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{{by|2004年}}、[[小関竜也]]の不調で終盤から二番打者に定着し、初の[[規定打席]]到達。[[佐藤友亮]]との一・二番コンビで高い[[出塁率]]{{要出典範囲|(二人で.341)|date=2018年3月}}を誇った。過去5年間で3本しか打っていない[[本塁打]]をこの年だけで9本打った。[[プレーオフ制度 (日本プロ野球)|プレーオフ]]、[[2004年の日本シリーズ|日本シリーズ]]をいずれも勝ち抜いてチームとしては12年ぶりとなる日本シリーズ優勝を経験した。 |
{{by|2004年}}、[[小関竜也]]の不調で終盤から二番打者に定着し、初の[[規定打席]]到達。[[佐藤友亮]]との一・二番コンビで高い[[出塁率]]{{要出典範囲|(二人で.341)|date=2018年3月}}を誇った。過去5年間で3本しか打っていない[[本塁打]]をこの年だけで9本打った。[[プレーオフ制度 (日本プロ野球)|プレーオフ]]、[[2004年の日本シリーズ|日本シリーズ]]をいずれも勝ち抜いてチームとしては12年ぶりとなる日本シリーズ優勝を経験した。 |
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{{by|2005年}}は二番・[[中堅手]]のレギュラーを獲得し、夏頃から打率を急上昇させた。打率.272、自己最高の盗塁20を記録。またこの年の[[9月1日]](25歳の誕生日)にオフィシャルサイト[http://www.samurai-shogo9.com/ 「侍魂」]を設立。{{by|2006年}}は主に一番または九番打者として堅実な打撃を見せ、[[打率]]は自己最高の.293を記録した。また、リーグ最多タイの三塁打7([[西岡剛 (内野手)|西岡剛]]、[[鉄平 (野球)|鉄平]]、[[川 |
{{by|2005年}}は二番・[[中堅手]]のレギュラーを獲得し、夏頃から打率を急上昇させた。打率.272、自己最高の盗塁20を記録。またこの年の[[9月1日]](25歳の誕生日)にオフィシャルサイト[http://www.samurai-shogo9.com/ 「侍魂」]を設立。{{by|2006年}}は主に一番または九番打者として堅実な打撃を見せ、[[打率]]は自己最高の.293を記録した。また、リーグ最多タイの三塁打7([[西岡剛 (内野手)|西岡剛]]、[[鉄平 (野球)|鉄平]]、[[川﨑宗則]]と並ぶ)、チーム3位(自己最多)の25犠打、3年連続2桁盗塁を記録した。この年も夏場から調子を上げ、交流戦以降の打率は3割を超えた。 |
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{{by|2007年}}には[[松坂大輔]]が[[ボストン・レッドソックス]]に移籍したため、代わって選手会長に就任したが、開幕直前の[[3月15日]]に右太ももを痛め、[[リハビリテーション]]に時間がかかり、シーズン終盤の[[9月5日]]に一軍登録。しかし打率は.162に終わり、レギュラー再獲得はならなかった。 |
{{by|2007年}}には[[松坂大輔]]が[[ボストン・レッドソックス]]に移籍したため、代わって選手会長に就任したが、開幕直前の[[3月15日]]に右太ももを痛め、[[リハビリテーション]]に時間がかかり、シーズン終盤の[[9月5日]]に一軍登録。しかし打率は.162に終わり、レギュラー再獲得はならなかった。 |
2020年6月16日 (火) 12:13時点における版
埼玉西武ライオンズ 打撃コーチ #86 | |
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日本ハム時代 (2013年、阪神甲子園球場にて) | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 鹿児島県曽於郡大崎町 |
生年月日 | 1980年9月1日(44歳) |
身長 体重 |
179 cm 87 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投両打 |
ポジション | 外野手、二塁手 |
プロ入り | 1998年 ドラフト2位 |
初出場 | 1999年8月20日 |
最終出場 | 2014年10月20日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
| |
コーチ歴 | |
| |
この表について
|
赤田 将吾(あかだ しょうご、1980年9月1日 - )は、鹿児島県曽於郡大崎町出身の元プロ野球選手(外野手・内野手、右投両打)。現在は埼玉西武ライオンズの一軍打撃コーチを務める。
経歴
プロ入り前
出身地の大崎町が野球よりソフトボールが盛んだったこともあり、同郷の先輩である福留孝介と同様に中沖小学校時代はソフトボールをしていた。大崎中学校を経て、日南学園高校に進学。高校時代はレギュラーではなかったが、試合前のシートノックの時に赤田のフィールディングを見ていたプロ野球チームのスカウトが、同高校の監督に守備のうまさを指摘したところ、レギュラーとして起用されるようになったという[1]。
1998年のプロ野球ドラフト会議で西武ライオンズから2位指名を受けて入団。同期に松坂大輔、星野智樹らがいる。
西武時代
1999年、フレッシュオールスターゲームに先発出場し一軍にも昇格、13試合に出場し、5盗塁を記録した。2000年に外野手に転向し、2002年、元々右打ちだったが俊足を生かすためスイッチヒッターに転向したが同年は37試合の出場に留まった。2003年は46試合に出場し、打率.250の成績を残した。
2004年、小関竜也の不調で終盤から二番打者に定着し、初の規定打席到達。佐藤友亮との一・二番コンビで高い出塁率(二人で.341)[要出典]を誇った。過去5年間で3本しか打っていない本塁打をこの年だけで9本打った。プレーオフ、日本シリーズをいずれも勝ち抜いてチームとしては12年ぶりとなる日本シリーズ優勝を経験した。
2005年は二番・中堅手のレギュラーを獲得し、夏頃から打率を急上昇させた。打率.272、自己最高の盗塁20を記録。またこの年の9月1日(25歳の誕生日)にオフィシャルサイト「侍魂」を設立。2006年は主に一番または九番打者として堅実な打撃を見せ、打率は自己最高の.293を記録した。また、リーグ最多タイの三塁打7(西岡剛、鉄平、川﨑宗則と並ぶ)、チーム3位(自己最多)の25犠打、3年連続2桁盗塁を記録した。この年も夏場から調子を上げ、交流戦以降の打率は3割を超えた。
2007年には松坂大輔がボストン・レッドソックスに移籍したため、代わって選手会長に就任したが、開幕直前の3月15日に右太ももを痛め、リハビリテーションに時間がかかり、シーズン終盤の9月5日に一軍登録。しかし打率は.162に終わり、レギュラー再獲得はならなかった。
2008年4月25日のオリックス・バファローズ戦では自身初のサヨナラ満塁本塁打を放ったが、同年5月1日のソフトバンク戦で大飛球を追ってフェンスに激突、左足首関節捻挫で長期離脱を余儀なくされてしまう。同年のクライマックスシリーズでは12打数6安打、1本塁打1、3打点を記録。日本シリーズでは後藤武敏との併用ながら11打数3安打という数字を残し、球団史上初のアジアシリーズ制覇も経験した。
2009年は代走や守備固めなどで57試合に出場。2010年2月19日、阿部真宏との交換トレードでオリックス・バファローズへ移籍。
オリックス時代
上記のトレードについては、オリックス側には、外野手の小瀬浩之がキャンプ地で転落死し、外野手が手薄になったという事情があった[2]。2010年は、二番・右翼手として開幕戦に先発出場を果たし、4月4日の対ロッテ戦で6年ぶりとなる左打席での本塁打を小野晋吾から打った(2005年から2008年に記録した本塁打はすべて右打席で記録したものである)。4月10日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦で自身初の2打席連続本塁打、4月20日の北海道日本ハムファイターズ戦で移籍後初のサヨナラ安打、5月18日の対広島東洋カープ戦では左右打席本塁打を記録するが不調で一軍と二軍を行き来し、この年は79試合の出場で打率.217に終わった。
2011年、6月14日に一軍登録。主に七番打者として起用され、77試合に出場し、規定打席には届かなかったが打率.305を記録した。同シーズンは楽天戦だけで3度のサヨナラ安打を記録しており、そのうち7月5日にライアン・スパイアーから記録したものはオリックス球団(オリックス・ブレーブス以降)史上初の3試合連続サヨナラ勝利の3試合目に当たる[3]。7月10日に国内フリーエージェント権を取得したが、行使せずに2年契約を結び残留。オフに背番号を7へ変更。
2012年は開幕一軍入りを果たし、開幕第4戦目の4月3日、日本ハム戦で決勝打となる適時打を打ってシーズン初白星に貢献し、8月22日の日本ハム戦では2年ぶりの本塁打も打ったものの、26試合の出場に留まった。2013年1月25日[4]に八木智哉と糸井嘉男との交換トレードで、木佐貫洋・大引啓次と共に北海道日本ハムファイターズへ移籍。背番号は10。
日本ハム時代
2013年は57試合に出場し、限られた出番で打率.273の成績を残した。
2014年はわずか8試合の出場に終わった。シーズン終了後に戦力外通告を受け、10月22日に球団から退団が発表され現役続行の意思を表示したが[5]、同月27日に現役引退が発表された[6]。
引退後
2014年10月29日、埼玉西武ライオンズに来季から新設される『二軍育成コーチ』への就任が発表された[7]。2017年、11月25日から台湾で開催される2017アジアウインターベースボールリーグにおいて、NPBウエスタン選抜の打撃コーチを務める[8]。
スポーツマンNo.1決定戦
スポーツマンNo.1決定戦には2000年の第6回に19歳で初出場。その後2005年(第11回)、2006年(第12回)、2007年(第13回)、2008年(第14回)と5回出場し、最高成績は第11回大会の総合2位[9]。
- プロスポーツマン大会
大会 | 放送日 | 総合順位 |
---|---|---|
第6回大会 | 2000年1月1日 | 5位 |
第11回大会 | 2005年1月1日 | 2位 |
第12回大会 | 2006年1月1日 | 5位 |
第13回大会 | 2007年1月1日 | 6位 |
第14回大会 | 2008年1月1日 | 8位 |
その他詳細はスポーツマンNo.1決定戦 総合順位 種目別順位の項目を参照。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1999 | 西武 | 13 | 50 | 49 | 7 | 14 | 2 | 0 | 0 | 16 | 5 | 5 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 9 | 1 | .286 | .300 | .327 | .627 |
2000 | 31 | 79 | 65 | 10 | 10 | 0 | 1 | 1 | 15 | 3 | 2 | 0 | 0 | 0 | 13 | 0 | 1 | 26 | 2 | .154 | .304 | .231 | .535 | |
2001 | 17 | 35 | 32 | 2 | 6 | 1 | 0 | 0 | 7 | 2 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 0 | 0 | 5 | 1 | .188 | .229 | .219 | .447 | |
2002 | 37 | 62 | 57 | 4 | 9 | 1 | 0 | 1 | 13 | 2 | 3 | 1 | 4 | 0 | 1 | 0 | 0 | 17 | 2 | .158 | .172 | .228 | .400 | |
2003 | 46 | 94 | 88 | 24 | 22 | 7 | 3 | 1 | 38 | 13 | 4 | 1 | 1 | 0 | 5 | 0 | 0 | 19 | 0 | .250 | .290 | .432 | .722 | |
2004 | 122 | 436 | 374 | 68 | 97 | 18 | 2 | 9 | 146 | 41 | 16 | 5 | 15 | 3 | 42 | 1 | 2 | 87 | 3 | .259 | .335 | .390 | .725 | |
2005 | 131 | 478 | 427 | 56 | 116 | 19 | 3 | 3 | 150 | 24 | 20 | 6 | 18 | 1 | 30 | 0 | 2 | 93 | 8 | .272 | .322 | .351 | .673 | |
2006 | 124 | 518 | 451 | 50 | 132 | 16 | 7 | 2 | 168 | 34 | 16 | 9 | 25 | 4 | 36 | 1 | 2 | 79 | 3 | .293 | .345 | .373 | .717 | |
2007 | 20 | 44 | 37 | 6 | 6 | 1 | 0 | 0 | 7 | 2 | 1 | 0 | 1 | 0 | 5 | 0 | 1 | 8 | 0 | .162 | .279 | .189 | .468 | |
2008 | 68 | 180 | 160 | 29 | 39 | 7 | 1 | 2 | 54 | 13 | 2 | 1 | 3 | 2 | 14 | 0 | 1 | 37 | 4 | .244 | .305 | .338 | .643 | |
2009 | 57 | 88 | 78 | 14 | 16 | 4 | 0 | 0 | 20 | 3 | 1 | 1 | 3 | 1 | 6 | 0 | 0 | 19 | 1 | .205 | .259 | .256 | .515 | |
2010 | オリックス | 79 | 290 | 253 | 42 | 55 | 8 | 1 | 8 | 89 | 34 | 3 | 1 | 14 | 1 | 22 | 0 | 0 | 66 | 5 | .217 | .279 | .352 | .631 |
2011 | 77 | 246 | 226 | 17 | 69 | 8 | 1 | 0 | 79 | 17 | 0 | 3 | 2 | 0 | 18 | 0 | 0 | 52 | 3 | .305 | .357 | .350 | .706 | |
2012 | 26 | 76 | 72 | 8 | 10 | 1 | 2 | 1 | 18 | 5 | 1 | 0 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | 22 | 0 | .139 | .184 | .250 | .434 | |
2013 | 日本ハム | 57 | 160 | 143 | 16 | 39 | 6 | 0 | 2 | 51 | 12 | 1 | 2 | 1 | 1 | 15 | 0 | 0 | 36 | 1 | .273 | .340 | .357 | .697 |
2014 | 8 | 19 | 13 | 4 | 3 | 0 | 0 | 0 | 3 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 5 | 0 | 0 | 3 | 0 | .231 | .421 | .231 | .652 | |
通算:16年 | 913 | 2855 | 2525 | 357 | 643 | 99 | 21 | 30 | 874 | 211 | 75 | 31 | 87 | 15 | 218 | 2 | 10 | 578 | 34 | .255 | .315 | .346 | .663 |
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別守備成績
年 度 |
球 団 |
一塁 | 二塁 | 外野 | |||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
試 合 |
刺 殺 |
補 殺 |
失 策 |
併 殺 |
守 備 率 |
試 合 |
刺 殺 |
補 殺 |
失 策 |
併 殺 |
守 備 率 |
試 合 |
刺 殺 |
補 殺 |
失 策 |
併 殺 |
守 備 率 | ||
1999 | 西武 | - | 4 | 5 | 13 | 0 | 2 | 1.000 | - | ||||||||||
2000 | 5 | 22 | 3 | 1 | 1 | .962 | 20 | 28 | 26 | 3 | 5 | .947 | - | ||||||
2001 | - | - | 13 | 21 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | |||||||||||
2002 | - | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | .--- | 34 | 36 | 1 | 0 | 0 | 1.000 | ||||||
2003 | - | - | 43 | 49 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | |||||||||||
2004 | - | - | 114 | 195 | 4 | 2 | 1 | .990 | |||||||||||
2005 | - | - | 128 | 240 | 3 | 2 | 1 | .992 | |||||||||||
2006 | - | - | 122 | 254 | 10 | 2 | 4 | .992 | |||||||||||
2007 | - | - | 15 | 21 | 1 | 0 | 0 | 1.000 | |||||||||||
2008 | - | - | 57 | 94 | 3 | 0 | 0 | 1.000 | |||||||||||
2009 | - | - | 42 | 49 | 1 | 0 | 0 | 1.000 | |||||||||||
2010 | オリックス | - | - | 69 | 112 | 3 | 2 | 0 | .983 | ||||||||||
2011 | - | - | 45 | 59 | 1 | 0 | 0 | 1.000 | |||||||||||
2012 | - | - | 15 | 28 | 1 | 0 | 0 | 1.000 | |||||||||||
2013 | 日本ハム | 4 | 21 | 0 | 1 | 2 | .955 | - | 46 | 57 | 3 | 1 | 0 | .984 | |||||
通算 | 9 | 43 | 3 | 2 | 3 | .958 | 26 | 33 | 39 | 3 | 7 | .960 | 743 | 1215 | 31 | 9 | 6 | .993 |
表彰
- JA全農Go・Go賞:1回 (好走塁賞:2003年4月)
記録
- 初記録
- 初出場・初先発出場:1999年8月20日、対オリックス・ブルーウェーブ20回戦(西武ドーム)、1番・指名打者で先発出場
- 初打席:同上、1回裏にマーク・ミムズから投手ゴロ
- 初安打:同上、5回裏に戎信行から遊撃内野安打
- 初盗塁:同上、5回裏に二盗(投手:戎信行、捕手:日高剛)
- 初打点:1999年8月21日、対オリックス・ブルーウェーブ21回戦(西武ドーム)、6回裏に金田政彦から中前2点適時打
- 初本塁打:2000年4月21日、対日本ハムファイターズ3回戦(東京ドーム)、8回表に小関竜也の代打で出場、下柳剛から左越2ラン
- その他記録
- 左右打席本塁打:2010年5月18日、対広島東洋カープ1回戦(京セラドーム大阪)、4回裏に青木高広から(右打席)、7回裏に武内久士から(左打席) ※史上17人目(40度目):日本人選手6人目(15度目)、セ・パ交流戦では2例目(日本人選手初)
背番号
- 9 (1999年 - 2009年)
- 4 (2010年 - 2011年)
- 7 (2012年)
- 10 (2013年 - 2014年)
- 77 (2015年 - 2018年)
- 86 (2019年 - )
登場曲
- He's A Pirate(パイレーツ・オブ・カリビアンより)
代表歴
- 2017アジアウインターベースボールリーグ:NPBウエスタン選抜:打撃コーチ[8]
脚注
- ^ 週刊ベースボール 2007年12月17日号「LOCKER ROOM」コーナー。
- ^ “小瀬選手の穴埋める…西武・赤田がオリ移籍”. Sponichi Annex (2010年2月19日). 2018年3月2日閲覧。小瀬の死亡については、小瀬浩之を参照
- ^ 他の2度は8月9日にダレル・ラズナーから、9月15日に小山伸一郎から打った。
- ^ 日付は支配下選手登録公示日。
- ^ 赤田選手退団のお知らせ日本ハム球団公式サイト2014年10月22日配信
- ^ “日本ハム・赤田将吾が引退”. 朝日新聞デジタル. (2014年10月27日) 2015年3月8日閲覧。
- ^ “赤田将吾氏 来季二軍育成コーチ就任のお知らせ”. 埼玉西武ライオンズ (2014年10月29日). 2014年10月29日閲覧。
- ^ a b “2017アジアウインターベースボールリーグ(AWB)NPBメンバー一覧”. NPB.jp (2017年11月17日). 2017年11月21日閲覧。
- ^ “2006/1/1 新年明けましておめでとうございます!”. 赤田将吾オフィシャルウェブサイト (2006年1月1日). 2015年3月8日閲覧。
関連項目
外部リンク
- 個人年度別成績 赤田将吾 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)、The Baseball Cube
- 赤田将吾オフィシャルブログ「侍魂」