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2000年に就任した[[ビクトル・ムニョス]]監督は選手に攻撃精神を植えつけた。ディフェンスラインは高く保ち、前線からのプレッシングと[[オフサイド (サッカー)|オフサイドトラップ]]を駆使し、ボールを奪ったらすぐさまカウンターに転じた。昇格初年度ながら7位に入り、[[UEFAカップ]]出場権まであと一歩の位置にたどり着いた。2001-02シーズンはリーグ戦で15位だったものの、[[コパ・デル・レイ]]ではベスト8となった<ref name=autogenerated3 />。2002年夏には[[UEFAインタートトカップ]]に出場し、[[FHハフナルフィヨルズゥル]](アイスランド)、[[トリノFC]](イタリア)、[[トロワAC]](フランス)を破ったが、決勝で[[マラガCF]](同国対決)に2試合合計1-2で敗れた<ref>[http://www.villarrealcf.es/principal_n.php?nombreModulo=contenido&idcontenido=21&idsubmenu=9&idmenu=113&idsubmenu=164 Villarreal C.F. - Web Oficial<!-- Bot generated title -->]</ref>。ムニョス監督は南米選手を中心に積極的な補強を敢行し、2003年夏に[[FCバルセロナ]]から[[フアン・ロマン・リケルメ]]を獲得してからは<ref>{{Cite web|author=uefa.com|date=2003-08-28|url=http://jp.uefa.com/footballeurope/news/kind=2/newsid=95762.html|title=リケルメ、ビジャレアルを選択|accessdate=2009-07-14}}</ref>、彼を中心としたチーム作りを推進した。同夏にもUEFAインタートトカップに出場すると、決勝で[[SCヘーレンフェーン]](オランダ)を破って優勝し、2003-04シーズンの[[UEFAカップ]]出場権を得た。シーズン途中には南米の知将[[マヌエル・ペジェグリーニ]]を招聘。UEFAカップが主要な欧州カップ戦へのデビューの機会となり、[[ASローマ]](イタリア)や[[セルティックFC]](スコットランド)に勝利した。結果的に優勝する[[バレンシアCF]](同国対決)に準決勝で敗れたものの、初出場でベスト4となり、リーグ戦では8位となった。 |
2000年に就任した[[ビクトル・ムニョス]]監督は選手に攻撃精神を植えつけた。ディフェンスラインは高く保ち、前線からのプレッシングと[[オフサイド (サッカー)|オフサイドトラップ]]を駆使し、ボールを奪ったらすぐさまカウンターに転じた。昇格初年度ながら7位に入り、[[UEFAカップ]]出場権まであと一歩の位置にたどり着いた。2001-02シーズンはリーグ戦で15位だったものの、[[コパ・デル・レイ]]ではベスト8となった<ref name=autogenerated3 />。2002年夏には[[UEFAインタートトカップ]]に出場し、[[FHハフナルフィヨルズゥル]](アイスランド)、[[トリノFC]](イタリア)、[[トロワAC]](フランス)を破ったが、決勝で[[マラガCF]](同国対決)に2試合合計1-2で敗れた<ref>[http://www.villarrealcf.es/principal_n.php?nombreModulo=contenido&idcontenido=21&idsubmenu=9&idmenu=113&idsubmenu=164 Villarreal C.F. - Web Oficial<!-- Bot generated title -->]</ref>。ムニョス監督は南米選手を中心に積極的な補強を敢行し、2003年夏に[[FCバルセロナ]]から[[フアン・ロマン・リケルメ]]を獲得してからは<ref>{{Cite web|author=uefa.com|date=2003-08-28|url=http://jp.uefa.com/footballeurope/news/kind=2/newsid=95762.html|title=リケルメ、ビジャレアルを選択|accessdate=2009-07-14}}</ref>、彼を中心としたチーム作りを推進した。同夏にもUEFAインタートトカップに出場すると、決勝で[[SCヘーレンフェーン]](オランダ)を破って優勝し、2003-04シーズンの[[UEFAカップ]]出場権を得た。シーズン途中には南米の知将[[マヌエル・ペジェグリーニ]]を招聘。UEFAカップが主要な欧州カップ戦へのデビューの機会となり、[[ASローマ]](イタリア)や[[セルティックFC]](スコットランド)に勝利した。結果的に優勝する[[バレンシアCF]](同国対決)に準決勝で敗れたものの、初出場でベスト4となり、リーグ戦では8位となった。 |
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2004年夏には3年連続でUEFAインタートトカップに出場し、決勝では[[アトレティコ・マドリード]]をPK戦の末に破って優勝し、UEFAカップ出場権を得た。UEFAカップでは準々決勝で[[AZアルクマール|AZ]](オランダ)に2試合合計2-3で敗れた。同シーズンのリーグ戦は3位で終え、[[UEFAチャンピオンズリーグ]]・プレーオフ出場権を獲得。25得点を積み上げた新戦力の[[ディエゴ・フォルラン]]が得点王([[ピチーチ賞]])のタイトルを獲得した<ref>{{Cite web|author=uefa.com|date=2005-05-30|url=http://jp.uefa.com/footballeurope/news/kind=2/newsid=305742.html|title=フォルランとアンリが得点王|accessdate=2009-07-14}}</ref>。2005年夏にはリケルメの完全移籍での加入が決まり<ref>{{Cite web|author=uefa.com|date=2005-06-10|url=http://jp.uefa.com/news/newsId=308925,printer.htmx|title=リケルメ、バルサに別れ|accessdate=2009-07-14}}</ref>、UEFAチャンピオンズリーグで初出場にしてベスト4まで勝ち上がる大旋風を巻き起こした。2005-06シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ・プレーオフで、[[エヴァートンFC]](イングランド)を破って本選グループリーグ出場を決めると<ref>{{Cite web|author=uefa.com|date=2005-08-24|url=http://jp.uefa.com/competitions/ucl/history/season=2005/round=2200/match=81595/index.html|title=ビジャレアルがエバートンを撃破|accessdate=2009-07-14}}</ref>、同大会常連クラブの居並ぶグループリーグで、[[マンチェスター・ユナイテッドFC]](イングランド)相手には2分、[[ |
2004年夏には3年連続でUEFAインタートトカップに出場し、決勝では[[アトレティコ・マドリード]]をPK戦の末に破って優勝し、UEFAカップ出場権を得た。UEFAカップでは準々決勝で[[AZアルクマール|AZ]](オランダ)に2試合合計2-3で敗れた。同シーズンのリーグ戦は3位で終え、[[UEFAチャンピオンズリーグ]]・プレーオフ出場権を獲得。25得点を積み上げた新戦力の[[ディエゴ・フォルラン]]が得点王([[ピチーチ賞]])のタイトルを獲得した<ref>{{Cite web|author=uefa.com|date=2005-05-30|url=http://jp.uefa.com/footballeurope/news/kind=2/newsid=305742.html|title=フォルランとアンリが得点王|accessdate=2009-07-14}}</ref>。2005年夏にはリケルメの完全移籍での加入が決まり<ref>{{Cite web|author=uefa.com|date=2005-06-10|url=http://jp.uefa.com/news/newsId=308925,printer.htmx|title=リケルメ、バルサに別れ|accessdate=2009-07-14}}</ref>、UEFAチャンピオンズリーグで初出場にしてベスト4まで勝ち上がる大旋風を巻き起こした。2005-06シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ・プレーオフで、[[エヴァートンFC]](イングランド)を破って本選グループリーグ出場を決めると<ref>{{Cite web|author=uefa.com|date=2005-08-24|url=http://jp.uefa.com/competitions/ucl/history/season=2005/round=2200/match=81595/index.html|title=ビジャレアルがエバートンを撃破|accessdate=2009-07-14}}</ref>、同大会常連クラブの居並ぶグループリーグで、[[マンチェスター・ユナイテッドFC]](イングランド)相手には2分、[[リールOSC|リール]](フランス)と[[SLベンフィカ]](ポルトガル)相手には1勝1分ずつの成績を残し、グループリーグを6戦無敗で終えた。アウェーでのベンフィカ戦勝利によって、ビジャレアルが首位、ベンフィカが2位で決勝トーナメント進出を決めた<ref>[http://www.villarrealcf.es/principal_n.php?nombreModulo=contenido&idcontenido=25&idsubmenu=9&idmenu=115&idsubmenu=168 Villarreal C.F. - Web Oficial<!-- Bot generated title -->]</ref><ref>{{Cite web|author=uefa.com|date=2005-12-07|url=http://jp.uefa.com/competitions/ucl/history/season=2005/round=2201/match=1100336/index.html|title=ビジャレアルが首位通過|accessdate=2009-07-14}}</ref>。決勝トーナメント1回戦では[[グラスゴー・レンジャーズFC|レンジャーズFC]](スコットランド)と対戦し、2試合合計3-3であったが、アウェーの[[アイブロックス・スタジアム]]で2-2と引き分けていたことから、アウェーゴールルールで勝ち上がりを決めた<ref>{{Cite web|author=uefa.com|date=2006-03-07|url=http://jp.uefa.com/competitions/ucl/history/season=2005/round=2202/match=1102858/index.html|title=ビジャレアルが8強へ|accessdate=2009-07-14}}</ref>。準々決勝では[[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル]](イタリア)に2試合合計2-2で引き分け、やはりアウェーゴールルールで勝ち上がりを決めた<ref>{{Cite web|author=uefa.com|date=2006-04-05|url=http://sports.livedoor.com/article/detail-3621931.html|title=ビジャレアル、歴史的快挙|accessdate=2009-07-14}}</ref>。準決勝では[[アーセナルFC]](イングランド)と対戦したが、ディフェンス陣に怪我人が続出しており、主審による疑惑の判定などもあって、[[アーセナル・スタジアム|ハイベリー]]で行われたファーストレグを0-1で落とした。ホームで行われたセカンドレグでは試合終了間際にPKを得たが、リケルメのキックが当時10戦連続無失点記録というチャンピオンズリーグ史上最長記録を更新したチームの最後の砦でドイツ代表の守護神に君臨する[[イェンス・レーマン]]に止められ、0-0の引き分け(2試合合計0-1)で敗退が決まった<ref>{{Cite web|author=uefa.com|date=2006-04-25|url=http://jp.uefa.com/competitions/ucl/history/season=2005/round=2204/match=1107459/index.html|title=アーセナルが堅守で決勝進出|accessdate=2009-07-14}}</ref>。アーセナルはパリで行われた決勝で[[FCバルセロナ]]に敗れている。ビジャレアルはリーグ戦では7位に終わり、UEFAインタートトカップの出場権を得るにとどまった。 |
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2006年夏のUEFAインタートトカップでは1回戦で[[NKマリボル]](スロベニア)に敗れた。ホームでのファーストレグを1-2で落とし、アウェーでのセカンドレグは1-1の引き分けに終わった<ref>[http://www.villarrealcf.es/principal_n.php?nombreModulo=contenido&idcontenido=24&idsubmenu=9&idmenu=113&idsubmenu=167 Villarreal C.F. - Web Oficial<!-- Bot generated title -->]</ref>。2006-07シーズンはリケルメと首脳陣の対立による混乱によって成績が低迷するが、脱リケルメを図った<ref>{{Cite web|author=livedoorスポーツ|date=2007-07-27|url=http://news.livedoor.com/article/detail/3247818/|title=ビジャレアル、リケルメに背番号剥奪の屈辱|accessdate=2009-07-14}}</ref> シーズン後半からは復調。クラブ新記録となる8連勝を記録し、リーグ5位でシーズンを終えた。2007-08シーズンは序盤戦で暫定ながら首位に立つなど<ref>{{Cite web|author=ニッカンスポーツ|date=2008-09-26|url=http://www.nikkansports.com/soccer/world/news/p-sc-tp3-20080926-412780.html|title=ビジャレアル堅守で暫定首位|accessdate=2009-07-14}}</ref> 好調を維持し、最終的にはバルセロナを押さえてクラブ史上最高の2位となった。また、UEFAカップではベスト32に達した。プレーオフでは[[FC BATEボリソフ]](ベラルーシ)を破り、本選グループリーグでは、[[ACFフィオレンティーナ]](イタリア)、[[ムラダー・ボレスラフ]](チェコ)、[[IFエルフスボリ]](スウェーデン)、[[AEKアテネFC]](ギリシャ)と同居したグループCを無敗で首位通過した<ref>[http://www.villarrealcf.es/principal_n.php?nombreModulo=contenido&idcontenido=29&idsubmenu=9&idmenu=114&idsubmenu=172 Villarreal C.F. - Web Oficial<!-- Bot generated title -->]</ref>。決勝トーナメント1回戦では、結果的に優勝する[[FCゼニト・サンクトペテルブルク]](ロシア)と対戦した。[[パヴェル・ポグレブニャク]]のゴールによってロシアでのファーストレグを0-1で落とし、エル・マドリガルでのセカンドレグには2-1で勝利したものの、アウェーゴールルールでゼニトが勝ち上がりを決めた。 |
2006年夏のUEFAインタートトカップでは1回戦で[[NKマリボル]](スロベニア)に敗れた。ホームでのファーストレグを1-2で落とし、アウェーでのセカンドレグは1-1の引き分けに終わった<ref>[http://www.villarrealcf.es/principal_n.php?nombreModulo=contenido&idcontenido=24&idsubmenu=9&idmenu=113&idsubmenu=167 Villarreal C.F. - Web Oficial<!-- Bot generated title -->]</ref>。2006-07シーズンはリケルメと首脳陣の対立による混乱によって成績が低迷するが、脱リケルメを図った<ref>{{Cite web|author=livedoorスポーツ|date=2007-07-27|url=http://news.livedoor.com/article/detail/3247818/|title=ビジャレアル、リケルメに背番号剥奪の屈辱|accessdate=2009-07-14}}</ref> シーズン後半からは復調。クラブ新記録となる8連勝を記録し、リーグ5位でシーズンを終えた。2007-08シーズンは序盤戦で暫定ながら首位に立つなど<ref>{{Cite web|author=ニッカンスポーツ|date=2008-09-26|url=http://www.nikkansports.com/soccer/world/news/p-sc-tp3-20080926-412780.html|title=ビジャレアル堅守で暫定首位|accessdate=2009-07-14}}</ref> 好調を維持し、最終的にはバルセロナを押さえてクラブ史上最高の2位となった。また、UEFAカップではベスト32に達した。プレーオフでは[[FC BATEボリソフ]](ベラルーシ)を破り、本選グループリーグでは、[[ACFフィオレンティーナ]](イタリア)、[[ムラダー・ボレスラフ]](チェコ)、[[IFエルフスボリ]](スウェーデン)、[[AEKアテネFC]](ギリシャ)と同居したグループCを無敗で首位通過した<ref>[http://www.villarrealcf.es/principal_n.php?nombreModulo=contenido&idcontenido=29&idsubmenu=9&idmenu=114&idsubmenu=172 Villarreal C.F. - Web Oficial<!-- Bot generated title -->]</ref>。決勝トーナメント1回戦では、結果的に優勝する[[FCゼニト・サンクトペテルブルク]](ロシア)と対戦した。[[パヴェル・ポグレブニャク]]のゴールによってロシアでのファーストレグを0-1で落とし、エル・マドリガルでのセカンドレグには2-1で勝利したものの、アウェーゴールルールでゼニトが勝ち上がりを決めた。 |
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2021年11月4日 (木) 22:09時点における版
ビジャレアルCF | ||||
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原語表記 | Vila-real Club de Futbol, S.A.D. | |||
愛称 | El Submarino Amarillo(Yellow Submarine) | |||
クラブカラー | 黄 | |||
創設年 | 1923年 | |||
所属リーグ | ラ・リーガ | |||
所属ディビジョン | 1部(2020–21) | |||
ホームタウン | バレンシア州ヴィラ=レアル | |||
ホームスタジアム | エスタディオ・デ・ラ・セラミカ | |||
収容人数 | 24,890[1] | |||
代表者 | フェルナンド・ロイグ | |||
監督 | ウナイ・エメリ | |||
公式サイト | 公式サイト | |||
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■テンプレート(■ノート)■サッカークラブPJ |
ビジャレアル・クルブ・デ・フトボル(スペイン語: Villarreal Club de Fútbol, S.A.D., バレンシア語: Vila-real Club de Futbol, S.A.D.)は、バレンシア州カステリョン県ヴィラ=レアルに本拠地を置くスペインのサッカークラブチーム。プリメーラ・ディビシオンに属している。1923年に創設され、24,890人収容のエスタディオ・デ・ラ・セラミカをホームスタジアムとしている。
ビジャレアルとはスペイン語で「王の町」という意味であり、その名の通りチームのエンブレムには王冠があしらわれている。ただし、この場合の王とはアラゴン王国の王を指し、現在のスペイン王室ではない。そのため王冠のデザインも他のレアルを冠するチームのものとは異なっている[2]。しばしば、成功したスモールクラブの例として引き合いに出される[3]。
歴史
黎明期
1923年3月10日、すべてのスポーツ、特にサッカーを奨励するためにビジャレアルCD(Villarreal CD)が創設された。初代会長は化学者のホセ・カルドゥチュ・アルメーラであり、その補佐として銀行員のホセ・マルティネス・アギラールが、会計として行政官のカルロス・カタラジュー・ホルダが就任した。スタジアムは月額60ペセタ(約0.36ユーロ)で借用し、チケット金額は成人男性0.5ペセタ(約0.005ユーロ)、子ども0.25ペセタに設定された。成人女性は自由な入場が認められた[4]。同年6月17日、ビジャレアルのスタジアムが竣工し、CDカステリョン対セルバンテス戦がスタジアムの初試合となった。同年10月21日、ビジャレアルはカステリョンと初試合を行った[4]。黎明期のユニフォームは白色のシャツと黒色のパンツであり、クラブ初のバッジの色を反映している[5]。1925年にはスタジアムがエル・マドリガルと命名された。
1929–1998
1929年にスペインサッカー連盟が全国リーグ(リーガ・エスパニョーラ)を発足させ、プリメーラ・ディビシオン(1部)を頂点にするピラミッド型のリーグシステムが構成されてからは、ビジャレアルは地域リーグに参戦した。1934-35シーズン、勝利クラブが全国規模のセグンダ・ディビシオン(2部)に昇格する可能性があった戦いで、ビジャレアルはカルタヘナCFに敗れた[4]。翌シーズンのビジャレアルは地域リーグの最上位ディビジョン(4部相当)で優勝したが、その後スペイン内戦が勃発し、全てのスポーツ大会は中止された[4]。内戦は1939年に終結し、1950-51シーズンに地域リーグの最上位ディビジョンに昇格するまで、クラブは再び地域リーグの2部(5部相当)でプレー[4]。1942年、クラブはCAFビジャレアル(CAF Villarreal)に名称を変更し、バッジの色も黄色に変更された。「F」は運動クラブでありチームのサポーターであるFoghetcazを表している[5]。1954年、現在の名称であるビジャレアルCF(Villarreal CF)に変更され、バッジも現在のものによく似たデザインが採用された[5]。
1955-56シーズンに優勝して全国リーグのテルセーラ・ディビシオン(3部)に昇格する前には、地域リーグの最上位ディビジョンで7位となり、二度4位となった。1960-61シーズンのテルセーラ・ディビシオンは14位で地域リーグ降格となった[4]。1966年夏に現在のバッジが採用されると[5]、1966-67シーズンには地域リーグで優勝してテルセーラ・ディビシオンに復帰し、1970年にはクラブ史上初めてセグンダ・ディビシオンに到達した[4]。セグンダ・ディビシオンへの昇格初年度はなんとか降格を回避したものの、1971-72シーズン終了後にテルセーラ・ディビシオン降格となった。1975-76シーズン終了後、テルセーラ・ディビシオンから地域リーグに降格したが、翌シーズン終了後には再びテルセーラ・ディビシオンに昇格した。
1986-87シーズン終了後にはセグンダ・ディビシオンB(現3部[注釈 1])に昇格したが、1990年には18位でテルセーラ・ディビシオン降格となった。しかし2シーズン連続で昇格し、名称変更後[注釈 2] 初めてセグンダ・ディビシオンに昇格した。1992-93シーズンから1996-97シーズンはたいてい順位表の下位や中位に位置したが、1997年のフェルナンド・ロイグ会長就任がクラブの大きな転機になった。ロイグ会長は就任会見で「3年以内にプリメーラ・ディビシオンに昇格し、いずれはUEFAチャンピオンズリーグに出場する」と公約し、1997-98シーズンには4位となってプリメーラ・ディビシオン昇格プレーオフに出場した[6]。昇格プレーオフではSDコンポステーラと2レグ制の試合を行った。ホームで行われたファーストレグには0-0で引き分け、アウェーのガリシア州で行われたセカンドレグも1-1の引き分けであったが、アウェーゴールルールによってクラブ史上初のプリメーラ・ディビシオン昇格が決定した。
プリメーラ初挑戦
1998-99シーズンの開幕戦はリーグ覇者レアル・マドリードとの対戦となり、1998年8月31日にエスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウで行われた。プリメーラ・ディビシオン昇格後初のホームゲームは、レアル・マドリード戦の翌週に行われたセルタ・デ・ビーゴ戦であった[6]。同シーズンは気苦労の多いシーズンとなり、18位に終わってセグンダ・ディビシオンに降格した。1999-2000シーズンはセグンダ・ディビシオンを3位で終え、わずか1シーズンでプリメーラ・ディビシオンに復帰した。
欧州カップ戦の常連として
2000年に就任したビクトル・ムニョス監督は選手に攻撃精神を植えつけた。ディフェンスラインは高く保ち、前線からのプレッシングとオフサイドトラップを駆使し、ボールを奪ったらすぐさまカウンターに転じた。昇格初年度ながら7位に入り、UEFAカップ出場権まであと一歩の位置にたどり着いた。2001-02シーズンはリーグ戦で15位だったものの、コパ・デル・レイではベスト8となった[6]。2002年夏にはUEFAインタートトカップに出場し、FHハフナルフィヨルズゥル(アイスランド)、トリノFC(イタリア)、トロワAC(フランス)を破ったが、決勝でマラガCF(同国対決)に2試合合計1-2で敗れた[7]。ムニョス監督は南米選手を中心に積極的な補強を敢行し、2003年夏にFCバルセロナからフアン・ロマン・リケルメを獲得してからは[8]、彼を中心としたチーム作りを推進した。同夏にもUEFAインタートトカップに出場すると、決勝でSCヘーレンフェーン(オランダ)を破って優勝し、2003-04シーズンのUEFAカップ出場権を得た。シーズン途中には南米の知将マヌエル・ペジェグリーニを招聘。UEFAカップが主要な欧州カップ戦へのデビューの機会となり、ASローマ(イタリア)やセルティックFC(スコットランド)に勝利した。結果的に優勝するバレンシアCF(同国対決)に準決勝で敗れたものの、初出場でベスト4となり、リーグ戦では8位となった。
2004年夏には3年連続でUEFAインタートトカップに出場し、決勝ではアトレティコ・マドリードをPK戦の末に破って優勝し、UEFAカップ出場権を得た。UEFAカップでは準々決勝でAZ(オランダ)に2試合合計2-3で敗れた。同シーズンのリーグ戦は3位で終え、UEFAチャンピオンズリーグ・プレーオフ出場権を獲得。25得点を積み上げた新戦力のディエゴ・フォルランが得点王(ピチーチ賞)のタイトルを獲得した[9]。2005年夏にはリケルメの完全移籍での加入が決まり[10]、UEFAチャンピオンズリーグで初出場にしてベスト4まで勝ち上がる大旋風を巻き起こした。2005-06シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ・プレーオフで、エヴァートンFC(イングランド)を破って本選グループリーグ出場を決めると[11]、同大会常連クラブの居並ぶグループリーグで、マンチェスター・ユナイテッドFC(イングランド)相手には2分、リール(フランス)とSLベンフィカ(ポルトガル)相手には1勝1分ずつの成績を残し、グループリーグを6戦無敗で終えた。アウェーでのベンフィカ戦勝利によって、ビジャレアルが首位、ベンフィカが2位で決勝トーナメント進出を決めた[12][13]。決勝トーナメント1回戦ではレンジャーズFC(スコットランド)と対戦し、2試合合計3-3であったが、アウェーのアイブロックス・スタジアムで2-2と引き分けていたことから、アウェーゴールルールで勝ち上がりを決めた[14]。準々決勝ではインテル(イタリア)に2試合合計2-2で引き分け、やはりアウェーゴールルールで勝ち上がりを決めた[15]。準決勝ではアーセナルFC(イングランド)と対戦したが、ディフェンス陣に怪我人が続出しており、主審による疑惑の判定などもあって、ハイベリーで行われたファーストレグを0-1で落とした。ホームで行われたセカンドレグでは試合終了間際にPKを得たが、リケルメのキックが当時10戦連続無失点記録というチャンピオンズリーグ史上最長記録を更新したチームの最後の砦でドイツ代表の守護神に君臨するイェンス・レーマンに止められ、0-0の引き分け(2試合合計0-1)で敗退が決まった[16]。アーセナルはパリで行われた決勝でFCバルセロナに敗れている。ビジャレアルはリーグ戦では7位に終わり、UEFAインタートトカップの出場権を得るにとどまった。
2006年夏のUEFAインタートトカップでは1回戦でNKマリボル(スロベニア)に敗れた。ホームでのファーストレグを1-2で落とし、アウェーでのセカンドレグは1-1の引き分けに終わった[17]。2006-07シーズンはリケルメと首脳陣の対立による混乱によって成績が低迷するが、脱リケルメを図った[18] シーズン後半からは復調。クラブ新記録となる8連勝を記録し、リーグ5位でシーズンを終えた。2007-08シーズンは序盤戦で暫定ながら首位に立つなど[19] 好調を維持し、最終的にはバルセロナを押さえてクラブ史上最高の2位となった。また、UEFAカップではベスト32に達した。プレーオフではFC BATEボリソフ(ベラルーシ)を破り、本選グループリーグでは、ACFフィオレンティーナ(イタリア)、ムラダー・ボレスラフ(チェコ)、IFエルフスボリ(スウェーデン)、AEKアテネFC(ギリシャ)と同居したグループCを無敗で首位通過した[20]。決勝トーナメント1回戦では、結果的に優勝するFCゼニト・サンクトペテルブルク(ロシア)と対戦した。パヴェル・ポグレブニャクのゴールによってロシアでのファーストレグを0-1で落とし、エル・マドリガルでのセカンドレグには2-1で勝利したものの、アウェーゴールルールでゼニトが勝ち上がりを決めた。
2008年、スペインサッカー史上初の女性監督としてヨーロッパサッカー界に話題を呼んだ日本人の佐伯夕利子が育成部スタッフに就任[21]。2008-09シーズンはCLの決勝トーナメント1回戦でパナシナイコスFCを破るが、準々決勝でアーセナルに破れ[22]、同大会はベスト8、リーグ戦は5位で終えた[23]。しかし、2011-12シーズンは当時財政難だった事もあり開幕前にサンティ・カソルラ、ジョアン・カプデビラら主力が移籍した。特にカソルラが移籍した時は2000万ユーロも得たがその2000万ユーロの資金を活用して獲得した新戦力もフィットせず、さらにはジュゼッペ・ロッシが右膝の前十字靱帯断裂でシーズンの大半を棒に振ったのを筆頭にマルコス・セナやニウマール等の主力も怪我に泣いた。この状況下で不運にもSSCナポリ、マンチェスター・シティFC、バイエルン・ミュンヘンらと同組になる所謂死の組に入ったUEFAチャンピオンズリーグと併行して戦わなければならず案の定6戦全敗を喫すると、国内リーグでもチームは勝ち点を積み上げる事が出来ず17位に低迷した12月末にフアン・カルロス・ガリードを免職にし、後任に当時Bチームを率いていたホセ・フランシスコ・モリーナを昇格させるが、その後の11試合で3勝(3分け5敗)しか挙げられずにモリーナをわずか3か月で解雇。1シーズンで2度も任を解かれるという異常事態に発展しオサスナやラ・コルーニャを残留させた事のあるミゲル・アンヘル・ロティーナを招聘するがラスト11試合で3勝5分3敗と三度思う様に勝ち点を稼ぐ事が出来なかった。降格争いに加わった事の無いメンバーが大半を占めていたチームにとって精神的な弱さは致命傷となり、試合終盤に失点を喰らって取り零した勝ち点は多く、アウェーで3勝しか挙げられなかったのも痛かった。最終節では残留を争っていたラージョ・バジェカーノが後半ロスタイムに得点をあげて勝利し、ビジャレアルはアトレティコ・マドリードに敗戦したために18位となり、13シーズンぶりの降格が決定した。
セグンダ降格・1年で昇格
2012年6月6日、新監督への就任が決定していたマヌエル・プレシアードが心臓発作によって急死した[24]。また、降格にともなってボルハ・バレーロやニウマールなど多くのスター選手がクラブを離れてしまった[25] ものの、オファーを受けながら真っ先に残留を表明した主将のマルコス・セナを筆頭に、プリメーラ復帰のためチームに残る選手も多く存在した[26]。
セグンダでは序盤こそ上位につけるも、徐々にリズムが狂い始めた。第21節で7位に順位を下げると、監督解任を決定。2013年に入ってマルセリーノ・ガルシア・トラル監督に率いられたチームは、後半戦でわずか2敗という成績を残し、最終節では勝ち点で並ぶUDアルメリアをホームに迎えて1-0の勝利。2位でシーズンを終え、1年でプリメーラ復帰という目標を達成した[27]。
2017-18シーズン、スタートに躓き、フラン・エスクリバ監督を解任し、Bチームを指揮していたハビエル・カジェハ監督をトップチームに招集した。就任後は瞬く間にチームを掌握し、初陣となったエイバル戦でセドリック・バカンブがハットトリックを決め3-0と快勝した。2月に調子を落とすが、33節のレガネス戦から復調し、結果、18勝7分け13敗のリーグ5位でシーズンを終えた。
2020年7月23日、ウナイ・エメリのトップチーム監督就任を発表。更に久保建英がレアル・マドリードからのローン移籍で加入したこと。
2021年5月26日、準決勝でアーセナルを破り、クラブ初の決勝戦へと進んだヨーロッパリーグで1-1(PK11-10)の末、マンチェスターUを破りクラブ初のタイトルを獲得。この結果、1988年にカップウィナーズカップを制したベルギーのメヘレンを超えて、人口が最も少ない町の欧州カップ王者となった。また18-19のチェルシーに続き無敗での優勝となった。
クラブカラーとユニフォーム
第二次世界大戦前のユニフォームは白色のシャツと黒色のパンツであり、よく知られた黄色いユニフォームの起源は1947年まで遡る。新シーズンを間近に控えたある日、会長の息子がバレンシアのスポーツ店に立ち寄ったが、ユニフォームの在庫が黄色しかなく、しかたなく黄色いユニフォームを買って地元に帰ったことがユニフォームカラー変更のきっかけである。選手たちは黄色のシャツに関してはクラブにうってつけであるとしたが、黒色のパンツは好まず、会長の息子がカステリョンまで赴いて白色のパンツを人数分購入した。その後、選手たちの投票によってパンツが青色に染められた[28]。この後しばらくは黄色のシャツと青色のパンツという組み合わせが続いたが、2003-04シーズンに黄色のシャツと黄色のパンツという組み合わせに変更された[29]。アウェーユニフォームにはしばしば濃紺色が使われる。
2005-06シーズンから2010-11シーズンまではカステリョン空港(Aeroport Castello、アエロポルト・カステーリョ)が胸スポンサーであったが、2011-12シーズン以降は胸スポンサーがない状態が続いている。かつてはプーマがユニフォームサプライヤーであったが、現在はJoma(ホマ)がユニフォームを製造している。
ニックネームとマスコット
ユニフォームカラーの黄色から、ビートルズの曲にちなんでエル・サブマリーノ・アマリーリョ(El Submarino Amarillo、イエローサブマリン)あるいはサブマリンズの愛称を持つ[2]。この愛称は1967年から用いられている。なお、ホームスタジアムのエスタディオ・デ・ラ・セラミカの屋根も黄色に塗られている。アンダルシア州のクラブ、カディスCFもイエローサブマリンという愛称を持ち、どちらが本当のイエローサブマリンであるかが話題にのぼることがある。
2001年10月26日にグロゲ(Groguet)という名前のマスコットが公式に発表され、12月13日に地元の12歳の少年によって名づけられた[30]。黄色いユニフォームを着た大きな体躯と、潜水艦の形をした水色の頭を持っている、人型のマスコットである。グロゲという名前は何かに由来するものではないが、クラブやファンそのものの愛称にもなっている。
ライバル
地域的な理由により、同じカステリョン県に本拠地を置くCDカステリョンに対して長い間ライバル意識を抱いている。また、2000年代以降はビジャレアルとバレンシアCFがバレンシア州内における最も競争力の高いクラブであることから、バレンシアもまたライバルである[31]。彼らとの対戦は現地でデルビー・デ・ラ・コムニタ(Derby de la Comunitat)、日本では特にバレンシア州ダービーと呼ばれる。
記録
最大得点差勝利は5点差であり、過去に3試合で達成している。1998-99シーズンのセグンダ・ディビシオンにおけるUDサラマンカ戦、2002-03シーズンのプリメーラ・ディビシオンにおけるセルタ・デ・ビーゴ戦、2009-10シーズンのプリメーラにおけるCDテネリフェ戦である。1試合最多得点は6点であり、2003-04シーズンのプリメーラにおけるホームでのラシン・サンタンデール戦で達成している[32]。アウェーでの最大得点差勝利は2000-01シーズンにプリメーラにおけるUDラス・パルマス戦(5-1)と2004-05シーズンのプリメーラにおけるレアル・ソシエダ戦(4-0)で達成した4点差である。
タイトル
国内タイトル
- テルセーラ・ディビシオン:1回
- 1969-70
国際タイトル
- 2020-21
成績
近年の成績
シーズン | ディビジョン | コパ・デル・レイ | 欧州カップ | 最多得点者 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
リーグ | 順位 | 試 | 勝 | 分 | 敗 | 得 | 失 | 点 | 選手 | 得点数 | ||||
1996-97 | セグンダ | 10位 | 38 | 13 | 9 | 16 | 38 | 52 | 48 | 3回戦敗退 | サリージャス | 10点 | ||
1997-98 | 4位 | 42 | 19 | 16 | 7 | 51 | 38 | 73 | 1回戦敗退 | サリージャス | 17点 | |||
1998-99 | プリメーラ | 18位 | 38 | 8 | 12 | 18 | 47 | 63 | 36 | ベスト16 | クライオヴェアヌ | 13点 | ||
1999-00 | セグンダ | 3位 | 42 | 18 | 12 | 12 | 61 | 46 | 66 | ベスト16 | モイセス | 17点 | ||
2000-01 | プリメーラ | 7位 | 38 | 16 | 9 | 13 | 58 | 52 | 57 | 2回戦敗退 | ビクトル | 14点 | ||
2001-02 | 15位 | 38 | 11 | 10 | 17 | 46 | 55 | 43 | 準々決勝敗退 | ビクトル | 14点 | |||
2002-03 | 15位 | 38 | 11 | 12 | 15 | 44 | 53 | 45 | 1回戦敗退 | J・ロペス | 8点 | |||
2003-04 | 8位 | 38 | 15 | 9 | 14 | 47 | 49 | 54 | ベスト16 | UC | 準決勝敗退 | アンデルソン | 12点 | |
2004-05 | 3位 | 38 | 18 | 11 | 9 | 69 | 37 | 65 | 3回戦敗退 | UC | 準々決勝敗退 | フォルラン | 25点[注釈 3] | |
2005-06 | 7位 | 38 | 14 | 15 | 9 | 50 | 39 | 57 | ベスト16 | UCL | 準決勝敗退 | リケルメ | 12点 | |
2006-07 | 5位 | 38 | 18 | 8 | 12 | 48 | 44 | 62 | ベスト16 | フォルラン | 19点 | |||
2007-08 | 2位 | 38 | 24 | 5 | 9 | 63 | 40 | 77 | 準々決勝敗退 | UC | ベスト32 | ニハト | 18点 | |
2008-09 | 5位 | 38 | 18 | 11 | 9 | 61 | 54 | 65 | 4回戦敗退 | UCL | 準々決勝敗退 | J・ジョレンテ | 15点 | |
2009-10 | 7位 | 38 | 16 | 8 | 14 | 58 | 57 | 56 | ベスト16 | UEL | ベスト32 | ニウマール | 11点 | |
2010-11 | 4位 | 38 | 18 | 8 | 12 | 54 | 55 | 62 | 準々決勝敗退 | UEL | 準決勝敗退 | G・ロッシ | 18点 | |
2011-12 | 18位 | 38 | 9 | 14 | 15 | 39 | 53 | 41 | 4回戦敗退 | UCL | GS敗退 | ルベン | 9点 | |
2012-13 | セグンダ | 2位 | 42 | 21 | 14 | 7 | 68 | 38 | 41 | 2回戦敗退 | ウチェ | 14点 | ||
2013-14 | プリメーラ | 6位 | 38 | 17 | 8 | 13 | 60 | 44 | 59 | ベスト16 | ウチェ | 14点 | ||
2014-15 | 6位 | 38 | 16 | 12 | 10 | 48 | 37 | 60 | 準決勝敗退 | UEL | ベスト16 | ビエット | 12点 | |
2015-16 | 4位 | 38 | 18 | 10 | 10 | 44 | 35 | 64 | ベスト16 | UEL | 準決勝敗退 | バカンブ | 22点 | |
2016-17 | 5位 | 38 | 19 | 10 | 9 | 56 | 33 | 67 | ベスト16 | UCL | プレーオフ敗退 | バカンブ | 12点 | |
UEL | ベスト32 | |||||||||||||
2017-18 | 5位 | 38 | 18 | 7 | 13 | 57 | 50 | 61 | ベスト16 | UEL | ベスト32 | バッカ | 15点 | |
2018-19 | 14位 | 38 | 10 | 14 | 14 | 49 | 52 | 44 | ベスト16 | UEL | 準々決勝敗退 | トコ・エカンビ | 18点 | |
2019-20 | 5位 | 38 | 18 | 6 | 14 | 63 | 49 | 60 | 準々決勝敗退 | ジェラール・モレノ | 20点 | |||
2020-21 | 7位 | 38 | 15 | 13 | 10 | 60 | 44 | 58 | 準々決勝敗退 | UEL | 優勝 | ジェラール・モレノ | 30点 | |
2021-22 | 位 | 38 | USC | 準優勝 | 点 | |||||||||
UCL | グループステージ |
優勝 準優勝 昇格 降格
過去の成績
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- 22シーズン - プリメーラ・ディビシオン(1部)
- 10シーズン - セグンダ・ディビシオン(2部)
- 4シーズン - セグンダ・ディビシオンB(3部相当、1977年創設)
- 23シーズン - テルセーラ・ディビシオン(4部相当、1977年以前は3部相当)
- 32シーズン - ディビシオネス・レヒオナレス(5部以下相当、1977年以前は4部以下相当)
欧州の成績
シーズン | 大会 | ラウンド | 対戦相手 | ホーム | アウェー | 合計 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|
2002 | UEFAインタートトカップ | 2回戦 | FH | 2-0 | 2-2 | 4-2 | |
3回戦 | トリノ | 2-0 | 0-2 | 2-2 (4-3 p) |
|||
準決勝 | トロワ | 0-0 | 2-0 | 2-0 | |||
決勝 | マラガ | 0-1 | 1-1 | 1-2 | |||
2003 | UEFAインタートトカップ | 3回戦 | ブレシア | 2-0 | 1-1 | 3-1 | |
準決勝 | ズブロヨフカ・ブルノ | 2-0 | 1-1 | 3-1 | |||
決勝 | ヘーレンフェーン | 0-0 | 2-1 | 2-1 | |||
2003-04 | UEFAカップ | 1回戦 | トラブゾンスポル | 0-0 | 3-2 | 3-2 | |
2回戦 | トルペド・モスクワ | 2-0 | 0-1 | 2-1 | |||
3回戦 | ガラタサライ | 3-0 | 2-2 | 5-2 | |||
4回戦 | ローマ | 2-0 | 1-2 | 3-2 | |||
準々決勝 | セルティック | 2-0 | 1-1 | 3-1 | |||
準決勝 | バレンシア | 0-0 | 0-1 | 0-1 | |||
2004 | UEFAインタートトカップ | 2回戦 | OB | 2-0 | 3-0 | 5-0 | |
3回戦 | スパルタク・モスクワ | 1-0 | 2-2 | 3-2 | |||
準決勝 | ハンブルガー | 1-0 | 1-0 | 2-0 | |||
決勝 | アトレティコ・マドリード | 2-0 | 0-2 | 2-2 (3-1 p) |
|||
2004-05 | UEFAカップ | 1回戦 | ハンマルビーIF | 3-0 | 2-1 | 5-1 | |
グループE | ラツィオ | — | 1-1 | 2位 | |||
ミドルズブラ | 2-0 | — | |||||
パルティザン | — | 1-1 | |||||
エガレオ | 4-0 | — | |||||
ラウンド32 | ディナモ・キエフ | 2-0 | 0-0 | 2-0 | |||
ラウンド16 | FCSB | 2-0 | 0-0 | 2-0 | |||
準々決勝 | AZ | 1-2 | 1-1 | 2-3 | |||
2005-06 | UEFAチャンピオンズリーグ | 予選3回戦 | エヴァートン | 2-1 | 2-1 | 4-2 | |
グループD | ベンフィカ | 1-1 | 1-0 | 1位 | |||
リール | 1-0 | 0-0 | |||||
マンチェスター・ユナイテッド | 0-0 | 0-0 | |||||
ラウンド16 | レンジャーズ | 1-1 | 2-2 | 3-3 (a) | |||
準々決勝 | インテル | 1-0 | 1-2 | 2-2 (a) | |||
準決勝 | アーセナル | 0-0 | 0-1 | 0-1 | |||
2006 | UEFAインタートトカップ | 3回戦 | マリボル | 1-2 | 1-1 | 2-3 | |
2007-08 | UEFAカップ | 1回戦 | BATE | 4-1 | 2-0 | 6-1 | |
グループC | フィオレンティーナ | 1-1 | — | 1位 | |||
AEKアテネ | — | 2-1 | |||||
ムラダー・ボレスラフ | — | 2-1 | |||||
IFエルフスボリ | 2-0 | — | |||||
ラウンド32 | ゼニト | 2-1 | 0-1 | 2-2 (a) | |||
2008-09 | UEFAチャンピオンズリーグ | グループE | マンチェスター・ユナイテッド | 0-0 | 0-0 | 2位 | |
AaB | 6-3 | 2-2 | |||||
セルティック | 1-0 | 0-2 | |||||
ラウンド16 | パナシナイコス | 1-1 | 2-1 | 3-2 | |||
準々決勝 | アーセナル | 1-1 | 0-3 | 1-4 | |||
2009-10 | UEFAヨーロッパリーグ | プレーオフ | NAC | 6-1 | 3-1 | 9-2 | |
グループG | レッドブル・ザルツブルク | 0-1 | 0-2 | 2位 | |||
ラツィオ | 4-1 | 1-2 | |||||
レフスキ・ソフィア | 1-0 | 2-0 | |||||
ラウンド32 | ヴォルフスブルク | 2-2 | 1-4 | 3-6 | |||
2010-11 | UEFAヨーロッパリーグ | プレーオフ | ドニエプル・マヒリョウ | 5-0 | 2-1 | 7-1 | |
グループD | PAOK | 1-0 | 0-1 | 1位 | |||
ディナモ・ザグレブ | 3-0 | 0-2 | |||||
クラブ・ブルッヘ | 2-1 | 0-0 | |||||
ラウンド32 | ナポリ | 2-1 | 0-0 | 2-1 | |||
ラウンド16 | バイエル・レバークーゼン | 2-1 | 3-2 | 5-3 | |||
準々決勝 | トゥウェンテ | 5-1 | 3-1 | 8-2 | |||
準決勝 | ポルト | 3-2 | 1-5 | 4-7 | |||
2011-12 | UEFAチャンピオンズリーグ | プレーオフ | OB | 3-0 | 0-1 | 3-1 | |
グループA | バイエルン・ミュンヘン | 0-2 | 1-3 | 4位 | |||
ナポリ | 0-2 | 0-2 | |||||
マンチェスター・シティ | 0-3 | 1-2 | |||||
2014-15 | UEFAヨーロッパリーグ | プレーオフ | アスタナ | 4-0 | 3-0 | 7-0 | |
グループA | ボルシアMG | 2-2 | 1-1 | 2位 | |||
チューリッヒ | 4-1 | 2-3 | |||||
アポロン・リマソール | 4-0 | 2-0 | |||||
ラウンド32 | レッドブル・ザルツブルク | 2-1 | 3-1 | 5-2 | |||
ラウンド16 | セビージャ | 1-3 | 1-2 | 2-5 | |||
2015-16 | UEFAヨーロッパリーグ | グループE | ヴィクトリア・プルゼニ | 1-0 | 3-3 | 2位 | |
ラピード・ウィーン | 1-0 | 1-2 | |||||
ディナモ・ミンスク | 4-0 | 2-1 | |||||
ラウンド32 | ナポリ | 1-0 | 1-1 | 2-1 | |||
ラウンド16 | バイエル・レバークーゼン | 2-0 | 0-0 | 2-0 | |||
準々決勝 | スパルタ・プラハ | 2-1 | 4-2 | 6-3 | |||
準決勝 | リヴァプール | 1-0 | 0-3 | 1-3 | |||
2016-17 | UEFAチャンピオンズリーグ | プレーオフ | モナコ | 1-2 | 0-1 | 1-3 | |
UEFAヨーロッパリーグ | グループL | チューリッヒ | 2-1 | 1-1 | 2位 | ||
FCSB | 2-1 | 1-1 | |||||
オスマンルスポル | 1-2 | 2-2 | |||||
ラウンド32 | ローマ | 0-4 | 1-0 | 1-4 | |||
2017-18 | UEFAヨーロッパリーグ | グループA | スラヴィア・プラハ | 2-2 | 2-0 | 1位 | |
マッカビ・テルアビブ | 0-1 | 0-0 | |||||
アスタナ | 3-1 | 3-2 | |||||
ラウンド32 | リヨン | 0-1 | 1-3 | 1-4 | |||
2018-19 | UEFAヨーロッパリーグ | グループG | レンジャーズ | 2-2 | 0-0 | 1位 | |
ラピード・ウィーン | 5-0 | 0-0 | |||||
スパルタク・モスクワ | 2-0 | 3-3 | |||||
ラウンド32 | スポルティングCP | 1-1 | 1-0 | 2-1 | |||
ラウンド16 | ゼニト | 2-1 | 3-1 | 5-2 | |||
準々決勝 | バレンシア | 0-2 | 1-5 | 1-3 | |||
2020-21 | UEFAヨーロッパリーグ | グループI | カラバフ | 3-0 | 3-1 | 1位 | |
マッカビ・テルアビブ | 4-0 | 1-1 | |||||
スィヴァススポル | 5-3 | 1-0 | |||||
ラウンド32 | レッドブル・ザルツブルク | 2-1 | 2-0 | 4-1 | |||
ラウンド16 | ディナモ・キエフ | 2-0 | 2-0 | 4-0 | |||
準々決勝 | ディナモ・ザグレブ | 2-1 | 1-0 | 3-1 | |||
準決勝 | アーセナル | 2-1 | 0-0 | 2-1 | |||
決勝 | マンチェスター・ユナイテッド | 1-1 (11-10 p) | |||||
2021 | UEFAスーパーカップ | 決勝 | チェルシー | 1-1 (5-6 p) | |||
2021-22 | UEFAチャンピオンズリーグ | グループF | マンチェスター・ユナイテッド | 1-2 | 位 | ||
アタランタ | 2-2 | ||||||
ヤングボーイズ | 4-2 |
現所属メンバー
- ラ・リーガ 2020-21シーズン 基本フォーメーション
- 2021年10月4日時点[33]
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
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※括弧内の国旗はその他保有国籍、もしくは市民権、星印はEU圏外選手を示す。
リザーブチーム
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
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ローン移籍
- in
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
|
- out
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
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歴代監督
- フリオ・ラウル・ゴンサレス 1990-1991
- カルロス・シモン 1991-1992
- オスマン・ベンデス 1992-1993
- ダビド・ビダル 1995
- フィデル・ウリアルテ 1995-1996
- ハビエル・スビラッツ 1996
- ホセ・アントニオ・イルレギ 1996-1999
- ホアキン・カパロス 1999
- パキート 1999-2000
- ビクトル・ムニョス 2000-2003
- ベニト・フローロ 2003-2004
- マヌエル・ペジェグリーニ 2004-2009
- エルネスト・バルベルデ 2009-2010.1
- フアン・カルロス・ガリード 2010.2-2011.12
- フランシスコ・モリーナ 2011.12-2012.3
- ミゲル・アンヘル・ロティーナ 2012.3-2012.6
- マヌエル・プレシアード 2012.6
- フリオ・ベラスケス 2012.6-2013.1
- マルセリーノ・ガルシア・トラル 2013.1-2016.8
- フラン・エスクリバ 2016.8-2017.9
- ハビエル・カジェハ 2017.9-2018.12, 2019.1-2020.7
- ルイス・ガルシア・プラサ 2018.12-2019.1
- ウナイ・エメリ 2020.7-
歴代所属選手
有名選手
その歴史のほとんどを下部リーグで過ごしてきたため、代表における主要国際大会に出場したビジャレアルの選手は少ない。ドイツで開催された2006 FIFAワールドカップには、スペイン代表にブラジル出身のマルコス・セナが、メキシコ代表にアルゼンチン出身のギジェルモ・フランコが、アルゼンチン代表にフアン・パブロ・ソリンとフアン・ロマン・リケルメが選出されて出場した。スイスとオーストリアで共催されたUEFA EURO 2008にはスペイン代表にビジャレアルから3人が選出されて優勝を勝ち取っている。セナとサンティ・カソルラとジョアン・カプデビラである。そのほかにはトルコ代表にニハト・カフヴェジが選出され、ベスト4に達している。2009年のFIFAコンフェデレーションズカップ2009のスペイン代表メンバーにはカプデビラ、カソルラの他にディエゴ・ロペスが選出された。南アフリカで開催された2010 FIFAワールドカップでもスペイン代表が優勝したが、ビジャレアルからスペイン代表に選出されたのはカプデビラのみであった。ウルグアイ代表にディエゴ・ゴディンが選出されてベスト4となり、ブラジル代表にニウマールが選出されてベスト8となった。2004年から2007年までビジャレアルに在籍したウルグアイ代表のディエゴ・フォルランは、同大会で最優秀ゴール賞と最優秀選手賞を受賞した。UEFA EURO 2012に出場したスウェーデン代表のオロフ・メルベリは大会後にビジャレアルに加入した。
関連項目
脚注
注釈
- ^ 1977年にセグンダ・ディビシオンBが3部リーグとして創設され、それまで3部リーグであったテルセーラ・ディビシオンは4部リーグとなった
- ^ セグンダ・ディビシオンB(3部)創設後、セグンダ・ディビシオン(2部)はセグンダBとの区別のためにセグンダ・ディビシオンAとも呼ばれる
- ^ フォルランは得点王(ピチーチ賞)のタイトルを獲得した。
脚注
- ^ UEFA CHAMPIONS LEAGUE SEASON 2011/12 UEFA.com
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- ^ “PRIMER EQUIPO”. ビジャレアルCF. 2021年10月7日閲覧。
外部リンク
- 公式サイト (バレンシア語)
- LFPによるチーム紹介
- Futbolmによるチーム紹介
- BDFutbolによるチーム紹介