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下書き:熊本母娘殺人事件 |
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本事件の加害者である[[死刑囚]]M(本事件当時55歳)は、[[1930年]](昭和5年)[[4月10日]]、熊本県[[飽託郡]][[天明町]][[海路口村|海路口]](現・熊本県[[熊本市]][[南区 (熊本市)|南区]]海路口町)にて漁師の家に三男として生まれた<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.93-94">[[#新潮45(2002)|新潮45(2002)、p.93-94]]</ref>。 |
本事件の加害者である[[死刑囚]]M(本事件当時55歳)は、[[1930年]](昭和5年)[[4月10日]]、熊本県[[飽託郡]][[天明町]][[海路口村|海路口]](現・熊本県[[熊本市]][[南区 (熊本市)|南区]]海路口町)にて漁師の家に三男として生まれた<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.93-94">[[#新潮45(2002)|新潮45(2002)、p.93-94]]</ref>。 |
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[[1999年]]([[平成]]11年)[[9月10日]] |
死刑囚Mは[[1999年]]([[平成]]11年)[[9月10日]]に[[法務省]]([[法務大臣]]:[[陣内孝雄]])が発した死刑執行命令により収監先・[[福岡拘置所]]で[[日本における被死刑執行者の一覧|死刑を執行された]]({{没年齢|1930|4|10|1999|9|10}})<ref group="新聞" name="読売新聞1999-09-10"/><ref group="新聞" name="朝日新聞1999-09-10"/><ref group="新聞" name="毎日新聞1999-09-10"/>。 |
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=== い立ち === |
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Mが出生した当時の天明町はかなり気性の荒い土地柄の漁師町で、地元で魚介類漁・海苔漁を行っていたMの父親はMが2歳だった時、漁師同士の些細な喧嘩の際に相手に千枚通しで刺され死亡した<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.93-94"/>。 |
Mが出生した当時の天明町はかなり気性の荒い土地柄の漁師町で、地元で魚介類漁・海苔漁を行っていたMの父親はMが2歳だった時、漁師同士の些細な喧嘩の際に相手に千枚通しで刺され死亡した<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.93-94"/>。 |
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== 最初の殺人事件発生まで == |
== 最初の殺人事件発生まで == |
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=== Mの結婚・妻Xへの暴力 === |
=== Mの結婚・妻Xへの暴力 === |
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刑務所に入ったり出たりの生活を繰り返していたMだったが、27歳だった[[1958年]](昭和33年) |
刑務所に入ったり出たりの生活を繰り返していたMだったが、27歳だった[[1958年]](昭和33年)ごろには郷里・熊本に落ち着くようになっており、このころには同い年の女性X(後の妻)との見合い話が持ち上がった<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.95">[[#新潮45(2002)|新潮45(2002)、p.95]]</ref>。 |
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Xは[[日本統治時代]]の[[満州国]]で長女として生まれた、終戦後に両親とともに日本に[[引き揚げ]]たが、兄弟姉妹8人(男女各4人ずつ)という大家族だった上に引き揚げ者であったために生活が苦しくなり、熊本市内で[[ミシン]]の販売業を営んでいた母方の伯父(母の実兄)夫婦の下に預けられ、養父の家業を手伝いながら育った<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.95"/>。この養父、即ちXの母方の伯父こそが、27年後に義理の息子Mによって殺された被害者Aの義兄(Aの夫の実兄)であった<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.95"/>。 |
Xは[[日本統治時代]]の[[満州国]]で長女として生まれた、終戦後に両親とともに日本に[[引き揚げ]]たが、兄弟姉妹8人(男女各4人ずつ)という大家族だった上に引き揚げ者であったために生活が苦しくなり、熊本市内で[[ミシン]]の販売業を営んでいた母方の伯父(母の実兄)夫婦の下に預けられ、養父の家業を手伝いながら育った<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.95"/>。この養父、即ちXの母方の伯父こそが、27年後に義理の息子Mによって殺された被害者Aの義兄(Aの夫の実兄)であった<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.95"/>。 |
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Mはその話し合いの場で「働きもせずに妻Xに暴力を振るっている」と非難されると「なら、金を取ってきてやる」と言い残し、いったん義父母宅を飛び出した<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.98"/>。実はMはこの後、Y・X母子を殺害するための凶器として近所の金物屋で切り出しナイフを購入していた<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.100"/>。 |
Mはその話し合いの場で「働きもせずに妻Xに暴力を振るっている」と非難されると「なら、金を取ってきてやる」と言い残し、いったん義父母宅を飛び出した<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.98"/>。実はMはこの後、Y・X母子を殺害するための凶器として近所の金物屋で切り出しナイフを購入していた<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.100"/>。 |
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それからしばらくしてもMが戻ってこなかったため<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.98"/>、午後8時 |
それからしばらくしてもMが戻ってこなかったため<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.98"/>、午後8時ごろになってY・X母子は義父母宅を出て、当時Yが住んでいた甲佐町の実家に戻ろうと[[バス停留所]]に向かった<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.99">[[#新潮45(2002)|新潮45(2002)、p.99]]</ref>。 |
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すると、そのバス停の待合室に何故かM本人が待ち伏せていたが、Mは意外なことに、Yに対し「Xとしばらく話をさせてください」と穏やかな口調で求めてきたため、安心したYはM・Xの2人で話し合うことを了解した<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.99"/>。 |
すると、そのバス停の待合室に何故かM本人が待ち伏せていたが、Mは意外なことに、Yに対し「Xとしばらく話をさせてください」と穏やかな口調で求めてきたため、安心したYはM・Xの2人で話し合うことを了解した<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.99"/>。 |
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== 仮釈放・お礼参り殺人計画 == |
== 仮釈放・お礼参り殺人計画 == |
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この施設「湧水寮」では原則として「仮出所中の生活は施設側が管理する」という規定の下、Mは施設から紹介された北九州市内の工事現場などで働き、収入・生活費などを施設に預けて生活していたが、Mはこの寮にいる間<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.105"/>、上から「殺したい順番」として元妻Xらに対する殺害計画を立て、大学ノートに殺害標的の住所・氏名を書き込んだ上、1984年暮れには<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.107-108"/>殺害の手順・逃走ルート・逃走資金の調達方法など、綿密な計画を記していた<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.106-107"/>。あろうことかその復讐心は直接無関係な人間にまで及び、標的の数は30人以上となった<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.106-107">[[#新潮45(2002)|新潮45(2002)、p.106-107]]</ref>。殺害の手順として考えていたのは「元妻X・被害者A・Xの叔母・Xの養母・自身の叔父夫婦」という順番か、もしくはその逆という2通りだった<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.107-108">[[#新潮45(2002)|新潮45(2002)、p.107-108]]</ref>。 |
この施設「湧水寮」では原則として「仮出所中の生活は施設側が管理する」という規定の下、Mは施設から紹介された北九州市内の工事現場などで働き、収入・生活費などを施設に預けて生活していたが、Mはこの寮にいる間<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.105"/>、上から「殺したい順番」として元妻Xらに対する殺害計画を立て、大学ノートに殺害標的の住所・氏名を書き込んだ上、1984年暮れには<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.107-108"/>殺害の手順・逃走ルート・逃走資金の調達方法など、綿密な計画を記していた<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.106-107"/>。あろうことかその復讐心は直接無関係な人間にまで及び、標的の数は30人以上となった<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.106-107">[[#新潮45(2002)|新潮45(2002)、p.106-107]]</ref>。殺害の手順として考えていたのは「元妻X・被害者A・Xの叔母・Xの養母・自身の叔父夫婦」という順番か、もしくはその逆という2通りだった<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.107-108">[[#新潮45(2002)|新潮45(2002)、p.107-108]]</ref>。 |
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# 元妻X - Mが「最も殺したかった」として最大のターゲットにしており、「1962年の事件でXの母親Yしか殺せなかったから『あの時Xも殺しておけばよかった』と悔やんだ」という<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.106-107"/>。Mはこの |
# 元妻X - Mが「最も殺したかった」として最大のターゲットにしており、「1962年の事件でXの母親Yしか殺せなかったから『あの時にXも殺しておけばよかった』と悔やんだ」という<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.106-107"/>。Mはこのころ、Xへの未練を抱いていた一方、「Xが年下の長距離トラック運転手男性と再婚した」という話を聞いていたため、「俺を捨てて若い男をたぶらかした」とする嫉妬などの感情を抱き、Xをより一層憎悪するようになっていた<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.106-107"/>。その上で、Xの夫が長距離トラック運転手である旨を聞いていたことから「仕事に出てから帰宅まで1,2日かかる夫が仕事に出た直後にXを殺せば事件発覚に時間がかかる」と考えていた<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.107-108"/>。 |
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# Xの養母(伯母) - 仲人だったXの養父母・養父の実弟を「仲人なのに自分だけを悪者にしてXと離婚させた」として逆恨みしていたが、養父・養父の実弟(Aの夫)はこの時点で既に他界していたため、未亡人たちが標的となった<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.106-107"/>。 |
# Xの養母(伯母) - 仲人だったXの養父母・養父の実弟を「仲人なのに自分だけを悪者にしてXと離婚させた」として逆恨みしていたが、養父・養父の実弟(Aの夫)はこの時点で既に他界していたため、未亡人たちが標的となった<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.106-107"/>。 |
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# 被害者A - 同上。Mは取り調べの際、「Aには個人的な恨みはないが、自分に冷たく当たっていた上にXのことで親身になってくれなかったし、Aの夫がXを再婚させた。Aの夫への恨みがやがてA自身への恨みに変わった」と供述した<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.106-107"/>。 |
# 被害者A - 同上。Mは取り調べの際、「Aには個人的な恨みはないが、自分に冷たく当たっていた上にXのことで親身になってくれなかったし、Aの夫がXを再婚させた。Aの夫への恨みがやがてA自身への恨みに変わった」と供述した<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.106-107"/>。 |
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Xの伯母からXの連絡先を聞き出すことには失敗したものの、Mはここで報復計画を諦めることはなく<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.108-111"/>、仕事をせずに熊本市に帰省した当日に訪れた同市内のスナックに入り浸り、実兄の家にも帰らずにスナックのママの住居に泊まるような生活を続けていた<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.111-113">[[#新潮45(2002)|新潮45(2002)、p.111-113]]</ref>。しかし1985年7月中旬になってもXの居場所は一向に判明しないどころか、[[阿蘇温泉郷]]にスナックのママ・ホステスを連れ込んだり、店の常連客に飲食代をおごるような生活を続けるうちに預金残高・貯金の合計が20万円程度まで減っていたため、Mは「Xの居場所がわからないなら、せめて恨みのあるやつらを次々に殺して家々の金を奪い、Xを殺すための逃走資金を確保する」という計画に変更し、「Xを殺害した後の逃走費用」として10万円を確保した上で殺害計画を実行することを決意した<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.111-113"/>。被害者Aが砕石会社を経営していたことから、MはA宅を襲撃した後で現金を奪うこともあらかじめ計算していた<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.113-116">[[#新潮45(2002)|新潮45(2002)、p.113-116]]</ref>。 |
Xの伯母からXの連絡先を聞き出すことには失敗したものの、Mはここで報復計画を諦めることはなく<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.108-111"/>、仕事をせずに熊本市に帰省した当日に訪れた同市内のスナックに入り浸り、実兄の家にも帰らずにスナックのママの住居に泊まるような生活を続けていた<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.111-113">[[#新潮45(2002)|新潮45(2002)、p.111-113]]</ref>。しかし1985年7月中旬になってもXの居場所は一向に判明しないどころか、[[阿蘇温泉郷]]にスナックのママ・ホステスを連れ込んだり、店の常連客に飲食代をおごるような生活を続けるうちに預金残高・貯金の合計が20万円程度まで減っていたため、Mは「Xの居場所がわからないなら、せめて恨みのあるやつらを次々に殺して家々の金を奪い、Xを殺すための逃走資金を確保する」という計画に変更し、「Xを殺害した後の逃走費用」として10万円を確保した上で殺害計画を実行することを決意した<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.111-113"/>。被害者Aが砕石会社を経営していたことから、MはA宅を襲撃した後で現金を奪うこともあらかじめ計算していた<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.113-116">[[#新潮45(2002)|新潮45(2002)、p.113-116]]</ref>。 |
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事件発生2日前の1985年7月22日昼 |
事件発生2日前の1985年7月22日昼ごろ、Mは「夜間の犯行・及び逃走のための小道具」として懐中電灯・携帯ラジオを持参して実兄の家を出ると、行きつけのスナックに立ち寄って飲酒してからタクシーで金物屋に向かい、店員に「[[ウナギ]]を捌くのに必要になった」と申し出て刃渡り20cmの刺身包丁・千枚通しを購入、同日午後7時ごろにXの伯母宅に出向いた<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.113-116"/>。しかし侵入を試みたところ、偶然近所から預かっていた犬が吠え出したため、MはXの伯母宅の襲撃を断念して標的を被害者Aに変更、タクシーで甲佐町内に向かった<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.113-116"/>。 |
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午後9時すぎに甲佐町に着いたMは割烹料理店で飲食して1時間ほど過ごしてからA宅に向かったが、この時に郵便受けの名前を見たことで初めて被害者Bの存在を知った<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.113-116"/>。Mは窓越しにAに「Xの居場所を教えてくれ」と声を掛けたが、Aは「もう遅い」とだけ返事して窓を施錠した<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.113-116"/>。これに逆上したMは庭に転がっていた石で窓ガラスを叩き割り、A宅に押し入ろうとしたが、近隣住宅の証明が点灯していたことから犯行の露見を恐れて断念した<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.113-116"/>。その上で家の周りを一通り見て鍵が開いている箇所を探したが発見できなかったため、裏庭の物置に隠れて一夜を過ごし、朝になっていったん熊本市内のスナックに戻った<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.113-116"/>。 |
午後9時すぎに甲佐町に着いたMは割烹料理店で飲食して1時間ほど過ごしてからA宅に向かったが、この時に郵便受けの名前を見たことで初めて被害者Bの存在を知った<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.113-116"/>。Mは窓越しにAに「Xの居場所を教えてくれ」と声を掛けたが、Aは「もう遅い」とだけ返事して窓を施錠した<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.113-116"/>。これに逆上したMは庭に転がっていた石で窓ガラスを叩き割り、A宅に押し入ろうとしたが、近隣住宅の証明が点灯していたことから犯行の露見を恐れて断念した<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.113-116"/>。その上で家の周りを一通り見て鍵が開いている箇所を探したが発見できなかったため、裏庭の物置に隠れて一夜を過ごし、朝になっていったん熊本市内のスナックに戻った<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.113-116"/>。 |
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1985年7月23日、Mはスナックで仮眠してから夜になって「集金に行ってくる」と言い残し、まずは再びXの伯母宅を尋ねたが留守だったため、甲佐町内の被害者A・B宅に出向いた<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.113-116"/>。A宅を訪れたMは午後10時30分 |
1985年7月23日、Mはスナックで仮眠してから夜になって「集金に行ってくる」と言い残し、まずは再びXの伯母宅を尋ねたが留守だったため、甲佐町内の被害者A・B宅に出向いた<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.113-116"/>。A宅を訪れたMは午後10時30分ごろ、窓越しに部屋を覗き込んでA・B両名が起床していることを確認し、寝静まったころを待って犯行を決行するために裏庭の物置に隠れたが、直前に焼酎を飲酒していたためにアルコールが回ったことで居眠りし、目覚めた際には7月24日午前2時ごろになっていた<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.113-116"/>。Mは眠気覚ましに喫煙し、窓ガラスを割った際に音がしないように布で包んだ石を持って建物に忍び寄った<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.117-120">[[#新潮45(2002)|新潮45(2002)、p.117-120]]</ref>。 |
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仲人だったXの伯母を狙う |
仲人だったXの伯母を狙う |
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1985年7月24日午前2時 |
1985年7月24日午前2時ごろ、[[犯人]]M(当時55歳)は熊本県[[上益城郡]]在住のMの遠縁にあたる会社役員の女性(当時63歳)が自宅で寝ているところを襲って殺害。さらに女性の養女(当時22歳)も殺害した。2女性とも[[包丁]]で首や頭など合計76箇所も刺されていた。Mはさらに[[現金]]数十万円や[[指輪]]などを奪って[[逃亡|逃走]]。 |
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事件から5日後の7月28日、Mは[[強盗致死傷罪|強盗殺人]]、[[住居侵入罪|住居侵入]]、[[銃砲刀剣類所持等取締法|銃刀法]]違反などの罪で[[逮捕 (日本法)|逮捕]]された。逮捕されるまでの間、奪った金を使って豪遊していたという。 |
事件から5日後の7月28日、Mは[[強盗致死傷罪|強盗殺人]]、[[住居侵入罪|住居侵入]]、[[銃砲刀剣類所持等取締法|銃刀法]]違反などの罪で[[逮捕 (日本法)|逮捕]]された。逮捕されるまでの間、奪った金を使って豪遊していたという。 |
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== 捜査 == |
== 捜査 == |
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=== 事件発覚 === |
=== 事件発覚 === |
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1985年7月24日午前8時20分 |
1985年7月24日午前8時20分ごろ、男女2人の砕石会社従業員が会社に出勤したところ、通常は午前7時30分に白い[[原動機付自転車]](原付)で出社していた同社役員の被害者Aの姿がなかった<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.90-93">[[#新潮45(2002)|新潮45(2002)、p.90-93]]</ref>。 |
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そのため2人が被害者A宅を訪れたところ、Aが通勤で用いていた原付が玄関横の車庫に駐車してあった<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.90-93"/>。 |
そのため2人が被害者A宅を訪れたところ、Aが通勤で用いていた原付が玄関横の車庫に駐車してあった<ref group="書籍" name="新潮45(2002) p.90-93"/>。 |
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198行目: | 198行目: | ||
熊本県警御船署が現場を確認したところ、現場から凶器は発見されなかった一方、室内・廊下には血痕が飛散していた<ref group="新聞" name="朝日新聞1985-07-24"/>。また、事件現場となったA宅の玄関・勝手口は施錠されていたが、被害者Bの部屋の窓だけが施錠されていなかったため、御船署は「犯人は施錠されていなかった被害者Bの部屋の窓から侵入・逃走した」と推測した<ref group="新聞" name="朝日新聞1985-07-24"/>。 |
熊本県警御船署が現場を確認したところ、現場から凶器は発見されなかった一方、室内・廊下には血痕が飛散していた<ref group="新聞" name="朝日新聞1985-07-24"/>。また、事件現場となったA宅の玄関・勝手口は施錠されていたが、被害者Bの部屋の窓だけが施錠されていなかったため、御船署は「犯人は施錠されていなかった被害者Bの部屋の窓から侵入・逃走した」と推測した<ref group="新聞" name="朝日新聞1985-07-24"/>。 |
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被害者Aは前日夕方まで会社に勤務していたことから、御船署は犯行時間を「23日午後8時 |
被害者Aは前日夕方まで会社に勤務していたことから、御船署は犯行時間を「7月23日午後8時 - 7月24日午前8時ごろ」の間と推測した<ref group="新聞" name="朝日新聞1985-07-24"/>。 |
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A宅は庭を隔てて隣家と接していたが、「事件発覚前日の23日から翌朝にかけて不審者の出入り・争うような物音を見聞きした」という証言は得られなかった<ref group="新聞" name="朝日新聞1985-07-24"/>。しかし、近隣住民は聞き込みに対し「被害者Aの親類の男(後にMと判明する男)が事件2,3日前からA宅付近をうろついていたのを見た」と証言したほか、被害者A自身も「(Mが)心配で恐ろしい」と漏らしていた<ref group="新聞" name="朝日新聞1985-07-24"/>。 |
A宅は庭を隔てて隣家と接していたが、「事件発覚前日の23日から翌朝にかけて不審者の出入り・争うような物音を見聞きした」という証言は得られなかった<ref group="新聞" name="朝日新聞1985-07-24"/>。しかし、近隣住民は聞き込みに対し「被害者Aの親類の男(後にMと判明する男)が事件2,3日前からA宅付近をうろついていたのを見た」と証言したほか、被害者A自身も「(Mが)心配で恐ろしい」と漏らしていた<ref group="新聞" name="朝日新聞1985-07-24"/>。 |
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目的地の荒尾競馬場に到着すると、Mはタクシー料金3290円に対し1万円札を出したが、運転手が釣り銭を持っていなかったため、Mは連れの女性とともに「何か食べよう」と運転手を誘い、近くの[[寿司屋]]で[[寿司]]を食べた<ref group="新聞" name="朝日新聞1985-07-29"/>。 |
目的地の荒尾競馬場に到着すると、Mはタクシー料金3290円に対し1万円札を出したが、運転手が釣り銭を持っていなかったため、Mは連れの女性とともに「何か食べよう」と運転手を誘い、近くの[[寿司屋]]で[[寿司]]を食べた<ref group="新聞" name="朝日新聞1985-07-29"/>。 |
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寿司屋で食事を摂っていた途中、運転手は何気なく男の顔を見たことで、男が甲佐町の強盗殺人事件で指名手配中のMに似ていることに気付いた<ref group="新聞" name="朝日新聞1985-07-29"/>。食事を終えた運転手は、男と連れの女性からタクシー代を受け取って会社に帰り、午後0時40分 |
寿司屋で食事を摂っていた途中、運転手は何気なく男の顔を見たことで、男が甲佐町の強盗殺人事件で指名手配中のMに似ていることに気付いた<ref group="新聞" name="朝日新聞1985-07-29"/>。食事を終えた運転手は、男と連れの女性からタクシー代を受け取って会社に帰り、午後0時40分ごろ帰社直後に「手配書に載っていた男とよく似た男を、客として玉名市内のホテルからの荒尾競馬場まで乗せた」と熊本県警[[玉名警察署]]に110番通報した<ref group="新聞" name="朝日新聞1985-07-29"/>。 |
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110番通報を受けて熊本県警捜査本部、玉名署・[[荒尾警察署]]などから召集された捜査員70人が競馬場付近を警戒していたところ、警戒に当たっていた熊本県警荒尾署員が午後1時10分 |
110番通報を受けて熊本県警捜査本部、玉名署・[[荒尾警察署]]などから召集された捜査員70人が競馬場付近を警戒していたところ、警戒に当たっていた熊本県警荒尾署員が午後1時10分ごろに入口付近で女性を連れたMに似た男を発見して[[職務質問]]した<ref group="新聞" name="朝日新聞1985-07-29"/>。これに対し男は観念した様子で「事件現場までタクシーで乗り付け、被害者2人を刺身包丁で刺殺した」と供述し、自らがMであること・犯行に関与したことを認めたため、そのまま荒尾署員に指名手配容疑の強盗殺人容疑で逮捕された<ref group="新聞" name="朝日新聞1985-07-29">『朝日新聞』1985年7月29日西部朝刊第一社会面21面「母娘殺害犯を逮捕 競馬場にノコノコ 熊本県荒尾 タクシー運転手通報」</ref>。Mは逮捕時、現金10万円・着替えの服が入ったバッグを持っていた<ref group="新聞" name="朝日新聞1985-07-29"/>。 |
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捜査本部は逮捕後も凶器の発見・Mの犯行動機追及に全力を挙げた<ref group="新聞" name="朝日新聞1985-07-29"/>。その後、被疑者Mの[[送検]]を受けた[[熊本地方検察庁]]がMを強盗殺人容疑で[[熊本地方裁判所]]に[[起訴]]した。 |
捜査本部は逮捕後も凶器の発見・Mの犯行動機追及に全力を挙げた<ref group="新聞" name="朝日新聞1985-07-29"/>。その後、被疑者Mの[[送検]]を受けた[[熊本地方検察庁]]がMを強盗殺人容疑で[[熊本地方裁判所]]に[[起訴]]した。 |
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== 刑事裁判 == |
== 刑事裁判 == |
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=== 第一審・熊本地裁 === |
=== 第一審・熊本地裁 === |
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[[熊本地方裁判所]](荒木勝己[[裁判長]])は[[1986年]](昭和61年)[[8月5日]]に開かれた第一審判決公判で検察側の求刑通り[[被告人]]Mに死刑判決を言い渡した<ref group="新聞" name="朝日新聞1986-08-05">『朝日新聞』1986年8月5日西部夕刊第二社会面6面「母子強殺男に死刑 熊本地裁 『情状くむ余地なし』」</ref>。 |
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[[判決理由]]で熊本地裁は |
[[判決理由]]で熊本地裁は犯罪事実を以下のように[[事実認定]]した。 |
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* 1984年2月に無期懲役刑の仮釈放を受けて刑務所を仮出所したが、その後もわかれた元妻への恨みを忘れられず、元妻の親族だった被害者Aを脅迫して元妻の居所を聞き出した上、犯行を隠蔽するためにA・Bを殺害して現金を奪うことを画策した<ref group="新聞" name="朝日新聞1986-08-05"/>。 |
* 1984年2月に無期懲役刑の仮釈放を受けて刑務所を仮出所したが、その後もわかれた元妻への恨みを忘れられず、元妻の親族だった被害者Aを脅迫して元妻の居所を聞き出した上、犯行を隠蔽するためにA・Bを殺害して現金を奪うことを画策した<ref group="新聞" name="朝日新聞1986-08-05"/>。 |
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* 凶器として刺身包丁を持参した上で施錠されていなかった窓から被害者A宅に侵入し、就寝中だったA・B両被害者をそれぞれ数十回刺して殺害、現金約70万円・腕時計・指輪などを奪った<ref group="新聞" name="朝日新聞1986-08-05"/>。 |
* 凶器として刺身包丁を持参した上で施錠されていなかった窓から被害者A宅に侵入し、就寝中だったA・B両被害者をそれぞれ数十回刺して殺害、現金約70万円・腕時計・指輪などを奪った<ref group="新聞" name="朝日新聞1986-08-05"/>。 |
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=== 控訴審・福岡高裁 === |
=== 控訴審・福岡高裁 === |
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[[1987年]](昭和62年)[[6月22日]] |
[[福岡高等裁判所]](浅野芳朗裁判長)は[[1987年]](昭和62年)[[6月22日]]に開かれた控訴審判決公判で第一審・死刑判決を支持して被告人M・弁護人側の[[控訴]]を[[棄却]]する判決を言い渡した<ref group="新聞" name="朝日新聞1987-06-22">『朝日新聞』1987年6月22日西部夕刊第一社会面7面「熊本の強盗殺人控訴審 『冷酷で残虐』 一審の死刑支持」</ref>。 |
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福岡高裁は量刑理由で「犯行は冷酷・計画的で残虐の限りを尽くした。死刑を適用した第一審判決は当を得たものだ」として、被告人Mの控訴を退けた<ref group="新聞" name="朝日新聞1986-08-05"/>。 |
福岡高裁は量刑理由で「犯行は冷酷・計画的で残虐の限りを尽くした。死刑を適用した第一審判決は当を得たものだ」として、被告人Mの控訴を退けた<ref group="新聞" name="朝日新聞1986-08-05"/>。 |
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=== 上告審・最高裁第一小法廷 === |
=== 上告審・最高裁第一小法廷 === |
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[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]第一[[小法廷]]([[大堀誠一]]裁判長)は[[1992年]](平成4年)[[9月24日]]に開かれた上告審判決公判で一・二審の死刑判決を支持して被告人M・弁護人側の[[上告]]を棄却する判決を言い渡した<ref group="新聞" name="読売新聞1992-09-25">『読売新聞』1992年9月25日東京朝刊第二社会面30面「仮釈放中の殺人 死刑判決確定へ 最高裁が上告棄却」</ref><ref group="新聞" name="朝日新聞1992-09-25">『朝日新聞』1992年9月25日朝刊第二社会面30面「上告棄却でM被告の死刑が確定 強盗殺人事件」</ref><ref group="新聞" name="毎日新聞1992-09-25">『毎日新聞』1992年9月25日東京朝刊第一社会面31面「仮釈放中に強盗殺人 上告棄却、死刑確定へ--最高裁」</ref>。 |
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この上告審判決により |
この上告審判決により被告人Mの死刑が確定した。 |
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== 死刑執行 == |
== 死刑執行 == |
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[[死刑存廃問題|死刑廃止運動]][[市民団体]]「死刑廃止・たんぽぽの会」(代表・山崎博之、[[福岡県]][[福岡市]])は[[1999年]]([[平成]]11年)9月1日に「1991年から1992年に死刑が確定した拘置中の死刑囚4人」について「近く死刑が執行される危険がある」として、当該死刑囚4人の人身保護請求を福岡地裁に申し立てた<ref group="新聞" name="毎日新聞1999-09-02">『毎日新聞』1999年9月2日西部朝刊社会面「死刑囚の人身保護、福岡地裁に申し立て--廃止団体代表」</ref>。 |
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その保護請求対象は本事件の死刑囚Mを含め |
その保護請求対象は本事件の死刑囚Mを含め[[東京都北区幼女殺害事件]]・[[大宮母子殺人事件]]の両死刑囚(いずれも[[東京拘置所]])・[[福島女性飲食店経営者殺人事件]]の死刑囚([[宮城刑務所]][[仙台拘置支所]])の計4人で<ref group="新聞" name="毎日新聞1999-09-02"/>、死刑廃止運動関係者の間ではこの4人について「近く死刑が執行される可能性がある」と噂されていたため<ref group="新聞" name="毎日新聞1999-09-10"/>、山崎らは各収監先の拘置所・拘置支所署長を相手に人身保護請求を申し立てた<ref group="新聞" name="毎日新聞1999-09-10"/>。 |
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申立書で |
申立書で山崎は「死刑囚4人は不当に面会・外部交通権を制限されるなど、違法な拘束で[[基本的人権]][[人権侵害|侵害]]を受けており、それらが改善されない限り死刑執行は停止すべきである」と求めた<ref group="新聞" name="毎日新聞1999-09-02"/>。 |
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しかし |
しかし福岡地裁は死刑執行3日前の1999年9月7日付で<ref group="新聞" name="読売新聞1999-09-10 西部"/>、山崎による人身保護請求を棄却する決定を出したため<ref group="新聞" name="毎日新聞1999-09-02"/>、山崎は1999年9月13日にも最高裁に[[特別抗告]]する予定だった<ref group="新聞" name="毎日新聞1999-09-11">『毎日新聞』1999年9月11日西部朝刊社会面「死刑執行に抗議--福岡の市民団体」</ref>。 |
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人身保護請求棄却決定直後の1999年[[9月10日]]、[[法務省]]([[法務大臣]]:[[陣内孝雄]])が発した死刑執行命令により |
人身保護請求棄却決定直後の1999年[[9月10日]]、[[法務省]]([[法務大臣]]:[[陣内孝雄]])が発した死刑執行命令により収監先・[[福岡拘置所]]で死刑囚M({{没年齢|1930|4|10|1999|9|10}})の[[日本における被死刑執行者の一覧|死刑が執行された]]<ref group="新聞" name="読売新聞1999-09-10">『[[読売新聞]]』1999年9月10日東京夕刊1面「東京、福岡、仙台で3人に死刑執行」</ref><ref group="新聞" name="朝日新聞1999-09-10">『[[朝日新聞]]』1999年9月10日夕刊1面「東京・福岡・仙台の死刑囚3人に死刑執行 法務省発表」</ref><ref group="新聞" name="毎日新聞1999-09-10">『[[毎日新聞]]』1999年9月10日東京夕刊1面「東京・仙台・福岡で、3人の死刑執行--女児殺害の××死刑囚ら」(※記事の見出しに[[東京都北区幼女殺害事件]]で死刑が確定した死刑囚の実名が使用されていたため、その箇所を伏字に置き換えた。)</ref>。同日には[[東京都北区幼女殺害事件]]([[東京拘置所]])・[[福島女性飲食店経営者殺人事件]]([[宮城刑務所]][[仙台拘置支所]])両事件の死刑囚の死刑も執行されたため、前述のように「死刑廃止・たんぽぽの会」が1999年9月1日に人身保護請求を申し立てていた死刑囚4人のうち[[大宮母子殺人事件]]の死刑囚<ref group="注釈">同日は死刑執行されなかったが、3か月後の1999年12月17日に[[臼井日出男]]法務大臣の死刑執行命令により[[東京拘置所]]で死刑を執行された。</ref>を除く3人の死刑囚に刑が執行された<ref group="新聞" name="読売新聞1999-09-10"/><ref group="新聞" name="朝日新聞1999-09-10"/><ref group="新聞" name="毎日新聞1999-09-10"/>。 |
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これら死刑囚3人はいずれも過去に殺人事件を起こして無期懲役刑で服役したにも拘らず仮釈放後に再び殺人事件を起こして1992年に死刑が確定した死刑囚だった<ref group="新聞" name="読売新聞1999-09-10"/><ref group="新聞" name="朝日新聞1999-09-10"/><ref group="新聞" name="毎日新聞1999-09-10"/>。死刑執行を受けて死刑囚Mら3人の人身保護請求を申し立てていた山崎は「死刑廃止・たんぽぽの会」代表として「死刑制度を存続しようとする国の意思を感じた。私自身の『[[裁判を受ける権利]]』も奪われる結果となって悔しい」と抗議のコメントを出した<ref group="新聞" name="毎日新聞1999-09-11"/>。また山崎代表の代理人弁護士・山崎吉男は「特別抗告申し立て準備中にも拘らず死刑を執行したのは死刑囚3人・山崎代表の『裁判を受ける権利』を侵害するもので法の手続きを無視した暴挙だ」とコメントした<ref group="新聞" name="読売新聞1999-09-10 西部">『読売新聞』1999年9月10日西部夕刊第一社会面11面「執行停止棄却の直後に3人死刑 弁護士が抗議コメント」</ref>。 |
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同日には[[東京都北区幼女殺害事件]]([[東京拘置所]])・[[福島女性飲食店経営者殺人事件]]([[宮城刑務所]][[仙台拘置支所]])両事件の死刑囚の死刑も執行されたため、計3人の死刑執行となった<ref group="新聞" name="読売新聞1999-09-10"/><ref group="新聞" name="朝日新聞1999-09-10"/><ref group="新聞" name="毎日新聞1999-09-10"/>。 |
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本事件を含め同日に死刑を執行された死刑囚3人は、いずれも過去に殺人事件を起こして無期懲役刑で服役したにも拘らず、仮釈放後に再び殺人事件を起こして1992年に死刑が確定した死刑囚だった<ref group="新聞" name="読売新聞1999-09-10"/><ref group="新聞" name="朝日新聞1999-09-10"/><ref group="新聞" name="毎日新聞1999-09-10"/>。そして、前述のように「死刑廃止・たんぽぽの会」が1999年9月1日に人身保護請求を申し立てていた死刑囚4人のうち、[[大宮母子殺人事件]]の死刑囚<ref group="注釈">同日は死刑執行されなかったが、3か月後の1999年12月17日、[[臼井日出男]]法務大臣の死刑執行命令により[[東京拘置所]]で死刑執行された。</ref>を除く3人だった<ref group="新聞" name="毎日新聞1999-09-02"/><ref group="新聞" name="毎日新聞1999-09-10"/>。 |
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死刑執行を受け、死刑囚Mら3人の人身保護請求を申し立てていた山崎は、「死刑廃止・たんぽぽの会」代表として「死刑制度を存続しようとする国の意思を感じた。私自身の『[[裁判を受ける権利]]』も奪われる結果となって悔しい」と抗議のコメントを出した<ref group="新聞" name="毎日新聞1999-09-11"/>。 |
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山崎代表の代理人弁護士・山崎吉男は「特別抗告申し立て準備中にも拘らず死刑を執行したのは、死刑囚3人や山崎代表の『裁判を受ける権利』を侵害するもので、法の手続きを無視した暴挙だ」とコメントした<ref group="新聞" name="読売新聞1999-09-10 西部">『読売新聞』1999年9月10日西部夕刊第一社会面11面「執行停止棄却の直後に3人死刑 弁護士が抗議コメント」</ref>。 |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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熊本母娘殺人事件 | |
---|---|
場所 | 日本・熊本県上益城郡甲佐町岩下(同町中心部商店街の裏通り)[新聞 1] |
座標 | |
日付 | 1985年(昭和60年)7月24日 |
死亡者 |
計2人 |
犯人 | 男M(本事件当時55歳、殺人で無期懲役に処された前科あり、事件当時は無期懲役刑の仮釈放中) |
対処 | 逮捕・起訴 |
謝罪 | なし |
刑事訴訟 | 死刑(執行済み) |
管轄 |
熊本母娘殺人事件(くまもとおやこさつじんじけん)とは、1985年(昭和60年)7月24日、熊本県上益城郡甲佐町岩下の民家で砕石会社役員の女性(事件当時63歳)とその養女だった専門学校生女性(事件当時22歳)が親類の男M(本事件当時55歳)に刺殺された強盗殺人事件である[新聞 1]。
加害者Mは事件前に殺人で無期懲役に処された前科があり、事件当時はその無期懲役刑の仮釈放中だった。
元死刑囚M
本事件の加害者である死刑囚M(本事件当時55歳)は、1930年(昭和5年)4月10日、熊本県飽託郡天明町海路口(現・熊本県熊本市南区海路口町)にて漁師の家に三男として生まれた[書籍 1]。
死刑囚Mは1999年(平成11年)9月10日に法務省(法務大臣:陣内孝雄)が発した死刑執行命令により収監先・福岡拘置所で死刑を執行された(69歳没)[新聞 3][新聞 4][新聞 5]。
い立ち
Mが出生した当時の天明町はかなり気性の荒い土地柄の漁師町で、地元で魚介類漁・海苔漁を行っていたMの父親はMが2歳だった時、漁師同士の些細な喧嘩の際に相手に千枚通しで刺され死亡した[書籍 1]。
父親の死後、Mの母親は別の男性と結婚し、Mと次男(Mの次兄)を残して家を出てしまったため、Mは実母の名前さえ覚えていなかった[書籍 1]。Mら遺された子供2人は父方の祖父母宅に引き取られたが、祖母はMが10歳だった当時に他界したため、父方の叔母(父親の妹)夫妻の下で育てられた[書籍 1]。
実母に見捨てられた幼い兄弟ではあったが、兄弟を引き取った叔母夫妻は比較的裕福な家庭で、子宝に恵まれなかったこともあって兄弟は義理の両親から愛情を注がれて育った[書籍 1]。その結果、兄は真っ当な人生を送るようになったが、M自身は同じ環境で育ったにもかかわらず、なぜか不良の道に染まっていった[書籍 1]。
Mは地元の銭塘尋常高等小学校高等科(現・熊本市立銭塘小学校)をわずか1年で中退すると、当時15歳だった終戦直前の1945年(昭和20年)5月10日には傷害事件を起こして逮捕され、同事件で高森簡易裁判所(熊本県阿蘇郡高森町)から罰金1000円を科された[書籍 1]。
その後もこの傷害事件を皮切りに、Mは前科7犯を重ね、同じく1945年12月7日には三重県内で傷害・横領事件を起こし、津地方裁判所にて懲役6月の実刑判決を受けた[書籍 1]。
Mは成年後、家を飛び出して定職にも就かず、日本全国の工事現場を転々とする生活を送るようになったが、福岡県・兵庫県・三重県・愛知県と、就労した行く先々の飯場で傷害沙汰を繰り返し、刑務所で服役しては出所後に再犯し、刑務所に逆戻りするような生活に転落していった[書籍 1]。
最初の殺人事件発生まで
Mの結婚・妻Xへの暴力
刑務所に入ったり出たりの生活を繰り返していたMだったが、27歳だった1958年(昭和33年)ごろには郷里・熊本に落ち着くようになっており、このころには同い年の女性X(後の妻)との見合い話が持ち上がった[書籍 2]。
Xは日本統治時代の満州国で長女として生まれた、終戦後に両親とともに日本に引き揚げたが、兄弟姉妹8人(男女各4人ずつ)という大家族だった上に引き揚げ者であったために生活が苦しくなり、熊本市内でミシンの販売業を営んでいた母方の伯父(母の実兄)夫婦の下に預けられ、養父の家業を手伝いながら育った[書籍 2]。この養父、即ちXの母方の伯父こそが、27年後に義理の息子Mによって殺された被害者Aの義兄(Aの夫の実兄)であった[書籍 2]。
見合いのきっかけはXの養母である伯母(父方の伯父の妻)曰く、「家に出入りしていたミシンの営業マンから紹介された」ことであり、当時のMの印象についてXの義母は「夫から『酒はどれくらい飲む?』と尋ねられると、Mはきちんと正座して『まったくの下戸ですから一滴もダメです』としおらしく答えていた。当初の印象から『いい人だ』と思い、娘も2つ返事で結婚を決めたが、今思えば完全に騙されたものだ」と振り返った[書籍 3]。
1959年(昭和34年)1月、Mは周囲からの祝福の下にXと結婚し、M自身の叔父・叔母夫婦(養父母)に新居を新築してもらい、海苔の行商をして生計を立てていた[書籍 3]。同年とその翌年の1960年(昭和35年)、立て続けに息子2人が生まれたが、安定した結婚生活は長続きしなかった[書籍 3]。
Mは長男が生まれてからはほとんど仕事をせずに遊び惚けるようになり、家庭には一銭も入れない有様どころか、遊興費を手に入れるために妻Xの着物を片っ端から質屋に質入れしてしまったため、Xは着る者さえろくにない状況に陥らされた[書籍 4]。
その上、Mは見合いの席で語った言葉とは裏腹にかなりの酒飲みで、特に焼酎を好んでいた[書籍 4]。昼間から毎日のように焼酎を一生近く飲み干しては妻Xに対し、髪の毛を掴んで引きずり回す・殴る・蹴るなどのドメスティック・バイオレンス(DV)を加えたため、Xは義母曰く「何度も死にかけた」という[書籍 4]。
とりわけ長男が誕生した3日後、Mが午前中に出掛けたため、産褥期の妻Xは自宅の布団で横になっていたが、昼過ぎに泥酔して帰宅した夫MがNの寝ていた布団にバケツの水を撒いた挙句、「いつまで寝ている」と怒鳴りつけて横腹を蹴り上げる暴行を加えた[書籍 4]。そればかりかXは、Mからタバコの火を押し付けられて身体がやけどだらけになっており、時にはMに鉈で襲い掛かられ、それを防いだXの腕にできた防御創が骨にまで達したり、Mに包丁を突き付けられたことまであった[書籍 4]。
Xは次男を生むまで、近所に住んでいたMの養父母に当たる伯父・叔母夫婦に相談しつつ暴力に耐えていたが、Mの暴力は収まるところを知らず、遂には真冬の夜中に2歳になったばかりの長男とともに家の浦を流れていた小川に放り込まれ、這い上がろうとすれば頭を足で踏みつけられた[書籍 5]。これに業を煮やしたXの養父は「このままではXは殺される」と危惧して2人を離婚させようとしたが、皮肉にもこの別れ話がMを逆上させ、最初の殺人事件の引き金を引いてしまった[書籍 5]。
結婚から3年目の1962年(昭和37年)夏、夫Mの暴力に耐えかねたXは離婚する決心を固め、子供たちを義兄(Mの実兄)夫妻に預け、自らは実父の出稼ぎ先だった山口県宇部市に身を寄せた[書籍 5]。しかしXを逆恨みしたMはすぐに居場所を突き止めてXの後を追ってきたため、やむを得ずXは熊本に帰って仲人の義父母夫婦に相談し、本格的に別れ話を切り出した[書籍 5]。
尊属殺人で無期懲役刑
1962年9月15日夕方、熊本市内のXの養父母(Mの義父母)宅で、M・X夫婦、Xの実母Y、仲人を務めたXの養父母の計5人を交え、離婚の話し合いが行われた[書籍 5]。
Mはその話し合いの場で「働きもせずに妻Xに暴力を振るっている」と非難されると「なら、金を取ってきてやる」と言い残し、いったん義父母宅を飛び出した[書籍 5]。実はMはこの後、Y・X母子を殺害するための凶器として近所の金物屋で切り出しナイフを購入していた[書籍 6]。
それからしばらくしてもMが戻ってこなかったため[書籍 5]、午後8時ごろになってY・X母子は義父母宅を出て、当時Yが住んでいた甲佐町の実家に戻ろうとバス停留所に向かった[書籍 7]。
すると、そのバス停の待合室に何故かM本人が待ち伏せていたが、Mは意外なことに、Yに対し「Xとしばらく話をさせてください」と穏やかな口調で求めてきたため、安心したYはM・Xの2人で話し合うことを了解した[書籍 7]。
2人がYから少し離れた位置で話し始めたが、Mが「子供がかわいくないのか。帰ってきてくれ」というと、Xは「子供は私が引き取りますからもう別れてください」と返した[書籍 7]。
その直後、Xの答えに逆上したMは懐に隠し持っていた切り出しナイフを取り出し、Xの脇腹・胸を計2回突き刺し[書籍 7]、肺・横隔膜を切り裂く重傷を負わせた[書籍 6]。Xが悲鳴を上げてうずくまった姿を見たYが、数メートル離れた先から慌ててXを助けようと近づくと、Mは逆にYに襲い掛かり[書籍 7]、切り出しナイフでYの胸・腹を何度も突き刺し[書籍 6]、肝臓・胃を貫通する致命傷を与えた[書籍 6]。
2人とも意識不明状態で病院に搬送され、Xは幸いにも治療によって一命を取り留めたものの、Yは刺されてから1時間後に出血多量のため死亡した[書籍 6]。
この殺人事件により熊本県警察により被疑者として逮捕され、熊本地方検察庁により被告人として起訴されたMは義母Yに対する尊属殺人罪・妻Xに対する殺人未遂罪に問われ、事件3か月後の1962年11月22日、熊本地方裁判所で無期懲役判決を受けた[書籍 6]。
この判決を受け、当時Mが収監されていた拘置所担当の弁護士(被告人Mの弁護人)は「後悔しないように控訴した方がいい」と提案したため、被告人Mはこの無期懲役判決を不服として福岡高等裁判所に控訴した[書籍 8]。
その後、被告人M・弁護人は控訴趣意書を福岡高裁に送り、同高裁から被告人M宛に出頭通知が来たが、拘置所でMと同房だったある男性がMに「無期懲役でも10年くらい経てば仮釈放で出所できるから、早く控訴を取り下げた方がいい」と提言したため、被告人Mは控訴を取り下げて第一審・無期懲役判決を確定させ[書籍 8]、熊本刑務所に服役した[書籍 9]。
「無期懲役でもいつかは仮出所できる」と考えていた服役中の受刑者Mは、凶悪な犯行を犯したことに対する反省の念を抱くことはなく、それどころか自由のない過酷な刑務所内の服役生活から「なぜ俺がこのような苦しい目に遭わなければいけないのだ。Xの母Yを殺したのも、Xの伯父夫妻が一方的に俺を悪者に仕立て上げてXに別れ話を仕向けたからだ」と被害妄想的な逆恨みの念を抱くようになり、出所後にXの親族に復讐することだけを考えながら服役生活を送っており[書籍 8]、後の逆恨み殺人へと発展していった[書籍 8]。事件当時、元妻Xと住んでいた家は事件直後に叔母夫婦が処分していたが、叔父は服役中のMと面会した際、Mが矯正していないどころか以前にもまして凶暴になっていることは知らず、「立派に勤めを終えて出てきたら住む家ぐらいは用意してやる」と口約束していた[書籍 8]。
取り消し含め2度の仮釈放
第1の事件から14年後となる1976年(昭和51年)12月8日、受刑者Mは仮釈放を認められ、熊本刑務所から仮出所した[書籍 10]。無期懲役囚が仮出所する場合には必ず身元引受人が必要だが、その役割を引き受けたのはMの育ての親だった叔母夫婦で、Mは仮出所後、この叔母夫婦の下に身を寄せた[書籍 10]。しかし、叔母夫婦が出所後のMの生活態度を見守ってはいたものの、Mは相変わらず仕事をせず、朝から焼酎を飲みふけるような自堕落な生活を続けていたため、「いい加減に仕事をしろ」と叔母がMを叱りつけた[書籍 10]。これに対して逆上したMは、叔母に「家もないのに仕事なんてする気が起きるか。約束が違うだろう」と開き直り、叔母夫婦に周囲にあった醤油の瓶・灰皿を投げつけるなど家庭内暴力を振るうようになり、騒ぎを聞きつけて駆け付けた実兄に生卵を投げつけたりもした[書籍 11]。
仮出所から約1年半の1978年(昭和53年)6月20日、Mは叔母夫婦と口論になったことがきっかけで刺身包丁を振り回し、育ての親にして身元引受人の夫婦を殺そうとした[書籍 11]。叔母夫婦から急遽連絡を受けたMの実兄が熊本県警に110番通報し、難を逃れた叔母夫婦は熊本県警に被害届を出した[書籍 11]。これによりMは駆け付けた警察官により逮捕され、仮釈放を取り消されて熊本刑務所で再び服役生活を送ることとなったが、あろうことか叔母夫婦・実兄に対する逆恨みまで抱くようになった[書籍 11]。
1985年の事件で逮捕された際[書籍 12]、取り調べに対してMは「叔母夫婦は家を買ってくれるという約束も守らず、自分がちょっと暴れたくらいで警察に届け出たし、実兄は事情も知らずに自分を警察に通報した。あいつらを心の底から恨むうち、一時は薄らいでいた元妻Xやその親族に対する恨みが再燃し、『これからは自分の人生を、自分をここまで追い込んだ奴らへの復讐のために使おう』と決心した」と語った[書籍 11]。
しかし1984年(昭和59年)2月1日、この殺人未遂事件から6年も経過していないにも拘らず、54歳の誕生日を控えていた受刑者Mは再び仮釈放を認められ、2度目の仮出所を果たした[書籍 12]。この時はさすがに叔母夫婦・実兄にまで見放されてはいたが、福岡県北九州市の保護観察施設「湧水寮」がMの身元を引き受けたためであり、Mはそこで生活を送るようになった[書籍 12]。
仮釈放・お礼参り殺人計画
この施設「湧水寮」では原則として「仮出所中の生活は施設側が管理する」という規定の下、Mは施設から紹介された北九州市内の工事現場などで働き、収入・生活費などを施設に預けて生活していたが、Mはこの寮にいる間[書籍 12]、上から「殺したい順番」として元妻Xらに対する殺害計画を立て、大学ノートに殺害標的の住所・氏名を書き込んだ上、1984年暮れには[書籍 13]殺害の手順・逃走ルート・逃走資金の調達方法など、綿密な計画を記していた[書籍 14]。あろうことかその復讐心は直接無関係な人間にまで及び、標的の数は30人以上となった[書籍 14]。殺害の手順として考えていたのは「元妻X・被害者A・Xの叔母・Xの養母・自身の叔父夫婦」という順番か、もしくはその逆という2通りだった[書籍 13]。
- 元妻X - Mが「最も殺したかった」として最大のターゲットにしており、「1962年の事件でXの母親Yしか殺せなかったから『あの時にXも殺しておけばよかった』と悔やんだ」という[書籍 14]。Mはこのころ、Xへの未練を抱いていた一方、「Xが年下の長距離トラック運転手男性と再婚した」という話を聞いていたため、「俺を捨てて若い男をたぶらかした」とする嫉妬などの感情を抱き、Xをより一層憎悪するようになっていた[書籍 14]。その上で、Xの夫が長距離トラック運転手である旨を聞いていたことから「仕事に出てから帰宅まで1,2日かかる夫が仕事に出た直後にXを殺せば事件発覚に時間がかかる」と考えていた[書籍 13]。
- Xの養母(伯母) - 仲人だったXの養父母・養父の実弟を「仲人なのに自分だけを悪者にしてXと離婚させた」として逆恨みしていたが、養父・養父の実弟(Aの夫)はこの時点で既に他界していたため、未亡人たちが標的となった[書籍 14]。
- 被害者A - 同上。Mは取り調べの際、「Aには個人的な恨みはないが、自分に冷たく当たっていた上にXのことで親身になってくれなかったし、Aの夫がXを再婚させた。Aの夫への恨みがやがてA自身への恨みに変わった」と供述した[書籍 14]。
- Xの叔母 - 1962年の尊属殺人事件の際、熊本地裁で行われた刑事裁判にて検察側証人として証言台に立ち、「Mを死刑にしてほしい」と陳述したことから[書籍 14]。
- 自身の叔父・叔母夫婦 - 「自分の仮出所を取り消させた」として、実兄とともに恨みを抱いていた[書籍 14]。取り調べの際、「叔母にはいろいろと世話になったが、叔父を殺す以上は叔母にも死んでもらおうと考えた」[書籍 14]。
- その他、MがXに暴力をふるった際にXを助けようとしてMを傘で突いた男性までも殺害標的に加えていたほか、取り調べの際は「不可能なので標的に入れなかったが、『無期懲役判決を言い渡した熊本地裁の裁判官も殺してやりたい』と思っていた」と述べた[書籍 14]。
保護観察施設「湧水寮」の保護司には秘密で現金15万円を貯金していたMは、事件発生年となった1985年5月31日、かねてから計画していた犯行を実行に移すべく、寮を密かに抜け出して熊本駅行きの急行列車に乗車、同日夜に熊本駅に到着した[書籍 13]。
Mは熊本駅前の居酒屋に立ち寄ったところ、偶然「湧水寮」にいたときの同僚と再会し、その同僚に連れられた熊本市内の中心街のスナックバーで深夜まで飲酒した後、同僚とともに実兄の家を訪れた[書籍 15]。Mは実兄に対し、殊勝な態度で「今度こそ真面目に働く。こいつ(同伴していた同僚)も仕事探しに困っているから面倒を見てやってくれ」と頭を下げ、2人で実兄宅に居つくようになった[書籍 15]。
数日後、Mは実兄の自宅から保護観察施設「湧水寮」に「兄貴の家で暮らせるようになったからもう寮には帰らない」と電話し、不本意ながらも実兄がMの身元引受人になった[書籍 15]。Mはそのまま、保護観察施設で管理していた自分の預金通帳(当時の残高約60万円)を受け取りに行き、その中から生活費として兄嫁に4万円の現金を渡した[書籍 15]。
逆恨みお礼参り殺人の計画に着手し始めたMだったが、まず代々の標的だった元妻Xに狙いを定めたものの、その居場所がわからなかったため、まず熊本県内在住のXの親戚からXの住所を聞き出すことにした[書籍 15]。しかしMはXの母親を刺殺した張本人である故、堂々とXの家族・親戚を尋ねられる立場ではなかったため、当初は自身の名を明かさずに顔の知られていない子供たちからXの居場所を聞き出そうとするなど、正体が露見しないように工夫した[書籍 15]。しかし、Mのお礼参りを恐れたXは親戚にも住まいを知らせていなかったため、Mは思うような成果を得られなかった[書籍 15]。
Mは「Xの居場所を知っているのは、(いずれも殺害標的に加えていた)再婚の世話をした叔父の妻である被害者Aか、Xの親代わりだった伯母ぐらいだろう」と考え、一時はXの伯母方を訪れて言葉巧みに住所を聞き出そうとしたが、Xの伯母はお礼参りの恐怖に晒されながらもMが帰るまでやり過ごした[書籍 15]。それ以前からXの伯母は「Mが再び仮釈放された」という事実を把握していたことに加え、Mの訪問直前には近隣住民から「目つきの悪い廃品回収の男がお宅のことをしつこく聞きに来ている」と聞かされており、お礼参りに来ることを覚悟していたという[書籍 15]。
事件発生
Xの伯母からXの連絡先を聞き出すことには失敗したものの、Mはここで報復計画を諦めることはなく[書籍 15]、仕事をせずに熊本市に帰省した当日に訪れた同市内のスナックに入り浸り、実兄の家にも帰らずにスナックのママの住居に泊まるような生活を続けていた[書籍 16]。しかし1985年7月中旬になってもXの居場所は一向に判明しないどころか、阿蘇温泉郷にスナックのママ・ホステスを連れ込んだり、店の常連客に飲食代をおごるような生活を続けるうちに預金残高・貯金の合計が20万円程度まで減っていたため、Mは「Xの居場所がわからないなら、せめて恨みのあるやつらを次々に殺して家々の金を奪い、Xを殺すための逃走資金を確保する」という計画に変更し、「Xを殺害した後の逃走費用」として10万円を確保した上で殺害計画を実行することを決意した[書籍 16]。被害者Aが砕石会社を経営していたことから、MはA宅を襲撃した後で現金を奪うこともあらかじめ計算していた[書籍 17]。
事件発生2日前の1985年7月22日昼ごろ、Mは「夜間の犯行・及び逃走のための小道具」として懐中電灯・携帯ラジオを持参して実兄の家を出ると、行きつけのスナックに立ち寄って飲酒してからタクシーで金物屋に向かい、店員に「ウナギを捌くのに必要になった」と申し出て刃渡り20cmの刺身包丁・千枚通しを購入、同日午後7時ごろにXの伯母宅に出向いた[書籍 17]。しかし侵入を試みたところ、偶然近所から預かっていた犬が吠え出したため、MはXの伯母宅の襲撃を断念して標的を被害者Aに変更、タクシーで甲佐町内に向かった[書籍 17]。
午後9時すぎに甲佐町に着いたMは割烹料理店で飲食して1時間ほど過ごしてからA宅に向かったが、この時に郵便受けの名前を見たことで初めて被害者Bの存在を知った[書籍 17]。Mは窓越しにAに「Xの居場所を教えてくれ」と声を掛けたが、Aは「もう遅い」とだけ返事して窓を施錠した[書籍 17]。これに逆上したMは庭に転がっていた石で窓ガラスを叩き割り、A宅に押し入ろうとしたが、近隣住宅の証明が点灯していたことから犯行の露見を恐れて断念した[書籍 17]。その上で家の周りを一通り見て鍵が開いている箇所を探したが発見できなかったため、裏庭の物置に隠れて一夜を過ごし、朝になっていったん熊本市内のスナックに戻った[書籍 17]。
1985年7月23日、Mはスナックで仮眠してから夜になって「集金に行ってくる」と言い残し、まずは再びXの伯母宅を尋ねたが留守だったため、甲佐町内の被害者A・B宅に出向いた[書籍 17]。A宅を訪れたMは午後10時30分ごろ、窓越しに部屋を覗き込んでA・B両名が起床していることを確認し、寝静まったころを待って犯行を決行するために裏庭の物置に隠れたが、直前に焼酎を飲酒していたためにアルコールが回ったことで居眠りし、目覚めた際には7月24日午前2時ごろになっていた[書籍 17]。Mは眠気覚ましに喫煙し、窓ガラスを割った際に音がしないように布で包んだ石を持って建物に忍び寄った[書籍 18]。
仲人だったXの伯母を狙う
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1985年7月24日午前2時ごろ、犯人M(当時55歳)は熊本県上益城郡在住のMの遠縁にあたる会社役員の女性(当時63歳)が自宅で寝ているところを襲って殺害。さらに女性の養女(当時22歳)も殺害した。2女性とも包丁で首や頭など合計76箇所も刺されていた。Mはさらに現金数十万円や指輪などを奪って逃走。
事件から5日後の7月28日、Mは強盗殺人、住居侵入、銃刀法違反などの罪で逮捕された。逮捕されるまでの間、奪った金を使って豪遊していたという。
捜査
事件発覚
1985年7月24日午前8時20分ごろ、男女2人の砕石会社従業員が会社に出勤したところ、通常は午前7時30分に白い原動機付自転車(原付)で出社していた同社役員の被害者Aの姿がなかった[書籍 23]。
そのため2人が被害者A宅を訪れたところ、Aが通勤で用いていた原付が玄関横の車庫に駐車してあった[書籍 23]。
2人のうち男性従業員は[書籍 23]、玄関ドアを叩いたり[新聞 1]、チャイムを鳴らしたりしてみたが応答がなかったため裏庭に回ってみたところ、室内の照明が不自然に点灯していることに気づいた [書籍 23]。男性従業員が家の周囲を回って周辺を確認したところ、アルミサッシの出窓だけが開いていたため、そこから声を掛けてみたが返事がなかった[書籍 23]。
そのため、男性従業員がエアコンの室外機を踏み台にして施錠されていなかった窓から被害者Bの部屋に入室したところ、床に点々と連なる赤い血痕が残されていたため、その血痕を追って廊下を通り、その先の8畳間の障子戸の入り口に立った[書籍 23]。
男性従業員が障子戸を開けたところ[書籍 23]、「男性従業員が直視できず、男女の区別さえつかないほどの状態」だったA・B両被害者の遺体が、全身血塗れでそれぞれ両足の裏を入り口に向けて倒れていた[書籍 23]。遺体発見時、2人の遺体の上半身にはなぜか、スカート・ブラウスが乱暴にかけられてはいたが、2人とも全裸だった[書籍 23]。
遺体は胸など数か所を刺されており、第一発見者となった男性従業員は熊本県警察御船警察署に110番通報した[新聞 1]。司法解剖の結果、2人の遺体はともに刃渡り20cmの刺身包丁で、胸部・腹部など身体部分を中心に全身を滅多刺しにされており、被害者Aの遺体は頭頂部にまで刺し傷があった[書籍 23]。その刺し傷の数は被害者Aが41か所、被害者Bが35か所、2人合わせて全身76か所に及んでいた[書籍 23]。
熊本県警御船署が現場を確認したところ、現場から凶器は発見されなかった一方、室内・廊下には血痕が飛散していた[新聞 1]。また、事件現場となったA宅の玄関・勝手口は施錠されていたが、被害者Bの部屋の窓だけが施錠されていなかったため、御船署は「犯人は施錠されていなかった被害者Bの部屋の窓から侵入・逃走した」と推測した[新聞 1]。
被害者Aは前日夕方まで会社に勤務していたことから、御船署は犯行時間を「7月23日午後8時 - 7月24日午前8時ごろ」の間と推測した[新聞 1]。
A宅は庭を隔てて隣家と接していたが、「事件発覚前日の23日から翌朝にかけて不審者の出入り・争うような物音を見聞きした」という証言は得られなかった[新聞 1]。しかし、近隣住民は聞き込みに対し「被害者Aの親類の男(後にMと判明する男)が事件2,3日前からA宅付近をうろついていたのを見た」と証言したほか、被害者A自身も「(Mが)心配で恐ろしい」と漏らしていた[新聞 1]。
このことから同事件を殺人事件と断定して捜査を開始した熊本県警御船署は、母娘の交友関係を中心に捜査を進め、事件現場周辺で聞き込みを続けるとともに、目撃証言のあった男が事件と関連のある人物かどうか調べるとともに、その行方を追った[新聞 1]。
被疑者Mを逮捕
熊本県警御船署捜査本部が事件現場周辺を鑑識した結果、数個の指紋が発見され、義母殺しで37年間服役して1年前に出所したばかりだった親類の男Mのものと一致した[新聞 6]。
これに加えて捜査本部は、「Mが事件直前に被害者A宅をたびたび訪問し、別れた元妻の所在をしつこく聞くなどしていた。被害者Aは近隣住民に対し『出所したMが訪ねてきて怖い』と漏らしていた」ことを突き止めた[新聞 6]。
このことから捜査本部は、24日夜までに住所不定の男Mを被疑者と断定し、殺人容疑で逮捕状を発行して行方を追った[新聞 6]。
熊本県警捜査本部はその後、「被疑者Mは被害者2人をそれぞれ刃物で40か所以上刺して殺し、被害者Aが自宅で保管していた会社の金約14万円を奪って逃走した」と断定し、殺人容疑を強盗殺人容疑に切り替えた上で被疑者Mを全国に指名手配し、熊本県内の旅館・飲食店などに手配書1万枚を配布して協力を呼び掛けた[新聞 2]。
被疑者Mは犯行後、熊本県玉名市内に逃走し、1985年7月25日昼には飲食店で知り合った同市内の無職女性(後述のタクシー運転手とは知人関係)と飲み歩いた[新聞 2]。この女性は男をMとは気づかず、逮捕時まで行動を共にしており、1985年7月27日夜には玉名市内のホテルでMとともに宿泊した[新聞 2]。
玉名市内を営業拠点とするタクシー会社「産交ポニータクシー」(本社:同県天草市)に所属していたタクシー運転手男性は、1985年7月28日午前10時30分ごろ、会社からの手配で玉名市内のホテルに客を迎えに行き、顔見知りの玉名市内の女性に加え、「50歳代前後の男」(被疑者M)を乗せて同県荒尾市内の荒尾競馬場に向かった[新聞 2]。
運転手はこの時点では、車内で終始うつむき加減で、自分に対し「仕事は忙しいか?」と聞いてきただけの男が強盗殺人容疑で指名手配中のMであることに気付かなかった[新聞 2]。
目的地の荒尾競馬場に到着すると、Mはタクシー料金3290円に対し1万円札を出したが、運転手が釣り銭を持っていなかったため、Mは連れの女性とともに「何か食べよう」と運転手を誘い、近くの寿司屋で寿司を食べた[新聞 2]。
寿司屋で食事を摂っていた途中、運転手は何気なく男の顔を見たことで、男が甲佐町の強盗殺人事件で指名手配中のMに似ていることに気付いた[新聞 2]。食事を終えた運転手は、男と連れの女性からタクシー代を受け取って会社に帰り、午後0時40分ごろ帰社直後に「手配書に載っていた男とよく似た男を、客として玉名市内のホテルからの荒尾競馬場まで乗せた」と熊本県警玉名警察署に110番通報した[新聞 2]。
110番通報を受けて熊本県警捜査本部、玉名署・荒尾警察署などから召集された捜査員70人が競馬場付近を警戒していたところ、警戒に当たっていた熊本県警荒尾署員が午後1時10分ごろに入口付近で女性を連れたMに似た男を発見して職務質問した[新聞 2]。これに対し男は観念した様子で「事件現場までタクシーで乗り付け、被害者2人を刺身包丁で刺殺した」と供述し、自らがMであること・犯行に関与したことを認めたため、そのまま荒尾署員に指名手配容疑の強盗殺人容疑で逮捕された[新聞 2]。Mは逮捕時、現金10万円・着替えの服が入ったバッグを持っていた[新聞 2]。
捜査本部は逮捕後も凶器の発見・Mの犯行動機追及に全力を挙げた[新聞 2]。その後、被疑者Mの送検を受けた熊本地方検察庁がMを強盗殺人容疑で熊本地方裁判所に起訴した。
刑事裁判
第一審・熊本地裁
熊本地方裁判所(荒木勝己裁判長)は1986年(昭和61年)8月5日に開かれた第一審判決公判で検察側の求刑通り被告人Mに死刑判決を言い渡した[新聞 7]。
- 1984年2月に無期懲役刑の仮釈放を受けて刑務所を仮出所したが、その後もわかれた元妻への恨みを忘れられず、元妻の親族だった被害者Aを脅迫して元妻の居所を聞き出した上、犯行を隠蔽するためにA・Bを殺害して現金を奪うことを画策した[新聞 7]。
- 凶器として刺身包丁を持参した上で施錠されていなかった窓から被害者A宅に侵入し、就寝中だったA・B両被害者をそれぞれ数十回刺して殺害、現金約70万円・腕時計・指輪などを奪った[新聞 7]。
その上で量刑理由に入り、「被害者2人の貴重な命を奪い、多額の現金を奪った稀に見る凶悪事件である。公判においても被害者に犯行の責任を転嫁するなど、反省の情が垣間見えず、被告人の粗暴・自己中心的・反社会的生活は今後、懲役刑樹形によって改善することは不可能瀬、情状を酌量する余地もない」と断罪した[新聞 7]。
控訴審・福岡高裁
福岡高等裁判所(浅野芳朗裁判長)は1987年(昭和62年)6月22日に開かれた控訴審判決公判で第一審・死刑判決を支持して被告人M・弁護人側の控訴を棄却する判決を言い渡した[新聞 8]。
福岡高裁は量刑理由で「犯行は冷酷・計画的で残虐の限りを尽くした。死刑を適用した第一審判決は当を得たものだ」として、被告人Mの控訴を退けた[新聞 7]。
上告審・最高裁第一小法廷
最高裁判所第一小法廷(大堀誠一裁判長)は1992年(平成4年)9月24日に開かれた上告審判決公判で一・二審の死刑判決を支持して被告人M・弁護人側の上告を棄却する判決を言い渡した[新聞 9][新聞 10][新聞 11]。
この上告審判決により被告人Mの死刑が確定した。
死刑執行
死刑廃止運動市民団体「死刑廃止・たんぽぽの会」(代表・山崎博之、福岡県福岡市)は1999年(平成11年)9月1日に「1991年から1992年に死刑が確定した拘置中の死刑囚4人」について「近く死刑が執行される危険がある」として、当該死刑囚4人の人身保護請求を福岡地裁に申し立てた[新聞 12]。
その保護請求対象は本事件の死刑囚Mを含め東京都北区幼女殺害事件・大宮母子殺人事件の両死刑囚(いずれも東京拘置所)・福島女性飲食店経営者殺人事件の死刑囚(宮城刑務所仙台拘置支所)の計4人で[新聞 12]、死刑廃止運動関係者の間ではこの4人について「近く死刑が執行される可能性がある」と噂されていたため[新聞 5]、山崎らは各収監先の拘置所・拘置支所署長を相手に人身保護請求を申し立てた[新聞 5]。
申立書で山崎は「死刑囚4人は不当に面会・外部交通権を制限されるなど、違法な拘束で基本的人権侵害を受けており、それらが改善されない限り死刑執行は停止すべきである」と求めた[新聞 12]。
しかし福岡地裁は死刑執行3日前の1999年9月7日付で[新聞 13]、山崎による人身保護請求を棄却する決定を出したため[新聞 12]、山崎は1999年9月13日にも最高裁に特別抗告する予定だった[新聞 14]。
人身保護請求棄却決定直後の1999年9月10日、法務省(法務大臣:陣内孝雄)が発した死刑執行命令により収監先・福岡拘置所で死刑囚M(69歳没)の死刑が執行された[新聞 3][新聞 4][新聞 5]。同日には東京都北区幼女殺害事件(東京拘置所)・福島女性飲食店経営者殺人事件(宮城刑務所仙台拘置支所)両事件の死刑囚の死刑も執行されたため、前述のように「死刑廃止・たんぽぽの会」が1999年9月1日に人身保護請求を申し立てていた死刑囚4人のうち大宮母子殺人事件の死刑囚[注釈 1]を除く3人の死刑囚に刑が執行された[新聞 3][新聞 4][新聞 5]。
これら死刑囚3人はいずれも過去に殺人事件を起こして無期懲役刑で服役したにも拘らず仮釈放後に再び殺人事件を起こして1992年に死刑が確定した死刑囚だった[新聞 3][新聞 4][新聞 5]。死刑執行を受けて死刑囚Mら3人の人身保護請求を申し立てていた山崎は「死刑廃止・たんぽぽの会」代表として「死刑制度を存続しようとする国の意思を感じた。私自身の『裁判を受ける権利』も奪われる結果となって悔しい」と抗議のコメントを出した[新聞 14]。また山崎代表の代理人弁護士・山崎吉男は「特別抗告申し立て準備中にも拘らず死刑を執行したのは死刑囚3人・山崎代表の『裁判を受ける権利』を侵害するもので法の手続きを無視した暴挙だ」とコメントした[新聞 13]。
「たんぽぽの会」など死刑廃止を訴える市民団体のメンバーら15人は翌1999年9月11日、福岡市早良区百道の福岡拘置所前で抗議活動を行い「死刑は暴挙だ。直ちにこれ以上の死刑執行を停止して死刑制度廃止に向けて努力すべきだ」と声を上げ、同拘置所長・吉田賢治(当時)宛の抗議文を渡した[新聞 15]。
参考文献
関連書籍
- 『新潮45』編集部『殺人者はそこにいる 逃げ切れない狂気、非情の13事件』新潮社、2002年3月1日、88-142頁。ISBN 978-4101239132。
- 浅宮拓が『新潮45』2000年5月号に寄稿した、本事件についての記事「『無期懲役』で出所した男の憎悪の矛先」を再録している。
脚注
注釈
出典
刑事裁判の判決文
新聞記事出典(※以下の出典において記事名に死刑囚の実名が使われている場合、その箇所を本項目で用いているイニシャル「M」に置き換えている。)
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『朝日新聞』1985年7月24日西部夕刊第一社会面7面「熊本・甲佐町 母娘、刺殺される 夜中、窓から侵入の跡 二人暮らし、結婚間近」
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 『朝日新聞』1985年7月29日西部朝刊第一社会面21面「母娘殺害犯を逮捕 競馬場にノコノコ 熊本県荒尾 タクシー運転手通報」
- ^ a b c d 『読売新聞』1999年9月10日東京夕刊1面「東京、福岡、仙台で3人に死刑執行」
- ^ a b c d 『朝日新聞』1999年9月10日夕刊1面「東京・福岡・仙台の死刑囚3人に死刑執行 法務省発表」
- ^ a b c d e f 『毎日新聞』1999年9月10日東京夕刊1面「東京・仙台・福岡で、3人の死刑執行--女児殺害の××死刑囚ら」(※記事の見出しに東京都北区幼女殺害事件で死刑が確定した死刑囚の実名が使用されていたため、その箇所を伏字に置き換えた。)
- ^ a b c 『朝日新聞』1985年7月25日西部朝刊第一社会面23面「熊本の母娘殺害 親類の男に逮捕状」
- ^ a b c d e 『朝日新聞』1986年8月5日西部夕刊第二社会面6面「母子強殺男に死刑 熊本地裁 『情状くむ余地なし』」
- ^ 『朝日新聞』1987年6月22日西部夕刊第一社会面7面「熊本の強盗殺人控訴審 『冷酷で残虐』 一審の死刑支持」
- ^ 『読売新聞』1992年9月25日東京朝刊第二社会面30面「仮釈放中の殺人 死刑判決確定へ 最高裁が上告棄却」
- ^ 『朝日新聞』1992年9月25日朝刊第二社会面30面「上告棄却でM被告の死刑が確定 強盗殺人事件」
- ^ 『毎日新聞』1992年9月25日東京朝刊第一社会面31面「仮釈放中に強盗殺人 上告棄却、死刑確定へ--最高裁」
- ^ a b c d 『毎日新聞』1999年9月2日西部朝刊社会面「死刑囚の人身保護、福岡地裁に申し立て--廃止団体代表」
- ^ a b 『読売新聞』1999年9月10日西部夕刊第一社会面11面「執行停止棄却の直後に3人死刑 弁護士が抗議コメント」
- ^ a b 『毎日新聞』1999年9月11日西部朝刊社会面「死刑執行に抗議--福岡の市民団体」
- ^ 『読売新聞』1999年9月10日西部夕刊第二社会面10面「執行停止棄却の直後に3人死刑 弁護士が抗議コメント」
雑誌記事出典
書籍出典
- ^ a b c d e f g h i 新潮45(2002)、p.93-94
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- ^ a b c 新潮45(2002)、p.yy
- ^ a b c 新潮45(2002)、p.yyy
- ^ a b c d e f g h i j k 新潮45(2002)、p.90-93
関連項目
過去に殺人事件を起こして無期懲役刑で服役後、仮釈放中に再び殺人事件を起こして死刑が確定した事例
- 東京都北区幼女殺害事件(1979年発生、死刑囚Mと同日に死刑執行)
- 福岡県直方市強盗殺人事件(1980年発生)
- 福島女性飲食店経営者殺人事件(1990年発生、死刑囚Mと同日に死刑執行)
- 福山市女性強盗殺人事件(1992年発生)
- 豊中市2人殺害事件(1998年発生)
- 宇都宮実弟殺害事件(2005年発生)