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石田宥全

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
石田宥全
いしだ ゆうぜん
生年月日 1901年1月5日
出生地 日本の旗 日本 新潟県中蒲原郡川東村
(現五泉市
没年月日 (1981-11-13) 1981年11月13日(80歳没)
死没地 日本の旗 日本 新潟県新潟市
(現中央区
出身校 川東高等小学校卒業
(現五泉市立川東小学校)
前職 日農関東同盟新潟県連理事
所属政党労働農民党→)
全国労農大衆党→)
日本社会党→)
左派社会党→)
日本社会党
称号 正四位
勲二等瑞宝章

選挙区 旧新潟2区
当選回数 5回
在任期間 1955年2月 - 1969年12月2日


当選回数 2回
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石田 宥全(いしだ ゆうぜん、1901年明治34年)1月5日[1] - 1981年昭和56年)11月13日[1][2][3])は、日本の農民運動家[4]政治家衆議院議員(5期)、新潟県中蒲原郡川東村長。

経歴

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新潟県中蒲原郡川東村(現五泉市)出身[1]。1916年(大正5年)川東高等小学校(現:五泉市立川東小学校)を卒業し農業に従事[1][2]

1923年(大正12年)頃から農民運動に加わった[1][2]日本農民組合労働農民党全国労農大衆党などの中央、地方組織の役員を務めた[2]。1926年(大正15年)日農関東同盟新潟県連理事に就任し[1]、同年に小作争議指導の嫌疑で検挙され懲役6月となり、1928年(昭和3年)菅沼小作争議では暴行容疑で懲役2月の有罪判決を受けた[5][注 1]

1935年(昭和10年)以降に新潟県会議員に2期在任し、1940年(昭和15年)川東村長となった[1][2]。戦後、日本社会党に加わり、1955年(昭和30年)2月、第27回衆議院議員総選挙新潟県第2区から社会党左派から出馬して当選し、以後、第31回総選挙まで当選し、衆議院議員を連続5期務めた[1][2]

その他、新潟県労農会議議長、日本社会党米価対策特別委員長などを務めた[2]。また、全日本農民組合連合会に加わり、1958年(昭和33年)同理事、1968年(昭和43年)同会長に就任した[1][2][3]

1972年(昭和47年)秋の叙勲で勲二等瑞宝章受章(勲八等からの昇叙)[6]

1981年11月、肝臓癌により新潟市民病院で死去した[3]。死没日をもって正四位に叙される[7]

著作

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  • 『農民運動の理論と実際』労働問題研究所、1931年。
  • 編『南部郷農民解放の歩み 巻1』南部郷農民解放のあゆみ刊行会、1974年。
  • 『戦時中の留置場日記』石田宥全先生顕彰喜寿を祝う会、1978年。

脚注

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注釈

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  1. ^ 『新訂 政治家人名事典』47頁では、2件の小作争議が同年のこととされている。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i 『新訂 政治家人名事典』47頁。
  2. ^ a b c d e f g h 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』351頁。
  3. ^ a b c 『現代物故者事典 1980〜1982』24頁。
  4. ^ 上田正昭ほか監修 著、三省堂編修所 編『コンサイス日本人名事典 第5版』三省堂、2009年、101頁。 
  5. ^ 『政党別無産者運動家略歴』57頁。
  6. ^ 『官報』第13764号18頁 昭和47年11月9日号
  7. ^ 『官報』第16447号10-11頁 昭和56年11月21日号

参考文献

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  • 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 『現代物故者事典 1980〜1982』日外アソシエーツ、1983年。
  • 『政党別無産者運動家略歴』労働通信東京支局、1930年。