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「陸奥国」の版間の差分

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定員は1名。従五位上相当。
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2006年5月31日 (水) 04:58時点における版

7世紀末から712年までの陸奥国
718年から数年間の陸奥国
鎌倉時代から1868年までの陸奥国

陸奥国(むつのくに)は、明治以前の日本の地方区分であるの一つである。範囲は本州の北東端にあたる今日の福島県宮城県岩手県青森県と、秋田県北東の鹿角市小坂町にあたるが、明治時代初期に行われた分割によって青森県と岩手県二戸郡にかけての地域に縮小された。奥州(おうしゅう)とも呼ばれた。延喜式での格は大国、遠国。

沿革

初め道奥みちのおく)といい、平安時代まで陸奥(みちのく)と呼ばれた。

道奥国は、7世紀常陸国から分立して、現在の東北地方南部に設置された。設置時の範囲は、おおよそ現在の宮城県の中南部、山形県の中南部、および福島県のほぼ全域に相当し、太平洋側のみならず、奥羽山脈の西側、すなわち、日本海側に当たる現在の山形県内陸部や福島県会津地方を含んだ。

和銅5年 (712年)に、最上郡(村山地方)と置賜郡(置賜地方)を新しく成立した出羽国(現在の庄内地方)に譲ったため、陸奥国は上述の宮城県域と福島県域のみになった。

養老2年 (718年) に、陸奥国は、陸奥国・石城国石背国の三つに分割された。このときの陸奥国の範囲は仙南平野のみとなり、阿武隈川下流の北岸以北、および松島丘陵以南の範囲となった。阿武隈川下流の南岸以南の浜通りは石城国、阿武隈川流域の盆地群、中通り、および会津で石背国とした。なお、南東部に建てられた石城国は、分立する際に常陸国から菊多郡をあわせた。しかし、養老6年 (722年) 年から神亀元年 (724年) までのいずれかの時期に、三国は合同して元の陸奥国に戻った。菊多郡はそのまま陸奥に属した。ここまでの時期を通じて、陸奥国は北方の蝦夷との境を接する重要な国とみられていた。

畿内政権の征服活動(日本領土の拡大)において、鎮守府を北進させながら、日本海側では越国高志国)が北に拡大し、太平洋側では陸奥国が北に拡大していった。その際、日本海側では越国の分割統治(越前国越中国越後国、のちに出羽国加賀国を設置)に成功したのに対し、太平洋側では一度行った陸奥国の分割統治を取りやめ、一体的な統治に戻している。これは、越国が地理的に畿内に近く、また、海運によっても兵站確保が可能なのに対し、陸奥国は、地理的に畿内から遠く、また、太平洋の親潮領域に入ってしまって海運による兵站確保が出来ず、さらに、広大な内陸領域で蝦夷側の反攻に遭っていたためである。そのため、724年頃の陸奥国再統一の際に、太平洋から奥羽山脈まで東西に連なる松島丘陵を、北方の蝦夷(俘囚)に対する防衛線として用い、松島丘陵の南麓に接する場所に鎮守府(前線基地)と陸奥国府を兼ねた多賀城(現在の多賀城市内)が置かれた。後に柵や鎮守府は北進するが、中世に至るまで何度も蝦夷側の反攻に遭い、陸奥国の北の境界は不確定のまま推移し、結局、再分割されることもなく、国府の移動もなかった(多賀城市に隣接する仙台市宮城野区岩切に移転したという説もあるが、遺構が見つかっていない)。

平安時代の陸奥国および出羽国は、北東北領域で境界不明瞭なことが多く、平安末期には、奥州藤原氏の勢力範囲の秋田県領域も陸奥国と見なされていたようである(→出羽国)。

奥州藤原氏の滅亡を機に、中央政府が支配する陸奥国の領域は本州最北端まで広がるが、鎌倉政権以降の武家の時代になると、荘園制や領国支配などの小領地分割統治の時代に入り、令制国が行政単位としての機能を失ったため、陸奥国は突出して面積が広い国(地域)としてそのまま残った。

明治維新の折、明治政府による天皇を中心とした中央集権体制が敷かれる過程で、江戸時代の各藩の領国支配と異なった単位での地方支配体制が求められ、令制国をもとにした地方区分が試みられた。その際、広大な陸奥国領域は出羽国とともに分割されることになり、明治元年 (1868年) 12月7日、陸奥国は、陸奥国・陸中国陸前国岩代国磐城国の五つに分割された。分割後の「新・陸奥国」は、現在の青森県に岩手県西北の二戸郡を加えた範囲となり、初期の陸奥国から300kmも離れた土地が同じ国名となる稀有な例となった。これは「陸奥」という言葉が固有の土地の名前であるのと同時に、「みちのく」「陸の奥」という意味を持っているため、その時代時代の中央政権に服従する境界領域「陸奥」が移動したからだと考えられる。

明治政府の地方支配体制は、その後の廃藩置県によって実現されたため、明治元年の陸奥国分割は、政治的にも地域圏・文化圏成立にもほとんど意味を成さなかった。ただし、分割後の国名は、鉄道の駅名などに利用されている。

歴史

律令制の下で大国とされ、蝦夷と接する重要な位置にあった。隣の出羽国もまた蝦夷に接していたが、両国を統括する政治的・軍事的中心は陸奥側におかれた。両国を統括する按察使は陸奥国守が兼任する慣行であった。陸奥国府には鎮守府が置かれ、鎮守将軍(後に鎮守府将軍)が両国を軍事的に統括した。8世紀から9世紀初めには盛んに城柵が作られた。蝦夷との戦争をへてしだいに領域を北に拡大した。黄金と名馬を産した。

平安時代後期になって中央からの統制が弛緩すると、俘囚の長安倍氏が陸奥の北部、奥六郡で力を持つようになった。安倍氏は国司に従わず、前九年の役で戦って滅亡した。このとき出羽国から参戦した清原氏が陸奥・出羽両国で勢威を持ったが、後三年の役で滅亡した。これにかわって奥州藤原氏が陸奥・出羽の支配者になった。これらはいずれも陸奥・出羽の地元で力を伸ばした一族で、都から派遣された国司が統治するという律令制の大原則を侵食し、奥州藤原氏にいたって自治的領域を築くようになった。

奥州藤原氏は平泉を本拠に、平氏政権のもとでも半独立の状態を維持した。しかし1189年源頼朝の攻撃を受けて滅亡した。頼朝は、陸奥国に関東の武士を地頭として配置した。葛西清重ら葛西氏が下総国葛西郡から奥州へ移り、平泉の統治を任され、「奥州惣奉行」職に就任した。 その他に千葉氏、大崎氏などが奥州へ移った。

(書きかけ。加筆をお願いします)

徳川幕府の調査による人口は、文政5年 (1822年) が165万0629人であった。明治5年 (1872年) の調査では、以前の陸奥国に相当する五国合計が229万4915人を数えた。分割後の陸奥国は人口47万3244人であった。

国府・国分寺・安国寺など

国府ははじめ現在の仙台市太白区にある郡山遺跡にあったと推測される。神亀元年 (724年) 、多賀に多賀城が建設されると同時に国府もここに移った。これは現在の多賀城市にあり、遺跡が発掘されている。遺跡調査からこの国府が10世紀に廃絶したことがわかっているが、文献史料からはその後も多賀国府が鎌倉時代、南北朝時代に存在したことがわかっている。場所がやや西の岩切(現在の仙台市北東部)付近に移ったのではないかと推測されているが、確認されていない。

国分寺は現在の仙台市若林区木の下にあった。同じ位置に慶長12年(1607年)、伊達政宗の力で陸奥国分寺が再興され、真言宗智山派の護国山医王院陸奥国分寺(本尊:薬師如来)として今日に至る。後に古い国分寺の遺跡が発掘され、国の史跡に指定された。

国分尼寺は、仙台市若林区白萩町に曹洞宗の護国山国分尼寺(本尊:聖観世音菩薩)があってその法燈を伝承する。安国寺は、宮城県古川市柏崎に臨済宗妙心寺派の興聖山安国寺(本尊:阿弥陀如来)がある。なお、利生塔は未詳である。

神社

延喜式神名帳には大社15座15社・小社85座85社の計100座100社が記載されている。大社15社は以下の通りで、全て名神大社である。

中世以降鹽竈神社(宮城県塩竃市)が一宮とされるようになった。戦国時代ごろから都々古別神社(福島県棚倉町棚倉・同町八槻)も一宮を名乗るようになり、以降、両社が一宮とされた。近世以降、石都々古和気神社(福島県石川町)も一宮を主張している。二宮は伊佐須美神社(福島県会津高田町東尾岐)である。総社陸奥総社宮(宮城県多賀城市市川)であるとされるが、鹽竈神社が惣社を兼ねていたとする説もある。

国司

陸奥守

定員は1名。従五位上相当。

  • 源満政
  • 源忠重
  • 源頼義
  • 足利義氏 - 1189年(文治5年) - 1255年(建長6年)11月21日(1月1日)
  • 北条義時 - 1217年、右京権大夫と兼任。
  • 北条時茂 - 1240年(仁治元年)から1270年(文永7年)2月18日(1月27日)の間のいずれか。
  • 島津立久 - 1470年から1474年(文明6年)4月まで。
  • 佐々成政 - 1536年(天文5年)2月6日(1月15日?) - 1588年(天正16年)7月7日(閏5月14日)あでの間のいずれか。
  • 伊達斉邦 - 1827年から1841年9月9日(天保12年7月24日)まで。

陸奥介

延喜式の郡

明治期陸奥国の郡

関連事項