「明清交替」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
1647年に蜂起したという出典と1648年に蜂起したという出典で情報の合成が行われてしまっているので戻す
272行目: 272行目:


===北部での明一派の暴動(1647年–1649年)===
===北部での明一派の暴動(1647年–1649年)===
山東省鄒平市近郊の主要な暴動は、1647年3月に起こった。山東省は明の崩壊前から山賊行為に苦しめられており、山賊は銃や大砲も装備した大規模な軍に成長して、指導者が王を自称した。明のほとんどの官吏や紳士階級で組織された民兵は協同して山賊に対抗しつつ、清政権を歓迎した{{sfn|Wakeman|1985|pp=699–702}}。1647年、三河県の張氏という女が明の[[懿安張皇后]]を自称し、[[天啓帝]]の太子を自称し西淀で蜂起していた楊四海結んだ1648年3月
山東省鄒平市近郊の主要な暴動は、1647年3月に起こった。山東省は明の崩壊前から山賊行為に苦しめられており、山賊は銃や大砲も装備した大規模な軍に成長して、指導者が王を自称した。明のほとんどの官吏や紳士階級で組織された民兵は協同して山賊に対抗しつつ、清政権を歓迎した{{sfn|Wakeman|1985|pp=699–702}}。1647年、三河県の張氏という女が明の懿安張皇后を自称し、天啓帝の太子を自称し西淀の楊四海と手を結び、王礼、張天保らとともに天津で蜂起した<ref>{{Citation|author=鄭天挺|title=清史|year=2003|publisher=知書房出版集團|page=197|url=https://books.google.co.jp/books?id=l6dA2ic_edQC&pg=PA197|accessdate=2019-08-18}}</ref>。さらに[[山東省]]、[[河北省]]、[[河南省]]の森林地帯では、明一派が1000人ずつ、20個旅団が集結しようとしていた。この部隊は西洋式大砲を装備した「楡の園部隊」して知られた。司令官の李化鯨は天正帝自称し、明の王族の遠縁の親族であると主張して、[[カ沢市|菏沢市]]や[[定陶区]]、[[成武県]]、[[東明県]]、[[蘭考県]]、[[封丘県]]を包囲し奪取したもと明の将軍である高弟は清に帰順して優秀な多民族部隊を率いて11月18日までに反乱を鎮圧した{{sfn|Wakeman|1985|pp=785–792}}。
張氏と楊四海は、[[天津市]]の南[[慶雲県]]で明の旗の下で反乱を起こした。山賊の頭目である王礼や張天保がこれを援助し、清は増援部隊同様に砲兵隊を送らざるを得なかった。清は1649年に反乱を制圧することに成功したが、大量の死傷者が出た。さらに[[山東省]]、[[河北省]]、[[河南省]]の森林地帯では、明一派が1000人ずつ、20個旅団が集結しようとしていた。この部隊は西洋式大砲を装備した「楡の園部隊」として知られた。司令官の李化鯨は天正帝を自称し、明の王族の遠縁の親族であると主張して、[[カ沢市|菏沢市]]や[[定陶区]]、[[成武県]]、[[東明県]]、[[蘭考県]]、[[封丘県]]を包囲し奪取した。もと明の将軍である高弟は清に帰順して、優秀な多民族部隊を率いて11月18日までに反乱を鎮圧した<ref>{{Citation|author=鄭天挺|title=清史|year=2003|publisher=知書房出版集團|page=197|url=https://books.google.co.jp/books?id=l6dA2ic_edQC&pg=PA197|accessdate=2019-08-18}}</ref>{{sfn|Wakeman|1985|pp=785–792}}。


1649年1月、[[山西省]][[大同市]]の知事{{仮リンク|姜瓖|zh|姜瓖}}は、ドルゴンが権限を制限しようとしているかもしれないと脅威を感じ、明に転向して反乱を起こした。ドルゴンは反乱に個人的に干渉するために進軍した。[[楡林市|陝西省楡林市]]の司令官である劉登楼将軍と陝西省[[延安市]]の最高司令官である王永強も反乱を起こした。反乱は博洛と呉三桂の指揮する部隊に年末までに敗れ、明一派の要する堡州は虐殺にさらされた。同時期、明の王族と関係があると主張する朱森釜(または朱森滏)は、1万の部隊を擁する地元のお尋ね者の趙栄貴の後援を得て[[四川省]]近くの陝西省節州で秦王子を自称した。反乱は呉三桂の部隊に粉砕された{{sfn|Wakeman|1985|pp=805–821}}。混乱の中で多くの山賊集団が奇襲攻撃を拡大した。張五桂という山西省のお尋ね者が決起し、部隊を集めながら明の階級と文書を与え始めた。張五桂は1649年に五台県を攻撃したが追い払われ、1655年2月に殺されるまで山西省を略奪し続けた{{sfn|Wakeman|1985|pp=838–841}}。
1649年1月、[[山西省]][[大同市]]の知事{{仮リンク|姜瓖|zh|姜瓖}}は、ドルゴンが権限を制限しようとしているかもしれないと脅威を感じ、明に転向して反乱を起こした。ドルゴンは反乱に個人的に干渉するために進軍した。[[楡林市|陝西省楡林市]]の司令官である劉登楼将軍と陝西省[[延安市]]の最高司令官である王永強も反乱を起こした。反乱は博洛と呉三桂の指揮する部隊に年末までに敗れ、明一派の要する堡州は虐殺にさらされた。同時期、明の王族と関係があると主張する朱森釜(または朱森滏)は、1万の部隊を擁する地元のお尋ね者の趙栄貴の後援を得て[[四川省]]近くの陝西省節州で秦王子を自称した。反乱は呉三桂の部隊に粉砕された{{sfn|Wakeman|1985|pp=805–821}}。混乱の中で多くの山賊集団が奇襲攻撃を拡大した。張五桂という山西省のお尋ね者が決起し、部隊を集めながら明の階級と文書を与え始めた。張五桂は1649年に五台県を攻撃したが追い払われ、1655年2月に殺されるまで山西省を略奪し続けた{{sfn|Wakeman|1985|pp=838–841}}。

2019年8月23日 (金) 02:43時点における版

明・清間の移行

1644年の決定的な一片石の戦い英語版
1618年–1683年
場所中国本土満洲
結果

決定的な清の勝利

衝突した勢力

  • 明の亡命者

支援者(直接的な武力支援)


オランダ東インド会社


朝鮮王朝(1636年以降)

支援者(直接的な武力支援)
朝鮮王朝


那拉氏英語版女真


北元(1618年–1635年)(モンゴル族)


チャガタイヤルカンド・ハン国(1646年–1650年)(ウイグル族)

軍事支援
江戸幕府(日本)


ポルトガルの旗 ポルトガル王国
(李自成) 張献忠 奢安の乱英語版

エヴェンキ-ダウール族連合


ナナイフルカ
指揮官
ヌルハチ戦傷
ホンタイジ
ドド
ドルゴン
順治帝
ジルガラン

李永芳英語版(1618年に亡命)
耿仲明(1633年に亡命)
孔有徳(1633年に亡命)
尚可喜(亡命)
祖大寿(1642年に亡命)
呉三桂(1644年に亡命)
施琅(亡命)
鄭芝龍(亡命)
孟喬芳中国語版(亡命)

崇禎帝
袁崇煥
朱識鋐中国語版(延昌王子) 
米喇印 
丁国棟 
史可法
鄭成功
李定国英語版
孫可望中国語版
歐光宸
永暦帝
隆武帝
弘光帝
益王英語版
朱以海
朱術桂英語版 支援
リンダン・ハーン
金台石英語版
サイド・ババ
トゥルムタイ 
スルタン・ハーン


朱亨嘉英語版靖江王英語版


紹武帝
李自成
馬守応英語版
張献忠
李定国英語版
孫可望

奢崇明英語版


安邦彦英語版

ボンボゴル英語版[1]


ソソク[2]
戦力
多様な部隊
: 満洲族モンゴル族漢人旗人
漢人の緑営亡命者(1644年以後)
1648年までに:満洲族がわずか8%を占めていた一方で漢人の旗人が八旗の75%を占めた。
様々な部隊
漢人の兵士、回族ムスリムの兵士、モンゴル族の騎兵隊
順軍兵士は6万人から10万人を数えた。 張献忠軍:10万人 30万の彛族軍
6000人な
被害者数
様々な説がある 様々な説がある 不明 不明 27500+
不明

本項では満洲族の中国征服としても知られる明から清への移行または明・清間の移行を扱う。17世紀初頭に始まり数十年におよんだ明から清への交代は、それまで中国大陸を支配していた中国東北部に居住していた満洲族愛新覚羅氏が建国した、そして李自成が率いるをはじめとする様々な反乱軍による騒乱を経て行われた。

概要

明末の国内状況
明の版図と長城。今日、万里の長城と呼ばれている長城の大半がこの明代の長城である。

明の没落は、複数の要因が組み合わさったことによる。繰り返される戦役や政治の腐敗、財政の悪化と重税、疾病の流行があった。さらに混乱を助長したのが全国で発生した農民反乱と、相次ぐ柔弱な皇帝である[3][4]。 明末にあたる17世紀は小氷期にあたり、東アジアでも飢饉が起きていた。明の没落は、部分的には小氷期による旱魃や飢饉により引き起こされたという説もある[5][6]

政治面では、皇帝の政治への無関心と、官僚・宦官の横暴が続いた[注釈 1]万暦帝は浪費にふけり、万暦の三征と呼ばれる3つの戦乱も財政を圧迫した[注釈 2]。次の天啓帝の時代は宦官が権力を握り、官僚の多くもこれに従い、政治改革を望む東林党を弾圧した。天啓帝の次に即位した崇禎帝は東林党を起用するなどの立て直しをはかったが、すでに農民反乱や女真族の侵入が起きており、崇禎帝自身の猜疑心も災いして改革は進まなかった[3][9]

軍事面では、明軍は通常の定期的な異動サイクルではなく、10年から12年という長期間の指揮権を握る将校たちに支配されるようになり、中央の軍首脳は地方軍に対する支配力の多くを喪失していた。特定任地の財政および軍事を監督する任を帯びた総督軍務(最高司令官)が帝国全土に任命された。辺境地域では彼らは自立性を強めていき、特に遼東はモンゴルや朝鮮半島に近いため紛争が絶えず、軍勤務と指揮権が世襲化された[10]。民間から募集した者や非漢人の投降者で家丁と呼ばれる私兵も組織されて、主人と家丁は親子のような関係にもなった。遼東総兵官である李成梁は数千人の家丁を持ち、彼の成功の理由は正規兵よりも家丁の兵力にあった[11]。李成梁は数々の手段で財産を蓄え、遼東の女真族と明が行う貿易も庇護した。その貿易に関わっていたのが、のちに後金を建国するヌルハチだった[12]

南北の新興勢力

明に対する新興勢力であるヌルハチ鄭芝龍は、当時の東アジアで活発だった貿易で権力を得たという共通点を持っていた。東北部と南海という地域の違いや、薬用人参・貂皮と生糸・銀という商品の違いはありつつも、ともに利益をもとに私兵を軍事力として明から自立していった[13]

明を征服することになる清は、女真族の有力者ヌルハチ(努爾哈赤)によって基礎が築かれた[14]。明との貿易で勢力を伸ばしたヌルハチは、庇護を受けていた李成梁が罷免されると明との関係が悪化した。ヌルハチは後金を建国したのち、明に対する不満を数え上げる『七大恨』と題する文書を掲げた。明に対するヌルハチの要求は事実上の宣戦布告となり、ほどなくしてヌルハチは明に対する反乱を開始した。ヌルハチの後継者ホンタイジ(皇太極)は、漢人の官吏から中国の皇帝に即位するよう助言され、1636年に清朝の成立を宣言する。清の勝利は、明の遼東軍事組織の離脱と漢人亡命者の協力によるところが大きく、満洲軍の役割は限定的であった[15][16][17][18]

鄭芝龍は内陸から海上貿易へと進出した徽州商人のもとで働き、オランダ東インド会社や日本の朱印船貿易に関わって富を築いた。1628年には明の総兵官・都督になり、台湾海峡から東シナ海の海上を権力下におさめた。鄭芝龍は平戸でも活動しており、田川マツとのあいだに息子の鄭成功が生まれる[19]。鄭芝龍は1000隻の船によって福建最大の船団を持ち、鄭成功はのちに明の側に立って台湾に政権を樹立する[13]

明の農民反乱

明末は政府の財政難に加えて、農村と都市の経済格差、富裕層と農民の所得格差が拡大した。財政対策として監税使が各地で鉱山税や商税を取り立てて、監税使の横暴が民衆の反発を呼び、民変と呼ばれる反乱が起きた[注釈 3]。兵士への給料の未払いや、駅卒と呼ばれる運搬業者の人員削減によって、盗賊や反乱を起こす者が増加していった。農民反乱軍を率いて順を建国した李自成も、駅卒だったとする説がある。大軍勢となった農民反乱軍は、明を崩壊させる結果をまねいた[21]

北京占領

1644年には、明の首都北京をめぐって、清軍・明軍・順軍(農民反乱軍)が対峙した。清軍はヌルハチの子である摂政のドルゴン(多爾袞)、明軍は呉三桂将軍、順軍は李自成が率いていた。同年4月24日に李自成が北京を占領した時、すでに明最後の皇帝崇禎帝紫禁城の外で自殺したあとだった。呉三桂は清に転向し、ドルゴンは呉三桂軍を加えた清軍で順軍を攻撃し、一片石の戦い英語版に勝利した。ホンタイジを継いだ順治帝が9月に北京に入城し、清は北京を首都として占領政策を進めた[22]

全土の支配

中国全土が清の支配下で安定的に統一されるまでには、約40年の歳月を必要とした。明の勢力は最終的には清軍により転覆させられるものの、現在の中国南部に南明と総称される亡命政権が何年ものあいだ踏みとどまった[23]。清は1661年に康熙帝が即位し、明に忠誠を誓う鄭成功は1662年に台湾のオランダの植民者を追い出して、中国再征服を目標とする鄭氏政権を樹立した。康熙帝は対策として遷界令を施行して沿岸の住民を移住させ、鄭氏政権の孤立を狙った。康熙帝は1673年に始まった三藩の乱をはじめとする各地の反乱を退け、帝国を拡大するための一連の戦役を実施した。鄭氏政権は大陸の反乱が鎮圧されるにつれて台湾に封じ込められ、かつて鄭成功の部下であった漢人の水師提督施琅澎湖海戦で敗れた。こうして1680年代に清の支配が確立された[24]

初期の戦役

女真族の統一

満洲(マンジュ)族は、がんらい女真(ジュシェン)と称しており、満洲と改称したのは1635年である[注釈 4]。女真族は東北部の遼寧吉林黒龍江から沿海州、朝鮮半島の東北部に暮らしていた。女真族は決まった村落に暮らして耕作し、狩猟と騎射に熟練した定住農耕民だった[注釈 5][27]。歩兵が弓矢や刀、槍を扱い、騎兵は後方に控えるというのが軍隊の主な隊形であった[28]

建州女真の長であるヌルハチは、実際の清の建国よりさかのぼって清朝の創始者とされている。女真族は、16世紀の後半から村や一族ごとに争う状況になっており、この時期に勢力を拡大したのがヌルハチだった[27]。当時女真族の統制にあたる遼東総兵官の李成梁の庇護を受け、ヌルハチは明に対して従順な姿勢を維持して明側の好意を得た。遼東は白頭山付近の薬用人参や、黒龍江以北のの毛皮を貿易品にしており、建州女真はこれを独占して利益をあげた[14]。徐々に強大化する建州女真は撫順関の東方地域周辺を勢力下に収め、マンジュ・グルン(国)を称した[注釈 6]。ヌルハチは明の好意のもとで1589年に都督僉事に任命され、さらに翌年には自ら北京へ赴いて朝貢し飛躍的に勢力を増した。ヌルハチの勢力拡大に脅威を覚えたイェヘ(葉赫那拉氏)・ハダ(哈達)・ウラ中国語版(烏拉)・ホイファ中国語版(輝発)などを中心に9ヵ国の連合軍が結成されマンジュ・グルンを襲撃したが、ヌルハチはこれを退けますます威勢を高めた[29]

後金の建国(1607年)

1607年にはヌルハチは諸大臣からゲンギエン・ハン(英明汗)として推戴された[注釈 7]。そして国名を、数世紀前に北部中国を支配した女真族の王朝の後身であることを意識してアマガ・アイシン・グルン(後金国)とした。これはおそらく漢人の越境者であるエルデニの助言を得てのものであった[31][32]。ヌルハチはマンジュの軍事・行政組織を創設し、これが八旗制度となる。1601年に最小単位である佐領(ニル)が組織され、そこから大規模化して旗(グサ)になり、1615年までには八旗となった[33]

ヌルハチによる統合で女真族は自立する力を獲得し、漢人の亡命者を主体とする軍と、明で生産された火器がこれを支えた。しかし、1608年に李成梁が遼東総兵官を解任されると、ヌルハチはそれまで独占してきた明との貿易が減少し、明との関係は次第に悪化した[注釈 8][35]。そして1618年、ヌルハチは明に対する七大恨を天に掲げた。七大恨とは明への大きな恨みを七カ条にしたもので、明がヌルハチの父祖を殺したこと、明がイェヘを助けたことなどが含まれていた。これが事実上の明への宣戦布告とされる[36]

撫順攻略(1618年)

ヌルハチは明との戦いを始めるにあたり、明との境界に近い撫順を攻略した[34]。明の将軍李永芳英語版は、後金軍が攻撃するとすぐに降伏して撫順を明け渡し、愛新覚羅氏の王女との結婚と貴族の肩書を与えられた。明では、李永芳があらかじめヌルハチと通じていたという噂も流れた。この時に李永芳と結婚した王女はアバタイの娘で、ヌルハチの孫にあたる[37]。女真族の強力な同盟である扈倫英語版(呼倫)は17世紀初めまでにヌルハチの権威を認め始めた。ウラのブジャンタイ中国語版(布占泰)のように首領が再度独立を主張し戦争となったケースもあるが、建州女真は最終的に全部族を破り同化させることになる[注釈 9][39][40][39]

サルフの戦い(1619年)

後金時代の首都、盛京(瀋陽故宮)の鳳凰楼。ホンタイジの時代に完成した

ヌルハチ時代の重要な戦闘にサルフの戦いがある。撫順の陥落を知った明は衝撃を受け、ヌルハチに対して大軍を派遣した。明軍はヌルハチの居城ヘトゥアラへ進軍し、ヌルハチは野戦に打って出た。ヌルハチは4路に分かれていた明軍を1つずつ攻撃し、5日間の激戦の末に明軍を破った[41]金台石英語版支配下の強力なイェヘ支族は、明軍に協力してヌルハチの挙兵に対峙した。しかし金台石はサルフの戦いで敗れ、1619年に死去した[42]。日本海沿岸に住み毛皮をとって生活していた野人女真のワルカ(瓦爾喀)の人々も、1599年から1641年まで支配された[43][44][45]

ヌルハチはサルフに居城を築いたあと、遼東の平野に進出する。1621年の夏までに、遼東半島にある明の要塞都市である瀋陽遼陽は、明内部の裏切りや離反が起きて後金の手に渡った[注釈 10]。ヌルハチは瀋陽を後金の首都として宮殿を建設して、瀋陽は盛京(ムクデン・ホトン)と呼ばれた[注釈 11][47]

後金の占領政策

新たに後金の支配下に入った地域は漢人の社会であり、ヌルハチは漢人の武臣や商人に遊撃と都司の職を与えて行政を任せた。税制では、それまでの銀で納税する明の一条鞭法に代わり、満洲族の習慣である現物納税を命じた。商業面では役人の監視のもとで市場を開き、満洲族が漢人を圧迫しないように公定価格を定めて、八旗の兵士には物資の購入用に銀を持たせて強奪を防ごうとした。工業面では陶工などの職人を奨励し、武器職人は集団化して製品を買い取った[48]。後金が遼東に進出すると、満洲人が移住を始めた。後金は漢人の土地を没収して満洲人に渡し、満洲人は八旗として与えられた土地(旗地)を運営した。漢人には辮髪の風習を義務づけて満洲人とともに居住させたため、満洲人と漢人の間でトラブルも起き、後金政府はときに漢人の弾圧も行った[47]

寧遠の戦い・ヌルハチの死(1626年)

明と後金の間で戦われた、寧遠の戦い
寧遠の戦いでヌルハチは敗れた。これが初の敗北ともいわれる

1626年、後金は寧遠の戦いで明に敗れた。明の袁崇煥将軍は寧遠城を防衛し、攻略に失敗したヌルハチは退却した。ヌルハチは25歳から連戦連勝だったが、寧遠城だけをくだせずにうらみをのんで帰ったと『太祖実録』に記されている[49]。ヌルハチは同年8月に死亡し、寧遠の戦いの負傷が死因になったという説もある。ヌルハチは生前に後継者を指名していなかったため、国政の最高機関である4人のベイレ(貝勒)によって、ヌルハチの第8子ホンタイジが後継者に決定した。ヌルハチの次男ダイシャン中国語版(代善)の息子たちがホンタイジを推薦したとされる[50]。のちの明との平和交渉は、後金の敗北に対する明の積極的な対応を遅らせ、袁崇煥は国境要塞の要塞化とマスケット銃兵の訓練に忙殺された。ヌルハチの跡を継いだホンタイジは、ハンとしての立場を強固にする勝利を熱望していたが、袁崇煥はホンタイジからも寧遠城と錦州城を守った[51][52]

第一次朝鮮戦役(1627年)

後金は明からの物資を輸入できないため食糧難となり、ホンタイジは朝鮮王朝に侵攻して必要な資源を得ることを望んだ[52]。1627年、ホンタイジは姜弘立と李永芳の案内で朝鮮を攻撃した。後金軍は3万の部隊と、アミン英語版(阿敏)、弟のアジゲ英語版(阿済格)、ヌルハチの弟の息子であるジルガラン(済爾哈朗)、ヌルハチの孫であるヨト中国語版(岳託)を派遣した。後金は国境の町で厳しい抵抗にあったが、朝鮮王朝の国境の要塞は、すぐに敗れた。後金は明の武将毛文龍が駐屯する義州に前進し、毛はすぐに従兵と渤海に逃げた。次いで後金は安州市を攻撃し、安州の防衛部隊は敗戦が明らかになると、火薬庫を爆破して自殺した。平壌は戦わずして陥落し、後金軍は大同江を渡った。この時までに、後金が朝鮮王朝に侵攻しているとの知らせが明の宮廷に届いていた。朝鮮王朝の王である仁祖は講和を交渉する代表を派遣したが、この時までに使者は戻り、仁祖は既に漢城から江華島に逃げていた。仁祖は後金と和議を結び、後金は朝鮮王朝に対して交易場の設置や礼物の献上を求め、物資不足が解消された。逃亡した毛文龍椵島中国語版(皮島)で勢力を保ち、明と朝鮮に物資を求めたり商税を集めて繁栄したが、後金と協力しようとして明に誘殺された[53][52]

蒙古戦役(1628年-1635年)

後金に隣接していたモンゴルの部族ホルチン(科爾沁)は、同じくモンゴル部族のハルハ(喀爾喀)とチャハル(察哈爾)に対する防衛のために1626年にヌルハチと連合した。ホルチンの貴族7人が1625年にハルハとチャハルの手により死亡し、ここからホルチンと後金の連合が始まった[54]。チャハルは1628年と1635年にドルゴンによる戦闘に参加した[55]。1632年のチャハルに対する遠征は、張家口に交易場所を設けることを命じられたものであった。1634年にホンタイジは明と連合した北元のハーンであるリンダン・ハーンの軍勢を破り、北元の支配を終焉させた[注釈 12]。南蒙古の遊牧民への勝利と、リンダン・ハーンの敗北によって、後金は膨大な馬を献上させる一方で明に対する馬の提供を封じた。そしての後継者として自身を位置付けたホンタイジは、リンダン・ハーンが所有していた「大元伝国の璽」と呼ばれる玉璽も手に入れた。これはモンゴルハーンのシンボルであり、ホンタイジは東アジアの支配権を得たとされた[57][56]

最初の北京攻撃

文官出身の明の名将・袁崇煥。ヌルハチやホンタイジと戦った経験をもつが、崇禎帝に疑われて死罪となった

ホンタイジは1629年に北京攻略をはかり、モンゴルの協力を得て承徳方面から万里の長城を越えた。袁崇煥は救援のために北京に急行したが、崇禎帝は彼が後金に通じていると疑い、袁崇煥を死罪にした。袁崇煥が疑われたのはホンタイジの計略によるもので、名将の死は明の滅亡を早める結果となる。1631年のダリンホの降伏と共に、明のほとんどの有能な司令官は後金の忠実な従者となった[58]

明の反乱

1621年、彛族四川で反乱を起こし、明による鎮圧は1629年に完了した。1627年と28年に中国西北部の陝西省で干害が起き、飢餓に襲われた農民は反乱を起こした。1628年7月の王嘉胤が起こした反乱が陝西各地に拡大し、李自成張献忠らも反乱に加わった。反乱軍の首領は多くがあだ名を持ち、一丈青、黒旋風、混江龍など『水滸伝』の登場人物名を使う者もいた。給与の支払いが滞っていた兵士や駅卒も反乱に加わり、1630年代には大規模な反乱が山西省、河南省、湖広行省、安徽省、四川省へと拡大した[注釈 13][60]

1631年には孔有徳耿仲明による呉橋兵変英語版が起こった。兵士たちは、補給物資と賃金が不足していたために明に対して反乱を起こした。彼らはその後、渤海を渡って後金に帰順し、広鹿島からは尚可喜が帰順した。孔有徳や尚可喜の軍はホンタイジが欲していた西洋式の大砲を装備しており、ホンタイジは孔有徳に恭順王、耿仲明に懐順王、尚可喜に平南王の称号を与えて皇族として待遇し、のちに3人が治める地を三藩と呼んだ[61][62][63]

新秩序構築

清の建国(1636年)

ホンタイジは明を占領することに気乗りがしなかった。しかし范文程中国語版をはじめとする漢人官吏たちは、皇帝であることを宣言し明の領地を奪取するよう助言した[注釈 14]。ホンタイジは助言を受け入れて、1636年5月14日に国号を後金から清に変更し、入念に行われた儒教式の式典で皇帝に即位した[64]。ホンタイジはモンゴルで大元伝国の玉璽を手に入れており、満洲人のハーンのみならず、モンゴル人や漢人を含む三民族の君主となった[65]

ホンタイジは即位後、漢人の社会的地位や生活水準が改善されるように配慮をした。奴隷となっていた漢人の一部を解放し、漢人の学術官吏を新規雇用する科挙を行い、法律は明の制度を採用した。行政組織も明を参考にして設立され、中央官庁の各部の長官(承政)以下のポストには満洲人・モンゴル人・漢人それぞれに民族別の定員を定めた[65]。漢人官吏が統治する漢人軍事自治区を形成して、満洲族の不法侵入を禁じた。明の皇帝とは不可能であった、並んで食事をするなどの関係を構築しながら、個人的には明の司令官の降伏を歓迎した[注釈 15]。アミン率いる満洲族は、乾安と永平(現在の廬龍中国語版)の人々を虐殺することで状況に対する不満を表明した。ホンタイジはアミンを逮捕し収監することで応え、アミンは後に獄死する[67]

のちにホンタイジが明の投降者である洪承疇を寛大に扱った時には、満洲族の軍人から不満が上がった。ホンタイジは軍人たちに「道ゆく人にたとえれば、君らはみな盲人のようなものだ、いま道案内を得たのだから、どうして喜ばずにおられよう」と言ったとされる。ホンタイジはこのように説明して、漢人の手助けが必要であることを認めさせた[61]

漢人と満洲族の通婚

満洲族に亡命した漢人の将軍は、しばしば王族の愛新覚羅家の女性と結婚した英語版。満洲族の愛新覚羅家の王女も漢人官吏の息子と結婚した[68]。満洲族の指導者ヌルハチは、撫順で投降した李永芳の孫の一人と結婚した。ヌルハチの息子アバタイ英語版(阿巴泰)の娘は、李永芳と結婚した[69][70][71]。李の子供は、「三等子爵」の肩書を得た[72]。康熙帝の四女和碩愨靖公主は、漢人孫思克の息子孫承恩と結婚した[73]。他の愛新覚羅家の娘は、漢人の耿継茂英語版将軍や尚可喜将軍、呉三桂将軍の息子と結婚した[73]。一方で亡命した通常の兵士は、しばしば王族以外の満洲族の娘と結婚した。1632年には、二つの民族集団の融和を奨励するために1000組を数える漢人の将軍や官吏と満洲族の娘の結婚が岳托克勤郡王英語版とホンタイジにより準備された[74][75]。この政策は1644年の侵攻以前に始まり侵攻後も続けられた。順治帝の1648年の布告は、官吏の娘か庶民の娘が登録されたり旗の大尉の許可があれば、漢人の市民が歳入庁の許可を得て旗の満洲族の娘と結婚できることを認め、登録されていない庶民の場合は、通婚を認める政策が禁止されたのは、後に清では唯一の例であった[76][77]。布告はドルゴンにより考案された[78]。清の初期には清は漢人亡命者が満洲族の娘と結婚するのを支援した[79][80]。漢軍八旗の男性は、満洲族と結婚し、このことを禁止する法律はなかった[81]

和碩額駙という階級は、清王女の夫に与えられた。三藩の一人・耿仲明の息子の耿精茂英語版は、息子の耿精忠耿昭忠兄弟が順治帝の下で宮廷勤めができるようにして、耿精忠はホーゲ(ホンタイジの息子)の娘と結婚し、耿昭忠はアバタイの孫と結婚した。耿精茂自身も愛新覚羅家の娘と結婚した。愛新覚羅家の岳楽中国語版安親王英語版)の娘和硕柔嘉公主中国語版は、耿精茂の別の息子耿聚忠中国語版と結婚した[82]。愛新覚羅家の娘は、満洲族に亡命したモンゴル族に申し込まれた[83]。満洲族のドルゴンは、満洲族の娘と明から清に帰順した漢人の官吏馮銓を結婚させた。馮銓は満洲族の辮髪が漢人に施行される前に意図的に辮髪を採用し、満洲語を学んだ[84]

漢人亡命者との混成軍構築

紅衣砲の複製品

1644年以前から漢人と満洲族は婚姻の伝統があり、遼東半島の国境地帯の漢人兵は、しばしば漢人以外の民族と混血した。女真系満洲族は移住した漢人兵を受け入れ同化し、遼東半島出身の漢人兵は、満洲式の名前を採用し使用した。実際ヌルハチの部下のダハイ(達海)は、その一例であったかもしれない[85]。李永芳が降伏した時、明よりも高い地位を与えられ、家臣として自軍を保持することさえ認められた。孔有徳や尚可喜、耿仲明も自軍の保持を認められた[86]。軍閥の沈志祥は、死んだオジである沈世魁の軍を不法に奪取していたが、明の宮廷の承認を得られなかった。そのため沈志祥は1638年に軍を率いて清に転向した[87][88]

満洲族は明全土を征服するには少なすぎたが、敗れたモンゴル族を取り込んで蒙古八旗を創設した[89]。さらに満洲族は捕えたり亡命した大量の漢人兵を取り込むために、漢軍八旗を創設した。満洲族による本来の八旗は満洲八旗と呼んだ[90]。清は明からの亡命者を得るために、明軍を標的とした宣伝で満洲族が軍事能力に優れていることを示した[91]。1618年から1631年まで満洲族は漢人亡命者を受け入れ、子孫は漢軍八旗となり、戦死者は追悼された[92]

清に投降した明の将校は、従前の階級を保持することが認められ、貴族の地位や銀、馬、官職も与えられた[注釈 16]。非常に多くの漢人が清に帰順し、八旗の中では漢軍八旗が75%を占めるようになった。蒙古八旗がその他を占める中で、満洲八旗は1648年にはわずか16%と少数派であったが、八旗制の中では高い地位にあった[98][99][100]。中国を清のもとに統一したのは、満洲族が少数派であるこの多民族軍であった[15]。1644年に明を侵攻した軍は、漢軍八旗・蒙古八旗・満洲八旗をともなう多民族編成でわずかに満洲族の一部がいた。政治的な壁の要因は民族性ではなく、八旗に属さない漢人と漢軍八旗や、選民と庶民の間にあった[101]。漢人(ニカン)旗は黒色の旗を用い、ヌルハチは漢人兵に守られた[102]。他の旗は、漢人の黒旗と比べて少数派になった[103]

マスケット銃や大砲のような火薬兵器は、漢軍八旗により用いられた[104]。満洲族は1641年に漢人兵で構成される砲兵隊を創設した[105]。このため漢軍は「重い兵」を意味するウジュン・チョオハ(鳥真超哈)とも呼ばれるようになった[106]紅衣砲英語版は清に仕える漢軍(遼東半島の漢人)の一部であった[107][108]

万里の長城への準備

第二次朝鮮戦役(1636年)

明との騒乱が後金の臣民に経済的困窮と飢餓をもたらしたために、後金は朝鮮王朝に国境近くの市場を開放させた。朝鮮王朝も後金にワルカ族の宗主権を移管させた。馬100頭と虎100頭と豹の毛皮、綿400反、布15000切れが引き出され、ホンタイジに贈られた。仁祖の兄弟がこの贈り物を贈呈する使者として送られた。しかしホンタイジは、使者が拝礼を拒んだと手紙で不満を述べた。朝鮮王朝の商人と市場は、明との交易を続けて積極的に明の臣民を援助したため、ホンタイジは厳しく非難し、朝鮮王朝の食糧は臣民にのみ与えられるべきだと言った[53]。後金の時代から朝鮮王朝は兄弟関係となっていたが、朝鮮としては朝貢をする対象は明であり、後金を夷狄とみなしていた。そのため1636年にホンタイジはみずから朝鮮へと進軍した[109]

1636年12月9日、ホンタイジは朝鮮王朝に対し満洲八旗・蒙古八旗・漢軍八旗を率いた。漢人の支援は、陸の砲兵隊と海の分遣隊だった。明から帰順した孔有徳は江華島と椵島の攻撃に参加し、耿仲明尚可喜も顕著な役割を果たした[注釈 17][110]。清軍の勝利によって、朝鮮王朝は清と君臣関係を結ぶことになった。明との国交を断つことや、朝貢、王子を人質として瀋陽に置くことなどが定められた[111]。満洲族の第二次朝鮮侵攻後、朝鮮王朝は数名の王女を妾として清の満洲族摂政ドルゴンに与えることを余儀なくされた[112][113][114][115][116][117]。1650年にドルゴンは朝鮮の義順公主英語版と結婚した[118]。王女の朝鮮名は、義順で、李愷胤の娘であった[119]。ドルゴンは二人の王女と連山で結婚した[120]。第二次侵攻中に多くの朝鮮女性が清軍の手でさらわれ強姦され英語版、身代金を払って受け戻されたのちに清から解放されても家族からは歓迎されなかった[121]

アムール流域の諸部族に対する戦役(1631年-1640年)

ヌルハチの時代、ナナイの中でも最も南にいたフルカという集団[注釈 18]はソソクという人物に率いられて女真に敵対したが、1631年にホンタイジに降伏した。清に征服されたナナイなどのアムール流域の諸部族に対し、男性の頭部の前面を剃ることが強制された。アムール流域の諸部族はもともと後頭部を辮髪にしていたが、清に服属して剃ることを命ぜられるまでは、前頭部は剃らなかった[2]。1640年、清はボムボゴル中国語版率いるエヴェンキダウールの連合軍を破った。ボムボゴルは斬首され、清軍はエヴェンキを殺戮、追放して、残りの生存者を八旗に吸収した[123]。清は満洲の王女を服属したアムール諸部族の族長と結婚させた[124]。モンゴル系のダウールとツングース系のエヴェンキ、ナナイなどのアムール流域の諸部族は、清の八旗に編入された。

遼西戦役(1638年-1642年)

A full face black-and-white portrait of a sitting man with a gaunt face, wearing a robe covered with intricate cloud and dragon patterns.
明の元高官洪承疇(1593年–1665年)。松山の戦いで清軍に投降し、清の統一に貢献した。

遼西では、明清にとってヌルハチ時代のサルフの戦いに次ぐ重要な戦いが行われた。1638年、清軍は内陸部の山東省済南市まで侵入し、万里の長城を横断してすぐに撤退した。明の崇禎帝は、反乱が「内臓の病」である一方で清を単なる「発疹」にたとえながら、反乱軍との戦いに集中するよう強調した[125]。ホンタイジは遼西に拠点を建設させ、明の錦州や寧遠を攻撃した[注釈 19]。遼西防衛のため、洪承疇将軍が13万ともされる軍を率いて錦州に来ると、ホンタイジも大軍で錦州へ向かい明軍を破った。松山の要塞都市では包囲戦が展開され、明の司令官・夏成徳の亡命と内通により陥落した[127]。崇禎帝は、寧遠守備隊司令官の呉三桂に攻撃を命じたが、すぐに撃退された。その時アバタイは、北部江蘇省で金12000両と銀220万両を略奪しながら、内陸部に向かって別の奇襲攻撃を指揮していた。明の大臣周延儒は、勝利の報告をでっちあげて敗戦を隠蔽する賄賂を強要しながら、戦闘に関わることを拒否した。ほとんどの勝利の話が捏造であったために、ドルゴンは後に鹵獲した明軍の報告を読みながらいかに「非常に滑稽であったか」を官吏に語った[126]。松山の陥落で洪承疇は清軍に投降し、その後は清の征服に大きく貢献することになる。錦州の司令官祖大寿も1642年4月8日に投降した[128]

農民反乱軍(1639年-1642年)

反乱軍は、明軍の洪承疇らが鎮圧にあたったこともあり一時的に低調となったが、1639年と40年に続いた全国的な飢饉によって再び拡大する。土寇とも呼ばれる盗賊集団が活動し、李自成は均田と免糧をスローガンとして飢民を味方に引き入れ、数十万の反乱軍は洛陽、開封、襄陽を次々に占領した[注釈 20][130]。明は女真族の侵入にも対応しなければならず、農民反乱の拡大の一因となった。主な反乱には李自成と張献忠による鳳陽県の略奪や開封の戦いがある。開封の戦いでは、李自成を止めるべく明の総督が1642年黄河洪水英語版を人為的に引き起こした。

清の北京占領

明代の万里の長城

明は経済的混乱や反乱同様に多くの飢饉や洪水に見舞われた。張献忠の率いる反乱が1640年代に四川省で起きた一方で、李自成は1630年代から陝西省の農民反乱で軍勢を増やし、1643年には西安を攻略した。ドルゴンと助言者が明をいかに攻撃するかを熟考していたので、農民反乱は明の首都北京に迫っていた。1644年2月、李自成は西安に順を建国して帝位につき、年号を永昌と定めた。3月に反乱軍は山西省の重要な太原市を手に入れていた[131]。崇禎帝は反乱の経過を見ながら、4月5日に呉三桂に緊急の援助要請をした[132]

順軍:北京占領・明の崇禎帝の死

李自成と農民反乱軍(順軍)は1644年3月に北京に到着すると、明の元宦官杜勲中国語版を通じて明の崇禎帝に申し出た。申し出の内容は、明が陝西省・山西省間の封土に関する李自成の支配を承認して100万両を支払い、李自成の身分を保持するなら、李自成は明のために清と戦い、全ての叛徒を全滅させるというものだった。明の宮廷では南への遷都も検討されていたが、崇禎帝は対面を重視して結論を出さなかった。明の官吏が投降し亡命したので、李自成は首都に侵入した。崇禎帝は娘や側室を殺傷し、皇后が自害するのを見届けてから、紫禁城の外にある宮殿の木英語版から首を吊って自殺した。崇禎帝にしたがって殉死したのは宦官の王承恩だけだったとされる。李自成は崇禎帝と皇太子を殺すつもりはなく、順の貴族として認めるつもりでいたが、崇禎帝はすでに自殺したあとだった。李自成は権力を共有し共同統治するために来たと言いながら、崇禎帝の死を嘆いた。明滅亡の際に投降した官吏には李自成にこびる者もいたため、李自成は官吏たちを明の終焉の原因と見て信頼しなかった[133][134]{{[135]。李自成の軍は、北京入城までは規律がとれていたが、北京占領後は城内で略奪や暴行を行ない、上層部は内部の権力闘争にあけくれた[136]

清軍:順治帝の即位

満洲族では、1643年にホンタイジが急死し、同年8月に6歳のフリン(福臨)が皇帝に即位して順治帝となった。順治帝が皇帝に決まるまでの清は、ホンタイジの後継者をめぐって3派に分かれて対立した。ホンタイジの長子であるホーゲ派、ホンタイジの正夫人の子であるフリン派、としてヌルハチの第14子であるドルゴン派に分かれた[注釈 21]。ドルゴンはホーゲと対立していたが、ホーゲ派やフリン派の双方と争うことを避けて、みずからは皇帝となる意思を示さずにフリンの摂政を選んだ。こうしてドルゴンとジルガランが摂政となった[138]。摂政となったドルゴンは、のちにフリン派と協力してホーゲ派に打撃を与え、続いてフリン派の一部を味方につけて反対勢力を排除し、権力を確かなものとして摂政王となる[139]。フリンの母であるボルジギト氏(孝荘文皇后)も宮廷を掌握してドルゴンらに協力した[140]。1644年3月6日、ドルゴンは李自成に使者を送った。提案の内容は、中原を占領する明に対して連合して攻撃し、順と清で明の領土を分割するというものだった[141]

明軍:清への帰順

満洲族が中国本土に入ることになる一片石の戦い

呉三桂は、崇禎帝から助けを求められて間もなく寧遠要塞を去り、北京に向かった。4月26日、軍は万里の長城の東端である山海関を通って移動したが、北京が李自成軍によって陥落したと聞き、山海関に戻った[142]。李自成は、呉三桂に貴族の地位や高官と交換に降伏を求める使者を送った。呉三桂は亡命を決定するまでに数日を要したため、李自成は呉三桂の沈黙は申し出を拒否したものと考え、呉三桂の父親を打ち首にさせた。すでに呉三桂は李自成に降伏して亡命する途中であったが、取りやめて清に亡命を決める[143]。李自成は山海関に2軍を送ったが、呉の部隊は、5月5日と5月10日に簡単に破った[144]。5月18日には、李自成は個人的に呉を攻撃するために北京を出て6万の軍を率いた[144]

同じ頃、呉三桂は賊(李自成)を排除して明を復興するために、清の助けを求める手紙をドルゴンに書いた。その内に呉三桂は寧遠要塞を出て、清が支配する万里の長城の外側の領域全てを打ち捨てていた[145]。ドルゴンの最も著名な漢人助言者である洪承疇と范文程は、「仁義の軍を率いて流族を滅ぼす」という印象を与えて天命に訴えるために北京陥落の機会をとらえるように要請した[145][146][147]。従ってドルゴンが呉の手紙を受け取った時には北部を攻撃するつもりはなく、明を復興するつもりもなかった。その代わりにドルゴンが呉に清のために働くか尋ねた時、呉にはほとんど選択肢はなく受け入れるしかなかった[148]

一片石の戦い(1644年)

呉三桂が正式に5月27日の朝に投降すると、ドルゴンは呉三桂を平西王に任命して、北京まで清軍を先導させた。清軍は繰り返し反乱軍を攻撃したが、李自成軍の戦列を崩せなかった。ドルゴンは呉三桂に李自成を攻撃させて双方が弱体化するまで待ち、李自成の軍は敗走して北京に舞い戻った。これを一片石の戦い英語版と呼ぶ[149][150]。敗れた李自成は北京で皇帝即位の儀式を行なったのちに宮殿を焼き払い、金銀や崇禎帝の息子などとともに北京を脱出した。李自成の北京占領は40日間で終了した[136]。ドルゴンが率いる清軍は無抵抗の北京に入城し、順治帝は9月に北京に入った。ドルゴンは民心を安定させるために占領政策を進めて、清軍には市民からの略奪を禁じたほか、剃髪令の一時撤回、刑罰の寛免、強制買付や付加課税の中止、明の皇族や官僚の地位保持などを行なって帰順を呼びかけた。こうした政策の多くは、范文程や洪承疇の助言によって立案された[151]

全土の攻略開始

呉三桂は後にに亡命したの将軍であった。しかし旧体制を復活させる望みは、康熙帝に対して反乱を起こすと、台無しになった。

明から清への安易な移行は、首都が反乱の脅威にさらされた際に、崇禎帝が南部への移動を拒否したことに起因するとされてきた。これで清は国を統治する有能な官吏を全て手に入れることができた[152]。清が北京を占領したのを受けて、科挙などの試験が間もなく開始された。初期の清政府は、北部出身の学者に支配され、北部の学者と南部の学者の強い分派対立が起きた。財務や任用、軍事に関する部門では、明から投降した官吏が主として清の官吏の中核を形成したが、典礼や音楽、文学の担当にはならなかった(清はこうしたものに優先順位をつけていなかったかも知れない)。この亡命者は政権の移行を容易にすることに役立った。戦争に関わる部門の文武百官の大部分は、亡命後に昇進した。最高位の官吏は、主に遼東半島出身の漢軍八旗であった[153]

ドルゴンは漢人の文民に対して、北京の内側の都市を明け渡して外延部に移動するように命じて、八旗と共に内部の都市に移住した。後に内部の都市にも居住する官吏や商業に携わる漢人の文民に例外が認められた[78]。文民政権は漢軍八旗で溢れた[154]。中央の行政機構は明の六部を引き継ぎ、主要な地位は漢軍八旗で満たされた[155]。それは清の征服成功に関わった漢軍八旗であった。初期の清で知事の大多数を占め、清の支配を安定させながら征服後の国土を統治する人々であった[156]。漢人は庶民を除き、順治帝や康熙帝の時代には知事長官(承政)で優位に立った[157]。明から江南征服に主要な役割を演じた3人の遼東半島の漢軍八旗は、尚可喜、耿仲明、孔有徳であった。彼ら3人は征服後は自治的に江南を統治して三藩と呼ばれた[158]。清は1658年まで単独の満洲族知事、1668年まで単独の知事長官を置かず、各地の知事や知事長官に満洲族やモンゴル族を意図的に置かなかった[159]

清は北部を支配するために、漢軍八旗に加えて、漢人の標準兵で構成される緑営に頼った。日々の軍事統治を提供し前線の戦いで武力を供給する部隊であった[160]。漢軍八旗や蒙古八旗、満洲八旗は、持続する抵抗がある緊急事態に対応するために展開しただけであった[161]

清は、漢軍八旗を福建省の鄭成功軍と戦うために送った[162]。清は鄭成功を孤立させるために、遷界令を施行した。遷界令によって漁船や商船は海に出ることを禁止され、人々は海岸から30里離れた内陸に移住させられた[注釈 22]。このため鄭成功軍は本土との接触ができなくなり、台湾へと移住した[163]。ここから満洲族は水を怖れるという俗説が生まれた[164]。福建省のほとんどの沿岸民は、戦争から逃れるために丘か台湾に逃げ、福州は清軍が入城した際には空になっていた[165]

北京占領後の主な戦役

ドルゴンは「清の征服の黒幕[166]」、「大マンジュ事業の主建築家[167]」など様々に表現される。彼の統治の下で、清は直隷地域を抑え山東の郷紳や官吏を降伏させ、山西陝西を征服した。その後ドルゴンらは長江下流域の南にある江南の豊かな商業地域や農業地域に目を転じた。ドルゴンはまた、李自成や張献忠によって設立された対抗政権の残党も一掃して、李自成を1645年に殺害し、張献忠が拠点を置いた成都を1647年に奪取した。

清に北京を占領されたのちの明は、福王の弘光政権、唐王の隆武政権、魯王の監国政権、桂王の永暦政権があり、南明政権と呼ばれる。しかし永暦政権以外は短命に終わり、清軍に対抗するための協力もしなかった。清は南明の帝位主張者たちを殺害し、1647年に広州から追い出した南明最後の皇帝永暦帝を南西の果てまで追った[168]

北部と四川省における併合(1644年–1647年)

清統治下の地域の変更の地図

ドルゴンは1644年6月に北京に入城して間もなく、李自成を追い詰めるために呉三桂軍を派遣した[169]。呉は何度も李の後衛と交戦したが、李は依然として山西省に向けて故関を何とか横断し、呉は北京に戻った。李自成はかつて順建国を宣言した西安市に拠点を置いて権力を再構築した[170]。李自成は、1644年の夏と秋に河北省山東省で清の支配に対する暴動を表明し、ドルゴンは10月に陝西省の要塞から李自成を根こそぎにする軍団を送った。アジゲやドド(多鐸)、石廷柱英語版に率いられる清軍は、1645年2月に李自成を西安の司令部から追い出し、山西省と陝西省で順軍に対する連戦に勝った。1645年9月、李は数省を通って退却した[171]

1645年、山西省で「皇天清浄善友」とか「善友会」を自称する宗教的秘密結社が反清蜂起を起こした[172]。『清実録』によれば順治2年(1645年)3月、山西朔州の蔣家峪に200人ほどの男女が集まって善友を称し、利民堡参将の王守志がこれを鎮圧しようとしてかえって激化させたという。王守志はその罪により死刑になった[173]。善友会の会衆は武術を修練した農民たちであった[174]

1646年初めにドルゴンは張献忠の大西政権中国語版を倒そうと四川省に2つの遠征隊を送った。ホーゲの指揮下で第二派は1646年10月に四川省に到達した。張献忠は清軍が接近していると聞いて、何かあったら独立して行動するよう命じられた部隊を4つに分けて陝西省に逃げ、逃げる前に首都成都の人々を虐殺するよう命じた[175]。張献忠は1647年2月1日に四川省中央部の西充県近くの清軍に対する戦いで殺された[176]。一説には官吏の一人である劉進忠に裏切られて弓の射手に射倒された[177] [178]。ホーゲはその際容易に成都を奪取したが、予期しなかった荒地であることに気付いた。兵隊は田園地帯で食料を発見できず、抵抗する者を殺しながらこの地域を略奪し、食糧の欠乏が激しかったので人肉さえ口にした[179]

北西部(1644年–1650年)

トゥ族は明の皇帝に任命された土司であるが、1642年のチベット族の暴動や李自成の反乱に対して明を支援した。李自成に抵抗できず、多くの土司長が虐殺された。1644年以降にアジゲと孟喬芳の指揮する清軍が李の軍と戦った際には、速やかに清側に加わった。その間に明一派は設備を十分に整えて、7万を数える軍で鳳翔県の都市を占領しながら、明の司令官だった孫守法中国語版賀珍中国語版武大定中国語版のもとで西安の南の山で合流しようとした。西安に向けて進軍すると、孟喬芳のもとで最近清に帰順した人々に側面を攻撃された。賀珍の叛徒は主に盗賊であり、砦柵ごとに10から15の反乱小部隊と共に森林地帯や山岳地帯で作戦を続けた。大衆の支援を受けた叛徒は、地域の軍事行動に関する情報を得ながら山岳の拠点に撤退した。砦柵群は他の砦柵の指導者に権限を認める「王」の周辺に集まったが、ついに任珍が率いる部隊に制圧された[180]

1646年後半、中国の出典で米喇印英語版として知られるムスリム指導者により集められた軍が甘州区で清の支配に対して反乱を起こた。しばらくして丁国棟英語版という別のムスリムの参加を得て、没落した明を復興したいと表明しながら、省都蘭州などの甘州区の数多の町を占領した。この反乱はムスリム以外の中国人と協力しており、イスラム国家を建国することを意図しておらず、宗教によって突き動かされているわけではないことを示唆している[181]。清政府は反乱を制圧するために、陝西省長で明の元官吏の孟喬芳を速やかに派遣した。米喇印と丁国棟は、共に1648年に捕えられて殺され[182]、1650年までにムスリムの反乱は制圧された[183]。ムスリムの明一派は、ムスリムのチャガタイ・ハン国クムル汗国トルファン汗国英語版に支援され、敗れた後はクムル汗国は清に服従した。もう一人の叛徒馬守応は、李自成と順に連合した。

江南(1645年)

揚州市の防衛で清に降伏することを拒否した史可法の肖像画
弘光政権

北京陥落と崇禎帝自殺の情報は4月には江南にも伝わったが、人々は信じようとせず通常の祭礼を行なっていた。しかし、明王家の子孫の一部が明の予備的首都であった南京市に到着して事実と分かると、江南も騒然とした。南京では後継者をめぐって議論が起きたが、崇禎帝の息子が生死不明であったため意見が一致しなかった[146]。南京の史可法と鳳陽県の馬士英は、次の後継者であり崇禎帝の最初の従兄弟である福王のもとで明に忠誠を誓う政権を作ることに合意した。福王は馬士英と大艦隊の擁護のもとに1644年6月19日に弘光帝として即位し[184][185]。年号を弘光として統治することになった。しかし、明末の特徴である政争や官僚の腐敗は続き、弘光政権は支持を失っていった[注釈 23][146]。清軍は南明司令官李成棟中国語版劉良佐英語版の降伏に助けられ、1645年5月初旬に淮河の北主要な徐州市を手に入れた。南明の司令官の裏切り行為は清軍を助け、史可法が防衛する揚州市をのぞいて北部全域を手渡した[186]。馬士英は四川省からはるばる来た南京固有の少数民族の戦士の中で指揮を受けていた[187]

江南における清の漢・満軍は、平和的な亡命者に対しては暴力をふるわなかった[188]。清の数個分隊が1645年5月13日に揚州に集まった[189]。揚州を行進する清軍の大多数は、明の亡命者であり、満洲族や八旗をはるかにしのいでいた[190]。揚州では史可法の小部隊が市民や農民も率いて戦ったが、ドドの砲兵隊には抵抗できず、5月20日に漢軍八旗が使う清の大砲が市の城壁を突破した。史可法は投降を拒否して処刑され、揚州城の陥落時にも市民や兵士は激しく抵抗したため、清軍の怒りを招いた[191]。ドドは江南の他の都市を恐怖に陥れて清に降伏させるように、今後の見せしめとして揚州の全人口[145]「残忍な大虐殺」を命令した[192][189]。6月1日に清軍は長江を渡り、南京への道を守る鎮江市の要塞都市を容易に奪取した。清軍は1週間後に南京の城門に到着したが、弘光帝は既に逃げていた[193]。1か月も経たないうちに、清は逃げていた明の弘光帝を捕え(翌年北京で死去した)、蘇州市杭州市などの江南の主要都市に侵攻し[194]、その時までに清と南明の国境は銭塘江へと南に押されていた[195]ヨハン・ニューホフ英語版は南京市が清の兵士により傷つけられなかったことに気付いた[196]。ドドは、清軍が黄河を渡る前に南明が清軍を強襲したなら南明は清を破っただろうと語りながら、1645年の戦略について南明の弘光帝を厳しく叱った。弘光帝は言い返す言葉が見付からなかった[197]

城内に女性を囲い込み、安くてわずか3両ないし4両、良い服を着ている女性には最大で10両の身代金の価格を示す札を含む髪で酷く叩きながら、満洲族の兵士は、南京が平和的に降伏した後で南京の元々の夫や父親に揚州から捕らえた女性を受け戻した[198]

南東部(1646年–1650年)

南明地域の清の征服
南明の状況
隆武政権

杭州が1645年7月6日に清に陥落すると[194]、明の建国者朱元璋の9世の子孫隆武帝は、東南の福建省を陸伝いに逃げた。隆武帝は8月18日に沿岸の福州市で即位しながら、有能な福建商人である鄭芝龍の擁護をあてにした。子供のいない隆武帝は、鄭の長男を採用し、王家の姓を認めた。この息子が鄭成功であり、彼は国姓爺という肩書を持った。同時期に明の後継を名乗る朱以海浙江省で摂政を名乗ったが、二つの政権は協同に失敗した[199]

1646年2月、清軍は朱以海政権から銭塘江の西の土地を獲得し、隆武帝の部隊を破った。5月、清軍は江西の南明の最後の要塞である贛州市を包囲した。7月、博洛英語版率いる新たな南方戦役は、朱以海の浙江省政権を混乱に陥れ、福建省の隆武帝政権を攻撃するために進行した。1646年9月後半、隆武帝の宮廷は贛州市包囲を解除することを口実に福建省を去ったが、清軍は追いついた。隆武帝と妃は、10月6日に福建省西部の汀州府であっさりと処刑された。10月17日に福州が陥落すると、鄭芝龍は清に降伏し、息子の鄭成功は自分の艦隊と台湾島に逃げた[200]

摂政の朱以海は、海軍武官張名振中国語版の援助を得て、浙江省と福建省の間の沙浧島の海上で抵抗を続けた。1649年7月までに、作戦基地は北方に移動した。対立する海軍司令官黄斌卿中国語版を殺すと、基地は11月に舟山市に移動した。そこから江南の反乱を起こすことを企図したが、黄斌卿に裏切られると、舟山市は清に陥落した。家族全員が殺された張名振は、厦門の鄭成功と手を結ぶために逃げた[201]

紹武政権・永暦政権
Photograph of the body of a black muzzle-loading cannon propped by two braces rest on a rectangular gray stand with two embedded little round lamps.
1650年に南明により鋳造された大砲(香港海防博物館英語版より)

隆武帝の弟朱聿中国語版は海上を福州に逃げたが、1646年12月11日に紹武という肩書の王位を得て、間もなく広東省の首都広州市に別の南明政権を打ち立てた。紹武帝は公式の衣装が欠乏しており、地元の部隊から衣装を購入しなければならなかった。12月24日、永曆帝は近所に永曆政権を樹立した[202]。二つの明政権は、もと南明の司令官である李成棟が率いる清の小部隊が広州市を獲得する1647年1月20日まで戦い、紹武帝は滅ぼされ、永曆帝は南寧に潰走した[203]

しかし1648年5月、愚にもつかない地域司令官に失望した李成棟は、清に対して反乱を起こして明に復帰した。不満を持つ明の元将軍金聲桓中国語版が同意見で復帰したことで、永曆政権が江南のほとんどを再奪取する手助けになった。清軍は、1649年と1650年に湖広行省や広西チワン族自治区、広東省の中央部を征服し、永曆帝は南寧から貴州省に逃げた。ついに1650年11月24日、尚可喜率いる清軍は、オランダ人の援助を得て広州を奪取し、7万人という大量の人々を虐殺した[204]

北部での明一派の暴動(1647年–1649年)

山東省鄒平市近郊の主要な暴動は、1647年3月に起こった。山東省は明の崩壊前から山賊行為に苦しめられており、山賊は銃や大砲も装備した大規模な軍に成長して、指導者が王を自称した。明のほとんどの官吏や紳士階級で組織された民兵は協同して山賊に対抗しつつ、清政権を歓迎した[205]。1647年、三河県の張氏という女が明の懿安張皇后を自称し、天啓帝の太子を自称した西淀の楊四海と手を結び、王礼、張天保らとともに天津で蜂起した[206]。さらに山東省河北省河南省の森林地帯では、明一派が1000人ずつ、20個旅団が集結しようとしていた。この部隊は西洋式大砲を装備した「楡の園部隊」として知られた。司令官の李化鯨は天正帝を自称し、明の王族の遠縁の親族であると主張して、菏沢市定陶区成武県東明県蘭考県封丘県を包囲し奪取した。もと明の将軍である高弟は清に帰順して、優秀な多民族部隊を率いて11月18日までに反乱を鎮圧した[207]

1649年1月、山西省大同市の知事姜瓖中国語版は、ドルゴンが権限を制限しようとしているかもしれないと脅威を感じ、明に転向して反乱を起こした。ドルゴンは反乱に個人的に干渉するために進軍した。陝西省楡林市の司令官である劉登楼将軍と陝西省延安市の最高司令官である王永強も反乱を起こした。反乱は博洛と呉三桂の指揮する部隊に年末までに敗れ、明一派の要する堡州は虐殺にさらされた。同時期、明の王族と関係があると主張する朱森釜(または朱森滏)は、1万の部隊を擁する地元のお尋ね者の趙栄貴の後援を得て四川省近くの陝西省節州で秦王子を自称した。反乱は呉三桂の部隊に粉砕された[208]。混乱の中で多くの山賊集団が奇襲攻撃を拡大した。張五桂という山西省のお尋ね者が決起し、部隊を集めながら明の階級と文書を与え始めた。張五桂は1649年に五台県を攻撃したが追い払われ、1655年2月に殺されるまで山西省を略奪し続けた[209]

南西部(1652年–1661年)

A map of southern China showing provincial boundaries in black, with a blue line running between several cities marked with a red dot.
1647年から1661年までの永暦帝(南明最後の君主)の戦い。省の境界線や国境線は、中華人民共和国の境界線である。
永暦政権

張献忠が倒されると、張献忠の軍は広西チワン族自治区から撤退する南明軍とともに南方の貴州省へと撤退した。援軍が緊急に必要なことから永暦帝は張献忠の後継者に援助を要請した。張献忠の元副王孫可望中国語版は、南明の宮廷の反対派を皆殺しにし、張献忠を亡き皇帝と呼び続けながら、永暦帝を事実上拘禁し続けた[210]。ドルゴンの指揮する清軍が南部深くに進軍したが、南部では明への忠誠は依然なくなっていなかった。1652年8月前半、李定国英語版は張献忠の下で将軍として仕えたのちに永暦帝を擁護し、清から桂林市広西チワン族自治区)を再奪取した[211]。広西チワン族自治区で清を支援していた司令官のほとんどが、一か月以内に明に寝返った[212]。次の2年間は湖広行省広東省で例外的に戦役が成功したとはいえ、李は重要な都市の再奪取に失敗した[211]。1653年、清は南西部を再奪取する担当に洪承疇を据えた。洪承疇は長沙市に司令部を置いて根気良く軍を編成し、1658年後半には栄養が十分で装備の整った清軍が貴州省や雲南省を奪取するために攻撃した[213]。内紛が李定国の軍と孫可望の軍の間で発生すると、孫が自らを皇帝にしたがることを恐れて、永暦帝は孫を解放するよう李定国に頼んだ。孫と生き残った軍は敗走して、洪承疇の清軍に投降した[214]。1659年1月後半、満洲族のドニに率いられた清軍は、当時タウングー王朝ピンダレ・ミン英語版王が支配するミャンマー近くに永暦帝を逃げ込ませながら雲南省の首都を奪取した[213]。永暦帝は、清に帰順した呉三桂により捕えられ、処刑される1662年までそこに留まった[215]

鄭氏政権
鄭成功軍の占領地と影響圏

鄭成功は1646年に隆武帝に採用され1655年に貴族に叙されて、南明を擁護し続けた[216]。1659年、順治帝が在位の栄光と南西部での戦役の成功を祝う特別な試験を準備していたので、鄭は清から数都市を奪取し南京に脅威を与えながら、武装の整った艦隊と長江を航海した[217]。鄭成功は当初の攻撃で数県を奪取し主導権を握る一方で、父親が料羅湾海戦英語版でオランダに対して行ったような決定的で一対一の大団円を欲した。鄭は前もって南京での最終戦を発表して、清が準備できる時間を大いに与えた。1671年のフランス人宣教師の報告書によると、鄭成功は大運河の補給路を分断する南京を手に入れて、北京での飢餓の可能性を引き出した。そして満洲族のあいだに、中国を放棄して満洲に戻ろうという考えを引き起こした[218]。北京と南京の庶民と官吏は、どちらの側でも良いから勝つことを待っていた。清の北京のある官吏は南京の家族や別の官吏に手紙を書き、南京から北京への通信手段や報道が全て断ち切られており、鄭成功の鉄の軍が無敵だとの流言蜚語があるために、清は辺鄙な土地に首都を移転することを考えていると書いた。この官吏は、手紙では北京の暗澹たる状況を投影していると書き、自身が準備している鄭成功軍への投降を準備するように南京の子供に言った。この手紙は途中で鄭成功軍に奪われ、手紙を読んだ鄭成功は、迅速に南京を攻撃する代わりに清が大規模な最終戦に向けて準備ができるように意図的に遅らせたことを残念がり始めたかも知れない[219]。順治帝が鄭成功軍の急襲を聞いた時、怒りで剣で玉座を切りつけたと言われている[217]。鄭成功の明一派は、南京を攻撃した際に漢軍八旗が多数を占める清軍と戦った。南京は城内の軍による騎馬攻撃が増援部隊の到着前にも成功して、加えて供給や増援部隊も得られる状況にあった。鄭成功の軍は完全な包囲を維持できず、撤退した。包囲攻撃は8月24日に始まり、ほぼ数週間で終結した[220]

清の艦隊の圧力を受けて、鄭は1661年4月に台湾に逃げ、オランダを台湾から追い払い鄭氏政権を樹立しながら、ゼーランディア城包囲戦でオランダを破った[221]。オランダは遺跡を略奪し、鄭成功の息子鄭経との戦争が行われた1665年に舟山島の普陀山の仏教団地を攻撃した後で僧侶を殺した[222]。鄭成功は施琅が命令に背き、清に投降したことを理由に施琅の家族を処刑した。鄭成功は清に投降したことを理由に、兵士に対して非常に厳格で容赦のない懲罰を課した[223]。命令を聞くのに失敗し戦闘で失敗すると、鄭成功から無慈悲な死刑を課される可能性があった[224]。他方、清は南明や鄭政権や三藩に属していた投降者を寛大に扱い、清を裏切った者でも清の階級に戻すことを許したため、大量の投降者を確実に得た[225]。鄭成功は1662年に死去し、孫の鄭克塽は1683年の澎湖海戦後に康熙帝に降伏するまで清の支配に抵抗した[226]。台湾まで鄭成功に同行した明の王子は、寧靖の朱術桂英語版朱以海の息子朱弘桓であった。

三藩の乱(1673年–1681年)

三藩の乱
Black-and-white print of a man with small eyes and a thin mustache wearing a robe, a fur hat, and a necklace made with round beads, sitting cross-legged on a three-level platform covered with a rug. Behind him and much smaller are eight men (four on each side) sitting in the same position wearing robes and round caps, as well as four standing men with similar garb (on the left).
ヨハン・ニューホフによる尚可喜の肖像画(1655年)。清から平南王に封ぜられた尚は1650年に広州市を占領し、城内の人々を殺戮した(庚寅の劫中国語版)。子の尚之信は1673年にに対して反乱を起こした三藩の一人であった。

1673年、呉三桂、尚可喜、耿継茂中国語版らの三藩が康熙帝に対して反乱を起こした。三藩は明の孔有徳・耿仲明・尚可喜が後金に帰順したことから与えられた土地だったが、清政府の統制から外れて軍備を強化して行政や財政を行なったために廃止が決まり、前後9年におよぶ反乱につながった[注釈 24]。台湾では鄭経が呼応して沿岸を攻撃して、さらに北方ではチャハルのブルニ中国語版(布爾尼)、南方ではベトナムの莫朝莫元清中国語版が挙兵した[227]。清軍は1673年から1674年にかけて呉三桂軍に敗北した[228]

三藩の軍は長江以南を勢力下として、呉は国号を「周」としたが、三藩にはそれぞれの思惑があったために統一戦線とはならなかった。尚可喜の子尚之信と耿継茂の子耿精忠は1681年までに清の反撃を受けて降伏した。この反撃には八旗ではなく漢人からなる緑営が主要な役割を果たした。三藩の乱が失敗した主因は、ほとんどの漢人指揮官が清朝への敵対を拒否したことにあった。特に一生の間に二つの王朝を裏切った呉三桂の機会主義は、多くの人にとって不快だった。呉三桂が南明の永暦帝を処刑したことは知られており、明の遺臣でさえ呉三桂の掲げる大義を嘲笑した[229]。范文程の息子范承謨は耿精忠に囚われたが、清への忠誠を失わず殺された。遼東の指導的な武官の出身である范承謨の死は、他の遼東出身の武官らが清への忠誠心を保つことに寄与した[230][231]

清の順治帝を継いだ康熙帝は、三藩の乱の勃発時は20歳だった。清の財政は戦乱で底をつき、清政府は損納(一種の売官制度)などによって財源を確保し、康熙帝は報告をもとに自ら作戦を指導した[232]。漢人の兵士や豪族は呉三桂に与せず清を支持していたが、八旗と満洲族の官吏は呉三桂軍に対し有効に戦えなかった。清は八旗に代えて90万人以上の緑営の大軍を用いて呉三桂軍を鎮圧した[233]。三藩の乱で、清の側に留まり戦死した漢軍八旗は、手厚く遇された[234]

台湾(1683年)

台湾は、オランダ統治時代から東南アジア - 明 - 日本(長崎)をめぐる中継貿易で栄えており、鄭氏政権でも引き継がれた。1670年頃から次第に遷界令が解除されてマカオを中心に密貿易が行われ、当局も黙認した。三藩の乱が起きると、台湾・福州・広州の密貿易はさらに増え、日本・シャム・バタヴィアなどの地域と取り引きをした。この状況は、康熙帝が乱を平定するまで続いた[235]

寧靖王朱術桂中国語版、魯王朱以海の世子朱弘桓中国語版ら明の皇族数人が台湾に行く鄭成功に従った。三藩の乱を鎮定した康熙帝は、帝国を拡大する戦役を開始した。清は福建省と台湾に残る明の遺臣に対してオランダ東インド会社と連合することで合意した。オランダには植民地支配の前哨基地として台湾を再征服する意図があった。1663年10月、連合艦隊は南明から廈門金門を奪取することに成功した。しかし清はオランダが台湾に植民地を維持し交易上の特権を迫ることへ疑念を深め、連合は崩壊した。水師提督の施琅はオランダへの台湾割譲に強く異議を申し立て、代わりに自分の遠征隊を派遣するよう要請した[236][237]

1683年、明遺臣の鄭氏が建てた東寧王国を占領するため、康熙帝は施琅に300隻の艦隊を与えて派遣した。施琅は澎湖海戦で勝利し、敗れた鄭成功の孫鄭克塽は投降し、施琅は康熙帝から海澄公の肩書で報いられた。鄭氏とその軍隊は八旗に加えられ、清政府は台湾島を放棄して澎湖島を東の境界とする検討もしたが、施琅は台湾保留を主張して、1684年に台湾府が設立された。寧靖王とその5人の妃は、捕虜に甘んずるよりも自殺することを選んだ[238][239]

経済

金融・財政

明の財政は初期には現物主義であったが、北方の防衛費として軍物資の代金を銀で収めるようになり、明末は銀を中心とした財政になった。北方での軍事費の増大によって大量の銀が運ばれて、全国で銀不足が起きた。銀不足によって税の滞納が増えると、困窮して逃亡する者が増えた。財政危機の対策として一条鞭法などの税制改革も行われたが、農村から徴税された銀は官僚や商人の懐に入り、銀不足は解消されなかった[240]。海上貿易で日本やアメリカから輸入される銀に依存していたが、海禁が強化された1650年代後半から遷海令が終了する1680年代まで銀の輸入が減り、物価が低落してデフレーションが深刻化した[注釈 25][242]

永昌通宝折五铜钱

明清交代時代は、各政権がみずからの正統性を主張するために銅貨(銅銭)を発行した。李自成政権の永昌通宝中国語版、張献忠政権の大順通宝、弘光政権の弘光通宝中国語版、隆武政権の隆武通宝、永暦政権の永暦通宝、魯王の大明通宝、呉三桂の昭武通宝などがある[243]

三藩の乱と清・ジュンガル戦争が終結すると、清の国内経済と貿易は成長を続けて康熙帝・雍正帝乾隆帝の3代は繁栄した。明からの税体系を変更して地丁銀制を実施し、減税にも関わらず国庫金は増加した[244]。しかし明末からの戦乱と人口減少によって経済活動は大きく縮小しており、一部の学者は、中国経済は1750年まで明末の水準に達しなかったと主張する[245]

貿易

遷界令による強制移住と海上貿易の減少は経済的に大打撃を与えた[244]。台湾の鄭氏政権が降伏すると、康熙帝は遷界令を解除した。施琅はオランダを台湾に返還して独占的な貿易拠点とする利益を狙ったが、1684年の展界令によって遷界令が取り消され、1685年から公式に貿易の再開が認められた[246]。海関として、江海関・浙海関・閩海関・粤海関の4箇所で貿易が設立され、海禁前と比べると東南アジアの比重が高くなり、イギリス東インド会社が参加するなどの変化があった[注釈 26]。東南アジア貿易が盛んになるにつれて、海外に住み着く華人も増加した。清は明と異なり華人の出航貿易を放任し、華僑が急増した[248]

農業・手工業

江南は稲の穀倉地帯だが、明末においては重税の地域でもあり、小作料を払ったあとの米は1年分の食料にも不足する量で、農民は納税用の銀を手に入れるために副業をした。副業として、養蚕と生糸の生産が盛んに行われた。生糸は重要な輸出品であり、貿易で生糸と交換された銀が国内に流通していた。生糸は高価だったが、養蚕には手間がかかり、生糸をとる器具のために農民は借金をした[249]。加えて豊かになった地主が都市に住むようになると、農村の実情を把握しなくなり、水田の維持が困難となった[250]

16世紀から、アメリカ大陸原産のトウモロコシ、ジャガイモ、サツマイモが導入された。これらの作物は、山地の傾斜地や荒地で栽培できたため、稲や麦などの主要作物と競合せずに栽培できた。このため栄養状態が改善してゆき、国内の混乱が収まる17世紀後半からは人口増加につながった。また、トウガラシやタバコも同じ時期に普及し、換金作物の幅も増えた[251]

所得

16世紀から明末にかけて所得格差が拡大した。16世紀初頭までは高級官僚の資産は一般人の10倍ほどだったが、やがて20万両〜30万両の中等商人や、100万両以上を持つ大商人も現れた。中でも徽州商人と山西商人が巨額の蓄財で有名だった[注釈 27]。商人の他に、士大夫と呼ばれる各地の官僚・文人も国家財政から利益を吸い上げて蓄財をして、引退後に贅沢な暮らしをすることが習慣化した。農村が困窮する一方で都市は繁栄を続け、この経済格差がのちに明を崩壊させる農民反乱の一因となった[253]。明末からの経済活動の縮小により、中国で最も豊かな地域である長江デルタの家族収入は、1820年になっても明の水準に達しなかったという説もある(ただし、同時代のイギリスとは同程度であった)[254]

文化

翻訳事業

1629年のヌルハチの命令により[255][256]、非常に重要とみなされた数多の漢語の著作がダハイにより満洲語に翻訳された[257]。翻訳された最初の著作は、満洲族が重視した漢語の軍事文献全てであった[258]。軍事文献『呉子』や『孫子』、『六韜』や『素書』、『三略』であった[259][260]。ダハイにより満洲語に翻訳された他の文献に明の刑法があった[261]。ダハイはさらに『資治通鑑』、『三国志』、『大乗経』、『孟子』、『六韜』などの翻訳にも着手したが、早逝により完成しなかった[262]。満洲族は軍務や軍事統治に関連する漢語の文献を大いに重視し、ホンタイジが瀋陽で統治した時期に、歴史や法律、軍事理論に関する漢語の文献が満洲語に翻訳された[263]。満洲語への翻訳は、軍事を題材にした中国の小説『三国志演義』から行われた[264][265][266]。ダハイによる翻訳同様に、他の中国文学や軍事理論、法律文献がエルデニにより満洲語に翻訳された[267]

明では、イエズス会の宣教師が布教のために訪れており、明の知識人はヨーロッパの知識人を西儒と呼んで交流した。マテオ・リッチと親交を結んだ徐光啓は、実用の学として『ユークリッド原論』を翻訳した『幾何原本』、西洋天文学を翻訳した『崇禎暦書』を出し、西洋の水力学をまとめた『農政全書』にも取りかかり、死後に出版された[注釈 28][269]

辮髪令

A black-and-white photograph from three-quarter back view of a man wearing a round cap and a long braided queue that reaches to the back of his right knee. His left foot is posed on the first step of a four-step wooden staircase. Bending forward to touch a cylindrical container from which smoke is rising, he is resting his left elbow on his folded left knee.
1900年頃のサンフランシスコ中華街の中国人男性。辮髪をする中国の習慣は、前頭部を剃り満洲民族のように辮髪に髪を結ぶように全男性に命じたドルゴンの1645年7月の布告から来ていた。

満洲族の風習である辮髪は、ヌルハチの後金国時代から漢人に求められた。ヌルハチは後金に従う漢人には辮髪を義務づけ、満洲人と漢人をともに住まわせた[49]。清政府になると、僧侶と道士をのぞく全ての男性は辮髪にする義務があった。漢人の風習は長い髪を束ねる髪型であったため反発を呼び、特に江南で激しい抵抗にあった。辮髪に従わない者には死罪で罰したため、「頭を留めんとすれば髪を留めず、髪を留めんとすれば頭を留めず」とも言われた[270]

1645年7月21日、江南地区が表面上は平定されると、ドルゴンは「自身の経歴で最も早まった発布」を行った[271]。全中国人男性に前頭部を剃り残りを満洲民族のように辮髪に結ぶよう命じた[注釈 29][275]。辮髪令はドルゴンに胡麻をするために数多の漢人から提案された[276]。新王朝へのこの象徴的な服従政策は、満洲民族が味方と敵対者を見分ける助けになった[注釈 30]。しかし漢人の官吏や知識人にとって新しい髪形は、(完全な身体を保ち続ける共通する儒教の方向性に違反するために)「屈辱的な退廃行動」であるが、庶民にとって断髪は「精力を失うに等しかった」[注釈 31]。断髪令は、清の支配に抵抗するあらゆる社会環境の漢人を団結させ、清の征服の勢いを削いだ[279][280][注釈 32]嘉定区松江区の反抗的な人々は、8月24日と9月22日にそれぞれ明の元将軍李成棟に虐殺された[282]江陰市では辮髪令がきっかけで住民の反乱が起き、富商の協力も得て約20万以上の清軍に対して81日間抵抗した。1645年10月9日に城壁が破られると、明の帰順者劉良佐英語版に率いられた清軍は、「刀を鞘に収める前に城内を兵隊で満たせ」と命じられ、74000人から10万人を虐殺した[283][284]。中国全土が安定する前に数十万人が殺された[285]

清が辮髪令を強制すると、多くの漢人帰順者が反対者の虐殺を行った。明の元将軍である李成棟は[286]、同じ月に行われた3つの虐殺を監督し、共に数万人が虐殺されて都市の人口を激減させた[287]。福州では明の元臣民は、当初は辮髪令に従うのに銀で埋め合わせたが、洪承疇将軍は1645年までに江南の住民に対して徹底的に政策を強制した[288][289]。漢軍八旗は繰り返し辮髪令を強制する担当を割り振られ、地元住民が軍に嫌がらせを受ける中でしばしば揚州大虐殺のような虐殺を齎した[290]。李成棟の漢人兵は、当地の辮髪に反対する漢人抵抗者や明一派を「蛮子」と呼び、強姦や拷問、虐殺をしながら「南蛮人は貴重品を譲れ」と言った[291]。広州市では1650年の明一派や市民の虐殺は、漢軍八旗の将軍尚可喜耿継茂英語版の命令で清軍により行われた[292][293]

文学・思想

石濤(1642年 – 1707年)は明の皇族英語版に関係があり、清への忠義を拒否した多くの芸術家や作家の一人であった。芸術史家クレイグ・クラナス英語版は石濤が1674年の作品『自写種松図』に詩を刻み、その詩で明の復興をほのめかしたとした[294]

伝統的な知識人階級である士大夫は、さらに明の敗戦によって実践的・道義的問題に直面した。すなわち、儒教の教えはを強調したが、良き儒者が忠誠を誓うべきは没落した明か、それとも新政権の清かという問題である。画家で明の遠縁の宗室である八大山人のように世捨て人になった者もいれば、孔子の末裔を名乗った孔尚任のように清政権を支持した者もいた。孔尚任は『桃花扇』という戯曲を書き、明は道徳が堕落したために没落したとした。詩人の中には、自己の感情と明末の史実を作品によって表現する者がおり、清の時代には多くが禁書とされた[注釈 33][296]。明末清初の詩人は現代の学術界でも注目を浴びている[注釈 34]。ほかにもの復興に貢献した江左三大家中国語版である龔鼎孶中国語版呉偉業銭謙益がいた[297]

清政府は官僚と文学者に対しては、文学の選集や批評の作成を奨励し、満洲文学英語版の発展や中国古典を中国語から満洲語に翻訳することも支援した。しかし、「反清復明」という言葉は依然として多くの人の口に上っていた。

清の初期の思想家には、黄宗羲顧炎武王夫之に代表されるように、心中は明に忠誠を誓う人々も多くいた。こうした人々は遺民、遺老などと呼ばれた[298]。一部は明末期のゆるみと贅沢に反発して、注意深い逐語的な研究と批判的思考を強調する考証学に転じた[299]。黄宗羲(明滅亡時は35歳)は体制批判を含む思想によって『明夷待訪録中国語版』を書いた。顧炎武(明滅亡時は32歳)は復社という政治結社で活動して、戦後20年近く各地で放浪生活を続けてから研究生活に入り、『日知録』や『音学五書』などを書いた。王夫之(明滅亡時は26歳)は永暦帝の政権にも参加したが廷臣の腐敗に失望して去り、郷里で研究をして『資治通鑑』の研究書『読通鑑論』や、『春秋』の研究書などを書いた[300][301][302]。知識人の中には日本へ亡命した者もおり、朱舜水水戸藩に迎えられて徳川光圀など水戸学派の学者たちと交流をした。福建出身の僧である隠元は、徳川家綱に招かれたのちに山城国黄檗山万福寺を創設した[注釈 35][303]

教育・歴史記述

清政府は統治に合法性をもたせるために、1652年に民衆教化の方針を出し、教育政策を進めた。また、王陽明については没後に弾劾を行い、他方で義学と呼ばれる寄付金で設立する学校を推進した[304]。他方、征服された側の体験者の記録として、『揚州十日記』や『嘉定屠城紀略』があり、清の時代では流通が許されなかった[22]

女真族は、ヌルハチにより八旗に再組織された際に、多くの満洲の氏族が無関係な人々のグループから人為的に作り上げられた。彼らは新たな満洲の氏族(ムクン)を形成し、ハラ(氏族名)として地名など地理的な起源の用語を用いた[305]。女真と満洲の氏族の起源譚が整合性を欠いたため、清は満洲の諸氏族の歴史を創造し、文書化・体系化しようとした。中国東北地方の神話に範をとった、愛新覚羅氏族の起源にまつわる伝説全体の創作もその中に含まれ、『満洲実録』に記録された[306][307]

ホンタイジによる女真族から満洲族への改名は、満洲族の先祖建州女真が漢人の支配を受けた事実を隠すことにあった[308][309][310][311]。満洲族の愛新覚羅氏が明に支配されていたことを示すために公衆の目に触れることを禁じながら、清の宮廷に「清太祖五皇帝実録」と「満洲実録図」(太祖実録図)の初版本を注意深く隠した[312][313][314]。明の時代の朝鮮王朝の朝鮮人は、明の一部である鴨緑江と豆満江の上流にある朝鮮半島北部の女真の居住地を「上国」と呼んだ[315]。清は明との関係を慎重に隠すために『明史』から明に対して女真(満洲族)が卑屈であることを示す言及や情報を除外した。このために明実録は明史の出典に使われなかった[316]。清の建国者が明の従者であったという明史での言及を拒否することは、反乱の非難を避ける意味合いがあった[317]

影響

「中国」という名称

ドゥリンバイ・グルン ドゥリンバイ・グルンは中国を表す満洲語の名称である[318][319][320]。明を征服した後、清は自国を「中国」として認識し、国を「ドゥリンバイ・グルン」と呼ぶようになった(満洲語で「中国」の意味であり、「ドゥリンバイ」が「中」で「グルン」が「国」である)。清はさらに(中国語と満洲語における)中国を自国の領土、すなわち現代の新疆、満洲、モンゴル、チベットなどの地域を含む領土と同義であるとした。これは中国が漢族の地域を表すだけだという考えを否定し、漢族と非漢族の両方で構成される多民族国家であるという考えを採用することを意味した。これ以降、清は公文書、国際条約、外交などで自国を指す言葉として「中国」を用い、中国語(ドゥリンバイ・グルン・イ・ビテ)は漢語や満洲語、モンゴル語を指し、中国人(ドゥリンバイ・グルン・イ・ニヤルマ)という用語は、清の漢族や満洲族、モンゴル族の臣民全てを指した[321]。清の治世初期、漢民族の多くは満洲族に隷属したが、後に漢民族の中でも出世して権力を持ち、奴隷を所有するようになった者もいた[322]

1820年の清

1759年に清・ジュンガル戦争が終結してジュンガルが敗北を喫したとき、清はジュンガルの領土が中国(ドゥリンバイ・グルン)領域に併合されたと満洲語の記念碑で宣言した[323][324][325]。清はハルハや内モンゴル族、オイラトのような(当時オイラト汗国の支配を受けていたチベット族を含む)国外の民族を、国内の漢族と統一して清の支配を受ける「一家」にしているとの思想を広め、その思想を示すために「中外一家」や「内外一家」といった語彙を使用した[326]。また、1727年に清とロシア帝国の間でキャフタ条約が締結されたが、逃亡者の相互引き渡しに関する条項において清の臣民は満洲語版の条約で「中国(ドゥリンバイ・グルン)人民」と呼称された[327][328]。さらに、清の官僚トゥリシェンヴォルガ・トルグート部に派遣され、部族長アユーキ・ハーン英語版と会談したが、トゥリシェンがそのときの経歴について記した『異域錄中国語版』(1723年)ではトルグートがロシア人と似ていないものの、「中国人」(満洲人)とは似ていると記述されている[329]

人口の変化

李自成と張献忠率いる反乱、およびその直後の清による侵攻は、中国史上最も破壊的な戦争の一つであった。破壊の例に揚州大虐殺があり、(現代では誇張とみなされているものの)[330]女性や子供を含む約80万人が虐殺された[331]。清は揚州や広州のように抵抗した都市では虐殺を行ったが、北京や南京のように降伏した都市では虐殺を行わなかった。例えば、南京では官僚全員が降伏して寝返った[332]。一方、四川省では張献忠が屠蜀中国語版と呼ばれる虐殺を行い、60万から600万人の市民を殺した[333]。また陝西省では明の末期より大規模飢饉が発生しており、張献忠と李自成が反乱を起こす原因となり、反乱軍による残虐行為は中国北部に広がった[334]。最終的には明清戦争を通じて約2500万人が死亡した[245]

三藩の乱が平定されると、康熙帝の時代から人口は急増する。17世紀末には1億5000万人で、18世紀末には3億人を超えた。理由としては、(1)人口調査によって正確性が高まった点。康熙帝は人口を正しく把握するために、人頭税(丁銀)の制度を変えて税負担が増えないようにした[注釈 36]。(2)栄養状態の改善。16世紀までは農作物の端境期の死亡率が高く、慢性的な栄養不足の状態にある人々が多かったが、作物の変化など17世紀後半から改善された[注釈 37][337]

災害

明末には旱魃、洪水、イナゴによる飢饉が起きており、特に1639年から1642年頃には全国的な飢饉が起きた。この時期は東アジアの他の地域でも飢饉が起きており、日本では寛永の大飢饉の時期にあたる[60]。穀倉地帯も飢饉によって生産力を失ったので、長江デルタの都市部や沿岸の南東部、北西部は、全て飢饉に襲われた[338]。平地や村は、餓死しかけた難民や災害で両親を亡くした孤児、給料の未払いや解雇された駅卒や兵士がおり、1642年には中国全土で盗賊や叛徒に転じた[注釈 38][340]。農民は数百万人単位で家を放棄して流賊になり、各地で略奪して回った[341]。以下は飢饉の一例である。

湖広行省では1636年の大規模な旱魃が黄陂区を襲い、疫病や蝗害、飢饉がいたるところで起きて、1641年には北部へ拡大した。死体が生存者にとっての唯一の食糧であった[340]江西省浙江省では1637年の大規模な飢饉で人々は土壌や消化できるものを口にした。南直隷江蘇省安徽省)では1641年から1642年にかけて災害が二度襲い、大運河から拡大した。人口の減少で農作物が耕作されず、飢饉はさらに悪化した[342]浙江省の北部では10人中9人が死亡した。湖州市では1640年から1642年にかけて人口の3割が疫病や飢餓で死亡し、田園地帯が飢饉で打撃を受けた[341]。杭州市は1640年から1642年にかけての飢饉で人口の50%を失い、貧民は昆虫の繭やカイコを食べ、金持ちは薄い粥を食べた[343]河南省が1641年に疫病の蔓延に襲われた際には、10人中3人しか生き残れなかった[344][345]

八旗

ヌルハチやホンタイジの時代には、亡命して満洲八旗となる漢人がいた。のちに撫順尼堪と台尼堪になる遼東半島出身の漢軍八旗が、女真族(満洲族)に亡命する1618年から1629年の間のことであった[346]。漢人に起源のある満洲氏族は、元々の漢人姓を使い続け、清の満洲氏族一覧英語版で漢人起源のものとして記録された[347][348]

また、順治帝の時代以降、東北部に移った八旗の中には内地から編成された漢人も多数おり、東北部の満洲八旗の半数近くが漢人だった。康熙帝の時代には盛京の漢人八旗が数千人削減されたが、この漢人たちは退役後も旗人の身分を持ったままで農民となった[349]。漢軍八旗の選り抜き部隊の中には皇室付きの者もおり、清により満洲八旗に大挙して移行した。台尼堪と撫順尼堪の漢軍八旗は[350]、清の乾隆帝の命令により1740年に満洲八旗に移行している[351]

八旗は、皇帝から支給された土地(旗地)を使って生活費や軍馬などの費用を負担する制度だった。しかし旗人の経済は三藩の乱ののちに奢侈が進んで次第に破綻し、雍正帝の時代になると、旗人は清政府から費用を支給されて生計を立てるようになった。このため雍正帝は八旗を改革した[352]

台湾

台湾は、オランダの入植時代には貿易拠点であったが、鄭氏政権が樹立してから漢人の人口が急増した。平地の開発が進んで森林は水田となり、漢人社会が定着して台湾先住民はほとんどが山地で暮らすことを余儀なくされた[353]。鄭氏政権に仕えていた台湾先住民の部隊である藤牌営中国語版は、政権が清に降伏すると清軍に加わり、のちに清露国境紛争に従軍して、アルバジン砦のロシアコサックに対して戦った。台湾に残っていた17人の明の皇族はほとんどが清によって大陸に送り返され、そこで余生を過ごした[354][355]

鄭氏政権の宮殿は1683年に施琅の本営として使われたが、施琅は台湾で続く抵抗を鎮めるための宣伝方法として媽祖廟に転換するよう康熙帝に請願書を提出した英語版。康熙帝は翌年大天后宮中国語版として開所することに同意し、清の侵攻に対する媽祖の神徳に感謝して、従前の「天妃」から「天后」に神位を進めた。こうして台湾は媽祖信仰にとって重要な場所となった[238][239]

日本

明清交替がなされた1644年は、日本では徳川家光の時代だった。江戸幕府は鎖国政策をとっていたが、南明からの救援の要請が日本にも来た。1645年には水師の崔芝、1658年には鄭成功や魯王からの要請があった。いずれも幕府は要請には応えなかったが、情勢は幕府の関心を引き、情報の収集が行われた。当時は中国から来航する船を唐船と呼び、長崎奉行は唐船から集めた情報を唐船風説書という記録にまとめて幕府に報告した。儒官の林鵞峰林鳳岡は唐船風説書をもとに、1644年から1671年までの情報を『華夷変態』という書物に編纂した。題名は、華(明)から夷(清)への変動を意味する。幕府は明清交替の情報を正式には公開しなかったが、民間にも情報は伝わっており、近松門左衛門は鄭成功をモデルにした浄瑠璃国姓爺合戦』を書いた[356]

辛亥革命への影響

明から清への移行期の残虐行為の記録は、清が滅亡する際に満洲族に対する虐殺の推進に用いられた。満洲八旗と家族は、革命期に中国各地の八旗駐屯地数か所で虐殺され、虐殺の一つは西安で行われた。回族のムスリム社会は、1911年の辛亥革命のための支援で分断された。陝西省の回族は革命を支持し、甘粛省の回族は清を支持した。西安(陝西省)の回族は、西安の2万人の全満洲族を虐殺することで漢人の革命に参加した[357] [358]馬安良英語版将軍率いる甘粛省の回族は清の側に立ち、西安市の反清革命を攻撃する準備をした。身代金を要求された一部の豊かな満洲族と満洲族の女性だけが生き残った。豊かな漢族は、満洲族の少女を奴隷にし、貧しい漢族の兵隊は、若い満洲族の女性を妻にした[359]。満洲族の少女も虐殺期に西安の回族に捕えられ、ムスリムとして育てられた[360]

年表

  • 1607年 - ヌルハチが後金を建国。
  • 1618年 - ヌルハチが明に対する七大恨を掲げる。
  • 1619年 - サルフの戦いで後金軍が明軍に勝利。
  • 1626年 - ヌルハチ死去。ホンタイジが後継者として即位。
  • 1627年 - 後金軍が朝鮮王朝を攻撃(丁卯胡乱)
  • 1635年 - 女真が満洲に改称。
  • 1636年 - ホンタイジが国号を後金から清に改称。
  • 1639年1642年 - 全国規模で飢饉が起き、農民反乱が拡大する。
  • 1642年 - 松山の戦いで清軍が勝利。洪承疇が清軍に投降。
  • 1643年 - 李自成の農民反乱軍が西安を占領。
  • 1643年8月 - ホンタイジが死去。順治帝が即位。
  • 1644年2月 - 李自成が西安で順を建国。
  • 1644年3月19日 - 李自成軍が北京を占領。
  • 1644年4月25日 - 崇禎帝が自殺。李自成が北京を占領。
  • 1644年5月27日 - 呉三桂がドルゴンに投降。一片石の戦いで清軍が李自成軍に勝利。
  • 1644年6月6日 - 清軍が北京を占領。
  • 1644年6月19日 - 崇禎帝の最初の従兄弟である福王が、南京で弘光帝として即位。
  • 1645年6月 - 清軍により李自成が死亡。
  • 1645年4月-5月 - 揚州大虐殺。
  • 1645年6月 - 清軍が南京を占領。
  • 1645年8月 - 朱聿鍵が隆武帝に即位。
  • 1646年10月 - 清軍により隆武帝が死亡。
  • 1646年12月 - 隆武帝の弟朱聿が紹武帝に即位。朱由榔が永暦帝に即位。
  • 1661年 - 順治帝が死去。康熙帝が即位。
  • 1661年 - 清が遷界令を施行。
  • 1662年 - 清軍により永暦帝が死亡。
  • 1662年 - 鄭成功が台湾でオランダに勝利。鄭氏政権を樹立。
  • 1673年 - 三藩の乱。
  • 1681年 - 清軍が三藩の乱を制圧。
  • 1683年 - 清軍が澎湖海戦で鄭氏政権に勝利。鄭克塽が康熙帝に降伏。

関連項目

出典・脚注

注釈

  1. ^ 万暦帝期の前半には宰相の張居正が大規模な改革で財政を好転させたが、張の病死によって改革は10年間で終了した[7]
  2. ^ 万暦の三征は、オルドスで起きたモンゴル族によるボハイの乱豊臣秀吉による文禄・慶長の役(中国では抗倭援朝、朝鮮では壬辰倭乱・丁酉倭乱と呼ぶ)、ミャオ族の楊応龍が起こした楊応龍の乱を指す。万暦の三征に要した費用は合計1200万両近くとなった[8]
  3. ^ 監税使に対する反乱を、イエズス会のマテオ・リッチが目撃した記録がある。通行税を徴収しようとした馬堂という宦官が、数百人の部下を使って白昼に財産の没収をしたため暴動が起きたが、民衆の主導者が処刑されて馬堂はそのまま居座り、リッチは所持品を奪われた[20]
  4. ^ マンジュの由来は文殊菩薩の原語マンジュシリとされ、東北地方に近い山西省の五台山は文殊菩薩信仰で知られる。ヌルハチは普段から数珠を手にしていたという伝承もある[25]
  5. ^ 朝鮮王朝の使者である申忠一は、女真の農村の様子を『建州紀程図記』に記録している[26]
  6. ^ のちに対外的には後金を国号とする際にも、国内ではマンジュと称していた。マンジュという国名は、ヌルハチを継いだホンタイジが清を建国した時になくなり、それ以降マンジュという言葉はジェシェンに代わり民族の呼称となった[25]
  7. ^ モンゴル帝国の時代から、ハンは中央以外の有力者を指す称号で、中央の正統な支配者だけがハーンと称した[30]
  8. ^ 李成梁が解任された理由は、ヌルハチから賄賂を受け取り、漢人が開拓した土地を放棄してヌルハチに領有させたというものであった[34]
  9. ^ 同化した年は、1601年:ハダ、1607年:ホイファ、1613年:ウラ、1619年:イェヘ[38]
  10. ^ 明の記録では、瀋陽は守りを固めていたが、後金軍が東門を攻撃した時に城内のモンゴル人が門を開いたという[46]
  11. ^ 清の時代になって北京に遷都したのちは、盛京は副都となった[47]
  12. ^ リンダン・ハーンは青海への移動中に病死し、後金の征服を容易にした[56]
  13. ^ 給与を受け取れずに困窮した兵士の中には、妻子を売り、武器を質入れした者もいた。こうした兵士が反乱に加わった[59]
  14. ^ ほかに助言した漢人官吏として、寧完我中国語版馬国柱中国語版、祖可法、沈佩瑞、張文衡らがいる[64]
  15. ^ 捕えられた明の司令官張春が投降を拒否した時は、ホンタイジは誠実さを示すために個人的に食事を提供した。張は依然拒否したが、死ぬまで寺に留め置かれた[66]
  16. ^ 投降した他の漢人将校には、馬光遠や呉汝玠、祖大寿、全節、祖沢洪中国語版、祖沢溥、祖沢潤、鄧常春、王世選、劉武元中国語版、祖可法、張存仁中国語版、孟喬芳、孫定遼がいた[93][94]。貴族の地位と軍事階級や銀、馬、官職が長寸任や孫定遼、劉武元、劉良臣、祖沢洪、祖沢溥、祖可法、祖沢潤のような投降者に与えられた[95][96][97]
  17. ^ ホンタイジは朝鮮への侵攻に先立ち、沿岸進入路を確保するためにアバタイやジルガラン、アジゲを送り、そのために明は朝鮮に援軍を送れなかった[110]
  18. ^ その名は彼らの居住地に流れるフルカ川=牡丹江に由来する[122]
  19. ^ 1641年の錦州は、ジルガランが率いる漢人砲兵隊の30を超す大砲に包囲された。ユ・イムが指揮する朝鮮の砲兵隊が支援したが、朝鮮人は疫病の発生で無力になった[126]
  20. ^ 均田免糧を提案したのは、李自成軍に参加した李巌だった。李巌は他に富裕者の財産を分配したり、兵士が婦女を姦淫した場合は死刑とするなど農民軍の規律を守るために働いた[129]
  21. ^ ドルゴンはかつてヌルハチの領旗であり、 満洲八旗の最有力軍団である白旗を領有していた[137]
  22. ^ 遷界令は、かつて明が倭寇対策として行った政策を参考としている[163]
  23. ^ 弘光帝の宮廷を弱体化させた分派論争の例については、Wakeman 1985, pp. 523–543を参照されたい。
  24. ^ 一例にあげると、呉三桂は茶馬貿易の利益、関税や塩税の徴収、鉱山開発や銅貨(銅銭)の発行などで清政府から経済的に自立をしていた[227]
  25. ^ 唐甄中国語版の『潜書』には、穀物は安いのに食べられず、布は安いのに着ることができず、商人の船は貨物が売れず、中産の家でも10日間も1両の銀や一緡の銅貨も見ず、百貨はみな動かず、豊年も凶作の如きありさまなどと書かれている[241]
  26. ^ 東南アジアの主な取引先は、マニラ、バタヴィア、ベトナム、タイなどだった[247]
  27. ^ 米価を基準に計算すると、100万両は1998年時点の日本円で600億円〜700億円となる[252]
  28. ^ 徐光啓が実用の学に興味を持ったのは、当時の満州族の勃興に危機感をいだいた点にもあった[268]
  29. ^ ドルゴンは、満洲民族や皇帝自身が全て辮髪にしている事実を強調した。辮髪令と剃髪の結果として、漢人が満洲民族や清の皇帝のように見えることになり、人々が父のような皇帝の息子のようであるとする儒教の概念を呼び起こすと主張した[272][273][274]
  30. ^ 「満洲民族の視点からは髪を切るか首を失うかの命令は、支配者と臣民を共に画一的な身体的類似にさせるだけでなく、完全な忠誠試験も行った。」[277]
  31. ^ 孝経』では孔子は「親から贈られた身体と髪は痛めつけてはならない」と言ったと言及されている。「これは子に相応しい敬愛の始まりである(身体髮膚、受之父母、不敢毀傷、孝之始也)」。清に先立ち大人の漢人男性は、習慣として髪を切らなかったが、辮髪にしたとはいえ髷の形にした。[278]
  32. ^ 「断髪令は他の活動以上に1645年の江南で抵抗を生じさせた。満洲民族と漢人を一体化させる支配者の努力は、邪魔者に対して中国中部と南部で上流階級の先住民と下流階級の先住民を融合する効果があった。」[281]
  33. ^ 閻爾梅中国語版の「聖人は史を以って王を尊び、学者は詩を以って史に代う」や、陳恭尹中国語版の「兵戦は一国の敵、文戦は万古の敵」などの言葉が残されている[295]
  34. ^ 例としてはFong 2001Chang 2001Yu 2002Zhang 2002がある。
  35. ^ インゲンマメは、隠元が持ち込んだという説がある[303]
  36. ^ 清は、民族面では少数の満州族が漢人を支配する帝国であり、康熙帝は領土の視察を通して人口の正確な把握が必要だと考えた[335]
  37. ^ 米価は17世紀後半から上昇を続け、豊作の年も米価は安くならなかった。このため米価上昇の主な原因は人口増加にあったとされる[336]
  38. ^ 明史』によれば、1638年には「両京、山東、河南で大旱蝗(旱魃と蝗害)」、1640年には「両京、山東、河南、山西、陝西で大旱蝗」、1641年には「両京、山東、河南、浙江で大旱蝗」という記録がある[339]

出典

  1. ^ Crossley 2000, p. 196, [1].
  2. ^ a b Forsyth 1994, p. 214, [2].
  3. ^ a b 山根 1999a, pp. 78–86.
  4. ^ Li, Dray-Novey, Kong 2008, pp. 565–573.
  5. ^ 岸本, 宮嶋 1998, p. 224.
  6. ^ Fan 2010, pp. 565–573.
  7. ^ 山根 1999a, pp. 76.
  8. ^ 山根 1999a, pp. 78.
  9. ^ 山根 1999b, pp. 89.
  10. ^ Wakeman 1985, pp. 37–39.
  11. ^ 松浦 1995, pp. 33.
  12. ^ 岸本, 宮嶋 1998, pp. 208–211.
  13. ^ a b 岸本, 宮嶋 1998, pp. 213–214.
  14. ^ a b 松浦 1995, pp. 28.
  15. ^ a b Watson & Ebrey 1991, p. 175, [3].
  16. ^ Naquin 1987, p. 141.
  17. ^ Fairbank, Goldman 2006, p. 2006.
  18. ^ Summing up Naquin/Rawski”. pages.uoregon.edu. 2019年8月15日閲覧。
  19. ^ 神田 1999, pp. 331–332.
  20. ^ 上田 2005, pp. 264–265.
  21. ^ 高島 2004, pp. 第3章.
  22. ^ a b 岸本, 宮嶋 1998, p. 232.
  23. ^ Li, Dray-Novey, Kong 2008, p. 36.
  24. ^ 岸本, 宮嶋 1998, p. 237-242.
  25. ^ a b 松浦 1995, pp. 58.
  26. ^ 松浦 1995, pp. 128–130.
  27. ^ a b 神田 1999, p. 295.
  28. ^ Wakeman 1975a, p. 83, [4].
  29. ^ 神田 1999, pp. 300–301.
  30. ^ 森川 1999, p. 注544.
  31. ^ 神田 1999, p. 303.
  32. ^ Wakeman 1985, pp. 55–57.
  33. ^ 松浦 1995, p. 166.
  34. ^ a b 神田 1999, p. 304.
  35. ^ 神田 1999, pp. 304–5.
  36. ^ 松浦 1995, pp. 191–194.
  37. ^ 松浦 1995, pp. 198–200.
  38. ^ 神田 1999, pp. 301–302.
  39. ^ a b Crossley 2002, pp. 62, 64, [5].
  40. ^ Fairbank 2002, p. 30, [6].
  41. ^ 神田 1999, pp. 304–305.
  42. ^ Hummel 2010, p. 269.
  43. ^ Schlesinger 2017, p. 64, [url=https://books.google.com/books?id=aCKaDQAAQBAJ&pg=PA64].
  44. ^ Smith 2017, p. 68, [7].
  45. ^ Crossley 2000, p. 194, [8].
  46. ^ 松浦 1995, p. 233.
  47. ^ a b c 神田 1999, p. 306.
  48. ^ 松浦 1995, p. 244-249.
  49. ^ a b 神田 1999, p. 307.
  50. ^ 松浦 1995, p. 第8章.
  51. ^ Swope 2014, p. 64.
  52. ^ a b c 神田 1999, pp. 310.
  53. ^ a b Swope 2014, p. 65.
  54. ^ Elverskog 2006, p. 14, [9].
  55. ^ Wakeman 1985, p. 860, [10].
  56. ^ a b 神田 1999, pp. 312–313.
  57. ^ Wakeman 1985, pp. 201–203.
  58. ^ Wakeman 1985, pp. 196–197.
  59. ^ 山根 1999b, pp. 92.
  60. ^ a b 岸本, 宮嶋 1998, pp. 224–225.
  61. ^ a b 岸本, 宮嶋 1998, p. 222.
  62. ^ 神田 1999, pp. 311–312.
  63. ^ Swope 2014, pp. 96–101.
  64. ^ a b Wakeman 1985, pp. 204–208.
  65. ^ a b 神田 1999, p. 313.
  66. ^ Wakeman 1985, pp. 179–180.
  67. ^ Wakeman 1985, pp. 160–167.
  68. ^ Walthall 2008, p. 154, [11].
  69. ^ 李永芳将军的简介 李永芳的后代-历史趣闻网”. www.lishiquwen.com. 2019年8月15日閲覧。
  70. ^ 曹德全:首个投降后金的明将李永芳 — 抚顺七千年(wap版)”. www.fs7000.com. 2016年10月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年8月15日閲覧。
  71. ^ 第一個投降滿清的明朝將領結局如何?”. read01.com. 2019年8月15日閲覧。
  72. ^ Rawski 1998, p. 72–, [12].
  73. ^ a b Watson & Ebrey 1991, pp. 179–180, [13].
  74. ^ Walthall 2008, p. 148, [14].
  75. ^ Wakeman 1975a, p. 79, [15].
  76. ^ Wang 2004, p. 212–222, [https://web.archive.org/web/20140111230216/http://www.chss.iup.edu/chr/CHR-2004Fall-11-WANG-research%20notes-final.pdf.
  77. ^ Walthall 2008, p. 140, [16].
  78. ^ a b Wakeman 1985, p. 478, [17].
  79. ^ Transactions, American Philosophical Society (vol. 36, Part 1, 1946). American Philosophical Society. pp. 10–. ISBN 978-1-4223-7719-2. https://books.google.com/?id=g08LAAAAIAAJ&pg=PA10&dq=Marriages+between+Manchu+girls+and+Chinese+deserters+were+officially+promoted+during+the+early+years+of+the+dynasty.#v=onepage&q=Marriages+between+Manchu+girls+and+Chinese+deserters+were+officially+promoted+during+the+early+years+of+the+dynasty.&f=false 
  80. ^ Wittfogel 1949, p. 10, [18].
  81. ^ Owen Lattimore. Manchuria, Cradle of Conflict. https://books.google.com/?id=gnlCAAAAIAAJ&q=Not+only+was+intermarriage+free+%28between+Manchus+and+Chinese+Bannermen%29,+but+it+was+certainly+possible+for+a+Chinese+Bannerman,+moving+north+into+a+district+so+preponderantly+Manchu+that+no+Chinese+Banners+were+maintained,+to+change+his+registration+to+a+Manchu+Banner;+although+technically+the+change+of+registration+was+supposed+to+be+only+temporary.+Thus+the+distinction+between+the+Bannermen+as+a+group+and+non-Bannermen+as+a+group+included+Chinese+among+the+privileged....+Thus,+in+the+case+of+laws+prohibiting+Manchus+from+intermarrying+with+Chinese,+it+ought+to+be+much+better+known+that+in+fact+there+was+no+restriction+on+marriage+between+Manchus+and+Chinese+Bannermen&dq=Not+only+was+intermarriage+free+%28between+Manchus+and+Chinese+Bannermen%29,+but+it+was+certainly+possible+for+a+Chinese+Bannerman,+moving+north+into+a+district+so+preponderantly+Manchu+that+no+Chinese+Banners+were+maintained,+to+change+his+registration+to+a+Manchu+Banner;+although+technically+the+change+of+registration+was+supposed+to+be+only+temporary.+Thus+the+distinction+between+the+Bannermen+as+a+group+and+non-Bannermen+as+a+group+included+Chinese+among+the+privileged....+Thus,+in+the+case+of+laws+prohibiting+Manchus+from+intermarrying+with+Chinese,+it+ought+to+be+much+better+known+that+in+fact+there+was+no+restriction+on+marriage+between+Manchus+and+Chinese+Bannermen 
  82. ^ Wakeman 1985, pp. 1017–, [19].
  83. ^ Rawski 1998, pp. 66–67.
  84. ^ Wakeman 1985, pp. 868, 872, [20].
  85. ^ Wakeman 1985, pp. 39, 42, 44, [21].
  86. ^ Wakeman 1985, pp. 60–61, 200.
  87. ^ Wakeman 1985, p. 210.
  88. ^ Chʻing Shih Wen Tʻi. Society for Qing Studies. (1989). p. 70. https://books.google.com/?id=3nMzAAAAMAAJ&q=The+capitulator+in+this+case+of+1638,+Shen+Zhixiang,+made+a+critical+addition+to+Hung+Taiji%27s+war+machine,+but+his+late&dq=The+capitulator+in+this+case+of+1638,+Shen+Zhixiang,+made+a+critical+addition+to+Hung+Taiji%27s+war+machine,+but+his+late 
  89. ^ Graff & Higham 2012, p. 116, [22].
  90. ^ 神田 1999, pp. 303–304.
  91. ^ Di Cosmo 2007, p. 6.
  92. ^ Wakeman 2009, pp. 99-, [23].
  93. ^ Chʻing Shih Wen Tʻi. Society for Qing Studies. (1989). p. 97. https://books.google.com/?id=3nMzAAAAMAAJ&dq=The+capitulator+in+this+case+of+1638%2C+Shen+Zhixiang%2C+made+a+critical+addition+to+Hung+Taiji%27s+war+machine%2C+but+his+late&q=shen+zhixiang 
  94. ^ Gregory 2015, p. 84.
  95. ^ Naquin 1987, p. 141.
  96. ^ Fairbank, Goldman 2006, p. 2006.
  97. ^ Summing up Naquin/Rawski”. pages.uoregon.edu. 2019年8月15日閲覧。
  98. ^ Naquin 1987, p. 141.
  99. ^ Fairbank, Goldman 2006, p. 2006.
  100. ^ Summing up Naquin/Rawski”. pages.uoregon.edu. 2019年8月15日閲覧。
  101. ^ James A. Millward; Ruth W. Dunnell; Mark C. Elliott et al., eds (31 July 2004). New Qing Imperial History: The Making of Inner Asian Empire at Qing Chengde. Routledge. pp. 16–. ISBN 978-1-134-36222-6. https://books.google.com/?id=6qFH-53_VnEC&pg=PA16&dq=created+a+multi-ethnic+force+composed+of+Jurchen,Mongols,+and+%E2%80%9Ctransfrontiersmen%E2%80%9D+which+they+organized+into+Manchu,Mongol,+and+%E2%80%9CHan%E2%80%9D+banners.+The+banners+were+military+units+which+alsoserved+as+units+of+household+registration+for+the+Manchus+and+their+allies.Manchus+comprised+only+a+fraction+of+the+army+that+swept+into+China+in1644. 
  102. ^ Crossley 2000, pp. 95-, [24].
  103. ^ Kimberly Kagan (3 May 2010). The Imperial Moment. Harvard University Press. pp. 95–. ISBN 978-0-674-05409-7. https://books.google.com/?id=Ai1_5IHQ9vsC&pg=PA95&dq=nikan+banners#v=onepage&q=nikan%20banners&f=false 
  104. ^ Di Cosmo 2007, p. 23.
  105. ^ Graff & Higham 2012, p. 117, [25].
  106. ^ Nolan 2008, p. 30-, [26].
  107. ^ Ross 1880, p. 198-, [27].
  108. ^ 神田 1999, pp. 312.
  109. ^ 神田 1999, p. 316.
  110. ^ a b Swope 2014, p. 115, [28].
  111. ^ 神田 1999, pp. 316–317.
  112. ^ Thackeray 2012, p. 200, [29].
  113. ^ Hummel 1991, pp. 217, [30].
  114. ^ Hummel, Arthur W., ed (1943). 清代名人傳略: 1644–1912. 經文書局. p. 217. https://books.google.com/books?id=Hs8LhXwRqPgC 
  115. ^ Wakeman 1985, p. 892, [31].
  116. ^ Dawson 1972, p. 275.
  117. ^ Dorgon”. Eminent Chinese of the Ch'ing Period. Dartmouth College. 2019年8月15日閲覧。
  118. ^ 梨大史學會 (Korea) (1968). 梨大史苑, Volume 7. 梨大史學會. p. 105. https://books.google.com/?id=IN42AAAAIAAJ&q=dorgon+korean+princess&dq=dorgon+korean+princess 
  119. ^ The annals of the Joseon princesses. - The Gachon Herald”. www.gachonherald.com. 2019年8月15日閲覧。
  120. ^ Kwan 1995, p. 217, [32].
  121. ^ Lattimore 2008, pp. 114–, [33].
  122. ^ 松浦 1995, pp. 97.
  123. ^ Crossley 2000, p. 196, [34].
  124. ^ Forsyth 1994, p. 213, [35].
  125. ^ Wakeman 1985, p. 142.
  126. ^ a b Wakeman 1985, p. 212.
  127. ^ Wakeman 1985, p. 215.
  128. ^ 神田 1999, p. 318.
  129. ^ 山根 1999b, pp. 94–95.
  130. ^ 山根 1999b, pp. 91–94.
  131. ^ 山根 1999b, pp. 94.
  132. ^ Struve 1988, p. 641.
  133. ^ 岸本, 宮嶋 1998, pp. 229.
  134. ^ 山根 1999b, p. 98.
  135. ^ 【参考资料:《明史》《怀陵流寇始终录》等】. https://baike.baidu.com/tashuo/browse/content?id=f39dc6c737b12e4079767937&lemmaId=5589950&fromLemmaModule=pcBottom 
  136. ^ a b 山根 1999b, pp. 98–99.
  137. ^ 磯部 2007, p. 7.
  138. ^ 磯部 2007, p. 9.
  139. ^ 磯部 2007, p. 20.
  140. ^ 磯部 2007, pp. 288–289.
  141. ^ Wakeman 2009, pp. 302–303, [36].
  142. ^ Wakeman 1985, p. 290.
  143. ^ Wakeman 1985, pp. 294–295, [37].
  144. ^ a b Wakeman 1985, p. 296.
  145. ^ a b Wakeman 1985, p. 304.
  146. ^ a b c 岸本, 宮嶋 1998, p. 230.
  147. ^ Dennerline 2002, p. 81.
  148. ^ Wakeman 1985, p. 308.
  149. ^ Wakeman 1985, pp. 310–312.
  150. ^ 細谷 1999a, p. 320-322.
  151. ^ 細谷 1999a, p. 323-324.
  152. ^ Wakeman 1985, p. 257.
  153. ^ Wakeman 1985, pp. 442, 445, 446–447.
  154. ^ Wakeman 1985, p. 1038, [38].
  155. ^ Enatsu 2004, p. 24, [39].
  156. ^ Spencer 1990, p. 41.
  157. ^ Spence 1988, pp. 4–5.
  158. ^ Di Cosmo 2007, p. 7.
  159. ^ Wakeman 1985, p. 1020.
  160. ^ Wakeman 1985, pp. 480–481.
  161. ^ Di Cosmo 2007, p. 9.
  162. ^ Ho 2011, p. 135.
  163. ^ a b 細谷 1999a, p. 332.
  164. ^ Ho 2011, p. 198.
  165. ^ Song 2018, [40].
  166. ^ Dai 2009, p. 15.
  167. ^ Wakeman 1985, p. 893.
  168. ^ 山根 1999b, pp. 102–104.
  169. ^ Wakeman 1985, p. 317.
  170. ^ Wakeman 1985, pp. 482–483.
  171. ^ Wakeman 1985, pp. 501–507.
  172. ^ Wakeman 1985, pp. 681–682.
  173. ^ 『世祖章皇帝実録』巻15:“甲午。蒋家峪男妇聚集二百余人。号称善友。利民堡参将王守志乘机搜掠遂致激变。宣大巡按张民骏以其事闻鞫实。守志伏诛。”
  174. ^ 林伯原「清代における民間宗教・秘密結社による武術の伝播と発展に関する考察」『国際武道大学研究紀要』第29巻、国際武道大学、1-11頁、2013年http://id.nii.ac.jp/1227/00000016/2019年8月23日閲覧 
  175. ^ Dai 2009, p. 17.
  176. ^ Dai 2009, pp. 17–18.
  177. ^ Gordon, Watson 2011, p. 61, [41].
  178. ^ Parsons 1957, p. 399.
  179. ^ Dai 2009, p. 18.
  180. ^ Wakeman 1985, pp. 688–698, [42].
  181. ^ Rossabi 1979, p. 191.
  182. ^ Larsen & Numata 1943, p. 572.
  183. ^ Rossabi 1979, p. 192.
  184. ^ Wakeman 1985, p. 346.
  185. ^ Struve 1988, p. 642, 644.
  186. ^ Wakeman 1985, p. 522.
  187. ^ Yao 1993, p. 61, [43].
  188. ^ Wakeman 1985, pp. 641–642, [44].
  189. ^ a b Struve 1988, p. 657.
  190. ^ Crossley 1990, p. 59.
  191. ^ 山根 1999b, p. 103.
  192. ^ Finnane 1993, p. 131, [45].
  193. ^ Struve 1988, p. 658.
  194. ^ a b Struve 1988, p. 660.
  195. ^ Wakeman 1985, p. 580.
  196. ^ Nieuhof 1993, pp. 57–58, [46].
  197. ^ Wakeman 1985, p. 581, [47].
  198. ^ Yao 1993, p. 65, [48].
  199. ^ Struve 1988, pp. 664–667.
  200. ^ Struve 1988, p. 670, 673-676.
  201. ^ Wakeman 1985, pp. 768–771.
  202. ^ Wakeman 1985, p. 737.
  203. ^ 細谷 1999a, p. 330.
  204. ^ Wakeman 1985, pp. 764–768.
  205. ^ Wakeman 1985, pp. 699–702.
  206. ^ 鄭天挺 (2003), 清史, 知書房出版集團, p. 197, https://books.google.co.jp/books?id=l6dA2ic_edQC&pg=PA197 2019年8月18日閲覧。 
  207. ^ Wakeman 1985, pp. 785–792.
  208. ^ Wakeman 1985, pp. 805–821.
  209. ^ Wakeman 1985, pp. 838–841.
  210. ^ Wakeman 1985, pp. 990–991.
  211. ^ a b Struve 1988, p. 704.
  212. ^ Wakeman 1985, p. 973, note 194.
  213. ^ a b Dennerline 2002, p. 117.
  214. ^ Wakeman 1985, pp. 1030, 1033.
  215. ^ Struve 1988, p. 710.
  216. ^ Spence 2002, p. 136.
  217. ^ a b Dennerline 2002, p. 118.
  218. ^ Ho 2011, pp. 149–150, [49].
  219. ^ Yim 2009, p. 109, [50].
  220. ^ Wakeman 1985, pp. 1047–1048, [51].
  221. ^ Spence 2002, pp. 136–37.
  222. ^ Hang 2016, pp. 154, [52].
  223. ^ Wakeman 1985, p. 994, [53].
  224. ^ Hang 2016, pp. 88, [54].
  225. ^ Gregory 2015, pp. 86–87, 142–144.
  226. ^ Spence 2002, p. 146.
  227. ^ a b 細谷 1999b, pp. 339.
  228. ^ Graff & Higham 2012, p. 119, [55].
  229. ^ Wakeman 1985, pp. 1110–1111, 1124.
  230. ^ Wakeman 1985, p. 1116.
  231. ^ 細谷 1999b, pp. 340.
  232. ^ 岸本, 宮嶋 1998, pp. 240–241.
  233. ^ Graff & Higham 2012, pp. 120–122, [56].
  234. ^ Wakeman 2009, pp. 116-, [57].
  235. ^ 鄭 2013, pp. 321–322.
  236. ^ Spence, Jonathan D.. In Search of Modern China. W. W. Norton & Company. p. 44 
  237. ^ Wong 2017, pp. 111–113, [58].
  238. ^ a b Bergman 2009, [59].
  239. ^ a b “Tainan Grand Matsu Temple”, Chinatownology, (2015), http://www.chinatownology.com/Tainan_Grand_Matsu_temple.html .
  240. ^ 岸本, 宮嶋 1998, pp. 154–157.
  241. ^ 後藤, 山井 1971, p. 384.
  242. ^ 岸本, 宮嶋 1998, pp. 238–239.
  243. ^ 岸本, 宮嶋 1998, pp. 231.
  244. ^ a b 細谷 1999b, pp. 345.
  245. ^ a b Peiqi 2006.
  246. ^ 鄭 2013, pp. 341-.
  247. ^ 岸本, 宮嶋 1998, pp. 297.
  248. ^ 岸本, 宮嶋 1998, pp. 294–298.
  249. ^ 岸本, 宮嶋 1998, pp. 168–170.
  250. ^ 上田 2005, p. 269.
  251. ^ 上田 2005, pp. 334–336.
  252. ^ 岸本, 宮嶋 1998, pp. 166–167.
  253. ^ 岸本, 宮嶋 1998, pp. 166–168.
  254. ^ アレン 2009, table 7.
  255. ^ Wakeman 1985, p. 44, [60].
  256. ^ Shou-p’ing 1855, pp. xxxvi–xlix.
  257. ^ Chan 2009, pp. 60–61, [61].
  258. ^ Durrant 1977, p. 53.
  259. ^ Shou-p’ing 1855, p. 39.
  260. ^ Von Mollendorff 1890, p. 40.
  261. ^ Perdue 2009, pp. 122-, [62].
  262. ^ 松浦 1995, p. 137.
  263. ^ Salmon 2013, pp. 94–, [63].
  264. ^ Durrant 1979, pp. 654–656.
  265. ^ Cultural Hybridity in Manchu Bannermen Tales (zidishu).. ProQuest. (2007). pp. 25–. ISBN 978-0-549-44084-0. https://books.google.com/?id=xq51ko-eXlEC&pg=PA25&dq=dahai+translated+military+texts#v=onepage&q=dahai%20translated%20military%20texts&f=false 
  266. ^ West 2016, pp. 25–, [64].
  267. ^ Hummel 1991, p. vi, [65].
  268. ^ & 上田 2005, p. 315.
  269. ^ 上田 2005, pp. 314–315.
  270. ^ 細谷 1999a, pp. 325–326.
  271. ^ Dennerline 2002, p. 87.
  272. ^ Cheng 1998, p. 125, [66].
  273. ^ Hang 1998, p. 40, [67].
  274. ^ Wakeman 1985, pp. 647, 650, [68].
  275. ^ Struve 1988, p. 662.
  276. ^ Wakeman 1985, p. 868.
  277. ^ Wakeman 1985, p. 647.
  278. ^ Wakeman 1985, pp. 648–650.
  279. ^ Struve 1988, pp. 662–663.
  280. ^ Wakeman 1975b, p. 56.
  281. ^ Wakeman 1985, p. 650.
  282. ^ Wakeman 1975b, p. 78.
  283. ^ 山根 1999b, p. 105.
  284. ^ Wakeman 1975b, p. 83.
  285. ^ Wakeman 2009, p. 206-, [69].
  286. ^ Faure (2007), p. 164.
  287. ^ Ebrey (1993).[要ページ番号]
  288. ^ The End of the Queue - China Heritage Quarterly”. www.chinaheritagequarterly.org. 2019年8月15日閲覧。
  289. ^ Doolittle 1876, pp. 242, [70].
  290. ^ Elliott 2001, pp. 223–224, [71].
  291. ^ Wakeman 1985, pp. 659, [72].
  292. ^ Roberts 2011, p. 139, [73].
  293. ^ Roberts 1999, p. 142, [74].
  294. ^ Clunas 2009, p. 163.
  295. ^ 後藤, 山井 1971, p. 415.
  296. ^ 後藤, 山井 1971, pp. 414–415.
  297. ^ Zhang 2002, p. 71.
  298. ^ 岸本, 宮嶋 1998, p. 235.
  299. ^ Mote (1999), pp. 852–855.
  300. ^ 後藤, 山井 1971, pp. 59, 144, 173.
  301. ^ 山根 1999b, pp. 108–109.
  302. ^ 奥崎 1999, pp. 481–483.
  303. ^ a b 山根 1999b, pp. 110–111.
  304. ^ 奥崎 1999, pp. 484-.
  305. ^ Sneath 2007, pp. 99–100, [75].
  306. ^ 松浦 1995, pp. 60–64.
  307. ^ Crossley 1990, p. 33, [76].
  308. ^ Hummel 2010, p. 2, [77].
  309. ^ Grossnick 1972, p. 10, [78].
  310. ^ Hummel 1991, p. 2, [79].
  311. ^ Till 2004, p. 5, [80].
  312. ^ Hummel 2010, p. 598, [81].
  313. ^ The Augustan, vols 17–20. Augustan Society. (1975). p. 34. https://books.google.com/?id=Oh9ZAAAAMAAJ&q=They+reveal+the+real+origin+of+the+Aisin+Gioro+family&dq=They+reveal+the+real+origin+of+the+Aisin+Gioro+family 
  314. ^ Hummel 1991, p. 598, [82].
  315. ^ Kim 2011, p. 19, [83].
  316. ^ Smith 2015, p. 216, [84].
  317. ^ Fryslie 2001, p. 219, [85].
  318. ^ Hauer 2007, p. 117.
  319. ^ Dvořák 1895, p. 80.
  320. ^ Wu 1995, p. 102.
  321. ^ Zhao 2006, pp. 4, 7, 8, 9, 10, 12, 13, 14.
  322. ^ Rodriguez 1997, [86].
  323. ^ Dunnell 2004, p. 77.
  324. ^ Dunnell 2004, p. 83.
  325. ^ Elliott 2001, p. 503, [87].
  326. ^ Dunnell 2004, pp. 76–77.
  327. ^ Cassel 2011, p. 205.
  328. ^ Cassel 2011, p. 44.
  329. ^ Perdue 2009, p. 218, [88].
  330. ^ Struve 1988, p. 269.
  331. ^ Wang Shochu, Records of the Ten Day massacre in Yangzhou. Available in Chinese at Wikisource: 揚州十日記.
  332. ^ Wakeman 1985, pp. 583–586, [89].
  333. ^ Swope 2014, p. 218, [90].
  334. ^ Smith 2015, pp. 49–50, [91].
  335. ^ 上田 2005, pp. 329.
  336. ^ 上田 2005, pp. 332.
  337. ^ 上田 2005, pp. 324–329.
  338. ^ Hang 2016, pp. 64–65, [92].
  339. ^ 『明史』巻28・五行志一(ウィキソース中国語版)
  340. ^ a b Brook 1999, p. 239, [93].
  341. ^ a b Smith 2015, p. 49, [94].
  342. ^ Brook 1999, p. 163, [95].
  343. ^ Brook 1999, p. 237, [96].
  344. ^ Brook 1999, p. 245, [97].
  345. ^ Xiao 2015, pp. 900–910.
  346. ^ Crossley 2000, pp. 103–105, [98].
  347. ^ 王 2012, pp. 243–247.
  348. ^ 《满族姓氏寻根大全·满族老姓全录》-我的天空-51Cto博客”. 2019年8月15日閲覧。
  349. ^ 王 2012, pp. 246–247.
  350. ^ Elliott 2001, p. 84, [99].
  351. ^ Crossley 2000, p. 128, [100].
  352. ^ 細谷 1999c, pp. 354.
  353. ^ 岸本, 宮嶋 1998.
  354. ^ 細谷 1999b, pp. 341.
  355. ^ Manthorpe 2008, p. 108, [101].
  356. ^ 細谷 1999c, p. 342-343.
  357. ^ Backhouse 1914, p. 209, [102].
  358. ^ The Atlantic Monthly. Volume 112. Atlantic Monthly Company. (1913). p. 779. https://books.google.com/books?id=SGACAAAAIAAJ&pg=PA779 
  359. ^ Rhoads 2000, pp. 192–193, [103].
  360. ^ Fitzgerald 1969, p. 365, [104].

参考文献

日本語文献(五十音順)

外国語文献(アルファベット順)

関連文献