利用者:東郷四郎
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以下、現在情報収集中。
- 阿部謙四郎(1914年(大正3年)●月●日 - 1986年(昭和61年)12月1日)
- 伊藤秀雄(1922年(大正11年)6月1日 - 2002年(平成14年)●月●日)
- 大谷晃(1906年(明治39年)●月●日 - 1963年(昭和38年)2月22日)
- 尾形源治(1892年(明治25年)9月9日 - 1978年(昭和53年) or 1982年(昭和57年)●月●日)
- 高橋数良(1886年(明治19年)●月●日 - 1942年(昭和17年)5月3日)
- 富田常次郎(1865年(慶応元年)2月●日 - 1937年(昭和12年)1月13日)
- 二星温子(1920年(大正9年)●月●日 - 1998年(平成10年)8月26日)
- 広瀬巌(1915年(大正4年)12月15日 - 1982年(昭和57年)●月●日)
- 山本博(1916年(大正5年)9月5日 - 1993年(平成5年)●月●日)
- 平野時男 - (ひらの ときお、1922年8月6日 - 1993年7月27日)拓殖大学出身。1942年明治神宮競技大会柔道競技優勝。柔道が初めて公開競技となった1948年第3回国民体育大会で個人戦優勝。後にルスカを育てた。ドイツで乱取54人抜きの偉業。49歳の時に、体重150kgのペーター・アドラーを子供扱いして投げ飛ばした。欧州版コンデ・コマ。
- 阿部謙四郎(あべ けんしろう、1914年 - 1985年) - 木村政彦を子供扱いして投げ飛ばした。講道館の支配体制に反対して孤立を深め、栗原民雄の自宅前で「出てこい、ハゲ!」と叫ぶなどの奇行に出た。ただし自身もハゲ。晩年は柔道とは無縁の生活を送った。
- 畔田与秋(くろだ よしあき、1912年11月14日 - 1965年3月2日) - 明治神宮競技大会柔道競技にて1937年準優勝、1942年優勝。のち富山県大山町の町長を務めた。没後3月1日付で9段位追贈。
[1]、806頁より --- 明治31年(1898年)青森に生る。東京高等師範学校に学び、大正15年(1926年)7月教士の称号を拝受す。大正15年(1926年)文部省体育研究留学生として満2ヶ年間ベルリン大学に於て就学す。第3回明治神宮大会青年組5段級に於て優勝す。昭和9年(1934年)皇太子殿下御誕生奉祝武道大会に栄光ある府県選士柔道審判員を仰付られ、なほ特選乱取に出演の光栄に浴す。現在国士舘専門学校、法政大学、日本大学等の柔道教授たり。
[2]より --- 明治31年(1898年)青森県に生る、大正5年(1916年)富山県立高岡中学校卒業、同6年(1917年)講道館に入門、同11年(1922年)東京高等師範学校体育科卒業、同12年(1923年)浦和高等学校教授、同15年(1926年)全国道州府県選抜柔道優勝試合に優勝摂政盃下賜さる、同15年(1926年)第3回明治神宮大会青年組5段の部に於て優勝、同年文部省より独乙国へ体育研究の為満2ヶ年留学を命ぜらる、昭和2年(1927年)伯林大学伯林体育大学入学、同5年(1930年)国士舘専門学校教授、同9年(1934年)皇太子殿下御誕生奉祝武道大会に於て特選々士並に審判員、同16年(1941年)厚生省体育官に任ず、同19年(1944年)武徳会範士の称号を受く、同21年(1946年)文部省体育局嘱託、同22年(1947年)講道館8段に進む、同年内内務省警保局嘱託、同23年(1948年)警察大学校教授今日に至る。全日本柔道連盟理事、講道館国際部委員、講道館審議員、講道館特別指導員其の他。
- 大谷晃(1906年 - 1963年2月22日) - 1931年の全日本選士権では初戦で島崎朝輝と延長3回の末、抽選で敗れた。1934年の昭和天覧試合優勝。空手家の大山倍達が大谷の元へ道場破りに行き、敗れた事もある。拓殖大では牛島辰熊と共に木村政彦の師匠にあたる。1963年、9段。1963年2月22日に大阪で開催された日ソ親善レスリング・柔道対抗戦の主審中に発作を起こし死亡。
[1]、827頁より --- 明治39年(1906年)広島県に生る。兵庫県中外商業学校、武徳会大阪支部にて柔道を修行す。昭和2年(1927年)以来大阪府警察部、武徳会大阪支部、熊本県第一師範、熊本商業学校柔道教師に歴任、同7年(1932年)樺太庁警察部武徳会樺太支部柔道教師を拝受、同8年(1933年)5月教士の称号を授与せらる。昭和4年(1929年)11月第5回明治神宮体育大会には柔道壮年組に出場して優勝。同9年(1934年)皇太子殿下御誕生奉祝武道大会には光栄ある柔道指定選士として出場、遂に優勝の栄冠を嬴ち得たり。
[1]、838頁より --- 明治30年(1897年)柏崎に生る。柏崎中学を経て大正11年(1922年)早稲田大学を卒業。在学中、法政、拓殖等の柔道教師をなし、卒業後警視庁柔道師範拝命、同13年(1924年)渡仏、滞仏中欧州各国を巡遊大いに柔道を紹介普及し、かつてルーマニア体育大学の柔道師範を委託せられ国王及貴族の御前に於て演技をなし、功に依り勲章を下賜せらる。 更に埃国政府に招聘せられ近衛兵、警官の指導に当る。尚巴里においては柔道指南所を設け斯道の普及に努力す。昭和6年(1931年)6段に進む。同8年(1933年)前世界拳闘選手権保持者エミル・ブラドネル一行の監督として帰朝す、尚滞仏中洋画を学び秋のサロンに出品屡々入選せり。
- 宇土虎雄(1891年1月30日 - 1986年12月23日) - 熊本近代スポーツの父。1916年頃より熊本県に拠点とし金栗四三と共に熊本県の近代スポーツ振興に尽力。熊本陸上競技協会初代会長。柔道家としては1930年全日本選士権で徳三宝に優勢勝ちを収めるなどし準優勝、1935年同大会優勝。戦後は全日本選手権などの講評を務めた。1958年9段。
[1]、804頁より --- 明治25年(1892年)長崎県に生る。東京高等師範に入りて専ら柔道修行。大正14年(1925年)6月教士の称号を拝受し、昭和5年(1930年)4月講道館6段に列せらる。現在熊本市九州学院奉職中。
- 曽根幸蔵(1903年10月15日 - 1973年10月20日) - 1930年の全日本選士権東京予選の決勝で優勝候補筆頭とされていた牛島辰熊を大外刈で破る大金星を挙げたが、本大会では初戦で柏原俊一と延長4回の末、抽選で敗れた。1938年同大会3位。後に阿佐ヶ谷に曽根道場を開設し大山倍達らを指導。また、1958年世界選手権優勝の曽根康治は親戚にあたる。1962年9段。
[1]、826頁より --- 明治36年(1903年)埼玉県に生る。幼にして講道館に入り柔道を修行す。昭和2年(1927年)警視庁柔道教士拝命、同年第4回明治神宮柔道大会青年組にて優勝す。同7年(1932年)5月教士の称号を授与せらる。同8年(1933年)講道館6段に進む。同9年(1934年)皇太子殿下御誕生奉祝武道大会には指定選士として出場の栄誉を賜る。
[1]、818頁より --- 明治33年(1900年)出生。昭和5年(1930年)5月大日本武徳会より剣道教士の称号を拝受し、同8年(1933年)6月講道館6段に列せらる。現在東洋レーヨン会社勤務中。
[1]、801頁より --- 明治23年(1890年)熊本県に生る。明治43年(1910年)武徳会武術教員養成所に入所、卒業後引続き同所にありて研究す。大正5年(1916年)精錬証、同9年(1920年)5月教士の称号を拝受す。昭和4年(1929年)御大礼記念武道大会には栄誉ある指定選士として出場。同8年(1933年)6月講道館7段に列せらる。曩に武徳会武道専門学校柔道教授に任ぜられ現在に至る。
[1]、834頁より --- 明治19年(1886年)に生る。応変流柔術、講道館流柔道修行、横須賀防備隊、大湊防備隊の柔道教師を経、大正7年(1918年)長野県巡査教習所、長野中学校等の柔道教師を歴任し、更に上高井中学、上水内農学校に転じ、同15年(1926年)修道館を創設し子弟の指導に努めつつあり。昭和9年(1934年)5月教士の称号を受け、現在武徳会長野支部教師たり。
[1]、800頁より --- 明治23年(1890年)高知県に生る。同県立海南中学卒業、同39年(1906年)より武徳会本部にて修行、同45年(1912年)武徳会本部助手、其後武道専門学校助教授を拝命、大正9年(1920年)5月教士の称号拝受。爾来武徳会高知支部、高知県師範学校、同第一中学校、同海南中学、県警察部等の柔道教師を経て大正9年(1920年)大阪府警察部巡廻師範、大阪医科大学、浪速高等学校、池田師範学校、武徳会支部等の柔道教師兼任中。
[1]、818頁より --- 明治23年(1890年)愛媛県に生る。大正3年(1914年)愛媛県巡査を拝命し特に柔道を練習し同12年(1923年)今治錬武会柔道教師を嘱託せられ、昭和4年(1929年)府県選士として御大礼記念武道大会に出場の栄に浴す。現在は愛媛県越智中学校及今治中学校、武徳会今治支所柔道教師たり。昭和5年(1930年)5月教士の称号拝受す。
[1]、819頁より --- 明治27年(1894年)神戸に生る。幼より天神真楊流柔術修行後更に天神真楊流範士小角弥三次先生に師事し技を磨く。大正12年(1923年)慶尚南道柔道教師拝命、昭和5年(1930年)8月柔道教士の称号拝受す。同7年(1932年)全日本柔道選士権大会に於て、成年前期選士権を獲得す。同8年(1933年)講道館及武徳会6段に昇段す。
[1]、811頁より --- 明治32年(1899年)香川県に生る。阪出商業を経て明治大学法科を卒へ、大正11年(1922年)大阪外国語学校柔道師範に就任。昭和3年(1928年)5月教士の称号を拝受。大正13年(1924年)同14年(1925年)の両度大阪府代表選士として明治神宮柔道大会に出場、決勝戦に惜敗す。昭和8年(1933年)6月講道館6段に列せらる。目下大阪府九條警察署、四條畷中学校同園芸学校に柔道師範たり。尚洪火会の首席理事たり。
[1]、817頁より --- 明治39年(1906年)滋賀県に生る。昭和2年(1927年)京都府平安中学校卒業、同4年(1929年)御大礼記念武道大会には府県選士として出場、翌年5月教士の称号拝受、同6年(1931年)武道専門学校卒業。同8年(1933年)6月武徳会並に講道館より柔道6段を允許さる。同9年(1934年)5月皇太子殿下御誕生奉祝武道大会には指定選士として再度出場の光栄に浴す。
- 金光弥一兵衛(1892年3月30日 - 1966年12月25日) - 小田常胤と共に寝技の達人として知られる。弟子の早川勝と編み出した「松葉がらみ」は有名。1948年9段。講道館の寄付問題に端を発する弟子の造反に遭い、段位発行問題が表面化して柔道界の要職を追われた[3]。
[1]、800頁より --- 明治25年(1892年)岡山市に生る。東京順天中学校を経て、京都武術教員養成所卒業。同45年(1912年)旅順警察官練習所教務を嘱託せられ、大正2年(1913年)以後東京帝大、農科大学及第一高等学校、広島高等師範学校及広島中学校に歴任し、同9年(1920年)岡山医科大学、第六高等学校、警察練習所に奉職、今日に至る。同9年(1920年)5月教士号拝受。同12年(1923年)岡山市に玄武館中央道場を設立。明治神宮第一回全日本選士権大会壮年組に於て優勝す。大正8年(1919年)武徳会及講道館より7段を允許せらる。尚「新式柔道」の著あり。
[1]、803頁より --- 明治27年(1894年)香川県に生る。武徳会に入り、専心柔道修行。大正13年(1924年)5月教士の称号を授けられ、昭和6年(1931年)1月講道館6段に列せらる。現在北海道帝大柔道教師たり。
[1]、811頁より --- 明治34年(1901年)山口県に生る。大正14年(1925)武道専門学校卒業、昭和3年(1928年)5月教士の称号拝受、現在母校柔道助教授奉職中。
[1]、836頁より --- 明治44年(1911年)福岡県嘉穂に生る。県立嘉穂中学に入り同校柔道師範にして県下柔道界の元老たる榎本本吉先生に師事し熱心なる指導を受け、昭和4年(1929年)2段にて卒業翌年武道専門学校に入学。同7年(1932年)精錬証拝受翌年5段となり同9年(1934年)卒業後京畿道警察部武道教師拝命目下勤務中、同年5月教士の称号拝受。
[1]、817頁より --- 明治38年(1905年)愛媛県に生る。武道専門学校に入学し、専心柔道修行し、昭和5年(1930年)5月教士の称号を拝受し、同6年(1931年)3月卒業。現在、母校助手奉職中。
[1]、801頁より --- 明治25年(1892年)山梨県に生る。大正3年(1914年)講道館柔道教員養成部卒業。同6年(1917年)鹿児島第七高等学校柔道教師となり、同8年(1919年)仙台第二高等学校柔道教授を経て、同10年(1921年)不動貯金銀行に入り現在に至る。同9年(1920年)5月武徳会より教士の称号を授与せらる。
[1]、827頁より --- 明治38年(1905年)神戸に生る。兵庫県立第一神戸商業学校へ入学以来神戸精武館順道館にて柔道を修行、昭和6年(1931年)武徳会5段、同8年(1933年)5月教士の称号を授与せらる。兵庫県警察練習所、神戸水上警察署、葺合警察署の師範に歴任、同年武徳会兵庫支部柔道教授拝命。昭和6年(1931年)全国警察官武道大会にて優勝、同9年(1934年)皇太子殿下御誕生奉祝武道大会に指定選士として出場の栄に浴す。
[1]、798頁より --- 明治2年(1869年)1月岡山県長尾町に生る。9歳にして祖父貞治に就き柔道修行、同17年(1884年)1月目録、同18年(1885年)1月免許、同19年(1886年)12月免許皆伝を受く。後父寅次郎に従ひ各地に柔術を教授す。同23年(1890年)11月警視庁柔道師範拝命、傍ら各学校柔道教師として奉職すること多年。同39年(1906年)柔道教士号を拝受、大正11年(1922年)以来教職を辞任し現住所に於いて整復術を営み今日に至る。昭和2年(1927年)5月武徳会より柔道範士の称号を授与せらる。
- 倉田太一(1892年10月28日 - 1969年2月2日) - 緒方久人と共に広島柔道界の大御所。原子爆弾投下では家の中から庭まで吹っ飛ばされたが咄嗟に受け身を取り、全治3ヵ月の重傷を負いながらも九死に一生を得た。1948年5月4日付9段。
[1]、801頁より --- 明治25年(1892年)三重県に生る。大正3年(1914年)武道専門学校卒業。大正7年(1918年)早稲田大学法科を卒業す。大正9年(1920年)5月教士の称号を拝受、昭和8年(1933年)6月柔道7段に列せらる。大正4年(1915年)以来学習院講師、第一高等学校、東京帝国大学農学部柔道師範に歴任、同9年(1920年)広島高等師範学校に転じ、昭和4年(1929年)御大礼記念武道大会には指定選士として出場。翌年広島文理科大学柔道師範拝命、今日に至る。
[1]、840頁より --- 明治21年(1888年)東京に生る、同41年(1908年)天神真楊流柔術及荒木流柔術を学ぶ、大正元年(1912年)講道館入門、同5年(1916年)憲兵隊柔道教師拝命。大正元年(1912年)現住地に道場義勇館を開設す。昭和5年(1930年)第一回全日本柔道選士権大会第二区一般成年前期の選士権を獲得す。同6年(1931年)講道館に列せらる。現在講道館審議会委員、淀橋区会議員たり。
[1]、800頁より --- 明治17年(1884年)島根県に生る。佐賀県及京都武徳会本部に於て修行す。同43年(1910年)以後京都府立第二中学校、佐賀県立小城中学校及同県警察部、関東都督府、奉天総領事館、同警務署、南満医科大学等の柔道師範に歴任、大正6年(1917年)大阪府武道師範に任ぜられ現在に至る。同9年(1920年)教士号を拝受す。昭和4年(1929年)御大礼記念武道大会に指定選士として出場、同5年(1930年)第一回全日本柔道選士権大会に専門成年後期選士として優勝。同8年(1933年)講道館及武徳会7段に列せらる。
[1]、843頁より --- 新潟県新発田中学校教諭。昭和8年(1933年)6月講道館6段に列せらる。
[1]、800頁より --- 明治19年(1886年)熊本に生る。剣道の外柔道居合術を星野九門範士につき修行。同42年(1909年)陸軍戸山学校卒業、熊本地方幼年学校の剣柔道指導に任ず。後上洛武徳会本部にて修行。大正4年(1915年)京都一商教諭拝命現在に至る。同12年(1923年)6月教士号拝受、昭和5年(1930年)講道館6段に列せらる。同6年(1931年)の全日本柔道選士権大会に成年後期の選士権獲得。外に剣道、銃剣術、居合術各教士たり。
[1]、801頁より --- 明治19年(1886年)高松市に生る。講道館に入り柔道を究め、後陸軍中央幼年学校、東京高等師範、立教大学、早稲田大学、警視庁等に師範となり大正9年(1920年)5月教士号拝受す。少年武道豊道会、豊島師範学校、府立第四中、内務省警察講習所、横須賀海軍士官集合所に柔道師範たり。昭和9年(1934年)皇太子殿下御誕生奉祝武道大会には府県選士審判員を仰付らる。目下、小学校、中等学校、警察、軍隊方面の柔道普及の必要を感じ、その教授法研究中。
[1]、814頁より --- 明治31年(1898年)山形県に生る。幼にして父にやはらを習ふ。1913年(大正2年)佐世保中学に入り柔道修行。同9年(1920年)講道館入門。同11年(1922年)上京、三船久蔵師の許に寄寓、専ら修行に勉む。昭和4年(1929年)5月教士の称号を拝受、昭和6年(1931年)講道館6段に列せらる。現在日本体操学校、慈恵医科大学、日本大学附属中等学校等の教師を勤む。
出典
[編集]各地柔道家座談会 - 機関誌『柔道』1948年2月号、6-9頁(1948年2月20日発行)より
- (岐阜)愛甲敏人
- (大阪)上田文次郎
- (広島)大木明
- まへがき
中央警察学校で開かれてゐる逮捕術講習会に全国の警察柔道関係者の方が多数受講されてゐるといふので、編輯部は好機逸すべからずとして各地柔道家座談会を開くことにした。 午後七時から荻窪の警察学校でといふプランを胸に石黒、松本の両編輯子は折柄の寒風にオーバーの襟を立てながら講道館を飛び出した。 かくて定刻、御好意による赤々とした炭火を囲み、持参の蜜柑をパクつきながら郷土色豊かな歓談を始めることが出来た。窓外は雪さへチラつきそうな寒空ではあるが、室内は手あぶりの火に映えて春のやうななごやかさである。爆発したやうな笑の渦、柔の道に醸し出されるウットリする様な雰囲気を読者の皆様どうぞ次の座談から御汲み取り下さい。
- 広島の原爆
- (石黒)皆さんがお出でになつた機会を利用して座談会を開かせて頂きました。どうぞ柔道だけに限らず色々のよもやま話をお願ひしたいと思ひます。先づ戦災に会つたかどうかあたりから・・・
- (大木)僕は一番大きなのに会つてゐる。
- (石黒)そうそうあンたは広島だつたね。原子爆弾の時は?
- (大木)運よく軍隊で長崎の在にゐた。
- (石黒)当時倉田氏(太一八段)がやられたといふデマが飛んだが。
- (大木)倉田さんは原子爆弾のために裏庭まで飛ばされ、そこへ瓦等が飛んできたものだから全治三ヶ月の傷を二ヶ所も負はれた。あたり前の人間だつたら参るところだつた。
- (石黒)倉田氏は鬼瓦の異名があるから普通の瓦なぞ大丈夫だよ・・・。(哄笑)
- (愛甲)瓦中の親方だからネ(大笑)
- (大木)亡くなられた方としては天野有段者会会長、対馬、吉野両氏などだが、副会長の松田先生は身を以て逃れられた。きいてみると全く柔道の御蔭だつたそうだ。
- 磯貝先生の逸話
- (石黒)高木さん、磯貝先生の生れ故郷延岡の話や生前の逸話を一つ・・・人国記に少しは書いたがもつと変つた話はないかナ。
- (高木)先生の人格として想ひ出されるのは、一つの事を徹底的にやられたことだ。普通の者なら苦しくてトックに止めるやうな事でも先生は思ひ立たれた事は最後までやり抜かれた。例えば柔道を教えられる場合でも時によると三十分でも四十分でも時間を超過して続けられることがある。もし生徒にいやがる気配でもあると更にわざと延ばされる・・・。(笑声)
- (胡井)先生が京都に来られたのは何時頃だらうか。
- (石黒)京都の第三高等中学校が出来た時に赴任された。後に佐村先生、それから永岡先生が続いて行かれたが、明治十六年の春頃だつたかナ。
- (広瀬)在校中(武専)のこと。暑中休暇が終り、愈々稽古が始まると、暫く稽古を休んでゐたため柔道衣で首が擦れて痛くなる。それで余りひどいと見学する。そんな連中に先生は「君達は皮膚の鍛錬が足らぬ。私が嘉納先生に稽古して貰つてゐる時なぞ膝などをすりむいてゐても試合や稽古をさせられた」。「怪我をしてゐます」と言っても「まだ骨が出ておらぬ・・・」(笑声)
- (石黒)嘉納先生も大学時代身体中に膏薬をベタベタ貼つてゐて万金膏の嘉納と言はれた(笑声)
- (石黒)横山、磯貝先生の両先生が板の間で投の形をやられたのは有名な話だね。尤も小川虎さん(虎之助七段)は二三年前コンクリーの上でやつたといつてゐた(大笑)
- (高木))横山先生とは実に仲がよかつたといふ。久々で京都で会つたやうな時には横山先生が「オイ、ノコで一杯やらうか」とよく言はれたといふ。ノコとは二人だけの通用語で数の子の事だそうだ(笑声)
- (胡井)ある大工から聞いた話だが、先生が京都へ赴任された二段当時、四五人勢のいい若者が一つ喧嘩を吹きかけて、ひどい目に会はしてやらうと相談し、先づ手始めにその中の一人がドシンと先生にブツかつた。そのトタンにブチ当つた男はスッテンドウと投げ飛ばされ先生は知らぬ顔をしてスタスタと歩いてゐる。それが実に鮮かで他の者は度肝を抜かれて了つた。初めの元気はどこへやら恐る恐る先生に気を失つた若者の息をふき返さして呉れと頼んだ。先生がそれではともとの場所へ戻ると若者はウウンと気付いた所だつたので、そのままでも大丈夫だよと言つて去られたといふ。(笑声)
- ●●●羽鳥氏出席●●●
- 酒の話
- (石黒)酒の嫌ひな人はありませんか。(笑声)
- (羽鳥)飲めないけれども嫌じやない。(笑声)
- (石黒)愛甲さんと新潟へ行つた時、酒石酸を抜いた葡萄酒を二升買ひ、二時頃まで痛飲したことがあつたね。
- (愛甲)一升でやめようとしたが、石黒さんが「明日は明日の風が吹く」なんて言ふものだから・・・。(笑声)
- (山木)あの頃新潟にはあの酒しかなかつた。
- (石黒)酒の名所は先づ広島か。
- (大木)醉心、千福、白牡丹、福美人といつた銘酒があるからなァ。
- (石黒)醉心はいいよ。甘口だけれど何しろずつと以前一升一円五十銭位の時、醉心だけは四円か五円だつた。
- (愛甲)酒を飲むと思はぬ力が出るもんだ。これは北支での話だが、菊正の四斗樽を差上げればそれをやるといふので、早速上げて見せた。そうすると今度は抱えたままにして鏡を抜けといふ。そこで又その様にした。それでいいのかと思つたら次にこぼさぬ様に下せといふ。それではと言ふ通りにソッと下に置いた。後で貰つた菊正を皆で飲んだのは良かつたが、翌日腰が痛くて困つたよ。(笑声)
- (石黒)四斗樽は一体何貫位あるのか。
- (大木)二十四五貫位だらう。
- (石黒)愛甲さんと新潟へ行つた時佐渡から来てゐた先生・・・。
- (山木)尾崎君か。
- (石黒)そうそう、ぜひ佐渡へ来いといふんだ。先生の話だと佐渡では酒を飲み放題で一泊三円五十銭だなんて言つていたが。
- (山木)とにかく●いよ。私の行つた時も二の膳で、どじようのかば焼などがつき、酒は出る、芸者が来るで六円也であつた。(笑声)
- (愛甲)何年頃の話か。
- (山木)昭和十二年頃だ。
- (石黒)僕が両津へ行つた時は、晩めしの後だつたが、四人で行つてビールをうんと飲んで佐渡おけさの手踊を見て十八円だつた。(笑声)もつともその料理屋の主人公は友達だつたが・・・。
- (広瀬)其の頃私も修学旅行で佐渡へ渡つたがよかつたね。
- (石黒)会津もいいよ。僕が疎開でゐた時は、酒屋の主人公五人位が有段者会の役員でね。出るわ出るわ、ジャンジャン飲んで、二十人で二斗五升平げた。(笑声)僕は五合くらいしか飲まなかつた(笑)
- (広瀬)二升といふ字が抜けてゐる(大笑)
- (山木)あすこは花春、会州一、名倉山が銘酒だ。
- お国自慢
- (愛甲)岐阜の自慢といふと富有柿と鮎とでも言つておかうか。残念だが酒はない。
- (石黒)養老の滝があるじやないか(哄笑)
- (愛甲)親孝行でないからあいつァ飲めない(大笑)
- (広瀬)僕の故郷都ノ城では、うまい米焼酎が出たものだが、近頃はどん栗で造るから駄目だ。
- (大木)酒は広島に限るよ。千福醸造元へ行つて見たがいや、一杯あるね。倉の中に。
- (石黒)千福の息子さんは柔道をやらないかね(笑声)
- (大木)やるよ。兄は慶応だ。
- (石黒)慶応の先輩羽鳥さんどうだ。(笑声)
- (羽鳥)一つ注文しませうかね。
- (石黒)羽鳥さんは江戸ッ子か?
- (羽鳥)神田の生れです。
- (石黒)じあすしの方か?(笑声)
- (広瀬)神田といつても広うごんす・・・。(笑声)
- (羽鳥)明治大学の辺りらしい。子供の時から芝へ移つた。
- (愛甲)神田で生れて芝で育ちか?アベコベだね(笑声)
- (荒井)福岡の食べ物自慢に博多の水たきがある。本式の水たきを説明すると長くなるからやめるが実際うまいぞ。その中御馳走するがね(笑声)河豚料理は下関が有名だが、一般には瀬戸内海のがよい。皿の上に芸術的な模様を見せて並べられ、大根おろしと芥子が添へてある所がなんともいへない。別の方面では素的な博多の芸者が来て酌をし、博多踊りを踊つて見せるといふ段取りになるが、なかなか高くて手が出せぬ・・・(哄笑)
- (広瀬)手が出なかつたら顔だけ出せばいい(大笑)。
- (大木)その点広島のかきのどて焼なんか割り廉で民主的だなァ。
- (広瀬)大阪でサントリー工場が近くにある。鳥居氏がやつてゐるのだが、一般的にはトリーといふ名で出してゐる。サンがとれただけだが(笑声)
- (石黒)僕はその鳥居の旦那を知つてゐる。トリーの方でもいいから送れと言つて呉れ。(笑声)
- (広瀬)紹介状を貰つて面会しよう(笑声)。
- ●●●織田、藤園両氏出席●●●
- (上田)僕勤めは大阪だが、生れは鳥取です。二十世紀と松葉がにが有名だ。
- (広瀬)かには越前も有名だ。
- (石黒)新潟へ行けば土地へ穴さへあけると瓦斯が出るよ。この瓦斯で自動車も動けば、米も炊かれ、湯も沸かせるといふのだから大したもンだ。
- (一同)本当かね・・・(笑声)
- (山木)人夫三人が一月位かかつて掘ると、運さへよければ瓦斯が出る。そんな所では朝から風呂を立ててゐる。五万円くらいでやれる。
- (石黒)うらやましい話ではないか。新潟美人はゐるし、酒はあるしで・・・。(哄笑)
- (大木)瓦斯は出るし・・・(大笑)
- (織田)和歌山は蜜柑だ。しかし同じ紀州蜜柑でも紀北ものは皮が厚い。送る時きずがつかないから東京辺りへ送るにはこれに限る。紀南ものは柔らかくて送り難いがうまい。何といつても有田地方のが一番だね。
- (松本)その一番うまいヤツを送つて貰いたい(大笑)
- 帯の話
- (石黒)羽鳥さんの黒帯は随分白つぽいが、そろそろ国宝にしてガラス函に入れて子孫に伝へたらいいね。
- (大木)いつ頃から締めてゐる?
- (羽鳥)初段になつた時から。
- (石黒)日比谷の対満州戦の時、初めは白帯だと思つた。近くへ寄るとかすかに黒いとこが見えた(笑声)
- (羽鳥)近頃は試合の時だけ締めることにしてゐる。
- (石黒)永岡先生が東京に出た頃「ナガオカ」と縫い取つた帯を山崎亘先生から貰つて大事にしてゐたがいつの間にか盗まれた。今に君の帯も盗まれる公算大だ。(笑声)
- (高木)中学校時代、初めての試合に兄の茶帯を借りて出場し、皆に冷かされたが、その時は頑張つて上級生に投げられなかつた。
- (大木)初段になつた時、黒帯を締めるのが嬉しくてね。それでゐて恥かしいので一週間位締めたくても締めなかつた事を覚えてゐる。
- (愛甲)柔道衣が地味だといふ訳かも知れぬが、一時繻子の帯が流行した。
- (石黒)当時二円五十銭位したね。柔道衣一着三円五十銭位の頃だ。
- (織田)和歌山県のある柔道の先生帽子も足袋もつけたことがなく、年中どこへでも柔道の帯を締めて行くといふ人がある。(笑声)
- (藤園)赤と白のダンダラ帯も派手だね。
- (大木)それで想ひ出したが、ある所で五の形をやつてゐる時、そのダンダラ帯が解けて何ともいへぬ光景を・・・。
- (石黒)ダンダラリとか(笑声)
- (山木)色ッぽい話だ(笑声)
- (石黒)皆さんの面白い話は三月号を飾ることでしよう。どうも有難とう御座いました。