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23時ショー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
23時ショー
馬場信浩司会当時(1978年)
ジャンル バラエティ番組
出演者 筒井康隆
天地総子
藤岡琢也
ケーシー高峰
愛川欽也
藤原弘達
高島忠夫
馬場信浩
広川太一郎
北山修
草笛光子
悠木千帆(後の樹木希林
加賀まりこ
製作
プロデューサー 高田修作、有馬康彦、下川靖夫
制作 テレビ朝日(旧:NETテレビ)
毎日放送(1971年12月まで金曜)
放送
放送国・地域日本の旗 日本
第1期
放送期間1971年4月 - 1973年12月
放送時間月曜 - 金曜 23:00 - 23:50
放送分50分
第2期
放送期間1977年10月 - 1979年9月
放送時間月曜 - 金曜 23:10 - 24:10→23:20 - 24:20
放送分60分
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23時ショー(にじゅうさんじショー)は、日本のテレビ番組NETテレビおよび、後身のテレビ朝日1970年代に放映した。

深夜のアダルト向け娯楽ショー[1]」を標榜し、同様のコンセプトの裏番組『11PM』(日本テレビ系列)としのぎを削った[2]が、ネット局内部から低俗番組との批判を受け、番組のネットを停止され(後述)、放送業界に波紋を呼んだ。

概要

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過激な色気を売り物とする生放送のスタジオ企画を中心としたが[3]、政治問題などの硬派な話題も扱っていたほか、番組初期に毎日放送が制作を担当していた金曜日は、もっぱら上方演芸を紹介していた。

1973年に第1次オイルショックの影響で民放キー局深夜放送の自粛を決めたため、同年12月31日、番組は一旦打ち切られる(ここまでを第1期とする)。

その後数年間別の番組を放映したのち(後述)、1977年10月に再開(第2期)。1979年9月まで放送され、『ミッドナイトショー』『トゥナイト』に引き継がれた。

放送期間・時間

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すべてJST

第1期(NETテレビクレジット表記時代)
第2期(テレビ朝日クレジット表記時代)

ネット局

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第1期
  • NETテレビ(当時の正式社名は「日本教育テレビ」、現:テレビ朝日)
    制作局(1971年4月から同年12月まで:月 - 木、1972年1月から終了まで:月 - 金)。
  • 北海道テレビ
  • 中京テレビ(放送開始から1973年4月まで)
  • 名古屋テレビ(当時の正式社名は「名古屋放送」、1973年4月以降)
  • 毎日放送
    金曜日のみの制作局。1971年12月を最後にネット打ち切り、制作からも撤退(後述)。
  • 近畿放送(現:KBS京都、1972年10月以降、事情は後述)
  • サンテレビ(1972年10月以降[4]、事情は後述)
  • 瀬戸内海放送
  • 広島ホームテレビ
  • 九州朝日放送
第2期
  • テレビ朝日(当時の正式社名は「全国朝日放送」、現:テレビ朝日、制作局)
  • 北海道テレビ
  • 東日本放送
  • 静岡けんみんテレビ(当時の正式社名は「静岡県民放送」、現:静岡朝日テレビ、1979年7月から3か月間)
  • 名古屋テレビ(当時の社名は「名古屋放送」)
  • 瀬戸内海放送
  • 広島ホームテレビ
  • 九州朝日放送

関西地区のテレビ朝日系ネット局は朝日放送変更されていた(1975年3月31日から)が、放送されなかった。

出演者

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第1期

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東京発(NETテレビ)

ほか

大阪発(毎日放送、1971年12月まで)

第2期

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主な放送内容

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エピソード

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制作局のNETでは、放送でヌードを披露することを条件に、フラワー・メグを初代のカバーガールに起用。同局制作分の第1回で、実際にメグのヌード映像を放送した。日本のテレビ番組初の試みであったが、当時でもお色気要素のある番組に対しては風当たりが強かったため、放送直後に視聴者からの抗議が殺到。結局、メグは当初の予定より早い降板を余儀なくされた[5]

番組の木曜日担当プロデューサーだった高田修作は、放送中に以下のハプニングがあったことを告白している[2]

ネット打ち切り問題

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1期目の放送開始後、NETテレビ系列の関西地方のネット局で、金曜日に限り同番組を制作していた毎日放送MBSテレビ)が、1971年12月3日に「番組が低俗だ」として、同番組のネット打ち切りを表明した[1][6][7]。番組内容の低俗さを理由として放送番組のやりとりを停止したのは日本の放送史上初のことであった[1]

当時の社長・高橋信三が、「東京から発信される金曜日以外の放送内容に不適切な表現や未成年者に見せてはいけない過激すぎる、または不快感を与える箇所が多い」とし、卑猥な映像をMBSで放映することを嫌って、NETのネット受けを拒否する意向を示したという[要出典]。のちに当時の常務・吉村弘衆議院逓信委員会放送に関する小委員会における参考人質疑で明らかにしたところによると、高橋の態度には「内容について、やはりそこに人権の尊重ということと、それから番組の品位ということを考えなくちゃいけない」「高年齢者の、十一時台を静かな時間として楽しみたいという人も対象にしたい」という考えが根底にあったという[8]。また、お笑い路線を基調としたいMBS側と『11PM』に対抗してお色気路線を維持したいNET側との対立も根深かったという[1]

この番組が番組販売扱いで、ネットスポンサーが付いていなかったという事情も、迅速な打ち切り決定を容易にした[1]

MBSは1971年12月31日放送の「桂小文枝独演会」を最後にネットを打ち切り、制作からも撤退した。

なお、近畿地方では1972年10月から、サンテレビ[4]と、近畿放送(現・京都放送、KBS京都)に販売する形で、マイクロネットが開始された。

備考

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中断期の番組枠

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本番組の第1期と第2期の間に、『スタジオ23』→『ザ・23』→『プレイタイム23』が放送された。

関西地区では本番組の第1期末期からの引き続きという形でサンテレビと近畿放送で放送され、1975年10月に朝日放送に移行した[注釈 1]が、短期間で打ち切られた。

脚注

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注釈

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  1. ^ この影響で当時23時50分 - 24時に放送された最終版のANNニュースABCテレビでは放送されず、この代わりとして全国ニュースを交えたローカルニュース枠の『ニュースファイル23』が放送された。

出典

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  1. ^ a b c d e 『テレビ史ハンドブック 改訂増補版』自由国民社、1998年 p.70
  2. ^ a b 松谷みよ子『現代民話考 8 ラジオ・テレビ局の笑いと怪談』ちくま文庫、2003年 p.345
  3. ^ a b c 全国朝日放送株式会社総務局社史編纂部 編『テレビ朝日社史 : ファミリー視聴の25年』全国朝日放送、1984年2月1日、185頁。NDLJP:12276014/267 
  4. ^ a b サンテレビジョン社史編纂委員会 編修『株式会社サンテレビジョン45年史』サンテレビジョン、2014年、22頁。 
  5. ^ TBSテレビ『爆報!THE フライデー』2016年6月3日放送回「消えた美女は今…大追跡スペシャル」
  6. ^ 日本民間放送連盟(編)「放送日誌 昭和46年(1971)12月」『月刊民放』第2巻第2号、日本民間放送連盟、1972年2月1日、51頁、NDLJP:3470871/27 
  7. ^ 「放送デスクメモ(‘71.11/12~12/14)」『マスコミ市民 : ジャーナリストと市民を結ぶ情報誌』第57号、日本マスコミ市民会議、1972年2月1日、55 - 56頁、NDLJP:3463718/29 
  8. ^ 第068回国会 逓信委員会放送に関する小委員会 第2号 国会会議録検索システム

関連項目

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NETテレビ 平日23時台(これより深夜のワイド枠となる。1972年10月以降は月 - 土曜)
前番組 番組名 次番組
月 / 田宮二郎「美女・猛女」
火 / 1000万人のつり
水 / それゆけスマート
木 / ポップヤング
金 / 題名のない音楽会(土曜23:30 - 24:00へ移動)
※23:00 - 23:30

月 - 金 / ANN 夜のワイドニュース
※23:30 - 23:55
23時ショー・第1期
(1971年4月 - 1973年12月)
スタジオ23
(1974年1月 - 1975年9月)
テレビ朝日 平日深夜のワイドショー
プレイタイム23
(1976年9月 - 1977年3月)
23時ショー・第2期
(1977年4月 - 1979年9月)
ミッドナイトショー
(1979年10月 - 1980年9月)