コンテンツにスキップ

「インテルナツィオナーレ・ミラノ」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: 「パルマ・カルチョ1913」関連ページの貼り換えのbot作業依頼 - log
783行目: 783行目:
{{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=--|国籍=ITA|ポジション=FW|名前=[[フェリーチェ・ダミーコ]]|その他=[[UCサンプドリア|サンプドリア]]}}
{{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=--|国籍=ITA|ポジション=FW|名前=[[フェリーチェ・ダミーコ]]|その他=[[UCサンプドリア|サンプドリア]]}}
{{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=--|国籍=ARG|ポジション=FW|名前=[[マウロ・イカルディ]]|その他=[[パリ・サンジェルマンFC|パリ・サンジェルマン]]}}
{{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=--|国籍=ARG|ポジション=FW|名前=[[マウロ・イカルディ]]|その他=[[パリ・サンジェルマンFC|パリ・サンジェルマン]]}}
{{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=--|国籍=FRA|ポジション=FW|名前=[[ヤン・カラモウ]]|その他=[[SSDパルマ・カルチョ1913|パルマ]]}}
{{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=--|国籍=FRA|ポジション=FW|名前=[[ヤン・カラモウ]]|その他=[[パルマ・カルチョ1913|パルマ]]}}
{{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=--|国籍=ITA|ポジション=FW|名前=[[サムエレ・ロンゴ]]|その他=[[デポルティーボ・ラ・コルーニャ]]}}
{{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=--|国籍=ITA|ポジション=FW|名前=[[サムエレ・ロンゴ]]|その他=[[デポルティーボ・ラ・コルーニャ]]}}
{{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=--|国籍=ITA|ポジション=FW|名前=[[フェデリコ・ペッレ]]|その他=[[ACレナーテ|レナーテ]]}}
{{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=--|国籍=ITA|ポジション=FW|名前=[[フェデリコ・ペッレ]]|その他=[[ACレナーテ|レナーテ]]}}

2020年2月4日 (火) 11:42時点における版

インテルナツィオナーレ・ミラノ
原語表記 Football Club Internazionale Milano
愛称 I Nerazzurri(黒と青)
La Beneamata(恋人)
Il Biscione(ビショーネ
クラブカラー     黒・   
創設年 1908年
所属リーグ セリエA
ホームタウン ミラノ
ホームスタジアム スタディオ・ジュゼッペ・メアッツァ
収容人数 80,018
代表者 中華人民共和国の旗 張康陽中国語版(会長)
監督 イタリアの旗 アントニオ・コンテ
公式サイト 公式サイト
ホームカラー
アウェイカラー
サードカラー
テンプレート(ノート)サッカークラブPJ

FCインテルナツィオナーレミラノイタリア語FC Internazionale Milano)は、イタリアミラノをホームタウンとするプロサッカークラブ。

略称は『インテル』(Inter)、『インテル・ミラノ』[1]、『FCインテル』である。1929年に発足したセリエAとして知られるイタリアサッカーのトップディビジョンの歴史上、降格経験のない唯一のクラブである[2]

概要

ミラノダービー
インテルのユニホーム
スタディオ・ジュゼッペ・メアッツァ

1908年創設。ホームスタジアムスタディオ・ジュゼッペ・メアッツァ。愛称はクラブカラーに由来するネラッズーロイタリア語で「黒 (nero) と青 (azzurro)」[3])。サポーターはインテリスタと呼ばれる。

セリエAでは「三階建て」構造と呼ばれる、ユヴェントス、ACミラン、インテルのビッグ3となっている。

これまでにリーグを18回、コッパ・イタリアを7回、スーペルコッパ・イタリアーナを5回制し、計30の国内タイトルを獲得している。2006-2010にはリーグを5連覇し、リーグ記録に並んだ[4]UEFAチャンピオンズリーグでこれまでに3回優勝している(1964年、1965年の2連覇と2010年)。これは地元のライバルACミランに次いでイタリアで2番目の記録である。2010年にはイタリアのクラブとして史上初の3冠(コッパ・イタリア、スクデット、ビッグイヤー)を達成した[5]。また、UEFAカップを3回、インターコンチネンタルカップ2回、FIFAクラブワールドカップを1回制している。

2012年9月のDemos & Pi社の調査によると、インテルはイタリアで3番目(14.5%)に人気のクラブである[6]。2010年9月のドイツSport + Markt社の調査によると、欧州では8番目にファンが多いクラブ(1750万人)である[7]

同じ都市・同じスタジアムを本拠地とするACミランとは永遠のライバル関係にある。

ユヴェントスFCとの対戦はイタリアダービー[8]、ACミランとの対戦はミラノダービーと呼ばれ、国内外の関心を集めるビッグマッチとなっている。

2014年1月、世界最大の会計事務所である『デロイト』が公表したデロイト・フットボール・マネー・リーグによると、2012-13シーズンのクラブ収入は1億6880万ユーロであり、世界のサッカークラブの中では15位、イタリアではユヴェントス、ACミランに次ぐ3位である[9]

2016年以降、蘇寧電器グループがオーナーとなっている。2018年10月26日、蘇寧電器グループ会長張近東中国語版の息子である張康陽中国語版(スティーヴン・チャン)がクラブ史上最年少となる26歳の若さで会長に就任した[10]

歴史

ジュゼッペ・メアッツァでの試合前。
インテルのサポーター
初のスクデットを獲得した1910年のインテルの選手達。

1908年-20年代前半 -インテルの誕生〜発展期-

前身はACミランと同じ「ミラン・クリケット・アンド・フットボール・クラブ (Milan Cricket and Football Club)」だが、外国人選手の加入問題を巡ってクラブ内で対立が生じ、その反主流派(外国人選手の加入に積極的な一派)は1908年3月9日にミラノのレストラン“オロロージョ”にて会合を開き、ミランからの分離・独立を決める。新クラブは「国籍を問わず世界中の選手に門戸を開く」、という意味を込め、「FCインテルナツィオナーレ」と命名され、チームカラーは青、黒、金に決まった。

ACミランとのダービーマッチは、ACミランの5連勝で始まり、当初インテルはACミランに歯が立たなかった。しかし、1910年に5-0でACミランから初勝利。その後、両チームのライバル関係は激化していった。

そして、設立より2年後の1909-10シーズンには当時無敵だったプロ・ヴェルチェッリを10-3で倒して初のスクデットを獲得し、1919-20シーズンにもリヴォルノを倒して2回目のスクデットを獲得する。

1920年代後半-40年代前半 -ベッピーノの登場と第一次黄金時代-

「ベッピーノ」という愛称で呼ばれたジュゼッペ・メアッツァ

1920年代後半、ムッソリーニを党首とするファシスト党の影響はサッカー界にも及び、国粋主義を掲げるファシスト党にとってこのクラブ名と外国に対して寛容な精神は思想に反するものだった。

ムッソリーニは1928年にインテルとUSミラネーゼ(Unione Sportiva Milanese)を合併させ、更には翌年チーム名をアンブロシアーナ(Ambrosiana)に、ユニフォームをセント・ジョージ・クロスをモチーフとした赤十字デザインに変更させる。

しかし、この決定は熱狂的なインテリスタの怒りを買った。そして、彼らの抗議により、1932年クラブ名はアンブロシアーナ・インテル(Ambrosiana-Inter)となり、ユニフォームも元に戻され、辛くも"INTER"の名と青と黒の縦縞の伝統は守られた。

その頃、インテルユースから超新星が誕生した。彼の名はジュゼッペ・メアッツァ。「ベッピーノ」という愛称で呼ばれたこの選手は、デビューシーズンの1928-29シーズンにいきなり得点王に輝く活躍をした。ドリブルが巧く、シュートも正確で、テクニックも抜群。パス能力にも優れ、更に美男子だった彼は瞬く間にクラブのアイドルとなり、また中心選手となるのに時間はかからなかった。 翌1929-30、初の全国リーグ(セリエA)が開催され、得点王に輝いたメアッツァ(35-36、37-38シーズンにも得点王になった)の活躍もあり、アンブロシアーナ・インテルは初の全国リーグのチャンピオンに輝いた。 勢いは止まらず1937-38シーズンにも彼の活躍で4回目のスクデットを獲得、翌シーズンには初のコッパ・イタリアを獲得した。 1939-40シーズンもメアッツァが病気により試合に出られなかったにも関わらず、5回目のスクデットを獲得した。翌年メアッツァは408試合、287得点という偉大な記録(歴代最多得点)を残してクラブを去り(1946-47に復帰)、アンブロシアーナ・インテルの黄金時代は終焉した。

戦争が終わり、ファシスト政権が倒れ、1945年にクラブ名は元のインテルナツィオナーレに戻った。

1940年代後半-50年代 -サン・シーロとカテナチオ-

1948年、インテルはそれまでのホームスタジアム、スタディオ・チーヴィコ・アレナ(Stadio Civico Arena)の老朽化に伴い、ホームスタジアムをミランのホームスタジアムサン・シーロに移転し、共同でスタジアムを使うことになった。

1952-53シーズン、監督のアルフレド・フォーニはそれまで弱小チームが使っていた堅い守備からのカウンター(のちにカテナチオと呼ばれる)を基本とした戦術を使い、ストライカーの"Veleno(毒)"ことロレンツィニエルス、左ウィングの"Nacka"ことスコグルンド、GKの"Kamikaze"ことゲッツィらの活躍もあり、6回目のスクデットを獲得。 翌1953-54シーズンは前シーズンに守備的過ぎると批判されたことから、攻撃的になり、7回目のスクデットを獲得した。

そして1955年、後に伝説となる石油王アンジェロ・モラッティが会長に就任する。

1960年代 -魔術師とグランデ・インテル-

グランデ・インテル時代の中心選手サンドロ・マッツォーラ

就任以来、監督の首を次々とすげ替えていったモラッティ会長だったが、1960年についに素晴しい監督に巡り会った。 彼の名はエレニオ・エレーラ。スペインのFCバルセロナに2回の優勝をもたらした、"マーゴ(魔術師)"と呼ばれるアルゼンチン人監督である。

愛弟子ルイス・スアレスを引き連れ、スペイン風の攻撃的サッカーで臨んだエレーラだったが、当初は結果が出ず1962年に一度解任された。しかしスペイン代表を率いたチリワールドカップから戻ってくると、再びインテルの監督に就任し、今度は堅い守備からのカウンターアタックを基本戦術とし、当時としては珍しいメンタルトレーニングも行い、強化に着手した。

そして1962-63シーズン、インテルはGKジュリアーノ・サルティアルマンド・ピッキを中心としたタルチシオ・ブルニッキアリスティーデ・グアルネーリジャチント・ファッケッティの守備陣の奮闘、司令塔スアレスのゲームメイクやコルソ、サンドロ・マッツォーラのファンタジーあふれるプレー、当時としては革新的だったSBのファケッティのオーバーラップによるカウンター攻撃で8回目のスクデットを獲得した。

翌1963-64シーズンはボローニャに同勝点によるプレーオフに負けてスクデットは逃したものの、UEFAチャンピオンズカップでは当時無敵だったスペインのレアル・マドリードを倒し、イタリア勢ではミランに次ぐ2番目のヨーロッパチャンピオンに輝いた。翌シーズンにはアルゼンチンのCAインデペンディエンテを撃破してインターコンチネンタルカップを制し、イタリア勢では初の世界チャンピオンになり、ベンフィカを倒してUEFAチャンピオンズカップも連覇、更にはスクデットも獲得した。 翌1965-66シーズンにも再びインデペンディエンテを撃破して世界チャンピオンになり、国内では10回目のスクデットを獲得してユヴェントスに次ぐラ・ステッラ(スクデット10回獲得を表す星)をユニフォームにつけることを許された。翌シーズンもUEFAチャンピオンズカップ決勝に進んだが、今度はスコットランドのセルティックに敗れた。

そして1968年、モラッティ会長はイヴァノエ・フライッツォーリに会長職を譲り、グランデ・インテル時代は終わりを告げた。

1970年代-80年代前半 -夢の終わり-

1973-74シーズンのイタリアダービー

1970-71シーズン、選手と対立していたエリベルト・エレーラ監督の後を受けたジャンニ・インヴェルニッツィ監督はグランデ・インテルの遺産と得点王に輝いたロベルト・ボニンセーニャの活躍で11回目のスクデットを獲得、翌シーズンはUEFAチャンピオンズカップ決勝に進んだが、ヨハン・クライフ率いるオランダアヤックスに完敗した。

そしてマリオ・コルソタルチシオ・ブルニッキがクラブを去り、サンドロ・マッツォーラも引退、ジャチント・ファッケッティも1977-78シーズンに2回目のコッパ・イタリアを手土産に引退しグランデ・インテルは完全に消滅した。

ファイル:Serie A 1979-80 - AC Milan v Inter Milan - Giuseppe and Franco Baresi.jpg
1979-80シーズンのミラノダービーで対戦したバレージ兄弟。(左がジュゼッペ・バレージ、右がフランコ・バレージ。)

1979-80シーズンにエウジェニオ・ベルセッリーニ監督の下、イヴァノ・ボルドンガブリエレ・オリアーリジャンピエロ・マリーニジュゼッペ・バレージエヴァリスト・ベッカロッシアレッサンドロ・アルトベッリ等の活躍で12回目のスクデットを獲得、1981-82シーズンに3回目のコッパ・イタリアを獲得し、黄金時代の再来を期待させたが、それも長くは続かなかった。

また、1979年にジュゼッペ・メアッツァが他界、これに対しミラノ市は1980年3月2日に彼の功績を讃えてスタジアムの正式名称をスタディオ・ジュゼッペ・メアッツァ(Stadio Giuseppe Meazza)と定めた。

1980年代後半 -一瞬だけの栄光-

ファイル:Bergomi Inter.jpg
ジュゼッペ・ベルゴミはキャリアのすべてをインテルで過ごし、「Mr.インテル」と呼ばれた。

その後フライッツォーリ会長は1984年に"フィアットの従業員"と揶揄されたエルネスト・ペッレグリーニに会長職を譲る。 そして1986年、ペッレグリーニ会長はユーヴェに黄金時代を築いたジョヴァンニ・トラパットーニ監督を招聘し、インテルの復活を託す。

最初の2年間は結果が出なかったが、1988-89シーズン、勝負弱さをドイツ人ローター・マテウスの"ゲルマン魂"を注入することにより補填し、ファケッティ引退以降不在となっていた左SBを同じドイツ人のアンドレアス・ブレーメで埋め、生え抜きのワルター・ゼンガジュゼッペ・ベルゴミリッカールド・フェッリ、若手のニコラ・ベルティ、アルゼンチン人のラモン・ディアス、得点王に輝いたアルド・セレーナなどを擁し、スクデットを獲得した。 この時のスクデットは勝ち点が勝ち=2の制度の下では最高記録となる58(34試合26勝6分2敗。現在のシステムでは84)、アウェー最多勝ち点26(17試合11勝4分2敗。現在のシステムでは37)、アウェー最多勝利など数々の当時のリーグ記録を塗りかえるものだった。

翌シーズンドイツ人のユルゲン・クリンスマンを迎え、ドイツトリオを中心としたインテルはスーペルコッパ・イタリアーナを制し、今度こそ黄金時代の再来かと思わせたが、それも一瞬の栄光に過ぎなかった。

1990年代-2000年代前半 -苦悩のネラッズーロ-

1990-91

その後ドイツトリオとトラパットーニ監督は1990-91シーズンにローマを破り、インテルにUEFAカップのタイトルをもたらした。しかし、トラパットーニ監督はシーズン終了後、ファンの「つまらないサッカー」という声の下に解任され、インテルの迷走が始まる。

1992-93

1992-93シーズン、監督にエラス・ヴェローナに唯一のタイトルをもたらしたオズヴァルド・バニョーリを招聘し、"ゴールの詩人"ことルベン・ソサの活躍で2位になったインテルは、翌シーズン、ACミランがオランダ人を獲得して成功したのを見てデニス・ベルカンプヴィム・ヨンクを獲得しスクデットを狙ったが、期待されたベルカンプが全くもって活躍せず結果は13位という史上最低の成績、彼らも途中就任で選手時代にここでスクデットを獲得しているジャンピエロ・マリーニと共に2回目のUEFAカップのタイトルをもたらしただけだった。

1994-95

1994-95シーズン、ナポリに最初のタイトルを持ってきたオッタビオ・ビアンキを招聘して立て直しを図ったものの、期待されたベルカンプ、パンチェフはシーズンを通して活躍せず、一時はトップとは大きく離れた2桁順位にまで低迷する。1995年2月18日、グランデ・インテルを築きあげたアンジェロ・モラッティの息子マッシモ・モラッティが、累積赤字で経営に行き詰まっていたペッレグリーニからインテルを買い戻し、インテルは再びモラッティ家のものとなった。これをきっかけにチームは巻き返して最終節で7位になり、UEFAカップ出場権を得ることに成功した。

1997-98
ハビエル・サネッティ。マッシモ・モラッティが最初に獲得した選手だった。

そしてハビエル・サネッティを皮切りに、毎年のように多額の移籍金でスター選手を買い漁り、チームを強化し、何度も監督の首をすげ替えてきたが、これが実を結んだのが1997-98シーズンであった。シーズン開幕前にロナウドを獲得したチームはユヴェントスと首位争いを演じる。しかし、ユヴェントスとのイタリア・ダービーでは、ユヴェントス優位の判定が行われ、後味の悪さを残しながらチームは敗れた。これが響いてリーグ優勝を逃し、3回目のUEFAカップを獲得することしかできなかった。

1998-99

クラブは序盤で躓く。シーズン途中で監督のルイジ・シモーニが解任されるのをきっかけに、チームの規律が乱れ、更に、ロナウドの大怪我という不運もありチームは低迷した。この混乱と低迷は、2004-05シーズンにロベルト・マンチーニが監督に就任するまで続くこととなる。

1999-00

マルチェロ・リッピを監督に招聘し、クリスティアン・ヴィエリアンジェロ・ペルッツィヴラディミル・ユーゴヴィッチといったリッピの教え子を次々に獲得する一方で、ジャンルカ・パリュウカジュゼッペ・ベルゴミといったこれまでインテルの屋台骨を支えてきた両選手に戦力外通告した。これら一連のインテルのユヴェントス化は、選手とリッピとの溝を深め、インテリスタには不評であった。最終的にUEFAチャンピオンズリーグ予備予選出場を賭けたパルマとのプレーオフでは、ロベルト・バッジョの活躍のおかげでリッピの首の皮が繋がったという有り様であった。

2001-02

21世紀に入り、2001-02シーズンにバレンシアCFを2年連続UEFAチャンピオンズリーグ決勝に導いたアルゼンチン人監督のエクトル・ラウル・クーペルを招聘し、最終節まで首位に立っていたが最後の試合に敗れ、またしてもスクデットを逃した。翌シーズンもスクデットを獲得できず、成績不振によりクーペルは解任される。

2000年代後半 -久しぶりの歓喜〜新たな黄金時代-

2004-05

ロベルト・マンチーニが監督に就任し、2004年夏の移籍市場ではエステバン・カンビアッソらを獲得。しかし、コッパ・イタリアでは優勝を果たしたものの、セリエAでは3位に終わる。

2005-06

2005年夏の移籍市場ではルイス・フィーゴワルテル・サムエルジュリオ・セーザルらを獲得し、2005-06シーズンはスーペルコッパ・イタリアーナ制覇、コッパ・イタリア2連覇を果たす。セリエAは当初は3位で終えたものの、シーズン後に発覚したカルチョ・スキャンダルにより、1位のユヴェントスFCが優勝の剥奪、2位のACミランも30ポイントの減点となり、最終的には3位のインテルが17季ぶりのセリエA優勝に認定された。

2006-07

2006年夏の移籍市場ではマイコンカルチョ・スキャンダルで降格したユヴェントスFCからズラタン・イブラヒモビッチパトリック・ヴィエラを獲得した。2006-07シーズンはスーペルコッパ・イタリアーナとセリエAにて優勝を果たした。

2007-08

2007-08シーズンはセリエA3連覇を達成するも、シーズン終了後にマンチーニは解任された。

2008-09
ドリブルをするサミュエル・エトオ
インテルを史上初の3冠に導いたジョゼ・モウリーニョ
2009-10CL決勝で2得点を挙げたディエゴ・ミリート

2008年6月、ジョゼ・モウリーニョが監督に就任[11]。2008年夏の移籍市場ではリカルド・クアレスマサリー・ムンタリマンシーニを獲得した。2008-09シーズンはスーペルコッパ・イタリアーナ制覇とセリエA4連覇を達成。

2009-10

2009年夏の移籍市場ではイブラヒモビッチとのトレードでサミュエル・エトオを獲得したほか、ディエゴ・ミリートティアゴ・モッタルシオヴェスレイ・スナイデルらを獲得。2010年冬の移籍市場ではゴラン・パンデフマクドナルド・マリガを獲得した。 セリエA、コッパ・イタリア、UEFAチャンピオンズリーグを全て制覇し、かつてユヴェントスFCとトリノFCが達成して以来史上3度目となるセリエA5連覇、また、イタリア史上初の主要タイトル3冠を達成した[12]。なお、UEFAチャンピオンズリーグ決勝戦終了後にモウリーニョは辞任を表明し、シーズン終了後の2010年5月28日に監督を退任した。

2010年代前半 -サイクルの終わり〜新オーナー就任-

2010-11

2010年6月9日、前リヴァプールFC監督のラファエル・ベニテスが監督に就任。シーズン開幕前にスーペルコッパ・イタリアーナを制覇し、12月のFIFAクラブワールドカップ2010ではTPマゼンベを破って初の同大会優勝を成し遂げた。しかし、同年12月24日にベニテスはリーグ戦での成績不振を理由に解任され[13]、前ACミラン監督のレオナルドが監督に就任[14]。2011年冬の移籍市場ではジャンパオロ・パッツィーニ長友佑都[15][16]アンドレア・ラノッキアらを獲得。コッパ・イタリアで2連覇を達成した[17]ものの、シーズン終了後にレオナルドは監督を辞した。

2011-12

2011-12シーズンはジャン・ピエロ・ガスペリーニ監督の下でスタートし、夏の移籍市場ではディエゴ・フォルランらを獲得する一方でサミュエル・エトオらを放出した。しかし、開幕直後から不振が続いたことでガスペリーニは早々に解任され、後任にクラウディオ・ラニエリが迎えられた。一時は7連勝を挙げるなど好転の兆しをみせるも、1月末から9戦勝ちなしなど再び不振に陥ると、3月26日にラニエリが解任。シーズン3人目の監督としてインテル・プリマヴェーラの監督を務めていたアンドレア・ストラマッチョーニが昇格した。

2012-13

2012-13シーズンは夏の移籍市場で大きくチーム改革を行い、優勝時の主力だったジュリオ・セーザルマイコンルシオジャンパオロ・パッツィーニなどを放出し、サミール・ハンダノヴィッチアルバロ・ペレイラロドリゴ・パラシオアントニオ・カッサーノらを新たに獲得した。シーズン序盤こそユヴェントスの無敗記録を49で止めるなど順調だったが、主将のサネッティら負傷者が続出して以降は低迷。UEFAヨーロッパリーグ出場権すら逃す9位に終わり、ストラマッチョーニ監督は解任された。

2013-14

2013年5月24日、新監督として元SSCナポリ監督のワルテル・マッツァーリが就任。同年11月15日、クラブの株式の70%を取得し、筆頭株主となったインドネシアの実業家のエリック・トヒルが会長に就任した。前会長のマッシモ・モラッティは名誉会長に就任。2013年の移籍市場では、マウロ・イカルディアントニオ・カッサーノとのトレードでイシャク・ベルフォディルロランド・フォンセカウーゴ・カンパニャーロサフィル・タイデルらを獲得し、2014年はダニーロ・ダンブロージオエルナネスを獲得した。

2013-14シーズンは5位に終わり、UEFAヨーロッパリーグ出場権を獲得。2014年5月、キャプテンでありクラブの象徴であったハビエル・サネッティが2013-14シーズン限りでの引退を発表。7月、サネッティの副会長就任が発表された。背番号「4」は業績を讃えて永久欠番となる事が決定。また、エステバン・カンビアッソワルテル・サムエルディエゴ・ミリートクリスティアン・キヴといった2009-10シーズンの三冠に貢献したメンバーも退団が決定。

2014-15

2014-15シーズンは夏の移籍市場でネマニャ・ヴィディッチガリー・メデルヤン・エムヴィラパブロ・オスヴァルドらを獲得するも、リーグ第11節終了時点で4勝と序盤から低迷。マッツァーリは11月14日に解任された。後任は2007-08シーズン以来の就任となるロベルト・マンチーニ

冬の移籍市場ではオスヴァルド、エムヴィラ、イブラヒマ・エムバイェレネ・クルヒンら夏に獲得した選手を半年で放出。ニューカッスル・ユナイテッドFCからダビデ・サントンを復帰させ、マルセロ・ブロゾヴィッチジェルダン・シャチリルーカス・ポドルスキらを獲得。コッパ・イタリアは準々決勝で敗退。UEFAヨーロッパリーグは決勝トーナメント2回戦で敗退。リーグは8位に終わり、来季のEL出場も逃したが、マウロ・イカルディがリーグ得点王に輝いた。

2010年代後半 -新たな時代へ~再建と低迷-

2015-16

2015-16シーズン前の夏の移籍市場では、コバチッチ、カンパニャーロ、エルナネス、オビ、クズマノヴィッチらを放出し、ジョフレイ・コンドグビアステヴァン・ヨヴェティッチミランダイヴァン・ペリシッチアデム・リャイッチフェリペ・メロマルティン・モントーヤアレックス・テレスジェイソン・ムリージョジョナタン・ビアビアニーを獲得し大規模な補強とチームの入れ替えを敢行した。2015-16シーズンは新戦力のミランダ、ジェイソン・ムリージョ、守護神のサミル・ハンダノヴィッチらが支える堅守を武器に49年ぶりの開幕戦から5連勝を成し遂げ、首位に立つなど序盤は絶好調であった。しかし、2016年1月11日のサッスオーロ戦での敗北以降、失速。冬の移籍市場でエデルを獲得したものの目立った効果はなく、リーグ戦はチャンピオンズリーグ圏外の4位に終わった。コッパ・イタリアでは準決勝で宿敵ユヴェントスFCと対戦。アウェーでは3-0の完敗を喫すも、ホームでは3点のビハインドを追いつき延長戦でも決着がつかず、PK戦にもつれ込んだ。しかし、PK戦で敗れ決勝進出は果たせず、無冠に終わった。

2015-16シーズン終了後、中国の大手家電販売グループの蘇寧電器グループがクラブの株式の70%を取得し筆頭株主となり、新たなオーナーが誕生することになった。なお、エリック・トヒルは会長の座に留任することになる。

2016-17

2016-17シーズンは、EURO2016においてポルトガル代表の優勝に貢献したジョアン・マリオを筆頭に、クリスティアン・アンサルディアントニオ・カンドレーヴァセビージャFCのヨーロッパリーグ優勝に貢献したエベル・バネガリオデジャネイロオリンピックにおいてブラジル代表の金メダル獲得に貢献したガブリエウ・バルボーザなどを獲得した。しかしロベルト・マンチーニ監督とフロントとの間で亀裂が入り、マンチーニは開幕を前にして辞任。後任にはフランク・デ・ブールが就任した。ところがシーズンが始まってもなかなか勝ちを重ねることかできず、デ・ブールは解任された。後任はステファノ・ピオリが就任した。ピオリ就任後は上昇傾向にあったものの、最後に大きく崩れ7位に終わり、欧州カップ戦の出場権を逃した。

2017-18

2017-18シーズン夏の移籍市場では例年ほど大きな動きを見せなかったものの、ミラン・シュクリニアルボルハ・バレロマティアス・ベシーノなど主力級の選手をピンポイントで補強。これが功を奏し開幕戦から第16節まで無敗をキープしたが、12月に入ると8試合未勝利の急失速に陥った。それでも第24節のジェノア戦で勝ち星を取り戻すと復調を見せUEFAチャンピオンズリーグ出場権争いに復帰。ラツィオとのCL出場権をかけた最終節で勝利を収めて4位を確定させ、7シーズンぶりにCL出場権を獲得した。

2018-19

昨年から一転して積極的に立ち回り、ユベントスからクワドォー・アサモア、ラツィオからステファン・デ・フライをいずれもフリーで、さらにはローマからラジャ・ナインゴランと、ライバルチームの実力者の獲得に成功。またアトレティコ・マドリードからシメ・ヴルサリコASモナコからケイタ・バルデラシン・クラブからラウタロ・マルティネスを獲得し、充実した補強に成功した。2018年12月、CEOにユヴェントスFCを退任したジュゼッペ・マロッタの招聘を決定。冬の移籍ではセドリック・ソアレスらを獲得した。

シーズンの始めこそバタついたものの、第5節から7連勝を記録するなど徐々に調子を上げる。しかし11月に入ると上位陣との対戦が多く苦戦し、そのまま調子が下降した。2月には主将のマウロ・イカルディが妻で代理人のワンダ・ナラの挑発的な発言でクラブと対立し、シーズン途中に異例の主将剥奪を受けるなど最後までチーム状態が混乱していたが、順位を維持。終盤で3位から4位に順位を下げたものの最終節エンポリ戦で勝利しそのままフィニッシュ、2010-11/2011-12シーズン以来8年ぶりとなる、2季連続でのCL出場権獲得となった。

7年ぶり出場となったCLはグループステージでバルセロナトッテナムPSVと同グループとなった。連勝スタートを切り、バルセロナとの2連戦も1分け1敗で凌いでベスト16進出に大きく近づいたが、残り2試合で1分け1敗と失速し、総得点数の差でトッテナムに逆転され3位となり、ヨーロッパリーグに回ることになった。ELはベスト16まで進むが、ラウンド16・フランクフルト戦はイカルディが招集を拒否するなどチームの混乱を抑えられず、2戦合計0-1で敗退した。

2019-20

ルチアーノ・スパレッティ監督を解任し、新監督にアントニオ・コンテを招聘。アトレティコ・マドリードを退団したディエゴ・ゴディン、ダウベルトとトレードでクリスティアーノ・ビラーギ、パルマからアレッサンドロ・バストーニ、サッスオーロからステファノ・センシ、カリアリからニコロ・バレッラ、さらにマンチェスター・ユナイテッドからロメル・ルカクアレクシス・サンチェスを獲得し、充実の陣容を揃えた。昨年問題児と化したイカルディはパリ・サンジェルマンミランダ江蘇蘇寧ジョアン・マリオロコモティフ・モスクワ、ナインゴランをカリアリ、イヴァン・ペリシッチバイエルン・ミュンヘンへ放出し、人員整理にも成功した。 今冬にはマンチェスターユナイテッドからアシュリー・ヤングチェルシーFCから買取オプション付きの期限付き移籍でビクター・モーゼスそしてトッテナム・ホットスパーからおよそ2000万ユーロ(24億円)でクリスティアン・エリクセンを獲得するなど大補強を行った。 また来夏にSSCナポリからドリース・メルテンスの獲得準備をしているという。

タイトル

国内タイトル

  • セリエA:18回
    • 1909-10, 1919-20, 1929-30, 1937-38, 1939-40, 1952-53, 1953-54, 1962-63, 1964-65, 1965-66, 1970-71, 1979-80, 1988-89, 2005-06, 2006-07, 2007-08, 2008-09, 2009-10

国際タイトル

UEFAチャンピオンズリーグ 2009-10 決勝での巨大なインテルのロゴ‐マドリッドエスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウにて

国際タイトル(非公式大会)

過去の成績

※()は優勝回数

シーズン カテゴリ 順位 勝点 試合 勝利 引分 敗戦 得点 失点 コッパ・イタリア UEFACL註1 UEFAEL CWC註3  監督
2019-20 セリエA 38 GL敗退 アントニオ・コンテ
2018-19 セリエA 4位 69 38 20 9 9 57 33 準々決勝敗退 GL敗退 ベスト16 ルチアーノ・スパレッティ
2017-18 セリエA 4位 72 38 20 12 6 66 30 準々決勝敗退 ルチアーノ・スパレッティ
2016-17 セリエA 7位 62 38 19 5 14 72 49 準々決勝敗退 GL敗退 ロベルト・マンチーニ
フランク・デ・ブール
ステファノ・ピオリ
ステファノ・ヴェッキ
2015-16 セリエA 4位 67 38 20 7 11 50 38 準決勝敗退 ロベルト・マンチーニ
2014-15 セリエA 8位 55 38 14 13 11 59 48 準々決勝敗退 ベスト16 ワルテル・マッツァーリ
ロベルト・マンチーニ
2013-14 セリエA 5位 60 38 15 15 8 62 39 ベスト16 ワルテル・マッツァーリ
2012-13 セリエA 9位 54 38 16 6 16 55 57 準決勝敗退 ベスト16 アンドレア・ストラマッチョーニ
2011-12 セリエA 6位 58 38 17 7 14 58 55 準々決勝敗退 ベスト16 ジャン・ピエロ・ガスペリーニ
クラウディオ・ラニエリ
アンドレア・ストラマッチョーニ
2010-11 セリエA 2位 76 38 23 7 8 69 42 優勝(7) ベスト8 優勝(3) ラファエル・ベニテス
レオナルド
2009-10 セリエA 優勝(18) 82 38 24 10 4 75 34 優勝(6) 優勝(3) ジョゼ・モウリーニョ
2008-09 セリエA 優勝(17) 84 38 25 9 4 70 35 準決勝敗退 ベスト16 ジョゼ・モウリーニョ
2007-08 セリエA 優勝(16) 85 38 25 10 3 69 26 準優勝 ベスト16 ロベルト・マンチーニ
2006-07 セリエA 優勝(15) 97 38 30 7 1 80 34 準優勝 ベスト16 ロベルト・マンチーニ
2005-06 セリエA 優勝(14)註4 76 38 23 7 8 68 30 優勝(5) ベスト8 ロベルト・マンチーニ
2004-05 セリエA 3位 72 38 18 18 2 65 37 優勝(4) ベスト8 ロベルト・マンチーニ
2003-04 セリエA 4位 59 34 17 8 9 59 37 準々決勝敗退 GL敗退 ベスト8 エクトル・ラウル・クーペル
コッラード・ヴェルデッリ
アルベルト・ザッケローニ
2002-03 セリエA 2位 65 34 19 8 7 64 38 3回戦敗退 ベスト4 エクトル・ラウル・クーペル
2001-02 セリエA 3位 69 34 20 9 5 62 35 3回戦敗退 ベスト4 エクトル・ラウル・クーペル
2000-01 セリエA 5位 51 34 14 9 11 47 47 準々決勝敗退 予選3回戦敗退 4回戦敗退 マルチェロ・リッピ
マルコ・タルデッリ
1999-00 セリエA 4位 58 34 17 7 10 58 36 準優勝 マルチェロ・リッピ
1998-99 セリエA 8位 46 34 13 7 14 59 54 準決勝敗退 ベスト8 ルイジ・シモーニ
ミルチェア・ルチェスク
→ルシアーノ・カステリーニ
→ロイ・ホジソン
1997-98 セリエA 2位 69 34 21 6 7 62 27 準々決勝敗退 優勝(3) ルイジ・シモーニ
1996-97 セリエA 3位 59 34 15 14 5 51 35 準決勝敗退 準優勝 ロイ・ホジソン
ルシアーノ・カステリーニ
1995-96 セリエA 7位 54 34 15 9 10 51 30 準決勝敗退 1回戦敗退 オッタビオ・ビアンキ
→ルイス・スアレス
ロイ・ホジソン
1994-95 セリエA 6位 52 34 14 10 10 39 34 準々決勝敗退 1回戦敗退 オッタビオ・ビアンキ
1993-94 セリエA 13位 31 34 11 9 14 46 45 準々決勝敗退 優勝(2) オズワルド・バニョーリ
ジャンピエロ・マリーニ
1992-93 セリエA 2位 46 34 17 12 5 59 36 準々決勝敗退 オズワルド・バニョーリ
1991-92 セリエA 8位 37 34 10 17 7 28 28 準々決勝敗退 1回戦敗退 コッラード・オッリーコ
→ルイス・スアレス
1990-91 セリエA 2位 46 34 18 10 6 56 31 3回戦敗退 優勝(1) ジョバンニ・トラパットーニ
1989-90 セリエA 3位 44 34 17 10 7 55 32 GL敗退 1回戦敗退 ジョバンニ・トラパットーニ
1988-89 セリエA 優勝(13) 58 34 26 6 2 67 19 2次L敗退 3回戦敗退 ジョバンニ・トラパットーニ
1987-88 セリエA 5位 32 30 11 10 9 42 35 準決勝敗退 3回戦敗退 ジョバンニ・トラパットーニ
1986-87 セリエA 3位 38 30 15 8 7 32 17 準々決勝敗退 ベスト8 ジョバンニ・トラパットーニ
1985-86 セリエA 6位 32 30 12 8 10 36 33 準々決勝敗退 ベスト4 イラリオ・カスタニエル
マリオ・コルソ
1984-85 セリエA 3位 38 30 13 12 5 42 28 準決勝敗退 ベスト4 イラリオ・カスタニエル
1983-84 セリエA 4位 35 30 12 11 7 37 23 GL敗退 3回戦敗退 ルイジ・ラディス
1982-83 セリエA 3位 38 30 12 14 4 40 23 準決勝敗退 Rino Marchesi
1981-82 セリエA 5位 35 30 11 13 6 39 34 優勝(3) 2回戦敗退 エウジェニオ・ベルセッリーニ
1980-81 セリエA 4位 36 30 14 8 8 41 24 GL敗退 ベスト4 エウジェニオ・ベルセッリーニ
1979-80 セリエA 優勝(12) 41 30 14 13 3 44 25 準々決勝敗退 2回戦敗退 エウジェニオ・ベルセッリーニ
1978-79 セリエA 4位 36 30 10 16 4 38 24 準々決勝敗退 エウジェニオ・ベルセッリーニ
1977-78 セリエA 5位 36 30 13 10 7 35 24 優勝(2) 1回戦敗退 エウジェニオ・ベルセッリーニ
1976-77 セリエA 4位 33 30 10 13 7 34 27 準優勝 1回戦敗退 Giuseppe Chiappella
1975-76 セリエA 4位 37 30 14 9 7 36 28 2次L敗退 Giuseppe Chiappella
1974-75 セリエA 9位 30 30 10 10 10 26 26 2次L敗退 2回戦敗退 ルイス・スアレス
1973-74 セリエA 4位 35 30 12 11 7 47 33 2次L敗退 1回戦敗退 エレニオ・エレーラ
→エネア・マシエロ
1972-73 セリエA 4位 37 30 15 7 8 32 23 2次L敗退 3回戦敗退 ジャンニ・インヴェルニッツィ
エネア・マシエロ
1971-72 セリエA 5位 36 30 13 10 7 49 28 準決勝敗退 準優勝 ジャンニ・インヴェルニッツィ
1970-71 セリエA 優勝(11) 46 30 19 8 3 50 26 1次L敗退 エリベルト・エレーラ
ジャンニ・インヴェルニッツィ
シーズン カテゴリ 順位 勝点 試合 勝利 引分 敗戦 得点 失点 コッパ・イタリア UEFACL註1 UEFAEL CWC註3  監督
1969-70 セリエA 2位 41 30 16 9 5 41 19 準々決勝敗退 エリベルト・エレーラ
1968-69 セリエA 4位 36 30 14 8 8 55 26 1次L敗退 アルフレード・フォーニ
1967-68 セリエA 5位 33 30 13 7 10 46 34 3位 エレニオ・エレーラ
1966-67 セリエA 2位 48 34 19 10 5 59 22 準決勝敗退 準優勝 エレニオ・エレーラ
1965-66 セリエA 優勝(10) 50 34 20 10 4 70 28 準決勝敗退 ベスト4 優勝(2) エレニオ・エレーラ
1964-65 セリエA 優勝(9) 54 34 22 10 2 68 29 準優勝 優勝(2) 優勝(1) エレニオ・エレーラ
1963-64 セリエA 2位 54 34 23 8 3 54 21 ベスト8 優勝(1) エレニオ・エレーラ
1962-63 セリエA 優勝(8) 49 34 19 11 4 56 20 ベスト16 エレニオ・エレーラ
1961-62 セリエA 2位 48 34 19 10 5 59 31 ベスト16 エレニオ・エレーラ
1960-61 セリエA 3位 44 34 18 8 8 73 39 準々決勝敗退 エレニオ・エレーラ
1959-60 セリエA 4位 40 34 14 12 8 55 43 準々決勝敗退
1958-59 セリエA 3位 46 34 20 6 8 77 41 準優勝
1957-58 セリエA 9位 32 34 10 12 12 36 36 1次L敗退
1956-57 セリエA 5位 35 34 11 13 10 53 46
1955-56 セリエA 3位 39 34 16 7 11 57 36
1954-55 セリエA 8位 36 34 13 10 11 55 49 アルフレード・フォーニ
1953-54 セリエA 優勝(7) 51 34 20 11 3 67 32 アルフレード・フォーニ
1952-53 セリエA 優勝(6) 47 34 19 9 6 55 24 アルフレード・フォーニ
1951-52 セリエA 3位 49 38 21 7 10 86 49
1950-51 セリエA 2位 59 38 27 5 6 107 43
1949-50 セリエA 3位 49 38 21 7 10 99 60
1948-49 セリエA 2位 55 38 22 11 5 85 39
1947-48 セリエA 12位 37 40 16 5 19 67 60 ジュゼッペ・メアッツァ
→カルロ・カルカノ
1946-47 セリエA 10位 36 38 13 10 15 59 54 カルロ・カルカノ
ニーノ・ヌストリツィオ
ジュゼッペ・メアッツァ
1942-43 セリエA 4位 34 30 15 4 11 53 38 ベスト16
1941-42 セリエA 12位 26 30 7 12 11 31 47 ベスト16
1940-41 セリエA 2位 35 30 14 7 9 52 42 ベスト16
1939-40 セリエA 優勝(5) 44 30 20 4 6 56 23 ベスト32
1938-39 セリエA 3位 37 30 14 9 7 55 37 優勝(1)
1937-38 セリエA 優勝(4) 41 30 16 9 5 57 28 準決勝敗退
1936-37 セリエA 7位 31 30 9 13 8 43 35 準決勝敗退
1935-36 セリエA 4位 36 30 14 8 8 61 34 ベスト16
1934-35 セリエA 2位 42 30 15 12 3 45 22
1933-34 セリエA 2位 49 34 20 9 5 66 24 アルパド・ワイズ
1932-33 セリエA 2位 46 34 19 8 7 80 53 アルパド・ワイズ
1931-32 セリエA 6位 38 34 15 8 11 67 52 イシュトヴァーン・トート
1930-31 セリエA 5位 38 34 15 8 11 60 45 アルパド・ワイズ
1929-30 セリエA 優勝(3) 50 34 22 6 6 85 38 アルパド・ワイズ

註1旧UEFAチャンピオンズカップを含む
註2旧UEFAカップを含む
註3旧インターコンチネンタルカップを含む
註4最終順位は3位だが、上位2クラブの不正による勝ち点剥奪により繰り上げ優勝

ダービーマッチ

ミラノダービー

クラブ 試合 得点 失点 +/-
セリエA
インテル 187 69 57 62 267 249 +18
ACミラン 187 62 57 69 249 267 -18
カンピオナート・アルタ・イタリア 1944
インテル 2 1 0 1 3 3 0
ACミラン 2 1 0 1 3 3 0
コッパ・イタリア
ACミラン 23 9 7 7 32 22 +10
インテル 23 7 7 9 22 32 -10
スーペルコッパ・イタリアーナ
ACミラン 1 1 0 0 2 1 +1
インテル 1 0 0 1 1 2 -1
UEFAチャンピオンズリーグ
ACミラン 4 2 2 0 4 1 +3
インテル 4 0 2 2 1 4 -3
公式戦合計
インテル 217 77 65 75 294 292 2
ACミラン 217 75 65 77 292 294 -2

※2016年11月21日開催のミラノダービー終了時点での対戦成績

イタリアダービー

クラブ 試合 得点 失点 +/-
セリエA
ユヴェントス 186 84 45 56 267 233 +34
インテル 186 56 46 84 233 267 -34
コッパ・イタリア
ユヴェントス 29 12 7 10 44 36 +8
インテル 29 10 7 12 36 44 -8
スーペルコッパ・イタリアーナ
インテル 1 1 0 0 1 0 +1
ユヴェントス 1 0 0 1 0 1 -1
合計
ユヴェントス 216 96 53 67 311 270 +41
インテル 216 67 53 96 270 311 -41

※2012-13シーズン終了時点での対戦成績

現所属メンバー

2019-20シーズン 基本フォーメーション


2020年1月31日現在

注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。

No. Pos. 選手名
1 GK スロベニア サミール・ハンダノヴィッチ ()
2 DF ウルグアイ ディエゴ・ゴディン ()
5 MF イタリア ロベルト・ガリアルディーニ
6 DF オランダ ステファン・デ・フライ
7 FW チリ アレクシス・サンチェス
8 MF ウルグアイ マティアス・ベシーノ ()
9 FW ベルギー ロメル・ルカク ()
10 FW アルゼンチン ラウタロ・マルティネス
11 MF ナイジェリア ビクター・モーゼス ()
12 MF イタリア ステファノ・センシ
13 DF イタリア アンドレア・ラノッキア (副主将)
15 DF イングランド アシュリー・ヤング ()
18 MF ガーナ クワドォー・アサモア
20 MF スペイン ボルハ・バレロ
No. Pos. 選手名
23 MF イタリア ニコロ・バレッラ
24 MF デンマーク クリスティアン・エリクセン
27 GK イタリア ダニエレ・パデッリ
30 FW イタリア セバスティアーノ・エスポジト
31 DF イタリア ロレンツォ・ピロラ
32 MF フランス ルシアン・アグメ ()
33 DF イタリア ダニーロ・ダンブロージオ
34 MF イタリア クリスティアーノ・ビラーギ
37 DF スロバキア ミラン・シュクリニアル
46 GK イタリア トンマーゾ・ベルニ
77 MF クロアチア マルセロ・ブロゾヴィッチ
87 MF イタリア アントニオ・カンドレーヴァ
95 DF イタリア アレッサンドロ・バストーニ

※括弧内の国旗はその他の保有国籍を、星印はEU圏外選手を示す。

※3番はジャチント・ファッケッティ 永久欠番

※4番はハビエル・サネッティ 永久欠番

監督

ローン移籍

in

注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。

No. Pos. 選手名
7 FW チリ アレクシス・サンチェス (マンチェスター・ユナイテッド)
11 MF ナイジェリア ビクター・モーゼス (チェルシー)
12 MF イタリア ステファノ・センシ (サッスオーロ)
No. Pos. 選手名
23 MF イタリア ニコロ・バレッラ (カリアリ)
34 MF イタリア クリスティアーノ・ビラーギ (フィオレンティーナ)
out

注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。

No. Pos. 選手名
-- GK ブラジル ガブリエウ・ブラゾン (アルバセテ)
-- GK イタリア ミケーレ・ディ・ジェンナーロ (ポルデノーネ)
-- GK ルーマニア ヨヌーツ・ラドゥ (ジェノア)
-- GK イタリア ニコラ・ティントーリ (ガッツァーノ)
-- DF イタリア ニコロ・コッラード (アレッツォ)
-- DF フランス アンドリュー・グラヴィロン (サッスオーロ)
-- DF ブラジル ダウベルト・エンリケ (フィオレンティーナ)
-- DF エルサルバドル マイ・ロリッチ (セレヂ)
-- DF イタリア ダヴィデ・ズガロ (オルビア)
-- MF オーストリア ヴァレンティーノ・ラザロ (ニューカッスル・ユナイテッド)
-- MF フランス アクセル・モハメド・バカヨコ (ザンクト・ガレン)
-- MF スイス キシアン・エマーズ (ベフェレン)
-- MF イタリア ロレンツォ・ガヴィオリ (ラヴェンナ)
-- MF イタリア ダヴィデ・グラッシ (ラヴェンナ)
-- MF ポルトガル ジョアン・マリオ (ロコモティフ・モスクワ)
-- MF ベルギー ラジャ・ナインゴラン (カリアリ・カルチョ)
-- DF イタリア フェデリコ・ディマルコ (エラス・ヴェローナ)
No. Pos. 選手名
-- MF イタリア アンドレア・パラッツィ (モンツァ)
-- MF イタリア マルコ・ポンペッティ (サンプドリア)
-- MF ホンジュラス リゴベルト・リバス (レッジーナ)
-- MF イタリア マッテオ・ローバー (ズュートティロール)
-- MF イタリア ロレンツォ・タッシ (アレッツォ)
-- FW アルゼンチン ファクンド・コリーディオ (シント=トロイデン)
-- FW イタリア フェリーチェ・ダミーコ (サンプドリア)
-- FW アルゼンチン マウロ・イカルディ (パリ・サンジェルマン)
-- FW フランス ヤン・カラモウ (パルマ)
-- FW イタリア サムエレ・ロンゴ (デポルティーボ・ラ・コルーニャ)
-- FW イタリア フェデリコ・ペッレ (レナーテ)
-- MF クロアチア イヴァン・ペリシッチ (バイエルン・ミュンヘン)
-- FW イタリア アンドレア・ピナモンティ (ジェノア)
-- FW イタリア エディ・サルセド (エラス・ヴェローナ)
-- FW イタリア ヴィンチェンツォ・トンマーゾ (カルピ)
-- FW イタリア マッテオ・ポリターノ (ナポリ)

歴代所属選手

脚注

  1. ^ イタリアで使わない言い方である。
  2. ^ ユヴェントスが2005-06シーズン後に不祥事によりセリエBに降格したため。
  3. ^ 複数形はネラッズーリ(nerazzurri)
  4. ^ Italy – List of Champions”. RSSSF. 2014年1月31日閲覧。
  5. ^ Inter join exclusive treble club”. uefa.com. 2012年8月9日閲覧。
  6. ^ . (18 settembre 2012). http://www.demos.it/2012/pdf/2397capsoc35_tifocalcio.pdf 
  7. ^ . (9 settembre 2010). http://www.scribd.com/doc/40164831/20100909-SPORT-MARKT-Football-Top-20-2010-Abstract-Press 
  8. ^ イタリアダービーは「一度も降格経験がない2チームだから」というのは俗説で本当は、インテルが1965-1966シーズンに10回目のスクデットを獲得してラ・ステッラを付けられる2番目のチームになったときにイタリアの有名なジャーナリストのジャンニ・ブレラが「この常に優勝争いをしている2チームの対戦がイタリアのナショナルダービー」と言ったことから名付けられた。この当時はACミランとボローニャFCも降格経験がなく、ACミランは1979-1980シーズン、ボローニャFCは1981-1982シーズンに初の降格を経験している。
  9. ^ Deloitte Football Money League 2014(2014年1月に国際監査法人『デロイト』が公表した2012-2013シーズンの欧州サッカーのクラブ収入ランキング)
  10. ^ Steven Zhang Named President of FC Internazionale Milano S.p.A.”. インテルナツィオナーレ・ミラノ (2018年10月26日). 2018年10月26日閲覧。
  11. ^ José Mourinho joins Inter
  12. ^ インテル45季ぶりV!イタリア勢初3冠
  13. ^ インテルがベニテス解任を発表
  14. ^ インテルの新監督はレオナルドに決定
  15. ^ 長友佑都が世界王者インテルに移籍決定
  16. ^ インテル・長友「誇らしく思う」
  17. ^ 長友のインテルが優勝 サッカーのイタリア杯

関連項目

外部リンク

公式