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* [[続・道場破り 問答無用]](1964年、監督:[[菊池靖]]、[[松野宏軌]])
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* [[無頼無法の徒 さぶ]](1964年、監督:[[野村孝]]) - 『さぶ』が原作。
* [[無頼無法の徒 さぶ]](1964年、監督:[[野村孝]]) - 『さぶ』が原作。
* [[五の椿]](1964年、監督:[[野村芳太郎]])
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* [[赤ひげ]](1965年、監督:黒澤明) - 『赤ひげ診療譚』が原作。
* [[赤ひげ]](1965年、監督:黒澤明) - 『赤ひげ診療譚』が原作。
* [[冷飯とおさんとちゃん]](1965年、監督:田坂具隆) - 『ひやめし物語』、『おさん』、『ちゃん』が原作。
* [[冷飯とおさんとちゃん]](1965年、監督:田坂具隆) - 『ひやめし物語』、『おさん』、『ちゃん』が原作。

2016年2月13日 (土) 12:41時点における版

山本 周五郎(やまもと しゅうごろう、1903年明治36年)6月22日 - 1967年昭和42年)2月14日)は、日本小説家。本名、清水 三十六(しみず さとむ)。

年譜

  • 1903年明治36年)6月22日、山梨県北都留郡初狩村(現:大月市初狩町下初狩)に生まれる[1]。父は清水逸太郎、母は「とく」(旧姓・坂本)[2]。周五郎は長男(弟の潔、義妹の末子がある。[3][4]。本籍地は北巨摩郡大草村(韮崎市大草町)で、周五郎は後に自らの出生地を同地と語っている[5]。実家は武田の遺臣で、北多摩の大草村若尾(現韮崎市大草町若尾)に帰農した御蔵奉行清水大隅守政秀の後裔であろうとの言い伝えもある[6]
  • 1907年(明治40年)、山梨県では8月21日から降り続いた大雨により明治40年の大水害が発生する。大水害では甲府盆地東部の笛吹川流域を中心に多大な被害を出し、郡内でも初狩村が壊滅的被害を受け、周五郎の一家は大月駅前に転居していたため難を逃れるが、大水害で祖父の伊三郎、祖母の「さく」、叔父の粂次郎、叔母の「せき」を失っている[7]。大水害後、一家は北豊島郡王子町豊島(現:東京都北区豊島)に転居する。
  • 1910年(明治43年)
7歳で東京府北豊島郡王寺町・豊島の豊島小学校に入学した。8月10日、荒川が氾濫し住居が浸水し大被害を受ける。同年秋から神奈川県横浜市久保町(現・神奈川県横浜市西区久保町)に転居。西戸部小学校に転校した。翌1911年(明治44年)学区の編成替えで横浜市立尋常西前小学校2年に転学した。父は繭の仲買を営んでいた。また、輸入用麻製真田紐の巻き取り、生糸の仲買、小口金融業、小料理店甲子屋の経営、三業組合書記などの職を転々とした[8]
4年生の時、担任の先生から小説家になれと励まされ、志望するようになった。以来、学校新聞の責任を命じられたり、6年生の時には、級友の作文・図画を集めて回覧雑誌を作った。自分で雑誌の表紙を描き、扉絵には詩を付けたりした[9]
横浜市立尋常西前小学校(現横浜市立西前小学校)卒業。卒業と同時に東京木挽町二丁目(現:銀座二丁目)にあった質店の山本周五郎商店に徒弟として住み込む。
徴兵検査を受けたが、眼力が問題となり丙種合格で免れる。同年9月1日の関東大震災によって山本周五郎商店も被災しいったん解散となる。その後豊橋、神戸に転居。
再び上京。帝国興信所(現:帝国データバンク)に入社。文書部に配属。その後帝国興信所の子会社である日本魂社に転籍。
文藝春秋』4月号に『須磨寺附近』が掲載されこれが文壇出世作となる。
10月20日 - 脳溢血で母・とく死去。
千葉県東葛飾郡浦安町(現:浦安市)に転居。
10月 - 勤務不良により日本魂社から解雇される。
東京虎ノ門に転居。
11月 - 宮城県亘理郡吉田村(現:亘理町)出身の看護婦・土生きよいと結婚。2男2女を儲ける。
東京馬込東に転居。空想部落と称された馬込文士村の住人となる。尾崎士郎、鈴木彦次郎の両人の推輓で講談社の時代小説を書くようになった[10]
『キング』(講談社)に度々時代小説を執筆するようになった。当時の大衆雑誌『キング』は「1928年(昭和3年)」140万部と雑誌界の首位にあった[11]
5月 - 「だだら団兵衛」執筆、それまでは博文館の『少年少女 譚海』を中心に少年探偵ものや冒険活劇を書いていた[12]
6月26日 - 中風で父・逸太郎死去。
  • 1936年(昭和11年)33歳、講談社からは新進作家としてあつかわれ、講談社発行の『婦人倶楽部』・『少年倶楽部』・『講談倶楽部』・『少女倶楽部』などのほとんどの雑誌に作品が掲載された。当時の周五郎は、むしろまじめで几帳面な、そしてコツコツと鍛練を重ねる、真摯な作家であった[13]
博文館が、周五郎の「大人向け」作品を掲載しだした。それまではほとんどが少年少女小説であった[14]
『婦人倶楽部』に各藩の女性を扱う「日本婦道記」(6月から12月までの7回掲載)が企画された。周五郎は3回(「松の花」*「梅咲きぬ」*「箭竹」、全くの創作で架空の女性を描いている)担当し、後の4回(すべて実在の人物で世にほどほどに知られている人物)は他の作家が担当した。『主婦之友』の「日本名婦伝」(吉川英治)に倣っている[15]
第17回直木賞に『日本婦道記』が選ばれるが辞退[16][17][18]。周五郎の年間執筆数の約6割~7割が講談社の雑誌に掲載され、その大半が『婦人倶楽部』の「日本婦道記」であった。この執筆が作家的飛躍に繫がったと考えられている[19]
5月4日 - 膵臓癌で妻・きよい死去(享年36)。
自宅の筋向いに住んでいた吉村きんと再婚。横浜市中区に転居。
春 - 旅館「間門園」(神奈川県横浜市中区本牧間門51付近)を仕事場とする。
『樅の木は残った』が毎日出版文化賞に選ばれるが辞退する。
文藝春秋読者賞に『青べか物語』が選ばれるが辞退。
2月14日 - 間門園別棟で肝炎心臓衰弱のため死去。享年64(満63歳)。墓所は神奈川県鎌倉市の鎌倉霊園。戒名は恵光院周嶽文窓居士。

人物

ペンネームの由来

ペンネーム「山本周五郎」の由来として(他のペンネームとして、俵屋宗八[21]・俵屋宗七・横西五郎・清水清・清水きよし・土生三・佐野喬吉・仁木繁吉・平田晴人・覆面作家・風々亭一迷・黒林騎士・折箸闌亭・酒井松花亭・参々亭五猿を用いた)、自身の出世作となった『須磨寺附近』(『文藝春秋』1926年[昭和元年])を発表する際に本人の住所「山本周五郎方清水三十六」と書いてあったものを見て、文藝春秋が誤って山本周五郎を作者名と発表した説がある[22]が、以前にも山本周五郎をペンネームとして使用していた形跡があり定かではない。しかしながら雇主であった店主の山本周五郎は、自らも酒落斎という雅号を持ち文芸に理解を持っていた。そのため、周五郎を文壇で自立するまで物心両面にわたり支援し、正則英語学校(現正則学園高等学校)、大原簿記学校にも周五郎を通わせている。ペンネームにはそのことに対する深い感謝の念が込められていたと思われる。講談社には時代小説を書くと決めていたらしく、山本周五郎のペンネームだけを使った[23]

作風

作風は時代小説、特に市井に生きる庶民や名も無き流れ者を描いた作品で本領を示す。また、伊達騒動に材を求めた『樅ノ木は残った』や、由井正雪を主人公とした『正雪記』などの歴史小説にも優れたものがある。周五郎は、純文学の作家を目指していた。ところが、1932年に大衆色の強い講談社の雑誌『キング』に人間の信頼をテーマにした時代小説を書いた[24]

山本の小説に登場する人物は、辛酸を嘗め尽くし、志半ばで力尽きてしまうものが少なくないが、かれらに、生きる上でのヒントとなる、含蓄のある台詞を吐かせる、というのも山本の作風である。

『婦人倶楽部』連載の「日本婦道記」で第17回直木賞に推されるも辞退し、直木賞史上唯一の授賞決定後の辞退者となった、直木賞を受賞辞退した裏には、一説に賞を主催する文藝春秋菊池寛との不和が挙げられる[要出典]。辞退の理由として、完全な仕事を目指した初版『小説 日本婦道記』出版の前であったこと、改稿以前の『婦人倶楽部』版が受賞対象になったこと、が挙げられる[25]。また、『主婦之友』の「日本名婦伝」の著者で、審査員だった吉川英治の評(「書く物として『名婦伝』のごときは至難の業のほうである」)を許せなかった可能性もある。周五郎は9年掛けて「よじょう」(1952年)でついに恨みを晴らすのである[26]

担当した雑誌編集者は数多いが、その中では、博文館の雑誌『少年少女譚海』の編集者で後に名物編集長として知られた井口長次(『桃太郎侍』の山手樹一郎の本名)、朝日新聞社の担当記者だった木村久邇典などが知られる。特に木村は、山本の没後は生涯にわたり、多くの評伝・作品研究を書き、全30巻にもなる『全集』(新潮社)を編み、埋もれた作品を発掘し新潮文庫で再刊等を行った。代表作に『山本周五郎』(上下巻、新版アールズ出版)、他にも『書簡にみる山本周五郎像』(未來社)など20数冊を刊行。また、数多の作品に登場する人物たちの台詞を集め、箴言集『泣き言はいわない』(新潮文庫、改版2009年)を出している。なお、類書に清原康正編『山本周五郎のことば』(新潮新書、2003年)がある。

他に担当者の回想に、文藝春秋の編集者だった大河原英与『山本周五郎最後の日』(マルジュ社)がある。功績を記念し1988年より、新潮社などにより山本周五郎賞が発足した。

周五郎の日記に、戦前の日記は『青ベか日記』(大和書房、1971年、内容は1928年8月12日~1929年9月20日の間)、『山本周五郎 愛妻日記』(角川春樹事務所、2013年、内容は1930年1月14日~1941年12月7日の間)、太平洋戦争中の全文を一挙収録した『山本周五郎 戦中日記』(角川春樹事務所、内容は2011年12月、1941年12月8日~1945年2月4日の間)の3冊がある[27]。評伝として『周五郎伝』(齋藤愼爾、白水社、2013年6月)がある。

逸話

  • 山本の本名「三十六」は、明治36年生まれであったことから来ている。
  • 尋常小学校の学生時分のこと、国語の宿題に作文が課された。その作文に山本は、級友の某とあれこれ楽しく遊んだことを書き、提出した。翌日、それぞれの作文が教室に掲示されると、山本の作文に登場する当の本人の某が「山本の作文は嘘だ。俺は山本と遊んだことなどない。」と言い放ち、室内が騒然となった。詰め寄る級友たちの前に、なすすべもなく立ち竦んでいると、担任がやってきた。事の次第を聞き及び、文章を読み返した担任は、「三十六(周五郎の本名)。こうも見事に嘘が書けるのは素晴らしい。お前は将来小説家になれ。」と言ったという。
  • 若い頃に植物学者の牧野富太郎の元に取材に行き、何気なく「雑木林」という言葉を使ったところ、「どんな花にも、どんな木にもみな名前がある。雑木林というのは人間の作った勝手な言葉だ。」と咎められた。感心した山本は、それ以降、植物の名前を積極的に憶えるようになった。
  • 山本は、中原中也太宰治を高く評価していた。代表作のひとつ『虚空遍歴』の主人公である中藤沖也は中原がモデルであると言われている。
  • ワイン好きであった山本が「これまで飲んだ和製ブドー酒のどれにも似ない、これぞワインだ」と絶賛した国産のマデイラ・ワインが、生まれ故郷でもある山梨県の中央葡萄酒株式会社から「周五郎のヴァン」として販売されている。

作品一覧

  • 廣野の落日 (1920年)
  • 日本婦道記 (1942年)- 「日本婦道記」を企画、命名したのは『婦人倶楽部』編集部。それが評判になって定着していった[28]。独立した作品を集めて単行本にしたもの。『日本婦道記』自体にも二種類ある。1943年(昭和18年)講談社(当時は大日本雄弁会講談社)版『小説 日本婦道記』と1958年(昭和33年)新潮文庫版『小説 日本婦道記』である。収録作品は同じでない。後者は周五郎自身が作品を選定したといわれている。今ではこれが底本とされている。竹添敦子は、女性を主人公にした周五郎の連作(シリーズもの)と捉えている[29]。底本とされている新潮社文庫(1956年10月)には、「松の花」「梅咲きぬ」「節竹」「不断草」「藪の陰」「糸車」「尾花川」「桃の井戸」「墨丸」「萱笠」「風鈴」の11編が収められている[30]
  • 柳橋物語 (1946年)
  • 寝ぼけ署長 (1948年)
  • 栄花物語 (1953年)
  • 正雪記 (1953-54年、1956年)
  • 樅ノ木は残った (1954-58年)
  • 赤ひげ診療譚 (1958年)
  • 天地静大 (1959年)
  • 五瓣の椿 (1959年)
  • 青べか物語 (1960年)
  • 季節のない街 (1962年)
  • さぶ (1963年)
  • 虚空遍歴 (1963年)
  • ながい坂 (1966年)
  • 山本周五郎長編小説全集 新潮社全26巻、2013年6月より新版刊行

関連作品

映画

テレビドラマ

ほか多数

舞台

  • こんち午の日/季節のない街/ ながい坂/さぶ / 柳橋物語 / 梅咲きぬ/つゆのひぬま/夜の辛夷/赤ひげ / わたくしです物語/青べか物語//かあちゃん/地蔵/ひとごろし/裏の木戸は開いている/おたふく物語 ほか(前進座)
  • 夢ごころ (名鉄・東宝提携特別公演 / 名鉄ホール)
  • 川霧の橋 (1990年 / 宝塚歌劇団月組) - 『柳橋物語』『ひとでなし』が原案
  • 小さな花がひらいた(1971年・1981年・1982年・1991年・1992年・2011年 / 宝塚歌劇団花組星組) - 『ちいさこべ』が原案
  • いのちある限り (1978年 / 宝塚歌劇団雪組)- 『野分』『釣忍』が原案
  • 落葉のしらべ (1972年 / 宝塚歌劇団雪組) - 『落葉のとなり』が原案
  • 白い朝 (1974年・1997年 - 1998年 / 宝塚歌劇団月組・花組) - 『さぶ』が原案
  • 沈丁花の細道 (1984年 / 宝塚歌劇団月組)- 『半之助祝言』が原案
  • TRUTH (1999年・2005年 / 演劇集団キャラメルボックス)- 『失蝶記』(日日平安収録)が原案
  • 五瓣の椿 (2005年6月4日 - 6月28日 / 明治座)
  • まつさをな (2007年 / 演劇集団キャラメルボックス)- 『みずぐるま』(おさん収録)が原案
  • 赤ひげ (2008年1月 / 劇団俳優座
  • おたふく / ゆうれい貸屋 (演劇倶楽部『座』
  • さぶ(劇団俳小

オペラ

  • 松とお秋(2004年、「周五郎の世界」東京文化会館小ホール 2006年、NPOみんなのオペラ/江東文化センター 2010年12月4日、大中恩作品の会/津田ホール / 脚色:岡村喬生、作曲:大中恩) - 『嘘アつかねえ』『ほたる放生』(「日日平安」収録)が原案

漫画

参考文献

関連項目

外部リンク

脚注

  1. ^ 『曲軒・山本周五郎の世界』、p.6
  2. ^ 『曲軒・山本周五郎の世界』、p.6
  3. ^ 『歴史読本』編『山本周五郎を読む』『歴史読本』編集部 2012年 新人物往来社 298ページ
  4. ^ 『曲軒・山本周五郎の世界』、p.6
  5. ^ 『曲軒・山本周五郎の世界』、p.8
  6. ^ 『歴史読本』編『山本周五郎を読む』『歴史読本』編集部 2012年 新人物往来社 298ページ
  7. ^ 『曲軒・山本周五郎の世界』、p.6
  8. ^ 『歴史読本』編『山本周五郎を読む』『歴史読本』編集部 2012年 新人物往来社 299ページ
  9. ^ 『歴史読本』編『山本周五郎を読む』『歴史読本』編集部 2012年 新人物往来社 299ページ
  10. ^ 竹添敦子著『「日本婦道記」論』 双文社出版 2015年 99ページ
  11. ^ 『キング』は、「天皇制ナショナリズム、それも、モダニズムと立身出世・修養主義を加味した新しいナショナリズムを思想的主柱とし(中略)批判力に乏しい民衆を意のままにファシズムに動員した先導者、ファシズムへの地ならしをした極めて保守的なジャーナリズム」との評価もある(竹添敦子著『「日本婦道記」論』 双文社出版 2015年 101ページ)
  12. ^ 竹添敦子著『「日本婦道記」論』 双文社出版 2015年 99ページ
  13. ^ 竹添敦子著『「日本婦道記」論』 双文社出版 2015年 103ページ
  14. ^ 竹添敦子著『「日本婦道記」論』 双文社出版 2015年 102ページ
  15. ^ 竹添敦子著『「日本婦道記」論』 双文社出版 2015年 108ページ
  16. ^ 1940年(昭和3年)上半期の第11回芥川賞を高木卓が辞退して、世上騒然たる物議を醸し出している。両文学賞史上、受賞辞退はこの二名だけである。(齋藤愼爾著『周五郎伝 虚空巡礼』 白水社 2013年 294ページ)
  17. ^ 「直木三十五賞『辞退のこと』」が『文藝春秋』(昭和18年9月号)に掲載された。その前文は、「こんど直木賞に擬せられたそうで甚だ光栄でありますが、自分としてはどうも頂戴する気持ちになれませんので勝手ながら辞退させて貰いました。この賞の目的にはなにも知りませんけれども、もっと新しい人、新しい作品に当てられるのがよいのではないか、そういう気がします。新しいとだけでは漠然としすぎますが、とにかくいまの清新なものがほしいとという感じは誰にもあると思う。局外者がこんなことを云うのはおせっかいに類するけれども、新人と新風とを紹介する点にこの種の賞の意味があるので、もちろん在来もそうであったとは思いますが、今後もなおそういうものが選ばれてゆくことを希望したいと思います」である。(齋藤愼爾著『周五郎伝 虚空巡礼』 白水社 2013年 280ページ)
  18. ^ 某評論家は、周五郎が辞退した理由を、当時の周五郎の「主要な作品発表の舞台は、おおむね博文館系の雑誌だったために、博文館への義理立てとでも云った心情から、文藝春秋の文学賞を遠慮したのではないか。そういう律儀な性格がとらしめた、一見、佶屈たる行動」と述べているらしい(木村久爾典著『山本周五郎-馬込時代』の第12章「直木賞を蹴る」による)(齋藤愼爾著『周五郎伝 虚空巡礼』 白水社 2013年 296ページ)。
  19. ^ 竹添敦子著『「日本婦道記」論』 双文社出版 2015年 103ページ
  20. ^ 竹添敦子著『「日本婦道記」論』 双文出版社 2015年 102ページ
  21. ^ 最初期からのペンネームである。山本周五郎に次ぐ位置づけである。このペンネームによる随筆等もある(竹添敦子著『「日本婦道記」論』 双文出版社 2015年 161ページ)
  22. ^ 例えば、池内紀『作家のへその緒』(新潮社 2011年p.205)は「問われるたびに山本周五郎はそんなふうに答えた」と書いている。
  23. ^ 竹添敦子著『「日本婦道記」論』 双文出版社 2015年 100ページ
  24. ^ 竹添敦子著『「日本婦道記」論』 双文社出版社 2015年 99-100ページ
  25. ^ 竹添敦子著『「日本婦道記」論』 双文社出版社 2015年 151-152ページ
  26. ^ 竹添敦子著『「日本婦道記」論』 双文社出版社 2015年 152-153ページ
  27. ^ 竹添敦子著『「日本婦道記」論』 双文社出版社 2015年 92ページ
  28. ^ 竹添敦子著『「日本婦道記」論』 双文出版社 2015年 53ページ
  29. ^ 竹添敦子著『「日本婦道記」論』 双文出版社 2015年 1ページ ISBN 978-4-88164-634-2 c3095
  30. ^ 竹添敦子著『「日本婦道記」論』 双文出版社 2015年 14ページ
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