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「陳留郡」の版間の差分

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== 概要 ==
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[[後漢]]のとき、陳留郡は陳留・浚儀・尉氏・雍丘・襄邑・外黄・小黄・東昏・済陽・平丘・封丘・酸棗・長垣・己吾・考城・圉・扶溝の17県を管轄した<ref>『[[後漢書]]』郡国志三</ref>。[[190年]]([[中平]]6年)4月、勃海王[[献帝 (漢)|劉協]]が陳留王に封じられ、陳留郡は陳留国と改められた<ref>『後漢書』孝霊帝紀</ref>。9月、献帝(劉協)が即位すると、陳留国は陳留郡にもどされた。
[[後漢]]のとき、陳留郡は陳留・浚儀・尉氏・雍丘・襄邑・外黄・小黄・東昏・済陽・平丘・封丘・酸棗・長垣・己吾・考城・圉・扶溝の17県を管轄した<ref>『[[後漢書]]』郡国志三</ref>。[[190年]]([[中平]]6年)4月、勃海王[[献帝 (漢)|劉協]]が陳留王に封じられ、陳留郡は陳留国と改められた<ref>『後漢書』孝霊帝紀</ref>。9月、献帝(劉協)が即位すると、陳留国は陳留郡にもどされた。

2021年3月1日 (月) 05:07時点における版

陳留郡(ちんりゅう-ぐん)は、中国にかつて存在した漢代から唐代にかけて、現在の河南省開封市一帯に設置された。

概要

紀元前122年元狩元年)、前漢により陳留郡が置かれた。陳留郡は兗州に属し、陳留小黄成安寧陵雍丘酸棗東昏襄邑外黄封丘長羅尉氏長垣平丘済陽浚儀の17県を管轄した[1]紀元前41年永光3年)、皇子劉康が済陽王に封じられ、陳留郡は済陽国と改められた。紀元前34年建昭5年)、済陽王劉康が山陽王に移封され、済陽国は陳留郡にもどされた[2]。『漢書』によれば、前漢末に29万6284戸、150万9050人があった[3]

後漢のとき、陳留郡は陳留・浚儀・尉氏・雍丘・襄邑・外黄・小黄・東昏・済陽・平丘・封丘・酸棗・長垣・己吾・考城・圉・扶溝の17県を管轄した[4]190年中平6年)4月、勃海王劉協が陳留王に封じられ、陳留郡は陳留国と改められた[5]。9月、献帝(劉協)が即位すると、陳留国は陳留郡にもどされた。

西晋が建国されると、曹魏最後の皇帝である曹奐が陳留王に封じられ、陳留国が立てられた。小黄・浚儀・封丘・酸棗・済陽・長垣・雍丘・尉氏・襄邑・外黄の10県を管轄した。永嘉の乱の後に陳留国は後趙に占拠され、石虎のときに建昌郡と改められて、洛州に属した。338年咸康4年)、東晋により譙郡の北境に陳留郡が立てられた[6]

南朝宋のとき、陳留郡ははじめ兗州に属し、のちに豫州南豫州に属した。浚儀・小黄・白馬・雍丘の4県を管轄した[7]

494年北魏太和18年)、陳留郡は廃止された。孝昌年間、再び陳留郡が置かれた。南兗州に属し、小黄・浚儀・谷陽・東燕・武平の5県を管轄した。

東魏のときに梁州が置かれ、陳留郡は梁州に属して、浚儀・封丘・小黄の3県を管轄した[8]

北周のとき、梁州は汴州と改められ、陳留郡は汴州に属した。

583年開皇3年)、が郡制を廃すると、陳留郡は廃止されて、汴州に編入された。607年大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、汴州は滎陽郡と改称された[9]

621年武徳4年)、唐が王世充を平定すると、滎陽郡浚儀県に汴州が置かれた。742年天宝元年)、汴州は陳留郡と改称された。758年乾元元年)、陳留郡は汴州と改称され、陳留郡の呼称は姿を消した[10]

脚注

  1. ^ 班固漢書』地理志第八上。小竹武夫訳『漢書』3(ちくま学芸文庫、筑摩書房、1998年)、294-296頁。
  2. ^ 『漢書』宣元六王伝
  3. ^ 班固『漢書』地理志第八上。小竹武夫訳『漢書』3(ちくま学芸文庫、筑摩書房、1998年)、294頁。
  4. ^ 後漢書』郡国志三
  5. ^ 『後漢書』孝霊帝紀
  6. ^ 晋書』地理志上
  7. ^ 宋書』州郡志二
  8. ^ 魏書』地形志二中
  9. ^ 隋書』地理志中
  10. ^ 旧唐書』地理志一