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「黒い霧事件 (日本プロ野球)」の版間の差分

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[[日本プロ野球]]における'''黒い霧事件'''(くろいきりじけん)は、プロ野球関係者が金銭の授受を伴う[[八百長]]に関与したとされる一連の疑惑および事件。新聞報道などをきっかけに、[[1969年]]から[[1971年]]にかけて相次いで発覚した。
[[日本プロ野球]]における'''黒い霧事件'''(くろいきりじけん)は、プロ野球関係者が金銭の授受を伴う[[八百長]]に関与したとされる一連の疑惑および事件のことである{{by|1969年}}(昭和44年)から{{by|1971年}}(昭和46年)にかけて相次いで発覚し、球界のみならず社会に衝撃を与えた。


[[日本野球機構]]は八百長への関与について「[[野球協約]]第355条が規定する『敗退行為』に該当する」との見解を発表関与が疑われた現役選手には[[引退#失格選手|永久出場停止(追放)]]長期間の出場停止、[[年俸]]などの処分下した。
[[日本野球機構]]は八百長への関与について「[[野球協約]]第355条が規定する『敗退行為』に該当する」との見解を発表し、関与が疑われた現役選手には[[引退#失格選手|永久出場停止(追放)]]」「長期間の出場停止」「俸」などの処分された。また、一部の選手は[[オートレース]]の八百長事件にも関与ていことが発覚し、現役の[[オートレース選手]]19名が警察に逮捕されている

また、上記の選手の一部は[[オートレース]]の八百長事件にも関与。この事件では現役の[[オートレース選手]]19名が警察に逮捕されている。


== 事件の経緯 ==
== 事件の経緯 ==
===発覚===
=== 発覚まで ===
{{QuoteSidebar|290px|white|right|野球協約第三百五十五条(敗退行為)|この協約に参加する倶楽部の役職員、または選手及びコーチを含む監督が、当該チームの試合に於いて意識的に敗れ、また敗れることを試み、或は勝つための最善の努力を怠り、またかかることを通謀するものは、所属する連盟会長の要求に基き、コミッショナーに依り永久にその職務を停止させられる。<br />
1969年のペナントレース中に、西鉄ライオンズのフロントは、自軍の選手が八百長を演じているのではないかとの疑惑を抱き、極秘に調査を開始。調査の結果、投手の[[永易将之]]が公式戦で[[暴力団]]関係者に依頼され、わざと試合に負ける「敗退行為(八百長)」を行っていたことを理由に、西鉄は永易をシーズンオフを以て所属契約の更新を行わず、解雇とすることを決定する。一方、[[報知新聞]]の西鉄の番記者に[[カール・ボレス]]が「ウチにわざとミスエラーする選手がいる」と囁いた。そこで報知新聞は、読売新聞の社会部と共同で取材を進めた<ref>田中茂光「ボレスの言葉が発端 重苦しい社長賞」『Sports Graohig Number』1986年5月20日号、p36</ref>。そして、球団社長の[[国広直俊]]は、[[読売新聞]]と[[スポーツ報知|報知新聞]]両紙の取材に対して、球団が自軍の疑いのある選手を調査したところ、「残念ながら事実でした」と認めたうえ「永易ら3人について調査したが、他の2人の選手は永易に誘われ、一時、八百長に加わっただけですでに反省しているので処分の対象としなかった」と答えた<ref>読売新聞1969年10月8日15面「球界に大汚点残す 西鉄球団社長談」</ref>。
またかかる勧誘をうけたもので、これに関するすべての情報を所属する連盟会長に対し報告を怠るものは、前項により制裁せられる。|第二十一章 有害行為(1953・7・25発効)より}}


{{by|1969年}}(昭和44年)のシーズン途中に、[[埼玉西武ライオンズ|西鉄ライオンズ]]の球団上層部は自軍の選手が八百長を演じているのではないかとの疑惑を抱き、極秘に調査を開始した。その結果、投手の[[永易将之]]が公式戦において[[暴力団]]関係者に依頼され、わざと試合に負ける「敗退行為(八百長)」を行っていたことを理由に、永易をシーズン終了後に契約更新を行わず解雇することを決定する。一方、主力打者の[[カール・ボレス]]はある日の試合後、[[スポーツ報知|報知新聞]]の西鉄番記者に「ウチにわざとミスエラーする選手がいる」と囁いた<ref name=":0" />。報知新聞はそれを元に[[読売新聞社]]社会部と共同で取材を進め<ref name=":0">田中茂光「ボレスの言葉が発端 重苦しい社長賞」『Sports Graphic Number』1986年5月20日号、p36</ref>、西鉄球団社長の国広直俊は両紙の取材に対して「自軍の疑いのある選手を調査したところ、残念ながら事実でした<ref name=":1" />」と認めた。続けて「永易ら3人について調査したが、他の2人は永易に誘われて一時期八百長に加わっただけで、すでに反省しているので処分の対象とはしなかった」と回答した<ref name=":1">読売新聞1969年10月8日15面「球界に大汚点残す 西鉄球団社長談」読売新聞縮刷版1969年10月号p243</ref>。
10月8日、[[読売新聞]]と[[スポーツ報知|報知新聞]]が永易が公式戦で八百長を演じていたと報道<ref>読売新聞1969年10月8日15面「西鉄・永易投手が八百長」</ref><ref>報知新聞1969年10月8日「永易 公式戦で八百長 球界初の永久追放」1-2面</ref>。読売、報知の報道を受けて、球団社長の国広が午前11時半より福岡市内の球団事務所で記者会見した。国広は、永易が八百長をやっていたという確証を突き止めたわけではないが、素人の私の目から見ても八百長を演じているのではないかという思える節があり、本人を呼んで問いただすと本人は否定も肯定もせずただ震えているだけだった、この態度から永易は野球トバクに手を染めていると確信した、などと語った<ref>読売新聞夕刊1969年10月8日11面「永易投手の八百長 西鉄ファンは怒る」</ref><ref>朝日新聞1969年10月8日夕刊11面「"野球トバクに関係"西鉄球団 永易選手を退団処分に」</ref>。


[[10月8日]]、[[読売新聞社]]と[[報知新聞社]]の両紙が「永易が公式戦で八百長を演じていた」と報道する<ref>読売新聞1969年10月8日15面「西鉄・永易投手が八百長」読売新聞縮刷版1969年10月p243</ref><ref>報知新聞1969年10月8日「永易 公式戦で八百長 球界初の永久追放」1-2面</ref>。この報道を受けて国広が午前11時30分より福岡市内の球団事務所で記者会見を開き、「永易が八百長をやっていたという確証を突き止めた訳ではないが、素人の私の目から見ても八百長を演じているのではないかと思える節があり、本人を呼んで問いただすと本人は肯定も否定もせず、ただ震えているだけだった。この態度から、永易は野球賭博に手を染めていると確信した」と語った<ref>読売新聞夕刊1969年10月8日11面「永易投手の八百長 西鉄ファンは怒る」読売新聞縮刷版1969年10月p259</ref><ref>朝日新聞1969年10月8日夕刊11面「"野球トバクに関係"西鉄球団 永易選手を退団処分に」朝日新聞縮刷版1969年10月p263</ref>。
一方、永易の福岡市内のアパートには読売の報道を受けてマスコミが殺到、永易は「自分はやましいことはないが、こうなっては今更何を言っても聞いてもらえないでしょう」といい、普段着のまま自宅を出て行き行方をくらませる。


永易が住む福岡市内のアパートには、八百長を報じた読売、報知両紙から得た情報をもとに当日の早朝から報道陣が殺到していた。永易は、この2ヶ月前の8月中に国広から直接呼び出され、「野球賭博に関与しているのではないか」との嫌疑をかけられて取り調べを受けたことを認めたものの、「こっちには全然身に覚えのないことだし、答えようにも答えようがないだろう<ref name=":2">スポーツニッポン1969年10月9日1面「"全く身に覚えがない" 永易、身の潔白を力説」</ref>」と述べ、八百長疑惑を真っ向から否定した。しかしその後は「何も言いたくない。言えば言うほど誤解されるから…」と述べたのを最後に報道陣の前から姿を消した。永易は一度自宅アパートに戻ったが再び外出し、その日以降は自宅に一切戻らず行方をくらました<ref>東京中日新聞1969年10月10日3面「永易、いぜん蒸発」</ref>。
13日にパリーグの定例の理事会が東京の銀座の連盟事務所で開かれた。国広球団社長は「永易が八百長をやっていた直接の証拠は突き止められなかったが、心証として八百長をやっていたことは間違いなく、その証人もいる」と述べた<ref>朝日新聞1969年11月25日13面「裁決迫る八百長事件 『永易問題』の周辺」</ref>。パリーグ会長の[[岡野祐]]は、疑惑の挙がった選手を何ら処分しないのはおかしいとして、永易を野球協約の中の条文の失格選手として処分することした<ref>毎日新聞1969年11月14日15面「ファン裏切る別件処分 暴力団との関連追及もタナ上げ」</ref>。


=== 永易の処分 ===
翌14日、[[日本野球機構#歴代コミッショナーの一覧|コミッショナー委員会]](当時はコミッショナーの権限については委員長[[宮沢俊義]]、[[金子鋭]]、中松潤之助の3人が合議制で担当した)が開かれ、宮沢は、永易を失格処分とすると永易は球界と関係ない人物となって本人の呼び出しなどの調査が出来なくなると岡野の処分案に反対し、永易は野球協約の中の有害行為に関する条文で制裁が可能であると指摘した。
[[10月13日]]、[[パシフィック・リーグ]]の定例理事会が東京・銀座の連盟事務所で開催され、国広はその場で「永易が八百長をやっていた直接の証拠は突き止められなかったが、心証として八百長をやっていたことは間違いなく、その証人もいる」と述べた<ref>朝日新聞1969年11月25日13面「裁決迫る八百長事件 『永易問題』の周辺」朝日新聞縮刷版1969年11月p809</ref>。会長の[[岡野祐]]は、疑惑の挙がった選手を何ら処分しないのはおかしいとして、永易を野球協約の中にある条文の「失格選手」として処分すると述べた<ref>毎日新聞1969年11月14日15面「ファン裏切る別件処分 暴力団との関連追及もタナ上げ」毎日新聞縮刷版1969年10月p415</ref>。しかし、[[10月14日|翌日]]に開かれた[[日本野球機構#歴代コミッショナーの一覧|コミッショナー委員会]]{{Refnest|group="注釈"|当時は、コミッショナーの権限については委員長の[[宮沢俊義]]、[[金子鋭]]、中松潤之助の3人が合議制で担当していた。}}において委員長の[[宮沢俊義]]は「永易を失格選手として処分すると、永易が球界と関係のない人物になってしまい、本人の呼び出しなどの調査ができなくなる」として岡野の処分案に反対し、永易は野球協約の中の「有害行為に関する条文」で制裁が可能であると指摘した<ref>読売新聞1969年10月15日15面「八百長究明せよ 永易投手別件追放はすりかえ コミッショナー委 パ・リーグ会長に指示」読売新聞縮刷版1969年10月p463</ref>。


[[10月16日]]、[[夕刊フジ]]記者の住谷礼吉が前日に福岡から大阪へ向かう[[航空機]]の機内で永易を発見し、インタビューに成功したと報道した<ref name=":3">夕刊フジ1969年10月17日(発行10月16日)「蒸発・永易を福岡で発見 本紙記者に八百長の真相語る」1-3面</ref>。永易は住谷に対して「神に誓って、やっていない。(国広)球団社長を告訴する」と八百長を否定したが、同時に「いまさら何を言っても無駄だ」とも述べた<ref name=":3" />。住谷は永易にコミッショナーのもとへ出頭するよう勧めたが結局、その後は再び行方をくらました<ref>馬見塚達雄『夕刊フジの挑戦 本音ジャーナリズムの誕生』阪急コミュニケーションズ、2004年、p60</ref>。
読売、報知の報道と同じ頃、創刊間もない[[週刊ポスト]]が野球賭博を追及する記事を掲載し始める。10月17日号では暴力団による野球賭博の実態に迫った記事を掲載<ref>週刊ポスト1969年10月17日「阪急・近鉄を狙う野球トバクの魔手 在阪球団の骨までしゃぶりつくすトトカルチョの実態」</ref>すると、翌10月24日号では、永易以外にも「疑わしい」選手の名前を実名を挙げ、その記事内の「[[田中勉 (野球)|田中勉]]も一役?」の中で、当時中日ドラゴンズに在籍していた投手の[[田中勉 (野球)|田中勉]]が、西鉄球団に八百長を広めたのが田中投手が衆目の一致するところと報じた<ref>週刊ポスト1969年10月24日「「永易以外にいる疑わしい8人ファンを裏切った腐敗分子を蛮勇をふるって告発する」</ref>{{Refnest|group="注釈"|当時週刊ポスト編集部で記事を担当し後に3代目編集長になった関根進は、69年8月に創刊したばかりで目玉記事も少なく、売り上げが低迷していた。この状況を打破するため当時プロ野球の有名選手が暴力団と組んで八百長をやっていると噂が立っていたため、格好のネタとして取り上げたものの「無鉄砲にも噂の段階で八百長選手を実名を挙げて記事にしてしまった」ことを認めている。<ref>関根進『史上最強の編集塾、開講!』太陽企画出版、1995年、p142-143</ref>}}。これに対し、田中は記事の内容は事実無根だとして10月21日に弁護士を伴って週刊ポスト編集部を訪ねて抗議し、謝罪と記事の撤回を求めるが、ポスト誌の編集長の荒木博は拒否<ref>報知新聞1969年10月22日3面「八百長は事実無根 田中勉、ポスト誌へ抗議」</ref><ref>サンケイスポーツ1969年10月22日3面「田中勉週刊誌を告訴へ "八百長記事は事実無根"」</ref>。


読売、報知による報道が出始めた頃、当時は創刊間もない「[[週刊ポスト]]」([[小学館]])が野球賭博を追及する記事を掲載し始める。同誌の10月17日号において暴力団による野球賭博の実態に迫った記事を掲載すると<ref>週刊ポスト1969年10月17日「阪急・近鉄を狙う野球トバクの魔手 在阪球団の骨までしゃぶりつくすトトカルチョの実態」p40-43</ref>、次の[[10月24日]]号では「永易以外にいる疑わしい8人、ファンを裏切った腐敗分子を蛮勇を振るって告発する」として永易以外にも「疑わしい」とされる8名の選手の実名を挙げたほか、「当時、[[中日ドラゴンズ]]に所属していた投手の[[田中勉 (野球)|田中勉]]が西鉄球団に八百長を広めたのは衆目の一致するところ」と報じた<ref>週刊ポスト1969年10月24日号「永易以外にいる疑わしい8人ファンを裏切った腐敗分子を蛮勇をふるって告発する」p20-23</ref>{{Refnest|group="注釈"|当時、「週刊ポスト」編集部で記事を担当しており、のちに第3代編集長となった関根進によると、週刊ポストは{{by|1969年}}(昭和44年)8月に創刊したばかりで目玉記事も少なく、売り上げが低迷していた。この状況を打破するために、当時のプロ野球における著名選手が[[暴力団]]と組んで八百長をやっていると噂が立っていたことから、格好のネタとして取り上げたものの、「無鉄砲にも噂の段階で八百長選手の実名を挙げて記事にしてしまった」ことを関根が認めている<ref>関根進『史上最強の編集塾、開講!』太陽企画出版、1995年、p142-143</ref>。}}。これに対し田中は、記事の内容は事実無根として[[10月21日]]に[[弁護士]]を伴って「週刊ポスト」編集部を訪ねて抗議し、謝罪と記事の撤回を求めるが、編集長の[[荒木博]]は拒否した<ref>報知新聞1969年10月22日3面「八百長は事実無根 田中勉、ポスト誌へ抗議」</ref><ref>サンケイスポーツ1969年10月22日3面「田中勉週刊誌を告訴へ "八百長記事は事実無根"」</ref>。
10月16日、[[夕刊フジ]]の記者の[[住谷礼吉]]が福岡から大阪へ向かう飛行機の中で永易を発見、永易は住谷に対して「神に誓ってやっていない」「球団社長を告訴する」と八百長を否定したが、今更何を言ってもムダだとも述べた<ref>夕刊フジ1969年10月17日(発行10月16日)「蒸発・永易を福岡で発見 本紙記者に八百長の真相語る」1-3面</ref>。住谷は永易に対してコミッショナーのもとへ出頭するよう勧めたが、結局また行方をくらませたままであった<ref>馬見塚達雄『夕刊フジの挑戦 本音ジャーナリズムの誕生』阪急コミュニケーションズ、2004年、p60</ref>。


[[11月19日]]にコミッショナー委員会が開催され、永易を永久追放処分とする方針を固めた<ref name=":4">読売新聞1969年11月19日15面「永易の永久追放きめる コミッショナー委 八百長だと認定 ファンの批判みのる」読売新聞縮刷版1969年11月pp.607</ref>。同月28日には野球協約第355条「有害行為」、第404条「制裁の範囲」、第120条「失格選手」の3項を適応し、プロ野球史上初となるコミッショナーによる敗退行為を理由とした永久追放処分を正式に決定した<ref>報知新聞1969年11月29日1面「永易、球界シャットアウト コミッショナー委が最終裁定」</ref><ref>毎日新聞1969年11月29日15面「永易をプロ球界から永久追放」毎日新聞縮刷版1969年10月905p</ref>。肝心の永易は[[10月8日]]に自宅アパートを出たまま行方をくらませており、西鉄球団、パシフィック・リーグ、コミッショナー事務局などのプロ野球界は本人を直接取り調べることが出来なかった。しかし、西鉄からの報告に加えて会長の岡野、コミッショナー事務局長の井原宏が福岡へ向かって永易の周辺を調査した結果、永易は野球協約の「有害行為」に抵触する事実があったと認定した<ref name=":4" />。
また、西鉄の監督兼選手の[[中西太]]は9日に球団に対して辞任を申し入れた。西鉄本社とオーナーの楠根は慰留したが、中西の退団の意思が固く、22日、退団を認めることになった。同日の午後2時に福岡市内の西鉄本社にて記者会見し、正式に発表した。


西鉄は永易の件を受け、監督と球団社長が交代した。選手兼任監督だった[[中西太]]はチームの成績不振の責任を取って、3年契約が満了する同年限りでの辞任をオーナーの[[楠根宗生]]へ申し入れた<ref name=":5">日刊スポーツ1969年10月10日3面「中西監督、辞任を申入れ 残り3試合は休養 後日再検討 楠根オーナー"保留"」</ref>。楠根から強く慰留されたものの22日には承認され、中西の現役引退と退団が正式に決定した<ref>日刊スポーツ1969年10月23日1面「西鉄 中西退団を発表 ライオンズ一筋 また消えた名物男」</ref>。永易の件によってどん底に陥ったチームの再建を果たすためには監督にチーム生え抜きの選手を起用するのが最善と考え、当時コーチ兼任だった[[稲尾和久]]の起用を決定し<ref name=":6">日刊スポーツ1969年11月1日1面「西鉄新監督に稲尾昇格 楠根オーナーが養成 受諾は決定的 4日に正式発表」</ref>、稲尾は[[11月4日]]に監督就任を受諾する返答を述べた<ref>デイリースポーツ1969年11月5日1面「再建へ切り札 "稲尾西鉄"誕生」</ref>。球団社長の国広も[[11月30日]]の任期満了に合わせて退任し、後任には青木勇三が12月15日付けで就任した<ref>日刊スポーツ1969年12月16日2面「西鉄新社長に青木氏」</ref>。
11月28日コミッショナー委員会は永易に対し、永久出場停止(追放)という日本野球界初の処分を下す<ref>毎日新聞1969年11月29日「永易をプロ球界から永久追放」縮刷版905p</ref>。


一方、週刊ポストの記事によって名前が急浮上した田中には、[[12月15日]]に球団上層部からトレード要員にすることを通告された<ref>朝日新聞1969年12月16日13面「田中勉、トレードに」朝日新聞縮刷版1969年12月p517</ref>。しかし、19日までに移籍先が無かったために自由契約とする旨を通達され<ref>朝日新聞1969年12月20日13面「中日、田中勉を自由契約に」朝日新聞縮刷版1969年12月p661</ref>、田中は「週刊ポスト」を相手に名誉棄損罪で[[東京地方検察庁]]へ告訴した<ref>朝日新聞1969年12月20日15面「『週刊ポスト』を名誉棄損で告訴 田中投手」朝日新聞縮刷版1969年12月p663</ref>。その後も一貫して獲得を希望する球団が現れなかったため、田中は郷里の福岡市へ戻り、事実上引退した{{Refnest|group="注釈"|[[中日ドラゴンズ]]はオーナー会議にて「投手難(不足)だが田中を出す。その意味は幅広く解釈すれば分かってもらえると思う」と述べ、田中が“黒い選手”であることを暗示した。その後、田中には2球団が獲得に動き出したものの中日ドラゴンズの裏面工作によって立ち消えになったという<ref>週刊朝日1970年5月8日号「元エース田中勉の栄光と転落」</ref>。}}。
一方、西鉄球団は球団社長の国広が11月30日で辞任。後任には青木勇三が12月15日に就任した。


=== 藤田事件 ===
中日は田中に対して12月15日、トレード要員にすると通告<ref>朝日新聞1969年12月16日13面「田中勉、トレードに」</ref>。19日、中日は田中に対してトレード先がないため自由契約にすると通告した<ref>朝日新聞1969年12月20日13面「中日、田中勉を自由契約に」</ref>。同日、田中は週刊ポストを名誉棄損罪で東京地検に告訴した<ref>朝日新聞1969年12月20日15面「『週刊ポスト』を名誉棄損で告訴 田中投手」</ref>。その後他球団から獲得の申し出がなかったため、郷里の福岡市に戻り、引退した{{Refnest|group="注釈"|中日球団はオーナー会議にて「ウチは投手難だが田中を出す。その意味は、幅広く解釈すれば分かってもらえると思う」と田中が"黒い選手"であることを暗示した。その後2球団が獲得に動き出したが、中日球団が裏面工作によって立ち消えになったという。<ref>週刊朝日1970年5月8日号「元エース田中勉の栄光と転落」</ref>}}。
[[読売ジャイアンツ]]投手コーチの[[藤田元司]]は、義兄が経営する会社に代表取締役として参加していたが、義兄が一人の役員と経営方針を巡って対立したため、{{by|1967年}}(昭和42年)1月に義兄と藤田が当該役員に退職してもらうよう説得するように「ある人物」へ依頼した。その際に、義兄と藤田は当該役員の退職金として30万円を渡すように依頼したが、この「ある人物」は役員に退職を迫る際に脅迫まがいの言動をし、さらに30万円を着服していた。義兄と藤田は警察に被害届を提出したが、{{by|1970年}}(昭和45年)2月12日にこの「ある人物」が暴力団員であることが判明し、翌日の新聞各紙には「藤田が暴力団と関係」と報じられた<ref>朝日新聞1970年2月13日15面「藤田コーチの会社 暴力団使い退職強要」朝日新聞縮刷版1970年2月p351</ref><ref>毎日新聞1970年2月13日19面「藤田コーチが暴力団使う 自営会社の重役追い出しに」毎日新聞縮刷版1970年2月p343</ref>。


藤田は[[2月13日]]に春季キャンプ先である宮崎の宿舎にて緊急の記者会見を行い、「(義兄が経営している)会社を受け継ぐにしても、どうしても辞めてもらわなければならない人がいた。他人に頼んで交渉してもらったが暴力団員とは知らなかった」と弁明した<ref>朝日新聞1970年2月14日13面「『暴力団の被害者』 藤田語る」朝日新聞縮刷版1970年2月p385</ref>。球団は一軍担当総務の佐伯文雄が藤田から事情聴取を行い、当日中に帰京してオーナーの[[正力亨]]へ報告した。そして翌日、球団は藤田を宮崎から帰京させて自宅謹慎を命じ、佐伯と球団代表の佐々木金之助を譴責とする処分案を発表した<ref>毎日新聞1970年2月15日12面「藤田コーチを謹慎 巨人軍 暴力団事件で処分」毎日新聞縮刷版1970年2月p398</ref>。
===藤田事件===
[[読売ジャイアンツ|巨人]]の投手コーチの[[藤田元司]]は義兄が経営する会社に代表取締役として参加していたが、義兄がある役員と経営方針を巡って対立したため、1967年1月、義兄と藤田はこの役員に会社を辞めてもらうようにある人物に説得を依頼する。その際、2人は退職金として30万円を渡すように依頼したが、この人物は退職を迫る際に脅迫まがいのことをし、さらに30万円も着服していた。義兄と藤田は警察に被害届を出していたが、1970年2月12日、2人が依頼した人物が暴力団員であることがわかり、翌2月13日の各紙で「藤田が暴力団と関係」と報道された<ref>朝日新聞1970年2月13日15面「藤田コーチの会社 暴力団使い退職強要」縮刷版p351</ref><ref>毎日新聞1970年2月13日19面「藤田コーチが暴力団使う 自営会社の重役追い出しに」縮刷版p343</ref>。


藤田の件は、前年に永易による八百長が表面化して折であり、「ジャイアンツよ、お前もか」の見出しで報道され、「プロ野球と暴力団との関係を如実に物語っている<ref>日本経済新聞1970年2月15日17面「藤田コーチに謹慎 巨人『道義的責任は重い』」日本経済新聞縮刷版1970年2月p439</ref>」としてマスコミから非難を受けることとなった。
藤田は2月13日、巨人の春季キャンプ先である宮崎の宿舎にて記者会見を行い「会社をうけつぐについてどうしてもやめてもらわなければならない人があった。人に頼んで交渉してもらったがー暴力団員とは知らなかった」と弁明した<ref>朝日新聞1970年2月14日13面「『暴力団の被害者』 藤田語る」縮刷版p385</ref>。球団は一軍担当総務の佐伯文雄が藤田から事情聴取し、佐伯は13日に上京してオーナーの正力亨に報告を行った。そして14日、球団は藤田をキャンプから帰京させて自宅謹慎を命じ、さらに佐伯と球団代表の佐々木金之助を譴責とする処分案を発表した<ref>毎日新聞1970年2月15日12面「藤田コーチを謹慎 巨人軍 暴力団事件で処分」縮刷版p398</ref>。


=== 永易、藤田事件から「黒い霧」へ ===
藤田の件は、前年に永易事件が表面化した折であり「ジャイアンツよお前もか」と「プロ野球と暴力団との関係を如実に物語っている」<ref>日本経済新聞1970年2月15日17面「藤田コーチに謹慎 巨人『道義的責任は重い』」</ref>とマスコミから非難を受けることになった。
プロ野球界と[[暴力団]]が絡んだ不祥事が相次いだたため、球界の「'''黒い霧'''」を糾明しようとする動きが[[国会議員]]の中で出てきた<ref>東京中日スポーツ1970年3月4日1面「国会で"黒い霧"追及 永易、藤田事件うやむやにするな 予算、文教両委で スポーツ議員がノロシ」</ref>。{{by|1970年}}(昭和45年)3月に入り、スポーツが好きな超党派の議員で構成される「スポーツ振興国会議員懇談会」(会長は[[川崎秀二]]、会員数約300名)が、[[3月3日]]に国会でプロ野球の「黒い霧」を取り上げることを決めた<ref>朝日新聞1970年3月3日夕刊11面「プロ野球 『永易』『藤田』事件 国会で追及の動き スポーツ議員懇 アピールだす」朝日新聞縮刷版1970年3月p99</ref>。[[日本社会党]]議員の[[中谷鉄也]]は3月9日の衆議院予算委員会において、プロ野球を舞台にした暴力団による野球賭博をさらに厳しく取り締まることを[[国家公安委員会委員長]]の[[荒木万寿夫]]に迫ったほか<ref name="asahi700310">朝日新聞1970年3月10日15面「プロ野球の黒い霧 衆院で論議 『永易軟禁』も追及 トバク・暴力に超党派 予算委」朝日新聞縮刷版1970年3月p295</ref>、行方不明の永易が暴力団によって[[軟禁]]されているのではないかと発言した<ref name="asahi700310"/>。これに対して[[警察庁刑事局]]長の[[高松敬治]]は「初耳だ。関係者からの申告を待って調査に乗り出したい」と答弁した<ref name="asahi700310"/>。そして[[3月10日]]、[[警察庁]]は永易の行方を捜査するように、[[大阪府警察]]・[[静岡県警察]]に指示した<ref>朝日新聞1970年3月11日15面「永易捜査を指示 野球トバク摘発に本腰 警視庁」朝日新聞縮刷版1970年3月p335</ref>。


[[3月17日]]には、スポーツ議連によってプロ野球機構、有識者らを招いて「プロ野球健全化公聴会」が開催された<ref>朝日新聞1970年3月18日15面「熱っぽくプロ野球公聴会 “黒い噂”めぐり爆弾発言」朝日新聞縮刷版1970年3月p575</ref>。また19日にはコミッショナー委員長の宮沢が衆議院法務委員会に参考人として招致され<ref>朝日新聞1970年3月19日15面「プロ野球の黒い霧 国会で追及続く 憲法学者も立ち往生 宮沢さん『特効薬を教えてほしい』」朝日新聞縮刷版1970年3月p607</ref>、プロ野球の「黒い霧」が社会的に注目を集めるようになった。
===永易、藤田事件から「黒い霧」へ===
永易、藤田とプロ野球界と暴力団に絡んだ不祥事が相次いだため、プロ野球の'''黒い霧'''を糾明しようとする動きが国会議員の中から出てきた。3月に入り、スポーツ好きの超党派の議員で構成されるスポーツ振興国会議員懇談会([[川崎秀二]]会長、会員数約300名)が3日、国会でプロ野球の黒い霧を取り上げる事を決定。同会に所属する[[中谷鉄也]]議員(社会)が9日の衆院予算委員会で、プロ野球を舞台にした暴力団による野球賭博を更なる取り締まるよう[[荒木万寿夫]]国家公安委員会委員長に迫ったほか、行方不明の永易が暴力団によって軟禁されているのではないかと発言、これに対して[[高松敬治]]警察庁刑事局長が「初耳だ。関係者からの申告を待って調査に乗り出したい」と答弁。10日に警視庁は永易の行方を[[大阪府警察|大阪府警]]、[[静岡県警察|静岡県警]]に指示した。17日にはスポーツ議連によってプロ野球機構、識者などを招いて「プロ野球健全化公聴会」が開かれ、19日には宮沢俊義コミッショナー委員長が衆院法務委員会に参考人として呼ばれ、プロ野球の「黒い霧」が社会的注目を集めるようになった。


中谷の要請により[[警視庁]]永易の行方を捜した、18日大阪にある永易の実家永易から定期的に連絡があることまた軟禁先噂された伊東市内を一通り捜索した結果、警視庁は永易軟禁説の可能性は薄いと判断を示した。しかし、中谷らスポーツ議連はこの報告に納得せず、中谷、川崎[[塩谷一夫]]の3議員の連名で警視庁捜索願を出すことなった。
中谷の要請を受けた[[警視庁]]永易の行方を捜したところ、18日大阪にある永易の実家永易本人から定期的に連絡があることを突き止めた。また軟禁先噂された[[静岡県]][[伊東市]]内を捜索した結果、警視庁は永易軟禁されている可能性は薄いと判断した<ref>朝日新聞1970年3月19日夕刊10面「『監禁されていない』永易事件で警視庁結論」朝日新聞縮刷版1970年3月p681</ref>。しかし、スポーツ議連など球界の黒い霧を追及する議員たちはこの報告に納得せず、中谷、川崎[[塩谷一夫]]の連名で警視庁へ永易の捜索願を出すことなった<ref>朝日新聞1970年3月19日夕刊10面「三代議士が捜査願」朝日新聞縮刷版1970年3月p681</ref><ref>毎日新聞1970年3月20日19面「ナゾ深まる"永易"の行方 意外に冷淡、関係者 捜査当局“犯罪”にたどりつけるか」毎日新聞縮刷版1970年3月p639</ref>


===永易の告白===
=== 永易の告白 ===
国会議員によって軟禁説が取りざたされていた永易は、世間の目を逃れるために恋人と札幌に住んでいた。この頃、田中勉に訴訟を起こされていた週刊ポストは、田中黒を掴むため永易の行方をしていた。ポストの協力ライターであり、永易と取材を通じて面識があった元[[デイリースポーツ]]記者の[[大滝譲司]]が永易の親族や友人などに「永易を探していると伝えてしいもし本人に連絡する気が起きたら」と自分の連絡先を知らせていた。そして、永易の妹を通じて永易大滝連絡したいと話があり、大滝と再会した永易は、自らの八百長と西鉄球団から口止め料として合計550万円っていたことを大滝に告白した<ref>週刊読売1970年4月24日号「永易をあやつる影の男たち 大詰めにきたプロ野球八百長事件」</ref>。以、大滝の手による永易の「告白」がマスコミを通じて流れることになる
国会議員によって軟禁説が取り沙汰されていた永易は、世間の目を逃れるために恋人と[[札幌市|札幌]]していた<ref name="mainich700324">毎日新聞1970年3月24日夕刊11面「22日までに札幌に 永易選手 『名古屋へ』と姿消す」毎日新聞縮刷版1970年3月p779</ref><ref>毎日新聞1970年3月25日18面「ひっそり 札幌の三か月 永易選手 豆ファンにもおびえる オープン戦TVにため息」毎日新聞縮刷版1970年3月p798</ref>。この頃、[[中日ドラゴンズ]]の投手だった田中から訴訟を受け週刊ポストは、田中幕である証拠を掴むため永易の行方を独自に探していた。週刊ポストの協力ライターで永易と取材を通じて面識があった元[[デイリースポーツ]]記者の大滝譲司が永易の親族や友人に「永易を探していると伝えてしいもし永易本人に連絡する気が起きたら」と大滝の連絡先と合わて伝えていた<ref name="weekly0412">サンデー毎日1970年4月12日号「『永易会見記』がスクープされた裏側」p28-29</ref><ref name="yomiuri0424">週刊読売1970年4月24日号「永易をあやつる影の男たち 大詰めにきたプロ野球八百長事件」p16-21</ref>。そして、永易の妹を通じて永易本人から大滝連絡したいと話があり、大滝は永易と再会する。そこで永易は、自らの八百長と西鉄球団から口止め料として合計550万円を受け取っていたことを告白した。これ、大滝の手による永易の「告白」がマスコミを通じて世間に流れていく


3月24日、[[内外タイムス]]が永易が名古屋にいることをスクープ報道」<ref>内外タイムス1970年3月25日(3月24日発行)1面「永易は元気に暮らしていた!本紙捜査陣が独占インタビュー」</ref>、そして毎日新聞夕刊で永易が札幌潜伏していたと報じる。25日発行内外タイムスはさらに、永易がれまで否定していた八百長を行っていたことを認めたと報じる<ref>内外タイムス1970年3月27日(26日発行)1面「永易ついに『八百長』告白 ファンのみなさん、申し訳ない」</ref>。
[[3月24日]]、[[内外タイムス]]が永易が[[名古屋市|名古屋]]にいることをスクープ報道する。そして[[毎日新聞]]は、当日の夕刊で永易が札幌潜伏していた報じる。この毎日新聞の報道は、東京社会部の記者である堀越章記が札幌へ向かい、永易が札幌のアパートに潜伏していた事実を掴んでいたもので、[[3月25日]]に発行した内外タイムスはさらに、永易がれまで否定し続けていた八百長を行っていたことを認めたと報じる<ref>内外タイムス1970年3月27日(26日発行)1面「永易ついに『八百長』告白 ファンのみなさん、申し訳ない」</ref>。


そしてこれ以後の永易の告白は球界に大きな波紋を投げかけることにな
そしてこれ以降、永易の告白は球界に大きな波紋を投げかけることになっていく


30日発行の同紙の「独占スクープ第弾」、永易が西鉄から逃走資金をっていたと報じた<ref>内外タイムス1970年3月31日(30日発行)1面「西鉄が一生面倒見る 永易、はじめて"核心証言"」</ref>。スポーツニッポンは航空会社の招待ヨーロッパ視察中でありモスクワに滞在していたオーナーの楠根宗生に国際電話してインタビューしたが、楠根は「そんなことあるはずがない。彼は処分された選手だ」と全面的に否定した<ref>スポーツニッポン1970年3月31日1面「一生面倒まさか モスクワの楠根オーナーと国際電話」</ref>。
[[3月30日]]発行の内外タイムスは「独占スクープ第3弾」として、永易が西鉄球団から逃走資金を受け取っていたと報じた<ref>内外タイムス1970年3月31日(30日発行)1面「西鉄が一生面倒見る 永易、はじめて"核心証言"」</ref>。[[スポーツニッポン]]、当時の航空会社の招待による[[ヨーロッパ]]視察中で、[[モスクワ]]に滞在していた西鉄オーナーの楠根に国際電話してインタビューしたが、楠根は「そんなことあるはずがない。彼(永易)は処分された選手だ」と全面的に否定した<ref>スポーツニッポン1970年3月31日1面「一生面倒?まさか モスクワの楠根オーナーと国際電話」</ref>。[[3月31日]]に発売された週刊ポスト(4月10日号)には、永易への独占インタビューが掲載された<ref>週刊ポスト1970年4月10日号「永易選手が八百長事件をすべて告白 もうオレは黙っていられない!」p34-38</ref>。
31日には同日発行の週刊ポストが永易の独占インタビューを掲載<ref>週刊ポスト1970年4月10日号「永易選手が八百長事件をすべて告白 もうオレは黙っていられない!」</ref>、4月1日にはフジテレビの番組[[テレビナイトショー]]において、自分が演じた八百長は西鉄の他の選手から頼まれたこと、そして八百長を演じた選手は自分以外にもいることを示唆した<ref>報知新聞1970年4月2日4面「西鉄のある選手に頼まれてやった 永易の録音テープ フジTVナイトショーで流す」</ref><ref>朝日新聞1970年4月2日「八百長を認める 永易の声、テレビで放送」縮刷版p45</ref>。いずれも大滝の手によるものだった。これらの永易の「告白」に対して、他のマスコミから永易自身が公の場に出て説明するべきだとの声が出た。


[[4月1日]]には[[フジテレビジョン|フジテレビ]]の深夜番組「[[テレビナイトショー]]」で大滝による永易へのインタビューの録音テープが放送され、永易が演じた八百長は西鉄の他の選手から頼まれたことと、八百長を演じたのは永易以外にもいることを示唆した<ref>報知新聞1970年4月2日4面「西鉄のある選手に頼まれてやった 永易の録音テープ フジTVナイトショーで流す」</ref><ref>朝日新聞1970年4月2日13面「八百長を認める 永易の声、テレビで放送」朝日新聞縮刷版1970年4月p45</ref>。これらはいずれも大滝によるもので、これらの永易の「告白」に対して他のマスコミからは永易自身が公の場に出て、自らの口で説明すべきとの声も噴出した<ref>朝日新聞1970年4月2日13面「永易自身が姿をあらわせ」朝日新聞縮刷版1970年4月p45</ref>。
4月5日、永易はスポーツ議連の3議員による捜索願で行方を捜査していた警視庁捜査四課の捜査員と会い、自らの八百長と楠根オーナーから口止め料を貰っていた事、さらに八百長は自分以外にも選手がいたことなどを供述した。


[[4月5日]]、永易はスポーツ議連の3議員による捜索願で行方を追っていた[[警視庁]][[捜査四課]]の[[刑事|捜査員]]と面会し、自らの八百長と楠根から口止め料を受け取っていたこと、八百長は自分以外にも選手がいたことを供述した<ref>朝日新聞1970年4月6日夕刊11面「『八百長はやった』永易選手、都内で語る 警視庁が事情聞く 暴力団監禁説は否定」朝日新聞縮刷版1970年4月p</ref>。
永易の「告白」はなお続き、今度は4月6日発行の内外タイムス「独占スクープ第4弾」では、「親しいチームメイトのY投手から頼まれた」「Y投手に頼んだのはHさんといって、M投手の知人でぼくも知っている人」「Yから頼まれてF選手をとめた」「Y投手がとめたM捕手とM選手はともに30十万ずつわたしたそうです」「HさんはI投手にやらせたくて、Iと親しい中日の田中勉さんに頼んで百万円を田中勉さんにわたしたのを知っています」と、田中勉は実名で、それ以外はイニシャルで選手名を挙げた<ref>内外タイムス1970年4月7日(6日発行)1面「永易"八百長選手名"明かす 『オレだけではない!』と真相ぶちまける」</ref>。


=== 過熱する報道合戦 ===
これに対し、共同通信は4月6日に内外タイムスの誌面でイニシャルで掲載された選手名を実名を挙げた記事を配信<ref>週刊文春1970年4月17日号「永易事件を切り売りする男 大滝譲司とはそも何者?」</ref>、これは7日日刊スポーツ<ref>日刊スポーツ1970年4月7日1面「永易 八百長の真相バク露 "与田から頼まれた"」</ref>と報知新聞<ref>報知新聞1970年4月7日1面「池永・益田・与田・村上・基・船田・田中勉ら仲間が7人 ”八百長は成功した(昨年7月対南海戦)”」</ref>、8日スポーツニッポン<ref>スポーツニッポン1970年4月8日1面「永易 最初は4月23日 仲間の名も明らかに」</ref>などの一部のスポーツ紙や、共同通信の配信を受けている[[東京タイムズ]]<ref>東京タイムズ1970年4月7日13面「"汚名一人でかぶれ"永易元選手が証言 逃走資金もらう」</ref>や一部の地方紙に掲載された。4月7日の内外タイムス<ref>内外タイムス1970年4月8日(4月7日発行)1面「"永易告白"で大揺れの西鉄 本紙独占スクープ 球界に大衝撃」</ref>では、[[益田昭雄]]、[[池永正明]]へのインタビューを載せ、いずれも八百長を否定した。池永はまた、「球団から『お前らは黙っていろ!われわれ上のものが解決する』という話があったと認めている」と報じた。
永易の「告白」はさらに続き、今度は[[4月6日]]発行の内外タイムス「独占スクープ第4弾」では「親しいチームメイトのY投手から頼まれた」「Y投手に頼んだのはHさんと言って、M投手の知人で僕も知っている人」「Yから頼まれてF選手を止めた」「Y投手が止めたM捕手とM選手は共に30万ずつ渡したそうです」「HさんはI投手にやらせたくて、Iと親しい中日の田中勉さんに頼んで100万円を田中さんに渡したのを知っています」などと、田中は実名で、それ以外の選手らはイニシャルで名前を挙げた<ref>内外タイムス1970年4月7日(6日発行)1面「永易"八百長選手名"明かす 『オレだけではない!』と真相ぶちまける」</ref>。


これに対し、[[共同通信]]はこの「独占スクープ第4弾」でイニシャルで掲載された選手を実名で挙げた記事を配信した<ref>週刊大衆1970年4月23日号「現地詳報 八百長永易に名指しされた六人の白黒 核心に近づいた黒い霧のヴェールをはぐ」p18-21</ref><ref>週刊文春1970年4月27日号「ワイド特集 傷だらけの主役 永易事件を切り売りする男 大滝譲司とはそも何者?」p124-126</ref>。これは、[[4月7日]]の[[日刊スポーツ]]<ref>日刊スポーツ1970年4月7日1面「永易 八百長の真相バク露 "与田から頼まれた"」</ref>と報知新聞<ref>報知新聞1970年4月7日1面「池永・益田・与田・村上・基・船田・田中勉ら仲間が7人 “八百長は成功した(昨年7月対南海戦)”」</ref>、[[4月8日]]のスポーツニッポン<ref>スポーツニッポン1970年4月8日1面「永易 最初は4月23日 仲間の名も明らかに」</ref>などの各主要スポーツ紙や、共同通信の配信を受けている[[東京タイムズ]]<ref>東京タイムズ1970年4月7日13面「"汚名一人でかぶれ"永易元選手が証言 逃走資金もらう」</ref>や一部の地方紙に掲載されたほか、[[4月7日]]の内外タイムスは同紙記者による[[益田昭雄]]、[[池永正明]]へのインタビュー記事を掲載した。両者とも八百長を否定したが<ref name=":7">内外タイムス1970年4月8日(4月7日発行)1面「"永易告白"で大揺れの西鉄 本紙独占スクープ 球界に大衝撃」</ref>、池永は球団から「お前らは黙ってろ!我々上(層部)の者が解決する」という話があったことを認めた<ref name=":7" />。
7日には週刊ポストが永易のインタビューの続きを掲載<ref>週刊ポスト1970年4月17日号「永易選手の爆弾発言 オレがやった八百長試合の全貌と組んだ選手」</ref>、8日にはテレビナイトショーが司会者の[[前田武彦]]と大滝が永易にインタビューする映像を放映した<ref>朝日新聞1970年4月9日13面「永易、TV録画で告白 八百長試合は3試合 仲間と対決してもよい」縮刷版p277</ref>。その中で、永易は自分が演じた八百長は3試合でそのうち1試合のみが成功で、この試合で自分以外に八百長に関わった選手がいると明言した。


[[4月7日]]発売の「週刊ポスト」(4月17日号)が永易のインタビューの後編を掲載し<ref>週刊ポスト1970年4月17日号「永易選手の爆弾発言 オレがやった八百長試合の全貌と組んだ選手」p36-40</ref>、8日には「テレビナイトショー」において司会の[[前田武彦]]と大滝が永易にインタビューする映像を放送した<ref>朝日新聞1970年4月9日13面「永易、TV録画で告白 八百長試合は3試合 仲間と対決してもよい」朝日新聞縮刷版1970年4月p277</ref>。その中で永易は「自分が演じた八百長は3試合でそのうち1試合のみが成功で、この試合で自分以外に八百長に関わった選手がいる」と明言した。
永易が捜査当局に八百長を自供した事と、共同通信による実名報道を受けて、7日、西鉄球団はオーナーの楠根と球団社長の青木がそれぞれ記者会見した。楠根と青木は永易の発言は事実無根だと主張した。しかし、記者から告訴などの具体的な手段を立てるべきではないかとの質問に対しては、告訴は考えていないと明言した。


永易の主張に対し、西鉄はオーナーの楠根がソ連、ヨーロッパ視察旅行から帰国した[[4月6日]]に[[福岡空港]]で記者団に対し、「アホらしくて相手にできない」と全面的に否定した<ref>スポーツニッポン1970年4月7日1面「対決する気ない 永易はウソをいっている 一笑に付す 帰国の楠根オーナー」</ref><ref>西日本新聞1970年4月7日15面「永易発言に揺れるプロ球界 金など渡してない 西鉄楠根オーナー強く否定」</ref>。翌日、球団社長の青木とオーナーの楠根が、記者団からの要請で福岡市内にある西鉄の球団事務所および西鉄本社でそれぞれ記者会見したが、双方とも「永易の主張は事実無根」と改めて否定した<ref name=":8">日刊スポーツ1970年4月8日1面「西鉄"永易発言"を黙殺?のらりくらり・態度を示さず 『善処』の1点張り 事実無根、繰り返すだけ 煮え切らぬオーナー、社長」</ref>。しかし、記者から永易を告訴するなどの具体的な手段を立てるべきではないかとの問いに対しては、告訴は考えていないと明言した<ref name=":8" />。
8日にはプロ野球実行委員会が開かれ、永易発言の真相糾明のため永易に公の場に現れるよう呼びかけを行ったほか、コミッショナー事務局長の井原宏が永易に直接会って事情を聞くことを決定、また西鉄球団に対して永易発言で俎上に上がった選手への事情聴取を行うよう要請した。また球界の黒い霧の糾明に乗り出しているスポーツ議連が設置している「プロ野球調査委員会」が、警視庁に対して永易とコミッショナー事務局とを引き合わせへの協力を要請した。


[[4月8日]]、プロ野球実行委員会が15時から東京・大手町の経団連会館で開催され、「永易発言」の真相を究明するために永易に対して「15日までにコミッショナー事務局、またはパシフィック・リーグへ連絡して欲しい」と呼びかけることを決定した<ref>日刊スポーツ1970年4月8日1面「"永易よ出てこい" プロ野球実行委 真相究明へ呼びかけ」</ref>。これに先立ち、コミッショナー委員長の宮沢、委員の中松、コミッショナー事務局長の井原と[[鈴木龍二]]、[[岡野祐]]の両リーグ委員長が協議し、西鉄球団に対して再調査を求めることを決めた<ref>スポーツニッポン1970年4月9日1面「永易よ姿現わせ!!実行委員会が"呼びかけ" "15日までに連絡してほしい" 」</ref>。また同日、球界の黒い霧の究明に乗り出しているスポーツ議連が設置している「プロ野球健全化調査委員会」が会合を開き、警視庁に対して永易とコミッショナー事務局を引き合わせるように協力を要請した<ref>日刊スポーツ1970年4月9日1面「コミッショナーに側面強力 プロ野球健全化調査委」</ref>。
===永易の出現===
内外タイムス、週刊ポスト、テレビナイトショーと特定のメディア媒体を通じて告白を行ってきた永易だが、4月9日に読売新聞が永易を都内で発見してインタビューし<ref>読売新聞1970年4月10日「球団との対決辞さぬ 永易元投手、本社記者に語る」縮刷版p303</ref>、開幕前日の4月10日、大滝が塩谷議員に「永易が会いたいといっている」と連絡した。塩谷は永易が公の場に現れて事情を説明することを条件に出し、大滝もこれを了承した。永易と会った塩谷は、共同の記者会見を行うこと、コミッショナー委員会の喚問に応じるよう永易を説得。週刊ポストの弁護士の[[原秀男]]は、先にコミッショナー委員会に出て実名をだし、記者会見はその後で行い「名前は委員会に聞いてくれ」というほうがいいと助言した<ref name="hara">原秀男「黒い霧の中の野球オンチ 永易事件と私」『自由と正義』1970年8月</ref>。


=== 永易の出現 ===
永易は衆議院第二議員会館第一会議室にて、大滝、塩谷、原らとともに午後三時より記者会見を行い、半年ぶりに公に姿を現した。永易はその会見で、記者団から、これまで週刊ポストなどでイニシャルで名前を挙がっていた西鉄の6人の選手の実名を挙げるよう迫られた。永易は名前を言うのを渋ったが、塩谷が「男として元同僚をかばう気持ちは分かるが、いずれコミッショナー委員会ではいわねばならないのだから、ここで名前を言った方がいい」と言うと、永易は[[池永正明]]、[[与田順欣]]、[[益田昭雄]]、[[村上公康]]、[[船田和英]]、[[基満男]]、[[田中勉 (野球)|田中勉]]の名前を挙げた<ref name="hara" />。そして新たに[[佐藤公博]](元南海ホークス)へ謝礼と引き換えに先発投手の名前を漏らしてたことを公表した。永易は、自分の八百長についてはチームメイトの与田から誘われたこと、また与田はフジナワという人物と知りって八百長をしたのがきっかけであると述べた。
{{Quote box|「自信がないから言えないんだろう」
「もしでたらめだったら、名前を上げられた選手たちは、大変迷惑なんだよ」<br />
記者団の口調は厳しかった。<br />
「ここは国会の中だ。この記者会見は、日本で最も権威のある会見とも言えるんだ。いままで、特定の記者に話したことを、この席で言えないなんて、失礼だと思わないか」


永易選手は、じっとうつむいたきりだ。顔が次第に赤黒く変わり、額に汗がにじむ。唇が小刻みに震える。隣にいた[[塩谷一夫]]議員(プロ野球調査委員長・自民党)が、たまりかねて助け舟を出した。「同僚の名前を口にしたくないきみの男としての気持ちもわかる。みんなもわかってくれている。言いなさい。」
そして、西鉄球団の球団幹部から約550万円の逃走資金をもらっていたことを改めて述べた。受け渡しの際に「フジナワ」と「オオシロ」の3名で会ったこと、西鉄との書類にサインしたと述べた。記者会見後には東京・銀座のプロ野球コミッショナー委員会事務局へ、その後パリーグ事務局へ赴き、いずれも八百長について証言した。


永易は顔を上げた。「ピッチャーでは[[益田昭雄|益田]]、[[与田順欣|与田]]、それにぼく。そのほか、[[船田和英|船田]]、[[基満男|基]]、[[村上公康|村上]]、[[池永正明|池永]]、[[田中勉 (野球)|田中勉]]さんです。池永には田中さんから言ってます。」
===西鉄対永易===
一気にしゃべった。顔からさっと血が引いた。肩が落ちた。記者団からため息が漏れた。
西鉄球団は同日午前に上記6名を呼び事情聴取したが、6名全員が永易の発言を否定、球団は6選手はシロであると発表した。逃走資金についてもそのような事実はないと否定した。パリーグ会長の岡野は、11日に福岡へ飛び西鉄の青木勇三社長や、藤本哲男球団部長などから事情聴取した。その結果永易の主張には裏付けが取れないとして西鉄はシロであると結論付けた。だがマスコミは岡野の調査を「手ぬるい」と非難した<ref>読売新聞1970年4月13日11面「岡野調査には限界 シロでも疑問が残る」縮刷版p403</ref><ref>朝日新聞1970年4月15日13面「手ぬるい八百長調査 事情聴取わずか3日 パ会長、西鉄説明うのみ?」縮刷版p481</ref>。


「ちょうど“コロシのホシ”がオチる(自供する)ときのようだ」とベテラン記者がつぶやいた。
永易の発言で名前の挙がった"フジナワ"とは、神戸で牛乳販売業を営んでいた藤縄洋孝という商人であった。藤縄は15日の深夜に朝日新聞の名古屋本社に自ら出向いて記者のインタビューに答え「西鉄のオーナーとはあったこともない」と永易の発言を否定した<ref>朝日新聞1970年4月16日夕刊10面「西鉄首脳との接触ない "証人"の藤縄氏語る」</ref>。朝日新聞は永易へのインタビューを掲載し、永易はその中で「去年12月にオーナーに会い、なにも言うな。一生面倒を見るからと言われた」「西鉄からもらった金は計550万円」「これで一生の保証かと、大城さんと藤縄さんと相談しオーナーと稲尾監督にかけあったがオーナーからお前の問題は片づいた、稲尾さんから新聞に書くなりなんなりしろと軽くあしらわれた」「こんなに冷たい仕打ちはない」などと答えた<ref>朝日新聞1970年4月19日13面「私はウソはついていない 永易元投手 現金の残り、実家に」縮刷版p617</ref>。朝日新聞は永易と藤縄を都内で引き合わせて「対決」させたが、両者の言い分は平行線をたどったままだった<ref>朝日新聞1970年4月20日14面「永易元投手と藤縄氏 初の対決 スレ違い」縮刷版p646</ref>。


――四月十日午後三時半、衆議院第二議員会館での記者会見のクライマックスだ。|週刊読売<ref name="yomiuri0424"/>|width=40%}}
だが、朝日新聞が永易の前夫人とその友人夫妻を取材し、永易が西鉄からの口止め料を大城と相談していたと聞いたこと、離婚の慰謝料50万円が西鉄からの口止め料から充てていたと両者は明言、さらに大阪の永易の実家にも取材し、オーナーの楠根が1969年の12月に西鉄航空営業部大阪営業所で永易とその父親、兄、そして藤縄と会ったこと、その際口止め料の受け取りは大城を通じて行うことを楠根が主張していたこと、などを話した<ref>朝日新聞1970年4月21日15面「永易元投手のいい分、本当です 二組の証言」</ref>。そして西鉄からの口止め料の一部を実家に預けていたと残金を見せ、母親が「あの子の言っていることは本当です」と涙ながらに訴えた<ref>朝日新聞1970年4月21日15面「ここに証拠の金 残金37万円示す両親 オーナーと会見、藤縄氏も同席」</ref>。


「内外タイムス」「週刊ポスト」「テレビナイトショー」と特定のメディア媒体を通じて告白してきた永易だが、[[4月9日]]に読売新聞の記者が都内で永易を見つけ、インタビューを行っている<ref>読売新聞1970年4月10日15面「球団との対決辞さぬ 永易元投手、本社記者に語る」読売新聞縮刷版1970年4月p303</ref>。開幕前日の[[4月10日]]、大滝が塩谷に「永易が『会いたい』と言っている」と連絡してきた<ref>朝日新聞1970年4月10日夕刊11面「永易選手現れる 衆院議員会館 塩谷代議士を訪ね」朝日新聞縮刷版1970年4月p331</ref>。塩谷は、永易が公の場に現れて事情を説明することを条件に出し、大滝もこれを了承した。永易と面会した塩谷は共同の記者会見を行い、コミッショナー委員会の喚問に応じるように説得し<ref>東京中日スポーツ1970年4月11日2面「塩谷議員の説得で やっと口ひらいた永易」</ref>、週刊ポストの弁護士である[[原秀男]]は先にコミッショナー委員会に出て実名を出し、その後に記者会見を開いた際に「名前は委員会に聞いてくれ」と述べる方が良いと助言した<ref name="hara">原秀男「黒い霧の中の野球オンチ 永易事件と私」『自由と正義』1970年8月号</ref>。
一方、東京地方検察庁特別捜査部は田中勉の週刊ポストへの告訴に絡んで八百長野球の捜査を行っていった。永易を4月14日から16日まで事情聴取、永易の家族からも事情聴取を行った。4月22日、オートレースの八百長事件で小型自動車競走法違反の疑いで逮捕されたレーサーが「大井オートレース場での八百長レースで現役のプロ野球選手とナゾの男2名が現場にいた」と自供<ref>朝日新聞1970年4月22日夕刊11面「プロ野球選手からむ?オートレース八百長事件 不正現場に数名いた 逮捕のレーサー自供」縮刷版p731</ref>。その結果、4月23日[[小型自動車競走法]]違反の容疑で警視庁捜査四課は[[田中勉 (野球)|田中勉]]、元[[横浜DeNAベイスターズ|大洋ホエールズ]]投手の[[高山勲]]、そして藤縄を逮捕した。


永易は、衆議院第二議員会館第一会議室において大滝、塩谷、原と共に15時から記者会見を行い、半年ぶりに公の場へ姿を現した<ref>朝日新聞1970年4月11日1面「『他球団も関係 西鉄から口止め料』永易、八百長事件で記者会見」朝日新聞縮刷版1970年4月p333</ref>。永易はその会見で、記者団からこれまでイニシャルで名前を挙げた西鉄の選手6名の実名を挙げるように迫られた。当初、永易が実名を言うのを渋ったが、塩谷から「男として元同僚を庇うのは分かるが、いずれコミッショナーで言わなければならないのだから、ここで言った方が良い」と助言されると、永易は[[池永正明]]、[[与田順欣]]、[[益田昭雄]]、[[村上公康]]、[[船田和英]]、[[基満男]]、[[田中勉 (野球)|田中勉]]の名前を挙げた<ref name="hara" />。そして新たに[[佐藤公博]](元[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]])へ謝礼と引き換えに先発投手の名を漏らしていたことを公表した。永易は、自身の八百長については与田から勧誘されたことと、与田は「フジナワ」という人物と知り合って八百長を行っていたのがきっかけだと述べた。
藤縄は逮捕される直前、朝日新聞の記者に対して現役のプロ野球選手を買収して八百長を行わせていたことを認めた<ref>朝日新聞大阪版1993年12月13日夕刊3面「プロ野球黒い霧を追って:5 (ザ・新聞社)」</ref>。朝日新聞は藤縄の逮捕を報じた4月24日の朝刊でこの藤縄の告白を掲載し<ref>朝日新聞1970年4月24日「私は八百長を仕組んだ 野球とばく 藤縄が全貌を語る」縮刷版p783</ref>大きな反響を呼んだ。コミッショナー委員長の宮沢は24日夕方記者団に対して「けさの朝日新聞に載った藤縄談話は注目に値するものと思う」と語った<ref>デイリースポーツ1970年4月25日1面「藤縄談話は有力資料 宮沢コミッショナー 事態発展に厳しい表情」</ref>。藤縄は西鉄選手を買収し10回試みて成功は2回のみの大損で、四千五百万円近い借金が出来たと述べる。


そして永易は、西鉄の球団幹部から約550万円の逃走資金を受け取っていたことも改めて述べた。受け渡しの際には「フジナワ」と永易で会っていたことと、西鉄の書類にサインしたと述べ、記者会見後にはそのまま東京・銀座のプロ野球コミッショナー委員会事務局へ向かい、さらにパ・リーグ事務局でいずれも八百長について証言した。
4月25日に西鉄本社にて44年度下期の決算報告が行われ、西鉄本社社長の楠根が公に現れるとあって黒い霧事件を取材している記者約30名も詰めかけたが、西鉄側は記者会見へは経済記者のみに限定した<ref>毎日新聞1970年5月2日17面「プロ野球ざっくばらん ウソは必ずバレる 窮地に陥った楠根オーナー」縮刷版p49</ref>。各マスコミは出席を許されていた記者に黒い霧に関連した質問をさせようとしたが、楠根は決算報告中に退席し、追いすがる記者を振り切って姿を消した<ref>デイリースポーツ1970年4月26日1面「なぜ逃げる?楠根オーナー 西鉄に弱み・・深まる疑惑」</ref>。こうした楠根の姿勢は世論とマスコミの反感をますます買うことになる。


=== 西鉄球団vs永易 ===
そして、4月28日の読売新聞と毎日新聞の各夕刊<ref>読売新聞1970年4月28日夕刊「永易との金銭授受 暗に認める」縮刷版p907</ref><ref>毎日新聞1970年4月28日夕刊「永易に金渡した 西鉄・楠根オーナー認める」縮刷版p899</ref>は楠根宗生オーナーがこれまで否定していた永易への金銭授受を認めたと報道。両紙は楠根にそれぞれ単独インタビューし楠根は「永易から泣きつかれたので、更生資金として渡した」と答えた。29日には東京地検特捜部から出頭要請を受けて上京して取り調べを受けて、永易に対して550万円を渡していたことを認めた<ref>朝日新聞1970年4月30日15面「永易発言とぴたり一致 五百五十万円を渡す 楠根オーナー地検で供述」</ref>。
西鉄球団は、開幕前日の[[4月10日]]午前中に上記6名を球団事務所へ呼び出して事情聴取したが、全員が永易の発言を否定し、球団は6名をシロと発表した。逃走資金についてもそのような事実は無いと否定した<ref>日本経済新聞1970年4月11日17面「大揺れの西鉄 平和台球場 練習もしめりがち」日本経済新聞縮刷版1970年4月p365</ref>。[[パシフィック・リーグ]]会長の岡野は11日に福岡へ向かい、西鉄球団社長の青木や球団部長の藤本哲男から事情聴取した。その結果、永易の主張には裏付けが取れないとして西鉄はシロと結論付けた。だが、マスコミは岡野の調査を「手ぬるい」と非難した<ref>読売新聞1970年4月13日11面「岡野調査には限界 シロでも疑問が残る」読売新聞縮刷版1970年4月p403</ref><ref>朝日新聞1970年4月15日13面「手ぬるい八百長調査 事情聴取わずか3日 パ会長、西鉄説明うのみ?」朝日新聞縮刷版1970年4月p481</ref>。


永易の発言で名前が挙がった「フジナワ」とは、神戸で牛乳販売業を営んでいた藤縄洋孝という商人だった。藤縄は[[4月15日]]深夜に[[朝日新聞]]名古屋本社へ自ら足を運んでインタビューに答え、「西鉄のオーナー(楠根)とは会ったこともない」と永易の発言を否定した<ref>朝日新聞1970年4月16日夕刊10面「西鉄首脳との接触ない "証人"の藤縄氏語る」朝日新聞縮刷版1970年4月</ref>。朝日新聞はその後に永易のインタビューも掲載し、その中で「[[1969年|去年]]12月にオーナー(楠根)に会い、『何も言うな。一生面倒を見るから』と言われた」「西鉄からもらった金は合計550万円…これで『一生の保証か』と。藤縄さんと相談して(楠根)オーナーと稲尾監督に掛け合ったが、オーナーから『お前の問題は片付いた。稲尾さんから新聞に書くなり何なりしろ』と軽くあしらわれた。こんなに冷たい仕打ちはない」と答えた<ref>朝日新聞1970年4月19日13面「私はウソをついていない 永易元投手 現金の残り、実家に」朝日新聞縮刷版1970年4月p617</ref>。見かねた朝日新聞は、都内で永易と藤縄を引き合わせて「対決」させたが、両者の言い分は平行線を辿ったままだった<ref>朝日新聞1970年4月20日14面「永易元投手と藤縄氏 初の対決 スレ違い」朝日新聞縮刷版1970年4月p646</ref>。
==泥沼化する球界の黒い霧==
===大揺れの西鉄===
西鉄球団は永易の"告白"を事実無根と主張していたが、オーナーの楠根が前言を翻して永易へ資金を渡していた事を認めたため、永易証言による西鉄選手の八百長疑惑に対しても、黒と見る向きが高まった。5月4日、プロ野球コミッショナー委員会は、東京に遠征中の西鉄の6名選手を東京の日生会館に呼んで、5時間近く事情聴取を行った。聴取に対して6選手全員が永易発言の疑惑について否定した。


しかし朝日新聞は、永易の前妻とその友人夫妻を取材して「『永易が西鉄からの口止め料を相談していた』と聞いた」こと、「離婚の慰謝料50万円が西鉄球団からの口止め料から充てていた」と両者は明言した<ref>朝日新聞1970年4月21日15面「『永易元投手のいい分、本当です』 二組の証言」朝日新聞縮刷版1970年4月p679</ref>。続けて、八百長の噂のある選手の取り調べに立ち会った球団職員から「『八百長を認めた選手がいた』ことを聞いたという元後援会員の『他の選手も八百長をやっていたのは西鉄球団も知っているはず』」という証言を得た<ref>朝日新聞1970年4月21日15面「『同僚選手も八百長』 元後援会員」朝日新聞縮刷版1970年4月p679</ref>。さらに、大阪にある永易の実家にも取材を申し込んだところ、永易の家族は「楠根が{{by|1969年}}12月に西鉄航空営業部大阪営業所で永易とその父親、兄、藤縄と面会したこと」と、「その際の口止め料の受け取りは『オオシロ』なる人物を通じて行うことを楠根が主張していた」と証言した。永易の母親は、西鉄球団からの口止め料の一部を実家に預けていたと証言して残金を見せ、「あの子の言っていることは本当です」と涙ながらに訴えた<ref>朝日新聞1970年4月21日15面「ここに証拠の金 残金37万円示す両親 オーナーと会見、藤縄氏も同席」朝日新聞縮刷版1970年4月p679</ref>。
田中に続いて、今度は中日ドラゴンズのエース[[小川健太郎]]にもオートレースの八百長疑惑が浮上した<ref>毎日新聞1970年4月29日19面「セのO投手浮かぶ 八百長オート」縮刷版p919</ref>。5月2日読売新聞の夕刊が小川健太郎、葛城隆雄が八百長オートレースに絡んでいたと実名で報道<ref>読売新聞1970年5月2日夕刊9面「プロ野球選手現役に波及 八百長オート 小川と葛城両選手」</ref>したため、中日球団は小川を2日夕方謹慎を命じたと発表した<ref>スポーツニッポン1970年5月3日2面「中日、小川を謹慎 一部の実名報道で」</ref>。5月6日午前に小川は警視庁に出頭し、小型自動車競走法違反の疑いで逮捕された。小川の逮捕を受けて、セリーグ会長の[[鈴木龍二]]は小川を無期限の出場停止処分とした。現役選手の逮捕にまで発展した球界の黒い霧に対して、世間の風当たりは厳しくなっていった。6日、コミッショナー委員会は与田、益田について「はっきり黒と断定できないものの疑惑が濃い相当の理由がある」として野球協約第四〇四条に基づき出場停止処分とする。


一方で、[[東京地方検察庁]][[特別捜査部]](東京地検特捜部)は、田中の「週刊ポスト」への告訴に絡んで八百長の捜査を行っていた。さらに永易本人を[[4月14日]]から16日にかけて事情聴取し<ref>朝日新聞1970年4月17日夕刊10面「大城・藤縄氏も呼ぶ?八百長問題で東京地検特捜部」朝日新聞縮刷版1970年4月p570</ref>、永易の家族からも事情聴取を行った。[[4月22日]]、[[オートレース]]の八百長事件で[[小型自動車競走法]]違反の疑いで逮捕された現役レーサーが、「[[大井オートレース場]]での八百長レースで現役のプロ野球選手と謎の男2名が現場にいた」と供述した<ref>朝日新聞1970年4月22日夕刊11面「プロ野球選手からむ?オートレース八百長事件 不正現場に数名いた 逮捕のレーサー自供」朝日新聞縮刷版1970年4月p731</ref>。その結果、[[4月23日]]に警視庁捜査四課は、同じく小型自動車競走法違反の容疑で田中、藤縄と[[高山勲]](元[[横浜DeNAベイスターズ|大洋ホエールズ]]投手)を逮捕した<ref>朝日新聞1970年4月24日15面「田中勉(元中日)高山(元大洋)を逮捕 八百長オート レーサーをだき込む 藤縄も逮捕 数十万円を渡す」朝日新聞縮刷版1970年4月p783</ref>。藤縄は逮捕直前、朝日新聞の記者に対して現役のプロ野球選手を買収して八百長を仕組んでいたことを認めた<ref>朝日新聞大阪版1993年12月13日夕刊3面「プロ野球黒い霧を追って:5 (ザ・新聞社)」</ref>。これを受けて朝日新聞は、藤縄が逮捕されたことを報じた[[4月24日]]の朝刊でこの藤縄の告白を掲載し、大きな反響を呼んだ<ref>朝日新聞1970年4月24日15面「私は八百長を仕組んだ 野球とばく 藤縄が全容を語る」朝日新聞縮刷版1970年4月p783</ref>。コミッショナー委員長の宮沢は同日夕方に記者団の取材に応じ、「今朝の朝日新聞に載った藤縄談話は注目に値するものと思う」と語った<ref>デイリースポーツ1970年4月25日1面「藤縄談話は有力資料 宮沢コミッショナー 事態発展に厳しい表情」</ref>。藤縄は西鉄選手の買収を10回試みて成功したのは僅か二度で、4500万円近い借金だけが残ったと述べている。
そして7日、西鉄球団は池永、船田、基、村上の4選手の公式戦出場を5月いっぱい見合わせると発表した。西鉄は、すでに出場停止処分となっている2選手と合わせて主力選手を6名も欠くという非常事態となった。8日には4名を球団事務所に呼び、夕方から深夜に及ぶ長時間の事情聴取を行った。その結果6名はかなずしもシロではないと発表し、西鉄球団がようやく真相糾明に乗り出した。


[[4月25日]]、西鉄本社にて昭和44年度下期の決算報告が行われた。社長兼オーナーである楠根が公の場に現れるとあって、黒い霧事件を取材している記者を中心に約30名が詰めかけたが、西鉄側は記者会見の参加を経済記者のみに限定した<ref>毎日新聞1970年5月2日17面「プロ野球ざっくばらん ウソは必ずバレる 窮地に陥った楠根オーナー」毎日新聞縮刷版1970年4月p49</ref>。記者側は出席を許された記者に黒い霧に関連した質問をさせようとしたが、楠根は決算報告の最中に退席し、追いすがる記者を振り切って姿を消した<ref>デイリースポーツ1970年4月26日1面「なぜ逃げる?楠根オーナー 西鉄に弱み・・深まる疑惑」</ref>。こうした楠根の姿勢は次第に世論とマスコミの反感を買い続けることとなる。そして、[[4月28日]]の読売新聞・毎日新聞の各紙夕刊において<ref>読売新聞1970年4月28日夕刊11面「永易との金銭授受 暗に認める 西鉄楠根オーナー 口止め料ではない」読売新聞縮刷版1970年4月p907</ref><ref>毎日新聞1970年4月28日夕刊11面「『永易に金渡した』西鉄・楠根オーナー認める 泣きつかれ、生活費に 百万円・口止め料とちがう」毎日新聞縮刷版1970年4月p899</ref>、楠根がこれまで否定し続けてきた永易への金銭授受を認めたと報じた。両紙は楠根に単独インタビューを行い、楠根は「永易から泣きつかれたので、更生資金として渡した」と答えた。[[4月29日]]には東京地検特捜部から出頭要請を受け、上京して取り調べを受けた際に、永易に対して550万円を渡していたことを認めた<ref>朝日新聞1970年4月30日15面「永易発言とぴたり一致 五百五十万円を渡す 楠根オーナー地検で供述」朝日新聞縮刷版1970年4月p999</ref><ref>毎日新聞1970年4月30日23面「渡した金は550万円 永易発言と一致 仲介者いる席で四回 東京地検で楠根オーナー認める」毎日新聞縮刷版1970年4月p959</ref>。
13日には、船田、基、村上が球団社長の青木に真相はこうだという告白状を提出した<ref>報知新聞1970年5月14日3面「与田に呼ばれ頼まれた 船田、基、村上が青木球団社長に告白状」</ref>。船田は永易から、基と村上は与田から八百長の勧誘を受けた。その際に八百長料を渡されたが「金を渡しそびれた」(船田)、「5日後に返した」(基)「その場で返した」(村上)
とさまざまだったが、三者ともに「八百長は断った」と主張した。


== 泥沼化する球界の黒い霧 ==
そして同日、永易への逃走資金を認めたことで非難を浴びていたオーナーの楠根が記者会見を行い、西鉄本社社長、球団オーナーを辞職することを明らかにした。
=== 大揺れの西鉄 ===
西鉄球団は永易の“告白”を事実無根と主張していたが、楠根が前言を翻して永易へ資金を渡していたことを認めたため、永易の証言による西鉄選手の八百長疑惑に対してもクロと見る向きが高まった。


{{by|1970年}}(昭和45年)[[5月4日]]、プロ野球コミッショナー委員会は、東京遠征中だった西鉄の6名を東京の日生会館に呼び、午前10時から5時間近くに渡って事情聴取を行った<ref>朝日新聞1970年5月4日夕刊11面「緊張・上気・照れ笑い・・・喚問会で西鉄六選手追及 八百長野球 コミッショナー委」朝日新聞縮刷版1970年5月p123</ref>。しかしここでも、6名全員が永易発言に対して否定した<ref>朝日新聞1970年5月5日15面「喚問会 全員、八百長否定 西鉄六選手ら記者会見」朝日新聞縮刷版1970年5月p139</ref>。
===次々に発覚する黒い霧===
また黒い霧の選手は他球団にも波及した。5月9日の朝日新聞は、[[北海道日本ハムファイターズ|東映フライヤーズ]]の2選手が敗退行為の勧誘を受けていたと報道<ref>朝日新聞1970年5月9日「八百長選手、東映にも 50万円で2投手請負う」縮刷版p251</ref>。朝日新聞の報道を受けて、田中調が「新聞に載っていた2人のうちひとりは自分のことだと思う」と名乗った<ref>朝日新聞1970年5月10日「八百長は拒否 届けなかった 田中投手」縮刷版p283</ref>。東映球団は9日の後楽園球場での試合後に森安と田中に対して事情聴取し、その後田中、森安、球団代表の田沢八十彦の3人が記者会見した。


コミッショナー委員会は2日後の[[5月6日]]、事情聴取した6名のうちの与田と益田について「はっきりクロと断定出来ないものの、疑惑が濃い相当の理由がある」として、野球協約第404条に基づき出場停止処分とした<ref>日刊スポーツ1970年5月7日2面「“厳罰”にガックリ与田、益田 もう野球やめたい 自ら『ウソ』認める口ぶり」</ref>。そして翌日には池永、船田、基、村上の4名に対して公式戦への出場を5月いっぱい見合わせることを発表した<ref>日刊スポーツ1970年5月8日1面「池永ら4選手の出場辞退 西鉄発表『今月末日まで』」</ref>。これにより西鉄は、与田・益田を含めて主力選手を6名も欠く非常事態となった。[[5月8日]]には池永ら4名を福岡市内の球団事務所に呼び出し、夕方から深夜におよぶ長時間の事情聴取を行った<ref>日刊スポーツ1970年5月9日1面「池永ら4選手も“心証クロ”西鉄、深夜の再調査 資料まとめコミッショナー裁定待つ」」</ref>。そして西鉄球団は日付が変わった[[5月9日]]午前1時45分より記者会見を行い、調査した結果、6名はシロとは言い切れない要素が出てきたと発表し、西鉄球団がようやく真相究明に乗り出した。
会見で、田中と森安は1969年9月に西鉄戦のため福岡に来た際、試合後に永易から誘われて3人に飲みに出かけ、その途中で永易が自分の知り合いがいると言って3人で藤縄の住んでいたアパートに立ち寄り、その際藤縄が二人の前に60万円を見せ、八百長を依頼があったことを認めた。しかし、森安は八百長を誘われたのは田中だけという口ぶりだったが、田中は二人に対して八百長の依頼があったと思ったと言い出し、主張がちぐはぐであった<ref>朝日新聞1970年5月10日「八百長野球 東映、二投手に事情聞く」</ref>。翌日、オーナーの[[大川博]]が都内の自宅に田中、森安の2人を呼んで事情聴取、その後大川、森安、田中の3人が記者会見。大川は、2人とも八百長の依頼があったことを認めるもこれを拒否し金銭も受け取っていないと判断したと発表したが、2人はそ依頼があったその後に永易と藤縄と飲み歩いていたことを認めたため、二人の出場を見合わせると発表した。


オートレースの八百長で逮捕された田中は、5月6日の東京地検特捜部の調べに対してプロ野球でも八百長を演じたことを認めた<ref>日刊スポーツ1970年5月7日1面「田中、八百長認める 43年10月 44年5月 巨人、広島との2試合」</ref>。このため、週刊ポストの記事は田中への名誉棄損には当たらないと判断し、「世間を騒がせて申し訳ない。いまは反省すべき時で告訴どころではない」として告訴を取り下げる手続きを取った<ref>日本経済新聞1970年5月7日19面「八百長数回やった 田中自供 小川も一役」日本経済新聞縮刷版1970年5月p175</ref>。それを受けて東京地検特捜部は「週刊ポスト」を不起訴処分として捜査を打ち切った<ref>朝日新聞1970年5月9日夕刊11面「名誉棄損捜査打ち切る 田中勉の週刊誌告訴事件」朝日新聞縮刷版1970年5月p267</ref>。そして[[池永正明]]に対しては、藤縄からの依頼で100万円で八百長を依頼していたことを供述した<ref>毎日新聞1970年5月8日19面「池永投手に八百長料百万円 東京地検が確認 藤縄に頼まれ田中が渡す」毎日新聞縮刷版1970年5月p215</ref>。池永も当初は否定したものの、[[5月10日]]に福岡市内にあった西鉄の室内練習場において、報道陣に対して田中から100万円をもらったことを認めた<ref>日刊スポーツ1970年5月11日1面「池永"球界追放"は必至?きょう注目のパ・リーグ理事会 “黒い百万円”を告白 八百長は否定 明らかに協約違反」</ref>。
14日には毎日新聞とスポーツニッポンが[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]]球団職員の山崎晃が[[1967年]]シーズンに暴力団に八百長を強要するよう脅されたため監督や選手に八百長を働きかけ、近鉄球団が球団ぐるみ八百長を行っていたと報道した<ref>毎日新聞1970年5月14日「三年前、球団ぐるみ八百長 近鉄」縮刷版p405</ref><ref>スポーツニッポン1970年5月14日3面「42年、近鉄でも『八百長』」</ref>{{Refnest|group="注釈"|この近鉄の八百長については朝日新聞がさる4月16日の夕刊で「西日本のある球場で行われたX球団対Y球団」で八百長試合があったと報じていた<ref>朝日新聞1970年4月16日夕刊11面「これが"八百長"試合だ 野球トバク その実態を探る」縮刷版p467</ref>。}}。19日には、[[阪神タイガース]]内野手の[[葛城隆雄]]がオートレースの八百長容疑で逮捕された。これを受けてセ・リーグは葛城を無期限出場停止とし、さらに6月18日開催のコミッショナー委員会で3か月の期限付失格選手に指名された(葛城は処分解除後に自由契約選手となり、そのまま現役を引退)。


[[5月12日]]、与田は[[日刊スポーツ]]の取材に対して「僕と益田は、やっていないといったところでおかしいでしょう」と自らの八百長を認めた。さらに基と村上にも八百長を持ち掛けたことも認めたうえで両者から断られたと明かし、「基、村上はシロだと言える。この二人はやっていないだろう」と明言した<ref>日刊スポーツ1970年5月13日2面「与田もクロ認める 野球もうやめる決心 基 村上は白 いつでも証人に」</ref>。
オートレースの八百長で警視庁に逮捕された田中勉は、東京地検と警視庁の取り調べに対して、プロ野球の試合でも八百長を演じていたことを認めた。このため東京地検は週刊ポストの記事は田中への名誉棄損には当たらないとの判断を示した。田中は告訴を取り下げ、東京地検は週刊ポストを不起訴処分として捜査を打ち切った。7日には西鉄のエース[[池永正明]]に対して藤縄からの依頼で百万円で八百長を依頼していたことを供述。これに対して池永は当初は否定したものの、10日に福岡市内の西鉄室内練習場にて報道陣に対して田中から百万円を貰った事を認めた。


[[5月13日]]には船田、基、村上が球団社長の青木宛に「真相はこうだ」という告白状を提出した<ref>報知新聞1970年5月14日3面「与田に呼ばれ頼まれた 船田、基、村上が青木球団社長に告白状」</ref>。船田は永易から、基と村上は与田からそれぞれ八百長の勧誘を受け、その際に代金を渡されたが「金を渡しそびれた」(船田)、「5日後に返した」(基)、「その場で返した」(村上)と主張は様々だったものの、金銭は受け取っていない、または返却したと述べ、全員が「八百長は断った」と主張した。そして同日、永易への逃走資金を認めたことで非難を浴びていた楠根は福岡市内の西鉄本社にて13時より記者会見を行い、西鉄本社社長とオーナーの一切の公職から辞職することを表明した<ref>西日本新聞1970年5月13日夕刊1面「楠根西鉄社長が辞任 後任に吉本専務 球団オーナーは木本常務」</ref><ref>日刊スポーツ1970年5月14日1面「西鉄・楠根オーナー退陣 後任に木本氏 “八百長”の責任をとる」</ref>。
===西鉄選手へのコミッショナー裁定===
5月16日、パリーグの理事会が開かれ、6時間に渡る会議では主に西鉄6選手の処分を討議した。パリーグ会長の岡野は、この会議での各理事の議論を参考に6選手への裁定案をまとめてコミッショナーへ提出。20日にコミッショナー委員会が開かれて、3委員が処分案を討議した。


=== 次々に発覚する黒い霧 ===
25日コミッショナー委員会の3委員が後楽園サロンにて記者会見し、6選手への処分を発表した<ref>鈴木龍二『プロ野球と共に五十年(下)私のプロ野球回顧録』恒文社新書、1984年、p195-p201</ref>。池永、与田、益田の3人の投手は永久追放処分。理由は与田と益田については敗退行為を認定。池永は敗退行為の勧誘に際して受け取った100万円の返却を怠ったことを八百長を承諾したと見なしこれをプロ野球協約第355条違反(当時)として処分を下した。村上と船田は、八百長を依頼されたがこれを否定したという本人の主張が認められた形となったが、八百長を依頼された際に渡された報酬の返却を怠った事で11月30日まで試合を含む完全野球活動禁止処分。基は八百長を依頼されるも否定、報酬も渡されるもこれを返却したことは認められた。
黒い霧の選手は他球団にも波及した。


逮捕された田中に続いて、[[中日ドラゴンズ]]のエースである[[小川健太郎]]にもオートレースの八百長疑惑が浮上した<ref>毎日新聞1970年4月29日19面「セのO投手浮かぶ 八百長オート」毎日新聞縮刷版1970年4月p919</ref>。[[5月2日]]に読売新聞の夕刊が、小川と[[阪神タイガース]]の内野手・[[葛城隆雄]]が八百長オートレースに関与していたと実名で報道し<ref>読売新聞1970年5月2日夕刊9面「プロ野球選手現役に波及 八百長オート 小川と葛城両選手」</ref>、中日球団は小川に対して同日夕方に自宅謹慎を命じた<ref>スポーツニッポン1970年5月3日2面「中日、小川を謹慎 一部の実名報道で」</ref>。その後、小川は[[5月6日]]午前に警視庁へ出頭し、[[小型自動車競走法]]違反の疑いで警視庁捜査四課に逮捕された<ref>朝日新聞1970年5月6日夕刊11面「中日 小川投手を逮捕 八百長オート 黒いプロ野球 現役に追及の手」朝日新聞縮刷版1970年5月p167</ref>。現役選手の逮捕にまで発展した球界の黒い霧に対して、[[セントラル・リーグ]]会長の[[鈴木龍二]]は逮捕された小川を無期限の出場停止処分としたが、世間の風当たりは一層厳しさを増していた<ref>読売新聞1970年5月6日夕刊10面「徹底的にウミを出せ ファンは怒る 常識に欠ける選手 カネに対し甘い考え」読売新聞縮刷版1970年5月p152</ref>。
===くすぶり続ける球界の黒い霧===
オートレースの八百長で逮捕された小川は5月27日に東京地検に起訴された。中日球団はこの日小川との契約の解除をセリーグに申請したが、セリーグ会長の鈴木龍二はこれを保留した。この段階でセリーグが独自に調査したところ、小川がプロ野球の試合でも八百長を演じていたとの疑惑を掴んだ。鈴木は6月2日にコミッショナー委員会に対して永久失格選手として処分してほしいとの要望書をコミッショナー委員会に提出した。鈴木は1日に記者会見し、記者から「小川が否定しても、それを突き返すだけの資料があるということか」との問いに「そう解釈してもらっていい」と答えている<ref>日刊スポーツ1970年6月2日1面「中日・小川も永久追放 "野球でも八百長"」</ref>。3日、コミッショナー委員会が開かれ、小川を野球協約第120条の「統一契約書にある条項」に違反したとし、同項では違反した場合期限付きまたは永久の失格選手に指名されるという項目のうち後者を適用して、永久失格処分とする裁決を発表した<ref>日刊スポーツ1970年6月4日「"小川の追放"本決まり コミッショナー委 統一契約書違反を初適用」</ref>。


[[5月7日]]には、朝日新聞の夕刊にて藤縄が{{by|1969年}}(昭和44年)のシーズン中に[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテオリオンズ]]に対して「姫路のマスダ」と名乗り、監督の[[濃人渉]]と球団代表の武田和義に接近し、「私の言うとおりにすればオリオンズは優勝できる」と八百長を持ちかけようとしたと報道した<ref>朝日新聞1970年5月7日夕刊10面「ロッテにも"黒い手" 藤縄 球団ははねのける」朝日新聞縮刷版1970年5月p194</ref>。
一方、東映の田中、森安の疑惑に対して、パリーグ会長の岡野は5月14日に東映から調査の報告書を受け取った。これを元に岡野は福岡、大阪で調査を行った。その結果東映の報告には不備があると指摘し、2日、東映球団に対して2名に対して再調査するよう命じた。3日、東映は2投手から再び事情聴取をしたところ、森安は9月27日の永易と藤縄から八百長の依頼があった後の行動について、「永易らとクラブで遊んだあと一人で宿舎に帰った」との主張していたのに「芸者と遊んだ後2人で帰った」と食い違う発言をした。そのため球団は森安を無期限の出場停止にした。


[[5月9日]]の朝日新聞では、[[北海道日本ハムファイターズ|東映フライヤーズ]]に所属する2名の選手が敗退行為の勧誘を受けていたと報じた<ref>朝日新聞1970年5月9日15面「八百長選手、東映にも 50万円で2投手請負う」朝日新聞縮刷版1970年5月p251</ref>。その報道を知った[[田中調]]が「新聞に載っていた2人のうちの一人は自分だと思う」と名乗り出た<ref>朝日新聞1970年5月10日15面「八百長は拒否 届けなかった 田中投手」朝日新聞縮刷版1970年5月p283</ref>。東映球団は当日の試合後に田中と[[森安敏明]]、球団代表の田沢八十彦が揃って記者会見を開き、田中と森安は{{by|1969年}}(昭和44年)9月の西鉄戦で福岡へ遠征した際に、試合後に永易から勧誘されて3人で飲みに出かけ、その途中で永易が自分の知り合いがいると言って全員で藤縄のアパートに立ち寄り、その際に藤縄が二人に60万円を見せて八百長の依頼があったと認めた。森安は「八百長を誘われたのは田中だけ」という口ぶりだったが、田中は「(自分と森安の)2人に対して八百長の依頼があったと思った」と言い出し、主張が噛み合わなかった<ref>朝日新聞1970年5月10日15面「八百長野球 東映、二投手に事情聞く」朝日新聞縮刷版1970年5月p283</ref>。[[5月10日|翌日]]、会見を見ていたオーナーの[[大川博]]が自宅に田中と森安を呼んで事情聴取を行い、その後に3人での記者会見を開いた。大川は両者とも八百長の依頼があったことを認めるもこれを拒否して金銭も授受していないと判断したが、2人は依頼があったその後に永易、藤縄両名と飲み歩いていたことを認めたため、2人の試合出場を見合わせることを発表した<ref>朝日新聞1970年5月11日15面「遠征からはずす 東映 森安、田中投手」朝日新聞縮刷版1970年5月p311</ref>。
兵庫県警は野球賭博の捜査のため7月から、コミッショナー委員会から処分を受けた西鉄の選手や、永易、小川健太郎らから事情聴取していた。森安も参考人として7月16日から事情聴取した。16日の取り調べに対しては、八百長を否定したが、17日、取り調べに対して、永易から八百長の依頼を承諾し、現金50万円を受け取っていたと自供した。すでに八百長の依頼があって現金を預かったままの池永を永久追放処分した先例があることから、森安の永久追放処分も決定的となった<ref>日刊スポーツ1970年7月17日1面「森安も永久追放へ 八百長野球、50万円の授受を自供」</ref>。オーナーの大川の命で27日に森安は記者会見を行ったが、「金はもらったが八百長はやっていない」「永易から電話で八百長の依頼があったが朝だったので眠くて覚えていなかった」などと語った森安の会見は「肝心のことはなにがなにやらさっぱり要領を得ず」<ref>日本経済新聞1970年7月28日17面「弁明、要領得ず 森安が記者会見」</ref>などとマスコミに評された。


14日には、毎日新聞とスポーツニッポンが[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]]の球団職員が{{by|1967年}}(昭和42年)シーズンに暴力団員の男から八百長を強要するよう脅されたため、監督の[[小玉明利]]や選手に八百長を働きかけ、近鉄が球団ぐるみで八百長を行っていたと報じた<ref>毎日新聞1970年5月14日19面「三年前、球団ぐるみ八百長 近鉄」毎日新聞縮刷版1970年5月p405</ref><ref>スポーツニッポン1970年5月14日3面「42年、近鉄でも『八百長』」</ref>{{Refnest|group="注釈"|この近鉄の八百長については朝日新聞が[[4月16日]]の夕刊で「『西日本のある球場で行われたX球団 対 Y球団』で八百長試合があった」と報じていた<ref>朝日新聞1970年4月16日夕刊11面「これが"八百長"試合だ 野球トバク その実態を探る」朝日新聞縮刷版縮刷版1970年4月p467</ref>。}}。事実、この年は西鉄の一軍投手コーチだった[[大津守]]が大阪での近鉄戦で自軍の主力投手陣による八百長を疑い、独自に内偵を行ったことが問題視され、二軍コーチへ降格される事件が起きた。実際には近鉄、西鉄の双方が八百長を行っており、しかも大津自身が両球団に在籍していた経験を持つことからその動きを即座に察知していたが、この時点での西鉄球団は八百長が無いと判断していた。また、この頃に近鉄の主力投手だった[[鈴木啓示]]も暴力団関係者から八百長行為を持ち掛けられたが、断ったことを明かしている<ref name=":9" /><ref name=":10" />。
7月30日、コミッショナー委員会から森安への裁決が下され、永久追放処分が下された<ref>石川泰司『消えた男たち ドラフト20年』毎日新聞社、1986年、p34</ref>。森安と球団代表の田沢が京橋の球団事務所で記者会見し、「たかが50万円でバカなことをした」と謝罪した<ref>日本経済新聞1970年7月31日17面「土下座したい 涙ぐむ永久追放の森安」</ref>。


そして[[5月19日]]には、葛城がオートレースの八百長容疑で警視庁捜査四課に逮捕された。これを受けて[[セントラル・リーグ]]は葛城を無期限の出場停止処分とした<ref>朝日新聞1970年5月19日夕刊11面「葛城(阪神)ついに逮捕 八百長オート」朝日新聞縮刷版1970年5月p613</ref>。6月18日、コミッショナー委員会はセ・リーグ会長の鈴木の申請を受け、3ヶ月の期限付き失格処分とした<ref>報知新聞1970年6月20日3面「葛城の三カ月失格選手確定 コミッショナー委」</ref>。
コミッショナー委員長の宮沢は記者会見で「球界の黒い霧についてひとまずこれで調べが済んだが、これで終わりかと言われたら、私はそう言い切る自信はない」といった。


== 関係者の処分 ==
同時期に、次の不祥事とその処分がある。
=== 西鉄選手への裁定 ===
{{by|1970年}}(昭和45年)[[5月16日]]に[[パシフィック・リーグ]]の理事会が開催され、6時間にも及んだ会議では西鉄に所属する6名の選手の処分を討議した<ref>日刊スポーツ1970年5月17日3面「与田・益田は永久追放?パ緊急理事会 西鉄6選手の"処分案"提出へ」</ref>。会長の岡野は、この会議での各理事の議論を参考に6選手への裁定案をまとめてコミッショナーへ提出し、20日のコミッショナー委員会で3委員が処分案を討議した。その後、25日にコミッショナー委員会の3委員が後楽園サロンで記者会見を開き、6名の選手の処分を発表した<ref>朝日新聞1970年5月26日1面「永久追放 与田・益田・池永 西鉄6選手に裁決 コミッショナー委員会」朝日新聞縮刷版1970年5月p827</ref><ref>鈴木龍二『プロ野球と共に五十年(下)私のプロ野球回顧録』恒文社新書、1984年、p195-p201</ref>。


池永、与田、益田の3投手は最も重い「永久追放処分」とした。理由として、与田・益田の敗退行為が認定され、池永は敗退行為の勧誘に際して受け取った100万円の返却を怠ったことを「八百長を承諾した」と見なし、これをプロ野球協約第355条(当時)違反として処分を下した。村上、船田については八百長を依頼されたものの否定したという本人の主張が認められたが、八百長を依頼された際に渡された報酬の返却を怠ったとして、同年[[11月30日]]まで試合出場を含む一切の野球活動を完全に禁止する処分を下した。基については八百長を依頼されるも拒否し、報酬を渡されても返却したことが認められたが、関係各所に報告しなかったことで厳重注意処分とした。
* 6月17日 - [[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトアトムズ]]捕手の[[加藤俊夫]]が自動車の無免許運転で逮捕される。翌6月18日、ヤクルトは無期限出場停止の処分を課す(後に[[自由契約]]となり1年のブランクの後東映で現役復帰)。
* 7月1日 - 近鉄[[外野手]]の[[土井正博]]が賭博の疑いで書類送検され、後日パ・リーグ会長より出場停止1か月の処分が課される。
* 9月8日 - ヤクルト内野手の[[桑田武]]がオートレース八百長の疑いで逮捕。10月1日にコミッショナー委員会は桑田を3か月の期限付失格選手に指名する(解除後に自由契約選手となるも、これが致命傷となりその年現役引退)。
* 11月30日 - 阪神投手の[[江夏豊]]が「野球賭博の常習者との交流をしていた」という理由で、[[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]会長から[[戒告処分]]を受ける。
===1971年===
* 1月11日 - [[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]投手の[[三浦清弘]]がチームメイトの[[佐藤公博]]投手から敗退行為の誘いを受けてその報告を怠ったとして戒告処分とする。
* 1月29日 - 大洋コーチの[[鈴木隆 (投手)|鈴木隆]]、投手の[[坂井勝二]]が暴力団とのかかわりを持った疑惑が持たれていたことから球団から同日付で1軍の出場無期限禁止と[[減俸処分]]を課される。(出場停止は5月31日付で解除)
* 2月15日 - [[千葉ロッテマリーンズ|ロッテオリオンズ]]投手の[[成田文男]]が野球賭博の常習者である暴力団と交流していた疑いで、球団から1か月間の謹慎を言い渡される。


また、現役引退後に野球評論家として活動していた[[中西太]]も、西鉄球団の黒い霧に関して元監督としての道義的責任を取るとして当面の間、契約していたTBS放送、日刊スポーツでの野球評論活動を停止すると発表した<ref>日刊スポーツ1970年5月27日1面「中西太氏 自発的に謹慎 評論活動を停止」</ref>(TBS放送の解説は6月9日の中継から復帰<ref>報知新聞1970年6月16日2面「中西氏、解説始める 新聞はしばらく謹慎」</ref>)。
== 関係者の処分 ==

{| class="wikitable" style="text-align:center;"
=== くすぶり続ける球界の黒い霧 ===
!選手名||所属球団||守備位置||罪状||処分
[[オートレース]]での八百長で逮捕された小川は、[[5月27日]]に東京地方検察庁へ起訴された<ref>日刊スポーツ1970年5月28日2面「地検、小川を起訴」</ref>。これを受けて中日球団は、同日付けで小川との契約を解除することを発表して[[セントラル・リーグ]]へ申請したが、会長の鈴木は「小川がオートレースの八百長以外にもかなり根深いものがあり、調査する必要があると判断した」として申請を保留した<ref>日刊スポーツ1970年5月28日2面「中日、小川の契約解除 セ会長 八百長調査で保留」</ref>。[[6月2日]]、鈴木はコミッショナー委員会に対して小川を永久失格選手として処分して欲しいとの要望書を提出し、その前日に行った記者会見で、記者から「小川が否定してもそれを突き返すだけの資料があるということか」との問いに対し、「そう解釈してもらっていい」と回答している<ref>日刊スポーツ1970年6月2日1面「中日・小川も永久追放 "野球でも八百長"」</ref>。翌日にコミッショナー委員会が開かれ、小川を野球協約第120条「統一契約書にある条項」に違反したとし、同項では、違反した場合は期限付きまたは永久の失格選手に指名されるという項目のうち、後者を適用して小川を永久失格処分とする裁決を発表した<ref>日刊スポーツ1970年6月4日2面「"小川の追放"本決まり コミッショナー委 統一契約書違反を初適用」</ref>。

一方、[[北海道日本ハムファイターズ|東映フライヤーズ]]の田中、森安に対しては[[パシフィック・リーグ]]会長の岡野が[[5月14日]]に東映からの調査報告書を受け取った。これをもとに岡野は福岡、大阪で調査を独自に行った結果、東映の報告には不備があるとして、6月2日に東映に対して再調査するよう命じた<ref>朝日新聞1970年6月3日13面「東映に再調査命令 岡野会長 疑惑深まる森安投手」朝日新聞縮刷版1970年6月p75</ref>。そうした中で翌日に東映は2人から再び事情聴取を行ったところ、森安は、永易と藤縄から八百長の依頼があった後の行動について「永易らと[[クラブ]]で遊んだ後に一人で宿舎へ帰った」と主張していたはずが、「[[芸者]]と遊んだ後に二人で帰った」と以前とは食い違う発言をした<ref>朝日新聞1970年6月4日21面「森安の出場停止 東映決定 前言ひるがえし疑惑」朝日新聞縮刷版1970年6月p129</ref>。そのため、球団は森安を無期限の出場停止処分とした。

[[兵庫県警察]]は野球賭博の調査のため、7月からコミッショナー委員会より処分を受けた西鉄の選手や永易、小川らから事情聴取を行い、森安に対しても参考人として[[7月16日]]から事情聴取を行った。森安は、16日の取り調べでは八百長を否定したが翌日になって永易から八百長の依頼を承諾し、現金50万円を受け取っていたと自供した。すでに八百長の依頼があって現金を預かったままの池永が永久追放処分となったことから、この時点で森安の永久追放処分も決定的となった<ref>日刊スポーツ1970年7月17日1面「森安も永久追放へ 八百長野球、50万円の授受を自供」</ref>。森安はオーナーである大川の命令で記者会見を行ったが、「金はもらったが八百長はやっていない」「永易からの電話で八百長の依頼があったが、朝だったので眠くて覚えていなかった」などと語り、マスコミから「肝心のことは何が何やらさっぱり要領を得ず<ref>日本経済新聞1970年7月28日17面「弁明、要領得ず 森安が記者会見」日本経済新聞縮刷版1970年7月p945</ref>」と評された。

[[7月30日]]、コミッショナー委員会は14時から事務局で委員会を開催し、田中を厳重戒告、森安を永久追放<ref>石川泰司『消えた男たち ドラフト20年』毎日新聞社、1986年、p34</ref>とする処分を決定した<ref>日本経済新聞1970年7月31日19面「森安(東映)も永久追放」日本経済新聞縮刷版1970年7月p1059</ref>。その後、事務局長の井原が東映の球団事務所にいる代表の田沢に電話で通告し、森安は田沢から処分を知らされた。その後に森安は球団事務所で記者会見を開き、「たかが50万円でバカなことをしたと思うか?」との問いに顔色を変えず「そりゃあそうでしょうね」と話したが、徐々に森安の目には涙が浮かび、「ファンの一人ひとりに土下座したい気持ちでいっぱいです」と謝罪した<ref>日本経済新聞1970年7月31日17面「土下座したい 涙ぐむ永久追放の森安」日本経済新聞縮刷版1970年7月p1057</ref>。コミッショナー委員長の宮沢は処分を発表した記者会見にて「球界の黒い霧についてひとまずこれで調べが済んだが、これで終わりかと言われたら、私はそう言い切る自信はない」と語った。

なお、その言葉は少なからず的中してしまう。上記で述べた八百長行為とは別に、次の不祥事が発生し、関与した選手らはそれぞれ処分を受けている。

; {{by|1970年}}
* 7月1日 - 近鉄外野手の[[土井正博]]が賭博の疑いで書類送検され、1ヶ月間の出場停止処分を受ける。
* 9月8日 - ヤクルト内野手の[[桑田武]]がオートレース八百長の疑いで逮捕され、10月1日にコミッショナー委員会から3ヶ月の期限付き失格選手に指名される<ref>なお、桑田は失格選手指定解除後にヤクルトから自由契約を通達されるが、この件が致命傷となってそのまま現役を引退した。</ref>。
* 11月30日 - 阪神投手の[[江夏豊]]が「野球賭博常習者と交流していた」という理由で、セ・リーグ会長の[[鈴木龍二]]から[[戒告処分]]を受ける。
; {{by|1971年}}
* 1月11日 - [[福岡ソフトバンクホークス|南海]]投手の[[三浦清弘]]がチームメイトの[[佐藤公博]]から敗退行為を勧誘され、その報告を怠ったとして戒告処分を受ける。
* 1月29日 - 大洋コーチの[[鈴木隆 (投手)|鈴木隆]]、投手の[[坂井勝二]]に暴力団と関係を持った疑惑が浮上したため、同日付で球団から無期限の一軍出場禁止と減俸処分を受ける(出場停止は5月31日付けで解除)。
* 2月15日 - [[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]投手の[[成田文男]]が野球賭博常習者の暴力団員と交流していた疑いで、球団から1ヶ月の謹慎を言い渡される。

以上の事件を受けて、それぞれの関係者には以下の処分が下された。

{| class="wikitable" style="text-align:center"
!選手名||所属球団||守備||罪状||処分
|-
|-
|永易将之||西鉄||投手||敗退行為の実行||永久追放処分
|[[永易将之]]||[[埼玉西武ライオンズ|西鉄]]||投手||敗退行為の実行||永久追放処分
|-
|-
|池永正明||西鉄||投手||敗退行為の依頼を受け現金受理||永久追放処分
|[[池永正明]]||西鉄||投手||敗退行為の依頼を受け現金受理||永久追放処分
|-
|-
|与田順欣||西鉄||投手||敗退行為の実行と勧誘||永久追放処分
|[[与田順欣]]||西鉄||投手||敗退行為の実行と勧誘||永久追放処分
|-
|-
|益田昭雄||西鉄||投手||敗退行為の実行と勧誘||永久追放処分
|[[益田昭雄]]||西鉄||投手||敗退行為の実行と勧誘||永久追放処分
|-
|-
|style="white-space:nowrap"|小川健太郎||中日||投手||オートレース八百長に参加||永久追放処分
|style="white-space:nowrap"|[[小川健太郎]]||[[中日ドラゴンズ|中日]]||投手||オートレース八百長に参加||永久追放処分
|-
|-
|森安敏明||東映||投手||敗退行為の依頼を受け現金受理||永久追放処分
|[[森安敏明]]||[[北海道日本ハムファイターズ|東映]]||投手||敗退行為の依頼を受け現金受理||永久追放処分
|-
|-
|村上公康||西鉄||捕手||敗退行為の勧誘を受け、報告せず||1年間の野球活動禁止
|[[村上公康]]||西鉄||捕手||敗退行為の勧誘を受け、報告せず||1年間の野球活動禁止
|-
|-
|船田和英||西鉄||style="white-space:nowrap"|内野手||敗退行為の勧誘を受け、報告せず||1年間の野球活動禁止
|[[船田和英]]||西鉄||style="white-space:nowrap"|内野手||敗退行為の勧誘を受け、報告せず||1年間の野球活動禁止
|-
|-
|葛城隆雄||阪神||内野手||オートレース八百長に参加||3か月の期限付失格選手に指名
|[[葛城隆雄]]||[[阪神タイガース|阪神]]||内野手||オートレース八百長に参加||3か月の期限付失格選手に指名
|-
|-
|桑田武||style="white-space:nowrap"|ヤクルト||内野手||オートレース八百長に参加||3か月の期限付失格選手に指名
|[[桑田武]]||style="white-space:nowrap"|[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]||内野手||オートレース八百長に参加||3か月の期限付失格選手に指名
|-
|-
|成田文男||ロッテ||投手||野球賭博疑惑のある暴力団と交流||1か月の謹慎処分
|[[成田文男]]||[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]||投手||野球賭博疑惑のある暴力団と交流||1か月の謹慎処分
|-
|-
|坂井勝二||大洋||投手||暴力団と交流||無期限出場停止と減給処分
|[[坂井勝二]]||[[横浜DeNAベイスターズ|大洋]]||投手||暴力団と交流||無期限出場停止と減給処分
|-
|-
|江夏豊||阪神||投手||野球賭博疑惑のある暴力団と交流||戒告処分
|[[江夏豊]]||阪神||投手||野球賭博疑惑のある暴力団と交流||戒告処分
|-
|-
|三浦清弘||南海||投手||敗退行為の勧誘を受け報告せず||戒告処分
|[[三浦清弘]]||[[福岡ソフトバンクホークス|南海]]||投手||敗退行為の勧誘を受け報告せず||戒告処分
|-
|-
|田中調||東映||投手||敗退行為の勧誘を受け報告せず||厳重戒告処分
|[[田中調]]||東映||投手||敗退行為の勧誘を受け報告せず||厳重戒告処分
|-
|-
|基満男||西鉄||内野手||敗退行為の勧誘を受け報告せず||厳重注意処分
|[[基満男]]||西鉄||内野手||敗退行為の勧誘を受け報告せず||厳重注意処分
|-
|-
|高山勲||大洋||投手||オートレース八百長に参加、勧誘||事実上の永久追放処分
|[[高山勲]]||大洋||投手||オートレース八百長に参加、勧誘||なし(事実上の永久追放
|-
|-
|田中勉||中日||投手||オートレース八百長に参加、勧誘||事実上の永久追放処分
|[[田中勉 (野球)|田中勉]]||中日||投手||オートレース八百長に参加、勧誘||なし(事実上の永久追放
|-
|-
|佐藤公博||南海||投手||オートレース八百長に参加、勧誘||事実上の永久追放処分
|[[佐藤公博]]||南海||投手||オートレース八百長に参加、勧誘||なし(事実上の永久追放
|}
|}


== 事件の影響 ==
== 事件の影響 ==
主力選手が永久追放処分を受け中日と西鉄は戦力低下、特に3名の永久追放処分者と2名のシーズン出場停止処分者を受けた西鉄は戦力が激減た。1970年から[[1972年|72]]まで3年連続最下位となっ球団経営行き詰まり、1972年オフに[[福岡野球]]へ身売りされることにつがった
「黒い霧事件」によって多くの球団で処分出したが、特にエースだった[[池永正明]]らを始め3名の永久追放処分者と2名の一年間出場停止処分者を出した西鉄は戦力の低下く、{{by|1970年}}(昭和45)に球団史上初の最下位に転落すると{{by|1972}}(昭和47年)まで3年連続最下位に低迷し。地元・福岡でも人気が急落し、経営行き詰った西鉄球団は1972年オフに[[福岡野球]]へ身売りされること


公式処分者以外にも、{{by|1967年}}(昭和42年)に近鉄でプレーしていた主力選手数人が八百長へ関与していたとして名が挙がったが、黒い霧事件が発覚した時点で既に引退していた者については不問とされた。しかし、この者らが指導者として球界へ復帰することは無かった。
1969年に西鉄に入団した[[東尾修]]は、入団1年目に[[ウエスタン・リーグ]]で負け続け自信を失い、[[武末悉昌]]コーチに野手転向を申し出たものの、この事件が発生したことで野手転向の話が立ち消えになるどころか、1軍でフル回転せざるを得ない状況になってしまった。投手としての実力が伴わないうちから登板を重ねたことにより、200勝達成よりも200敗達成のほうが早くなってしまった。


この事件の余波で甚大な被害を被った人物にオートレース選手の[[広瀬登喜夫]]がいる。広瀬は当時オート界随一のスター選手として全盛期であった1970年10月に逮捕されたことでオートレース界を追われ、30代前半という選手として最も充実するはずの時期を4年半以上にって裁判闘争に費やす羽目になった。[[冤罪]]であったとして控訴審で無罪判決を得てこれが確定し、オートレース選手としてようやく復帰がかなったのは[[1975年]]10月で、逮捕から実に丸5年を費やした。
この事件の余波で甚大な被害を被った人物にオートレース選手の[[広瀬登喜夫]]がいる。広瀬は当時オートレースにおいては随一のスター選手として全盛期った{{by|1970年}}(昭和45年)10月に逮捕されたことでオートレース界を追われ、30代前半という選手として最も充実するはずの時期を4年半以上にわたって裁判闘争に費やす羽目になった。[[冤罪]]ったとして控訴審で広瀬の無罪が確定し、オートレース選手としてようやく復帰がったのは[[1975年]](昭和50年)10月で、逮捕から実に丸5年が経過していた。その広瀬下ろす形で第4回[[日本選手権オートレース]]を制「大井のエース」と称された名選手・[[戸田茂司]]を含む19名もの所属選手が逮捕された[[大井オートレース場]]は、この事件も遠因となり[[1973年]](昭和48年)3月22日に閉鎖へ追い込まれた。


[[1980年代]]に入ると、[[青田昇]]が野球賭博に「ハンデ師」として関与していたと報道される<ref>{{Cite web|和書|title=【虎番疾風録第3章】(79)巨人黒い交際…ハンデ師疑惑「冗談やないで」|url=https://www.sankei.com/article/20191123-XXQZLUATU5IT3JPLY7W4J2EQFM/|website=産経ニュース|date=2019-11-18|accessdate=2021-09-24|language=ja|first=SANKEI DIGITAL|last=INC}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=第735回 野球賭博の”末路”は…過去の教訓再確認を – SPORTS COMMUNICATIONS|url=https://www.ninomiyasports.com/archives/56186|accessdate=2021-09-24|language=ja|last=二宮清純}}</ref>。この報道に対して暴言を吐いたことから、{{by|1979年}}(昭和54年)オフに就任したばかりの[[読売ジャイアンツ]]ヘッドコーチを辞任しているが、実際に「ハンデ師」として関与していたのは、1950年代に巨人と[[松竹ロビンス]]の外野手だった野草義輝で、野草が逮捕されたのも{{by|1973年}}(昭和48年)である。
また、野球界では高山勲が大洋を退団処分された後に鬱病を患い、[[1978年]]に睡眠薬自殺した。


一方で、この事件が結果的に後年の野球人生においてプラスの影響をもたらした選手もいる。{{by|1968年}}(昭和43年)にドラフト1位で西鉄へ入団した[[東尾修]]もその一人で、入団1年目の{{by|1969年}}(昭和44年)に[[ウェスタン・リーグ]]公式戦で打ち込まれて自信を失い、首脳陣に野手転向を申し入れたほどだった。ところが、この事件で永久追放や出場停止などで投手不足に陥ったために東尾は野手転向の話が立ち消えになるどころか一軍の主戦としてフル回転することとなり、のちに三度の球団名変更によって「西武ライオンズ」となった後もエースとして活躍する契機となった。東尾自身ものちに「あの事件は自分の野球人生にとって最大のチャンス、ターニングポイントだった」と述べている<ref>『江川になれなかった男たち』p.p.116-117</ref>。ただし投手としての実力が伴わないうちから、しかも弱小球団で登板を重ねたことが響き、「200勝より先に200敗を喫した投手」となり、最晩年には[[麻雀賭博]]が原因で引退している<ref>通算200勝を達成するより先に通算200敗を喫した投手としては[[梶本隆夫]]以来史上2人目となるが、2022年現在では東尾が最後となっている。なお、東尾は通算200勝を達成した{{by|1984年}}(昭和59年)シーズン終了時点で201勝215敗と14の負け越しがあったが、{{by|1985年}}(昭和60年)に17勝3敗の好成績で負け越しを帳消しにし、最終的には251勝247敗で4つ勝ち越して引退した。最も、東尾の引退の原因となったのは高レート[[麻雀]][[賭博]]への関与で警察から事情聴取を受けたことによる譴責処分だった。</ref>。
1980年代に入ると、[[青田昇]]が野球賭博に関与していたと報道されている。


余談だが、西鉄の後身にあたる埼玉西武ライオンズの主催試合でイベント[[ライオンズ・クラシック]][[2010年]]の第1章(対[[オリックス・バファローズ]]戦)において、この事件によるライオンズやパ・リーグの状況を趣旨とした「パ・リーグ苦難の時代ライオンズ消滅の危機」というサブタイトルが付与されている。
西鉄の後身にあたる[[埼玉西武ライオンズ]]の主催試合で行われるイベント[[ライオンズ・クラシック]]{{by|2010年}}(平成22年)の第1章(対[[オリックス・バファローズ]]戦)において、この事件によるライオンズやパ・リーグの状況を趣旨とした「パ・リーグ苦難の時代ライオンズ消滅の危機」というサブタイトルが付与されている。

{{by|2015年}}(平成27年)秋、[[読売ジャイアンツ]]に在籍する複数の選手が野球賭博に関与していたことが発覚して処分を受けたことに対し、{{by|2016年}}(平成28年)1月12日の日本野球機構による新人研修会で、事件当時に近鉄の主力選手として活躍していた[[鈴木啓示]]が球団OBに紹介された暴力団関係者から八百長行為を持ちかけられたが、断っていたことを明らかにした<ref name=":9">{{Cite web|和書|date=2016-01-13 |url=https://web.archive.org/web/20160115172216/http://www.hochi.co.jp/baseball/npb/20160113-OHT1T50012.html |title=鈴木啓示氏、八百長誘い断っていた「黒い霧事件」に関し新事実 |publisher=スポーツ報知 |accessdate=2016-01-13}}</ref><ref name=":10">{{Cite web|和書|date=2016-01-13 |url=https://www.sanspo.com/article/20160113-QTVBNA7CHZPNZP26WRLG2JHNPA/ |title=楽天・オコエら衝撃!新人研修会で元近鉄・鈴木啓示氏経験談を披露 |publisher=SANSPO.COM |accessdate=2016-01-13}}</ref>。


== 永久追放処分の解除へ ==
== 永久追放処分の解除へ ==
池永は永久追放処分を受けてから[[福岡市]][[博多区]]の繁華街・東中で「ドーベル」というバーを経営していた。その一方で西鉄ライオンズの関係者([[稲尾和久]]、[[豊田泰光]]、[[尾崎将司]]など)や池永の親族、池永の出身校である[[下関市立下関商業高等学校]]のOBなどは処分の決定直後から処分解除を求めて街頭での署名動を展開。前述のり西鉄ライオンズが福岡野球へ球団譲渡た1972年末には[[中村長芳]](当時の福岡野球社長太平洋クラブライオンズオーナー)や[[松園尚巳]](当時のヤクルトアトムズオーナー[[長崎県]]出身)がオーナー会議で池永の処分解除を提案したが、[[佐伯勇]](当時の近鉄バファローズオーナー[[正力亨]](当時の読売ジャイアンツオーナー)が賛成した一方、[[森薫 (実業家)|森薫]](当時の[[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]]オーナー)や[[川勝傳]](当時の南海ホークスオーナー)が強硬に反対し、意見の調整が付かないまま雲散霧消で終わった<ref group="注釈">笹倉の著書「復権 池永正明、35年間の沈黙の真相」(2005年、[[文藝春秋]])第二章「追放からの歳月」を参照。中村と松園が池永の復権を主張した背景には、沖縄問題懇談会の座長を兼務していた当時のコミッショナー・[[大濱信泉]]([[沖縄県]]出身)の下で[[沖縄返還]]を機に始まった政界・選挙違反者への[[恩赦]]の動きに合わせたとされる。</ref>
永久追放処分を受けた[[池永正明]]は、球界を離れてから[[福岡市]][[博多区]]の繁華街・東中で「ドーベル」というバーを経営していた。その一方で西鉄の関係者([[稲尾和久]]、[[豊田泰光]]、[[尾崎将司]]など)や池永の親族、池永の出身校である[[下関市立下関商業高等学校]]のOBなどは処分の決定直後から処分解除を求めて街頭での署名動を展開した。前述のとおり西鉄球団福岡野球へ譲渡され{{by|1972年}}末には福岡野球社長太平洋クラブライオンズオーナーだった[[中村長芳]]、[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトアトムズ]]のオーナーである[[松園尚巳]]がオーナー会議で池永の処分解除を提案したが、[[佐伯勇]](近鉄バファローズ)[[正力亨]]([[読売ジャイアンツ]])が賛成を表明した一方、[[森薫 (実業家)|森薫]]([[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]])や[[川勝傳]](南海ホークス)が強硬に反対し、意見の調整が付かないまま雲散霧消で終わった{{refnest|group="注釈"|笹倉の著書 第二章「追放からの歳月」を参照{{sfn|笹倉|2005|pp={{要ページ番号|date=2021年9月}}}}。}}。中村と松園が池永の復権を主張した背景には、沖縄問題懇談会の座長を兼務していた当時のコミッショナー・[[大濱信泉]]([[沖縄県]]出身)の下で[[沖縄返還]]を機に始まった政界・選挙違反者への[[恩赦]]の動きに合わせたとされる。


[[1996年]]には有志で結成された「復権実行委員会」が[[下関大丸]]での「豪腕ふるさとへ帰る 池永正明展」開催期間中(1月間)に18万7,787の署名を集めた。[[1997年]]6月3日には池永への処分解除を求める嘆願書と上記の署名簿を日本野球機構および当時コミッショナーだった[[吉国一郎]]宛てに提出。しかし、[[1998年]]吉国の後任で3月にコミッショナーに就ばかりの[[川島廣守]]が6月24日付で嘆願を却下した<ref group="注釈">前掲書「復権 池永正明、35年間の沈黙の真相」第二章「追放からの歳月」によれば、川島は嘆願書の扱いをめぐって球界関係者代表の[[広岡達朗]]や有識者代表の[[中村稔 (詩人)]]、[[浅利慶太]]、[[五代利矢子]]から意見を聴取その結果「(池永の永久追放処分を決定した)1970年5月25日付のコミッショナー委員会の採決の否を再審理することはできない」「仮に(池永への)処分を解除すれば、日本野球機構に属する職務(監督やコーチなど)への従事を池永に認めることになるため、プロ野球界に求められる倫理とは背馳する」などを理由に嘆願を却下した。</ref>
{{by|1996年}}には有志で結成された「復権実行委員会」が[[下関大丸]]での「豪腕ふるさとへ帰る 池永正明展」開催期間中(1月間)に18万7787人の署名を集めた。{{by|1997年}}6月3日には池永への処分解除を求める嘆願書と上記の署名簿を日本野球機構および当時コミッショナーである[[吉国一郎]]宛てに提出した。しかし、{{by|1998年}}に後任としてコミッショナーに就任した[[川島廣守]]が6月24日付で嘆願を却下した川島は嘆願書の扱いをって球界関係者代表の[[広岡達朗]]や有識者代表の[[中村稔 (詩人)|中村稔]]、[[浅利慶太]]、[[五代利矢子]]から意見を聴取し、その結果「(池永の処分を決定した){{by|1970}}[[5月25日]]のコミッショナー委員会の採決の否を再審理することは出来ない」「仮に処分を解除すれば、日本野球機構に属する職務(監督やコーチなど)への従事を池永に認めることになるため、プロ野球界に求められる倫理とは背馳する」などを理由に嘆願を却下した。


=== 池永復権会 ===
これに対し、「復権実行委員会」のメンバーや復権運動の趣旨に賛同した有識者や[[弁護士]]などは「豪腕・池永正明氏の復権と名誉回復を心から願う人々の会(通称『池永復権会』)」を新たに設立。嘆願書の提出後から小説の執筆を前提に池永との交流を始めた[[笹倉明]]([[直木賞]][[作家]])が代表に就任するとともに、[[赤瀬川隼]]、[[藤本義一 (作家)|藤本義一]]、[[難波利三]]、[[阿部牧郎]]、[[伊集院静]]、[[若一光司]]、[[赤江瀑]]、[[古川薫]]、[[軒上泊]](いずれも作家)が相談役を引き受けた。さらに、池永との付き合いが長い[[小野ヤスシ]]や[[中野浩一]]をはじめ、ライオンズOB以外のスポーツ関係者や芸能人からも多数の賛同会員が現れた。
これに対し、「復権実行委員会」のメンバーや趣旨に賛同した有識者や[[弁護士]]などは「豪腕・池永正明氏の復権と名誉回復を心から願う人々の会(通称「池永復権会」)」を新たに設立し、嘆願書の提出後から小説の執筆を前提に池永との交流を始めた[[笹倉明]]([[直木賞]]作家)が代表に就任すると共に、[[赤瀬川隼]]、[[藤本義一 (作家)|藤本義一]]、[[難波利三]]、[[阿部牧郎]]、[[伊集院静]]、[[若一光司]]、[[赤江瀑]]、[[古川薫]]、[[軒上泊]](いずれも作家)が相談役を引き受けた。さらに池永との付き合いが長い[[小野ヤスシ]]や[[中野浩一]]をはじめ、ライオンズOB以外のスポーツ関係者や[[大橋巨泉]]、[[なべおさみ]]ら芸能人からも多数の賛同会員が現れた。


「池永復権会」は当初、「池永の永久追放は『疑わしきは罰する』という姿勢の下に為された灰色有罪の処分でしかなく、コミッショナーの裁定でこの処分を続けることは人権問題にたる」という認識の下に、講演活動展開しながら[[日本弁護士連合会]]の人権委員会への提訴を計画していた。しかし、当の池永復帰運動に消極的な姿勢を示し始めたため、途中からは弁護士による月1回ペース「勉強会」に衣替えした<ref group="注釈">前掲「復権 池永正明、35年間の沈黙の真相」第六章「過去という壁」より。池永は地元・福岡での演に参加する予定だったが、「球界の大物」と称する人物(詳細不明)から「弁護士を雇って事を起こそうとしているようだが、迷惑する人間が出てくることを承知しているのか」という主旨の電話を受けたことから急遽参加を辞退したという。これに対し、「池永復権会の発足と同時に参加していた弁護士の西田研志は「我々がいくら頑張っても、依頼人である池永の意思が曖昧なままではどうにもならない」として運動から離脱。後に法律事務所ホームロイヤーズ(現在の弁護士法人[[法律事務所MIRAIO]])を設立した。</ref>。その一方で、途中から「池永復権会の相談役に加わった[[楢崎欣弥]](当時は[[民主党_(日本_1998-)|民主党_]][[衆議院議員]])は超党派の国会議員による懇談会の設立に尽力している<ref group="注釈">前掲「復権 池永正明、35年間の沈黙の真相」第七章「希望の曲折」より。懇談会の呼び掛け人には球界OBの[[江本孟紀]]、かねてから復権運動に賛同していた[[大橋巨泉]](いずれも当時は民主党[[参議院議員]])、元[[アマチュアレスリング]]選手[[松浪健四郎]](当時は[[自民党]]衆議院議員)、[[大分県]]出身の[[俳優]]・[[横光克彦]](当時は[[社民党]]衆議院議員)、に[[麻生内閣]]で[[内閣官房長官]]に就任する山口県出身の[[河村建夫]](自民党衆議院議員)、2005年から[[公明党]]の副代表を務める[[東順治]](党衆議院議員)、に女性初の[[参議院議長|参議院副議長]]なっ芸能界出身の[[山東昭子]](自民党参議院議員)の7が名を連ねた。</ref>
「池永復権会」は当初、「池永の永久追放は『疑わしきは罰する』という姿勢の下に為された灰色有罪の処分でしかなく、コミッショナーの裁定でこの処分を続けることは人権問題にたる」という認識の下に、講演活動展開しながら[[日本弁護士連合会]]の人権委員会への提訴を計画していた。しかし、当の池永復帰運動に消極的な姿勢を示し始めたため、途中からは弁護士による月一度のペース「勉強会」に衣替えした{{refnest|group="注釈"|笹倉の著 第六章「過去という壁」より{{sfn|笹倉|2005|pp={{要ページ番号|date=2021年9月}}}}。}}。池永は地元・福岡での演に参加する予定だったが、「球界の大物」と称する人物(詳細不明)から「弁護士を雇って事を起こそうとしているようだが、迷惑する人間が出てくることを承知しているのか」という主旨の電話を受けたことから急遽参加を辞退したという。これに対し、復権会の発足と同時に参加していた弁護士の西田研志は「我々がいくら頑張っても、依頼人である池永の意思が曖昧なままではどうにもならない」として運動から離脱した。その一方で、途中から復権会の相談役に加わった[[楢崎欣弥]](当時は[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]][[衆議院議員]])は超党派の国会議員による懇談会の設立に尽力している{{refnest|group="注釈"|笹倉の著 第七章「希望の曲折」より{{sfn|笹倉|2005|pp={{要ページ番号|date=2021年9月}}}}}}。懇談会の呼び掛け人には、共に当時の民主党[[参議院議員]]だった球界OBの[[江本孟紀]]、かねてから復権運動に賛同していた[[大橋巨泉]]、元アマチュアレスリング選手である[[松浪健四郎]]([[自由民主党 (日本)|自民党]]衆議院議員)、俳優[[横光克彦]]([[社会民主党 (日本 1996-)|社民党]]衆議院議員)、のちに[[麻生内閣]]で[[内閣官房長官]]に就任する[[河村建夫]](自民党衆議院議員)、2005年から[[公明党]]の副代表を務める[[東順治]](公明党衆議院議員)、のちに女性初の[[参議院]]副議長に就任した[[山東昭子]](自民党参議院議員)の7が名を連ねた。


復権運動の風向きが変わったのは、[[プロ野球マスターズリーグ]]が[[2001年]]に池永の選手登録を認めてからである。池永は同年、稲尾が監督を務めていた福岡ドンタクズに入団12月25日の[[福岡ドーム]](現在の福岡ヤフオク!ドーム)での対名古屋80D'sers戦に先発初登板を果たすと、3回を無安打無失点に抑えて交代した。ちなみに試合後のインタビューで「(永久追放処分についてもう許していただきたい」という旨のコメントを残している。
復権運動の風向きが変わったのは、[[プロ野球マスターズリーグ]]が{{by|2001年}}に池永の選手登録を認めてからである。池永は同年、稲尾が監督を務めていた福岡ドンタクズに入団し、[[12月25日]]対名古屋80D'sers戦([[福岡ドーム]])で先発として初登板を果たすと、3回を無安打無失点に抑えて交代した。試合後のインタビューで、池永は永久追放処分についてもう許していただきたい」という旨のコメントを残している。


「池永復権会[[2002年]]、川島による前述の処分嘆願却下に対する反論書を添えて、日本野球機構に参加する全12球団のオーナーおよびコミッショナー事務局へ嘆願書を提出<ref group="注釈">前掲「復権 池永正明、35年間の沈黙の真相」第八章「こころの扉」より</ref>。請願自体は事務局から却下されたものの、[[2005年]]3月1日のコミッショナー実行委員会および同年3月16日のオーナー会議、不正行為とその処分について定めたプロ野球協約第177条の改正が提案承認。処分対象者からの申請による球界復帰への道が開かれた。
復権会はその後、{{by|2002年}}に川島への前述の嘆願却下に対する反論書を添えて、日本野球機構に参加する全12球団のオーナーおよびコミッショナー事務局へ提出した{{refnest|group="注釈"|笹倉の著 第八章「こころの扉」より{{sfn|笹倉|2005|pp={{要ページ番号|date=2021年9月}}}}。}}。請願自体は却下されたものの、{{by|2005年}}[[3月1日]]のコミッショナー実行委員会および同年3月16日のオーナー会議において、不正行為とその処分について定めたプロ野球協約第177条の改正が提案され、承認されたこれによって、処分対象者からの申請による球界復帰への道が開かれた。


{{quotation|永久追放者は処分発効から15年、また無期限出場停止者に対しても5年を経過した選手について、本人からの申請があり、かつ善行を保持して改悛の情が顕著な者とコミッショナーが判断した場合に球界復帰を認める|日本プロ野球協約 改正第177条第2項(本項を追加)}}
{{quotation|永久追放者は処分発効から15年、また無期限出場停止者に対しても5年を経過した選手について、本人からの申請があり、かつ善行を保持して改悛の情が顕著な者とコミッショナーが判断した場合に球界復帰を認める|日本プロ野球協約 改正第177条第2項(本項を追加)}}


上記の協約改正を受けて、池永は球界への復帰を申請2005年4月25日に復権を果たした。[[2007年]]に「ドーベル」を閉店すると、[[2011年]]まで[[山口県]]の[[クラブチーム (社会人野球)|社会人野球クラブチーム]]「山口きららマウンドG」(現:[[山口防府ベースボールクラブ]])の監督を歴任。[[2008年]]からプロ野球マスターズリーグの活動休止(2010年)までは福岡ドンタクズの監督も務めていた。
上記の協約改正を受けて、池永は改めて球界への復帰を申請し、{{by|2005年}}[[4月25日]]に復権を果たした。


{{by|2007年}}に経営していたバー「ドーベル」を閉店すると、{{by|2011年}}までは[[山口県]]の[[クラブチーム (社会人野球)|社会人野球クラブチーム]]「山口きららマウンドG」(現:[[山口防府ベースボールクラブ]])の監督を歴任した。また、{{by|2008年}}からは、2010年に活動を休止するまでプロ野球マスターズリーグ「福岡ドンタクズ」の監督も務めていた。
== 注釈 ==

<references group="注釈"/>
== オートレース界 ==
== 出典 ==
[[オートレース]]の八百長は野球界よりも早く表面化しており、[[1969年]][[9月25日]]に暴力団関係者と現役オートレース選手4人が警視庁捜査四課に逮捕されたことから始まる。逮捕された人間の「オレたちだけじゃない。他にも大勢いる」との供述から、同年11月にはさらに3人の選手も逮捕されるなど、芋づる式に逮捕者が相次いだ。手口は、有力選手に八百長を持ち掛けて高額配当を出やすくしたうえで外部の後援者などに車券を買わせるものだった。この後援者の中に暴力団員が含まれており<ref>大井オートレース場 三選手が八百長 事前に着順を打合せ 数回で数百万円かせぐ『朝日新聞』昭和44年(1969年)11月11日夕刊、3版、11面</ref>、野球界などにも勧誘の手が広がっていった。
<references/>

捜査当局が野球選手の関与を明確に把握した契機は、[[1970年]]4月14日に逮捕されたオートレース選手の自供によるものだった。オートレースは賞金を稼ぐ有力選手が、若手に車体や中古のタイヤを譲り渡すことが行われており、「親分・子分」といった人間関係が出来やすいのも八百長が浸透する背景となっていた<ref>選手の親分が仲立ち 八百長オート『朝日新聞』昭和45年(1970年)4月24日夕刊、3版、11面</ref>。

同年4月11日までに捜査当局が把握した八百長選手は、少なく見積もって約30人にも上る。八百長の舞台となった[[船橋オートレース場]]、[[大井オートレース場]]の両場の所属選手は120人であったことから、4人に1人の割合で関与していたことが明らかになっている<ref>四人に一人は八百長 大井船橋オートレース大腐敗『朝日新聞』昭和45年(1970年)4月12日朝刊、12版、15面</ref>。

== 脚注==
{{脚注ヘルプ}}
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|2|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}

== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=笹倉明 |authorlink=笹倉明 |title=復権 池永正明、35年間の沈黙の真相 |date=2005-04-01 |publisher=文藝春秋 |isbn=978-4163672007 |ref={{sfnref|笹倉|2005}} }}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
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* [[韓国プロ野球八百長事件]]
* [[韓国プロ野球八百長事件]]
* [[中華職業棒球大聯盟#八百長問題]]
* [[中華職業棒球大聯盟#八百長問題]]
* [[カルチョ・スキャンダル]]
* [[カルチョ・スキャンダル]] - 2006年に発覚したイタリアサッカーのスキャンダル。
* [[読売ジャイアンツ所属選手による野球賭博問題]] - 2015年から2016年にかけて発覚した野球賭博問題。
* [[大相撲野球賭博問題]] - 2010年に発覚した大相撲力士および年寄が関与した賭博問題。
* [[大相撲八百長問題]] - 2011年に発覚した大相撲力士による八百長問題。


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* [http://www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20110712/bbl1107120934000-n1.htm 手放しでは喜べないスクープ…黒い霧事件] [[夕刊フジ]]2011年7月12日
* [https://www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20110712/bbl1107120934000-n1.htm 手放しでは喜べないスクープ…黒い霧事件] [[夕刊フジ]]2011年7月12日


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[[Category:八百長]]
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[[Category:オートレース]]
[[Category:1969年の日本の事件]]

2024年11月14日 (木) 08:07時点における最新版

日本プロ野球における黒い霧事件(くろいきりじけん)は、プロ野球の関係者が金銭の授受を伴う八百長に関与したとされる一連の疑惑および事件のことである。1969年(昭和44年)から1971年(昭和46年)にかけて相次いで発覚し、球界のみならず社会に衝撃を与えた。

日本野球機構は八百長への関与について、「野球協約第355条が規定する『敗退行為』に該当する」との見解を発表し、関与が疑われた現役選手には「永久出場停止(追放)」「長期間の出場停止」「減俸」などの処分が下された。また、一部の選手はオートレースの八百長事件にも関与していたことが発覚し、現役のオートレース選手19名が警察に逮捕されている。

事件の経緯

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発覚まで

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野球協約第三百五十五条(敗退行為)
この協約に参加する倶楽部の役職員、または選手及びコーチを含む監督が、当該チームの試合に於いて意識的に敗れ、また敗れることを試み、或は勝つための最善の努力を怠り、またかかることを通謀するものは、所属する連盟会長の要求に基き、コミッショナーに依り永久にその職務を停止させられる。

またかかる勧誘をうけたもので、これに関するすべての情報を所属する連盟会長に対し報告を怠るものは、前項により制裁せられる。

第二十一章 有害行為(1953・7・25発効)より

1969年(昭和44年)のシーズン途中に、西鉄ライオンズの球団上層部は自軍の選手が八百長を演じているのではないかとの疑惑を抱き、極秘に調査を開始した。その結果、投手の永易将之が公式戦において暴力団関係者に依頼され、わざと試合に負ける「敗退行為(八百長)」を行っていたことを理由に、永易をシーズン終了後に契約更新を行わず解雇することを決定する。一方、主力打者のカール・ボレスはある日の試合後、報知新聞の西鉄番記者に「ウチにわざとミスエラーする選手がいる」と囁いた[1]。報知新聞はそれを元に読売新聞社社会部と共同で取材を進め[1]、西鉄球団社長の国広直俊は両紙の取材に対して「自軍の疑いのある選手を調査したところ、残念ながら事実でした[2]」と認めた。続けて「永易ら3人について調査したが、他の2人は永易に誘われて一時期八百長に加わっただけで、すでに反省しているので処分の対象とはしなかった」と回答した[2]

10月8日読売新聞社報知新聞社の両紙が「永易が公式戦で八百長を演じていた」と報道する[3][4]。この報道を受けて国広が午前11時30分より福岡市内の球団事務所で記者会見を開き、「永易が八百長をやっていたという確証を突き止めた訳ではないが、素人の私の目から見ても八百長を演じているのではないかと思える節があり、本人を呼んで問いただすと本人は肯定も否定もせず、ただ震えているだけだった。この態度から、永易は野球賭博に手を染めていると確信した」と語った[5][6]

永易が住む福岡市内のアパートには、八百長を報じた読売、報知両紙から得た情報をもとに当日の早朝から報道陣が殺到していた。永易は、この2ヶ月前の8月中に国広から直接呼び出され、「野球賭博に関与しているのではないか」との嫌疑をかけられて取り調べを受けたことを認めたものの、「こっちには全然身に覚えのないことだし、答えようにも答えようがないだろう[7]」と述べ、八百長疑惑を真っ向から否定した。しかしその後は「何も言いたくない。言えば言うほど誤解されるから…」と述べたのを最後に報道陣の前から姿を消した。永易は一度自宅アパートに戻ったが再び外出し、その日以降は自宅に一切戻らず行方をくらました[8]

永易の処分

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10月13日パシフィック・リーグの定例理事会が東京・銀座の連盟事務所で開催され、国広はその場で「永易が八百長をやっていた直接の証拠は突き止められなかったが、心証として八百長をやっていたことは間違いなく、その証人もいる」と述べた[9]。会長の岡野祐は、疑惑の挙がった選手を何ら処分しないのはおかしいとして、永易を野球協約の中にある条文の「失格選手」として処分すると述べた[10]。しかし、翌日に開かれたコミッショナー委員会[注釈 1]において委員長の宮沢俊義は「永易を失格選手として処分すると、永易が球界と関係のない人物になってしまい、本人の呼び出しなどの調査ができなくなる」として岡野の処分案に反対し、永易は野球協約の中の「有害行為に関する条文」で制裁が可能であると指摘した[11]

10月16日夕刊フジ記者の住谷礼吉が前日に福岡から大阪へ向かう航空機の機内で永易を発見し、インタビューに成功したと報道した[12]。永易は住谷に対して「神に誓って、やっていない。(国広)球団社長を告訴する」と八百長を否定したが、同時に「いまさら何を言っても無駄だ」とも述べた[12]。住谷は永易にコミッショナーのもとへ出頭するよう勧めたが結局、その後は再び行方をくらました[13]

読売、報知による報道が出始めた頃、当時は創刊間もない「週刊ポスト」(小学館)が野球賭博を追及する記事を掲載し始める。同誌の10月17日号において暴力団による野球賭博の実態に迫った記事を掲載すると[14]、次の10月24日号では「永易以外にいる疑わしい8人、ファンを裏切った腐敗分子を蛮勇を振るって告発する」として永易以外にも「疑わしい」とされる8名の選手の実名を挙げたほか、「当時、中日ドラゴンズに所属していた投手の田中勉が西鉄球団に八百長を広めたのは衆目の一致するところ」と報じた[15][注釈 2]。これに対し田中は、記事の内容は事実無根として10月21日弁護士を伴って「週刊ポスト」編集部を訪ねて抗議し、謝罪と記事の撤回を求めるが、編集長の荒木博は拒否した[17][18]

11月19日にコミッショナー委員会が開催され、永易を永久追放処分とする方針を固めた[19]。同月28日には野球協約第355条「有害行為」、第404条「制裁の範囲」、第120条「失格選手」の3項を適応し、プロ野球史上初となるコミッショナーによる敗退行為を理由とした永久追放処分を正式に決定した[20][21]。肝心の永易は10月8日に自宅アパートを出たまま行方をくらませており、西鉄球団、パシフィック・リーグ、コミッショナー事務局などのプロ野球界は本人を直接取り調べることが出来なかった。しかし、西鉄からの報告に加えて会長の岡野、コミッショナー事務局長の井原宏が福岡へ向かって永易の周辺を調査した結果、永易は野球協約の「有害行為」に抵触する事実があったと認定した[19]

西鉄は永易の件を受け、監督と球団社長が交代した。選手兼任監督だった中西太はチームの成績不振の責任を取って、3年契約が満了する同年限りでの辞任をオーナーの楠根宗生へ申し入れた[22]。楠根から強く慰留されたものの22日には承認され、中西の現役引退と退団が正式に決定した[23]。永易の件によってどん底に陥ったチームの再建を果たすためには監督にチーム生え抜きの選手を起用するのが最善と考え、当時コーチ兼任だった稲尾和久の起用を決定し[24]、稲尾は11月4日に監督就任を受諾する返答を述べた[25]。球団社長の国広も11月30日の任期満了に合わせて退任し、後任には青木勇三が12月15日付けで就任した[26]

一方、週刊ポストの記事によって名前が急浮上した田中には、12月15日に球団上層部からトレード要員にすることを通告された[27]。しかし、19日までに移籍先が無かったために自由契約とする旨を通達され[28]、田中は「週刊ポスト」を相手に名誉棄損罪で東京地方検察庁へ告訴した[29]。その後も一貫して獲得を希望する球団が現れなかったため、田中は郷里の福岡市へ戻り、事実上引退した[注釈 3]

藤田事件

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読売ジャイアンツ投手コーチの藤田元司は、義兄が経営する会社に代表取締役として参加していたが、義兄が一人の役員と経営方針を巡って対立したため、1967年(昭和42年)1月に義兄と藤田が当該役員に退職してもらうよう説得するように「ある人物」へ依頼した。その際に、義兄と藤田は当該役員の退職金として30万円を渡すように依頼したが、この「ある人物」は役員に退職を迫る際に脅迫まがいの言動をし、さらに30万円を着服していた。義兄と藤田は警察に被害届を提出したが、1970年(昭和45年)2月12日にこの「ある人物」が暴力団員であることが判明し、翌日の新聞各紙には「藤田が暴力団と関係」と報じられた[31][32]

藤田は2月13日に春季キャンプ先である宮崎の宿舎にて緊急の記者会見を行い、「(義兄が経営している)会社を受け継ぐにしても、どうしても辞めてもらわなければならない人がいた。他人に頼んで交渉してもらったが暴力団員とは知らなかった」と弁明した[33]。球団は一軍担当総務の佐伯文雄が藤田から事情聴取を行い、当日中に帰京してオーナーの正力亨へ報告した。そして翌日、球団は藤田を宮崎から帰京させて自宅謹慎を命じ、佐伯と球団代表の佐々木金之助を譴責とする処分案を発表した[34]

藤田の件は、前年に永易による八百長が表面化して折であり、「ジャイアンツよ、お前もか」の見出しで報道され、「プロ野球と暴力団との関係を如実に物語っている[35]」としてマスコミから非難を受けることとなった。

永易、藤田事件から「黒い霧」へ

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プロ野球界と暴力団が絡んだ不祥事が相次いだたため、球界の「黒い霧」を糾明しようとする動きが国会議員の中で出てきた[36]1970年(昭和45年)3月に入り、スポーツが好きな超党派の議員で構成される「スポーツ振興国会議員懇談会」(会長は川崎秀二、会員数約300名)が、3月3日に国会でプロ野球の「黒い霧」を取り上げることを決めた[37]日本社会党議員の中谷鉄也は3月9日の衆議院予算委員会において、プロ野球を舞台にした暴力団による野球賭博をさらに厳しく取り締まることを国家公安委員会委員長荒木万寿夫に迫ったほか[38]、行方不明の永易が暴力団によって軟禁されているのではないかと発言した[38]。これに対して警察庁刑事局長の高松敬治は「初耳だ。関係者からの申告を待って調査に乗り出したい」と答弁した[38]。そして3月10日警察庁は永易の行方を捜査するように、大阪府警察静岡県警察に指示した[39]

3月17日には、スポーツ議連によってプロ野球機構、有識者らを招いて「プロ野球健全化公聴会」が開催された[40]。また19日にはコミッショナー委員長の宮沢が衆議院法務委員会に参考人として招致され[41]、プロ野球の「黒い霧」が社会的に注目を集めるようになった。

中谷の要請を受けた警視庁が永易の行方を捜したところ、18日に大阪にある永易の実家へ永易本人から定期的に連絡があることを突き止めた。また、軟禁先を噂された静岡県伊東市内を捜索した結果、警視庁は永易が軟禁されている可能性は薄いと判断した[42]。しかし、スポーツ議連など球界の黒い霧を追及する議員たちはこの報告に納得せず、中谷、川崎と塩谷一夫の連名で警視庁へ永易の捜索願を出すこととなった[43][44]

永易の告白

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国会議員らによって軟禁説が取り沙汰されていた永易は、世間の目を逃れるために恋人と札幌に在住していた[45][46]。この頃、中日ドラゴンズの投手だった田中から訴訟を受けた「週刊ポスト」は、田中が黒幕である証拠を掴むために永易の行方を独自に探していた。週刊ポストの協力ライターで永易とは取材を通じて面識があった元デイリースポーツ記者の大滝譲司が、永易の親族や友人に「永易を探していると伝えて欲しい。もし永易本人に連絡する気が起きたら…」と大滝の連絡先と合わせて伝えていた[47][48]。そして、永易の妹を通じて永易本人から大滝へ連絡したいと話があり、大滝は永易と再会する。そこで永易は、自らの八百長と西鉄球団から口止め料として合計550万円を受け取っていたことを告白した。これ以降、大滝の手による永易の「告白」がマスコミを通じて世間に流れていく。

3月24日内外タイムスが「永易が名古屋にいる」ことをスクープ報道する。そして毎日新聞は、当日の夕刊で永易が札幌に潜伏していたことを報じる。この毎日新聞の報道は、東京社会部の記者である堀越章記が札幌へ向かい、永易が札幌のアパートに潜伏していた事実を掴んでいたもので、3月25日に発行した内外タイムスはさらに、永易がこれまで否定し続けていた八百長を行っていたことを認めたと報じる[49]

そしてこれ以降、永易の告白は球界に大きな波紋を投げかけることになっていく。

3月30日発行の内外タイムスは「独占スクープ第3弾」として、永易が西鉄球団から逃走資金を受け取っていたと報じた[50]スポーツニッポンは、当時の航空会社の招待によるヨーロッパ視察中で、モスクワに滞在していた西鉄オーナーの楠根に国際電話してインタビューしたが、楠根は「そんなことあるはずがない。彼(永易)は処分された選手だ」と全面的に否定した[51]3月31日に発売された週刊ポスト(4月10日号)には、永易への独占インタビューが掲載された[52]

4月1日にはフジテレビの深夜番組「テレビナイトショー」で大滝による永易へのインタビューの録音テープが放送され、永易が演じた八百長は西鉄の他の選手から頼まれたことと、八百長を演じたのは永易以外にもいることを示唆した[53][54]。これらはいずれも大滝によるもので、これらの永易の「告白」に対して他のマスコミからは永易自身が公の場に出て、自らの口で説明すべきとの声も噴出した[55]

4月5日、永易はスポーツ議連の3議員による捜索願で行方を追っていた警視庁捜査四課捜査員と面会し、自らの八百長と楠根から口止め料を受け取っていたこと、八百長は自分以外にも選手がいたことを供述した[56]

過熱する報道合戦

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永易の「告白」はさらに続き、今度は4月6日発行の内外タイムス「独占スクープ第4弾」では「親しいチームメイトのY投手から頼まれた」「Y投手に頼んだのはHさんと言って、M投手の知人で僕も知っている人」「Yから頼まれてF選手を止めた」「Y投手が止めたM捕手とM選手は共に30万ずつ渡したそうです」「HさんはI投手にやらせたくて、Iと親しい中日の田中勉さんに頼んで100万円を田中さんに渡したのを知っています」などと、田中は実名で、それ以外の選手らはイニシャルで名前を挙げた[57]

これに対し、共同通信はこの「独占スクープ第4弾」でイニシャルで掲載された選手を実名で挙げた記事を配信した[58][59]。これは、4月7日日刊スポーツ[60]と報知新聞[61]4月8日のスポーツニッポン[62]などの各主要スポーツ紙や、共同通信の配信を受けている東京タイムズ[63]や一部の地方紙に掲載されたほか、4月7日の内外タイムスは同紙記者による益田昭雄池永正明へのインタビュー記事を掲載した。両者とも八百長を否定したが[64]、池永は球団から「お前らは黙ってろ!我々上(層部)の者が解決する」という話があったことを認めた[64]

4月7日発売の「週刊ポスト」(4月17日号)が永易のインタビューの後編を掲載し[65]、8日には「テレビナイトショー」において司会の前田武彦と大滝が永易にインタビューする映像を放送した[66]。その中で永易は「自分が演じた八百長は3試合でそのうち1試合のみが成功で、この試合で自分以外に八百長に関わった選手がいる」と明言した。

永易の主張に対し、西鉄はオーナーの楠根がソ連、ヨーロッパ視察旅行から帰国した4月6日福岡空港で記者団に対し、「アホらしくて相手にできない」と全面的に否定した[67][68]。翌日、球団社長の青木とオーナーの楠根が、記者団からの要請で福岡市内にある西鉄の球団事務所および西鉄本社でそれぞれ記者会見したが、双方とも「永易の主張は事実無根」と改めて否定した[69]。しかし、記者から永易を告訴するなどの具体的な手段を立てるべきではないかとの問いに対しては、告訴は考えていないと明言した[69]

4月8日、プロ野球実行委員会が15時から東京・大手町の経団連会館で開催され、「永易発言」の真相を究明するために永易に対して「15日までにコミッショナー事務局、またはパシフィック・リーグへ連絡して欲しい」と呼びかけることを決定した[70]。これに先立ち、コミッショナー委員長の宮沢、委員の中松、コミッショナー事務局長の井原と鈴木龍二岡野祐の両リーグ委員長が協議し、西鉄球団に対して再調査を求めることを決めた[71]。また同日、球界の黒い霧の究明に乗り出しているスポーツ議連が設置している「プロ野球健全化調査委員会」が会合を開き、警視庁に対して永易とコミッショナー事務局を引き合わせるように協力を要請した[72]

永易の出現

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「自信がないから言えないんだろう」

「もしでたらめだったら、名前を上げられた選手たちは、大変迷惑なんだよ」
記者団の口調は厳しかった。
「ここは国会の中だ。この記者会見は、日本で最も権威のある会見とも言えるんだ。いままで、特定の記者に話したことを、この席で言えないなんて、失礼だと思わないか」

永易選手は、じっとうつむいたきりだ。顔が次第に赤黒く変わり、額に汗がにじむ。唇が小刻みに震える。隣にいた塩谷一夫議員(プロ野球調査委員長・自民党)が、たまりかねて助け舟を出した。「同僚の名前を口にしたくないきみの男としての気持ちもわかる。みんなもわかってくれている。言いなさい。」

永易は顔を上げた。「ピッチャーでは益田与田、それにぼく。そのほか、船田村上池永田中勉さんです。池永には田中さんから言ってます。」 一気にしゃべった。顔からさっと血が引いた。肩が落ちた。記者団からため息が漏れた。

「ちょうど“コロシのホシ”がオチる(自供する)ときのようだ」とベテラン記者がつぶやいた。

――四月十日午後三時半、衆議院第二議員会館での記者会見のクライマックスだ。
週刊読売[48]

「内外タイムス」「週刊ポスト」「テレビナイトショー」と特定のメディア媒体を通じて告白してきた永易だが、4月9日に読売新聞の記者が都内で永易を見つけ、インタビューを行っている[73]。開幕前日の4月10日、大滝が塩谷に「永易が『会いたい』と言っている」と連絡してきた[74]。塩谷は、永易が公の場に現れて事情を説明することを条件に出し、大滝もこれを了承した。永易と面会した塩谷は共同の記者会見を行い、コミッショナー委員会の喚問に応じるように説得し[75]、週刊ポストの弁護士である原秀男は先にコミッショナー委員会に出て実名を出し、その後に記者会見を開いた際に「名前は委員会に聞いてくれ」と述べる方が良いと助言した[76]

永易は、衆議院第二議員会館第一会議室において大滝、塩谷、原と共に15時から記者会見を行い、半年ぶりに公の場へ姿を現した[77]。永易はその会見で、記者団からこれまでイニシャルで名前を挙げた西鉄の選手6名の実名を挙げるように迫られた。当初、永易が実名を言うのを渋ったが、塩谷から「男として元同僚を庇うのは分かるが、いずれコミッショナーで言わなければならないのだから、ここで言った方が良い」と助言されると、永易は池永正明与田順欣益田昭雄村上公康船田和英基満男田中勉の名前を挙げた[76]。そして新たに佐藤公博(元南海ホークス)へ謝礼と引き換えに先発投手の名を漏らしていたことを公表した。永易は、自身の八百長については与田から勧誘されたことと、与田は「フジナワ」という人物と知り合って八百長を行っていたのがきっかけだと述べた。

そして永易は、西鉄の球団幹部から約550万円の逃走資金を受け取っていたことも改めて述べた。受け渡しの際には「フジナワ」と永易で会っていたことと、西鉄の書類にサインしたと述べ、記者会見後にはそのまま東京・銀座のプロ野球コミッショナー委員会事務局へ向かい、さらにパ・リーグ事務局でいずれも八百長について証言した。

西鉄球団vs永易

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西鉄球団は、開幕前日の4月10日午前中に上記6名を球団事務所へ呼び出して事情聴取したが、全員が永易の発言を否定し、球団は6名をシロと発表した。逃走資金についてもそのような事実は無いと否定した[78]パシフィック・リーグ会長の岡野は11日に福岡へ向かい、西鉄球団社長の青木や球団部長の藤本哲男から事情聴取した。その結果、永易の主張には裏付けが取れないとして西鉄はシロと結論付けた。だが、マスコミは岡野の調査を「手ぬるい」と非難した[79][80]

永易の発言で名前が挙がった「フジナワ」とは、神戸で牛乳販売業を営んでいた藤縄洋孝という商人だった。藤縄は4月15日深夜に朝日新聞名古屋本社へ自ら足を運んでインタビューに答え、「西鉄のオーナー(楠根)とは会ったこともない」と永易の発言を否定した[81]。朝日新聞はその後に永易のインタビューも掲載し、その中で「去年12月にオーナー(楠根)に会い、『何も言うな。一生面倒を見るから』と言われた」「西鉄からもらった金は合計550万円…これで『一生の保証か』と。藤縄さんと相談して(楠根)オーナーと稲尾監督に掛け合ったが、オーナーから『お前の問題は片付いた。稲尾さんから新聞に書くなり何なりしろ』と軽くあしらわれた。こんなに冷たい仕打ちはない」と答えた[82]。見かねた朝日新聞は、都内で永易と藤縄を引き合わせて「対決」させたが、両者の言い分は平行線を辿ったままだった[83]

しかし朝日新聞は、永易の前妻とその友人夫妻を取材して「『永易が西鉄からの口止め料を相談していた』と聞いた」こと、「離婚の慰謝料50万円が西鉄球団からの口止め料から充てていた」と両者は明言した[84]。続けて、八百長の噂のある選手の取り調べに立ち会った球団職員から「『八百長を認めた選手がいた』ことを聞いたという元後援会員の『他の選手も八百長をやっていたのは西鉄球団も知っているはず』」という証言を得た[85]。さらに、大阪にある永易の実家にも取材を申し込んだところ、永易の家族は「楠根が1969年12月に西鉄航空営業部大阪営業所で永易とその父親、兄、藤縄と面会したこと」と、「その際の口止め料の受け取りは『オオシロ』なる人物を通じて行うことを楠根が主張していた」と証言した。永易の母親は、西鉄球団からの口止め料の一部を実家に預けていたと証言して残金を見せ、「あの子の言っていることは本当です」と涙ながらに訴えた[86]

一方で、東京地方検察庁特別捜査部(東京地検特捜部)は、田中の「週刊ポスト」への告訴に絡んで八百長の捜査を行っていた。さらに永易本人を4月14日から16日にかけて事情聴取し[87]、永易の家族からも事情聴取を行った。4月22日オートレースの八百長事件で小型自動車競走法違反の疑いで逮捕された現役レーサーが、「大井オートレース場での八百長レースで現役のプロ野球選手と謎の男2名が現場にいた」と供述した[88]。その結果、4月23日に警視庁捜査四課は、同じく小型自動車競走法違反の容疑で田中、藤縄と高山勲(元大洋ホエールズ投手)を逮捕した[89]。藤縄は逮捕直前、朝日新聞の記者に対して現役のプロ野球選手を買収して八百長を仕組んでいたことを認めた[90]。これを受けて朝日新聞は、藤縄が逮捕されたことを報じた4月24日の朝刊でこの藤縄の告白を掲載し、大きな反響を呼んだ[91]。コミッショナー委員長の宮沢は同日夕方に記者団の取材に応じ、「今朝の朝日新聞に載った藤縄談話は注目に値するものと思う」と語った[92]。藤縄は西鉄選手の買収を10回試みて成功したのは僅か二度で、4500万円近い借金だけが残ったと述べている。

4月25日、西鉄本社にて昭和44年度下期の決算報告が行われた。社長兼オーナーである楠根が公の場に現れるとあって、黒い霧事件を取材している記者を中心に約30名が詰めかけたが、西鉄側は記者会見の参加を経済記者のみに限定した[93]。記者側は出席を許された記者に黒い霧に関連した質問をさせようとしたが、楠根は決算報告の最中に退席し、追いすがる記者を振り切って姿を消した[94]。こうした楠根の姿勢は次第に世論とマスコミの反感を買い続けることとなる。そして、4月28日の読売新聞・毎日新聞の各紙夕刊において[95][96]、楠根がこれまで否定し続けてきた永易への金銭授受を認めたと報じた。両紙は楠根に単独インタビューを行い、楠根は「永易から泣きつかれたので、更生資金として渡した」と答えた。4月29日には東京地検特捜部から出頭要請を受け、上京して取り調べを受けた際に、永易に対して550万円を渡していたことを認めた[97][98]

泥沼化する球界の黒い霧

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大揺れの西鉄

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西鉄球団は永易の“告白”を事実無根と主張していたが、楠根が前言を翻して永易へ資金を渡していたことを認めたため、永易の証言による西鉄選手の八百長疑惑に対してもクロと見る向きが高まった。

1970年(昭和45年)5月4日、プロ野球コミッショナー委員会は、東京遠征中だった西鉄の6名を東京の日生会館に呼び、午前10時から5時間近くに渡って事情聴取を行った[99]。しかしここでも、6名全員が永易発言に対して否定した[100]

コミッショナー委員会は2日後の5月6日、事情聴取した6名のうちの与田と益田について「はっきりクロと断定出来ないものの、疑惑が濃い相当の理由がある」として、野球協約第404条に基づき出場停止処分とした[101]。そして翌日には池永、船田、基、村上の4名に対して公式戦への出場を5月いっぱい見合わせることを発表した[102]。これにより西鉄は、与田・益田を含めて主力選手を6名も欠く非常事態となった。5月8日には池永ら4名を福岡市内の球団事務所に呼び出し、夕方から深夜におよぶ長時間の事情聴取を行った[103]。そして西鉄球団は日付が変わった5月9日午前1時45分より記者会見を行い、調査した結果、6名はシロとは言い切れない要素が出てきたと発表し、西鉄球団がようやく真相究明に乗り出した。

オートレースの八百長で逮捕された田中は、5月6日の東京地検特捜部の調べに対してプロ野球でも八百長を演じたことを認めた[104]。このため、週刊ポストの記事は田中への名誉棄損には当たらないと判断し、「世間を騒がせて申し訳ない。いまは反省すべき時で告訴どころではない」として告訴を取り下げる手続きを取った[105]。それを受けて東京地検特捜部は「週刊ポスト」を不起訴処分として捜査を打ち切った[106]。そして池永正明に対しては、藤縄からの依頼で100万円で八百長を依頼していたことを供述した[107]。池永も当初は否定したものの、5月10日に福岡市内にあった西鉄の室内練習場において、報道陣に対して田中から100万円をもらったことを認めた[108]

5月12日、与田は日刊スポーツの取材に対して「僕と益田は、やっていないといったところでおかしいでしょう」と自らの八百長を認めた。さらに基と村上にも八百長を持ち掛けたことも認めたうえで両者から断られたと明かし、「基、村上はシロだと言える。この二人はやっていないだろう」と明言した[109]

5月13日には船田、基、村上が球団社長の青木宛に「真相はこうだ」という告白状を提出した[110]。船田は永易から、基と村上は与田からそれぞれ八百長の勧誘を受け、その際に代金を渡されたが「金を渡しそびれた」(船田)、「5日後に返した」(基)、「その場で返した」(村上)と主張は様々だったものの、金銭は受け取っていない、または返却したと述べ、全員が「八百長は断った」と主張した。そして同日、永易への逃走資金を認めたことで非難を浴びていた楠根は福岡市内の西鉄本社にて13時より記者会見を行い、西鉄本社社長とオーナーの一切の公職から辞職することを表明した[111][112]

次々に発覚する黒い霧

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黒い霧の選手は他球団にも波及した。

逮捕された田中に続いて、中日ドラゴンズのエースである小川健太郎にもオートレースの八百長疑惑が浮上した[113]5月2日に読売新聞の夕刊が、小川と阪神タイガースの内野手・葛城隆雄が八百長オートレースに関与していたと実名で報道し[114]、中日球団は小川に対して同日夕方に自宅謹慎を命じた[115]。その後、小川は5月6日午前に警視庁へ出頭し、小型自動車競走法違反の疑いで警視庁捜査四課に逮捕された[116]。現役選手の逮捕にまで発展した球界の黒い霧に対して、セントラル・リーグ会長の鈴木龍二は逮捕された小川を無期限の出場停止処分としたが、世間の風当たりは一層厳しさを増していた[117]

5月7日には、朝日新聞の夕刊にて藤縄が1969年(昭和44年)のシーズン中にロッテオリオンズに対して「姫路のマスダ」と名乗り、監督の濃人渉と球団代表の武田和義に接近し、「私の言うとおりにすればオリオンズは優勝できる」と八百長を持ちかけようとしたと報道した[118]

5月9日の朝日新聞では、東映フライヤーズに所属する2名の選手が敗退行為の勧誘を受けていたと報じた[119]。その報道を知った田中調が「新聞に載っていた2人のうちの一人は自分だと思う」と名乗り出た[120]。東映球団は当日の試合後に田中と森安敏明、球団代表の田沢八十彦が揃って記者会見を開き、田中と森安は1969年(昭和44年)9月の西鉄戦で福岡へ遠征した際に、試合後に永易から勧誘されて3人で飲みに出かけ、その途中で永易が自分の知り合いがいると言って全員で藤縄のアパートに立ち寄り、その際に藤縄が二人に60万円を見せて八百長の依頼があったと認めた。森安は「八百長を誘われたのは田中だけ」という口ぶりだったが、田中は「(自分と森安の)2人に対して八百長の依頼があったと思った」と言い出し、主張が噛み合わなかった[121]翌日、会見を見ていたオーナーの大川博が自宅に田中と森安を呼んで事情聴取を行い、その後に3人での記者会見を開いた。大川は両者とも八百長の依頼があったことを認めるもこれを拒否して金銭も授受していないと判断したが、2人は依頼があったその後に永易、藤縄両名と飲み歩いていたことを認めたため、2人の試合出場を見合わせることを発表した[122]

14日には、毎日新聞とスポーツニッポンが近鉄バファローズの球団職員が1967年(昭和42年)シーズンに暴力団員の男から八百長を強要するよう脅されたため、監督の小玉明利や選手に八百長を働きかけ、近鉄が球団ぐるみで八百長を行っていたと報じた[123][124][注釈 4]。事実、この年は西鉄の一軍投手コーチだった大津守が大阪での近鉄戦で自軍の主力投手陣による八百長を疑い、独自に内偵を行ったことが問題視され、二軍コーチへ降格される事件が起きた。実際には近鉄、西鉄の双方が八百長を行っており、しかも大津自身が両球団に在籍していた経験を持つことからその動きを即座に察知していたが、この時点での西鉄球団は八百長が無いと判断していた。また、この頃に近鉄の主力投手だった鈴木啓示も暴力団関係者から八百長行為を持ち掛けられたが、断ったことを明かしている[126][127]

そして5月19日には、葛城がオートレースの八百長容疑で警視庁捜査四課に逮捕された。これを受けてセントラル・リーグは葛城を無期限の出場停止処分とした[128]。6月18日、コミッショナー委員会はセ・リーグ会長の鈴木の申請を受け、3ヶ月の期限付き失格処分とした[129]

関係者の処分

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西鉄選手への裁定

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1970年(昭和45年)5月16日パシフィック・リーグの理事会が開催され、6時間にも及んだ会議では西鉄に所属する6名の選手の処分を討議した[130]。会長の岡野は、この会議での各理事の議論を参考に6選手への裁定案をまとめてコミッショナーへ提出し、20日のコミッショナー委員会で3委員が処分案を討議した。その後、25日にコミッショナー委員会の3委員が後楽園サロンで記者会見を開き、6名の選手の処分を発表した[131][132]

池永、与田、益田の3投手は最も重い「永久追放処分」とした。理由として、与田・益田の敗退行為が認定され、池永は敗退行為の勧誘に際して受け取った100万円の返却を怠ったことを「八百長を承諾した」と見なし、これをプロ野球協約第355条(当時)違反として処分を下した。村上、船田については八百長を依頼されたものの否定したという本人の主張が認められたが、八百長を依頼された際に渡された報酬の返却を怠ったとして、同年11月30日まで試合出場を含む一切の野球活動を完全に禁止する処分を下した。基については八百長を依頼されるも拒否し、報酬を渡されても返却したことが認められたが、関係各所に報告しなかったことで厳重注意処分とした。

また、現役引退後に野球評論家として活動していた中西太も、西鉄球団の黒い霧に関して元監督としての道義的責任を取るとして当面の間、契約していたTBS放送、日刊スポーツでの野球評論活動を停止すると発表した[133](TBS放送の解説は6月9日の中継から復帰[134])。

くすぶり続ける球界の黒い霧

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オートレースでの八百長で逮捕された小川は、5月27日に東京地方検察庁へ起訴された[135]。これを受けて中日球団は、同日付けで小川との契約を解除することを発表してセントラル・リーグへ申請したが、会長の鈴木は「小川がオートレースの八百長以外にもかなり根深いものがあり、調査する必要があると判断した」として申請を保留した[136]6月2日、鈴木はコミッショナー委員会に対して小川を永久失格選手として処分して欲しいとの要望書を提出し、その前日に行った記者会見で、記者から「小川が否定してもそれを突き返すだけの資料があるということか」との問いに対し、「そう解釈してもらっていい」と回答している[137]。翌日にコミッショナー委員会が開かれ、小川を野球協約第120条「統一契約書にある条項」に違反したとし、同項では、違反した場合は期限付きまたは永久の失格選手に指名されるという項目のうち、後者を適用して小川を永久失格処分とする裁決を発表した[138]

一方、東映フライヤーズの田中、森安に対してはパシフィック・リーグ会長の岡野が5月14日に東映からの調査報告書を受け取った。これをもとに岡野は福岡、大阪で調査を独自に行った結果、東映の報告には不備があるとして、6月2日に東映に対して再調査するよう命じた[139]。そうした中で翌日に東映は2人から再び事情聴取を行ったところ、森安は、永易と藤縄から八百長の依頼があった後の行動について「永易らとクラブで遊んだ後に一人で宿舎へ帰った」と主張していたはずが、「芸者と遊んだ後に二人で帰った」と以前とは食い違う発言をした[140]。そのため、球団は森安を無期限の出場停止処分とした。

兵庫県警察は野球賭博の調査のため、7月からコミッショナー委員会より処分を受けた西鉄の選手や永易、小川らから事情聴取を行い、森安に対しても参考人として7月16日から事情聴取を行った。森安は、16日の取り調べでは八百長を否定したが翌日になって永易から八百長の依頼を承諾し、現金50万円を受け取っていたと自供した。すでに八百長の依頼があって現金を預かったままの池永が永久追放処分となったことから、この時点で森安の永久追放処分も決定的となった[141]。森安はオーナーである大川の命令で記者会見を行ったが、「金はもらったが八百長はやっていない」「永易からの電話で八百長の依頼があったが、朝だったので眠くて覚えていなかった」などと語り、マスコミから「肝心のことは何が何やらさっぱり要領を得ず[142]」と評された。

7月30日、コミッショナー委員会は14時から事務局で委員会を開催し、田中を厳重戒告、森安を永久追放[143]とする処分を決定した[144]。その後、事務局長の井原が東映の球団事務所にいる代表の田沢に電話で通告し、森安は田沢から処分を知らされた。その後に森安は球団事務所で記者会見を開き、「たかが50万円でバカなことをしたと思うか?」との問いに顔色を変えず「そりゃあそうでしょうね」と話したが、徐々に森安の目には涙が浮かび、「ファンの一人ひとりに土下座したい気持ちでいっぱいです」と謝罪した[145]。コミッショナー委員長の宮沢は処分を発表した記者会見にて「球界の黒い霧についてひとまずこれで調べが済んだが、これで終わりかと言われたら、私はそう言い切る自信はない」と語った。

なお、その言葉は少なからず的中してしまう。上記で述べた八百長行為とは別に、次の不祥事が発生し、関与した選手らはそれぞれ処分を受けている。

1970年
  • 7月1日 - 近鉄外野手の土井正博が賭博の疑いで書類送検され、1ヶ月間の出場停止処分を受ける。
  • 9月8日 - ヤクルト内野手の桑田武がオートレース八百長の疑いで逮捕され、10月1日にコミッショナー委員会から3ヶ月の期限付き失格選手に指名される[146]
  • 11月30日 - 阪神投手の江夏豊が「野球賭博常習者と交流していた」という理由で、セ・リーグ会長の鈴木龍二から戒告処分を受ける。
1971年
  • 1月11日 - 南海投手の三浦清弘がチームメイトの佐藤公博から敗退行為を勧誘され、その報告を怠ったとして戒告処分を受ける。
  • 1月29日 - 大洋コーチの鈴木隆、投手の坂井勝二に暴力団と関係を持った疑惑が浮上したため、同日付で球団から無期限の一軍出場禁止と減俸処分を受ける(出場停止は5月31日付けで解除)。
  • 2月15日 - ロッテ投手の成田文男が野球賭博常習者の暴力団員と交流していた疑いで、球団から1ヶ月の謹慎を言い渡される。

以上の事件を受けて、それぞれの関係者には以下の処分が下された。

選手名 所属球団 守備 罪状 処分
永易将之 西鉄 投手 敗退行為の実行 永久追放処分
池永正明 西鉄 投手 敗退行為の依頼を受け現金受理 永久追放処分
与田順欣 西鉄 投手 敗退行為の実行と勧誘 永久追放処分
益田昭雄 西鉄 投手 敗退行為の実行と勧誘 永久追放処分
小川健太郎 中日 投手 オートレース八百長に参加 永久追放処分
森安敏明 東映 投手 敗退行為の依頼を受け現金受理 永久追放処分
村上公康 西鉄 捕手 敗退行為の勧誘を受け、報告せず 1年間の野球活動禁止
船田和英 西鉄 内野手 敗退行為の勧誘を受け、報告せず 1年間の野球活動禁止
葛城隆雄 阪神 内野手 オートレース八百長に参加 3か月の期限付失格選手に指名
桑田武 ヤクルト 内野手 オートレース八百長に参加 3か月の期限付失格選手に指名
成田文男 ロッテ 投手 野球賭博疑惑のある暴力団と交流 1か月の謹慎処分
坂井勝二 大洋 投手 暴力団と交流 無期限出場停止と減給処分
江夏豊 阪神 投手 野球賭博疑惑のある暴力団と交流 戒告処分
三浦清弘 南海 投手 敗退行為の勧誘を受け、報告せず 戒告処分
田中調 東映 投手 敗退行為の勧誘を受け、報告せず 厳重戒告処分
基満男 西鉄 内野手 敗退行為の勧誘を受け、報告せず 厳重注意処分
高山勲 大洋 投手 オートレース八百長に参加、勧誘 なし(事実上の永久追放)
田中勉 中日 投手 オートレース八百長に参加、勧誘 なし(事実上の永久追放)
佐藤公博 南海 投手 オートレース八百長に参加、勧誘 なし(事実上の永久追放)

事件の影響

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「黒い霧事件」によって多くの球団で処分者を出したが、特にエースだった池永正明らを始め3名の永久追放処分者と2名の一年間出場停止処分者を出した西鉄は戦力の低下が著しく、1970年(昭和45年)に球団史上初の最下位に転落すると1972年(昭和47年)まで3年連続で最下位に低迷した。地元・福岡でも人気が急落し、経営が行き詰った西鉄球団は1972年オフに福岡野球へ身売りされることとなる。

公式処分者以外にも、1967年(昭和42年)に近鉄でプレーしていた主力選手数人が八百長へ関与していたとして名が挙がったが、黒い霧事件が発覚した時点で既に引退していた者については不問とされた。しかし、この者らが指導者として球界へ復帰することは無かった。

この事件の余波で、甚大な被害を被った人物にオートレース選手の広瀬登喜夫がいる。広瀬は、当時のオートレース界においては随一のスター選手として全盛期だった1970年(昭和45年)10月に逮捕されたことでオートレース界を追われ、30代前半という選手として最も充実するはずの時期を4年半以上にわたって裁判闘争に費やす羽目になった。冤罪だったとして控訴審で広瀬の無罪が確定し、オートレース選手としてようやく復帰が叶ったのは1975年(昭和50年)10月で、逮捕から実に丸5年が経過していた。その広瀬を下ろす形で第4回日本選手権オートレースを制し「大井のエース」と称された名選手・戸田茂司を含む19名もの所属選手が逮捕された大井オートレース場は、この事件も遠因となり1973年(昭和48年)3月22日に閉鎖へ追い込まれた。

1980年代に入ると、青田昇が野球賭博に「ハンデ師」として関与していたと報道される[147][148]。この報道に対して暴言を吐いたことから、1979年(昭和54年)オフに就任したばかりの読売ジャイアンツヘッドコーチを辞任しているが、実際に「ハンデ師」として関与していたのは、1950年代に巨人と松竹ロビンスの外野手だった野草義輝で、野草が逮捕されたのも1973年(昭和48年)である。

一方で、この事件が結果的に後年の野球人生においてプラスの影響をもたらした選手もいる。1968年(昭和43年)にドラフト1位で西鉄へ入団した東尾修もその一人で、入団1年目の1969年(昭和44年)にウェスタン・リーグ公式戦で打ち込まれて自信を失い、首脳陣に野手転向を申し入れたほどだった。ところが、この事件で永久追放や出場停止などで投手不足に陥ったために東尾は野手転向の話が立ち消えになるどころか一軍の主戦としてフル回転することとなり、のちに三度の球団名変更によって「西武ライオンズ」となった後もエースとして活躍する契機となった。東尾自身ものちに「あの事件は自分の野球人生にとって最大のチャンス、ターニングポイントだった」と述べている[149]。ただし投手としての実力が伴わないうちから、しかも弱小球団で登板を重ねたことが響き、「200勝より先に200敗を喫した投手」となり、最晩年には麻雀賭博が原因で引退している[150]

西鉄の後身にあたる埼玉西武ライオンズの主催試合で行われるイベント「ライオンズ・クラシック」の2010年(平成22年)の第1章(対オリックス・バファローズ戦)において、この事件によるライオンズやパ・リーグの状況を趣旨とした「パ・リーグ苦難の時代~ライオンズ消滅の危機~」というサブタイトルが付与されている。

2015年(平成27年)秋、読売ジャイアンツに在籍する複数の選手が野球賭博に関与していたことが発覚して処分を受けたことに対し、2016年(平成28年)1月12日の日本野球機構による新人研修会で、事件当時に近鉄の主力選手として活躍していた鈴木啓示が球団OBに紹介された暴力団関係者から八百長行為を持ちかけられたが、断っていたことを明らかにした[126][127]

永久追放処分の解除へ

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永久追放処分を受けた池永正明は、球界を離れてからは福岡市博多区の繁華街・東中州で「ドーベル」というバーを経営していた。その一方で西鉄の関係者(稲尾和久豊田泰光尾崎将司など)や池永の親族、池永の出身校である下関市立下関商業高等学校のOBなどは処分の決定直後から、処分解除を求めて街頭での署名活動を展開した。前述のとおり西鉄球団が「福岡野球」へ譲渡された1972年末には、福岡野球の社長で太平洋クラブライオンズのオーナーだった中村長芳ヤクルトアトムズのオーナーである松園尚巳がオーナー会議で池永の処分解除を提案したが、佐伯勇(近鉄バファローズ)、正力亨読売ジャイアンツ)が賛成を表明した一方で、森薫阪急ブレーブス)や川勝傳(南海ホークス)が強硬に反対し、意見の調整が付かないまま雲散霧消で終わった[注釈 5]。中村と松園が池永の復権を主張した背景には、沖縄問題懇談会の座長を兼務していた当時のコミッショナー・大濱信泉沖縄県出身)の下で沖縄返還を機に始まった政界・選挙違反者への恩赦の動きに合わせたとされる。

1996年には有志で結成された「復権実行委員会」が下関大丸での「豪腕ふるさとへ帰る 池永正明展」開催期間中(1ヶ月間)に18万7787人の署名を集めた。1997年6月3日には池永への処分解除を求める嘆願書と上記の署名簿を日本野球機構および当時のコミッショナーである吉国一郎宛てに提出した。しかし、1998年に後任としてコミッショナーに就任した川島廣守が6月24日付けで嘆願を却下した。川島は、嘆願書の扱いを巡って球界関係者代表の広岡達朗や有識者代表の中村稔浅利慶太五代利矢子から意見を聴取し、その結果「(池永の処分を決定した)1970年5月25日付けのコミッショナー委員会の採決の可否を再審理することは出来ない」「仮に処分を解除すれば、日本野球機構に属する職務(監督やコーチなど)への従事を池永に認めることになるため、プロ野球界に求められる倫理とは背馳する」などを理由に嘆願を却下した。

池永復権会

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これに対し、「復権実行委員会」のメンバーや趣旨に賛同した有識者や弁護士などは「豪腕・池永正明氏の復権と名誉回復を心から願う人々の会(通称「池永復権会」)」を新たに設立し、嘆願書の提出後から小説の執筆を前提に池永との交流を始めた笹倉明直木賞作家)が代表に就任すると共に、赤瀬川隼藤本義一難波利三阿部牧郎伊集院静若一光司赤江瀑古川薫軒上泊(いずれも作家)が相談役を引き受けた。さらに池永との付き合いが長い小野ヤスシ中野浩一をはじめ、ライオンズOB以外のスポーツ関係者や大橋巨泉なべおさみら芸能人からも多数の賛同会員が現れた。

「池永復権会」は当初、「池永の永久追放は『疑わしきは罰する』という姿勢の下に為された“灰色有罪”の処分でしかなく、コミッショナーの裁定でこの処分を続けることは人権問題にあたる」という認識の下に、講演活動展開しながら日本弁護士連合会の人権委員会への提訴を計画していた。しかし、当の池永は復帰運動に消極的な姿勢を示し始めたため、途中からは弁護士による月一度のペースで「勉強会」に衣替えした[注釈 6]。池永は地元・福岡での公演に参加する予定だったが、「球界の大物」と称する人物(詳細不明)から「弁護士を雇って事を起こそうとしているようだが、迷惑する人間が出てくることを承知しているのか」という主旨の電話を受けたことから急遽参加を辞退したという。これに対し、復権会の発足と同時に参加していた弁護士の西田研志は、「我々がいくら頑張っても、依頼人である池永の意思が曖昧なままではどうにもならない」として運動から離脱した。その一方で、途中から復権会の相談役に加わった楢崎欣弥(当時は民主党衆議院議員)は超党派の国会議員による懇談会の設立に尽力している[注釈 7]。懇談会の呼び掛け人には、共に当時の民主党参議院議員だった球界OBの江本孟紀、かねてから復権運動に賛同していた大橋巨泉、元アマチュアレスリングの選手である松浪健四郎自民党衆議院議員)、俳優の横光克彦社民党衆議院議員)、のちに麻生内閣内閣官房長官に就任する河村建夫(自民党衆議院議員)、2005年から公明党の副代表を務める東順治(公明党衆議院議員)、のちに女性初の参議院副議長に就任した山東昭子(自民党参議院議員)の7人が名を連ねた。

復権運動の風向きが変わったのは、プロ野球マスターズリーグ2001年に池永の選手登録を認めてからである。池永は同年、稲尾が監督を務めていた「福岡ドンタクズ」に入団し、12月25日の対名古屋80D'sers戦(福岡ドーム)で先発として初登板を果たすと、3回を無安打無失点に抑えて交代した。試合後のインタビューで、池永は永久追放処分について「もう許していただきたい」という旨のコメントを残している。

復権会はその後、2002年に川島への前述の嘆願書却下に対する反論書を添えて、日本野球機構に参加する全12球団のオーナーおよびコミッショナー事務局へ提出した[注釈 8]。請願自体は却下されたものの、2005年3月1日のコミッショナー実行委員会および同年3月16日のオーナー会議において、不正行為とその処分について定めたプロ野球協約第177条の改正が提案され、承認された。これによって、処分対象者からの申請による球界復帰への道が開かれた。

永久追放者は処分発効から15年、また無期限出場停止者に対しても5年を経過した選手について、本人からの申請があり、かつ善行を保持して改悛の情が顕著な者とコミッショナーが判断した場合に球界復帰を認める — 日本プロ野球協約 改正第177条第2項(本項を追加)

上記の協約改正を受けて、池永は改めて球界への復帰を申請し、2005年4月25日に復権を果たした。

2007年に経営していたバー「ドーベル」を閉店すると、2011年までは山口県社会人野球クラブチーム「山口きららマウンドG」(現:山口防府ベースボールクラブ)の監督を歴任した。また、2008年からは、2010年に活動を休止するまでプロ野球マスターズリーグ「福岡ドンタクズ」の監督も務めていた。

オートレース界 

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オートレースの八百長は野球界よりも早く表面化しており、1969年9月25日に暴力団関係者と現役オートレース選手4人が警視庁捜査四課に逮捕されたことから始まる。逮捕された人間の「オレたちだけじゃない。他にも大勢いる」との供述から、同年11月にはさらに3人の選手も逮捕されるなど、芋づる式に逮捕者が相次いだ。手口は、有力選手に八百長を持ち掛けて高額配当を出やすくしたうえで外部の後援者などに車券を買わせるものだった。この後援者の中に暴力団員が含まれており[152]、野球界などにも勧誘の手が広がっていった。

捜査当局が野球選手の関与を明確に把握した契機は、1970年4月14日に逮捕されたオートレース選手の自供によるものだった。オートレースは賞金を稼ぐ有力選手が、若手に車体や中古のタイヤを譲り渡すことが行われており、「親分・子分」といった人間関係が出来やすいのも八百長が浸透する背景となっていた[153]

同年4月11日までに捜査当局が把握した八百長選手は、少なく見積もって約30人にも上る。八百長の舞台となった船橋オートレース場大井オートレース場の両場の所属選手は120人であったことから、4人に1人の割合で関与していたことが明らかになっている[154]

脚注

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注釈

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  1. ^ 当時は、コミッショナーの権限については委員長の宮沢俊義金子鋭、中松潤之助の3人が合議制で担当していた。
  2. ^ 当時、「週刊ポスト」編集部で記事を担当しており、のちに第3代編集長となった関根進によると、週刊ポストは1969年(昭和44年)8月に創刊したばかりで目玉記事も少なく、売り上げが低迷していた。この状況を打破するために、当時のプロ野球における著名選手が暴力団と組んで八百長をやっていると噂が立っていたことから、格好のネタとして取り上げたものの、「無鉄砲にも噂の段階で八百長選手の実名を挙げて記事にしてしまった」ことを関根が認めている[16]
  3. ^ 中日ドラゴンズはオーナー会議にて「投手難(不足)だが田中を出す。その意味は幅広く解釈すれば分かってもらえると思う」と述べ、田中が“黒い選手”であることを暗示した。その後、田中には2球団が獲得に動き出したものの中日ドラゴンズの裏面工作によって立ち消えになったという[30]
  4. ^ この近鉄の八百長については朝日新聞が4月16日の夕刊で「『西日本のある球場で行われたX球団 対 Y球団』で八百長試合があった」と報じていた[125]
  5. ^ 笹倉の著書 第二章「追放からの歳月」を参照[151]
  6. ^ 笹倉の著書 第六章「過去という壁」より[151]
  7. ^ 笹倉の著書 第七章「希望の曲折」より[151]
  8. ^ 笹倉の著書 第八章「こころの扉」より[151]

出典

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  1. ^ a b 田中茂光「ボレスの言葉が発端 重苦しい社長賞」『Sports Graphic Number』1986年5月20日号、p36
  2. ^ a b 読売新聞1969年10月8日15面「球界に大汚点残す 西鉄球団社長談」読売新聞縮刷版1969年10月号p243
  3. ^ 読売新聞1969年10月8日15面「西鉄・永易投手が八百長」読売新聞縮刷版1969年10月p243
  4. ^ 報知新聞1969年10月8日「永易 公式戦で八百長 球界初の永久追放」1-2面
  5. ^ 読売新聞夕刊1969年10月8日11面「永易投手の八百長 西鉄ファンは怒る」読売新聞縮刷版1969年10月p259
  6. ^ 朝日新聞1969年10月8日夕刊11面「"野球トバクに関係"西鉄球団 永易選手を退団処分に」朝日新聞縮刷版1969年10月p263
  7. ^ スポーツニッポン1969年10月9日1面「"全く身に覚えがない" 永易、身の潔白を力説」
  8. ^ 東京中日新聞1969年10月10日3面「永易、いぜん蒸発」
  9. ^ 朝日新聞1969年11月25日13面「裁決迫る八百長事件 『永易問題』の周辺」朝日新聞縮刷版1969年11月p809
  10. ^ 毎日新聞1969年11月14日15面「ファン裏切る別件処分 暴力団との関連追及もタナ上げ」毎日新聞縮刷版1969年10月p415
  11. ^ 読売新聞1969年10月15日15面「八百長究明せよ 永易投手別件追放はすりかえ コミッショナー委 パ・リーグ会長に指示」読売新聞縮刷版1969年10月p463
  12. ^ a b 夕刊フジ1969年10月17日(発行10月16日)「蒸発・永易を福岡で発見 本紙記者に八百長の真相語る」1-3面
  13. ^ 馬見塚達雄『夕刊フジの挑戦 本音ジャーナリズムの誕生』阪急コミュニケーションズ、2004年、p60
  14. ^ 週刊ポスト1969年10月17日「阪急・近鉄を狙う野球トバクの魔手 在阪球団の骨までしゃぶりつくすトトカルチョの実態」p40-43
  15. ^ 週刊ポスト1969年10月24日号「永易以外にいる疑わしい8人ファンを裏切った腐敗分子を蛮勇をふるって告発する」p20-23
  16. ^ 関根進『史上最強の編集塾、開講!』太陽企画出版、1995年、p142-143
  17. ^ 報知新聞1969年10月22日3面「八百長は事実無根 田中勉、ポスト誌へ抗議」
  18. ^ サンケイスポーツ1969年10月22日3面「田中勉週刊誌を告訴へ "八百長記事は事実無根"」
  19. ^ a b 読売新聞1969年11月19日15面「永易の永久追放きめる コミッショナー委 八百長だと認定 ファンの批判みのる」読売新聞縮刷版1969年11月pp.607
  20. ^ 報知新聞1969年11月29日1面「永易、球界シャットアウト コミッショナー委が最終裁定」
  21. ^ 毎日新聞1969年11月29日15面「永易をプロ球界から永久追放」毎日新聞縮刷版1969年10月905p
  22. ^ 日刊スポーツ1969年10月10日3面「中西監督、辞任を申入れ 残り3試合は休養 後日再検討 楠根オーナー"保留"」
  23. ^ 日刊スポーツ1969年10月23日1面「西鉄 中西退団を発表 ライオンズ一筋 また消えた名物男」
  24. ^ 日刊スポーツ1969年11月1日1面「西鉄新監督に稲尾昇格 楠根オーナーが養成 受諾は決定的 4日に正式発表」
  25. ^ デイリースポーツ1969年11月5日1面「再建へ切り札 "稲尾西鉄"誕生」
  26. ^ 日刊スポーツ1969年12月16日2面「西鉄新社長に青木氏」
  27. ^ 朝日新聞1969年12月16日13面「田中勉、トレードに」朝日新聞縮刷版1969年12月p517
  28. ^ 朝日新聞1969年12月20日13面「中日、田中勉を自由契約に」朝日新聞縮刷版1969年12月p661
  29. ^ 朝日新聞1969年12月20日15面「『週刊ポスト』を名誉棄損で告訴 田中投手」朝日新聞縮刷版1969年12月p663
  30. ^ 週刊朝日1970年5月8日号「元エース田中勉の栄光と転落」
  31. ^ 朝日新聞1970年2月13日15面「藤田コーチの会社 暴力団使い退職強要」朝日新聞縮刷版1970年2月p351
  32. ^ 毎日新聞1970年2月13日19面「藤田コーチが暴力団使う 自営会社の重役追い出しに」毎日新聞縮刷版1970年2月p343
  33. ^ 朝日新聞1970年2月14日13面「『暴力団の被害者』 藤田語る」朝日新聞縮刷版1970年2月p385
  34. ^ 毎日新聞1970年2月15日12面「藤田コーチを謹慎 巨人軍 暴力団事件で処分」毎日新聞縮刷版1970年2月p398
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  36. ^ 東京中日スポーツ1970年3月4日1面「国会で"黒い霧"追及 永易、藤田事件うやむやにするな 予算、文教両委で スポーツ議員がノロシ」
  37. ^ 朝日新聞1970年3月3日夕刊11面「プロ野球 『永易』『藤田』事件 国会で追及の動き スポーツ議員懇 アピールだす」朝日新聞縮刷版1970年3月p99
  38. ^ a b c 朝日新聞1970年3月10日15面「プロ野球の黒い霧 衆院で論議 『永易軟禁』も追及 トバク・暴力に超党派 予算委」朝日新聞縮刷版1970年3月p295
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  40. ^ 朝日新聞1970年3月18日15面「熱っぽくプロ野球公聴会 “黒い噂”めぐり爆弾発言」朝日新聞縮刷版1970年3月p575
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  43. ^ 朝日新聞1970年3月19日夕刊10面「三代議士が捜査願」朝日新聞縮刷版1970年3月p681
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  45. ^ 毎日新聞1970年3月24日夕刊11面「22日までに札幌に 永易選手 『名古屋へ』と姿消す」毎日新聞縮刷版1970年3月p779
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  49. ^ 内外タイムス1970年3月27日(26日発行)1面「永易ついに『八百長』告白 ファンのみなさん、申し訳ない」
  50. ^ 内外タイムス1970年3月31日(30日発行)1面「西鉄が一生面倒見る 永易、はじめて"核心証言"」
  51. ^ スポーツニッポン1970年3月31日1面「一生面倒?まさか モスクワの楠根オーナーと国際電話」
  52. ^ 週刊ポスト1970年4月10日号「永易選手が八百長事件をすべて告白 もうオレは黙っていられない!」p34-38
  53. ^ 報知新聞1970年4月2日4面「西鉄のある選手に頼まれてやった 永易の録音テープ フジTVナイトショーで流す」
  54. ^ 朝日新聞1970年4月2日13面「八百長を認める 永易の声、テレビで放送」朝日新聞縮刷版1970年4月p45
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  58. ^ 週刊大衆1970年4月23日号「現地詳報 八百長永易に名指しされた六人の白黒 核心に近づいた黒い霧のヴェールをはぐ」p18-21
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  60. ^ 日刊スポーツ1970年4月7日1面「永易 八百長の真相バク露 "与田から頼まれた"」
  61. ^ 報知新聞1970年4月7日1面「池永・益田・与田・村上・基・船田・田中勉ら仲間が7人 “八百長は成功した(昨年7月対南海戦)”」
  62. ^ スポーツニッポン1970年4月8日1面「永易 最初は4月23日 仲間の名も明らかに」
  63. ^ 東京タイムズ1970年4月7日13面「"汚名一人でかぶれ"永易元選手が証言 逃走資金もらう」
  64. ^ a b 内外タイムス1970年4月8日(4月7日発行)1面「"永易告白"で大揺れの西鉄 本紙独占スクープ 球界に大衝撃」
  65. ^ 週刊ポスト1970年4月17日号「永易選手の爆弾発言 オレがやった八百長試合の全貌と組んだ選手」p36-40
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  71. ^ スポーツニッポン1970年4月9日1面「永易よ姿現わせ!!実行委員会が"呼びかけ" "15日までに連絡してほしい" 」
  72. ^ 日刊スポーツ1970年4月9日1面「コミッショナーに側面強力 プロ野球健全化調査委」
  73. ^ 読売新聞1970年4月10日15面「球団との対決辞さぬ 永易元投手、本社記者に語る」読売新聞縮刷版1970年4月p303
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  85. ^ 朝日新聞1970年4月21日15面「『同僚選手も八百長』 元後援会員」朝日新聞縮刷版1970年4月p679
  86. ^ 朝日新聞1970年4月21日15面「ここに証拠の金 残金37万円示す両親 オーナーと会見、藤縄氏も同席」朝日新聞縮刷版1970年4月p679
  87. ^ 朝日新聞1970年4月17日夕刊10面「大城・藤縄氏も呼ぶ?八百長問題で東京地検特捜部」朝日新聞縮刷版1970年4月p570
  88. ^ 朝日新聞1970年4月22日夕刊11面「プロ野球選手からむ?オートレース八百長事件 不正現場に数名いた 逮捕のレーサー自供」朝日新聞縮刷版1970年4月p731
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  90. ^ 朝日新聞大阪版1993年12月13日夕刊3面「プロ野球黒い霧を追って:5 (ザ・新聞社)」
  91. ^ 朝日新聞1970年4月24日15面「私は八百長を仕組んだ 野球とばく 藤縄が全容を語る」朝日新聞縮刷版1970年4月p783
  92. ^ デイリースポーツ1970年4月25日1面「藤縄談話は有力資料 宮沢コミッショナー 事態発展に厳しい表情」
  93. ^ 毎日新聞1970年5月2日17面「プロ野球ざっくばらん ウソは必ずバレる 窮地に陥った楠根オーナー」毎日新聞縮刷版1970年4月p49
  94. ^ デイリースポーツ1970年4月26日1面「なぜ逃げる?楠根オーナー 西鉄に弱み・・深まる疑惑」
  95. ^ 読売新聞1970年4月28日夕刊11面「永易との金銭授受 暗に認める 西鉄楠根オーナー 口止め料ではない」読売新聞縮刷版1970年4月p907
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  97. ^ 朝日新聞1970年4月30日15面「永易発言とぴたり一致 五百五十万円を渡す 楠根オーナー地検で供述」朝日新聞縮刷版1970年4月p999
  98. ^ 毎日新聞1970年4月30日23面「渡した金は550万円 永易発言と一致 仲介者いる席で四回 東京地検で楠根オーナー認める」毎日新聞縮刷版1970年4月p959
  99. ^ 朝日新聞1970年5月4日夕刊11面「緊張・上気・照れ笑い・・・喚問会で西鉄六選手追及 八百長野球 コミッショナー委」朝日新聞縮刷版1970年5月p123
  100. ^ 朝日新聞1970年5月5日15面「喚問会 全員、八百長否定 西鉄六選手ら記者会見」朝日新聞縮刷版1970年5月p139
  101. ^ 日刊スポーツ1970年5月7日2面「“厳罰”にガックリ与田、益田 もう野球やめたい 自ら『ウソ』認める口ぶり」
  102. ^ 日刊スポーツ1970年5月8日1面「池永ら4選手の出場辞退 西鉄発表『今月末日まで』」
  103. ^ 日刊スポーツ1970年5月9日1面「池永ら4選手も“心証クロ”西鉄、深夜の再調査 資料まとめコミッショナー裁定待つ」」
  104. ^ 日刊スポーツ1970年5月7日1面「田中、八百長認める 43年10月 44年5月 巨人、広島との2試合」
  105. ^ 日本経済新聞1970年5月7日19面「八百長数回やった 田中自供 小川も一役」日本経済新聞縮刷版1970年5月p175
  106. ^ 朝日新聞1970年5月9日夕刊11面「名誉棄損捜査打ち切る 田中勉の週刊誌告訴事件」朝日新聞縮刷版1970年5月p267
  107. ^ 毎日新聞1970年5月8日19面「池永投手に八百長料百万円 東京地検が確認 藤縄に頼まれ田中が渡す」毎日新聞縮刷版1970年5月p215
  108. ^ 日刊スポーツ1970年5月11日1面「池永"球界追放"は必至?きょう注目のパ・リーグ理事会 “黒い百万円”を告白 八百長は否定 明らかに協約違反」
  109. ^ 日刊スポーツ1970年5月13日2面「与田もクロ認める 野球もうやめる決心 基 村上は白 いつでも証人に」
  110. ^ 報知新聞1970年5月14日3面「与田に呼ばれ頼まれた 船田、基、村上が青木球団社長に告白状」
  111. ^ 西日本新聞1970年5月13日夕刊1面「楠根西鉄社長が辞任 後任に吉本専務 球団オーナーは木本常務」
  112. ^ 日刊スポーツ1970年5月14日1面「西鉄・楠根オーナー退陣 後任に木本氏 “八百長”の責任をとる」
  113. ^ 毎日新聞1970年4月29日19面「セのO投手浮かぶ 八百長オート」毎日新聞縮刷版1970年4月p919
  114. ^ 読売新聞1970年5月2日夕刊9面「プロ野球選手現役に波及 八百長オート 小川と葛城両選手」
  115. ^ スポーツニッポン1970年5月3日2面「中日、小川を謹慎 一部の実名報道で」
  116. ^ 朝日新聞1970年5月6日夕刊11面「中日 小川投手を逮捕 八百長オート 黒いプロ野球 現役に追及の手」朝日新聞縮刷版1970年5月p167
  117. ^ 読売新聞1970年5月6日夕刊10面「徹底的にウミを出せ ファンは怒る 常識に欠ける選手 カネに対し甘い考え」読売新聞縮刷版1970年5月p152
  118. ^ 朝日新聞1970年5月7日夕刊10面「ロッテにも"黒い手" 藤縄 球団ははねのける」朝日新聞縮刷版1970年5月p194
  119. ^ 朝日新聞1970年5月9日15面「八百長選手、東映にも 50万円で2投手請負う」朝日新聞縮刷版1970年5月p251
  120. ^ 朝日新聞1970年5月10日15面「八百長は拒否 届けなかった 田中投手」朝日新聞縮刷版1970年5月p283
  121. ^ 朝日新聞1970年5月10日15面「八百長野球 東映、二投手に事情聞く」朝日新聞縮刷版1970年5月p283
  122. ^ 朝日新聞1970年5月11日15面「遠征からはずす 東映 森安、田中投手」朝日新聞縮刷版1970年5月p311
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  125. ^ 朝日新聞1970年4月16日夕刊11面「これが"八百長"試合だ 野球トバク その実態を探る」朝日新聞縮刷版縮刷版1970年4月p467
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  128. ^ 朝日新聞1970年5月19日夕刊11面「葛城(阪神)ついに逮捕 八百長オート」朝日新聞縮刷版1970年5月p613
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  130. ^ 日刊スポーツ1970年5月17日3面「与田・益田は永久追放?パ緊急理事会 西鉄6選手の"処分案"提出へ」
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  132. ^ 鈴木龍二『プロ野球と共に五十年(下)私のプロ野球回顧録』恒文社新書、1984年、p195-p201
  133. ^ 日刊スポーツ1970年5月27日1面「中西太氏 自発的に謹慎 評論活動を停止」
  134. ^ 報知新聞1970年6月16日2面「中西氏、解説始める 新聞はしばらく謹慎」
  135. ^ 日刊スポーツ1970年5月28日2面「地検、小川を起訴」
  136. ^ 日刊スポーツ1970年5月28日2面「中日、小川の契約解除 セ会長 八百長調査で保留」
  137. ^ 日刊スポーツ1970年6月2日1面「中日・小川も永久追放 "野球でも八百長"」
  138. ^ 日刊スポーツ1970年6月4日2面「"小川の追放"本決まり コミッショナー委 統一契約書違反を初適用」
  139. ^ 朝日新聞1970年6月3日13面「東映に再調査命令 岡野会長 疑惑深まる森安投手」朝日新聞縮刷版1970年6月p75
  140. ^ 朝日新聞1970年6月4日21面「森安の出場停止 東映決定 前言ひるがえし疑惑」朝日新聞縮刷版1970年6月p129
  141. ^ 日刊スポーツ1970年7月17日1面「森安も永久追放へ 八百長野球、50万円の授受を自供」
  142. ^ 日本経済新聞1970年7月28日17面「弁明、要領得ず 森安が記者会見」日本経済新聞縮刷版1970年7月p945
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  146. ^ なお、桑田は失格選手指定解除後にヤクルトから自由契約を通達されるが、この件が致命傷となってそのまま現役を引退した。
  147. ^ INC, SANKEI DIGITAL (2019年11月18日). “【虎番疾風録第3章】(79)巨人黒い交際…ハンデ師疑惑「冗談やないで」”. 産経ニュース. 2021年9月24日閲覧。
  148. ^ 二宮清純. “第735回 野球賭博の”末路”は…過去の教訓再確認を – SPORTS COMMUNICATIONS”. 2021年9月24日閲覧。
  149. ^ 『江川になれなかった男たち』p.p.116-117
  150. ^ 通算200勝を達成するより先に通算200敗を喫した投手としては梶本隆夫以来史上2人目となるが、2022年現在では東尾が最後となっている。なお、東尾は通算200勝を達成した1984年(昭和59年)シーズン終了時点で201勝215敗と14の負け越しがあったが、1985年(昭和60年)に17勝3敗の好成績で負け越しを帳消しにし、最終的には251勝247敗で4つ勝ち越して引退した。最も、東尾の引退の原因となったのは高レート麻雀賭博への関与で警察から事情聴取を受けたことによる譴責処分だった。
  151. ^ a b c d 笹倉 2005, pp. &#91, 要ページ番号&#93, .
  152. ^ 大井オートレース場 三選手が八百長 事前に着順を打合せ 数回で数百万円かせぐ『朝日新聞』昭和44年(1969年)11月11日夕刊、3版、11面
  153. ^ 選手の親分が仲立ち 八百長オート『朝日新聞』昭和45年(1970年)4月24日夕刊、3版、11面
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参考文献

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  • 笹倉明『復権 池永正明、35年間の沈黙の真相』文藝春秋、2005年4月1日。ISBN 978-4163672007 

関連項目

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外部リンク

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