コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「佐藤一郎 (映画プロデューサー)」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Tribot (会話 | 投稿記録)
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m WP:BOTREQ: Category:東京都区部出身の人物新設に伴う貼り変え作業
230行目: 230行目:
[[Category:1987年没]]
[[Category:1987年没]]
[[Category:東宝の人物]]
[[Category:東宝の人物]]
[[Category:東京都出身の人物]]
[[Category:東京都区部出身の人物]]
{{リダイレクトの所属カテゴリ
{{リダイレクトの所属カテゴリ
|redirect1=椿澄夫
|redirect1=椿澄夫

2016年6月8日 (水) 01:35時点における版

さとう いちろう
佐藤 一郎
本名 佐藤 一郎
別名義 椿 澄夫
佐藤 信一郎
生年月日 (1913-12-25) 1913年12月25日
没年月日 (1987-10-01) 1987年10月1日(73歳没)
出生地 日本の旗 日本 東京市(現在の東京都
死没地 日本の旗 日本
職業 映画プロデューサー脚本家
ジャンル 映画
活動期間 1949年 - 1982年
主な作品
われ一粒の麦なれど
駅前シリーズ
落語野郎 大脱線』脚本のみ
不毛地帯
天平の甍
受賞
ブルーリボン賞
1964年 企画賞
われ一粒の麦なれど
その他の賞
テンプレートを表示

佐藤 一郎(さとう いちろう、1913年12月25日 - 1987年10月1日[1])は、日本の映画プロデューサー脚本家である。第二次世界大戦後の新東宝東宝東京映画で活動した[1]。『われ一粒の麦なれど』、「駅前シリーズ」を手がけ、日本映画製作者協会(現在の日本映画テレビプロデューサー協会)の第4代理事長を歴任した[1]。脚本家としてのペンネームは椿 澄夫(つばき すみお)、佐藤 信一郎(-しんいちろう)とも名乗った[1]

人物・来歴

1913年(大正2年)12月25日東京市(現在の東京都)に生まれる[1]

早稲田大学を卒業後[1]、東宝の前身の東宝映画に入社、戦後、新東宝の設立に参加した[1]。1949年(昭和24年)、渡辺邦男監督の「渡辺プロダクション」[2]と新東宝との共同製作で、同監督の『異国の丘』を同監督とともにプロデュースし、「製作」として名を連ねる。同作は、同年4月25日に東宝の配給によって公開された。新東宝では1951年(昭和26年)まで6本を手がけた。

1954年(昭和29年)、自らがプロデュースした青柳信雄監督の映画『うれし恥かし看板娘』の脚本を椿 澄夫の筆名で書き、脚本家としてデビューした。脚本執筆作は11作ある。

1958年(昭和33年)、豊田四郎監督の映画『喜劇 駅前旅館』をプロデュースし、同作を皮切りに「駅前シリーズ」を立ち上げ[1]、全24作品、1969年(昭和44年)までつづくシリーズとなった。

1964年(昭和39年)5月、前任者の大映のプロデューサー松山英夫から引継ぎ、「日本映画製作者協会」の第4代理事長に就任した[3]。同協会は、1954年(昭和29年)10月にマキノ光雄が初代会長に就任して設立され、現在は社団法人日本映画テレビプロデューサー協会となっている。同年、松山善三監督の『われ一粒の麦なれど』を手がけ、同年度のブルーリボン賞企画賞を獲得した[1]

定年退職後の1973年(昭和48年)、芸苑社を立ち上げ、『恍惚の人』(1973年)、『華麗なる一族』(1974年)、『不毛地帯』(1976年)と社会派の大作映画を手がけた。

1987年(昭和62年)10月1日、死去した[1]。満73歳没。

フィルモグラフィ

新東宝

東宝

東京映画

芸苑社

  1. ^ a b c d e f g h i j 佐藤一郎講談社『日本人名大辞典』、コトバンク、2009年10月13日閲覧。
  2. ^ いわゆる「ナベプロ」の渡辺プロダクションではない。
  3. ^ 役員一覧社団法人日本映画テレビプロデューサー協会、2009年10月13日閲覧。

外部リンク