「ウクライナ文学」の版間の差分
ニコライ・ゴーゴリ |
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'''ウクライナ文学'''(ウクライナぶんがく |
'''ウクライナ文学'''(ウクライナぶんがく、[[ウクライナ語]]: Українська література)は、[[ウクライナ語]]で書かれた文学、または[[ウクライナ人]]やウクライナ出身の人物によって書かれた文学を指す。ウクライナは多様な民族が活動してきた背景があり、さまざまな言語による作品がある。歴史においては、地域的に分割されたり、ウクライナ語を使うことが抑圧されてきた時代もある。1991年の独立後は公用語となったウクライナ語を中心に書かれている。 |
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== 言語・地理 == |
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ウクライナ文学の作品は、[[国家語]]・[[公用語]]にあたるウクライナ語の他に、[[ロシア語]]、ウクライナ語とロシア語の混合語にあたる[[スルジク]]、[[イディッシュ語]]などでも書かれている{{efn|旧ソ連地域では「国家語」という呼称が言語の法的地位に使われる{{sfn|池澤|2023b|p=160}}。ウクライナ最高裁判所は2014年に国家語と公用語は同一概念として判断している{{sfn|池澤|2023b|p=178}}。国家語は、ドイツ語のStaatsspracheをロシア語の государственный языкに訳すことで[[レーニン]]が使い始めた。なお、レーニン自身はロシア語を国家語にすれば民族間の敵意を高めると考えており否定的だった{{sfn|池澤|2023b|p=169}}。}}{{sfn|田中|2022|p=63}}{{sfn|池澤|2023a|pp=112-113}}。ウクライナ語は[[スラヴ語派]]の[[東スラヴ語群]]に属し、ロシア語や[[ベラルーシ語]]と同じグループになる。この3言語は8世紀から14世紀にかけてスラヴ諸語から分かれた{{sfn|中澤|2018|p=100-101}}。2001年の国勢調査では、ウクライナ国民の67.5%がウクライナ語を母語とし、29.6%がロシア語を母語としている{{efn|ウクライナでは2012年の法律によって地域語が導入された。地域語に含まれるのはロシア語、[[ハンガリー語]]、[[クリミア・タタール語]]、[[ルーマニア語]]となっている{{sfn|ダツェンコ|2018a|pp=76-77}}。これらの言語の他に、ウクライナ語に近い[[ルシン語]]や[[ベラルーシ語]]、そして[[ブルガリア語]]、[[ポーランド語]]、イディッシュ語などが使われている{{sfn|ダツェンコ|2018a|pp=77-80}}。}}{{sfn|ダツェンコ|2018a|p=76}}。 |
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地理的にはヨーロッパ第2位の広さを持ち、同じ東スラヴ語群のロシアやベラルーシの他に、隣国のポーランドや、移り住んできたユダヤ人の文化との関わりもある{{sfn|光吉|2018a|pp=36-37}}。そのため2言語や3言語を使う住民が多い{{sfn|中澤|2018|p=100-101}}。北東部の[[シヴェーリア]]地方は古代から続く森林があり、中世の『キーウ年代記』や、最古の叙事詩『イーゴリ遠征記』にも登場する{{sfn|ダツェンコ|2018b|pp=51-52}}。中心に位置する[[ポルタヴァ州]]は、古典文学の作者を多数輩出した。近代ウクライナ文学の始まりにあたる小説『エネイーダ』の作者イヴァン・コトリャレフスキーの出身地もポルタヴァにある{{sfn|ダツェンコ|2018a|pp=54-56}}。西部はカルパチア山脈の山谷で地域が複雑な民族構成をもつ。[[リヴィウ]]がある[[ハルィチナー]]地方はウクライナ初の印刷所が作られ、19世紀には民族運動の中心となった{{sfn|伊東, 井内, 中井編|1998|pp=113-114}}{{sfn|小粥|2018|p=156}}。南部の[[オデッサ]]は[[黒海]]の貿易で急成長をした都市で、19世紀以降に多民族・多国籍の住民が暮らした。ウクライナ語、ロシア語、イディッシュ語が混じり合う語彙が特徴で多くの作家が舞台としている{{sfn|嵐田|1994|pp=57-58, 69-70}}。 |
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== 歴史 == |
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{{see also|{{仮リンク|ウクライナ文学の歴史|uk|Історія української літератури}}}} |
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=== 古代 - 中世 === |
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[[File:14 2 List of Radzivill Chron.jpg|thumb|200px|『原初年代記』]] |
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スラヴ人が文字を使う前の時代については、歴史家の著作に記録がある。紀元前5世紀の[[ヘロドトス]]の『[[歴史 (ヘロドトス)|歴史]]』、2世紀の[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]の『[[地理学 (プトレマイオス)|地理学]]』、[[ガイウス・プリニウス・セクンドゥス|プリニウス]]の『[[博物誌]]』などに記述されている{{efn|『歴史』は黒海北岸の多数の民族について書かれており、スラヴ人と思われる民族が登場する。『地理学』に登場するスオベニと呼ばれた民族は、ラテン語でスラヴ人を指すスクラヴェニの可能性がある。『自然誌』には、アゾフ海とカスピ海の間に住むアンテスという民族が登場する。6世紀のヨルダネスによれば、アンテスはスクラヴェニと同一の言語を話していたとされる{{sfn|伊東, 井内, 中井編|1998|pp=32-34}}。}}{{sfn|伊東, 井内, 中井編|1998|pp=32-34}}。9世紀にはスラヴ語の文字の基礎が作られた。[[キュリロス (スラヴの(亜)使徒)|キリール]]と[[メトディオス (スラヴの(亜)使徒)|メフォーディー]]がアルファベットから[[古スラヴ語]]の正書法を作り、ウクライナ語の文字体系として2023年現在まで続いている{{efn|古スラヴ語のアルファベットになかった文字は、[[Ґ]](ゲー)と[[Ї]](イィー)である{{sfn|ポズドゥニャコーヴァ, 寺田|2011|p=128}}。}}{{sfn|ポズドゥニャコーヴァ, 寺田|2011|p=128}}。 |
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[[キーウ・ルーシ]]の時代には、[[ビザンツ帝国]]からキリスト教が導入されてキリスト教関係の書物の翻訳や出版が行われた{{sfn|黒川|2002|pp=56-57}}。この翻訳はブルガリアからルーシに来た人々が中心となった{{efn|14世紀から16世紀にかけて祈祷書を中心に写本が行われ、[[タルノヴォ]]の総司教イェフティミィによって正書法が改良された。言語学では、第2次南スラヴの影響と呼ばれている{{sfn|ポズドゥニャコーヴァ, 寺田|2011|p=128}}。}}{{sfn|ポズドゥニャコーヴァ, 寺田|2011|p=128}}。キーウ・ルーシ最初の年代記である『[[原初年代記]]』をはじめとする年代記も修道士が書いたものが多い{{sfn|黒川|2002|pp=56-57}}。最初期の叙事詩としては『[[イーゴリ遠征物語]]』(12世紀後半)がある{{sfn|黒川|2002|p=57}}。また、吟遊詩人たちが歌う叙事詩ドゥマの起源は、10世紀から11世紀の宮廷儀式や葬儀などにある{{sfn|二見|1985|p=80}}。 |
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キーウ・ルーシが[[モンゴルのルーシ侵攻]]で滅んだあと、[[ハールィチ・ヴォルィーニ大公国]]が栄えた。首都として建設された[[リヴィウ]]は、のちにウクライナ初の印刷・出版が行われ、文化センターとなった{{sfn|伊東, 井内, 中井編|1998|pp=113-114}}{{sfn|黒川|2002|pp=53-54}}。ハールィチ・ヴォルィーニ大公国は14世紀に滅び、ウクライナの地域は[[ポーランド王国]]と[[リトアニア大公国]]に分かれて統治された。この時代に言語はウクライナ語、ロシア語、ベラルーシ語へと分化が進んだ{{sfn|黒川|2002|pp=59-60}}。当時の記録として、『[[キエフ年代記|キーウ年代記]]』や『{{仮リンク|ハールィチ・ヴォルィーニ年代記|uk|Галицько-Волинський літопис}}』がある{{sfn|黒川|2002|p=82}}。 |
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=== 15世紀-18世紀 === |
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[[File:Marusya Churay.jpg|thumb|200px|17世紀の歌手・詩人[[マルーシャ・チュラーイ]]の切手]] |
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ウクライナ文化の重要なモチーフである[[コサック]]は、15世紀から16世紀にかけて出現した{{efn|コサックとはテュルク系の言語で「群を離れた者」を意味する。ウクライナ・コサックは、ポーランド王国やリトアニア大公国の農奴から逃れた人々を中心に始まった{{sfn|伊東, 井内, 中井編|1998|pp=156-161}}。}}。[[ウクライナ・コサック]]はタタール・コサックやポーランドとの戦いをへて軍事集団となり、荒廃していたキーウを17世紀に再建し、1615年には出版所が建設された{{sfn|伊東, 井内, 中井編|1998|pp=156-161}}。伝説的な詩人の[[マルーシャ・チュラーイ]]は、コサックとの悲恋、農村の美しさなどを抒情詩に謳い、幸福や平和を表現している{{sfn|原田|2018a|p=197}}。 |
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17世紀にかけて、ウクライナとロシアの文芸作品の地域的な違いが明らかになった。コサックが再建したキーウに神学校の[[キエフ・モヒーラ・カレッジ|モヒーラ・アカデミア]]が設立され、[[ラテン語]]の教育が始まった{{efn|カレッジ設立者の[[ペトロー・モヒーラ]]は、のちのキーウ府主教。当時ウクライナと文化的に関係があった[[モルダヴィア]]の大公の家庭出身だった{{sfn|伊東|1993|pp=80-81}}。}}。このアカデミアは当時の東方正教圏で初の教育機関となり高等教育の中心にもなった。[[ルネッサンス]]以降の西欧文化が東スラヴに伝わり、ラテン語の教養を身につけ、ギリシャやローマの古典を読めるようになった。学生は社会階層も民族も多様で、キーウの著作家は[[教会スラヴ語]]だけでなくラテン語でも執筆した{{efn|たとえばアカデミアの教授だった{{仮リンク|フェオファン・プロコポーヴィチ|uk|Феофан Прокопович}}の『詩学講義(De arte poetica libri tres)』など{{sfn|伊東|1993|p=81}}。}}{{sfn|伊東|1993|pp=80-81}}。 |
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モヒーラ・アカデミア経由でポーランドのバロック文化がキーウに伝わり、その影響で[[ウクライナ・バロック]]が成立した。ウクライナ・バロックは建築、絵画、文学などの分野で表現され、ルネッサンス的な役割を果たした。ウクライナ・バロックは民衆文化と結びつき、パロディ作品が盛んに作られ、特に宗教的テーマのパロディが多い。演劇ではインテルメーディアと呼ばれる喜劇が17世紀に流行し、口語で書かれたインテルメーディアは、ウクライナ近代文学の先駆けとなった。宗教的なパロディはロシアでは冒涜とみなされたが、ウクライナでは問題視されなかった{{sfn|伊東|1993|pp=82-83}}。モヒーラ・アカデミア以降、西欧文化はキーウに伝わったのちにモスクワに伝わるという関係が生まれた。西欧の[[騎士道物語]]が翻訳されて人気となり、文芸の世俗化が進み、ウクライナからロシアへの啓蒙的な立場は18世紀初頭まで続いた{{sfn|中村|2018|pp=206-207}}。 |
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民族集団となったコサックは[[ヘーチマン国家]]という国家を建設するが、ポーランドとロシア帝国によって分割されて消滅する{{sfn|栗原|2018|pp=137-138}}{{sfn|光吉|2018b|pp=145-146}}。近代ウクライナ文学の幕開けとなった[[イヴァン・コトリャレフスキー]]の『[[エネイーダ]]』(1798年)は、このコサック国家を再建する物語だった{{sfn|光吉|2018c|pp=148-149}}。『エネイーダ』は口語をもとに書かれており、ウクライナ語の新たな文学表現として影響を与えた{{sfn|ポズドゥニャコーヴァ, 寺田|2011|p=129}}。 |
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=== 19世紀 - 20世紀初頭 === |
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[[File:Taras Shevchenko selfportrait oil 1840 (crop).png|thumb|200px|タラス・シェフチェンコの自画像]] |
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19世紀にウクライナ人が暮らしていた地域は、ほとんどが東部の[[ロシア帝国]]と西部の[[ハプスブルク帝国]]によって東西に分断された{{efn|ロシア領内では小ロシア人、ハプスブルク領内では[[ルテニア人]]とも呼ばれた{{sfn|光吉|2018c|p=149}}。}}。ロシア領とハプスブルク領のウクライナ人はともに大半が農民で、東西いずれでも苦しい暮らしだった。ロシア領内では[[ロシアの農奴制|農奴制]]があり、ハプスブルク領内では農奴が解放されたが支配階級のポーランド人([[シュラフタ]])の抑圧を受けた{{efn|ロシア政府はウクライナ貴族のロシア化を進め、貴族は官僚層となった{{sfn|黒川|2002|pp=131-133}}。都市にはロシア人が増え、ウクライナ人の都市民もロシア語使用者が増えた。農村はウクライナ語が中心だったため、ロシア領内のウクライナ人は都市と農村で言語や習慣の格差が進んだ{{sfn|黒川|2002|p=135}}。}}{{sfn|小粥|2018|pp=155-156}}。こうした状況で、文化や言語を共有する人々によって民族運動が始まり、東西に分かれていた集団がウクライナ人としてのアイデンティティを形成した{{sfn|光吉|2018c|pp=147-149}}。 |
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民族運動を始めたのは、[[インテリゲンツィア]]と呼ばれる知識階層だった{{sfn|黒川|2002|p=131}}。作家や歴史家は[[ロマン主義]]の影響を受けつつ、伝承や歌謡、コサックの文化などを表現した。詩人の[[タラス・シェフチェンコ]]はウクライナへの愛情とロシアへの対抗をウクライナ語でうたった。シェフチェンコは、作家の{{仮リンク|パンテレイモン・クリーシ|uk|Куліш Пантелеймон Олександрович}}や歴史家の{{仮リンク|ミコーラ・コストマーロフ|uk|Костомаров Микола Іванович}}らと政治結社{{仮リンク|キリル・メトディー団|uk|Кирило-Мефодіївське товариство}}を結成した{{sfn|光吉|2018c|pp=148-149}}。キリル・メトディー団のメンバーは逮捕されてシェフチェンコは流刑生活を送ったが、{{仮リンク|フロマーダ (秘密結社)|uk|Громади (товариства)|label=フロマーダ}}(共同体)と呼ばれる結社が活動を引き継いだ{{efn|フロマーダが特に力を入れたのは農民への教育活動で、ウクライナ語やウクライナの歌謡、コサックの歴史などを教えた{{sfn|光吉|2018c|pp=148-149}}。}}。しかしロシア政府はウクライナ人の民族運動を抑圧し、{{仮リンク|エムス法|uk|Емський указ}}(1876年)であらゆる分野のウクライナ語出版を禁止した。このために多くの知識人が西のハプスブルク領内に移住した{{sfn|光吉|2018c|pp=148-149}}。 |
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[[File:Scaled Іван Якович Франко-photo-processed~3.jpg|thumb|200px|イヴァン・フランコ]] |
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[[File:Кобринська Наталія 1900-ті.JPG|thumb|200px|{{仮リンク|ナターリヤ・コブリンスカ|uk|Кобринська Наталія Іванівна}}]] |
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東西のウクライナ人は国境を越えて交流を進めた{{sfn|光吉|2018c|pp=148-149}}。19世紀末から20世紀初頭にかけては、ハプスブルク領内の[[ハーリチナ]]が民族主義運動の中心となった{{sfn|黒川|2002|p=154}}。ロシア領内のウクライナ語の出版禁止を受けて、ハプスブルク領内の[[リヴィウ]]でウクライナ語の書籍が出版された{{sfn|小粥|2018|p=156}}。思想家の{{仮リンク|ミハイロ・ドラホマーノフ|uk|Драгоманов Михайло Петрович}}はスイスのジュネーヴに亡命し、ウクライナ語雑誌『フロマーダ』に執筆して[[リヴィウ大学]]のウクライナ人学生に読まれた{{efn|ドラホマーノフは革命諸党派を批判したために孤立したが、その思想はウクライナ民族運動に影響を与えた{{sfn|伊東, 井内, 中井編|1998|pp=243-244}}。}}{{sfn|黒川|2002|p=149}}{{sfn|小粥|2018|pp=155-156}}。ドラホマーノフの影響を受けた作家[[イヴァン・フランコ]]は、創作とともに民族運動に励み、1890年にフランコらが設立した{{仮リンク|ウクライナ急進党|uk|Українська радикальна партія (1890)}}は、近代史上初めてウクライナの統一と独立を掲げた政党となった{{sfn|黒川|2002|p=153}}。リヴィウ大学では1894年から[[ミハイロ・フルシェフスキー]]がウクライナ史講座を担当し、ウクライナ語の出版や研究が盛んになった{{sfn|光吉|2018c|pp=148-149}}。フルシェフスキーはウクライナ人の通史として、『{{仮リンク|概説ウクライナ民族史|uk|Історія України-Руси}}』と『図説ウクライナ民族史』を発表した{{sfn|村田|2021|p=6}}。シェフチェンコはコサックとしてのアイデンティティを西ウクライナに伝え、東西ウクライナを代表する詩人となった{{sfn|光吉|2018c|pp=148-149}}。{{仮リンク|ナターリヤ・コブリンスカ|uk|Кобринська Наталія Іванівна}}と{{仮リンク|オレーナ・プチールカ|uk|Олена Пчілка}}は、ウクライナ初の女性作家アンソロジー『最初の花冠』(''Pershyi vinok'', 1887年)を編纂した{{sfn|原田|2018a|p=198}}。多数のウクライナの知識人や政治家がウィーンを拠点にして活動し、雑誌「ルテニア展望」(のちの「ウクライナ展望」)を発行して、ウクライナの自立をドイツ語圏の人々に訴えた{{sfn|伊狩|2006|p=4}}。 |
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ロシア領内では、エムス法によって民族運動の抑圧が続き、工業化によって労働者のロシア化が進んだ。キリル・メトディー団のメンバーでもあったクリーシやコストマーロフは、ロシア内でウクライナの地位を強調するというスタイルを選んだ{{sfn|光吉|2018c|pp=150-151}}。20世紀初頭にも多くの作家が活動したが、のちのソヴィエト連邦時代には評価されずに埋もれていった。この時代の文芸作品が再評価されるのは1991年の独立後となる([[#独立後|後述]]){{efn|この時代の作家として、{{仮リンク|ヴォロディミル・ウィンイチェンコ|uk|Володимир Винниченко}}、{{仮リンク|ミコーラ・ヒフィリョウィイ|uk|Микола Хвильовий}}、{{仮リンク|エフゲン・マラニューク|uk|Євген Маланюк}}、{{仮リンク|ミコーラ・ゼロフ|uk|Микола Зеров}}、{{仮リンク|ミハイリ・セメンコ|uk|Михайль Семенко}}、[[パヴロ・ティチナ|パフロー・ティチーナ]]らがいる{{sfn|ホメンコ|2019|p=106}}。}}{{sfn|ホメンコ|2019|p=106}}。 |
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=== ロシア革命 - ソヴィエト連邦 === |
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1917年の[[ロシア革命]]後、ウクライナでは複数の権力が存在する複雑な状況となった{{sfn|ホメンコ|2019|p=106}}。ウクライナの名を持つ国家が初めて建国され、[[ヘーチマン#ウクライナ国|へトマン政府]]の[[ウクライナ国]]や、[[ウクライナ人民共和国]]、[[西ウクライナ人民共和国]]があった。ウクライナ人民共和国では、ウクライナ語の他にロシア語、ポーランド語、イディッシュ語が公用語になり、短期間ではあったが多民族・多言語の文化が展開された{{sfn|伊狩|2006|p=2}}{{sfn|光吉|2018d|pp=158-161}}{{sfn|田中|2022|p=64}}。その後、[[ウクライナ社会主義ソヴィエト共和国]]が成立して1922年に[[ソヴィエト連邦]]の構成国のひとつになった{{efn|キーウ出身のロシア人作家[[ミハイル・ブルガーコフ]]は、[[ロシア内戦]]の体験をもとにした『白衛軍』でウクライナへの愛着を描いている{{sfn|服部, 原田編著|2018|p=184}}。}}{{sfn|光吉|2018d|pp=158-161}}。 |
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[[File:MykolaHvylovyukraine.jpg|thumb|200px|スターリン体制下で粛清された作家の一人、{{仮リンク|ミコラ・フヴィリョヴィー|uk|Микола Хвильовий}}]] |
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ソ連の構成国となってからは共産党の干渉があり、ウクライナ文学の損失となった{{sfn|ソロシェンコ|2021|pp=29-30}}。検閲によって作品のテーマが決められるようになった{{efn|この時代の作家として、{{仮リンク|オレーシ・ホンチャール|uk|Олесь Гончар}}、[[パヴロ・ザフレベルニィ|パウロー・ザグレベルニイ]]、{{仮リンク|ドミトロー・パフリチコ|uk|Дмитро Павличко}}らがいる{{sfn|ホメンコ|2019|p=106}}。}}{{sfn|ホメンコ|2019|p=106}}。1920年代にはウクライナ文化を復興する[[ウクライナ化]]が進められたが、[[ヨシフ・スターリン]]政権の時代になると[[大粛清]]によってウクライナ出身の作家は多数処刑された。当時の文化人や作品は{{仮リンク|粛清されたルネッサンス|uk|Розстріляне відродження}}や処刑されたルネッサンスと呼ばれている{{efn|{{仮リンク|ミコラ・フヴィリョヴィー|uk|Микола Хвильовий}}、劇作家のミコラ・クーリッシュ、詩人の{{仮リンク|ミコラ・ゼローフ|uk|Зеров Микола Костянтинович}}らが含まれる{{sfn|原田|2018b|p=119}}。}}{{sfn|原田|2018b|p=119}}。第二次世界大戦では[[ナチス・ドイツ]]によってキーウをはじめとしてウクライナの都市が占領された。詩人の{{仮リンク|オレーナ・テリーハ|uk|Теліга Олена Іванівна}}は夫とともにキーウで文学週報を発行し、大粛清の犠牲になったウクライナの作家を紹介した{{sfn|原田|2018a|p=198}}。キーウのバビ・ヤールではナイス・ドイツによってユダヤ人やロマが虐殺され、作家{{仮リンク|アナトリー・クズネツォフ|uk|Драч Іван Федорович}}や詩人[[エフゲニー・エフトゥシェンコ]]はのちにバビ・ヤールについて書いた。作家・ジャーナリストの[[ヴァシリー・グロスマン]]は大量の餓死者を出したスターリン政権の[[ホロドモール]]について書いたが、ソ連ではタブーとして扱われた{{sfn|服部, 原田編著|2018|p=98}}。1954年にウクライナ人の著作111冊が禁書となり、[[社会主義リアリズム]]の強化が求められた。ソ連経済が共産党指導部によって指導されて解決するといったストーリーの生産的小説が当局に推奨された{{sfn|ソロシェンコ|2021|pp=29-30}}。 |
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[[File:Костенко Л.jpg|thumb|200px|リーナ・コステンコ。同時期にデビューした作家たちと共に「60年代人」と呼ばれる]] |
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スターリン体制が終わり、1963年に[[ペトロ・シェレスト]]が[[ウクライナ共産党]]の第一書記になるとソ連内でウクライナの地位を引き上げるためのウクライナ化が始まった。文化人、知識人、ウクライナ作家同盟の作家らが協同してウクライナ文化の復興を進めた{{sfn|藤森|2018|pp=177-179}}。この時期にデビューした作家や芸術家は{{仮リンク|60年代人|uk|Шістдесятники}}とも呼ばれる{{efn|この時代の作家として、{{仮リンク|イワン・ドラチ|uk|Драч Іван Федорович}}、{{仮リンク|ドミトロー・パフリチコ|uk|(Дмитро Павличко}}、[[リナ・ヴァシリヴナ・コステンコ|リーナ・コステンコ]]、{{仮リンク|ヴォロディミル・ヤヴォリーフスキ|uk|Володимир Яворівський}}らがいる{{sfn|ホメンコ|2019|pp=106-107}}。}}{{sfn|原田|2018b|p=118}}。しかし、1970年代と1980年代の[[レオニード・ブレジネフ]]政権の時代には再びウクライナ語が抑圧された。教育や仕事でロシア語が有利となり、ウクライナ語の知識層は反体制派と疑われた{{sfn|黒川|2002|pp=241-242}}。 |
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[[チェルノブイリ原発事故]](1986年)によってモスクワの政府に不信感を抱いた人々は、ソ連よりもウクライナのアイデンティティを強めた{{efn|[[ミハイル・ゴルバチョフ]]政権が始めた政治改革の[[ペレストロイカ]]が、ウクライナでもペレブドーヴァと呼ばれて本格化した{{sfn|伊東, 井内, 中井編|1998|pp=328-329}}。}}{{sfn|ホメンコ|2019|pp=105-106}}。1986年のウクライナ作家同盟大会ではウクライナ語の現状が問題とされ、アルファベットの変更、出版物の増大、教育の拡充、国家語化などの要求が出されるようになった{{sfn|伊東, 井内, 中井編|1998|pp=328-331}}。1980年代後半にはソ連の混乱が深まり、1960年代の運動を経験している人々が中心となってウクライナ作家協会やウクライナ語協会で変化を進めた。1989年には言語法が成立し、ウクライナ語がウクライナ共和国の国家語となった{{efn|これらの変化は、[[バルト三国]]や[[ジョージア (国)|ジョージア]]の民衆の動きともつながっていた{{sfn|ホメンコ|2019|p=106}}。}}{{sfn|ホメンコ|2019|pp=105-106}}。 |
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=== 独立後 === |
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{{see also|現代ウクライナ文学}} |
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言語法によってウクライナ語が公式に認められ、ウクライナ文学の創作環境は良くなった。自己表現やアイデンティティと自由に結びつき、多数の作家が活動した{{efn|この時代の作家として[[ユーリー・アンドルホーヴィチ|ユーリ・アンドルホーヴィチ]]、{{仮リンク|エフゲン・パシュコフスキ|uk|Євген Пашковський}}、{{仮リンク|オレーシ・ウリャネンコ|uk|Олесь Ульяненко}}、[[オクサーナ・ザブジュコ|オクサーナ・ザブージコ]]、{{仮リンク|ユルコー・イゾドリック|uk|Іздрик Юрій Романович}}、[[ステパーン・プロチュク|ステパン・プロツック]]らがいる{{sfn|ホメンコ|2019|p=107}}。}}。独立後には作家たちの挑戦によって、社会主義リアリズムだけでなく、魔術的リアリズムやポストモダニズムの作品も発表された。ホラー小説、SF小説、日記、旅行記、短編なども読まれるようになった{{sfn|ホメンコ|2019|p=114}}。また、ソ連時代に評価されなかった20世紀初頭の作品の再評価も進んだ{{sfn|ホメンコ|2019|p=107}}。 |
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2014年には[[尊厳の革命]]が起きて[[ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ]]政権が倒れ、[[ウクライナ紛争 (2014年-)|ウクライナ紛争]]が始まった。こうした社会を反映した作品も発表されている{{efn|ジャーナリストの{{仮リンク|ルスラン・ホロウィイ|uk|Руслан Горовий}}のエッセイ『寝る前の昔話』、{{仮リンク|アルテム・チェフ|uk|Артем Чех}}の日記本『ゼロポイント』、アンドレイ・クルコフの『ウクライナ日記』などがある{{sfn|ホメンコ|2019|p=126}}。}}{{sfn|ホメンコ|2019|p=126}}。劇作家の{{仮リンク|ナタリア・ヴォロジビト|uk|Ворожбит Наталія Анатоліївна}}の戯曲『{{仮リンク|悪路 (戯曲)|uk|Погані дороги|label=悪路}}』では、[[ドンバス戦争]]を題材として女性から見た戦争が描かれている<ref name='国際演劇協会日本センター'>{{cite web | title =シリア・ウクライナの戯曲を全国5都市で上演 「紛争地域から生まれた演劇シリーズ」 15年記念 地域連携プロジェクト | publisher = 国際演劇協会日本センター | date =2023 | url = https://iti-japan-ticz.studio.site/ | accessdate =mar 8, 2024}}</ref>。[[2022年ロシアのウクライナ侵攻|ロシアのウクライナ侵攻]]によって命を失う作家もおり、ロシアの戦争犯罪について執筆してきた{{仮リンク|ヴィクトリア・アメリーナ|uk|Амеліна Вікторія Юріївна}}は2023年にミサイル攻撃で死亡した<ref name='日本ペンクラブ'>{{cite web | title =ウクライナPEN、ヴィクトリア・アメリーナ氏逝去の報 | publisher = 日本ペンクラブ | date =2023.2.9 | url = http://japanpen.or.jp/post-3224/ | accessdate =mar 8, 2024}}</ref>。詩人の[[オスタップ・スリヴィンスキー]]は、避難者が暮らす仮設住宅などでウクライナ市民の戦争体験を聞き書きし、『戦争語彙集』としてまとめている |
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{{efn|他方ロシアでは、[[2014年クリミア危機]]以降に作家の亡命が相次いでおり、[[ボリス・アクーニン]]、[[リュドミラ・ウリツカヤ]]、[[ウラジーミル・ソローキン]]、クセニヤ・ブクシャらが国外で活動している<ref name='週刊エコノミスト'>{{cite web | title =相次ぐロシア人作家の国外脱出 新たな「亡命文学」の誕生も 松下隆志 | publisher = 週刊エコノミスト Online | date =2023 | url = https://weekly-economist.mainichi.jp/articles/20220927/se1/00m/020/077000d | accessdate =mar 8, 2024}}</ref>}}<ref name='NHK'>{{cite web | title =戦争が“言葉”を変えていく ある詩人が見たウクライナ | publisher = NHK | date =2023 | url = https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4814/ | accessdate =mar 8, 2024}}</ref>。 |
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== 作品形式とテーマ == |
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=== 詩・歌謡 === |
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[[File:Kobzars Kravchenko Dremchenko.jpg|thumb|200px|吟遊詩人コブザーリ。かつてはコブザーリの多くが視覚障害者だった{{sfn|二見|1985|pp=79-83}}]] |
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最初期の叙事詩『イーゴリ遠征物語』(12世紀後半)では、[[イーホル・スヴャトスラーヴィチ]]と遊牧民[[クマン人|ポロヴェツ人]]の戦いを描いている。『イーゴリ遠征物語』の写本は18世紀に発見され、『[[ニーベルンゲンの歌]]』や『[[ロランの歌]]』と並び称される作品となった。中でも、イーゴリの身を案じる妻ヤロスラーヴナの嘆きが叙情的と評価されている{{efn|[[アレクサンドル・ボロディン]]は『イーゴリ遠征物語』をもとに歌劇『[[イーゴリ公]]』を作曲した{{sfn|黒川|2002|p=57}}。}}{{sfn|黒川|2002|p=57}}。 |
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コサックの時代には文学や民俗芸術が発展し、マルーシャ・チュライの詩や歌謡はウクライナ音楽に影響を与えている{{sfn|ダツェンコ|2018b|p=55}}。15世紀から17世紀にかけてコサックによって叙事詩の歌謡である{{仮リンク|ドゥマ|uk|Дума}}が誕生した{{efn|キーウ・ルーシ時代の叙事詩が地域ごとに分化し、ロシアでは[[ブィリーナ]]が成立した{{sfn|二見|1985|pp=79-80}}。}}。ドゥマは漂白する吟遊詩人によって歌われ、コブザやバンドゥーラという楽器を使う{{仮リンク|コブザーリ|uk|Кобзар}}と、リラという楽器を使うリールニクという2通りの吟遊詩人がいた。ドゥマには戦いや捕虜の苦難をテーマにした叙事詩、日常生活をテーマにした抒情的な詩、宗教的な詩がある{{efn|1930年代の大粛清では、ハルキウで数百人のコブザーリが殺害されたという情報がある。1997年にはハルキウ市がコブザーリの碑を建てた{{sfn|黒川|2002|p=215}}。}}{{sfn|二見|1985|pp=79-83}}。19世紀に作曲家の[[ミコラ・リセンコ|ミコーラ・ルイセンコ]]はウクライナの民俗歌謡を収集してウクライナ語オペラを作った{{sfn|光吉|2018c|pp=148-149}}。 |
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[[File:Stamp of Ukraine s1817.jpg|thumb|200px|レーシャ・ウクライーンカの生誕150周年切手。右は『森の歌』に登場するルカシュと[[マフカ]]]] |
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タラス・シェフチェンコは農奴の生まれで絵の才能を評価されて自由人となり、{{仮リンク|ロシア帝国美術アカデミー|ru|Императорская Академия художеств}}に通いながら詩作を行い、第1詩集『コブザーリ』(1840年)はウクライナで歓迎された{{efn|書名はロシア語、内容はウクライナ語で書かれている{{sfn|シェフチェンコ|2022|p=212}}。}}{{sfn|シェフチェンコ|2022|pp=210-212}}。シェフチェンコは弱い者や虐げられた者への同情、ロシアやウクライナの地主層などの農民を虐げる権力への憤り、コサックの自治の理想などをウクライナ語で綴り、民族独立の象徴とされている{{sfn|藤井|2018|pp=189-191}}。[[レーシャ・ウクライーンカ]]は結核を患いながら劇詩と文芸評論で活動した。ウクライナを舞台にした『{{仮リンク|森の歌 (詩)|uk|Лісова пісня|label=森の歌}}』(1911年)では、自然と人間をテーマにしながらも対立的には描かず、共生の哲学の先駆ともいえる表現をしている{{sfn|原田|2007|pp=210, 220, 222}}。ウクライナ市民のアンケートによれば、タラス・シェフチェンコとレーシャ・ウクライーンカは、「全時代を通じて最も偉大なウクライナ人」の10人の中に選ばれている{{efn|マーケティング調査会社Gfk Ukraineによる2003年の調査{{sfn|原田|2007|p=207}}。}}{{sfn|原田|2007|p=207}}。1960年代から活動しているリーナ・コステンコは文明批評的な視点を持ち、古典的な韻律詩から自由詩までを駆使している{{sfn|原田|2018b|p=138}}。 |
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=== 散文 === |
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[[File:Іван Котляревський cropped.jpg|thumb|200px|イヴァン・コトリャレフスキー]] |
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ウクライナの口語で書かれた初の小説は、イヴァン・コトリャレフスキーの『エネイーダ』(1798年)だった。内容は[[ウェルギリウス]]の『[[アエネイス]]』をウクライナに移し変えたもので、『アエネイス』のローマ建国伝説をコサックの再建伝説にしている{{sfn|伊東, 井内, 中井編|1998|p=233}}。口語で書かれた『エネイーダ』は、ウクライナ文学の新たな表現のきっかけとなった。作家は伝統的な文学の書記法ではなく、生きた単語の音を伝える口語の文字化を模索した{{efn|1798年から1905年までに約50種類の正書法が考案された{{sfn|ポズドゥニャコーヴァ, 寺田|2011|p=129}}。}}{{sfn|ポズドゥニャコーヴァ, 寺田|2011|p=129}}。 |
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散文は19世紀以降の民族運動にも影響を与えた。ハーリチナで活動したイヴァン・フランコは、作家の他にジャーナリストや政治評論家としてもウクライナ人の地位向上を目指した{{sfn|小粥|2008|pp=17-18}}。『鉛筆』(1885年)などの小説では教育の現状を批判した{{efn|『鉛筆』は、貧しい農村の小学生が鉛筆を拾った体験を通して、貧困と教育の問題が描かれている{{sfn|小粥|2016|pp=32-34}}。当時の農村の小学校は、ウクライナ語を話しただけで教師が平手打ちをすることも日常茶飯事だった{{sfn|小粥|2016|p=36}}。}}{{sfn|小粥|2016|pp=32-34}}。評論では農民の窮状として、栄養、教育、権利の3点が欠けていると訴えた{{sfn|小粥|2008|pp=17-18}}。独立後には短編小説が流行し、歴史や社会を話題にした小説も人気を呼んでいる{{sfn|ホメンコ|2019|p=116}}。 |
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=== 年代記・列伝 === |
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[[File:Киево-Печерский патерик.jpg|thumb|200px|『キーウ洞窟修道院聖者列伝』]] |
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中世ルーシの年代記は[[レートピシ]]と呼ばれ、歴史的・年代誌的な記録をまとめた集成になっている{{sfn|中澤|2014|pp=233-234}}。最古の時代を記録した『[[原初年代記]]』は、[[キーウ・ペチェールシク大修道院]](キーウ洞窟修道院)の[[年代記者ネストル|ネストル]]という修道士によって執筆・編集された{{sfn|中澤|2014|pp=235-236}}。キーウ・ルーシの基本的な記録として、『[[イパーチー年代記|イパーチイ年代記]]』がある。『イパーチイ年代記』は『原初年代記』(852 - 1117年)、『[[キエフ年代記|キーウ年代記]]』(1118 - 1200年)、『{{仮リンク|ハールィチ・ヴォルィーニ年代記|uk|Галицько-Волинський літопис}}』(1201 - 1292年)の3部分で構成されている{{sfn|中澤|2014|pp=233-234}}。 |
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キリスト教の教会文学には{{仮リンク|聖者列伝|uk|Патерики}}(パテリーク)と呼ばれるジャンルがある。キーウ・ルーシ時代の作品として修道士の説話を集めた列伝があり、著名なものに『{{仮リンク|キーウ洞窟修道院聖者列伝|uk|Києво-Печерський патерик}}』がある{{efn|聖者列伝は、修道士の人生の断片を集めた内容で、反面的な教育効果のために堕落した修道士についても書かれている。この点で、修道士の全人格や全人生を記述する[[聖人伝]]とは異なる{{sfn|三浦|2006|p=133}}。}}{{sfn|三浦|2006|pp=130, 133}}。この列伝は、ウラジーミル司教シモンと修道士ポリカルプの物語が中心となっている。ポリカルプは現状に不満を抱いて司教になる望みを持ち、それをシモンが説得するという構成で、ポリカルプの語りの面白さとシモンの寡黙さによって宗教性から独立して楽しめる内容になっている{{efn|洞窟修道院にまつわる歴史物語も収録されており、コンスタンティノープルから建築士やイコン画家が来訪し、教会が建築されてモザイク画が描かれるまでの物語がある{{sfn|三浦|2006|p=135}}。}}{{sfn|三浦|2006|pp=136-137}}。シモンとポリカルプの物語は13世紀に書かれ、のちの15世紀と17世紀に編纂された。15世紀の編纂は、東方正教においてキーウの伝統を見直す運動の一環として行われた。17世紀の編纂は、ポーランドから伝わってきたカトリックの文化やイエズス会に対抗して東方正教の文化を示す目的で行われた{{sfn|三浦|2006|pp=131-133}}。 |
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=== 民話 === |
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中世からさまざまな民話があり、民話で語られている自然、生活風俗、超自然な存在などは理想化されたウクライナ像として18世紀後半から19世紀にかけて文芸作品のモチーフとなった。コトリャレフスキーも民話を多数引用している。{{仮リンク|ドムィトロー・ツェールテレフ|uk|Цертелев, Дмитрий Николаевич}}は初のウクライナ民謡集『小ロシア古謡集の試み』(1819年)を発表し、民族叙事詩のドゥマが初めて活字として出版された{{sfn|大野|2016|pp=153-155}}。民話は民族運動や文化運動とも結びつき、19世紀初頭にハルキウ・ロマン主義と呼ばれる文芸復興運動が起きた際は、ウクライナの貴族が民話の収集・刊行を行なった{{sfn|大野|2016|pp=151-152}}。 |
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=== 演劇 === |
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17世紀から盛んになったインテルメーディアと呼ばれる喜劇は、ウクライナ語{{efn|当時は小ロシア方言と呼ばれた{{sfn|伊東|1993|p=83}}。}}の口語で書かれており、口語による近代ウクライナ文学の先駆けとなった。この喜劇は民話や[[アネクドート]]を素材にして、宗教劇の幕間に上演された{{sfn|伊東|1993|pp=82-83}}。インテルメーディアは多言語的・多民族的な特徴を持っており、さまざまな民族の登場人物がいる{{efn|ウクライナ人、ベラルーシ人、リトアニア人、ポーランド人、ユダヤ人、トルコ人、ロマなどが登場する{{sfn|伊東|1993|pp=83-84}}。}}。ウクライナ人、ベラルーシ人、ポーランド人は自国語のセリフを話し、他の民族も特徴をつけた訛りで話す習慣があった。インテルメーディアは各地を遍歴する聖職者や休暇中の神学生によって演じられ、笑いの文学が普及した{{sfn|伊東|1993|pp=83-84}}。『エネイーダ』の作者コトリャレフスキーもインテルメーディア的な喜劇を書いており、近代劇の先駆になった{{efn|『ナタルカ・ポルタウカ』や『魔法使いの兵士』(ともに1819年初演)などの喜劇作品がある{{sfn|伊東|1993|p=87}}。}}{{sfn|伊東|1993|p=87}}。 |
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{{仮リンク|ヴェルテプ|uk|Вертеп (театр)}}と呼ばれる人形劇は、インテルメーディアの影響で誕生したともいわれる。クリスマスの時期に村々をまわる学生によって上演され、宗教的な内容と世俗的な内容の2部構成だった。宗教的な内容は[[降誕劇]]に近く、世俗的な内容はインテルメーディアに近かった{{efn|ゴーゴリの小説『{{仮リンク|ヴィイ (小説)|uk|Вій (повість)|label=ヴィイ}}』や『イワンとイワンが喧嘩した話』にも登場する。また、ヴェルテプのステレオタイプな登場人物はゴーゴリの『ディカーニカ近郷夜話』によって散文に置き換えられている{{sfn|伊東|1993|pp=84-85}}。}}{{sfn|伊東|1993|pp=84-85}}。 |
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1920年代には、演出家の{{仮リンク|レス・クルバス|uk|Лесь Курбас}}や脚本家の{{仮リンク|ミコラ・クーリッシュ|uk|Куліш Микола Гурович}}らによって{{仮リンク|ウクライナ・アバンギャルド|uk|Український авангард}}の作品が発表されていたが、ソ連時代には評価されなかった。これらが再評価されるのは雪解けの時期になってからだった。1958年に「ウクライナ演劇の春」が開催され、小説をもとにしたバレーも創作・上演された。以降は現代の人々と現実も舞台で表現されるようになった{{sfn|ソロシェンコ|2021|pp=34-35}}。 |
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=== ジェンダー === |
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[[File:Забужко Оксана письменниця.jpg|thumb|200px|オクサーナ・ザブジュコ]] |
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ウクライナの文学にはさまざまな女性像が描かれてきた。家を守るベレヒーニャという女神は、「普通の女性」や母親・妻のイメージとして文学やメディアに使われた{{sfn|ホメンコ|2021|p=16}}。ソ連時代の1950年代から1990年代の文学で流行した女性イメージは、仕事に励みながら主婦として家事や育児も行う「ソ連女性」と、「優しくて情緒的なヒロインのような女」だった{{sfn|ホメンコ|2021|p=22}}。独立後はこうしたイメージも変わりつつある。[[オクサーナ・ザブジュコ]]は独立後初のフェミニストの作家で、『ウクライナ人のセックスのフィールドワーク』(1996年)で著名となった{{sfn|ホメンコ|2021|pp=25-26}}。{{仮リンク|ラリサ・デニセンコ|uk|Денисенко Лариса Володимирівна}}は児童書『{{仮リンク|マヤと彼女のお母さん達|uk|Майя та її мами}}』(2017年)で、多様な家族のあり方として父親のいない家庭や母親が2人いる家庭などを描いた{{sfn|ホメンコ|2019|p=122}}。 |
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女性の平等な権利の主張は、19世紀のナターリヤ・コブリンスカやオレーナ・プチールカの活動が先駆的で、2人はウクライナ初の女性作家アンソロジー『最初の花冠』の編者でもある{{sfn|原田|2018a|p=198}}。2014年の尊厳の革命は、ウクライナ女性にとって社会での役割や居場所を再確認する重要なイベントとなり、以後は女性やフェミニズムをテーマにした本や絵本が多数出版された。50人の女性作家や画家たちが、6歳-9歳向けと9歳-12歳向けに女性が活躍する物語を作った{{sfn|ホメンコ|2021|pp=30-31}}。ジェンダーやフェミニズムをテーマにする著作家として、文学者の{{仮リンク|ソロミヤ・パウリチコ|uk|Павличко Соломія Дмитрівна}}、{{仮リンク|ビーラ・アゲエワ|uk|Агеєва Віра Павлівна}}、社会学者の{{仮リンク|タマラ・マルツェニュック|uk|Марценюк Тамара Олегівна}}、ウクライナ社会と女性の歴史については社会学者の{{仮リンク|オクサーナ・キーシ|uk|Кісь Оксана Романівна}}らがいる{{sfn|ホメンコ|2021|pp=13-14}}。 |
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=== 文学論 === |
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1818年には、A. パブトーフスキイが初のウクライナ語文法書『小ロシア語方言文法』(1818年)を出版した{{sfn|大野|2016|p=155}}。ウクライナの民話や文芸作品は1820年代からロシアで人気を呼び、ロシア人作家にもウクライナをテーマにする者がいた{{efn|ロシア人作家がウクライナ民話をテーマにした作品として、[[コンドラチイ・ルイレーエフ]]『ヴァイナローフスキイ』(1824年)や[[アレクサンドル・プーシキン]]の『ポルタワ』(1829年)などがある{{sfn|大野|2016|p=171}}。}}。しかしロシアの文芸評論家[[ヴィッサリオン・ベリンスキー]]は、ウクライナ語の表現力を低く評価した{{efn|他方、19世紀にウクライナの文芸作品を高く評価し、ウクライナ文化やユダヤ文化をテーマに執筆したドイツ人として、[[カール・エミール・フランツォース]]がいた。フランツォースはウクライナの作品をドイツ語に翻訳もしている{{sfn|伊狩|2006|pp=6-8}}。}}{{sfn|大野|2016|p=171}}。ソ連時代に入ってもウクライナ文学は文学論のなかで評価されず、スターリン体制後の「雪解け」時代には社会主義リアリズムではない文学論や創作が活発になった。映画監督の[[オレクサンドル・ドヴジェンコ]]のエッセイ「絵画と現代芸術」は、社会主義リアリズムの限界を超えるための提案であり、文学にも影響を与えた{{sfn|ソロシェンコ|2021|pp=31-32}}。 |
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独立後には文学研究や文芸評論が進み、{{仮リンク|タマラ・フンドロワ |uk|Тамара Гундорова}}、{{仮リンク|ヤロスラフ・ポリシュチュック|uk|Поліщук Ярослав Олексійович}}、{{仮リンク|ロクラナ・ハルチュック|uk|Харчук Роксана Борисівна}}らが論じている{{sfn|ホメンコ|2019|p=108}}。独立後に文学が発展している理由は社会(社会主義から資本主義)、経済(市場、出版、流通)、イデオロギー(政府の圧力からの解放)の3点にあるという説や、独立前のウクライナが植民地的な状況にあったとする[[ポストコロニアル理論]]からの分析などがある{{sfn|ホメンコ|2019|pp=108-109}}。 |
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=== 言語・民族の多様性 === |
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[[File:2007.05.19. Andriy Kurkov by Kubik.jpg|thumb|200px|アンドレイ・クルコフ]] |
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ウクライナ出身やウクライナ在住の作家は、さまざまな言語で文芸作品を残しており、ロシア語が特に多い。また独立前はウクライナ語の使用がしばしば抑圧されていたため、ウクライナ語とロシア語の両方で書く作家も多かった{{sfn|中村|2018|pp=207-208}}。ウクライナ出身の{{仮リンク|ヴァシーリー・ナレージヌイ|uk|Наріжний Василь Трохимович}}は、ウクライナを扱った初のロシア語の文芸作品を書いた{{sfn|大野|2016|p=155}}。[[ニコライ・ゴーゴリ]]は[[ヴェルィーキ・ソローチンツィ]]出身で、父はウクライナ語の劇作家だった。ゴーゴリ自身は[[サンクト・ペテルブルク]]に暮らしてロシア語で執筆し、ウクライナを描いた『[[ディカーニカ近郷夜話]]』(1829年-1831年)で人気作家となった{{efn|ゴーゴリと同時代のウクライナ出身のロシア語作家として、{{仮リンク|オレスト・ソモフ|uk|Сомов Орест Михайлович}}らがいる{{sfn|大野|2016|p=155}}。}}{{sfn|中村|2018|pp=207-208}}。貿易で栄えたオデッサは特にユダヤ人が多く、ユダヤ人の制限が廃止された1920年代には[[イサーク・バーベリ]]の『{{仮リンク|オデッサ物語|uk|Одеські оповідання}}』(1921年-1924年)をはじめとして作品の発表が相次いだ{{sfn|中村|2018|p=210}}。[[アンドレイ・クルコフ]]は独立後に最も早く世界的に読まれたロシア語作家で、『ペンギンの憂鬱』(1996年)などがある{{sfn|中村|2018|p=211}}{{sfn|ホメンコ|2019|pp=119-120}}。ナタリア・ヴォロジビトはモスクワでロシア語作家として活動したのちにウクライナへ戻り、題材に合わせてウクライナ語とロシア語を使い分けている{{sfn|池澤|2023a|p=118}}。 |
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イディッシュ語は東欧の他にも世界各地で暮らすユダヤ人が使う言語であり、ウクライナ文学の作品もある{{sfn|中村|2022|p=63}}。[[ペレヤスラウ]]出身の[[ショレム・アレイヘム]]はイディッシュ語で書きつつ、自作をロシア語にも翻訳した{{sfn|中村|2018|p=210}}。ミュージカル『[[屋根の上のヴァイオリン弾き]]』の原作『[[牛乳屋テヴィエ]]』(1894年)もアレイヘムの作品で、ウクライナの[[シュテットル]]を舞台にしている{{sfn|田中|2022|p=66}}。[[ドヴィド・ベルゲルソン]]はイディッシュ語で故郷のウクライナを描き続け、ウクライナ人の登場人物によるウクライナ語のセリフが飛び交っている{{sfn|田中|2022|p=64}}。 |
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独立後はウクライナ語とロシア語の混合語であるスルジクで執筆する作家も現れ、{{仮リンク|ミハイロー・ブリニフ|uk|Михайло Бриних}}や脚本家の{{仮リンク|レシ・ポデレビャンスキ|uk|Лесь Подерв'янський}}らがいる{{sfn|ホメンコ|2019|p=115}}。{{仮リンク|アルテム・チャパイ|uk|Артем Чапай}}は{{仮リンク|コロムィヤ|uk|Коломия}}出身で、『奇妙な人々』をスルジクで執筆した{{sfn|池澤|2023a|pp=112-113}}。 |
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イヴァン・フランコは語学に優れ、ドイツ語やポーランド語でも発表した。フランコはドイツの文芸作品をウクライナ語に翻訳したり、シェフチェンコの作品をドイツ語に翻訳した業績でも知られる{{sfn|小粥|2008|p=17}}{{sfn|小粥|2016|p=38}}。ポーランド語作家にも、ウクライナ出身者の[[ヤロスワフ・イヴァシュキェヴィッチ]]がいる。[[カリヌィーク (ヴィーンヌィツャ州)|カリヌィーク]]出身のイヴァシュキェヴィッチはワルシャワに移住し、喪失した故郷としてウクライナを描いた{{efn|かつてポーランド領だった地域は{{仮リンク|クレスィ|pl|Kresy Wschodnie}}と呼ばれ、ポーランドの作家がクレスィをテーマに書く作品はクレスィ文学とも呼ばれる{{sfn|田中|2018|p=103}}。}}{{sfn|田中|2018|pp=104-106}}。 |
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ウクライナの出身で、国外に移住したあとで非ウクライナ語でウクライナについて書く作家もいる{{efn|ヴィリニュス在住の{{仮リンク|ヤロスラフ・メルニック|uk|Мельник Ярослав Йосипович}}、ウィーン在住の[[テチャーナ・マリャルチュック|ターニャ・マリャルチュック]]、パリ在住の[[イレーナ・カルパ|イレナ・カルパ]]、ロンドン在住の{{仮リンク|スウィトラナ・プルカロ|uk|Світлана Пиркало}}、ニューヨーク在住の{{仮リンク|ワシーリー・マフノ|uk|Василь Махно}}らがいる{{sfn|ホメンコ|2019|p=120}}。}}{{sfn|中村|2022|p=64}}。この他にも、クリミア・タタール語作家のエミール・アミットや、オデッサ出身でドイツ語作家の{{仮リンク|マリアナ・ガポネンコ|uk|Гапоненко Мар'яна Михайлівна}}などをウクライナ文学に含める評論もある{{sfn|田中|2022|p=64}}。 |
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== 出版、図書館 == |
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[[File:Библиотека имени Вернадского.JPG|thumb|200px|[[ヴェルナツキー・ウクライナ国立図書館]]]] |
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ウクライナ初の印刷・出版は、16世紀のリヴィウで行われた。ハールィチ・ヴォルィーニ大公国の首都だったリヴィウはバルト海と黒海を結ぶ貿易で繁栄し、文化センターでもあった。そこに{{仮リンク|イヴァン・フョードロフ|uk|Іван Федоров}}が移住してウクライナ初の印刷工房を設立した{{sfn|伊東, 井内, 中井編|1998|pp=113-114}}。 |
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ソ連時代のウクライナは「ソ連で最も本を読んでいる国」のイメージがあり、出版業界は活発で本の値段が安かった。しかし検閲のために出版できる作品が限られていた。独立後は、民間の出版社や自費出版などの選択肢が増えるとともに本の値段は上がった。1980年代からキーウの公園では週末に本の青空市が開かれ、ペトリフカ地区で本を売る公式の市場も作られた{{sfn|ホメンコ|2019|p=109}}。 |
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1990年代から2000年代にかけて経済的に混乱があったため出版業界にも影響が出て、ウクライナで出版される新刊は年間で約2万点となっている。経済的な事情によって図書館も影響を受け、地域の図書館は蔵書が古いままで高齢者の利用が多い。デジタル化が進むにつれて読書人口の減少が指摘されるなか、タブレットの電子書籍やオーディオブックで読む層が増えている{{sfn|ホメンコ|2019|pp=109-110}}。21世紀以降は作家が出版社を起業することが増えている{{efn|オクサーナ・ザブジュコの{{仮リンク|コモラ|uk|Комора (видавництво)}}、イワン・マルコビチの{{仮リンク|アババガラマガ|uk|А-ба-ба-га-ла-ма-га}}、ワシール・ガーボルの{{仮リンク|ピラミダ|uk|Піраміда (видавництво)}}、カプラノフ兄弟の{{仮リンク|エレニー・ペス|uk|Зелений пес}}がある{{sfn|ホメンコ|2019|p=117}}。}}{{sfn|ホメンコ|2019|p=117}}。2014年の尊厳の革命では、運動の中心になった[[独立広場 (キーウ)|マイダン広場]]でボランティアによる臨時図書館も開かれた{{sfn|ホメンコ|2019|p=126}}。 |
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書店も独立の前後で変化があった。ソ連時代の書店は店員の後ろに本が並んでいたが、独立後は自由に店内をまわって好きな本を手に取れる書店が増えた{{sfn|ホメンコ|2019|p=113}}。1970年代から1990年代にかけて、喫茶店付きのスーパーでは夏から秋にかけて作家たちがしばしば集まった。独立後は文学クラブのようなカフェが作られて文学イベントが開催されるようになった{{efn|文学パブ「ドット・コマ」や、レストラン「クピドン」などが知られる{{sfn|ホメンコ|2019|pp=113-114}}。}}{{sfn|ホメンコ|2019|pp=113-114}}。 |
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[[2022年ロシアのウクライナ侵攻|2022年のロシアのウクライナ侵攻]]を受けて、ウクライナ図書館協会は国内の図書館と国際図書館連盟(IFLA)に向けて声明を出した<ref name='カレントアウェアネス220421'>{{cite web | title =ロシアによるウクライナ侵攻に関連する図書館・博物館の状況 藤田順 | publisher = カレントアウェアネス-E | date =2022.4.21 | url = https://current.ndl.go.jp/e2483 | accessdate =mar 8, 2024}}</ref>。2022年8月には約15,000の図書館のうち2,475が閉鎖された<ref name='カレントアウェアネス230822'>{{cite web | title =ウクライナの図書館員はいかにしてロシアの文化戦争に「動員」されたのか?(記事紹介) | publisher = カレントアウェアネス-R | date =2022.8.22 | url = https://current.ndl.go.jp/car/46693 | accessdate =mar 8, 2024}}</ref>。ユネスコの調査によれば、2023年2月時点で12の図書館が損壊している<ref name='カレントアウェアネス230224'>{{cite web | title =ユネスコ、ウクライナで241の文化財が損壊と発表:12の図書館、18の博物館を含む | publisher = カレントアウェアネス-R | date =2023.2.24 | url = https://current.ndl.go.jp/car/173108 | accessdate =mar 8, 2024}}</ref>。ウクライナ文化の一部として文学が主要な標的の一つになっているため、文字文化や言語を維持するプロジェクトが進められている。図書館員は{{仮リンク|ウクライナの文化遺産のデジタル情報保護グループ|en|Saving Ukrainian Cultural Heritage Online}}(SUCHO)を設立して蔵書のデジタル化やアーカイブ化を行っている。ユネスコ等では、幼児向けの電子書籍をウクライナ語に翻訳する“Translate a Story Ukraine”のキャンペーンが行われた<ref name='カレントアウェアネス230822'></ref>。キーウのLesia Ukrainka Public Libraryは、国外に避難した子供にウクライナの本を届けるプロジェクトを開始し、文学を含む遺産を守り続けるとしている<ref name='カレントアウェアネス230722'>{{cite web | title =ウクライナ・キーウの図書館による、国外避難している子どもに本を届けるプロジェクト(記事紹介) | publisher = カレントアウェアネス-R | date =2023.7.22 | url = https://current.ndl.go.jp/car/46536 | accessdate =mar 8, 2024}}</ref>。 |
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== イベント、文学賞、団体 == |
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2000年代に入り、ブックフェスタやブックフォーラムなどのイベントが増えた。大きなイベントとしては、キーウで5月に開催される{{仮リンク|アーセナル・ブックフェスティバル|uk|Книжковий арсенал}}や、9月にリヴィウで開催される{{仮リンク|ブックフォーラム・リヴィウ|uk|Book Forum Lviv}}があり、本の紹介の他に映画上映、コンサート、演劇なども行われる{{efn|2017年のアルセナーレは5万人、ブックフォーラムは1万5,000人の参加者がいた{{sfn|ホメンコ|2019|p=111}}。}}{{sfn|ホメンコ|2019|pp=110-111}}。ウクライナの出版社は[[フランクフルト・ブックフェア]]をはじめとする世界のブックフェアに参加するようになった{{sfn|ホメンコ|2019|p=127}}。 |
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文学賞としては、1961年に始まった[[シェフチェンコ・ウクライナ国家賞]]がある。文学、ジャーナリズム、音楽、演劇、映画、ビジュアルアートの6部門があり、国の文化に貢献した人物に与えられる。独立後には民間の文学賞も設立されるようになった。1999年設立の{{仮リンク|コロナツィヤ・スローワ|uk|Коронація слова}}は、長編小説、歌詞、映画脚本、戯曲、児童文学などの部門がある。2005年に設立された{{仮リンク|BBCブック・オブ・ザ・イヤー|uk|Книга року BBC}}は、[[英国放送協会]](BBC)のウクライナ語放送の文学賞で、大人向けと子供向けの部門がある{{sfn|ホメンコ|2019|pp=111-112}}。 |
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作家団体はソ連時代からのウクライナ作家同盟があったが評判を落として若い世代が入らなくなり{{efn|民主化運動[[プラハの春]]に対して[[ソ連によるチェコスロヴァキアへの軍事侵攻]]が起きた際、ウクライナ作家同盟で反対したのはリーナ・コステンコだけだった{{sfn|原田|2018b|p=123}}。}}、1997年にウクライナ作家連合、1998年に{{仮リンク|ペン・ウクライナ|uk|Український ПЕН}}が設立された{{sfn|ホメンコ|2019|p=114}}。 |
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== 主な作家 == |
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{{main|:en:List of Ukrainian-language writers}} |
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33行目: | 163行目: | ||
* [[パブリュック・イゴール]] |
* [[パブリュック・イゴール]] |
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== |
== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
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*中世時代 |
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=== 注釈 === |
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**『[[ルーシ年代記]]』 |
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{{Notelist|2|}} |
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**『[[イーゴリ遠征物語]]』 |
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=== 出典 === |
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{{Reflist|20em}} |
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== 参考文献(著者・編者五十音順) == |
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* {{Cite journal|和書|author=嵐田浩吉 |title=オデッサ、そして『オデッサ物語』 |url=https://nsu.repo.nii.ac.jp/records/8 |journal=新潟産業大学人文学部紀要 |publisher=新潟産業大学附属研究所 |year=1994 |month=dec |volume= |issue=1 |pages=57-80 |naid= |issn= |accessdate=2024-03-03 |ref={{sfnref|嵐田|1998}}}} |
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* {{Cite journal|和書|author=伊狩裕 |title=カール・エーミール・フランツォースとウクライナ |url= https://doi.org/10.14988/pa.2017.0000010999 |journal=言語文化 |publisher=同志社大学言語文化学会 |year=2006 |month=oct |volume=9 |issue=1 |pages=1-47 |naid= |issn=13441418 |accessdate=2024-03-03 |ref={{sfnref|伊狩|2006}}}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=池澤匠 |title=シンポジウム報告 : 「ウクライナ・ベラルーシにおける多言語文化」 |url= https://doi.org/10.15083/0002008010 |journal=東京大学大学院人文社会系研究科スラヴ語スラヴ文学研究室年報 |publisher=東京大学大学院人文社会系研究科スラヴ語スラヴ文学研究室 |year=2023 |month=oct |volume=37 |issue= |pages=111-120 |naid= |issn= |accessdate=2024-03-03 |ref={{sfnref|池澤|2023a}}}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=池澤匠 |title=ウクライナの言語政策関連文書における「国家語」の定義と運用について |url=http://hdl.handle.net/2433/286413 |journal=Slavica Kiotoensia |publisher=京都大学大学院文学研究科スラブ語学スラブ文学専修 |year=2023 |month=dec |volume=3 |issue= |pages=160-189 |naid= |issn= |accessdate=2024-03-03 |ref={{sfnref|池澤|2023b}}}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=伊東一郎 |title=ゴーゴリ - ウクライナ・バロック - 民衆文化 (M・バフチン『ラブレーとゴーゴリ』に寄せて) |url=http://hdl.handle.net/2065/39684 |journal=早稲田大学大学院文学研究科紀要. 文学・芸術学編 |publisher=早稲田大学大学院文学研究科 |year=1993 |month= |volume=39 |issue= |pages=79-92 |naid= |issn=09148493 |accessdate=2024-03-03 |ref={{sfnref|伊東|1993}}}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=伊東一郎 |title=ウクライナ文学史におけるゴーゴリ - 『ソローチンツィの定期市』のエピグラフを手掛かりに- |url=http://hdl.handle.net/2065/39680 |journal=早稲田大学大学院文学研究科紀要. 第2分冊, 英文学フランス文学ドイツ文学ロシヤ文学中国文学 |publisher=早稲田大学大学院文学研究科 |year=2004 |month= |volume=50 |issue= |pages=67-84 |naid= |issn=13417525 |accessdate=2024-03-03 |ref={{sfnref|伊東|2004}}}} |
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* {{Citation| 和書 |
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| author = |
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| title = ポーランド・ウクライナ・バルト史 |
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| editor = [[伊東孝之]], 井内敏夫, [[中井和夫]] |
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| publisher = 山川出版社 |
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| series = 世界各国史 |
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| year = 1998 |
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| isbn = |
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| ref = {{sfnref|伊東, 井内, 中井編|1998}} |
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}} |
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* {{Cite journal|和書|author=大野斉子 |title=ゴーゴリ「ディカーニカ近郷夜話」の神話論的分析 |url=https://doi.org/10.15083/00038108 |journal=SLAVISTIKA |publisher=東京大学大学院人文社会系研究科スラヴ語スラヴ文学研究室 |year=2016 |month=jun |volume=31 |issue= |pages=147-175 |naid= |issn= |accessdate=2024-03-03 |ref={{sfnref|大野|2016}}}} |
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* {{Citation| 和書 |
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| author = [[黒川祐次]] |
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| title = 物語ウクライナの歴史 - ヨーロッパ最後の大国 |
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| editor = |
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| publisher = 中央公論新社 |
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| series = 中公新書 |
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| year = 2002 |
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| isbn = |
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| ref = {{sfnref|黒川|2002}} |
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}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=小粥良 |title=イヴァン・フランコの『Die Auswanderung der galizischen Bauern』 (1892) |url= https://petit.lib.yamaguchi-u.ac.jp/doc/B050000002907 |journal=山口大学独仏文学 |publisher=山口大学独仏文学研究会 |year=2008 |month=feb |volume=29 |issue= |pages= 17-44 |naid= |issn=03876918 |accessdate=2024-03-03 |ref={{sfnref|小粥|2008}}}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=小粥良 |title=イヴァン・フランコの学校をめぐる短編群 : 『鉛筆(Оловець)』 (1879) その他 |url= https://petit.lib.yamaguchi-u.ac.jp/doc/B050000002907 |journal=山口大学独仏文学 |publisher=山口大学独仏文学研究会 |year=2016 |month=dec |volume=38 |issue= |pages=31-52 |naid= |issn=03876918 |accessdate=2024-03-03 |ref={{sfnref|小粥|2016}}}} |
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* {{Citation| 和書 |
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| author = タラス・シェフチェンコ |
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| title = シェフチェンコ詩集 |
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| translator = 藤井悦子 |
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| publisher = 岩波書店 |
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| series = 岩波文庫 |
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| year = 2022 |
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| isbn = |
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| ref = {{sfnref|シェフチェンコ|2022}} |
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}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=ヴィクトリア・ソロシェンコ/進藤理香子訳 |title=冷戦体制下のソビエト文化政策とウクライナ問題 |journal=大原社会問題研究所雑誌 |ISSN= |publisher=法政大学大原社会問題研究所 |year=2021 |month=dec |volume= |issue=758 |pages=109-117 |url= https://oisr-org.ws.hosei.ac.jp/images/oz/contents/758_04.pdf |naid= |issn= |accessdate=2024-03-03 |ref={{sfnref|ソロシェンコ|2021}}}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=イーホル・ダツェンコ(Ihor Datsenko) |title=ウクライナ語を愛でることはロシア語を護ること : ウクライナにおけるバイリンガリズムの問題に寄せて (特集 ウクライナの政治・経済に関する史的ならびに現状分析) |journal=神戸学院経済学論集 |ISSN=0386-2038 |publisher=神戸学院大学経済学会 |year=2015 |month=09 |volume=47 |issue=1 |pages=109-117 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I026941909-00 |naid= |issn= |accessdate=2024-03-03 |ref={{sfnref|ダツェンコ|2015}}}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=田中壮泰 |title=故郷喪失のポーランド文学 |url=https://doi.org/10.34382/00003098 |journal=立命館言語文化研究 |publisher=立命館大学国際言語文化研究所 |year=2018 |month=jan |volume=29 |issue=3 |pages=103-107 |naid= |issn=09157816 |accessdate=2024-03-03 |ref={{sfnref|田中|2018}}}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=田中壮泰 |title=イディッシュ語で書かれたウクライナ文学 : ドヴィド・ベルゲルソンとポグロム以後の経験 |url=https://www.jsssll.org/app/download/14104254189/SlaviaIaponica_25_2022_063_Tanaka.pdf?t=1655793237 |journal=スラヴ学論集 |publisher=日本スラヴ学研究会 |year=2022 |month= |volume=25 |issue= |pages=63-82 |naid= |issn= |accessdate=2024-03-03 |ref={{sfnref|田中|2022}}}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=中澤敦夫 |title=『イパーチイ年代記』翻訳と注釈(1) : 『原初年代記』への追加記事(1110~1117年) |url=https://doi.org/10.15099/00000292 |journal=富山大学人文学部紀要 |publisher=富山大学人文学部 |year=2014 |month=aug |volume= |issue=61 |pages=233-268 |naid= |issn=03865975 |accessdate=2024-03-03 |ref={{sfnref|中澤|2014}}}} |
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* {{Citation| 和書 |
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| author = |
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| title = ウクライナを知るための65章 |
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| editor = [[服部倫卓]], 原田義也 |
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| publisher = 明石書店 |
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| series = エリア・スタディーズ |
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| year = 2018 |
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| isbn = |
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| ref = {{sfnref|服部, 原田編著|2018}} |
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}} |
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** {{Cite book|和書|author=栗原典子|title=コサックとウクライナ|ref={{SfnRef|栗原|2018}}}} |
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** {{Cite book|和書|author=小粥良|title=ハプスブルク帝国下のウクライナ|ref={{SfnRef|小粥|2018}}}} |
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** {{Cite book|和書|author=イーホル・ダツェンコ|title=民族・言語構成|ref={{SfnRef|ダツェンコ|2018a}}}} |
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** {{Cite book|和書|author=イーホル・ダツェンコ|title=ウクライナ文化揺籃の地となった北東部|ref={{SfnRef|ダツェンコ|2018b}}}} |
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** {{Cite book|和書|author=中澤英彦|title=ウクライナ語、ロシア語、スールジク|ref={{SfnRef|中澤|2018}}}} |
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** {{Cite book|和書|author=中村唯史|title=ロシア文学とウクライナ|ref={{SfnRef|中村|2018}}}} |
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** {{Cite book|和書|author=原田義也|title=ウクライナを愛した女性たち|ref={{SfnRef|原田|2018a}}}} |
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** {{Cite book|和書|author=藤井悦子|title=国民詩人タラス・シェフチェンコ|ref={{SfnRef|藤井|2018}}}} |
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** {{Cite book|和書|author=藤森信吉|title=ソ連体制下のウクライナ|ref={{SfnRef|藤森|2018}}}} |
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** {{Cite book|和書|author=オリガ・ホメンコ|title=現代文学|ref={{SfnRef|ホメンコ|2018}}}} |
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** {{Cite book|和書|author=光吉淑江|title=歴史の舞台としてのウクライナ|ref={{SfnRef|光吉|2018a}}}} |
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** {{Cite book|和書|author=光吉淑江|title=リトアニア・ポーランドによる支配|ref={{SfnRef|光吉|2018b}}}} |
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** {{Cite book|和書|author=光吉淑江|title=ロシア帝国下のウクライナ|ref={{SfnRef|光吉|2018c}}}} |
|||
** {{Cite book|和書|author=光吉淑江|title=第一次世界大戦とロシア革命|ref={{SfnRef|光吉|2018d}}}} |
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* {{Cite journal|和書|author=原田義也 |title=レーシャ・ウクラインカ再読 : ウクライナ文学におけるナショナル・アイデンティティ |url=http://hdl.handle.net/2115/38702 |journal=スラヴ研究 |publisher=北海道大学スラブ研究センター |year=2007 |month= |volume=54 |issue= |pages=207-224 |naid= |issn= |accessdate=2024-03-03 |ref={{sfnref|原田|2007}}}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=原田義也 |title=現代のマドンナは何を祈るか -リーナ・コステンコの詩的世界- |url=http://hdl.handle.net/10291/20658 |journal=明治大学国際日本学研究 |publisher=明治大学国際日本学部 |year=2018 |month=mar |volume=10 |issue=1 |pages=105-138 |naid= |issn=18834906 |accessdate=2024-03-03 |ref={{sfnref|原田|2018b}}}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author= 二見淑子 |title=ウクライナDuma (дума)の性格 : 特にその宗教的側面 |url=https://shoin.repo.nii.ac.jp/records/1176 |journal=キリスト教論藻 |publisher=松蔭女子学院大学学術研究会 |year=1985 |month=dec |volume=18 |issue= |pages=79-106 |naid= |issn=02886138 |accessdate=2024-03-03 |ref={{sfnref|二見|1985}}}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author= L.Ye. ポズドゥニャコーヴァ(ПОЗДНЯКОВА, Л.Є.), 寺田吉孝 |title=ウクライナ語正書法史 : 19世紀以降のウクライナ語正書法の変遷を中心にして |url=http://hokuga.hgu.jp/dspace/handle/123456789/1796 |journal=北海学園大学学園論集 |publisher=北海学園大学学術研究会 |year=2011 |month=sep |volume= |issue=149 |pages=127-141 |naid= |issn=03857271 |accessdate=2024-03-03 |ref={{sfnref|ポズドゥニャコーヴァ, 寺田|2011}}}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=オリガ・ホメンコ(Ольга Хоменко) |title=独立後の現代ウクライナ文学:プロセス、ジャンル、人物 |url=https://doi.org/10.15026/93283 |journal=スラヴ文化研究 |publisher=東京外国語大学ロシア東欧課程ロシア語研究室 |year=2019 |month=mar |volume=16 |issue= |pages=104-127 |naid= |issn= |accessdate=2024-03-03 |ref={{sfnref|ホメンコ|2019}}}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=オリガ・ホメンコ(Ольга Хоменко) |title=女性の顔を持つウクライナ : 歴史的な伝統,社会規範,メディアでのイメージと最近のトレンド |url= https://kobegakuin-economics.jp/wp-content/uploads/2022/07/202103_52_013.pdf |journal=神戸学院経済学論集 |publisher=神戸学院大学経済学会 |year=2021 |month=mar |volume=52 |issue=3・4 |pages=13-27 |naid= |issn= |accessdate=2024-03-03 |ref={{sfnref|ホメンコ|2021}}}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=三浦清美 |title=『キエフ洞窟(ペチェルスキイ)修道院聖者列伝』解題と抄訳(I) |url=https://uec.repo.nii.ac.jp/records/6955 |journal=電気通信大学紀要 |publisher=電気通信大学 |year=2006 |month=dec |volume=19 |issue=1-2 |pages=129-147 |naid= |issn=09150935 |accessdate=2024-03-03 |ref={{sfnref|三浦|2006}}}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=村田優樹 |title=革命期ロシアのウクライナ問題と近世ヘトマン領 |url=https://doi.org/10.24471/shigaku.130.7_1 |journal=史学雑誌 |publisher=史学会 |year=2021 |month=dec |volume=130 |issue=7 |pages=1-39 |naid= |issn= |accessdate=2024-03-03 |ref={{sfnref|村田|2021}}}} |
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== 関連文献 == |
|||
* {{Citation| 和書 |
|||
| author = 小川万海子 |
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| title = ウクライナの発見 - ポーランド文学・美術の19世紀 |
|||
| publisher = 藤原書店 |
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| series = |
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| year = 2011 |
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| isbn = |
|||
| ref = {{sfnref|小川|2011}} |
|||
}} |
|||
* {{Citation| 和書 |
|||
| author = [[オスタップ・スリヴィンスキー]] |
|||
| title = 戦争語彙集 |
|||
| translator = [[ロバート・キャンベル]] |
|||
| publisher = 岩波書店 |
|||
| series = |
|||
| year = 2023 |
|||
| isbn = |
|||
| ref = {{sfnref|スリヴィンスキー|2023}} |
|||
}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=中村唯史 |title=バーベリ『オデッサ物語』論 : 「オデッサ神話」と「讃歌」について |url=https://doi.org/10.15083/00038352 |journal=Slavistika |publisher=東京大学大学院人文社会系研究科スラヴ語スラヴ文学研究室 |year=1995 |month=oct |volume=11 |issue= |pages=402-425 |naid= |issn= |accessdate=2024-03-03 |ref={{sfnref|中村|1995}}}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=原真咲 |title=引き裂かれたウクライナの肖像としての『イェレミーヤ・ヴィシュネヴェーツィケィイ公』 |url=https://doi.org/10.15026/91372 |journal=スラヴ文化研究 |publisher=東京外国語大学ロシア東欧課程ロシア語研究室 |year=2018 |month=mar |volume=15 |issue= |pages=56-81 |naid= |issn=13417525 |accessdate=2024-03-03 |ref={{sfnref|原|2018}}}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=福嶋千穂 |title=「ルシ」再考 |url=https://doi.org/10.15026/89303 |journal=東京外国語大学論集 |publisher=東京外国語大学 |year=2017 |month=jul |volume=94 |issue= |pages=189-208 |naid= |issn=13417525 |accessdate=2024-03-03 |ref={{sfnref|福嶋|2017}}}} |
|||
* {{Citation| 和書 |
|||
| author = |
|||
| title = 現代ウクライナ短編集 |
|||
| translator = 藤井悦子, オリガ・ホメンコ |
|||
| publisher = 群像社 |
|||
| series = 群像社ライブラリー |
|||
| year = 2005 |
|||
| isbn = |
|||
| ref = {{sfnref|藤井, ホメンコ編訳|2005}} |
|||
}} |
|||
* {{Citation| 和書 |
|||
| author = 三浦清美 訳・解説 |
|||
| title = キエフ洞窟修道院聖者列伝 |
|||
| publisher = 松籟社 |
|||
| series = |
|||
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2024年3月30日 (土) 05:16時点における版
ウクライナ文学(ウクライナぶんがく、ウクライナ語: Українська література)は、ウクライナ語で書かれた文学、またはウクライナ人やウクライナ出身の人物によって書かれた文学を指す。ウクライナは多様な民族が活動してきた背景があり、さまざまな言語による作品がある。歴史においては、地域的に分割されたり、ウクライナ語を使うことが抑圧されてきた時代もある。1991年の独立後は公用語となったウクライナ語を中心に書かれている。
言語・地理
ウクライナ文学の作品は、国家語・公用語にあたるウクライナ語の他に、ロシア語、ウクライナ語とロシア語の混合語にあたるスルジク、イディッシュ語などでも書かれている[注釈 1][4][5]。ウクライナ語はスラヴ語派の東スラヴ語群に属し、ロシア語やベラルーシ語と同じグループになる。この3言語は8世紀から14世紀にかけてスラヴ諸語から分かれた[6]。2001年の国勢調査では、ウクライナ国民の67.5%がウクライナ語を母語とし、29.6%がロシア語を母語としている[注釈 2][9]。
地理的にはヨーロッパ第2位の広さを持ち、同じ東スラヴ語群のロシアやベラルーシの他に、隣国のポーランドや、移り住んできたユダヤ人の文化との関わりもある[10]。そのため2言語や3言語を使う住民が多い[6]。北東部のシヴェーリア地方は古代から続く森林があり、中世の『キーウ年代記』や、最古の叙事詩『イーゴリ遠征記』にも登場する[11]。中心に位置するポルタヴァ州は、古典文学の作者を多数輩出した。近代ウクライナ文学の始まりにあたる小説『エネイーダ』の作者イヴァン・コトリャレフスキーの出身地もポルタヴァにある[12]。西部はカルパチア山脈の山谷で地域が複雑な民族構成をもつ。リヴィウがあるハルィチナー地方はウクライナ初の印刷所が作られ、19世紀には民族運動の中心となった[13][14]。南部のオデッサは黒海の貿易で急成長をした都市で、19世紀以降に多民族・多国籍の住民が暮らした。ウクライナ語、ロシア語、イディッシュ語が混じり合う語彙が特徴で多くの作家が舞台としている[15]。
歴史
古代 - 中世
スラヴ人が文字を使う前の時代については、歴史家の著作に記録がある。紀元前5世紀のヘロドトスの『歴史』、2世紀のプトレマイオスの『地理学』、プリニウスの『博物誌』などに記述されている[注釈 3][16]。9世紀にはスラヴ語の文字の基礎が作られた。キリールとメフォーディーがアルファベットから古スラヴ語の正書法を作り、ウクライナ語の文字体系として2023年現在まで続いている[注釈 4][17]。
キーウ・ルーシの時代には、ビザンツ帝国からキリスト教が導入されてキリスト教関係の書物の翻訳や出版が行われた[18]。この翻訳はブルガリアからルーシに来た人々が中心となった[注釈 5][17]。キーウ・ルーシ最初の年代記である『原初年代記』をはじめとする年代記も修道士が書いたものが多い[18]。最初期の叙事詩としては『イーゴリ遠征物語』(12世紀後半)がある[19]。また、吟遊詩人たちが歌う叙事詩ドゥマの起源は、10世紀から11世紀の宮廷儀式や葬儀などにある[20]。
キーウ・ルーシがモンゴルのルーシ侵攻で滅んだあと、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国が栄えた。首都として建設されたリヴィウは、のちにウクライナ初の印刷・出版が行われ、文化センターとなった[13][21]。ハールィチ・ヴォルィーニ大公国は14世紀に滅び、ウクライナの地域はポーランド王国とリトアニア大公国に分かれて統治された。この時代に言語はウクライナ語、ロシア語、ベラルーシ語へと分化が進んだ[22]。当時の記録として、『キーウ年代記』や『ハールィチ・ヴォルィーニ年代記』がある[23]。
15世紀-18世紀
ウクライナ文化の重要なモチーフであるコサックは、15世紀から16世紀にかけて出現した[注釈 6]。ウクライナ・コサックはタタール・コサックやポーランドとの戦いをへて軍事集団となり、荒廃していたキーウを17世紀に再建し、1615年には出版所が建設された[24]。伝説的な詩人のマルーシャ・チュラーイは、コサックとの悲恋、農村の美しさなどを抒情詩に謳い、幸福や平和を表現している[25]。
17世紀にかけて、ウクライナとロシアの文芸作品の地域的な違いが明らかになった。コサックが再建したキーウに神学校のモヒーラ・アカデミアが設立され、ラテン語の教育が始まった[注釈 7]。このアカデミアは当時の東方正教圏で初の教育機関となり高等教育の中心にもなった。ルネッサンス以降の西欧文化が東スラヴに伝わり、ラテン語の教養を身につけ、ギリシャやローマの古典を読めるようになった。学生は社会階層も民族も多様で、キーウの著作家は教会スラヴ語だけでなくラテン語でも執筆した[注釈 8][26]。
モヒーラ・アカデミア経由でポーランドのバロック文化がキーウに伝わり、その影響でウクライナ・バロックが成立した。ウクライナ・バロックは建築、絵画、文学などの分野で表現され、ルネッサンス的な役割を果たした。ウクライナ・バロックは民衆文化と結びつき、パロディ作品が盛んに作られ、特に宗教的テーマのパロディが多い。演劇ではインテルメーディアと呼ばれる喜劇が17世紀に流行し、口語で書かれたインテルメーディアは、ウクライナ近代文学の先駆けとなった。宗教的なパロディはロシアでは冒涜とみなされたが、ウクライナでは問題視されなかった[28]。モヒーラ・アカデミア以降、西欧文化はキーウに伝わったのちにモスクワに伝わるという関係が生まれた。西欧の騎士道物語が翻訳されて人気となり、文芸の世俗化が進み、ウクライナからロシアへの啓蒙的な立場は18世紀初頭まで続いた[29]。
民族集団となったコサックはヘーチマン国家という国家を建設するが、ポーランドとロシア帝国によって分割されて消滅する[30][31]。近代ウクライナ文学の幕開けとなったイヴァン・コトリャレフスキーの『エネイーダ』(1798年)は、このコサック国家を再建する物語だった[32]。『エネイーダ』は口語をもとに書かれており、ウクライナ語の新たな文学表現として影響を与えた[33]。
19世紀 - 20世紀初頭
19世紀にウクライナ人が暮らしていた地域は、ほとんどが東部のロシア帝国と西部のハプスブルク帝国によって東西に分断された[注釈 9]。ロシア領とハプスブルク領のウクライナ人はともに大半が農民で、東西いずれでも苦しい暮らしだった。ロシア領内では農奴制があり、ハプスブルク領内では農奴が解放されたが支配階級のポーランド人(シュラフタ)の抑圧を受けた[注釈 10][37]。こうした状況で、文化や言語を共有する人々によって民族運動が始まり、東西に分かれていた集団がウクライナ人としてのアイデンティティを形成した[38]。
民族運動を始めたのは、インテリゲンツィアと呼ばれる知識階層だった[39]。作家や歴史家はロマン主義の影響を受けつつ、伝承や歌謡、コサックの文化などを表現した。詩人のタラス・シェフチェンコはウクライナへの愛情とロシアへの対抗をウクライナ語でうたった。シェフチェンコは、作家のパンテレイモン・クリーシや歴史家のミコーラ・コストマーロフらと政治結社キリル・メトディー団を結成した[32]。キリル・メトディー団のメンバーは逮捕されてシェフチェンコは流刑生活を送ったが、フロマーダ(共同体)と呼ばれる結社が活動を引き継いだ[注釈 11]。しかしロシア政府はウクライナ人の民族運動を抑圧し、エムス法(1876年)であらゆる分野のウクライナ語出版を禁止した。このために多くの知識人が西のハプスブルク領内に移住した[32]。
東西のウクライナ人は国境を越えて交流を進めた[32]。19世紀末から20世紀初頭にかけては、ハプスブルク領内のハーリチナが民族主義運動の中心となった[40]。ロシア領内のウクライナ語の出版禁止を受けて、ハプスブルク領内のリヴィウでウクライナ語の書籍が出版された[14]。思想家のミハイロ・ドラホマーノフはスイスのジュネーヴに亡命し、ウクライナ語雑誌『フロマーダ』に執筆してリヴィウ大学のウクライナ人学生に読まれた[注釈 12][42][37]。ドラホマーノフの影響を受けた作家イヴァン・フランコは、創作とともに民族運動に励み、1890年にフランコらが設立したウクライナ急進党は、近代史上初めてウクライナの統一と独立を掲げた政党となった[43]。リヴィウ大学では1894年からミハイロ・フルシェフスキーがウクライナ史講座を担当し、ウクライナ語の出版や研究が盛んになった[32]。フルシェフスキーはウクライナ人の通史として、『概説ウクライナ民族史』と『図説ウクライナ民族史』を発表した[44]。シェフチェンコはコサックとしてのアイデンティティを西ウクライナに伝え、東西ウクライナを代表する詩人となった[32]。ナターリヤ・コブリンスカとオレーナ・プチールカは、ウクライナ初の女性作家アンソロジー『最初の花冠』(Pershyi vinok, 1887年)を編纂した[45]。多数のウクライナの知識人や政治家がウィーンを拠点にして活動し、雑誌「ルテニア展望」(のちの「ウクライナ展望」)を発行して、ウクライナの自立をドイツ語圏の人々に訴えた[46]。
ロシア領内では、エムス法によって民族運動の抑圧が続き、工業化によって労働者のロシア化が進んだ。キリル・メトディー団のメンバーでもあったクリーシやコストマーロフは、ロシア内でウクライナの地位を強調するというスタイルを選んだ[47]。20世紀初頭にも多くの作家が活動したが、のちのソヴィエト連邦時代には評価されずに埋もれていった。この時代の文芸作品が再評価されるのは1991年の独立後となる(後述)[注釈 13][48]。
ロシア革命 - ソヴィエト連邦
1917年のロシア革命後、ウクライナでは複数の権力が存在する複雑な状況となった[48]。ウクライナの名を持つ国家が初めて建国され、へトマン政府のウクライナ国や、ウクライナ人民共和国、西ウクライナ人民共和国があった。ウクライナ人民共和国では、ウクライナ語の他にロシア語、ポーランド語、イディッシュ語が公用語になり、短期間ではあったが多民族・多言語の文化が展開された[49][50][51]。その後、ウクライナ社会主義ソヴィエト共和国が成立して1922年にソヴィエト連邦の構成国のひとつになった[注釈 14][50]。
ソ連の構成国となってからは共産党の干渉があり、ウクライナ文学の損失となった[53]。検閲によって作品のテーマが決められるようになった[注釈 15][48]。1920年代にはウクライナ文化を復興するウクライナ化が進められたが、ヨシフ・スターリン政権の時代になると大粛清によってウクライナ出身の作家は多数処刑された。当時の文化人や作品は粛清されたルネッサンスや処刑されたルネッサンスと呼ばれている[注釈 16][54]。第二次世界大戦ではナチス・ドイツによってキーウをはじめとしてウクライナの都市が占領された。詩人のオレーナ・テリーハは夫とともにキーウで文学週報を発行し、大粛清の犠牲になったウクライナの作家を紹介した[45]。キーウのバビ・ヤールではナイス・ドイツによってユダヤ人やロマが虐殺され、作家アナトリー・クズネツォフや詩人エフゲニー・エフトゥシェンコはのちにバビ・ヤールについて書いた。作家・ジャーナリストのヴァシリー・グロスマンは大量の餓死者を出したスターリン政権のホロドモールについて書いたが、ソ連ではタブーとして扱われた[55]。1954年にウクライナ人の著作111冊が禁書となり、社会主義リアリズムの強化が求められた。ソ連経済が共産党指導部によって指導されて解決するといったストーリーの生産的小説が当局に推奨された[53]。
スターリン体制が終わり、1963年にペトロ・シェレストがウクライナ共産党の第一書記になるとソ連内でウクライナの地位を引き上げるためのウクライナ化が始まった。文化人、知識人、ウクライナ作家同盟の作家らが協同してウクライナ文化の復興を進めた[56]。この時期にデビューした作家や芸術家は60年代人とも呼ばれる[注釈 17][58]。しかし、1970年代と1980年代のレオニード・ブレジネフ政権の時代には再びウクライナ語が抑圧された。教育や仕事でロシア語が有利となり、ウクライナ語の知識層は反体制派と疑われた[59]。
チェルノブイリ原発事故(1986年)によってモスクワの政府に不信感を抱いた人々は、ソ連よりもウクライナのアイデンティティを強めた[注釈 18][61]。1986年のウクライナ作家同盟大会ではウクライナ語の現状が問題とされ、アルファベットの変更、出版物の増大、教育の拡充、国家語化などの要求が出されるようになった[62]。1980年代後半にはソ連の混乱が深まり、1960年代の運動を経験している人々が中心となってウクライナ作家協会やウクライナ語協会で変化を進めた。1989年には言語法が成立し、ウクライナ語がウクライナ共和国の国家語となった[注釈 19][61]。
独立後
言語法によってウクライナ語が公式に認められ、ウクライナ文学の創作環境は良くなった。自己表現やアイデンティティと自由に結びつき、多数の作家が活動した[注釈 20]。独立後には作家たちの挑戦によって、社会主義リアリズムだけでなく、魔術的リアリズムやポストモダニズムの作品も発表された。ホラー小説、SF小説、日記、旅行記、短編なども読まれるようになった[64]。また、ソ連時代に評価されなかった20世紀初頭の作品の再評価も進んだ[63]。
2014年には尊厳の革命が起きてヴィクトル・ヤヌコーヴィチ政権が倒れ、ウクライナ紛争が始まった。こうした社会を反映した作品も発表されている[注釈 21][65]。劇作家のナタリア・ヴォロジビトの戯曲『悪路』では、ドンバス戦争を題材として女性から見た戦争が描かれている[66]。ロシアのウクライナ侵攻によって命を失う作家もおり、ロシアの戦争犯罪について執筆してきたヴィクトリア・アメリーナは2023年にミサイル攻撃で死亡した[67]。詩人のオスタップ・スリヴィンスキーは、避難者が暮らす仮設住宅などでウクライナ市民の戦争体験を聞き書きし、『戦争語彙集』としてまとめている [注釈 22][69]。
作品形式とテーマ
詩・歌謡
最初期の叙事詩『イーゴリ遠征物語』(12世紀後半)では、イーホル・スヴャトスラーヴィチと遊牧民ポロヴェツ人の戦いを描いている。『イーゴリ遠征物語』の写本は18世紀に発見され、『ニーベルンゲンの歌』や『ロランの歌』と並び称される作品となった。中でも、イーゴリの身を案じる妻ヤロスラーヴナの嘆きが叙情的と評価されている[注釈 23][19]。
コサックの時代には文学や民俗芸術が発展し、マルーシャ・チュライの詩や歌謡はウクライナ音楽に影響を与えている[71]。15世紀から17世紀にかけてコサックによって叙事詩の歌謡であるドゥマが誕生した[注釈 24]。ドゥマは漂白する吟遊詩人によって歌われ、コブザやバンドゥーラという楽器を使うコブザーリと、リラという楽器を使うリールニクという2通りの吟遊詩人がいた。ドゥマには戦いや捕虜の苦難をテーマにした叙事詩、日常生活をテーマにした抒情的な詩、宗教的な詩がある[注釈 25][70]。19世紀に作曲家のミコーラ・ルイセンコはウクライナの民俗歌謡を収集してウクライナ語オペラを作った[32]。
タラス・シェフチェンコは農奴の生まれで絵の才能を評価されて自由人となり、ロシア帝国美術アカデミーに通いながら詩作を行い、第1詩集『コブザーリ』(1840年)はウクライナで歓迎された[注釈 26][75]。シェフチェンコは弱い者や虐げられた者への同情、ロシアやウクライナの地主層などの農民を虐げる権力への憤り、コサックの自治の理想などをウクライナ語で綴り、民族独立の象徴とされている[76]。レーシャ・ウクライーンカは結核を患いながら劇詩と文芸評論で活動した。ウクライナを舞台にした『森の歌』(1911年)では、自然と人間をテーマにしながらも対立的には描かず、共生の哲学の先駆ともいえる表現をしている[77]。ウクライナ市民のアンケートによれば、タラス・シェフチェンコとレーシャ・ウクライーンカは、「全時代を通じて最も偉大なウクライナ人」の10人の中に選ばれている[注釈 27][78]。1960年代から活動しているリーナ・コステンコは文明批評的な視点を持ち、古典的な韻律詩から自由詩までを駆使している[79]。
散文
ウクライナの口語で書かれた初の小説は、イヴァン・コトリャレフスキーの『エネイーダ』(1798年)だった。内容はウェルギリウスの『アエネイス』をウクライナに移し変えたもので、『アエネイス』のローマ建国伝説をコサックの再建伝説にしている[80]。口語で書かれた『エネイーダ』は、ウクライナ文学の新たな表現のきっかけとなった。作家は伝統的な文学の書記法ではなく、生きた単語の音を伝える口語の文字化を模索した[注釈 28][33]。
散文は19世紀以降の民族運動にも影響を与えた。ハーリチナで活動したイヴァン・フランコは、作家の他にジャーナリストや政治評論家としてもウクライナ人の地位向上を目指した[81]。『鉛筆』(1885年)などの小説では教育の現状を批判した[注釈 29][82]。評論では農民の窮状として、栄養、教育、権利の3点が欠けていると訴えた[81]。独立後には短編小説が流行し、歴史や社会を話題にした小説も人気を呼んでいる[84]。
年代記・列伝
中世ルーシの年代記はレートピシと呼ばれ、歴史的・年代誌的な記録をまとめた集成になっている[85]。最古の時代を記録した『原初年代記』は、キーウ・ペチェールシク大修道院(キーウ洞窟修道院)のネストルという修道士によって執筆・編集された[86]。キーウ・ルーシの基本的な記録として、『イパーチイ年代記』がある。『イパーチイ年代記』は『原初年代記』(852 - 1117年)、『キーウ年代記』(1118 - 1200年)、『ハールィチ・ヴォルィーニ年代記』(1201 - 1292年)の3部分で構成されている[85]。
キリスト教の教会文学には聖者列伝(パテリーク)と呼ばれるジャンルがある。キーウ・ルーシ時代の作品として修道士の説話を集めた列伝があり、著名なものに『キーウ洞窟修道院聖者列伝』がある[注釈 30][88]。この列伝は、ウラジーミル司教シモンと修道士ポリカルプの物語が中心となっている。ポリカルプは現状に不満を抱いて司教になる望みを持ち、それをシモンが説得するという構成で、ポリカルプの語りの面白さとシモンの寡黙さによって宗教性から独立して楽しめる内容になっている[注釈 31][90]。シモンとポリカルプの物語は13世紀に書かれ、のちの15世紀と17世紀に編纂された。15世紀の編纂は、東方正教においてキーウの伝統を見直す運動の一環として行われた。17世紀の編纂は、ポーランドから伝わってきたカトリックの文化やイエズス会に対抗して東方正教の文化を示す目的で行われた[91]。
民話
中世からさまざまな民話があり、民話で語られている自然、生活風俗、超自然な存在などは理想化されたウクライナ像として18世紀後半から19世紀にかけて文芸作品のモチーフとなった。コトリャレフスキーも民話を多数引用している。ドムィトロー・ツェールテレフは初のウクライナ民謡集『小ロシア古謡集の試み』(1819年)を発表し、民族叙事詩のドゥマが初めて活字として出版された[92]。民話は民族運動や文化運動とも結びつき、19世紀初頭にハルキウ・ロマン主義と呼ばれる文芸復興運動が起きた際は、ウクライナの貴族が民話の収集・刊行を行なった[93]。
演劇
17世紀から盛んになったインテルメーディアと呼ばれる喜劇は、ウクライナ語[注釈 32]の口語で書かれており、口語による近代ウクライナ文学の先駆けとなった。この喜劇は民話やアネクドートを素材にして、宗教劇の幕間に上演された[28]。インテルメーディアは多言語的・多民族的な特徴を持っており、さまざまな民族の登場人物がいる[注釈 33]。ウクライナ人、ベラルーシ人、ポーランド人は自国語のセリフを話し、他の民族も特徴をつけた訛りで話す習慣があった。インテルメーディアは各地を遍歴する聖職者や休暇中の神学生によって演じられ、笑いの文学が普及した[95]。『エネイーダ』の作者コトリャレフスキーもインテルメーディア的な喜劇を書いており、近代劇の先駆になった[注釈 34][96]。
ヴェルテプと呼ばれる人形劇は、インテルメーディアの影響で誕生したともいわれる。クリスマスの時期に村々をまわる学生によって上演され、宗教的な内容と世俗的な内容の2部構成だった。宗教的な内容は降誕劇に近く、世俗的な内容はインテルメーディアに近かった[注釈 35][97]。
1920年代には、演出家のレス・クルバスや脚本家のミコラ・クーリッシュらによってウクライナ・アバンギャルドの作品が発表されていたが、ソ連時代には評価されなかった。これらが再評価されるのは雪解けの時期になってからだった。1958年に「ウクライナ演劇の春」が開催され、小説をもとにしたバレーも創作・上演された。以降は現代の人々と現実も舞台で表現されるようになった[98]。
ジェンダー
ウクライナの文学にはさまざまな女性像が描かれてきた。家を守るベレヒーニャという女神は、「普通の女性」や母親・妻のイメージとして文学やメディアに使われた[99]。ソ連時代の1950年代から1990年代の文学で流行した女性イメージは、仕事に励みながら主婦として家事や育児も行う「ソ連女性」と、「優しくて情緒的なヒロインのような女」だった[100]。独立後はこうしたイメージも変わりつつある。オクサーナ・ザブジュコは独立後初のフェミニストの作家で、『ウクライナ人のセックスのフィールドワーク』(1996年)で著名となった[101]。ラリサ・デニセンコは児童書『マヤと彼女のお母さん達』(2017年)で、多様な家族のあり方として父親のいない家庭や母親が2人いる家庭などを描いた[102]。
女性の平等な権利の主張は、19世紀のナターリヤ・コブリンスカやオレーナ・プチールカの活動が先駆的で、2人はウクライナ初の女性作家アンソロジー『最初の花冠』の編者でもある[45]。2014年の尊厳の革命は、ウクライナ女性にとって社会での役割や居場所を再確認する重要なイベントとなり、以後は女性やフェミニズムをテーマにした本や絵本が多数出版された。50人の女性作家や画家たちが、6歳-9歳向けと9歳-12歳向けに女性が活躍する物語を作った[103]。ジェンダーやフェミニズムをテーマにする著作家として、文学者のソロミヤ・パウリチコ、ビーラ・アゲエワ、社会学者のタマラ・マルツェニュック、ウクライナ社会と女性の歴史については社会学者のオクサーナ・キーシらがいる[104]。
文学論
1818年には、A. パブトーフスキイが初のウクライナ語文法書『小ロシア語方言文法』(1818年)を出版した[105]。ウクライナの民話や文芸作品は1820年代からロシアで人気を呼び、ロシア人作家にもウクライナをテーマにする者がいた[注釈 36]。しかしロシアの文芸評論家ヴィッサリオン・ベリンスキーは、ウクライナ語の表現力を低く評価した[注釈 37][106]。ソ連時代に入ってもウクライナ文学は文学論のなかで評価されず、スターリン体制後の「雪解け」時代には社会主義リアリズムではない文学論や創作が活発になった。映画監督のオレクサンドル・ドヴジェンコのエッセイ「絵画と現代芸術」は、社会主義リアリズムの限界を超えるための提案であり、文学にも影響を与えた[108]。
独立後には文学研究や文芸評論が進み、タマラ・フンドロワ 、ヤロスラフ・ポリシュチュック、ロクラナ・ハルチュックらが論じている[109]。独立後に文学が発展している理由は社会(社会主義から資本主義)、経済(市場、出版、流通)、イデオロギー(政府の圧力からの解放)の3点にあるという説や、独立前のウクライナが植民地的な状況にあったとするポストコロニアル理論からの分析などがある[110]。
言語・民族の多様性
ウクライナ出身やウクライナ在住の作家は、さまざまな言語で文芸作品を残しており、ロシア語が特に多い。また独立前はウクライナ語の使用がしばしば抑圧されていたため、ウクライナ語とロシア語の両方で書く作家も多かった[111]。ウクライナ出身のヴァシーリー・ナレージヌイは、ウクライナを扱った初のロシア語の文芸作品を書いた[105]。ニコライ・ゴーゴリはヴェルィーキ・ソローチンツィ出身で、父はウクライナ語の劇作家だった。ゴーゴリ自身はサンクト・ペテルブルクに暮らしてロシア語で執筆し、ウクライナを描いた『ディカーニカ近郷夜話』(1829年-1831年)で人気作家となった[注釈 38][111]。貿易で栄えたオデッサは特にユダヤ人が多く、ユダヤ人の制限が廃止された1920年代にはイサーク・バーベリの『オデッサ物語』(1921年-1924年)をはじめとして作品の発表が相次いだ[112]。アンドレイ・クルコフは独立後に最も早く世界的に読まれたロシア語作家で、『ペンギンの憂鬱』(1996年)などがある[113][114]。ナタリア・ヴォロジビトはモスクワでロシア語作家として活動したのちにウクライナへ戻り、題材に合わせてウクライナ語とロシア語を使い分けている[115]。
イディッシュ語は東欧の他にも世界各地で暮らすユダヤ人が使う言語であり、ウクライナ文学の作品もある[116]。ペレヤスラウ出身のショレム・アレイヘムはイディッシュ語で書きつつ、自作をロシア語にも翻訳した[112]。ミュージカル『屋根の上のヴァイオリン弾き』の原作『牛乳屋テヴィエ』(1894年)もアレイヘムの作品で、ウクライナのシュテットルを舞台にしている[117]。ドヴィド・ベルゲルソンはイディッシュ語で故郷のウクライナを描き続け、ウクライナ人の登場人物によるウクライナ語のセリフが飛び交っている[51]。
独立後はウクライナ語とロシア語の混合語であるスルジクで執筆する作家も現れ、ミハイロー・ブリニフや脚本家のレシ・ポデレビャンスキらがいる[118]。アルテム・チャパイはコロムィヤ出身で、『奇妙な人々』をスルジクで執筆した[5]。
イヴァン・フランコは語学に優れ、ドイツ語やポーランド語でも発表した。フランコはドイツの文芸作品をウクライナ語に翻訳したり、シェフチェンコの作品をドイツ語に翻訳した業績でも知られる[119][120]。ポーランド語作家にも、ウクライナ出身者のヤロスワフ・イヴァシュキェヴィッチがいる。カリヌィーク出身のイヴァシュキェヴィッチはワルシャワに移住し、喪失した故郷としてウクライナを描いた[注釈 39][122]。
ウクライナの出身で、国外に移住したあとで非ウクライナ語でウクライナについて書く作家もいる[注釈 40][124]。この他にも、クリミア・タタール語作家のエミール・アミットや、オデッサ出身でドイツ語作家のマリアナ・ガポネンコなどをウクライナ文学に含める評論もある[51]。
出版、図書館
ウクライナ初の印刷・出版は、16世紀のリヴィウで行われた。ハールィチ・ヴォルィーニ大公国の首都だったリヴィウはバルト海と黒海を結ぶ貿易で繁栄し、文化センターでもあった。そこにイヴァン・フョードロフが移住してウクライナ初の印刷工房を設立した[13]。
ソ連時代のウクライナは「ソ連で最も本を読んでいる国」のイメージがあり、出版業界は活発で本の値段が安かった。しかし検閲のために出版できる作品が限られていた。独立後は、民間の出版社や自費出版などの選択肢が増えるとともに本の値段は上がった。1980年代からキーウの公園では週末に本の青空市が開かれ、ペトリフカ地区で本を売る公式の市場も作られた[125]。
1990年代から2000年代にかけて経済的に混乱があったため出版業界にも影響が出て、ウクライナで出版される新刊は年間で約2万点となっている。経済的な事情によって図書館も影響を受け、地域の図書館は蔵書が古いままで高齢者の利用が多い。デジタル化が進むにつれて読書人口の減少が指摘されるなか、タブレットの電子書籍やオーディオブックで読む層が増えている[126]。21世紀以降は作家が出版社を起業することが増えている[注釈 41][127]。2014年の尊厳の革命では、運動の中心になったマイダン広場でボランティアによる臨時図書館も開かれた[65]。
書店も独立の前後で変化があった。ソ連時代の書店は店員の後ろに本が並んでいたが、独立後は自由に店内をまわって好きな本を手に取れる書店が増えた[128]。1970年代から1990年代にかけて、喫茶店付きのスーパーでは夏から秋にかけて作家たちがしばしば集まった。独立後は文学クラブのようなカフェが作られて文学イベントが開催されるようになった[注釈 42][129]。
2022年のロシアのウクライナ侵攻を受けて、ウクライナ図書館協会は国内の図書館と国際図書館連盟(IFLA)に向けて声明を出した[130]。2022年8月には約15,000の図書館のうち2,475が閉鎖された[131]。ユネスコの調査によれば、2023年2月時点で12の図書館が損壊している[132]。ウクライナ文化の一部として文学が主要な標的の一つになっているため、文字文化や言語を維持するプロジェクトが進められている。図書館員はウクライナの文化遺産のデジタル情報保護グループ(SUCHO)を設立して蔵書のデジタル化やアーカイブ化を行っている。ユネスコ等では、幼児向けの電子書籍をウクライナ語に翻訳する“Translate a Story Ukraine”のキャンペーンが行われた[131]。キーウのLesia Ukrainka Public Libraryは、国外に避難した子供にウクライナの本を届けるプロジェクトを開始し、文学を含む遺産を守り続けるとしている[133]。
イベント、文学賞、団体
2000年代に入り、ブックフェスタやブックフォーラムなどのイベントが増えた。大きなイベントとしては、キーウで5月に開催されるアーセナル・ブックフェスティバルや、9月にリヴィウで開催されるブックフォーラム・リヴィウがあり、本の紹介の他に映画上映、コンサート、演劇なども行われる[注釈 43][135]。ウクライナの出版社はフランクフルト・ブックフェアをはじめとする世界のブックフェアに参加するようになった[136]。
文学賞としては、1961年に始まったシェフチェンコ・ウクライナ国家賞がある。文学、ジャーナリズム、音楽、演劇、映画、ビジュアルアートの6部門があり、国の文化に貢献した人物に与えられる。独立後には民間の文学賞も設立されるようになった。1999年設立のコロナツィヤ・スローワは、長編小説、歌詞、映画脚本、戯曲、児童文学などの部門がある。2005年に設立されたBBCブック・オブ・ザ・イヤーは、英国放送協会(BBC)のウクライナ語放送の文学賞で、大人向けと子供向けの部門がある[137]。
作家団体はソ連時代からのウクライナ作家同盟があったが評判を落として若い世代が入らなくなり[注釈 44]、1997年にウクライナ作家連合、1998年にペン・ウクライナが設立された[64]。
主な作家
年代記者ネストル Нестор Літописець |
1056年 - 1114年。ウクライナ文学の祖。正教会の克肖者(11月9日の記念日はウクライナ語の日となっている。東欧の最古記録である『原初年代記』の作者。 | |
マルーシャ・チュラーイ Маруся Чурай |
1625年 - 1653年。ウクライナの歌手・詩人。「ウクライナのサッフォー」とも呼ばれる。 | |
フルィホーリイ・スコヴォロダ Григорій Сковорода |
1722年 - 1794年。ウクライナの哲学者、文人、詩人。「ウクライナのソクラテス」。 | |
イヴァン・コトリャレーウシキー Іван Котляревський |
1769年 - 1838年。近代ウクライナ文学の祖。ウクライナ語の口語で書かれた『エネイーダ』の著者。 | |
ニコライ・ゴーゴリ Микола Гоголь |
1809年 - 1852年。ウクライナのロシア語作家。『ディカーニカ近郷夜話』、『タラス・ブーリバ』、『外套』、『死せる魂』などの小説で知られる。 | |
タラス・シェフチェンコ Тарас Шевченко |
1814年 - 1861年。ウクライナの詩人、画家。標準ウクライナ語を確立させた。ウクライナ最大の詩人。 | |
イヴァン・フランコ Іван Франко |
1866年 - 1916年。ウクライナの詩人、翻訳者、言語学者。オーストリア・ハンガリーにおけるウクライナ民族解放運動の第一人者。 | |
レーシャ・ウクライーンカ Леся Українка |
1871年 - 1913年。ウクライナの女性作家、詩人。『森の歌』の詩劇で知られる。 |
現代作家
- アンドリー・クルコフ
- イレーナ・カルパ
- オクサーナ・ザブジュコ
- スヴィトラーナ・ポヴァリャーイェヴァ
- セルヒー・ジャダン
- テチャーナ・マリャルチュック
- リューブコ・デーレシ
- ユーリー・アンドルホーヴィチ
- パブリュック・イゴール
脚注
注釈
- ^ 旧ソ連地域では「国家語」という呼称が言語の法的地位に使われる[1]。ウクライナ最高裁判所は2014年に国家語と公用語は同一概念として判断している[2]。国家語は、ドイツ語のStaatsspracheをロシア語の государственный языкに訳すことでレーニンが使い始めた。なお、レーニン自身はロシア語を国家語にすれば民族間の敵意を高めると考えており否定的だった[3]。
- ^ ウクライナでは2012年の法律によって地域語が導入された。地域語に含まれるのはロシア語、ハンガリー語、クリミア・タタール語、ルーマニア語となっている[7]。これらの言語の他に、ウクライナ語に近いルシン語やベラルーシ語、そしてブルガリア語、ポーランド語、イディッシュ語などが使われている[8]。
- ^ 『歴史』は黒海北岸の多数の民族について書かれており、スラヴ人と思われる民族が登場する。『地理学』に登場するスオベニと呼ばれた民族は、ラテン語でスラヴ人を指すスクラヴェニの可能性がある。『自然誌』には、アゾフ海とカスピ海の間に住むアンテスという民族が登場する。6世紀のヨルダネスによれば、アンテスはスクラヴェニと同一の言語を話していたとされる[16]。
- ^ 古スラヴ語のアルファベットになかった文字は、Ґ(ゲー)とЇ(イィー)である[17]。
- ^ 14世紀から16世紀にかけて祈祷書を中心に写本が行われ、タルノヴォの総司教イェフティミィによって正書法が改良された。言語学では、第2次南スラヴの影響と呼ばれている[17]。
- ^ コサックとはテュルク系の言語で「群を離れた者」を意味する。ウクライナ・コサックは、ポーランド王国やリトアニア大公国の農奴から逃れた人々を中心に始まった[24]。
- ^ カレッジ設立者のペトロー・モヒーラは、のちのキーウ府主教。当時ウクライナと文化的に関係があったモルダヴィアの大公の家庭出身だった[26]。
- ^ たとえばアカデミアの教授だったフェオファン・プロコポーヴィチの『詩学講義(De arte poetica libri tres)』など[27]。
- ^ ロシア領内では小ロシア人、ハプスブルク領内ではルテニア人とも呼ばれた[34]。
- ^ ロシア政府はウクライナ貴族のロシア化を進め、貴族は官僚層となった[35]。都市にはロシア人が増え、ウクライナ人の都市民もロシア語使用者が増えた。農村はウクライナ語が中心だったため、ロシア領内のウクライナ人は都市と農村で言語や習慣の格差が進んだ[36]。
- ^ フロマーダが特に力を入れたのは農民への教育活動で、ウクライナ語やウクライナの歌謡、コサックの歴史などを教えた[32]。
- ^ ドラホマーノフは革命諸党派を批判したために孤立したが、その思想はウクライナ民族運動に影響を与えた[41]。
- ^ この時代の作家として、ヴォロディミル・ウィンイチェンコ、ミコーラ・ヒフィリョウィイ、エフゲン・マラニューク、ミコーラ・ゼロフ、ミハイリ・セメンコ、パフロー・ティチーナらがいる[48]。
- ^ キーウ出身のロシア人作家ミハイル・ブルガーコフは、ロシア内戦の体験をもとにした『白衛軍』でウクライナへの愛着を描いている[52]。
- ^ この時代の作家として、オレーシ・ホンチャール、パウロー・ザグレベルニイ、ドミトロー・パフリチコらがいる[48]。
- ^ ミコラ・フヴィリョヴィー、劇作家のミコラ・クーリッシュ、詩人のミコラ・ゼローフらが含まれる[54]。
- ^ この時代の作家として、イワン・ドラチ、ドミトロー・パフリチコ、リーナ・コステンコ、ヴォロディミル・ヤヴォリーフスキらがいる[57]。
- ^ ミハイル・ゴルバチョフ政権が始めた政治改革のペレストロイカが、ウクライナでもペレブドーヴァと呼ばれて本格化した[60]。
- ^ これらの変化は、バルト三国やジョージアの民衆の動きともつながっていた[48]。
- ^ この時代の作家としてユーリ・アンドルホーヴィチ、エフゲン・パシュコフスキ、オレーシ・ウリャネンコ、オクサーナ・ザブージコ、ユルコー・イゾドリック、ステパン・プロツックらがいる[63]。
- ^ ジャーナリストのルスラン・ホロウィイのエッセイ『寝る前の昔話』、アルテム・チェフの日記本『ゼロポイント』、アンドレイ・クルコフの『ウクライナ日記』などがある[65]。
- ^ 他方ロシアでは、2014年クリミア危機以降に作家の亡命が相次いでおり、ボリス・アクーニン、リュドミラ・ウリツカヤ、ウラジーミル・ソローキン、クセニヤ・ブクシャらが国外で活動している[68]
- ^ アレクサンドル・ボロディンは『イーゴリ遠征物語』をもとに歌劇『イーゴリ公』を作曲した[19]。
- ^ キーウ・ルーシ時代の叙事詩が地域ごとに分化し、ロシアではブィリーナが成立した[72]。
- ^ 1930年代の大粛清では、ハルキウで数百人のコブザーリが殺害されたという情報がある。1997年にはハルキウ市がコブザーリの碑を建てた[73]。
- ^ 書名はロシア語、内容はウクライナ語で書かれている[74]。
- ^ マーケティング調査会社Gfk Ukraineによる2003年の調査[78]。
- ^ 1798年から1905年までに約50種類の正書法が考案された[33]。
- ^ 『鉛筆』は、貧しい農村の小学生が鉛筆を拾った体験を通して、貧困と教育の問題が描かれている[82]。当時の農村の小学校は、ウクライナ語を話しただけで教師が平手打ちをすることも日常茶飯事だった[83]。
- ^ 聖者列伝は、修道士の人生の断片を集めた内容で、反面的な教育効果のために堕落した修道士についても書かれている。この点で、修道士の全人格や全人生を記述する聖人伝とは異なる[87]。
- ^ 洞窟修道院にまつわる歴史物語も収録されており、コンスタンティノープルから建築士やイコン画家が来訪し、教会が建築されてモザイク画が描かれるまでの物語がある[89]。
- ^ 当時は小ロシア方言と呼ばれた[94]。
- ^ ウクライナ人、ベラルーシ人、リトアニア人、ポーランド人、ユダヤ人、トルコ人、ロマなどが登場する[95]。
- ^ 『ナタルカ・ポルタウカ』や『魔法使いの兵士』(ともに1819年初演)などの喜劇作品がある[96]。
- ^ ゴーゴリの小説『ヴィイ』や『イワンとイワンが喧嘩した話』にも登場する。また、ヴェルテプのステレオタイプな登場人物はゴーゴリの『ディカーニカ近郷夜話』によって散文に置き換えられている[97]。
- ^ ロシア人作家がウクライナ民話をテーマにした作品として、コンドラチイ・ルイレーエフ『ヴァイナローフスキイ』(1824年)やアレクサンドル・プーシキンの『ポルタワ』(1829年)などがある[106]。
- ^ 他方、19世紀にウクライナの文芸作品を高く評価し、ウクライナ文化やユダヤ文化をテーマに執筆したドイツ人として、カール・エミール・フランツォースがいた。フランツォースはウクライナの作品をドイツ語に翻訳もしている[107]。
- ^ ゴーゴリと同時代のウクライナ出身のロシア語作家として、オレスト・ソモフらがいる[105]。
- ^ かつてポーランド領だった地域はクレスィと呼ばれ、ポーランドの作家がクレスィをテーマに書く作品はクレスィ文学とも呼ばれる[121]。
- ^ ヴィリニュス在住のヤロスラフ・メルニック、ウィーン在住のターニャ・マリャルチュック、パリ在住のイレナ・カルパ、ロンドン在住のスウィトラナ・プルカロ、ニューヨーク在住のワシーリー・マフノらがいる[123]。
- ^ オクサーナ・ザブジュコのコモラ、イワン・マルコビチのアババガラマガ、ワシール・ガーボルのピラミダ、カプラノフ兄弟のエレニー・ペスがある[127]。
- ^ 文学パブ「ドット・コマ」や、レストラン「クピドン」などが知られる[129]。
- ^ 2017年のアルセナーレは5万人、ブックフォーラムは1万5,000人の参加者がいた[134]。
- ^ 民主化運動プラハの春に対してソ連によるチェコスロヴァキアへの軍事侵攻が起きた際、ウクライナ作家同盟で反対したのはリーナ・コステンコだけだった[138]。
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- イーホル・ダツェンコ(Ihor Datsenko)「ウクライナ語を愛でることはロシア語を護ること : ウクライナにおけるバイリンガリズムの問題に寄せて (特集 ウクライナの政治・経済に関する史的ならびに現状分析)」『神戸学院経済学論集』第47巻第1号、神戸学院大学経済学会、2015年9月、109-117頁、2024年3月3日閲覧。
- 田中壮泰「故郷喪失のポーランド文学」『立命館言語文化研究』第29巻第3号、立命館大学国際言語文化研究所、2018年1月、103-107頁、ISSN 09157816、2024年3月3日閲覧。
- 田中壮泰「イディッシュ語で書かれたウクライナ文学 : ドヴィド・ベルゲルソンとポグロム以後の経験」『スラヴ学論集』第25巻、日本スラヴ学研究会、2022年、63-82頁、2024年3月3日閲覧。
- 中澤敦夫「『イパーチイ年代記』翻訳と注釈(1) : 『原初年代記』への追加記事(1110~1117年)」『富山大学人文学部紀要』第61号、富山大学人文学部、2014年8月、233-268頁、ISSN 03865975、2024年3月3日閲覧。
- 服部倫卓, 原田義也 編『ウクライナを知るための65章』明石書店〈エリア・スタディーズ〉、2018年。
- 栗原典子『コサックとウクライナ』。
- 小粥良『ハプスブルク帝国下のウクライナ』。
- イーホル・ダツェンコ『民族・言語構成』。
- イーホル・ダツェンコ『ウクライナ文化揺籃の地となった北東部』。
- 中澤英彦『ウクライナ語、ロシア語、スールジク』。
- 中村唯史『ロシア文学とウクライナ』。
- 原田義也『ウクライナを愛した女性たち』。
- 藤井悦子『国民詩人タラス・シェフチェンコ』。
- 藤森信吉『ソ連体制下のウクライナ』。
- オリガ・ホメンコ『現代文学』。
- 光吉淑江『歴史の舞台としてのウクライナ』。
- 光吉淑江『リトアニア・ポーランドによる支配』。
- 光吉淑江『ロシア帝国下のウクライナ』。
- 光吉淑江『第一次世界大戦とロシア革命』。
- 原田義也「レーシャ・ウクラインカ再読 : ウクライナ文学におけるナショナル・アイデンティティ」『スラヴ研究』第54巻、北海道大学スラブ研究センター、2007年、207-224頁、2024年3月3日閲覧。
- 原田義也「現代のマドンナは何を祈るか -リーナ・コステンコの詩的世界-」『明治大学国際日本学研究』第10巻第1号、明治大学国際日本学部、2018年3月、105-138頁、ISSN 18834906、2024年3月3日閲覧。
- 二見淑子「ウクライナDuma (дума)の性格 : 特にその宗教的側面」『キリスト教論藻』第18巻、松蔭女子学院大学学術研究会、1985年12月、79-106頁、ISSN 02886138、2024年3月3日閲覧。
- L.Ye. ポズドゥニャコーヴァ(ПОЗДНЯКОВА, Л.Є.), 寺田吉孝「ウクライナ語正書法史 : 19世紀以降のウクライナ語正書法の変遷を中心にして」『北海学園大学学園論集』第149号、北海学園大学学術研究会、2011年9月、127-141頁、ISSN 03857271、2024年3月3日閲覧。
- オリガ・ホメンコ(Ольга Хоменко)「独立後の現代ウクライナ文学:プロセス、ジャンル、人物」『スラヴ文化研究』第16巻、東京外国語大学ロシア東欧課程ロシア語研究室、2019年3月、104-127頁、2024年3月3日閲覧。
- オリガ・ホメンコ(Ольга Хоменко)「女性の顔を持つウクライナ : 歴史的な伝統,社会規範,メディアでのイメージと最近のトレンド」『神戸学院経済学論集』第52巻3・4、神戸学院大学経済学会、2021年3月、13-27頁、2024年3月3日閲覧。
- 三浦清美「『キエフ洞窟(ペチェルスキイ)修道院聖者列伝』解題と抄訳(I)」『電気通信大学紀要』第19巻第1-2号、電気通信大学、2006年12月、129-147頁、ISSN 09150935、2024年3月3日閲覧。
- 村田優樹「革命期ロシアのウクライナ問題と近世ヘトマン領」『史学雑誌』第130巻第7号、史学会、2021年12月、1-39頁、2024年3月3日閲覧。
関連文献
- 小川万海子『ウクライナの発見 - ポーランド文学・美術の19世紀』藤原書店、2011年。
- オスタップ・スリヴィンスキー 著、ロバート・キャンベル 訳『戦争語彙集』岩波書店、2023年。
- 中村唯史「バーベリ『オデッサ物語』論 : 「オデッサ神話」と「讃歌」について」『Slavistika』第11巻、東京大学大学院人文社会系研究科スラヴ語スラヴ文学研究室、1995年10月、402-425頁、2024年3月3日閲覧。
- 原真咲「引き裂かれたウクライナの肖像としての『イェレミーヤ・ヴィシュネヴェーツィケィイ公』」『スラヴ文化研究』第15巻、東京外国語大学ロシア東欧課程ロシア語研究室、2018年3月、56-81頁、ISSN 13417525、2024年3月3日閲覧。
- 福嶋千穂「「ルシ」再考」『東京外国語大学論集』第94巻、東京外国語大学、2017年7月、189-208頁、ISSN 13417525、2024年3月3日閲覧。
- 藤井悦子, オリガ・ホメンコ 訳『現代ウクライナ短編集』群像社〈群像社ライブラリー〉、2005年。
- 三浦清美 訳・解説『キエフ洞窟修道院聖者列伝』松籟社、2021年。