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2002年から大分トリニータの事業部で営業や試合の運営の手伝い、強化クラスなど様々なことをしていた。 |
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2006年よりサンフレッチェ広島の提携スクールの一つであるサンフレッチェ常石サッカースクールのコーチに就任、またGKクリニックのコーチとしても活躍している。2009年から常石ジュニアユース監督、2012年提携先を[[バイエルン・ミュンヘン]]に変えたことによりFCバイエルン・ツネイシ監督。また[[スカパー!プレミアムサービス|スカパー!]]のJリーグ中継の解説を務める。 |
2006年よりサンフレッチェ広島の提携スクールの一つであるサンフレッチェ常石サッカースクールのコーチに就任、またGKクリニックのコーチとしても活躍している。2009年から常石ジュニアユース監督、2012年提携先を[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]]に変えたことによりFCバイエルン・ツネイシ監督。また[[スカパー!プレミアムサービス|スカパー!]]のJリーグ中継の解説を務める。 |
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== 略歴 == |
== 略歴 == |
2017年8月29日 (火) 10:19時点における版
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名前 | ||||||
カタカナ | マエカワ カズヤ | |||||
ラテン文字 | MAEKAWA Kazuya | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1968年3月22日(56歳) | |||||
出身地 | 長崎県平戸市 | |||||
身長 | 189cm[1] | |||||
体重 | 98kg[1] | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | GK | |||||
利き足 | 右足 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1986-1992 | マツダSC | |||||
1986 | →マツダSC東洋 | |||||
1992-1999 | サンフレッチェ広島 | 128 | (0) | |||
2000-2001 | 大分トリニータ | 75 | (0) | |||
代表歴2 | ||||||
1992-1996 | 日本 | 17 | (0) | |||
監督歴 | ||||||
2009-2011 2012- |
サンフレッチェ常石Jr.ユース FCバイエルン・ツネイシ | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。2007年10月16日現在。 2. 2007年10月16日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
前川 和也(まえかわ かずや、1968年3月22日 - )は、長崎県平戸市出身の元サッカー日本代表選手(GK)、サッカー指導者。
現FCバイエルン・ツネイシ監督。
人物
現役時代は、大きな体格を活かしたセービングが得意なゴールキーパー。特に相手との1対1の場面でのセービングは見事なもので、抜群の飛び出しで決定的な場面から何度もチームを救った。シュートに対する反応も特筆ものでPKセーブにも強く、またハイボールの処理も巧みにこなした。その様は「生きている壁」と形容されるほどだった。
来歴
長崎県立平戸高等学校では3年生だった1985年度(第64回大会)高校サッカー選手権に出場。同年の同大会長崎県予選では小嶺忠敏監督が率いる長崎県立国見高等学校と対戦し、32本のシュートを浴びながらも完封して、1本のシュートを決めた母校を勝利に導いた。この時、同学年だった国見のFWが、後に広島でチームメイトとなった高木琢也である[2]。
高校卒業後の1986年に島卓視や横内昭展らと共にマツダSCへ入団。GKコーチであったディド・ハーフナーから指導を受け徐々に頭角をあらわし正GKに。1989年-1990年のJSLおよび1990年-1991年のJSLではJSL2部ベスト11に輝いている。
1992年にチームがJリーグのサンフレッチェ広島として発足すると正GKとして活躍。しかし怪我が多く、長期欠場することも多かったため、控えGKだった河野和正が試合に出ることがかなりあった。1994年のチャンピオンシップでは2試合とも出場がかなわなかった。
代表では、1992年に日本代表に初選出され17試合に出場。1992年アジアカップでは、準決勝の中国戦で退場した松永成立に代わり急遽出場、トンネルというミスでゴールを献上するという大失態を犯したが、決勝では安定した好プレーを見せ日本代表の初優勝に貢献した。また「ドーハの悲劇」もベンチで経験した。
一方クラブチームでは、1997年まで正GKの地位を守るが、1998年に古傷の肩の手術を決行。出場機会を得た下田崇がレギュラーを奪ってしまったため出場機会が激減、2000年に大分トリニータへ出場機会を求めて移籍した。そのときの涙ながらの移籍発表会見は今でもサポーターの語り草となっている。大分では正GKとして活躍し、翌2001年に引退。
2002年から大分トリニータの事業部で営業や試合の運営の手伝い、強化クラスなど様々なことをしていた。
2006年よりサンフレッチェ広島の提携スクールの一つであるサンフレッチェ常石サッカースクールのコーチに就任、またGKクリニックのコーチとしても活躍している。2009年から常石ジュニアユース監督、2012年提携先をバイエルン・ミュンヘンに変えたことによりFCバイエルン・ツネイシ監督。またスカパー!のJリーグ中継の解説を務める。
略歴
ユース歴
- 1983年 - 1985年 長崎県立平戸高等学校
選手歴
指導歴
- 2002年 - 2005年 : 大分トリニータ スタッフ
- 2006年 - 2011年 : サンフレッチェ常石サッカースクール コーチ
- 2009年 - 2011年 : サンフレッチェ常石ジュニアユース 監督
- 2012年 - 現在 : FCバイエルン・ツネイシ監督
個人成績
国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | JSL杯/ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1986 | マツダSC東洋 | - | - | ||||||||
1986-87 | マツダ | JSL1部 | 0 | 0 | |||||||
1987-88 | 0 | 0 | |||||||||
1988-89 | JSL2部 | 0 | |||||||||
1989-90 | 30 | 0 | 2 | 0 | |||||||
1990-91 | 30 | 0 | 3 | 0 | |||||||
1991-92 | JSL1部 | 20 | 0 | 2 | 0 | ||||||
1992 | 広島 | - | J | - | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | |
1993 | 15 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 15 | 0 | |||
1994 | 27 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 27 | 0 | |||
1995 | 37 | 0 | - | 0 | 0 | 37 | 0 | ||||
1996 | 25 | 0 | 14 | 0 | 5 | 0 | 44 | 0 | |||
1997 | 1 | 24 | 0 | 6 | 0 | 0 | 0 | 30 | 0 | ||
1998 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | |||
1999 | J1 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | ||
2000 | 大分 | J2 | 37 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 37 | 0 | |
2001 | 38 | 0 | 2 | 0 | 2 | 0 | 42 | 0 | |||
通算 | 日本 | J1 | 128 | 0 | 24 | 0 | 10 | 0 | 162 | 0 | |
日本 | J2 | 75 | 0 | 2 | 0 | 2 | 0 | 79 | 0 | ||
日本 | JSL1部 | 20 | 0 | ||||||||
日本 | JSL2部 | ||||||||||
総通算 |
その他の公式戦
- 1991年
- コニカカップ 6試合0得点
- Jリーグ初出場:1993年5月16日 対ジェフユナイテッド市原戦(広島スタジアム)
- JSL(1部)初出場:1991年9月15日 対日産戦(三ツ沢球技場)
チームタイトル
クラブチーム
- Jリーグ ステージ優勝 1回(1994年サントリーシリーズ)
日本代表
代表歴
- 日本代表初出場:1992年6月7日 対ウェールズ戦(愛媛県総合運動公園陸上競技場)
試合数
- 国際Aマッチ 17試合 0得点(1992年 - 1996年)
日本代表 | 国際Aマッチ | |
---|---|---|
年 | 出場 | 得点 |
1992 | 3 | 0 |
1993 | 2 | 0 |
1994 | 2 | 0 |
1995 | 5 | 0 |
1996 | 5 | 0 |
通算 | 17 | 0 |
脚注
- ^ a b 『J.LEAGUE Official Fans' Guide 2001』p210
- ^ 「インターハイ特集」『日刊スポーツ』2004年 トップアスリートからのメッセージ
参考文献
- 『1990-1991JSLイヤーブック』日本サッカーリーグ編、南雲堂、1990 ISBN 4-523-31032-7
- 『1991-1992JSLイヤーブック』日本サッカーリーグ編、南雲堂、1991 ISBN 4-523-31033-5
- 『日本サッカーリーグ全史』日本サッカーリーグ、1993
- 『Jリーグオフィシャルガイド1992-1993』、小学館、1992 ISBN 4-09-102301-0
- 『Jリーグオフィシャルガイド1993・サントリーシリーズ』、小学館、1993 ISBN 4-09-102303-7
- 『Jリーグオフィシャルガイド1993・ニコスシリーズ ヤマザキナビスコカップ』、小学館、1993 ISBN 4-09-102305-3
- 『Jリーグオフィシャルガイド1994・サントリーシリーズ』、小学館、1994 ISBN 4-09-102310-X
- 『Jリーグオフィシャルガイド1994・ニコスシリーズ』、小学館、1994 ISBN 4-09-102314-2
- 『Jリーグオフィシャルガイド1995・サントリーシリーズ』、小学館、1995 ISBN 4-09-102318-5
- 『Jリーグオフィシャルガイド1995・NICOSシリーズ』、小学館、1995 ISBN 4-09-102321-5
- 『Jリーグオフィシャルガイド1996』、小学館、1996 ISBN 4-09-102324-X
- 『Jリーグオフィシャルガイド1997』、小学館、1997 ISBN 4-09-102329-0
- 『Jリーグオフィシャルガイド1998』、小学館、1998 ISBN 4-09-102335-5
- 『J.LEAGUE Official Fans' Guide 1999』、トランスアート、1999 ISBN 4-88752-100-6
- 『J.LEAGUE Official Fans' Guide 2000』、トランスアート、2000 ISBN 4-88752-102-2
- 『J.LEAGUE Official Fans' Guide 2001』、トランスアート、2001 ISBN 4-88752-104-9
- 『Jリーグオフィシャルレコード&データ1994』、小学館、1994 ISBN 4-09-102309-6
- 『Jリーグオフィシャルレコード&データ1995』、小学館、1995 ISBN 4-09-102317-7
- 『Jリーグオフィシャルレコード&データ1996』、小学館、1996 ISBN 4-09-102323-1
- 『J.LEAGUE YEARBOOK 1999』、トランスアート、1999 ISBN 4-88752-099-9
- 『J.LEAGUE YEARBOOK 2000』、トランスアート、2000 ISBN 4-88752-101-4
- 『J.LEAGUE YEARBOOK 2001』、トランスアート、2001 ISBN 4-88752-103-0
- 『J.LEAGUE YEARBOOK 2002』、NTT出版、2002 ISBN 4-7571-8117-5