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田端 幸三郎(たばた こうざぶろう、1886年2月4日 - 1963年7月31日)は、日本の内務・台湾総督府官僚。
第3代台北市尹、第7代新竹州知事。
1886年、和歌山県にて田端幸七の二男として生まれる[1]。1911年、高等文官試験に合格し、翌1912年に東京帝国大学英法科を卒業。神奈川県県属や高知県理事官を経た後、台湾総督府警視兼警務官として台湾に赴任[1]。以後総督府事務官や理事官を務めた後、1927年に台北市尹(現在の台北市長)に就任[1]。市尹在任中に台北市電敷設計画を提出したが、市民の反対に遭い計画は頓挫した。1929年新竹州知事に転じ、1931年5月依願免本官[2][3]。1932年総督府専売局長として復帰し、1936年殖産局長に就任[4][5]。その後拓殖管理官・天然瓦斯研究所所長・営林署長・米穀局長を務めた後、1939年12月退官[1]。同年台湾電力副社長に就任し、1943年7月まで務めた[1]。また南方電気工業代表、台湾船渠・日本アルミニウム・福大公司の取締役も歴任した[1]。戦後帰国し、弁護士として活動[6]。1963年、東京にて死去[7]。
- ^ a b c d e f 『大衆人事録 外地・満支・海外篇』第14版、臺灣39頁。
- ^ 『朝日新聞』1929年4月20日東京夕刊1頁「人事異動」
- ^ 『朝日新聞』1931年5月9日東京夕刊1頁「台湾、人事異動」
- ^ 『朝日新聞』1932年3月16日東京夕刊1頁「台湾総督府人事異動」
- ^ 1936年10月16日東京朝刊2頁「台湾総督府大異動」
- ^ 『日外アソシエーツwhoplus』「田端 幸三郎」の項
- ^ 『朝日新聞』1963年8月1日東京夕刊7頁
- 劉寧顔著《重修台湾省通志》、台北市、台湾省文献委員会、1994年。
- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 外地・満支・海外篇』第14版、1943年。
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五州三庁時代 |
- 服部仁蔵1920.9.1-1921.10.8
- 常吉徳寿1921.10.8-1922.5.15
- 梅谷光貞1922.5.15-1923.10.25
- 佐藤勧1923.11.3-1924.12.23
- 古木章光1924.12.25-1927.4.22
- 永山止米郎1927.4.22-1929.4.20
- 田端幸三郎1929.4.20-1931.5.8
- 野口敏治1931.5.8-1931.9.12
- 猪股松之助1931.9.12-1932.3.15
- 内海忠司1932.3.15-1935.9.2
- 増田秀吉1935.9.2-1936.10.16
- 赤堀鉄吉1936.10.16-1939.1.28
- 林田正治1939.1.28-1939.7.24
- 一番ヶ瀬佳雄1939.7.24-1940.5.25
- 宮木広大1940.5.25-1942.7.3
- 鈴木秀夫1942.7.13-1943.3.29
- 藤村寛太1943.3.29-1943.8.7
- 江藤昌之1943.8.7-1945.10.25
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