「植民地」の版間の差分
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「植民地」という単語の持つマイナスイメージ、その言葉を口にすることの後ろめたさ、を避けるために「外地」と言い換えた分かりやすい例が次の国会発言<ref>{{Cite web|url=https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/#/detailPDF?minId=006713641X00319350208&page=8&spkNum=54¤t=-1|title=第67回帝国議会 衆議院 予算委員第六分科(逓信省及鉄道省所管) 第3号 昭和10年2月8日|accessdate=2021年9月2日|publisher=国立国会図書館|website=帝国議会会議録検索システム}}</ref>である。{{Quotation|衆議院予算委員会1935年2月8日 |
「植民地」という単語の持つマイナスイメージ、その言葉を口にすることの後ろめたさ、を避けるために「外地」と言い換えた分かりやすい例が次の国会発言<ref>{{Cite web|url=https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/#/detailPDF?minId=006713641X00319350208&page=8&spkNum=54¤t=-1|title=第67回帝国議会 衆議院 予算委員第六分科(逓信省及鉄道省所管) 第3号 昭和10年2月8日|accessdate=2021年9月2日|publisher=国立国会図書館|website=帝国議会会議録検索システム}}</ref>である。{{Quotation|衆議院予算委員会1935年2月8日 |
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○河野委員(河野一郎) それは私も承知して居るが、大体内地で法律が出来ると、それに関連して植民地、植民地と言ふことは言葉が悪いでせうが、朝鮮、台湾、是等の外地の方面にそれぞれ法令出来ると云ふことが従来の慣例だと私は思ふ、こちらに法律がないのに、向ふだけがさう云ふ法律を作る場合は殆んど有り得ない、所が船の問題は(8頁4段)||}} |
○河野委員(河野一郎) それは私も承知して居るが、大体内地で法律が出来ると、それに関連して植民地、植民地と言ふことは言葉が悪いでせうが、朝鮮、台湾、是等の外地の方面にそれぞれ法令出来ると云ふことが従来の慣例だと私は思ふ、こちらに法律がないのに、向ふだけがさう云ふ法律を作る場合は殆んど有り得ない、所が船の問題は(8頁4段)||}} |
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====== ヨーロッパの植民地で植民地呼称を避けた例 ====== |
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英国植民地 |
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「カナダ等の自治領土はColonyと呼ばるゝことに侮辱を感じ、英帝国の植民地会議(Colonial Conference)をば帝国会議(Inperial Conference)と改称せしめ」(矢内原忠雄「植民及植民政策」1926年)<ref>{{Cite book|和書|title=植民及植民政策|year=1926|publisher=有斐閣|page=35|author=矢内原忠雄|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/982912/26}}</ref> |
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オランダ植民地 |
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「オランダ旧憲法の第一条はかつて『オランダ王国はヨーロッパに於ける領土並にヨーロッパ以外の諸州に於ける植民地及び属領を包含す』として植民地及び属領がオランダの領土であると明記してゐたのであったが、一九二二年の修正憲法は、その第一条に『オランダ国はオランダ、蘭領印度、スリナーム及びキュラサオを包含す』として領土の固有名称を列記し、植民地及び属領なる文言を削除したのであった。この憲法改正の意味は植民地の文化、社会の発展に伴ひ、植民地なる表現をさけて、それらの各地域を本国と同等な地域と見做すこととしたためであったといはれる。」(中村哲「植民地統治法の基本問題」1943年)<ref>{{Cite book|和書|title=植民地統治法の基本問題|year=1943|publisher=日本評論社|pages=14-15|author=中村哲|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1281380/13}}</ref> |
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===== 戦後の認識 ===== |
===== 戦後の認識 ===== |
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戦後の日本においても、朝鮮台湾などは植民地であったと認識・公言されている<ref>{{Cite web|title=国会会議録検索システム|url=https://kokkai.ndl.go.jp/#/detailPDF?minId=100114810X00519471120&page=9&spkNum=81¤t=1|website=kokkai.ndl.go.jp|accessdate=2021-09-02}}</ref><ref>{{Cite web|title=国会会議録検索システム|url=https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=100715261X01619500317&spkNum=14&single|website=kokkai.ndl.go.jp|accessdate=2021-09-02}}</ref><ref>{{Cite web|title=日韓共同宣言|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/kaidan/yojin/arc_98/k_sengen.html|website=www.mofa.go.jp|accessdate=2021-09-02}}</ref>。{{Quotation|○委員長(深水六郎君)ちょっと私からも一つ御質問を申上げたいと思いますが、特別委員会でも多分問題になつたと思いますが、野戦郵便局の貯金の問題、それから満州国の貯金の問題、それと朝鮮、台湾、樺太等の旧植民地の貯金の問題というのが、その額或いはその取扱方法、その他のいろいろなやり方というものがどういうふうになっておるのかということもお尋ねして置きたいと思います。|第1回国会 参議院 通信委員会 第5号 昭和22年11月20日|}}{{Quotation|○国務大臣(池田勇人君)※大蔵・通商産業大臣 「御承知の通りに我が国従来の農業政策というものは、朝鮮米、台湾米のことを頭に置きながら、即ち、植民地統治という観点から相当賄なわれておつたのでありますが、御承知の通り朝鮮、台湾を加えますと大体毎年千四、五百万石ぐらいは輸入されておつたのであります。これがなくなつて参りまして、而も片つ方では、千数百万人の人口が増加しております。ここにいわゆる日本の農業政策の何んと申しますか、事情変化が来ておるのであります。|第7回国会 参議院 予算委員会 第16号 昭和25年3月17日|}}{{Quotation|小渕総理大臣は、今世紀の日韓両国関係を回顧し、我が国が過去の一時期韓国国民に対し植民地支配により多大の損害と苦痛を与えたという歴史的事実を謙虚に受けとめ、これに対し、痛切な反省と心からのお詫びを述べた。|1998年10月8日 日韓共同宣言 -21世紀に向けた新たな日韓パートナーシップ-|}} |
戦後の日本においても、朝鮮台湾などは植民地であったと認識・公言されている<ref>{{Cite web|title=国会会議録検索システム|url=https://kokkai.ndl.go.jp/#/detailPDF?minId=100114810X00519471120&page=9&spkNum=81¤t=1|website=kokkai.ndl.go.jp|accessdate=2021-09-02}}</ref><ref>{{Cite web|title=国会会議録検索システム|url=https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=100715261X01619500317&spkNum=14&single|website=kokkai.ndl.go.jp|accessdate=2021-09-02}}</ref><ref>{{Cite web|title=日韓共同宣言|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/kaidan/yojin/arc_98/k_sengen.html|website=www.mofa.go.jp|accessdate=2021-09-02}}</ref>。{{Quotation|○委員長(深水六郎君)ちょっと私からも一つ御質問を申上げたいと思いますが、特別委員会でも多分問題になつたと思いますが、野戦郵便局の貯金の問題、それから満州国の貯金の問題、それと朝鮮、台湾、樺太等の旧植民地の貯金の問題というのが、その額或いはその取扱方法、その他のいろいろなやり方というものがどういうふうになっておるのかということもお尋ねして置きたいと思います。|第1回国会 参議院 通信委員会 第5号 昭和22年11月20日|}}{{Quotation|○国務大臣(池田勇人君)※大蔵・通商産業大臣 「御承知の通りに我が国従来の農業政策というものは、朝鮮米、台湾米のことを頭に置きながら、即ち、植民地統治という観点から相当賄なわれておつたのでありますが、御承知の通り朝鮮、台湾を加えますと大体毎年千四、五百万石ぐらいは輸入されておつたのであります。これがなくなつて参りまして、而も片つ方では、千数百万人の人口が増加しております。ここにいわゆる日本の農業政策の何んと申しますか、事情変化が来ておるのであります。|第7回国会 参議院 予算委員会 第16号 昭和25年3月17日|}}{{Quotation|小渕総理大臣は、今世紀の日韓両国関係を回顧し、我が国が過去の一時期韓国国民に対し植民地支配により多大の損害と苦痛を与えたという歴史的事実を謙虚に受けとめ、これに対し、痛切な反省と心からのお詫びを述べた。|1998年10月8日 日韓共同宣言 -21世紀に向けた新たな日韓パートナーシップ-|}} |
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====== 近年の「植民地ではない」という主張の流行 ====== |
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近年「朝鮮半島は植民地ではなかった」という類の主張がしばしば唱えられるようになったが、上記のとおり誤りである。 |
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* 1995年6月3日 [[渡辺美智雄]]元外相「日本は韓国を統治していたことがあるが、植民地支配という言葉はサンフランシスコ講和条約などの公の文書には、どこにも書いていない。」<ref>{{Cite web|title=1995年6月3日、渡辺美智雄 「日本は韓国を統治していたことがあるが、植民地支配という言葉はサンフラン {{!}} 特定非営利活動法人 反レイシズム情報センター(ARIC)|url=https://antiracism-info.com/database/125582/|date=2016-06-22|accessdate=2021-11-11|language=ja|last=antiracism-info}}</ref> |
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* 2003年[[江藤隆美]]元総務庁長官「両国が調印して国連が無条件で承認したものが、90年たったらどうして植民地支配になるのか」<ref>{{Cite news|title=「植民地期間に良いことも」発言の自民党議員、またも妄言|newspaper=東亜日報|date=2003-7-13|url=https://www.donga.com/jp/article/all/20030713/275534/1}}</ref> |
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* 2008年に山口県下関市の嶋倉剛教育長「植民地支配という部分については事実に反する」<ref>{{Cite news|title=山口・下関市教育長の妄言 在日同胞、日本市民ら連日抗議|newspaper=朝鮮新報|date=2008-7-7|url=http://korea-np.co.jp/j-2008/02/0802j0707-00001.htm}}</ref>。 |
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===== 海外の認識 ===== |
===== 海外の認識 ===== |
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米国務省サイトでは以前韓国の説明<ref>{{Cite web|title=South Korea|url=http://web.archive.org/web/20151015152936/http://www.state.gov/t/pm/64900.htm|website=web.archive.org|date=2015-10-15|accessdate=2021-09-02}}</ref>でこう載せていた。{{Quotation|In 1905, following the Russo-Japanese War, Korea became a protectorate of imperial Japan, and in 1910 it was annexed as a colony. (1905年、ロシア・日本戦争の後で、コリアは日本帝国の保護国となり、そして1910年には植民地として併合された。)※日本語訳は引用者||}}現行の米国務省サイト<ref>{{Cite web|title=U.S. Relations With the Republic of Korea|url=https://www.state.gov/u-s-relations-with-the-republic-of-korea/|website=United States Department of State|accessdate=2021-09-02|language=en}}</ref>ではこのように述べている{{Quotation| In 1910, Japan began a 35-year period of colonial rule over Korea. (1910年、日本はコリアに対して35年間の植民地支配を始めた。)※日本語訳は引用者||}} |
米国務省サイトでは以前韓国の説明<ref>{{Cite web|title=South Korea|url=http://web.archive.org/web/20151015152936/http://www.state.gov/t/pm/64900.htm|website=web.archive.org|date=2015-10-15|accessdate=2021-09-02}}</ref>でこう載せていた。{{Quotation|In 1905, following the Russo-Japanese War, Korea became a protectorate of imperial Japan, and in 1910 it was annexed as a colony. (1905年、ロシア・日本戦争の後で、コリアは日本帝国の保護国となり、そして1910年には植民地として併合された。)※日本語訳は引用者||}}現行の米国務省サイト<ref>{{Cite web|title=U.S. Relations With the Republic of Korea|url=https://www.state.gov/u-s-relations-with-the-republic-of-korea/|website=United States Department of State|accessdate=2021-09-02|language=en}}</ref>ではこのように述べている{{Quotation| In 1910, Japan began a 35-year period of colonial rule over Korea. (1910年、日本はコリアに対して35年間の植民地支配を始めた。)※日本語訳は引用者||}} |
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===== 欧米植民地と日本植民地の比較 ===== |
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しばしば「(欧米植民地と違い)日本の植民地統治はよかった」的主張がなされることがあるが。それは多くの場合根拠が無い。日本は先行する欧米植民地を参考にしており、あるいは真似ており、また同時期で比較するとむしろ日本の方がひどかった場合もある。 |
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====== インフラ整備 ====== |
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アジア初の鉄道が英領インドだったことで分かる通り、欧米植民地では長大な鉄道・道路が建設された<ref>{{Cite book|和書|title=植民地統治論|year=1924|publisher=有斐閣|page=301|quote=「仏領アルジリアに於ける交通機関は、二千二百二十一哩(マイル)の鉄道と三千三百十七哩の道路とがあって……印度支那の鉄道は一二六五哩(一九二一年)で其内三分二は国有である。(301・302頁) 「非律賓は一八九六年米国の領有と化したる際、約百二十哩の狭軌鉄道があった。然るに一九一六年には八百八十一哩となり、仍ほ百七十三哩は遠からず開通の運となって居る。道路の延長は六千百五十九哩(一九二一年)であって、内二千二百二十三哩は一等道路に属する。阿弗利加の鉄道はナイル、ナイヂャー、コンゴー、ザンベス、セネガール諸川の航行を補助するを目的として建設せられたものが多く、何れも各河の急流若は瀑布の区域を、鉄道に依て連絡するの策を取って居る。(303頁)|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952533/158}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=イギリスの印度統治 : 其経済諸政策の研究|year=1935|publisher=東亜経済調査局|page=189|quote=又鉄路の発達は次の如くなってゐる……一九三二年四二、八一三哩(マイル)である。|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1281293/108}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10010140&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA|title=大阪朝日新聞 1924.5.11-1924.5.27 (大正13)仏領印度支那とは如何んな所? (一〜十二)|accessdate=2021年9月9日|publisher=神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫|quote=東京又は交趾支那地方に足を入れた誰もが驚くのは道路の発達である。仏人は海防にしろ、河内にしろ、又西貢其他の重要都市として仏人が住む処は実に立派な華かな仏蘭西式の都市を築いている。而して此都市を中心として重要な都市又は村落を結ぶ鉄に、自動車の通行し得る整然たる道路を備えている。}}</ref>。英領インドではKhadakwasla Dam(1880年)Dowleswaram Barrage(1850年)Prakasham Barrage(1855年)Khargpur Lake Dam(1876年)など多くのダム・取水堰が建設された(→[[:en:List_of_dams_and_reservoirs_in_India|インドのダム一覧]])し、上水道も整備された<ref>{{Cite web|url=https://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/kenkou/suido/jouhou/other/dl/o4_150324c.pdf|title=厚生労働省委託事業 平成25年度水道プロジェクト計画作成指導事業 インドKarad 市水道プロジェクト計画作成指導事業調査 事業報告書|accessdate=2021年9月4日|quote=インドの上水道分野における最重要課題は、特に都市部において著しい人口増加や都市活動の活発化に伴う水需要に対する上水道インフラ整備の遅れである…英国統治時代に整備された上水道インフラの老朽化が進み、設備更新等に多大な投資を要する}}</ref>。またその一方で例えば植民地朝鮮の鉄道[[京義線]]や馬山浦線は元々軍用鉄道として建設されており<ref>{{Cite book|和書|title=朝鮮鉄道史第1巻|year=1929|publisher=朝鮮総督府鉄道局編|page=271|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1234921|quote=日露の風雲漸く急を告ぐるに及び我が政府は京釜鉄道の速成実施のことを決定すると共に京城・義州間は軍用鉄道として軍部に於て之を急設するの必要を認め}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=朝鮮鉄道史第1巻|year=1929|publisher=朝鮮総督府鉄道局編|page=333|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1234921/572|quote=我が作戦上の必要に依り馬山浦を起点とし洛東江右岸に至る軍用鉄道の敷設を決せらるるや、明治三十七年八月十四日付命令に依り鉄道監部に於て之れが建設を担任することとなりたるが}}</ref>、つまり必ずしも現地民衆のために整備されたのではない。 |
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====== 教育 ====== |
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欧米植民地では19世紀以降近代的教育制度が整備された<ref>{{Cite book|和書|title=イギリスの対印度教育政策|year=1941|publisher=東亜研究所第五部|quote=一九三七年に於いては大学総数十九で……学生の総数十二万九千六百六十二人(66頁) |
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一九三六年度に於ける就学中の男子児童数は八百五十六万六千百五十一人であり、これは英領印度に於ける男子総人口の六・一%に当たり学齢児童総数の五一%を占む。(109・110頁) 一九三六年度の小学校総数は十六万五千二百四十であって、最も多き州はベンガル、(四万四千五百六校)次いでマドラス(四万三千六百七十七校)である。ビハール・オリッサ、連合州、ボンベイ州等も亦多き地方に属する。(111頁)|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1445399}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=教育制度の調査. 第13輯「フィリッピンに於ける教育」|year=1942|publisher=文部省教育調査部|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1271107/30|quote=1、初等教育(Elementary school, primary & intermediate) 千九百三十五年の調によると、初級学校(primary School)はその数六千四百三十七校、学齢児童(満七歳)の約七十五パーセントを収容してゐる。(57・58頁) 3.高等教育(Higher Education) 官立の大学としては千九百八年六月フィリッピン大学(The University of Philippines)が設立され、その中に医科、文科、農科、獣医科、工科、法科の各単科大学(College)美術、薬学等の専門部がある……千九百十一年度では美術科を除き五百九十九名の在学生があったが、千九百三十一年度では五千五百余同じく三十八年度では七千七百十一名(教授数は四百四十名)に増加してゐる。フィリッピン人による政府機関の充実を急速に必要とする為最近施設が拡充せられてきてゐる様である。現在私立の大学はサント・トーマス、マニラ大学等七校、私立の単科大学は二十校あるが、商科の学生が最も多い。(60頁)}}</ref>。またその際、現地語による教育も認めていた<ref>{{Cite book|和書|title=印度概観|year=1943|publisher=満鉄東亜経済調査局編|page=575|quote=インドの初等学校には、英語初等学校、土語初等学校の二種類がある。両者の区別は、前者が主として英語を教授用語に用ふるに対し、後者は専ら土語を用ふる点にある。|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1155388/306}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=拓務調査資料. 第5編 東洋植民地に於ける土人教育制度|year=1934|publisher=拓務大臣官房文書課編|page=21|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1147600/15|quote=一八九三年には制度の全体が改造され、学校を二種に別ち第一種は上流階級の児童の為、第二種は下層階級の児童の為にするものとした、何れに於ても教授用語は土語を原則とし土語の或ものに於て教科書及読本の存在せざるか又は土語の原始的性質なる場合に於えは馬来語を以て之に代ふることとした}}</ref>。仏領インドシナのベトナムでは「初等教育の最初の3年間は、ベトナム語を教授言語としていた」し、ドイツ植民地でも「教育においてもアフリカの言語を使用することを認め」た<ref>{{Cite journal|author=鹿嶋友紀|year=2005|title=サブサハラ・アフリカの言語政策の取り組みと今後の課題--教授言語を中心とする政策課題|url=https://doi.org/10.15027/34233|journal=国際教育協力論集|volume=8|issue=2|pages=97-109(p.98-99)|DOI=|ISSN=13442996|NAID=120005245304}}</ref>。一方で植民地朝鮮においては、後期になると[[皇民化|皇民化政策]]で朝鮮語教育が廃止<ref>{{Cite book|和書|title=前進する朝鮮|year=1942|publisher=朝鮮総督府情報課|page=37|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042329/34|quote=既に朝鮮語の教授は廃止され、教科書に逐年改正を加へて、朝鮮の特殊事情を加味した教材を加へつゝ皇国臣民教育の徹底を期してゐる。}}</ref>され、「街中でも家庭でも国語を常用しない学生がいるときは、学校当局と連絡を取って厳重に処罰」<ref>{{Cite journal|和書|author=熊谷明泰|month=aug|year=2004|title=植民地下朝鮮における徴兵制度実施計画と「国語全解・国語常用」政策(上)|url=http://hdl.handle.net/10112/2235|journal=関西大学人権問題研究室紀要|issue=48|pages=77-230(p.177)|publisher=関西大学人権問題研究室|issn=09119507|naid=110004692273}}<!--page=177 は存在しない--></ref>といった日本語強制が行われた。 |
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====== 農業 ====== |
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欧米植民地のひどさの例としてよく[[プランテーション]]が挙げられ、オランダがインドネシアでやった強制栽培制度がしばしば具体例として出される(→[[オランダ領東インド#強制栽培制度の時代]])。 |
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しかし一方で植民地朝鮮においても綿花栽培強制が行われた<ref>{{Cite book|和書|title=朝鮮農政の課題|year=1943|publisher=成美堂書店|page=9-10|author=久間健一|quote=今日でも棉作奨励に於ける斯る強制は、その態容こそ異れ依然として存在する。所請「棉花増産計画」は道、郡、面、と系統的に樹立せられ、部落に於ては適地選定の名の下に、個々の農家の耕作地に、棉の裁境面積と氏名を記せる棒杙が半強制的に立てられ、一たび下種せられるや、摘心、摘芽、施肥、除草、等々の裁培技術の細部に亘って濃厚な強制的指導が加へられ、そこには農民の自主的行動の影は殆んど見出されないのである。(9頁) |
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朝鮮に於ける棉花増産計画は、昭和三年を以て第二期計画を終ったが、昭和八年に至り、新規に棉花増産計画が樹立せられ、最近の国際情勢に鑑み本邦棉花の自給を図るため、棉花増産は益々拍車をかけられつゝある。「南棉北羊」の宇垣スローガンの喧伝これである。斯くて朝鮮に於ける綿花栽培は益々農民への強制を強めて行くのみか、最近に於ける国防経済的自給政策の強化は、益々棉花の強力的増産へと加速度を増しつゝある。(10頁)|url=}}</ref>。[[宇垣一成|宇垣一成朝鮮]]総督時代には「南綿北羊」政策として推進されたが、その理由について朝鮮総督府機関紙[[京城日報]]は「国防的見地から速かに国内棉花自給の途を講ずる要切実」<ref>{{Cite web|url=http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00721471&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA|title=京城日報 1933.8.16 (昭和8)本府大意気込の棉作奨励|accessdate=2021年9月11日|publisher=神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫|quote=棉花の増産奨励が何故に重要であるか、それには左の三点を挙げねばならない |
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一、国策上重要なること……(棉花は生活必需品であり且重要軍需品であるが我国での生産は極わめて微々たるもので国内需要の殆んど全部を海外に仰いでいる現状に鑑み、一朝有事の際における国防的見地から速かに国内棉花自給の途を講ずる要切実である) 二、国際貸借の改善上必要なること 三、農家経済の向上を図る一方策として甚だ有効適切なること}}</ref>と説明している。 |
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また朝鮮半島では「[[朝鮮産米増殖計画|産米増殖計画]]」としてコメ増産が推進されたが、その狙いは[[1918年米騒動]]など内地で深刻化していたコメ不足<ref>{{Cite book|和書|title=朝鮮総督府施政年報大正十二年度|year=1925|publisher=朝鮮総督府|page=201|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/975055/118|quote=内地に於ける食糧の需給は近来著しく均衡を失ひたるを以て帝国の版図を一団として其の均衡を図るは…}}</ref>の解決であった。当時の朝鮮総督府農務課長は「移出数量も年々一千二三百万石に達せしめ度い…内地の食糧問題も当分の解決が出来るつもりである」<ref>{{Cite web|url=http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00737566&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA|title=京城日報 1922.8.25 (大正11)鮮米増産と食糧問題 総督府農務課長 篠原談|accessdate=2021年9月11日|publisher=神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫}}</ref>と述べている。また朝鮮から内地へのコメ移出量を増やすため、満州雑穀を朝鮮に送り食べさせるという政策<ref>{{Cite web|url=http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00737938&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA|title=時事新報 1924.10.25 (大正13)農商務省で内定した明年度米緩和方針 鮮米外米輸入促進と台湾産米の奨励|accessdate=2021年9月11日|publisher=神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫|quote=満洲産の粟並に外米を朝鮮に多量に送って朝鮮米を漸次内地に移入せしむることを計るのであって}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/B11091265800|title=9.雑穀|accessdate=2021年9月11日|publisher=国立公文書館アジア歴史資料センター|work=外務省記録 自大正十一年一月 日至十二年 月 日止 農産物関係雑件雑ノ部|quote=三月二十五日付在遼陽領事代理副領事木島仙蔵報告 遼陽に於ける雑穀取引状況…粟の朝鮮向積出は茲四、五年来急に好況を呈し来るが右は朝鮮当局に於て朝鮮米の内地輸出奨励の為鮮人の代用食料に供せらるゝ為にして(2画像目)}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/B06050483200|title=本邦農産物関係雑件/農作物作柄状況/外地関係/分割1|accessdate=2021年9月11日|publisher=国立公文書館アジア歴史資料センター|quote=昭和20年3月17日発送済 |
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案の一 |
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陸軍省整備局長・軍需省動員部長宛 |
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満州雑穀朝鮮輸入に関する件 |
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首題の件に関しては特段の御高配を賜りつつある処なるが、本米穀年度朝鮮に於ては二、〇〇〇千石(約三三〇千瓲)の満洲雑穀を輸入し以て略々同量の鮮米を内地に移出することに協議決定し鋭意努力中なるも、(79画像目)}}</ref>も実行された。農林省米穀顧問<ref>{{Cite web|url=http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00742382&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA|title=京城日報 1935.1.30 (昭和10)外地負担の緩和策 米穀自治及買上管理の一元的統制論強化 農林主体の統制は実状に不適 鮮内の要望輿論化す|accessdate=2021年9月11日|publisher=神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫|quote=今総会より政府代表の意味で農林省米穀局顧問の東武高田耘平の両氏が加る事と内定しているので、}}</ref>高田耘平は1934年に、朝鮮における一人当たりコメ消費量が併合当初より「激減」と報告<ref>{{Cite web|url=http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00742225&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1|title=京城日報 1934.8.9 (昭和9)米と朝鮮 高田米穀顧問の調査報告|accessdate=2021年9月11日|publisher=神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫|quote=氏は『朝鮮農民の生活は、全くお話にならない、その大半は大麦や粟を常食としている』といい、春窮期には麦も粟も食尽し、草根木皮に露命を継ぐもの百二十万戸六百万人に達す、と驚き、一、而もこれ等の農民が、小学児童の月謝七十銭を納め二、併合当時、米一人当り消費量は七斗二升一合であったものが、最近では、四斗八合に激減している、}}</ref>している。 |
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また日中・太平洋戦争期になると朝鮮半島でもコメなど食糧作物の供出制度が実施されたが、それは「植付前に供出割当を行ふ」<ref>{{Cite web|url=https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/B02031291700|title=22.朝鮮及台湾ノ現況/2 朝鮮及台湾ノ現況の2|accessdate=2021年9月11日|publisher=国立公文書館アジア歴史資料センター|work=本邦内政関係雑纂/植民地関係 第六巻|quote=一七、食糧の蒐荷配給制度 |
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(一)朝鮮 |
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朝鮮に於ける食料蒐荷の方法に付ては先づ植付前に供出割当を行ふ。その経路は総督府は道に、道は郡に、郡は邑面と云ふ如く系統的に行ひ、末端の邑面に於ては生産者及地主の収穫高又は収納高並に其の家族構成等を基礎として部落を通じ之を行ひ、供出に当りては生産者及地主は朝鮮食糧営団(昭和十八年十月五日設立 資本金三千万円 内政府出資一千万円 本部を京城府に 各道毎に支部を設く)を通じ政府への売渡の委託を為し、営団は遅滞なく之を政府に売渡すものなり。而して食糧の種類は内地と異り朝鮮の特殊事情に基き米穀、大麦、裸麦、小麦及粟の外、其の他の雑穀及是等の加工品並に甘藷及馬鈴薯等、殆んど食糧作物の全般を網羅しあり。(10画像目)}}</ref>仕組みであり、干害冷害などで凶作になった<ref>{{Cite web|url=https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/B06050483900|title=本邦農産物関係雑件/農作物作柄状況/外地関係/分割1|accessdate=2021年9月11日|publisher=国立公文書館アジア歴史資料センター|quote=電報訳文(二〇、四、二七) |
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朝鮮農商局長 管理局長宛 昨今に於ける麦の作況は未曽有の寒気と三月の降雨に因る湿害とに依り全鮮的に甚だしく不良にして現在の処半作程度を予想せらるるも鋭意肥培管理により減収防止に努めつつあり。 |
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右一応報告す。尚農商省にも然るべく御連絡を乞ふ。(36画像目)}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/B06050484000|title=本邦農産物関係雑件/農作物作柄状況/外地関係/分割2|accessdate=2021年9月11日|publisher=国立公文書館アジア歴史資料センター|quote=昭和二十年四月五日 |
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朝鮮総督府 農商局長 |
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内務省管理局長殿 |
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食糧事情に関する件 |
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昭和二十米穀年度の食糧事情並に之が対策別紙の通送付すべきに付御了知相成りたし |
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昭和二十米穀年度の食糧事情並に之が対策 |
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十九年産米及雑穀の買上状況に関しては其の都度報告申上げたる処なるが、本年産米の実収高は収穫期前に於ける早〔ママ〕冷害予想外に甚大なりし為、予想収穫高に比し更に相当の減収を見る等の次第もあり、買上に対する官民一致の努力にも不拘(かかわらず)計画に対し米に在りては約一二〇万石雑穀に在りては六〇万石合計一八〇万石の買上不能はまぬがれざる状勢に在り。(74画像目)}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/B02031291700|title=22.朝鮮及台湾ノ現況/2 朝鮮及台湾ノ現況の2|accessdate=2021年9月11日|publisher=国立公文書館アジア歴史資料センター|quote=即ち朝鮮に於ては、昭和十七年に於ける大旱魃に引続き十八年度及十九年の旱魃凶作に因り、主要食糧たる米は平年作の二千二百万石に対し七、八百万石の生産減少を来したる。(9画像目)}}</ref>にも拘らず事前の供出割当をこなす必要があったため「農民の負担が漸く過重」<ref name=":2">{{Cite web|url=https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/B06050483500|title=本邦農産物関係雑件/農作物作柄状況/外地関係/分割4|accessdate=2021年9月11日|publisher=国立公文書館アジア歴史資料センター|quote=昭和二十年五月十九日 |
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朝鮮総督府農商局長 |
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内務省管理局長殿 |
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米穀供出対策要綱送付の件 |
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主要食糧の増産及供出の確保に付ては、現下の食糧事情に鑑み之が完遂を図る要極めて緊切なるものある処、最近に於ける農村の情勢は茲両三年来の相次ぐ凶作に依り供出に対する農民の負担漸く過重となり却って農民の増産意欲を減殺せしむる虞なしとせざる実情にありたるを以て、本年産米の供出に付ては之が方法を改訂し別紙要綱に依ることと決定せられたるに付、参考迄通報す(73画像目)}}</ref>「供出後に於ける農村の食糧事情は既に相当窮迫」<ref>{{Cite web|url=https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/B06050484000|title=本邦農産物関係雑件/農作物作柄状況/外地関係/分割2|accessdate=2012年9月11日|publisher=国立公文書館アジア歴史資料センター|quote=管殖第九号 |
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昭和二十年一月十一日 |
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朝鮮農商局長 |
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管理局長宛 |
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糧穀の供出に関しては小官帰任以来更に鋭意督励を加へつつあるも、秋落に依る減収予想外に大にして各道共割当量の供出確保に苦心を重ねつつあり。就中主要米産地帯たる黄海、京畿、全北の各道にありては此の傾向特に顕著にして、供出後に於ける農村の食糧事情は既に相当窮迫を告げつつある状況にして、割当量の全量確保は目下の情勢にては至難なる情勢にあり。(40画像目)}}</ref>という有様であった。[[内務省 (日本)|内務省]]嘱託小暮泰用は1944年7月の朝鮮視察報告書<ref>{{Cite web|url=https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/B02031286700|title=8.復命書及意見集/1 復命書及意見集の1|accessdate=2021年9月11日|publisher=国立公文書館アジア歴史資料センター|quote=斯る基礎に於て個々の農家の具体的供出量が定められる、そうして此の供出令は文字通り至上命令とされ供出の完遂は勧奨よりも強圧強権を加へて強ひられる場合が極めて多い状態である。 |
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而も朝鮮の農民は純朴従順であって、そこには涙ぐましい数数の実話実情も多い、或は明日の糧まで供出せる者あり或は彼等の何よりも大切なる農牛や家屋や家財道具等を売払って闇買をしてまでも自己の供出割当数量を完遂せる者も居る、従って部落に於て勢力のある者、即ち所謂有力者其の他富豪権力者を除いては出来以外の時に於ける農村の食糧事情は殆んど窮迫の状態にある。従って農業者にして尚朝飯夕粥は良い方で多くは糊口に苦しみ自己の生産物は全部供出に献げ自分は大豆、小豆の葉や草根木皮にて辛じて延命し顔は腫れ上り正に生不如死の惨状を呈し空腹の為め働く事も出来ず寝て居る者も尠くない状態である。 |
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斯の如き朝鮮農村の食糧事情よりして農民は食糧は生産しても自らは喰へない故に農村には増産意欲どころか寧ろ厭農思想が相当濃厚であり生産物を隠匿せんとする傾向が強くなって来た。 |
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そこで供出督励者は農家や農家の周囲を捜索し炊事時に不意打的に踏み込み炊事釜や食物を検査し果ては面、駐在所等に呼出して迅〔ママ〕問する等全く朝鮮でなくては見ることの出来ない奇異なる現象を彼所此所に露出して居る、宜しく今後は農民に食糧を保護し産業戦士として所遇するのが急務であり之が結局増産の最も有力な途である様に思はれる。(11・12画像目)}}</ref>で「農民は食糧は生産しても自らは喰へない故に…厭農思想が相当濃厚であり」と指摘しているが、小暮だけでなく複数資料<ref name=":2" /><ref>{{Cite book|和書|title=朝鮮農政の課題|year=1943|publisher=成美堂書店|page=467|author=久間健一|quote=四、厭農思想 時局下朝鮮農業に課せられた増産と、供出といふ二大使命が、今日如何なる姿において遂行せられつゝあるかについて、若干の事柄を展望的に述べたが…然るに、近頃有識の人々の間に、或は過大に、或は過小に、厭農思想といふことが、しきりに強調せられてゐる。}}</ref>が同様の指摘をしている。それでも日本当局は「内地第一主義」<ref>{{Cite web|url=https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/B06050484000|title=本邦農産物関係雑件/農作物作柄状況/外地関係/分割2|accessdate=2021年9月11日|publisher=国立公文書館アジア歴史資料センター|quote=昭和20年5月7日発送済 |
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案 |
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局長 |
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食糧管理局長官宛 |
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朝鮮に於ける昭和二十年度食糧事情並に之が対策に関する件 |
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朝鮮に於ける昭和十九年産米及雑穀の買上状況は、同年産米の減収等に累せられ官民一致の努力にも拘らず計画に対し米に於て約百万石及雑穀に於て約六十万石、合計約百六十万石の買上不能は免れ得ざる状況に之有り候。戦局の推移に伴ふ内地食糧情勢に鑑み鮮内食糧事情の如何に拘らず内地第一主義に依り移出米の完送を必期すべく目下鋭意之が集荷に努力中に之有り候処、右買上補填対策としては青少年特配、労務者特配、幽霊人口の整理、買上不能道の農家調整用の圧縮等に依り百四十二万石の消費節減を図るの外、極力早場米の買上強化、藷類の増産等に因り概ね切抜に鋭意努力中に之有り候。}}</ref>で朝鮮半島における「消費節減を図る」などして朝鮮米の内地移出に努めた。 |
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====== 自治 ====== |
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[[イギリス領インド帝国|英領インド]]では英国直轄領についても地方自治制度があった。またマハラジャが支配する[[藩王国]]も内政権をもっていた<ref>{{Cite book|和書|title=植民及植民政策|year=1926|publisher=有斐閣|pages=334-335|author=矢内原忠雄|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/982912/176|quote=印度の市町村制に関しては、一八八三年―八四年の地方自治法によりて、選挙制が印度各地に亘りて普及せられ、市町村会議員の大部分は納税者の選挙にかゝり、而して通例議員の大部分若くは全部が印度人である。処によりては婦人の選挙権被選挙権も認めらるるものありといふ。 |
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終りに印度土人王侯国は総督の監督の下に立つ保護国関係にあるが、その有力なるものは内政上の自主権を有す。一九二一年二月以来王侯会議なる常設機関が設けられ、総督の下に共通的及び帝国的事項を協議することゝなった。土人国の総数は大小七百に上るといふ。}}</ref>。[[オランダ領東インド]](現インドネシア)でもスルタンらが自治を行っていた<ref>{{Cite web|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1138965/9|title=海外拓殖事業調査資料. 第32輯 蘭領印度統治組織|accessdate=2021年9月8日|website=国立国会図書館デジタルコレクション|author=拓務省拓南局編|page=5|quote=第二章 蘭領印度 |
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一、領域 |
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蘭領印度は次の三種の土地を包含して居る。イ、和蘭の直接統治下にある地域 ロ、領内諸侯又は住民の自治下にある地域 ハ、イ項、ロ項に属せざる和蘭国籍民たる住民に所属して居る地域 }}</ref>。 |
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また米領フィリピンは[[フィリピン独立法]]により将来の独立が約束され、独立準備政府が発足しフィリピン人大統領が誕生していた。 |
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一方で韓国併合後の[[李王家]]は一切実権の無いお飾りで、また朝鮮の予算は日本本国の国会で審議決定していた<ref>{{Cite web|url=http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10038728&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA|title=時事新報 1920.2.2-1920.2.10 (大正9)予算分科会 衆議院委員会|accessdate=2021年9月11日|publisher=神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫|quote=三分科(大蔵植民地) |
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六日午前十時三十五分開会、朝鮮総督府特別会計の質問に入り牧山耕造氏の質問に対し斎藤総督は左の如く答弁す 斎藤総督 一、九年度予算に於ては朝鮮総督府に諮問機関を置く事とせり…}}</ref>。戦前の植民政策学者[[矢内原忠雄]]は1927年著書<ref>{{Cite book|和書|title=植民政策の新基調|year=1927|publisher=弘文堂書房|page=353|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1279716/189}}</ref>で「朝鮮に於ける中央行政は総督の独断専制である。かくの如き植民地統治制度は広き世界にも類例乏しきものである」と述べた。 |
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====== 人口 ====== |
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[[オランダ領東インド]](現インドネシア)では、ジャワ島の人口は1850年957万人、1880年1,979万人、1905年3,010万人と増加しており、インドネシア全体の人口でも1920年5,233万人、1940年7,048万人である<ref>{{Cite web|url=http://www.cicred.org/Eng/Publications/pdf/c-c24.pdf|title=THE POPULATION OF INDONESIA|accessdate=2021年9月9日|publisher=CICRED|pages=6-10}}</ref>。 |
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フィリピンの人口は、スペイン領時代1877年に557万人、1896年に626万人、米領になってからは1903年764万人、1918年には1,031万人、1939年には1,600万人である<ref>{{Cite web|url=http://www.cicred.org/Eng/Publications/pdf/c-c42.pdf|title=POPULATION OF THE PHILIPPINES|accessdate=2021年9月9日|publisher=CICRED|page=7}}</ref>。 |
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英領インドの人口は、1901年2億3,840万人、1941円3億1,866万人である<ref>{{Cite web|url=https://censusindia.gov.in/2011-prov-results/prov_results_paper1_india.html|title=「Provisional Population Totals Paper 1 of 2011 India Series 1」の「Chapter-3 SIZE, GROWTH RATE AND DISTRIBUTION OF POPULATION」|accessdate=2021年9月9日|publisher=インド内務省|page=41}}</ref>。 |
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英領マレー(半島)の人口は、1911年234万人、1931年379万人、1947年491万人である<ref>{{Cite web|url=http://www.cicred.org/Eng/Publications/pdf/c-c34.pdf|title=THE POPULATION OF MALAYSIA|accessdate=2021年9月9日|publisher=CICRED|page=9}}</ref>。 |
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一方で朝鮮半島についてしばしば言われる併合期の人口増加については、次のような事情がある。 |
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* そもそも併合以前の人口が不明。菊池謙譲は1896年の著書<ref>{{Cite web|title=朝鮮王国 - 国立国会図書館デジタルコレクション|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766884/77|website=dl.ndl.go.jp|accessdate=2021-09-09|language=ja}}</ref>で当時の様々な人口推計を紹介しているが、それによると7、8百万から18百万人まで幅がある。 |
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* 東京高等師範学校教授だった矢津昌永は1904年著書<ref>{{Cite web|title=韓国地理 - 国立国会図書館デジタルコレクション|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766846/27|website=dl.ndl.go.jp|accessdate=2021-09-09|language=ja|page=44}}</ref>で韓国人口の「漸次減退の傾向」の原因の一つとして「戸数税を免かれんとする結果によると云ふ」という説を紹介している。[[四方博]]は1937年論文<ref>{{Cite journal|author=四方博|year=1937|title=李朝人口に関する一研究|journal=京城帝国大学法学会論集|volume=第9冊|page=29}}</ref>で、李氏朝鮮時代の男女比の偏り、男性人口が少ないことについて「全体的に女子人口の多数なることについては、普通、役賦を免れんが為めの漏籍によると言はれて居る。蓋しその事実は否定し難く、歴朝屡々これを教し、大臣亦屡々これを啓して居る。」と述べている。 |
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* 朝鮮総督府機関紙「京城日報」1914年記事<ref>{{Cite web|title=京城日報 1914.12.2-1914.12.7 (大正3)朝鮮と食料 (一〜[六]) 三十年後の予想|url=http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10064401&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA|website=|accessdate=2021-09-09|publisher=神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫}}</ref>で「朝鮮人数の年々異常に増加せしは民籍調査の際脱漏を発見せしもの多に依る」としている。 |
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====== 医療・衛生 ====== |
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英領マレー |
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「官立の医療機関としては[[海峡植民地]]に病院一七、精神病院一…連邦州には官立医科学研究所一、病院四七…」「連邦州各郡には媒介の蚊撲滅委員会が組織され、[[マラリア|マラリヤ]]連鎖(人間と蚊)を破砕するためあらゆる手段を実施してゐるが、殊に下水溝開渠、暗渠はよくその目的を達し今日では頗る完全の域に達してゐる」<ref>{{Cite web|title=南進叢書. 第6 馬來及昭南島 - 国立国会図書館デジタルコレクション|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1044037/36|website=dl.ndl.go.jp|accessdate=2021-09-09|language=ja|pages=56-57}}</ref> |
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仏領インドシナ |
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「仏国の[[コーチシナ|交趾支那]]占領の一八六〇年以来、医療救護事業は同地へ著任の行政官及軍医官の努力に依って組織的に着手された。…かくて、一九〇五年交趾支那に於ける土著人の医療救護に当る病院数は七十二に達した。」<ref>{{Cite web|title=印度支那に於ける仏国の医療事業の沿革 : 附・[ラオス]国に於ける医療救護 - 国立国会図書館デジタルコレクション|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1093965/4|website=dl.ndl.go.jp|accessdate=2021-09-09|language=ja}}</ref>。ハノイ市では出生後ひと月未満の死亡者数が1925年は千人に付き180人だったが1938年は同33人に改善<ref>{{Cite web|title=仏印統計書. 1937-38 - 国立国会図書館デジタルコレクション|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1903585/28|website=dl.ndl.go.jp|accessdate=2021-09-09|language=ja|quote=23}}</ref>。 |
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オランダ領東インド |
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官立病院としては中央病院3、公立病院61など。「官立病院は設備完備し、就中、ウェルテフレーデン(※[[バタヴィア|バタビヤ]]の一区域)、[[スマラン]]、[[スラバヤ]]の官立中央病院、或は[[バンドン (インドネシア)|バンドン]]の官立眼病院等は大規模である。」<ref>{{Cite web|title=南洋叢書. 第1巻 (蘭領東印度篇) - 国立国会図書館デジタルコレクション|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1877637/228|website=dl.ndl.go.jp|accessdate=2021-09-09|language=ja}}</ref> |
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英領インド |
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「病院および施薬所はほぼ六千七百、病床六万九千三百で、そのうち八パ―セントは私立団体によって、残余は州政府、地方団体、鉄道によって維持される。」<ref>{{Cite web|title=印度概観 - 国立国会図書館デジタルコレクション|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1044234/310|website=dl.ndl.go.jp|accessdate=2021-09-09|language=ja}}</ref> |
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====== 財政(赤字・黒字) ====== |
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しばしば「日本の朝鮮支配は持ち出し・赤字だった」と主張されるが、例えばオランダ領東インド(現インドネシア)では、「一九二七年を最後として、黒字の跡を絶ち爾来赤字財政に悩んで居」た<ref>{{Cite web|title=蘭領印度民族史 - 国立国会図書館デジタルコレクション|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1229408/105|website=dl.ndl.go.jp|accessdate=2021-09-09|language=ja}}</ref>。また1889年度の同地予算は838万7010フロレンの「不足額を生ずべし」<ref>{{Cite web|title=官報. 1888年12月07日 - 国立国会図書館デジタルコレクション|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2944874/5|website=dl.ndl.go.jp|accessdate=2021-09-09|language=ja|page=76}}</ref>であったが、その理由は鉄道敷設など「種々の土木費に頗る多額の経費を要す」というものだった。 |
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また[[ドイツ植民地帝国|ドイツ植民地]]についても、[[矢内原忠雄]]は1926年の著書で各植民地ごとの歳入と補助金の額を示しつつ「[[トーゴ|トーゴ―]]を除き何れも巨額の補助金を要したが、併乍ら次第に開発の進捗と共に植民地歳入を増加し補助の必要を減ずるの形成であった」<ref>{{Cite web|title=植民及植民政策|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/982912/294|website=dl.ndl.go.jp|accessdate=2021-09-09|language=ja|page=570}}</ref>と述べている。 |
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さらに矢内原は続けてZimmermann著「Kolonialpolitik」(1905年)を以下のように引用した。{{Quotation|植民地の本国に対する財政的価値に関し、チンメルマンは之を次の如く要約した。曰く、「植民地が本国に対し長期に亘りてかなり著しき歳入を与へたのはたヾ僅なる場合あるのみ。本国が一時的でも利得を納め得た例は更に稀である。スペインの凡ての大植民地中メキシコとキューバのみ、ポルトガル植民地ではブラジル、英領では東印度、蘭領ではジャバのみが、本国々庫を富ませた。之等の場合でもその利益の継続的であったのはたゞ東印度とブラジルと、及び多分メキシコに於てのみであった。|矢内原忠雄「植民及植民政策」|}} |
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戦前の経済学者[[河津暹]]は1940年の著書で「植民地を保有することは財政上利益となるよりは負担となることが多いが故に…甚しきは之を抛棄すべきことを主張するものを生ずるに至った」<ref>{{Cite web|title=経済政策体系. 第9巻 (植民と植民政策) - 国立国会図書館デジタルコレクション|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1267958/102|website=dl.ndl.go.jp|accessdate=2021-09-09|language=ja|page=188}}</ref>と述べている。 |
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====== 「同化」か「自治」か ====== |
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日本の植民地支配は「同化」と言われるが、戦前の研究者の間では同化植民地はよくない、欧米でも同化政策はうまくいっていない、というのが共通認識であった<ref>{{Cite web|title=神戸新聞 1927.12.14-1927.12.15 (昭和2)自治か同化か (上・下)植民地政策講演 大阪高商教授 長田|url=http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10024535&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA|website=神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫|accessdate=2021-09-09}}</ref><ref>{{Cite web|title=大阪毎日新聞 1919.6.10 (大正8)朝鮮と自治を与えよ (一〜四)京都市記念講演筆記 法学博士 末広重雄氏談|url=http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10102041&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA|website=www.lib.kobe-u.ac.jp|accessdate=2021-09-09|publisher=神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫|quote=遠き昔は別として輓近世界各国の民族精神勃興以来同化政策の成功せし例更になし、仮えば仏国はアルゼリヤ、印度支那に失敗し英国は印度に失敗す随って今日白人国にして植民地に同化政策を行える所一もなし、和蘭も米国も同様なり}}</ref><ref>{{Cite web|title=神戸又新日報 1921.1.2 (大正10)植民地領有目的 法学博士 山本美越乃|url=http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10026007&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA|website=神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫|accessdate=2021-09-09|quote=同化主義は仏国の主義である。英国は植民地住民の同化は至難であるから本国は指導するに止め自治を認めて居る。仏国の同化議論は人間は顔容智識の相違はあるが、各自理性を有して居る、文明人の理性は磨けるダイヤモンドである。植民地住民は未だ磨かざるダイヤモンドであるから本国が好い制度と認めたものを、野蛮末開の植民地に施せば宜い、其の実行に当っては強制的にも同化せしめよと云うのであるが屡失敗を繰返して居る。}}</ref><ref>{{Cite web|title=植民及植民政策|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1281154/164|website=国会図書館デジタルコレクション|accessdate=2021-09-09|language=ja|quote=同化主義とは植民地に対し全然本国と同一の待遇を与へんとするものである…たとへばルロア・ボーリユーはアルヂェリーに於てアラビア人に対する政策は、隔離融合及び放任の三者中、融合を以て最良の策なりとし、「部族的社会構成、共有財産制度、及び一夫多妻の家族制をば急進的に改革せよ…」…然るに同化主義は社会群の特殊的存在の事実を無視するが故に、その成績は却って不良にして、原住者の社会生活に対する圧迫によりその不満反抗を激成するの結果を経験した。こゝに於てか植民地の自主的発展を中心とする政策が勢力を占め来り、従来同化政策の代表的植民国と称せられし仏国に於てすら、二十世紀以来之に反対する学者が輩出した。ポアンカレ内閣の植民大臣サローの如き実際家も同化主義の失敗を公認し、自主々義に基く植民政策は何等植民地の分離を憂ふるの結果を生ぜざるべく、却って之によりて協同繁栄の実を挙ぐるを得べしと提唱するに至った。|author=矢内原忠雄|pages=304-305}}</ref><ref>{{Cite web|title=植民地統治論|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952532/148|website=国会図書館デジタルコレクション|accessdate=2021-09-09|language=ja|quote=仏国は第十九世紀の中葉に方り同化主義を以て植民地統治の大方針を定め先づアルゼリアに於て実行し…仮りに基督教徒の被告に対してマホメット教徒の陪審官が定められたる場合には、宗教的及人種的憎悪の念を判決の上に現す事屡々であって、為めに正当なる裁判を見る能はざる状態である。…仏国は又交趾支那に於ても同化主義を採用して居るが、安南、カムボヂア、東京保護国に比し莫大なる費用と、多数の役人を使用し、極めて不良の結果を示して居る。…同化主義は本国本位の統治方針であって植民地の幸福安寧を主眼として居らぬ。之れ今日の植民地統治方針として極めて不合理のものであると云はるゝ所以である。|author=泉哲}}</ref>。{{Quotation|従来の植民政策を分ちて同化主義と自治主義とされるが同化主義とは植民地と本国とを同じ様にしようとしその結果本国の干渉が絶えず及ぶ様になるのである…而して過去に於て前者を採用した国は仏、独が顕著であり後者は英国が採用しその孰れが是か非かはいう迄もなく前者が民族特有の習慣感情を認めない点で徹頭徹尾まちがっている即ち仏国が其植民地アルゼリアが数千年慣れ来った家族制度を廃止せむとして失敗し又森林法による森林伐採がアルゼリア人を脅威して大なる反対に遭い森林法の廃止を余儀なくされたこと…独逸は戦前属領ボーランドに独逸語でなければならぬと国語を強要したのに対し非常な反対に遭った等であるが一方翻って後者の自治主義制を見るに特殊の文化を認めると云う非常に植民地一般に対しても都合のよい方法であるから歴史上同化主義制の失敗をして居るに反し自治主義制が成効している|神戸新聞 1927.12.14-1927.12.15 大阪高商教授 長田|}} |
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====== 兵役 ====== |
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英領インド軍は志願兵だった<ref>{{Cite web|title="Largest Volunteer Force In History": Boris Johnson Hails British-Indian Army|url=https://www.ndtv.com/world-news/boris-johnson-hails-british-indian-army-largest-volunteer-force-in-history-2321875|website=NDTV.com|accessdate=2021-09-11}}</ref>。一方朝鮮半島では1944年から徴兵が行われた(→[[朝鮮人日本兵]])。また朝鮮人を対象とした志願兵制度についても、実際は強制があった<ref>{{Cite web|url=https://yab.yomiuri.co.jp/adv/chuo/education/20140501.html|title=学徒出陣70周年-元朝鮮人学徒兵を訪ねて|accessdate=2021年9月11日|publisher=読売新聞|quote=朝鮮人・台湾人学生を対象に、「特別志願兵」が募集された。表向きは志願兵であったが、志願しない学生に対して当時の文部省は、休学・退学措置を各大学に命じた。}}</ref><ref>兵務局長「朝鮮現在の志願兵制度はその実質を微するに必ずしも真実志願せるものは少なく、強圧により止むを得ず志願せりというもの多し。従って徴兵制の施行は多いに考慮を要す。」(出典 金原節三「陸軍省業務日誌摘録」)</ref><ref>{{Cite web|url=https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/#/detailPDF?minId=008103596X00219430226&page=3&spkNum=7¤t=3|title=第81回帝国議会 貴族院 予算委員第三分科会(内務省、文部省、厚生省) 第2号 昭和18年2月26日|accessdate=2021年9月11日|website=帝国議会会議録検索システム|page=3|quote=○政府委員(田中武雄君) それから次は創氏の問題、志願兵問題等に付きまして、官辺の強制と云ふやうなことに関してでございまするが、是は私共も仰せの如く同じやうなことを耳に致して居りましたので、揣らずも自分がさう云ったやうなことに対しまして責任の地位に立ちましたので、さう云ったことに対しまして間違って居ることがあるならば是正をして参りたいと考へまして、色々事実の真相を調べて見たのであります、必ずしも絶対にさう云ふことがなかったとは申上げ兼ねまするのでありまして、一部遺憾な事例もあるやうであります、併し将来は左様なことのないやうに、適正に運営して参りたいと斯様に存じて居ります、特に志願兵制度等に付きましては、総督の言明でありました、新聞に何十万志願者があったと云ふようなことを余りに書くことは、一面に於て由なき宣伝のようにも見えるし、又それがために道の競争と云ふやうな心理を誘発する虞れもあるから、一切新聞に書かすなと云ふことを厳命されました、確か今年は何倍あったと云ふやうなことは新聞には一切書かさなかったと記憶致して居ります、}}</ref>。「志願兵を強制的にして何んの効力があるぞや」という投書を仁川警察署が検挙した事例もあった<ref>{{Cite journal|author=井上薫|year=1997|title=日本統治下末期の朝鮮における日本語普及・強制政策 : 徴兵制度導入に至るまでの日本語常用・全解運動への動員|journal=北海道大学教育学部紀要|issue=73|page=143}}</ref>。 |
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====== 立身出世 ====== |
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インドの[[タタ・グループ|タタ財閥]]・[[ビルラ|ビルラ財閥]]は英領インド時代創業である。またインド初代首相[[ジャワハルラール・ネルー|ネルー]]は英国の名門[[パブリックスクール]]である[[ハロウスクール|ハーロー校]]から[[ケンブリッジ大学]]を出て弁護士、[[ラダ・ビノード・パール|パール判事]]は[[コルカタ大学]]を出て弁護士、[[マハトマ・ガンディー|ガンジー]]も英本国で学んで弁護士になり、[[スバス・チャンドラ・ボース|チャンドラ・ボース]]はコルカタ大学を卒業してケンブリッジ大学に留学し[[インド高等文官]]試験を受験している。またパキスタン第二代大統領[[アユーブ・ハーン]]は、独立前に英領インド軍で准将まで進んだ。英領インドの高級官僚であるインド高等文官は1947年時点でインド人322名、イギリス人688名であったという。フィリピンの[[マニュエル・ロハス]]や[[エルピディオ・キリノ]]は米領時代にフィリピン大学を卒業し独立後に大統領になっている。 |
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2021年11月14日 (日) 12:28時点における版
植民地(しょくみんち、殖民地とも)とは、国外に移住者が移り住み、当事国政府の支配下にある領土のことで統治領(とうちりょう)とも呼ばれる。
古代史にはフェニキアや古代ギリシアにも見られるが多くは植民元との関係は維持しつつ独立した体制となっており、侵略によって獲得した海外領土の類型は古代ローマに見られる。近年はヴェネチアなどが行った東地中海における植民地経営をそれ以降の植民地支配と連続した流れと考える向きもある。
本項では16世紀に始まるいわゆる「大航海時代」以降ヨーロッパ各国が侵略によって獲得した海外領土を主として扱う。近現代においては、本国政府の憲法や諸法令が原則として施行されず、本国と異なる法的地位にあり、本国に従属する領土を植民地という。
また、植民地に対して従属させて、それらを所有している本国のことは「宗主国」と呼ばれる。
総論
語源
英語の「colony」の語幹「col-」はラテン語「colere」に由来し「耕す」意。cult-も同意でculturで「耕作」「教養」。
日本での植民・移民の研究は明治中後期の頃であり1898年(明治31年)には木村亮吉により『於東洋英国植民政策』(ヂヨゼフ・ジヱレイベール fr:Joseph Chailley著)が翻訳出版されている。但し「西欧列強による有色人種の奴隷化」については近代以前から認知されており、豊臣秀吉の時代にすでにポルトガル人による奴隷売買が知られており、バテレン追放令の原因のひとつに挙げられることがある。幕末においてもアヘン戦争敗北による中国人の奴隷化が知られていた。明治政府は開国以来、外国人の関係する「人権問題」に否応なく巻き込まれるようになった[注 1]。
概要
古代にも植民地はある[注 2]が、「植民地」の規模をそれまでにないほど拡大させたのは近代西欧諸国の産業資本主義の資源収奪要請による。
一般に帝国主義的先進国が植民地を原料工場・市場として経営するとともに、住民を政治・文化・言語的に抑圧支配する。植民地を獲得する過程では、ほとんどのケースで在来住民との軍事的な衝突が起こり、その全殺戮にいたることもある。スペインによるアメリカ大陸の植民地化やイギリスによるアメリカ大陸の植民地化の過程ではしばしば現地住民が激減し、フランスもカリブ海西インド諸島のマルティニーク島の原住民を1658年に殲滅し、純粋な島民は絶滅した[2]。南太平洋の島嶼部では労働者として現地住民を雇用しても失敗するのが定説であった。白人と接触以降に現地人人口が激減することも多く(ハワイやフィジー、サモアなど)、他の領土から労働者を移住させざるをえない状況が頻発した[3]。
現地住民との混血や本国国籍人の現地での浮浪化などは、しばしば民政や法的な問題を発生させた。アヘンや覚醒剤ビジネスは植民地経済に根付くことが多かった。
植民地を獲得したあとは、その植民地を統治・経営(植民地経営)することになる。その過程を植民地化という。
1804年、フランス革命に触発されたハイチが非白人国家としては近代史上はじめて独立して以来、旧植民地諸国は現在にいたるまで数多く独立していった。ただし先進国が独立を認めた背景には、世界経済システムの変容があるといわれる[注 3]。こうした一連の過程を脱植民地化という。
統治形態
植民地の統治形態には、以下のものがある。
- 領事裁判権や租借地・租界設定条約による治外法権の確立。
- 外交権や駐軍権のみを獲得し内政は先住民による統治に任せて原則として干渉しない保護領。
- 現地の王侯や部族長を通じて支配する間接統治。
- 本国から総督や民政長官、軍政長官などを派遣して支配する直接統治。
- 本国が外交と防衛のみを担当し内政は現地住民によって民選された政府・議会に委ねる自治植民地。ただし「自治」とはいっても、参政権は本国出身者に限定されたり、先住民の参加を認めても公用語(本国の言語)習得や一定額以上の納税などの条件を付けて、事実上の参政権が著しく制限されることが多い。
- 自国領への併合(この場合も従来の現地住民について、市民権や国籍上の地位に区別が設定されたり、併合領土での立法・行政権など統治形態が異なることがある)
一般的に植民地統治が継続する中で1.あるいは2.から4.までの変遷をたどるケースが多いが、植民地が本国に隣接している場合、最終的に本国領土の一部として編入され、その過程で先住民も同化が進み、固有の言語や文化、民族意識を喪失していく傾向にある。
植民地における主権は領有国が有するが、領有国の主権がより限定された租借地や租界のまま統治が継続されるケースもある。また、特殊な形態として保護国、複数国による共同統治領、国連の委任統治領や信託統治領などがある。
土地政策
主権のある未文明国に関しては共有、行政占領、租借、割譲という概念で領土獲得を行い、そうでない場合はもっとも露骨な領土獲得の根拠として「無主物先占」の法理が利用された[4]。
差別・分離政策
帝国主義の時代、植民地では本国とは異なった法律が施行、あるいは便宜の規定のみが施行され、先住民には国籍や市民権が与えられなかったり、国籍を与えても「属領籍」「外地籍」「海外籍」のように本国人とは異なる法的身分に編入され、権利義務について不平等な取扱がなされた(イギリス国民や本項の日本の植民地を参照)。
植民地出身者の処遇
ただし、植民地人が本国人と同様の公職に就くことが必ずしも不可能であったわけではなく、官公庁や軍隊において高官に登用され、あるいは本国議会に選出される例もあった。このような傾向は、同化主義を建前とする日本やフランスの植民地に特に強かった。イギリスの海外領土とアメリカ合衆国の海外領土の住民には現在も本国の公職(大統領、国会議員)選挙への投票が認められていない。海外領土出身であっても本国に移住すれば可能である。これに対しフランスの海外県の住民はフランス内地の県の住民と同様に公職選挙への参加が可能である。これは、自治主義、分離主義と同化主義、内地延長主義という植民地統治思想の違いのなごりと見ることができる。
- フランスでは1789年に、サント・ドミンゴ(現ハイチ)の代表が初めて国民議会に参加し、1791年の法律ですべての植民地に本国府県と同等の権利を認め、国民議会に代表を送り、最高法院の法官を選任する権利を与えた[5]。
- フェリックス・エブエはフランス領ギアナで黒人奴隷の子として生まれたが、いくつかの植民地の長官を経て1941年にフランス領赤道アフリカの総督に任命された。
- 後にコートジボワールの初代大統領となるフェリックス・ウフェ=ボワニは、シャルル・ド・ゴール政権下でフランス公共保健・人口相(厚生大臣に相当)に任命された。
- ダーダーバーイー・ナオロージーを始めとする数名の英領インド出身者がイギリス下院議員に選出されている。
- 後に第二次世界大戦期の日本軍占領下で建国されたビルマ国の国家元首となるバー・モウは、1937年にイギリス領ビルマ植民地政府の初代首相に選出された。
- イギリス帝国領インド植民地政府の高級幹部職員であるインド高等文官(ICS)の採用試験は、19世紀後半にインド人にも開放された。結果、インド独立時にはインド人ICSが全体の31%を占めるにいたった。
- ムハンマド・アクバル・ハーンはイギリス領南アジア出身のムスリム(イスラム教徒)として、はじめてイギリス領インド軍の将官に進級した。
- アブドゥル・ラヒームは1908年にマドラス高等裁判所の裁判官に任命され後に同裁判所長官となった。
- フィリピンは1937年にアメリカ合衆国に直接統治される植民地から、独立を視野に入れた自治植民地(コモンウェルス)に移行し、独立準備政府の初代大統領としてマニュエル・ケソンが国民投票によって選出された。
- 日本統治下の朝鮮における道知事の概ね半数程度は朝鮮人であった。
- 衆議院議員として朝鮮人の朴春琴が選出されたほか13名の植民地出身者が貴族院議員に任命された。
- 洪思翊をはじめとする朝鮮人の陸軍士官らが将官に進級した。
立法
立法権は本国政府が任命した総督等の行政長官が掌握することが多かった。多くの場合、植民地の議会は設置されても諮問機関にとどまり、立法権が与えられたとしても、総督等の拒否権が伴うのが通例であった。また、本国の法令の効果は原則的には植民地には及ばないこととされていることが多く、植民地に本国法を適用するためには、植民地政府が別途その旨の法令を制定する必要があった。
行政
行政職員にどの程度現地人を採用するかは植民地によって異なるが、官庁窓口の係員、下級警察官、教員など現地人と直に接する業務従事者には現地人が配置されることが多かった。これは現地語の理解や人員の確保などさまざまな要因があったと考えられるが、結果として現地人の敵意が直接宗主国に向かれるのを回避する効果が期待された。また、植民地人同士の対立を煽ることによって統治を円滑にすすめるため、宗主国に融和的な民族や部族の出身者を優先的に公務員に採用することも行われていた。
司法
多くの植民地では、宗教的な理由などから、本国人と現地人に別個の法体系が適用されていた。
植民地主義
現存する植民地
現代においても事実上の植民地を保有する国は多いが、第二次世界大戦以降は各地の植民地で独立運動が盛んになったり、1960年の国際連合総会における植民地独立付与宣言の決議で、植民地という存在そのものが国際的に否定されたことから、客観的に見て植民地と言いうる実態を有している地域であっても、先住民に本国民と対等の権利を与えて海外領土や自治領などという言い換えをすることが多い。
逆に、客観的に見て植民地と言い難い地域であっても、住民が領有国の統治に不満を持っている場合、領有国を攻撃するための政治的スローガンとして使われることもある。例えばコルシカ民族解放戦線などに代表されるフランス領コルシカ島の分離主義者は同島がフランスの植民地であると主張している。旧東ドイツ住民の中には、「西ドイツの植民地支配を受けている」と主張する人もいる[要出典]。
類推
少数民族の居住地域で、独立運動や市民的自由の抑圧、資源の収奪等の過酷な統治が行われているが、従来の植民地の定義は満たさない地域を、過去の歴史上の植民地との類推から「植民地」と呼ぶこともある。
旧ソ連・ロシアのアジア地域や中華人民共和国のチベット自治区・新疆ウイグル自治区などはこのような文脈で植民地と言われることがある。このような地域を講学上内国植民地と呼ぶことがある。
明治時代における日本の沖縄(琉球処分)や北海道(旧令制国)も講学上の内国植民地に相当する。
事実上の植民地
形式的には独立国として取り扱われていても、内政・軍事両面で外国の圧倒的な影響下に置かれている国家は植民地あるいは植民地同然と形容されることが多い。日本にとっての旧満州国(現在の中国東北部)や旧ソ連の衛星国(現在のモンゴル国、東欧諸国)などがこの典型である。
植民地支配に対する評価
かつては法的にも道義的にも問題ないとするのが常識であったが、現代においては1960年に国際連合総会で決議された植民地独立付与宣言などに見られるように、植民地支配は被害、搾取の時代として否定されるのが世界的傾向である。
旧宗主国側では、近代化という恩恵を後進地域にもたらした善行であるという評価がなされる場合もある。一方で、「部外者による発展」より「民族の独立」そのものに重きを置く価値観から、こうした「恩恵説」に対する反発も存在する。また、植民地支配の便宜を図るための共同体の解体や文化の破壊、言語の空白化を重視する思潮もある(ポストコロニアリズム参照)。
各論
ヨーロッパ諸国
マルコ・ポーロの『東方見聞録』、羅針盤の伝播、香辛料への渇望によりヨーロッパ諸国の東洋に対する関心が高まった。1477年には、クリストファー・コロンブスが大西洋の先の知識を求め、アイスランドへ赴いた。
スペインとポルトガル
ポルトガルとスペインはイベリア半島におけるイスラーム勢力に対する国土回復運動であるレコンキスタを達成した後、大航海時代の先頭を切って海外に進出した。スペインはコロンブスの新大陸発見後、中米のメキシコ、南米のペルーを中心とする大領土を獲得し、さらに太平洋を横断してフィリピン諸島の領有にも成功した。
ポルトガル海上帝国とスペイン帝国の領域を分別したのは、1494年にローマ教皇アレクサンドル6世が定めたトルデシリャス条約である。大西洋上に西経46度の子午線を引き、東をポルトガル、西をスペインの領土とした。このため南米大陸では、ブラジルのみがポルトガル領となった。1529年のサラゴサ条約では現在のインドネシアにあたるモルッカ諸島の東297.5リーグ(ニューギニア島中央部に相当する東経144度30分)を境に、東がスペイン、西がポルトガルの領土とされた。この2つの条約の結果、世界はポルトガルとスペインによって分割された。
ポルトガルは1418年からエンリケ航海王子の下でアフリカ西海岸の探検を続けていたが、1488年に喜望峰を発見すると、東洋における香料貿易の独占をめざしてインド洋に進出した。1500年にはカブラルがブラジルを発見。1511年のマラッカの領有後はマカオ、長崎にまで貿易圏を広げ、一時は日本のキリスト教布教にも成功した。しかしながら、1580年にアヴィス家が断絶するとスペイン王フェリペ2世がポルトガル王となり、事実上スペインの支配下に置かれた。17世紀に入り、1640年には独立を回復するも(ポルトガル王政復古戦争)、アジアで新しく参入したオランダやイギリスとの競合に破れると、南米ブラジルの植民に注力する。その後、ナポレオン戦争に際してブラジル植民地はブラジル帝国として植民地から離脱、さらに、第二次世界大戦後、ポルトガルはインドのゴアにあった植民地からインドの独立後に撤退し、アフリカのアンゴラやモザンビークなどの植民地も1970年代に独立した。1999年にはマカオを中華人民共和国に返還している。
スペインは1521年のコルテスによるアステカ帝国征服、1533年のピサロによるインカ帝国征服により、16世紀から19世紀初頭に至るまで北米南西部からブラジルを除く南米全体に及ぶ大植民地を維持したが(上記のとおり、1580年から1640年にかけては、ポルトガル及びその植民地すらスペイン王の支配下にあった)、イギリス帝国の勃興や王朝交代によりその支配力は弱体化した。1810年に至り現地生まれのクリオーリョは、ナポレオンのスペイン侵攻に乗じて、植民地当局に対して独立を試み、その後15年にわたる攻防により独立を勝ち取る。この結果、スペインが南北アメリカ大陸に維持できた植民地はカリブ海のキューバとプエルトリコだけとなった。さらに、スペインは1898年の米西戦争でキューバとフィリピンを失う。1975年にはアフリカに残っていた西サハラからも撤退した。現在、アフリカ大陸にセウタ及びメリリャを有しているが、自治権や国政参加権は本土と対等であり、スペイン政府は、植民地ではなく飛地領と位置づけている。
イギリス
イギリスの最初の植民地は、イングランドが中世以来入植を繰り返してきたアイルランドといえるだろう。その後は大航海時代の波に乗って北アメリカ大陸へ進出し、17世紀から18世紀にかけてニューイングランド植民地(13植民地)を形成、さらに当初は交易を目的として東洋に渡った東インド会社がインドの諸勢力を巧みに操ってインドを征服。七年戦争ではフランスと争い、その結果イギリスはカナダを獲得、インドからはフランス勢力をほとんど駆逐した。
やがて19世紀始めのナポレオン戦争に勝利したイギリスは、世界の海の覇権を握り大英帝国を建設することとなり、東南アジアのビルマと海峡植民地(後のマレーシア)、中国の香港、流刑植民地として出発したオーストラリアとニュージーランド、アフリカではナイジェリア、南アフリカ(現在の南アフリカ共和国)、南アメリカ大陸のフォークランド諸島などを植民地とした。イギリスはまたスペイン・ポルトガルから独立後の南米諸国やオスマン帝国から独立した中近東諸国にも大きな影響力を持っていたが、これらの植民地は第二次世界大戦後、民族自決の波に乗って次々に独立していった。また、1997年には香港を中華人民共和国に返還している(一国二制度参照)。
ただし、現在でもケイマン諸島、ヴァージン諸島、バミューダ諸島などのカリブ海や大西洋の島々、フォークランド諸島、ジブラルタルなどを海外領土として保有している。
フランス
フランスは当初、カナダのケベックとカリブ海のマルティニーク島、グアドループ島に入植したが、七年戦争でイギリスに敗れ、カナダを放棄した。西アフリカのセネガルも古くからのフランス植民地であった。19世紀になってイスラム圏であるアルジェリアと東洋の仏領インドシナ、南太平洋の仏領ポリネシアのタヒチやニューカレドニアなどの植民地化に成功した。これらの植民地も第二次世界大戦後民族独立の波に乗って次々に独立していった。なおタヒチでは、1990年代フランス政府の核実験に反発した地元住民を中心とした解放機構が、植民地支配からの独立を訴えたが、大統領のジャック・シラクは「タヒチはフランスの一部である」と言明し核実験を実行、現在も独立闘争が続いている。
オランダ
オランダも17世紀から18世紀にかけて帝国主義的な植民地大国としてオランダ海上帝国と呼ばれる。特に17世紀前半はオランダの黄金時代であった。20世紀に入っても東インド植民地(蘭印、インドネシア)や南アメリカの植民地(スリナム)を支配していた。しかし度重なる英蘭戦争で北米の植民地を奪われ、更に南アフリカの植民地も超大国に成長したイギリス帝国に敗れ失うなど、列強としてのオランダの国際的地位は凋落して行った。
20世紀にはインドネシア、スリナムが独立し、ほとんどの領土が失われたが、現在でもカリブ海にキュラソー、アルバの二つの海外領土を持っている。
ロシア(ソビエト社会主義共和国連邦)
ロシア帝国は16世紀、モスクワ大公国がキプチャク汗国から自立し、周囲のスラヴ人の国々を飲み込んでその領土を広げた。16世紀にロシア平原を統一してロシア帝国を成立させると、東へと征服をすすめ、18世紀頃までにはシベリアをほぼ征服した。シベリアの遊牧民を支配下に組み込み勢力を広げた。シベリア制圧を終えると進路は南へ変わり、中央アジアの多くの汗国を侵略、植民地化した。さらにシベリアの南に広がる清とぶつかり、ネルチンスク条約やキャフタ条約によって国境を定めたが、19世紀に清が弱体化すると、アヘン戦争やアロー号事件に乗じ、満州のアムール川以北と沿海州(外満州)を次々に併合、植民地化した。
東方の併合が一段落すると、続いて中央アジアを武力併合、バルカン半島へ進出し、オスマン帝国と幾度も衝突した(南下政策、汎スラヴ主義)。領土拡張主義は日露戦争や第一次世界大戦によって日本、ドイツなどと衝突し合ったが、第一次大戦中に共産主義信奉者によるロシア革命が起こってロシア帝国は滅亡した。拡大した領土はそのままソビエト社会主義共和国連邦に引き継がれ、中央アジア、南コーカサス、非ロシア・スラヴ地域は構成共和国として連邦に加盟し、それ以外はロシア共和国領となった。1941年にはバルト三国を、併合した。
また、第二次世界大戦後に、東欧諸国を中心としてソ連の影響下に置かれた社会主義国も、名目上独立国であるが、衛星国と呼ばれ、植民地的な側面も見られる。冷戦終結とその後の混乱でソ連が崩壊すると、バルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)を除く旧ソ連構成国は独立国家共同体(CIS)を結成して独立し、ロシア連邦内にとどまったシベリア、極東ロシアでも、多くの地域が共和国を構成して自治が行われている。また、東欧諸国でも、ソ連の指導下にあった一党独裁体制が崩壊し、その勢力圏から離脱することになった。
その他のヨーロッパ諸国
- ドイツ帝国はタンガニーカ(現タンザニア)やトーゴ、南西アフリカ(現ナミビア)等のアフリカ植民地や南洋諸島を所有していたが第一次世界大戦敗北により喪失した(ドイツ植民地帝国)。
- イタリアはイタリア領ソマリランド・リビア、さらに短期間のみエチオピア(ソマリアとエリトリアを含むイタリア領東アフリカ)を保持したが、第二次世界大戦の最中にエチオピアを失った。リビアは1951年にリビア王国として独立、ソマリランドはイタリアによる信託統治を経て、ソマリアとして独立した。
- ベルギー国王レオポルド2世は、 ベルリン会議の決議としてコンゴの一部(現在のコンゴ民主共和国の領域)を私領であるコンゴ自由国として保持していた。しかしこの体制による圧政が国際社会から強い非難を受け、1908年にベルギー政府の植民地(ベルギー領コンゴ)に移行した。1960年にコンゴ共和国として独立。コンゴの東に隣接するルアンダ=ウルンディ(ルワンダとブルンジとして独立)はヴェルサイユ条約によってドイツから委任統治領として獲得した植民地である。
- デンマークは北極周辺に植民地を保有し、グリーンランド、フェロー諸島を領有していたが、現在は両国とも自治領となっている。アイスランドもかつてはデンマーク領であった。デンマーク植民地帝国として、デンマーク領西インド諸島、アフリカの黄金海岸の一部、インドのベンガル湾岸の諸都市、ニコバル諸島に植民地を保有していた。後に西インド諸島は第一次世界大戦中にアメリカ合衆国へ、黄金海岸、ベンガル湾岸の諸都市及びニコバル諸島は19世紀半ばにイギリスへ売却された。植民としてよりも海運業が盛んだった。
- スウェーデンは1638年に新大陸にニュースウェーデン(現在のデラウェア州)に植民。後、オランダに奪われる。1650年には黄金海岸にも進出したが、デンマーク、イングランドに奪われて海上帝国を形成出来なかった。植民よりも貿易に力を入れていた。ただしスウェーデンの植民地の先駆けは、中世以来のフィンランドだとも言える(バルト帝国)。近代はロシア帝国に支配されたが、現在でもフィンランド社会にスウェーデンの影響力は深く浸透している。1784年には、フランスから西インド諸島のサン・バルテルミー島を買取り、スウェーデン西インド会社を設立したが、すぐに閉鎖している。若干の殖民も行われたものの、1878年に返還された。島には、今もスウェーデン系を含めたノルマン人の住民が多い。
- ノルウェーは現在、北極海、大西洋上に植民地を領有している。ヴァイキング時代には、グリーンランド、アイスランドも領有していた。現在の植民地は、ノルウェー独立(1905年)以後のものである。北極海にスヴァールバル諸島、ヤンマイエン島、大西洋上にブーベ島、ピョートル1世島を領有している。また南極の一部も領有権を主張している。ヴァイキング時代の植民地を巡ってデンマークと領有権問題を起こしたが、現在は解決している。
- ブランデンブルク=プロイセン(ドイツ帝国の前身)は1682年に西アフリカに遠征し、ギニア湾岸の黄金海岸にグロス・フリードリヒスブルク要塞を建設して奴隷貿易にも携わった。しかし1721年にオランダに売却している。
アジア諸国
日本
大日本帝国時代の統治地域
戦前の日本外務省が対外的に植民地として扱っていたのは、、以下の5つである[6]。
- 台湾(日清戦争後の1895年、下関条約による割譲)
- 南樺太(日露戦争後の1905年、ポーツマス条約による割譲、後に内地編入)
- 関東州(ポーツマス条約による租借地承継。満鉄付属地を含む)
- 朝鮮(1910年の日韓併合条約による大韓帝国の併合)
- 南洋群島(第一次世界大戦後の1922年、国際連盟規約による委任統治)
これらの地域のうち、台湾、南樺太、朝鮮は日本の領土であったのに対して関東州と南洋群島は領土ではなかった。しかし、いずれも日本の統治権が及ぶ地域であり植民地とされた。
また北海道についても、官報で植民地とした例がある[7]。さらに、日本の影響下にあった満州国(1932年建国)も、事実上の植民地に相当する。戦前の植民政策学者大塩亀雄は「満州国は独立国であるが、建国日猶ほ浅く、政治上経済上、我国よりの特殊の指導に依らねばならず、事実上之を植民地と見做して差支ない」[8]とした。
ただし、南樺太に関しては統治の初期より準内地的に扱われた。各地域の法令の適用範囲の確定等が目的の共通法(1918年制定)では内地の一部として扱われた。1943年4月には完全に内地に編入。
なお、内地の沖縄(大東諸島、尖閣諸島を含む)、奄美群島、北海道、東北地方、小笠原諸島も植民地として捉えるべきであるとか、日本の近代化について日本国家が日本社会を植民地化した過程である(自己植民地化論)と捉える観点も存在する。京城日報社長松岡正男は1927年講演で「今日学者の一般に認める所の定義を申上げますれば、『植民地とけ本国に従属せる領土であって、これが行政は毋国と異るけれども、しかもその間政治的又は法律的連鎖の存在するものをいう』というのであります。即ちこの定義から見まするならば、日本帝国内にあって、内地と行政をことにするもの、即ち、朝鮮、台湾、樺太の植民地であることは勿論でありますが、北海道も琉球も二十年ばかり前までは植民地と称すべきものであったのであります」と述べた[9]。
「併合」と植民地
例えばアメリカはテキサスを併合して本土・本国の一部としたが、フィリピンを併合[10]した後は本土・本国ではなく植民地として統治した、つまり植民地として併合した・併合して植民地にした。ベルギーはコンゴ自由国を「植民地として併合」(annexed as a colony)[11]し、フランスはアルジェリアを植民地として併合し、英国はニュージーランドを植民地として併合した。それと同じように、日本は韓国を併合して植民地にした・植民地として併合した。
「植」民地と「殖」民地
日本政府は自国植民地について文書・政府刊行物では「殖」表記を多用したが、「植」の用例[12][13]もある。また欧米植民地についても「植民地」[14]「殖民地」[15]両方を用いている。要するに「殖民地」「植民地」どちらでもよく、意味は同じである。また学術分野ではもっぱら「植」表記を用いた[16]。戦前の植民政策学者大塩亀雄は「我国に於て今猶ほ多く用ゐらるゝ『殖民』は誤にて」と指摘している[17]。
植民地の定義
美濃部達吉は1923年(大正12年)の『憲法撮要』にて、「法律上の意義に於ての殖民地」を「国家の統治区域の一部にして内地と原則として国法を異にし」たものと定義し、「朝鮮、台湾、樺太、関東州及南洋群島が此の意義において植民地なることは疑いを容れず」と述べる。
水野直樹[18]は、日本の法令で植民地という用語を使用したものはないが、公文書ではこれらの地域について植民地(殖民地)の語を使用しているものが存在していたことを指摘する。
法令による規定では
- 内地では帝国議会が法律を制定した(事実上)のに対し、外地では形式的には行政庁である総督が制令(朝鮮)や律令(台湾)などを制定していたこと[注 4]
- 外地には衆議院の選挙区が設置されなかったこと
- 樺太・関東州・南洋諸島の在来住民に日本国籍が与えられなかったこと
など、内地と外地の間に法律上の区別が存在したことから、アカデミズムの世界ではこれらの地域について「植民地」と呼ぶことを自明の前提として研究や議論が展開されることが多い。
また、日本の統治が及んでいた地域ではないが、1932年(昭和7年)に建国された満洲国(満洲国については、準外地と呼ぶことがある)や、大東亜共栄圏構想の下に起こした太平洋戦争の間に日本軍占領下で樹立された国々(フィリピン第二共和国、ベトナム帝国、ラオス王国、ビルマ国、カンボジア王国)や、日本軍占領下で成立した政権の支配地域(蒙古自治邦、汪兆銘政権など)を名目上は独立国であるとはいえ、その実質的な傀儡性から、第二次世界大戦中においては日本の植民地同然だったとする見解もある。
比較法学の観点では、当時の国法学の観点では「国土」という確定された領域は国土学によって理論的に整除され、その結果を憲法に記述することが慣行となっていた。1831年のベルギー憲法、1848年のプロイセン憲法、1871年のドイツ帝国憲法のように第一条に国土条項を記述するのが通例で、領土条項を欠いた憲法はなんらかの事情があり、その点で大日本帝国憲法は異例であった。石村修はこの点について江戸時代における長期の鎖国体制や地政学的特性に着目する。西欧型の植民地経営の特徴は、自国の法がおよぶ範囲を限定し殖民会社に軍備・司法・行政・外交の特権を付与することで、国家も直接植民地支配の煩わしさから解放されることになり、そこでは軍事警察力による暴力的な支配権力が不可欠であり、法的には内地と区分された(外地)という枠組みが形成されるにいたった。19世紀のヨーロッパは国家主権が欠落した空間に宗主国の主権が及ぶことを想定しながら、直接的な責任逃れの法理が適用されることを期待して「外地」(overseas territories)という領土を作り出したとする[4]。
明治憲法(大日本帝国憲法)の形質の観点では、明治憲法に領土規定がなく、ヘルマン・ロエスレルの案においては領土は自明のものであり、また「国体」に関わり議院に属さないものだとして領土規定は立ち消えたのであるが、実際にはロエスレルの認識とは異なり日本の領土は北(樺太・北海道)も南(琉球)も対外政策は不安定な中にあった。明治政府にとって好都合であったことは確かで露骨なものとしては「我カ憲法ハ領土ニ就イテ規定スル所ナシ、諸国憲法ノ或ハ領土ヲ列挙スルト甚タ異レリ、サレハ我ニ在リテハ、領土ノ獲得ハ憲法改正ノ手続ヲ要セス」(上杉慎吉「新稿・憲法述義」1924年P.143[19])と解されていた[20]。
いくつかの勅令等に「殖民地」「植民地」の用語を使用するものが存在したことが指摘される。
- 1898年、時の明治天皇による明治31年勅令第37号では、「北海道殖民地」の用語が使用されている[21]。
- 1932年9月3日昭和天皇が公布の「昭和七年・予算外国庫ノ負担トナルヘキ契約九月三日・予算外国庫ノ負担トナルヘキ契約ヲ為スヲ要スル件」において、「電話ノ料金中本邦收得分(植民地收得分ヲ除ク)」と「植民地」の用語が使用されている[22] 。
- 1930年、昭和5年条約第4号・万国郵便条約では、「第8条 殖民地保護領等」の項目に、朝鮮を含めている[23]。
また、公文書にも「植民地」の用語例は見られ、例えば大正12年刊行の拓殖事務局『植民地要覧』では朝鮮・台湾・樺太・関東州・南洋群島を「我が植民地と解せらるる」とした(同書では南満州鉄道付属地も扱った)。
日本の内地以外の支配地域を植民地とすることへの異論、反発
植民地という用語は元々は「開拓地」や「入植地」などと同様に正否の価値判断を含まない一般術語であり、近代植民地法制学等の社会科学におけるに講学上のテクニカルタームにすぎない[注 5]。外地を「植民地」「殖民地」と呼ぶことへの感情的な反発は明治期からすでに存在し、いわゆる忌避語・侮蔑語のようなニュアンスがあり、外地を植民地と呼称することは回避され「我国にては斯(植民)の如き公の称呼を法律上一切に加えず単に台湾朝鮮樺太等地名を呼ぶ」[25]ことが事実上の慣例となっていた。
「植民地」認識の一般化
前項で小熊が挙げたのは1905年2月22日衆議院本会議における守屋此助議員の発言[27]であるが、これには続きがあって、政府委員である法制局長官一木喜徳郎(一木はこれ以前に帝国大学法科大学教授、貴族院議員)が守屋に対してこう答弁している。
総理大臣が委員会に於て殖民地として扱ふのであると云ふことを言はれたに付いて、云々と云ふ御尋ねもありましたが、殖民地と云ふことは、随分いろいろの意味に用ゐらるゝ言葉であらうと思ふ、学者に定義を下さしめたならば、殖民地と云ふことに付いては、人々の定義はいろいろであらうと思ひます、要するに台湾に於きましては、内地同様の制度を以てすることが出来ない、特別の制度を以て支配しなければならぬと云ふことは、予てより執って居るところの方針であるのであります、其の意味を言現はすために、殖民地と云ふ言葉を用ゐられたのであります、
この後は台湾朝鮮などは植民地であるという認識が一般化し、国会審議[28][29][30][31][32][33][34][35][36][37]や 質問主意書[38][39]で、あるいは公文書[40]や民間においても[41]当たり前のように植民地という言葉が使われた。一例[29]を挙げると
第49回帝国議会衆議院予算委員第三分科(大蔵省所管)会議録 大正13年7月5日(1924年)○小西主査 是より開会致します……本日は先刻打合致しました結果、各植民地に関する質問応答を進めることに致しまして、それから明日は大蔵省本省の質問をすることに致したいと思ひます(9頁)
○大口委員 私は植民地全体に付て伺っても宜いのでありますが、御答になるのに大蔵省の本省の方が御出でにならぬとすれば、銘々に伺った方が宜いと思ひます、質問の順序は朝鮮、台湾、関東州、樺太、南洋庁、どれに対しても同じ意味でありますから、質問は一緒に致したいのであります……一般会計と違って、何れも特別会計に属する各植民地の予算は、金高から云へば余り多いものではありませぬが、頗る広汎に亙って色々のものに沢山の種類に追加されて居るので、そこで此大体から金高で見ますと云ふと、例へば朝鮮総督府の如きは、大正十二年度の予算総額は歳出歳入共に一億四千六百万円―一億四千六百万円少し余になって居ります(9-10頁)
○小西主査 小川君、植民地に質問ありますか(13頁)
○小川委員 朝鮮総督府の特別会計で伺ひますが、本年度の公債計画の中に、朝鮮事業公債を起すことになって居りますが(13頁)
朝鮮半島における「植民地」用例
- 釜山日報1925年3月24日「殖民地軍事教育 十四年度より実行困難 『東京電報』…尚殖民地に於て軍事教育を実施すべき予定学□は朝鮮百二十校台湾四十四校関東州九校樺太一其他合計百八十一校である」[42]
- 釜山日報1925年5月3日「治安維持法案 十二日より殖民地に施行 『東京電報』治安維持法案は内地同様、朝鮮、台湾、樺太、関東州の殖民地にも来る十二日より施行することに決定した」[43]
- 釜山日報1925年5月13日「殖民地御下賜金 朝鮮は十七万円 『東京電報』銀婚式(※大正天皇の)に下賜されし殖民地教化事業資金の廿五万円は朝鮮十七万円、台湾五万五千円、関東州、樺太各一万円、南洋庁五千円分配する事に決定した」[44]
「外地」呼称の登場
1920年代の終り頃から植民地を「外地」という呼称で置き換える動きが出てきた[45]。その理由について中村哲は植民地という単語の持つ「一定の印象」を避けるためだと説明している[46]。ただし外地という呼称に完全に切り替わったわけではない。その後も国会の場[37]で、あるいは公文書において[47][48][49]、植民地の単語が用いられることがしばしばであった。また新聞でも、「外地」呼称登場後も相変わらず植民地の語が広く用いられた[50][51][52][53][54]し、小説でもそうであった[55]。
「植民地」という単語の持つマイナスイメージ、その言葉を口にすることの後ろめたさ、を避けるために「外地」と言い換えた分かりやすい例が次の国会発言[56]である。
衆議院予算委員会1935年2月8日 ○河野委員(河野一郎) それは私も承知して居るが、大体内地で法律が出来ると、それに関連して植民地、植民地と言ふことは言葉が悪いでせうが、朝鮮、台湾、是等の外地の方面にそれぞれ法令出来ると云ふことが従来の慣例だと私は思ふ、こちらに法律がないのに、向ふだけがさう云ふ法律を作る場合は殆んど有り得ない、所が船の問題は(8頁4段)
戦後の認識
戦後の日本においても、朝鮮台湾などは植民地であったと認識・公言されている[57][58][59]。
○委員長(深水六郎君)ちょっと私からも一つ御質問を申上げたいと思いますが、特別委員会でも多分問題になつたと思いますが、野戦郵便局の貯金の問題、それから満州国の貯金の問題、それと朝鮮、台湾、樺太等の旧植民地の貯金の問題というのが、その額或いはその取扱方法、その他のいろいろなやり方というものがどういうふうになっておるのかということもお尋ねして置きたいと思います。 — 第1回国会 参議院 通信委員会 第5号 昭和22年11月20日
○国務大臣(池田勇人君)※大蔵・通商産業大臣 「御承知の通りに我が国従来の農業政策というものは、朝鮮米、台湾米のことを頭に置きながら、即ち、植民地統治という観点から相当賄なわれておつたのでありますが、御承知の通り朝鮮、台湾を加えますと大体毎年千四、五百万石ぐらいは輸入されておつたのであります。これがなくなつて参りまして、而も片つ方では、千数百万人の人口が増加しております。ここにいわゆる日本の農業政策の何んと申しますか、事情変化が来ておるのであります。 — 第7回国会 参議院 予算委員会 第16号 昭和25年3月17日
小渕総理大臣は、今世紀の日韓両国関係を回顧し、我が国が過去の一時期韓国国民に対し植民地支配により多大の損害と苦痛を与えたという歴史的事実を謙虚に受けとめ、これに対し、痛切な反省と心からのお詫びを述べた。 — 1998年10月8日 日韓共同宣言 -21世紀に向けた新たな日韓パートナーシップ-
海外の認識
米国務省サイトでは以前韓国の説明[60]でこう載せていた。
In 1905, following the Russo-Japanese War, Korea became a protectorate of imperial Japan, and in 1910 it was annexed as a colony. (1905年、ロシア・日本戦争の後で、コリアは日本帝国の保護国となり、そして1910年には植民地として併合された。)※日本語訳は引用者
現行の米国務省サイト[61]ではこのように述べている
In 1910, Japan began a 35-year period of colonial rule over Korea. (1910年、日本はコリアに対して35年間の植民地支配を始めた。)※日本語訳は引用者
中華人民共和国
チベット等
中華人民共和国はチベット(西蔵自治区、青海省など)や内モンゴル(内蒙古自治区)、東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)、満洲(遼寧省、吉林省、黒竜江省の3省と、内蒙古自治区の東部など)などの主権を中華民国から継承したものとし、これらの地域は「もともとの中国の不可分の領土」であるとして、併合していった。現在のこれらの地域は、法制(中華人民共和国憲法の民族自治規定等)上は完全に他の中華人民共和国省区、内地と同格であり、またこれらの土地のほとんどの民族は中華民族に包摂されると定義されているため、形式上、植民地とは言えない。国際連合非自治地域リストに上記地域は含まない。
中華人民共和国において中国共産党による事実上の一党独裁政治による宗教や思想の統制はこれらの地域に限定したことではないが、中国の少数民族の伝統的な文化・宗教・思想が取り締まりの対象となる際、民族文化への弾圧と捉えられる向きがある。
以上のような視点をもとに、東トルキスタン亡命政府、チベット亡命政府、内モンゴル人民党などの独立や自治を目指す諸団体は「中華人民共和国の植民地支配」という表現を多用する。
朝鮮半島
朝鮮半島や朝鮮史を中国や中国史の一部、あるいは従属地域・従属国と見なす研究や記述が存在している。
たとえば米国コロンビア大学オンライン百科事典によれば、韓国古代史について韓国では檀君神話から紀元するものの、中国文献によれば商王朝難民により箕子朝鮮がB.C.1122年に平壌で建国されたのが始まりであるとし、あるいは衛氏朝鮮が朝鮮最初の国家であると解説する[62]。
韓国側文献として例えば『韓国史大事典』では、朝鮮王朝(李朝)と中国(明)の関係については「朝鮮」という国号を明に選んでもらったことを指摘した後、「従属の象徴として明の年号を使った」と説明する。また後の清についても「宗主国」とし、日清戦争で清が日本に敗北した結果として「朝鮮が完全な独立国であることを確認するにいたり、政治的な従属関係はなくなった」と解説する。また日清戦争後、国号を朝鮮から「大韓帝国」に変えた経緯について「清の属国から脱して独立し帝国として発展するという意味」があったと説明する。李朝の前の高麗時代に中国を支配した元との関係では「属国」との表現はないが、高麗王が六代にわたって必ずモンゴルの王妃を迎えるという従属的な「ふま国」となり「自主性を失った」としている[63]。
学生向け教科書にも同様の記述がみられる[注 6]。 特に高句麗史の帰属をめぐり韓国朝鮮と中国の間には論争が生じている。
オマーン
オマーンは17世紀から19世紀半ばにかけて西インド洋において海洋帝国を構築し、同沿岸のザンジバル(現タンザニア領)、モンバサ(現ケニア領)、モガディシュ(現ソマリア領)、パキスタン沿岸のグワーダルなどを保有した。
イスラエル
イスラエルは宗主国無き植民地とも言える国家である(エドワード・サイードなど。反論もある)。第一次世界大戦にオスマン帝国が敗北すると、中東・アラブ地域は新たにイギリス・フランスの植民地となり、ユダヤ人が約束の地と崇めるパレスチナは委任統治領としてイギリスの管理下におかれ、ヨーロッパやアメリカ合衆国からユダヤ人が入植した。ポグロムから逃れてきた人も多かった。しかし、時の弁務官の方針により、ユダヤ人移民の数はおおむね制限されており、ユダヤ人人口が減少に転じた時期もあった。入植者が増大したのは、第二次世界大戦前後の混乱期である。
アメリカのユダヤ人はすでに都市部で富裕層となっており、入植を斡旋したり、入植者に資金面での援助を行ってきた。ナチス・ドイツ時代や、第二次世界大戦後にはさらに入植者が増えた。そのため、ユダヤ人とアラブ人との間で軋轢が多くなり、国家像としては連合国家案より分割案が有効とみなされるようになり、国際連合の決議に基づき、パレスチナをユダヤ国家とアラブ国家に分割することとなった。しかし、決着は得られず、中東戦争の勃発、イスラエルの独立に至った。4度の中東戦争を経ても双方の言い分は平行線をたどる。
特にこれらのユダヤ人は、第三次中東戦争でイスラエルが獲得したヨルダン川西岸地区などに国軍のアラブ人強制排除とともにユダヤ人入植地を建設し、パレスチナ問題を深刻化させている。また、冷戦終結とソビエト連邦の崩壊によって再びユダヤ人の入植が増えている。
アメリカ合衆国
イギリスから独立した元13植民地の連合体として出発したアメリカ合衆国は、その後もイギリス、フランス、スペイン、メキシコから植民地や領土を武力併合または買収して、自国の領土を西へと拡大した。拡大する過程で新たに州を新設していったので、植民地と州の境はあいまいになった。短期間で西海岸へ到達すると、太平洋の先に目を向け、北部のアラスカをロシアから買収(アラスカ州)、ハワイを併合し(ハワイ州)、その後それぞれ州に昇格させ自国領土内に完全に併合する。さらに米西戦争でスペインに勝利すると、スペインの統治下にあったカリブ海のキューバやプエルトリコ、東南アジアのフィリピン、グアムを植民地化した。もっとも、キューバは早期に独立させたが、その後もキューバ革命までの長期に渡り影響下に置いた。
アメリカは建国の成り立ちからして、個人の財産的自由権を重視したが白人植民者の子孫からなるアメリカ合衆国議会はインディアンや黒人奴隷に対してその主権を認めることはなかった[注 7][注 8]。フロンティアへの進出に際して先住民と条約を結び、先住民の一定の主権を認めていたが、合衆国や州政府、入植者たちはたびたび条約を無視したり、先住民に権利の放棄を強要した。北西部領土や西南部領土あるいは西海岸に移動した白人開拓者は1763年宣言などインディアン達との取り決めに違反していたにも拘らず、開拓者や商人らへの攻撃に対して合衆国陸軍は出動し、インディアン強制移住法はミシシッピ以東から先住民を駆逐するだけでなく、以西のフロンティアにおいても駆逐を続け、先住民は占有する土地を極めて小額の補償金と引き換えに合衆国政府に対して強制的に譲渡させられた。オレゴン・カントリーをめぐる交渉や米墨戦争による武力併合により合衆国政府は広大な土地を獲得し、これらの土地は入植者に対して無償ないしは非常に安い価格で売却された。1890年代のフロンティア消滅と時期を同じくして発生した米西戦争により領土はフィリピン、グァム、キューバへ拡大し、またハワイ入植者が起こしたクーデターに米国海兵隊が介入しハワイ王国を併合した。
「アメリカ人の生命及び財産の安全確保のため」議会に対して合衆国軍隊の介入を要請するという図式はアメリカ帝国主義拡大の基本的な構造であり、皇帝や国王の名を必要としない19世紀型の帝国主義の典型となった。米西戦争の勝利によって、スペインの影響下にあった中米の国々を独立させ、政治や経済的に影響下に置いたのちも、中米諸国はバナナ共和国と呼称され、アメリカ資本のユナイテッド・フルーツやドール・フード・カンパニーなどの民間企業が資本主義の尖兵として掠奪経営や政治介入をおこなった。キューバなどカリブ諸島の親米政権に支援を行い、ドミニカ、グレナダ、パナマには公然と軍事介入した。中米のプエルトリコは、現在も自治領として存続している。また北マリアナ諸島もアメリカの執政下にとどまっている。
新植民地主義
開発援助において、古くは1960年代に英仏がアフリカの旧植民地に財政支援をおこない、「新植民地主義」と批判され取りやめたことがある[65]。共産主義陣営(社会主義国、旧東側諸国)においては1960年代に世界で新植民主義が進展しているとの認識があり、中華人民共和国では、中国共産党が1963年9月に3回にわたりソ連共産党中央委員会を痛罵し10月22日付の批判ではソビエトを「新植民主義の弁護人」であると批判した。中国の理論家たちの見解によれば、「ソビエトによる社会主義世界体制は、世界の発展過程全体にますます決定的な影響を及ぼしていないばかりか、帝国主義に対する大衆の革命的闘争で独自の役割すら果たしていない」と非難した[66]。
こういった大戦後に登場した旧宗主国や大国における新たな植民的支配(新植民主義)論とは別に、21世紀になり中国など新興国の台頭を背景とした国外への積極的な投資や開発援助が「新植民主義」との指摘もある。
例えば中国の対アフリカ援助が「新植民主義」だとの批判が一部の先進国から浮上し、一部のアフリカの国からも新植民地主義であると発言している。また、援助の実施を担当する中国企業が地元の環境を破壊したり汚染を及ぼすこともあった[67]。
マダガスカルでは2008年11月に、韓国の大宇グループがマダガスカル共和国の耕作可能地の約半分を99年間無償貸与される契約を結んだことから民衆騒動が発生し、当時のマーク・ラヴァルマナナマダガスカル大統領が退陣させられ契約が撤回される事態となった(マダガスカル・クーデター)。
韓国の李明博大統領は2008年4月15日にも、「ロシア沿海州のような地域の土地を30~50年間にわたり長期賃貸できるだろう」「北朝鮮の労働力も利用でき、また北朝鮮までの輸送距離が短いため北朝鮮への直接支援も可能だ」という発言を行っている[68]。
脚注
注釈
- ^ この例として、明治維新前年1867年にハワイ国総領事を名乗る男が幕府の免状を得、明治元年に日本人を移民させたことをめぐる問題(ハワイ日本人出稼人召還事件)、あるいは「苦力貿易(coolie trade)」と呼ばれる人身売買ケースにまつわる外国公使からの各種通報、1872年(明治5年)のマリア・ルス号事件[1]などがある。
- ^ 古代中国の朝鮮半島での楽浪郡等漢四郡(それ以前の箕子朝鮮、衛氏朝鮮を含めても考えることができる)の設置、ベトナムでの日南郡、交趾郡など南越九郡の設置も一種の植民活動である。
- ^ エリック・ウィリアムズやジョン・ケネス・ガルブレイスの見解。また世界システム論・世界経済の項目を参照。
- ^ 政務のすべては総督に委任の上、内閣総理大臣の監督を受け(台湾総督府官制3条)、あるいは内閣総理大臣を経て天皇に直接上奏すれば良い(朝鮮総督府官制3条)とされたが、実際の実務は拓務省や内務省など内地行政機関の依命通牒(直接の権限はないが、上位職の指示命令により通知(アドバイス)する文書)に従うことが多かった。また総督府令により1年以下の懲役もしくは禁錮、拘留、200円以下の罰金または科料の罰を課すことが認められていた(台湾総督府官制5条、朝鮮4条)が、それ以上の罪過あるいは総督府令によらない法令については日本内地の制定法による必要があった。
- ^ 「植民地」なる用語への評価としてはたとえば『(植民地の)文字の我国で用ゐられ初めたのは、極めて最近の事で、~中略~明治以前の空気に多く包まれた人の頭には、植民地と云ふ文字が、非常にハイカラな文字になつて響いて居る。隨て、植民地がどうの、植民政策がどうの、拓殖局がどうのといつた所で、虻が鼻の頭を刺した程の感じもない。新領土といふ文字にせよ、其れは二十七八年、三十七八年に於ける、二大戦役の賜物で、此戦役以前、新領土といふ文字は、あまり繰り返されて居ない。何れにしても、植民地といふ文字は、現代人に未だ耳新しい文字である。先ず植民的知識をいへば、其れは北海道開拓の其れであつたらう。北海道開拓は、我日本国民に、植民の意味を、朧気ながらも、先づ敎へた所の鐘の音であるのである』[24]。
- ^ 韓国紙『朝鮮日報』によれば、「アメリカの世界史の教科書には中国と韓国の間の朝貢秩序を拡大解釈し、韓国を中国の従属国と見なしたり古代日本が韓国から多くの文化的影響と接触を受けたにも関わらず日本が直接中国を通じて文物を伝承したという内容もあった。韓国教育開発院の李讃熙(イ・チャンヒ)博士は『韓国の歴史を主体的に扱っておらず、中国、日本などの歴史叙述のために付随的に挿入されているケースが多い』」と指摘する[64]。
- ^ ジョン・ロスらの「チェロキー国への州法適用差し止め」訴訟と連邦議会への工作はジャクソン大統領による「大統領にインディアン強制移住の権限を与える法律」制定提案と圧倒的多数による可決をもって報いられた。また裁判所への提訴はチェロキーたちの提訴権の否定(門前払い)によって報いられた。黒人奴隷の裁判提訴権の否定についてはドレッド・スコット対サンフォード事件。
- ^ 「奴隷解放論者」と「解放奴隷」によって進められた、アメリカ植民協会によるリベリア入植は実にアメリコ・ライベリアンらによる新たな植民地であった。赤狩りによって非合法化されるアメリカ共産党には黒人に主権をという主張もあった。ただし必ずしも黒人の支持があった訳でない。
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- 鹿島正裕「植民地支配の比較研究に向けて : フランスのチュニジア支配とイギリスのエジプト支配, 1881~1914年」『金沢法学「紀要論文」』第30巻第1号、金沢大学法学部、1987年12月25日、31-62頁、NAID 110003483458。
- 山本真鳥「カテゴリー化の困難 : サモア植民地統治における混血の役割」『比較経済研究所ワーキングペーパー』第107巻、法政大学比較経済研究所、2002年3月15日、31-42頁。
- 小熊英二『「日本人」の境界―沖縄・アイヌ・台湾・朝鮮 植民地支配から復帰運動まで』新曜社、1998年7月1日。ISBN 9784788506480。 NCID BA36653633。
- 柳洪烈(監修) (1996). 韓国史大事典. 高麗出版社
- 木原隆司「開発援助の拡散・細分化と援助協調」(PDF)『PRI Discussion Paper Series』No.09A-04、財務省財務総合政策研究所研究部、2009年5月。
- 猪木正道「中ソ論争の焦点, 1963-64(上)」『スラヴ研究』第11巻、北海道大学スラブ研究センター、1967年、1-26頁。
- 施錦芳「中国の対アフリカ援助における評価分析」『専修大学社会科学研究所月報』第570号、専修大学社会科学研究所、2010年12月、18-30頁、doi:10.34360/00009509、ISSN 0286312X、NAID 120006794103。
関連項目
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