トン爆弾を集中的に投下した。国鉄京橋駅で夥しい犠牲が発生したことから、この空襲は、「京橋駅空襲」ないしは「京橋空襲」とも呼ばれる。
大阪陸軍造兵廠への爆撃はこれまで失敗に終わっていたが、この空襲で造兵廠は壊滅。大坂城内にも着弾し、石垣の一部が崩落するなどの被害が出た。造兵廠の北東に位置する京橋駅周辺には同日13時頃、1トン爆弾4発が落下した。
京橋駅にはちょうど、城東線(現在の大阪環状線)の上り列車・下り列車の2本が入線したところだった。居合わせた多くの乗客が、高架上の城東線の影になる、地平上の片町線ホームに避難していた。そこに1発の1トン爆弾が、城東線の高架を突き破って片町線ホームに落下して爆発し、避難していた乗客らが爆弾の直撃を受けた。この空襲での犠牲者は、身元の判明している人だけでも210名以上、他に身元不明の犠牲者が500 - 600名以上いる(正確な犠牲者数は不明)とされている。
1955年(昭和30年)から毎年8月14日に京橋駅南口で慰霊祭が行われている。
日本国に対する訴訟
大阪大空襲の民間人被災者とその遺族らが2008年(平成20年)12月8日に、国は旧軍人・軍属には援護制度を整備しているのに対し、民間人被災者については何ら援護せず放置してきており、国による被害の放置は違法だとして、1人当たり1,100万円の損害賠償と謝罪などを求め、大阪地裁に集団で訴訟を起こした。第二次世界大戦中の日本への空襲を巡り被災者から訴訟が起こされるのは、2007年(平成19年)3月に東京地裁に起こされた東京大空襲を巡る訴訟に次ぎ2例目[10]。2011年12月7日に同地裁は、「軍人・軍属らとの補償の差は国会の裁量で講じられており、明らかに不合理とは言えない」として、原告の請求を棄却した[11]。
脚注
- ^ 後述の毎日新聞記事によると、当時、大阪市の食糧倉庫として使用しており常時閉鎖されていた。
- ^ 後述の毎日新聞記事によると、難波駅から乗ったという証言は得られなかったという。
- ^ 村松が後に読売新聞に体験を語った記事がある[1]。
- ^ 資料が現存しない点について、「大交」の記事では「敗戦直後に戦争責任の追及を避けるため意図的に廃棄した」としている。
- ^ 公営交通研究所が1999年(平成11年)に刊行した『大阪大空襲と市営交通事業』に資料として収録。このほか、証言が記載された資料について、以下の大阪市立中央図書館レファレンス事例に紹介がある。
- ^ 「大交」の記事には3月13日の朝に大阪鉄道局長の佐藤栄作(後に首相)が大阪市電気局(現在の交通局)局長に「今夜空襲のおそれ、要注意」と電話をかけていたという話(『続東区史』別巻(1979年)からの引用)が紹介されているが、送電指示との関連は不明。
- ^ NONFIX 千の風プロジェクト 大阪大空襲の夜 地下鉄は走ったのか。大空襲のあった地元の関西テレビでは2008年(平成20年)1月20日深夜に放送。
- ^ 「大交」の記事によると、午前3時30分頃にNHKラジオで「警報解除後、電車を運転するので、防空要員は復旧に当たってほしい」と3度放送があったという(「鉄道ピクトリアル」1965年(昭和40年)8月号掲載の「大阪市路面電車戦災の記」(宮本政幸)からの引用)。
- ^ 「大空襲 一夜の奇跡 地下鉄・御堂筋線」朝日新聞大阪版2009年12月26日
- ^ 大阪大空襲の被災者ら、賠償求め集団提訴4府県18人 朝日新聞 2008年12月8日
- ^ 空襲被災者らの請求棄却 大阪など5空襲訴訟で地裁判決 朝日新聞 2011年12月7日
参考文献
関連項目
- 手塚治虫 - 『紙の砦』でみずからの体験をもとに大阪大空襲を描いた。
- ぼんち - 山崎豊子の長編小説。終盤あたりに大阪大空襲の描写がされている。
- 砂の器 - 松本清張の小説。3月13〜14日の空襲によって被害を受けた真犯人の「本籍再生」が重要なトリックになっている。
外部リンク
- 財団法人 大阪国際平和センター(ピースおおさか)
- 大阪市内で戦争と平和を考える(大阪市学校園教職員組合・城北支部)
- 大阪空襲訴訟(一審判決は防空法制について事実認定した)(大阪空襲訴訟 弁護団)