コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「栃赤城雅男」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
ZairanTD (会話 | 投稿記録)
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
カテゴリ追加
 
(27人の利用者による、間の41版が非表示)
9行目: 9行目:
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1954|10|31|1997|8|18}}
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1954|10|31|1997|8|18}}
|出身 = [[群馬県]][[沼田市]]薄根町
|出身 = [[群馬県]][[沼田市]]薄根町
|身長 = 181cm
|身長 = 182cm
|体重 = 140kg
|体重 = 140kg
|BMI = 42.73
|BMI = 42.27
|所属部屋 = [[春日野部屋]]
|所属部屋 = [[春日野部屋]]
|得意技 = 右四つ、小手投げ、腕捻り、掛け投げ
|得意技 = 右四つ、小手投げ、腕捻り、掛け投げ
19行目: 19行目:
|幕内戦歴 = 234勝252敗39休(35場所)
|幕内戦歴 = 234勝252敗39休(35場所)
|優勝 = 十両優勝1回
|優勝 = 十両優勝1回
|賞 = [[殊勲賞]]4回<br/>[[敢闘賞]]4回
|賞 = [[殊勲賞]]4回<br/>[[三賞#敢闘賞|敢闘賞]]4回
|初土俵 = [[1973年]]1月場所
|初土俵 = [[1973年]]1月場所
|新十両 = [[1976年]]11月場所
|新十両 = [[1976年]]11月場所
30行目: 30行目:
|作成日時 = [[2014年]][[3月7日]]
|作成日時 = [[2014年]][[3月7日]]
}}
}}
'''栃赤城 雅男'''(とちあかぎ まさお、[[1954年]][[10月31日]] - [[1997年]][[8月18日]])は、[[群馬県]][[沼田市]]薄根町出身で[[春日野部屋]]に所属した[[大相撲]][[力士]]である。最高位は東[[関脇]]([[1979年]]5月場所、同年9月場所、[[1980年]]3月場所)。本名は'''金谷 雅男'''(かなや まさお)。身長181cm、体重140kg。得意手は右四つ、[[小手投げ]]、腕捻り、掛け投げ。
'''栃赤城 雅男'''(とちあかぎ まさお、[[1954年]]〈[[昭和]]29年〉[[10月31日]] - [[1997年]]〈[[平成]]9年〉[[8月18日]])は、[[群馬県]][[沼田市]]薄根町出身で[[春日野部屋]]に所属した[[大相撲]][[力士]]。本名は'''金谷 雅男'''(かなや まさお)。最高位は東[[関脇]]([[1979年]]5月場所、同年9月場所、[[1980年]]3月場所)。身長182cm、体重140kg。得意手は右四つ、[[小手投げ]]、[[腕捻り]][[掛け投げ]]


== 来歴・人物 ==
== 来歴・人物 ==
中学では[[水泳]]部、[[群馬県立沼田高等学校]]では[[柔道]]部に所属し、[[国民体育大会]]に柔道群馬県代表として出場。この柔道での活躍が[[春日野]]親方(元[[横綱]]・[[栃錦清隆|栃錦]])の目に留まり再三勧誘され、高校卒業直前に春日野部屋へ入門することとなった。
沼田市で呉服店を営む両親の元で、3人兄弟の次男として出生した。中学では[[水泳]]部、[[群馬県立沼田高等学校]]では[[柔道]]部に所属し、[[国民体育大会]]に柔道群馬県代表として出場。高校時代の体重は既に100㎏を超えていたこの柔道での活躍が[[春日野]]親方(元[[横綱]]・[[栃錦清隆|栃錦]])の目に留まり再三勧誘され、高等学卒業する直前に春日野部屋へ入門することとなった。入門前に相撲経験はほぼ無かったが、角界入りは「どうせ勉強は嫌いなんだから」と即決したという<ref name="akagihigo">[https://wjn.jp/article/detail/7678710/ 非業の死を遂げた名力士 「栃赤城(関脇)」] WJN 2018年12月09日 18時00分 週刊実話2018年12月13日号(日本ジャーナル出版、2019年3月30日閲覧)</ref>


[[1973年]]1月場所にて、18歳で[[初土俵]]。翌3月場所、「金谷」の[[四股名]]で[[序ノ口]]に付き、それから僅か1年半弱で[[幕下]]に昇進した。幕下上位の壁に一度は跳ね返されたものの、[[1976年]]11月場所で[[十両]]に昇進。
[[1973年]]1月場所にて、18歳で[[初土俵]]。翌3月場所、「金谷」の[[四股名]]で[[序ノ口]]に付き、それから僅か1年半弱で[[幕下]]に昇進した。幕下上位の壁に一度は跳ね返されたものの、[[1976年]]11月場所で[[十両]]に昇進。


十両は3場所で通過し、[[1977年]]5月場所、22歳で新入幕を果たした。そして、幕内昇進を機に「金谷」から、「栃赤城」に改名した。「栃赤城」の四股名は、故郷の名峰・[[赤城山]]に因んだものである。
十両は3場所で通過し、[[1977年]]5月場所、22歳で新入幕を果たした。そして、幕内昇進を機に「金谷」から、「栃赤城」に改名した<ref name="akagihigo"/>。「栃赤城」の四股名は、故郷の名峰・[[赤城山]]に因んだものである。


持ち前の華麗な取り口から「'''サーカス相撲'''の栃赤城」の異名を取り、長く[[幕内]]上位で活躍。本場所に於ける幕内の取組では、[[決まり手]]としては珍しい「[[ちょん掛け]]」や「[[逆とったり]]」、「[[腕捻り]]」で勝ったりした。
持ち前の華麗な取り口から「'''サーカス相撲'''の栃赤城」の異名を取り、長く[[幕内]]上位で活躍。[[本場所]]に於ける幕内の取組では、[[決まり手]]としては珍しい「[[ちょん掛け]]」や「[[逆とったり]]」、「腕捻り」で勝ったりしたこともあった<ref name="akagi">『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』p28</ref>


[[1979年]]7月場所6日目に於いての[[貴ノ花利彰|貴ノ花]]戦などは、栃赤城の「サーカス相撲」の面目躍如であった。貴ノ花は[[立合い]]左へ動くと栃赤城の後ろに回り、左上手、右で栃赤城の足を抱えて出た。栃赤城は必死にこらえて回り込む。貴ノ花が構わず左を差してそのまま体を浴びせるところ、栃赤城が右から捨て身の小手投げを放つと、体が割れて貴ノ花が一瞬早く落ち、栃赤城の逆転勝ちとなった。
[[1979年]]11月場所では、[[輪島大士|輪島]]・[[若乃花幹士 (2代)|若乃花]]・[[三重ノ海剛司|三重ノ海]]の3横綱から[[金星 (相撲)|金星]]を獲得するなど、上位力士相手でも安定した成績を残した。この場所には4横綱が出場しており、残る[[北の湖敏満|北の湖]]を倒せば史上初の「1場所4金星」という大記録を打ち立てるところであった<ref>尚、1場所3金星獲得を果たした力士の中でも栃赤城を除いて[[若乃花幹士 (初代)|若ノ花]]、[[朝潮太郎 (3代)|朝潮]]、[[大乃国康|大ノ国]]の3人全員が横綱まで昇進している。</ref>。


[[1979年]]11月場所では、[[輪島大士|輪島]]・[[若乃花幹士 (2代)|若乃花]]・[[三重ノ海剛司|三重ノ海]]の3横綱から[[金星 (相撲)|金星]]を獲得する<ref name="akagi"/>など、上位力士相手でも安定した成績を残した。この場所には4横綱が出場しており、残る[[北の湖敏満|北の湖]]を倒せば史上初の「1場所4金星」という大記録を打ち立てるところであった<ref>尚、1場所3金星獲得を果たした力士の中でも栃赤城を除いて[[若乃花幹士 (初代)|若ノ花]]、[[朝潮太郎 (3代)|朝潮]]、[[大乃国康|大ノ国]]の3人全員が横綱まで昇進している。</ref>。
一時は[[関脇]]に定着し、[[増位山太志郎|増位山]]・[[蔵間竜也|蔵間]]・[[玉ノ富士茂|玉ノ富士]]・[[琴風豪規|琴風]]・[[朝潮太郎 (4代)|朝潮]]らと共に、[[大関]]候補として期待された時期もあった。


一時は[[関脇]]に定着し、[[増位山太志郎|増位山]]・[[千代の富士貢|千代の富士]]・[[蔵間竜也|蔵間]]・[[玉ノ富士茂|玉ノ富士]]・[[琴風豪規|琴風]]・[[朝潮太郎 (4代)|朝潮]]らと共に、[[大関]]候補として期待された時期もあった。
だが、粘りを活かした逆転技に頼った相撲であったため一部から「大関に昇進しても怪我をするかもしれない」と危惧され、事実両足首の故障で大関への昇進は成らなかった。稽古嫌いであった上に食べ物の好き嫌いの激しさや暴飲暴食、喫煙の習慣(後述)など自己管理の甘さも大成を阻み、この点で春日野親方の心象を悪くしていた。


粘りを活かした逆転技に頼った相撲であったため、一部から「大関に昇進しても怪我をするかもしれない」と危惧され、事実両足首の故障で大関への昇進は成らなかった。稽古嫌いであった上に食べ物の好き嫌いの激しさや暴飲暴食、喫煙の習慣(後述)など自己管理の甘さも大成を阻み、この点で春日野親方の心象を悪くしていた<ref name="akagihigo"/>。
[[1982年]]以降は、[[糖尿病]]を患い精彩を欠く相撲が多くなり、幕内と十両を往復する時期が続いた。やがては十両でも勝ち越すことができなくなり、[[1985年]]7月場所では幕下にまで陥落。1場所で十両に復帰したものの、1勝14敗と大負けして、またすぐに幕下に落ちた。


2場所連続の二桁勝利で大関昇進をかけた1980年3月場所、足首の捻挫で6勝9敗(千秋楽に不戦敗)。その後も金星を5つ獲得するなど活躍したが、怪我にも悩まされ[[1982年]]7月場所後に幕内を陥落して以降は[[糖尿病]]を患い精彩を欠く相撲が多くなり、幕内と十両を往復する時期が続いた。やがては十両でも勝ち越すことができなくなり、[[1985年]]7月場所では幕下にまで陥落した。1場所で十両に復帰したものの、1勝14敗と大負けして、またすぐに幕下に落ちた。
その後も幕下で長く相撲を取り続けたが、引退も考えていた時に師匠・春日野親方(元栃錦)が病に伏していたため、「師匠に、元気な姿を見てもらいたい」と取り続けた。


その後も栃赤城は幕下で長く相撲を取り続けたが(27場所《1985年7月場所を含む》。これは幕下まで陥落した三役経験者の記録では歴代最長であった。)、引退も考えていた時に師匠・春日野親方(元栃錦)が病に伏していたため、「師匠に、元気な姿を見てもらいたい」と取り続けた<ref name="akagihigo"/>。
しかし、[[1990年]]1月場所中に師匠が死去したため、同場所後に[[引退#大相撲|廃業]]を決意した。ただし、廃業届の提出が遅れたため、翌3月場所の[[番付]]では東[[三段目]]4枚目に「栃赤城」の四股名が載った。なお、三役経験者が三段目まで陥落したのは[[大豊昌央|大豊]](出羽海部屋、[[1985年]]11月場所)以来であった。


しかし、[[1990年]]1月場所中に師匠の春日野親方が死去したため、栃赤城も同場所後に[[引退#大相撲|廃業]]を決意した。ただし、廃業届の提出が遅れたため翌3月場所の[[番付]]では東[[三段目]]4枚目に「栃赤城」の四股名が載った。[[三役]]経験者が三段目まで陥落したのは、[[大豊昌央|大豊]]([[時津風部屋]]、元・小結、1985年11月場所)以来であった。
諸事情により引退相撲を行うことは叶わず、[[断髪式]]は、群馬県[[前橋市]]内の[[ホテル]](群馬ロイヤルホテル)にて同年2月22日に執り行われた。


当時の慣例により、廃業した力士が[[引退相撲]]を行うことは叶わなかったため、[[断髪式]]は[[前橋市]]内の[[ホテル]](群馬ロイヤルホテル)にて同年2月22日に執り行われた<ref name="akagihigo"/>。廃業後は家業の呉服店(金谷呉服店)を手伝い、後に店主となった<ref name="akagihigo"/>。
廃業後は家業の呉服店(金谷呉服店)を手伝っていたが、1997年8月18日に兄弟子であった[[山分]]親方(元[[前頭]]3・[[栃富士勝健|栃富士]])とのゴルフ中に倒れ、急逝した。死因は、[[急性心筋梗塞]]であった。享年42。

1997年8月18日午後1時半頃、兄弟子でもあった[[山分]]親方(元[[前頭]]3・[[栃富士勝健|栃富士]])とのゴルフ中に「脇腹が痛い」と訴え、一旦立ち上がったもののやがて後ろ向きに倒れた。山分は救急車を手配したが、異変を訴えてからわずか1時間半ほど後の同日午後3時頃、死去した<ref name="akagihigo"/>。42歳だった。死因は[[急性心筋梗塞]]であったという<ref name="akagihigo"/>。


== エピソード ==
== エピソード ==
{{雑多な内容の箇条書き|date=2010年1月|section=1}}
{{雑多な内容の箇条書き|date=2010年1月|section=1}}
* 柔道を経験していたためか、右手・左手・右足の力が左足に比べて異様に強く、極めてバランスが悪かった。得意な決まり手は、小手投げ・[[とったり]]であった。
* 栃赤城は柔道を経験していたためか、右手・左手・右足の力が左足に比べて異様に強く、極めてバランスが悪かった。特に右が強く、差しても小手に巻いても右が使えれば十分で、若き日の千代の富士は栃赤城の右からの投げでしばしば苦杯を舐めた。得意な決まり手は、小手投げ・[[とったり]]であった。
* [[小股掬い]]や[[四十八手#五輪砕き|五輪砕き]]など、珍しい技をよく使うことでも知られた。その一方で、[[合い]]が雑であったことや攻め込まれてから技を繰り出すことが多かったことが嫌われたのか、殊勲賞・敢闘賞を各4回受賞しているにもかかわらず技能賞は1度も受賞できなかった。
* [[小股掬い]]や[[四十八手#五輪砕き|五輪砕き]]など、珍しい技をよく使うことでも知られた。その一方で、立合いが雑であったことや攻め込まれてから技を繰り出すことが多かったことが嫌われたのか、殊勲賞・敢闘賞を各4回受賞しているにもかかわらず技能賞は1度も受賞できなかった。
* 愛煙家で、[[貴ノ花利彰|貴ノ花]](彼自身も愛煙家であった)に「禁煙すれば、横綱も狙えるのに」とまで言われた<ref>貴ノ花は同様のアドバイスを千代の富士にも行い、千代の富士は貴ノ花の言を入れて禁煙し、それがきっかけで体重が増えて力を増し、後の横綱昇進につながっていった。</ref>。これを受けて、「禁煙して横綱だったら、煙草を吸いまくっての幕内の方が良いです」と答えたと言われる。栃赤城と同様、貴ノ花も還暦前の55歳で他界している。
* ヘビースモーカーで、貴ノ花(彼自身もヘビースモーカーであった)に「禁煙すれば、横綱も狙えるのに」とまで言われた<ref>貴ノ花は同様のアドバイスを千代の富士にも行い、千代の富士は貴ノ花の言を入れて禁煙し、それがきっかけで体重が増えて力を増し、後の横綱昇進につながっていった。</ref>。これを受けて、「禁煙して横綱だったら、[[煙草]]を吸いまくっての幕内の方が良いです」と答えたと言われる<ref name="akagihigo"/>42歳という若さで死去した栃赤城と同様、貴ノ花も還暦前の55歳で亡くなっている。
* [[タニマチ]](後援者のこと)が大嫌いで、殆んど付き合わなかった。そのため、[[年寄名跡]]を取得することができず、廃業の憂き目を見た。引退相撲すら行えなかったことにも、これが関係している
* [[タニマチ]](後援者のこと)が大嫌いで、殆んど付き合わなかった。そのため、[[年寄名跡]]を取得することができず、廃業の憂き目を見た。
* [[群馬県]]出身の幕内力士は[[1912年]]5月場所で入幕した[[白梅文治郎|白梅]]以来、ちょうど65年ぶりだった。その後、群馬県からは[[起利錦利郎|起利錦]]・[[琴錦功宗|琴錦]]・[[琴稲妻佳弘|琴稲妻]]・[[湊富士孝行|湊富士]]らが輩出した。中でも琴稲妻は栃赤城に憧れてプロの世界に入った。
* 群馬県出身の幕内力士は[[1912年]]5月場所で入幕した[[白梅文治郎|白梅]]以来、ちょうど65年ぶりだった。その後、群馬県からは[[起利錦利郎|起利錦]]・[[琴錦功宗|琴錦]]・[[琴稲妻佳弘|琴稲妻]]・[[湊富士孝行|湊富士]]らが輩出した。中でも琴稲妻は栃赤城に憧れてプロの世界に入った。
* [[バロック音楽]]の鑑賞が趣味で、オーディオ機器に詳しかった。
* [[バロック音楽]]の鑑賞が趣味で、[[オーディオ機器]]に詳しかった。
* [[筒井康隆]]の著作を愛読していた。
* [[筒井康隆]]の著作を愛読していた。
* 終生独身であった結婚願望はあり意中の女性もいたが廃業するまで婚姻しないうちに相手の気持ちがめて結婚には至らなかった。週刊誌の『あの人は今』に登場した際、「嫁さん募集中って書いといてね。頼むよ」と最後にコメントしている。
* 終生独身であった結婚願望はあり意中の女性もいたが廃業するまで婚姻しないうちに相手の気持ちがめて結婚には至らなかった。週刊誌の『あの人は今』に登場した際、「嫁さん募集中って書いといてね。頼むよ」と最後にコメントしている。
* [[昭和天皇]]は、栃赤城の大ファンであった。[[天覧相撲]]で栃赤城が休場した場所などは、説明役で栃赤城の師匠である春日野理事長(元[[栃錦]])に昭和天皇が栃赤城の体調を心配する言葉をかけることがあったほどだった。
* [[昭和天皇]]栃赤城の大ファンであった。[[天覧相撲]]で栃赤城が休場した場所などは、説明役で栃赤城の師匠である春日野理事長(元栃錦)に昭和天皇が栃赤城の体調を心配する言葉をかけることがあったほどだった。
* [[昭和天皇]]のエピソードにあるように人気力士であり全盛期は大関候補に何度も挙げられた。しかし師匠の[[春日野親方]](元[[栃錦]])にはその取り口はほとんど評価されず、「あいつ(栃赤城)が大関になったら、逆立ちして土俵を一周してやるよ」と言っていた。
* 昭和天皇のエピソードにあるように、栃赤城は人気力士であり全盛期は大関候補に何度も挙げられた。しかし師匠の春日野親方(元栃錦)にはその取り口はほとんど評価されず、「あいつ(栃赤城)が大関になったら、逆立ちして土俵を一周してやるよ」と言っていた<ref name="akagihigo"/>
* [[千代の富士貢|千代の富士]]に強く、15回対戦して8勝7敗と千代の富士の横綱昇進後に対戦があった関脇以下の力士としては唯一勝ち越している。千代の富士の新大関の場所である1981年3月場所は初日に対戦して黒星をけた。
* 千代の富士に対して滅法強く、15回対戦して8勝7敗と千代の富士の横綱昇進後に対戦があった関脇以下の力士としては唯一勝ち越している。千代の富士の新大関の場所である1981年3月場所初日に対戦して黒星をけた。
* [[あんパン]]が大好きで、支度部屋でもよく食べていた(現在、支度部屋では飲食禁止)。また、柄パンを愛用していた。
* [[あんパン]]が大好きで、支度部屋でもよく食べていた(現在、支度部屋では飲食禁止)。柄パンを愛用していた。
*2013年1月3日放送の『[[マツコ&有吉の怒り新党]] お正月スペシャル』のコーナー、『[[マツコ&有吉の怒り新党#番組コーナー|新・3大〇〇調査会]]』([[テレビ朝日]])にて、「日本人が知っておくべき!新・3大土俵際の魔術師・栃赤城の取組」と題して、1979年(昭和54年)名古屋場所6日目の対貴ノ花戦(決まり手:小手投げ)、1980年(昭和55年)名古屋場所13日目の対千代の富士戦(決まり手:すくい投げ)、1990年(平成2年)初場所12日目の対荒駒戦(決まり手:五輪砕きからの押し出し。なお、彼からの勝利が結果的に現役最後の勝ち星となった)が[[やくみつる]]の選によ紹介された。
*[[2013年]]1月3日放送の『[[マツコ&有吉の怒り新党]] お正月スペシャル』のコーナー、『[[マツコ&有吉の怒り新党#番組コーナー|新・3大〇〇調査会]]』([[テレビ朝日]])にて、「日本人が知っておくべき!新・3大土俵際の魔術師・栃赤城の取組」と題して、1979年(昭和54年)名古屋場所6日目の対貴ノ花戦(決まり手:小手投げ)、1980年(昭和55年)名古屋場所13日目の対千代の富士戦(決まり手:すくい投げ)、1990年(平成2年)初場所12日目の対荒駒戦(決まり手:五輪砕きからの押し出し。荒駒からの勝利が結果的に栃赤城の現役最後の勝ち星となった)が[[やくみつる]]の選によって紹介された。
* 栃赤城の死去を受けて、当時理事長になったばかりの北の湖は「他人事ではないよ」と、健康に留意するようになったという<ref name="akagihigo"/>。


== 主な戦績 ==
== 主な戦績 ==
82行目: 85行目:
**殊勲賞:4回(1979年7月場所・11月場所、1980年1月場所、1981年3月場所)
**殊勲賞:4回(1979年7月場所・11月場所、1980年1月場所、1981年3月場所)
**敢闘賞:4回(1977年5月場所、1979年3月場所、1980年7月場所、1981年11月場所)
**敢闘賞:4回(1977年5月場所、1979年3月場所、1980年7月場所、1981年11月場所)
* 金星:8個(北の湖:3、2代若乃花:3、輪島:1、三重ノ海:1)
* 金星:8個(北の湖3個、2代若乃花3個、輪島1個、三重ノ海1個)
* 各段優勝:
* 各段優勝:
**十両優勝:1回(1984年9月場所)
**十両優勝:1回(1984年9月場所)


== 本場所以外での戦績 ==
=== 本場所以外での戦績 ===
* 第4回[[日本大相撲トーナメント]]優勝(1980年2月11日)
* 第4回[[日本大相撲トーナメント]]優勝(1980年2月11日)


== 場所別成績 ==
=== 場所別成績 ===
{{Sumo record box start|栃赤城 雅男}}
{{Sumo record box start|栃赤城 雅男}}
{{Sumo record year start|1973}}
{{Sumo record year start|1973}}
236行目: 239行目:
{{Sumo record year end}}
{{Sumo record year end}}
{{Sumo record box end}}
{{Sumo record box end}}
=== 幕内対戦成績 ===
{|class="wikitable"style="text-align:center,"
|-
!力士名!!勝数!!負数!!力士名!!勝数!!負数!!力士名!!勝数!!負数!!力士名!!勝数!!負数
|-
|[[青葉城幸雄|青葉城]]||6||4
|[[青葉山弘年|青葉山]]||6||5
|[[朝潮太郎 (4代)|朝汐(長岡)]]||3||6
|[[旭國斗雄|旭國]]||4||2
|-
|[[三杉磯拓也|東洋(三杉磯)]]||5||3
|[[天ノ山静雄|天ノ山(尾形)]]||7||4
|[[荒勢永英|荒勢]]||10||2
|[[板井圭介|板井]]||1||1
|-
|[[王湖伊津男|王湖]]||1||0
|[[大潮憲司|大潮]]||4||4
|[[巨砲丈士|巨砲]]||4||3
|[[大錦一徹|大錦]]||5||4
|-
|[[大豊昌央|大豊]]||1||1
|[[魁輝薫秀|魁輝]]||6||10
|[[魁傑将晃|魁傑]]||1||3
|[[北瀬海弘光|北瀬海]]||2||1
|-
|[[北の湖敏満|北の湖]]||3||13
|[[騏ノ嵐和敏|騏ノ嵐]]||0||1
|[[麒麟児和春|麒麟児]]||7||9
|[[蔵間竜也|蔵間]]||4||10(1)
|-
|[[黒瀬川國行|黒瀬川]]||6||6
|[[黒姫山秀男|黒姫山]]||4||4
|[[高望山大造|高望山]]||0||3
|[[琴風豪規|琴風]]||4(1)||9
|-
|[[琴ヶ嶽綱一|琴ヶ嶽]]||1||0
|[[琴乃富士太喜|琴乃富士]]||1(1)||0
|[[斉須稔|斉須]]||1||2
|[[蔵玉錦敏正|蔵玉錦]]||3||3
|-
|[[佐田の海鴻嗣|佐田の海]]||3||4
|[[嗣子鵬慶昌|嗣子鵬]]||1||1
|[[陣岳隆|陣岳]]||0||2
|[[神幸勝紀|神幸]]||0||2
|-
|[[大旺吉伸|大旺]]||3||1
|[[大觥吉男|大觥]]||2||1
|[[太寿山忠明|太寿山(大寿山)]]||4||3
|[[大徹忠晃|大徹]]||1||1
|-
|[[大竜川一男|大竜川]]||1||0
|[[隆の里俊英|隆の里(隆ノ里)]]||7||12
|[[貴ノ花利彰|貴ノ花]]||3||6(1)
|[[隆三杉太一|隆三杉]]||0||2
|-
|[[高見山大五郎|高見山]]||3||1
|[[多賀竜昇司|多賀竜]]||0||3
|[[谷嵐久|谷嵐]]||3||0
|[[玉輝山正則|玉輝山]]||6||3
|-
|[[玉ノ富士茂|玉ノ富士]]||7||4
|[[玉龍大蔵|玉龍]]||1||1
|[[千代櫻輝夫|千代櫻]]||1||2
|[[千代の富士貢|千代の富士]]||8||7
|-
|[[岩波重廣|照の山(岩下)]]||2||1
|[[出羽の花義貴|出羽の花]]||7||9
|[[闘竜賢二|闘竜]]||1||2
|[[羽黒岩盟海|羽黒岩]]||1||0
|-
|[[播竜山孝晴|播竜山]]||4||4
|[[飛騨乃花成栄|飛騨乃花(飛騨ノ花)]]||2||2
|[[富士櫻栄守|富士櫻]]||9||4
|[[双津竜順一|双津竜]]||4||5
|-
|[[鳳凰倶往|鳳凰]]||4||4
|[[北天佑勝彦|北天佑]]||2||5
|[[増位山太志郎|増位山]]||4||5
|[[三重ノ海剛司|三重ノ海]]||2||7
|-
|[[水戸泉眞幸|水戸泉]]||0||1
|[[豊山広光|豊山]]||4||1
|[[若獅子茂憲|若獅子]]||3||2
|[[若嶋津六夫|若島津]]||2||2
|-
|[[若瀬川剛充|若瀬川]]||0||1
|[[若ノ海正照|若ノ海]]||1||0
|[[若乃花幹士 (2代)|若乃花(若三杉)]]||4||8
|[[輪島大士|輪島]]||2||6
|-
|[[鷲羽山佳和|鷲羽山]]||8||5
|}
{{注|※カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数。}}


== 改名歴 ==
== 改名歴 ==
* 金谷 雅男(かなや まさお)1973年3月場所 - 1977年3月場所
* 金谷 雅男(かなや まさお)1973年3月場所 - 1977年3月場所
* 栃赤城 雅男(とちあかぎ -)1977年5月場所 - 1981年1月場所
* 栃赤城 雅男(とちあかぎ - )1977年5月場所 - 1981年1月場所
* 栃赤城 敬典(とちあかぎ たかのり)1981年3月場所 - 1985年7月場所
* 栃赤城 敬典(とちあかぎ たかのり)1981年3月場所 - 1985年7月場所
* 栃赤城 雅男(とちあかぎ まさお)1985年9月場所 - 1990年3月場所
* 栃赤城 雅男(とちあかぎ まさお)1985年9月場所 - 1990年3月場所


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*『戦後新入幕力士物語 第巻』(著者:佐竹義惇、発行元:[[ベースボール・マガジン社]]、p222-p237、[[1993年]])
*『戦後新入幕力士物語 第4巻』(著者:佐竹義惇、発行元:[[ベースボール・マガジン社]]、p222-p237、[[1993年]])
* ベースボール・マガジン社刊 『相撲』 創業70周年特別企画シリーズ②(別冊師走号、2016年)p83
* ベースボール・マガジン社刊 『相撲』 創業70周年特別企画シリーズ②(別冊師走号、2016年)p83
* ベースボール・マガジン社刊 『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』(2017年、B・B・MOOK)

== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[関脇一覧]]
* [[関脇一覧]]
* [[関取在位後に4階級以上陥落した力士一覧]]
== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{reflist}}
{{reflist}}
254行目: 353行目:
[[Category:群馬県出身の大相撲力士]]
[[Category:群馬県出身の大相撲力士]]
[[Category:春日野部屋]]
[[Category:春日野部屋]]
[[Category:群馬県立沼田高等学校出身の人物]]
[[Category:群馬県出身の人物]]
[[Category:1954年生]]
[[Category:1954年生]]
[[Category:1997年没]]
[[Category:1997年没]]
[[Category:群馬県出身の人物]]
[[Category:心筋梗塞で亡くなった人物]]

2024年2月19日 (月) 08:53時点における最新版

栃赤城 雅男
基礎情報
四股名 金谷 雅男 → 栃赤城 雅男 → 栃赤城 敬典 → 栃赤城 雅男
本名 金谷 雅男
生年月日 (1954-10-31) 1954年10月31日
没年月日 (1997-08-18) 1997年8月18日(42歳没)
出身 群馬県沼田市薄根町
身長 182cm
体重 140kg
BMI 42.27
所属部屋 春日野部屋
得意技 右四つ、小手投げ、腕捻り、掛け投げ
成績
現在の番付 引退
最高位関脇
生涯戦歴 549勝543敗46休(103場所)
幕内戦歴 234勝252敗39休(35場所)
優勝 十両優勝1回
殊勲賞4回
敢闘賞4回
データ
初土俵 1973年1月場所
入幕 1977年5月場所
引退 1990年3月場所
引退後 家業手伝い
備考
金星8個(北の湖3個、若乃花3個、輪島1個、三重ノ海1個)
2014年3月7日現在

栃赤城 雅男(とちあかぎ まさお、1954年昭和29年〉10月31日 - 1997年平成9年〉8月18日)は、群馬県沼田市薄根町出身で春日野部屋に所属した大相撲力士。本名は金谷 雅男(かなや まさお)。最高位は東関脇1979年5月場所、同年9月場所、1980年3月場所)。身長182cm、体重140kg。得意手は右四つ、小手投げ腕捻り掛け投げ

来歴・人物

[編集]

沼田市で呉服店を営む両親の元で、3人兄弟の次男として出生した。中学では水泳部、群馬県立沼田高等学校では柔道部に所属し、国民体育大会に柔道群馬県代表として出場。高校時代の体重は既に100㎏を超えていたこの柔道での活躍が春日野親方(元横綱栃錦)の目に留まり再三勧誘され、高等学校を卒業する直前に春日野部屋へ入門することとなった。入門前に相撲経験はほぼ無かったが、角界入りは「どうせ勉強は嫌いなんだから」と即決したという[1]

1973年1月場所にて、18歳で初土俵。翌3月場所、「金谷」の四股名序ノ口に付き、それから僅か1年半弱で幕下に昇進した。幕下上位の壁に一度は跳ね返されたものの、1976年11月場所で十両に昇進。

十両は3場所で通過し、1977年5月場所、22歳で新入幕を果たした。そして、幕内昇進を機に「金谷」から、「栃赤城」に改名した[1]。「栃赤城」の四股名は、故郷の名峰・赤城山に因んだものである。

持ち前の華麗な取り口から「サーカス相撲の栃赤城」の異名を取り、長く幕内上位で活躍。本場所に於ける幕内の取組では、決まり手としては珍しい「ちょん掛け」や「逆とったり」、「腕捻り」で勝ったりしたこともあった[2]

1979年7月場所6日目に於いての貴ノ花戦などは、栃赤城の「サーカス相撲」の面目躍如であった。貴ノ花は立合い左へ動くと栃赤城の後ろに回り、左上手、右で栃赤城の足を抱えて出た。栃赤城は必死にこらえて回り込む。貴ノ花が構わず左を差してそのまま体を浴びせるところ、栃赤城が右から捨て身の小手投げを放つと、体が割れて貴ノ花が一瞬早く落ち、栃赤城の逆転勝ちとなった。

1979年11月場所では、輪島若乃花三重ノ海の3横綱から金星を獲得する[2]など、上位力士相手でも安定した成績を残した。この場所には4横綱が出場しており、残る北の湖を倒せば史上初の「1場所4金星」という大記録を打ち立てるところであった[3]

一時は関脇に定着し、増位山千代の富士蔵間玉ノ富士琴風朝潮らと共に、大関候補として期待された時期もあった。

粘りを活かした逆転技に頼った相撲であったため、一部から「大関に昇進しても怪我をするかもしれない」と危惧され、事実両足首の故障で大関への昇進は成らなかった。稽古嫌いであった上に食べ物の好き嫌いの激しさや暴飲暴食、喫煙の習慣(後述)など自己管理の甘さも大成を阻み、この点で春日野親方の心象を悪くしていた[1]

2場所連続の二桁勝利で大関昇進をかけた1980年3月場所、足首の捻挫で6勝9敗(千秋楽に不戦敗)。その後も金星を5つ獲得するなど活躍したが、怪我にも悩まされ1982年7月場所後に幕内を陥落して以降は糖尿病を患い精彩を欠く相撲が多くなり、幕内と十両を往復する時期が続いた。やがては十両でも勝ち越すことができなくなり、1985年7月場所では幕下にまで陥落した。1場所で十両に復帰したものの、1勝14敗と大負けして、またすぐに幕下に落ちた。

その後も栃赤城は幕下で長く相撲を取り続けたが(27場所《1985年7月場所を含む》。これは幕下まで陥落した三役経験者の記録では歴代最長であった。)、引退も考えていた時に師匠・春日野親方(元栃錦)が病に伏していたため、「師匠に、元気な姿を見てもらいたい」と取り続けた[1]

しかし、1990年1月場所中に師匠の春日野親方が死去したため、栃赤城も同場所後に廃業を決意した。ただし、廃業届の提出が遅れたため翌3月場所の番付では東三段目4枚目に「栃赤城」の四股名が載った。三役経験者が三段目まで陥落したのは、大豊時津風部屋、元・小結、1985年11月場所)以来であった。

当時の慣例により、廃業した力士が引退相撲を行うことは叶わなかったため、断髪式前橋市内のホテル(群馬ロイヤルホテル)にて同年2月22日に執り行われた[1]。廃業後は家業の呉服店(金谷呉服店)を手伝い、後に店主となった[1]

1997年8月18日午後1時半頃、兄弟子でもあった山分親方(元前頭3・栃富士)とのゴルフ中に「脇腹が痛い」と訴え、一旦立ち上がったもののやがて後ろ向きに倒れた。山分は救急車を手配したが、異変を訴えてからわずか1時間半ほど後の同日午後3時頃、死去した[1]。42歳だった。死因は急性心筋梗塞であったという[1]

エピソード

[編集]
  • 栃赤城は柔道を経験していたためか、右手・左手・右足の力が左足に比べて異様に強く、極めてバランスが悪かった。特に右が強く、差しても小手に巻いても右が使えれば十分で、若き日の千代の富士は栃赤城の右からの投げでしばしば苦杯を舐めた。得意な決まり手は、小手投げ・とったりであった。
  • 小股掬い五輪砕きなど、珍しい技をよく使うことでも知られた。その一方で、立合いが雑であったことや攻め込まれてから技を繰り出すことが多かったことが嫌われたのか、殊勲賞・敢闘賞を各4回受賞しているにもかかわらず技能賞は1度も受賞できなかった。
  • ヘビースモーカーで、貴ノ花(彼自身もヘビースモーカーであった)に「禁煙すれば、横綱も狙えるのに」とまで言われた[4]。これを受けて、「禁煙して横綱だったら、煙草を吸いまくっての幕内の方が良いです」と答えたと言われる[1]。42歳という若さで死去した栃赤城と同様、貴ノ花も還暦前の55歳で亡くなっている。
  • タニマチ(後援者のこと)が大嫌いで、殆んど付き合わなかった。そのため、年寄名跡を取得することができず、廃業の憂き目を見た。
  • 群馬県出身の幕内力士は1912年5月場所で入幕した白梅以来、ちょうど65年ぶりだった。その後、群馬県からは起利錦琴錦琴稲妻湊富士らが輩出した。中でも、琴稲妻は栃赤城に憧れてプロの世界に入った。
  • バロック音楽の鑑賞が趣味で、オーディオ機器に詳しかった。
  • 筒井康隆の著作を愛読していた。
  • 終生独身であった。結婚願望はあり意中の女性もいたが、廃業するまで婚姻しないうちに相手の気持ちが冷めて結婚には至らなかった。週刊誌の『あの人は今』に登場した際、「嫁さん募集中って書いといてね。頼むよ」と最後にコメントしている。
  • 昭和天皇も栃赤城の大ファンであった。天覧相撲で栃赤城が休場した場所などは、説明役で栃赤城の師匠である春日野理事長(元栃錦)に昭和天皇が栃赤城の体調を心配する言葉をかけることがあったほどだった。
  • 昭和天皇のエピソードにあるように、栃赤城は人気力士であり全盛期は大関候補に何度も挙げられた。しかし、師匠の春日野親方(元栃錦)にはその取り口はほとんど評価されず、「あいつ(栃赤城)が大関になったら、逆立ちして土俵を一周してやるよ」と言っていた[1]
  • 千代の富士に対して滅法強く、15回対戦して8勝7敗と千代の富士の横綱昇進後に対戦があった関脇以下の力士としては唯一勝ち越している。千代の富士の新大関の場所である1981年3月場所では、初日に対戦して黒星を付けた。
  • あんパンが大好きで、支度部屋でもよく食べていた(現在、支度部屋では飲食禁止)。柄パンを愛用していた。
  • 2013年1月3日放送の『マツコ&有吉の怒り新党 お正月スペシャル』のコーナー、『新・3大〇〇調査会』(テレビ朝日)にて、「日本人が知っておくべき!新・3大土俵際の魔術師・栃赤城の取組」と題して、1979年(昭和54年)名古屋場所6日目の対貴ノ花戦(決まり手:小手投げ)、1980年(昭和55年)名古屋場所13日目の対千代の富士戦(決まり手:すくい投げ)、1990年(平成2年)初場所12日目の対荒駒戦(決まり手:五輪砕きからの押し出し。荒駒からの勝利が結果的に栃赤城の現役最後の勝ち星となった。)がやくみつるの選によって紹介された。
  • 栃赤城の死去を受けて、当時理事長になったばかりの北の湖は「他人事ではないよ」と、健康に留意するようになったという[1]

主な戦績

[編集]
  • 通算成績:549勝543敗46休 勝率.503
  • 幕内成績:234勝252敗39休 勝率.481
  • 現役在位:103場所
  • 幕内在位:35場所
  • 三役在位:7場所(関脇6場所、小結1場所)
  • 三賞:8回
    • 殊勲賞:4回(1979年7月場所・11月場所、1980年1月場所、1981年3月場所)
    • 敢闘賞:4回(1977年5月場所、1979年3月場所、1980年7月場所、1981年11月場所)
  • 金星:8個(北の湖3個、2代若乃花3個、輪島1個、三重ノ海1個)
  • 各段優勝:
    • 十両優勝:1回(1984年9月場所)

本場所以外での戦績

[編集]

場所別成績

[編集]
栃赤城 雅男
一月場所
初場所(東京
三月場所
春場所(大阪
五月場所
夏場所(東京)
七月場所
名古屋場所(愛知
九月場所
秋場所(東京)
十一月場所
九州場所(福岡
1973年
(昭和48年)
番付外
3–0 
西序ノ口11枚目
6–1 
西序二段53枚目
6–1 
西序二段5枚目
5–2 
西三段目46枚目
4–3 
西三段目30枚目
3–4 
1974年
(昭和49年)
東三段目42枚目
5–2 
東三段目21枚目
4–3 
西三段目10枚目
5–2 
東幕下49枚目
4–3 
西幕下39枚目
4–3 
西幕下32枚目
4–3 
1975年
(昭和50年)
西幕下23枚目
4–3 
西幕下20枚目
2–5 
西幕下35枚目
5–2 
東幕下19枚目
4–3 
西幕下15枚目
3–4 
西幕下22枚目
3–4 
1976年
(昭和51年)
西幕下30枚目
6–1 
西幕下12枚目
4–3 
東幕下8枚目
4–3 
西幕下4枚目
5–2 
西幕下筆頭
5–2 
西十両10枚目
8–7 
1977年
(昭和52年)
東十両6枚目
8–7 
西十両3枚目
9–6 
西前頭12枚目
10–5
東前頭4枚目
5–10 
西前頭9枚目
8–7 
西前頭6枚目
9–6 
1978年
(昭和53年)
西前頭2枚目
4–11 
西前頭8枚目
7–8 
東前頭11枚目
8–7 
東前頭8枚目
8–7 
東前頭5枚目
7–8 
西前頭6枚目
8–7 
1979年
(昭和54年)
西前頭筆頭
6–9 
東前頭4枚目
10–5
東関脇
7–8 
西関脇
9–6
東関脇
6–9 
西前頭筆頭
10–5
1980年
(昭和55年)
西関脇
11–4
東関脇
6–9[5] 
西前頭2枚目
休場
0–0–15
西前頭2枚目
10–5
西関脇
1–5–9[6] 
東前頭8枚目
休場
0–0–15
1981年
(昭和56年)
東前頭8枚目
9–6 
東前頭2枚目
10–5
東小結
5–10 
東前頭4枚目
5–10 
西前頭7枚目
8–7
西前頭5枚目
9–6
1982年
(昭和57年)
東前頭筆頭
2–13
東前頭7枚目
6–9 
西前頭10枚目
6–9 
東前頭15枚目
6–9 
東十両3枚目
7–8 
東十両5枚目
7–8 
1983年
(昭和58年)
西十両6枚目
8–7 
東十両5枚目
9–6 
東十両2枚目
9–6 
東前頭13枚目
6–9 
東十両4枚目
8–7 
東十両3枚目
10–5 
1984年
(昭和59年)
東前頭13枚目
6–9 
西十両筆頭
8–7 
東十両筆頭
5–10 
東十両7枚目
9–6 
西十両3枚目
優勝
11–4
東前頭12枚目
6–9 
1985年
(昭和60年)
東十両2枚目
5–10 
西十両5枚目
6–9 
東十両11枚目
6–9 
西幕下2枚目
4–3 
東十両13枚目
1–14 
西幕下15枚目
2–5 
1986年
(昭和61年)
東幕下32枚目
3–4 
西幕下43枚目
3–4 
東幕下58枚目
4–3 
西幕下42枚目
5–2 
西幕下21枚目
3–4 
東幕下30枚目
4–3 
1987年
(昭和62年)
東幕下23枚目
5–2 
西幕下13枚目
5–2 
西幕下6枚目
3–4 
西幕下11枚目
4–3 
東幕下6枚目
4–3 
東幕下3枚目
3–4 
1988年
(昭和63年)
東幕下8枚目
3–4 
東幕下12枚目
4–3 
西幕下7枚目
4–3 
東幕下3枚目
3–4 
東幕下8枚目
3–4 
東幕下13枚目
3–4 
1989年
(平成元年)
西幕下18枚目
4–3 
東幕下14枚目
4–3 
西幕下10枚目
4–3 
東幕下8枚目
4–3 
東幕下3枚目
2–5 
東幕下16枚目
1–6 
1990年
(平成2年)
西幕下39枚目
2–5 
東三段目4枚目
引退
0–0–7
x x x x
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 休場 十両 幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)

幕内対戦成績

[編集]
力士名 勝数 負数 力士名 勝数 負数 力士名 勝数 負数 力士名 勝数 負数
青葉城 6 4 青葉山 6 5 朝汐(長岡) 3 6 旭國 4 2
東洋(三杉磯) 5 3 天ノ山(尾形) 7 4 荒勢 10 2 板井 1 1
王湖 1 0 大潮 4 4 巨砲 4 3 大錦 5 4
大豊 1 1 魁輝 6 10 魁傑 1 3 北瀬海 2 1
北の湖 3 13 騏ノ嵐 0 1 麒麟児 7 9 蔵間 4 10(1)
黒瀬川 6 6 黒姫山 4 4 高望山 0 3 琴風 4(1) 9
琴ヶ嶽 1 0 琴乃富士 1(1) 0 斉須 1 2 蔵玉錦 3 3
佐田の海 3 4 嗣子鵬 1 1 陣岳 0 2 神幸 0 2
大旺 3 1 大觥 2 1 太寿山(大寿山) 4 3 大徹 1 1
大竜川 1 0 隆の里(隆ノ里) 7 12 貴ノ花 3 6(1) 隆三杉 0 2
高見山 3 1 多賀竜 0 3 谷嵐 3 0 玉輝山 6 3
玉ノ富士 7 4 玉龍 1 1 千代櫻 1 2 千代の富士 8 7
照の山(岩下) 2 1 出羽の花 7 9 闘竜 1 2 羽黒岩 1 0
播竜山 4 4 飛騨乃花(飛騨ノ花) 2 2 富士櫻 9 4 双津竜 4 5
鳳凰 4 4 北天佑 2 5 増位山 4 5 三重ノ海 2 7
水戸泉 0 1 豊山 4 1 若獅子 3 2 若島津 2 2
若瀬川 0 1 若ノ海 1 0 若乃花(若三杉) 4 8 輪島 2 6
鷲羽山 8 5
※カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数。

改名歴

[編集]
  • 金谷 雅男(かなや まさお)1973年3月場所 - 1977年3月場所
  • 栃赤城 雅男(とちあかぎ - )1977年5月場所 - 1981年1月場所
  • 栃赤城 敬典(とちあかぎ たかのり)1981年3月場所 - 1985年7月場所
  • 栃赤城 雅男(とちあかぎ まさお)1985年9月場所 - 1990年3月場所

参考文献

[編集]
  • 『戦後新入幕力士物語 第4巻』(著者:佐竹義惇、発行元:ベースボール・マガジン社、p222-p237、1993年
  • ベースボール・マガジン社刊 『相撲』 創業70周年特別企画シリーズ②(別冊師走号、2016年)p83
  • ベースボール・マガジン社刊 『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』(2017年、B・B・MOOK)

関連項目

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k 非業の死を遂げた名力士 「栃赤城(関脇)」 WJN 2018年12月09日 18時00分 週刊実話2018年12月13日号(日本ジャーナル出版、2019年3月30日閲覧)
  2. ^ a b 『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』p28
  3. ^ 尚、1場所3金星獲得を果たした力士の中でも栃赤城を除いて若ノ花朝潮大ノ国の3人全員が横綱まで昇進している。
  4. ^ 貴ノ花は、同様のアドバイスを千代の富士にも行い、千代の富士は貴ノ花の言を入れて禁煙し、それがきっかけで体重が増えて力を増し、後の横綱昇進につながっていった。
  5. ^ 左足首関節捻挫・左踵靱帯損傷により千秋楽不戦敗
  6. ^ 右足首関節捻挫により6日目から途中休場