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ただし漢四郡否認論は、韓国でも厳しく批判する意見があり、『[[朝鮮日報]]』は「在野の歴史学界(大学教授でない歴史学者からなる歴史学界)が『楽浪郡は遼河の西側にあり、朝鮮半島北部説は植民史学の名残』と攻撃」しているが、「(大学教授からなる)主流の歴史学界は、平壌一帯に楽浪郡があった」とみていると報道している。そして、学術誌『歴史批評』春・夏号で、[[ソウル大学]]国史学科講師、[[延世大学]]博士課程在学、[[成均館大学]]博士課程修了などからなる30-40代の6人の若手朝鮮史研究者が、在野史学界の古代史解釈を批判した論文を取り上げている。そこで、6人の若手朝鮮史研究者は「在野の歴史学者の主張は歴史的[[考証]]もきちんとなされていない状態で、そこに[[民族主義]]という名の下、一部の[[国会議員]]や[[進歩的知識人]]が呼応している」として、彼らを「[[サイバー]]歴史学」「歴史[[ファシズム]]」「[[いんちき]]歴史学」と罵倒しており、『[[東亜日報]]』は「[[紀元前]]に漢が韓半島北部に漢四郡を設置した」と報じている<ref>{{Cite news|url=http://japanese.donga.com/Home/3/all/27/902189/1|title=習近平主席「韓国は中国の一部だった」、米中首脳会談で発言|newspaper=[[東亜日報]]|publisher=|date=2017-04-20|archiveurl=http://web.archive.org/web/20170421010950/http://japanese.donga.com:80/Home/3/all/27/902189/1|archivedate=2017-04-21|deadurldate=}}</ref>。
ただし漢四郡否認論は、韓国でも厳しく批判する意見があり、『[[朝鮮日報]]』は「在野の歴史学界(大学教授でない歴史学者からなる歴史学界)が『楽浪郡は遼河の西側にあり、朝鮮半島北部説は植民史学の名残』と攻撃」しているが、「(大学教授からなる)主流の歴史学界は、平壌一帯に楽浪郡があった」とみていると報道している。そして、学術誌『歴史批評』春・夏号で、[[ソウル大学]]国史学科講師、[[延世大学]]博士課程在学、[[成均館大学]]博士課程修了などからなる30-40代の6人の若手朝鮮史研究者が、在野史学界の古代史解釈を批判した論文を取り上げている。そこで、6人の若手朝鮮史研究者は「在野の歴史学者の主張は歴史的[[考証]]もきちんとなされていない状態で、そこに[[民族主義]]という名の下、一部の[[国会議員]]や[[進歩的知識人]]が呼応している」として、彼らを「[[サイバー]]歴史学」「歴史[[ファシズム]]」「[[いんちき]]歴史学」と罵倒しており、『[[東亜日報]]』は「[[紀元前]]に漢が韓半島北部に漢四郡を設置した」と報じている<ref>{{Cite news|url=http://japanese.donga.com/Home/3/all/27/902189/1|title=習近平主席「韓国は中国の一部だった」、米中首脳会談で発言|newspaper=[[東亜日報]]|publisher=|date=2017-04-20|archiveurl=http://web.archive.org/web/20170421010950/http://japanese.donga.com:80/Home/3/all/27/902189/1|archivedate=2017-04-21|deadurldate=}}</ref>。


在野の歴史学界は、漢四郡の位置を遼西だとみており、主流の歴史学界の漢四郡の位置は大同江流域だとする学説を、日本帝国時代の[[朝鮮史編修会]]編修官だったイ・ビョンド元ソウル大学史学科教授の植民史観が彼の弟子まで継承されていると批判する。しかし、主流の歴史学界は、在野の歴史学界の漢四郡の位置は遼西とする学説は「偉大な上古史」の幻想を植えつける恐れがあり、在野史学界の「漢四郡の朝鮮半島説=植民史観」という批判に対しては、「漢四郡の朝鮮半島説」は中国の歴史書物、[[丁若ギョン|丁若鏞]]をはじめとする[[李氏朝鮮]]の実学者、日本人歴史学者まで長年受け継がれている学説だと反論している<ref>【コラム】中国学者が再考証する朝鮮戦争の歴史『[[朝鮮日報]]』[[2016年]][[9月11日]]、キム・ソンヒョン文化部次長「【コラム】韓国史学界の「恐るべき子どもたち」</ref><ref>{{Cite news |url=http://japanese.joins.com/article/530/217530.html|title=大古朝鮮か小古朝鮮か、古代史論争が再び激化|newspaper=[[中央日報]]|publisher=|date=2016-06-28|archiveurl=http://web.archive.org/web/20161118191832/http://japanese.joins.com/article/530/217530.html|archivedate=2016-11-19}}</ref>。
在野の歴史学界は、漢四郡の位置を遼西だとみており、主流の歴史学界の漢四郡の位置は大同江流域だとする学説を、日本帝国時代の[[朝鮮史編修会]]編修官だったイ・ビョンド元ソウル大学史学科教授の植民史観が彼の弟子まで継承されていると批判する。しかし、主流の歴史学界は、在野の歴史学界の漢四郡の位置は遼西とする学説は「偉大な上古史」の幻想を植えつける恐れがあり、在野史学界の「漢四郡の朝鮮半島説=植民史観」という批判に対しては、「漢四郡の朝鮮半島説」は中国の歴史書物、[[丁若鏞]]をはじめとする[[李氏朝鮮]]の実学者、日本人歴史学者まで長年受け継がれている学説だと反論している<ref>【コラム】中国学者が再考証する朝鮮戦争の歴史『[[朝鮮日報]]』[[2016年]][[9月11日]]、キム・ソンヒョン文化部次長「【コラム】韓国史学界の「恐るべき子どもたち」</ref><ref>{{Cite news |url=http://japanese.joins.com/article/530/217530.html|title=大古朝鮮か小古朝鮮か、古代史論争が再び激化|newspaper=[[中央日報]]|publisher=|date=2016-06-28|archiveurl=http://web.archive.org/web/20161118191832/http://japanese.joins.com/article/530/217530.html|archivedate=2016-11-19}}</ref>。


漢四郡否認論は文献的にも考古学的にも問題があり、中国や日本やアメリカ([[漢四郡#引用文献]])の学界では全く認められていない。例えば、楽浪郡の所在地が現在の[[平壌]]の郊外、市街地とは[[大同江]]を挟んだ対岸にある楽浪土城(平壌市楽浪区域土城洞)にあったことに異論はない。なぜならば土塁で囲まれた東西700m、南北600mの遺構に当時のさまざまな遺物のほか、官印「楽浪太守章」の封泥(封印の跡)までもが出土しており、考古学的に明らかにされているからである。ただし、南北朝鮮の漢四郡否認論者は、これらの遺跡は後世の[[捏造]]だと主張している。
漢四郡否認論は文献的にも考古学的にも問題があり、中国や日本やアメリカ([[漢四郡#引用文献]])の学界では全く認められていない。例えば、楽浪郡の所在地が現在の[[平壌]]の郊外、市街地とは[[大同江]]を挟んだ対岸にある楽浪土城(平壌市楽浪区域土城洞)にあったことに異論はない。なぜならば土塁で囲まれた東西700m、南北600mの遺構に当時のさまざまな遺物のほか、官印「楽浪太守章」の封泥(封印の跡)までもが出土しており、考古学的に明らかにされているからである。ただし、南北朝鮮の漢四郡否認論者は、これらの遺跡は後世の[[捏造]]だと主張している。

2020年8月13日 (木) 02:35時点における版

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漢四郡(かんのしぐん)は、朝鮮半島の中・西北部にあった衛氏朝鮮を滅ぼした前漢武帝紀元前108年に設置した楽浪郡真番郡臨屯郡紀元前107年に設置した玄菟郡植民地との見方も存在する[1])のことである。各郡の位置については諸説ある。朝鮮四郡(ちょうせんしぐん)ともいう[2]

中国王朝は313年までおよそ400年もの間、朝鮮半島中部・北部を郡県により直接支配し、また朝鮮半島南部に対して間接統制を行った。漢四郡に先立って、紀元前128年に漢は蒼海郡を置いたが、紀元前126年に廃止した。漢四郡のうち、真番郡と臨屯郡は早く廃され、玄菟郡は朝鮮半島から西に移ったが、204年には朝鮮半島に新たに帯方郡が置かれた。楽浪郡と帯方郡は313年まで存続した。紀元前107年に設置され、高句麗の攻撃により遼東に撤退した313年までの400年間、平壌の存在した楽浪郡を通じて中国王朝の政治的・文化的影響を朝鮮に与え、また朝鮮も主体的にそれを求め[3]中国文明が朝鮮にもたらされ[4]高句麗の発展は、玄菟郡への服属抵抗が大きな意義を持つという研究があり、楽浪郡・帯方郡の漢人が高句麗王権・百済王権に取り込まれ、高句麗・百済の発展に寄与した[5]

楽浪郡と帯方郡の故地には、5世紀まで土着漢人や新移住者の漢人が住み続けた[6]

年表

  • 紀元前128年 - 漢が蒼海郡を設置。
  • 紀元前126年 - 漢が蒼海郡を廃止。
  • 紀元前108年 - 漢が、衛氏朝鮮を滅ぼし、漢四郡(楽浪郡、真番郡、臨屯郡、玄菟郡)を置く。
  • 紀元前82年 - 真番郡、臨屯郡を廃する。
  • 紀元前75年 - 玄菟郡を西に移し、半島には楽浪郡だけとなる。
  • 204年 - 公孫氏が帯方郡を置く。
  • 238年 - 魏が公孫氏を滅ぼし、帯方郡を支配。
  • 313年 - 高句麗が楽浪郡を滅ぼし、帯方郡も滅びる。

韓国の教科書における漢四郡

論点

大韓民国教育部の韓国教育開発院が1999年に刊行した『日本・中国の中等学校歴史教科書の韓国関連内容分析』は、日本の教科書『日本史A』に対して、朝鮮史における最初の国家が古朝鮮であるにもかかわらず、朝鮮がはじめて登場するのは漢四郡であること、それは「結果的に朝鮮史の上限を引きずり下ろし、朝鮮の歴史がはじめから中国の支配を受けていたかのように暗示している」と批判している[7]

1981年大韓民国教育部長官安浩相朝鮮語: 안호상1檀君は実在の人物2檀君の領土は中国北京まで存在した3王倹城は中国遼寧省にあった4漢四郡は中国北京にあった5百済は3世紀から7世紀にかけて、北京から上海に至る中国東岸を統治した6新羅の最初の領土は東部満州で、統一新羅国境は北京にあった7百済が日本文化を築いたという「国史教科書の内容是正要求に関する請願書」を国会に提出したこともある[8][9]朝鮮史の歴史的舞台である中国東北から朝鮮半島が、中国大陸と直接的に接している以上、朝鮮史は中国大陸諸情勢の影響を受けるのだが、中国人の朝鮮半島への流入、中国による朝鮮直接支配など、中国による朝鮮史への関与をどう位置づけ、教科書で論述するかは大きな問題だった[10]。漢四郡は漢の郡県であるため、箕子衛満同様に教科書に位置付けるか、ということが問題であったと考えられる[11]

小学『社会』には漢四郡についての記述はない[12]。中学『国史』の図「古朝鮮以後、満州韓半島に登場した諸国」では、高句麗沃沮などの東夷諸族は描かれるが、そこに存在したはずの漢四郡は描かれない[13]。高校『国史』では、漢四郡の記述がみられるが、個別の郡名もなく、24行からなる「衛満の執権」の項目のなかの3行で、郡県は土着民の抵抗により、廃止・撤退されたことを記すのみとなる[14]

漢の郡県が設置された後、抑圧と収奪に直面した土着民はこれを避けて移住したり、団結して漢の郡県に対抗した。漢の郡県は厳しい律令を施行して自らの生命と財産を保護しようとした —  国史編纂委員会『国史』 & 1996年

2世紀3世紀の東夷諸国の図「諸国の成長」にも漢四郡が一切描かれないように、きわめて簡略に記述して論述対象から排除され、漢の郡県に対する悪弊を指摘して、敵対的なものとして描かれる[15]

韓国の教科書における漢四郡の変遷

漢四郡に関する記述は、従来は楽浪文化とともに記述されてきたが、徐々に減少していき、特に1970年半ば以降極めて少なくなり、郡名や位置図も削除されていく[16]。 

この楽浪(平壌一体)を中心にして在来文化と漢文化が交流していわゆる楽浪文化(楽浪遺跡)が発達して、この文化がわが国の南北諸国に与えた影響も少なくない —  震檀学会『国史教本』附 & 1946年

1946年震檀学会『国史教本』では本文で触れずに、「附」で記述する。やがて漢四郡は本文に記述され、漢四郡の位置図が掲載され、その変遷、楽浪文化、朝鮮民族への影響が記述される[17]。 

楽浪は後の帯方とともに、東方世界における文化交流の大きな中心点となった —  金庠基『高等国史』 & 1957年

漢四郡と帯方郡の位置図が掲載され、出土した銘文塼遺物などが写真付きで紹介され、漢四郡との交流を通して、朝鮮民族は漢の高度な文化を取り入れて、自らの文化を形成したと高く評価される[18]

わが民族をして異民族支配を強いさせたという点で残念な事実であるが、その反面そこから得た影響も小さくない。その影響の第一は政治的に土着種族の台頭をもたらした点である。外民族の支配は土着民を自覚させ、その統治から抜け出すために、部族国家へと発展させ、さらに古代国家形成の原動力となった。また発達した漢の政治体制は、いまだ未開な状態にあったわが国の諸民族の政治的発達に大きな影響を与えた。二番は社会的にも開発された点である。・・・第三は、文化上において大きな影響を与えた点である。・・・このように燦爛な楽浪文化は漢人による漢文化にすぎないが、これは当然にわが民族に影響を与え、わが国の文化発達に大きな影響を与えた —  歴史教育研究会『高等国史』 & 1967年

この場合看過できないのは、漢四郡によって朝鮮民族と国土の自覚を覚醒したという指摘である[19]。それは、1947年崔南善中学『国史』のようにはやくから明示されてきた[20]

支那本国の進歩な文物と朝鮮本土の豊富な物質が合わさって燦々たる文化を形成した —  崔南善『中等国史』 & 1947年

漢四郡が、朝鮮民族の部族国家形成・古代国家形成の原動力となったと評価されるが、漢の朝鮮支配という異民族による朝鮮民族支配とそれに抵抗する観点がみられる[21]

中国の進歩した文化がそのまま入り、楽浪文化が形成された/燦爛な楽浪文化はわが国だけでなく、倭人にも大きな影響を与えた/漢字文化や政治制度、先進文化が国家形成段階突入へ寄与、ただし、純朴な風俗などが失われ、事大思想が芽生えるようになった —  曺佐鎬『中等国史』 & 1959年
郡県に対抗する朝鮮人/中国の文化が導入され、朝鮮本土の豊富な物質と融合して燦々たる文化が形成/この時わが国の文化は中国人の文化を受け入れてわが国の文化を形成したが、その反面、次第に固有の美しい風俗が失われた —  崔南善『国史』 & 1962年

漢四郡による朝鮮支配や楽浪文化など漢文化によって、朝鮮民族固有の純朴な風俗が損なわれたという指摘が登場し、漢四郡による朝鮮支配と漢文化の流入に対する批判がでてくる[22]

楽浪文化=漢文化/これによって文化発展は阻害された/郡県の設置は社会に大きな影響を与えた/郡県制度の移植/漢の優秀な鉄器文化が流入/経済にも大きな変化を与えた/困窮生活を強いた —  『高等 国史』 & 1969年
楽浪文化/これはわが土着民とは関係ない中国人の文化である/漢郡県の設置は、韓半島の部族社会に政治・経済・社会面に大きな影響を与えた/漢四郡を通して高度で発達した鉄器文化が伝播し、農具などが発達して、生産力が増加して安定した鉄器文化となった。これとあわせて中国の政治制度が輸入され、土着民間に刺激を与え、従前の社会科学組織に対する改変を追求した —  『高等 国史』 & 1970年
楽浪文化/漢文化にすぎず、われわれの文化ではない/他民族による支配は遺憾だが、漢郡県支配が与えた影響は少なくない/漢の文化は高度な文化であったため、漢人の統治によって朝鮮の土着社会に大きな影響を与える 1文化上の意義 2社会生活の発展 3政治上の変化/土着民の自覚をうながし、その支配から脱するための民族運動を誘発/独自的な政治権力の成長/鉄器文化によって部族国家が台頭/このように漢の郡県支配は文化・社会・政治など各方面にわたって非常に大きな影響をあたえ、わが社会を大きく発展させたのである —  邊太燮『高等 国史』 & 1973年

楽浪文化を紹介するが、あくまでも漢文化であり、朝鮮民族の文化と区別して、漢文化によって朝鮮民族の文化発展が阻害されたという指摘がみえてくる[23]。このような視覚は、1970年前後から登場して[24]、漢四郡や楽浪文化に対する否定的な記述がみられてくる。それは、日韓併合と同様に漢四郡や楽浪文化を朝鮮民族の歴史と文化として位置付けたくないことと関連する[25]。そして1975年文教部『中学 国史』以降、従来は数ページにわたり記述されていた漢四郡や楽浪文化の記述は減少していく[26]

民族の粘り強い抵抗によって漢四郡は満州に追い出された/楽浪郡が長い間朝鮮民族を経済的に搾取し、政治的にも部族間の統一を妨害したため、新しい国家は生まれなかった/楽浪の勢力の及ばない地域にのみ、鉄器文化を基盤とする新しい部族国家が登場 —  文教部『中学 国史』 & 1975年

漢四郡の位置図が削除され、漢四郡や楽浪文化に関する記述は半ページ程度になる[27]

漢四郡は交通路に設置/郡県に対して土着勢力に我慢できず、臨屯郡と真番郡は廃止、玄菟郡は遼東方面に撤退/ただ楽浪郡と帯方郡は長く存続した —  文教部『中学 国史』 & 1975年

「漢四郡の変遷」という項目はあるが、従来では記述されていた漢四郡の朝鮮民族に与えた影響や朝鮮史上の意味は全く記述されない[28]

その後、漢は古朝鮮の一部地域に勢力を伸ばし、朝鮮民族は継続して抗争し、それを追い出すことに成功した —  国史編纂委員会『中学 国史』 & 1982年

本文でわずか3行になり、従来の教科書の記述や位置図に示されてきた楽浪郡、臨屯郡、真番郡、玄菟郡の郡名もみられなくなり、漢四郡はどこに置かれていたかも全く言及されない[29]。このような漢四郡の矮小化は、漢四郡が設置されていた時代の東夷諸族の分布図に、本来はそこに存在していたはずの漢四郡が描かれていないことに端的に示され、1980年代から漢四郡に関する記述は極めて少なくなってくる[30]

漢は古朝鮮の一部地域に郡県を設置したが、わが民族の反撃を受け、後退した —  国史編纂委員会『中学 国史』 & 1996年
古朝鮮が滅亡すると、漢は古朝鮮の一部地域に郡県を設置して、支配したが、土着民の強力な抵抗にあった。そのため、その勢力はしだいに弱化していき、ついに高句麗の攻撃によって消滅した(313年) —  国史編纂委員会『高等 国史』 & 1996年

1990年代以降も漢四郡に関する記述は極めて少ない。漢四郡に関する記述はわずか3行しかなく、郡名すら記述されず、「漢の郡県」項目すら削除され、朝鮮史や朝鮮民族に与えた影響も記述されない[31]

漢四郡否認論

北朝鮮及び在野の韓国歴史学者は、朝鮮半島には古代から自主独立の国があったとする歴史観を掲げて[32][33]、漢四郡が朝鮮半島ではなく中国大陸の遼東遼西方面にあったとしている[34][35]李相龍は、漢四郡は「朝鮮」の領土ではなく遼東に位置していたという、申采浩金教献朴殷植と共通の多くの主張を行った[36]

韓国日報』は、漢四郡=「漢の武帝が紀元前108年、衛氏朝鮮を滅亡させ朝鮮半島に4つの行政区を設置して植民地支配した」というのは日本帝国による植民史学の残滓だとして、日本帝国は、朝鮮総督府直属の「朝鮮史編集会」において植民史学を組織的に拡散させ、朝鮮半島に漢四郡という中国植民地が存在したと強弁することによって独立意志を抹殺しようとしたと報じている。植民史学は解放後、朝鮮では克服されたが欧米では影響力を持っているとして、「誤った見解」を正そうとしているマーク・パイントン博士を紹介している。それによるとパイントン博士は、「漢四郡設置がすなわち朝鮮半島の中国植民地化という植民史学の解釈は朝鮮史を歪曲させたルーツ」であり、漢四郡が朝鮮半島に政治的影響力を行使したとはみられず、「漢四郡は中国の属国や植民地ではない。そのような見解は日本帝国時代の日本学者たちの主張だ。 欧米学界はこういう誤った見解で朝鮮史を見ている。」として、欧米学界において影響を及ぼしている「他律的な朝鮮古代史」を批判して「自律的で能動的な成長」を強調する必要性を説いている。これについて盧泰敦ソウル大学教授は、「海外の学界にまだ広範囲に影響を及ぼしている日本帝国植民史学により歪曲された朝鮮古代史を正すため、パイントン博士の努力に敬意を表す」とコメントしている[37]

中央日報』は、2012年8月東北アジア歴史財団アメリカ議会調査局に「韓中境界の歴史的変化に対する韓国の見解」という資料を提出したが、そのなかに、紀元前108年に漢の武帝が設置した漢四郡が朝鮮半島の一部地域を統治したという「東北工程と日帝植民史学の核心的な主張」を認める資料を送っていると問題視している。それによると、紀元前3世紀196年黄海道に真番郡が存在した、紀元前108年に漢四郡が朝鮮半島北部に存在したとしているが、ボク・ギデ仁荷大学教授は「地図に基づくと、高麗の首都の開城に楽浪があったということだが、そのような史料や学説に接したことはない」「漢四郡が韓半島にあったという話は、日帝時代に植民史学者が『韓国は他国の属国』としてねつ造した事実」と批判している。

セヌリ党李相逸議員は、東北アジア歴史財団は周辺国の歴史歪曲に対応する機構だが、国内の学界の視点とは異なる部分が含まれているとして、「米議会の報告書は米国の政策に直接影響を及ぼす重要な資料だが、こうした資料として我々の歴史を歪曲する地図を財団と政府が送ったことは国益を傷つける行動」「誤っている部分を早期に修正する措置を取らなければいけない」と批判している。さらに『中央日報』は、「財団で勤務した関係者は「日帝植民史観などを継承している人たちが内部にいる」と述べた。」と報じた[38]

東北アジア歴史財団が「楽浪郡の位置を平壌に表記した北東アジア歴史地図を作製したが、世論の指弾を受けた。」ため、東北アジア歴史財団主催の「朝鮮古代史の争点」討論会が催された。そこで、ボク・ギデ仁荷大学教授は、「成果物中心の既存の考古学的研究では、移動や貿易の可能性を無視している」ため、「文献記録に見たときに漢四郡が設立された当時の位置は明らかに、現在の中国河北省東北部と遼寧省西南部」であり、「が東に拡張しながら、中国の勢力の最東端にあった楽浪郡が東進した結果、最終的に楽浪郡が平壌に存在したと記録され、日本の学者たちがこの記録を根拠に明らかな目的性を持って平壌に存在したと発表した」と漢四郡は中国河北省東北部と遼寧省西南部に存在したと主張している。 パク・ソンヨン仁荷大学教授は、漢の衛氏朝鮮遠征を分析した結果、「当時漢の攻撃目標を平壌であったとみなすのは難しい。王険城が朝鮮半島の平壌に存在しなかったとする主張に説得力がある」とコメントしている。

一方、チョン・インソン嶺南大学教授は、平壌付近の楽浪郡遺跡である土城里遺跡の日本植民地時代の発掘過程を検討して、「遺跡発掘の過程で、実際に15点以上のボンニ(文書を紐で縛って封した泥の塊)など楽浪郡遺物が出土したのは事実」であり、「ボンニがほとんど本物だという主張は、もっと慎重に検討されなければならない。しかし、発掘と出土状況が明らかな資料において楽浪郡平壌説を支持することが圧倒的だ」と楽浪郡遺跡偽造説を批判している。ジョ・ボプジョン又石大学教授は、『史記』などの中国史書を検討して、「楽浪郡は、現在の平壌一帯に存在したものと確認することができる」「文献、遺跡など楽浪郡平壌説を否定することは不可能である」と漢四郡否認論を批判している[39]

2015年に漢四郡の位置をめぐり朝鮮半島説と遼東説の討論会が行われた。その席上で遼東説を取るポク・キデ仁荷大学教授は、中国の史書を論拠に「これまでの楽浪郡研究は、文献資料を十分に検討していない状態で、考古学的発掘に依存し過ぎていた。中国の正史に中国史の一部として記録されている楽浪郡の位置は、河北省北部から遼寧省南西部」であるとする。さらに「北東アジアにおいて、歴史は安全保障の始まりであり、漢四郡が朝鮮半島にあったとすると、中国の東北工程に反論し難い」と述べている。同じく遼東説を取るイ・ドクイル・ハンガラム歴史文化研究所長は、「後代の記録や研究よりも、古朝鮮滅亡後の状況を示す当時の記録の方が重要。楽浪郡・帯方郡が存在していた時期に作られた中国古代の史書は、その位置について古代遼東と説明しており、楽浪郡の中心地たる朝鮮県は河北省盧竜県」とする。さらに「中国と歴史戦争を行っている状況で、なぜわざわざ韓国に不利な解釈をするのか分からない」と述べている[40]

一方、朝鮮半島説を取る孔錫亀ハンバッ大学教授は、「遼西説の根拠として引用される中国の史書は後代に編纂されたもので、その元祖に当たる『太康地理志』の『楽浪遂城県には碣石山があり、長城が始まる場所(楽浪遂城県有碣石山、長城所起)』という記事は、楽浪郡が高句麗によって朝鮮半島から追い払われ、遼西に僑置した後の状況を説明したもの」であり、遼東説論者の中国の史書の解釈に疑問を呈している。同じく朝鮮半島説を取るユン・ヨング仁川都市公社文化財部長は、「漢四郡の位置は、朝鮮王朝時代後期の時点で既に推定可能なあらゆる論理が提起されており、1920-30年代には黏蟬(ねんてい)県神祠(しんし)碑や帯方太守墓など考古学的発掘や歴史地理学的研究によって一通りの結論が出た。加えて解放後、平壌一帯から数多くの楽浪の遺跡・遺物が出てきており、朝鮮半島北西部への楽浪郡設置は否定し難い」と述べている。遼東説論者の「韓国に不利な解釈をするな」という主張についても、孔錫亀ハンバッ大学教授は「政治的理由で自分に有利な史料だけを選んではならず、合理的に説明すべき」と批判している[41]

韓国では漢四郡否認論は継続して提起されている。『ソウル経済新聞』は、楽浪郡は主流学界では朝鮮半島に存在したとなっているが、「遼東に存在したという反論も侮れない」として、イ・ドクイルハンガラム歴史文化研究所長の主張を紹介している。イ・ドクイルは、「植民史観再登場の歴史的構造」と称するセミナーにおいて、「漢四郡の朝鮮半島存在説は解放後も定説として受け入れた結果」であり「日本帝国は大韓帝国強占直後、中枢院傘下に『朝鮮半島史編纂委員会』を作り、3・1運動後には朝鮮総督府直属で『朝鮮史編修会』を作って植民史観を組織的に伝播した。植民史観の核心理論は朝鮮史の時間と空間を縮小する二種類の観点に帰結される」ものであり、「日帝は朝鮮史の時間を縮小するために檀君朝鮮を否認し、古朝鮮を朝鮮半島北部に閉じ込め」朝鮮半島に漢四郡が存在して中国の植民地と強弁することにより独立の意志を抹殺させようとしたという。そして、植民史観は1945年8月15日に終結すべきだったが、『朝鮮史編修会』に所属した韓国人学者が解放後に歴史学界の権力を掌握したため、植民史観を一掃できず、漢四郡が朝鮮半島に存在したことが定説になってしまったという。それによると、「イ・ビョンドは解放後、朝鮮史学界の泰斗として君臨しながら自分の二人の師匠の植民史観を朝鮮史の主流理論にした。稲葉岩吉の漢四郡の朝鮮半島存在説を朝鮮古代史の定説に定着させ、津田左右吉の『三国史記』初期記録不信論に従って古朝鮮を国家と認定せず、『三国史記』初期記録を虚偽と決めつけた」という[42]。漢四郡の朝鮮半島存在説は漢四郡が遼東に存在したことを立証する『三国史記』初期の記録を虚偽として朝鮮史を1500年短縮した日本帝国が組織的に宣伝した陰謀であり、「解放68年過ぎたのに、日帝植民主義史観は堂々と主流史学として存在している。解放後、清算されるべきだった植民史学がそのまま存続している事実は、韓国が領土は解放されても精神はそのまま日帝に従属しているも同然だという事実を語ってくれる」という。イ・ドクイルは、後代の記録・研究よりも当時の状況を記録している史書が重要だとして、「楽浪郡・帯方郡が存在していた時期に作られた中国古代の史書は、その位置について古代遼東と説明しており、楽浪郡の中心地たる朝鮮県は河北省盧竜県だった」と主張している[43]

ただし漢四郡否認論は、韓国でも厳しく批判する意見があり、『朝鮮日報』は「在野の歴史学界(大学教授でない歴史学者からなる歴史学界)が『楽浪郡は遼河の西側にあり、朝鮮半島北部説は植民史学の名残』と攻撃」しているが、「(大学教授からなる)主流の歴史学界は、平壌一帯に楽浪郡があった」とみていると報道している。そして、学術誌『歴史批評』春・夏号で、ソウル大学国史学科講師、延世大学博士課程在学、成均館大学博士課程修了などからなる30-40代の6人の若手朝鮮史研究者が、在野史学界の古代史解釈を批判した論文を取り上げている。そこで、6人の若手朝鮮史研究者は「在野の歴史学者の主張は歴史的考証もきちんとなされていない状態で、そこに民族主義という名の下、一部の国会議員進歩的知識人が呼応している」として、彼らを「サイバー歴史学」「歴史ファシズム」「いんちき歴史学」と罵倒しており、『東亜日報』は「紀元前に漢が韓半島北部に漢四郡を設置した」と報じている[44]

在野の歴史学界は、漢四郡の位置を遼西だとみており、主流の歴史学界の漢四郡の位置は大同江流域だとする学説を、日本帝国時代の朝鮮史編修会編修官だったイ・ビョンド元ソウル大学史学科教授の植民史観が彼の弟子まで継承されていると批判する。しかし、主流の歴史学界は、在野の歴史学界の漢四郡の位置は遼西とする学説は「偉大な上古史」の幻想を植えつける恐れがあり、在野史学界の「漢四郡の朝鮮半島説=植民史観」という批判に対しては、「漢四郡の朝鮮半島説」は中国の歴史書物、丁若鏞をはじめとする李氏朝鮮の実学者、日本人歴史学者まで長年受け継がれている学説だと反論している[45][46]

漢四郡否認論は文献的にも考古学的にも問題があり、中国や日本やアメリカ(漢四郡#引用文献)の学界では全く認められていない。例えば、楽浪郡の所在地が現在の平壌の郊外、市街地とは大同江を挟んだ対岸にある楽浪土城(平壌市楽浪区域土城洞)にあったことに異論はない。なぜならば土塁で囲まれた東西700m、南北600mの遺構に当時のさまざまな遺物のほか、官印「楽浪太守章」の封泥(封印の跡)までもが出土しており、考古学的に明らかにされているからである。ただし、南北朝鮮の漢四郡否認論者は、これらの遺跡は後世の捏造だと主張している。

今日、南北朝鮮で楽浪郡が帝国主義の偽造として悪魔化される理由は、これらは植民地時代に日本の歴史学者考古学者によって発見されたからである[47]。その発見によって、漢王朝が平壌付近を統治しており、この中国の郡が朝鮮の文明の発展に大きな影響を与えた事が強調される[48]。北朝鮮が挑戦するまでは、楽浪郡は紀元前108年に古朝鮮を破った後に漢の武帝が確立した郡であったことは「普遍的に認められていた」[49]

北朝鮮の学者は、漢王朝のを扱うにあたり、それらを古朝鮮や高句麗の遺跡として再解釈している[50]。中国の漢に見られる物との否定できない類似性を持つ遺物のために、彼らは、それらが貿易と国際的な接触を通じて導入されたか、または偽造だとし、「決して遺物の朝鮮的特性を否定する根拠として解釈すべきではない」と提唱する[51]。北朝鮮はまた、楽浪は2つあったとし、漢は実は遼東半島遼河の楽浪を治めており、一方、平壌は紀元前3世紀から2世紀まで存在した「独立した朝鮮の国家」楽浪だったと言っている[52][53]。彼らによると、楽浪の伝統的な見方は、中国の中国至上主義者と日本帝国主義者によって拡大された[54]

評価

  • 矢木毅によると、楽浪郡の故地が平壌の対岸に存在したことは、20世紀初頭の考古学上の発掘によって実証されており、平壌に楽浪郡の故地が存在したことは、現在では「常識」になっていると述べている[55]
  • 谷豊信は、楽浪郡は中国の遼寧省方面にあり、平壌周辺の遺跡は郡とは関係のない朝鮮半島固有の人々が残したものとする漢四郡否認論を、「この説には文献的にも考古学的にも疑問がある。」と批判する[56]
  • 外交問題評議会のEdgar V. Connorは、漢民族は平壌付近に漢四郡を構築して、漢江と同じくらいはるか南から朝鮮半島を支配したことは史実だとして、「北朝鮮の歴史家が執拗に例示する、楽浪郡が朝鮮を中心としていたことを否定する異なる歴史学は、北朝鮮と韓国だけでなく、両方によって実践される朝鮮のナショナリズムの投影です。古代の朝鮮の歴史に対する中国の影響力の強調から脱するため、彼らは、おそらく北京近く、半島の北西に置きます。」と評する[57]
  • アニメ監督宮崎駿は、司馬遼太郎との対談で、司馬が「あそこ(韓国)は事実よりも、ちょっと非事実をまぜることが好きなようですね。」「漢の楽浪郡もなかった、玄菟郡もなかったということになっている。」「なくなった。これはも同じ考えですよ。むろん良識ある学者はべつですが。」という発言に対して、「楽浪郡もなくなってるんですか。」と驚いている[58]
  • 森鹿三は、楽浪郡の郡庁所在地は元王都の平壌として、「漢の武帝が朝鮮に置いた楽浪などの四郡は、漢帝国の支配力が弱まるとともにどど勢力範囲も縮小したが、それでも平壌付近の地方はながく確保」しており、313年に、漢の武帝が設置してから420年間中国の東方基地だった楽浪郡が高句麗に駆逐されるまで存在した、と評する[59]
  • 武田幸男は、漢四郡の中心は楽浪郡であり、郡治は平壌市街から大同江をはさんで南岸の楽浪土城洞に比定される朝鮮県に設置され、朝鮮県の名は朝鮮族に由来しており、箕子朝鮮衛氏朝鮮の伝統をふまえた由緒深いものであり、楽浪郡は朝鮮半島の西北部を中心に、朝鮮県を筆頭に18県を擁して紀元4世紀まで存続したとして[60]、「高句麗はそのつどすぐに立ち直り、313年ごろにはかえって楽浪・帯方の両郡を陥し、前漢以来400年ほど続いた中国の朝鮮西北部支配に終止符をうった」と記している[61]
  • 日比野丈夫は、漢の武帝が元封3年に衛氏朝鮮を滅ぼして、満州南部から朝鮮半島北部に漢四郡を設置したとして、「楽浪郡はもとの朝鮮国の都を中心としておかれたもので、中国領土のもっとも東に位置していた。それは中国統治のおよぶ最先端であるとともに、中国文化の前進して行く第一線でもあったのである。武帝のつぎの昭帝始元五年、早くも四郡のうち真番、臨屯の二郡は廃止された。玄菟郡もやがて満州に後退したが、楽浪郡だけはもとの位置を離れず、管下に二五県を擁する大都として続い」ており、このように長期間に亘って存在したのは、漢が国力をあげて維持したからであるが、中国人移住民を除き去ることができないほどこの地方に大量の中国人移住民が集まっていたことが大きく、「楽浪がいまの平壌、臨屯が永興(咸南道)、玄菟がはじめ咸興におかれていたことは明らかだが、真番の位置はなお不明である。」「韓の状態はすでにのべたが、、後漢末の動乱期には、中国人の流入するものがしだいに多くなったようだ。やがて遼東公孫氏が独立政権を立てると、楽浪郡の南部から韓の一部にかけて帯方郡がおかれた。その中心は今日のソウル京城)で、韓も倭もこの郡の管轄を受けるようになったといわれる。」と評する[62]
  • 藤永壯は、漢四郡の一つ・楽浪郡は、紀元前108年から紀元303年に、「漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼし、平壌付近に設置。」と分析する[63]
  • 田中俊明は、設立当初からそこであったかは異論があるが、ほとんどの時期にそこであったことは確実として、「楽浪郡の郡治は、現在の(平壌)市街地中心部からは、大同江をはさんだ南側のいわゆる楽浪土城」とする。さらに、353年平壌駅前の佟利墓の存在から、平壌一帯は、漢人がひきつづき渡来・居住していたという[64]。田中は、北朝鮮の学界では、楽浪郡は当初から朝鮮半島ではなく遼東・遼西に位置していたということが「定説」となっているが、「4世紀以後は別にして、それまでの楽浪郡が、平壌方面にあったことは、漢・代の遺物・遺構の存在からも明らかである(北朝鮮では、それの一部は偽造、一部は楽浪郡とは無関係の楽浪国のものである、と主張している)。」と述べ、この「定説」の問題点として、楽浪郡を否認することにより、楽浪郡の設置によって朝鮮半島における社会・政治の発展を促進した面がある事を評価できなくなり、楽浪郡を駆逐した高句麗や韓族の成長を正当に把握することが出来なくなることを挙げている[65]
  • 伊藤英人は、紀元前108年に、楽浪・真番・臨屯が、紀元前107年に玄菟が設置されたことにより、漢四郡支配が始まり、高句麗が313年、314年に楽浪、帯方を滅亡させるまで朝鮮半島中西部・朝鮮半島西北部は中国の直轄地だったとする[66]
  • 沈仁安北京大学教授)は、「玄菟郡は前108年に漢の武帝によって置かれた朝鮮四郡の一つで、今の遼東以東地域および朝鮮咸鏡道に位置している[67]」「楽浪郡は、紀元前108年漢の武帝が滅した衛氏の朝鮮に設けた四郡の一つで現在の朝鮮平安黄海道地区にあたる。帯方郡は後漢末、遼東の公孫氏が楽浪郡を分け南部に設置したので、郡域は、現在の朝鮮の黄海道一帯にあたる[68]」「楽浪郡は漢の武帝が設けた四郡の一つで、おおよそ朝鮮半島の北部にある[69]」と述べている。
  • 高久健二は、「楽浪郡遼寧説では、平壌には漢の楽浪郡ではなく、古朝鮮系統の勢力である『楽浪国』が存在していたとする。しかし、遼寧地域で楽浪郡関係の考古資料がまったく発見されていないのに対し、平壌一帯には漢文化の影響を受けた墳墓が多数存在する点からみて、楽浪郡遼寧説は成立し難い」と述べている[70]
  • 桜井紀雄産経新聞ソウル特派員)は、「さかのぼって漢の時代には、朝鮮半島に楽浪郡や帯方郡を置いた」と述べている[71]
  • 李成市 は、「漢の武帝は、紀元前一〇八年に朝鮮王・衛右渠を滅ぼすと、朝鮮半島北部に、楽浪郡をはじめとする四郡を設置した[72]」「紀元前一世紀から紀元後三世紀の間に、楽浪郡が平壌を中心とする北部朝鮮に存続したことは、文字を記した遺物からも、文献の記載と考古資料が対応する点からも証明されることである[73]」と記述している。
  • 野口裕之産経新聞編集委員)は、「2000年前の朝鮮半島北部は漢王朝の支配下であったが、漢王朝崩壊で、朝鮮半島北部~中国東北地方にかけ高句麗王朝が興った」と述べている[74]

漢四郡の変遷

脚注

  1. ^
    • 鳥越憲三郎「前漢武帝が元封三年に朝鮮半島の北部を植民地として楽浪・臨屯・玄菟・真番の四郡を設置」(中西進・王勇編 編『人物』大修館書店〈日中文化交流史叢書 第10巻〉、1996年10月。ISBN 4-469-13050-8 )。
    • 渡辺延志朝日新聞記者「楽浪郡は前漢が前108年に設置した植民地(渡辺延志 (2009年3月19日). “紀元前1世紀の楽浪郡木簡発見”. 朝日新聞. http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200903190125.html 2011年6月1日閲覧。 )」「中国の前漢が朝鮮半島に置いた植民地・楽浪郡(渡辺延志 (2010年5月29日). “最古級の論語、北朝鮮から 古代墓から出土の竹簡に記述(1/2ページ)”. 朝日新聞. http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201005280277.html 2011年6月1日閲覧。 )」「漢字が植民地経営のために、朝鮮半島にまで広がっていた(渡辺延志 (2010年5月29日). “最古級の論語、北朝鮮から 古代墓から出土の竹簡に記述(2/2ページ)”. 朝日新聞. http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201005280277_01.html 2011年6月1日閲覧。 )」
    • 長野正孝「武帝は朝鮮半島に楽浪と玄菟、真番と臨屯の漢四郡をつくって、漢人の郡太守と県令を送り、植民地政策を始めた。侵略した漢人達は土着の住民達を奴隷のように使って半島の地下に眠る鉄鉱石を掘り出し、衛氏朝鮮の古い製錬・鍛造施設を使い何ら投資することなく鉄生産を始めた。」『古代史の謎は「鉄」で解ける』PHP研究所2015年
    • 武光誠魏志倭人伝は、朝鮮半島にあったの植民地、帯方郡から邪馬台国にいたる道筋を詳しく記している」武光誠「古代史最大の謎邪馬台国の21世紀的課題」『月刊現代』2008年6月号、87頁
    • 魚塘漢の武帝紀元前一〇八年衛満朝鮮の末王右渠を征服して、衛満朝鮮の故地に植民地というべき漢の四郡を設置した。」『朝鮮の民俗文化と源流』同成社1981年、41頁
    • 全浩天「漢が漢四郡を設置し、植民地支配をはじめるころ、高句麗族は、当代に威名をとどろかした漢帝国にたいする反侵略戦争の過程で真番、玄菟二郡を崩壊させ、国家形成をとげたのであった。これは、まさに凄絶な戦いであったにちがいない。」『古代史にみる朝鮮観』朝鮮青年社1996年
    • 築島裕「この東方は、漢の東方植民地を指すが、楽浪人の楽浪は、漢の東方植民地の最先端地にあたる、朝群の四郡を指したことも、ここではっ きりしてきた」『国語学論集―築島裕博士還暦記念』明治書院1986年、554頁
    • 黄文雄春秋時代から戦国時代初期にかけての封建体制下では、諸子や功臣の封地は国と称されたが、それとは別の県が、帝国以降の郡県制の基礎となった。漢の時代に朝鮮半島北部に設置された四郡など、まさしく漢民族の植民地だった。」『台湾朝鮮満州日本の植民地の真実』扶桑社2003年、385頁
    • 武雄市史』「これらの直轄植民地の四郡には、優れた文化をもった漢民族の官吏や軍隊が派遣され、一般の漢人の移住も行なわれた。」『武雄市史』第1巻、国書刊行会1981年、184頁
    • 水野祐「朝鮮の楽浪郡以下の植民地は、漢帝国の勢力圏の東の果てで、はるか遠隔の地と思われていた所であった。」『日本民族の源流』雄山閣1986年、263頁
    • 義富弘倭人朝鮮半島の漢の植民地楽浪郡に年々往来していたというのである。」『しまぬゆ 1 1609年、奄美・琉球侵略』南方新社2007年、17頁
    • 河合敦「朝鮮半島にあった漢の植民地・楽浪郡や帯方郡を通じて、中国王朝へ朝貢していたことが記載されている。」『早わかり日本史』日本実業出版社2008年
    • 武光誠「武帝はこのあと四か所の郡と呼ばれる植民地を設置して朝鮮半島を支配した。このような動きによって、大量の中国人が朝鮮半島に入ってくることになったのである。箕子朝鮮衛氏朝鮮の都も、武帝の四郡の中で最も有力であった楽浪郡の郡治(郡を治める役所)も、現代のピョンヤンのあたりにあった。」『地形で読み解く世界史の謎』PHP研究所2015年、195頁
    • 田辺広「紀元前一〇八年漢の武帝は北朝鮮を植民地として現在の平壌を中心に楽浪郡を置き後にソウル付近に帯方郡を設けた。」『日本国の夜明け』文芸社2003年、13頁
    • 西本昌弘「楽浪郡は漢武帝時代の紀元前108年に、朝鮮半島に設置された漢の植民地」『古代文化』第41巻、1989年、14頁
    • 羽原又吉「臨屯、真番の植民地四郡をおき、後漢の西暦二〇四年にはさらに帶方郡をおかれた」『日本近代漁業經濟史』第2巻、岩波書店1957年、13頁
    • 影山剛「漢はこの地域に新しく帯方郡を設置して植民地経営を開始した」『漢の武帝』教育社1979年、56頁
    • 杉原荘介「楽浪郡が漢帝国の最東方の漢民族の植民地」『日本の考古学: 弥生時代』河出書房新社1966年、414頁
    • 安田元久「武帝は北朝鮮に楽浪、臨屯、玄菟、真番の四郡を置き、植民地として郡県的支配が行われるようになった。」『資料對照日本史の新研究』洛陽社1959年、22頁
    • 宮崎市定「その中にはかつては中国の植民地であった楽浪、帯方二郡を含み、その都は満州からうつって平壌におかれていた。」『世界の歴史7』河出書房新社1968年、312頁
    • 田村実造「ところが漢の武帝は対匈奴作戦の一環として半島の征服を計画し、紀元前108年(元封3年)に大軍をおくって衛氏朝鮮をほろぼし、ここに楽浪郡以下の四郡をおいて植民地とした。楽浪郡はその後313年に高句麗に併合されるまで420年あまり中国の植民地として存続した。」「彼らの文化程度は低く、紀元前後ごろなお金石併用期の段階にあったが、楽浪郡などの植民地に朝貢しているうちに、中国文化の影響をうけて、文化もしだいにすすんだ。」『世界の歴史9』中央公論社1961年、399頁、400頁
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参考文献

引用文献

"Han Chinese built four commanderies, or local military units, to rule the peninsula as far south as the Han River, with a core area at Lolang (Nangnang in Korean), near present-day P'yongyang. It is illustrative of the relentlessly different historiography practiced in North Korea and South Korea, as well as both countries' dubious projection backward of Korean nationalism, that North Korean historians denied that the Lolang district was centered in Korea and placed it northwest of the peninsula, possibly near Beijing."
  • Connor, Edgar V. (2003). Korea: Current Issues and Historical Background. Nova Science Publishers. p. 112. ISBN 978-1590334430 
"They place it northwest of the peninsula, possibly near Beijing, in order to de- emphasize China's influence on ancient Korean history."
"Immediately after destroying Wiman Chosŏn, the Han empire established administrative units to rule large territories in the northern Korean peninsula and southern Manchuria."
"When material evidence from the Han commandery site excavated during the colonial period began to be reinterpreted by Korean nationalist historians as the first full-fledged "foreign" occupation in Korean history, Lelang's location in the heart of the Korean peninsula became particularly irksome because the finds seemed to verify Japanese colonial theories concerning the dependency of Korean civilization on China."
"At present, the site of Lelang and surrounding ancient Han Chinese remains are situated in the North Korean capital of Pyongyang. Although North Korean scholars have continued to excavate Han dynasty tombs in the postwar period, they have interpreted them as manifestations of the Kochoson or the Koguryo kingdom."
"Lelang Commandery was crucial to understanding the early history of Korea, which lasted from 108 BCE to 313 CE around the P'yongyang area. However, because of its nature as a Han colony and the exceptional attention paid to it by Japanese colonial scholars for making claims of the innate heteronomy of Koreans, post 1945 Korean scholars intentionally avoided the issue of Lelang."
"But when Emperor Wu conquered Choson, all the small barbarian tribes in the northeastern region were incorporated into the established Han commanderies because of the overwhelming military might of Han China."
"Despite recent suggestions by North Korean scholars that Lelang was not a Chinese commandery, the traditional view will be adhered to here. Lelang was one of four commanderies newly instituted by the Han Dynasty in 108 BC in the former region of Chaoxian. Of these four commanderies, only two (Lelang and Xuantu) survived successive reorganizations; and it seems that even these had their headquarters relocated once or twice."
  • Ch'oe, Yŏng-ho (May 1981), “Reinterpreting Traditional History in North Korea”, The Journal of Asian Studies 40 (3): 509, doi:10.2307/2054553 .
"North Korean scholars, however, admit that a small number of items in these tombs resemble those found in the archaeological sites of Han China. These items, they insist, must have been introduced into Korea through trade or other international contacts and "should not by any means be construed as a basis to deny the Korean characteristics of the artifacts" found in the P'yongyang area."
"Chinese forces subsequently conquered the eastern half of the peninsula and made lolang, near modern Pyongyang, the chief base for Chinese rule. Chinese sources recall how China used not only military force but also assassination and divide-and-conquer tactics to subdue Chosŏn and divide the territory into four commanderies."
"For the next four centuries a northwestern part of the Korean peninsula was directly incorporated in to the Chinese Empire.... The Taedong River basin, the area where the modern city of P'yongyang is located, became the center of the Lelang commandery."
"The way of life maintained by the elite at the capital in the P'yongyang area, which is known from the tombs and scattered archaeological remains, evinces a prosperous, refined, and very Chinese culture."
"The Chinese, having conquered Choson, set up four administrative units called commanderies. The Lelang commandery was located along the Ch'ongch'on and Taedong rivers from the coast to the interior highlands. Three other commanderies were organized: Xuantu, Lintun, and Zhenfan. Lintun and originally Xuantu were centered on the east coast of northern Korea. Zhenfan was probably located in the region south of Lelang, although there is some uncertainty about this. After Emperor Wu's death in 87 BCE a retrenchment began under his successor, Emperor Chao (87-74 BCE). In 82 BCE Lintun was merged into Xuantu, and Zhenfan into Lelang. Around 75 BCE Xuantu was relocated most probably in the Tonghua region of Manchuria and parts of old Lintun merged into Lelang. Later a Daifang commandery was created south of Lelang in what was later Hwanghae Province in northern Korea. Lelang was the more populous and prosperous outpost of Chinese civilization."
"Han China resumes its effort to subdue Korea, launching two military expeditions that bring much of the peninsula under Chinese control; it sets up four commanderies in conquered Korea."
"After a period of decline, Old Choson falls to Wiman, an exile from the Yan state in northern China. Wiman proves to be a strong ruler, but his ambitious program of expansion eventually brings him into conflict with the Han dynasty of China. The Han defeats Wiman Choson and establishes a protectorate over northern Korea in 108 b.c. Resistance to Chinese hegemony, however, is strong, and China reduces the territory under its active control to Nang-nang colony with an administrative center near modern Pyongyang."
"Chinese civilization had started to flow into the Korean Peninsula through Nang-nang. This was the only time in Korean history that China could establish its colonies in the central part of Korea, where occupation forces were stationed. The Han Empire not only occupied Korea, but expanded westward to Persia and Afghanistan."
"Lelang commandery, with its seat in modern Pyongyang, was the most important of the four."
"Chinese commanderies at Lelang (modern Pyongyang) functioned as the political and military arm of Chinese dynasties, beginning with Han, as well as the major contact point between the advanced Chinese civilization and the local population."
  • Mark E Byington, Project Director of the Early Korea Project (2009). Early Korea 2: The Samhan Period in Korean History. Korea Institute, Harvard University. p. 172. ISBN 978-0979580031 
"The latter, associated with Han China, are important, as their discovery permits us to infer the existence of relations between the Han commanderies and the Samhan societies."
"These tombs are associated with the Lelang commandery, which was established by the Han dynasty of China, successor to the Qin. Han generals conquered the armies of Wiman's grandson Ugo and established control over the northern part of the Korean peninsula."
"The Wei Ji (compiled 233–97) places the Yemaek in the Korean peninsula at the time of the Han commanderies in the first century BC, giving them a specifically Korean identity at least by that time."
  • Dr. Brian, Fagan (2016). Ancient Civilizations. Routledge. p. 365. ISBN 978-1138181632 
"In 108 B.C. most of the Korean peninsula was divided into four Han commanderies, the most important of which was Lelang."
"Northeastwards Emperor Wu's forces conquered northern Korea in 108 b.c. and established four command headquarters there."
"Nangnang commandery centered around Pyeong'yang was established when Emperor Wu of Han China attacked Gojoseon in 108 BC and was under the rule of Wei from 238. Wei is the country that destroyed the Later Han dynasty."
  • Armstrong, Charles K. (1995), “Centering the Periphery: Manchurian Exile(s) and the North Korean State”, Korean Studies (University of Hawaii Press) 19: 12, doi:10.1353/ks.1995.0017 
"North Korean historiography from the 1970s onward has stressed the unique, even sui generis, nature of Korean civilization going back to Old Chosön, whose capital, Wanggömsöng, is now located in the Liao River basin in Manchuria rather than near Pyongyang. Nangnang, then, was not a Chinese commandery but a Korean kingdom, based in the area of Pyongyang."
"108 BC: Han armies invade Wiman Choson; Chinese commanderies are set up across the north of the peninsula"
"The Chinese commanderies did not extend to the southern half of the peninsula, stretching perhaps as far south as the Han river at the greatest extent, but they did reach the northeast coast."
"He then divided the country into military districts, of which the most important was that of Lolang, or Laklang, with headquarters near the modern Pyongyang. Tomb excavations in this area have produced much evidence of the influence of Han civilization in northern Korea."
"The best known of these commanderies is Lelang, centered on the present city of Pyongyang, now the capital of North Korea."
"Under Emperor Wu-ti, Han China extended her influence into Korea, and in 108 B.C., the peninsula became a part of the Chinese Empire, with four dependent provinces under the Chinese charge."
"In southern Manchuria, and northern and central Korea, the Chinese established four commanderies, which were subdivided into prefectures."
"The Han dynasty created four outposts in Korea to control that portion of its border."
"Chinese forces subsequently conquered the eastern half of the peninsula and made Lolang, near modern Pyongyang, the chief center of Chinese rule."
"In the corridor between the peninsula and northeast China, the Chinese Han dynasty established four “commanderies” that ruled over parts of the peninsula and Manchuria, much as modern imperial powers governed their colonies."
"Soon after, the Wei fell to the Jin and Koguryŏ grew stronger, until in 313 they finally succeeded in occupying Lelang and bringing to an end the 400 years of China's presence in the peninsula, a period sufficient to ensure that for the next 1,500 it would remain firmly within the sphere of its culture."
  • Eckert, Carter J. (1991). Korea Old and New: A History. Ilchokak Publishers. p. 13. ISBN 978-0962771309 
"The territorial extent of the Four Chinese Commanderies seems to have been limited to the area north of the Han River."
  • Eckert, Carter J. (1991). Korea Old and New: A History. Ilchokak Publishers. p. 14. ISBN 978-0962771309 
"As its administrative center, the Chinese built what was inessence a Chinese city where the governor, officials, merchants, and Chinese colonists lived. Their way of life in general can be surmised from the investigation of remains unearthed at T'osong-ni, the site of the Lelang administrative center near modern P'yongyang. The variety of burial objects found in their wooden and brickwork tombs attests to the lavish life syle of these Chinese officials, merchants, and colonial overloads in Lelang's capital. ... The Chinese administration had considerable impact on the life of the native population and ultimatedly the very fabric of Gojoseon society became eroded."

関連項目