「青木功」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
-spam |
Ootsukakeisetsu (会話 | 投稿記録) 編集の要約なし |
||
(同じ利用者による、間の1版が非表示) | |||
15行目: | 15行目: | ||
| eurowins = 1 |
| eurowins = 1 |
||
| champwins = 9 |
| champwins = 9 |
||
| 日本ツアー = |
| 日本ツアー = 70 (歴代2位) |
||
| otherwins = 16 |
| otherwins = 16 |
||
| masters = 16位: 1985 |
| masters = 16位: 1985 |
||
36行目: | 36行目: | ||
|作成日時=2012年9月23日 |
|作成日時=2012年9月23日 |
||
}} |
}} |
||
'''青木 功'''(あおき いさお、[[1942年]][[8月31日]] - )は、[[千葉県]][[我孫子市]]出身の[[ゴルフ|プロゴルファー]]である。[[日本]]プロゴルフツアー[[永久シード (プロゴルフ)|永久シード]]保持者。2016年から[[日本ゴルフツアー機構]](JGTO)会長。1980年に[[全米オープン (ゴルフ)|全米オープン]]で準優勝、1983年には日本人で初めて[[PGAツアー]]で優勝を果たすなど、[[尾崎将司]]、[[中嶋常幸]]と共に「AON (エーオーエヌ)」と呼ばれる日本を代表する名ゴルファーの一人である。[[日本ゴルフツアー]]通算 |
'''青木 功'''(あおき いさお、[[1942年]][[8月31日]] - )は、[[千葉県]][[我孫子市]]出身の[[ゴルフ|プロゴルファー]]である。[[日本]]プロゴルフツアー[[永久シード (プロゴルフ)|永久シード]]保持者。2016年から[[日本ゴルフツアー機構]](JGTO)会長。1980年に[[全米オープン (ゴルフ)|全米オープン]]で準優勝、1983年には日本人で初めて[[PGAツアー]]で優勝を果たすなど、[[尾崎将司]]、[[中嶋常幸]]と共に「AON (エーオーエヌ)」と呼ばれる日本を代表する名ゴルファーの一人である。[[日本ゴルフツアー]]通算70勝は歴代2位。 |
||
== 略歴 == |
== 略歴 == |
2018年12月29日 (土) 23:17時点における版
Isao Aoki | |
---|---|
基本情報 | |
名前 | 青木 功 |
生年月日 | 1942年8月31日(82歳) |
身長 | 180 cm (5 ft 11 in) |
体重 | 80 kg (176 lb) |
国籍 | 日本 |
出身地 | 千葉県我孫子市 |
経歴 | |
プロ勝利数 | 78 |
優勝数 | |
PGAツアー | 1 |
ヨーロッパ | 1 |
日本ツアー | 70 (歴代2位) |
チャンピオン | 9 |
他ツアー | 16 |
メジャー選手権最高成績 | |
マスターズ | 16位: 1985 |
PGA選手権 | 4位タイ: 1981 |
全米オープン | 2位: 1980 |
全英オープン | 7位タイ: 1978, 1979, 1988 |
受賞 | |
日本ツアー賞金王 | 1976, 1978, 1979, 1980, 1981 |
成績 | |
優勝回数 | 通算85勝 <国内シニア9勝・海外シニア9勝・海外グランドシニア3勝> |
初優勝 |
日本男子: 関東プロ (1971年) 米国男子: ハワイアン・オープン (1983年) |
賞金ランク最高位 |
日本男子: 1位 (5度) 米国男子: 34位 (1983) |
殿堂表彰者 | |
選出年 | 2004年 |
選出部門 | 国際投票 |
殿堂表彰者 | |
選出年 | 2013年 |
選出部門 | プレーヤー |
2012年9月23日現在 |
青木 功(あおき いさお、1942年8月31日 - )は、千葉県我孫子市出身のプロゴルファーである。日本プロゴルフツアー永久シード保持者。2016年から日本ゴルフツアー機構(JGTO)会長。1980年に全米オープンで準優勝、1983年には日本人で初めてPGAツアーで優勝を果たすなど、尾崎将司、中嶋常幸と共に「AON (エーオーエヌ)」と呼ばれる日本を代表する名ゴルファーの一人である。日本ゴルフツアー通算70勝は歴代2位。
略歴
- 1956年 14歳の頃、我孫子ゴルフ倶楽部にて我孫子中学校の同級生で盟友となる鷹巣南雄と共にキャディのアルバイトを介しゴルフと出会う。
- 1957年 我孫子中学校卒業と同時に東京都民ゴルフ場にキャディとして就職。
- 1958年、師匠である林由郎プロに引き抜かれ、我孫子ゴルフ倶楽部へ移籍。
- 1961年、飯能ゴルフ倶楽部へ移籍。
- 1964年 6月1日、二回目の受験でプロテストに合格。4月20日鎌ケ谷カントリークラブで36ホール147、6月1日大宮ゴルフコースで36ホール155(38-42-36-39)で、合格ラインに2打差で合格。
- 1965年、関東プロゴルフ選手権で日本ツアー・デビュー。
- 1971年、関東プロゴルフ選手権で日本ツアー初優勝。
- 1973年、国際興業配下の日本電建と所属契約締結。
- 1975年、マスターズの前座試合「パー3コンテスト」で、米国籍外選手として初の優勝。
- 1976年、初の日本ツアー賞金王。
- 1978年から1981年にかけて、4年連続で日本ツアー賞金王。
- 1978年、「世界マッチプレー選手権」で海外ツアー初優勝。同年、宏子夫人 (チエ夫人) との再婚を発表。
- 1980年、全米オープン2位。4日間「帝王」ジャック・ニクラスとラウンドし、死闘を繰り広げた。
- 1981年、正式な米国レギュラーツアーのライセンスを取得。マスターズ「パー3コンテスト」で二度目の優勝。
- 1982年、米国レギュラーツアーの賞金ランキング122位。日本人初のシード権を獲得。
- 1983年、ハワイアン・オープンで、日本人初の米国PGAツアー優勝。ヨーロピアンツアー「ヨーロッパオープン」優勝。
- 1989年、豪州ツアー「コカ・コーラクラシック」優勝。世界四大ツアー (日米欧豪) 優勝を達成。
- 1992年、米シニアツアー (現在の名称は「チャンピオンズツアー」) に主戦場を移し、同年の「ネーションワイド選手権」にて初優勝。
- 1994年から1997年にかけて、日本シニアオープンゴルフ選手権競技4連覇を達成。
- 1997年、青木功ジュニアクラブ発足。以後、ジュニアの育成にも力を注いでいる。
- 2001年、米シニアツアー「フォードプレーヤーズ選手権」にて、通算1,000試合出場を達成。
- 2004年、日本人男性として初の世界ゴルフ殿堂入り。
- 2007年、最終日に65をマーク、エージシュートを達成し逆転で日本シニアオープンゴルフ競技を10年ぶりに優勝。2002年のキャッスルヒルオープンで鷹巣南雄が樹立した「59歳4カ月」を6歳近くも塗り替え、「65歳2カ月」で大会を制した。
- 2008年、秋 紫綬褒章受章。11月9日の鬼ノ城シニアオープン最終日、最終ラウンドを66で周り、2度目のエージシュートを達成した上、優勝を果たした (プレーオフ、4ホール目にて) 。
- 2010年、同年2月より1ヵ月間、日本経済新聞社朝刊にて「私の履歴書」を連載。
- 2010年、5月9日、慈善ゴルフ、ザ・レジェンド・チャリティーで66を記録し、3度目のエージシュートを達成した。
- 2015年、秋の叙勲で旭日小綬章を受章。
主な記録
- 1980年の全米オープンでは、準優勝。 (優勝はニクラスで、青木は2位。共に当時の優勝レコードを塗り替えての1、2フィニッシュ。これは現在に至るまで、日本人男子選手のメジャー大会最高成績である)
- 同年の全英オープンでは、3日目に最小スコアレコード「63」を叩き出している。 (2010年現在も、タイ記録)
- ハワイアン・オープン優勝は、最終日・最終ホールでピンまでの距離128ヤードのショットでチップインイーグルを決めて、2位に1打差の勝利であった。1打差でリードしたままホールアウトしたジャック・レナーがスコアカードを提出しているさなかの奇跡の逆転であった。同ショットは米国にて、80年代を代表する印象に残るショットの一つに選定されており、このショットで使用したパワービルト社製のPWピッチング・ウェッジは、世界ゴルフ殿堂の施設内に展示されている。なお、128ヤードは勝利の翌日青木が歩測して確認した数字であり、翌日同じ場所から同じクラブで何度打ってもバンカーにつかまり、グリーンに届かなかったという。
プロ優勝 (78)
日本ツアー (51)
- 1973 (5) 中日クラウンズ, ペプシウィルソントーナメント, とうきゅうオープン, KBCオーガスタ, 日本プロゴルフ選手権大会
- 1974 (4) 東西対抗, 関東オープン, 関東プロ, 産報クラシック
- 1975 (2) 中日クラウンズ, 関東オープン
- 1976 (1) 東海クラシック
- 1977 (3) 東北クラシック, ジュンクラシック, ABC日米対抗
- 1978 (6) 中日クラウンズ, 日本プロゴルフマッチプレー選手権, 札幌とうきゅうオープン, 関東プロ, ゴルフ日本シリーズ, ABC日米対抗
- 1979 (4) 中日クラウンズ, 日本プロマッチプレー, 関東プロ, 日本シリーズ
- 1980 (5) 中日クラウンズ, よみうりオープン, KBCオーガスタ, 関東オープン, ジュンクラシック
- 1981 (3) 静岡オープン, 日本プロマッチプレー, 日本プロ
- 1982 (2) 日本プロマッチプレー, 大京オープン
- 1983 (4) 札幌とうきゅうオープン, 関東プロ, 日本オープン, 日本シリーズ
- 1986 (4) 札幌とうきゅうオープン, 日本プロ, KBCオーガスタ, 関東オープン
- 1987 (4) ダンロップインターナショナルオープン, 全日空オープン, 日本オープン, 日本シリーズ (tie with デビッド・イシイ)
- 1989 (2) 東海クラシック, カシオワールドオープン
- 1990 (1) 三菱ギャラン
- 1991 (1) ブリヂストンオープン
- 1992 (2) 三菱ギャラン, カシオワールドオープン
PGAツアー優勝 (1)
No. | Date | Tournament | 優勝スコア | 打差 | 2位 |
---|---|---|---|---|---|
1 | 1983年2月13日 | Hawaiian Open | −20 (66-70-65-67=268) | 1打差 | ジャック・レナー |
ヨーロピアンツアー (1)
- 1983 パナソニック・ヨーロピアン・オープン
その他優勝 (7)
- 1971 関東プロ
- 1972 関東プロ
- 1973 Gold Beck
- 1978 Colgate World Match Play Championship (英)
- 1982 Old Sones Invitational
- 1987 Fred Meyer Challenge (with ペイン・スチュワート)
- 1989 Coca Cola Golf Classic (豪)
チャンピオンズツアー優勝 (9)
No. | Date | Tournament | 優勝スコア | 打差 | 2位(タイ) |
---|---|---|---|---|---|
1 | 27 Sep 1992 | ネイションワイド選手権 | −8 (70-66=136) | 1打差 | レイモンド・フロイド |
2 | 18 Sep 1994 | バンクワンシニアクラシック | −14 (69-64-69=202) | 3打差 | チチ・ロドリゲス |
3 | 25 Sep 1994 | Brickyard Crossing Championship | −11 (66-67=133) | 1打差 | ジミー・パウエル, トム・ワーゴ |
4 | 27 Aug 1995 | Bank of Boston Senior Classic | −12 (69-66-69=204) | 1打差 | ボブ・チャールズ, ヘール・アーウィン |
5 | 26 May 1996 | BellSouth Senior Classic at Opryland | −14 (64-68-70=202) | 1打差 | グラハム・マーシュ, ジェイ・シーゲル |
6 | 30 Jun 1996 | Kroger Senior Classic | −15 (63-69-66=198) | 1打差 | マイク・ヒル, ロッキー・トンプソン |
7 | 28 Sep 1997 | Emerald Coast Classic | −14 (71-60-65=196) | Playoff | ギル・モーガン |
8 | 14 Jun 1998 | ベルサウス・シニア・クラシック | −18 (62-66-70=198) | 2打差 | ラリー・ネルソン |
9 | 19 May 2002 | インスティネット・クラシック | −15 (69-67-65=201) | 4打差 | ジョン・ヤコブス |
日本シニアツアー優勝 (9)
- 1994 日本シニアオープン
- 1995 アメリカン・エキスプレスグランドスラム, 日本シニアオープン
- 1996 日本シニアオープン
- 1997 日本シニアオープン
- 2000 N.カップシニアオープン
- 2002 N.カップシニアオープン
- 2007 日本シニアオープン
- 2008 鬼ノ城シニアオープン
成績
メジャー選手権
大会 | 1974 | 1975 | 1976 | 1977 | 1978 | 1979 | 1980 | 1981 | 1982 | 1983 | 1984 | 1985 | 1986 | 1987 | 1988 | 1989 | 1990 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
マスターズ | CUT | CUT | DNP | T28 | CUT | T34 | CUT | T45 | CUT | 19 | T25 | T16 | CUT | CUT | T25 | DNP | DNP |
全米オープン | DNP | DNP | DNP | DNP | DNP | T36 | 2 | T11 | T30 | DNP | T16 | DNP | DNP | T14 | T50 | T33 | T33 |
全英オープン | DNP | DNP | DNP | CUT | T7 | T7 | T12 | T11 | T20 | DNP | T47 | DNP | DNP | DNP | T7 | DNP | CUT |
PGA選手権 | DNP | DNP | DNP | DNP | DNP | CUT | DNP | T4 | T49 | CUT | CUT | DNP | T36 | CUT | T38 | T17 | T40 |
DNP = 出場せず
WD = 怪我で辞退
CUT = ハーフウェイ・カット
T =順位タイ
黄色はトップ10入り.
シニアメジャー選手権
大会 | 1993 | 1994 | 1995 | 1996 | 1997 | 1998 | 1999 | 2000 | 2001 | 2002 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
全米プロシニアゴルフ選手権 | 3 | T5 | T5 | 2 | T20 | T44 | T15 | T62 | T20 | CUT |
ザ・トラディション | 6 | T9 | 2 | T12 | 2 | T13 | T28 | DNP | T47 | T35 |
シニア・プレーヤーズ選手権 | T5 | T3 | 6 | T30 | T2 | 3 | T14 | T18 | T17 | 21 |
全米シニアオープン | T20 | 10 | T3 | 11 | T49 | T4 | CUT | T47 | T2 | T18 |
大会 | 2003 | 2004 | 2005 | 2006 | 2007 | 2008 | 2009 | 2010 | 2011 | 2012 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
全米プロシニアゴルフ選手権 | CUT | T27 | T62 | T28 | CUT | CUT | CUT | DNP | DNP | DNP |
ザ・トラディション | T20 | T53 | T32 | T67 | T71 | DNP | T57 | 64 | DNP | DNP |
シニア・プレーヤーズ選手権 | T12 | T28 | T18 | 52 | DNP | DNP | DNP | DNP | DNP | DNP |
全米シニアオープン | T30 | DNP | DNP | T45 | CUT | DNP | DNP | DNP | DNP | DNP |
全英シニアオープン | T14 | T22 | T36 | T60 | CUT | 50 | CUT | DQ | CUT | CUT |
プレースタイル
- パッティング・スタイルは、前傾を深くしてハンドダウンに構え、パターのトゥを立てた姿勢から、リストでテークバックしダウンブローに打ち込むという、タップ式あるいはリストパッティングなどと呼ばれるスタイルだった。現在ではショルダーストロークと呼ばれる手首をほとんど動かさない打ち方が主流で、この打法は過去のものとされ、実践する選手は少ない[1]。ボブ・トスキはリストパッティングを採りいれていた選手のうち、ゴルフ史上に残る名手として青木、ビリー・キャスパー、ボビー・ロックのいずれも1940年代以前に生まれた3名を挙げている[2]。
- すでに旧式の打法になっていたにも拘わらず、青木はそのスタイルを頑に守り、勝負所のロングパットや難しいラインのパットを次々と放り込み続けた。特に帝王ジャック・ニクラスをして、「パッティングの教科書を書き替えないといけない」と言わしめた。
- 非常に自己流に徹しているゴルファーとも呼ばれ、パッティングスタイルと共に、通常のショットにおいても個性的である。外見的な特徴としては、深い前傾姿勢とベタ足の二点が挙げられる。実際に打球する際には腕に意識を多く置くリストターン打法であり、本人は「ボールを直接打つのはクラブで、それを握るのは手なんだよ。多くのプロは体を回す事に重きを置いているが、俺のやり方は違う。」と述べている[3]。メタルドライバーは自身の打法に合わなかったため、ほとんど使用しなかったが、チタンドライバーが世に出ると、打法を変えることなく使えたため、すぐに実戦で使用するようになった[4]。 (ただしパーシモンドライバー時代に比べると、フェースローテーションを抑えているとされる。)
- 全英オープン初挑戦は1977年ターンベリー開催の第106回大会であり、54ホール終了時点で76-72-74のスコアで予選落ちした青木は、英国のリンクスコースを攻略するため、翌年の開催地セント・アンドルーズのオールドコースを視察、帰国して錦ヶ原ゴルフ場の河川敷コースで練習を重ね、1978年の全英オープンに臨んだ。初日68で首位、2日目71で首位キープ、本選は73-73で、優勝したジャック・ニクラスに4打差の7位タイ。
- 1980年全米オープンで「バルタスロールの死闘」を演じたジャック・ニクラスが、優勝インタビューの中で「アオキの (ホールカップから) 100Y以内は世界一だ」と語ったため、この距離内で少ない打数でホールアウトする事を競えば、青木の右に出るものはいないと言われた。これを裏付けるように USPGAのバンカーショット部門 (サンドセーブ率: バンカー内から2打以内でホールアウトした率) では、'80年、'81年と二年連続No,1の座に就いている。'80年代10年間の通算成績でも首位タイに輝いている。
- 青木の長打力に関しては、当時としては距離の長いコースセッティングだったバルタスロールでの全米オープンでの最終日に、日に日に飛距離を伸ばす青木に対して飛ばし屋のニクラスは「You are so long」とその打力を評する言葉を掛けている。[5]
人物像
- 中学時代は野球部で、長身の為、一塁手を任されていた。
- 初優勝までは鳴かず飛ばずでどん底生活に甘んじていた。「飲む打つ?で元キャディーだった前妻にはたいへんな重荷を負わせた」と「私の履歴書」に書いている。
- 元々はドローヒッターで飛ばし屋というスタイルであったが、安定させるため持ち球をフェードに変えてから成功している。
- 鷹巣南雄の紹介で王貞治と親交を持つ様になる。青木は「王さんをスポーツ選手の鑑にする」と王貞治を手本として日々を過ごすと、1971年に関東プロで初勝利、その後は王さんと同じように、「“世界”の青木」というニックネームを頂くまでになったと青木は語る[6]。
- 尾崎将司が日本国内のツアーにほぼ専念していたのに対して、青木功はこれまで海外ツアーに積極的に参戦しており、アメリカでは最も名の知れた日本人プロゴルファーの一人である。
- 気さくで開けっ広げな性格で知られる。米国ツアー参戦後も英語が上手く話せないながら、笑顔やボディランゲージを含めて色々な選手らにどんどん話しかけ、多くの人々と友人になれたという。ゴルフ界以外の友人も多く、ビートたけしのことを「たけしさん」ではなく「ビートさん」と呼ぶ、数少ない人物でもある。
- グレグ・ノーマンと親友である。グレグ・ノーマンはゴルフ界でもアスペルガー的な性格で知られ、奇行や人見知りが有名であまり交友関係を持たないのだが、二人は本当に仲が良く、青木が左肘を故障した際には主治医の紹介やリハビリについてのアドバイスを与え、青木が世界ゴルフ殿堂入りした際にはプレゼンターを務めた (ゴルフ解説者の戸張捷が実際に見たといって語っていたところによると、二人は会話の際、青木は日本語で、グレグは英語で普通に喋るのだが、問題なく意思の疎通が出来るのだという。戸張曰く「僕の理解の外です」とのこと) 。
- 口調はべらんめぇ調で、一時期の口癖は「しゃんめえじゃんよ~」 (仕方がない、の意) 。ゴルフ解説においても、フランクな口調が特徴。
- プロテストの受験費用は競輪で稼いだ。
- 横尾要は青木の「ハワイアン・オープン」で奇蹟のチップインイーグルによる逆転優勝を見たのを機にプロゴルファーになる決心をした。
- 私生活では離婚を経験の後現夫人と再婚している。夫人も再婚で夫人の連れ子である義理の娘がいる。このチエさんと結婚してからの青木はそれまでの生活様式や風貌が一転した。
- 米ツアーで日本男子としてはじめて勝利を挙げている。丸山茂樹や今田竜二、松山英樹等も後に勝利しているが、彼等がシーズン通しての参戦であったのに対し青木は冬と夏のみをアメリカで過ごすという所謂スポット参戦という時差やグリーンの速さの違い等というハンデがつく厳しい条件の下で達成している。自身も著書の中で「行ったり来たりの生活を継続していると時差やグリーン速さの差やフォームのずれ等を調整するのが大変だった。中にはアメリカに行かなければこんな苦労をせずに済んだという人もいた。」と記している。
呼称・愛称
- アメリカなどの英語圏では、「アイセイオー・エイオーキ」、「アイザオ・エオーキ」などと発音されていたが、'80年の全米オープンでの活躍以後は「イツァオ・ェイォーキィ」と、日本語読みに近い発音で呼ばれるようになる。
- 米国レギュラーツアー時代は、長いパットを次々と放り込む姿や、難しいバンカーからの絶妙な寄せ技などから「東洋の魔術師 (オリエンタル・マジシャン) 」と呼ばれた。
- 1978年の「世界マッチプレー選手権」で海外ツアー初優勝後は「世界の青木」と呼ばれるようになった。青木自身は「青木功は青木功。何も変わっちゃいないんだ」と、急に「世界の」という冠を付けて語られ始めたことに、当初は戸惑いを表明していた。
- ライバル尾崎将司のニックネーム「ジャンボ尾崎」にちなんで、一時「コンコルド青木」と呼ばれていた時期もあったが、定着することは無かった。
メディア
DVD
- 青木功 生涯ゴルフの方程式 (発売元: 青木功ゴルフ企画/エンジンネットワーク、販売元: 紀伊國屋書店、品番: KKCS-22~23)
ビデオ
- GOLF 青木功の世界 Part1~Part3
- NHK趣味百科 青木功のベストゴルフ Vol,1~Vol,3 (定価各5,000円)
- 青木功のゴルフ早わかり OUT編/IN編
- 青木功の勝つためのゴルフ オリジナルレッスン・イン・ハワイ 第1巻/第2巻
- 青木功・倉本昌弘のゴルフ帝王学(Vap、1985年)
著作
- ゴルフ青木流 (ISBN 4-10-467901-1、定価1,400円)
- たちまちうまくなる 驚異の寄せワン 確実に9ストローク縮める秘密 (ISBNなし、定価690円)
- 驚異のゴルフ カップ・インを狙え! (ISBNなし、定価690円)
- 青木功の芝の読み方 (ISBNなし、定価880円)
- 青木功 スーパー実戦テクニック (ISBN 4-06-126780-9、定価850円)
- 青木ゴルフの極意 一問一答 (ISBN 4-569-21191-7、定価680円)
- 賢者のゴルフ 青木流 秘シンプル・ゴルフのすすめ (ISBN 4-334-00585-3、定価800円)
- 俺と闘った男たち (ISBN 4-08-780172-1、定価1,200円)
- 青木功 ゴルフ五輪書 (ISBN 4-08-780037-7、定価580円)
- ゴルフ青木流 基本編 (漫画/ISBN 4-8124-6284-3、定価429円+税)
- ゴルフ青木流 スコアが伸びるマル秘実戦12のセオリー (漫画/ISBN 4-8124-6306-8、定価429円+税)
関連書籍
- シニアの国の青木功 (佐山透著、ISBN 4-06-207652-7、定価1,600円)
- イサオそして私 (青木チエ著、ISBN 4-416-89949-1、定価1,300円)
- 青木功物語 誰も書けなかった、ちょっといい話 (青木功を心から愛する友の会編、ISBN 4-89084-060-5、定価1,800円)
- 青木功の諦めないで自分を変えろ (大西久光著、ISBN 978-4576980485、定価1,575円)
- 日本経済新聞 『私の履歴書』2010年2月掲載
- あした天気になあれ (漫画) 青木功一のモデル
CM
関連人物
- 尾崎将司
- 中嶋常幸
- ジャック・ニクラス
- グレグ・ノーマン
- 石橋貴明(とんねるず) - 「とんねるずのみなさんのおかげでした」のコーナー「全落・水落シリーズ」にて、青木をモデルとした「世界のAO木さん」[7]というキャラに扮して進行を行っている。また、水落プロでは、たまたまロケ地のゴルフ場でレッスン中だった青木本人が急遽解説に加わり「青木とAO木のダブル解説」が実現している。
- (師弟関係)
- (我孫子一門)
脚注
- ^ 『チョイス』ゴルフダイジェスト社 2002年5月号219頁
- ^ 『チョイス』ゴルフダイジェスト社 2010年2月号
- ^ 『バッフィー』CBS・ソニー出版 1991年1月号35~37頁
- ^ 『チョイス』ゴルフダイジェスト社 2006年7月号114~115頁
- ^ 『チョイス』ゴルフダイジェスト社 2005年9月号83頁
- ^ 「世界の王さんあっての私」 - 東洋経済 2009年8月4日
- ^ ただし、「AO木」は「アオキ」ではなく「エオキ」と読む。
外部リンク
- 青木功公式ホームページ
- 青木功 - 日本ゴルフツアー機構のプロフィール
- 青木功 - PGA Tour.com