石田宥全
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石田宥全 いしだ ゆうぜん | |
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生年月日 | 1901年1月5日 |
出生地 |
日本 新潟県中蒲原郡川東村 (現五泉市) |
没年月日 | 1981年11月13日(80歳没) |
死没地 |
日本 新潟県新潟市 (現中央区) |
出身校 |
川東高等小学校卒業 (現五泉市立川東小学校) |
前職 | 日農関東同盟新潟県連理事 |
所属政党 |
(労働農民党→) (全国労農大衆党→) (日本社会党→) (左派社会党→) 日本社会党 |
称号 |
正四位 勲二等瑞宝章 |
選挙区 | 旧新潟2区 |
当選回数 | 5回 |
在任期間 | 1955年2月 - 1969年12月2日 |
当選回数 | 2回 |
石田 宥全(いしだ ゆうぜん、1901年(明治34年)1月5日[1] - 1981年(昭和56年)11月13日[1][2][3])は、日本の農民運動家[4]、政治家。衆議院議員(5期)、新潟県中蒲原郡川東村長。
経歴
[編集]新潟県中蒲原郡川東村(現五泉市)出身[1]。1916年(大正5年)川東高等小学校(現:五泉市立川東小学校)を卒業し農業に従事[1][2]。
1923年(大正12年)頃から農民運動に加わった[1][2]。日本農民組合、労働農民党、全国労農大衆党などの中央、地方組織の役員を務めた[2]。1926年(大正15年)日農関東同盟新潟県連理事に就任し[1]、同年に小作争議指導の嫌疑で検挙され懲役6月となり、1928年(昭和3年)菅沼小作争議では暴行容疑で懲役2月の有罪判決を受けた[5][注 1]。
1935年(昭和10年)以降に新潟県会議員に2期在任し、1940年(昭和15年)川東村長となった[1][2]。戦後、日本社会党に加わり、1955年(昭和30年)2月、第27回衆議院議員総選挙で新潟県第2区から社会党左派から出馬して当選し、以後、第31回総選挙まで当選し、衆議院議員を連続5期務めた[1][2]。
その他、新潟県労農会議議長、日本社会党米価対策特別委員長などを務めた[2]。また、全日本農民組合連合会に加わり、1958年(昭和33年)同理事、1968年(昭和43年)同会長に就任した[1][2][3]。
1972年(昭和47年)秋の叙勲で勲二等瑞宝章受章(勲八等からの昇叙)[6]。
1981年11月、肝臓癌により新潟市民病院で死去した[3]。死没日をもって正四位に叙される[7]。
著作
[編集]- 『農民運動の理論と実際』労働問題研究所、1931年。
- 編『南部郷農民解放の歩み 巻1』南部郷農民解放のあゆみ刊行会、1974年。
- 『戦時中の留置場日記』石田宥全先生顕彰喜寿を祝う会、1978年。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『新訂 政治家人名事典』47頁では、2件の小作争議が同年のこととされている。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『現代物故者事典 1980〜1982』日外アソシエーツ、1983年。
- 『政党別無産者運動家略歴』労働通信東京支局、1930年。