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* [[下岡忠治]](衆議院議員、内務次官)
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* [[勝田主計]]([[蔵相]]、[[文部大臣 (日本)|文相]])
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* [[末永晃庫]]
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* [[菅原通敬]](枢密顧問官、大蔵次官)
* [[菅原通敬]](枢密顧問官、大蔵次官)

2020年12月30日 (水) 09:28時点における版

二八会は、当初は明治28年(1895年)に東京帝国大学を卒業した者たちの親睦を趣旨とする一般的な同窓会であり、毎月1回学士会館に集まる会であった。主要メンバーは小野塚喜平次浜口雄幸幣原喜重郎下岡忠治上山満之進高野岩三郎田中清次郎伊沢多喜男など。

その後、会合は一時中断していたが大正2年(1913年1月14日内務省地方長官会議が開催された折に、メンバーの数人が上京したのを機に再開され、大正12年(1923年)までに9回ほど開催された。二八会が再開されたのは第3次桂内閣期であり、会員より次官が誕生したころであり、特に下岡農商務次官、浜口逓信次官、伊沢警視総監は桂内閣の三羽烏と称され、公私にわたって緊密な関係を築いていた。以後数次に渡ってメンバーの多くが政府の要職に就いたため、当初の親睦会的性格の二八会は次第に政治ネットワークに変質していった。

特色

メンバー主流派は立憲同志会憲政会立憲民政党系統の政党と関係が深く、浜口、下岡、俵は党員となり、伊沢・久保田政周、西久保弘道・昌谷彰・幣原喜重郎・上山満之進・菅原通敬は党外人として高いポストで任用されることが多かった。[1]

背景

後に高等文官試験制度として確立する官僚の任用は明治20年(1887年)の文官試験試補及見習規則に始まったが、当初は試験免除期間があり東大卒業生の無試験採用が継続していた。明治27年(1894年)より試験による採用が施行されたが、不満を持った帝大卒業生は試験をボイコットした。しかし、翌明治28年(1895年)には彼らを含む現役生が受験を行っており、この期が初めての文官試験規則による帝国大学卒業生の官僚となった。日本初の近代的制度による選抜を受けた自負と、日清戦争後の財政好転により、彼らは行政各所で歓迎され、順調に出世の階段を上り、比較的早く官界のトップにも昇り詰めたメンバーも多かった。[要出典]

二八会の会員

脚注

  1. ^ 季武嘉也『大正期の政治構造』吉川吉川弘文館、1999年6月、P148

参考文献

  • 季武嘉也『大正期の政治構造』吉川弘文館、1999年6月