「尾張徳川家」の版間の差分
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2020年7月14日 (火) 06:22時点における版
徳川氏 (尾張徳川家) | |
---|---|
尾州中納言葵[1] | |
本姓 | 称・清和源氏 |
家祖 | 徳川義直 |
種別 |
武家 華族(侯爵) |
出身地 |
摂津国東成郡大坂 山城国 |
主な根拠地 |
尾張国 愛知県 |
支流、分家 |
高須(四谷)松平家(武家) 徳川男爵家(分家) |
凡例 / Category:日本の氏族 |
尾張徳川家(おわりとくがわけ)は、徳川氏の支系徳川御三家の一つで、尾張藩主の家系。尾張大納言家、単に尾張家、尾州家とも言う。御三家の筆頭格であり、諸大名の中で最高の格式(家格)を有した。
概要
徳川家康の九男徳川義直(五郎太、義俊、義利)を家祖とする。義直は慶長8年(1603年)に家康から甲斐国に封じられるが、甲斐統治は甲府城代平岩親吉によって担われており、五郎太自身は在国せず駿府城に在城した。元服後の慶長11年(1606年)に義直は、兄松平忠吉の遺跡を継ぐ形で尾張国清須に移封された。その際に家臣団が編制され、尾張徳川家は江戸時代を通じて尾張藩を治めた。徳川将軍家に後継ぎがないときは他の御三家とともに後嗣を出す資格を有したが、7代将軍の徳川家継没後、紀州徳川家出身の徳川吉宗が尾張家の徳川継友を制して8代将軍に就任した。その後は御三卿が創設されたり、御三卿の系統が尾張藩主になった影響もあって、尾張家や義直の直系子孫からは結局将軍を輩出できなかった。
藩祖義直の遺命である「王命に依って催さるる事」を秘伝の藩訓として、代々伝えてきた勤皇家であった。このことや、将軍を出せなかったこと、将軍家から養子を押し付けられ続けたことなどにより、家中に将軍家への不満が貯まり続け、戊辰戦争では慶喜が戦う前から前代未聞の敵前逃亡したことから官軍についた。
尾張徳川家の支系(御連枝)として、美濃国高須藩を治めた高須松平家(四谷松平家)がある。しかし、共に短命の藩主が多く、1799年に尾張徳川家、1801年には高須松平家で、義直の男系子孫は断絶し[2]、19世紀以降の尾張徳川家は養子相続を繰り返して現在に至っている。10代から13代まで吉宗(一橋徳川家・宗尹)の血統の養子が藩主に押し付けられたが、これに反発した尾張派は14代慶勝[3]を高須家から迎えることに成功し、幕府からの干渉を弱めた。
明治維新では、慶勝が佐幕から倒幕に転じ官軍についたことにより[4]、侯爵を授けられ、第16代・義宜が名古屋藩知事となった[5]。また秩禄処分後、約74万円という高額の金禄公債証書[6]を受領した[5]。資産のうち約43万円を第15国立銀行に出資して配当金を再投資し、また士族授産のため北海道・遊楽部原野の土地を開拓して八雲町を拓くなどして、維新後も高い政治的・経済的地位を維持した[7]。
明治以降の廃藩置県により旧大名家が東京に拠点を移し、旧藩地の財産を処分する中、第18代・義礼は名古屋市東区大曽根(現在の徳川園)に本邸を置き、1900年に明倫中学校を開設、家財の保存に努めるなどしていたが[8][9]、19代・義親のとき、尾張徳川家の事務所(1913年)と本籍(1920年)を名古屋から東京[10]へ移し、1910年代以降、明倫中学校を愛知県に譲渡、什器を競売に出し、墓地を集約するなどして名古屋の施設・什器等の整理を進め、建物や所有地を大々的に処分した[11]。義親は1931年に財団法人尾張徳川黎明会を設立し、処分した什宝の売却益等により[12]大曽根の義礼邸跡地に徳川美術館、目白に蓬左文庫・徳川生物学研究所を開設した[13]。
戦後、1946年に義親が戦争協力者として公職追放にあい、1947年に華族制度廃止により爵位を喪失[14]。財産税の適用により資産の約8割を喪失[14]、保有していた南満州鉄道の株券が無価値になり[15]、八雲町の徳川農場は農地法の適用を受け、一部の山林を残して解放された[16]。
財政難のため目白の邸宅は西武に売却され[17]、蓬左文庫は1950年に藩政資料などを徳川林政史研究所に残して名古屋市に売却され、徳川生物学研究所は1970年に閉鎖、施設はヤクルトに売却された[18][19][20]。
2016年現在、公益財団法人徳川黎明会が徳川美術館と徳川林政史研究所を運営[21]、株式会社八雲産業が目白の邸宅跡地に建設された外国人居留者向けの賃貸住宅と八雲町に残された山林を運営しており[22][23][24]、尾張徳川家の当主は黎明会会長、美術館館長、八雲産業社長に就任している[25][26]。
歴代当主と後嗣たち
太字は正室所生。
- 初代(藩主) 徳川義直 - 敬公
- 光友(2代)
- 2代(藩主) 徳川光友 - 正公
- 3代(藩主) 徳川綱誠 - 誠公
- 4代(藩主) 徳川吉通 - 立公
- 五郎太(五代)
- 5代(藩主) 徳川五郎太 - 誉公
- (実子なし)
- 6代(藩主) 徳川継友(3代藩主綱誠の子) - 曜公
- (実子なし)
- 7代(藩主) 徳川宗春(3代藩主綱誠の子) - 逞公
- (実子なし)
- 8代(藩主) 徳川宗勝(支藩高須藩3代藩主から襲封、尾張藩2代藩主光友の孫) - 戴公
- 9代(藩主) 徳川宗睦 - 明公
- 10代(藩主) 徳川斉朝(一橋徳川家から養子) - 順公
- (実子なし)
- 11代(藩主) 徳川斉温(徳川将軍家から養子、11代将軍徳川家斉の実子) - 僖公
- (実子なし)
- 12代(藩主) 徳川斉荘(田安徳川家から養子、11代将軍徳川家斉の実子) - 懿公
- 昌丸(一橋徳川家8代当主、夭折)
- 13代(藩主) 徳川慶臧(田安徳川家から養子)- 欽公
- (実子なし)
- 14代(藩主) 徳川慶勝(初め慶恕/支藩高須藩から養子、水戸藩6代藩主徳川治保の曾孫)- 文公
- 義宜(16代)
- 15代(藩主) 徳川茂徳(支藩高須藩11代藩主から襲封、14代慶勝の実弟、のち一橋徳川家10代茂栄)
- 16代(藩主) 徳川義宜(養子、14代慶勝の実子) - 靖公
- (実子なし)
- 17代 徳川慶勝(14代慶勝の再勤)- 文公
尾張徳川侯爵家
当主
- 18代(侯爵) 徳川義礼(高松松平家から養子、夫人は17代慶勝の娘)
- 19代(侯爵) 徳川義親(越前松平家から養子、夫人は18代義礼の娘)
- 20代 徳川義知(義親の長男。終戦を期に家督を継承[27]、1947年5月、華族制度廃止により爵位喪失[17])
御相談人会
尾張徳川家との旧臣関係による家政の顧問会[28]。1908年に19代・義親が家督を相続したときには田中不二麿を御相談人長とし、加藤高明、永井久一郎、成瀬正雄、中村修、横井時儀、片桐助作の6人が御相談人となっていた[29][28]。のちに八代六郎、渡辺錠太郎、大角岑生、松井石根ら陸海軍の将校が御相談人となった[28]。
御相談人長
御相談人
- 加藤高明 1890年-1926在任[31]。
- 永井久一郎 1890年12月-1913年在任[32]
- 成瀬正雄[29]
- 中村修[29]
- 横井時儀[29]
- 片桐助作 1903年-1915年在任[33][34]
- 堀鉞之丞 1908年10月30日-1914年4月30日在任[35]。
- 海部昂蔵 1914年-在任[35]。
- 阪本釤之助 1920年-在任[32]
- 松井石根[28]
- 八代六郎[28]
- 渡辺錠太郎[28]
- 大角岑生[28]
- 佐藤鋼次郎[36]
- 間島弟彦[36]
家職
1908年に19代・義親が家督を相続したとき、東京(別邸)には家扶・水野正則以下3人、名古屋・大曽根の本邸に家令・海部昂蔵以下、家扶4人、家従8名が勤務していた[37]。
家令
家扶
戦後の尾張徳川宗家
系譜
凡例:太線は実子、破線は養子、太字は当主
義直1 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
光友2 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
綱誠3 | (四谷) 松平義行 | (大久保) 松平義昌 | (川田久保) 松平友著 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
吉通4 | 松平通顕 (継友) | 松平義孝 | 松平通温 | 松平通春 (宗春) | 松平義孝 | 松平武雅 | 松平義方 | 松平友淳 (宗勝) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
五郎太5 | 松平義淳 (宗勝) | 松平義真 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
継友6 | 松平通春 (宗春) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宗春7 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宗勝は宗春の養子にはならず、藩領は一旦収公ののち宗勝に下す形がとられた。
宗勝8 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宗睦9 | (四谷) 松平義敏 | 松平義当 | 竹腰勝起 | 井上正国 | 内藤頼多 | 内藤政脩 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
治休 | 治興 | 治行 | 斉朝10 | 松平義柄 (治行) | 松平義裕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
斉温11 | 松平義当 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
斉荘12 | 松平義居 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
慶臧13 | 松平義和 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
慶恕14/慶勝17 | 松平義質 | 松平義建 | 松平容敬 | 遠藤胤昌 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
茂徳15 | 義礼18 | 徳成 (義宜) | 義恕 | 慶恕 (慶勝) | 松平武成 | 松平義比 (茂徳) | 松平容保 | 松平定敬 | 松平義勇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
松平義端 | 達道 | 義宜16 | 義親19 | 義寛 | 津軽義孝 | 義忠 | 義恭 | 松平義端 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
義知20 | 松平義勇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
義宣21 | 松平義生 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
義崇22 | 松平義為 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
松平義明 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
関連項目
脚注
- ^ 「紋章・マーク・シンボル」野ばら社。
- ^ 他家へ養子入りした男系子孫までたどると、8代藩主宗勝の子で尾張藩付家老竹腰氏へ養子に入った竹腰勝起を経て高岡藩井上氏、櫛羅藩永井氏へと血統が連なり、永井氏の血統は現在も存続している。
- ^ もっとも、義勝も血統上は水戸徳川家出身の9代高須藩主松平義和の孫である。
- ^ 青松葉事件の記事も参照。
- ^ a b 小田部 1988, pp. 39–41.
- ^ 薩摩島津家、加賀前田家、長門毛利家、肥後細川家に次ぐ第5位の高禄だった(小田部 1988, p. 39)
- ^ 小田部 (1988, pp. 39–41)。1898(明治31)年当時、尾張徳川家の所得は約11万6千円で、所得番付の12位、華族の中で第7位だった(同)。なお、財務収支の改善は1890年から同家の御相談人となった加藤高明によるところが大きく、それ以前は収支がトントンだったが、加藤によって収支が大幅に改善し、資産が3倍-10倍になった、とされている(小田部 1988, pp. 42–43)。
- ^ 香山 2015, p. 30.
- ^ 香山 2014, pp. 17–18, 28.
- ^ 麻布区富士見町、1932年から豊島区目白(香山 2016, pp. 124–125)
- ^ 香山 2015, pp. 3, 27–28, 30–32.
- ^ 香山 2015, p. 36.
- ^ 香山 2016, p. 121.
- ^ a b 小田部 1988, pp. 209–210.
- ^ 徳川 1963, p. 146.
- ^ 徳川 1963, pp. 110, 146.
- ^ a b 小田部 1988, p. 209.
- ^ 科学朝日 著、科学朝日 編『殿様生物学の系譜』朝日新聞社、1991年、200頁。ISBN 4022595213。
- ^ 中村, 輝子、増田, 芳雄「山口清三郎博士の戦中日記」『人間環境科学』第5巻、帝塚山大学、1996年、89頁、NAID 110000481506。
- ^ 小田部 1988, p. 29.
- ^ 徳川黎明会 (2016b). “公益財団法人徳川黎明会”. 公益財団法人徳川黎明会(総務部). 2016年9月29日閲覧。
- ^ 八雲産業 (2016年). “Tokugawa dormitory トップページ > 徳川ドーミトリーとは”. YAKUMO SANGYO CO.,LTD.. 2016年10月27日閲覧。
- ^ 八雲産業 (2015年). “Tokugawa Village トップページ > 徳川ビレッジとは”. Yakumo Sangyo Co., Ltd.. 2016年10月27日閲覧。
- ^ 小田部 1988, pp. 40–41.
- ^ 八雲産業 2016.
- ^ 徳川黎明会 (4 July 2016). 平成27年度事業報告書 (PDF) (Report). 公益財団法人徳川黎明会. 2016年9月29日閲覧。
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: 引数|ref=harv
は不正です。 (説明) - ^ 徳川 1963, p. 148.
- ^ a b c d e f g h 小田部 1988, p. 42.
- ^ a b c d e 香山 2014, pp. 2–3.
- ^ a b 香山 2016, p. 104.
- ^ a b 小田部 1988, pp. 42–43.
- ^ a b 香山 2016, p. 122.
- ^ 香山 2015, p. 27.
- ^ 香山 2014, pp. 2–3, 25.
- ^ a b c d 香山 2015, p. 1.
- ^ a b 香山 2015, p. 33.
- ^ a b 香山 2014, p. 3.
- ^ 香山 2016, p. 103.
参考文献
尾張徳川侯爵家関連
- 香山, 里絵「「尾張徳川美術館」設計懸賞」(pdf)『金鯱叢書』第43巻、徳川美術館、2016年3月、103-131頁、ISSN 2188-7594、2016年10月3日閲覧。
- 香山, 里絵「明倫博物館から徳川美術館へ‐美術館設立発表と設立準備」(pdf)『金鯱叢書』第42巻、徳川美術館、2015年3月、27-41頁、ISSN 2188-7594、2016年10月3日閲覧。
- 香山, 里絵「徳川義親の美術館設立想起」(pdf)『金鯱叢書』第41巻、徳川美術館、2014年3月、1-29頁、ISSN 2188-7594、2016年10月3日閲覧。
- 小田部, 雄次『徳川義親の十五年戦争』青木書店、1988年。ISBN 4250880192。
- 徳川, 義親 著「私の履歴書‐徳川義親」、日本経済新聞社 編『私の履歴書』 文化人 16、日本経済新聞社、1984年(原著1963年12月)、85-151頁。全国書誌番号:73011083。