「南アフリカ共和国」の版間の差分
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かつては[[有色人種]]に対する[[人種差別]]で知られ、それは[[アパルトヘイト]]と呼ばれる1994年までの合法的な政策によるものであった。金や[[ダイヤモンド]]の世界的産地であり、民主化後の経済発展も注目されている。アフリカ最大の経済大国であり、アフリカ唯一の[[G20]]参加国である。[[2010年]]の[[国内総生産|GDP]]は3,544億ドル(約30兆円)であり<ref>{{Cite web|url=http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2010/02/weodata/index.aspx |title=IMF: World Economic Outlook Database |publisher=国際通貨基金(IMF)|accessdate=2013-10-28}}</ref>、[[神奈川県]]とほぼ同じ経済規模である<ref>{{Cite web|url= |
かつては[[有色人種]]に対する[[人種差別]]で知られ、それは[[アパルトヘイト]]と呼ばれる1994年までの合法的な政策によるものであった。金や[[ダイヤモンド]]の世界的産地であり、民主化後の経済発展も注目されている。アフリカ最大の経済大国であり、アフリカ唯一の[[G20]]参加国である。[[2010年]]の[[国内総生産|GDP]]は3,544億ドル(約30兆円)であり<ref>{{Cite web|url=http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2010/02/weodata/index.aspx |title=IMF: World Economic Outlook Database |publisher=国際通貨基金(IMF)|accessdate=2013-10-28}}</ref>、[[神奈川県]]とほぼ同じ経済規模である<ref>{{Cite web|url=https://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/menu.html |title=国民経済計算(GDP統計) |publisher=[[内閣府]]|accessdate=2013-10-28}}</ref>。従来の[[BRICs]]([[ブラジル]]('''B'''razil)、[[ロシア]]('''R'''ussia)、[[インド]]('''I'''ndia)、[[中華人民共和国|中国]]('''C'''hina)、南アフリカ('''S'''outh Africa)を表す。また、BRICSからロシアを除いて南アフリカを加えた'''IBSAC'''('''I'''ndia, '''B'''razil, '''S'''outh '''A'''frica, '''C'''hina)という用語が、[[G7]]で[[イギリス]]によって提唱されたこともある<ref group="注釈">このほか、国際経済研究所による「The United States and the World Economy(2005年1月)」では、BRICsおよび南アフリカの5カ国に[[アルゼンチン]]、[[インドネシア]]、[[大韓民国|韓国]]、[[メキシコ]]、[[サウジアラビア]]、[[トルコ]]を加えた計11カ国が今後の世界経済に大きな影響を及ぼす「LEMs(Large Emerging-Market Economies)」として取り上げられた。また、BRICs経済研究所の[[門倉貴史]]はBRICsに続くグループ「[[VISTA]]」として、[[ベトナム]] ('''V'''ietnam)、インドネシア ('''I'''ndonesia)、南アフリカ ('''S'''outh Africa)、トルコ ('''T'''urkey)、アルゼンチン ('''A'''rgentina) の5カ国を、[[HSBCホールディングス|HSBC]]は同じく「[[CIVETS]]」として、[[コロンビア]] ('''C'''olombia)、インドネシア ('''I'''ndonesia)、ベトナム ('''V'''ietnam)、[[エジプト]] ('''E'''gypt)、トルコ ('''T'''urkey)、南アフリカ ('''S'''outh Africa) の6カ国を取り上げている。</ref>。一方で[[後天性免疫不全症候群]](AIDS)の蔓延、教育水準の低い非白人の極端な貧困、平時にもかかわらず1日の他殺による死者数が戦争中レベルなど治安が毎年悪化しているなど、懸念材料も多い<ref name=":0" />。 |
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== 国名 == |
== 国名 == |
2020年2月27日 (木) 15:50時点における版
- 南アフリカ共和国
- Republic of South Africa
- その他、10の公用語による正式名称:[1]
- Republiek van Suid-Afrika
- iRiphabliki yeSewula Afrika
- iRiphabliki yomZantsi Afrika
- iRiphabhuliki yaseNingizimu Afrika
- iRiphabhulikhi yeNingizimu Afrika
- Repabliki ya Afrika-Borwa
- Rephaboliki ya Afrika Borwa
- Rephaboliki ya Aforika Borwa
- Riphabliki ra Afrika Dzonga
- Riphabuḽiki ya Afurika Tshipembe
-
ファイル:South African Cultural History Museum coat of arms (cropped).png (国旗) (国章) - 国の標語:!ke e: ǀxarra ǁke
(カム語: 様々な人々が一致協力する) - 国歌:南アフリカの国歌[注 1]
南アフリカの国歌 -
公用語 アフリカーンス語、英語、バントゥー諸語9言語[注 2] 首都 プレトリア(行政府)
ケープタウン(立法府)
ブルームフォンテーン(司法府)最大の都市 ヨハネスブルグ(2011年)[2][注 3] - 政府
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大統領 シリル・ラマポーザ 副大統領 デビッド・マブザ 全国州評議会議長 タンディ・モディセ 国民議会議長 バレカ・ムベテ - 面積
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総計 122万(日本の約3.2倍)[3]km2(24位) 水面積率 極僅か - 人口
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総計(2016年) 55,653,654人(26位)[2] 人口密度 41人/km2 - GDP(自国通貨表示)
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合計(2013年) 3兆3,854億[4]ランド - GDP(MER)
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合計(2013年) 3,508億[4]ドル(33位) 1人あたり xxxドル - GDP(PPP)
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合計(2013年) 6,626億[4]ドル(29位) 1人あたり 12,507[4]ドル - 建国
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南アフリカ連邦成立 1910年5月31日 ウェストミンスター憲章 1931年12月11日 連邦地位法施行 1934年8月22日 イギリス連邦脱退 1961年5月31日 マンデラ政権成立
イギリス連邦再加盟1994年5月10日
通貨 ランド(ZAR) 時間帯 UTC+2 (DST:なし) ISO 3166-1 ZA / ZAF ccTLD .za 国際電話番号 27
南アフリカ共和国(みなみアフリカきょうわこく、アフリカーンス語: Republiek van Suid-Afrika, 英: Republic of South Africa )、通称南アフリカは、アフリカ大陸最南端に位置する共和制国家。イギリス連邦加盟国のひとつ。東にエスワティニ(旧・スワジランド)、モザンビーク、北にジンバブエ、ボツワナ、西にナミビアと国境を接し、レソトを四方から囲んでいる。南アフリカは首都機能をプレトリア(行政府)、ケープタウン(立法府)、ブルームフォンテーン(司法府)に分散させているが、各国の大使館はプレトリアに置いていることから国を代表する首都はプレトリアと認知されている。
概要
かつては有色人種に対する人種差別で知られ、それはアパルトヘイトと呼ばれる1994年までの合法的な政策によるものであった。金やダイヤモンドの世界的産地であり、民主化後の経済発展も注目されている。アフリカ最大の経済大国であり、アフリカ唯一のG20参加国である。2010年のGDPは3,544億ドル(約30兆円)であり[5]、神奈川県とほぼ同じ経済規模である[6]。従来のBRICs(ブラジル(Brazil)、ロシア(Russia)、インド(India)、中国(China)、南アフリカ(South Africa)を表す。また、BRICSからロシアを除いて南アフリカを加えたIBSAC(India, Brazil, South Africa, China)という用語が、G7でイギリスによって提唱されたこともある[注釈 1]。一方で後天性免疫不全症候群(AIDS)の蔓延、教育水準の低い非白人の極端な貧困、平時にもかかわらず1日の他殺による死者数が戦争中レベルなど治安が毎年悪化しているなど、懸念材料も多い[7]。
国名
11の公用語を採用しており、公用語によって正式名称も異なる。
- アフリカーンス語: Republiek van Suid-Afrika
- 英語: Republic of South Africa
- ズールー語: IRiphabliki yaseNingizimu Afrika
- 南ンデベレ語: IRiphabliki yeSewula Afrika
- 北ソト語: Rephaboliki ya Afrika-Borwa
- ソト語: Rephaboliki ya Afrika Borwa
- スワジ語: IRiphabhulikhi yeNingizimu Afrika
- ツォンガ語: Riphabliki ra Afrika Dzonga
- ツワナ語: Rephaboliki ya Aforika Borwa
- ヴェンダ語: Riphabuḽiki ya Afurika Tshipembe
- コサ語: IRiphabliki yaseMzantsi Afrika
独立後、イギリス連邦を脱退する1961年までは「南アフリカ連邦」と呼ばれていた。
歴史
紀元前数千年ごろから、狩猟民族のサン人(ブッシュマン)と同系統で牧畜民族のコイコイ人(ホッテントット:吸着音でわけのわからない言葉を話す者の意)が居住するようになった。また、300年 - 900年代に現在のカメルーンに相当する赤道付近に居住していたバントゥー系諸民族が南下し、現在の南アフリカに定住した。
ヨーロッパで大航海時代が始まった15世紀末の1488年に、ポルトガル人のバルトロメウ・ディアスがアフリカ大陸南端の喜望峰に到達した。
1652年にオランダ東インド会社のヤン・ファン・リーベックがこの地に到来し、喜望峰を中継基地とした。喜望峰は航海上の重要な拠点として注目されたうえ、気候も比較的ヨーロッパに似ていたためである。以後、オランダ人移民は増加し、ケープ植民地が成立した。この植民地にて形成されたボーア人(Boer:アフリカーンス語読みでブール人とも呼ばれるが、以下ボーア人で統一)の勢力拡大とともに、コイ人やサン人などの先住アフリカ人との争いも起きた。一方で先住アフリカ人とボーア人、またオランダ領東インドから奴隷として連れてきたインドネシア系諸民族とボーア人の混血も進み、のちにカラードと呼ばれることになる民族集団が生まれた。
18世紀末には金やダイヤモンドの鉱脈を狙ってイギリス人が到来した。ボーア人とイギリス人は対立し、フランス革命戦争中の1795年にイギリスのウィリアム・ベレスフォード将軍がケープタウンを占領した。
ナポレオン戦争終結後、19世紀初頭にケープ植民地はオランダからイギリスへ正式に譲渡され、イギリス人が多数移住した。イギリスの植民地になり英語が公用語となり、同国の司法制度が持ち込まれるなどイギリスの影響が強まった。イギリス人の増加とともに英語を解さないボーア人は二等国民として差別され、自らをアフリカーナーと呼ぶようになった(以下ボーア人をアフリカーナーとする)。1834年12月1日にイギリスが統治するケープ植民地内で奴隷労働が廃止されると、奴隷制に頼っていたアフリカーナーの農業主はこの奴隷制度廃止措置に反発し、1830年代から1840年代にかけてイギリスの統治が及ばない北東部の奥地へ大移動を開始した(グレート・トレック)。アフリカーナーはバントゥー系のズールー人やンデベレ人、スワジ人、ツワナ人など先住アフリカ人諸民族と戦いながら内陸部へと進み、ナタール共和国(1839年建国)や、トランスヴァール共和国(1852年建国)、オレンジ自由国(1854年建国)などのボーア諸共和国を建国した。しかし、セシル・ローズに代表されるように南アフリカ全土を領有することを求めたイギリスとの対立から2度にわたるボーア戦争に発展し、第一次ボーア戦争ではアフリカーナーの両国がイギリスを退けたが、第二次ボーア戦争(1899年 - 1902年)では敗北し、それらもすべてイギリスの手に落ちた。アフリカーナーのみならず、独立していた先住アフリカ人諸民族のアフリカーナーとイギリス人双方に対する抵抗も続いたが、1879年のズールー戦争のように抵抗した民族はすべて敗れ、南アフリカはほぼ完全にイギリスに支配された。
1910年5月31日に、ケープ州、ナタール州、トランスヴァール州、オレンジ州の4州からなる南アフリカ連邦として統合され、イギリス帝国内のドミニオン(自治領)としてアフリカーナーの自治を確立した。翌1911年には、鉱山における白人・黒人間の職種区分と人数比を全国的規模で統一することを目的とした、白人労働者保護のための最初の人種主義法である「鉱山・労働法」が制定された。それからも人種差別法の制定は続いた。
1931年にはウェストミンスター憲章が採択され、南アフリカ連邦は外交権をはじめイギリスと同格の主権を獲得。1934年にはイギリス国会で南アフリカ連邦地位法が可決され、正式に主権国家として規定された。1939年に第二次世界大戦が勃発すると、南アフリカ連邦は連合国の一員として参戦した。
1948年にアフリカーナーの農民や都市の貧しい白人を基盤とする国民党が政権を握り、ダニエル・フランソワ・マランが首相に就任すると、国民党はアパルトヘイト政策(人種隔離政策)を本格的に推進していった。国際連合の抗議やアフリカ人民評議会などの団体の抵抗にもかかわらず、国民党はアパルトヘイト政策をやめることはなかった[注釈 2]。国際関係としては、反共主義を押し出し、自由主義陣営として朝鮮戦争に軍を派遣した。
1958年にマランに続いてヘンドリック・フルウールトが首相に就任すると、南アフリカは1960年代から1980年代にかけて強固なアパルトヘイト政策を敷いた。他方、国内では人種平等を求める黒人系のアフリカ民族会議(ANC)による民族解放運動が進み、ゲリラ戦が行われた。1960年のシャープビル虐殺事件をきっかけに、1961年にはイギリスから人種主義政策に対する非難を受けたため、イギリス連邦から脱退し、立憲君主制に代えて共和制を採用して新たに国名を南アフリカ共和国と定めた。一方で、日本人は白人でないにもかかわらず白人であるかのように扱われる名誉白人として認められ、日本は南アフリカ政府や南アフリカ企業と深いつながりを持つことになった。また、世界的に脱植民地化時代に突入していたにもかからず、このように露骨な人種主義政策をとり続けたために、域内のアフリカの新興独立国から国際的に孤立したため[注釈 3]、同様に域内で孤立していた白人国家ローデシアや、アフリカにおける植民地帝国の維持を続けるポルトガル、そして強固に反共政策をとっていた中華民国(台湾)や、汎アラブ主義の波に対抗していたイスラエルとの結びつきを深めた。
1966年にフルウールトが暗殺されたあと、バルタザール・フォルスターが次代の首相に就任した。フォルスター政権成立に前後して同年8月より占領していたナミビアでも独立を目指すSWAPOによるナミビア独立戦争(1966年 - 1990年)が始まった。
1974年に植民地戦争によって疲弊したポルトガルでカーネーション革命が勃発し、エスタード・ノーヴォ体制が崩壊して左派政権が誕生して植民地の放棄を打ち出すと、近隣の旧ポルトガル植民地だったアンゴラとモザンビークは社会主義国として新たなスタートを切り、両国は南アフリカとローデシアの白人支配に対するブラックアフリカ諸国の最前線であるフロントライン諸国となった。南アフリカとローデシアは強行に国内を引き締める一方、両国に対して直接、間接の軍事介入を行い、両国を苦しめた。さらに国内でも、1976年にソウェト蜂起が勃発し、この黒人蜂起に対するフォルスター首相の対応は国際的な批判を浴びてさらに国内では政治スキャンダルで追い込まれて辞することになり、軍事介入を主導してきた強硬派で国防相だったP・W・ボータが後継の首相に就任した。
1980年、ローデシアはローデシア紛争の末に白人政権が崩壊して新たに黒人国家ジンバブエが成立し、反共のための戦いから脱落した。一方、南アフリカ防衛軍による直接介入が行われていたアンゴラでも、キューバやブラックアフリカ諸国に支援されたアンゴラ政府軍の抵抗が続き、戦争は泥沼の様相を呈していた。国内でも1980年代にはボータは首相職を廃止して大統領に就任して強権を振るい、反体制運動も激しくなり、さらにそれまでの反共的姿勢から南アフリカを優遇していた西側諸国からも国際的に経済制裁を受け、南アフリカ内外で反アパルトヘイト運動が高まった。1988年には第二次世界大戦後のアフリカで最も大規模な戦いの1つだったクイト・クアナヴァレの戦いでアンゴラ=キューバ連合軍に敗北し、この戦いをきっかけに南アフリカはキューバ軍のアンゴラからの撤退と引き換えに占領していたナミビアの独立を認めた。軍事介入の失敗により、アパルトヘイト体制は風前の灯火となっていた。
このような情勢の悪化から辞任したボータ大統領の後任であるデ・クラーク大統領は冷戦の終結した1990年代に入ると、アパルトヘイト関連法の廃止、人種主義法の全廃を決定するとの英断を下した。また、同時に1970年代から1980年代にかけて6発の核兵器を密かに製造・配備をしていたが、核拡散防止条約加盟前にすべて破棄していたことを1993年に発表した。
1994年4月に同国史上初の全人種参加の総選挙が実施され、アフリカ民族会議(ANC)が勝利し、ネルソン・マンデラ議長が大統領に就任した。副大統領にANCのターボ・ムベキと国民党党首のデ・クラーク元大統領が就任した。アパルトヘイト廃止に伴いイギリス連邦と国連に復帰し、アフリカ統一機構(OAU)に加盟した。マンデラ政権成立後、新しい憲法を作るための制憲議会が始まり、1996年には新憲法が採択されたが国民党は政権から離脱した。
アパルトヘイトが撤廃された21世紀になっても依然として人種間失業率格差が解消されないでいた理由は、アパルトヘイトが教育水準格差をも生み出していたことがもっとも大きな要因と考えられる。アパルトヘイト撤廃によって即日雇用平等の権利を得たとしても、当時の労働人口の中心となる青年層はすでに教育水準の差が確定してしまっており、アパルトヘイト時代に教育を受ける機会を得られなかった国民は、炭坑労働者など、雇用が不安定な業種にしか職を求めることができなかった。さらに、鉱山は商品市況によって炭鉱労働者の雇用または解雇を頻繁に行うこともあり、黒人の失業率は白人のそれと比べて非常に高い統計結果が出てしまうのである。しかし、撤廃後12年以上が経過し、教育を受ける世代が一巡したことで、白人・黒人間の失業率格差は縮小しつつある。また政府は、単純労働者からIT技術者の育成など技術労働者へ教育プログラムなどを用意し、国民のスキルアップに努めている。今後、失業率の問題は、人種間失業率格差から、数十あると言われる各部族間格差を縮小させるような政策が期待されているが、犯罪率も高く、多くの過激派組織も活動している点は否定できない。また、事実上パスポートなしで移民を受け入れる政策をとってからは、特に隣国のひとつであるジンバブエからの移民が急増し、国内に住む黒人の失業率が増加する結果となり、大規模な移民排斥運動も起こり始めている[8]。さらに、黒人への優遇政策によりこれまで要職に就いていた白人が押し出される格好になり、白人の失業率が上昇することになった[9]。
政治
アフリカでも数少ない複数政党制が機能する民主主義国家のひとつである。議会は両院制で、いずれも任期5年の全国州評議会(90名、上院)国民議会(400名、下院)で構成され、元首たる大統領は国民議会の議決により選出される。
複都制を採用しており、立法府はケープタウン市都市圏、行政府はツワネ都市圏(プレトリア)、司法府はブルームフォンテーンに置かれている。
立法
アパルトヘイト撤廃後に5度の総選挙が実施され、いずれも反アパルトヘイト闘争を主導したアフリカ民族会議(ANC)が7割近い得票で圧勝している。アフリカーナーやリベラル派に支持基盤を持つ民主同盟(DA)、クワズールー・ナタール州を地盤とするインカタ自由党(IFP)、かつての政権与党・国民党とANCの離党者で組織された統一民主運動(UDM)が続くが、全議席の7割以上をANCが占めている。
政党名 | 全国州評議会 (上院) |
国民議会 (下院) | |
---|---|---|---|
常任議員 | 特別議員 | ||
アフリカ民族会議 (ANC) | 33 | 37 | 249 |
民主同盟 (DA) | 13 | 7 | 89 |
経済的解放の闘士 (EFF) | 6 | 1 | 25 |
インカタ自由党 (IFP) | 1 | 0 | 10 |
国民自由党 (IFP) | 0 | 1 | 6 |
統一民主運動 (UDM) | 1 | 0 | 4 |
自由戦線プラス(FF Plus) | 0 | 0 | 4 |
国民会議(COPE) | 0 | 0 | 3 |
アフリカ・キリスト教民主党(ACDP) | 0 | 0 | 3 |
アフリカ独立会議(AIC) | 0 | 0 | 3 |
Agang SA | 0 | 0 | 2 |
パン・アフリカニスト会議(PAC) | 0 | 0 | 1 |
アフリカ人民会議(APC) | 0 | 0 | 1 |
計 | 54 | 36 | 400 |
行政
行政の中心地はプレトリア(ツワネ市都市圏)である。大統領は行政府の首長を兼務し、内閣を組織する。
司法
1994年に設置された憲法裁判所のほか、最高裁判所を筆頭とする三審制の司法制度である。司法府はブルームフォンテーンに置かれている。
警察
南アフリカの警察組織・警備会社は後述の犯罪問題により、強力な武装化をしている場合が多い[要出典]。たとえば、拳銃やライフル、スタンガンや時には手榴弾(俗語でパイナップル)を所持している場合がある。また、南アフリカで活動する警備会社は9,000以上で、働く警備員の数は40万人と、警察官や国防軍の兵士よりも多いとされている[10]。
軍事
南アフリカ国防軍(South African National Defence Force, SANDF)は陸軍、海軍、空軍の三軍と南アフリカ総合医療部隊から構成される。
かつて冷戦時代に存在した南アフリカ防衛軍(South African Defence Force, SADF)は、アパルトヘイト体制維持のために国内のアフリカ民族会議(ANC)や占領していたナミビアの南西アフリカ人民機構(SWAPO)のゲリラとの非正規戦、およびアンゴラの社会主義政権とアンゴラに介入したキューバ軍との戦いに従事していた。現在の南アフリカ国防軍は、アパルトヘイト体制崩壊後の1994年に再編成されたものである。
民間軍事会社
アパルトヘイト終了後の軍縮などにより、南アフリカ国内外にて不正規戦や秘密工作を行った軍人達が(特にアンゴラの元難民である黒人兵士達はアフリカ民族会議の圧力により、軍基地跡地の貧しい地域に居住することを余儀なくされた)大量に職を失った。南アフリカ国防軍不正規戦部隊の出身である元軍人らがエグゼクティブ・アウトカムズという民間軍事会社を設立し、冷戦終了後内戦が勃発したアンゴラやシエラレオネなどで戦い、同社が解散したあとは、赤道ギニアにてエグゼクティブ・アウトカムズの元社員らがクーデター未遂を起こして逮捕された。
ほかにも、南アフリカ国防軍出身者はイラク戦争でもイギリスの民間軍事会社に警備要員として雇用されており、ハート・セキュリティ社に所蔵している元南アフリカ警察出身のGrey Branfield(銃撃戦により死亡)と元自衛官の日本人と一緒に勤務していた4人の警備要員(全員銃撃戦により死亡)、エリニュス社に所属している南西アフリカ警察不正規戦部隊出身のFrançois Strydom(自爆テロにより死亡)と秘密警察出身のDeon Gouws(同じ自爆テロにより負傷)など、1,000人程度が確認されている。
国際関係
冷戦中の南アフリカ共和国は人種主義に基づくアパルトヘイト体制維持を掲げたため、ブラックアフリカをはじめとする国際社会から孤立し、わずかにイスラエルや中華民国(台湾)などが友好国として存在するのみだった。しかし、南部アフリカにおける反共の砦と自らを規定していたため、実際は軍事面において西側諸国との友好関係も保っていた。このような反共政策を背景にしてアンゴラ内戦(1974年 - 2002年)に直接介入したり、モザンビーク内戦(1977年 - 1992年)でのモザンビーク民族抵抗運動(RENAMO)支援を通して周辺の社会主義黒人政権に不安定工作を発動したが、世界的な反アパルトヘイトキャンペーンと東側諸国の勢力低下により強硬政策は頓挫した。そのため、アンゴラ、モザンビーク両国に干渉することをやめ、1990年にはアンゴラからのキューバ軍の撤退と引き換えに占領していたナミビアの独立を認めた。
フレデリック・ウィレム・デクラークがアパルトヘイト体制を葬ったあと、1994年にネルソン・マンデラを首班としたANC政権が成立すると同時に、南アフリカ共和国はアフリカ統一機構(OAU)に加盟し、国際社会に合流した。
日本との関係
在留邦人数は1997年10月には3,517名いたが、現在では2分の1以下となっている。ヨハネスブルクには日本人学校もある。また、ごく少数だが、永住者や日系人も存在する。
ケープ植民地入植者にはオランダ人ヤン・ファン・リーベックによって、長崎の出島から連れてこられたハポンと呼ばれる日本人家族が含まれていたという説もある[13]。
公式記録として残る南アフリカに初めて入国した日本人は、慶応2年(1865年)1月にケープタウンに立ち寄った幕府のロシア派遣留学生ら6名で、移住者としては、1898年(明治31年)入植の古谷駒平らが最初期にあたる(在南アフリカ日本人参照)。
地方行政区画
主要都市
主要な都市はプレトリア(首都)、ケープタウン(首都)、ブルームフォンテーン(首都)、ヨハネスブルグ、ダーバン、ソウェト、ポート・エリザベスがある。
地理
アフリカ大陸の最南端に位置し、ナミビア、ボツワナ、ジンバブエ、モザンビーク、エスワティニと国境を接し、レソトを囲んでいる。南西部は南大西洋に面し、南部から東部にかけてはインド洋に面するため2,500キロという長い海岸線を有する。海岸平野は狭く、国土の全体が高地になる。内陸はカルーと呼ばれる広大な平坦地で、人口は少ない。北西部はナミブ砂漠の延長部である。東部にはドラケンスバーグ山脈が連なる。国の最高地点はレソトとの国境にあるマハディ山(標高3,450メートル)である。
気候
夏期は10月から3月、冬期は5月から8月である。地域による差はあるが、1年を通じて気候は比較的温暖で日照時間が長い。
しかし、海岸部以外は高地なため同緯度の国に比べやや気温は低い。国全体の平均気温は、冬が0 - 15度、夏が20 - 40度と差が大きい。内陸高地の冬の気温は0度以下になることもあり、ドラケンスバーグ山脈のような高い山の山頂では降雪もある。東部の海岸は高度も低く、暖流のモザンビーク海流が流れているために暖かい。西部の海岸は寒流のベンゲラ海流の影響を受けて気温はそれほど上がらない。
雨季は11月から3月。東と西で雨の降り方が大きく違う。東部は季節風の影響で夏に雨が降るが、南西の海岸はいわゆる地中海性気候で、移動性低気圧により冬に雨が多い。降雨量は東側から西側にいくにしたがって少なくなる。
内陸部は高原地帯であるためそれほど暑くはならない。
動植物
南アフリカには特色ある生物種からなる生態系が形成されている。植物は多様な環境に適応したベンケイソウ科やトウダイグサ科、ハマミズナ科の多肉植物やトランスヴァール地方に花畑を形成するガーベラやユリオプスデージーなどキク科の植物、あるいはエリカやクンシランなどは珍奇な姿や美しい花から園芸植物として世界中で栽培されている。南アフリカの国土は全世界のわずか2%ほどにすぎないが、世界の植物の10%近く、約2万4,000種類の原産国となっている。また、脊椎動物の約7%、昆虫の約5.5%、海洋生物の約15%にとっての生息地ともなっている[14]。
-
ハゴロモヅル
-
プロテア
-
スプリングボック
経済
初期の銀行業はスタンダード銀行とバークレイズに支配されていた。1987年時点では、ヨハネスブルク証券取引所に上場していた全企業の83%を、Sanlam、Old Mutual、アングロ・アメリカン、Rembrandt Group の4財閥が支配していた[15]。
2012年にはマリカナ鉱山における労使対立が起こった。IMFの統計によると、2013年のGDPは3,508億ドルである。1人あたりのGDPは6,621ドルで、アフリカ全体では7位に位置する。購買力平価ではそれぞれ6,626億ドル、1万2,506ドルとなる[4]。しかし、2008年時点のジニ係数は63と、世界でもっとも格差が大きい国のひとつである[16]。
主要産業
農業は果樹・穀類栽培と牧畜がある。アフリカ大陸で最大のトウモロコシ生産国であり、2009 - 2010年度には400万トンの生産過剰となっている。また、南アフリカの砂糖(サトウキビ)は世界金融危機の出端から年に十数%の割合で高騰していった。
伝統的な作物としての果物にはグアバやアボカドがあり、これらは南アの重要な生産物となっている。現在はパンなどの主食用として小麦もつくっている。
最近ではマカダミアナッツの栽培に力を入れており、毎年約4,000ヘクタールが新たに植林されている。その背景には中国での旺盛な需要があり、生産量は1996年の3,000トンから2015年には4万トンを超えるまでになっている[17]。
酒造はワインを手がけており、ワイン作りはケープタウン付近で特に盛んで輸出もされている。
メリノ種の羊毛はオーストラリアに次ぐ生産量を誇る。皮革用の牝羊も飼われているが、最高級品は胎児を取り出して剥ぐため、愛護団体などから批判を受けている。
鉱業生産物は金・ダイヤモンド・プラチナ・ウラン・鉄鉱石・石炭・銅・クロム・マンガン・石綿。豊富な鉱物資源を誇り、特に金は世界の産出量の半分を占める。この豊富な産金力を背景にクルーガーランド金貨を発行していたが、現在は限定品としてのみわずかに販売されている。石油の産出はない。
工業は食品・製鉄・化学・繊維・自動車などの分野で盛んである。
近年、ダイムラー・クライスラー(現・ダイムラー)社がダーバン市内に自動車製造工場を建設。メルセデス・ベンツの、特に右ハンドル仕様を製造している。これらの車両は南アフリカ向けのみならず、多くが輸出に割り振られている。またBMW、フォルクスワーゲンや日産自動車なども輸出拠点として同国に工場を置いている。なお、これらの拠点は東海岸のポートエリザベスに多く存在している。
GDP成長率は2005年に5.1%、2006年に5.0%[18]と堅調な成長が続いている。JSEは世界的な証券取引所である。
アパルトヘイト廃止後に電力需要が急増したにもかかわらず、発電所の建設が10年以上行われなかったため、2007年ごろから電力不足が問題となっている。2008年1月には南アフリカ電力公社(Eskom)は計画停電を実施し、当時資源高により好調だったプラチナ鉱山の操業が制限される事態となり、金やプラチナの相場を高騰させた。これを解消するためEskomは近隣諸国からの送電や発電所の増設を計画しているが、電力不足は2015年ごろまでは解消されない見込みである。
2010年8月、公務員ストが発生した。労組側(COSATU)は、公務員賃金の8.6%引き上げと住宅手当1,000ランド(約1万円)の新設の要求であった。政府側の最終回答はそれぞれ7%、700ランドにとどまっている。
失業が大きな問題となっており、2011年の国勢調査では失業率は29.8%であった[19]。その後、持ち直す局面もあったが、2019年第3・四半期の失業率は29.1%となっている[20]。
交通
道路
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鉄道
トランスネット(Transnet)・南アフリカ旅客鉄道公社
旅客輸送量(人kg)=13億7,000万人kg
貨物輸送量(kt)=1,027億,700万kt
(旅客・貨物ともに2000年のデータ)
海運
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空運
国民
人口
2009年の推計によると、人口は4,932万人。エイズによる死者や白人層の国外流出が多いため、ほかのアフリカ諸国に比べると人口増加率は低く、2008年には人口が減少している。平均寿命も年々低下しており、かつて60歳代であった平均寿命は、現在では40歳代(2009年推計で48.98歳) にまで低下した。黒人層に限ればさらに低くなる。
民族
2009年の推計によると、人種の割合は黒人(79.3%)、白人(9.1%)、カラード(混血)(9.0%)、インド系(印僑)(2.6%)[21]。
黒人はズールー人、コサ人、ツワナ人、ソト人(南ソト人)、ペディ人(北ソト人)、スワジ人、ヴェンダ人、ンデベレ人、ツォンガ人のバントゥー系民族で非常に多様であり、アパルトヘイト撤廃後は民族間の対立が深刻化している。
カラードは中央部から西部にかけての広い範囲に分布し、多くがアフリカーンス語を母語としている。ほかにコイサン人種の先住民であるサン人、コイコイ人がいるが、多くは混血したため数は少ない。
白人の大半はイギリス系とアフリカーナーで、そのほかにポルトガル系やユダヤ系、フランス系、ドイツ系などがいる。白人は1940年ごろには全人口の約20%を占めていたとされるが、1994年には13.6%、2009年には9.1%にまで低下した。アパルトヘイトの廃止以降、逆差別や失業、犯罪などから逃れるために国外への流出が続いており、1995年以来、国外に移民した白人はおよそ80万人に及ぶ[22]。2009年、白人人口447万人の約10%にあたる約40万人[23]が貧困層となっており、プアホワイトと呼ばれる層が出現している。アフリカーナーが急減する一方、イギリス系は増加傾向にある。
アジア系南アフリカ人の大多数はインド系(印僑)で、100万人に達し、多くがクワズール・ナタール州に住む。近年は中国系南アフリカ人(およそ10万人)が急増し、黒人との対立を引き起こしている。最近はジンバブエから300万人が流入するなど、周辺国から約500万人の不法移民が流入し、治安悪化の原因となっている。
言語
公用語は英語、アフリカーンス語、バントゥー諸語(ズールー語、コサ語、北ソト語、ソト語、スワジ語、南ンデベレ語、ツォンガ語、ツワナ語、ヴェンダ語)の11言語。しかし、実質的には公用語として機能しているのは英語のみといえる。
1994年の現憲法制定以前はアフリカーンス語と英語が公用語であり両言語が政府、国会、経済、教育、標記、メディアにおいてもほぼ平等に使われていた。1994年の新憲法ではアフリカ諸語の保護育成のための多言語主義を掲げ、バントゥー諸語9言語が公用語に追加されたが、それまで共通語として機能していたアフリカーンス語を含め公用語の地位は形骸化している。エリート層主体で英語一本化の傾向が強まった結果、多言語主義の理念とはかけ離れつつあり[25]、多言語主義を推奨する機関である汎南アフリカ言語委員会(PANSALB)もほとんど機能不全に陥っている。
宗主国イギリスから見た場合に対立する被支配者階層でもあった貧しいボーア人(アフリカーナー)に政治的実権を握らせ、アパルトヘイト政策を行わせることで黒人に対して優位に立たせ、支配階級であるイギリス系への憎悪を軽減させていた。そのアフリカーナーがアパルトヘイトの象徴として政治から失脚したことでアフリカーンス語の地位は低下。一方、宗主国イギリスの言葉である英語の地位はアパルトヘイト撤廃後には大きく上昇と対照的な様態をなしており、英国は宗主国であったにもかかわらず途中からアパルトヘイト反対へ転じたことで、アパルトヘイトの責任を免れ英語が黒人層にまで浸透した。実質的に公用語から剥奪されたアフリカーンス語は公共の場や公的機関、メディア、教育での使用が制限されたことで家庭内や同一コミュニティ内で使われるに過ぎない言語にまで地位が転落するなど、南アフリカ西部の大半の地域において最大の話者数でありながら、その地位は危機的状況にあるとされ、このままいくと言語としては消滅の危機にあるとされる。
英語
英語圏であるとされる南アフリカであるが、実際には英語はおもにヨハネスブルクやケープタウン、ダーバンを代表とする大都市を中心に、イギリス系を中心とした白人やインド系など全人口の9.6%の人の第一言語に過ぎず、90%前後の大多数の国民にとっては教育で学ぶ言語である。しかし、イギリスの植民地時代に普及した英語が共通語的役割を果たし国会や政府の公式言語として全土で使用されているが、貧困層を中心に十分に理解できない層も多く、ある程度の英語を理解できる層は全人口の半数程度に過ぎない[26]。全人口に占める割合は2011年のセンサス統計では9.6%と、2001年のセンサス統計の8.2%より大幅に増加しており、第一言語話者数は2001年の367万3,000人から2011年には489万2,623人まで増加した。おもに黒人層の間で社会的価値の低いバントゥー諸語話者から社会的成功のために必須な英語話者へと変化していることが大きいとされる[27]。
人種別にみると、インド系の86.1%(109万4,317人)、白人の35.9%(160万3,575人)、カラードの20.8%(94万5,847人)の母語となっており、黒人の母語話者(116万7,913人)は黒人人口の2.9%に過ぎないが、近年は急増傾向にある。
アフリカーンス語
オランダ語を元にマレー人奴隷の持ち込んだマレー語や英語、バントゥー諸語の影響を受けたゲルマン語派の言語である。英語よりも第一言語話者が多く、北ケープ州と西ケープ州を中心にアフリカーナーとカラードが在住する地域で広く話されている。南アフリカの国土の半分ほどを占める西部地域はアフリカーンス語地域となっており、特に農村部での広がりが目立つ。南アフリカの地名にはボーア人(アフリカーナー)が開拓した土地が多いためにアフリカーンス語のものが多い。
以前はアフリカーンス語も英語と並んで共通語としての役割を担っており、事実上の二言語国家体制を敷いていたが、アパルトヘイト撤廃後は、ソウェト蜂起に代表されるようにアパルトヘイトという負のイメージの象徴としてのアフリカーンス語[注釈 4]への逆差別も発生しており、それまで政治的に支配していたアフリカーナーが失脚したことで、その地位は急速に低下している。
アフリカーンス語の地名や通りの名は英語やバントゥー諸語の名に変えられ、以前は二言語併記であった政府の公式文書のほか、南アフリカ航空や南アフリカ旅客鉄道公社など企業名からも排除された。政界ではかつて国民党が支配していたためアフリカーンス語が政界の中心言語であったが、現在は完全に排除されている。国営の南アフリカ放送協会のテレビ放送も、以前は半分の番組がアフリカーンス語で制作されていたが、現在ではほとんどが英語に変わった。教育機関などにおいても、それまでアフリカーンス語で教育を行っていた学校の閉鎖や英語化が行われ、アフリカーンス語話者にとって母語での教育という選択肢も奪われている。国内の多くの大学でもそれまで行われてきたアフリカーンス語による教育が廃止・削減され、英語へと変わっており、国内最高学府でありアフリカーンス語のみで教育が行われていたステレンボッシュ大学においても、英語の使用が認められアフリカーンス語使用率はどんどん縮小している。それに対して、アフリカーンス語話者は教育の地位を奪われていると反発しており、新たなアフリカーンス語の大学の設置運動に対しても黒人がアパルトヘイトの復活であると激しく反発しているなど社会問題となっている。
このように、白人のアフリカーナーのみならず、カラードや一部の黒人などの白人以外の母語でもあり、それまで共通語としても機能していたアフリカーンス語の排除は問題となっており、結果としてアフリカーンス語話者の英語化や海外への大量流出を引き起こしている。このままいくと、およそ国内に第一言語として約600万人、第二言語として約1,000万人もいるアフリカーンス語話者も将来的には国内から絶滅することが危惧されている。
上記の事情にもかかわらず、2011年センサスによると、人口に占める割合は13.5%と2001年のセンサスに比べ0.2%増加した。第一言語話者数も2001年の598万3,000人から2011年には685万5,082人へと増加した。人種別にみると、カラードの75.8%(344万2,164人)、白人の60.8%(271万0,461人)の母語となっており、黒人の母語話者(60万2,166 人)も全体の黒人人口の1.5%に過ぎないものの実数では決して少なくないなど、母語話者数ではカラードが最大を占める等、白人だけの言語とは言えなくなっており、アパルトヘイトを行った白人の抑圧の言語というレッテルが間違いであると分かる。
バントゥー諸語
新言語憲法で公用語にバントゥー諸語で南バントゥー語群に属するズールー語、コサ語、スワジ語、南ンデベレ語、北ソト語、ソト語、ツワナ語、ツォンガ語、ヴェンダ語の9言語が指定された。実際、ほとんどの黒人にとっての第一言語・日常言語となっている。中でもズールー語は国内でもっとも多くの人に話されているが、それでも全体の22.7%に過ぎず、それも東部に限定される。コサ語、スワジ語、ンデベレ語、南ンデベレ語もズールー語と同じングニ諸語に属し意思疎通には問題ない。また、北ソト語、ソト語、ツワナ語はソト・ツワナ語群に属し類似性が高い。
鉱山労働者によって生み出されたファナガロ語というズールー語を基盤に英語やアフリカーンス語を混ぜたバンツゥー系のピジン言語(リングワ・フランカ)もあるが、近年は政府により英語が共通語として強化されているために衰退傾向にある。実際に、2011年のセンサスでは2001年センサスと比較すると、南ンデベレ語・ツォンガ語・ヴェンダ語のみが増加し、それ以外の割合はすべて低下したことから、バントゥー諸語から英語話者へと変わりつつある傾向が見られる。バントゥー諸語話者の黒人層の間では貧困から抜け出すためには英語の習得が必要不可欠となり、その結果、黒人言語の衰退を招くと言う悪循環を招きつつあり、一向に黒人言語の地位は低いままで、状況は改善されていない。黒人エリート層ほどバントゥー諸語を軽視し、英語を重視する傾向が強くなっており、その点では植民地支配を脱してもなお宗主国の言語をより一層重視しているほかのブラックアフリカ諸国と共通した問題がある。
言語統計
南アフリカで使用される言語(2011年統計)[28][29]
言語 | 話者人口 | % | 話者が多い州(州全体の中の割合) |
---|---|---|---|
ズールー語 | 11,587,374 | 22.7% | クワズール・ナタール州77.8%、ムプマランガ州24.1%、ハウテン州19.8% |
コサ語 | 8,154,258 | 16.0% | 東ケープ州78.8%、西ケープ州24.7%、フリーステイト州7.5%、ハウテン州6.6%、北西州5.5%、北ケープ州5.3% |
アフリカーンス語 | 6,855,082 | 13.5% | 北ケープ州53.8%、西ケープ州49.7%、フリーステイト州12.7%、ハウテン州12.4%、東ケープ州10.6%、北西州9.0%、ムプマランガ州7.2% |
英語 | 4,892,623 | 9.6% | 西ケープ州20.2%、ハウテン州13.3%、クワズール・ナタール州13.2%、東ケープ州5.6% |
北ソト語 | 4,618,576 | 9.1% | リンポポ州52.9%、ハウテン州10.6%、ムプマランガ州9.3% |
ツワナ語 | 4,067,248 | 8.0% | 北西州63.4%、北ケープ州33.1%、ハウテン州9.1%、フリーステイト州5.2% |
ソト語 | 3,849,563 | 7.6% | フリーステイト州64.2%、ハウテン州11.6%、北西州5.8% |
ツォンガ語 | 2,277,148 | 4.5% | リンポポ州17.0%、ムプマランガ州10.4%、ハウテン州6.6% |
スワジ語 | 1,297,046 | 2.5% | ムプマランガ州27.7% |
ヴェンダ語 | 1,209,388 | 2.4% | リンポポ州16.7% |
南ンデベレ語 | 1,090,223 | 2.1% | ムプマランガ州10.1% |
その他の言語 | 106,2913 | 2.1% | |
合計 | 50,961,443 | 100.0% |
都市圏で使用される言語(2011年統計)[30]
都市圏名 | 人口 | 母語話者の割合% |
---|---|---|
ヨハネスブルク | 4,434,827 | ズールー語23.41%、英語20.10%、ソト語9.61%、ツワナ語7.68%、アフリカーンス語7.28%、北ソト語7.26%、コサ語6.83%、ツォンガ語6.58% |
ケープタウン | 3,740,026 | アフリカーンス語35.7%、コサ語29.8%、英語28.4% |
エテクウィニ | 3,442,361 | ズールー語62.82%、英語26.77%、コサ語3.91%、アフリカーンス語1.72% |
エクルレニ | 3,178,470 | ズールー語28.81、英語11.99%、アフリカーンス語11.92%、北ソト語11.40%、ソト語10.02%、コサ語8.02%、ツォンガ語6.63%、ツワナ語2.87% |
ツワネ | 2,921,488 | 北ソト語19.91%、アフリカーンス語18.83%、ツワナ語15.05%、ツォンガ語8.64%、英語8.58%、ズールー語8.51%、南ンデベレ語5.74%、ソト語5.28% |
ネルソン・マンデラ・ベイ | 1,152,115 | コサ語53.92%、アフリカーンス語29.34%、英語13.46% |
バッファローシティー | 755,200 | コサ語78.83%、、英語11.00%、アフリカーンス語7.17% |
マンガウング | 747,431 | ソト語53.27%、アフリカーンス語16.23%、ツワナ語12.64%、コサ語9.91%、英語4.31% |
おもな地区・旧都市で使用される言語(2011年統計)
地域・都市名 | 人口 | 母語話者の割合% |
---|---|---|
ヨハネスブルク | 957,441 | 英語31.14%、ズールー語19.60%、アフリカーンス語12.11%、コサ語5.23%、南ンデベレ語4.95%、北ソト語4.45%、ソト語4.51%、ツワナ語4.10%、ツォンガ語3.28% |
ダーバン | 595,061 | 英語49.75%、ズールー語33.12%、コサ語5.92% |
ケープタウン | 433,688 | 英語67.68%、アフリカーンス語22.53% |
サントン | 222,415 | 英語63.91%、アフリカーンス語7.40%、ズールー語6.29% |
プレトリア | 741,651 | アフリカーンス語47.67%、英語16.38%、北ソト語8.02%、ツワナ語5.44% |
ポート・エリザベス | 312,392 | アフリカーンス語40.19%、英語33.25%、コサ語22.24% |
ブルームフォンテーン | 256,185 | アフリカーンス語42.53%、ソト語33.36%、英語7.47%、コサ語7.10%、ツワナ語5.87% |
ステレンボッシュ | 155,733 | アフリカーンス語67.66%、コサ語20.78%、英語7.22% |
キンバリー | 96,977 | アフリカーンス語55.48%、ツワナ語18.74%、英語15.56% |
ネルスプロイト | 58,672 | アフリカーンス語40.19%、英語33.25%、スワジ語20.2% |
ソウェト | 1,271,628 | ズールー語37.07%、ソト語15.53%、ツワナ語12.87%、、ツォンガ語8.86%、コサ語8.68%、南ンデベレ語4.95%、北ソト語5.14%、ヴェンダ語4.48% |
ピーターマリッツバーグ | 223,448 | ズールー語57.03%、英語28.94% |
ポロクワネ | 628,999 | 北ソト語80.36%、アフリカーンス語5.45% |
ルステンブルク | 549,575 | ツワナ語53.93%、アフリカーンス語9.91%、コサ語9.60%、ツォンガ語5.60%、英語5.35% |
イースト・ロンドン | 267,007 | コサ語61.77%、英語21.21%、アフリカーンス語13.25% |
宗教
2001年のセンサスによれば人口の36.6%がプロテスタント(ザイオニスト教会が11.1%、ペンテコステ派が8.2%、メソジストが6.8%、オランダ改革派が6.7%、聖公会が3.8%)、7.1%がカトリック教会、1.5%がムスリム、36%がその他のキリスト教、2.3%がその他の宗教、1.4%が不明、15.1%が無宗教であった[31]。その他の宗教としてインド系南アフリカ人のヒンドゥー教や、ユダヤ系南アフリカ人のユダヤ教などが存在する。
結婚
一夫多妻の習慣がある部族に限って複数の女性と婚姻関係を結ぶことが認められており、第12代大統領のジェイコブ・ズマは3人の妻がいることでも有名である。
伝統的に慣習法では、結婚した女性はその夫の家族姓を称することができるが義務ではなく、夫婦別姓を選択することも可能である。
2006年からは、同性同士の結婚(同性婚)も認められるようになった。
教育
アパルトヘイト時代には黒人は事実上義務教育の対象ではなく、今日まで続く深刻な貧困の原因となっている。アパルトヘイト撤廃後、膨大な国家予算を教育費に充て、黒人への教育が強化され就学率は95%まで上昇した。しかしながら、成人の過半数はまともな教育を受けてこなかったために、深刻な失業率などをもたらす原因として大きな問題となっている。
教授言語は、初等教育は各民族語で受け、3年次より外国語としての英語教育が開始され、初等教育4年次より、中等・高等教育まで基本的にすべての科目の教授言語は英語(少数はアフリカーンス語)となる。社会参加に必要な英語やアフリカーンス語を十分に理解する層は全人口の半数以下に過ぎず、アフリカ諸語しか話せない層への社会参加を阻んでいるなど、大きな問題となっている。
2003年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は86.4%(男性:87%、女性:85.7%)である[31]。2010年の教育支出はGDPの6%だった[31]。
大学は全部で23あり、ケープタウン大学、プレトリア大学、ステレンボッシュ大学、ウィットウォータースランド大学などが著名である。ステレンボッシュ大学、フリーステート大学、北西大学、プレトリア大学ではアフリカーンス語でも授業が行われている。しかし、ソウェト蜂起に発するようにアパルトヘイトの象徴ともされるアフリカーンス語による授業は縮小傾向にあり、英語にとって代わられつつある。特に経済的解放の闘士(EFF)のような黒人過激派政党によりアフリカーンス語で行う学校への襲撃等も頻発し社会問題となっている[32]。その対象は初中等教育にも及び、それらの過激派はアフリカーンス語学校の存在は黒人差別であるとしてアフリカーンス語学校の英語化を主張している。このような動きから国内のアフリカーンス語による教育は衰退の危機にあり、人口規模では白人を超え最大話者数のカラードの大半の母語ともされるアフリカーンス語の教育からの排除は新たな分断の懸念をもたらしている。
治安及び保健
医療
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南アフリカ共和国は医学において、世界で初めて心臓移植を行った国でもある。1967年12月、黒人の女性ドナーより提供を受けて心臓病の白人の男性に移植を行った。背景には南アフリカに横たわる黒人と白人の差別があった[33]。
HIV/AIDSの蔓延
HIVの陽性率は非常に高く、15 - 49歳のHIV感染率が21.5%(2004 Report on the Global AIDS Epidemic(UNAIDS/WHO))、妊産婦HIV感染率が29.5%(2005 Report on the Global AIDS Epidemic(UNAIDS/WHO))となっており、国民の約4 - 5人に1人の割合でHIVに感染している。エイズの蔓延によって、2010年までに国民全体の平均寿命は40歳以下に低下すると予想されている。感染経路として成人は性交渉による感染が多い。
また、HIV感染患者が爆発的に増加した80年代、「処女とコンドームを使わずに性交をすれば完治できる」といった悪質なデマ(「悪い病気は健康な他人に伝染せば病魔が身体から出ていく」というシャーマニズムから由来した呪術的迷信)が流布したため、非白色人種、特にまだ10代前半の黒人少女がHIV感染患者から強姦され感染するケースが多発した。また2004年以降の近年、同様に「童貞(あるいは貞淑な男性)とコンドームを使わず性交すればエイズや性病が治る」と言う呪術的迷信およびデマや、性病やエイズに罹ったために男性自体に無差別報復行為と見られる理由により、数人の娼婦が誘拐グループとしての手引き人(運転手や拘束役など)を雇い、1人の男性を拉致あるいは軟禁して輪姦(かわるがわる逆レイプ・メイル・レイプする)してから解放する事件も多発している。また、そのほかにも同様の行為を行うためのメイル・レイプ組織が散在する(※→事例は逆レイプ#実際の事件の例、法律についてはメイル・レイプ#法律を参照)。
犯罪問題
アパルトヘイト廃止後に起きた失業問題により、南アフリカでは急速に治安が悪化した。現在、ヨハネスブルグをはじめとして南アフリカの都市では、殺人、強盗、強姦、強盗殺人、麻薬売買などの凶悪犯罪が昼夜を問わず多発している。殺人に限っては未遂を含め111.30件/10万人と日本の約110倍となっている。凶悪犯罪においても、軒並み世界平均件数と比べて異常に高い犯罪率となっている。
南アフリカ犯罪統計(2007年7月3日南アフリカ警察当局発表)によると、2006年3月 - 2007年3月までで約1万9,200件の殺人事件が発生した(前年統計に比べ2.4%増加)。1日に約53人が犯罪により殺害された計算で、1日の強盗発生数は約350件に上った。その中で7割以上で拳銃などの銃器が使用されたと発表されている。中には、全員が自動小銃で武装した強盗グループといった、現場の警察官では対応が困難なケースもある。さらに犯罪者は発砲をまったく躊躇しないケースもあり、きわめて危険である。強姦発生率についても123.85件/10万人(国連薬物犯罪オフィス(UNODC))となっており、世界最悪の発生率(日本の約123倍)である。
南アフリカの男性の4人に1人を上回る27%が、「過去に成人女性または少女をレイプしたことがある」と回答するという調査結果もある[34]。また、比較的安全と思われる高級ホテルの中ですら、従業員が鍵を開けて客室に侵入し女性旅行客をレイプするといった事件も発生している。2010年11月26日に発表された、ヨハネスブルグやハウテン州などで南アフリカ政府によって行われた調査によると、男性は3人に1人を上回る37.4%が過去に女性をレイプした経験があると回答(男性の7%が集団レイプの経験があると回答)、さらに女性は25.3%がレイプされた経験があると回答した[35]。
警察当局では治安改善を図るため、警察官の大量採用や防犯カメラの設置などの対策を実施しているが、依然として治安の悪い状態が続いている。近年では、強姦件数はわずかに減少傾向にあり、2011年の強姦報告件数は6万件強で、2008年の7万件よりは減った[36]。
2018年9月11日に公表された南アフリカ政府公式統計によると、2017年4月から2018年3月までに殺害された人々の数は計2万336人で、2016年4月から2017年3月まで前回の統計における1万9,016人から増加し、1日に57人殺害されている。犯罪発生率は前回の統計から6.9%増加し、アパルトヘイト廃止後の24年間で最悪となった。ベキ・ツェレ警察相は2018年9月に「南アフリカでは戦争も起きていないが、戦争に近い域にある」「毎日乗り物を乗っ取られたり、強盗に遭ったり、殺害される 」と平時にもかかわらず戦争中レベルの治安であることが普通になっていることへの危機感を述べている[7]。
白人への攻撃激化
2017年11月時点には72人の白人の農民が殺害されている。2011年から毎年増加し始めているこの問題への対策を求めて、南アフリカ政府に数百人がデモを行っている[37]。2017年12月には与党アフリカ民族会議(ANC)の新議長に就任したシリル・ラマポーザ副大統領が国民の8割を占める黒人のために、ジンバブエで農地を荒廃させて経済も崩壊させた「白人の土地の取り上げ」をすることを表明した[38]。1998年から2016年末までに農家,1187人、その家族490人、農場従業員147人、農場にいた24人、合計1,848人が殺害されている。2010年に有名な経済的解放の闘士(EFF)のジュリアス・マレマ(Julius Malema)は、「一度革命的な歌だが、今は大量虐殺を宣告する」と、「農民を殺す」と謳っている。南アフリカが白人農家がすべて追い出されたもうひとつのジンバブエになることが危惧されている[39]。
これを受け、スィドランダーズ(Suidlanders、「南の民」の意味)なる白人の互助団体がインターネット上で誕生したほか、南アフリカ共和国(の白人社会)と伝統的に関係の深いイスラエルの元軍人などから、イスラエル発祥のクラヴ・マガなる格闘技や射撃といった護身術のトレーニングを受けるなど、白人が政府に頼らず自衛を進めていく動きが出ている。
文化
音楽
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ポピュラー音楽においては、1930年代にアフリカ系アメリカ人の音楽の影響を受け、マロンボと呼ばれるダンス音楽が成立した。
現代ポピュラー音楽のミュージシャンとしては、男性のみによるゴスペルグループのレディスミス・ブラック・マンバーゾ、女性シンガーであり、「パタ・パタ」で知られるミリアム・マケバ、ブレンダ・ファッシー(Brenda Fassie)、イヴォンヌ・チャカ・チャカ(Yvonne Chaka Chaka)などが世界的にもよく知られている。
シクスト・ロドリゲス(en:Sixto Rodriguez)が人気である。
文学
南アフリカはナイジェリアと同様に、ブラックアフリカでは例外的に出版業の生産、流通システムが確立しており、自国内に文学市場が存在する国である[40]。
文字による南アフリカ文学は、南アフリカの強固なアパルトヘイトの影響により、白人文学と黒人文学に分離したものとして考えられている[41]。20世紀半ばごろから都市黒人によってアパルトヘイトを描いた文学が文字によって生み出されるようになり、1970年代の黒人意識運動(スティーヴ・ビコ)以降もこの潮流は基本的には途絶えることはなかった。代表的な黒人作家としては『我が苦悩の二番通り』(1959) のエスキア・ムパシェーレ、『アマンドラ』(1980)でソウェト蜂起を描いた女性作家のミリアム・トラーディ、『愚者たち』(1983)のジャブロ・ンデベレ、マジシ・クネーネ、ANCの活動家であり、アパルトヘイト政権によって処刑された詩人のモロイセが、白人作家としては『ツォツィ』のアソル・フガード、女性作家のメナン・デュ・プレシスなどの名が挙げられる。また、ノーベル文学賞受賞作家として『保護管理人』(1974)のナディン・ゴーディマーと『マイケル・K』(1983)や『恥辱』(1999)のJ・M・クッツェーの名が挙げられる。
映画
南アフリカ出身の特に著名な映像作家として『ツォツィ』(2005)のギャヴィン・フッドの名が挙げられる。また南アフリカを舞台にしたSF映画『第9地区』は2009年度のアカデミー賞の各部門にノミネートされた。
その他に国外の映像作家によって南アフリカを描いた映画として、
- リチャード・アッテンボロー『遠い夜明け』(1987)
- ジョン・ブアマン『イン・マイ・カントリー』(2004)
- ビレ・アウグスト『マンデラの名もなき看守』(2007)
- トム・ホッパー『ヒラリー・スワンク IN レッド・ダスト』(2007)
- クリント・イーストウッド『インビクタス/負けざる者たち』(2009)
などが挙げられる。
世界遺産
南アフリカ共和国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が4件、自然遺産が3件、複合遺産が1件存在する。詳細は、南アフリカ共和国の世界遺産を参照。
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イシマンガリソ湿地公園 - (1999年、自然遺産)
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南アフリカの人類化石遺跡群 - (1999年、文化遺産)
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ロベン島 - (1999年、文化遺産)
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マロティ=ドラケンスバーグ公園 - (2000年・2013年、複合遺産)
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マプングブエの文化的景観 - (2003年、文化遺産)
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ケープ植物区系地方の保護地区群 - (2004年、自然遺産)
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フレデフォート・ドーム - (2005年、自然遺産)
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リフタスフェルトの文化的・植物的景観 - (2007年、文化遺産)
祝祭日
祝祭日 | ||||||
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日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 | |||
1月1日 | 元日 | New Year's Day | ||||
3月21日 | 人権の日 | Human Rights Day | ||||
移動祝日 | 聖金曜日 | Good Friday | ||||
移動祝日 | 復活祭月曜日 | Easter Monday | ||||
4月12日 | 家族の日 | Family Day | ||||
4月27日 | 自由の日 | Freedom Day | ||||
5月1日 | メーデー | Workers' Day | ||||
6月16日 | 青年の日 | Youth Day | ||||
8月9日 | 女性の日 | National Women's Day | ||||
9月24日 | 伝統文化継承の日 | Heritage Day | ||||
12月16日 | 和解の日 | Day of Reconciliation | ||||
12月25日 | クリスマス | Christmas Day | ||||
12月26日 | 親善の日 | Day of Goodwill |
スポーツ
イギリス統治時代にもたらされたラグビー、サッカーに人気があり、ヨーロッパ系を中心にゴルフやテニス、クリケットの愛好者も多い。なかでもラグビーは1995年にラグビーワールドカップの開催国として開催国優勝を果たし、2007年のフランス大会、2019年の日本大会でも優勝するなど、世界トップクラスの実力を持つ。ラグビー代表はスプリングボクスという愛称がつけられている。
サッカー
サッカーは特に黒人層に人気が高い。南アフリカのサッカー代表チームには「バファナ・バファナ」という愛称がつけられている。これはズールー語で「少年たち」を意味する。2010年にはアフリカ大陸初となるFIFAワールドカップが開催された。
モータースポーツ
かつてはF1南アフリカグランプリとロードレース南アフリカグランプリが開催されていた。特にF1は1962年から長きに渡り開催されていたが、アパルトヘイト政策への抗議もあり1985年のレースを最後にともに中断。のちに復活したが現在はどちらも開催されていない。1979年のF1ワールドチャンピオンジョディー・シェクターは南アフリカの出身であり、1975年のレースを制している。また、カーデザイナーとしてF1で一時代を築いたロリー・バーンとゴードン・マレーの両者も南アフリカの出身である。
2008年には、FIA(国際自動車連盟)公認のソーラーカーレースであるサウス・アフリカン・ソーラー・チャレンジが開催された。プレトリアをスタートし、ケープタウン、ダーバンを経てプレトリアに戻るルートで、4,000キロ以上の一般公道を走行する。大会は2年に一度開催され、2010年に第2回大会が開催された。
著名な出身者
脚注
注釈
- ^ このほか、国際経済研究所による「The United States and the World Economy(2005年1月)」では、BRICsおよび南アフリカの5カ国にアルゼンチン、インドネシア、韓国、メキシコ、サウジアラビア、トルコを加えた計11カ国が今後の世界経済に大きな影響を及ぼす「LEMs(Large Emerging-Market Economies)」として取り上げられた。また、BRICs経済研究所の門倉貴史はBRICsに続くグループ「VISTA」として、ベトナム (Vietnam)、インドネシア (Indonesia)、南アフリカ (South Africa)、トルコ (Turkey)、アルゼンチン (Argentina) の5カ国を、HSBCは同じく「CIVETS」として、コロンビア (Colombia)、インドネシア (Indonesia)、ベトナム (Vietnam)、エジプト (Egypt)、トルコ (Turkey)、南アフリカ (South Africa) の6カ国を取り上げている。
- ^ むしろ反発したこの背景には、ボーア戦争トラウマとも言うべき諸外国への根強い不信感が指摘されている。
- ^ 南アフリカはアフリカ統一機構 (OAU) への加盟を認められなかった。
- ^ これをきっかけに、人種差別の圧政言語の象徴としてのアフリカーンス語に対して白人層が使用していたに過ぎない植民地支配の象徴でもある英語がより自由な解放言語との印象を根付かせたことが現在の英語一本化へとつながっている。
出典
- ^ “The Constitution”. Constitutional Court of South Africa. 3 September 2009閲覧。
- ^ a b “SOUTH AFRICA: Provinces and Major Urban Areas”. Citypopulation.de (2016年7月29日). 2017年4月20日閲覧。
- ^ “南アフリカ連邦共和国”. 外務省. 2018年11月5日閲覧。
- ^ a b c d e “World Economic Outlook Database, October 2014” (英語). IMF (2014年10月). 2014年10月12日閲覧。
- ^ “IMF: World Economic Outlook Database”. 国際通貨基金(IMF). 2013年10月28日閲覧。
- ^ “国民経済計算(GDP統計)”. 内閣府. 2013年10月28日閲覧。
- ^ a b “南アフリカ、殺人事件の死者は1日当たり57人「戦争に近い域」(AFP)” (日本語). AFP通信 2019年9月7日閲覧。
- ^ 2010年6月6日放送 NHKスペシャル「アフリカンドリーム 第3回 移民パワーが未来を変える」より。
- ^ “BS世界のドキュメンタリー 〈シリーズ 南アフリカ 第2週 変革の中で〉 プア ホワイト” (2010年6月1日). 2013年10月28日閲覧。
- ^ “Bigger than the army: South Africa's private security forces”. CNN. (8 February 2013) 3 May 2013閲覧。
- ^ 外務省 南アフリカ基礎データ
- ^ 外務省 南アフリカ基礎データ
- ^ 悲劇の国 南アフリカ
- ^ “2010 国際生物多様性年-南アフリカにて環境関連イベント多数開催”. ケープタウン新聞. (2010年1月11日)[リンク切れ]
- ^ 北川勝彦、「[研究ノート南アフリカ経済史研究の課題]」『關西大學經済論集』 2001年 50巻 4号 p.363-383, 關西大学經済學會
- ^ “ダイヤモンドは輝くか?間近で見た黒人市場の実像” (PDF). 日本貿易振興機構 (2012年3月). 2019年4月14日閲覧。
- ^ “南アでマカダミアナッツ栽培がブーム、中国需要が後押し”. CNN.co.jp (2017年12月7日). 2017年12月24日閲覧。
- ^ http://www.jetro.go.jp/biz/world/africa/za/stat_01/
- ^ “猛暑の採用テストで6人死亡 南ア、30度越えの中、4キロ走も”. 産経新聞. (2012年12月30日)
- ^ “南ア失業率、第3四半期は29.1% 11年来の高水準”. ロイター (2019年10月29日). 2019年10月29日閲覧。
- ^ Midyear population estimates: 2009 Statistics South Africa 23 February 2010
- ^ White flight from South Africa | Between staying and going, The Economist, September 25, 2008
- ^ NHK BS 世界のドキュメンタリー
- ^ 南アフリカ共和国 センサス2011
- ^ 「多言語状況の比較研究」(平成 20 年度第 3 回研究会)東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所
- ^ 南アフリカの言語政策――マルチリンガリズムへの道 京都精華大学 楠瀬佳子
- ^ SA's shifting language landscape “Afrikaans and English no longer ‘white languages’ Daily Maverick
- ^ 南アフリカ共和国 センサス2011
- ^ 南アフリカの言語
- ^ 南アフリカ共和国 センサス2011
- ^ a b c CIA World Factbook "South Africa"2013年8月1日閲覧。
- ^ “EFF and ANC protestors injured, arrested during Hoërskool Overvaal protest Mail & Guardian” (2018年1月17日). 2019年10月6日閲覧。
- ^ 吉村昭著『神々の沈黙―心臓移植を追って』(文春文庫)、『消えた鼓動―心臓移植を追って』(ちくま文庫)
- ^ 南ア男性の4人に1人がレイプ経験者!?研究機関調査 産経新聞 2009年6月19日
- ^ 3人に1人レイプ認める 南ア男性、性暴力が蔓延 産経新聞 2010年11月27日
- ^ “若者が少女を集団レイプ、携帯で映した動画出回る 南ア”. CNN. (2013年4月19日) 2013年5月1日閲覧。
- ^ [1]南アで白人農民の殺害相次ぐ、今年に入って72人 抗議のデモ 写真5枚 国際ニュース:AFPBB News
- ^ 南アフリカ、白人の土地収用へ 与党議長が表明、反発必至|国際|上毛新聞ニュース
- ^ ‘Bury them alive!’: White South Africans fear for their future as horrific farm attacks escalate [2]
- ^ 砂野幸稔「アフリカ文化のダイナミズム」『ハンドブック現代アフリカ』岡倉登志:編 明石書店 2002/12
- ^ 小林信次郎「アフリカ文学 黒人作家を中心として」『ハンドブック現代アフリカ』岡倉登志:編 明石書店 2002/12
参考文献
- 小林信次郎 著「アフリカ文学――黒人作家を中心として」、岡倉登志編 編『ハンドブック現代アフリカ』明石書店、東京、2002年12月。
- 砂野幸稔 著「アフリカ文化のダイナミズム」、岡倉登志編 編『ハンドブック現代アフリカ』明石書店、東京、2002年12月。
関連項目
外部リンク
- 政府
- 日本政府
- 観光
- 南アフリカ観光局 日本語サイト
- 南アフリカ観光局 (@GoToSAJP) - X(旧Twitter)
- 南アフリカ観光局 (satourismjp) - Facebook
- その他