矢部幸一
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(矢部道晃から転送)
やべ こういち 矢部 幸一 | |
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生誕 |
1938年3月12日[1] 日本 北海道門別町[1] |
死没 | 2013年11月27日(75歳没)[2][3] |
出身校 | 苫小牧工業高校[1] |
職業 | |
肩書き |
|
配偶者 | 矢部 スエ[4] |
子供 | 矢部 道晃(息子)[4] |
矢部 幸一(やべ こういち、1938年3月12日[1] - 2013年11月27日[2][3])は、日本の実業家、馬主。
経歴
[編集]1938年3月12日、北海道門別町(現日高町)に生まれ、苫小牧町(現苫小牧市)、次いで早来町(現安平町)で育つ[1]。
1956年に苫小牧工業高等学校を卒業すると、父の設立した北海土建工業株式会社に入社し、以降建設業に従事[1]。1976年、同社の代表取締役に就任した[1]。
2013年、7月に肺癌を発症[3]、治療の甲斐なく11月27日に死去した[2][3]。75歳没。社長の後任には息子[4]の矢部道晃が就任している[5]。
馬主活動
[編集]日本中央競馬会(JRA)に登録していた馬主としても知られた。勝負服の柄は白、黒山形一本輪、袖赤二本輪、冠名には社長を務めていた「北海土建工業」より「ホッコー」を用いた。
2013年、死去により所有馬を息子の矢部道晃に名義変更[4][6]。その後、2016年より「北幸商事株式会社」の法人名義に変更し、道晃が引き続き馬主活動を継続[7]。勝負服色や冠名も継がれている。
来歴
[編集]- 1990年 - 馬主資格取得[3]。
- 1995年 - 11月30日の3歳新馬戦をホッコービューティが制し、初勝利[3]。
- 2002年 - ホッコーアンバーが京都ジャンプステークスを制し、重賞初制覇[3]。
- 2013年 - ホッコータルマエがかしわ記念を制し、GI級競走初制覇。その後、同馬のジャパンカップダート出走を控えた11月27日に死去。所有馬と勝負服色は翌年より息子の矢部道晃に引き継がれた。
主な所有馬
[編集]GI級競走優勝馬
[編集]重賞競走優勝馬
[編集]- ホッコーアンバー(2002年京都ジャンプステークス)
- ホッコーパドゥシャ(2009年新潟記念)
その他の所有馬
[編集]- ホッコービューティ(1997年シンザン記念2着、フラワーカップ2着、阪神牝馬特別3着、1999年中山牝馬ステークス3着)
- ホッコーソレソレー(2006年鳴尾記念3着、2007年オパールステークス)
- ホッコータキオン(2008年野路菊ステークス、デイリー杯2歳ステークス2着)
北幸商事の所有馬
[編集]括弧内は矢部道晃名義の戦績も含む。
- ホッコータルマエ[注 1](2014年川崎記念、チャンピオンズカップ、東京大賞典、2015年帝王賞、2016年川崎記念)
- ホッコーブレーヴ[注 1](2014年日経賞2着、天皇賞・春3着、2015年コーフィールドカップ出走、メルボルンカップ出走)
- ホッコーメヴィウス(2022年新潟ジャンプステークス、阪神ジャンプステークス、京都ジャンプステークス)
受賞
[編集]- 全国中小建設業協会 会長表彰(1991年)[1]
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i “厳しい自然条件下で土木の役割を果たす”. 建設グラフ (2009年1月). 2023年2月24日閲覧。
- ^ a b c “【JCダート直前情報】ホッコータルマエ 亡きオーナーに捧げる勝利を”. スポニチアネックス. スポーツニッポン (2013年11月30日). 2023年7月16日閲覧。
- ^ a b c d e f g 「北の蹄跡」(通巻第56号) P30-31 (PDF)
- ^ a b c d “前オーナー夫人、遺影手に記念撮影”. netkeiba.com. ネットドリーマーズ (2014年12月9日). 2023年2月24日閲覧。
- ^ “北海土建工業㈱より、義援金贈呈”. JAとまこまい広域 (2019年5月15日). 2023年2月24日閲覧。
- ^ “親子でつかんだG1初制覇 ホッコータルマエの勇姿に喜ぶ矢部さん”. 苫小牧民報 電子版. 苫小牧民報社 (2014年12月9日). 2023年2月24日閲覧。
- ^ “ホッコータルマエ祝G1 10勝達成 北海土建工業に浦河町が大漁旗プレゼント”. 苫小牧民報 電子版. 苫小牧民報社 (2016年6月4日). 2023年2月24日閲覧。