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「コーヒーの歴史」の版間の差分

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[[画像:Palestinian women grinding coffee beans.jpg|thumb|コーヒー挽き(1905年)]]
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'''コーヒの歴史'''では[[コーヒーノキ]]の利用と栽培、および[[コーヒー]]飲用の歴史について述べる。
'''コーヒの歴史'''では[[コーヒーノキ]]の利用と栽培、および[[コーヒー]]飲用の歴史について述べる。


== コーヒー発見にまつわる伝説 ==
== 概略 ==
コーヒーの起源にはいくつもの伝説があるが、その内容は3つに大別できる<ref name="tsujicho">[http://www.tsujicho.com/oishii/recipe/pain/cafemania/hakken02.html 辻調おいしいネット - カフェ・マニアックス](2014年3月閲覧)</ref>。
コーヒーの木がいつ頃から人間に利用されていたかは、はっきりしていない。
[[アラビカコーヒーノキ|アラビカ種]]の原産地である[[エチオピア]]の[[アビシニア]]高原では、[[オロモ人]]([[ガラ族]])が古くから利用していたとする説があり<ref>http://books.google.com/books?id=Qyz5CnOaH9oC&pg=PA3&dq=coffee+goat+ethiopia+Kaldi&hl=ja#v=onepage&q&f=true ワインバーグ著『カフェイン大全』(2001年)</ref>、[[薬草]]または[[携帯食]]として潰した[[果実]]や[[葉]]を[[脂肪|獣脂]]とともに[[団子]]状にし、用いていたと考えられている。
このほか[[西アフリカ]]沿岸では、ヨーロッパ人が1876年に「発見」する以前から[[リベリカコーヒーノキ|リベリカ種]]が栽培・利用されており、[[野生種]]の利用はかなり以前から行われていたようである。


* 9世紀の[[エチオピア]]で、[[ヤギ]]飼いの少年カルディ([[:en:Kaldi]])が、ヤギが興奮して飛び跳ねることに気づいて[[修道僧]]に相談したところ、山腹の木に実る赤い実が原因と判り、その後[[修道院]]の夜業で眠気覚ましに利用されるようになった。
文献上の最初の記録は、[[575年]]に[[イエメン]]を支配した[[サーサーン朝]][[ペルシャ]]のもので、「当時のアラビア人はコーヒーの実や葉を煎じて飲料を作った」と記述されている<ref>http://www.bluemountain.gr.jp/buruman/buruman2.htm ジャマイカコーヒー輸入協議会
** この話の原典とされるのは、[[レバノン]]のキリスト教徒ファウスト・ナイロニ(Faustus Nairon)の著書『コーヒー論:その特質と効用』(1671年)に登場する「眠りを知らない修道院」のエピソードだが、実際には時代も場所も判らない[[オリエント]]の伝承として記されていた<ref name="tsujicho"/><ref name="nekoi">猫井登『お菓子の由来物語』(幻冬舎ルネッサンス, 2008年9月)、180-181頁</ref>。この話がヨーロッパで紹介されると、コーヒーの流行に合わせて装飾が進み、舞台は原産地エチオピアに設定され、ヤギ飼いの少年にはKaldiというアラブ風の名が与えられた<ref name="tsujicho"/>。
</ref>(イエメンはこれに先立つ[[525年]]、[[エチオピア]]の勢力から侵入を受けている)。


後もイエメンでは[[スーフィズム|イスラム神秘主義]]修道者([[ダルヴィーシ|デルウィシュ]]眠気覚ましとして用れたが、宗教的な秘薬留まっていた。
* 13世紀の[[モカ]]で、イスラム神秘主義修道者([[スーフィー]])の[[ャイフ|シェ]]・オマル(Sheikh Umar)が、不祥事(王女恋心を抱た疑い)で街を追放さてい山中で鳥に導かれ実を見つけ、許されて戻った後にその効用を広めた。
** 原典は、アブドゥル・カーディル・アル=ジャジーリーの著書『コーヒーの合理性の擁護』(1587年)写本で、[[千夜一夜物語]]をヨーロッパに紹介したアントワーヌ・ガラン(Antoine Galland)の著書『コーヒーの起源と伝播』(1699年)によってヨーロッパに紹介された<ref name="tsujicho"/>。オマルの没後早い時期に書かれた歴史書にはオマルがコーヒーを発見した記述は存在せず<ref>ワイルド『コーヒーの真実』、53頁</ref>、東アフリカを原産地とするコーヒーノキがイエメンの山中に自生している点から信憑性には疑問が呈され、モカのコーヒー産業が発達した後に創造された逸話だと考えられている<ref>臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、8頁</ref>。
一般民衆に広まったのは、15世紀に[[ファトワー]]で認められてから以降で、その後[[イスラム世界]]全域に拡大した。
現在の主要消費地域である[[ヨーロッパ]]には、16世紀末に[[オスマン帝国]]から伝わった。


* 15世紀の[[アデン]]で、イスラム律法学者のゲマレディン(ザブハーニー)が体調を崩した時、以前エチオピアを旅したときに知ったコーヒーの効用を確かめ、その後、眠気覚ましとして修道者たちに勧めた。さらに学者や職人、夜に旅する商人へと広まっていった。
== 伝説 ==
** シェーク・オマルの逸話と同じく『コーヒーの合理性の擁護』が原典だとされている<ref name="tsujicho"/>。ヨーロッパの人間の記録の中には、[[1454年]]にゲマレディンがコーヒーを認める[[ファトワー]](法解釈)を出したとする伝承が紹介されている<ref>ワイルド『コーヒーの真実』、54頁</ref>。『コーヒーの合理性の擁護』では、ザブハーニーが飲用していた液体はコーヒーではなく[[チャット (麻薬)|カート]]だとする別の記録が紹介されている<ref>臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、11頁</ref>。ウィリアム・H・ユーカーズ(William H.Ukers)の著書『オール・アバウト・コーヒー』(1935年)では、信憑性の高い伝承として取り上げられている<ref name="tsujicho"/><ref>http://www.gutenberg.org/ebooks/28500 ALL ABOUT COFFEE</ref>。
コーヒーの起源にはいくつもの伝説があり、最も有名なのが『カルディ([[:en:Kaldi]])伝説』である<ref>http://www.tsujicho.com/oishii/recipe/pain/cafemania/hakken02.html 辻調おいしいネット - カフェ・マニアックス</ref>。
* 9世紀の[[エチオピア]]で、[[ヤギ]]飼いの少年カルディが、ヤギが興奮して飛び跳ねることに気づいて[[修道僧]]に相談したところ、山腹の木に実る赤い実が原因と判り、その後[[修道院]]の夜業で眠気覚ましに利用されるようになった。
: この話の原典とされるのは、[[レバノン]]の言語学者ファウスト・ナイロニ(Faustus Nairon)の著書『コーヒー論:その特質と効用』(1671年)に登場する「眠りを知らない修道院」のエピソードだが、実際には時代も場所も判らない[[オリエント]]の伝承として記されていた。この話がヨーロッパで紹介されると、コーヒーの流行に合わせて装飾が進み、舞台は原産地エチオピアに設定され、ヤギ飼いの少年にはKaldiというアラブ風の名が与えられた。


== 飲用史 ==
* 13世紀の[[モカ]]で、イスラム神秘主義修道者の[[シャイフ|シェーク]]・オマル(Sheikh Umar)が、不祥事(王女に恋心を抱いた疑い)で街を追放されていた時に山中で鳥に導かれて赤い実を見つけ、許されて戻った後にその効用を広めた。
=== コーヒー豆の食用とアラビア半島への伝播 ===
: 原典は、アブダブル・カディールの著書『コーヒーの合理性の擁護』(1587年)写本で、[[千夜一夜物語]]をヨーロッパに紹介したアントワーヌ・ガラン(Antoine Galland)の著書『コーヒーの起源と伝播』(1699年)によってヨーロッパに紹介された。日本で流行した[[コーヒールンバ]]の歌詞は、この伝説に着想を得ている。
[[Image:Al-RaziInGerardusCremonensis1250.JPG|thumb|200px|right|アル・ラーズィー]]
エチオピアでは高原地帯に自生する[[コーヒーノキ]]の果実の種子が古くから食用にされ、現地の人間はボン(コーヒー豆)を煮て食べていたと考えられている<ref name="kohno159">河野『水・飲料』、159頁</ref>。エチオピアの奥地ではボンを煮て食べる習慣が長く残り<ref name="kohno159"/>、エチオピア南西部の奥地に住む[[オロモ族]]の間には子供や家畜の誕生を祝ってコーヒーと大麦をバターで炒める「コーヒーつぶし」の儀式が残る<ref name="wild36">ワイルド『コーヒーの真実』、36頁</ref>。また、エチオピアでは乾燥させたコーヒーの葉で淹れた「アメルタッサ」、炒ったコーヒーの葉で淹れた「カティ」という飲み物も愛飲されている<ref>ワイルド『コーヒーの真実』、51頁</ref>。


[[古代ギリシャ]]や[[古代ローマ]]でコーヒーが食用にされていた、あるいは取引の対象になっていたことを示す確たる史料は無く、古代エチオピアに成立した[[アクスム王国]]でコーヒーの利用・取引が行われていたことを証明する発見はされていない<ref>ワイルド『コーヒーの真実』、37頁</ref>。17世紀初頭、イタリア人ペトロ・デッラ・ヴァッレによって、[[ホメーロス|ホメロス]]の『[[オデュッセイア]]』に登場するネペンテスという飲み物がコーヒーに相当する説が唱えられたが、後の時代ではデッラ・ヴァッレの説は否定的に受け止められている<ref>ワインバーグ、ビーラー『カフェイン大全』、38-40頁</ref>。他にも17-18世紀のヨーロッパでは、[[スパルタ]]の人間はコーヒーを愛飲していた、『[[旧約聖書]]』にコーヒーに関する記述が存在する、といった説が持ち上がった<ref>ワインバーグ、ビーラー『カフェイン大全』、40-41頁</ref>。
* 15世紀の[[アデン]]で、イスラム律法学者のシェーク・ゲマレディン(Sheik Gemaleddin)が体調を崩した時、以前エチオピアを旅したときに知ったコーヒーの効用を確かめ、その後、眠気覚ましとして修道者たちに勧めた。さらに学者や職人、夜に旅する商人へと広まっていった。
: 信憑性が高い話とされ、ウィリアム・H・ユーカーズ(William H.Ukers) の著書『オール・アバウト・コーヒー』(1935年)でも取り上げられている<ref>http://www.gutenberg.org/ebooks/28500 ALL ABOUT COFFEE</ref>。


やがてボンは[[アラビア半島]]に伝わり、[[アラビア語]]で「バン」と呼ばれるようになる<ref name="kohno159"/>。コーヒー豆から抽出した飲料について、[[9世紀]]の[[イラン]]の[[哲学者]]であり[[医学者]]でもあった[[アル・ラーズィー]](ラーゼス)が、自著でコーヒー豆を指す「バン」とその煮汁「バンカム」について記述している<ref name="kohno159"/><ref name="wein35">ワインバーグ、ビーラー『カフェイン大全』、35頁</ref><ref name="wild40">ワイルド『コーヒーの真実』、40頁</ref>。バンカムは乾燥させたバンを臼ですり潰して熱湯に入れて煮出した飲み物であり、コーヒーの原型と考えられているが、まだ豆は焙煎されていなかった<ref>河野『水・飲料』、159-160頁</ref>。バンカムの入れ方については、イスラーム世界の学者[[イブン・スィーナー]]も詳しい記述を残している<ref name="wein35"/><ref name="kohno160">河野『水・飲料』、160頁</ref><ref>伊藤『コーヒー博物誌』、13頁</ref>。しかし、ラーズィーとイブン・スィーナーによるバンカムの解説には、コーヒーに含まれるカフェインが神経系統に及ぼす影響について述べられてはいない<ref name="wild40"/>。
== 飲用史 ==
コーヒー豆から抽出した飲料については、[[9世紀]]の[[イラン]]の[[哲学者]]であり[[医学者]]でもあった[[アル・ラーズィー]]が、自身が見聞きした民間療法や医学知識を記した『医学集成』に、コーヒー豆を指す「ブン」とその煮汁「バンカム」について記載している。


=== イスラーム世界での普及と反発 ===
しかし、現在見られる「焙煎した豆から抽出したコーヒー」が登場したのは[[13世紀]]以降と見られる。<!-- 根拠? -->
バンカムはイスラーム世界の寺院で秘薬として飲まれ、当初は一般の人間が口にする機会は無かった<ref>伊藤『コーヒー博物誌』、13-14頁</ref>。バンカムはイスラム神秘主義([[スーフィズム]])の修道者([[スーフィー]])によって愛飲され、コーヒーの起源にまつわる3つの伝説にはいずれもスーフィーが関与している<ref>臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、9頁</ref>。スーフィーたちは徹夜で行う[[瞑想]]や[[祈り]]のときの眠気覚ましとしてバンカムを用い、宗教活動の中で飲用されるバンは彼らから神聖視された<ref>臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、17-23頁</ref>。やがてバンカムは「カフワ([[ワイン]]の別名)」と呼ばれるようになる<ref name="si-jiten">飯森嘉助「コーヒー」『新イスラム事典』収録(平凡社, 2002年3月)、225頁</ref><ref name="ii-jiten">田村愛理「コーヒー」『岩波イスラーム辞典』(岩波書店, 2002年2月)、375-376頁</ref>。スーフィーたちは夜の礼拝の時にカフワを飲用し、マジュールというボウルにカフワを入れて仲間内で回し飲みをしていた<ref name="wild57">ワイルド『コーヒーの真実』、57頁</ref>。


[[13世紀]]に入ってコーヒー豆が炒られるようになると、香りと風味が付加された飲料は多くの人間に好まれるようになった<ref>河野『水・飲料』、160頁</ref>。豆が焙煎されるようになった経緯は不確かであるが、偶然起きた何らかの事故で豆が焼かれた時に出た芳香がきっかけになったと考えられている<ref>伊藤『コーヒー博物誌』、15-16頁</ref>。トルコ、イラン、エジプトでは、豆の焙煎に使われた1400年代の道具が発掘されている<ref>伊藤『コーヒー博物誌』、15頁</ref>。また、コーヒーの一般への普及に伴って、マジュールを製造していた陶工たちはコーヒーカップに相当する器の製造も手掛けるようになった<ref name="wild57"/>。イスラーム世界ではカフワに[[砂糖]]を入れることは無く、また牛乳を入れたカフワは[[ハンセン病]]の原因になるという迷信が存在しており、カフワの調味には主に[[カルダモン]]が使われていた<ref name="ken35">『ケンブリッジ世界の食物史大百科事典』3、35頁</ref>。1600年ごろのカイロでコーヒーに砂糖が入れられ始められ、1660年ごろに中国に滞在していたオランダ大使ニイホフがコーヒーに牛乳を加える飲み方を始めたと言われている<ref>奥山『コーヒーの歴史』、7頁</ref>。17世紀のカイロを訪れたヨーロッパ人ヴェスリンギウスはコーヒーの苦みを無くすために砂糖を入れる人間が現れていたことを記し、トルコでは「コーヒーは甘くなくてはならない」という格言が生まれた<ref>ワインバーグ、ビーラー『カフェイン大全』、144頁</ref>。
=== イスラム圏 ===
[[6世紀]]頃に[[アラビア半島]]の[[イエメン]]に伝わり、[[イスラム神秘主義]]修道者が、徹夜で行う[[瞑想]]や[[祈り]]のときの眠気覚ましとして用いた。この頃はまだ潰した実を丸めたものや、生の葉や豆を煮出した汁が用いられていたが、当時はあくまで一部の修道者だけが用いる宗教的な秘薬であった。


[[15世紀]]以後に「カフワ」はイエメンからイスラーム世界に広まる<ref name="ii-jiten"/><ref name="si-jiten"/>。イエメンの古都[[ザビード]]では、[[1450年]]ごろにスーフィーによってコーヒーが飲まれていたことを証拠づける考古学的資料が発掘されている<ref name="wild57"/>。[[16世紀]]初頭には、[[カイロ]]の[[アル=アズハル大学|アズハル大学]]でもコーヒーが飲まれていた<ref name="ii-jiten"/>。16世紀初頭の[[メッカ]]、[[メディナ]]、あるいは[[カイロ]]の[[モスク]]ではコーヒーを飲みながら礼拝を行うスーフィーの姿が多く見られたが、同時にコーヒー飲用の宗教的な是非が大きな問題となった<ref>臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、26-27頁</ref>。[[1511年]]には[[メッカ]]で高官ハーイル・ベイ・ミマルによってコーヒー飲用の是非が諮られた後、メッカ内のコーヒー豆が焼かれ、コーヒーを売買した者や飲用した者は鞭打ちに処されるコーヒーの弾圧事件が起きる<ref>臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、27-29頁</ref><ref>スタンデージ『世界を変えた6つの飲み物』、148頁</ref>。翌年にカイロから「コーヒーの飲用に随伴する反宗教的行為の取り締まり」のみを許可する通達が出され、ハーイル・ベイ・ミマルは職を解任された<ref>臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、29頁</ref><ref>スタンデージ『世界を変えた6つの飲み物』、148-149頁</ref>。
しかし、[[クルアーン]](コーラン)の時代(7世紀)にはコーヒーについて十分な知見がなかったのでコーヒーの摂取の是非に関する[[シャリーア|イスラム法]]上の規定がなく、同じ頃コーヒー飲用の宗教的な是非が大きな問題となった。多くの[[イスラム法学者|法学者]]は、その飲用は[[イスラム教]]の立場からは[[ビドア]](逸脱)であるとみなし、クルアーンで禁じられた[[アルコール (食品)|アルコール]]の飲用に似た効果のあるコーヒーの飲用は、悪しきビドアとして排斥されたのである。


[[クルアーン|コーラン]](クルアーン)では炭の食用が禁じられており、煎ったコーヒー豆が炭に酷似している点から、コーヒー弾圧が解かれた後も飲用に反対する声はなおも出続けた<ref>臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、27,30頁</ref>。コーヒー弾圧の後もカイロやメッカではしばしばコーヒーの禁止令が出され、コーヒー店が襲撃される事件も起きる<ref>ワイルド『コーヒーの真実』、62頁</ref>。コーヒーの産地であるイエメンでは、コーヒーと[[チャット (麻薬)|カート]]に互いの正統性について論争をさせる文学が現れた<ref>ワイルド『コーヒーの真実』、60-61頁</ref>。
その背景には、コーヒーを供する場所が庶民や知識人が集まる社交場となりはじめたため、それが為政者や社会に対する不平不満を語り合う場に転ずることを警戒する動機があったと言われる。イスラム法学者たちの間でイスラムの教義に合うかどうかについての論争を経ながらも、現実的には完全な禁止は難しく、それほど大きな弊害もなかったので、一般民衆に飲用の習慣が広まった。


=== トルコにおけるコーヒーの普及 ===
結局、[[1454年]]に[[アデン]]の[[ムフティー]](法学者)、ジャマールッディーン(Jamal-al-Din)がイスラム法学上の見解で合法と判断し、一般民衆にコーヒーの飲用を正式に認める[[ファトワー]](法学的勧告)を発した。
[[Image:Turkish coffee starting to boil.jpg|thumb|180px|right|トルココーヒー]]
その後も[[1511年]]には[[メッカ]]でコーヒー弾圧事件が起きるなど、数十年にわたる論争を経たのち、やがて飲用しても構わないという見解が主流となってコーヒーは[[中東]]・[[イスラム世界]]の全域に伝播し、[[16世紀]]までには[[エジプト]]まで飲用地域が拡大した。
[[Image:Mocca2.JPG|thumb|180px|right|トルココーヒーを淹れる道具]]
[[1517年]]、オスマン皇帝[[セリム1世]]によるエジプト遠征の際にコーヒーが[[オスマン帝国]]に伝わったと言われている<ref>奥山『コーヒーの歴史』、7-8頁</ref><ref name="kohno161">河野『水・飲料』、161頁</ref>。アラビア語の「カフワ」が[[トルコ語]]に転訛して、トルコに入ったコーヒーは「カフヴェ」と呼ばれるようになった<ref>鈴木『トルコ』、266頁</ref>。トルコに伝わったコーヒーは、炒って砕いた豆を泡立つように煮出して飲まれ、[[トルココーヒー]]の名前で知られるようになった<ref name="kohno161"/>。オスマン帝国がコーヒーの産地であるイエメン、エチオピア沿岸部を支配下に収めるとコーヒーの普及はより進み、[[サファヴィー朝]]が統治するイラン、[[ムガル帝国]]が統治するインドにも伝播した<ref name="wild63">ワイルド『コーヒーの真実』、63頁</ref>。


1530年代にオスマン帝国の支配下に置かれていた北シリアの[[ダマスカス]]、[[アレッポ]]にコーヒー店が開かれる<ref name="okuyama8">奥山『コーヒーの歴史』、8頁</ref>。1550年代には[[イスタンブル]]にもコーヒーを供する店舗が開かれ<ref name="si-jiten"/><ref name="wild63"/><ref name="okuyama8"/><ref>伊藤『コーヒー博物誌』、22頁</ref><ref name="usui31">臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、31頁</ref><ref>鈴木『トルコ』、266,268頁</ref><!-- 1551年、1554年、1555年と本によって年数が違うので -->、皇帝[[セリム2世]]の時代([[1566年]] - [[1574年]])にはイスタンブル内の「コーヒーの店」は600軒を超えていた<ref name="wild63"/><ref name="usui31">臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、31頁</ref><!-- 臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、31頁では「スレイマン2世(1566年 - 1574年)」 ワイルド『コーヒーの真実』、63頁では「1566年」 -->。このような店舗はカフヴェハーネ(直訳するとカフヴェの家、すなわち「コーヒー・ハウス」)あるいは単にカフヴェと呼ばれ、庶民や知識人が集まって語り合ったり、詩などの文学作品の朗読会を行う社交の場として広まった<ref>臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、32,36-37頁</ref>。しかし、地方のカフヴェハーネはならず者のたまり場となり、1570年に学者たちはイスタンブルのカフヴェハーネを非難した<ref name="wild64">ワイルド『コーヒーの真実』、64頁</ref>。また、カフヴェハーネでは政治的な議論の場にもなり、時には権力者から弾圧を受けることもあった<ref>伊藤『コーヒー博物誌』、23頁</ref><ref>ワインバーグ、ビーラー『カフェイン大全』、50-51頁</ref>。[[1580年]]にコーヒーがワインと同種の飲み物であると公式に分類された後も、オスマン帝国内のコーヒーの消費は増え続ける<ref name="wild64"/>。
=== オスマントルコ ===
[[1516年]]に[[セリム1世]]が[[マムルーク朝]]を征服、イスラム世界の北方の辺境であった[[オスマン帝国]]がアラブ地域を併合すると[[トルコ]]地域にも伝播し、オスマン帝国の首都[[イスタンブル]]にまでコーヒーは持ち込まれるようになった。コーヒーは[[トルコ語]]ではアラビア語のカフワがなまってカフヴェと呼ばれた。


オスマン皇帝[[アフメト1世]]の治世([[1603年]] - [[1617年]])に「コーヒー豆は炭になるほど強く火にかけられていない」という見解が出され、コーヒーはイスラーム世界で公的に認可された飲み物となる<ref>臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、30頁</ref>。メッカにおいては、コーヒーは[[ザムザムの泉]]の水と同じ効力のある「黒いザムザムの水」として飲まれ、巡礼者たちはコーヒー豆を故郷に持ち帰った<ref>臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、34頁</ref>。また、オスマン帝国の貴族・高官の間には、コーヒーを供するにあたって厳格な作法が成立していた。
トルコにおいては信仰や薬用を離れた[[嗜好品]]として飲用され、オスマン帝国の[[年代記]]は、翌[[17世紀]]の初頭にイスタンブルにやってきたアラブ人によって世界で初めてのコーヒー飲料を供する固定店舗が開かれたことを伝えている。このような店舗はカフヴェハーネ(直訳するとカフヴェの家、すなわち「コーヒー・ハウス」)あるいは単にカフヴェと呼ばれ、庶民や知識人が集まって語り合ったり、詩などの文学作品の朗読会を行う社交の場として広まった。


オスマン帝国を訪れたヨーロッパの商人たちはコーヒーを好奇の目で見、旅行記などで故郷の人間にコーヒーの存在を伝えた<ref>臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、37頁</ref>。ヨーロッパ世界でもコーヒーハウスが建つようになるとコーヒーの需要は増加するが、供給源はイエメンに限られていた<ref>臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、41頁</ref>。ヨーロッパの商人に対抗できる商品を探していたカイロのイスラーム商人たちはイエメンのコーヒーに着目し、コーヒー交易を独占した<ref>臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、43-45頁</ref>。
オスマン帝国では[[19世紀]]に安価な[[インド]]産の[[茶]]が持ち込まれた結果、社交の場の主要な飲料の座を[[紅茶]]に譲るが、一般に[[トルココーヒー]]と呼ばれるその飲用法は家庭や喫茶店で広く行われつづけている。トルコにおけるコーヒー飲用の風習はオスマン帝国の支配下にあった[[バルカン半島]]に[[16世紀]]中には広まった。このため現在でも[[ギリシャ]]などでコーヒーの伝統的飲用法はトルコと同じである。


[[トルコ革命]]を経て成立したトルコ共和国ではコーヒーは生産されておらず、消費量も少ない<ref>『ケンブリッジ世界の食物史大百科事典』3、36頁</ref>。だが、[[茶]]がトルコの主要な飲み物となった後も、トルコでは茶はあくまでも略式の飲み物であり、コーヒーが正式な場で出される飲み物だととらえられている<ref>鈴木『トルコ』、278頁</ref>。かつてオスマン帝国の支配下に置かれていた[[バルカン半島]]でも、セルビア風の煮出しコーヒーとともにトルココーヒーが飲まれている<ref>ジョセフ・ウェクスバーグ『オーストリア ハンガリー料理』(タイムライフブックス, 1978年)、153-154頁</ref>。
=== ヨーロッパ ===
[[File:Mocha1692.jpg|thumb|300px|1692年のモカ港の光景]]
[[ヨーロッパ]]には、[[地中海]]を渡る盛んな人の往来に乗って16世紀末には既にオスマン帝国から伝わっていった。[[1602年]]には、[[ローマ]]に持ち込まれている。このときすでにcoffeeと呼ばれていたという。


=== ヨーロッパ世界とコーヒーの出会い ===
最初のうちはイスラム教徒の飲料に対する抵抗感や、健康に悪い等とする悪評があったものの、ローマ教皇[[クレメンス8世 (ローマ教皇)|クレメンス8世]]が[[1605年]]に行った'''コーヒー洗礼'''(コーヒーに[[洗礼]]を施し、[[キリスト教徒]]も飲用することを認めた)をきっかけに、[[ヴェネツィア]]([[1615年]])、[[オランダ]]([[1618年]])、[[イギリス]]([[1641年]])、[[マルセイユ]]([[1644年]])、[[パリ]]([[1657年]])、[[ドイツ]]([[1670年]])、[[スウェーデン]]([[1674年]])など、ヨーロッパ全土に伝播した。
[[Image:Papst Clemens VIII Italian 17th century.jpg|thumb|160px|right|教皇クレメンス8世]]
ヴェネツィアには1645年、ヨーロッパ最初の[[コーヒー・ハウス]]ができ、さらにローマ、[[フィレンツェ]]などでコーヒーを供する[[カフェ]]が開かれるなど、上流階級から中流階級へと広まった。
17世紀初頭のヨーロッパではコーヒーはまだ珍奇な飲料であり、植物学者や医学者以外の人間にはほとんど知られていなかった<ref name="sta150">スタンデージ『世界を変えた6つの飲み物』、150頁</ref>。[[1596年]]にフランスの医師・植物学者の[[カロルス・クルシウス]]が、イタリアの植物学者ベッルスからコーヒー豆と豆の調理法に言及した書簡を送られた記録が残る<ref>ワインバーグ、ビーラー『カフェイン大全』、121,128頁</ref>。


「キリスト教徒の聖なる飲み物であるワインをイスラム教徒は飲めないため、悪魔からコーヒーを与えられる罰を受けている」として、「悪魔の飲み物」にあたるコーヒーの飲用に反対する人間もおり、[[教皇|ローマ教皇]]はコーヒーに対する教会の見解を出すように求められた<ref name="sta150"/><ref name="wein127">ワインバーグ、ビーラー『カフェイン大全』、127頁</ref>。[[1600年]]頃に当時のローマ教皇[[クレメンス8世 (ローマ教皇)|クレメンス8世]]はコーヒーを裁判にかけるべく、自ら味見をした<ref name="wein127"/><ref>スタンデージ『世界を変えた6つの飲み物』、150-151頁</ref>。クレメンス8世はこの時にコーヒーの香りと味に魅了されたと言われ<ref name="nekoi"/><ref>UCC上島珈琲株式会社編『コーヒー読本』第2版、41頁</ref><ref>ペンダーグラスト『コーヒーの歴史』、33頁</ref><ref>スタンデージ『世界を変えた6つの飲み物』、151頁</ref>、クレメンス8世は悪魔の飲み物であるコーヒーに[[洗礼]]を施して[[キリスト教徒]]がコーヒーを飲用することを公認した<ref name="nekoi"/><ref name="wein127"/>。研究者の中には、クレメンス8世は彼が裁判の前からコーヒーを愛飲しており、自身の経験からコーヒー飲用の禁止の徹底が困難であると考えて公認したと推測する意見もある<ref>奥山『コーヒーの歴史』、15-16頁</ref>。
[[オーストリア]]では、[[1683年]]のオスマン帝国による[[第二次ウィーン包囲]]失敗の際に、コシルツキーがオスマン軍が放棄した物資の中から発見されたコーヒー豆を手に入れたことに始まると言われる。17世紀末には各地で飲み物として定着するにいたった。


17世紀前半、地中海貿易において主導的な役割を果たしていた[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]の商人を介してコーヒーはヨーロッパ各地に広まっていく<ref name="kohno161"/>。17世紀のヨーロッパ社会において、コーヒーはアルコール度数の低いビールやワインに代わる、衛生的な飲料として受け入れられた<ref>スタンデージ『世界を変えた6つの飲み物』、144頁</ref>。また、コーヒーがもたらす覚醒作用も好意的に捉えられ、コーヒーはアルコール飲料と逆の性質のものと見なされるようになった<ref>スタンデージ『世界を変えた6つの飲み物』、144-145頁</ref>。時にコーヒーは万能薬のように紹介され、イスラーム世界の「コーヒーと牛乳を一緒に飲むとハンセン病の原因になる」迷信も伝えられた<ref>ワイルド『コーヒーの真実』、96-97頁</ref>。17世紀末からヨーロッパでは、コーヒーの淹れ方を教授する書籍が盛んに出版される<ref>ワインバーグ、ビーラー『カフェイン大全』、144-145頁</ref>。
イギリスでは、[[1650年]]に[[オックスフォード]]に最初の[[コーヒー・ハウス]]がオープンしている。コーヒーがブームとなった1700年頃には、2000軒から8000軒のコーヒー・ハウスがあったと伝えられている。コーヒー・ハウスは、上流階級の溜まり場となり、イギリス王立科学院もここから発祥したという。またコーヒー・ハウスは、女人禁制だったため、女性を中心に反対運動が発生したこともあった(もっとも、後にイギリスでは茶の飲用が広まり、コーヒー・ハウスは衰退していく)。


=== ヨーロッパでの普及 ===
[[プロイセン王国]]では[[1777年]]に[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)]]がコーヒー禁止令を出している。これはコーヒーの効能の是非ということではなく、海外貿易に収支や国内産業の育成などが背景にあり、同時にビール推奨令が出されている。さらに[[1781年]]からはコーヒーの焙煎は許可制となり貴族や司祭などが独占することとなった。
{{See also|コーヒー・ハウス}}
[[File:Womenspetitionagainstcoffee.JPG|thumb|180px|「ロンドンの家庭の主婦」によるコーヒー・ハウスへの抗議文]]
[[File:Le-Procope.jpg|thumb|180px|カフェ・プロコープ]]
[[File:Favoritenstraße 32.JPG|thumb|180px|[[ウィーン]]のコルシツキー像]]
イギリスでは[[1650年]]<ref>奥山『コーヒーの歴史』、16-17頁</ref><ref name="kohno161"/><ref>ペンダーグラスト『コーヒーの歴史』、39頁</ref><ref name="wein55">ワインバーグ、ビーラー『カフェイン大全』、55頁</ref>/[[1651年|51年]]<ref>ワイルド『コーヒーの真実』、97頁</ref>に[[オックスフォード]]で[[コーヒー・ハウス]]が営業を始め、[[1652年]]には初めて[[ロンドン]]にコーヒー・ハウスが開業した<ref name="wein55"/><ref>奥山『コーヒーの歴史』、17頁</ref><ref>臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、58頁</ref><ref>スタンデージ『世界を変えた6つの飲み物』、152頁</ref><ref>ワイルド『コーヒーの真実』、99頁</ref>。最初はイギリスの人間にとってもコーヒーは馴染みのない飲み物であり、コーヒー・ハウスの近隣の住民が、コーヒーの「悪魔の匂い」の対処を訴え出た記録が残っている<ref>臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、49頁</ref>。


初期の反発にもかかわらずコーヒー・ハウスは順調に数を増やしていき、1666年に起きた大火で多くのコーヒーハウスが焼失したものの、17世紀末には数100軒<ref>スタンデージ『世界を変えた6つの飲み物』、153頁</ref>から3,000軒にのぼる<ref name="usui5960">臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、59-60頁</ref><ref group="注">当時のロンドンの人口が約600,000人であったことを理由として、3,000軒という数の信憑性を疑問視する意見が存在する(スタンデージ『世界を変えた6つの飲み物』、153頁)</ref>コーヒーハウスが存在していた。コーヒーハウスの拡大を受けて、[[1674年]]に夫がコーヒーハウスに入り浸っていることを非難し、コーヒーが[[勃起不全|性的不能]]の原因となることを主張する、「ロンドンの家庭の主婦」による声明文が発表される<ref name="ken37">『ケンブリッジ世界の食物史大百科事典』3、37頁</ref><ref>ペンダーグラスト『コーヒーの歴史』、41-42頁</ref><ref>ワイルド『コーヒーの真実』、99-100頁</ref><ref group="注">「ロンドンの家庭の主婦」による声明文は実際に女性によって書かれたものではなく、コーヒー・ハウスに出入りする文筆家やコーヒーの普及に脅かされるアルコール業界の要請を受けた人物によるものだと考えられている。(臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、82頁)</ref>。そして、コーヒーの有害性を非難する「ロンドンの家庭の主婦」に対して、男性たちのコーヒーへの弁護も公開された<ref>ペンダーグラスト『コーヒーの歴史』、42頁</ref>。コーヒー・ハウスはロンドンにおける社交・商取引の場として多くの客に利用されたが、18世紀半ばからロンドンのコーヒー・ハウスの数は減少していく<ref>臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、59-60,77頁</ref>。コーヒー・ハウスに代わる社交場として、[[クラブ]]、ティーハウスが台頭し、イギリスの家庭には[[紅茶]]が定着する<ref>臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、78,86-87頁</ref>。
ヨーロッパに伝播した頃には、挽いたコーヒー豆を煮出して上澄みを飲む[[トルココーヒー]]式の淹れ方から、まず布で濾す方法([[1711年]]フランス)が開発され、[[布ドリップ]]の原型となった。これに湯を注ぐ器具として、ドゥ・ベロワのポット([[1800年]]頃フランス)が考案され、現在のドリップポットに至る。
この他にも、[[パーコレータ]]([[1827年]]フランス)、[[コーヒーサイフォン]](1830年代ドイツ)、[[エスプレッソ]]マシン(1901年イタリア)、[[ペーパードリップ]](1908年ドイツ)などが開発され、多様な飲み方が可能となった。


フランスでは、[[1669年]]にオスマン皇帝[[メフメト4世]]によって派遣された使節スレイマン・アガ(ソリマン・アガ)が[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]にコーヒーを献上したことをきっかけに上流階級にコーヒーが広まった<ref>臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、98-99頁</ref><ref>伊藤『コーヒー博物誌』、20頁</ref><ref>ペンダーグラスト『コーヒーの歴史』、34頁</ref><ref>ワイルド『コーヒーの真実』、66頁</ref>。[[1671年]]に[[マルセイユ]]にフランス最初のコーヒー・ハウスが開業した時、ワイン商たちから強い反発を受けた<ref name="sta155">スタンデージ『世界を変えた6つの飲み物』、155頁</ref>。ワイン商の要求を受けた医師がコーヒーが健康に及ぼす悪影響を主張したにもかかわらず、コーヒーはフランスで人気を得ていった<ref name="sta155"/>。[[1672年]]にアルメニア人商人パスカルによってパリ最初のコーヒー・ハウスが開かれ、[[エスファハーン]]出身の[[イラン人]]グレゴワールは劇場に集まる俳優や批評家を対象としたコーヒー・ハウスを開いて成功を収める<ref>臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、100-101頁</ref>。[[1686年]]には[[カフェ・プロコップ|カフェ・プロコープ]]が開店し、文人や政治家などの多くの人間が議論を交わした。また、かつてのフランスではコーヒーが心身に悪影響を及ぼすという迷信が広く知られており、「コーヒーの毒性」を消すためにコーヒーに牛乳を入れる[[カフェ・オ・レ]]が考案された<ref>臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、104-105頁</ref>。
=== アメリカ ===
北米にはヨーロッパからの移民によって、[[1668年]]に持ち込まれた。[[1698年]]には[[ニューヨーク]]でコーヒー・ハウスがオープンしている。


{{仮リンク|アインシュペナー|en|Einspänner (Kaffee)}}([[ウィンナ・コーヒー]])などのコーヒーの飲み方が考案された[[オーストリア]]には、オスマン帝国との戦争にまつわるコーヒー、コーヒー・ハウス伝播の逸話が存在している。先にフランスに使節を派遣したメフメト4世は[[1683年]]に[[第二次ウィーン包囲]]を行うが、失敗に終わる。第二次ウィーン包囲でヨーロッパ諸国のスパイとして活躍した{{仮リンク|フランツ・ゲオルグ・コルシツキー|en|Jerzy Franciszek Kulczycki}}が、オスマン軍が放棄した物資の中から発見されたコーヒー豆を手に入れ、戦後[[ウィーン]]に初めてコーヒー・ハウスを開いたのが[[オーストリア]]におけるコーヒーの始まりだと言われている<ref>ワイルド『コーヒーの真実』、69-71頁</ref><ref>UCC上島珈琲株式会社編『コーヒー読本』第2版、50頁</ref><ref name="itoh32">伊藤『コーヒー博物誌』、32頁</ref><ref>ペンダーグラスト『コーヒーの歴史』、36頁</ref><ref>ワインバーグ、ビーラー『カフェイン大全』、139-142頁</ref>。しかし、ヨーロッパ側が獲得した戦利品にコーヒーが含まれていないなどの理由によって<ref>ワイルド『コーヒーの真実』、71-72頁</ref>、逸話の信憑性は疑問視されている<ref name="itoh32"/><ref>ワイルド『コーヒーの真実』、71-72頁</ref>。ウィーン包囲から20年近く前の[[1665年]]にウィーン駐在のオスマン大使カラ・マフムト・パシャによって町にコーヒーが紹介され、[[1666年]]にカラ・マフムトが帰国した後にコーヒーが販売されるようになった事が記録に残されている<ref>ワインバーグ、ビーラー『カフェイン大全』、139頁</ref>。そして、1683年のウィーン包囲より前に町にはすでに2つのコーヒー・ハウスが存在していたと考えられるようになった<ref>ワインバーグ、ビーラー『カフェイン大全』、142頁</ref>。
その後も、アメリカ東海岸ではイギリスと同様に[[紅茶]]の飲用が主流だった。しかし戦争負債に苦しむ本国(イギリス)による茶葉の課税と、さらに[[イギリス東インド会社|東インド会社]]に独占させる[[茶法]]への反対運動([[ボストン茶会事件]]など)により、それまで愛飲していた紅茶を[[ボイコット]]する者が多くなり、代用としてコーヒーの輸入が急増した。
これは、アメリカでコーヒー飲用が主流となるきっかけとされている。


ドイツには[[1670年]]ごろにコーヒーが伝わり、当初は上流階級に贅沢品として愛飲されていた<ref name="kohno162">河野『水・飲料』、162頁</ref><ref>南『ドイツ』、125,127頁</ref>。[[1679年]]/[[1680年|80年]]ごろに[[ハンブルク]]、[[1721年]]に[[ベルリン]]にコーヒー・ハウスが開業、18世紀後半には[[ビール]]に代わる飲み物として一般家庭に普及した<ref>伊藤『コーヒー博物誌』、36頁</ref>。[[ライプツィヒ]]ではコーヒーが大流行し、町で最初のコーヒー・ハウス「カフェー・ボーム」には[[ザクセン君主一覧|ザクセン選帝侯]][[アウグスト2世 (ポーランド王)|フリードリヒ・アウグスト1世]]も訪れたと言われている<ref>南『ドイツ』、127頁</ref>。
1901年には、[[ニューヨーク州]][[バッファロー]]で開催されたパンアメリカン博覧会で、最初の[[インスタントコーヒー]](水に溶けるコーヒーという意味で「ソリュブル・コーヒー {{lang-en|soluble coffee}}」と称した。開発者はイリノイ州シカゴに在住していた日本人科学者のカトウ・サトリ博士。[[1899年]]に、緑茶を即席化する研究途上、コーヒー抽出液を真空乾燥する技術を発明。)が発表され、試供品も配布されている。[[1939年]]以降、軍隊で兵士への支給品として採用された。このほか、[[1920年]]の[[禁酒法]]も、コーヒーの普及を促進し、現在では世界最大のコーヒー輸入国となっている。


1760年代から1780年代にかけて、身分秩序の維持とコーヒー輸入の抑制を目的として、庶民を対象としたコーヒー禁止令がドイツ各地で施行された<ref>南『ドイツ』、128-132頁</ref>。[[プロイセン王]][[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]は国内の経済を脅かすコーヒーの消費の抑制を試み、王立の企業にコーヒーの製造を独占させた<ref name="ken37"/><ref name="itoh37">伊藤『コーヒー博物誌』、37頁</ref><ref>南『ドイツ』、133頁</ref>。[[1766年]]にプロイセンへのコーヒー輸入は統制を受け、[[1777年]]にフリードリヒ2世はコーヒーの禁止を布告した<ref>ワインバーグ、ビーラー『カフェイン大全』、154頁</ref>。ドイツの庶民の間では、本物のコーヒーの代わりに[[チコリ]]、[[大麦]]などの他の作物を加工した[[代用コーヒー]](Muckefuck)が飲まれることが多く、「ドイツのコーヒー」といえば長らく代用コーヒーを指す時代が続いた<ref>臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、149-152頁</ref>。庶民は高い値が付いた本物のコーヒーを飲むときには、少量のコーヒーを多量の湯で割って飲んだ<ref>臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、150頁</ref>。また、プロイセンでは供給が絶たれたコーヒーの密輸が横行し、コーヒーへの関心はより高まった<ref name="minami134">南『ドイツ』、134頁</ref>。[[1786年]]に王立企業のコーヒー産業の独占は廃止され、フリードリヒ2世の死後に規制は解除された<ref name="minami134"/>。チコリを使った代用コーヒーは[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]の[[大陸封鎖令]]によってコーヒーの供給が途絶えたフランスでも飲まれ、ナポレオンの失脚後もチコリの代用コーヒーは飲まれている<ref>ワイルド『コーヒーの真実』、152-153頁</ref>。
=== 日本 ===
[[日本]]には、[[天明]]年間([[1781年]] - [[1788年]])頃に、[[長崎市|長崎]]の[[出島]]にオランダ人が自分用として持ち込んだといわれている。


17世紀から18世紀初頭にかけての間に、[[ヴェネツィア]]にもコーヒー店が誕生する。[[ヴェネツィア共和国]]末期には多くのカフェが営業し、さまざまな階層の人間が集まる社交の場となった。ヴェネツィアでも2度にわたるカフェ撲滅運動が展開されたが、市民の抵抗によってカフェは生き残る<ref>伊藤『コーヒー博物誌』、34頁</ref>
出島に出入りしていた一部の日本人が飲用したようで、[[1804年]]に[[長崎奉行|長崎奉行所]]に勤めていた[[大田南畝]](大田蜀山人・しょくさんじん)によって記された『瓊浦又綴』(けいほゆうてつ)には、「紅毛船にてカウヒイというものをすすむ 豆を黒く炒りて粉にし 白糖を和したるものなり 焦げくさくして味ふるに堪ず」との記載がある。
嗜好品と言うよりも薬としての効果を期待されており、[[水腫]]に効果があるとされていた。これはコーヒーに含まれるカフェインの利尿作用によるものと考えられる。[[1807年]]の[[会津藩の北方警備|樺太出兵]]では野菜が摂取できないことによる兵の水腫病が問題になり、幕府から貴重なコーヒー豆が支給されたと言う。[[1855年]]頃、やはり寒さなどで殉難が多かった[[弘前藩]]士の為に幕府が薬用としてコーヒーを用意したという記録も残っている<ref>[http://mytown.asahi.com/aomori/news.php?k_id=02000000910020003 「弘前はコーヒーの街」宣言]</ref>。


17世紀末には、[[ロシア]]でもコーヒーが知られるようになった<ref name="numa">沼野、沼野『ロシア』、123-125頁</ref>。イギリス人医師サミュエル・コリンズは、モスクワ大公[[アレクセイ (モスクワ大公)|アレクセイ・ミハイロヴィチ]]にコーヒーを薬として処方した。[[ピョートル1世]]は社交界にコーヒーを普及させようと試み、彼以降の皇帝もコーヒーを愛飲していた<ref name="numa"/>。しかし、茶がロシアの国民的飲料となったのに対して、コーヒーは貴族、インテリ、芸術家が好む飲み物にとどまっていた<ref name="numa"/>。[[スカンディナヴィア半島]]には18世紀までコーヒー、茶といったカフェイン飲料は普及していなかったが、[[1746年]]に[[スウェーデン]]でコーヒーと茶の過度の飲用を批判する声明が出される<ref>ワインバーグ、ビーラー『カフェイン大全』、161頁</ref>。スウェーデンでは1820年代初頭までコーヒー禁止令が数度出されたが、スウェーデン政府がコーヒーの飲用を認めて以降、スウェーデンは世界でも上位のコーヒー消費国となる<ref>ワインバーグ、ビーラー『カフェイン大全』、162頁</ref>。
[[開国]]後の[[1858年]]([[安政]]5年)から輸入が認められ、主に[[居留地]]の[[西洋人]]向けとして[[横浜市|横浜]]の西洋人商館などで少量が輸入されるようになった。やがて、[[1869年]](明治2年)には新聞広告が出されるなど、少しずつ日本人にも広まっていったと考えられる。[[1872年]](明治5年)に出版された日本で最初の[[西洋料理]]解説書『西洋料理指南』では「カフヒー」の名で飲み方、淹れ方を紹介している<ref>敬学堂主人、『西洋料理指南』下p37左-p38左、1872年、東京、東京書林雁金屋 [http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/849074/40]</ref>。


=== アメリカ合衆国での普及 ===
日本で最初のコーヒー店は、[[1888年]](明治21年)[[4月]]に[[上野]]に開かれた可否茶館(かひいちゃかん)だと言われる。また、神戸元町の「[[放香堂]]」(現在も神戸市中央区元町通りに茶商として現存)も明治11年([[1878年]])12月26日の[[讀賣新聞]]に「焦製飲料コフィ―:弊店にて御飲用或は粉にて御求共に御自由」の新聞広告を掲載し、日本で最初の喫茶店と謂われている。但し、軽食やアルコール類を提供する近代的なコーヒー店が日本で広がるには、[[1911年]](明治44年)、[[銀座]]に開かれた[[カフェー・プランタン]]や、カフェ・パウリスタ、カフェ・ライオン([[精養軒]])を待たなければならなかった。普及の背景には、当時進められた[[ブラジル移民]]政策の見返りとして、ブラジル・サントス州政府がコーヒー豆を10年間無償提供し、全国でパウリスタ系列の喫茶店が開店したことがある。
北アメリカには[[1640年]]ごろにオランダによって、あるいは[[1670年]]ごろにイギリスによってコーヒーが持ち込まれたと考えられている<ref name="kohno162"/>。


初期のアメリカでは民衆の飲み物は[[紅茶]]であり、コーヒーは贅沢品でしかなかった<ref name="ken38">『ケンブリッジ世界の食物史大百科事典』3、38頁</ref>。[[1683年]]ごろに[[ニューヨーク]]はコーヒー豆の国際的な取引場となり、イギリスと同様にニューヨーク、[[ボストン]]でも続々とコーヒー・ハウスが開店する<ref>伊藤『コーヒー博物誌』、38-39頁</ref>。アメリカ独立の機運が高まる中で起きた[[ボストン茶会事件]]は、アメリカ国民の茶への関心を薄れさせるきっかけとなる<ref name="ken38"/><ref>伊藤『コーヒー博物誌』、41-42頁</ref><ref>ワイルド『コーヒーの真実』、137,141,145頁</ref>。[[1812年]]から[[1814年]]にかけての[[米英戦争]]で紅茶の供給量が減少し、コーヒーへの関心が高まった<ref>小澤『コーヒーのグローバル・ヒストリー』、221頁</ref>。独立後のアメリカには[[ハイチ]]、[[マルティニーク|マルティニーク島]]、ブラジルから多量のコーヒーが流入したために価格が下落し、次第にコーヒーが茶に取って代わっていった<ref>『ケンブリッジ世界の食物史大百科事典』3、38-39頁</ref>。また、コーヒーにかけられる関税は低く、[[1832年]]に関税が廃止されたこともコーヒーの普及の一因となった<ref name="ken39">『ケンブリッジ世界の食物史大百科事典』3、39頁</ref>。[[1783年]]のアメリカ合衆国民1人あたりのコーヒーの年間消費量は約25gに過ぎなかったが、1830年代までに年2.3kg以上のコーヒーを消費するようになった<ref name="ken38"/>。しかし、1830年代の時点ではまだコーヒーは贅沢な嗜好品であり、一般の人間に日常的に飲用されるまでには至っていなかった<ref>小澤『コーヒーのグローバル・ヒストリー』、223頁</ref>。
その後も輸入量は増え続けるが、[[1937年]](昭和12年)に8,751トンとなった翌年、戦時体制強化により全国珈琲統制組合による軍需物資としての扱いとなり半減、やがて全廃され[[代用コーヒー]]に置換された(国が代用珈琲統制要綱を定め、規制)。もっとも一部高級軍人向けに輸入は続いており、敗戦後にそのコーヒー豆を巡って知事が関与した「群馬コーヒー事件」が起きている<ref>http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/002/0512/00204300512044a.html 衆議院会議録情報</ref>。


輸送手段と包装技術が発達していなかった時代、[[シンシナティ]]や[[オマハ]]で荷揚げされた豆の品質は悪かった<ref name="ken39"/>。劣化した豆で淹れたコーヒーにはサビ、[[インディゴ]]、牛の血などが着色料として添加され、風味を補うために豆と一緒にシナモン、[[クローブ|チョウジ]]、[[ココア]]、タマネギが焙煎された<ref name="ken40">『ケンブリッジ世界の食物史大百科事典』3、40頁</ref>。19世紀初頭の北アメリカでは、コーヒーは煮出した苦いコーヒーに牛乳と砂糖を入れて飲まれ、カップに浮かぶ豆の滓を沈めるために卵、[[ウナギ]]の皮などが混ぜられる場合もあった<ref>ペンダーグラスト『コーヒーの歴史』、84-85頁</ref>。やがて鉄道の発達、蒸気船の導入によって、鮮度を保ったまま豆を輸送することができるようになる<ref name="ken40"/>。1870年代にラテンアメリカからの大量のコーヒーが世界中に出荷され、輸送・焙煎・包装の技術革新によってコストが削減されるとコーヒーの市場価格は下がり、コーヒーの大衆化が進んだ<ref>小澤『コーヒーのグローバル・ヒストリー』、226-227頁</ref>。
ふたたび一般の日本人がコーヒーを口に出来たのは、[[1950年]](昭和25年)の輸入再開以降だが、[[物品税]]が50%も科せられるなど、高嶺の花だった(輸入自由化は、この10年後)。

その後、インスタントコーヒーを中心に消費が伸び、現在では輸入量で世界3位となっている。
1920年から[[アメリカ合衆国における禁酒法|禁酒法]]が施行された時には、酒の代用品としてコーヒーの需要が高まった<ref name="ozawa88">小澤『コーヒーのグローバル・ヒストリー』、73頁</ref>。

=== 器具の発明と改良 ===
[[File:Washington Coffee New York Tribune.JPG|thumb|200px|第一次世界大戦期にジョージ・ワシントン社が出したインスタントコーヒーの広告]]
ヨーロッパに広まったコーヒーは多くの人に飲まれるようになるにつれ、イブリクというポット状の容器に入れて煮出すトルココーヒー式の淹れ方から、大型の水差し型の容器に豆を入れて煮出すようになる<ref name="kohno161"/>。やがて煮出したコーヒーに混ざる豆の滓を取り除くために、粉末にした豆を麻の袋に入れて煮出す方法が考案され、袋が次第に短くされて[[布ドリップ]]に発展した<ref name="kohno162"/>。[[1763年]]にフランスのドン・マルティンによってネル付きのドリップ・ポットが発明され、[[1800年]]頃にドゥ・ベロワが改良したポットは、後世のドリップポットの原型になった<ref>伊藤『コーヒー博物誌』、48頁</ref>。[[1908年]]にはドイツのメリタ・ベンツ夫人によって使い捨ての[[ペーパードリップ]]が発明され、ペーパードリップは大成功を収める<ref>ワインバーグ、ビーラー『カフェイン大全』、145頁</ref>。

濾過式のコーヒー器具の発達とは別に、19世紀初頭にトルココーヒーのポットを参考にした浸潰法の器具が発明され、[[1842年]]にフランスで[[コーヒーサイフォン]]の原型となる器具が発明される<ref>伊藤『コーヒー博物誌』、45-46頁</ref>。水蒸気を応用した[[エスプレッソ]]方式はイタリアで改良が進められ、フランス、ドイツなどにも伝えられる<ref>伊藤『コーヒー博物誌』、46-47頁</ref>。各地に広まったエスプレッソコーヒーは、それぞれの土地で独自の淹れ方が追求された。<!-- 1817年にローランによってエスプレッソが発明(UCC上島珈琲株式会社編『コーヒー読本』第2版、132頁)、1837年に初めてエスプレッソ式のポットが発明(『ケンブリッジ世界の食物史大百科事典』3、40頁) -->

フランスではコーヒーの風味を追及して[[パーコレータ]]などの新型のコーヒーポットが開発され、アメリカでは大量生産に重点を置いた焙煎機・包装技術の改良が試みられる<ref name="ken40"/>。[[1864年]]にジェイベズ・バーンズによって、自動的に豆の中身が取り出されるように改良された焙煎機が開発された<ref>ペンダーグラスト『コーヒーの歴史』、89頁</ref>。従来はコーヒーの消費者はそれぞれの家庭で買った豆を焙煎していたが、[[1865年]]頃にピッツバーグで初めて焙煎済みの豆が販売される<ref name="dokuhon54">UCC上島珈琲株式会社編『コーヒー読本』第2版、54頁</ref><ref>ペンダーグラスト『コーヒーの歴史』、84,90頁</ref>。消費者に焙煎済みの豆を売り出す発想はすぐに広がり、製品の供給のために大型の焙煎機が発明された<ref name="dokuhon54"/>。コーヒーの鮮度を保つ包装方法としては[[真空パック]]、[[バルブ]]などがあり、風味の劣化の原因となる豆の[[酸化]]を抑えるための工夫がされている<ref>ワイルド『コーヒーの真実』、207-208頁</ref>。

1901年には、[[ニューヨーク州]][[バッファロー]]で開催されたパンアメリカン博覧会で、日本人科学者の加藤サトリによって世界最初とされる[[インスタントコーヒー]](水に溶けるコーヒーという意味で「ソリュブル・コーヒー {{lang-en|soluble coffee}}」と名付けられた)が出展される<ref name="zennihon145">全日本コーヒー商工組合連合会日本コーヒー史編集委員会編『日本コーヒー史』、145頁</ref><ref>伊藤『コーヒー博物誌』、244-245頁</ref><ref>UCC上島珈琲株式会社編『コーヒー読本』第2版、64頁</ref>。<ref name="kobe21">神戸山手大学環境文化研究所『神戸カフェ物語 コーヒーをめぐる環境文化』、21頁</ref>。ソリュブル・コーヒーは[[チーグラー極地遠征|ツィーグラーの北極探検隊]]によって買い取られたが<ref>UCC上島珈琲株式会社編『コーヒー読本』第2版、64,162頁</ref>、インスタントコーヒーは当時の消費者の関心を惹きつけるには至らなかった<ref name="kobe21"/>。インスタントコーヒーは[[第一次世界大戦]]と[[第二次世界大戦]]中のアメリカ軍兵士に歓迎され、第二次世界大戦後に世界中に広まっていった<ref>ワイルド『コーヒーの真実』、210-211頁</ref>。1960年代までに手間を要さないインスタントコーヒーの消費量は増加していき、家庭調理用コーヒーの約3分の1を占めるまでになった<ref>『ケンブリッジ世界の食物史大百科事典』3、42-43頁</ref>。[[ソビエト連邦]]時代のロシアではトルコ風の煮出しコーヒーが飲まれ、ドリップやフィルターはあまり普及しなかった<ref name="numa"/>。良質なコーヒーの入手が困難なこともあり、ロシアでは「泥臭い」コーヒーよりも輸入品のインスタントコーヒーが好まれていた<ref name="numa"/>。

一方、世界規模でのコーヒーの普及に伴い、コーヒーに含まれる[[カフェイン]]の作用と有害性への批判が高まった<ref>ペンダーグラスト『コーヒーの歴史』、137頁</ref>。20世紀初頭のドイツでは、コーヒーからカフェインを取り除く技術が発明される<ref>『ケンブリッジ世界の食物史大百科事典』3、43頁</ref>。脱カフェインを謳った代用コーヒーが多く発明され、その1つとして{{仮リンク|ポスタム|en|Postum}}が知られている<ref>ペンダーグラスト『コーヒーの歴史』、138-142頁</ref>。

=== 日本での広がり ===
{{See also|日本における喫茶店の歴史}}
[[File:Kaffe (6290325057).jpg|thumb|left|180px|缶コーヒー]]
[[日本]]には18世紀に[[長崎市|長崎]]の[[出島]]にオランダ人が持ち込んだといわれている<ref name="kohno162"/><ref>全日本コーヒー商工組合連合会日本コーヒー史編集委員会編『日本コーヒー史』、12-13頁</ref>。出島に出入りしていた一部の日本人がコーヒーを飲用していたと考えられ、出島に出入りすることが許されていた[[丸山 (長崎市)|丸山遊郭]]の[[遊女]]の中にはオランダ人からコーヒーを贈られた者もいた<ref>奥山『コーヒーの歴史』、41,55頁</ref><ref>全日本コーヒー商工組合連合会日本コーヒー史編集委員会編『日本コーヒー史』、30-32頁</ref>。コーヒーについて言及された日本最古の本の1つと考えられている[[志筑忠雄]]の『万国管窺』にはわずかながらも記述が存在し<ref>奥山『コーヒーの歴史』、75,79-80頁</ref>、[[天明]]年間([[1781年]] - [[1788年]])に日本語に訳された『紅毛本草』には「古闘比以」という名でコーヒーの詳細な説明がされている<ref name="kohno163">河野『水・飲料』、163頁</ref><ref>全日コーヒー商工組合連合会日本コーヒー史編集委員会編『日本コーヒー史』、40-44頁</ref><ref group="注">[[大淀三千風]]が編んだ、[[元禄]]2年(1689年/90年)序のある『日本行脚文集』収録の「丸山艶文」には、コーヒーの別名の1つである「皐蘆(なんばんちゃ)」についての記述が存在する。しかし、「丸山艶文」で言及される「なんばんちゃ」はコーヒーではなく、[[紅茶]]だと考えられている。(奥山『コーヒーの歴史』、35-37頁)</ref>。江戸幕府が敷いていた[[鎖国]]政策のため民衆にコーヒーが行き渡らず、また風味が日本人の嗜好に合わなかったため、伝来から普及までに長い時間を要した<ref name="kohno163"/>。[[1804年]]にコーヒーを飲んだ[[大田南畝]](大田蜀山人)は、「焦げくさくして味ふるに堪ず」という感想を残した<ref>伊藤『コーヒー博物誌』、164頁</ref><ref>神戸山手大学環境文化研究所『神戸カフェ物語 コーヒーをめぐる環境文化』、13頁</ref>。ヨーロッパ文化に関心を抱く[[蘭学者]]や医家はコーヒーを飲んだ感想を記し、[[大黒屋光太夫]]などの国外に漂流した者も漂着先でコーヒーを飲用した<ref>伊藤『コーヒー博物誌』、178-185頁</ref>。

[[1856年]]から、日本でコーヒーの輸入が開始される。輸入が開始された1856年ごろには、[[蝦夷地]]に駐屯する幕臣に「寒気を防ぎ、湿邪を払う」ためにコーヒー豆が支給された記録が残る<ref>奥山『コーヒーの歴史』、132-133頁</ref><ref>全日本コーヒー商工組合連合会日本コーヒー史編集委員会編『日本コーヒー史』、86-87頁</ref>。[[1864年]]に[[横浜市|横浜]]に設けられた[[外国人居留地]]の西洋人を対象としたコーヒー・ハウスが開店した<ref name="kobe10">神戸山手大学環境文化研究所『神戸カフェ物語 コーヒーをめぐる環境文化』、10頁</ref>。欧風の食文化が日本で紹介されるとコーヒーも飲まれるようになり、[[1868年]]([[明治]]元年)にコーヒー豆が正式に輸入されるようになった<ref name="kohno163"/>。翌[[1869年]]に横浜で萬国新聞を発行していた外国人エドワルズが日本初のコーヒーの宣伝広告を打ち出し、[[1875年]]には泉水新兵衛による日本人初のコーヒーの販売広告が[[読売新聞]]紙上に出された<ref>全日本コーヒー商工組合連合会日本コーヒー史編集委員会編『日本コーヒー史』、97-98頁</ref>。[[1872年]]に出版された日本で最初の[[西洋料理]]解説書『西洋料理指南』では「カフヒー」の名で飲み方、淹れ方が紹介されている<ref>敬学堂主人、『西洋料理指南』下p37左-p38左、1872年、東京、東京書林雁金屋 [http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/849074/40]</ref>。

しかし、明治初期にコーヒーを飲用していたのは上流階級の一部に限られ、一般層にも普及したのは明治末期から[[大正]]初期にかけての時期になってからである<ref name="kohno163"/>。コーヒーは牛乳の臭みを消す香料としても使用され、後には[[コーヒー牛乳]]が考案される<ref>全日本コーヒー商工組合連合会日本コーヒー史編集委員会編『日本コーヒー史』、86-87頁</ref>。[[1899年]]に加藤サトリが真空乾燥法によるインスタントコーヒーの製造に成功するが、当時の日本に販路は存在しておらず、アメリカに渡って1901年のパンアメリカン博覧会で発明品を公開する<ref name="zennihon145"/>。

日本で最初の本格的なコーヒー店は、[[1888年]][[4月]]に[[上野]]に開かれた可否茶館(かひいちゃかん)だとされている<ref name="kohno163"/><ref>奥山『コーヒーの歴史』、173頁</ref><ref>伊藤『コーヒー博物誌』、199頁</ref><ref>神戸山手大学環境文化研究所『神戸カフェ物語 コーヒーをめぐる環境文化』、8頁</ref>。ほか、[[1876年]]に[[下岡蓮杖]]が[[浅草]]で開いたコーヒー茶館<ref name="kobe10"/><ref name="itoh198199">伊藤『コーヒー博物誌』、198-199頁</ref>、[[1878年]]12月26日の読売新聞に新聞広告を掲載した[[神戸市|神戸]][[元町 (神戸市)|元町]]の[[放香堂]]([[1874年]]創業)<ref name="itoh198199"/><ref>神戸山手大学環境文化研究所『神戸カフェ物語 コーヒーをめぐる環境文化』、8-10頁</ref><ref group="注">昭和30年代まで放香堂ではコーヒーが取り扱われていたが、その後販売されていない(神戸山手大学環境文化研究所『神戸カフェ物語 コーヒーをめぐる環境文化』、11頁)</ref>、[[1886年]]に[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]で開業した洗愁亭<ref name="kohno163"/><ref name="itoh198199"/>が、可否茶館より前に存在していたコーヒー店として挙げられることもある。

[[ブラジル移民政策]]を推進した実業家・[[水野龍]]は、ブラジル政府から功績を顕彰されて5年間のコーヒー豆の無償給付を受け、[[1913年]]に日本に[[カフェーパウリスタ]]を設立する<ref>伊藤『コーヒー博物誌』、206-207頁</ref>。1913年から1917年までの間に年7,500俵、1918年から1922年までの間に年2,500俵のコーヒーが無償で供給されたが、1923年にブラジルの政変によって無料供給は断絶し、同年の[[関東大震災]]によってカフェーパウリスタの経営は大打撃を受けた<ref>奥山『コーヒーの歴史』、199頁</ref>。だが、安価なコーヒーを提供したカフェ・パウリスタは大衆間へのコーヒーの普及を推進し、日本各地に店舗を持つカフェ・パウリスタの成功は地方都市のコーヒー市場を活性化させた<ref>全日本コーヒー商工組合連合会日本コーヒー史編集委員会編『日本コーヒー史』、192-194頁</ref><ref>伊藤『コーヒー博物誌』、207-209頁</ref>。コーヒー店と[[ミルクホール]]によってコーヒーは一般の人間にも広く飲まれるようになり、[[1937年]]/[[1938年|38年]]ごろまでコーヒーの黄金期が続いた<ref name="kohno164">河野『水・飲料』、165頁</ref><ref>伊藤『コーヒー博物誌』、229,233頁</ref>。しかし、昭和初期の日本では、コーヒーは飲食店で飲まれるだけにとどまっており、まだ一般家庭の食卓に普及していなかった<ref name="ishige">石毛直道『食の文化を語る』(ドメス出版, 2009年4月)、206頁</ref>。[[第二次世界大戦]]の開戦により、コーヒーの輸入量は激減する<ref>全日本コーヒー商工組合連合会日本コーヒー史編集委員会編『日本コーヒー史』、254,264頁</ref><ref>伊藤『コーヒー博物誌』、235頁</ref>。[[[1950年]]に輸入が再開されるまでの間、一般家庭では[[大豆]]や[[ユリ]]の根などを調理した代用コーヒーが飲まれていた<ref>田口『田口護の珈琲大全』、51頁</ref>。

1960年に日本でもインスタントコーヒーが発売され、インスタントコーヒーは家庭でのコーヒーの消費を推進した<ref name="ishige"/>。1958年には外山食品から世界初とされる[[缶コーヒー]]「ダイヤモンド缶入りコーヒー」が発売されるが、缶コーヒーの売れ行きは上がらなかった<ref name="kobe15">神戸山手大学環境文化研究所『神戸カフェ物語 コーヒーをめぐる環境文化』、15頁</ref>。[[UCC上島珈琲|上島珈琲本社]]は[[1970年]]の[[日本万国博覧会|大阪万博]]をきっかけに缶コーヒーの売り上げを伸ばしていった<ref name="kobe15"/>。

=== アジアでの普及 ===
[[File:Vietnamese coffee gear.jpg|thumb|170px|ベトナムコーヒーを淹れるポット]]
[[大韓民国|韓国]]では、第二次世界大戦後にアメリカの影響を受けてコーヒーが普及した<ref>UCC上島珈琲株式会社編『コーヒー読本』第2版、145頁</ref>

[[東南アジア]]では、コーヒーは主に輸出用の作物としてヨーロッパ諸国から導入され、植民地が消滅した後には現地の人間の日常生活の中で飲まれるようになった<ref name="sea-jiten">阿部健一「コーヒー」『新版 東南アジアを知る事典』、158-159頁</ref>。フランスは[[ベトナム]]、[[ラオス]]でコーヒー栽培を開始し、独立後も両国にコーヒーを飲用する習慣が残った。ベトナムでは深煎りの細かく砕かれた豆でコーヒーが淹れられており、アルミ製のフィルターで濾して飲まれている<ref name="sea-jiten"/>。練乳を入れたカップの上にフィルターを置いて湯と挽いた豆を注ぎ、コーヒーと練乳をかき混ぜて飲むベトナムのスタイルは、[[ベトナムコーヒー]]として知られている<ref>小澤『コーヒーのグローバル・ヒストリー』、118頁</ref>。ラオスではネルドリップによって淹れたコーヒーに[[練乳]]が加えられて飲まれ、甘口のコーヒーは「カフェ・ラーオ(ラオスのコーヒー)」と呼ばれている<ref name="hirai">平井「タイのコーヒー、ラオスのコーヒー」『嗜好品の文化人類学』、49-50頁</ref>。17世紀以来オランダが多くの[[プランテーション|コーヒー・プランテーション]]を設置したジャワ島では、多量の砂糖や[[コンデンスミルク]]が入れられたコーヒーが農民のエネルギー源になっている<ref name="sea-jiten"/>。

列強諸国の植民地とならなかった[[タイ]]ではコーヒー栽培は行われず、苦いものが敬遠される傾向もあってコーヒーを飲む習慣は存在していなかった<ref name="hirai"/>。20世紀末からタイでもコーヒーの飲用が広まり、砂糖と粉末ミルクを加えて甘くしたアイスコーヒーが好まれている<ref name="hirai"/>。


== 栽培史 ==
== 栽培史 ==
[[File:Mocha1692.jpg|thumb|300px|1692年のモカ港の光景]]
最初に栽培されたコーヒーノキは、エチオピアのアビシニア高原が原産のアラビカ種である。
最初に栽培されたコーヒーノキは、[[エチオピア高原]]が原産のアラビカ種である<ref>伊藤『コーヒー博物誌』、9頁</ref>。アラビカ種発祥の地であるエチオピア、ケニア、タンザニア、マダガスカルなどにはコーヒーノキの自然林が繁茂している<ref name="kohno165">河野『水・飲料』、165頁</ref>。品種改良を重ねられて生まれた多くの種の中で、最もオリジナルの品種に近いと考えられているものは、ティピカ種とブルボン種のコーヒーである<ref>田口『田口護の珈琲大全』、18-19頁</ref>。


16世紀以前にコーヒーの栽培が行われていたことを証明する、考古学的資料は確認されていない<ref name="wild36"/>。16世紀にオスマン帝国でコーヒーが普及するとイエメンの山岳地帯でコーヒーが栽培されるようになるが、コーヒーがエチオピアからイエメンに渡った経緯については不明確である<ref>ワイルド『コーヒーの真実』、42,81頁</ref>。イエメンに導入されたコーヒーノキの原産地はエチオピアの{{仮リンク|カッファ州|en|Kaffa Province|label=カッファ}}、あるいは[[ハラール (エチオピア)|ハラール]]近郊だと考えられている<ref>ワイルド『コーヒーの真実』、80頁</ref>。「コーヒー」の語源について、「カッファ」の地名が転訛したものとする説が存在する<ref>伊藤『コーヒー博物誌』、9頁</ref><ref>ワインバーグ、ビーラー『カフェイン大全』、67頁</ref>。
当初は寺院や修道院の庭園で植栽され、やがて果樹園のように拡大したと見られるが、詳しい資料がない。今日見られる大規模な農園は、17世紀末のオランダによって、東南アジアでつくられた。


[[17世紀]]に入り、ヨーロッパ各国にコーヒーが普及し始めると、イギリス・フランス・オランダの[[東インド会社]]がこぞって、イエメンからの輸入取引を始める。コーヒーの積み出しが行われたイエメンの小さな港の「モカ」が最初のコーヒーブランド、[[モカコーヒー]]にもなった。
[[17世紀]]に入り、ヨーロッパ各国にコーヒーが普及し始めると、イギリス・フランス・オランダの[[東インド会社]]がこぞって、イエメンからの輸入取引を始める。コーヒーの積み出しが行われたイエメンの小さな港の「モカ」がコーヒーブランド、[[モカコーヒー]]にもなった<ref>ワイルド『コーヒーの真実』、81-82頁</ref>。コーヒー貿易を独占するため、モカから出荷される豆には加熱して発芽力を無くす加工が施され<ref name="kohno164"/><ref name="itoh49">伊藤『コーヒー博物誌』、49頁</ref><ref>ペンダーグラスト『コーヒーの歴史』、32頁</ref><ref name="wild83">ワイルド『コーヒーの真実』、83頁</ref>、豆の密輸を企てた商人には罰金刑が科された<ref name="wild83"/>


17世紀頃にインドのイスラム教徒ババ・ブダンによって[[マイソール]]にコーヒーの生豆が持ち出されて栽培されたと言われているが<ref name="itoh49"/><ref name="okuyama205">奥山『コーヒーの歴史』、205頁</ref><ref>ペンダーグラスト『コーヒーの歴史』、32-33頁</ref>、ババ・ブダンにまつわる逸話の信憑性には疑問が呈されている<ref name="okuyama205"/><ref name="wild107">ワイルド『コーヒーの真実』、107頁</ref>。生産量が少なく高価なモカコーヒーはヨーロッパの植民地で生産された安価なコーヒーに駆逐されるが、東アフリカで生産されてイエメンの[[アデン]]から出荷されたドイツのコーヒーは「モカ」のブランドを冠して売られた<ref>臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、183-185頁</ref>。
=== 東南アジア ===
[[1505年]]、[[セイロン島]]にコーヒーノキが伝わっている<ref>http://ajca.or.jp/library/guide/history.html 全日本コーヒー協会</ref>(なお、インド西部にはコーヒーノキと近縁のPsilanthus属が自生し、利用されている)。


=== ヨーロッパ各国によるコーヒー栽培の開始 ===
[[1658年]]、[[オランダ東インド会社]]がセイロン島へコーヒーの苗木を持ち込み、少量の栽培に成功。
[[Image:Gabriel De Clieu.jpg|thumb|200px|right|コーヒーを移送するドゥ・クリュー]]
さらに[[1700年]]から[[ジャワ島]]でロブスタ種の大規模農園を拓き、大量生産に成功する。これが今日のコーヒー農園の走りとなり、その後もインドネシアではコーヒー栽培は重要な換金作物として生産が広がって行く。
[[File:Plantation Cafe.jpg|thumb|200px|レユニオン島のコーヒー・プランテーション]]
17世紀、ヨーロッパの商人たちはエジプトで購入したコーヒー豆をヨーロッパで転売して多額の利益を得ていた<ref>臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、48頁</ref>。その中で、オランダの商人は自分たちで栽培した豆を売って利益を得ようと考え<ref>臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、51-52頁</ref>、[[1658年]]に[[オランダ東インド会社]]が[[スラウェシ島]]<ref name="itoh50">伊藤『コーヒー博物誌』、50頁</ref>、セイロン島へコーヒーの苗木を持ち込んで栽培を試みた<ref>臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、52頁</ref><ref name="wild108">ワイルド『コーヒーの真実』、108頁</ref>。さらに[[1680年]]にオランダの植民地であるジャワ島にモカから取り寄せられたコーヒーノキの苗木が植えられ<ref name="usui52">臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、52頁</ref>、1690年代にバタヴィア([[ジャカルタ]])に[[プランテーション]]が設置された<ref name="sta157">スタンデージ『世界を変えた6つの飲み物』、157頁</ref>。[[1711年]]/[[1712年|12年]]にヨーロッパに初めてジャワコーヒーがもたらされる<ref name="usui52"/><ref>ワインバーグ、ビーラー『カフェイン大全』、122頁</ref>。


[[1731年]]にオランダは一時的に停止していたセイロン島でのコーヒー栽培を再開するが、[[1880年]]頃にセイロン島のコーヒーはさび病で壊滅し、島では茶の栽培が始められた<ref name="wild108"/>。ジャワ島のコーヒーもさび病気で壊滅し、従来植えられていたアラビカ種に代えてロブスタ種が栽培されるようになる<ref name="sea-jiten"/><ref>伊藤『コーヒー博物誌』、59頁</ref>。[[スマトラ島]]、スラウェシ島に残ったアラビカ種のコーヒーは、それぞれ[[マンデリン]]、トラジャとして知られている。また、[[アチェ]]、[[バリ島]]、[[ティモール島]]も良質なコーヒーの産地となっている<ref name="sea-jiten"/>。
オランダは、セイロン・ジャワで生産したコーヒーを一旦、イエメンに持ち込む。ここで当時の大ブランドのモカの価格を調査して、それより安い値段でヨーロッパに持ち込む。この低価格戦略が功を奏し、オランダはコーヒー取引を独占するに至る。だが、[[1861年]]に[[ビクトリア湖]]周辺で発見された[[コーヒーさび病]](''[[:w:Hemileia vastatrix|Hemileia vastatrix]]'' )が[[1868年]]にはセイロンに到達し、同地のコーヒーは10年ほどで全滅。その後は茶葉の生産拠点となり現在にいたる。また[[イギリス東インド会社]]は、コーヒーから[[中国茶]]の取引に重点を移した。


[[1714年]]にジャワのコーヒーノキがフランスに寄贈され、王立植物園の温室に植えられる。[[1723年]]に[[西インド諸島]]の[[マルティニーク|マルティニーク島]]の軍人ガブリエル・マテュー・ドゥ・クリュー|en|Gabriel DeClieu}}の嘆願により、パリのコーヒーノキの1本がマルティニーク島に移植されることになる<ref name="sta157"/><ref>臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、111-112頁</ref>。コーヒーノキはガラスケースに入れられて慎重に移送され、海賊の襲撃や暴風雨、凪などの危機に遭いながら、コーヒーノキは無事にマルティニーク島に辿り着いた<ref>臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、112-113頁</ref><ref>伊藤『コーヒー博物誌』、51-52頁</ref><ref>ワインバーグ、ビーラー『カフェイン大全』、381-383頁</ref>。[[1730年]]に西インド産のコーヒーがフランスに輸出され、余剰分は地中海東部に出荷された<ref>スタンデージ『世界を変えた6つの飲み物』、159頁</ref>。ヨーロッパ・アラブ世界に逆輸入された西インド産の安価なコーヒーは、高価なイエメン産のコーヒーに取って代わる<ref>臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、113-114頁</ref>。
さらにコーヒーさび病はインド、ジャワにまで蔓延し、従来の品種(アラビカ種)は壊滅的な打撃を受けた。このため、東南アジア一帯ではこの病気に強いロブスタ種への切り替えが進み、従来の品種の多くが失われた、という意味において歴史的な事件であった。


[[インド洋]]に浮かぶフランス領のブルボン島([[レユニオン|レユニオン島]])は、ブルボン種(ボルボン種)のコーヒーで知られている。レユニオン島では[[1711年]]に島に自生するコーヒーノキ(マロン・コーヒー)が発見されたが島に自生するコーヒーは苦味が強く、2年ごとにしか収穫できないため、マロン・コーヒーと並行してモカから輸入された苗木が栽培された<ref>ワイルド『コーヒーの真実』、111頁</ref>。
現在生産量世界2位の[[ベトナム]]では、フランスの植民地とされた19世紀に栽培が始まったが、生産量は(長い[[インドシナ戦争|戦争]]の影響もあり)限られていた。1980年代から栽培を拡大し、1990年の約7万トンだったものが、その後10年で8倍に伸び、2009年には100万トンを超えている。


モカからもたらされた苗木はイエメンで栽培されていた木の突然変異種と考えられており、[[1715年]]から栽培が開始された<ref>伊藤『コーヒー博物誌』、55-56頁</ref>。島で生産されたブルボン種のコーヒーは南アメリカにも伝播し<ref>ワイルド『コーヒーの真実』、111頁</ref>、しかし、[[イギリス東インド会社]]が出荷するコーヒー、ヨーロッパに近い位置にあるフランス領西インド諸島で生産されたコーヒーに押し出されていく<ref name="wild112">ワイルド『コーヒーの真実』、112頁</ref>。
=== 中南米、オセアニア ===
南米には、[[1723年]]、フランスの海兵隊士官のド・クリュー([[:en:Gabriel_DeClieu]])がフランス領[[西インド諸島]]に苗木を持ち込み、少量の栽培に成功。これが、中南米にコーヒー栽培が広まるきっかけとなった。


[[1805年]]の[[サイクロン]]で島のコーヒー・プランテーションは壊滅し、[[1810年]]にルロイ種が島に持ち込まれた。
[[ブラジル]]には[[1727年]](1725年とも)に[[フランス領ギアナ]]で試験栽培されていた苗木が密かに持ち込まれて栽培されたのが最初とされる。18世紀末には[[プランテーション]]による本格的な商業生産を行われた。独立後のブラジルはコーヒー生産で発展したといってよい。[[1850年代]]にはコーヒーの世界生産に占めるブラジル産の割合は50%を越えていた。[[1970年]]にはついにコーヒーさび病がブラジルに到達し、10年ほどで中南米全域に広がったが、農薬及び耐性種の開発によりアラビカ種の生産を続けることができた。[[2011年]]現在もブラジルは世界最大のコーヒー生産量を維持している<ref>http://www.ico.org/prices/po.htm 世界コーヒー機関</ref>(詳細は[[ブラジルにおけるコーヒー生産]]参照)。


=== ブラジルでのコーヒー栽培 ===
[[ハワイ]]へは[[1825年]]、イギリス訪問中に病死した[[カメハメハ2世]]夫妻の遺体を乗せた船がブラジル寄港時に、アラビカ種(グァテマラ)の苗を持ち帰ったのが、はじまりとされる<ref>http://www.ucc.co.jp/company/estate/hawaii_02.html ハワイのコーヒーの歴史 UCC上島珈琲</ref>。
{{See also|ブラジルにおけるコーヒー生産}}
捕鯨と製糖に圧され絶滅寸前となるが、1890年代のコーヒー投機ブームで栽培面積が拡大するがやがて暴落、砂糖が取って代わり、コナコーヒーは壊滅する。
[[File:Slaves in coffee farm by marc ferrez 1885.jpg|thumb|180px|コーヒー農園で使役される奴隷(1885年)]]
この後、コーヒー産業は日本人[[移民]]の手に委ねられ、1930~60年代には学校も9~10月に夏休み(コーヒー休暇)を設定し、子供達の手伝いを促した。<ref>http://www.coffeetimes.com/japan/about_cona_coffee/cona_history_nikkei.html コナ・コーヒーについて コーヒータイムズ</ref>
[[File:Lavoura de café.jpg|thumb|180px|ブラジルのコーヒー・プランテーションと農民]]
ドゥ・クリューが持ち込んだコーヒーノキの子孫はマルティニーク島から[[ラテンアメリカ]]各地に広がり、[[スリナム]]、[[ハイチ]]、[[キューバ]]、[[コスタリカ]]、[[ベネズエラ]]でもコーヒーの栽培が始められた<ref>スタンデージ『世界を変えた6つの飲み物』、159-160頁</ref>。中でもハイチは18世紀後半までコーヒーの一大産地となっていたが、18世紀後半から19世紀初頭にかけての[[ハイチ革命]]を経て、ハイチでのコーヒーの産出量は激減した<ref>ペンダーグラスト『コーヒーの歴史』、47-48頁</ref>。[[1732年]]にマルティニーク島からイギリス領の[[ジャマイカ]]に移植され、「[[ブルーマウンテン]]」の起源となった<ref name="kohno165"/>。


低価格のアラビカ種のコーヒーが多量に生産される[[ブラジル]]は、国際社会におけるコーヒーの流通や価格設定に強い影響力を有している<ref>小澤『コーヒーのグローバル・ヒストリー』、105頁</ref>。ブラジルのコーヒー伝播にまつわる有名な伝承として、[[1727年]]にフランス領ギアナとオランダ領ギアナの間に起きた紛争の仲裁のために派遣されたブラジルの使節パレータ(Francisco de Melo Palheta)が、恋仲に落ちたフランス代理総督夫人からコーヒーの種を託されたという逸話が知られている<ref>UCC上島珈琲株式会社編『コーヒー読本』第2版、43-44頁</ref><ref>伊藤『コーヒー博物誌』、53-54頁</ref><ref>ペンダーグラスト『コーヒーの歴史』、45頁</ref><ref">ワイルド『コーヒーの真実』、181-182頁</ref>。[[1773年]]<ref>伊藤『コーヒー博物誌』、54頁</ref>/[[1774年|74年]]<ref name="wild182">ワイルド『コーヒーの真実』、182頁</ref>に[[フランシスコ会]]の修道士によって、[[リオデジャネイロ]]の聖アントニオス修道院の庭に種子が植えられた記録が残る。
[[ニューカレドニア]]は[[1856年]]に宣教師がアラビカ種(ブルボン)を導入し、本国へ輸出もしたが、豊富な鉱物資源([[ニッケル]]鉱石や[[ボーキサイト]])や害虫被害により廃れた。
現在では少量生産され、幻のコーヒー(リロイ種)として、100g 数千円という異常な高値で取引されている<ref>http://www.ucc.co.jp/bourbon/ 幻のコーヒー BOURBON POINTU(ブルボンポワントゥ) 公式サイト UCC上島珈琲</ref>。


フランス皇帝[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]の[[大陸封鎖令]]を経験したヨーロッパで[[砂糖]]の自給が可能になった後、ブラジルは砂糖に代わる輸出品としてコーヒーに着目した<ref name="wild182"/><ref>臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、162-164頁</ref>。ブラジル皇帝[[ペドロ1世 (ブラジル皇帝)|ペドロ1世]]は国内の農業を振興し、[[1818年]]に[[サントス]]から出荷されたブラジル産のコーヒーがヨーロッパに向けて輸出された<ref>小澤『コーヒーのグローバル・ヒストリー』、73頁</ref>。[[ペドロ1世 (ブラジル皇帝)|ペドロ2世]]の即位後に[[リオデジャネイロ州]]でコーヒー栽培が本格的に行われるようになり、コーヒー栽培は[[ミナスジェライス州]]、[[サンパウロ州]]にも拡大した<ref>小澤『コーヒーのグローバル・ヒストリー』、73頁</ref>。1870年代にブラジルのコーヒー栽培の中心地はリオデジャネイロ州から、ミナスジェライス州とサンパウロ州に移る<ref>小澤『コーヒーのグローバル・ヒストリー』、100頁</ref>。大規模なプランテーションと[[奴隷制|奴隷制度]]に基盤を置いた栽培によって、ブラジルは19世紀のコーヒー市場を席巻する<ref>『ケンブリッジ世界の食物史大百科事典』3、45-46頁</ref><ref>ワイルド『コーヒーの真実』、183頁</ref>。[[1888年]]にブラジルで奴隷制度が廃止された後、賃金の安価なヨーロッパ系移民がコーヒー産業に従事した<ref>ペンダーグラスト『コーヒーの歴史』、61頁</ref><ref>小澤『コーヒーのグローバル・ヒストリー』、79頁</ref><ref name="wild184">ワイルド『コーヒーの真実』、184頁</ref>。旧来の大土地所有者から転身したコーヒー農園主をはじめとする支配者層の主導でブラジルのコーヒー産業は拡大していくが、彼らが農園で実施した[[焼畑農業]]は大規模な環境破壊を引き起こした<ref>小澤『コーヒーのグローバル・ヒストリー』、101-103頁</ref>。
=== アフリカ ===
アフリカはコーヒーの原産地だが、現在の栽培品種(アラビカ種)は1900年頃、イギリス・ドイツの手で東アフリカに持ち込まれ、栽培が始まった。エチオピアとケニア、タンザニアが栽培の中心。


20世紀初頭からブラジルではコーヒーが過剰に生産される状態が慢性的に続き、州知事たちは価格の暴落の阻止に苦慮する<ref>小澤『コーヒーのグローバル・ヒストリー』、85頁</ref>。生産量の増加に伴うコーヒーの低価格化に際して、[[1902年]]にブラジルをはじめとするラテンアメリカのコーヒー生産国はニューヨークに代表者を派遣し、初めて「コーヒーの生産と消費を考える国際会議(国際コーヒー会議)」を開催した<ref>ペンダーグラスト『コーヒーの歴史』、122頁</ref>。[[第一次世界大戦]]直前のブラジルでは、国内生産の約90%をコーヒーが占め、その多くがアメリカに輸出された<ref name="wild184"/>。第一次世界大戦中、アメリカとフランスは余ったコーヒーの買い取りを条件にブラジルに[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]側への参戦を要請し、余ったコーヒーが売却された。1920年にアメリカで禁酒法が施行された際にアメリカはラテンアメリカ各国からコーヒーを大量に輸入し、ブラジルに「コーヒー・バブル」が到来する<ref name="ozawa88"/>。しかし、[[1929年]]にコーヒー消費国を襲った[[世界恐慌]]によって、ブラジルのコーヒー・バブルは崩壊する<ref name="ozawa90">小澤『コーヒーのグローバル・ヒストリー』、90頁</ref>。コーヒーの価格は50%以上下落し、コーヒー栽培に従事する労働者の賃金も50-60%削減されて大量の失業者が現れる<ref name="ozawa90"/>。余ったコーヒーは海上に投棄・焼却され、約47,000,000袋のコーヒーが破棄された<ref name="ozawa90"/>。[[1930年]]にブラジル政府は[[ネスレ]]に過剰に生産されたコーヒーの引き取りを依頼し、[[1938年]]に[[スイス]]、翌[[1939年]]にアメリカ合衆国で[[ネスカフェ]]の販売が開始される<ref>神戸山手大学環境文化研究所『神戸カフェ物語 コーヒーをめぐる環境文化』、20頁</ref>。
[[コンゴ]]ではロブスタ種が発見され、ベルギーやオランダで品種化された後に逆輸入され、主要品種となっている。


=== ラテンアメリカでの展開 ===
このほか、西アフリカでは古くからリベリカ種が栽培されていたが、商品作物としてはアラビカ種に圧され、栽培量は限られている。
[[File:Jvaldez2.JPG|thumb|170px|コロンビア・コーヒーのイメージキャラクターである[[フアン・バルデス]]]]
ブラジルを除くラテンアメリカ各国では、小規模生産によるコーヒーの栽培が行われる<ref>『ケンブリッジ世界の食物史大百科事典』3、47頁</ref>。


[[1821年]]に独立したコスタリカは経済的自立を達成するためコーヒー栽培に力を入れ、[[サンホセ (コスタリカ)|サンホセ]]では住民に土地と苗木を配布してコーヒー栽培が推奨された<ref>小澤『コーヒーのグローバル・ヒストリー』、125頁</ref>。コスタリカのコーヒー農園では労働者の自給用の食糧も栽培されており、コスタリカのコーヒー栽培はブラジルなどのコーヒー生産国に見られる[[モノカルチャー]]とは異なる傾向を見せている点に特徴がある<ref>小澤『コーヒーのグローバル・ヒストリー』、149頁</ref>。コスタリカは低価格のコーヒーを輸出するブラジルとの競争を避けて高品質のコーヒーの生産に特化し、コスタリカで生産されたコーヒーはヨーロッパで人気を得る<ref>小澤『コーヒーのグローバル・ヒストリー』、126-127頁</ref>。1920年代からアメリカへのコスタリカ・コーヒーの輸出量は増加、第二次世界大戦後のコスタリカ・コーヒーはアメリカを主要な市場とし、なおコスタリカのコーヒーの品質は高い評価を受けている<ref>小澤『コーヒーのグローバル・ヒストリー』、143,150頁</ref>。
=== 日本 ===
[[1878年]](明治11年)、オランダ留学中に関心を抱いた[[榎本武揚]]が、ジャワ島で入手した苗を[[小笠原諸島|小笠原]]で栽培を試みたのが最初とされる。栽培は成功し、コーヒー豆の生産も行われたものの、経済性でサトウキビ栽培に及ばないことからやがて廃れた。
その後、昭和初期から太平洋戦争後にかけて、[[台湾]]や[[沖縄諸島|沖縄]]でも栽培が試みられたが、大規模栽培には成功しなかった。


[[コロンビア]]には、18世紀末から19世紀初頭にかけての期間にコーヒーが伝わった<ref name="cshirutame">二村久則『コロンビアを知るための60章』(エリア・スタディーズ, 明石書店, 2011年6月)、39頁</ref>。19世紀半ばのコロンビアでは内陸部のサンタンデール地域でコーヒー栽培が行われていたが、コーヒー産業はブラジル、コスタリカに後れを取っていた<ref>小澤『コーヒーのグローバル・ヒストリー』、169頁</ref>。1870年代に世界規模のコーヒー需要の高まりが起きると、サンタンデル、[[クンディナマルカ県]]、[[アンティオキア県]]でコーヒー栽培が活発化する<ref>小澤『コーヒーのグローバル・ヒストリー』、171頁</ref>。コロンビアではコスタリカよりも品質が高いコーヒーを大量に生産することが目標とされ、1870年代から1910年代にかけて、コロンビアにも周辺国より遅れてのコーヒー産業の拡大期が訪れた<ref>小澤『コーヒーのグローバル・ヒストリー』、172-173頁</ref>。コスタリカと同様にコロンビアのコーヒー農園ではコーヒー以外の作物も栽培され、それらは労働者の食糧や売買に充てられた<ref>小澤『コーヒーのグローバル・ヒストリー』、173頁</ref>。20世紀初頭にはコロンビアのコーヒーの品質は国際市場で高い評価を受けるようになり<ref>小澤『コーヒーのグローバル・ヒストリー』、177頁</ref>、コーヒー産業は輸出産業として確立された<ref name="cshirutame"/>。コロンビアでは品種改良が盛んに行われ、直射日光に強い耐性を持つ「コロンビア」などの新品種が開発されている<ref>小澤『コーヒーのグローバル・ヒストリー』、192頁</ref>。
現在は、沖縄、九州、小笠原諸島<ref>http://www.mugajin.jp/topics/nose_garden/1.html 東京都父島、野瀬農園 </ref>で個人や小規模農園、観光農園で生産・販売されている。

[[グアテマラ]]では[[ラファエル・カレーラ]]によって、[[コチニール色素|コチニール]]に代わる商品としてコーヒーの栽培が開始された。グアテマラでのコーヒー栽培では先住民である[[インディオ]]が酷使され、反乱、農地からの逃亡が頻発した<ref>ペンダーグラスト『コーヒーの歴史』、65-67頁</ref>。19世紀末にグアテマラに増加したドイツ系移民は大規模なコーヒー農園を開き、彼らによって近代的な技術がもたらされる<ref>ペンダーグラスト『コーヒーの歴史』、68頁</ref>。

=== 太平洋世界での栽培 ===
[[1817年]]にスペイン人によって[[カウアイ島]]のハナレイにコーヒーが移植されたのが、ハワイにおけるコーヒー栽培の始まりとされている<ref>全日本コーヒー商工組合連合会日本コーヒー史編集委員会編『日本コーヒー史』、191頁</ref>。[[1825年]]に[[マノア]]で本格的なコーヒー栽培が開始され<ref name="zennihon192">全日本コーヒー商工組合連合会日本コーヒー史編集委員会編『日本コーヒー史』、192頁</ref>、[[1828年]]には[[コナ (ハワイ島)|コナ]]でもコーヒーの栽培が始められる([[コナコーヒー]])<ref name="kohno165"/>。天災、病虫害、糖業への転換によってコーヒー農園は減少していき、コーヒー栽培に最も適したコナに農園が集中するようになる<ref name="zennihon192"/>。当初は現地人がコーヒー栽培に従事していたが、次第に移民がコーヒー栽培に携わるようになり、1910年ごろには日系移民がコーヒー栽培の中心となる<ref name="zennihon192"/>。

=== ロブスタ種とリベリカ種 ===
[[ウガンダ]]に居住するブガンダ族には血盟の儀式の際に[[ロブスタコーヒーノキ|ロブスタ種]](カネフォラ種)のコーヒー豆を噛む習慣があり、[[1862年]]にウガンダに入り込んだ探検者がロブスタ種のコーヒーを発見する<ref name="wild32">ワイルド『コーヒーの真実』、32,36頁</ref>。[[1898年]]に[[ベルギー]]領[[コンゴ]]でロブスタ種が再発見された後、ロブスタ種の栽培が始められた<ref>ワイルド『コーヒーの真実』、32頁</ref>。当初風味の悪さからロブスタ種は市場で敬遠されていたが、価格を武器にして世界中に広まっていく<ref>ワイルド『コーヒーの真実』、33頁</ref>。

第一次世界大戦中にオランダでロブスタ種が流行し、1920年ごろにはジャワ島で生産されるコーヒーの約80%がロブスタ種で占められるようになる<ref>小澤『コーヒーのグローバル・ヒストリー』、106-107頁</ref>。オランダのロブスタ種の流行に続き、インド、セイロン島、アフリカでもロブスタ種の生産が始められるようになった<ref>小澤『コーヒーのグローバル・ヒストリー』、107頁</ref>。1956年には世界で取引されるコーヒーの22%をロブスタ種が占めるようになり、これまでロブスタ種を忌避していたニューヨーク・コーヒー取引所も1960年にロブスタ種を公認した<ref>ペンダーグラスト『コーヒーの歴史』、324頁</ref>。ロブスタ種の一大生産地であるベトナムでの生産量の増加によって、2000年-2001年には世界で流通するコーヒーの約40%がロブスタ種となる<ref>小澤『コーヒーのグローバル・ヒストリー』、114頁</ref>。

ほか、1870年以降は[[リベリア]]原産の[[リベリカコーヒーノキ|リベリカ種]]が栽培されている<ref>伊藤『コーヒー博物誌』、60頁</ref>。リベリカ種は気候への順応力は高いが病気に弱く、栽培される地域はリベリア、[[スリナム]]、[[コートジボワール]]など一部の国に留まり、出荷される地域も限られている<ref>田口『田口護の珈琲大全』、9頁</ref>。1870年代にさび病が流行した時にアラビカ種に代わる品種としてリベリカ種に注目が集まったが、さび病に弱く生産性も低いため、普及には至らなかった<ref>ペンダーグラスト『コーヒーの歴史』、80頁</ref>。

=== 20世紀以降 ===
[[File:Looking across coffee fields in Vietnam.jpg|thumb|200px|ベトナムのコーヒー・プランテーション]]
1900年代に[[キリマンジャロ|キリマンジャロ山]]で[[ボーア人]]、イタリア人、イギリス人、ドイツ人がコーヒーの栽培を始めるべく定住し、1909年にはキリマンジャロの南の斜面に28のプランテーションが存在していた<ref>臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、182頁</ref>。エチオピアを除くアフリカ諸国では、自国で栽培されるコーヒーのほとんどは輸出され、国内消費量は少なくなっている<ref>『ケンブリッジ世界の食物史大百科事典』3、43頁</ref>。アフリカの発展途上国からヨーロッパの消費国にコーヒーが流れていく構図から、コーヒーは歴史的な植民地体制に基づく生産物にも例えられている<ref>ワイルド『コーヒーの真実』、241頁</ref>。アフリカの植民地が独立した後も、ヨーロッパ各国はかつての自国の植民地で生産されるコーヒー豆を好んで消費する傾向がある<ref>ワイルド『コーヒーの真実』、241-242頁</ref>。

[[1740年]]にはスペインの聖職者によって[[フィリピン]]にコーヒーが伝えられたが<ref>伊藤『コーヒー博物誌』、56頁</ref>、19世紀末のさび病の大流行の後は大規模栽培は行われなくなる<ref name="sea-jiten"/>。[[1887年]]にフランスの植民地とされたベトナムでコーヒーが導入され、栽培されたコーヒーは主に現地のフランス人社会で消費された<ref>小澤『コーヒーのグローバル・ヒストリー』、110頁</ref>。1990年代からベトナムでのロブスタ種のコーヒーの生産量が大幅に増加し、1999年までにブラジルに次ぐ世界第2位のコーヒー生産国となった<ref>小澤『コーヒーのグローバル・ヒストリー』、109-110頁</ref>。中国[[雲南省]]の保山には、タバコ栽培からコーヒー栽培に転作した農家が現れた<ref>田口『田口護の珈琲大全』、9頁</ref>。

日本においては、沖縄<ref name="kohno165"/><ref name="ozawa160">小澤『コーヒーのグローバル・ヒストリー』、160頁</ref>、小笠原諸島<ref name="ozawa160"/>で生産・販売されている。[[1878年]]に[[農商務省 (日本)|勧農局]]の武田昌次によって、ジャワ島で入手した苗を[[小笠原諸島|小笠原]]で栽培を試みたのが最初とされる<ref>奥山『コーヒーの歴史』、207-209頁</ref><ref>全日本コーヒー商工組合連合会日本コーヒー史編集委員会編『日本コーヒー史』、108-109頁</ref><ref>伊藤『コーヒー博物誌』、214頁</ref>。しかし、病害虫が流行し、また経済性でサトウキビ栽培に及ばないため、コーヒー栽培は中止される<ref>全日本コーヒー商工組合連合会日本コーヒー史編集委員会編『日本コーヒー史』、110-111頁</ref>。小笠原でのコーヒー栽培を提唱した[[田中芳男]]の息子である田中節太郎は、[[八重山列島|八重山諸島]]でコーヒーの栽培を開始した<ref>奥山『コーヒーの歴史』、208-209頁</ref>。昭和初期に[[台湾]]でコーヒー栽培が試みられたがさび病によって成功せず、第二次世界大戦後に[[奄美群島]]で行われたコーヒー栽培は台風の被害と収穫量の少なさに起因する利益の低さより、栽培は中止された<ref name="kohno165"/>。

== 年表 ==
* [[9世紀]] - [[アル・ラーズィー]]がコーヒー豆を原料とする飲料「バンカム」の記述を残す
* [[10世紀]]末/[[11世紀]]初頭 - [[イブン・スィーナー]]が「バンカム」の記述を残す
* [[13世紀]]頃 - 焙煎されたコーヒー豆で飲み物が淹れられるようになる
* [[1511年]] - [[メッカ]]でコーヒー弾圧事件が起きる
* 1550年代 - [[イスタンブル]]にコーヒーを供する店が開店する
* [[17世紀]]初頭 - イスラーム法でコーヒーが公式に認可された飲み物となる
* [[1605年]]頃 - ローマ教皇[[クレメンス8世 (ローマ教皇)|クレメンス8世]]によってコーヒーに[[洗礼]]が施される
* [[1650年]] - [[オックスフォード]]に[[コーヒー・ハウス]]が開店する
* [[1652年]] - [[ロンドン]]にコーヒー・ハウスが開店する
* [[1658年]] - [[オランダ東インド会社]]によって、[[スラウェシ島]]と[[セイロン島]]でコーヒーの栽培が試みられる
* [[1669年]] - [[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]に面会したオスマン帝国の使節を介して[[パリ]]でコーヒーが流行する
* [[1671年]] - [[マルセイユ]]にフランス最初のコーヒー・ハウスが開店する
* [[1672年]] - パリにコーヒー・ハウスが開店する
* [[1674年]] - 「ロンドンの家庭の主婦」による、コーヒーに対する抗議文の発表
* [[1679年]]/[[1680年|80年]]頃 - [[ハンブルク]]にコーヒー・ハウスが開店する
* [[1680年]] - オランダによって[[ジャワ島]]にイエメンから取り寄せたコーヒーの木が移植される
* [[1696年]] - [[ニューヨーク]]にコーヒー・ハウスが開店する
* [[18世紀]]頃 - [[日本]]にコーヒーが伝来する
* [[1712年]] - ヨーロッパに初めてジャワ産のコーヒーがもたらされる
* [[1715年]] - フランス領[[レユニオン|レユニオン島]]でコーヒーの栽培が開始される
* [[1718年]] - オランダ領[[スリナム]]でコーヒーの栽培が開始される
* [[1721年]] - [[ベルリン]]にコーヒー・ハウスが開店する
* [[1723年]] - [[マルティニーク|マルティニーク島]]にコーヒーが移植される
* [[1732年]] - イギリス領[[ジャマイカ]]にマルティニーク島のコーヒーが移植される
* [[1740年]] - [[フィリピン]]でコーヒーの栽培が開始される
* [[1750年]]-[[1760年]]頃 - [[グアテマラ]]でコーヒーの栽培が開始される
* [[1773年]] - [[ボストン茶会事件]]
* [[1773年]]/[[1774年|74年]] - ブラジルの[[リオデジャネイロ]]でコーヒーが栽培されたことが記録される
* [[1777年]] - [[プロイセン王]][[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]によるコーヒー禁止令<ref>ペンダーグラスト『コーヒーの歴史』、38頁</ref>
* [[1800年]]頃 - ドゥ・ベロワによるドリップ・ポッドの改良
* 1800年頃 - パリで[[パーコレータ]]が発明される<ref>UCC上島珈琲株式会社編『コーヒー読本』第2版、133頁</ref>
* [[1842年]] - [[コーヒーサイフォン]]の原型となるダブル・グラス・バルーンが発明される
* 1870年代 - セイロン島、東南アジアでさび病が流行し、コーヒー産業が大打撃を受ける<ref>小澤『コーヒーのグローバル・ヒストリー』、78頁</ref>
* [[1870年]]以降 - [[リベリカコーヒーノキ|リベリカ種]]の栽培が開始される
* [[1878年]] - 日本で初めてコーヒーの栽培が試みられる([[小笠原諸島]])
* [[1888年]] - 日本初の本格的なコーヒーを供する飲食店・可否茶館が開店する
* [[1898年]] - [[ベルギー]]領[[コンゴ]]で[[ロブスタコーヒーノキ|ロブスタ種]]が「発見」される
* 1900年代 - [[キリマンジャロ|キリマンジャロ山]]でコーヒーの栽培が開始される
* [[1901年]] - パンアメリカン博覧会に[[インスタントコーヒー]]が出展される
* [[1907年]] - [[ペーパードリップ]]の開発
* [[1938年]] - [[ネスカフェ]]の販売が開始される
* [[1958年]] - [[缶コーヒー]]が発明される


== 脚注 ==
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{reflist}}
<references group="注"/>

=== 出典 ===
<references/>


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* 阿部健一「コーヒー」『新版 東南アジアを知る事典』収録(平凡社, 2008年6月)
* [[臼井隆一郎]] 『コーヒーが廻り[[世界史]]が廻る ― 近代市民社会の黒い血液 ([[中公新書]])』 ([[中央公論社]]、[[1992年]](平成4年)[[10月]]) ISBN 4121010957
* [[マーク ペンダーグラスト]] ([[樋口幸子]] 訳) 『コーヒーの歴史 [[河出書房新社]]、[[2002]](平成14年)[[12]] ISBN 4309223966
* 伊藤博『コーヒー博物誌』(八坂書房, 200110月)
* 臼井隆一郎『コーヒーが廻り世界史が廻る』(中公新書, 中央公論社, 1992年10月)
* 奥山儀八郎『コーヒーの歴史』(紀伊国屋書店, 1965年)
* 小澤卓也『コーヒーのグローバル・ヒストリー』(ミネルヴァ書房, 2010年2月)
* 河野友美編『水・飲料』(新・食品事典11, 真珠書院, 1992年10月)
* 神戸山手大学環境文化研究所編『神戸カフェ物語 コーヒーをめぐる環境文化』(神戸新聞総合出版センター, 2003年12月)
* 鈴木董『トルコ』(世界の食文化, 農山漁村文化協会, 2003年10月)
* 全日本コーヒー商工組合連合会日本コーヒー史編集委員会編『日本コーヒー史』(全日本コーヒー商工組合連合会, 1980年3月)
* 田口護『田口護の珈琲大全』(日本放送出版協会, 2003年11月)
* 沼野充義、沼野恭子『ロシア』(世界の食文化19, 農山漁村文化協会, 2006年3月)
* 平井京之介「タイのコーヒー、ラオスのコーヒー」『嗜好品の文化人類学』収録(高田公理、栗田靖之、CDI編, 講談社選書メチエ, 講談社, 2004年4月)
* 南直人『ドイツ』(世界の食文化, 農山漁村文化協会, 2003年10月)
* UCC上島珈琲株式会社編『コーヒー読本』第2版(ミニ博物館, 東洋経済新報社, 1993年7月)
* マーク・ペンダーグラスト『コーヒーの歴史』(樋口幸子訳, 河出書房新社, 2002年12月)
* トム・スタンデージ『世界を変えた6つの飲み物』(新井崇嗣訳, インターシフト, 2007年3月)
* ベネット・アラン・ワインバーグ、ボニー.K.ビーラー『カフェイン大全』(別宮貞徳監訳, 真崎美恵子、亀田幸子、西谷清、岩淵行雄、高田学訳, 八坂書房, 2006年2月)
* アントニー・ワイルド『コーヒーの真実』(三角和代訳, 白揚社, 2007年5月)
* 『ケンブリッジ世界の食物史大百科事典』3(石毛直道他監訳, 朝倉書店, 2005年9月)


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[コーヒー]]
* [[プランテション]]
* [[カフェ]]
* [[モノルチャー]]
* [[インスタントコーヒー]]


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[[Category:コーヒー|*れきし]]
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2014年3月22日 (土) 10:58時点における版

コーヒー挽き(1905年)

コーヒーの歴史ではコーヒーノキの利用と栽培、およびコーヒー飲用の歴史について述べる。

コーヒー発見にまつわる伝説

コーヒーの起源にはいくつもの伝説があるが、その内容は3つに大別できる[1]

  • 9世紀のエチオピアで、ヤギ飼いの少年カルディ(en:Kaldi)が、ヤギが興奮して飛び跳ねることに気づいて修道僧に相談したところ、山腹の木に実る赤い実が原因と判り、その後修道院の夜業で眠気覚ましに利用されるようになった。
    • この話の原典とされるのは、レバノンのキリスト教徒ファウスト・ナイロニ(Faustus Nairon)の著書『コーヒー論:その特質と効用』(1671年)に登場する「眠りを知らない修道院」のエピソードだが、実際には時代も場所も判らないオリエントの伝承として記されていた[1][2]。この話がヨーロッパで紹介されると、コーヒーの流行に合わせて装飾が進み、舞台は原産地エチオピアに設定され、ヤギ飼いの少年にはKaldiというアラブ風の名が与えられた[1]
  • 13世紀のモカで、イスラム神秘主義修道者(スーフィー)のシェーク・オマル(Sheikh Umar)が、不祥事(王女に恋心を抱いた疑い)で街を追放されていた時に山中で鳥に導かれて赤い実を見つけ、許されて戻った後にその効用を広めた。
    • 原典は、アブドゥル・カーディル・アル=ジャジーリーの著書『コーヒーの合理性の擁護』(1587年)写本で、千夜一夜物語をヨーロッパに紹介したアントワーヌ・ガラン(Antoine Galland)の著書『コーヒーの起源と伝播』(1699年)によってヨーロッパに紹介された[1]。オマルの没後早い時期に書かれた歴史書にはオマルがコーヒーを発見した記述は存在せず[3]、東アフリカを原産地とするコーヒーノキがイエメンの山中に自生している点から信憑性には疑問が呈され、モカのコーヒー産業が発達した後に創造された逸話だと考えられている[4]
  • 15世紀のアデンで、イスラム律法学者のゲマレディン(ザブハーニー)が体調を崩した時、以前エチオピアを旅したときに知ったコーヒーの効用を確かめ、その後、眠気覚ましとして修道者たちに勧めた。さらに学者や職人、夜に旅する商人へと広まっていった。
    • シェーク・オマルの逸話と同じく『コーヒーの合理性の擁護』が原典だとされている[1]。ヨーロッパの人間の記録の中には、1454年にゲマレディンがコーヒーを認めるファトワー(法解釈)を出したとする伝承が紹介されている[5]。『コーヒーの合理性の擁護』では、ザブハーニーが飲用していた液体はコーヒーではなくカートだとする別の記録が紹介されている[6]。ウィリアム・H・ユーカーズ(William H.Ukers)の著書『オール・アバウト・コーヒー』(1935年)では、信憑性の高い伝承として取り上げられている[1][7]

飲用史

コーヒー豆の食用とアラビア半島への伝播

アル・ラーズィー

エチオピアでは高原地帯に自生するコーヒーノキの果実の種子が古くから食用にされ、現地の人間はボン(コーヒー豆)を煮て食べていたと考えられている[8]。エチオピアの奥地ではボンを煮て食べる習慣が長く残り[8]、エチオピア南西部の奥地に住むオロモ族の間には子供や家畜の誕生を祝ってコーヒーと大麦をバターで炒める「コーヒーつぶし」の儀式が残る[9]。また、エチオピアでは乾燥させたコーヒーの葉で淹れた「アメルタッサ」、炒ったコーヒーの葉で淹れた「カティ」という飲み物も愛飲されている[10]

古代ギリシャ古代ローマでコーヒーが食用にされていた、あるいは取引の対象になっていたことを示す確たる史料は無く、古代エチオピアに成立したアクスム王国でコーヒーの利用・取引が行われていたことを証明する発見はされていない[11]。17世紀初頭、イタリア人ペトロ・デッラ・ヴァッレによって、ホメロスの『オデュッセイア』に登場するネペンテスという飲み物がコーヒーに相当する説が唱えられたが、後の時代ではデッラ・ヴァッレの説は否定的に受け止められている[12]。他にも17-18世紀のヨーロッパでは、スパルタの人間はコーヒーを愛飲していた、『旧約聖書』にコーヒーに関する記述が存在する、といった説が持ち上がった[13]

やがてボンはアラビア半島に伝わり、アラビア語で「バン」と呼ばれるようになる[8]。コーヒー豆から抽出した飲料について、9世紀イラン哲学者であり医学者でもあったアル・ラーズィー(ラーゼス)が、自著でコーヒー豆を指す「バン」とその煮汁「バンカム」について記述している[8][14][15]。バンカムは乾燥させたバンを臼ですり潰して熱湯に入れて煮出した飲み物であり、コーヒーの原型と考えられているが、まだ豆は焙煎されていなかった[16]。バンカムの入れ方については、イスラーム世界の学者イブン・スィーナーも詳しい記述を残している[14][17][18]。しかし、ラーズィーとイブン・スィーナーによるバンカムの解説には、コーヒーに含まれるカフェインが神経系統に及ぼす影響について述べられてはいない[15]

イスラーム世界での普及と反発

バンカムはイスラーム世界の寺院で秘薬として飲まれ、当初は一般の人間が口にする機会は無かった[19]。バンカムはイスラム神秘主義(スーフィズム)の修道者(スーフィー)によって愛飲され、コーヒーの起源にまつわる3つの伝説にはいずれもスーフィーが関与している[20]。スーフィーたちは徹夜で行う瞑想祈りのときの眠気覚ましとしてバンカムを用い、宗教活動の中で飲用されるバンは彼らから神聖視された[21]。やがてバンカムは「カフワ(ワインの別名)」と呼ばれるようになる[22][23]。スーフィーたちは夜の礼拝の時にカフワを飲用し、マジュールというボウルにカフワを入れて仲間内で回し飲みをしていた[24]

13世紀に入ってコーヒー豆が炒られるようになると、香りと風味が付加された飲料は多くの人間に好まれるようになった[25]。豆が焙煎されるようになった経緯は不確かであるが、偶然起きた何らかの事故で豆が焼かれた時に出た芳香がきっかけになったと考えられている[26]。トルコ、イラン、エジプトでは、豆の焙煎に使われた1400年代の道具が発掘されている[27]。また、コーヒーの一般への普及に伴って、マジュールを製造していた陶工たちはコーヒーカップに相当する器の製造も手掛けるようになった[24]。イスラーム世界ではカフワに砂糖を入れることは無く、また牛乳を入れたカフワはハンセン病の原因になるという迷信が存在しており、カフワの調味には主にカルダモンが使われていた[28]。1600年ごろのカイロでコーヒーに砂糖が入れられ始められ、1660年ごろに中国に滞在していたオランダ大使ニイホフがコーヒーに牛乳を加える飲み方を始めたと言われている[29]。17世紀のカイロを訪れたヨーロッパ人ヴェスリンギウスはコーヒーの苦みを無くすために砂糖を入れる人間が現れていたことを記し、トルコでは「コーヒーは甘くなくてはならない」という格言が生まれた[30]

15世紀以後に「カフワ」はイエメンからイスラーム世界に広まる[23][22]。イエメンの古都ザビードでは、1450年ごろにスーフィーによってコーヒーが飲まれていたことを証拠づける考古学的資料が発掘されている[24]16世紀初頭には、カイロアズハル大学でもコーヒーが飲まれていた[23]。16世紀初頭のメッカメディナ、あるいはカイロモスクではコーヒーを飲みながら礼拝を行うスーフィーの姿が多く見られたが、同時にコーヒー飲用の宗教的な是非が大きな問題となった[31]1511年にはメッカで高官ハーイル・ベイ・ミマルによってコーヒー飲用の是非が諮られた後、メッカ内のコーヒー豆が焼かれ、コーヒーを売買した者や飲用した者は鞭打ちに処されるコーヒーの弾圧事件が起きる[32][33]。翌年にカイロから「コーヒーの飲用に随伴する反宗教的行為の取り締まり」のみを許可する通達が出され、ハーイル・ベイ・ミマルは職を解任された[34][35]

コーラン(クルアーン)では炭の食用が禁じられており、煎ったコーヒー豆が炭に酷似している点から、コーヒー弾圧が解かれた後も飲用に反対する声はなおも出続けた[36]。コーヒー弾圧の後もカイロやメッカではしばしばコーヒーの禁止令が出され、コーヒー店が襲撃される事件も起きる[37]。コーヒーの産地であるイエメンでは、コーヒーとカートに互いの正統性について論争をさせる文学が現れた[38]

トルコにおけるコーヒーの普及

トルココーヒー
トルココーヒーを淹れる道具

1517年、オスマン皇帝セリム1世によるエジプト遠征の際にコーヒーがオスマン帝国に伝わったと言われている[39][40]。アラビア語の「カフワ」がトルコ語に転訛して、トルコに入ったコーヒーは「カフヴェ」と呼ばれるようになった[41]。トルコに伝わったコーヒーは、炒って砕いた豆を泡立つように煮出して飲まれ、トルココーヒーの名前で知られるようになった[40]。オスマン帝国がコーヒーの産地であるイエメン、エチオピア沿岸部を支配下に収めるとコーヒーの普及はより進み、サファヴィー朝が統治するイラン、ムガル帝国が統治するインドにも伝播した[42]

1530年代にオスマン帝国の支配下に置かれていた北シリアのダマスカスアレッポにコーヒー店が開かれる[43]。1550年代にはイスタンブルにもコーヒーを供する店舗が開かれ[22][42][43][44][45][46]、皇帝セリム2世の時代(1566年 - 1574年)にはイスタンブル内の「コーヒーの店」は600軒を超えていた[42][45]。このような店舗はカフヴェハーネ(直訳するとカフヴェの家、すなわち「コーヒー・ハウス」)あるいは単にカフヴェと呼ばれ、庶民や知識人が集まって語り合ったり、詩などの文学作品の朗読会を行う社交の場として広まった[47]。しかし、地方のカフヴェハーネはならず者のたまり場となり、1570年に学者たちはイスタンブルのカフヴェハーネを非難した[48]。また、カフヴェハーネでは政治的な議論の場にもなり、時には権力者から弾圧を受けることもあった[49][50]1580年にコーヒーがワインと同種の飲み物であると公式に分類された後も、オスマン帝国内のコーヒーの消費は増え続ける[48]

オスマン皇帝アフメト1世の治世(1603年 - 1617年)に「コーヒー豆は炭になるほど強く火にかけられていない」という見解が出され、コーヒーはイスラーム世界で公的に認可された飲み物となる[51]。メッカにおいては、コーヒーはザムザムの泉の水と同じ効力のある「黒いザムザムの水」として飲まれ、巡礼者たちはコーヒー豆を故郷に持ち帰った[52]。また、オスマン帝国の貴族・高官の間には、コーヒーを供するにあたって厳格な作法が成立していた。

オスマン帝国を訪れたヨーロッパの商人たちはコーヒーを好奇の目で見、旅行記などで故郷の人間にコーヒーの存在を伝えた[53]。ヨーロッパ世界でもコーヒーハウスが建つようになるとコーヒーの需要は増加するが、供給源はイエメンに限られていた[54]。ヨーロッパの商人に対抗できる商品を探していたカイロのイスラーム商人たちはイエメンのコーヒーに着目し、コーヒー交易を独占した[55]

トルコ革命を経て成立したトルコ共和国ではコーヒーは生産されておらず、消費量も少ない[56]。だが、がトルコの主要な飲み物となった後も、トルコでは茶はあくまでも略式の飲み物であり、コーヒーが正式な場で出される飲み物だととらえられている[57]。かつてオスマン帝国の支配下に置かれていたバルカン半島でも、セルビア風の煮出しコーヒーとともにトルココーヒーが飲まれている[58]

ヨーロッパ世界とコーヒーの出会い

教皇クレメンス8世

17世紀初頭のヨーロッパではコーヒーはまだ珍奇な飲料であり、植物学者や医学者以外の人間にはほとんど知られていなかった[59]1596年にフランスの医師・植物学者のカロルス・クルシウスが、イタリアの植物学者ベッルスからコーヒー豆と豆の調理法に言及した書簡を送られた記録が残る[60]

「キリスト教徒の聖なる飲み物であるワインをイスラム教徒は飲めないため、悪魔からコーヒーを与えられる罰を受けている」として、「悪魔の飲み物」にあたるコーヒーの飲用に反対する人間もおり、ローマ教皇はコーヒーに対する教会の見解を出すように求められた[59][61]1600年頃に当時のローマ教皇クレメンス8世はコーヒーを裁判にかけるべく、自ら味見をした[61][62]。クレメンス8世はこの時にコーヒーの香りと味に魅了されたと言われ[2][63][64][65]、クレメンス8世は悪魔の飲み物であるコーヒーに洗礼を施してキリスト教徒がコーヒーを飲用することを公認した[2][61]。研究者の中には、クレメンス8世は彼が裁判の前からコーヒーを愛飲しており、自身の経験からコーヒー飲用の禁止の徹底が困難であると考えて公認したと推測する意見もある[66]

17世紀前半、地中海貿易において主導的な役割を果たしていたヴェネツィアの商人を介してコーヒーはヨーロッパ各地に広まっていく[40]。17世紀のヨーロッパ社会において、コーヒーはアルコール度数の低いビールやワインに代わる、衛生的な飲料として受け入れられた[67]。また、コーヒーがもたらす覚醒作用も好意的に捉えられ、コーヒーはアルコール飲料と逆の性質のものと見なされるようになった[68]。時にコーヒーは万能薬のように紹介され、イスラーム世界の「コーヒーと牛乳を一緒に飲むとハンセン病の原因になる」迷信も伝えられた[69]。17世紀末からヨーロッパでは、コーヒーの淹れ方を教授する書籍が盛んに出版される[70]

ヨーロッパでの普及

「ロンドンの家庭の主婦」によるコーヒー・ハウスへの抗議文
カフェ・プロコープ
ウィーンのコルシツキー像

イギリスでは1650年[71][40][72][73]/51年[74]オックスフォードコーヒー・ハウスが営業を始め、1652年には初めてロンドンにコーヒー・ハウスが開業した[73][75][76][77][78]。最初はイギリスの人間にとってもコーヒーは馴染みのない飲み物であり、コーヒー・ハウスの近隣の住民が、コーヒーの「悪魔の匂い」の対処を訴え出た記録が残っている[79]

初期の反発にもかかわらずコーヒー・ハウスは順調に数を増やしていき、1666年に起きた大火で多くのコーヒーハウスが焼失したものの、17世紀末には数100軒[80]から3,000軒にのぼる[81][注 1]コーヒーハウスが存在していた。コーヒーハウスの拡大を受けて、1674年に夫がコーヒーハウスに入り浸っていることを非難し、コーヒーが性的不能の原因となることを主張する、「ロンドンの家庭の主婦」による声明文が発表される[82][83][84][注 2]。そして、コーヒーの有害性を非難する「ロンドンの家庭の主婦」に対して、男性たちのコーヒーへの弁護も公開された[85]。コーヒー・ハウスはロンドンにおける社交・商取引の場として多くの客に利用されたが、18世紀半ばからロンドンのコーヒー・ハウスの数は減少していく[86]。コーヒー・ハウスに代わる社交場として、クラブ、ティーハウスが台頭し、イギリスの家庭には紅茶が定着する[87]

フランスでは、1669年にオスマン皇帝メフメト4世によって派遣された使節スレイマン・アガ(ソリマン・アガ)がルイ14世にコーヒーを献上したことをきっかけに上流階級にコーヒーが広まった[88][89][90][91]1671年マルセイユにフランス最初のコーヒー・ハウスが開業した時、ワイン商たちから強い反発を受けた[92]。ワイン商の要求を受けた医師がコーヒーが健康に及ぼす悪影響を主張したにもかかわらず、コーヒーはフランスで人気を得ていった[92]1672年にアルメニア人商人パスカルによってパリ最初のコーヒー・ハウスが開かれ、エスファハーン出身のイラン人グレゴワールは劇場に集まる俳優や批評家を対象としたコーヒー・ハウスを開いて成功を収める[93]1686年にはカフェ・プロコープが開店し、文人や政治家などの多くの人間が議論を交わした。また、かつてのフランスではコーヒーが心身に悪影響を及ぼすという迷信が広く知られており、「コーヒーの毒性」を消すためにコーヒーに牛乳を入れるカフェ・オ・レが考案された[94]

アインシュペナーウィンナ・コーヒー)などのコーヒーの飲み方が考案されたオーストリアには、オスマン帝国との戦争にまつわるコーヒー、コーヒー・ハウス伝播の逸話が存在している。先にフランスに使節を派遣したメフメト4世は1683年第二次ウィーン包囲を行うが、失敗に終わる。第二次ウィーン包囲でヨーロッパ諸国のスパイとして活躍したフランツ・ゲオルグ・コルシツキー英語版が、オスマン軍が放棄した物資の中から発見されたコーヒー豆を手に入れ、戦後ウィーンに初めてコーヒー・ハウスを開いたのがオーストリアにおけるコーヒーの始まりだと言われている[95][96][97][98][99]。しかし、ヨーロッパ側が獲得した戦利品にコーヒーが含まれていないなどの理由によって[100]、逸話の信憑性は疑問視されている[97][101]。ウィーン包囲から20年近く前の1665年にウィーン駐在のオスマン大使カラ・マフムト・パシャによって町にコーヒーが紹介され、1666年にカラ・マフムトが帰国した後にコーヒーが販売されるようになった事が記録に残されている[102]。そして、1683年のウィーン包囲より前に町にはすでに2つのコーヒー・ハウスが存在していたと考えられるようになった[103]

ドイツには1670年ごろにコーヒーが伝わり、当初は上流階級に贅沢品として愛飲されていた[104][105]1679年/80年ごろにハンブルク1721年ベルリンにコーヒー・ハウスが開業、18世紀後半にはビールに代わる飲み物として一般家庭に普及した[106]ライプツィヒではコーヒーが大流行し、町で最初のコーヒー・ハウス「カフェー・ボーム」にはザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世も訪れたと言われている[107]

1760年代から1780年代にかけて、身分秩序の維持とコーヒー輸入の抑制を目的として、庶民を対象としたコーヒー禁止令がドイツ各地で施行された[108]プロイセン王フリードリヒ2世は国内の経済を脅かすコーヒーの消費の抑制を試み、王立の企業にコーヒーの製造を独占させた[82][109][110]1766年にプロイセンへのコーヒー輸入は統制を受け、1777年にフリードリヒ2世はコーヒーの禁止を布告した[111]。ドイツの庶民の間では、本物のコーヒーの代わりにチコリ大麦などの他の作物を加工した代用コーヒー(Muckefuck)が飲まれることが多く、「ドイツのコーヒー」といえば長らく代用コーヒーを指す時代が続いた[112]。庶民は高い値が付いた本物のコーヒーを飲むときには、少量のコーヒーを多量の湯で割って飲んだ[113]。また、プロイセンでは供給が絶たれたコーヒーの密輸が横行し、コーヒーへの関心はより高まった[114]1786年に王立企業のコーヒー産業の独占は廃止され、フリードリヒ2世の死後に規制は解除された[114]。チコリを使った代用コーヒーはナポレオン大陸封鎖令によってコーヒーの供給が途絶えたフランスでも飲まれ、ナポレオンの失脚後もチコリの代用コーヒーは飲まれている[115]

17世紀から18世紀初頭にかけての間に、ヴェネツィアにもコーヒー店が誕生する。ヴェネツィア共和国末期には多くのカフェが営業し、さまざまな階層の人間が集まる社交の場となった。ヴェネツィアでも2度にわたるカフェ撲滅運動が展開されたが、市民の抵抗によってカフェは生き残る[116]

17世紀末には、ロシアでもコーヒーが知られるようになった[117]。イギリス人医師サミュエル・コリンズは、モスクワ大公アレクセイ・ミハイロヴィチにコーヒーを薬として処方した。ピョートル1世は社交界にコーヒーを普及させようと試み、彼以降の皇帝もコーヒーを愛飲していた[117]。しかし、茶がロシアの国民的飲料となったのに対して、コーヒーは貴族、インテリ、芸術家が好む飲み物にとどまっていた[117]スカンディナヴィア半島には18世紀までコーヒー、茶といったカフェイン飲料は普及していなかったが、1746年スウェーデンでコーヒーと茶の過度の飲用を批判する声明が出される[118]。スウェーデンでは1820年代初頭までコーヒー禁止令が数度出されたが、スウェーデン政府がコーヒーの飲用を認めて以降、スウェーデンは世界でも上位のコーヒー消費国となる[119]

アメリカ合衆国での普及

北アメリカには1640年ごろにオランダによって、あるいは1670年ごろにイギリスによってコーヒーが持ち込まれたと考えられている[104]

初期のアメリカでは民衆の飲み物は紅茶であり、コーヒーは贅沢品でしかなかった[120]1683年ごろにニューヨークはコーヒー豆の国際的な取引場となり、イギリスと同様にニューヨーク、ボストンでも続々とコーヒー・ハウスが開店する[121]。アメリカ独立の機運が高まる中で起きたボストン茶会事件は、アメリカ国民の茶への関心を薄れさせるきっかけとなる[120][122][123]1812年から1814年にかけての米英戦争で紅茶の供給量が減少し、コーヒーへの関心が高まった[124]。独立後のアメリカにはハイチマルティニーク島、ブラジルから多量のコーヒーが流入したために価格が下落し、次第にコーヒーが茶に取って代わっていった[125]。また、コーヒーにかけられる関税は低く、1832年に関税が廃止されたこともコーヒーの普及の一因となった[126]1783年のアメリカ合衆国民1人あたりのコーヒーの年間消費量は約25gに過ぎなかったが、1830年代までに年2.3kg以上のコーヒーを消費するようになった[120]。しかし、1830年代の時点ではまだコーヒーは贅沢な嗜好品であり、一般の人間に日常的に飲用されるまでには至っていなかった[127]

輸送手段と包装技術が発達していなかった時代、シンシナティオマハで荷揚げされた豆の品質は悪かった[126]。劣化した豆で淹れたコーヒーにはサビ、インディゴ、牛の血などが着色料として添加され、風味を補うために豆と一緒にシナモン、チョウジココア、タマネギが焙煎された[128]。19世紀初頭の北アメリカでは、コーヒーは煮出した苦いコーヒーに牛乳と砂糖を入れて飲まれ、カップに浮かぶ豆の滓を沈めるために卵、ウナギの皮などが混ぜられる場合もあった[129]。やがて鉄道の発達、蒸気船の導入によって、鮮度を保ったまま豆を輸送することができるようになる[128]。1870年代にラテンアメリカからの大量のコーヒーが世界中に出荷され、輸送・焙煎・包装の技術革新によってコストが削減されるとコーヒーの市場価格は下がり、コーヒーの大衆化が進んだ[130]

1920年から禁酒法が施行された時には、酒の代用品としてコーヒーの需要が高まった[131]

器具の発明と改良

第一次世界大戦期にジョージ・ワシントン社が出したインスタントコーヒーの広告

ヨーロッパに広まったコーヒーは多くの人に飲まれるようになるにつれ、イブリクというポット状の容器に入れて煮出すトルココーヒー式の淹れ方から、大型の水差し型の容器に豆を入れて煮出すようになる[40]。やがて煮出したコーヒーに混ざる豆の滓を取り除くために、粉末にした豆を麻の袋に入れて煮出す方法が考案され、袋が次第に短くされて布ドリップに発展した[104]1763年にフランスのドン・マルティンによってネル付きのドリップ・ポットが発明され、1800年頃にドゥ・ベロワが改良したポットは、後世のドリップポットの原型になった[132]1908年にはドイツのメリタ・ベンツ夫人によって使い捨てのペーパードリップが発明され、ペーパードリップは大成功を収める[133]

濾過式のコーヒー器具の発達とは別に、19世紀初頭にトルココーヒーのポットを参考にした浸潰法の器具が発明され、1842年にフランスでコーヒーサイフォンの原型となる器具が発明される[134]。水蒸気を応用したエスプレッソ方式はイタリアで改良が進められ、フランス、ドイツなどにも伝えられる[135]。各地に広まったエスプレッソコーヒーは、それぞれの土地で独自の淹れ方が追求された。

フランスではコーヒーの風味を追及してパーコレータなどの新型のコーヒーポットが開発され、アメリカでは大量生産に重点を置いた焙煎機・包装技術の改良が試みられる[128]1864年にジェイベズ・バーンズによって、自動的に豆の中身が取り出されるように改良された焙煎機が開発された[136]。従来はコーヒーの消費者はそれぞれの家庭で買った豆を焙煎していたが、1865年頃にピッツバーグで初めて焙煎済みの豆が販売される[137][138]。消費者に焙煎済みの豆を売り出す発想はすぐに広がり、製品の供給のために大型の焙煎機が発明された[137]。コーヒーの鮮度を保つ包装方法としては真空パックバルブなどがあり、風味の劣化の原因となる豆の酸化を抑えるための工夫がされている[139]

1901年には、ニューヨーク州バッファローで開催されたパンアメリカン博覧会で、日本人科学者の加藤サトリによって世界最初とされるインスタントコーヒー(水に溶けるコーヒーという意味で「ソリュブル・コーヒー 英語: soluble coffee」と名付けられた)が出展される[140][141][142][143]。ソリュブル・コーヒーはツィーグラーの北極探検隊によって買い取られたが[144]、インスタントコーヒーは当時の消費者の関心を惹きつけるには至らなかった[143]。インスタントコーヒーは第一次世界大戦第二次世界大戦中のアメリカ軍兵士に歓迎され、第二次世界大戦後に世界中に広まっていった[145]。1960年代までに手間を要さないインスタントコーヒーの消費量は増加していき、家庭調理用コーヒーの約3分の1を占めるまでになった[146]ソビエト連邦時代のロシアではトルコ風の煮出しコーヒーが飲まれ、ドリップやフィルターはあまり普及しなかった[117]。良質なコーヒーの入手が困難なこともあり、ロシアでは「泥臭い」コーヒーよりも輸入品のインスタントコーヒーが好まれていた[117]

一方、世界規模でのコーヒーの普及に伴い、コーヒーに含まれるカフェインの作用と有害性への批判が高まった[147]。20世紀初頭のドイツでは、コーヒーからカフェインを取り除く技術が発明される[148]。脱カフェインを謳った代用コーヒーが多く発明され、その1つとしてポスタム英語版が知られている[149]

日本での広がり

缶コーヒー

日本には18世紀に長崎出島にオランダ人が持ち込んだといわれている[104][150]。出島に出入りしていた一部の日本人がコーヒーを飲用していたと考えられ、出島に出入りすることが許されていた丸山遊郭遊女の中にはオランダ人からコーヒーを贈られた者もいた[151][152]。コーヒーについて言及された日本最古の本の1つと考えられている志筑忠雄の『万国管窺』にはわずかながらも記述が存在し[153]天明年間(1781年 - 1788年)に日本語に訳された『紅毛本草』には「古闘比以」という名でコーヒーの詳細な説明がされている[154][155][注 3]。江戸幕府が敷いていた鎖国政策のため民衆にコーヒーが行き渡らず、また風味が日本人の嗜好に合わなかったため、伝来から普及までに長い時間を要した[154]1804年にコーヒーを飲んだ大田南畝(大田蜀山人)は、「焦げくさくして味ふるに堪ず」という感想を残した[156][157]。ヨーロッパ文化に関心を抱く蘭学者や医家はコーヒーを飲んだ感想を記し、大黒屋光太夫などの国外に漂流した者も漂着先でコーヒーを飲用した[158]

1856年から、日本でコーヒーの輸入が開始される。輸入が開始された1856年ごろには、蝦夷地に駐屯する幕臣に「寒気を防ぎ、湿邪を払う」ためにコーヒー豆が支給された記録が残る[159][160]1864年横浜に設けられた外国人居留地の西洋人を対象としたコーヒー・ハウスが開店した[161]。欧風の食文化が日本で紹介されるとコーヒーも飲まれるようになり、1868年明治元年)にコーヒー豆が正式に輸入されるようになった[154]。翌1869年に横浜で萬国新聞を発行していた外国人エドワルズが日本初のコーヒーの宣伝広告を打ち出し、1875年には泉水新兵衛による日本人初のコーヒーの販売広告が読売新聞紙上に出された[162]1872年に出版された日本で最初の西洋料理解説書『西洋料理指南』では「カフヒー」の名で飲み方、淹れ方が紹介されている[163]

しかし、明治初期にコーヒーを飲用していたのは上流階級の一部に限られ、一般層にも普及したのは明治末期から大正初期にかけての時期になってからである[154]。コーヒーは牛乳の臭みを消す香料としても使用され、後にはコーヒー牛乳が考案される[164]1899年に加藤サトリが真空乾燥法によるインスタントコーヒーの製造に成功するが、当時の日本に販路は存在しておらず、アメリカに渡って1901年のパンアメリカン博覧会で発明品を公開する[140]

日本で最初の本格的なコーヒー店は、1888年4月上野に開かれた可否茶館(かひいちゃかん)だとされている[154][165][166][167]。ほか、1876年下岡蓮杖浅草で開いたコーヒー茶館[161][168]1878年12月26日の読売新聞に新聞広告を掲載した神戸元町放香堂1874年創業)[168][169][注 4]1886年日本橋で開業した洗愁亭[154][168]が、可否茶館より前に存在していたコーヒー店として挙げられることもある。

ブラジル移民政策を推進した実業家・水野龍は、ブラジル政府から功績を顕彰されて5年間のコーヒー豆の無償給付を受け、1913年に日本にカフェーパウリスタを設立する[170]。1913年から1917年までの間に年7,500俵、1918年から1922年までの間に年2,500俵のコーヒーが無償で供給されたが、1923年にブラジルの政変によって無料供給は断絶し、同年の関東大震災によってカフェーパウリスタの経営は大打撃を受けた[171]。だが、安価なコーヒーを提供したカフェ・パウリスタは大衆間へのコーヒーの普及を推進し、日本各地に店舗を持つカフェ・パウリスタの成功は地方都市のコーヒー市場を活性化させた[172][173]。コーヒー店とミルクホールによってコーヒーは一般の人間にも広く飲まれるようになり、1937年/38年ごろまでコーヒーの黄金期が続いた[174][175]。しかし、昭和初期の日本では、コーヒーは飲食店で飲まれるだけにとどまっており、まだ一般家庭の食卓に普及していなかった[176]第二次世界大戦の開戦により、コーヒーの輸入量は激減する[177][178]。[[[1950年]]に輸入が再開されるまでの間、一般家庭では大豆ユリの根などを調理した代用コーヒーが飲まれていた[179]

1960年に日本でもインスタントコーヒーが発売され、インスタントコーヒーは家庭でのコーヒーの消費を推進した[176]。1958年には外山食品から世界初とされる缶コーヒー「ダイヤモンド缶入りコーヒー」が発売されるが、缶コーヒーの売れ行きは上がらなかった[180]上島珈琲本社1970年大阪万博をきっかけに缶コーヒーの売り上げを伸ばしていった[180]

アジアでの普及

ベトナムコーヒーを淹れるポット

韓国では、第二次世界大戦後にアメリカの影響を受けてコーヒーが普及した[181]

東南アジアでは、コーヒーは主に輸出用の作物としてヨーロッパ諸国から導入され、植民地が消滅した後には現地の人間の日常生活の中で飲まれるようになった[182]。フランスはベトナムラオスでコーヒー栽培を開始し、独立後も両国にコーヒーを飲用する習慣が残った。ベトナムでは深煎りの細かく砕かれた豆でコーヒーが淹れられており、アルミ製のフィルターで濾して飲まれている[182]。練乳を入れたカップの上にフィルターを置いて湯と挽いた豆を注ぎ、コーヒーと練乳をかき混ぜて飲むベトナムのスタイルは、ベトナムコーヒーとして知られている[183]。ラオスではネルドリップによって淹れたコーヒーに練乳が加えられて飲まれ、甘口のコーヒーは「カフェ・ラーオ(ラオスのコーヒー)」と呼ばれている[184]。17世紀以来オランダが多くのコーヒー・プランテーションを設置したジャワ島では、多量の砂糖やコンデンスミルクが入れられたコーヒーが農民のエネルギー源になっている[182]

列強諸国の植民地とならなかったタイではコーヒー栽培は行われず、苦いものが敬遠される傾向もあってコーヒーを飲む習慣は存在していなかった[184]。20世紀末からタイでもコーヒーの飲用が広まり、砂糖と粉末ミルクを加えて甘くしたアイスコーヒーが好まれている[184]

栽培史

1692年のモカ港の光景

最初に栽培されたコーヒーノキは、エチオピア高原が原産のアラビカ種である[185]。アラビカ種発祥の地であるエチオピア、ケニア、タンザニア、マダガスカルなどにはコーヒーノキの自然林が繁茂している[186]。品種改良を重ねられて生まれた多くの種の中で、最もオリジナルの品種に近いと考えられているものは、ティピカ種とブルボン種のコーヒーである[187]

16世紀以前にコーヒーの栽培が行われていたことを証明する、考古学的資料は確認されていない[9]。16世紀にオスマン帝国でコーヒーが普及するとイエメンの山岳地帯でコーヒーが栽培されるようになるが、コーヒーがエチオピアからイエメンに渡った経緯については不明確である[188]。イエメンに導入されたコーヒーノキの原産地はエチオピアのカッファ英語版、あるいはハラール近郊だと考えられている[189]。「コーヒー」の語源について、「カッファ」の地名が転訛したものとする説が存在する[190][191]

17世紀に入り、ヨーロッパ各国にコーヒーが普及し始めると、イギリス・フランス・オランダの東インド会社がこぞって、イエメンからの輸入取引を始める。コーヒーの積み出しが行われたイエメンの小さな港の「モカ」がコーヒーブランド、モカコーヒーにもなった[192]。コーヒー貿易を独占するため、モカから出荷される豆には加熱して発芽力を無くす加工が施され[174][193][194][195]、豆の密輸を企てた商人には罰金刑が科された[195]

17世紀頃にインドのイスラム教徒ババ・ブダンによってマイソールにコーヒーの生豆が持ち出されて栽培されたと言われているが[193][196][197]、ババ・ブダンにまつわる逸話の信憑性には疑問が呈されている[196][198]。生産量が少なく高価なモカコーヒーはヨーロッパの植民地で生産された安価なコーヒーに駆逐されるが、東アフリカで生産されてイエメンのアデンから出荷されたドイツのコーヒーは「モカ」のブランドを冠して売られた[199]

ヨーロッパ各国によるコーヒー栽培の開始

コーヒーを移送するドゥ・クリュー
レユニオン島のコーヒー・プランテーション

17世紀、ヨーロッパの商人たちはエジプトで購入したコーヒー豆をヨーロッパで転売して多額の利益を得ていた[200]。その中で、オランダの商人は自分たちで栽培した豆を売って利益を得ようと考え[201]1658年オランダ東インド会社スラウェシ島[202]、セイロン島へコーヒーの苗木を持ち込んで栽培を試みた[203][204]。さらに1680年にオランダの植民地であるジャワ島にモカから取り寄せられたコーヒーノキの苗木が植えられ[205]、1690年代にバタヴィア(ジャカルタ)にプランテーションが設置された[206]1711年/12年にヨーロッパに初めてジャワコーヒーがもたらされる[205][207]

1731年にオランダは一時的に停止していたセイロン島でのコーヒー栽培を再開するが、1880年頃にセイロン島のコーヒーはさび病で壊滅し、島では茶の栽培が始められた[204]。ジャワ島のコーヒーもさび病気で壊滅し、従来植えられていたアラビカ種に代えてロブスタ種が栽培されるようになる[182][208]スマトラ島、スラウェシ島に残ったアラビカ種のコーヒーは、それぞれマンデリン、トラジャとして知られている。また、アチェバリ島ティモール島も良質なコーヒーの産地となっている[182]

1714年にジャワのコーヒーノキがフランスに寄贈され、王立植物園の温室に植えられる。1723年西インド諸島マルティニーク島の軍人ガブリエル・マテュー・ドゥ・クリュー|en|Gabriel DeClieu}}の嘆願により、パリのコーヒーノキの1本がマルティニーク島に移植されることになる[206][209]。コーヒーノキはガラスケースに入れられて慎重に移送され、海賊の襲撃や暴風雨、凪などの危機に遭いながら、コーヒーノキは無事にマルティニーク島に辿り着いた[210][211][212]1730年に西インド産のコーヒーがフランスに輸出され、余剰分は地中海東部に出荷された[213]。ヨーロッパ・アラブ世界に逆輸入された西インド産の安価なコーヒーは、高価なイエメン産のコーヒーに取って代わる[214]

インド洋に浮かぶフランス領のブルボン島(レユニオン島)は、ブルボン種(ボルボン種)のコーヒーで知られている。レユニオン島では1711年に島に自生するコーヒーノキ(マロン・コーヒー)が発見されたが島に自生するコーヒーは苦味が強く、2年ごとにしか収穫できないため、マロン・コーヒーと並行してモカから輸入された苗木が栽培された[215]

モカからもたらされた苗木はイエメンで栽培されていた木の突然変異種と考えられており、1715年から栽培が開始された[216]。島で生産されたブルボン種のコーヒーは南アメリカにも伝播し[217]、しかし、イギリス東インド会社が出荷するコーヒー、ヨーロッパに近い位置にあるフランス領西インド諸島で生産されたコーヒーに押し出されていく[218]

1805年サイクロンで島のコーヒー・プランテーションは壊滅し、1810年にルロイ種が島に持ち込まれた。

ブラジルでのコーヒー栽培

コーヒー農園で使役される奴隷(1885年)
ブラジルのコーヒー・プランテーションと農民

ドゥ・クリューが持ち込んだコーヒーノキの子孫はマルティニーク島からラテンアメリカ各地に広がり、スリナムハイチキューバコスタリカベネズエラでもコーヒーの栽培が始められた[219]。中でもハイチは18世紀後半までコーヒーの一大産地となっていたが、18世紀後半から19世紀初頭にかけてのハイチ革命を経て、ハイチでのコーヒーの産出量は激減した[220]1732年にマルティニーク島からイギリス領のジャマイカに移植され、「ブルーマウンテン」の起源となった[186]

低価格のアラビカ種のコーヒーが多量に生産されるブラジルは、国際社会におけるコーヒーの流通や価格設定に強い影響力を有している[221]。ブラジルのコーヒー伝播にまつわる有名な伝承として、1727年にフランス領ギアナとオランダ領ギアナの間に起きた紛争の仲裁のために派遣されたブラジルの使節パレータ(Francisco de Melo Palheta)が、恋仲に落ちたフランス代理総督夫人からコーヒーの種を託されたという逸話が知られている[222][223][224]<ref">ワイルド『コーヒーの真実』、181-182頁</ref>。1773年[225]/74年[226]フランシスコ会の修道士によって、リオデジャネイロの聖アントニオス修道院の庭に種子が植えられた記録が残る。

フランス皇帝ナポレオン大陸封鎖令を経験したヨーロッパで砂糖の自給が可能になった後、ブラジルは砂糖に代わる輸出品としてコーヒーに着目した[226][227]。ブラジル皇帝ペドロ1世は国内の農業を振興し、1818年サントスから出荷されたブラジル産のコーヒーがヨーロッパに向けて輸出された[228]ペドロ2世の即位後にリオデジャネイロ州でコーヒー栽培が本格的に行われるようになり、コーヒー栽培はミナスジェライス州サンパウロ州にも拡大した[229]。1870年代にブラジルのコーヒー栽培の中心地はリオデジャネイロ州から、ミナスジェライス州とサンパウロ州に移る[230]。大規模なプランテーションと奴隷制度に基盤を置いた栽培によって、ブラジルは19世紀のコーヒー市場を席巻する[231][232]1888年にブラジルで奴隷制度が廃止された後、賃金の安価なヨーロッパ系移民がコーヒー産業に従事した[233][234][235]。旧来の大土地所有者から転身したコーヒー農園主をはじめとする支配者層の主導でブラジルのコーヒー産業は拡大していくが、彼らが農園で実施した焼畑農業は大規模な環境破壊を引き起こした[236]

20世紀初頭からブラジルではコーヒーが過剰に生産される状態が慢性的に続き、州知事たちは価格の暴落の阻止に苦慮する[237]。生産量の増加に伴うコーヒーの低価格化に際して、1902年にブラジルをはじめとするラテンアメリカのコーヒー生産国はニューヨークに代表者を派遣し、初めて「コーヒーの生産と消費を考える国際会議(国際コーヒー会議)」を開催した[238]第一次世界大戦直前のブラジルでは、国内生産の約90%をコーヒーが占め、その多くがアメリカに輸出された[235]。第一次世界大戦中、アメリカとフランスは余ったコーヒーの買い取りを条件にブラジルに連合国側への参戦を要請し、余ったコーヒーが売却された。1920年にアメリカで禁酒法が施行された際にアメリカはラテンアメリカ各国からコーヒーを大量に輸入し、ブラジルに「コーヒー・バブル」が到来する[131]。しかし、1929年にコーヒー消費国を襲った世界恐慌によって、ブラジルのコーヒー・バブルは崩壊する[239]。コーヒーの価格は50%以上下落し、コーヒー栽培に従事する労働者の賃金も50-60%削減されて大量の失業者が現れる[239]。余ったコーヒーは海上に投棄・焼却され、約47,000,000袋のコーヒーが破棄された[239]1930年にブラジル政府はネスレに過剰に生産されたコーヒーの引き取りを依頼し、1938年スイス、翌1939年にアメリカ合衆国でネスカフェの販売が開始される[240]

ラテンアメリカでの展開

コロンビア・コーヒーのイメージキャラクターであるフアン・バルデス

ブラジルを除くラテンアメリカ各国では、小規模生産によるコーヒーの栽培が行われる[241]

1821年に独立したコスタリカは経済的自立を達成するためコーヒー栽培に力を入れ、サンホセでは住民に土地と苗木を配布してコーヒー栽培が推奨された[242]。コスタリカのコーヒー農園では労働者の自給用の食糧も栽培されており、コスタリカのコーヒー栽培はブラジルなどのコーヒー生産国に見られるモノカルチャーとは異なる傾向を見せている点に特徴がある[243]。コスタリカは低価格のコーヒーを輸出するブラジルとの競争を避けて高品質のコーヒーの生産に特化し、コスタリカで生産されたコーヒーはヨーロッパで人気を得る[244]。1920年代からアメリカへのコスタリカ・コーヒーの輸出量は増加、第二次世界大戦後のコスタリカ・コーヒーはアメリカを主要な市場とし、なおコスタリカのコーヒーの品質は高い評価を受けている[245]

コロンビアには、18世紀末から19世紀初頭にかけての期間にコーヒーが伝わった[246]。19世紀半ばのコロンビアでは内陸部のサンタンデール地域でコーヒー栽培が行われていたが、コーヒー産業はブラジル、コスタリカに後れを取っていた[247]。1870年代に世界規模のコーヒー需要の高まりが起きると、サンタンデル、クンディナマルカ県アンティオキア県でコーヒー栽培が活発化する[248]。コロンビアではコスタリカよりも品質が高いコーヒーを大量に生産することが目標とされ、1870年代から1910年代にかけて、コロンビアにも周辺国より遅れてのコーヒー産業の拡大期が訪れた[249]。コスタリカと同様にコロンビアのコーヒー農園ではコーヒー以外の作物も栽培され、それらは労働者の食糧や売買に充てられた[250]。20世紀初頭にはコロンビアのコーヒーの品質は国際市場で高い評価を受けるようになり[251]、コーヒー産業は輸出産業として確立された[246]。コロンビアでは品種改良が盛んに行われ、直射日光に強い耐性を持つ「コロンビア」などの新品種が開発されている[252]

グアテマラではラファエル・カレーラによって、コチニールに代わる商品としてコーヒーの栽培が開始された。グアテマラでのコーヒー栽培では先住民であるインディオが酷使され、反乱、農地からの逃亡が頻発した[253]。19世紀末にグアテマラに増加したドイツ系移民は大規模なコーヒー農園を開き、彼らによって近代的な技術がもたらされる[254]

太平洋世界での栽培

1817年にスペイン人によってカウアイ島のハナレイにコーヒーが移植されたのが、ハワイにおけるコーヒー栽培の始まりとされている[255]1825年マノアで本格的なコーヒー栽培が開始され[256]1828年にはコナでもコーヒーの栽培が始められる(コナコーヒー[186]。天災、病虫害、糖業への転換によってコーヒー農園は減少していき、コーヒー栽培に最も適したコナに農園が集中するようになる[256]。当初は現地人がコーヒー栽培に従事していたが、次第に移民がコーヒー栽培に携わるようになり、1910年ごろには日系移民がコーヒー栽培の中心となる[256]

ロブスタ種とリベリカ種

ウガンダに居住するブガンダ族には血盟の儀式の際にロブスタ種(カネフォラ種)のコーヒー豆を噛む習慣があり、1862年にウガンダに入り込んだ探検者がロブスタ種のコーヒーを発見する[257]1898年ベルギーコンゴでロブスタ種が再発見された後、ロブスタ種の栽培が始められた[258]。当初風味の悪さからロブスタ種は市場で敬遠されていたが、価格を武器にして世界中に広まっていく[259]

第一次世界大戦中にオランダでロブスタ種が流行し、1920年ごろにはジャワ島で生産されるコーヒーの約80%がロブスタ種で占められるようになる[260]。オランダのロブスタ種の流行に続き、インド、セイロン島、アフリカでもロブスタ種の生産が始められるようになった[261]。1956年には世界で取引されるコーヒーの22%をロブスタ種が占めるようになり、これまでロブスタ種を忌避していたニューヨーク・コーヒー取引所も1960年にロブスタ種を公認した[262]。ロブスタ種の一大生産地であるベトナムでの生産量の増加によって、2000年-2001年には世界で流通するコーヒーの約40%がロブスタ種となる[263]

ほか、1870年以降はリベリア原産のリベリカ種が栽培されている[264]。リベリカ種は気候への順応力は高いが病気に弱く、栽培される地域はリベリア、スリナムコートジボワールなど一部の国に留まり、出荷される地域も限られている[265]。1870年代にさび病が流行した時にアラビカ種に代わる品種としてリベリカ種に注目が集まったが、さび病に弱く生産性も低いため、普及には至らなかった[266]

20世紀以降

ベトナムのコーヒー・プランテーション

1900年代にキリマンジャロ山ボーア人、イタリア人、イギリス人、ドイツ人がコーヒーの栽培を始めるべく定住し、1909年にはキリマンジャロの南の斜面に28のプランテーションが存在していた[267]。エチオピアを除くアフリカ諸国では、自国で栽培されるコーヒーのほとんどは輸出され、国内消費量は少なくなっている[268]。アフリカの発展途上国からヨーロッパの消費国にコーヒーが流れていく構図から、コーヒーは歴史的な植民地体制に基づく生産物にも例えられている[269]。アフリカの植民地が独立した後も、ヨーロッパ各国はかつての自国の植民地で生産されるコーヒー豆を好んで消費する傾向がある[270]

1740年にはスペインの聖職者によってフィリピンにコーヒーが伝えられたが[271]、19世紀末のさび病の大流行の後は大規模栽培は行われなくなる[182]1887年にフランスの植民地とされたベトナムでコーヒーが導入され、栽培されたコーヒーは主に現地のフランス人社会で消費された[272]。1990年代からベトナムでのロブスタ種のコーヒーの生産量が大幅に増加し、1999年までにブラジルに次ぐ世界第2位のコーヒー生産国となった[273]。中国雲南省の保山には、タバコ栽培からコーヒー栽培に転作した農家が現れた[274]

日本においては、沖縄[186][275]、小笠原諸島[275]で生産・販売されている。1878年勧農局の武田昌次によって、ジャワ島で入手した苗を小笠原で栽培を試みたのが最初とされる[276][277][278]。しかし、病害虫が流行し、また経済性でサトウキビ栽培に及ばないため、コーヒー栽培は中止される[279]。小笠原でのコーヒー栽培を提唱した田中芳男の息子である田中節太郎は、八重山諸島でコーヒーの栽培を開始した[280]。昭和初期に台湾でコーヒー栽培が試みられたがさび病によって成功せず、第二次世界大戦後に奄美群島で行われたコーヒー栽培は台風の被害と収穫量の少なさに起因する利益の低さより、栽培は中止された[186]

年表

脚注

注釈

  1. ^ 当時のロンドンの人口が約600,000人であったことを理由として、3,000軒という数の信憑性を疑問視する意見が存在する(スタンデージ『世界を変えた6つの飲み物』、153頁)
  2. ^ 「ロンドンの家庭の主婦」による声明文は実際に女性によって書かれたものではなく、コーヒー・ハウスに出入りする文筆家やコーヒーの普及に脅かされるアルコール業界の要請を受けた人物によるものだと考えられている。(臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』、82頁)
  3. ^ 大淀三千風が編んだ、元禄2年(1689年/90年)序のある『日本行脚文集』収録の「丸山艶文」には、コーヒーの別名の1つである「皐蘆(なんばんちゃ)」についての記述が存在する。しかし、「丸山艶文」で言及される「なんばんちゃ」はコーヒーではなく、紅茶だと考えられている。(奥山『コーヒーの歴史』、35-37頁)
  4. ^ 昭和30年代まで放香堂ではコーヒーが取り扱われていたが、その後販売されていない(神戸山手大学環境文化研究所『神戸カフェ物語 コーヒーをめぐる環境文化』、11頁)

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参考文献

  • 阿部健一「コーヒー」『新版 東南アジアを知る事典』収録(平凡社, 2008年6月)
  • 伊藤博『コーヒー博物誌』(八坂書房, 2001年10月)
  • 臼井隆一郎『コーヒーが廻り世界史が廻る』(中公新書, 中央公論社, 1992年10月)
  • 奥山儀八郎『コーヒーの歴史』(紀伊国屋書店, 1965年)
  • 小澤卓也『コーヒーのグローバル・ヒストリー』(ミネルヴァ書房, 2010年2月)
  • 河野友美編『水・飲料』(新・食品事典11, 真珠書院, 1992年10月)
  • 神戸山手大学環境文化研究所編『神戸カフェ物語 コーヒーをめぐる環境文化』(神戸新聞総合出版センター, 2003年12月)
  • 鈴木董『トルコ』(世界の食文化, 農山漁村文化協会, 2003年10月)
  • 全日本コーヒー商工組合連合会日本コーヒー史編集委員会編『日本コーヒー史』(全日本コーヒー商工組合連合会, 1980年3月)
  • 田口護『田口護の珈琲大全』(日本放送出版協会, 2003年11月)
  • 沼野充義、沼野恭子『ロシア』(世界の食文化19, 農山漁村文化協会, 2006年3月)
  • 平井京之介「タイのコーヒー、ラオスのコーヒー」『嗜好品の文化人類学』収録(高田公理、栗田靖之、CDI編, 講談社選書メチエ, 講談社, 2004年4月)
  • 南直人『ドイツ』(世界の食文化, 農山漁村文化協会, 2003年10月)
  • UCC上島珈琲株式会社編『コーヒー読本』第2版(ミニ博物館, 東洋経済新報社, 1993年7月)
  • マーク・ペンダーグラスト『コーヒーの歴史』(樋口幸子訳, 河出書房新社, 2002年12月)
  • トム・スタンデージ『世界を変えた6つの飲み物』(新井崇嗣訳, インターシフト, 2007年3月)
  • ベネット・アラン・ワインバーグ、ボニー.K.ビーラー『カフェイン大全』(別宮貞徳監訳, 真崎美恵子、亀田幸子、西谷清、岩淵行雄、高田学訳, 八坂書房, 2006年2月)
  • アントニー・ワイルド『コーヒーの真実』(三角和代訳, 白揚社, 2007年5月)
  • 『ケンブリッジ世界の食物史大百科事典』3(石毛直道他監訳, 朝倉書店, 2005年9月)

関連項目