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錦織淳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
錦織 淳
にしこおり あつし
生年月日 (1945-07-30) 1945年7月30日(79歳)
出生地 島根県出雲市(旧平田市
出身校 東京大学法学部卒業
前職 日本弁護士連合会常務理事
現職 弁護士
所属政党無所属→)
新党さきがけ→)
民主党
称号 法学士(東京大学)
公式サイト 錦織・深山法律事務所

日本の旗 内閣総理大臣補佐(法制化前)
内閣 村山内閣
在任期間 1994年10月14日 - 1996年1月11日

選挙区 島根県全県区
当選回数 1回
在任期間 1993年 - 1996年
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錦織 淳(にしこおり あつし、1945年7月30日 - )は、日本弁護士政治家。元衆議院議員(1期)。島根県出雲市(旧平田市)出身。

概要

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島根県立出雲高等学校卒業後、宇宙物理学者になろうと東京大学理科一類へ入学するも自信喪失に陥り、翌年 同文科一類に受け直す[1]。3年の専門課程では法学部へ進学し、在学中に旧司法試験国家公務員上級試験に合格。

1970年、東大法学部を卒業。司法修習24期、26歳で弁護士となり、日本弁護士連合会常務理事などを歴任。その間に水俣病などの公害訴訟などを手がけた。

1993年第40回衆議院議員総選挙に無所属で故郷の島根県全県区から出馬、途中で新党さきがけの公認を得て初当選した。1994年村山内閣が成立すると、1年生議員ながら内閣総理大臣補佐に就任。

1996年に新党さきがけが分裂した際、錦織は参院初当選間もない水野誠一と共にさきがけに残留した。同年、小選挙区制導入後初の衆院選である第41回衆議院議員総選挙では島根2区から出馬したが、自由民主党で元首相の竹下登に敗れ、落選。1998年民主党の誘いを受け、同党に入党する。2000年第42回衆議院議員総選挙では再び島根2区から出馬。自民党は引退した竹下登元首相の弟・を擁立した。投票日直前に竹下登が急逝したため保守王国・島根では竹下に同情票が集まり、錦織はダブルスコアの大差で竹下に敗れ、再び落選。2001年第19回参議院議員通常選挙では比例区から出馬したが、またも落選した。その後は弁護士として諫早湾の干拓反対訴訟に関与していた。

2003年第43回衆議院議員総選挙では選挙区を東京17区に移したものの、自民党の平沢勝栄に大敗。2005年第44回衆議院議員総選挙でも落選したため、2006年2月に政界引退を表明した[2]。政界引退後は日本女子プロ将棋協会の設立に尽力し、同協会の顧問弁護士も務めた。

人物

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脚注

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  1. ^ 『民主党政権への伏流』2010年前田和男
  2. ^ 東京17区は葛飾区議会議員の早川久美子が民主党公認を獲得した。
  3. ^ 錦織淳 Official Web Site 参照

外部リンク

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