アルベルト・プーチ
アルベルト・プーチ | |
---|---|
2013年 | |
グランプリでの経歴 | |
国籍 | スペイン |
活動期間 | 1987年 - 1997年 |
チーム | ホンダ |
レース数 | 125 |
チャンピオン | 0 |
優勝回数 | 1 |
表彰台回数 | 9 |
通算獲得ポイント | 672 |
ポールポジション回数 | 0 |
ファステストラップ回数 | 1 |
初グランプリ | 1987年 250cc ダッチTT |
初勝利 | 1995年 500cc スペインGP |
最終勝利 | 1995年 500cc スペインGP |
最終グランプリ | 1997年 500cc オーストラリアGP |
アルベルト・プーチ・デ・ラ・ローサ(Alberto Puig de la Rosa、1967年1月16日 - )は、スペイン・バルセロナ出身の元モーターサイクル・ロードレースライダー。
経歴
[編集]現役時代
[編集]1987年に、スペインのコンストラクターズ・マシンであるJ.J.コバスを駆り、ロードレース世界選手権250ccクラスにデビュー。1992年にはアプリリアを駆って初表彰台を獲得し、シリーズランキング6位に入った。翌1993年にはシト・ポンスのチームでホンダを駆り、シリーズ9位の成績を残した。
1994年には同じくホンダ・ポンス・チームから最高峰500ccクラスにデビューを果たし、NSR500を駆って第6戦ホッケンハイムでは3位表彰台を獲得、年間ランキングでは5位に入る活躍を見せる。結局この年がプーチにとってのベストシーズンとなった。
2年目の1995年には第4戦母国スペインGP(ヘレス)で初優勝を遂げた。その後もコンスタントに上位での完走を続け、躍進が期待されたが、第8戦ル・マンで左足に重傷を負ってしまい、シリーズ残りのラウンドの欠場を余儀なくされた[1]。
1996年開幕戦からレースに復帰し、同郷のカルロス・チェカをチームメイトにシリーズを戦ったが、怪我の影響が残って思うような結果が残せず、結局プーチは1997年の最終戦をもって現役を引退した。
引退後
[編集]引退後は後進のライダーの育成に熱心に取り組んでいる。2001年にはスペイン国内のロードレース選手権にケーシー・ストーナーを参戦させ、ランキング2位を獲得したストーナーをルーチョ・チェッキネロに推薦し、翌2002年のGPデビューに導いている[2]。
同じく2001年にはロードレース世界選手権125ccクラスのチーム「テレフォニカ・モビスター・ジュニア・ホンダ」のチーム監督としての活動を開始し、2003年にはダニ・ペドロサが125ccクラスのチャンピオンを獲得した。また同年より250ccクラスにも参戦を開始し、翌2004年からは250ccクラスのみに集中、2004年・2005年とペドロサが同クラス連覇を果たした。また2004年から始まったホンダの若手日本人ライダー育成制度「Honda Racingスカラーシップ」の受け皿となり、第1期ライダーの青山博一のデビューチームとなった[3]。
チームは2006年よりタイトルスポンサーがレプソルに変更になり、MotoGPクラスと同じ「レプソル・ホンダ」となった。同年にはホンダスカラーシップの第3期生、青山周平が同チームからデビューを果たしている[4]。チームは2007年シーズンをもって250ccクラスでの活動を終えた。2006年にペドロサがMotoGPクラスにステップアップして以降、プーチはレプソル・ホンダでペドロサ担当のスポーツ・ディレクターとして活動している[1]。
また2005年からはDORNAと共同で「MotoGPアカデミー」を運営し、ブラッドリー・スミス、スコット・レディング、中上貴晶、ジョナス・フォルガーら、若い才能の発掘に寄与している[5]。
2018年1月、ホンダ・レーシング(HRC)がプーチをレプソル・ホンダのチームマネージャーに起用することを発表した[6]。
ロードレース世界選手権 戦績
[編集]シーズン | クラス | バイク | 出走 | 優勝 | 表彰台 | PP | FL | ポイント | シリーズ順位 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1987年 | 250cc | J.J.コバス | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | - |
1988年 | 250cc | ホンダ | 8 | 0 | 0 | 0 | 0 | 10 | 30位 |
1989年 | 250cc | ヤマハ | 15 | 0 | 0 | 0 | 0 | 18 | 23位 |
1990年 | 250cc | ヤマハ | 8 | 0 | 0 | 0 | 0 | 32 | 16位 |
1991年 | 250cc | ホンダ | 12 | 0 | 0 | 0 | 0 | 28 | 16位 |
1992年 | 250cc | アプリリア | 13 | 0 | 2 | 0 | 0 | 71 | 6位 |
1993年 | 250cc | ホンダ | 14 | 0 | 2 | 0 | 0 | 106 | 9位 |
1994年 | 500cc | ホンダ | 14 | 0 | 1 | 0 | 0 | 152 | 5位 |
1995年 | 500cc | ホンダ | 7 | 1 | 3 | 0 | 0 | 99 | 8位 |
1996年 | 500cc | ホンダ | 14 | 0 | 1 | 0 | 0 | 93 | 11位 |
1997年 | 500cc | ホンダ | 15 | 0 | 0 | 0 | 0 | 63 | 12位 |
合計 | 125 | 1 | 9 | 0 | 1 | 672 |
脚注
[編集]- ^ a b http://www.intellimark.co.jp/bikeArticles/2007/news20070808001.html
- ^ Birt, Matthew (2007年10月1日). “Alberto Puig proud to have helped Casey Stoner”. Motorcyclenews.com 2008年10月15日閲覧。
- ^ http://www.honda.co.jp/news/2004/e040203b.html
- ^ http://www.honda.co.jp/Racing/news/05wgp/16/
- ^ http://www.intellimark.co.jp/bikeArticles/news20060330002.html
- ^ レプソル・ホンダ、アルベルト・プーチをチームマネージャーに起用 - F1-Gate.com 2018年1月12日