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2020年8月17日 (月) 09:45時点における版
国姓 |
姜姓呂氏[1][注 1]あるいは斉氏[注 2][3] →媯姓田氏[注 3][4] |
---|---|
爵位 | 侯[注 4]→紀元前344年に王を自称[5] |
国都 |
営丘[1](臨淄[6]) (現在の山東省淄博市臨淄区) |
分封者 | 武王[1][注 5] |
始祖 |
太公・呂尚[1] 太公・田和[7] |
滅亡原因 | 秦による攻撃(斉の滅亡)[2] |
史書の記載 |
『史記』巻032・斉太公世家 『史記』巻046・田敬仲完世家 |
周朝諸侯国一覧 |
斉国 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
繁体字 | 齊 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
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簡体字 | 齐 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
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斉(せい、拼音:Qí、繁体字:齊國、簡体字:齐国、紀元前1046年[1] - 紀元前221年[2])は周朝の諸侯国に端を発し、西周・春秋時代・戦国時代にわたって中国の東方に存在した国家である。国号は単に「斉」であるが、「田氏代斉」以前の姜氏の斉と、以後の田氏の斉を区別するために前者を「姜斉」、後者を「田斉」と称する[8]。現在の山東省北部を中心に勢威を張り、盛時には山東省の大部分、河北省の東南部、河南省の東北部を支配した。戦国時代には、いわゆる「戦国七雄」の一国として強盛を誇り、秦が他の五国を滅ぼしたのちも命脈を保った[注 8]。斉は、秦によって最後に滅ぼされた国である[2]。
創始者は、周の文王・武王の国師であった軍師の太公望呂尚(姜尚)である[1]。紀元前7世紀前半から中葉にかけての16代君主の桓公のとき、姜斉における最盛期をむかえ、桓公は「春秋五覇」の一人に数えられた[9][8]。前391年、姜斉32代君主の康公のとき、当時大夫として権勢を振るっていた田和が康公を海上の孤島に追放、康公は食邑として城を1つ与えられ、祖先の霊を祀ることだけを許された(「田氏代斉」)。田和は自立して斉の君主となり[7]、前386年、周の安王により諸侯の一人として認められた[10][7][8]。正式に侯となった田和は、国号を姜斉と同じく「斉」とした(「田斉」)。前344年、斉侯だった田因は自ら「斉王」を名乗り(斉の威王)[11]、周王室から独立した[5]。以後、「戦国七雄」の一国として独立を維持したが、前221年、秦の王賁・蒙恬らの斉攻略により滅亡した[2]。
斉の国都は臨淄[6](現在の山東省淄博市臨淄区[6])であり、旧名を営丘と称した[1]。紀元前9世紀の胡公の代に薄姑(臨淄の西北に50里の場所)に遷都したが[12]、短期間に終わり、次代の献公の代に営丘に戻した[13]。臨淄(営丘)は東方の大国の首都として、戦国時代には当代随一の都市として繁栄した。
歴史
姜斉
太公望の受封
斉の歴史は西周の初年まで遡る。武王が牧野の戦いで殷を破り、滅ぼすと[14]、周朝を開き、功臣には領地を与え報いた[1]。先王の文王と武王の代に国師・軍師として周を支えた功臣の呂尚(太公望)は営丘(後の臨淄)に領地を与えられ[15][16]、国名を斉とした[1]。姓が姜姓のため姜姓斉国(姜斉)とも呼ばれる[17]。営丘に赴任後、呂尚は隣接する莱の族長の攻撃を防いだ[17]。呂尚は営丘の住民の習俗に従い、儀礼を簡素にした。営丘が位置する山東は農業に不適な立地だったが、漁業と製塩によって斉は国力を増した[18][19][20][21]
斉の地位は諸侯の中でも崇高なものであった。武王が崩御すると後を継いだ成王が年少であったために叔父の周公旦が執政した[22]。これを快く思わなかった、周公旦の兄弟の管叔鮮・蔡叔度・霍叔処は殷の紂王の子の武庚を擁立し反乱を起こした[21][22]。周公の東征により3年かけて鎮圧された[22]。これにより召公奭を伝者として「東の海、西の黄河、南の穆陵関、北の無棣に至る地域の五侯九伯の諸侯が反乱を起こした時、反乱者を討つ権限を与える」と周から命じられた[21][23]。斉は征伐する権限を得て、営丘に都を築き大国となった[21][24]。斉は隣国の魯と共に、周王朝の最も重要な諸侯国の1つであった。斉は周の軍事作戦で積極的に役割を果たした[25]。
早期の歴史
周の康王の代、康王の所持している宝物を丁公、衛の二代君主の康伯と晋の二代君主晋侯燮と周公旦の子伯禽に与えられた[26]。
丁公から3代後[27]の哀公は紀侯の譖言により周の夷王の命で烹殺にされる[12]。哀公の死後、異母弟の公子静が斉の君主となった(胡公)。前866年、胡公は紀からの防衛のために営丘から薄姑(臨淄から西北に五十里の場所)に遷都した[12]。この暴動に斉の人民は怒った[12]。先代の哀公の同母弟の公子山が胡公を殺し、胡公の子を国外に追放した[13]。首都を薄姑から臨淄に戻し[13]、即位した(献公)[28]。献公の2代後[29][30]、孫の厲公が君主となった[30]。厲公は暴虐で国民は彼を恨んだ[31]。遂には胡公の子を斉に入国させ厲公を殺した[31]。しかし、胡公の子は皆戦死した[31]。そのため斉人は厲公の子の公子赤を擁立し即位させた(文公)[31]。文公は父の厲公の暗殺に関わった七十人を全員殺した[31]
釐公の小伯
春秋時代の初期、斉は主に魯と争った。文公の3代後[32][33]、釐公[注 9]が即位した。釐公は鄭の荘公や隠公と盟を結んだ。両国からの援助を受けて、その後十数年間、僖公は他国と盟を結び宋を平定した[34]。斉は鄭と魯の盟で周朝の王命に従わない殤公の宋・郕を平定した。許を攻め許の荘公は衛に亡命した。そのため弟の桓公を許の君主とした。また宋の華父督の乱を平定した[35]。前706年、斉に北戎が侵攻し、鄭の公子忽が救援し、撃破した[36][37]。前702年、釐公は鄭の荘公の求めに応じ、衛とともに魯に侵攻し、郎で戦った[38]。前699年、宋の要求により宋・衛・燕の三国で鄭を討伐した[39]。僖公の子の襄公の在位時に国力は更に強くなった。前690年、紀が降伏し、滅び東の障害が消えた[40][41]。前686年、斉と魯で郕を攻めて降伏させた[42]。
桓公の即位
紀元前685年、斉の大夫の連称と管至父が襄公を殺し、公孫無知を擁立した[43]。鮑叔牙は斉で大乱が起きることを危惧し、襄公の在位中に公子の小白を莒(現在の山東省莒県)に亡命させた[44]。斉の大夫管仲も公子糾を魯に亡命させた[44]。前685年、斉の大臣の雍廩が[注 10]君主の無知と大夫の連称を殺し、国内に君主が無位となった[45]。公子糾と公子小白は後継を争った。管仲が小白を待ち伏せして暗殺しようとしていた[44]。管仲は弓を射た。矢は小白の腹に当たり、小白はもんどりうって倒れた[44]。小白はそのまま死んだふりをして管仲から逃げる為に馬車を走らせ、次の宿場で部下に棺桶を用意させ、また莒の兵を国へ返させて自らの死を偽装した為、管仲は小白が死んだものと思い込んで喜び、公子糾に小白を殺したと報告した[44]。競争相手が消えた公子糾は魯の兵を後ろにゆっくりと斉に入ろうとした[44]。しかし、小白が密かに急行してすでに斉に入り斉公になっていた[44]。公子糾は待ち構えていた小白に打ちのめされ、魯へ逃げ込んだ。管仲の矢は腹に当たったように見えたが、実は腰帯の留金に当たっていた。小白は臨淄で即位した(桓公)[46][44]。
桓公の即位後、魯を攻撃し乾時(現在の山東省淄博市桓台県)で大戦し、魯軍は敗走した[47]。鮑叔は荘公は書を送った[47]。その中には「家無二主,国無二君。寡君(桓公)已奉宗廟,公子糾欲行争奪,非不二之誼也。寡君以兄弟之親,不忍加戮,願假手于上国(魯国)。管仲・召忽,寡君之仇,諸受而戮于太廟」と記されていた[47]。魯人に害が及ぶのを畏れ、公子糾を殺し、召忽を自殺させ、管仲を廊に入れた[47]。桓公は管仲を殺そうとしたが、鮑叔が「公が斉の君主であるだけでよいならば、この私でも宰相が務まりましょう。しかし、公が天下の覇者になりたいと思われるならば宰相は管仲でなければなりません」と述べた[47]。桓公は意見を採り入れ、管仲を殺すふりをして、斉に帰国させた[47]。桓公と管仲は覇王になる術について会話し、大喜びし、大夫にして政事を行わせた[48][47]。
覇者
桓公は管仲を相国として、改革を推行した。前684年に西の小国の譚を滅ぼし、軍を魯に向けた。
前681年には甄(現在の山東省鄄城県)で宋の桓公・陳の宣公・衛の恵公・鄭の厲公と会盟し、盟主となった[49]。これは桓公が一人目の中原の盟主(覇者)となったことを表す[50]。同年、遂を滅ぼした[51]。
前680年、宋は盟約に背き、桓公は周の天子を名義に、陳や曹などの諸侯国を率いて宋を討伐し、屈服させた。この数諸侯国は1回目の「九合諸侯」と呼ばれる。前679年、宋、陳、衛、鄭と鄄で盟を結んだ。
当時、中原の諸侯国は戎狄の攻撃に悩まされていた。桓公は「尊王攘夷」を旗印に西戎や北狄・徐・楚を討伐し周を安定させた。また、郯・譚・遂・鄣等の35国を滅ぼした[52][53][54]。
前664年、山狄を北伐し、燕を救った[55][56][57]。戦後、燕の国君は感謝し、国境を越えても見送った[55]。管仲は「諸侯の見送りは国境まで」と述べ、燕に領土を割譲するように求めた[55]。桓公は溝を掘るように命じて、そこを、燕との国境とした[55]。この話を聞きつけた諸侯は、桓公の徳を知り、桓公に服属したという[55]。
前656年、鄭の要請により、斉・魯・宋・陳・衛・鄭・許・曹の連合軍が蔡に侵攻した。蔡が敗れると、諸侯はさらに当時力をつけていた楚を攻撃した[58]。そして、楚の成王が屈完を派遣して諸侯と盟を交わさせた[59][60][61][58]。
前651年、桓公は諸侯と葵丘の会盟を執り行い、周王室より文王と武王の祭祀に用いた文武の胙を賜った[8]。ここに桓公は覇者となった[9][8]。春秋五覇の1人に数えられている。これにより姜斉の国力は最大となった。
後継争い
賢臣の管仲や隰朋、鮑叔らは相次いでこの世を去った[62]。桓公は晩年、佞臣の公子開方・易牙・豎刁の「三貴」を重用した[63]。斉の衰退が始まっていた。
桓公は管仲が推していた公子昭を太子とし、宋の襄公を後見人とした。桓公四十三年(前643年)、桓公は重病となった。五公子(公子無詭・公子昭・公子潘・公子元・公子商人)は後継を争った[64]。十月、桓公は病死した[注 11]。五公子が後継を争ったために斉は混乱を迎えた[65]。桓公の死体は67日の間、納棺・埋葬される事もなく[53]、そのため遂には扉からウジが這い出してきたという[66]。易牙・豎刁らは公子無詭を擁立した[67][68](斉侯無詭)。公子昭は宋に亡命した[69]。前642年春、宋の襄公は曹・衛・邾の兵を率いて斉を攻め、公子昭を帰国させた。三月、宋の軍の圧力に屈して高氏や国氏は豎刁・斉侯無詭を殺し、太子昭を迎え入れた。しかし四公子の支持者が宋へ追い返した[70]。同年五月、宋の襄公は再度出兵し四公子の軍を甗(現在の山東省済南市の付近)で打ち破り、太子昭は斉の国都の臨淄で即位した(孝公)[71]。この動乱により、斉の国力は衰落し、桓公の覇業は潰えた。
孝公の死後、その子を公子開方が殺し、公子潘が即位した(昭公)[72]。昭公の死後,その子姜舎(斉君舎)が即位するが僅か五ヶ月で、公子商人に殺され、公子商人が即位する(懿公)[73]。四年後、懿公は懿公に恨みを持つ邴歜と庸職により殺された[74]。懿公は驕慢となって人心を失ったため、斉人はその子を廃した。公子元を衛から迎え入れられ[75]即位した(恵公)。後継争いは収束したが、斉の国力は衰落し、晋と楚が覇を争った。
覇業の崩壊
恵公の死後、斉の国力は衰えた。頃公の在位時(前589年)には鞍の戦いで晋軍に敗れた。霊公の在位時(前555年)、斉は盟を破り魯と衛を討伐した[76][77]。晋は魯・宋・衛・鄭・曹・莒・邾・滕・薛・杞・郳の十二の諸侯国と連合して迎え撃った。霊公は連合軍に大敗した[78]。頃公や霊公の代は強国晋に依存していてかつての強国は幻となっていた。前567年、太公望の代から争っていた莱を滅ぼした[79][80]。領土は山東省の東部まで拡大し、東は海、西は黄河、南は泰山、北は無棣水(現在の河北省塩山県の南)となった。
第二の栄華期
斉は公族の国氏・高氏が輔政し、その後、鮑氏(鮑叔の子孫)・崔氏(丁公の嫡子の崔季子の子孫)・慶氏(斉侯無詭の子の慶克の子孫)・晏氏(晏弱の子孫)・高氏(恵公の子の公子祁の子孫)・欒氏(恵公の子の公子堅の子孫)等の卿や大夫が掌政し、卿や大夫の勢力は日に日にまして、更には斉の国君までを廃するようになった。崔杼は公子光を廃し、荘公を即位させ朝政を掌握した。後に荘公は崔杼の後妻と密通した[81]。崔杼は激怒して、荘公を殺した[81]。荘公の弟の公子杵臼を国君とした(景公)[81]。紀元前546年、左相の慶封(慶克の子)は崔氏を滅ぼし、崔杼は自殺した。紀元前545年、鮑氏と高氏、欒氏らは慶氏を滅ぼし、慶封は呉に亡命した。その後、斉の大夫晏嬰が国政を執った。晏嬰は常に社稷(国家)を第一に考えて上を恐れず諫言を行い、人民に絶大な人気を誇り、君主も彼を憚った[82]。また質素を心がけ、肉が食卓に出ることが稀だった[82]。また狐の毛皮から仕立てた一枚きりの服を、30年も着ていたという[82]。晏嬰の手腕により景公のもとで覇者桓公の時代に次ぐ第二の栄華期を迎え、孔子も斉での仕官を望んだほどである。
田氏の専横
紀元前532年、恵公の子孫の欒氏と高氏は鮑氏と田氏により滅亡し欒施と高彊は魯に亡命した。斉の公族の勢は大幅に減少した。
田氏は陳の公子の田完の子孫であった。陳で内乱が起きると、田完は斉に亡命し、桓公により工正(百工を統率する)に任命された[83][84]。田完の5代後田桓子(陳無宇)は景公から欒氏と高氏の領地財産を与えられるが、晏嬰の勧めでそれらを辞退し、高唐を与えられた。陳無宇は交通の要衝であるこの地を得たことで、経済的に強大化していった。
田氏の子孫の田穰苴(司馬穰苴)は晋、燕の両軍を破り、失地を取り戻した[85]。この功により大司馬に任命された。田氏の勢力が拡大は危惧した、高張と国夏は景公に諫言し、司馬穰苴は免官された[86]。田完の子の田僖子(田乞)高氏と国氏を親交を重ねたが、その一方で他の大夫たちに対しては両氏への反感を煽っていた[87]。紀元前500年、晏嬰がこの世を去った。このため、高氏と国氏の両家が朝政を掌握した。紀元前489年、景公は病が重くなり、国夏と高張は年少の公子荼を太子とする遺命を命じた[88]。田乞は政変を起こし、高氏と国氏の両家を滅ぼした[89]。高張は殺され、国夏は莒に晏圉は魯に亡命した。田乞は晏孺子荼を殺して、鮑牧ら諸大夫の擁立した年長の公子陽生を国君とした(悼公)[90][91]。紀元前485年、鮑息らにより悼公を殺される。公子壬を国君とした(簡公)[92]。田乞の子の田成子は闞止とともに左右の相となった[93]。紀元前481年、田恒は政変を起こし、闞止と簡公を殺し簡公の弟の公子驁を国君とした(平公)[94][95][96]。
この後、田恒は斉の大権を握り、鮑氏や晏氏などの諸族を誅した。田氏は平公・宣公・康公の三代に渡って実権を握った。
田斉
姜斉の滅亡
前391年、姜斉の最後の君主の康公は田和により海島の孤島に追放された。食邑に一城与えられ、祖先を祀ることを許された[97][98]。田和は自立し君主となった。(太公)。前386年、田和は周の安王により諸侯に列された。これにより姜姓の斉から田氏の斉に取って代わられた。田和は正式に侯となり、国号を姜斉時代と同じく斉とした。これを「田斉」という。この出来事は「田氏代斉」(姜斉の滅亡)という。田斉は「戦国七雄」の一つである。前379年、康公が死し、姜斉は絶えた[7][99]。
桂陵・馬陵の戦い
太公の2代後、子の桓公は臨淄に稷下学宮を開き、各国の賢人を招き入れた。これは威王や宣王の代にも続き、東方の学問の中心地となった。子の威王が即位し、鄒忌を相国に任命し政治を改革させた。田忌や孫臏を将軍とし、軍事力も強大化させた。
前353年、当時の最強国の魏は趙の国都の邯鄲を攻めた[100]。趙は斉に救いを求め、邯鄲の落城とともに出兵して、桂陵で魏を大敗させた[101][100]。この大敗により、韓は斉と組み、魏と敵対した[100]。しかし、韓は魏と五度戦って五度負けた。逆に魏に滅ぼされそうになった韓は斉に援軍を求めた[102]。魏と斉は激突した[102]。魏軍総大将の太子申は捕虜となり、龐涓は戦死させるという大勝であった[102][103]。これにより魏は衰退していく[104]。
王を名乗る
前334年、威王は魏の恵王とともに正式に王号を自称した[5][100]。威王の晩年、国相の鄒忌と将軍の田忌が対立した。前322年、田忌は臨淄をも攻めたが落とせず、楚に亡命した[105]。子の宣王即位後に斉に戻った[106]。
東帝
前314年、燕で「子之の乱」が発生した。孟子の献策により[107]、を5都の兵を率いて燕へ侵攻することを匡章に命じた。前301年、斉と韓、魏が楚を攻め垂沙の戦いで大勝した。
前298年から前296年に、斉と韓、魏が合従し秦の函谷関に侵攻し、秦に和を求めた[108][109]。前288年、秦の昭襄王は西帝、湣王は東帝を名乗り[110][2]、共同で趙を攻めた。蘇代は帝号を名乗る不利益を説き、湣王は王号に復称した。同年十二月、呂礼が秦に派遣され昭襄王の帝号を王号に復称した[111]。前286年、宋の内乱に応じて宋を滅ぼし、南は楚、西では三晋(韓、魏、趙)に侵攻した[112]。田斉は全盛期を迎えた。
合従軍の侵攻
宋の滅亡に諸国は危機感を募らせた。秦は趙や楚と和を結んだ[113]。前284年、燕の昭王は楽毅を上将軍に任命し、燕、秦、韓、趙、魏の5国合従軍は済西の戦いで斉軍を大敗させた[113][114]。合従軍は解散したが、燕は追撃を続け国都の臨淄の他[114]、七十余城を落とした[115]。斉の領地は莒と即墨のみとなった[116][115]。国都の臨淄を落とされた湣王は莒に逃亡したが、楚が救援のために派遣した淖歯に殺された[114][117]。王孫賈や莒の人は湣王の仇の淖歯を殺し[118]、湣王の子の法章を襄王を王に立て必死に燕の攻撃に抵抗し、莒を守った[115]。
田単の復国
莒とともに即墨も燕の攻撃に必死に抵抗した[115][119]。即墨の大夫は楽毅の策にかかり戦死したため城内の兵士や民衆は公族の田単を将にした[119]。5年が過ぎ、前279年に燕の昭王がこの世を去り、恵王が燕王となった[115][120]。恵王は楽毅を恨んでいたため、田単は反間の計を使った[115][120]。楽毅は将軍を罷免され、恵王は騎劫を将軍とした[115][120]。命の危険を感じた楽毅は趙に亡命した[115]。田単は攻勢に出て、「火牛の陣」で燕軍を大敗させた[116][121]。遂に斉は70余城を取り戻した[116][121]。田単はこの功により相国に任命された[121][122]。しかし、秦とともに帝号を名乗っていた時代の力は無く、秦の統一に抵抗することはできなかった。
斉の滅亡
前265年、襄王が死に、子の田建が即位した。母親の君王后が輔政した。前249年、君王后がこの世を去り、君王后の族弟の后勝が執政した[123]。后勝は秦から賄賂を受け取り、秦の都合のいいように主張した[123][124]。王建は后勝の主張を聞き入れ五国(韓・趙・魏・燕・楚)の滅亡を傍観し[2]、軍事を強化しなかった[123][124][125]。
五国が滅亡すると、王建は秦が侵攻することを恐れ、将軍や軍隊は西部の辺境に集結した[2]。前221年、秦王政は斉の攻略を王賁に命じた。秦軍は斉軍の主力が集結した西部を避け、元燕の南部から南下し臨淄へ侵攻した[126]。斉軍は秦軍からの突然の北面からの侵攻に、不意をつかれ瓦解した[2][126]。王建は降伏し、斉は滅亡した[2]。王建は魏の旧領の500里の邑へ赴いたが、食糧を絶たれ、餓死した[2]。斉の地に斉郡と琅邪郡を置いた。秦は中華を統一し、統一王朝の秦朝となった[127]。
主な事件
- 長勺の戦い
- 葵丘の会盟 - 斉の桓公が主催した会盟[8]。周から周王室の祖先(文王・武王)の祭祀に用いた文武の胙と赤色の矢を賜った[8]。これは周の天子から桓公の覇者の地位を認められたことを意味する[8]。
- 姜斉の滅亡
- 桂陵の戦い(囲魏救趙) - 斉が趙を救うため、魏を攻撃した戦い[100]。囲魏救趙はこの戦に由来する。
- 馬陵の戦い - 紀元前341年、魏と斉が激突した戦い。斉の圧勝に終わり、天下の覇国たらんとした魏は衰微してゆき[104]、斉は秦と並び大陸を二分する大勢力へと成長してゆく。
- 済西の戦い - 燕の名将の楽毅が総大将となり、秦・趙・韓・魏の五国合従軍が斉に大勝した戦い[114][113]。斉軍の主力が壊滅的被害を受ける。王都の臨淄が落ち[114]、湣王が殺された[114]。斉の領域は莒と即墨の2城のみとなる[115]。
- 田単の復国 - 燕の名将楽毅が斉の即墨を攻めた戦闘[115]。田単らの奮戦により即墨は落ちなかった[115]。田単は反間の計を用い[115][120]、最終的には斉の70余城を取り戻した[116][121]。
経済社会と文化
経済社会
産業と経済
現在の山東省北部を中心に春秋・戦国時代の東の大国であった斉は、魚や塩の産地で経済的にも富裕であった[128][19][20]。また、製鉄業もさかんで絹織物の産地でもあった[129]。桓公によって宰相に取り立てられた管仲は、斉の国力を増大させることに意を用い、内政改革を進めて3万人の常備軍を組織し、富国強兵に成功して「尊王攘夷」を唱えて「春秋の五覇」における第一の覇者となった[128][8]。
春秋戦国時代にあっては品質を保ちやすく、保管・携帯しやすい青銅貨幣が一般化していくが、斉では、趙や燕、中山国と同様、刀銭(刀貨)が用いられた[130]。刀銭は狩猟や漁撈の際に用いられる小刀が原型であるといわれる[131]。この時代の中国では、官吏や兵士に対して以外でも、労働の対価として貨幣によって賃金が支払われる行為が始まっており、『晏子春秋』には、斉の晏嬰が工事によって窮民に賃金を与えたという記録がある[132]。なお、諸子百家と呼ばれる春秋戦国の多様な思想家・学派では貨幣をめぐる論議がさかんになされた[133][134]。貨幣経済の広がりは思想・文化においても大きな影響を与えたのである。
臨淄の繁栄
斉の都の臨淄は7万戸を擁する大都市で、商業が発展し、貴族の宮殿や宗廟が立ち並び、市場も各地の産物でにぎわった[135]。人びとは、 竽・琴・瑟といった楽器の奏でる音曲に親しみ、闘鶏、玉けり、将棋などの娯楽を楽しんだ[135]。街路は馬車が行き交い、人びとがすれちがうとき、肩がたがいにふれあうほどの殷賑ぶりであったと伝わっている[135]。
文化
西周期にあっては、青銅芸術は文化の重要な構成部分のひとつとなっているが、斉の地で製造されたものとしては「豊觥」や「斉侯匜」などの青銅器の名品が知られている。
「斉侯匜」は現在、上海博物館の所蔵品となっており、斉侯が夫人のために作らせた水器だといわれている。
宮廷音楽
春秋時代に中国各地を遊歴した孔子が、斉の国で合奏を聴き、3か月もの間肉を食べることも忘れるほど、その音色に感動したという逸話がある[136]。これは、聖王舜がつくったという伝承をもつ「韶楽」と称せられる楽曲で、歌も歌え、合わせて踊ることもできるというものであった[136]。
稷下の学宮
紀元前4世紀、斉の盛時をもたらした、威王や宣王は、各地から多くの学者を集めた[137]。臨淄の13の城門のうち西門の一つである稷門の近く(稷下)の邸宅の稷下の学宮が与えられた[138][139]。これらの学者には、多額の資金を支給して学問・思想の研究・著述にあたらせた。こうした学者たちは「稷下の学士」「稷下先生」などともよばれ、道教の始祖の荘子[140]、陰陽家の鄒衍、贅壻であった淳于髠、道家である田駢、道家にも法家にも属する慎到、これも道家の接予、もう一人の著名な道家で環淵、性悪説を唱えた儒家の荀子[141]、白馬非馬説で有名な兒説、墨家系統だが道家でもある宋銒、これも墨家系統であるが道家でもある尹文、兵法家で世に名高い孫臏などが著名である。稷下の学士は威王の代には72人、宣王の代には約1000人に達したという[6]人気であった[141]。
このような積極的な人材登用に刺激されたのか、性善説で有名な孟子も斉に仕官しに来た[142]。しかし孟子は、俸給ももらわずただ論争するのみの学士と同等にされたくなく、稷下の学士と同じ対応を拒み、宣王の師としての対応を要求した。
稷下の学士たちは日々論争し、人々はこれを百家争鳴と呼んだ[137]。さまざまな思想や学問が接触し、学者たちの間で討論が行わることで、論理が磨かれ、相互理解を深めることにつながった。こうして形成されたさまざまな学問は、稷下の学とも呼ばれる。このように討論をするので、稷下の学士は弁論術に磨きをかけ、論理を新たにしていった[143]。そのような人物は、戦国時代では弁者や察者と呼ばれていた。斉は紀元前3世紀まで学問の中心地となっていた[144]。
遺跡・遺構
斉の長城
斉の長城は中国の現存する長城で魯との国境に築かれた[145][146][147]。紀元前441年に斉が築き始めて、戦国時代に完成した。魯や初期には晋や越、後には楚の攻撃から防御した[148][147]。現在の山東省済南市から青島市までの莱蕪区、泰安市、肥城市、淄博市、沂源県、臨朐県、安丘市、諸城市、沂水県、莒県、五蓮県に築かれた[148]。全長は600キロメートル[149]。長城のほとんどは現存していて、見ることができる。
臨淄
中国春秋時代の斉の首府とされた都市。周王室により東海地方に封じられた太公望によって築かれる。最初営丘、のちに名をあらため臨淄となった。春秋戦国時代を通して最大の大都市であり、全盛期の紀元前4世紀の戸数は7万戸[150][151]、人口は成人男性だけで少なくとも21万人[152]、合計は35万人に達した[153][154]。
土壌が痩せていて農耕に適さないことから、製鉄、銅の精錬、陶器製造、織物など工業を中心とした街づくりが進められた[150]。桓公の時代には、宰相管仲によって都市整備がなされ、当時屈指の工業都市となった。城は王の住む小城と住民の住む大城が連なり、周囲21km、面積は15平方kmだった。城内には井の字型に大路が走り、排水などの都市機能も完備されていたことが、今に残る都城跡から確認できる。西周から漢までの時代、最も豊かな文化を生み出した[155]。
臨淄古城
臨淄故城は斉の都城の遺跡。大城と小城に分かれていて、小城は大城の西南にある。両城の総面積は15平方メートルで、11の門がある。城壁の幅は約30メートルで堅固な防御機能を有していた[6]。小城は東西1.4キロメートル、南北2.2キロメートルで宮殿と3本の道がある[150]。桓公台の遺跡が現存していて、楕円形で高さは14メートルである。大城は東西3.5キロメートル、南北は4.2キロメートルで、居民区や生産区となっている[6]。7本の道と6つの手工作坊の遺跡が見つかった。また、2つの古代の墓が見つかっていて、その中の北東部に二十個の大中型の墓が見つかった。一つの墓は発掘されている[156]。
歴代君主と主要人物
姜斉の君主
諡号 | 名 | 在位年 | 在位年数 |
---|---|---|---|
太公 | 尚 | ?年 - 紀元前1000年 | 在位?年 |
丁公 | 伋 | 紀元前999年 - ?年 | 在位?年 |
乙公 | 得 | ?年 - ?年 | 在位?年 |
癸公 | 慈母 | ?年 - ?年 | 在位?年 |
哀公 | 不辰 | ?年 - 紀元前863年 | 在位?年 |
胡公 | 静 | 紀元前862年 - 紀元前860年 | 在位3年 |
献公 | 山 | 紀元前859年 - 紀元前851年 | 在位9年 |
武公 | 寿 | 紀元前850年 - 紀元前825年 | 在位26年 |
厲公 | 無忌 | 紀元前824年 - 紀元前816年 | 在位9年 |
文公 | 赤 | 紀元前815年 - 紀元前804年 | 在位12年 |
成公 | 脱 | 紀元前803年 - 紀元前795年 | 在位9年 |
荘公(前荘公) | 購 | 紀元前794年 - 紀元前731年 | 在位64年 |
釐公 | 禄甫 | 紀元前730年 - 紀元前698年 | 在位33年 |
襄公 | 諸児 | 紀元前697年 - 紀元前686年 | 在位12年 |
公孫無知 | 無知 | 紀元前686年 | 在位2月 |
桓公 | 小白 | 紀元前685年 - 紀元前643年 | 在位43年 |
斉侯無詭 | 無詭 | 紀元前643年 | 在位3月 |
孝公 | 昭 | 紀元前642年 - 紀元前633年 | 在位10年 |
昭公 | 潘 | 紀元前632年 - 紀元前613年 | 在位20年 |
斉君舎 | 舎 | 紀元前613年 | 在位5月 |
懿公 | 商人 | 紀元前612年 - 紀元前609年 | 在位4年 |
恵公 | 元 | 紀元前608年 - 紀元前599年 | 在位10年 |
頃公 | 無野 | 紀元前598年 - 紀元前582年 | 在位17年 |
霊公 | 環 | 紀元前581年 - 紀元前554年 | 在位28年 |
荘公(後荘公) | 光 | 紀元前553年 - 紀元前548年 | 在位6年 |
景公 | 杵臼 | 紀元前547年 - 紀元前490年 | 在位58年 |
晏孺子荼 | 荼 | 紀元前489年 | 在位10月 |
悼公 | 陽生 | 紀元前488年 - 紀元前485年 | 在位4年 |
簡公 | 壬 | 紀元前484年 - 紀元前481年 | 在位4年 |
平公 | 驁 | 紀元前480年 - 紀元前456年 | 在位25年 |
宣公 | 積 | 紀元前455年 - 紀元前405年 | 在位51年 |
康公 | 貸 | 紀元前404年 - 紀元前379年 | 在位26年 |
田斉の君主
諡号 | 姓名 | 在位 | 在位年数 |
---|---|---|---|
太公 | 和 | 紀元前404年 - 紀元前384年 | 在位21年 |
(田剡) | 剡 | 紀元前383年 - 紀元前375年 | 在位9年 |
桓公 | 午 | 紀元前374年 - 紀元前357年 | 在位18年 |
威王 | 因斉 | 紀元前356年 - 紀元前320年 | 在位37年 |
宣王 | 辟彊 | 紀元前319年 - 紀元前301年 | 在位19年 |
湣王 | 地 | 紀元前300年 - 紀元前284年 | 在位17年 |
襄王 | 法章 | 紀元前283年 - 紀元前265年 | 在位19年 |
(田建) | 建 | 紀元前264年 - 紀元前221年 | 在位44年 |
- 系図
(1) 太公 田和 ?-前404年-前386年-前384年 | |||||||||||||||||||||||||||||
(2) 田剡 ?-前383年-前375年 | (3) 桓公 田午 前400年-前374年-前357年 | ||||||||||||||||||||||||||||
孺子喜 ?-前375年 | (4) 威王 田因斉 前378年-前356年-前320年 | ||||||||||||||||||||||||||||
(5) 宣王 田辟彊 前350年-前319年-前301年 | 田郊師 | 靖郭君 田嬰 | |||||||||||||||||||||||||||
(6) 湣王 田遂 前323年-前300年-前284年 | 孟嘗君 田文 ?-前279年 | ||||||||||||||||||||||||||||
(7) 襄王 田法章 ?-前283年-前265年 | |||||||||||||||||||||||||||||
(8) 田建 前280年-前264年-前221年 | |||||||||||||||||||||||||||||
秦末漢初における斉王
- 田儋(紀元前209年 - 紀元前208年)
- 田仮(紀元前208年)
- 田巿(紀元前208年 - 紀元前206年)
- 田都(紀元前206年)
- 田栄(紀元前206年 - 紀元前205年)
- 田仮(復位、紀元前205年)
- 田広(紀元前205年 - 紀元前203年)
- 田横(紀元前203年 - 紀元前202年)
姜斉における主要人物
女公子
- 宣姜 - 中国春秋時代の衛の宣公の夫人。
- 文姜 - 釐公の娘。魯の桓公の夫人で魯の荘公の母。兄の襄公と私通していた[157][158]。
- 哀姜 - 魯の荘公の夫人[159]。
- 斉姜 - 桓公の娘。献公の夫人で晋の太子申生、穆公の夫人穆姫の生母。康公の祖母[160]。
后妃
公族
卿・大夫
- 管仲 - 斉の政治家。桓公に仕え、覇者に押し上げた[161]。
- 鮑叔 - 桓公に管仲を推薦した[161]。人々は桓公を覇者に押し上げた管仲よりも、管仲の力量を見抜き信頼し続けた鮑叔を称えた[162]。
- 公子開方 - 「三貴」の1人で、桓公が晩年重用した[163]。後の衛文公。
- 崔杼 - 恵公・霊公・荘公・景公の時代にわたって専権を揮い、荘公を私的な恨みから殺した[81]。
- 晏弱 - 頃公の時代、晋が主催した断道の会にて拘留されたが、後に帰還した[164]。斉の霊公に東方の莱の攻略を命じられ、紀元前567年にこれを果たした[79][80]。
- 晏嬰 - 霊公、荘公光、景公の3代に仕え、上を憚ることなく諫言を行った[82]。名宰相として評価が高い。
- 陳完 - 陳の亡命公子[83][84]。桓公は陳完の人物に着目し、卿の座を与えようとしたが、陳完は亡命者としての立場からこれを固辞する。桓公はその恭謙さに感心し、陳完を百工(職人)を統率する工正の官に任命する[83]。
- 陳無宇 - 霊公、荘公光、景公の3代に仕える。
- 田恒 - 斉の大夫で、田氏の宗主。斉の悼公が殺害され、簡公が立てられると、田恒は闞止とともに左右の相となった。簡公を殺害させ[165]、簡公の弟の姜驁(平公)を立てて斉公として即位させた。田恒は斉の相となった。
- 田襄子 - 田恒が死去すると、斉の宰相となり、斉の宣公に仕えた。田盤はその兄弟や一族をことごとく斉の都邑大夫とした。趙・魏・韓と使者を通交させ、斉の外交関係を安定させた[166]。
田斉における主要人物
将軍
- 田単 - 斉の武将。燕によって滅亡寸前に追い詰められた斉を優れた知略によって救った[116]。
- 太史敫
- 匡章 - 威王・宣王・湣王の三王に仕えた名将。燕を北伐、楚を南征し、西では函谷関を攻めた。
- 田忌 - 桂陵の戦い・馬陵の戦いで斉の総大将を務め[101][103]、斉の覇業を支えた。
- 孫臏 - 斉の軍人・思想家。兵家の代表的人物の一人。孫武の子孫であるとされ、孫武と同じく孫子と呼ばれる。『孫臏兵法』は孫臏の手によると推定されている[167]。この他にも『孫臏拳』も彼が創始したと伝えられている[168]。
文臣
丞相
公子
- 田嬰 - 威王の末子[注 12]。子は孟嘗君(田文)ら。威王・宣王に相国として仕え、斉の興隆期を支え、薛(現在の山東省棗荘市滕州市)に封じられた。
- 田文 - 号は「孟嘗君」。戦国四君の一人[169]。「つまらない才能」あるいは「つまらない特技でも、何かの役に立つ」を意味する
鶏鳴狗盗 ()の故事の由来でもある[注 13][169]。
陰陽家
脚注
注釈
- ^ 斉の太公呂尚は姜姓呂氏。先秦時代“姓”と“氏”は別のものだった。男子が氏を称した。姜姓には高氏、慶氏、斉氏、申氏、呂氏等がある。戦国時代には姓と氏が混同した。
- ^ 国号を氏とした。
- ^ 陳の公子完が斉に亡命し、桓公により工正に任じられ、大夫となった。「陳」と「田」の古音は近く、田完ともいうため田氏である。田氏と陳氏は異なる姓氏ではある。
- ^ 実際の爵位は侯であるが、桓公のように歴代君主の諡号は公となっている。
- ^ 田斉の分封者は安王。
- ^ 亡命国家・代の滅亡は紀元前222年。
- ^ 紀元前226年には首都荊が落ち、壊滅状態となる。
- ^ 韓が紀元前230年、趙が紀元前228年[注 6]、魏が紀元前225年、楚が紀元前223年、燕が紀元前222年[注 7]に滅んだ。
- ^ 釐公は『史記』の表記で、『春秋左氏伝』では僖公と表記する。
- ^ 《春秋》では斉人が、《春秋左氏伝》では斉の大夫の雍廩が、殺したとされている。
- ^ 三貴によって病室に閉じ込められ、食料すら与えられず餓死したといわれる。
- ^ 『史記索隠』が引く『竹書紀年』では、桓公(威王の父)の末子と記されている。宮城谷昌光の『孟嘗君』(講談社)も『竹書紀年』魏紀を参照にしている。
- ^ ただし、後代の北宋の宰相の王安石は、その著書『読孟嘗君伝』で「鶏鳴狗吠の其の門に出ずるは、之れ士の至らざる所以なり」と、鶏鳴狗盗の輩がその門下に集まったことが逆に斉に真の人材が集まらなかった原因をなしたと批判している。
出典
- ^ a b c d e f g h i j 《史記・卷四・周本紀第四》:於是封功臣謀士,而師尚父為首封。封尚父於營丘,曰齊。封弟周公旦於曲阜,曰魯。封召公奭於燕。封弟叔鮮于管,弟叔度於蔡。餘各以次受封。
- ^ a b c d e f g h i j k 島崎晋 2019, p. 102.
- ^ 《春秋・荘公九年》:夏、公伐斉納子糾。斉小白入于斉。
- ^ 《史記・卷四十六・田敬仲完世家第十六》:完卒,諡為敬仲。仲生稚孟夷。敬仲之如齊,以陳字為田氏。
- ^ a b c 佐藤信弥 2016, p. 205.
- ^ a b c d e f 島崎晋 2019, p. 42.
- ^ a b c d 《史記・卷四十六・田敬仲完世家第十六》:三年,太公與魏文侯會濁澤,求為諸侯。魏文侯乃使使言周天子及諸侯,請立齊相田和為諸侯。周天子許之。康公之十九年,田和立為齊侯,列於周室,紀元年。
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- ^ Burton Watson 2003 p.1. Xunzi: Basic Writings. https://books.google.com/books?id=0SE2AAAAQBAJ&pg=PA1
- ^ 島崎晋 2019, p. 66.
- ^ a b c d 《史記・卷三十二・斉太公世家第二》:哀公時,紀侯譖之周,周烹哀公而立其弟静,是為胡公。胡公徙都薄姑,而當周夷王之時。
- ^ a b c 《史記・卷三十二・斉太公世家第二》:獻公元年,盡逐胡公子,因徙薄姑都,治臨淄。
- ^ 《史記・卷四・周本紀第四》:二月甲子昧爽,武王朝至于商郊牧野,乃誓。武王左杖黄鉞,右秉白旄,以麾。曰:「遠矣西土之人!」武王曰:「嗟!我有國冢君,司徒、司馬、司空,亞旅、師氏,千夫長、百夫長,及庸、蜀、羌、髳、微、纑、彭、濮人,稱爾戈,比爾干,立爾矛,予其誓。」王曰:「古人有言『牝雞無晨。牝雞之晨,惟家之索』。今殷王紂維婦人言是用,自棄其先祖肆祀不答,昏棄其家國,遺其王父母弟不用,乃維四方之多罪逋逃是崇是長,是信是使,俾暴虐于百姓,以姦軌于商國。今予發維共行天之罰。今日之事,不過六歩七歩,乃止齊焉,夫子勉哉!不過於四伐五伐六伐七伐,乃止齊焉,勉哉夫子!尚桓桓,如虎如羆,如豺如離,于商郊,不御克奔,以役西土,勉哉夫子!爾所不勉,其于爾身有戮。」誓已,諸侯兵會者車四千乘,陳師牧野。
帝紂聞武王來,亦發兵七十萬人距武王。武王使師尚父與百夫致師,以大卒馳帝紂師。紂師雖眾,皆無戰之心,心欲武王亟入。紂師皆倒兵以戰,以開武王。武王馳之,紂兵皆崩畔紂。紂走,反入登于鹿臺之上,蒙衣其殊玉,自燔于火而死。武王持大白旗以麾諸侯,諸侯畢拜武王,武王乃揖諸侯,諸侯畢從。武王至商國,商國百姓咸待於郊。於是武王使群臣告語商百姓曰:「上天降休!」商人皆再拜稽首,武王亦答拜。遂入,至紂死所。武王自射之,三發而後下車,以輕劍撃之,以黄鉞斬紂頭,懸大白之旗。已而至紂之嬖妾二女,二女皆經自殺。武王又射三發,撃以劍,斬以玄鉞,懸其頭小白之旗。武王已乃出復軍。 - ^ Eberhard 1966, p. 63.
- ^ Edward L. Shaughnessy 1999, p. 312.
- ^ a b 《史記・卷四・周本紀第四》:於是武王已平商而王天下,封師尚父於齊營丘。東就國,道宿行遲。逆旅之人曰:「吾聞時難得而易失。客寢甚安,殆非就國者也。」太公聞之,夜衣而行,犁明至國。萊侯來伐,與之爭營丘。營丘邊萊。萊人,夷也,會紂之亂而周初定,未能集遠方,是以與太公爭國。
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- ^ a b Cho-yun Hsu 1999, p. 554.
- ^ a b Edward L. Shaughnessy 1999, p. 313.
- ^ a b c d 《史記・卷三十二・斉太公世家第二》:太公至國,脩政,因其俗,簡其禮,通商工之業,便魚鹽之利,而人民多歸齊,齊為大國。及周成王少時,管蔡作亂,淮夷畔周,乃使召康公命太公曰:「東至海,西至河,南至穆陵,北至無棣,五侯九伯,實得征之。」齊由此得征伐,為大國。都營丘。
- ^ a b c 《史記・卷四・周本紀第四》成王少,周初定天下,周公恐諸侯畔周,公乃攝行政當國。管叔、蔡叔群弟疑周公,與武庚作亂,畔周。周公奉成王命,伐誅武庚、管叔,放蔡叔。以微子開代殷後,國於宋。頗收殷餘民,以封武王少弟封為衛康叔。晉唐叔得嘉穀,獻之成王,成王以歸周公于兵所。周公受禾東土,魯天子之命。初,管、蔡畔周,周公討之,三年而畢定,故初作大誥,次作微子之命,次歸禾,次嘉禾,次康誥、酒誥、梓材,其事在周公之篇。周公行政七年,成王長,周公反政成王,北面就群臣之位。
- ^ 《史記・卷四・周本紀第四》成王在豐,使召公復營洛邑,如武王之意。
- ^ 佐藤信弥 2016, p. 156-157.
- ^ Cho-yun Hsu 1999, p. 553.
- ^ 《春秋左氏傳 昭公十二年》:與之語曰:“昔我先王熊繹,與呂級、王孫牟、燮父、禽父,並事康王,四國皆有分,我獨無有。今吾使人於週,求鼎以為分,王其與我乎?”
- ^ 《史記・卷三十二・斉太公世家第二》:蓋太公之卒百有餘年,子丁公呂伋立。丁公卒,子乙公得立。乙公卒,子癸公慈母立。癸公卒,子哀公不辰立。
- ^ 《史記・卷三十二・斉太公世家第二》:哀公之同母少弟山怨胡公,乃與其党率營丘人襲攻殺胡公而自立,是為獻公。
- ^ 《史記・卷三十二・斉太公世家第二》:九年,獻公卒,子武公壽立。
- ^ a b 《史記・卷三十二・斉太公世家第二》:二十六年,武公卒,子厲公無忌立。
- ^ a b c d e 《史記・卷三十二・斉太公世家第二》:厲公暴虐,故胡公子復入齊,齊人欲立之,乃與攻殺厲公。胡公子亦戰死。齊人乃立厲公子赤為君,是為文公,而誅殺厲公者七十人。
- ^ 《史記・卷三十二・斉太公世家第二》:文公十二年卒,子成公脫立。成公九年卒,子莊公購立。
- ^ 《史記・卷三十二・斉太公世家第二》:六十四年,莊公卒,子釐公祿甫立。
- ^ 《春秋左氏傳 隠公篇》:齊人卒平宋、衛於鄭。秋,會於温,盟於瓦屋,以釋東門之役,禮也。八月丙戌,鄭伯以齊人朝王,禮也。公及莒人盟於浮來,以成紀好也。冬,齊侯使來告成三國。公使眾仲對曰:「君釋三國之圖,以鳩其民,君之惠也。寡君聞命矣,敢不承受君之明德。」
- ^ 《春秋左氏傳 桓公篇》:二年春,宋督攻孔氏,殺孔父而取其妻。公怒,督懼,遂弑殤公。君子以督為有無君之心,而後動於惡,故先書弑其君。會于稷,以成宋亂,為賂故,立華氏也。宋殤公立,十年十一戰,民不堪命。孔父嘉為司馬,督為大宰,故因民之不堪命,先宣言曰:「司馬則然。」已殺孔父而弑殤公,召莊公于鄭而立之,以親鄭。以郜大鼎賂公,齊、陳、鄭皆有賂,故遂相宋公。
- ^ 《史記・卷三十二・斉太公世家第二》:釐公二十五年,北戎伐齊。鄭使太子忽來救齊,齊欲妻之。忽曰:「鄭小齊大,非我敵。」遂辭之。
- ^ 《春秋左氏傳 桓公篇》:夏,會于成。紀來諮謀齊難也。北戎伐齊,齊使乞師于鄭,鄭大子忽帥師救齊。六月,大敗戎師,獲其二帥,大良,少良。甲首三百,以獻於齊。
- ^ 《春秋左氏傳 桓公篇》:初,北戎病齊,諸侯救之。鄭公子忽有功焉。齊人餼諸侯,使魯次之。魯以周班後鄭。鄭人怒,請師于齊。齊人以衛師助之。故不稱侵伐。先書齊、衛,王爵也。
- ^ 《春秋左氏傳 桓公篇》:十有三年,春二月,公會紀侯、鄭伯。己巳,及齊侯、宋公、衛侯、燕人戰。齊師、宋師、衛師、燕師敗績。
- ^ 《史記・卷三十二・斉太公世家第二》:襄公八年,伐紀,紀遷去其邑。
- ^ 《春秋左氏傳 莊公篇》:秋,紀季以酅入於齊,紀於是乎始判。
- ^ 《春秋左氏傳 莊公篇》:夏,師及齊師圍郕。郕降於齊師。
- ^ 《史記・卷三十二・斉太公世家第二》:十二年,初,襄公使連稱、管至父戍葵丘,瓜時而往,及瓜而代。往戍一歲,卒瓜時而公弗為發代。或為請代,公弗許。故此二人怒,因公孫無知謀作亂。連稱有從妹在公宮,無寵,使之閒襄公,曰「事成以女為無知夫人」。冬十二月,襄公游姑棼,遂獵沛丘。見彘,從者曰「彭生」。公怒,射之,彘人立而啼。公懼,墜車傷足,失屨。反而鞭主屨者茀三百。茀出宮。而無知、連稱、管至父等聞公傷,乃遂率其眾襲宮。逢主屨茀,茀曰:「且無入驚宮,驚宮未易入也。」無知弗信,茀示之創,乃信之。待宮外,令茀先入。茀先入,即匿襄公戸間。良久,無知等恐,遂入宮。茀反與宮中及公之幸臣攻無知等,不勝,皆死。無知入宮,求公不得。或見人足於戸間,發視,乃襄公,遂弑之,而無知自立為齊君。
- ^ a b c d e f g h 《史記・卷三十二・斉太公世家第二》:初,襄公之醉殺魯桓公,通其夫人,殺誅數不當,淫於婦人,數欺大臣,群弟恐禍及,故次弟糾奔魯。其母魯女也。管仲、召忽傅之。次弟小白奔莒,鮑叔傅之。小白母,衛女也,有寵於釐公。小白自少好善大夫高傒。及雍林人殺無知,議立君,高、國先陰召小白於莒。魯聞無知死,亦發兵送公子糾,而使管仲別將兵遮莒道,射中小白帶鉤。小白詳死,管仲使人馳報魯。魯送糾者行益遲,六日至齊,則小白已入,高傒立之,是為桓公。
- ^ 《史記・卷三十二・斉太公世家第二》:桓公元年春,齊君無知游於雍林。雍林人嘗有怨無知,及其往游,雍林人襲殺無知,告齊大夫曰:「無知弑襄公自立,臣謹行誅。唯大夫更立公子之當立者,唯命是聽。」
- ^ 《春秋左氏傳 莊公篇》:九年春,齊人殺無知。公及齊大夫盟於既。夏,公伐齊納子糾。齊小白入於齊。
- ^ a b c d e f g 《史記・卷三十二・斉太公世家第二》:桓公之中鉤,詳死以誤管仲,已而載温車中馳行,亦有高、國内應,故得先入立,發兵距魯。秋,與魯戰于乾時,魯兵敗走,齊兵掩絶魯歸道。齊遺魯書曰:「子糾兄弟,弗忍誅,請魯自殺之。召忽、管仲讎也,請得而甘心醢之。不然,將圍魯。」魯人患之,遂殺子糾于笙瀆。召忽自殺,管仲請囚。桓公之立,發兵攻魯,心欲殺管仲。鮑叔牙曰:「臣幸得從君,君竟以立。君之尊,臣無以增君。君將治齊,即高傒與叔牙足也。君且欲霸王,非管夷吾不可。夷吾所居國國重,不可失也。」於是桓公從之。乃詳為召管仲欲甘心,實欲用之。管仲知之,故請往。鮑叔牙迎受管仲,及堂阜而脱桎梏,齋祓而見桓公。桓公厚禮以為大夫,任政。
- ^ 《春秋左氏傳 莊公篇》:秋,師及齊師戰於乾時,我師敗績,公喪戎路,傳乘而歸。秦子、梁子以公旗辟於下道,是以皆止。鮑叔帥師來言曰:「子糾,親也,請君討之。管、召、仇也,請受而甘心焉。」乃殺子糾於生竇,召忽死之。管仲請囚,鮑叔受之,乃堂阜而税之。歸而以告曰:「管夷吾治於高傒,使相可也。」公從之。
- ^ 《史記・卷三十二・斉太公世家第二》:七年,諸侯會桓公於甄,而桓公於是始霸焉。
- ^ 佐藤信弥 2016, p. 155.
- ^ 『春秋左氏伝 荘公十三年』:「夏、斉人滅遂而戍之」
- ^ 寺田隆信 1997, p. 30.
- ^ a b Cho-yun Hsu 1999, p. 568.
- ^ 《史記・卷三十二・斉太公世家第二》:二年,伐滅郯,郯子奔莒。初,桓公亡時,過郯,郯無禮,故伐之。
- ^ a b c d e 《史記・卷三十二・斉太公世家第二》:二十三年,山戎伐燕,燕告急於齊。齊桓公救燕,遂伐山戎,至于孤竹而還。燕莊公遂送桓公入齊境。桓公曰:「非天子,諸侯相送不出境,吾不可以無禮於燕。」於是分溝割燕君所至與燕,命燕君復修召公之政,納貢于周,如成康之時。諸侯聞之,皆從齊。
- ^ 《史記・卷三十四・燕召公世家第四》:二十七年,山戎來侵我,齊桓公救燕,遂北伐山戎而還。燕君送齊桓公出境,桓公因割燕所至地予燕,使燕共貢天子,如成周時職;使燕復修召公之法。
- ^ Cho-yun Hsu 1999, p. 555.
- ^ a b 《史記・卷三十二・斉太公世家第二》:三十年春,齊桓公率諸侯伐蔡,蔡潰。遂伐楚。楚成王興師問曰:「何故涉吾地?」管仲對曰:「昔召康公命我先君太公曰:『五侯九伯,若實征之,以夾輔周室。』賜我先君履,東至海,西至河,南至穆陵,北至無棣。楚貢包茅不入,王祭不具,是以來責。昭王南征不復,是以來問。」楚王曰:「貢之不入,有之,寡人罪也,敢不共乎!昭王之出不復,君其問之水濱。」齊師進次于陘。夏,楚王使屈完將兵捍齊,齊師退次召陵。桓公矜屈完以其眾。屈完曰:「君以道則可;若不,則楚方城以為城,江、漢以為溝,君安能進乎?」乃與屈完盟而去。過陳,陳袁濤塗詐齊,令出東方,覺。秋,齊伐陳。
- ^ 佐藤信弥 2016, p. 157.
- ^ Cho-yun Hsu 1999, p. 556.
- ^ 《史記・卷四十・楚世家第十》:十六年,齊桓公以兵侵楚,至陘山。楚成王使將軍屈完以兵御之,與桓公盟。桓公數以周之賦不入王室,楚許之,乃去。
- ^ 《史記・卷三十二・斉太公世家第二》:桓公四十一年,秦穆公虜晉惠公,復歸之。是歲,管仲、隰朋皆卒。管仲病,桓公問曰:「群臣誰可相者?」管仲曰:「知臣莫如君。」公曰:「易牙如何?」對曰:「殺子以適君,非人情,不可。」公曰:「開方如何?」對曰:「倍親以適君,非人情,難近。」公曰:「豎刀如何?」對曰:「自宮以適君,非人情,難親。」管仲死,而桓公不用管仲言,卒近用三子,三子專權。
- ^ 《韓非子・難一》:管仲有病,桓公往問之,曰:“仲父病,不幸卒于大命,将奚以告寡人?”管仲曰:“微君言,臣故将謁之。願君去豎刁,除易牙,遠衛公子開方。易牙為君主味,惟人肉未嘗,易牙烝其子首而進之。夫人情莫不愛其子,今弗愛其子,安能愛君?君妒而好内,豎刁自宮以治内。人情莫不愛其身,身且不愛,安能愛君?開方事君十五年,斉、衛之間不容数日行,棄其母,久宦不歸。其母不愛,安能愛君?臣聞之:‘矜偽不長,蓋虚不久。'願君去此三子者也。”管仲卒死,桓公弗行。及桓公死,蟲出戸不葬。
- ^ Cho-yun Hsu 1999, p. 557.
- ^ 《史記・卷三十二・斉太公世家第二》:四十三年。初,齊桓公之夫人三:曰王姬、徐姬、蔡姬,皆無子。桓公好內,多內寵,如夫人者六人,長衛姬,生無詭;少衛姬,生惠公元;鄭姬,生孝公昭;葛嬴,生昭公潘;密姬,生懿公商人;宋華子,生公子雍。桓公與管仲屬孝公於宋襄公,以為太子。雍巫有寵於衛共姬,因宦者豎刀以厚獻於桓公,亦有寵,桓公許之立無詭。管仲卒,五公子皆求立。冬十月乙亥,齊桓公卒。易牙入,與豎刀因內寵殺群吏,而立公子無詭為君。太子昭奔宋。
- ^ 《説苑 尊賢卷八》:或曰:「將謂桓公仁義乎?殺兄而立,非仁義也;將謂桓公恭儉乎?與婦人同輿,馳於邑中,非恭儉也;將謂桓公清潔乎?閨門之内,無可嫁者,非清潔也。此三者亡國失君之行也,然而桓公兼有之,以得管仲隰朋,九合諸侯,一匡天下,畢朝周室,為五覇長,以其得賢佐也;失管仲隰朋,任豎刁易牙,身死不葬,蟲流出戸。一人之身,榮辱倶施者,何者?其所任異也。」由此觀之,則任佐急矣。
- ^ 《春秋左氏傳 僖公十七年》:冬,十月,乙亥,齊桓公卒,易牙入,與寺人貂因内寵以殺群吏,而立公子無虧,孝公奔宋,十二月,乙亥,赴,辛巳,夜殯。
- ^ 《史記・卷三十二・斉太公世家第二》:冬十月乙亥,齊桓公卒。易牙入,與豎刁因内寵殺群吏,而立公子無詭為君。太子昭奔宋。桓公病,五公子各樹黨爭立。及桓公卒,遂相攻,以故宮中空,莫敢棺。十二月乙亥,無詭立,乃棺赴。辛巳夜,斂殯。
- ^ 《春秋左氏傳 僖公十七年》:齊侯之夫人三,王姬,徐嬴,蔡姬,皆無子,齊侯好内,多内寵,内嬖如夫人者六人,長衛姬生武孟,少衛姬生惠公,鄭姬生孝公,葛嬴生昭公,密姬生懿公,宋華子生公子雍,公與管仲屬孝公於宋襄公,以為太子,雍巫有寵於衛共姬,因寺人貂以薦羞於公,亦有寵,公許之,立武孟,管仲卒,五公子皆求立,冬,十月,乙亥,齊桓公卒,易牙入,與寺人貂因内寵以殺群吏,而立公子無虧,孝公奔宋。
- ^ 《史記・卷三十二・斉太公世家第二》:孝公元年三月,宋襄公率諸侯兵送齊太子昭而伐齊。齊人恐,殺其君無詭。齊人將立太子昭,四公子之徒攻太子,太子走宋,宋遂與齊人四公子戰。
- ^ 《史記・卷三十二・斉太公世家第二》:五月,宋敗齊四公子師而立太子昭,是為齊孝公。宋以桓公與管仲屬之太子,故來征之。
- ^ 《史記・卷三十二・斉太公世家第二》:十年,孝公卒,孝公弟潘因衛公子開方殺孝公子而立潘,是為昭公。昭公,桓公子也,其母曰葛嬴。
- ^ 《史記・卷三十二・斉太公世家第二》:及昭公卒,子舍立,孤弱,即與眾十月即墓上弑齊君舍,而商人自立,是為懿公。懿公,桓公子也,其母曰密姬。
- ^ 《史記・卷三十二・斉太公世家第二》:五月,懿公游於申池,二人浴,戲。職曰:「断足子!」戎曰:「奪妻者!」二人倶病此言,乃怨。謀與公游竹中,二人弑懿公車上,棄竹中而亡去。
- ^ 《史記・卷三十二・斉太公世家第二》:懿公之立,驕,民不附。齊人廢其子而迎公子元於衛,立之,是為惠公。惠公,桓公子也。其母衛女,曰少衛姬,避齊亂,故在衛。
- ^ 《史記・卷三十二・斉太公世家第二》:十年春,齊伐魯、衛。魯、衛大夫如晉請師,皆因郤克。晉使郤克以車八百乘為中軍將,士燮將上軍,欒書將下軍,以救魯、衛,伐齊。六月壬申,與齊侯兵合靡笄下。癸酉,陳於鞍。
- ^ 《春秋左氏傳 成公二年》:孫桓子還於新築,不入,遂如晉乞師。臧宣叔亦如晉乞師,皆主郤獻子,晉侯許之七百乘。郤子曰:此城濮之賦也,有先君之明,與先大夫之肅,故捷。克於先大夫,無能為役,請八百乘,許之,郤克將中軍,士燮將上軍,欒書將下軍,韓厥為司馬,以救魯衛,臧宣叔逆晉師,且道之,季文子帥師會之,及衛地,韓獻子將斬人,郤獻子馳將救之,至,則既斬之矣, 郤子使速以徇,告其僕曰,吾以分謗也,師從齊師于莘,
- ^ 《春秋左氏傳 襄公篇》:冬,十月,會于魯濟,尋溴梁之言,同伐齊,齊侯禦諸平陰,塹防門而守之廣里,夙沙衛曰,不能戰,莫如守險,弗聽,諸侯之士門焉,齊人多死,范宣子告析文子曰,吾知子敢匿情乎,魯人,莒人,皆請以車千乘,自其郷入,既許之矣,若入,君必失國,子盍圖之,子家以告公,公恐,晏嬰聞之曰,君固無勇,而又聞是,弗能久矣,齊侯登巫山以望晉師,晉人使司馬斥山澤之險,雖所不至,必旆而疏陳之,使乘車者,左實右偽,以旆先,輿曳柴而從之,齊侯見之,畏其眾也,乃脱歸,丙寅晦,齊師夜遁。師曠告晉侯曰,鳥烏之聲樂,齊師其遁,邢伯告中行伯曰,有班馬之聲,齊師其遁,叔向告晉侯曰,城上有烏,齊師其遁。十一月,丁卯,朔,入平陰,遂從齊師,夙沙衛連大車以塞隧而殿,殖綽,郭最,曰,子殿國師,齊之辱也,子姑先乎,乃代之殿,衛殺馬於隘以塞道,晉州綽及之,射殖綽中肩,兩矢夾脰。曰,止,將為三軍獲,不止,將取其衷,顧曰,為私誓,州綽曰,有如日,乃弛弓而自後縛之,其右具丙,亦舍兵而縛郭最,皆衿甲而縛,坐于中軍之鼓下,晉人欲逐歸者,魯衛請攻險,己卯,荀偃,士匄以中軍克京茲,乙酉,魏絳,欒盈,以下軍克邿,趙武,韓起,以上軍圍廬,弗克。十二月,戊戌,及秦周伐雍門之萩,范鞅門于雍門,其御追喜,以戈殺犬于門中,孟莊子斬其橁,以為公琴,己亥,焚雍門,及西郭,南郭,劉難,士弱,率諸侯之師,焚申池之竹木,壬寅,焚東郭,北郭,范鞅門于揚門,州綽門于東閭,左驂迫,還于東門中,以枚數闔,齊侯駕,將走郵棠,太子與郭榮扣馬曰,師速 而疾,略也,將退矣,君何懼焉,且社稷之主,不可以輕,輕則失眾,君必待之,將犯之,太子抽劍斷鞅,乃止,甲辰,東侵及濰,南及沂。
- ^ a b 據《新編中国三千年暦日検索表》,魯襄公五年四月没有甲寅,前両天為三月甲寅即格里暦3月15日,魯襄公六年三月乙未即格里暦2月19日,三月丁未即3月3日,十一月没有丙辰,十二月丙辰即11月7日
- ^ a b 《春秋左氏傳・襄公・六年》十一月.齊侯滅萊.萊恃謀也.於鄭子國之來聘也.四月.晏弱城東陽.而遂圍萊.甲寅.堙之.環城.傅於堞.及杞桓公卒之月.乙未.王湫帥師及正輿子.棠人.軍齊師.齊師大敗之.丁未.入萊.萊共公浮柔奔棠.正輿子王湫奔莒.莒人殺之.四月.陳無宇獻萊宗器于襄公.晏弱圍棠.
十一月.丙辰.而滅之.遷萊于郳.高厚.崔杼.定其田. - ^ a b c d 《史記・卷三十二・齊太公世家第二》六年,初,棠公妻好,棠公死,崔杼取之。莊公通之,數如崔氏,以崔杼之冠賜人。待者曰:「不可。」崔杼怒,因其伐晉,欲與晉合謀襲齊而不得閒。莊公嘗笞宦者賈舉,賈舉復侍,為崔杼閒公以報怨。五月,莒子朝齊,齊以甲戌饗之。崔杼稱病不視事。乙亥,公問崔杼病,遂從崔杼妻。崔杼妻入室,與崔杼自閉戶不出,公擁柱而歌。宦者賈舉遮公從官而入,閉門,崔杼之徒持兵從中起。公登臺而請解,不許;請盟,不許;請自殺於廟,不許。皆曰:「君之臣杼疾病,不能聽命。近於公宮。陪臣爭趣有淫者,不知二命。」公踰墻,射中公股,公反墜,遂弑之。晏嬰立崔杼門外,曰:「君為社稷死則死之,為社稷亡則亡之。若為己死己亡,非其私暱,誰敢任之!」門開而入,枕公尸而哭,三踴而出。人謂崔杼:「必殺之。」崔杼曰:「民之望也,捨之得民。」
丁丑,崔杼立莊公異母弟杵臼,是為景公。景公母,魯叔孫宣伯女也。景公立,以崔杼為右相,慶封為左相。二相恐亂起,乃與國人盟曰:「不與崔慶者死!」晏子仰天曰:「嬰所不(獲)唯忠於君利社稷者是從!」不肯盟。慶封欲殺晏子,崔杼曰:「忠臣也,捨之。」齊太史書曰「崔杼弑莊公」,崔杼殺之。其弟復書,崔杼復殺之。少弟復書,崔杼乃捨之。 - ^ a b c d 《史記・卷六十二・管晏列傳第二》事齊靈公、莊公、景公,以節儉力行重於齊。既相齊,食不重肉,妾不衣帛。其在朝,君語及之,即危言;語不及之,即危行。國有道,即順命;無道,即衡命。以此三世顯名於諸侯。
- ^ a b c 《史記・卷三十二・斉太公世家第二》:十四年,陳厲公子完,號敬仲,來奔齊。齊桓公欲以為卿,讓;於是以為工正。田成子常之祖也。
- ^ a b 《史記・卷四十六・田敬仲完世家第十六》:陳完者,陳厲公他之子也。完生,周太史過陳,陳厲公使卜完,卦得觀之否:「是為觀國之光,利用賓于王。此其代陳有國乎?不在此而在異國乎?非此其身也,在其子孫。若在異國,必姜姓。姜姓,四嶽之後。物莫能兩大,陳衰,此其昌乎?」
厲公者,陳文公少子也,其母蔡女。文公卒,厲公兄鮑立,是為桓公。桓公與他異母。及桓公病,蔡人為他殺桓公鮑及太子免而立他,為厲公。厲公既立,娶蔡女。蔡女淫於蔡人,數歸,厲公亦數如蔡。桓公之少子林怨厲公殺其父與兄,乃令蔡人誘厲公而殺之。林自立,是為莊公。故陳完不得立,為陳大夫。厲公之殺,以淫出國,故《春秋》曰「蔡人殺陳他」,罪之也。
莊公卒,立弟杵臼,是為宣公。宣公[二]十一年,殺其太子御寇。御寇與完相愛,恐禍及己,完故奔齊。齊桓公欲使為卿,辭曰:「羈旅之臣幸得免負檐,君之惠也,不敢當高位。」桓公使為工正。齊懿仲欲妻完,卜之,占曰:「是謂鳳皇于蜚,和鳴鏘鏘。有媯之後,將育于姜。五世其昌,并于正卿。八世之後,莫之與京。」卒妻完。完之奔齊,齊桓公立十四年矣。 - ^ 《史記・卷六十四・司馬穰苴列傳第四》:司馬穰苴者,田完之苗裔也。齊景公時,晉伐阿、甄,而燕侵河上,齊師敗績。景公患之。晏嬰乃薦田穰苴曰:「穰苴雖田氏庶孽,然其人文能附眾,武能威敵,願君試之。」景公召穰苴,與語兵事,大說之,以為將軍,將兵捍燕晉之師。穰苴曰:「臣素卑賤,君擢之閭伍之中,加之大夫之上,士卒未附,百姓不信,人微權輕,願得君之寵臣,國之所尊,以監軍,乃可。」於是景公許之,使莊賈往。穰苴既辭,與莊賈約曰:「旦日日中會於軍門。」穰苴先馳至軍,立表下漏待賈。賈素驕貴,以為將己之軍而己為監,不甚急;親戚左右送之,留飲。日中而賈不至。穰苴則仆表決漏,入,行軍勒兵,申明約束。約束既定,夕時,莊賈乃至。穰苴曰:「何後期為?」賈謝曰:「不佞大夫親戚送之,故留。」穰苴曰:「將受命之日則忘其家,臨軍約束則忘其親,援枹鼓之急則忘其身。今敵國深侵,邦内騷動,士卒暴露於境,君寢不安席,食不甘味,百姓之命皆懸於君,何謂相送乎!」召軍正問曰:「軍法期而後至者雲何?」對曰:「當斬。」莊賈懼,使人馳報景公,請救。既往,未及反,於是遂斬莊賈以徇三軍。三軍之士皆振慄。久之,景公遣使者持節赦賈,馳入軍中。穰苴曰:「將在軍,君令有所不受。」問軍正曰:「馳三軍法何?」正曰:「當斬。」使者大懼。穰苴曰:「君之使不可殺之。」乃斬其仆,車之左駙,馬之左驂,以徇三軍。遣使者還報,然後行。士卒次舍井竈飲食問疾醫藥,身自拊循之。悉取將軍之資糧享士卒,身與士卒平分糧食。最比其羸弱者,三日而後勒兵。病者皆求行,爭奮出為之赴戰。晉師聞之,為罷去。燕師聞之,度水而解。於是追撃之,遂取所亡封内故境而引兵歸。未至國,釋兵旅,解約束,誓盟而後入邑。景公與諸大夫郊迎,勞師成禮,然後反歸寢。既見穰苴,尊為大司馬。田氏日以益尊於齊。
- ^ 《史記・卷六十四・司馬穰苴列傳第四》:已而大夫鮑氏、高、國之屬害之,譖於景公。景公退穰苴,苴發疾而死。田乞、田豹之徒由此怨高、國等。
- ^ 《史記・卷六十四・司馬穰苴列傳第四》:已而大夫鮑氏、高、國之屬害之,譖於景公。景公退穰苴,苴發疾而死。田乞、田豹之徒由此怨高、國等。其後及田常殺簡公,盡滅高子、國子之族。
- ^ 《史記・卷三十二・斉太公世家第二》:五十八年夏,景公夫人燕姫適子死。景公寵妾芮姫生子荼,荼少,其母賤,無行,諸大夫恐其為嗣,乃言願擇諸子長賢者為太子。景公老,惡言嗣事,又愛荼母,欲立之,憚發之口,乃謂諸大夫曰:“為楽耳,國何患無君乎?”秋,景公病,命國惠子、高昭子立少子荼為太子,逐群公子,遷之萊。景公卒,太子荼立,是為晏孺 子。冬,未葬,而群公子畏誅,皆出亡。荼諸異母兄公子壽、駒、黔奔衛,公子駔、陽生奔魯。萊人歌之曰:“景公死乎弗與埋,三軍事乎弗與謀,師乎師乎,胡黨之乎?”
- ^ 《史記・卷四十六・田敬仲完世家第十六》:景公太子死,後有寵姬曰芮子,生子荼。景公病,命其相國惠子與高昭子以子荼為太子。景公卒,兩相高、國立荼,是為晏孺子。而田乞不悦,欲立景公他子陽生。陽生素與乞歡。晏孺子之立也,陽生奔魯。田乞偽事高昭子、國惠子者,毎朝代驂乘,言曰:「始諸大夫不欲立孺子。孺子既立,君相之,大夫皆自危,謀作亂。」又詒大夫曰:「高昭子可畏也,及未發先之。」諸大夫從之。田乞、鮑牧與大夫以兵入公室,攻高昭子。昭子聞之,與國惠子救公。公師敗。田乞之眾追國惠子,惠子奔莒,遂返殺高昭子。晏圉奔魯。
- ^ 《史記・卷三十二・斉太公世家第二》:晏孺子元年春,田乞偽事高、国者,毎朝,乞驂乘,言曰:“子得君,大夫皆自危,欲謀作亂。”又謂諸大夫曰:“高昭子可畏,及未發,先之。”大夫從之。六月,田乞、鮑牧乃與大夫以兵入公宮,攻高昭子。昭子聞之,與國惠子救公。公師敗,田乞之徒追之,國惠子奔莒,遂反殺高昭子。晏圉奔魯。八月,齊秉意茲。田乞敗二相,乃使人之魯召公子陽生。陽生至斉,私匿田乞家。十月戊子,田乞請諸大夫曰:“常之母有魚菽之祭,幸來會飲。”會飲,田乞盛陽生橐中,置坐中央,發橐出陽生,曰:“此乃齊君矣!”大夫皆伏謁。將與大夫盟而立之,鮑牧醉,乞誣大夫曰:“吾與鮑牧謀共立陽生。”鮑牧怒曰:“子忘景公之命乎?”諸大夫相視欲悔,陽生前,頓首曰:“可則立之,否則已。”鮑牧恐禍起,乃復曰:“皆景公子也,何為不可!”乃與盟,立陽生,是為悼公。悼公入宮,使人遷晏孺子於駘,殺之幕下,而逐孺子母芮子。芮子故賤而孺子少,故無權,國人輕之。
- ^ 《史記・卷四十六・田敬仲完世家第十六》:田乞使人之魯,迎陽生。陽生至齊,匿田乞家。請諸大夫曰:「常之母有魚菽之祭,幸而來會飲。」會飲田氏。田乞盛陽生橐中,置坐中央。發橐,出陽生,曰:「此乃齊君矣。」大夫皆伏謁。將盟立之,田乞誣曰:「吾與鮑牧謀共立陽生也。」鮑牧怒曰:「大夫忘景公之命乎?」諸大夫欲悔,陽生乃頓首曰:「可則立之,不可則已。」鮑牧恐禍及己,乃復曰:「皆景公之子,何為不可!」遂立陽生於田乞之家,是為悼公。乃使人遷晏孺子於駘,而殺孺子荼。悼公既立,田乞為相,專齊政。
- ^ 《史記・卷三十二・斉太公世家第二》:鮑子與悼公有郤,不善。四年,吳、魯伐齊南方。鮑子弑悼公,赴于吳。吳王夫差哭於軍門外三日,將從海入討齊。齊人敗之,吳師乃去。晉趙鞅伐齊,至賴而去。齊人共立悼公子壬,是為簡公。
- ^ 《史記・卷四十六・田敬仲完世家第十六》:鮑牧與齊悼公有郤,弑悼公。齊人共立其子壬,是為簡公。田常成子與監止倶為左右相,相簡公。田常心害監止,監止幸於簡公,權弗能去。於是田常復修釐子之政,以大斗出貸,以小斗收。齊人歌之曰:「嫗乎采芑,歸乎田成子!」齊大夫朝,御鞅諫簡公曰:「田、監不可并也,君其擇焉。」君弗聽。
- ^ 《史記・卷三十二・斉太公世家第二》:庚辰,田常執簡公于俆州。公曰:「余蚤從御鞅言,不及此。」甲午,田常弑簡公于俆州。田常乃立簡公弟驁,是為平公。
- ^ 《史記・卷四十六・田敬仲完世家第十六》:田常既殺簡公,懼諸侯共誅己,乃盡歸魯、衛侵地,西約晉、韓、魏、趙氏,南通吳、越之使,修功行賞,親於百姓,以故齊復定。
- ^ 《史記・卷六十四・司馬穰苴列傳第四》:其後及田常殺簡公,盡滅高子、國子之族。至常曾孫和,因自立為齊威王,用兵行威,大放穰苴之法,而諸侯朝齊。
- ^ 《史記・卷三十二・斉太公世家第二》:十九年,田常曾孫田和始為諸侯,遷康公海濱。
- ^ 《史記・卷四十六・田敬仲完世家第十六》:宣公卒,子康公貸立。貸立十四年,淫於酒婦人,不聽政。太公乃遷康公於海上,食一城,以奉其先祀。
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- ^ a b c d e 《史記・卷四十六・田敬仲完世家第十六》:二十六年,魏惠王圍邯鄲,趙求救於齊。齊威王召大臣而謀曰:「救趙孰與勿救?」騶忌子曰:「不如勿救。」段干朋曰:「不救則不義,且不利。」威王曰:「何也?」對曰:「夫魏氏并邯鄲,其於齊何利哉?且夫救趙而軍其郊,是趙不伐而魏全也。故不如南攻襄陵以獘魏,邯鄲拔而乘魏之獘。」威王從其計。
其後成侯騶忌與田忌不善,公孫閲謂成侯忌曰:「公何不謀伐魏,田忌必將。戰勝有功,則公之謀中也;戰不勝,非前死則後北,而命在公矣。」於是成侯言威王,使田忌南攻襄陵。十月,邯鄲拔,齊因起兵撃魏,大敗之桂陵。于是齊最彊于諸侯,自稱為王,以令天下。 - ^ a b 『戦国策』巻八 邯鄲之難
- ^ a b c 《史記・卷四十六・田敬仲完世家第十六》:二年,魏伐趙。趙與韓親,共撃魏。趙不利,戰於南梁。宣王召田忌復故位。韓氏請救於齊。宣王召大臣而謀曰:「蚤救孰與晚救?」騶忌子曰:「不如勿救。」田忌曰:「弗救,則韓且折而入於魏,不如蚤救之。」孫子曰:「夫韓、魏之兵未獘而救之,是吾代韓受魏之兵,顧反聽命於韓也。且魏有破國之志,韓見亡,必東面而愬於齊矣。吾因深結韓之親而晚承魏之獘,則可重利而得尊名也。」宣王曰:「善。」乃陰告韓之使者而遣之。韓因恃齊,五戰不勝,而東委國於齊。齊因起兵,使田忌、田嬰將,孫子為(帥)[師],救韓、趙以撃魏,大敗之馬陵,殺其將龐涓,虜魏太子申。其後三晋之王皆因田嬰朝齊王於博望,盟而去。
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- ^ 《史記・卷四十六・田敬仲完世家第十六》:三十五年,公孫閲又謂成侯忌曰:「公何不令人操十金卜於市,曰『我田忌之人也。吾三戰而三勝,聲威天下。欲為大事,亦吉乎不吉乎』?」卜者出,因令人捕為之卜者,驗其辭於王之所。田忌聞之,因率其徒襲攻臨淄,求成侯,不勝而餎。
- ^ 《史記・卷四十六・田敬仲完世家第十六》:二年,魏伐趙。趙與韓親,共撃魏。趙不利,戰於南梁。宣王召田忌復故位。
- ^ 《孟子》公孫丑下,孟軻只言“燕可伐”,未言“斉可伐燕”,所以孟軻本人否認自己勧説斉宣王伐燕。
- ^ 島崎晋 2019, p. 71.
- ^ 島崎晋 2016, p. 81.
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- ^ 《資治通鑑 周紀卷四》:冬,十月,秦王稱西帝,遣使立齊王為東帝,欲約與共伐趙。蘇代自燕來,齊王曰:「秦使魏冉致帝,子以為何如?」對曰:「願王受之而勿稱也。秦稱之,天下安之,王乃稱之,無後也。秦稱之,天下惡之,王因勿稱,以收天下,此大資也。且伐趙孰與伐桀宋利?今王不如釋帝以收天下之望,發兵以伐桀宋,宋舉則楚、趙、梁、衛皆懼矣。是我以名尊秦而令天下憎之,所謂以卑為尊也。」齊王從之,稱帝二日而復歸之。十二月,呂禮自齊入秦,秦王亦去帝復稱王。
- ^ 《資治通鑑 周紀卷四》:齊湣王既滅宋而驕,乃南侵楚,西侵三晋,欲併二周,為天子。
- ^ a b c 《史記・卷八十・樂毅列傳 第二十》:當是時,齊湣王彊,南敗楚相唐眜於重丘,西摧三晋於觀津,遂與三晋撃秦,助趙滅中山,破宋,廣地千餘里。與秦昭王爭重為帝,已而復歸之。諸侯皆欲背秦而服於齊。湣王自矜,百姓弗堪。於是燕昭王問伐齊之事。樂毅對曰:「齊,霸國之餘業也,地大人眾,未易獨攻也。王必欲伐之,莫如與趙及楚、魏。」於是使樂毅約趙惠文王,別使連楚、魏,令趙嚪説秦以伐齊之利。諸侯害齊湣王之驕暴,皆爭合從與燕伐齊。樂毅還報,燕昭王悉起兵,使樂毅為上將軍,趙惠文王以相國印授樂毅。樂毅於是並護趙、楚、韓、魏、燕之兵以伐齊,破之濟西。諸侯兵罷歸,而燕軍樂毅獨追,至于臨淄。齊湣王之敗濟西,亡走,保於莒。樂毅獨留徇齊,齊皆城守。樂毅攻入臨淄,盡取齊寶財物祭器輸之燕。燕昭王大說,親至濟上勞軍,行賞饗士,封樂毅於昌國,號為昌國君。於是燕昭王收齊鹵獲以歸,而使樂毅復以兵平齊城之不下者。
- ^ a b c d e f 《史記・卷四十六・田敬仲完世家第十六》:四十年,燕、秦、楚、三晋合謀,各出鋭師以伐,敗我濟西。王解而卻。燕將樂毅遂入臨淄,盡取齊之寶藏器。湣王出亡,之衛。衛君辟宮捨之,稱臣而共具。湣王不遜,衛人侵之。湣王去,走鄒、魯,有驕色,鄒、魯君弗内,遂走莒。楚使淖齒將兵救齊,因相齊湣王。淖齒遂殺湣王而與燕共分齊之侵地鹵器。
- ^ a b c d e f g h i j k l 《史記・卷八十・樂毅列傳 第二十》:樂毅留徇齊五歳,下齊七十餘城,皆為郡縣以屬燕,唯獨莒、即墨未服。會燕昭王死,子立為燕惠王。惠王自為太子時嘗不快於樂毅,及即位,齊之田單聞之,乃縱反間於燕,曰:「齊城不下者兩城耳。然所以不早拔者,聞樂毅與燕新王有隙,欲連兵且留齊,南面而王齊。齊之所患,唯恐他將之來。」於是燕惠王固已疑樂毅,得齊反間,乃使騎劫代將,而召樂毅。樂毅知燕惠王之不善代之,畏誅,遂西降趙。趙封樂毅於觀津,號曰望諸君。尊寵樂毅以警動於燕、齊。
- ^ a b c d e 《新序・卷三・雜事第三》:樂毅謝罷諸侯之兵,而獨圍莒即墨,時田單為即墨令,患樂毅善用兵,田單不能軸也,欲去之,昭王又賢,不肯聽讒。會昭王死,惠王立,田單使人讒之惠王,惠王使騎劫代樂毅,樂毅之趙不歸。燕騎劫既為將軍,田單大喜,設軸大破燕軍,殺騎劫,盡復收七十餘城。
- ^ 《史記・卷七十九・范雎蔡澤列傳》:崔杼、淖歯管齊,射王股,擢王筋,懸之於廟梁,宿昔而死。
- ^ 《戰國策・卷十三・齊策六》:王孫賈乃入市中,曰:“淖歯亂齊國,殺湣王,欲與我誅者,袒右!”市人從者四百人,與之誅淖歯,刺而殺之。
- ^ a b 《史記 巻八十二 田單列傳》:田單者,齊諸田疏屬也。湣王時,單為臨淄市掾,不見知。及燕使樂毅伐破齊,齊湣王出奔,已而保莒城。燕師長驅平齊,而田單走安平,令其宗人盡斷其車軸末而傅鐵籠。已而燕軍攻安平,城壞,齊人走,爭涂,以折車敗,為燕所虜,唯田單宗人以鐵籠故得脫,東保即墨。燕既盡降齊城,唯獨莒、即墨不下。燕軍聞齊王在莒,并兵攻之。淖齒既殺湣王於莒,因堅守,距燕軍,數年不下。燕引兵東圍即墨,即墨大夫出與戰,敗死。城中相與推田單,曰:「安平之戰,田單宗人以鐵籠得全,習兵。」立以為將軍,以即墨距燕。
- ^ a b c d 《史記 巻八十二 田單列傳》:頃之,燕昭王卒,惠王立,與樂毅有隙。田單聞之,乃縱反閒於燕,宣言曰:「齊王已死,城之不拔者二耳。樂毅畏誅而不敢歸,以伐齊為名,實欲連兵南面而王齊。齊人未附,故且緩攻即墨以待其事。齊人所懼,唯恐他將之來,即墨殘矣。」燕王以為然,使騎劫代樂毅。
- ^ a b c d 《史記 巻八十二 田單列傳》:田單乃收城中得千餘牛,為絳繒衣,畫以五彩龍文,束兵刃於其角,而灌脂束葦於尾,燒其端。鑿城數十穴,夜縱牛,壯士五千人隨其後。牛尾熱,怒而奔燕軍,燕軍夜大驚。牛尾炬火光明炫燿,燕軍視之皆龍文,所觸盡死傷。五千人因銜枚撃之,而城中鼓譟從之,老弱皆撃銅器為聲,聲動天地。燕軍大駭,敗走。齊人遂夷殺其將騎劫。燕軍擾亂奔走,齊人追亡逐北,所過城邑皆畔燕而歸田單,兵日益多,乘勝,燕日敗亡,卒至河上,而齊七十餘城皆復為齊。乃迎襄王於莒,入臨淄而聽政。
- ^ 《資治通鑑 巻四 周紀四》:「王亟殺此九子者以謝安平君,不然,國其危矣!」乃殺九子而逐其家,益封安平君以夜邑萬戸。
- ^ a b c d 《史記・卷四十六・田敬仲完世家第十六》:君王后死,后勝相齊,多受秦間金玉,多使賓客入秦,秦又多予金,客皆為反間,勸王去從朝秦,不脩攻戰之備,不助五國攻秦,秦以故得滅五國。
- ^ a b c 《戰國策・卷十三・齊策六》:君王后死,后勝相齊,多受秦間金玉,多使賓客入秦,皆為變辭,勸王朝秦,不脩攻戰之備。
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- ^ 《史記・晋世家》:「太子申生,其母齊桓公女也,曰齊姜,早死。申生同母女弟為秦穆公夫人。」《毛詩序・詩經・國風・秦・渭陽》:《渭陽》,康公念母也。康公之母,晉獻公之女,文公遭麗姬之難未反,而秦姬卒,穆公納文公,康公時為大子,贈送文公於渭之陽,念母之不見也,我見舅氏,如母存焉。及其即位,思而作是詩也。
- ^ a b 《史記・卷六十二・管晏列傳第二》鮑叔遂進管仲。管仲既用,任政於齊,齊桓公以霸,九合諸侯,一匡天下,管仲之謀也。
- ^ 《史記・卷六十二・管晏列傳第二》天下不多管仲之賢而多鮑叔能知人也。
- ^ 《春秋左氏伝・閔公二年》:初,惠公之即位也少,齊人使昭伯烝于宣姜,不可,強之。生齊子、戴公、文公、宋桓夫人、許穆夫人。文公為衛之多患也,先適齊。
- ^ 《春秋左氏傳・宣公》夏.會于斷道.討貳也.盟于卷楚.辭齊人.晉人執晏弱于野王.執蔡朝于原.執南郭偃于溫.苗賁皇使.見晏桓子.歸言於晉侯曰.夫晏子何罪.昔者諸侯事吾先君.皆如不逮.舉言群臣不信.諸侯皆有貳志.齊君恐不得禮.故不出.而使四子來.左右或沮之.曰.君不出.必執吾使.故高子及斂盂而逃.夫三子者曰.若絕君好.寧歸死焉.為是犯難而來.吾若善逆彼.以懷來者.吾又執之.以信齊沮.吾不既過矣乎.過而不改.而又久之.以成其悔.何利之有焉.使反者得辭.而害來者.以懼諸侯.將焉用之.晉人緩之.逸.
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- 佐藤信弥『周-理想化された古代王朝』中央公論新社、2016年。
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