酒井直次 (陸軍軍人)
酒井 直次 | |
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生誕 |
1891年3月26日 大日本帝国、山形県鶴岡五日町 |
死没 |
1942年5月28日(51歳没) 中華民国、浙江省蘭渓県 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1911 - 1942 |
最終階級 | 陸軍中将 |
墓所 | 東京都 |
酒井 直次(さかい なおじ、1891年(明治24年)3月26日 - 1942年(昭和17年)5月28日)は、日本の陸軍軍人。第15師団長、陸軍通信学校長、歩兵第19旅団長等を歴任し、階級は陸軍中将功二級に至る。暗号通信の権威として知られる。本籍は東京府。
人物
[編集]1891年(明治24年)3月26日、出羽国庄内藩初代藩主酒井忠勝の6男酒井忠直(藩主家一門・酒井奥之助家)の後裔である、酒井直興の次男として山形県西田川郡鶴岡五日町(現・鶴岡市)に生まれる。1902年(明治35年)、東京に移住し、1903年(明治36年)、成城中学校に入学。
1904年(明治37年)、陸軍中央幼年学校予科に入学し同本科を経て、1911年(明治44年)5月27日、陸軍士官学校を92番/740名で卒業する。酒井は第23期士官候補生で、同期には第5軍司令官の清水規矩中将(1番/740名)、第28軍司令官桜井省三中将(3番/740名)や、第31軍司令官の小畑英良中将(12番/740名)、北支那方面軍司令官根本博中将(16番/740名)らがいる。
同年12月26日、陸軍歩兵少尉に任官され歩兵第29連隊付となる。1920年(大正9年)12月には陸軍大学校(32期)を卒業し、以後、歩兵将校として累進した。1921年(大正10年)5月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員を経て、1923年(大正12年)3月、サガレン州派遣軍参謀となりシベリア出兵に出動。1925年(大正14年)5月、参謀本部付に転じ、第16師団参謀を経て、1927年(昭和2年)5月、歩兵少佐に昇進し歩兵第2連隊付となる。参謀本部員を経て、1929年(昭和4年)7月、暗号研究のためポーランドへ出張した。
1930年(昭和5年)6月、参謀本部員に発令され、1931年(昭和6年)3月、歩兵中佐に進級。1933年(昭和8年)8月、関東軍司令部付(特種情報班長)となり満州に赴任。1935年(昭和10年)8月1日、歩兵大佐に昇進し陸軍通信学校教育部長に就任。その後、1937年(昭和12年)3月1日、歩兵第4連隊長となる。1938年(昭和13年)7月15日、陸軍少将に進み、同郷の師団長・石原莞爾の下で歩兵第19旅団長を勤める。
1940年(昭和15年)12月2日、陸軍通信学校長、1941年(昭和16年)3月1日、陸軍中将進級を経て、同年8月20日、第15師団長に親補され、中国前線に復帰する。1942年(昭和17年)5月28日、酒井は浙江省蘭渓県で作戦中に乗馬が地雷を踏み戦死する。歴代の第15師団長では唯一の戦死者である。酒井は数々の戦功から功二級金鵄勲章のほか、功三級金鵄勲章も受章している。
なお、『庄内人名辞典』では、名前の読みが「なおつぐ」となっている。
系図
[編集]酒井忠直・・・直寛━┳━直方 ┃ ┗━直鳳━┳━恒可(大山春治) ┃ ┣━直興━━直次━━次武 ┃ ┗━直温━━温理
栄典
[編集]- 位階
- 1912年(明治45年)3月1日 - 正八位 [1]
- 1915年(大正4年)2月20日 - 従七位[2]
- 1920年(大正9年)3月20日 - 正七位[3]
- 1925年(大正14年)5月1日 - 従六位[4]
- 1930年(昭和5年)5月16日 - 正六位[5]
- 1935年(昭和10年)6月15日 - 従五位[6]
- 1942年(昭和17年)5月28日 - 正四位[7]
- 勲章等
- 1923年(大正12年)7月24日 - 勲六等瑞宝章[8]
- 1927年(昭和2年)10月13日 - 勲五等瑞宝章[9]
- 1934年(昭和9年)2月7日 - 勲四等瑞宝章[10]
- 1939年(昭和14年)5月19日 - 勲二等瑞宝章[11]
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[12]
- 外国勲章佩用允許
- 1935年(昭和10年)9月21日 - 満洲帝国:満洲帝国皇帝訪日記念章[13]
親族
[編集]脚注
[編集]- ^ 『官報』第8608号「敍任及辞令」1912年3月2日。
- ^ 『官報』第765号「叙任及辞令」1915年2月22日。
- ^ 『官報』第2289号「叙任及辞令」1920年3月23日。
- ^ 『官報』第3847号「叙任及辞令」1925年6月20日。
- ^ 『官報』第1046号「叙任及辞令」1930年6月26日。
- ^ 『官報』第2539号「叙任及辞令」1935年6月21日。
- ^ 『官報』第4726号「叙任及辞令」1942年10月9日。
- ^ 『官報』第3297号「叙任及辞令」1923年7月26日。
- ^ 『官報』第241号「叙任及辞令」1927年10月15日。
- ^ 『官報』第2131号「叙任及辞令」1934年02月10日。
- ^ 『官報』第3711号「叙任及辞令」1939年5月23日。
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
- ^ 『官報』第2984号・付録「辞令二」p10三段目 1936年12月11日。