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[[KEIRINグランプリ07]]への出場は逃したが、翌[[2008年]]に創設された[[競輪選手#S級S班の概要|S級S班]]の初代18名に選出された。同年は安定した成績を挙げ、獲得賞金により[[KEIRINグランプリ08]]で[[KEIRINグランプリ]]初出場を果たし、[[井上昌己 (競輪選手)|井上昌己]]の2着に入賞する。


[[2009年]]は6月の[[高松宮記念杯競輪|高松宮記念杯]]決勝で武田豊樹の番手を回ることになり、武田の後ろから最終2センターより自ら先頭に出て山崎芳仁の猛追を振り切りGI初優勝を飾る。その後7月の[[寬仁親王牌・世界選手権記念トーナメント|仁親王牌]]決勝と9月の[[オールスター競輪|オールスター]]決勝では、共に平原 - 武田 - [[神山雄一郎]]の並びで挑み、神山の連続2着と武田のオールスター優勝に貢献している。そして11月の[[朝日新聞社杯競輪祭|競輪祭]]決勝では3番手の位置を確保した後に差し切って勝ち自力でGI2勝目を奪取した。2年連続出場となった[[KEIRINグランプリ09]]では9着に終わる。
[[2009年]]は6月の[[高松宮記念杯競輪|高松宮記念杯]]決勝で武田豊樹の番手を回ることになり、武田の後ろから最終2センターより自ら先頭に出て山崎芳仁の猛追を振り切りGI初優勝を飾る。その後7月の[[寬仁親王牌・世界選手権記念トーナメント|仁親王牌]]決勝と9月の[[オールスター競輪|オールスター]]決勝では、共に平原 - 武田 - [[神山雄一郎]]の並びで挑み、神山の連続2着と武田のオールスター優勝に貢献している。そして11月の[[朝日新聞社杯競輪祭|競輪祭]]決勝では3番手の位置を確保した後に差し切って勝ち自力でGI2勝目を奪取した。2年連続出場となった[[KEIRINグランプリ09]]では9着に終わる。


[[2010年]]の[[高松宮記念杯競輪|高松宮記念杯]]も決勝で武田豊樹の番手を回ったが、この時は武田との連携から最終バックの自力捲りに戦術を切り替え連覇を達成した。[[KEIRINグランプリ2010]]では前年と同じく9着に終わる。
[[2010年]]の[[高松宮記念杯競輪|高松宮記念杯]]も決勝で武田豊樹の番手を回ったが、この時は武田との連携から最終バックの自力捲りに戦術を切り替え連覇を達成した。[[KEIRINグランプリ2010]]では前年と同じく9着に終わる。

2021年4月27日 (火) 21:30時点における版

平原 康多
Kōta Hirahara
基本情報
本名 平原 康多
ひらはら こうた
愛称 ヒラ
生年月日 (1982-06-11) 1982年6月11日(42歳)
国籍 日本の旗 日本
身長 185cm
体重 99kg
縁故選手 父:平原康広(28期・引退)
弟:平原啓多(97期)
選手情報
所属 日本競輪選手会埼玉支部
期別 87期
分野 競輪
役割 選手
特徴 自在
アマチュア経歴
1999-2001 埼玉県立川越工業高等学校
プロ経歴
2002- 日本競輪選手会埼玉支部
主要レース勝利
高松宮記念杯 2009,2010
競輪祭 2009,2014,2016
全日本選抜 2013,2017
共同通信社杯 2018
ふるさとダービー 1回
S級S班 2008 - 2011 2014 -
最終更新日
2018年9月17日

平原 康多(ひらはら こうた、1982年6月11日 - )は競輪選手埼玉県狭山市出身。日本競輪学校第87期卒業。日本競輪選手会埼玉支部所属。師匠は太田耕二太田真一の兄)。ホームバンクは西武園競輪場平原啓多(97期)は弟。

戦績

元競輪選手だった父・平原康広(28期)の影響から埼玉県立川越工業高等学校在学中より自転車競技を行い、ジュニア世界自転車競技大会等、国際大会の出場経験を持つ。やがて第87期生として入学した日本競輪学校では全生徒中、最終バック先頭回数が最も多かったことから、恵まれた体格も相まって同期の中で最も将来性がある生徒と目す関係者が少なくなかった。

デビュー戦は2002年8月5日西武園競輪場で迎え、初勝利も同日。2年後の2004年1月よりS級へ昇進し、同年のヤンググランプリにも出場(7着)。翌2005年のヤンググランプリでは、2センターから捲り追い込みをかけ、優勝した山崎芳仁を鋭く追い詰め2着。そして翌2006年あたりからGI、GIIの常連選手となっていく。

2006年8月に開催されたふるさとダービー富山競輪場)では、本命を背負った武田豊樹を尻目にホームから果敢に先行し、さらに武田を捲り不発に追い込んで堂々逃げ切り優勝。また同年の全日本選抜競輪決勝では3着に入り、初のGI表彰台を経験した。

2007年日本選手権競輪で決勝進出を果たしたが、主導権争いを演じていた村上義弘を最終ホーム通過付近で押し上げたことが原因で村上らを落車させたとして失格を取られる。その影響があってか、その後の競走では精彩を欠く場面も見られたが、同年の全日本選抜競輪決勝では、直線に入って優勝の山崎芳仁に対して4分の3輪差まで迫り2着に入った。

KEIRINグランプリ07への出場は逃したが、翌2008年に創設されたS級S班の初代18名に選出された。同年は安定した成績を挙げ、獲得賞金によりKEIRINグランプリ08KEIRINグランプリ初出場を果たし、井上昌己の2着に入賞する。

2009年は6月の高松宮記念杯決勝で武田豊樹の番手を回ることになり、武田の後ろから最終2センターより自ら先頭に出て山崎芳仁の猛追を振り切りGI初優勝を飾る。その後7月の寬仁親王牌決勝と9月のオールスター決勝では、共に平原 - 武田 - 神山雄一郎の並びで挑み、神山の連続2着と武田のオールスター優勝に貢献している。そして11月の競輪祭決勝では3番手の位置を確保した後に差し切って勝ち自力でGI2勝目を奪取した。2年連続出場となったKEIRINグランプリ09では9着に終わる。

2010年高松宮記念杯も決勝で武田豊樹の番手を回ったが、この時は武田との連携から最終バックの自力捲りに戦術を切り替え連覇を達成した。KEIRINグランプリ2010では前年と同じく9着に終わる。

2011年2012年は目立った活躍が出来ず当年のKEIRINグランプリの出場を逃がすも、2013年全日本選抜競輪決勝では再び武田豊樹の番手を選択し、最終バックで武田を先行選手の後位に導いたあと最終4角でインを突き、武田を弾いてから直線一気に伸びて3年ぶりのGI優勝を果たす。同年のKEIRINグランプリ2013では4着となる。

2014年は、前年12月に起こったSS11の移籍騒動に加担したとして、日本競輪選手会より同年5月1日より8ヶ月間の競走出場自粛を言い渡されたが、後に自粛期間が3ヶ月に短縮され、8月より競走に復帰した。その後11月の競輪祭決勝では、逃げる武田豊樹の番手より最終4角から追い込んで優勝し、KEIRINグランプリ2014の出場権を獲得し7着となる。

2015年はGIタイトルの獲得はならなかったが、日本選手権競輪と競輪祭の決勝で2着に入るなどGI決勝進出を4回果たして年間獲得賞金上位となり、KEIRINグランプリ2015の出場権を獲得し3着となる。

2016年は寛仁親王牌決勝の2着により年間獲得賞金争いで有利(獲得賞金ランク7位)となっていたが、競輪祭の決勝において最終バック4番手の位置より前にいた稲垣裕之の捲りに追走する形から自力で捲り切って優勝したことによりKEIRINグランプリ2016の出場権を獲得したが6着となる。

2017年は全日本選抜競輪の決勝においてイン粘りから番手を確保した直後に単騎で捲ってきた新田祐大の番手に入り込み、そのまま追走し自身の番手にいた地元の武田豊樹を振り切る形で直線抜け出し優勝したことによりKEIRINグランプリ2017の出場権を獲得したが、前年と同じく6着となる。

2018年は第34回共同通信社杯競輪(GII、高知競輪場)で優勝した。既に賞金3位でKEIRINグランプリ2018出場を確実としていた中で臨んだ11月の第60回朝日新聞社杯競輪祭では、6年連続となる決勝進出も果たした(6着)。

主な獲得タイトル

競走スタイル

先行主体の自力選手として活躍しており、トップスピードに達してからの持久力には評価が高く、他の選手を自ら横の動きで捌くことも多い。

タイトルホルダーとなる前は失格などが原因で少々不振に喘ぐ時期もあり、少しのことで成績に左右されやすい側面も見受けられたが、精神面や模索していたギアの倍数が安定してからは関東の若手機動型としての地位を確立させている。

エピソード

  • マスコミに対しての受け答えが非常に良いことから、いわゆる「シンパ」の記者が少なくない。
  • 後閑信一が東京に移籍した理由の一つとして、平原との関係を一層深めたかったからという見方をする人もいる。実際のところ、後閑が新たなホームバンクとした京王閣競輪場での記念開催では、連日平原は後ろに後閑を従えて主導権を奪う競走を心がけており、2007年と2009年の開催では後閑を優勝へと導いている。
  • 2010年代、茨城の武田豊樹とは「関東ゴールデンコンビ」と称されることも多々あった[1]

脚注

  1. ^ 今月のKEIRINグランプリへの道 2017年2月 CTC サイクルテレホンセンター

関連項目

外部リンク