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『大梵天王問仏決疑経』には全24章のものと全7章のものとがあり、互いに章名も内容も異なっているが、両方とも「我今日涅槃時到」<ref>[http://www.cbeta.org/result/normal/X01/0026_001.htm CBETA X01 No. 26《大梵天王問佛決疑經》卷1]を参照。</ref>「如來今者不久滅度」<ref>[http://www.cbeta.org/result/normal/X01/0027_001.htm CBETA X01 No. 27《大梵天王問佛決疑經》卷1]を参照。</ref>などと記されており、釈尊の死の直前に説かれた経典であるとされている{{要出典|date=2017年8月7日 (月) 00:05 (UTC)|title=}}。しかし、パーリ仏典のマハー・パリニッバーナ・スッタンタ(=漢訳阿含経典の『[[大般涅槃経]]』など)によれば、釈尊の死の直前期には迦葉は釈尊のそばにおらず、遠隔地で修行していたという{{要出典|date=2017年8月7日 (月) 00:05 (UTC)|title=大般涅槃経のどこが出典なのか不明。}}。当然ながら迦葉は釈尊の臨終の場にも居合わせず、迦葉が釈尊の死を知ったのは釈尊の死から7日後のことである<ref>[https://web-beta.archive.org/web/20090505160609/http://www2.big.or.jp/~yba/asia/nehan06.html ブッダ最後の旅 6『大パリニッバーナ経』等より](2009年5月5日時点の[[インターネット |
『大梵天王問仏決疑経』には全24章のものと全7章のものとがあり、互いに章名も内容も異なっているが、両方とも「我今日涅槃時到」<ref>[http://www.cbeta.org/result/normal/X01/0026_001.htm CBETA X01 No. 26《大梵天王問佛決疑經》卷1]を参照。</ref>「如來今者不久滅度」<ref>[http://www.cbeta.org/result/normal/X01/0027_001.htm CBETA X01 No. 27《大梵天王問佛決疑經》卷1]を参照。</ref>などと記されており、釈尊の死の直前に説かれた経典であるとされている{{要出典|date=2017年8月7日 (月) 00:05 (UTC)|title=}}。しかし、パーリ仏典のマハー・パリニッバーナ・スッタンタ(=漢訳阿含経典の『[[大般涅槃経]]』など)によれば、釈尊の死の直前期には迦葉は釈尊のそばにおらず、遠隔地で修行していたという{{要出典|date=2017年8月7日 (月) 00:05 (UTC)|title=大般涅槃経のどこが出典なのか不明。}}。当然ながら迦葉は釈尊の臨終の場にも居合わせず、迦葉が釈尊の死を知ったのは釈尊の死から7日後のことである<ref>[https://web-beta.archive.org/web/20090505160609/http://www2.big.or.jp/~yba/asia/nehan06.html ブッダ最後の旅 6『大パリニッバーナ経』等より](2009年5月5日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])、[http://www.cbeta.org/result/normal/T01/0007_003.htm CBETA T01 No. 7《大般涅槃經》卷3]を参照。</ref>。つまり、上記パーリ仏典などの内容を信じるならば、「拈華微笑」の伝説は明らかに史実に反しているということになる。また、{{要出典範囲|禅宗は中国において[[唐]]初の[[道信]](西暦[[580年]] - [[651年]])の頃から盛んであったが、それよりも後世に編纂された漢訳仏典の二大目録である『[[開元釈教録]]』<ref>[[開元]]18年(西暦[[730年]])に[[智昇]]が編纂。</ref>や『[[貞元新定釈教目録]]』<ref>[[貞元 (唐)|貞元]]16年(西暦[[800年]])に[[円照]]が編纂。</ref>|date=2017年1月21日 (土) 12:51 (UTC)}}には『大梵天王問仏決疑経』は記録されておらず、{{要出典範囲|中国への伝来時期や訳者も不明である|date=2017年8月7日 (月) 00:05 (UTC)|title=}}<ref>{{独自研究範囲|漢訳仏典においては経典の冒頭に訳者名が記載されるのが通例であるが、|date=2017-08-07|title=「通例」なるものを無出典で記述している独自研究。}}『大梵天王問仏決疑経』には訳者名が記されていない。上記各リンクを参照。</ref>。 |
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日本で編纂された[[大蔵経]]の類([[大正新脩大蔵経]]を参照)や[[国訳一切経]]でも、『大梵天王問仏決疑経』は{{要出典範囲|採録されないか、採録されても偽経と認知できるような編集がなされている。|date=2017年1月21日 (土) 12:51 (UTC)}} |
日本で編纂された[[大蔵経]]の類([[大正新脩大蔵経]]を参照)や[[国訳一切経]]でも、『大梵天王問仏決疑経』は{{要出典範囲|採録されないか、採録されても偽経と認知できるような編集がなされている。|date=2017年1月21日 (土) 12:51 (UTC)}} |
2017年9月5日 (火) 00:34時点における版
拈華微笑(ねんげみしょう)とは、禅宗において禅の法脈を釈尊が摩訶迦葉に微妙の法門として付嘱したとする伝説のこと。禅宗の起源を説く寓話であり、公案の一つでもある[1]。宋代以降の禅宗において、不立文字・教外別伝の立宗の基盤を示すものとして重用された[2]。
概略
インドの霊鷲山(グリドラクータ)上で釈尊が黙って華を拈(ひね)ったところ、会座の衆はその意味を理解することができなかったが、迦葉尊者だけがその意味を理解して微笑した[1]。悟りは文字理論によって伝わるものではないという不立文字の意味を示しものであり、釈尊が迦葉尊者にのみ正法を授けたという伝灯の起源となった[1]。この寓話の根拠は、偽経である大梵天王問仏決疑経であるという[1]。
世尊在霊山会上。拈華示衆。衆皆黙然。唯迦葉破顔微笑。世尊云。吾有正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙法門、不立文字、教外別伝。付属摩訶迦葉
とある。また『大梵天王問仏決疑経』にも、
正法眼蔵・涅槃妙心、微妙(みみょう)法門あり、文字を立てず教外に別伝して迦葉に付属す
とあり、世尊が文字を立てず、教外に別伝して摩訶迦葉に付嘱した微妙の法門が、正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相の法門であることを前もって(世尊が)開陳する内容となっている。
宋代以降に人天眼目、無門関、五燈会元、廣燈録、聯燈会要などにこの伝説が記載されるようになった。ただし無門関『六 拈華微笑』では、無門慧開は「花などひねって 尻尾丸出し 迦葉の笑顔にゃ 手も出せはせぬ」と頌して一笑に付している[3][要ページ番号]。
大梵天王問仏決疑経
『大梵天王問仏決疑経』には全24章のものと全7章のものとがあり、互いに章名も内容も異なっているが、両方とも「我今日涅槃時到」[4]「如來今者不久滅度」[5]などと記されており、釈尊の死の直前に説かれた経典であるとされている[要出典]。しかし、パーリ仏典のマハー・パリニッバーナ・スッタンタ(=漢訳阿含経典の『大般涅槃経』など)によれば、釈尊の死の直前期には迦葉は釈尊のそばにおらず、遠隔地で修行していたという[要出典]。当然ながら迦葉は釈尊の臨終の場にも居合わせず、迦葉が釈尊の死を知ったのは釈尊の死から7日後のことである[6]。つまり、上記パーリ仏典などの内容を信じるならば、「拈華微笑」の伝説は明らかに史実に反しているということになる。また、禅宗は中国において唐初の道信(西暦580年 - 651年)の頃から盛んであったが、それよりも後世に編纂された漢訳仏典の二大目録である『開元釈教録』[7]や『貞元新定釈教目録』[8][要出典]には『大梵天王問仏決疑経』は記録されておらず、中国への伝来時期や訳者も不明である[要出典][9]。
日本で編纂された大蔵経の類(大正新脩大蔵経を参照)や国訳一切経でも、『大梵天王問仏決疑経』は採録されないか、採録されても偽経と認知できるような編集がなされている。[要出典]
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d 総合仏教大辞典編集委員会(編)『総合佛教大辞典』 下巻(第一版)、法蔵館、1988年1月、1135-1136頁。
- ^ 中村元ほか(編)『岩波仏教辞典』(第二版)岩波書店、2002年10月、810頁。
- ^ 『無門関』 西村恵信訳注 (岩波文庫) 1999年第9刷。
- ^ CBETA X01 No. 26《大梵天王問佛決疑經》卷1を参照。
- ^ CBETA X01 No. 27《大梵天王問佛決疑經》卷1を参照。
- ^ ブッダ最後の旅 6『大パリニッバーナ経』等より(2009年5月5日時点のアーカイブ)、CBETA T01 No. 7《大般涅槃經》卷3を参照。
- ^ 開元18年(西暦730年)に智昇が編纂。
- ^ 貞元16年(西暦800年)に円照が編纂。
- ^ 漢訳仏典においては経典の冒頭に訳者名が記載されるのが通例であるが、[独自研究?]『大梵天王問仏決疑経』には訳者名が記されていない。上記各リンクを参照。