「植民地」の版間の差分
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[[ファイル:EmpireOfJapan0.png|thumb|250px|大日本帝国の国土(昭和期) 1. 内地、2. 台湾、2’. 新南群島、3. 樺太、4. 朝鮮、5. 関東州、6. 満鉄附属地、7. 南洋群島]] |
[[ファイル:EmpireOfJapan0.png|thumb|250px|大日本帝国の国土(昭和期) 1. 内地、2. 台湾、2’. 新南群島、3. 樺太、4. 朝鮮、5. 関東州、6. 満鉄附属地、7. 南洋群島]] |
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日本の植民地としては、「[[外地]]」と称された諸地域がこれに該当する。 |
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戦前の日本外務省が対外的に植民地として扱っていたのは、、以下の5つである<ref>{{Cite web|url=https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/B04013930100|title=「国際連盟主宰ノ国際条約批准関係雑件/批准状況一覧表(国際連盟作成) 3.作成のための国際連盟よりの照会」中の「欧文にて表示する帝国殖民地名統一方に関する件」(7・8画像目)|accessdate=2021年8月30日|publisher=国立公文書館アジア歴史資料センター|author=外務省条約局第一課|date=1928年9月|quote=帝国の外国と締結する条約其の他の国際約束中帝国各殖民地名を欧文にて表示する場合其の語例一定せざりしが右は之を統一すること適当と認めらるるを以て今後成るべく左記各語を使用することと致し度 |
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朝鮮Chosen 台湾Taiwan 樺太Karafuto 関東州租借地The Leased Territory of Kwantung;Territoire à bail du Kouantoung.南洋諸島The South Sea Islands under Japanese mandate;Territoire des Iles des Mers du Sud sous mandat japonais.}}</ref>。 |
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* [[日本統治時代の台湾|台湾]]([[日清戦争]]後の1895年、[[下関条約]]による割譲) |
* [[日本統治時代の台湾|台湾]]([[日清戦争]]後の1895年、[[下関条約]]による割譲) |
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* [[南洋群島]]([[第一次世界大戦]]後の1922年、[[国際連盟規約]]による[[委任統治]]) |
* [[南洋群島]]([[第一次世界大戦]]後の1922年、[[国際連盟規約]]による[[委任統治]]) |
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これらの地域のうち、台湾、南樺太、朝鮮は日本の領土であったのに対して関東州と南洋群島は領土ではなかった。しかし、いずれも日本の統治権が及ぶ地域であり |
これらの地域のうち、台湾、南樺太、朝鮮は日本の領土であったのに対して関東州と南洋群島は領土ではなかった。しかし、いずれも日本の統治権が及ぶ地域であり外地と総称された。さらに、日本の影響下にあった[[満州国]](1932年建国)も、事実上の植民地に相当する。 |
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また北海道についても、官報で植民地とした例がある<ref>{{Cite web|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2947692/1|title=官報明治三十一年三月十日 ○勅令 朕北海道殖民地に於ける道路橋梁排水工事の請負は随意契約に依ることを得るの件を裁可し茲に之を公布せしむ|accessdate=2021年9月1日|publisher=国立国会図書館}}</ref>。さらに、日本の影響下にあった[[満州国]](1932年建国)も、事実上の植民地に相当する。戦前の植民政策学者大塩亀雄は「満州国は独立国であるが、建国日猶ほ浅く、政治上経済上、我国よりの特殊の指導に依らねばならず、事実上之を植民地と見做して差支ない」<ref>{{Cite book|和書|title=植民政策. 上巻|year=1941|publisher=明治大学出版部|page=25|author=大塩亀雄 述|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1033747/18}}</ref>とした。 |
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ただし、南樺太に関しては統治の初期より準内地的に扱われた。各地域の法令の適用範囲の確定等が目的の[[共通法]](1918年制定)では内地の一部として扱われた。1943年4月には完全に内地に編入。 |
ただし、南樺太に関しては統治の初期より準内地的に扱われた。各地域の法令の適用範囲の確定等が目的の[[共通法]](1918年制定)では内地の一部として扱われた。1943年4月には完全に内地に編入。 |
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なお、内地の[[沖縄諸島|沖縄]]([[大東諸島]]、[[尖閣諸島]]を含む)、[[奄美群島]]、[[北海道]]、[[東北地方]]、[[小笠原諸島]]も植民地として捉えるべきであるとか、日本の近代化について日本国家が日本社会を植民地化した過程である(自己植民地化論)と捉える観点も存在する |
なお、内地の[[沖縄諸島|沖縄]]([[大東諸島]]、[[尖閣諸島]]を含む)、[[奄美群島]]、[[北海道]]、[[東北地方]]、[[小笠原諸島]]も植民地として捉えるべきであるとか、日本の近代化について日本国家が日本社会を植民地化した過程である(自己植民地化論)と捉える観点も存在する。 |
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===== 「併合」と植民地 ===== |
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例えばアメリカは[[テキサス併合|テキサスを併合]]して本土・本国の一部としたが、フィリピンを併合<ref>{{Cite web|url=https://obamawhitehouse.archives.gov/1600/presidents/williammckinley|title=William McKinley|accessdate=2021年9月2日|quote=Thus the United States annexed the Philippines, Guam, and Puerto Rico.(こうして米国はフィリピン、グアム、そしてプエルトリコを併合した。)※日本語訳は引用者}}</ref>した後は本土・本国ではなく植民地として統治した、つまり植民地として併合した・併合して植民地にした。ベルギーはコンゴ自由国を「植民地として併合」(annexed as a colony)<ref>{{Cite web|url=https://history.state.gov/countries/congo-free-state|title=A Guide to the United States’ History of Recognition, Diplomatic, and Consular Relations, by Country, since 1776: The Congo Free State|accessdate=2021年9月2日|quote=the Congo Free State was annexed as a colony by Belgium on November 15(11月15日、コンゴ自由国はベルギーにより植民地として併合された)※日本語訳は引用者}}</ref>し、フランスはアルジェリアを植民地として併合し、英国はニュージーランドを植民地として併合した。それと同じように、日本は韓国を併合して植民地にした・植民地として併合した。 |
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===== 「植」民地と「殖」民地 ===== |
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日本政府は自国植民地について文書・政府刊行物では「殖」表記を多用したが、「植」の用例<ref>{{Cite web|url=https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/A04018260000|title=税制調査委員会設置ニ関スル件|accessdate=2021年9月2日|publisher=国立公文書館アジア歴史資料センター|quote=植民地の税制整理に関しては既に第五十一議会に於て(1画像目)|work=公文雑纂・大正十五年~昭和元年・第十五巻・朝鮮総督府~請願・訴願}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=本邦教育ノ概況|year=1936|publisher=文部大臣官房文書課編|page=33|quote=8.植民地の学校教育 朝鮮、台湾等植民地の教育は各其の地の総督、長官の管掌する所なるも内地と等しく総ての国民に対し洽く教育を受くるの機会を与へつつあり。|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1278654/25}}</ref>もある。また欧米植民地についても「植民地」<ref>{{Cite web|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2944347/5|title=官報1887年3月19日|accessdate=2021年9月2日|publisher=国立国会図書館デジタルコレクション|quote=英吉利 ○植民地長官会議 英領各地に普通の事を議定するため各植民地の長官を召集して遠からず大会議を開くべき旨の決定ありしが}}</ref>「殖民地」<ref>{{Cite web|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2945837/1|title=官報1892年1月29日|accessdate=2021年9月2日|publisher=国立国会図書館デジタルコレクション|quote=逓信省告示第二十六号 |
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英領殖民地南オーストラリ―郵政庁は書留郵便物の紛失に対し賠償せざる旨通知ありたり。}}</ref>両方を用いている。要するに「殖民地」「植民地」どちらでもよく、意味は同じである。また学術分野ではもっぱら「植」表記を用いた<ref>{{Cite book|和書|title=植民及植民政策|year=1937|publisher=有斐閣|page=35|quote=我国にては法律に於て拓殖及び殖民の字が用ひられて居る。拓は土地の開拓である。殖は増加を通常意味するが故に寧ろ植の字を当つるを可とする。今日学術語としては諸学者すべて植民なる字を採用して居る。「植民地」は“Plantation”と字義相通ず。そは植うる民の地であり、又民を植うるの地である。即ち此語の字義は植民の実質的概念を暗示する。|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1281154/29|author=矢内原忠雄}}</ref>。戦前の植民政策学者大塩亀雄は「我国に於て今猶ほ多く用ゐらるゝ『殖民』は誤にて」と指摘している<ref>{{Cite book|和書|title=植民政策(上巻)|year=1941|publisher=明治大学出版部|pages=91-92|quote=我国の植民なる文字は蘭語のVolkplantingを直訳したるものにて、享和元年(1801年)蘭学者志筑忠雄が Kaempfer 著日本志の抄訳に「人を植ること彼等が国の習なり人を其地に渡して住しむるをいふ」と註して居る。支那では新埠、属地、属国、新疆、新州府、火竈遷移等と訳した(1866年英華字典)。故に我国に於て今猶ほ多く用ゐらるゝ「殖民」は誤にて、植民なる観念中には農耕、移住等の意味が今日猶ほ密接なる関係を有し、Websterは「母国を去り遠隔なる地に移って開墾事業に従事し、永住して母国の法律に服従する人民の一団である」(A company or body of people transplanted from their mother country to a remote province or country, to cultivate and inhavit it, and remaining subject to the jurisdiction of the parent state.)と言って居るが、之は大体語源を尊重せる解釈と言ふことが出来る。|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1033747/51}}</ref>。 |
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===== 植民地 |
===== 「外地」と植民地 ===== |
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[[美濃部達吉]]は[[1923年]]([[大正]]12年)の『憲法撮要』にて、「法律上の意義に於ての殖民地」を「国家の統治区域の一部にして内地と原則として国法を異にし」たものと定義し、「朝鮮、台湾、樺太、関東州及南洋群島が此の意義において植民地なることは疑いを容れず」と述べる。 |
[[美濃部達吉]]は[[1923年]]([[大正]]12年)の『憲法撮要』にて、「法律上の意義に於ての殖民地」を「国家の統治区域の一部にして内地と原則として国法を異にし」たものと定義し、「朝鮮、台湾、樺太、関東州及南洋群島が此の意義において植民地なることは疑いを容れず」と述べる。 |
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{{Quotation|我国にては斯の如き公の称呼を法律上一切に加えず単に台湾朝鮮樺太等地名を呼ぶ。但し学術的又は通俗的に之等を植民地と称するを妨げない。我国の学者政治家等が朝鮮を指して植民地と称することに対し、「千万年歴史の権威」と「二千万民衆の誠忠」を有する朝鮮民族は大なる侮辱を感じ、大正八年三月一日の独立宣言書にもその憤慨が披瀝せられた。併乍ら研究者は事実関係を以てその研究対象とするより外はない。 |[[矢内原忠雄]]|{{sfn|矢内原忠雄|1926|p=36}}}} |
{{Quotation|我国にては斯の如き公の称呼を法律上一切に加えず単に台湾朝鮮樺太等地名を呼ぶ。但し学術的又は通俗的に之等を植民地と称するを妨げない。我国の学者政治家等が朝鮮を指して植民地と称することに対し、「千万年歴史の権威」と「二千万民衆の誠忠」を有する朝鮮民族は大なる侮辱を感じ、大正八年三月一日の独立宣言書にもその憤慨が披瀝せられた。併乍ら研究者は事実関係を以てその研究対象とするより外はない。 |[[矢内原忠雄]]|{{sfn|矢内原忠雄|1926|p=36}}}} |
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{{Quotation|([[1905年]](明治38年)の[[帝国議会]]において下記のようなことがあった。)[[衆議院]]の委員会において、当時の[[内閣総理大臣|首相]]で第二代[[台湾総督府|台湾総督]]でもあった[[桂太郎]]が、台湾は「日本」なのか「殖民地」なのかいう問に、うっかり「無論殖民地であります内地同様には行かぬと考へます」と答えてしまったのである。..中略..この首相発言は、議員達に大きな感情的反発をよんだ。議員側からは、「台湾を殖民地にするとは云ふことは、何れの内閣からも承ったことはない」とか「吾々議員として実にぞっとするではございませぬか」といった非難が出た。|[[小熊英二]]|{{sfn|小熊英二|1998|pp=142–143}}}} |
{{Quotation|([[1905年]](明治38年)の[[帝国議会]]において下記のようなことがあった。)[[衆議院]]の委員会において、当時の[[内閣総理大臣|首相]]で第二代[[台湾総督府|台湾総督]]でもあった[[桂太郎]]が、台湾は「日本」なのか「殖民地」なのかいう問に、うっかり「無論殖民地であります内地同様には行かぬと考へます」と答えてしまったのである。..中略..この首相発言は、議員達に大きな感情的反発をよんだ。議員側からは、「台湾を殖民地にするとは云ふことは、何れの内閣からも承ったことはない」とか「吾々議員として実にぞっとするではございませぬか」といった非難が出た。|[[小熊英二]]|{{sfn|小熊英二|1998|pp=142–143}}}} |
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===== 「植民地」認識の一般化 ===== |
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前項で小熊が挙げたのは1905年2月22日衆議院本会議における[[守屋此助]]議員の発言<ref>{{Cite web|title=第21回帝国議会 衆議院 本会議 第19号 明治38年2月21日、17-18頁|url=https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/#/detailPDF?minId=002113242X01919050221&page=17|website=帝国議会会議録検索システム|accessdate=2021-09-02|publisher=国立国会図書館}}</ref>であるが、これには続きがあって、政府委員である[[法制局]]長官[[一木喜徳郎]](一木はこれ以前に帝国大学法科大学教授、[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員)が守屋に対してこう答弁している。{{Quotation|総理大臣が委員会に於て殖民地として扱ふのであると云ふことを言はれたに付いて、云々と云ふ御尋ねもありましたが、殖民地と云ふことは、随分いろいろの意味に用ゐらるゝ言葉であらうと思ふ、学者に定義を下さしめたならば、殖民地と云ふことに付いては、人々の定義はいろいろであらうと思ひます、要するに台湾に於きましては、内地同様の制度を以てすることが出来ない、特別の制度を以て支配しなければならぬと云ふことは、予てより執って居るところの方針であるのであります、其の意味を言現はすために、殖民地と云ふ言葉を用ゐられたのであります、||}}この後は台湾朝鮮などは植民地であるという認識が一般化し、国会審議<ref>{{Cite web|url=https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/#/detailPDF?minId=003711776X00319160221&page=11&spkNum=58¤t=-1|title=第37回帝国議会 衆議院 殖民省設置に関する建議案委員会 第3号 大正5年2月21日|accessdate=2021年9月2日|publisher=国立国会図書館|quote=○櫻井兵五郎君 私は兒玉政府委員に伺って見たいことがあります、前に此加俸のことに付て台湾の御意向は伺ったのでありますが、殖民地の朝鮮も御同様四割乃至八割の官吏に加俸がある、所が生活費などに於ては京城と東京とを較べましても、京城の方がまだ廉いではないかと想像致して居ります、其他植民地官吏には種々の特典もある、随って加俸は今日のやうに沢山しなくても、もう少し減じて差支なからうかと自分は意見を有って居ります、朝鮮のみに於ても加俸で二百二十幾万円位になるであらうと考へて居りますが、是等を仮りに二割を減じても五十万円位ばかり省ける、殖民省を持って来るには至極都合が好いと云ふ考を持って居るのでありますが、どう云ふ御意見でありますか、伺って置きたい、今一つは此朝鮮は温帯殖民地であって、内地の者を移住せしむるには至極適当であり、(11頁) |
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○政府委員(伯爵兒玉秀雄君)※朝鮮総督府総務局長 加俸の問題に就きましては全然下村政府委員と同意見を私は有って居ります、殊に私はもう朝鮮に参りましてから十年以上になりまするので、殖民地の官吏のいろいろ家事上の事情其他の上から、ずいぶん殖民地の官吏と云ふ者は辛い者である、もう少し外国の例ではないけれども優待して貰っても宜くはないか、(12頁)|website=帝国議会会議録検索システム}}</ref><ref name=":0">{{Cite web|title=第49回帝国議会 衆議院 予算委員第三分科(大蔵省所管) 第1号 大正13年7月5日|url=https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/#/detailPDF?minId=004913588X00119240705|website=帝国議会会議録検索システム|accessdate=2021-09-02|publisher=国立国会図書館}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/#/detailPDF?minId=004113242X01919190304&page=3&spkNum=12¤t=-1|title=第41回帝国議会 衆議院 本会議 第19号 大正8年3月4日|accessdate=2021年9月2日|publisher=国立国会図書館|website=帝国議会会議録検索システム|quote=○小橋藻三衛君 朝鮮台湾の如き植民地より約参百万石、それから海外より百四五十万石、又端境期に持越したるものが百万石、是で訳六百万石に近いものがあって……何故に政府は此植民地たる台湾、朝鮮は固より、支那方面に向って、技術と資力を注いで、此当面の急を救ふと云ふことを御講じにならないのでありまするか(3頁下段-4頁中段)}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/#/detailPDF?minId=004112489X00419190324&page=6&spkNum=35¤t=-1|title=第41回帝国議会 衆議院 朝鮮神社に素盞男尊奉祀に関する建議案委員会 第4号 大正8年3月24日|accessdate=2021年9月2日|publisher=国立国会図書館|website=帝国議会会議録検索システム|quote=○政府委員(大塚常三郎君)※朝鮮総督府参事官 同化政策を実行するに方りまして、単に教育許りでなく宗教を以て同化して行かどうかと云ふ御意見でありますが、洵に御同感の次第であります、総督府に於きましてもどうかして其宗教を以て、朝鮮人を導いて行かうと云ふ事には、色々と苦心して居るのであります……出来ますれば植民地の同化なり、それを懐柔するなり撫育するなりと云ふ事は、宗教を先きにしたいのでありますが、日本母国の宗教にはさう云ふ方の計画がないので、思ふやうに参らぬのであります(6頁)}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/#/detailPDF?minId=005013588X00219250204&page=6&spkNum=14¤t=-1|title=第50回帝国議会 衆議院 予算委員第三分科(大蔵省所管) 第2号 大正14年2月4日|accessdate=2021年9月2日|publisher=国立国会図書館|website=帝国議会会議録検索システム|quote=○松山委員 初めに朝鮮の鉄道のことを御伺致したいのであります、鉄道の建設及び改良費と云ふものは前年より五百万円減って居る、十四年度の既定計画よりも六百五十万円減って居ると云ふことになって居りますが、朝鮮の経営に付きまして、植民地として鉄道敷説〔ママ〕の第一に必要であると云ふことは申すまでもないことと思ひます(6頁3段) ○加藤主査 植民地の委員が出て居りますから、其方から先に御質問下さい(12頁4段) ○石坂委員 それでは少し順序を更へまするが、植民地の方の事に付て少し伺ひたい事は……各植民地も書留料の値上に依って、それぞれ特別会計の増収があるやうに承って居るのであります、是は各植民地に於て、朝鮮は幾ら、台湾は幾ら、樺太は幾ら、関東庁は幾らと云ふことが分って居りますならば、其金額を承りたい(12頁4段-13頁1段) ○河田政府委員(※河田烈大蔵省主計局長)各植民地に於ける書留料金の値上に依る増収如何、斯う云ふ御尋ねであります、是は分って居ります(13頁1段) ○濱田政府委員(※濱田恒之助内閣拓殖局長)只今石坂君よりの御尋でありますが、補給金は平等にやるとか不平均にやるとか云ふ原則は何もありませぬ、植民地に於て経営すべき事柄がどれだけあるかを考へまして、歳出を見積もるのでございます……それで樺太庁は或は朝鮮に適用するのであります、若し樺太と朝鮮との間の不公平論を以てすれば、台湾の如きは一厘も補給して居りませぬから、更に不公平と云ふことになるが、それは各々植民地の経済状態に依って定めるのであります(14頁3段)}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/#/detailPDF?minId=005003653X00419250310&page=5&spkNum=11¤t=-1|title=第50回帝国議会 貴族院 予算委員第六分科会(鉄道省、朝鮮総督府、台湾総督府、関東庁、樺太庁、南洋庁) 第4号 大正14年3月10日|accessdate=2021年9月2日|publisher=国立国会図書館|website=帝国議会会議録検索システム|quote=○政府委員(下岡忠治君)※朝鮮総督府政務総監 「当時中央政府に於ては補給金、各植民地に対する補給金の一部は是も減少すると云ふ有様であるから、従って朝鮮に於ても千五百万の補給金の中、一部は是非減じなければならぬと云ふ方針でありましたが(5頁4段-6頁1段) ○主査(小松謙次郎君) 大分時刻も移ったやうでありますから今日は是で散会いたします、明日は午前十時半から開かうと思ひます、それから又植民地全部を明日は先づ勉強する積りであります(8頁2-3段)}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/#/detailPDF?minId=005003653X00719250320&page=1&spkNum=0¤t=-1|title=第50回帝国議会 貴族院 予算委員第六分科会(鉄道省、朝鮮総督府、台湾総督府、関東庁、樺太庁、南洋庁) 第7号 大正14年3月20日|accessdate=2021年9月2日|publisher=国立国会図書館|website=帝国議会会議録検索システム|quote=○主査(小松謙次郎君) 是より開会を致します、本日は御相談を致しますが、第一に此十三年度の追加予算及予算外の議事を致しまして、それから続いて各植民地の予算に付て討論審議に這入りたいと考へます(1頁1段)}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/#/detailPDF?minId=005113242X01019260201&page=15&spkNum=72¤t=-1|title=第51回帝国議会 衆議院 本会議 第10号 大正15年2月1日|accessdate=2021年9月2日|publisher=国立国会図書館|website=帝国議会会議録検索システム|quote=○国務大臣(浜口雄幸君)※大蔵大臣 「牧山君の御質問の中、私から御答をしまする事柄は、第一に植民地の財政、殊に朝鮮総督府の財政に対する所の中央政府としての方針であります、財政的の見地から申しますれば、私共は各植民地の財政が、速に独立の出来るやうな運に発達せんことを熱心に希望する者〔ママ〕であります、現に台湾に於きましても、財政は独立を致して居りますけれども、御承知の通り朝鮮其他の植民地に於ては、まだ独立の運には至って居ないのであります、固より各植民地に於きましては、内地とは多少事情を異に致して居りまして、まだ其発達の程度が内地の程度と同一の場合に到達を致して居りませぬ、随て植民地の発達に対しましては、内地に対すると同様の考を以て臨むことは、是は聊か無理であらうと云ふ考を持って居ります(15頁2-3段)}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/#/detailPDF?minId=005113242X01119260203&page=10&spkNum=54¤t=-1|title=第51回帝国議会 衆議院 本会議 第11号 大正15年2月3日|accessdate=2021年9月2日|publisher=国立国会図書館|website=帝国議会会議録検索システム|quote=○石坂豊一君 尚ほ今一つ本邦と植民地との関係に付て承って置きたいのであります……単り内地府県に止らず、朝鮮、台湾及樺太等に之(※簡易生命保険法)を実施する御意思はないのでありませうか、今日に於きまして関東庁並に南洋庁にも之を実施せられて居るのであります、然るに朝鮮、台湾、樺太には此実施を見て居ない、朝鮮、台湾、此両植民地に付きましては風俗、習慣及生活の状態をも異にして、先住民族の多数あることでありますから、是等関係上相当の御調査を要せられることもありませう、又此二大植民地はそれぞれ特別なる簡易生命保険の特別会計を維持せられる所の方法もありませう(10頁下段)}}</ref><ref name=":1">{{Cite web|url=https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/#/detailPDF?minId=006713641X00319350208&page=4&spkNum=25¤t=-1|title=第67回帝国議会 衆議院 予算委員第六分科(逓信省及鉄道省所管) 第3号 昭和10年2月8日|accessdate=2021年9月2日|publisher=国立国会図書館|website=帝国議会会議録検索システム|quote=◯浅野政府委員(※浅野平二逓信省管船局長) 「只今御話の通り、現在に於きましては内地在籍船の外、朝鮮在籍船、或は関東州在籍船と云ふ風に、それぞれ違った取扱を受けて居るやうな実情でございまして、私共と致しましては、内地植民地間に於ける海事行政の統一と云ふことは多年の懸案でございまして(4頁4段) ◯床次国務大臣(※床次竹二郎逓信大臣)「植民地に在籍する船と、内地に在籍する船とは条件が必ずしも同じやうな状態の下に置かれて居らぬ為に、直ちにそれを以て一様に扱ふと(5頁3段) ◯板谷主査 内地と植民地との船舶の統制と云ふことは多年の問題であって、私共も随分長い間力説をしたのでありまするが(7頁1段)◯青木政府委員(※青木精一逓信政務次官)「要するに是は植民地制度の根本に触れて居る問題だと思ふのです、ですからして、植民地総督、或は長官の権限に関することゝ、拓務省関係等の、複雑なる事情が従来の法制、法規の上に錯綜して居る結果が、未だそれが解決して統制されないものと思はれますからして(7頁3段)}}</ref>や |
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[[質問主意書]]<ref>{{Cite web|title=斉藤鷲太郎外一名提出植民地裁判ノ統一ニ関スル質問ニ対スル内閣総理大臣答弁書|url=https://www.digital.archives.go.jp/item/2414787.html|website=国立公文書館 デジタルアーカイブ|accessdate=2021-09-02|language=|first=|last=|quote=大正十二年二月十九日提出 質問第二八号 植民地裁判の統一に関する質問主意書 右成規に拠り提出候也 大正十二年二月十九日 提出者 斎藤鷲太郎 水野吉太郎 賛成者 春日俊文 上塚司 益谷秀次 白井博之 久慈貫一 岩崎幸次郎 赤田瑳一 濱口吉兵衛 飯島信明 北井波治目 岩崎宗茂助 野呂駿三 八木逸郎 柿原政一郎 中島照寛 一宮房治郎 平田民之助 永屋茂 阿部武智雄 山口熊野 志賀和多利 竹上藤次郎 多木久米次郎 土屋興 岩切重雄 宮古啓三郎 塚原嘉藤 高橋金治郎 樋口伊之助 伊藤乕助 松山常次郎 石井三郎 木村作次郎 廣瀬為久 長谷場敦 崎山克治 |
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植民地裁判の統一に関する質問主意書 |
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一 朝鮮台湾関東州に於ける裁判の統一を図る為其の上告審は全部之を大審院の管轄と為すことは裁判の威信を顕揚し国民の権利伸張を充実するのみならず政費節約の利益ありと認む。政府は速に之を実施するの意なきや如何。(以下省略)|work=公文雑纂・大正十二年・第十六巻・帝国議会六・答弁書}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/#/detailPDF?minId=004013242X02219180312|title=第40回帝国議会衆議院本会議大正7年3月12日、8頁下段|accessdate=2021年9月2日|publisher=国立国会図書館|website=帝国議会会議録検索システム|page=|quote=殖民地統治に関する質問主意書 右成規に拠り提出候也 大正七年二月二十三日 |
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提出者 牧山耕蔵 賛成者 松田源治 外三十三人 ○牧山耕蔵君 |
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現在の植民地の制度は、本員茲に改めて申迄もなく、台湾の総督は陸海軍の大中将に限られ、朝鮮の総督は陸海軍の大将に限られ、関東都督は陸軍の大将若くは中将に限定を致して居る、而して是は予備の将官ではいけない、現役にあらざれば其資格が無いのであります、本員之を武人に限ると云ふ理を甚だ了解するに苦むのであります、}}</ref>で、あるいは公文書<ref>{{Cite book|和書|title=「日本及各国殖民地統計表」|year=1913|publisher=拓殖局編|page=29|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/975532/22|quote=日本の部 第一表 日本本国及殖民地面積人口表 殖民地 朝鮮台湾関東州樺太}}</ref>や民間においても<ref>{{Cite book|和書|title=朝鮮|year=1912|publisher=実業之日本社|page=35|quote=京城の南大門に着いたのは夜であった。永登浦に停車した時淋しい停車場許りを通過して来た余にはこゝが京城ではあるまいかと怪まれた程電燈の光が美しく眼に映ったが、扨南大門に着いて見ると流石に殖民地の首府と首肯さるゝ程の電燈の数が輝き渡り、其に送迎の人も新橋以上かと疑はるゝ程の多数なのが旅客の心を浮き立たしめた。|author=高浜虚子|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/887256/19}}</ref>当たり前のように植民地という言葉が使われた。一例<ref name=":0" />を挙げると{{Quotation|第49回帝国議会衆議院予算委員第三分科(大蔵省所管)会議録 大正13年7月5日(1924年) |
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○小西主査 是より開会致します……本日は先刻打合致しました結果、各植民地に関する質問応答を進めることに致しまして、それから明日は大蔵省本省の質問をすることに致したいと思ひます(9頁) |
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○大口委員 私は植民地全体に付て伺っても宜いのでありますが、御答になるのに大蔵省の本省の方が御出でにならぬとすれば、銘々に伺った方が宜いと思ひます、質問の順序は朝鮮、台湾、関東州、樺太、南洋庁、どれに対しても同じ意味でありますから、質問は一緒に致したいのであります……一般会計と違って、何れも特別会計に属する各植民地の予算は、金高から云へば余り多いものではありませぬが、頗る広汎に亙って色々のものに沢山の種類に追加されて居るので、そこで此大体から金高で見ますと云ふと、例へば朝鮮総督府の如きは、大正十二年度の予算総額は歳出歳入共に一億四千六百万円―一億四千六百万円少し余になって居ります(9-10頁) |
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○小西主査 小川君、植民地に質問ありますか(13頁) |
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○小川委員 朝鮮総督府の特別会計で伺ひますが、本年度の公債計画の中に、朝鮮事業公債を起すことになって居りますが(13頁)||}} |
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====== 朝鮮半島における「植民地」用例 ====== |
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* 釜山日報1925年3月24日「殖民地軍事教育 十四年度より実行困難 『東京電報』…尚殖民地に於て軍事教育を実施すべき予定学□は朝鮮百二十校台湾四十四校関東州九校樺太一其他合計百八十一校である」<ref>{{Cite web|url=https://nl.go.kr/EN/contents/engSearch.do?kwd=CNTS-00114136457|title=植民地軍事教育|accessdate=2021年10月6日|publisher=国立中央図書館(韓国)}}</ref> |
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* 釜山日報1925年5月3日「治安維持法案 十二日より殖民地に施行 『東京電報』治安維持法案は内地同様、朝鮮、台湾、樺太、関東州の殖民地にも来る十二日より施行することに決定した」<ref>{{Cite web|url=https://nl.go.kr/EN/contents/engSearch.do?kwd=CNTS-00114137083|title=治安維持法案 十二日より殖民地に施行|accessdate=2021年10月6日|publisher=国立中央図書館(韓国)}}</ref> |
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* 釜山日報1925年5月13日「殖民地御下賜金 朝鮮は十七万円 『東京電報』銀婚式(※大正天皇の)に下賜されし殖民地教化事業資金の廿五万円は朝鮮十七万円、台湾五万五千円、関東州、樺太各一万円、南洋庁五千円分配する事に決定した」<ref>{{Cite web|url=https://nl.go.kr/EN/contents/engSearch.do?kwd=CNTS-00114137696#|title=殖民地御下賜金 朝鮮は十七万円|accessdate=2021年10月6日|publisher=国立中央図書館(韓国)}}</ref> |
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===== 「外地」呼称の登場 ===== |
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1920年代の終り頃から植民地を「外地」という呼称で置き換える動きが出てきた<ref>{{Cite book|和書|title=植民及植民政策|year=1937|publisher=有斐閣|page=36|author=矢内原忠雄|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1281154/30|quote=近年拓務省設置(引用者注:1929年設置)以来我国植民地を総称する官庁用語として『外地』なる語を用ふるに至った。蓋し本国を『内地』と呼ぶに相対する用語である。}}</ref>。その理由について[[中村哲 (政治学者)|中村哲]]は植民地という単語の持つ「一定の印象」を避けるためだと説明している<ref>{{Cite book|和書|title=植民地統治法の基本問題|year=1943|publisher=日本評論社|page=109|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1281380/60|quote=今日ひろく外地と呼ばれるようになつたのも、植民地という既定の概念が一定の印象をもたしめるからである……ドイツが従来、植民地を保護地(Schutzgebiet)と称へて来たのも、植民地の概念が英国の神経を刺戟するのを避けたためであつた。}}</ref>。ただし外地という呼称に完全に切り替わったわけではない。その後も国会の場<ref name=":1" />で、あるいは公文書において<ref>{{Cite book|和書|title=昭和七年 殖民地に於ける体育運動団体に関する調査|year=1932|publisher=|author=文部大臣官房体育課|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1916526/3|quote=緒言 本調査は朝鮮、台湾、関東州及樺太に於ける主なる体育運動団体に付其の概要を調査せるものにして}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/A09050719600|title=昭和7年度植民地通信統計|accessdate=2021年8月30日|publisher=国立公文書館アジア歴史資料センター}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=家畜衛生統計. 第17次|year=1943|publisher=|page=79|author=農林省農政局編|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1069922/46|quote=参考統計 第二表 植民地に於ける家畜伝染病関係統計表}}</ref>、植民地の単語が用いられることがしばしばであった。また新聞でも、「外地」呼称登場後も相変わらず植民地の語が広く用いられた<ref>{{Cite web|url=http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00057629&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA|title=国民新聞1934.6.5-1934.11.3 (昭和9)「電力界の功罪史 動力国策と電気の必要性」|accessdate=2021年8月30日|publisher=神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫|quote=電気のみは各国相互間はおろか本州と朝鮮、台湾、樺太等植民地間とすら設備の共用、電力の融通、共にこれをなし得るの途がついて居らない}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10014517&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA|title=赤裸の比島 (上)|accessdate=2021年8月30日|publisher=神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫|quote=日本の植民地たる朝鮮台湾(澎湖列島を含む)樺太(南半)及び南洋委任統治領を合した面積十一万二千八百十一平方マイル}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10005654&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA|title=大阪時事新報 1937.9.13-1937.9.14 (昭和12)「対支貿易を語る 注目すべき情勢の変化 (上・[下])その現在、将来に就て」|accessdate=2021年8月30日|publisher=神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫|quote=我国総輸出入額も台湾朝鮮、南洋の植民地貿易額を含んでいない}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=00475121&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE|title=神戸新聞 1938.4.27 (昭和13)「朝鮮と朝鮮人 わが綜合経済ブロックの一環内鮮一如徹底化へ」|accessdate=2021年8月30日|publisher=神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫|quote=朝鮮は日満間に介在して……全植民地面積の七四・八%を占め}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00060128&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1|title=大阪毎日新聞 1938.7.1 (昭和13)「皮革使用制限は当然の帰結 原皮主要輸入先は支那」|accessdate=2021年8月30日|publisher=神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫|quote=わが国は内地植民地を通じてもこの皮革資源に恵まれず……植民地からの移入は朝鮮が主で台湾は少量だがどちらもほとんど問題にならず内地需要の約六分、これでは焼け石に水の類である}}</ref>し、小説でもそうであった<ref>{{Cite web|url=https://www.aozora.gr.jp/cards/000119/files/24439_11321.html|title=中島敦「虎狩」 (1942年)|accessdate=2021年9月3日|publisher=青空文庫|quote=その友達の名は趙大煥といった……兎角、彼は日本語が非常に巧だった。それに、よく小説などを読んでいたので、植民地あたりの日本の少年達が聞いたこともないような江戸前の言葉さえ知っていた位だ。で、一見して彼を半島人と見破ることは誰にも出来なかった。|year=}}</ref>。 |
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「植民地」という単語の持つマイナスイメージ、その言葉を口にすることの後ろめたさ、を避けるために「外地」と言い換えた分かりやすい例が次の国会発言<ref>{{Cite web|url=https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/#/detailPDF?minId=006713641X00319350208&page=8&spkNum=54¤t=-1|title=第67回帝国議会 衆議院 予算委員第六分科(逓信省及鉄道省所管) 第3号 昭和10年2月8日|accessdate=2021年9月2日|publisher=国立国会図書館|website=帝国議会会議録検索システム}}</ref>である。{{Quotation|衆議院予算委員会1935年2月8日 |
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○河野委員(河野一郎) それは私も承知して居るが、大体内地で法律が出来ると、それに関連して植民地、植民地と言ふことは言葉が悪いでせうが、朝鮮、台湾、是等の外地の方面にそれぞれ法令出来ると云ふことが従来の慣例だと私は思ふ、こちらに法律がないのに、向ふだけがさう云ふ法律を作る場合は殆んど有り得ない、所が船の問題は(8頁4段)||}} |
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===== 戦後の認識 ===== |
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戦後の日本においても、朝鮮台湾などは植民地であったと認識・公言されている<ref>{{Cite web|title=国会会議録検索システム|url=https://kokkai.ndl.go.jp/#/detailPDF?minId=100114810X00519471120&page=9&spkNum=81¤t=1|website=kokkai.ndl.go.jp|accessdate=2021-09-02}}</ref><ref>{{Cite web|title=国会会議録検索システム|url=https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=100715261X01619500317&spkNum=14&single|website=kokkai.ndl.go.jp|accessdate=2021-09-02}}</ref><ref>{{Cite web|title=日韓共同宣言|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/kaidan/yojin/arc_98/k_sengen.html|website=www.mofa.go.jp|accessdate=2021-09-02}}</ref>。{{Quotation|○委員長(深水六郎君)ちょっと私からも一つ御質問を申上げたいと思いますが、特別委員会でも多分問題になつたと思いますが、野戦郵便局の貯金の問題、それから満州国の貯金の問題、それと朝鮮、台湾、樺太等の旧植民地の貯金の問題というのが、その額或いはその取扱方法、その他のいろいろなやり方というものがどういうふうになっておるのかということもお尋ねして置きたいと思います。|第1回国会 参議院 通信委員会 第5号 昭和22年11月20日|}}{{Quotation|○国務大臣(池田勇人君)※大蔵・通商産業大臣 「御承知の通りに我が国従来の農業政策というものは、朝鮮米、台湾米のことを頭に置きながら、即ち、植民地統治という観点から相当賄なわれておつたのでありますが、御承知の通り朝鮮、台湾を加えますと大体毎年千四、五百万石ぐらいは輸入されておつたのであります。これがなくなつて参りまして、而も片つ方では、千数百万人の人口が増加しております。ここにいわゆる日本の農業政策の何んと申しますか、事情変化が来ておるのであります。|第7回国会 参議院 予算委員会 第16号 昭和25年3月17日|}}{{Quotation|小渕総理大臣は、今世紀の日韓両国関係を回顧し、我が国が過去の一時期韓国国民に対し植民地支配により多大の損害と苦痛を与えたという歴史的事実を謙虚に受けとめ、これに対し、痛切な反省と心からのお詫びを述べた。|1998年10月8日 日韓共同宣言 -21世紀に向けた新たな日韓パートナーシップ-|}} |
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===== 海外の認識 ===== |
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米国務省サイトでは以前韓国の説明<ref>{{Cite web|title=South Korea|url=http://web.archive.org/web/20151015152936/http://www.state.gov/t/pm/64900.htm|website=web.archive.org|date=2015-10-15|accessdate=2021-09-02}}</ref>でこう載せていた。{{Quotation|In 1905, following the Russo-Japanese War, Korea became a protectorate of imperial Japan, and in 1910 it was annexed as a colony. (1905年、ロシア・日本戦争の後で、コリアは日本帝国の保護国となり、そして1910年には植民地として併合された。)※日本語訳は引用者||}}現行の米国務省サイト<ref>{{Cite web|title=U.S. Relations With the Republic of Korea|url=https://www.state.gov/u-s-relations-with-the-republic-of-korea/|website=United States Department of State|accessdate=2021-09-02|language=en}}</ref>ではこのように述べている{{Quotation| In 1910, Japan began a 35-year period of colonial rule over Korea. (1910年、日本はコリアに対して35年間の植民地支配を始めた。)※日本語訳は引用者||}} |
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==== 中華人民共和国 ==== |
==== 中華人民共和国 ==== |
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===== チベット等 ===== |
===== チベット等 ===== |
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{{See also|チベット|東トルキスタン独立運動}} |
{{See also|チベット|東トルキスタン独立運動}} |
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456行目: | 408行目: | ||
|author=浅野豊美 |
|author=浅野豊美 |
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|authorlink=浅野豊美 |
|authorlink=浅野豊美 |
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|title=帝国日本の植民地法制 |
|title=帝国日本の植民地法制―法域統合と帝国秩序 |
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|publisher=名古屋大学出版会 |
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2021年11月14日 (日) 12:29時点における版
植民地(しょくみんち、殖民地とも)とは、国外に移住者が移り住み、当事国政府の支配下にある領土のことで統治領(とうちりょう)とも呼ばれる。
古代史にはフェニキアや古代ギリシアにも見られるが多くは植民元との関係は維持しつつ独立した体制となっており、侵略によって獲得した海外領土の類型は古代ローマに見られる。近年はヴェネチアなどが行った東地中海における植民地経営をそれ以降の植民地支配と連続した流れと考える向きもある。
本項では16世紀に始まるいわゆる「大航海時代」以降ヨーロッパ各国が侵略によって獲得した海外領土を主として扱う。近現代においては、本国政府の憲法や諸法令が原則として施行されず、本国と異なる法的地位にあり、本国に従属する領土を植民地という。
また、植民地に対して従属させて、それらを所有している本国のことは「宗主国」と呼ばれる。
総論
語源
英語の「colony」の語幹「col-」はラテン語「colere」に由来し「耕す」意。cult-も同意でculturで「耕作」「教養」。
日本での植民・移民の研究は明治中後期の頃であり1898年(明治31年)には木村亮吉により『於東洋英国植民政策』(ヂヨゼフ・ジヱレイベール fr:Joseph Chailley著)が翻訳出版されている。但し「西欧列強による有色人種の奴隷化」については近代以前から認知されており、豊臣秀吉の時代にすでにポルトガル人による奴隷売買が知られており、バテレン追放令の原因のひとつに挙げられることがある。幕末においてもアヘン戦争敗北による中国人の奴隷化が知られていた。明治政府は開国以来、外国人の関係する「人権問題」に否応なく巻き込まれるようになった[注 1]。
概要
古代にも植民地はある[注 2]が、「植民地」の規模をそれまでにないほど拡大させたのは近代西欧諸国の産業資本主義の資源収奪要請による。
一般に帝国主義的先進国が植民地を原料工場・市場として経営するとともに、住民を政治・文化・言語的に抑圧支配する。植民地を獲得する過程では、ほとんどのケースで在来住民との軍事的な衝突が起こり、その全殺戮にいたることもある。スペインによるアメリカ大陸の植民地化やイギリスによるアメリカ大陸の植民地化の過程ではしばしば現地住民が激減し、フランスもカリブ海西インド諸島のマルティニーク島の原住民を1658年に殲滅し、純粋な島民は絶滅した[2]。南太平洋の島嶼部では労働者として現地住民を雇用しても失敗するのが定説であった。白人と接触以降に現地人人口が激減することも多く(ハワイやフィジー、サモアなど)、他の領土から労働者を移住させざるをえない状況が頻発した[3]。
現地住民との混血や本国国籍人の現地での浮浪化などは、しばしば民政や法的な問題を発生させた。アヘンや覚醒剤ビジネスは植民地経済に根付くことが多かった。
植民地を獲得したあとは、その植民地を統治・経営(植民地経営)することになる。その過程を植民地化という。
1804年、フランス革命に触発されたハイチが非白人国家としては近代史上はじめて独立して以来、旧植民地諸国は現在にいたるまで数多く独立していった。ただし先進国が独立を認めた背景には、世界経済システムの変容があるといわれる[注 3]。こうした一連の過程を脱植民地化という。
統治形態
植民地の統治形態には、以下のものがある。
- 領事裁判権や租借地・租界設定条約による治外法権の確立。
- 外交権や駐軍権のみを獲得し内政は先住民による統治に任せて原則として干渉しない保護領。
- 現地の王侯や部族長を通じて支配する間接統治。
- 本国から総督や民政長官、軍政長官などを派遣して支配する直接統治。
- 本国が外交と防衛のみを担当し内政は現地住民によって民選された政府・議会に委ねる自治植民地。ただし「自治」とはいっても、参政権は本国出身者に限定されたり、先住民の参加を認めても公用語(本国の言語)習得や一定額以上の納税などの条件を付けて、事実上の参政権が著しく制限されることが多い。
- 自国領への併合(この場合も従来の現地住民について、市民権や国籍上の地位に区別が設定されたり、併合領土での立法・行政権など統治形態が異なることがある)
一般的に植民地統治が継続する中で1.あるいは2.から4.までの変遷をたどるケースが多いが、植民地が本国に隣接している場合、最終的に本国領土の一部として編入され、その過程で先住民も同化が進み、固有の言語や文化、民族意識を喪失していく傾向にある。
植民地における主権は領有国が有するが、領有国の主権がより限定された租借地や租界のまま統治が継続されるケースもある。また、特殊な形態として保護国、複数国による共同統治領、国連の委任統治領や信託統治領などがある。
土地政策
主権のある未文明国に関しては共有、行政占領、租借、割譲という概念で領土獲得を行い、そうでない場合はもっとも露骨な領土獲得の根拠として「無主物先占」の法理が利用された[4]。
差別・分離政策
帝国主義の時代、植民地では本国とは異なった法律が施行、あるいは便宜の規定のみが施行され、先住民には国籍や市民権が与えられなかったり、国籍を与えても「属領籍」「外地籍」「海外籍」のように本国人とは異なる法的身分に編入され、権利義務について不平等な取扱がなされた(イギリス国民や本項の日本の植民地を参照)。
植民地出身者の処遇
ただし、植民地人が本国人と同様の公職に就くことが必ずしも不可能であったわけではなく、官公庁や軍隊において高官に登用され、あるいは本国議会に選出される例もあった。このような傾向は、同化主義を建前とする日本やフランスの植民地に特に強かった。イギリスの海外領土とアメリカ合衆国の海外領土の住民には現在も本国の公職(大統領、国会議員)選挙への投票が認められていない。海外領土出身であっても本国に移住すれば可能である。これに対しフランスの海外県の住民はフランス内地の県の住民と同様に公職選挙への参加が可能である。これは、自治主義、分離主義と同化主義、内地延長主義という植民地統治思想の違いのなごりと見ることができる。
- フランスでは1789年に、サント・ドミンゴ(現ハイチ)の代表が初めて国民議会に参加し、1791年の法律ですべての植民地に本国府県と同等の権利を認め、国民議会に代表を送り、最高法院の法官を選任する権利を与えた[5]。
- フェリックス・エブエはフランス領ギアナで黒人奴隷の子として生まれたが、いくつかの植民地の長官を経て1941年にフランス領赤道アフリカの総督に任命された。
- 後にコートジボワールの初代大統領となるフェリックス・ウフェ=ボワニは、シャルル・ド・ゴール政権下でフランス公共保健・人口相(厚生大臣に相当)に任命された。
- ダーダーバーイー・ナオロージーを始めとする数名の英領インド出身者がイギリス下院議員に選出されている。
- 後に第二次世界大戦期の日本軍占領下で建国されたビルマ国の国家元首となるバー・モウは、1937年にイギリス領ビルマ植民地政府の初代首相に選出された。
- イギリス帝国領インド植民地政府の高級幹部職員であるインド高等文官(ICS)の採用試験は、19世紀後半にインド人にも開放された。結果、インド独立時にはインド人ICSが全体の31%を占めるにいたった。
- ムハンマド・アクバル・ハーンはイギリス領南アジア出身のムスリム(イスラム教徒)として、はじめてイギリス領インド軍の将官に進級した。
- アブドゥル・ラヒームは1908年にマドラス高等裁判所の裁判官に任命され後に同裁判所長官となった。
- フィリピンは1937年にアメリカ合衆国に直接統治される植民地から、独立を視野に入れた自治植民地(コモンウェルス)に移行し、独立準備政府の初代大統領としてマニュエル・ケソンが国民投票によって選出された。
- 日本統治下の朝鮮における道知事の概ね半数程度は朝鮮人であった。
- 衆議院議員として朝鮮人の朴春琴が選出されたほか13名の植民地出身者が貴族院議員に任命された。
- 洪思翊をはじめとする朝鮮人の陸軍士官らが将官に進級した。
立法
立法権は本国政府が任命した総督等の行政長官が掌握することが多かった。多くの場合、植民地の議会は設置されても諮問機関にとどまり、立法権が与えられたとしても、総督等の拒否権が伴うのが通例であった。また、本国の法令の効果は原則的には植民地には及ばないこととされていることが多く、植民地に本国法を適用するためには、植民地政府が別途その旨の法令を制定する必要があった。
行政
行政職員にどの程度現地人を採用するかは植民地によって異なるが、官庁窓口の係員、下級警察官、教員など現地人と直に接する業務従事者には現地人が配置されることが多かった。これは現地語の理解や人員の確保などさまざまな要因があったと考えられるが、結果として現地人の敵意が直接宗主国に向かれるのを回避する効果が期待された。また、植民地人同士の対立を煽ることによって統治を円滑にすすめるため、宗主国に融和的な民族や部族の出身者を優先的に公務員に採用することも行われていた。
司法
多くの植民地では、宗教的な理由などから、本国人と現地人に別個の法体系が適用されていた。
植民地主義
現存する植民地
現代においても事実上の植民地を保有する国は多いが、第二次世界大戦以降は各地の植民地で独立運動が盛んになったり、1960年の国際連合総会における植民地独立付与宣言の決議で、植民地という存在そのものが国際的に否定されたことから、客観的に見て植民地と言いうる実態を有している地域であっても、先住民に本国民と対等の権利を与えて海外領土や自治領などという言い換えをすることが多い。
逆に、客観的に見て植民地と言い難い地域であっても、住民が領有国の統治に不満を持っている場合、領有国を攻撃するための政治的スローガンとして使われることもある。例えばコルシカ民族解放戦線などに代表されるフランス領コルシカ島の分離主義者は同島がフランスの植民地であると主張している。旧東ドイツ住民の中には、「西ドイツの植民地支配を受けている」と主張する人もいる[要出典]。
類推
少数民族の居住地域で、独立運動や市民的自由の抑圧、資源の収奪等の過酷な統治が行われているが、従来の植民地の定義は満たさない地域を、過去の歴史上の植民地との類推から「植民地」と呼ぶこともある。
旧ソ連・ロシアのアジア地域や中華人民共和国のチベット自治区・新疆ウイグル自治区などはこのような文脈で植民地と言われることがある。このような地域を講学上内国植民地と呼ぶことがある。
明治時代における日本の沖縄(琉球処分)や北海道(旧令制国)も講学上の内国植民地に相当する。
事実上の植民地
形式的には独立国として取り扱われていても、内政・軍事両面で外国の圧倒的な影響下に置かれている国家は植民地あるいは植民地同然と形容されることが多い。日本にとっての旧満州国(現在の中国東北部)や旧ソ連の衛星国(現在のモンゴル国、東欧諸国)などがこの典型である。
植民地支配に対する評価
かつては法的にも道義的にも問題ないとするのが常識であったが、現代においては1960年に国際連合総会で決議された植民地独立付与宣言などに見られるように、植民地支配は被害、搾取の時代として否定されるのが世界的傾向である。
旧宗主国側では、近代化という恩恵を後進地域にもたらした善行であるという評価がなされる場合もある。一方で、「部外者による発展」より「民族の独立」そのものに重きを置く価値観から、こうした「恩恵説」に対する反発も存在する。また、植民地支配の便宜を図るための共同体の解体や文化の破壊、言語の空白化を重視する思潮もある(ポストコロニアリズム参照)。
各論
ヨーロッパ諸国
マルコ・ポーロの『東方見聞録』、羅針盤の伝播、香辛料への渇望によりヨーロッパ諸国の東洋に対する関心が高まった。1477年には、クリストファー・コロンブスが大西洋の先の知識を求め、アイスランドへ赴いた。
スペインとポルトガル
ポルトガルとスペインはイベリア半島におけるイスラーム勢力に対する国土回復運動であるレコンキスタを達成した後、大航海時代の先頭を切って海外に進出した。スペインはコロンブスの新大陸発見後、中米のメキシコ、南米のペルーを中心とする大領土を獲得し、さらに太平洋を横断してフィリピン諸島の領有にも成功した。
ポルトガル海上帝国とスペイン帝国の領域を分別したのは、1494年にローマ教皇アレクサンドル6世が定めたトルデシリャス条約である。大西洋上に西経46度の子午線を引き、東をポルトガル、西をスペインの領土とした。このため南米大陸では、ブラジルのみがポルトガル領となった。1529年のサラゴサ条約では現在のインドネシアにあたるモルッカ諸島の東297.5リーグ(ニューギニア島中央部に相当する東経144度30分)を境に、東がスペイン、西がポルトガルの領土とされた。この2つの条約の結果、世界はポルトガルとスペインによって分割された。
ポルトガルは1418年からエンリケ航海王子の下でアフリカ西海岸の探検を続けていたが、1488年に喜望峰を発見すると、東洋における香料貿易の独占をめざしてインド洋に進出した。1500年にはカブラルがブラジルを発見。1511年のマラッカの領有後はマカオ、長崎にまで貿易圏を広げ、一時は日本のキリスト教布教にも成功した。しかしながら、1580年にアヴィス家が断絶するとスペイン王フェリペ2世がポルトガル王となり、事実上スペインの支配下に置かれた。17世紀に入り、1640年には独立を回復するも(ポルトガル王政復古戦争)、アジアで新しく参入したオランダやイギリスとの競合に破れると、南米ブラジルの植民に注力する。その後、ナポレオン戦争に際してブラジル植民地はブラジル帝国として植民地から離脱、さらに、第二次世界大戦後、ポルトガルはインドのゴアにあった植民地からインドの独立後に撤退し、アフリカのアンゴラやモザンビークなどの植民地も1970年代に独立した。1999年にはマカオを中華人民共和国に返還している。
スペインは1521年のコルテスによるアステカ帝国征服、1533年のピサロによるインカ帝国征服により、16世紀から19世紀初頭に至るまで北米南西部からブラジルを除く南米全体に及ぶ大植民地を維持したが(上記のとおり、1580年から1640年にかけては、ポルトガル及びその植民地すらスペイン王の支配下にあった)、イギリス帝国の勃興や王朝交代によりその支配力は弱体化した。1810年に至り現地生まれのクリオーリョは、ナポレオンのスペイン侵攻に乗じて、植民地当局に対して独立を試み、その後15年にわたる攻防により独立を勝ち取る。この結果、スペインが南北アメリカ大陸に維持できた植民地はカリブ海のキューバとプエルトリコだけとなった。さらに、スペインは1898年の米西戦争でキューバとフィリピンを失う。1975年にはアフリカに残っていた西サハラからも撤退した。現在、アフリカ大陸にセウタ及びメリリャを有しているが、自治権や国政参加権は本土と対等であり、スペイン政府は、植民地ではなく飛地領と位置づけている。
イギリス
イギリスの最初の植民地は、イングランドが中世以来入植を繰り返してきたアイルランドといえるだろう。その後は大航海時代の波に乗って北アメリカ大陸へ進出し、17世紀から18世紀にかけてニューイングランド植民地(13植民地)を形成、さらに当初は交易を目的として東洋に渡った東インド会社がインドの諸勢力を巧みに操ってインドを征服。七年戦争ではフランスと争い、その結果イギリスはカナダを獲得、インドからはフランス勢力をほとんど駆逐した。
やがて19世紀始めのナポレオン戦争に勝利したイギリスは、世界の海の覇権を握り大英帝国を建設することとなり、東南アジアのビルマと海峡植民地(後のマレーシア)、中国の香港、流刑植民地として出発したオーストラリアとニュージーランド、アフリカではナイジェリア、南アフリカ(現在の南アフリカ共和国)、南アメリカ大陸のフォークランド諸島などを植民地とした。イギリスはまたスペイン・ポルトガルから独立後の南米諸国やオスマン帝国から独立した中近東諸国にも大きな影響力を持っていたが、これらの植民地は第二次世界大戦後、民族自決の波に乗って次々に独立していった。また、1997年には香港を中華人民共和国に返還している(一国二制度参照)。
ただし、現在でもケイマン諸島、ヴァージン諸島、バミューダ諸島などのカリブ海や大西洋の島々、フォークランド諸島、ジブラルタルなどを海外領土として保有している。
フランス
フランスは当初、カナダのケベックとカリブ海のマルティニーク島、グアドループ島に入植したが、七年戦争でイギリスに敗れ、カナダを放棄した。西アフリカのセネガルも古くからのフランス植民地であった。19世紀になってイスラム圏であるアルジェリアと東洋の仏領インドシナ、南太平洋の仏領ポリネシアのタヒチやニューカレドニアなどの植民地化に成功した。これらの植民地も第二次世界大戦後民族独立の波に乗って次々に独立していった。なおタヒチでは、1990年代フランス政府の核実験に反発した地元住民を中心とした解放機構が、植民地支配からの独立を訴えたが、大統領のジャック・シラクは「タヒチはフランスの一部である」と言明し核実験を実行、現在も独立闘争が続いている。
オランダ
オランダも17世紀から18世紀にかけて帝国主義的な植民地大国としてオランダ海上帝国と呼ばれる。特に17世紀前半はオランダの黄金時代であった。20世紀に入っても東インド植民地(蘭印、インドネシア)や南アメリカの植民地(スリナム)を支配していた。しかし度重なる英蘭戦争で北米の植民地を奪われ、更に南アフリカの植民地も超大国に成長したイギリス帝国に敗れ失うなど、列強としてのオランダの国際的地位は凋落して行った。
20世紀にはインドネシア、スリナムが独立し、ほとんどの領土が失われたが、現在でもカリブ海にキュラソー、アルバの二つの海外領土を持っている。
ロシア(ソビエト社会主義共和国連邦)
ロシア帝国は16世紀、モスクワ大公国がキプチャク汗国から自立し、周囲のスラヴ人の国々を飲み込んでその領土を広げた。16世紀にロシア平原を統一してロシア帝国を成立させると、東へと征服をすすめ、18世紀頃までにはシベリアをほぼ征服した。シベリアの遊牧民を支配下に組み込み勢力を広げた。シベリア制圧を終えると進路は南へ変わり、中央アジアの多くの汗国を侵略、植民地化した。さらにシベリアの南に広がる清とぶつかり、ネルチンスク条約やキャフタ条約によって国境を定めたが、19世紀に清が弱体化すると、アヘン戦争やアロー号事件に乗じ、満州のアムール川以北と沿海州(外満州)を次々に併合、植民地化した。
東方の併合が一段落すると、続いて中央アジアを武力併合、バルカン半島へ進出し、オスマン帝国と幾度も衝突した(南下政策、汎スラヴ主義)。領土拡張主義は日露戦争や第一次世界大戦によって日本、ドイツなどと衝突し合ったが、第一次大戦中に共産主義信奉者によるロシア革命が起こってロシア帝国は滅亡した。拡大した領土はそのままソビエト社会主義共和国連邦に引き継がれ、中央アジア、南コーカサス、非ロシア・スラヴ地域は構成共和国として連邦に加盟し、それ以外はロシア共和国領となった。1941年にはバルト三国を、併合した。
また、第二次世界大戦後に、東欧諸国を中心としてソ連の影響下に置かれた社会主義国も、名目上独立国であるが、衛星国と呼ばれ、植民地的な側面も見られる。冷戦終結とその後の混乱でソ連が崩壊すると、バルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)を除く旧ソ連構成国は独立国家共同体(CIS)を結成して独立し、ロシア連邦内にとどまったシベリア、極東ロシアでも、多くの地域が共和国を構成して自治が行われている。また、東欧諸国でも、ソ連の指導下にあった一党独裁体制が崩壊し、その勢力圏から離脱することになった。
その他のヨーロッパ諸国
- ドイツ帝国はタンガニーカ(現タンザニア)やトーゴ、南西アフリカ(現ナミビア)等のアフリカ植民地や南洋諸島を所有していたが第一次世界大戦敗北により喪失した(ドイツ植民地帝国)。
- イタリアはイタリア領ソマリランド・リビア、さらに短期間のみエチオピア(ソマリアとエリトリアを含むイタリア領東アフリカ)を保持したが、第二次世界大戦の最中にエチオピアを失った。リビアは1951年にリビア王国として独立、ソマリランドはイタリアによる信託統治を経て、ソマリアとして独立した。
- ベルギー国王レオポルド2世は、 ベルリン会議の決議としてコンゴの一部(現在のコンゴ民主共和国の領域)を私領であるコンゴ自由国として保持していた。しかしこの体制による圧政が国際社会から強い非難を受け、1908年にベルギー政府の植民地(ベルギー領コンゴ)に移行した。1960年にコンゴ共和国として独立。コンゴの東に隣接するルアンダ=ウルンディ(ルワンダとブルンジとして独立)はヴェルサイユ条約によってドイツから委任統治領として獲得した植民地である。
- デンマークは北極周辺に植民地を保有し、グリーンランド、フェロー諸島を領有していたが、現在は両国とも自治領となっている。アイスランドもかつてはデンマーク領であった。デンマーク植民地帝国として、デンマーク領西インド諸島、アフリカの黄金海岸の一部、インドのベンガル湾岸の諸都市、ニコバル諸島に植民地を保有していた。後に西インド諸島は第一次世界大戦中にアメリカ合衆国へ、黄金海岸、ベンガル湾岸の諸都市及びニコバル諸島は19世紀半ばにイギリスへ売却された。植民としてよりも海運業が盛んだった。
- スウェーデンは1638年に新大陸にニュースウェーデン(現在のデラウェア州)に植民。後、オランダに奪われる。1650年には黄金海岸にも進出したが、デンマーク、イングランドに奪われて海上帝国を形成出来なかった。植民よりも貿易に力を入れていた。ただしスウェーデンの植民地の先駆けは、中世以来のフィンランドだとも言える(バルト帝国)。近代はロシア帝国に支配されたが、現在でもフィンランド社会にスウェーデンの影響力は深く浸透している。1784年には、フランスから西インド諸島のサン・バルテルミー島を買取り、スウェーデン西インド会社を設立したが、すぐに閉鎖している。若干の殖民も行われたものの、1878年に返還された。島には、今もスウェーデン系を含めたノルマン人の住民が多い。
- ノルウェーは現在、北極海、大西洋上に植民地を領有している。ヴァイキング時代には、グリーンランド、アイスランドも領有していた。現在の植民地は、ノルウェー独立(1905年)以後のものである。北極海にスヴァールバル諸島、ヤンマイエン島、大西洋上にブーベ島、ピョートル1世島を領有している。また南極の一部も領有権を主張している。ヴァイキング時代の植民地を巡ってデンマークと領有権問題を起こしたが、現在は解決している。
- ブランデンブルク=プロイセン(ドイツ帝国の前身)は1682年に西アフリカに遠征し、ギニア湾岸の黄金海岸にグロス・フリードリヒスブルク要塞を建設して奴隷貿易にも携わった。しかし1721年にオランダに売却している。
アジア諸国
日本
大日本帝国時代の統治地域
日本の植民地としては、「外地」と称された諸地域がこれに該当する。
- 台湾(日清戦争後の1895年、下関条約による割譲)
- 南樺太(日露戦争後の1905年、ポーツマス条約による割譲、後に内地編入)
- 関東州(ポーツマス条約による租借地承継。満鉄付属地を含む)
- 朝鮮(1910年の日韓併合条約による大韓帝国の併合)
- 南洋群島(第一次世界大戦後の1922年、国際連盟規約による委任統治)
これらの地域のうち、台湾、南樺太、朝鮮は日本の領土であったのに対して関東州と南洋群島は領土ではなかった。しかし、いずれも日本の統治権が及ぶ地域であり外地と総称された。さらに、日本の影響下にあった満州国(1932年建国)も、事実上の植民地に相当する。
ただし、南樺太に関しては統治の初期より準内地的に扱われた。各地域の法令の適用範囲の確定等が目的の共通法(1918年制定)では内地の一部として扱われた。1943年4月には完全に内地に編入。
なお、内地の沖縄(大東諸島、尖閣諸島を含む)、奄美群島、北海道、東北地方、小笠原諸島も植民地として捉えるべきであるとか、日本の近代化について日本国家が日本社会を植民地化した過程である(自己植民地化論)と捉える観点も存在する。
「外地」と植民地
美濃部達吉は1923年(大正12年)の『憲法撮要』にて、「法律上の意義に於ての殖民地」を「国家の統治区域の一部にして内地と原則として国法を異にし」たものと定義し、「朝鮮、台湾、樺太、関東州及南洋群島が此の意義において植民地なることは疑いを容れず」と述べる。
水野直樹[6]は、日本の法令で植民地という用語を使用したものはないが、公文書ではこれらの地域について植民地(殖民地)の語を使用しているものが存在していたことを指摘する。
法令による規定では
- 内地では帝国議会が法律を制定した(事実上)のに対し、外地では形式的には行政庁である総督が制令(朝鮮)や律令(台湾)などを制定していたこと[注 4]
- 外地には衆議院の選挙区が設置されなかったこと
- 樺太・関東州・南洋諸島の在来住民に日本国籍が与えられなかったこと
など、内地と外地の間に法律上の区別が存在したことから、アカデミズムの世界ではこれらの地域について「植民地」と呼ぶことを自明の前提として研究や議論が展開されることが多い。
また、日本の統治が及んでいた地域ではないが、1932年(昭和7年)に建国された満洲国(満洲国については、準外地と呼ぶことがある)や、大東亜共栄圏構想の下に起こした太平洋戦争の間に日本軍占領下で樹立された国々(フィリピン第二共和国、ベトナム帝国、ラオス王国、ビルマ国、カンボジア王国)や、日本軍占領下で成立した政権の支配地域(蒙古自治邦、汪兆銘政権など)を名目上は独立国であるとはいえ、その実質的な傀儡性から、第二次世界大戦中においては日本の植民地同然だったとする見解もある。
比較法学の観点では、当時の国法学の観点では「国土」という確定された領域は国土学によって理論的に整除され、その結果を憲法に記述することが慣行となっていた。1831年のベルギー憲法、1848年のプロイセン憲法、1871年のドイツ帝国憲法のように第一条に国土条項を記述するのが通例で、領土条項を欠いた憲法はなんらかの事情があり、その点で大日本帝国憲法は異例であった。石村修はこの点について江戸時代における長期の鎖国体制や地政学的特性に着目する。西欧型の植民地経営の特徴は、自国の法がおよぶ範囲を限定し殖民会社に軍備・司法・行政・外交の特権を付与することで、国家も直接植民地支配の煩わしさから解放されることになり、そこでは軍事警察力による暴力的な支配権力が不可欠であり、法的には内地と区分された(外地)という枠組みが形成されるにいたった。19世紀のヨーロッパは国家主権が欠落した空間に宗主国の主権が及ぶことを想定しながら、直接的な責任逃れの法理が適用されることを期待して「外地」(overseas territories)という領土を作り出したとする[4]。
明治憲法(大日本帝国憲法)の形質の観点では、明治憲法に領土規定がなく、ヘルマン・ロエスレルの案においては領土は自明のものであり、また「国体」に関わり議院に属さないものだとして領土規定は立ち消えたのであるが、実際にはロエスレルの認識とは異なり日本の領土は北(樺太・北海道)も南(琉球)も対外政策は不安定な中にあった。明治政府にとって好都合であったことは確かで露骨なものとしては「我カ憲法ハ領土ニ就イテ規定スル所ナシ、諸国憲法ノ或ハ領土ヲ列挙スルト甚タ異レリ、サレハ我ニ在リテハ、領土ノ獲得ハ憲法改正ノ手続ヲ要セス」(上杉慎吉「新稿・憲法述義」1924年P.143[7])と解されていた[8]。
いくつかの勅令等に「殖民地」「植民地」の用語を使用するものが存在したことが指摘される。
- 1898年、時の明治天皇による明治31年勅令第37号では、「北海道殖民地」の用語が使用されている[9]。
- 1932年9月3日昭和天皇が公布の「昭和七年・予算外国庫ノ負担トナルヘキ契約九月三日・予算外国庫ノ負担トナルヘキ契約ヲ為スヲ要スル件」において、「電話ノ料金中本邦收得分(植民地收得分ヲ除ク)」と「植民地」の用語が使用されている[10] 。
- 1930年、昭和5年条約第4号・万国郵便条約では、「第8条 殖民地保護領等」の項目に、朝鮮を含めている[11]。
また、公文書にも「植民地」の用語例は見られ、例えば大正12年刊行の拓殖事務局『植民地要覧』では朝鮮・台湾・樺太・関東州・南洋群島を「我が植民地と解せらるる」とした(同書では南満州鉄道付属地も扱った)。
日本の内地以外の支配地域を植民地とすることへの異論、反発
植民地という用語は元々は「開拓地」や「入植地」などと同様に正否の価値判断を含まない一般術語であり、近代植民地法制学等の社会科学におけるに講学上のテクニカルタームにすぎない[注 5]。外地を「植民地」「殖民地」と呼ぶことへの感情的な反発は明治期からすでに存在し、いわゆる忌避語・侮蔑語のようなニュアンスがあり、外地を植民地と呼称することは回避され「我国にては斯(植民)の如き公の称呼を法律上一切に加えず単に台湾朝鮮樺太等地名を呼ぶ」[13]ことが事実上の慣例となっていた。
中華人民共和国
チベット等
中華人民共和国はチベット(西蔵自治区、青海省など)や内モンゴル(内蒙古自治区)、東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)、満洲(遼寧省、吉林省、黒竜江省の3省と、内蒙古自治区の東部など)などの主権を中華民国から継承したものとし、これらの地域は「もともとの中国の不可分の領土」であるとして、併合していった。現在のこれらの地域は、法制(中華人民共和国憲法の民族自治規定等)上は完全に他の中華人民共和国省区、内地と同格であり、またこれらの土地のほとんどの民族は中華民族に包摂されると定義されているため、形式上、植民地とは言えない。国際連合非自治地域リストに上記地域は含まない。
中華人民共和国において中国共産党による事実上の一党独裁政治による宗教や思想の統制はこれらの地域に限定したことではないが、中国の少数民族の伝統的な文化・宗教・思想が取り締まりの対象となる際、民族文化への弾圧と捉えられる向きがある。
以上のような視点をもとに、東トルキスタン亡命政府、チベット亡命政府、内モンゴル人民党などの独立や自治を目指す諸団体は「中華人民共和国の植民地支配」という表現を多用する。
朝鮮半島
朝鮮半島や朝鮮史を中国や中国史の一部、あるいは従属地域・従属国と見なす研究や記述が存在している。
たとえば米国コロンビア大学オンライン百科事典によれば、韓国古代史について韓国では檀君神話から紀元するものの、中国文献によれば商王朝難民により箕子朝鮮がB.C.1122年に平壌で建国されたのが始まりであるとし、あるいは衛氏朝鮮が朝鮮最初の国家であると解説する[15]。
韓国側文献として例えば『韓国史大事典』では、朝鮮王朝(李朝)と中国(明)の関係については「朝鮮」という国号を明に選んでもらったことを指摘した後、「従属の象徴として明の年号を使った」と説明する。また後の清についても「宗主国」とし、日清戦争で清が日本に敗北した結果として「朝鮮が完全な独立国であることを確認するにいたり、政治的な従属関係はなくなった」と解説する。また日清戦争後、国号を朝鮮から「大韓帝国」に変えた経緯について「清の属国から脱して独立し帝国として発展するという意味」があったと説明する。李朝の前の高麗時代に中国を支配した元との関係では「属国」との表現はないが、高麗王が六代にわたって必ずモンゴルの王妃を迎えるという従属的な「ふま国」となり「自主性を失った」としている[16]。
学生向け教科書にも同様の記述がみられる[注 6]。 特に高句麗史の帰属をめぐり韓国朝鮮と中国の間には論争が生じている。
オマーン
オマーンは17世紀から19世紀半ばにかけて西インド洋において海洋帝国を構築し、同沿岸のザンジバル(現タンザニア領)、モンバサ(現ケニア領)、モガディシュ(現ソマリア領)、パキスタン沿岸のグワーダルなどを保有した。
イスラエル
イスラエルは宗主国無き植民地とも言える国家である(エドワード・サイードなど。反論もある)。第一次世界大戦にオスマン帝国が敗北すると、中東・アラブ地域は新たにイギリス・フランスの植民地となり、ユダヤ人が約束の地と崇めるパレスチナは委任統治領としてイギリスの管理下におかれ、ヨーロッパやアメリカ合衆国からユダヤ人が入植した。ポグロムから逃れてきた人も多かった。しかし、時の弁務官の方針により、ユダヤ人移民の数はおおむね制限されており、ユダヤ人人口が減少に転じた時期もあった。入植者が増大したのは、第二次世界大戦前後の混乱期である。
アメリカのユダヤ人はすでに都市部で富裕層となっており、入植を斡旋したり、入植者に資金面での援助を行ってきた。ナチス・ドイツ時代や、第二次世界大戦後にはさらに入植者が増えた。そのため、ユダヤ人とアラブ人との間で軋轢が多くなり、国家像としては連合国家案より分割案が有効とみなされるようになり、国際連合の決議に基づき、パレスチナをユダヤ国家とアラブ国家に分割することとなった。しかし、決着は得られず、中東戦争の勃発、イスラエルの独立に至った。4度の中東戦争を経ても双方の言い分は平行線をたどる。
特にこれらのユダヤ人は、第三次中東戦争でイスラエルが獲得したヨルダン川西岸地区などに国軍のアラブ人強制排除とともにユダヤ人入植地を建設し、パレスチナ問題を深刻化させている。また、冷戦終結とソビエト連邦の崩壊によって再びユダヤ人の入植が増えている。
アメリカ合衆国
イギリスから独立した元13植民地の連合体として出発したアメリカ合衆国は、その後もイギリス、フランス、スペイン、メキシコから植民地や領土を武力併合または買収して、自国の領土を西へと拡大した。拡大する過程で新たに州を新設していったので、植民地と州の境はあいまいになった。短期間で西海岸へ到達すると、太平洋の先に目を向け、北部のアラスカをロシアから買収(アラスカ州)、ハワイを併合し(ハワイ州)、その後それぞれ州に昇格させ自国領土内に完全に併合する。さらに米西戦争でスペインに勝利すると、スペインの統治下にあったカリブ海のキューバやプエルトリコ、東南アジアのフィリピン、グアムを植民地化した。もっとも、キューバは早期に独立させたが、その後もキューバ革命までの長期に渡り影響下に置いた。
アメリカは建国の成り立ちからして、個人の財産的自由権を重視したが白人植民者の子孫からなるアメリカ合衆国議会はインディアンや黒人奴隷に対してその主権を認めることはなかった[注 7][注 8]。フロンティアへの進出に際して先住民と条約を結び、先住民の一定の主権を認めていたが、合衆国や州政府、入植者たちはたびたび条約を無視したり、先住民に権利の放棄を強要した。北西部領土や西南部領土あるいは西海岸に移動した白人開拓者は1763年宣言などインディアン達との取り決めに違反していたにも拘らず、開拓者や商人らへの攻撃に対して合衆国陸軍は出動し、インディアン強制移住法はミシシッピ以東から先住民を駆逐するだけでなく、以西のフロンティアにおいても駆逐を続け、先住民は占有する土地を極めて小額の補償金と引き換えに合衆国政府に対して強制的に譲渡させられた。オレゴン・カントリーをめぐる交渉や米墨戦争による武力併合により合衆国政府は広大な土地を獲得し、これらの土地は入植者に対して無償ないしは非常に安い価格で売却された。1890年代のフロンティア消滅と時期を同じくして発生した米西戦争により領土はフィリピン、グァム、キューバへ拡大し、またハワイ入植者が起こしたクーデターに米国海兵隊が介入しハワイ王国を併合した。
「アメリカ人の生命及び財産の安全確保のため」議会に対して合衆国軍隊の介入を要請するという図式はアメリカ帝国主義拡大の基本的な構造であり、皇帝や国王の名を必要としない19世紀型の帝国主義の典型となった。米西戦争の勝利によって、スペインの影響下にあった中米の国々を独立させ、政治や経済的に影響下に置いたのちも、中米諸国はバナナ共和国と呼称され、アメリカ資本のユナイテッド・フルーツやドール・フード・カンパニーなどの民間企業が資本主義の尖兵として掠奪経営や政治介入をおこなった。キューバなどカリブ諸島の親米政権に支援を行い、ドミニカ、グレナダ、パナマには公然と軍事介入した。中米のプエルトリコは、現在も自治領として存続している。また北マリアナ諸島もアメリカの執政下にとどまっている。
新植民地主義
開発援助において、古くは1960年代に英仏がアフリカの旧植民地に財政支援をおこない、「新植民地主義」と批判され取りやめたことがある[18]。共産主義陣営(社会主義国、旧東側諸国)においては1960年代に世界で新植民主義が進展しているとの認識があり、中華人民共和国では、中国共産党が1963年9月に3回にわたりソ連共産党中央委員会を痛罵し10月22日付の批判ではソビエトを「新植民主義の弁護人」であると批判した。中国の理論家たちの見解によれば、「ソビエトによる社会主義世界体制は、世界の発展過程全体にますます決定的な影響を及ぼしていないばかりか、帝国主義に対する大衆の革命的闘争で独自の役割すら果たしていない」と非難した[19]。
こういった大戦後に登場した旧宗主国や大国における新たな植民的支配(新植民主義)論とは別に、21世紀になり中国など新興国の台頭を背景とした国外への積極的な投資や開発援助が「新植民主義」との指摘もある。
例えば中国の対アフリカ援助が「新植民主義」だとの批判が一部の先進国から浮上し、一部のアフリカの国からも新植民地主義であると発言している。また、援助の実施を担当する中国企業が地元の環境を破壊したり汚染を及ぼすこともあった[20]。
マダガスカルでは2008年11月に、韓国の大宇グループがマダガスカル共和国の耕作可能地の約半分を99年間無償貸与される契約を結んだことから民衆騒動が発生し、当時のマーク・ラヴァルマナナマダガスカル大統領が退陣させられ契約が撤回される事態となった(マダガスカル・クーデター)。
韓国の李明博大統領は2008年4月15日にも、「ロシア沿海州のような地域の土地を30~50年間にわたり長期賃貸できるだろう」「北朝鮮の労働力も利用でき、また北朝鮮までの輸送距離が短いため北朝鮮への直接支援も可能だ」という発言を行っている[21]。
脚注
注釈
- ^ この例として、明治維新前年1867年にハワイ国総領事を名乗る男が幕府の免状を得、明治元年に日本人を移民させたことをめぐる問題(ハワイ日本人出稼人召還事件)、あるいは「苦力貿易(coolie trade)」と呼ばれる人身売買ケースにまつわる外国公使からの各種通報、1872年(明治5年)のマリア・ルス号事件[1]などがある。
- ^ 古代中国の朝鮮半島での楽浪郡等漢四郡(それ以前の箕子朝鮮、衛氏朝鮮を含めても考えることができる)の設置、ベトナムでの日南郡、交趾郡など南越九郡の設置も一種の植民活動である。
- ^ エリック・ウィリアムズやジョン・ケネス・ガルブレイスの見解。また世界システム論・世界経済の項目を参照。
- ^ 政務のすべては総督に委任の上、内閣総理大臣の監督を受け(台湾総督府官制3条)、あるいは内閣総理大臣を経て天皇に直接上奏すれば良い(朝鮮総督府官制3条)とされたが、実際の実務は拓務省や内務省など内地行政機関の依命通牒(直接の権限はないが、上位職の指示命令により通知(アドバイス)する文書)に従うことが多かった。また総督府令により1年以下の懲役もしくは禁錮、拘留、200円以下の罰金または科料の罰を課すことが認められていた(台湾総督府官制5条、朝鮮4条)が、それ以上の罪過あるいは総督府令によらない法令については日本内地の制定法による必要があった。
- ^ 「植民地」なる用語への評価としてはたとえば『(植民地の)文字の我国で用ゐられ初めたのは、極めて最近の事で、~中略~明治以前の空気に多く包まれた人の頭には、植民地と云ふ文字が、非常にハイカラな文字になつて響いて居る。隨て、植民地がどうの、植民政策がどうの、拓殖局がどうのといつた所で、虻が鼻の頭を刺した程の感じもない。新領土といふ文字にせよ、其れは二十七八年、三十七八年に於ける、二大戦役の賜物で、此戦役以前、新領土といふ文字は、あまり繰り返されて居ない。何れにしても、植民地といふ文字は、現代人に未だ耳新しい文字である。先ず植民的知識をいへば、其れは北海道開拓の其れであつたらう。北海道開拓は、我日本国民に、植民の意味を、朧気ながらも、先づ敎へた所の鐘の音であるのである』[12]。
- ^ 韓国紙『朝鮮日報』によれば、「アメリカの世界史の教科書には中国と韓国の間の朝貢秩序を拡大解釈し、韓国を中国の従属国と見なしたり古代日本が韓国から多くの文化的影響と接触を受けたにも関わらず日本が直接中国を通じて文物を伝承したという内容もあった。韓国教育開発院の李讃熙(イ・チャンヒ)博士は『韓国の歴史を主体的に扱っておらず、中国、日本などの歴史叙述のために付随的に挿入されているケースが多い』」と指摘する[17]。
- ^ ジョン・ロスらの「チェロキー国への州法適用差し止め」訴訟と連邦議会への工作はジャクソン大統領による「大統領にインディアン強制移住の権限を与える法律」制定提案と圧倒的多数による可決をもって報いられた。また裁判所への提訴はチェロキーたちの提訴権の否定(門前払い)によって報いられた。黒人奴隷の裁判提訴権の否定についてはドレッド・スコット対サンフォード事件。
- ^ 「奴隷解放論者」と「解放奴隷」によって進められた、アメリカ植民協会によるリベリア入植は実にアメリコ・ライベリアンらによる新たな植民地であった。赤狩りによって非合法化されるアメリカ共産党には黒人に主権をという主張もあった。ただし必ずしも黒人の支持があった訳でない。
出典
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関連項目
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