「アイザック・ニュートン」の版間の差分
リンゴの逸話 |
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=== ウィリアム・ステュークリ === |
=== ウィリアム・ステュークリ === |
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ニュートンの友人でありニュートンの初期の伝記作家である[[ウィリアム・ステュークリ]]が1726年4月15日にニュートンから直接に聞いた話を回顧録として記録している。ステュークリが1752年に書いた ''MEMOIRS OF Sr. ISAAC NEWTONS life'' <ref>[https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Memoirs_of_Sir_Isaac_Newton%27s_life_-_002.jpg File:Memoirs of Sir Isaac Newton's life - 002.jpg] From Wikimedia Commons、画像から「Sir」ではなく、「Sr.」と翻刻。</ref>に[[1726年]][[4月15日]]にニュートンと会話した、とする以下のくだりがある。 |
ニュートンの友人でありニュートンの初期の伝記作家である[[ウィリアム・ステュークリ]]が1726年4月15日にニュートンから直接に聞いた話を回顧録として記録している。ステュークリが1752年に書いた ''MEMOIRS OF Sr. ISAAC NEWTONS life'' <ref>[https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Memoirs_of_Sir_Isaac_Newton%27s_life_-_002.jpg File:Memoirs of Sir Isaac Newton's life - 002.jpg] From Wikimedia Commons、画像から「Sir」ではなく、「Sr.」と翻刻。</ref>に[[1726年]][[4月15日]]にニュートンと会話した、とする以下のくだりがある。 |
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{{Cquote|after dinner, the weather being warm, we went into the garden, & drank thea under the shade of some appletrees, only he, & myself. amidst other discourse, he told me, he was just in the same situation, as when formerly, the notion of gravitation came into his mind. "why should that apple always descend perpendicularly to the ground," thought he to him self: occasion'd by the fall of an apple, as he sat in a comtemplative mood: "why should it not go sideways, or upwards? but constantly to the earths center? assuredly, the reason is, that the earth draws it. there must be a drawing power in matter. & the sum of the drawing power in the matter of the earth must be in the earths center, not in any side of the earth. therefore dos this apple fall perpendicularly, or toward the center. if matter thus draws matter; it must be in proportion of its quantity. therefore the apple draws the earth, as well as the earth draws the apple." |||ウィリアム・ステュークリ|MEMOIRS OF Sr. ISAAC NEWTONS life}} |
{{Cquote|after dinner, the weather being warm, we went into the garden, & drank thea under the shade of some appletrees, only he, & myself. amidst other discourse, he told me, he was just in the same situation, as when formerly, the notion of gravitation came into his mind. "why should that apple always descend perpendicularly to the ground," thought he to him self: occasion'd by the fall of an apple, as he sat in a comtemplative mood: "why should it not go sideways, or upwards? but constantly to the earths center? assuredly, the reason is, that the earth draws it. there must be a drawing power in matter. & the sum of the drawing power in the matter of the earth must be in the earths center, not in any side of the earth. therefore dos this apple fall perpendicularly, or toward the center. if matter thus draws matter; it must be in proportion of its quantity. therefore the apple draws the earth, as well as the earth draws the apple." |||ウィリアム・ステュークリ|MEMOIRS OF Sr. ISAAC NEWTONS life}} |
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{{Cquote|ディナーの後で、暖かい日だったので、庭に出て数本のリンゴの木の木陰でお茶を飲んだ。ニュートンと私だけだった。色々の話の途中で、彼は、「昔の時とちょうど同じ状況だ。その時、引力についての考えが浮かんできたのだ。」と言った。 |
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彼は「なぜリンゴはいつも地面に向かって垂直に落ちるのか?」と自問した。腰を降ろして考えにふけっていたときに、たまたまリンゴが落ちたときだった。「なぜリンゴは横に行ったり上に上がっていかず、いつも地球の中心へ向かうのか?」理由は疑いもなく、地球がリンゴを引き寄せているからだ。物質には引き寄せる力があるに違いない。地球にある物質の引く力の総量は地球の中心にあるのであって、地球の中心以外の所にはないに違いない。 |
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だからこのリンゴは鉛直に、地球中心に向かって落ちるのだ。物質が物質を引き寄せるのであれば、その量は物質の量に比例するに違いない。それゆえ、地球がリンゴを引き寄せるように、リンゴもまた地球を引き寄せるのであると。}} |
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=== ジョン・コンデュイット === |
=== ジョン・コンデュイット === |
2022年1月25日 (火) 12:22時点における版
アイザック・ニュートン Isaac Newton | |
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1689年のニュートン(ゴドフリー・ネラー画) | |
生誕 |
Isaac Newton グレゴリオ暦:1643年1月4日 イングランド王国・リンカンシャー州ウールズソープ=バイ=コルスターワース |
死没 |
グレゴリオ暦:1727年3月31日(84歳没) グレートブリテン王国・ イングランド・ミドルセックス州ケンジントン |
居住 | イングランド |
国籍 | イングランド(グレートブリテン王国) |
研究分野 | 自然哲学、数学、物理学、天文学、錬金術、神学、キリスト教神学、経済学 |
研究機関 |
ケンブリッジ大学 王立協会、王立造幣局 |
出身校 | ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ |
指導教員 | アイザック・バロー、Benjamin Pulleynなど |
主な指導学生 | ロジャー・コーツ、ウィリアム・ホイストンなど |
主な業績 | ニュートン力学(古典力学)の体系化、万有引力の法則の発見、微積分法、光学、光のスペクトル分析、二項級数、二項定理、自然哲学の数学的諸原理、ニュートン法など |
主な受賞歴 | Fellow of the Royal Society、Knight Bachelorなど |
署名 | |
プロジェクト:人物伝 |
アイザック・ニュートン[1](英: (Sir) Isaac Newton、ユリウス暦:1642年12月25日 - 1727年3月20日、グレゴリオ暦:1643年1月4日 - 1727年3月31日)は、イングランドの自然哲学者、数学者、物理学者、天文学者、神学者。
主な業績としてニュートン力学の確立や微積分法の発見がある。1717年に造幣局長としてニュートン比価および兌換率を定めた。ナポレオン戦争による兌換停止を経て、1821年5月イングランド銀行はニュートン兌換率により兌換を再開した。
ニュートンの生年とガリレオの死亡年についての誤解
しばしば「ニュートンはガリレオが死んだ年に生まれた。」と間違って言われている[2][3]。この間違いはガリレオが死んだ日は新しいグレゴリオ暦によっており、ニュートンの誕生日は古いユリウス暦によっているせいで起こっている[4][注 1] 。
事項 | 年月日(ユリウス暦) | 年月日(グレゴリオ暦) | 行用されていた暦法[5] |
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ガリレオの死亡日 | 1641年12月29日 | 1642年1月8日 | グレゴリオ暦(イタリア内) |
ニュートンの誕生日 | 1642年12月25日 | 1643年1月4日 | ユリウス暦(イングランド内) |
ガリレオが死んだ日は、イタリアで使われていたグレゴリオ暦で1642年1月8日(ユリウス暦では1641年12月29日)である。したがって、ニュートンはガリレオの死んだほぼ一年後に生まれたと言うことはできる[6]。
生涯
生い立ち
同名のアイザック・ニュートンを父、ハナ・アスキューを母として、ユリウス暦1642年12月25日(クリスマス)にイングランドの東海岸に位置するリンカンシャーの小都市グランサムから南方に10キロほど離れた一寒村ウールスソープ=バイ=カールスターワース(Woolsthorpe-by-Colsterworth)の祖父宅(母方)において生まれたが、その誕生の直前に父親は他界していた[7]。未熟児として生まれたといい、産婆は「この子は長生きすまい」と言ったという[7]。なお、アイザックという名は、旧約聖書 の創世記に登場する太祖の一人イサクに由来する。父親は、身分としてはヨーマン(=独立自由農民)と貴族との中間的な位置づけの身分(村の郷士のようなもの)で農園を営み、37歳のときに近郊の農家の娘(=アイザックの母、ハナ・アスキュー)と結婚したが、アイザックが生まれる3か月前に死去した(のちにニュートンの義父となったバーナバス・スミスは、この父アイザックが「粗野な変人であった」と述べたという。ただし父方の一家は当時のイングランドで勃興しつつあった知識階級に属する者が多く、薬剤師、医師、牧師などを輩出している)。
実母はアイザックが3歳のときに近隣の牧師のバーナバス・スミスと再婚してアイザックの元を離れ、アイザックは祖母に養育されることになった。アイザックは物心のつかない年齢で両親の愛を知らない子となった[7]。母親が再婚した理由のひとつは息子の養育費を得ることもあった[7]。母親はスミスとの間に3人の子を産むことになる。息子のアイザックは母のこの選択に反発し、「放火して家ごと焼き殺す」などと殺害する旨を明かして恫喝した(この一時の激情に駆られた発言を悔いて、後年は実母と付かず離れずの関係を保ち面倒を見た)。
母親は息子アイザックの才能に気付いていなかったが、親類がそれに気がついてくれたこともあり、1655年に彼はグランサムのグラマースクールに入学することになった。学校は自宅から7マイルも離れていたので、母の知り会いの薬剤師のクラーク家に下宿した[7]。ニュートンはこの家庭で、薬学関係の蔵書に出会い、それに興味を持つようになった[7]。また、クラーク家の養女ストーリーとは親友となった(ニュートンはこのストーリーと18歳で婚約することになり、のちに至るまで親密な交際と金銭的な援助を続けることになる。しかし、ニュートンは法的には結婚はせず、終生独身のままであった)。グラマースクール時代もニュートンは自省的な生活を送り、薬草の収集、水車、日時計、水時計の製作などを行っていた。また、体が小さく内向的で目立たぬ子だったため、友人たちのからかいの的であったが、あるとき自分をいじめた少年と喧嘩をして勝ったことをきっかけに、自分に対する自信を持つようになったとされる[8] [9]。
学校に通うようになって2年がたち14歳になったときに、母の再婚相手のスミスが死去し、母は再婚相手との間にできた3人の子どもとともにウールスソープの家へと戻ってきた。母は、亡くなった元の夫が遺した農園を営むことを考え、父親のようにアイザックが農業(百姓仕事)を行うことを期待し、その仕事を手伝ってもらおうとグランサム・スクールを退学させた。母親は勉学よりは農業のほうが大切と考えていたらしいという。ところがニュートンは農作業をほったらかしたまま、前の下宿先のクラーク家に行っては化学書を読んだり水車づくりに熱中した[7]。そのため、母は彼が百姓向きではないと思い、将来のことを親類や友人らに相談し、ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジで学ばせるほうがよいという助言を聞き入れた。そして、ニュートンは2年後には学校へと復学することになり、そこでトリニティカレッジの受験の準備として聖書、算術、ラテン語、古代史、初等幾何などを学んだ[7]。
トリニティ・カレッジ入学
1661年に叔父であるウィリアム・アスキューが学んでいたトリニティ・カレッジに入学した[10]。入学当初は「サブサイザー(sub-sizar)」として仮に受け入れられ、1か月後に「サイザー(sizar)」として正式に受け入れられた。これは講師の小間使いとして食事を運んだり使い走りをする代わりに、授業料や食費を免除されるという身分であった[7]。大多数の学生は「コモナー(commoner)」という自費で学費を払う者たちで、自分がサイザーという身分であったことや、自分の家柄のこともあり、同級生と打ち解けなかったという[7]。
当時、大学での講義のカリキュラム編成は、スコラ哲学に基づいて行われており、つまり主としてアリストテレスの学説に基づいていたが、ニュートンは当時としては比較的新しい数学書・自然哲学書のほうを好んだ。たとえば、数学分野では、エウクレイデスの『原論』、デカルトの『幾何学(en:La Géométrie)』ラテン語版第2版、ウィリアム・オートレッドの『数学の鍵(Clavis Mathematicae)』、ジョン・ウォリスの『無限算術(The Arithmetic of Infinitesimals[11])』などであり、自然哲学分野ではケプラーの『屈折光学(Dioptrice)』、ウォルター・チャールトンの原子論哲学の入門書などを読んだのである。
ここでニュートンは、良き師であるアイザック・バローにめぐり会う。ケンブリッジにおいて1663年に開設されたルーカス数学講座の初代教授に就任したバローは、ニュートンの才能を高く評価し、多大な庇護を与えた。バローは時間、空間の絶対性を重要視するプラトニズムを奉じた数学者であり、ニュートンの思想にも大きな影響を与えた。バローのおかげもあり、1664年にニュートンは「スカラー」[10](=奨学金が支給される学生)にしてもらうことができ、翌年には学位を授与されることになる。バローとの出会いによってニュートンの才能は開花し、1665年に万有引力、二項級数、対数の無限級数の発見[12]を経て、さらに微分および微分積分学へと発展することになった。
ペスト流行と三大業績
また、ニュートンがこうした成果を得るのに有利に働くことになる、もうひとつの出来事があった。一人でじっくりと思索をめぐらす時間を得たのである[7]。学位を取得したころ、ロンドンではペストが大流行しており(ペストは以前14世紀にヨーロッパの人口の3分の1以上を死亡させたほどの恐ろしい病気だった。ニュートンが学生のときのそれは数度目の襲来であった)、この影響でケンブリッジ大学も閉鎖されることになり、1665年から1666年にかけて2度、ニュートンはカレッジで彼がしなければならなかった雑事から解放され、故郷のウールスソープへと戻り、カレッジですでに得ていた着想について自由に思考する時間を得た[7]。また1664年、つまりペストで疎開する前に奨学生の試験に合格して奨学金を得ていたことも、故郷で落ち着いてじっくりと思索するのに役立った[7]。こうしてニュートンは故郷での休暇中に、「流率法( (Method of Fluxions) )と彼が呼ぶもの(将来「微分積分学」と呼ばれることになる分野)や、プリズムでの分光の実験(『光学』)、万有引力の着想などに没頭することができたのである。「ニュートンの三大業績」とされるものは、いずれもペスト禍を逃れて故郷の田舎に戻っていた18か月間の休暇中になしとげたことであり[13]、すべて25歳ごろまでになされたものである[7]。結局、このわずか1年半ほどの期間にニュートンの主要な業績の発見および証明がなされているため、この期間のことは「驚異の諸年」とも、「創造的休暇」とも呼ばれている。この間に、リンゴが落下するのを見て万有引力のアイディアを思いついたとの有名な逸話がある(#リンゴについての逸話)。
1667年にペストがおさまったあとケンブリッジ大学に戻り、その年の10月、同大学でフェロー職を務めていた2名が階段から落ちたうえにほかの1名が発狂し、欠員が計3つ生じたため[7]、ニュートンはフェローになることができ[10]、研究費を支給されるようになった。 その年に『無限級数の解析(De Analysi per Aequationes Numeri Terminorum Infinitas)』を書いた(刊行1671年)。また論文『流率の級数について(De methodis serierum et fluxionum)』を発表した。これでニュートンは微分積分法について述べているが、ライプニッツもまた独立に、異なった視点から微分積分法を発見しており、のちに優先権をめぐって熾烈な争いが展開された。ニュートンの発表はライプニッツより遅かったが、ライプニッツより早く発見していたと主張し、結局25年の長きにわたり法廷闘争を行った。
ニュートン式望遠鏡を考案し1668年には第一号機を完成した。改良した第二号機は1672年王立協会の例会に提出され、ニュートンが会員に推薦される理由となった。
ルーカス教授職と著書刊行
1669年にケンブリッジ大学のルーカス教授職に就いた。これは師のバローがニュートンの才能を認めて自分のポストを弟子に譲ろうと打診したものであり、ニュートンは一度断ったが、結局その申し出を受け入れることにした[7]。ルーカス教授としての役割は、幾何学、算術、天文学、光学、地理学のいずれかの講義を毎学期わずか10回ほど持つことと、週に2回学生との会合に出るだけでよいというものであった[7]。ニュートンは自分が開拓した光学について講義したが、内容が斬新すぎて理解しがたかったらしく、学生がひとりも講義に現れず出席者がないということもしばしばだった[7]。
ルーカス教授時代に、彼の二大著書となる『光学』の執筆(刊行は1704年)および『自然哲学の数学的諸原理』の執筆・刊行(1687年刊)、聖書研究や錬金術の実験などに没頭し、また哲学者でもあったので、自然学に対する情熱と同じくらいの情熱、あるいはそれ以上の情熱を神学に注いだ[7]。『自然哲学の数学的諸原理』は18か月で書き上げ、この期間は食事も忘れるほどの極度の集中だったという[13]。
ニュートンの死後残された蔵書1,624冊のうち、数学・自然学・天文学関連の本は259冊で16パーセントであるのに対して、神学・哲学関連は518冊で32パーセントである[7]。ニュートンが哲学者として聖書研究や錬金術研究も重視し、熱心に研究を行い努力していたという事実については、のちの時代に登場することになる科学者たちが、自分たちの気に入る英雄像を作るために事実をゆがめて書いたり、自分たちに都合の悪い事実を無視するかたちで科学史を書くということが繰り返されたりした[7]ため、やがて忘れられてしまうことになった。20世紀になり、ケインズなどが歴史的資料の収集・再検証が行い、ようやくそうした科学史の嘘、科学者らによる嘘が明らかになった。
下院議員職
『自然哲学の数学的諸原理』を刊行(1687年)してまもなくのこと、王位に就いたジェームズ2世がケンブリッジ大学に対して干渉してくるという出来事があったが、その際に行われた1686年の法廷審理に大学側の全権代表グループの一員として参加し、毅然と干渉をはねのける発言をした[7]。2年後の1688年には、庶民院議員(下院議員)に大学より選出された[7]。しかし議会で議員としての唯一の発言は「議長、窓を閉めてください」だったという[14]。
ニュートンは大著の執筆のあとで疲れており(『自然哲学の数学的諸原理』の執筆から刊行にいたるまでに、ロバート・フックと先取権をめぐり確執も生じ、初代グリニッジ天文台長のジョン・フラムスティードとも感情的ないざこざがあった)、大学での学究的生活にうんざりしていたとされ、上記のような政治的なことへの関わりが、大学から離れた実務的な世界で地位を得たいという欲望に火をつけた[7]。そこで、教え子で19歳年下ながら社交性に富み、立ち回りがうまく、すでに中央政界で人脈を持っていたチャールズ・モンタギューに対して政治関連のポストを世話してくれるように依頼した。さらに、有名な哲学者ジョン・ロックとも知遇も得ていたため彼にもポストの紹介を依頼したが、すぐに色良い返事がもらえたわけではなかった[7]。
精神的に疲れていたうえに、あてが外れた形になったニュートンはやがて精神状態に変調をきたすようになった。回復するのに時間を要し、不眠や食欲減退も引き起こし、被害妄想にも悩まされた。福島章は統合失調症説を展開している[15]。ジョン・ロックへの書簡の中には、「(教え子の)チャールズ・モンタギューは私を欺くようになった」といった内容を書いたものが残っている[7]。2年ほど自宅に引きこもるような状態になったとも言われる[誰によって?]。これを“錯乱”と表現する人もいるが、うつ病程度ではなかったかという指摘、最愛の母が死去するに至ったことの影響もあったとの指摘もある[7](母は1697年6月に死去した)。好んで行っていたものの一つで、錬金術においてしばしば重金属を味見するという行為があったために一時的な精神不調に陥った可能性も示唆されている[誰によって?]。この壮年期におけるスランプにおいても頭脳は明晰かつ学問を楽しんでおり、ヨーロッパ中に難解かつ興味を惹くような数学の問題を新聞に出題していたヨハン・ベルヌーイの「鉛直面上に2つの点があるとする。ひとつの物体が上の点から下の点まで重力のみで落下する時に要する時間をもっとも短くするには、どのような道筋に沿って降下させればよいか?」という最速降下曲線と呼ばれる問題を1696年に出題、翌年1月夕方ニュートンの下に掲載誌が到着、出題に目を通したニュートンは今日変分法と呼ばれる新しい数学の分野を一夜で組み立て、翌朝の出勤前までに解答し終え、匿名でベルヌーイに投稿した。
王立造幣局勤務
そんな時期が続いてはいたが、やがて教え子のモンタギューが世渡りのうまさを発揮して財務大臣になり、1696年4月にはニュートンに「王立造幣局監事」のポストを紹介し[7]、1699年には「王立造幣局長官」に昇格することになった。モンタギューとしては働きづめであった師に少しばかり研究から離れて時間的、体力的に余裕のある地位と職に就かせたつもりだったが、就任早々に通貨偽造人の逮捕を皮切りに片っ端から汚職を洗い出し、処罰する方針を打ち出した[7]。「元大学教授」にしては鮮やかな手並みで、部下の捜査員に変装用の服を与えるなどし、偽金製造シンジケートの親分ウィリアム・シャローナーを捕らえて裁判にかけ、大逆罪を適用して死刑にした[7]。ニュートンが造幣局長官に在職している間は偽金造りが激減した。一方、銀貨の金貨に対する相対的価値の設定においてはニュートンは市場の銀の金に対する相対価値を見誤り、普通の銀よりも低く設定したため、銀貨が溶かされ金貨と交換されるという現象を引き起こしてしまい、これは図らずもイギリスが事実上の金本位制に移行する原因となった。
ニュートンは造幣局勤務時代には給料と特別手当で2000ポンドを超える年収を得て、かなり裕福になった[7]。そして、個人で1720年までに南海会社株に1万ポンドの投資も行った。つまりイギリス史上もっとも悪名高い投機ブーム(南海泡沫事件)にニュートンも乗ろうとし、ブームの期間中株を持ち続け7000ポンドの利益を出したが、結局その後の株価暴落で2万ポンドの大損をしたとされる[7]。
錬金術研究と聖書研究
研究としては、造幣局に勤めてからは錬金術に没頭した(現代の科学者が“科学的”と呼ぶ類の研究は行っていない。そうした類の業績が発表されたのは1696年の入局までの53年間である)。晩年、『二つの聖句の著しい変造に関する歴史的記述』を著すことになるものの、イングランド国教会の教義とは異なるため、弾圧を恐れて生前には発表しなかった(1754年刊)。ニュートンの考えの概略は「三位一体の教義はアタナシウスが聖書にもちこんだのだから誤りだ」というものである[7]。
晩年
1705年に、アン女王からナイトの称号を授けられた。授与の会場はトリニティ・カレッジで、自然哲学の業績に対するものであった。自然哲学(自然科学)の業績でナイトの称号が贈られたのは、ニュートンが最初である[7]。
授与から20年ほどあとの1727年に死去し、ウェストミンスター寺院に葬られた[7]。遺言状は残しておらず、遺品は甥や姪に分配され、所有していた農園はそれの法定相続人の農夫に受け継がれ、ニュートンの自宅はウェストミンスター公立図書館になった[7]。
リンゴについての逸話
ニュートンがリンゴが落下するのを見て万有引力のアイディアを思いついたとの逸話は有名である。ニュートン自身が記した記録は存在しないが、周辺の人物が書き残したものとしては次のものがある[16]。
ウィリアム・ステュークリ
ニュートンの友人でありニュートンの初期の伝記作家であるウィリアム・ステュークリが1726年4月15日にニュートンから直接に聞いた話を回顧録として記録している。ステュークリが1752年に書いた MEMOIRS OF Sr. ISAAC NEWTONS life [17]に1726年4月15日にニュートンと会話した、とする以下のくだりがある。
「 | after dinner, the weather being warm, we went into the garden, & drank thea under the shade of some appletrees, only he, & myself. amidst other discourse, he told me, he was just in the same situation, as when formerly, the notion of gravitation came into his mind. "why should that apple always descend perpendicularly to the ground," thought he to him self: occasion'd by the fall of an apple, as he sat in a comtemplative mood: "why should it not go sideways, or upwards? but constantly to the earths center? assuredly, the reason is, that the earth draws it. there must be a drawing power in matter. & the sum of the drawing power in the matter of the earth must be in the earths center, not in any side of the earth. therefore dos this apple fall perpendicularly, or toward the center. if matter thus draws matter; it must be in proportion of its quantity. therefore the apple draws the earth, as well as the earth draws the apple." | 」 |
—ウィリアム・ステュークリ(MEMOIRS OF Sr. ISAAC NEWTONS lifeより) |
訳文
「 | ディナーの後で、暖かい日だったので、庭に出て数本のリンゴの木の木陰でお茶を飲んだ。ニュートンと私だけだった。色々の話の途中で、彼は、「昔の時とちょうど同じ状況だ。その時、引力についての考えが浮かんできたのだ。」と言った。
彼は「なぜリンゴはいつも地面に向かって垂直に落ちるのか?」と自問した。腰を降ろして考えにふけっていたときに、たまたまリンゴが落ちたときだった。「なぜリンゴは横に行ったり上に上がっていかず、いつも地球の中心へ向かうのか?」理由は疑いもなく、地球がリンゴを引き寄せているからだ。物質には引き寄せる力があるに違いない。地球にある物質の引く力の総量は地球の中心にあるのであって、地球の中心以外の所にはないに違いない。 だからこのリンゴは鉛直に、地球中心に向かって落ちるのだ。物質が物質を引き寄せるのであれば、その量は物質の量に比例するに違いない。それゆえ、地球がリンゴを引き寄せるように、リンゴもまた地球を引き寄せるのであると。 |
」 |
ジョン・コンデュイット
ジョン・コンデュイットは、ニュートンの姪であるキャサリン・バートンの夫であり、夫妻はニュートンが亡くなるまで、ロンドンのニュートン宅で一緒に住んでいた。1727年か1728年に、「1665年という年、彼は・・・初めて重力の体系のことを考えたが、それに行き当たったのは、一本の木から一個のりんごが落ちるのは見たことによる」と書いている[18]。
ヴォルテール
ヴォルテールはニュートンが死んだとき、イギリスを訪問中であった。1727年に、キャサリン・バートンから聞いた話を記録している。「アイザック・ニュートン卿が自宅の庭を歩いていて、木からりんごが落ちるのを見て重力体系の最初の思考を得たのである。」と[19]。
ロバート・グリーン
1727年、ロバート・グリーンは、友人のマーティン・フォークス(ニュートンが王立協会会長であったときの副会長)が、万有引力のアイディアは一個のりんごからインスピレーションを得たものだったと語ったことを、ラテン語で活字にして伝えている[20]。
その他
時代が下がるにつれて、様々な尾ひれが付くようになり、信頼できない記述となっていった。例えば、オイラー(1760年)とアイザック・ディズレーリ(1791年)は、リンゴがニュートンの頭に当たったと何の根拠もなく書いている[21]。
ニュートンが万有引力の法則を思いついたきっかけが一体何だったかという点については、現代ではニュートン自身の主張や伝説は脇に置いておいてさまざまな検証・推察がなされていて、いくつかの説がある。ひとつは友人のロバート・フックがきっかけになっているとする説であり、ほかには、それ以前にも、この時代のイギリスの自然哲学者たちが影響を受けたケプラーの説(ケプラーの法則)を受けているとする分析もある。物が落ちる現象、つまり物体が地球に引きつけられる現象であれば、以前から誰もが知っていて、それに関する説は古代ギリシアのアリストテレスも自説を唱えていた。この時代のイギリスでは、ニュートンに限らず同時代の自然哲学者たち幾人もが先人のケプラーやガリレオの説にヒントを得て、それを一般化・改良しようと試行錯誤を始めていたらしい[注 2]。1665年にカレッジを卒業し、バチェラー(Bachelor of Arts; 学士)の学位を得た[7][10]。
自然科学における業績
ラテン語の主著『Philosophiae Naturalis Principia Mathematica』(1687年7月5日刊、和訳名『自然哲学の数学的諸原理(プリンキピア)』)の中で、物質の量(現在の質量)や、現在における慣性、運動量、力などに相当する概念を定義し、絶対的空間の概念を説明した上で、運動方程式などの運動の3法則と万有引力の法則[注 3]について述べ、数学を用いて(現代的な微分積分学は用いていない)、古典力学(ニュートン力学)を創始。これによって実験的に示された地上の物体の運動と、観測によって得られた天体の運動を統一的な理論によって説明し、予測可能である事を示した。光学において光のスペクトル分析などの業績も残した。ニュートン式反射望遠鏡の製作でも有名である[注 4]。
ニュートンは、地球と天体の運動を初めて演繹的に示し、太陽系の構造について言及した。また、ケプラーの惑星運動法則を力学的に説明した一人であり、天体の軌道が楕円、双曲線、放物線などの円錐曲線になる事を示した。また、働く力に対する、物体の抵抗度合いの量である慣性質量と、物体に働く万有引力の大きさを決定する、物体固有の量が比例関係にある事を指摘した(これにより、地上の物体の自由落下で、物体の質量に関わらず加速度が一定になる事を説明できる[注 5])。
色彩理論に関して、白色光は、それ以上分光できない単色光[注 6]の混合色であり、白色光がガラスなどを通過して屈折した際に虹色になるのは、各単色光の屈折率の違いによるものであるとして、この事をプリズムを用いた実験により確かめた。光の粒子説を唱えた[注 7]が、古典的な意味では誤りだった [注 8]。1704年に英語で『光学』を発表。虹の色数を7色だとしたのも彼である。[要検証 ]
ほかにも、ニュートンの冷却の法則、運動量および角運動量の保存の法則の端緒をつけ、空気中での音速や恒星の起源などについて言及した(なお、現在の視座では多くが不正確なものであり、正しく完成させたのは後世の学者たちである)。
ニュートン力学を用いた、1749年のジャン・ダランベールによる正確な春分点歳差の計算、アレクシス・クレローによる1759年のハレー彗星の回帰の予測などを通じて、理論の正しさの社会的合意が形成された。
数学分野においてはライプニッツとともに微分積分法の発見が特に重要な業績である。現在の定義で極限に相当する無限小について考察し、現在の導関数の元である流率の概念を考え、また「流率の逆演算」として積分を考えた[22]。
ニュートンによる科学革命
ニュートン以前の正統な自然哲学は、物事の発生する原因(目的)を明らかにするという、哲学で言えば目的論に力点が置かれていた。たとえば[要出典]、アリストテレスは全ての運動(キネーシス、変化)には原因があると考えていて、等速運動を含めて運動している物体は他者に動かされており、究極的には最初の動者が存在するはずだと考えた。ルネ・デカルトは惑星の運動や重力の原因を、空間に充満しているエーテルの圧力差や渦動によるものとする「渦動説」で説明を試みた。また、ヨハネス・ケプラーは地磁気が惑星の運動の原因であるとする重力理論を展開した。
これに対し、ニュートンは主著『プリンキピア』においてラテン語: "Hypotheses non fingo"(われ仮説を立てず)と宣言した。あくまで観測できる物事の因果関係を示すという哲学、解釈を展開した[注 9]。これは、「作り話」的な説明もあるデカルトの自然学を批判したものだとされる。万有引力の法則を提示するにあたっても、引力がなぜ発生するか、あるいは引力が何のために存在するのかということではなく、引力がどのような法則によって機能するのかという説明のみに終始し、それをもたらす原因については仮説を立てる必要はない[注 10]とし、新しい方法論を提示したともされる。また、ニュートン力学は形而上学的な理論に対する答えではなく、多様で広範な現象を計算可能な形で実際に予測する普遍的原理という、物理理論におけるモデルになった。
のちの時代に、科学者らは上記のような方法論が「実証主義による近代科学の礎になった[要出典]」「科学的方法論の礎となった」などと評するようになった。
これは「神の行いについて、人間の持つ理性では理解不能であるという思想を背景としたものであった」ともいう。[要検証 ]
伝統的なヨーロッパ社会における自然観は主に、古代ギリシア以来、アリストテレスによる、地上と天体の法則の区別があり、地上では固体は四元素のうち土としての性質により中心に向かうが、天体の運動(の規則)は不動で円・球を好むというものなどであった。実際の理論としてはプトレマイオスによる、円(周転円・離心円・エカント)のみを使って修正された天動説が受け入れられていた。しかし、コペルニクスの地動説、ティコ・ブラーエの超新星1572・彗星観察による変則的な天体活動の確認、ヨハネス・ケプラーの惑星の楕円軌道説、ガリレオによる月のクレーターの観察(月が球でない事を示す)・木星の衛星観察などの諸発見により、この伝統は打破された。そしてニュートンが地上と天体も同じ法則によって支配されており、区別がない事を示した事で、場所・時間に関係ない普遍的法則の概念に達したと見ることができる。
自然科学以外の側面
ニュートンは自然科学分野において著しい功績を残していたが、それ以外の分野にも熱心に取り組んでいた。こうした事実は、科学者たちが自分たちに都合の悪いと思われた面は隠して、都合のいい面ばかりを強調し、フィクション的ニュートン像を語り続けた結果、20世紀始めには事実がすっかり忘れ去られてしまっていた。生涯の長い期間をケンブリッジで過ごしたニュートンは、そこに「ポーツマス・コレクション」と呼ばれる数多い未発表資料を残していた。経済学者ジョン・メイナード・ケインズは1936年に一部を入手し、分析した成果もふまえ、1946年に『人間ニュートン』というタイトルの講演を行い、ニュートンを「最後の魔術師」[23]とも「片足は中世におき片足は近代科学への途を踏んでいる」[24]とも評した。1960年代には資料の批判的な研究が盛んになり、ニュートンが持つもうひとつの側面が鮮明になった[25]。
科学の分野で偉大な功績を挙げたニュートンではあったが、我が強く気難しくて偏屈な一面もあり、議論において意見の合わぬ者は反論の余地すら与えず叩き潰すまで論破した。講義があまりに高度で難解なため、お手上げになった学生から順に退散、誰もいなくなった教室で一人講義を続けていた。生涯で一度だけ笑ったことがあるが、それは論敵がボロを出した嘲りの笑いだったという逸話が残っている。愛猫家としても知られており、研究や実験に超人的な集中力を発揮する反面、食事には無頓着で、食べ忘れて冷え切った食事を研究所に住み着いた2匹の猫に与えていた。当時、イギリス市井の一般通念において猫は単なる街に生息する獣の一種で、愛玩で飼うなどという風習は存在せず、人の食べ物を猫の餌にするのはかなり奇異な行為であった。現在においては珍しくもないが、ニュートンの「常軌を逸した天才の所業」の中でとりわけ特別なのが、猫たちが自由に出入りできるように大きい猫用と小さい猫用の大小2つの扉、つまり「キャットフラップ」を発明するが、大きい猫も小さい猫も大きな扉から出入りする様子を見て首を傾げたとの逸話が残っている[26]。
キリスト教徒として
ニュートンは生涯を通じてキリスト教研究にも打ち込んでいた。その結果は、1690年頃に執筆された『ダニエル書と聖ヨハネ黙示録の預言についての所見』と、死後の1728年に刊行された『改訂古代王国年代学』にまとめられた。この中でニュートンは、聖書や伝説にある出来事の年代確定に天文学手法を導入しながらキリスト教的歴史観である普遍史をプロテスタント的史観で再構築し、また「ダニエル書」や「ヨハネの黙示録」を解釈した独自の終末論を展開している[25]。
絶対的時間や絶対的空間などを確立したニュートンではあるが、彼自身はそれらがキリスト教の教義と矛盾するとは考えておらず、『プリンキピア』一般注にて宇宙の体系を生み出した至知至能の「唯一者」に触れ、それは万物の主だと述べている[25]。
ニュートンは、キリスト教研究の中でカトリックを激しく攻撃している。「ヨハネの黙示録」解釈では、神に楯突く側である「大淫婦」を世俗に堕落したローマ教皇だと断罪した。またアタナシウスら正統派教父をも批判し、三位一体説はヒエロニムスによる改竄だと主張し事実上否定している。この三位一体説否定は、ニュートンが(同様に三位一体を否定したためにローマ教会から異端と断罪され公職から排除されていたアリウス派の系譜を引く)ユニテリアン主義に属していたことを示している[25]。
錬金術研究
ニュートンは、造幣局長官の地位に隠れて錬金術の研究を行っていた。20世紀になって、ニュートンの遺髪の分析により水銀が検出されたことはニュートンの錬金術にかける情熱を実証することとなった。
論争・先取権争い・感情的確執
ニュートンは同時代の人々としばしば争っていたことが知られている[注 11]。
1660年代にはライプニッツと微分積分法の先取権をめぐって争いが生じ[7]、裁判で25年も争い、さらに双方の弟子・後継者らも巻き込んで、論争は実に18世紀まで続くことになった。
1672年にはロバート・フックと光の分散と干渉の理論に関して論争になった[7]。
1680年にはジョン・フラムスティードと彗星をめぐって論争になった。これは1か月の間隔をあけて現れた彗星が同一のものか別のものかという論争で、フラムスティードが観測データにもとづいて同一だとしたのに対して、ニュートンが別のものだと主張し譲らなかったというものである[7]。論争は一応ニュートンが自説の誤りを認めて収束したものの、自尊心を傷つけられる形になったニュートンは感情的には根に持つことになり、のちに王立協会の会長の地位についたときなどはその地位を利用してフラムスティードを蹴落とそうとし[7]、またプリンキピアの執筆時に必要となった天文データを要求するときにはフラムスティードに対して高慢な態度をとったり、嫌がらせをしたりした[7]。またフラムスティードの長年の観測業績の集大成となる本が作られることになったときには、それを形式的にはハリーの本とし、フラムスティードの名がそれには冠されないようにすることで(『天球図譜』)仕返しを行う、などということもした[7]。
1686年には、プリンキピアの出版のとき、ロバート・フックとのあいだで万有引力のアイディアの先取権をめぐって対立した[7]。
ニュートンの評価
同時代人
恩師バローから高く評価してもらえたうえに、ルーカス教授のポストを譲ってもらえ、アカデミー(大学)の世界では、地位として高い評価を得た。
学生からの評価に関しては、聴講する学生の数は減っていき、ついには出席する学生がいなくなってしまう事態にも陥ったため、講義のしかたやその内容についての学生からの評価はよいものではなかったようである[27]。
もともとはニュートンと近しく友人だった自然哲学者ロバート・フックは、のちにニュートンをフックの万有引力に関する説を盗んだ者とみなし憎むようになった。ニュートンのほうもフックを憎んだ(ニュートンは王立科学協会で実権を握ると、協会にあった唯一の大切なフックの肖像画をこっそり処分してしまったと推察されている)。
同時代のヨーロッパ大陸側の学者たちは、ニュートンを高くは評価していなかった。ニュートンは当時の大陸側の自然哲学と異なった説を唱えたため、大陸側からは異様なものとみなされていた。ライプニッツなどの大陸派自然哲学者らからは、ニュートンの提唱した力学体系は目に見えない要素を大きく導入していたためオカルト的なものだとみなされ否定された。ライプニッツからは、数学の分野でライプニッツの積分法などを剽窃したと非難された。
後半生、同時代のイギリスの地元の人々からの評価に関して言えば、ケンブリッジ大学教授の地位、議員の地位も手に入れ、「サー」の称号も手に入れたため、概して「立派な人物」、いわゆる「名士」だとみなされていたと考えてよい。
後世
ニュートンの業績は、19世紀になるとロマン主義の立場からは非難されるようになった。特に、ジョン・キーツ、ウィリアム・ブレイク、ウィリアム・バトラー・イェイツらはニュートンを「文学の詩情の破壊者」と公言してはばからなかった。19世紀から20世紀初頭の科学者らが語る科学史では、ニュートンは天才的な自然科学者、自然科学界の一種の英雄といったイメージで語られた。ケインズもそうした英雄的イメージを聞かされて育ったが、長年の研究の結果、ニュートンを「最後の魔術師」や「片足は中世におき片足は近代科学への途を踏んでいる」と評するようになった。
現代
現代イギリス
- イギリスの天体物理学者マイケル・ハートは、1978年の自著『歴史を創った100人』 (The 100: A Ranking of the Most Influential Persons in History) で、歴史への影響度をイスラームの教祖ムハンマドが1位、アイザック・ニュートンが2位、イエス・キリストが3位、仏陀が4位だと主張した。
- 1978年から1988年にかけて用いられた1イギリスポンド紙幣に肖像が登場した。
- リチャード・ドーキンスは、19世紀にロマン主義者らからニュートンが「文学の詩情の破壊者」とされたことを取り上げ、1998年の自著『虹の解体(Unweave the rainbow)』で「スペクトルの発見に代表されるニュートンの研究こそは人類の知見を大きく広げることに貢献したのであり、結果として宇宙へのセンス・オブ・ワンダーを生み出し、詩情の源泉となる」と主張した。
アメリカ合衆国
- トーマス・レヴェンソンは、ニュートンが自然科学に与えた影響よりも、イギリスの財政や金融に与えた影響の大きさに着目している[28]。
年譜
- 1642年(0歳)ウールスソープで誕生。
- 1665年(22歳)万有引力を発見。
- 1668年(25歳)学位(M.A.)を取得[10]。
- 1669年(26歳)ケンブリッジ大学のルーカス教授職に就任。歴代任期四位、五位が スティーヴン・ホーキング。
- 1672年(29歳)王立協会会員に選出[29]。
- 1687年(44歳)『自然哲学の数学的諸原理』(プリンキピア)刊行。
- 1699年(56歳)王立造幣局長に就任。
- 1701年(58歳)庶民院議員に選出。
- 1703年(60歳)王立協会会長に選出[29]。
- 1704年(61歳)『光学』刊行。
- 1705年(62歳)ナイト位授与。
- 1710年(67歳)グリニッジ天文台監察委員長に就任。
- 1727年(84歳)死去。
脚注
注釈
- ^ ガリレオが死亡した時点のイタリアではグレゴリオ暦が使われていたが、ニュートンが生まれたイングランドではまだユリウス暦が使われていた。二つの暦での日付の差は、英国がグレゴリオ暦を採用した1752年(ニュートンが死んだ後)には11日になっていた。
- ^ ニュートンはフックとは先取権や著作権がらみで喧嘩が絶えなかった。ニュートンは「巨人の肩の上」という考え方を主張したことでも知られる。What Des-Cartes did was a good step. You have added much several ways, & especially in taking the colours of thin plates into philosophical consideration. If I have seen further it is by standing on the sholders (原文ママ) of Giants.(フックからアイディアの盗用の件で責められた時の、ニュートンからフック宛ての手紙。1676年2月5日付。)
- ^ 天体運動理論として、惑星を軌道に留める力で、太陽からの距離の逆2乗の法則を最初に唱えた人物として1645年の聖職者のイスマイル・ブリオなどが知られている。
- ^ なお反射望遠鏡の概念自体はスコットランドの数学者ジェームス・グレゴリーが1663年に論文として発表しており、反射望遠鏡の発明者はニュートンだとする伝記は誤りである。
- ^ ガリレオとホイヘンスによる物体の自由落下の実験と、振り子の実験により、重力加速度が物体の質量・落下の時間・距離によらず一定になる事が知られていた。
- ^ 光子とは異なる。
- ^ ここでの粒子と量子は別の概念
- ^ 光の波動説を唱えた人物として、ホイヘンスやフックなどがいた。当時既に知られていた光の波動性を示す実験結果として、イエズス会士のフランチェスコ・マリア・グリマルディによる回折の発見があった。
- ^ ある時間における系の状態を指定すると他の時間での状態も決定されるという意味であり、ある行為の結果として他の事が起こるという意味ではない。
- ^ ライプニッツは重力を遠隔作用で説明するのは理性的でなくオカルトだと批判した。
- ^ なお、科学界によっては理論が正しいと証明されれば何事も無いが、先取権においては解釈を巡って苛烈な論争になる場合がまま有り、先取権について当事者である学者が特別目くじらを立てるのは特別珍しいことではない。発明や特許においても先取権で揉めるのは現代においても同様である。
出典
- ^ 出典:『日本大百科事典』。「アイザック・ニュートン」としている。
- ^ 三浦登ほか15名、「改訂物理」、平成29年2月27日検定済み高校教科書、p.33、「ガリレイとニュートンは直接出会うことはなかったが、ガリレイが亡くなった年に、ニュートンが生まれているため、不思議な偶然、といわれている。」、東京書籍、2021年2月10日発行、ISBN 978-4-487-16552-0
- ^ 常識として知っておきたい 世界を変えた天才科学者50人 アイザック・ニュートンの項、「ガリレオが亡くなった1642年のクリスマス、イギリスの片田舎で、近代科学最大の科学者となる人物が産声をあげた。アイザック・ニュートンである。2人の天才物理学者の死んだ年と生まれた年が同じだというのは、不思議な因縁というしかないが、・・・」、夢プロジェクト編、KAWADE夢文庫
- ^ マルティネス(2015), p.69
- ^ en:List of adoption dates of the Gregorian calendar by country
- ^ 第3章 ニュートンの法則 p.35、「アイザックニュートンは1643年1月4日に生まれました。それはガリレオが亡くなった1年後です。」、北海道大学オープンコースウェア
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar 佐藤満彦『ガリレオの求職活動 ニュートンの家計簿』中央公論社、2000年、178-226頁。ISBN 4-12-101548-7。
- ^ White, Michael (1997). Isaac Newton: The Last Sorcerer. Fourth Estate Limited. :22
- ^ Smiles, Samuel (1859). "Self Help" ChapterXI [要ページ番号]
- ^ a b c d e "Newton, Isaac (NWTN661I)". A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
- ^ デジタル版 ISBN 978-1-4757-4312-8。Springer出版の同書のページ
- ^ “中村滋 『青年ニュートンの一般二項定理発見』”. 数学教育の会 (2008年9月13日). 2021年11月2日閲覧。
- ^ a b 『天才の勉強術』新潮選書、1994年。[要ページ番号]
- ^ Michael White Isaac Newton(1997)p.232
- ^ 『天才 創造のパトグラフィー』福島章 講談社現代新書 p.193 ISBN 4061457217
- ^ マルティネス(2015), pp.72-75
- ^ File:Memoirs of Sir Isaac Newton's life - 002.jpg From Wikimedia Commons、画像から「Sir」ではなく、「Sr.」と翻刻。
- ^ マルティネス(2015), p.73
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- ^ マルティネス(2015), p.73
- ^ マルティネス(2015), pp.84-85
- ^ 林知宏(2012) 『数学史講義(第6回) : アイザック・ニュートンの数学 1』 学習院高等科紀要 以下第7回〜10回 7回 8回 9回 10回
- ^ 大野忠男訳『ケインズ全集』第10巻、東洋経済新報社,、p364
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- ^ 佐藤満彦『ガリレオの求職活動 ニュートンの家計簿―科学者たちの生活と仕事』中央公論新社、2000年[要ページ番号]
- ^ Thomas Levenson, Newton and the Counterfeiter: The Unknown Detective Career of the World's Greatest Scientist.[要ページ番号]。翻訳『ニュートンと贋金づくり』白揚社 2012、ISBN 4826901674
- ^ a b "Newton; Sir; Isaac (1642 - 1727)". Record (英語). The Royal Society. 2012年4月28日閲覧。
参考文献
- アイザック・ニュートン 著、島尾永康 訳『光学』岩波書店〈岩波文庫(青904-1)〉、1983年1月。ISBN 978-4-00339041-2。OCLC 33544029。全国書誌番号:84014888。
- スティーヴン・ワインバーグ(2015年)『科学の発見』(訳・赤根洋子) 文藝春秋(2016年第1版) (英:To Explain the World: The Discovery of Modern Science) ISBN 978-4-16-390457-3
- アルベルト・A・マルティネス『ニュートンのリンゴ、アインシュタインの神 科学神話の虚実』青土社、2015年2月23日。ISBN 978-4-7917-6849-3。
関連項目
- 光学 (アイザック・ニュートン)
- Arithmetica Universalis(普遍算術)
- ニュートンの記法
- ニュートン環
- ニュートン流体
- オーガスタン時代
- アイザック・ニュートン (小惑星)
- アイザック・ニュートン・メダル
- ニュートン (単位)
- ケントの花(ニュートンのりんごの木)
- ニュートン=カントロビッチの定理
外部リンク
- Newton Papers [リンク切れ]:ケンブリッジ大学のNewton Papers
- Isaac Newton - スタンフォード哲学百科事典「アイザック・ニュートン」の項目。
- "アイザック・ニュートンの関連資料一覧" (英語). イギリス国立公文書館.
- 『ニュートン(Sir Isaac Newton)』 - コトバンク
- アイザック・ニュートン
- 17世紀イングランドの哲学者
- 18世紀イングランドの哲学者
- 17世紀イングランドの神学者
- 18世紀イングランドの神学者
- 17世紀イングランドの数学者
- 18世紀イングランドの数学者
- 17世紀イングランドの天文学者
- 18世紀イングランドの天文学者
- 17世紀イングランドの物理学者
- 18世紀イギリスの物理学者
- 17世紀の天文学者
- 18世紀の天文学者
- 17世紀の錬金術師
- 18世紀の錬金術師
- イギリスの科学哲学者
- イギリスの発明家
- イギリスの光学技術者
- イギリスの数値解析研究者
- 自然哲学者
- ユニテリアン
- ヘルメス主義
- 聖公会の神学者
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