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バテレン追放令

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
キリシタン追放令から転送)
秀吉のバテレン追放令 (吉利支丹伴天連追放令)。

バテレン追放令(バテレンついほうれい・伴天連追放令)は、1587年7月24日天正15年6月19日)に豊臣秀吉筑前箱崎(現・福岡県福岡市東区)において発令したキリスト教宣教と南蛮貿易に関する禁制文書。バテレンとは、ポルトガル語で「神父」の意味のpadreにし、英語fatherとともに、「父親」を意味する印欧祖語に由来する。

原本は『松浦家文書』にあり、長崎県平戸市松浦史料博物館に所蔵されている。通常、「バテレン追放令」と呼ばれる文書はこの『松浦家文書』に収められた6月19日付の五か条の文書(以下便宜的に「追放令」と記す)を指すが、1933年(昭和8年)に伊勢神宮の神宮文庫から発見された『御朱印師職古格』の中の6月18日付の11か条の「覚(おぼえ)」(「覚書(かくしょ)」とも呼ばれる)のことも含めることがあるので注意が必要である。さらに後者の11か条の「覚」が発見されて以降、五か条の追放令との相違点がある理由や二つの文書の意味づけに関してさまざまな議論が行われている。

概説

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織田信長は、鉄砲伝来から鉄砲(火縄銃)に強い関心を持って国内大量生産して導入することで戦を有利にし、天下布武(五畿を中心とする畿内・近国天下統一)を目前にした。鉄砲をもたらしたポルトガル人が命を懸けてキリスト教の布教をするのに感心し、南蛮貿易、一部仏教勢力への牽制として、キリスト教を保護していた。豊臣秀吉は元来信長の政策を継承し、キリスト教布教を容認していた。イエズス会の宣教師は1583年に大坂に初めて到着、大坂城にはその後キリスト教に興味を持つ女性を含む多くの日本人がいた[1]1586年(天正14年)3月16日には大坂城にイエズス会宣教師ガスパール・コエリョを引見し、同年5月4日にはイエズス会に対して布教の許可証を発給している。イエズス会への許可は、当時の仏教徒への許可より優遇されたものだった[2]。天正14年(1586年)3月[3]『日本西教史』によると、秀吉はガスパール・コエリョに対して、国内平定後は日本を弟秀長に譲り、唐国の征服に移るつもりであるから、そのために新たに2,000隻の船の建造させるとしたうえで、堅固なポルトガルの大型軍艦を2隻欲しいから、売却を斡旋してくれまいかと依頼し、征服が上手く行けば中国でもキリスト教の布教を許可すると言った[4][5]

しかし、九州平定後の筑前箱崎に滞在していた秀吉は、長崎がイエズス会領となり要塞化され[要出典][注 1]長崎の港からキリスト教信者以外の者が奴隷として連れ去られている事[要出典]などを天台宗の元僧侶である施薬院全宗らから知らされたとされる[要出典][注 3][注 6][注 7]。このときに『天正十五年六月十八日付覚』も施薬院全宗と見られる人物によって起草された。この翌日の6月19日(西暦7月24日)ポルトガル側通商責任者(カピタン・モール)ドミンゴス・モンテイロとコエリョが長崎にて秀吉に謁見した際に、宣教師の退去と貿易の自由を宣告する文書を手渡してキリスト教宣教の制限を表明した。

バテレン追放令は外交政策だけでなく以降の禁教令、鎖国、キリシタン迫害までの反キリスト教的宗教政策の原動力となった[19]。バテレン追放令以降の秀吉の書簡は[19]キリスト教に対抗して、吉田神道の宇宙起源説を引用するなど[20]神国思想を意識的に構築しており、家康もその排外主義的な基本路線を踏襲した[21][22][23]。追放令以降も秀吉は三教神道儒教仏教)に見られる東アジアの正統性を示すことによってキリスト教の特殊な教義を断罪したが[24]、家康の発令した「伴天連追放之文」(起草者は以心崇伝)でも、キリスト教を三教一致(神道儒教仏教)の敵として名指しで批判している[25][26][27]

欧米ではバテレン追放令を秀吉の独裁者としての側面、領土拡張政策の文脈の中で検討することがある。ジョージ・サンソムはキリスト教の教えが社会的な序列、既存の政治構造に挑戦したことに注目しており、バテレン追放令を秀吉が独裁者、専制君主の観点から宣教師を単なる異教徒の枠を越えて、社会秩序の土台を弱体化させるものとして恐れた結果として起きた動物的な防衛反応だったと分析している[28]。スペイン領フィリピンではバテレン追放令を敵対的な外交政策として警戒を強め、秀吉によるフィリピン侵略計画の発端と見なしている[29][30][注 8]ブリル (出版社)の日本キリスト教史ハンドブックは1587年のバテレン追放令から1592年のフィリピンへの降伏勧告(フィリピン侵略計画)、1596年のバテレン追放令の更新を一連の流れとして記述している[31]

追放令の社会的背景

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明侵略のための支援要請

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バテレン追放令以前、秀吉は明侵略のためにポルトガルから2隻の軍艦を購入できるよう、宣教師に取引斡旋の依頼をしていた[注 9]。追放令後もスペイン人に軍艦の購入を打診したが、秀吉によるフィリピン侵略に使われる可能性を危惧したスペインは拒絶した[32]

関連する基本資料の記述

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バテレン追放令の原文(11か条の「覚」)には宣教師が中国、朝鮮、南蛮に日本人奴隷を売っていた[注 3][注 6][注 10]と糾弾する箇所があり、その具体的な状況として『天正遣欧使節記[注 11]と、11か条の「覚」と部分的に内容が重なる箇所がありバテレン追放令と同時期に書かれた『九州御動座記』が参考文献とされることがある。11か条の「覚」が宣教師とポルトガル商人を同一視していたかは不明だが、より広義なポルトガルの奴隷貿易に関しては少数の中国人や日本人等のアジア人奴隷しか存在は確認されておらず[34]日本人奴隷の具体的な記述は『デ・サンデ天正遣欧使節記』と『九州御動座記』に頼っている。いずれの記録も歴史学の資料としては問題が指摘されている。

バテレン追放令に先立ち豊臣政権は九州を制圧した。遠征時の九州の様子は豊臣秀吉の功績を喧伝する御伽衆に所属した大村由己[要出典]によって『九州御動座記』として1587年7月頃に記録された。ポルトガル人が生きたままの状態で牛や馬の皮を剥いで、素手で食べていたとの記録や、ポルトガル商人と日本の商人との奴隷貿易に関する記述がある[35]

歴史家ホムロ・ダ・シウヴァ・エハルトは『九州御動座記』には文書の正確性に疑念をもたせる箇所があるとして、ポルトガル人が牛馬を生きたまま皮を剥いで素手で食べるとの衝撃的な記載に言及し、ヨーロッパ人を化物と考えることは東アジアでは一般的であるために空想的と評しており[36][35]、執筆者が実際に目撃したものを著述したとは考えていない。九州御動座記にはこうした[注 12]偏見を含んだ記述の問題があるためポルトガル人に対する「黒い伝説[注 13]として読めるとしつつも、実際に起きた事実として定量的な理解はすべきではないが、ポルトガル商人と日本の商人との奴隷貿易によって奴隷がおかれた状況については定性的な理解をすることも可能だとした。史実かは不明だが、この文書が秀吉がバテレン追放令を発布するに至った認識を理解するものとして軽んじることはできないと述べている[35][注 15]

「九州御動座記」については他にも高麗王が「今迄対馬の屋形ニしたカハれ候間云々」という秀吉の誤認に基づく表現がそのまま記述されているとの史料批判が行われている[37]

鄭舜功の編纂した百科事典『日本一鑑』によると、南九州薩摩[38]では200-300人の中国人奴隷[注 16]が家畜のように扱われていたと記録されているが[39][注 17]、日本の奴隷市場倭寇による中国人奴隷や朝鮮人奴隷の供給だけでなく、日本国内からの供給にも依存していたという[33]。歴史家ホムロ・ダ・シウヴァ・エハルトは、ポルトガル船来航以前から人身売買は行われており[42]、その状況も列島全体で広く知られていたことや、秀吉の質問状の分析から[43][42]、秀吉は倫理的な側面よりも宣教師の影響や、九州での労働力枯渇等の経済的な側面[注 18]を優先しており、秀吉が奴隷貿易に怒ってバテレン追放令を発布したとの岡本良知の説は覆えることになると結論を述べている[42]

『デ・サンデ天正遣欧使節記』は1582年に旅立った少年達の記録として追放令前後の九州の社会的状況を記したものとして引用されることがある。出版年は1590年のものであるため、バテレン追放令の影響と見られる記述も収録されている。日本に帰国前の少年使節と日本にいた従兄弟の対話録として著述されており、両者の対話が不可能なことから、フィクションとされている[46][47][注 19]。『デ・サンデ天正遣欧使節記』は宣教師の視点から日本人の同国人を売る等の道徳の退廃、それを買うポルトガル商人を批判するための対話で構成されている[48]

戦国時代の日本人の奴隷に焦点をあてた最初期の史学研究岡本良知「十六世紀日欧交通史の研究」(1936年、改訂版1942-1944年)とされている[注 20][注 21][49]。バテレン追放令と奴隷貿易との関わりについては、いまだに岡本良知の説が言及されている[42]。日本の労働形態の歴史と、ポルトガル人の奴隷貿易との関連性についてはC・R・ボクサー「Fidalgos in the Far East (1550-1771)」(1948年)[50]が指摘しており、奴隷という用語に隠蔽されていた多様な労働形態(例えば傭兵や商人)の存在を明らかにした。

その後、この問題に新たな視点から取り組む動きはなく、牧英正「人身売買」 (1971年) [51]藤木久志「雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り」(1995年)[52]などによって日本側の資料から解明しようとする試みが行われた[49]。牧によると、秀吉は奴隷貿易のもつ倫理的な側面よりも、労働力の確保などの経済政策を重視していた[49][53][注 22]。藤木は甲陽軍鑑北条五代記や島津の大友領侵攻に関するポルトガル人の報告から奴隷狩りが日本において一般的に行われていた事を明らかにした[54][55]

日本人奴隷と追放令に関する最新の研究成果として、ルシオ・デ・ソウザの著作「The Portuguese Slave Trade in Early Modern Japan」(2019年)[49][56]があるが、ソウザの著作の信頼性や文脈化には複数の問題点が指摘されている[注 26][注 28][注 30]。野心的な研究として高く評価される一方で、歴史学者ハリエット・ズーンドーファー[注 31]ポルトガル人の逸話、発言や報告にある信頼性の低い記述を貧弱な説明と共にそのまま引用していること、どこで得られた情報なのかを示す正確な参考文献を提示しないために検証不可能であり、書籍中での主張に疑念を抱かさせるといった批判をしている[64][注 32]

宣教師の社会的評価

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バテレン追放令の原文では日本を神国と宣言する一方で、キリスト教を邪法として定義しており、異文化、異教を広めていた宣教師への風当たりは強かった。

日本における宣教師への社会的評価を示すものとして、誹謗中傷を目的として流布された風説がある。宣教師に対する誹謗中傷の中でも顕著なものに、人肉を食すというものがある[65]。フェルナン・ゲレイロの書いた「イエズス会年報集」には宣教師に対する執拗な嫌がらせが記録されている。

司祭たちの門口に、夜間、死体を投げこみ、彼らは人肉を食うのだと無知な人たちに思いこませ、彼らを憎悪し嫌悪させようとした[66]

さらに子どもを食べるために宣教師が来航し、妖術を使うために目玉を抜き取っているとの噂が立てられていた[67]仏教説話集『沙石集』には生き肝をとする説話があり[68]仏教徒には馴染みのある説といえ、ルイス・デ・アルメイダ等による西洋医療に対する悪口雑言ともとれるが、仏僧である大村由己が執筆した『九州御動座記』にある宣教師が牛馬を生きたまま皮を剥いで素手で食べるとの噂とも共通するものがある。

人肉を食うということも、草木を枯らすということも、また戦乱をおこし、町を焼き、国々を滅ぼすということも、つまるところは一つである。異邦人としての天竺人、とくに宣教師の存在そのものが、死と破滅を伴うという神秘的な考え方である。 — 岡田章雄『キリシタン・バテレン』至文堂、1955

こうした外国人が破滅をもたらすという考え方には、排外主義的な外国人や異教徒への恐怖があると岡田章雄は分析している[65]

宣教師は「にせものの誑し狐」と呼ばれることがあった[69]。こうした狐との呼称には宣教師が人を騙すべきとの固定観念があったという。豊後で宣教師達と論争をした仏僧達は次のように述べたという。

天竺から来た伴天連たちが言うことはすべて嘘である。彼らペてん師たちはお前たちを欺くから、まるで子供のように素直であってはならぬ[70]

狐と宣教師を同一視して排斥することは、当時の日本人の宗教観とも合致する。前田利家の実子で秀吉と正妻おねの養女の豪姫が病にかかったときに、狐が憑いたとされ、秀吉は伏見稲荷へ宛て朱印状を発布した。「日本の内、年々狐狩り仰せつけられるべく候」などの脅し文句が著述されているが、この朱印状が偽物でない事が明かされている[71]

宣教師に対する奴隷貿易批判について

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1587年6月18日付(伴天連追放令の前日)の11か条の「覚」は宣教師による奴隷貿易を批判している[注 3]

大唐、南蛮、高麗江日本仁を売遣侯事曲事、付、日本ニおゐて人の売買停止の事。 — 1587年6月18日付(伴天連追放令の前日)の11か条の「覚」

宣教師が朝鮮半島に日本人を売っていたと糾弾しているが[72]、朝鮮半島との貿易は対馬宋氏の独占状態であり[73]、宣教師が初めて朝鮮半島を訪れたのは1593年であり信憑性は低い。

11か条の「覚」にある宣教師による奴隷貿易糾弾については、歴史家の岡本良知は1555年をポルトガル商人が日本から奴隷を売買したことを直接示す最初の記述とし、これがイエズス会による抗議へと繋がり1571年のセバスティアン1世 (ポルトガル王) による日本人奴隷貿易禁止の勅許につながったとした。岡本はイエズス会はそれまで奴隷貿易を廃止するために成功しなかったが、あらゆる努力をしたためその責めを免れるとしている[10]

16世紀から17世紀への転換期、イベリア同君連合の第2代支配者であるポルトガル国王フィリペ2世(スペイン国王フェリペ3世)は、イエズス会の要請により、1571年の勅許を再制定して日本人の奴隷貿易の交易を中止しようとしたが、彼の政策はポルトガル帝国の地方エリートの強い反対に会い、長い交渉の末、イエズス会のロビー活動は失敗に終わった[74][注 3]

日本におけるポルトガルの奴隷貿易を問題視していた宣教師はポルトガル商人による奴隷の購入を妨げるための必要な権限を持たなかったため、日本で広く行われていた永代人身売買[75]を改めて年季奉公[注 34]: indentured servitude[注 35]とするように働きかけが行われた[81][82][注 36]。一部の宣教師は人道的観点から隷属年数を定めた短期所有者証明書(schedulae)[87]に署名をして、より大きな悪である期間の定めのない奴隷の購入を阻止して日本人の待遇が永代人身売買から年季奉公に改めるよう介入したとされている[81][88]。マテウス・デ・クウロス等の宣教師らによって、人道的介入であっても関与自体が誤りであったとの批判が行われ、1598年以降、宣教師の人道的な関与についても禁じられた[89]。1598年の人道関与の禁止決定についてはバテレン追放令によって、日本の国内法が奴隷貿易を違法としたことも影響していたとされる[90][注 37]。宣教師の人道的介入が終わる1598年以降、新たに着任した司教ルイス・デ・セルケイラはスペイン・ポルトガル王に日本人と朝鮮人の期間的隷属を廃止するよう圧力をかけていくことになるが[96][注 38]、ポルトガル商人による日本人奴隷の貿易は止まるどころか増加したという[98][62]

日本イエズス会には奴隷貿易の中止に不可欠な権威権力が欠如していることを巡察使ヴァリニャーノは繰り返し主張していた[注 39][104]宣教師達は叱責や勧告では効果は望めないために、教会法が許す現地の社会力学に追従する道を探るようになっていった[注 40]。奴隷制と同等の日本的隷属、奴隷制とは異なるが許容できる状態[注 35]、許容不可能な状態の3つの労働形態を区別する[106][注 41]ことで、宣教師達は現地の慣習に従うことを黙認するようになっていったと考えられている[110][注 42][注 43]

宣教師らは年季奉公人[注 35](または期間奴隷[注 34])の洗礼も行うことがあった。奴隷の所有者は取得から6ヶ月後に洗礼を受けさせる義務があったが、10歳以上の奴隷(年季奉公人を含む)は洗礼を拒否することができた。洗礼は社会的包摂の一形態であり、洗礼をうけることでポルトガル王室と教会法の管轄に服し保護をうけることができた[114][115]

秀吉が奴隷貿易に怒って追放令を発したとの説もある(後述の追放令の原因を参照)が、最新の研究はこの説を否定している[90]

スペインとの外交関係

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バテレン追放令以前からスペインは日本人によるフィリピン侵略を警戒していた。フィリピンでは倭寇の大規模な襲撃が1574年、1582年と続いていたが、日本によるフィリピン侵略の恐れについて書かれた最古のものは1586年の評議会メモリアルであり、マニラでは日本人がフィリピンを植民地にするつもりであるとして備えが行われていた[116][注 9]

1587年のバテレン追放令後、秀吉はポルトガル人を介さない通商路の開拓に関心を抱くようになった[注 8]。明国との貿易は閉ざされており、フィリピンは数少ない選択肢の一つとなっていた[117]1587年、フィリピンには2隻の日本船が来航したが、バテレン追放令の敵対的外交政策と整合しないためスペイン人の疑惑は深まり、フアン・ガヨというキリスト教徒で冒険家の日本人に対してフィリピン人の反乱計画に加担した容疑がかけられた[29][118]

1589年、30〜40人の巡礼者と称する日本人の集団がマニラを訪問した。彼らはマニラ周辺の河口を15リーグ (単位)歩いて偵察し去っていったが、スペイン人はこれを日本側の諜報活動と見ており、秀吉の領土拡張政策の始まりと考えた[30]。フィリピンとの交易が認可された1591年[117]には原田孫七郎がフィリピン征服の実地調査を行ったとスペイン側は分析しており、バテレン追放令を契機とし秀吉によるフィリピン侵略を警戒するスペインと日本の相互不信が強まることになった[32]

スペインの日本への領土的野心については、スペイン国王フェリペ2世は1586年には領土の急激な拡大によっておきた慢性的な兵の不足、莫大な負債等によって新たな領土の拡大に否定的になっており、領土防衛策に追放令以前に舵を切っていた[119]

私には、より多くの王国や国家を手に入れようとする野心に駆られる理由はありません....私たちの主は、その善意によって、私が満足するほど、これらすべてのものを与えてくださっています[119] — 1586年、スペイン国王フェリペ2世

むしろスペイン人は秀吉の統一政権がフィリピンに侵略する可能性に注意を払っており[32]、バテレン追放令をフィリピン侵略計画の発端と見なしていた[29][30]

追放令以前の宣教師の状況

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日本初の南蛮外科医である修道士ルイス・デ・アルメイダは、有馬晴純は領内にあった十字架を倒し、キリスト教徒が元の教えに強制改宗するように命じたと1564年十月十四日付、豊後発信の書簡で言及している[120]。1563年十一月七日頃[121]には横瀬浦港にある修道院が焼かれ、次いですぐにキリシタンの農民たちの家が焼かれたという[122]。1573年には深堀純賢によってトードス・オス・サントス教会が焼き払われた[123]。こうしてキリスト教と仏教の信者間での対立関係が悪化していたが[15]、日本におけるイエズス会の責任者であるヴァリニャーノは神社仏閣の破壊を禁じていた[124]

長崎はもともと小さな寒村に過ぎなかったが、カリオン神父

ここには諸領主から迫害されて信仰を失いまいとして各地から追放されて来た様々なキリスト教徒たちによって造られた四百以上の家屋からなる集落がある

と述べている[6]大村純忠は新町長崎と茂木寄進状を天正八年四月二十七日(1580年6月9日)付で発行、都市の無期限使用権と治外法権を与える代わりに、港の関税、入港税を永久に確保し、徴収のための役人を常駐させることにした[7]大村純忠ポルトガル船の誘致、新町長崎茂木寄進の打診は1579年秋にヴァリニャーノが訪問した際になされていたが、イエズス会は1580年10月、1582年12月において論議し申し出を受け入れることを裁決した。その理由として、戦争が絶えずある日本で、イエズス会は全資産を長崎に有しているため、安全な土地を持つ必要があること、戦渦や迫害により土地を追われたキリシタンのための避難所となること、ポルトガル船が来航することで、イエズス会の必要とする必需品がもたらされること、いつでも同地を手放すことができる自由裁量権があること等を挙げている[8]

長崎の特殊な状況、キリスト教徒と仏教徒間の対立がバテレン追放令の原因とする説もある(後述の追放令の原因を参照)。

追放令の原文

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『天正十五年六月十八日付覚』原文

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  • 伴天連門徒之儀ハ、其者之可為心次第事、
  • 国郡在所を御扶持に被遣候を、其知行中之寺庵百姓已下を心ざしも無之所、押而給人伴天連門徒可成由申、理不尽成候段曲事候事、
  • 其国郡知行之義、給人被下候事ハ当座之義ニ候、給人ハかはり候といへ共、百姓ハ不替ものニ候條、理不尽之義何かに付て於有之ハ、給人を曲事可被仰出候間、可成其意候事。
  • 弐百町ニ三千貫より上之者、伴天連ニ成候に於いてハ、奉得公儀御意次第ニ成可申候事、
  • 右の知行より下を取候者ハ、八宗九宗之義候條、其主一人宛ハ心次第可成事、
  • 伴天連門徒之儀ハ一向宗よりも外ニ申合候由、被聞召候、一向宗其国郡ニ寺内をして給人へ年貢を不成並加賀一国門徒ニ成候而国主之富樫を追出、一向衆之坊主もとへ令知行、其上越前迄取候而、天下之さはりニ成候儀、無其隠候事。
  • 本願寺門徒其坊主、天満ニ寺を立させ、雖免置候、寺内ニ如前々ニは不被仰付事、
  • 国郡又ハ在所を持候大名、其家中之者共を伴天連門徒押付成候事ハ、本願寺門徒之寺内を立て候よりも不可然義候間、天下之さわり可成候條、其分別無之者ハ可被加御成敗候事、
  • 伴天連門徒心ざし次第ニ下々成候義ハ、八宗九宗之儀候間不苦事、
  • 大唐、南蛮、高麗江日本仁を売遣侯事曲事、付、日本ニおゐて人の売買停止の事[注 3]
  • 牛馬ヲ売買、ころし食事、是又可為曲事事。

右條々堅被停止畢、若違犯之族有之は忽可被処厳科者也、

天正十五年六月十八日     朱印 — 天正十五年六月十八日付覚[125][126]

(大意)

  1. (自らが)キリスト教徒であることは、その者の思い次第であるべきである。
  2. (大名に)国郡の領地を扶持として治めさせているが、その領地内の寺や百姓などたちにその気がなかったのに、大名がキリスト教徒になることを強いるのは、道理が通らずけしからんことだ。
  3. 大名がその国郡を治めることについて、大名に命じているのは一時的なことなので、大名が交代することはあっても、百姓は交代するものではないので、道理が通らないことはなにかしらあることで、大名がけしからんことを言い出せば、(百姓を)その意のままにできてしまう。
  4. (知行地が)200、3000以上の大名は、キリスト教徒になるには、秀吉の許可を得ればできることとする。
  5. 知行地がこれより少ない者は、八宗九宗[注 44]などのような宗教上のことだから、その本人の思い次第であってよい。
  6. キリスト教徒については、一向宗以上に示し合わせることがあると、そう聞いているのだが、一向宗はその国郡を寺領(寺内町)を置いて大名への年貢を納めないだけでなく、加賀国を全てを一向宗にしてしまい、大名の富樫氏を追放し、一向宗の僧侶に治めることを命じ、そればかりかさせ越前国までも取ろうとし、治天下の障害になっていることは、もう隠しようがない事実だ。
  7. 本願寺の僧侶には、天満の地に寺を置く(=天満本願寺)ことを許しているが、この(一向宗の)寺領のようなものは以前から許したことはない。
  8. 国郡や領地をもつ大名が、その家臣達をキリスト教徒にさせようとすることは、本願寺の宗徒が寺領を置くことよりもありえないことであるから、治天下の障害となるので、その常識がわからないような者には処罰ができることとする。
  9. (大名などよりも)下の身分の者が思いのままにキリスト教徒になることについては八宗九宗と同じで問題にならない。
  10. 中国、南蛮、朝鮮半島に日本人を売ることはけしからんことである。そこで、日本では人の売買を禁止する[注 3]
  11. ウシやウマを売買して食べることは、これもまたけしからんことである。

ことごとくこれらの条文で固く禁止し、もし違犯する連中があればすぐに厳罰に処する。

以上 天正15年(1587年)6月18日

『吉利支丹伴天連追放令』原文

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追放令には前日の「覚」から意思の変化を示す文言があり、日付、伝来も同一でないことから一夜で秀吉に心境の変化があったとする説が提案されている。「覚」では重臣達が出席した御前会議での施薬院全宗の讒言とみられる糾弾を列挙しているが、6月18日時点では宣教師の追放を命じたりキリスト教を邪教と断じてはいなかった。「覚」にあった奴隷、人身売買の文言が消えたのは、ガスパール・コエリョの反論によって修正した可能性もあるが、いずれにせよ家臣団の中でも強い影響力のあった高山右近の棄教・服従の拒否によって追放令が発布された説が検討されている[127]

追放令では「神国」である「日本之地」でのキリスト教の布教はいかなる条件であっても「曲事(不正)」であり、その神国で神社仏閣を打ち破り信徒を持つことは、前代未聞の「天下」の「御法度」に背く(仏法に反する)「邪法」であると断じている[注 45]。バテレン追放令は『神風』、『神皇正統記』とならぶ神国思想皇国史観の宗教的な象徴、源流と見なされているが、天皇・神社の権威を借用しておらず、主に仏教側の視座から施薬院全宗が起草したことがうかがえる[128]

  • 日本ハ神國たる處、きりしたん國より邪法を授候儀、太以不可然候事。
  • 其國郡之者を近附、門徒になし、神社佛閣を打破らせ、前代未聞候。國郡在所知行等給人に被下候儀者、當座之事候。天下よりの御法度を相守諸事可得其意處、下々として猥義曲事事。
  • 伴天連其智恵之法を以、心さし次第二檀那を持候と被思召候ヘバ、如右日域之佛法を相破事前事候條、伴天連儀日本之地ニハおかせられ間敷候間、今日より廿日之間二用意仕可歸國候。其中に下々伴天連儀に不謂族申懸もの在之ハ、曲事たるへき事。
  • 黑船之儀ハ商買之事候間、各別に候之條、年月を經諸事賣買いたすへき事。
  • 自今以後佛法のさまたけを不成輩ハ、商人之儀ハ不及申、いつれにてもきりしたん國より往還くるしからす候條、可成其意事。

已上

天正十五年六月十九日     朱印 — 吉利支丹伴天連追放令[129]

(大意)

  1. 日本は自らの神々によって護られている国[注 46]であるのに、キリスト教の国から邪法[注 47]をさずけることは、まったくもってけしからんことである。
  2. (大名が)その土地の人間を教えに近づけて信者にし、寺社を壊させるなど聞いたことがない。(秀吉が)諸国の大名に領地を治めさせているのは一時的なことである。天下からの法律を守り、さまざまなことをその通りにすべきなのに、いいかげんな態度でそれをしないのはけしからん。
  3. キリスト教宣教師はその知恵によって、人々の自由意志に任せて信者にしていると思っていたのに、前に書いたとおり日本の仏法[注 47]を破っている。日本にキリスト教宣教師を置いておくことはできないので、今日から20日間で支度してキリスト教の国に帰りなさい。キリスト教宣教師であるのに自分は違うと言い張る者がいれば、けしからんことだ。
  4. 貿易船は商売をしにきているのだから、これとは別のことなので、今後も商売を続けること。
  5. いまから後は、仏法を妨げるのでなければ、商人でなくとも、いつでもキリスト教徒の国から往復するのは問題ないので、それは許可する。

以上 天正15年(1587年)6月19日

ただ、この機に乗じて宣教師に危害を加えたものは処罰すると言い渡している。キリスト教への強制の改宗は禁止するものの、民衆が個人が自分の意思でキリスト教を信仰することは自由とし、大名が信徒となるのは秀吉の許可があれば可能とした。事実上は信仰の自由を保障するものであった[130]

注進状(天正十五年七月十三日)

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『吉利支丹伴天連追放令』のおよそ1ヶ月後の天正15年(1587年7月13日、豊臣秀吉は注進状を皇大神宮(内宮)に奉納している。

伴天連御成敗之事、関白秀吉朱印六月十八日之御紙面、神慮大感応たるへき旨也、就其捧御礼連署、天照皇太神宮
注進 抑 御朱印之趣伴天連御成敗等之事
右御朱印致頂戴、誠以一天太平四海快楽大慶此時奉仰尊

天正十五年七月十三日 — 黒住真『天皇を中心とする日本の「神の国」形成と歴史的体験』[128]

天照皇太神宮と関連付けて「伴天連御成敗」が宣言され「神慮大感応」と感謝されており、天台宗の元僧侶が主導してはいるが神仏共同による宗教弾圧であったとする見解もある[128]

「追放令」の起草

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追放令本文の起草は秀吉本人ではなく、秀吉の側近で主侍医でもあった施薬院全宗とされている。なお、ルイス・フロイス『日本史』によれば、全宗の師である曲直瀬道三は、この追放令発布以前くにキリスト教に入信し(天正12年、1592年)、「ベルショール」の洗礼名を受けている[131]

追放令の原因

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秀吉がこの追放令を出した理由については諸説ある。

  1. キリスト教が拡大し、一向一揆のように反乱を起こすことを恐れたため。
  2. キリスト教徒が神道・仏教を迫害をしたため。
  3. ポルトガル人が日本人を奴隷として売買していたのをやめさせるため。
  4. 秀吉が有馬の女性を連れてくるように命令した際、女性たちがキリシタンであることを理由に拒否したため。
  5. 豊臣秀吉によって1586年5月4日、イエズス会に対して布教許可証が発布されたことに危機感を覚えた仏教等の在来宗教勢力による宗教弾圧の要望を受け入れたため。
  6. ポルトガルとイエズス会(またはスペインとフランシスコ会)による侵略を防ぐため[注 1]。(学説とは無関係だが自主公表された情報源等において陰謀論として論じられてきた。)
  7. ポルトガル・スペインのを、長崎・平戸・口之津だけでなく、博多にも寄港させるよう頼んだが「博多湾は水深が浅く危険である」と断られたため。

1.については、イエズス会宣教師ルイス・フロイスによると秀吉の言い分は「かつて織田信長を苦しめた一向一揆は、その構成員のほとんどが身分の低い者だったが、キリスト教は大名にまで広まっているため、もしキリシタンたちが蜂起すれば由々しき事態になる」というものである。秀吉がこのような考えを持つに至った直接的なきっかけは、九州征伐に向かった秀吉の目の前で、当時の日本イエズス会準管区長でもあったガスパール・コエリョが、スペイン艦隊が自分の指揮下にあるごとく誇示したことだとも見られている。同時期にイエズス会東インド管区巡察師として日本に来ていたアレッサンドロ・ヴァリニャーノはコエリョの軽率な行動を厳しく非難しており、コエリョの行動に問題があったことは確かなようである[132]。キリスト教の拡大については、6月18日の11か条の「覚」(『御朱印師職古格』)ではキリシタンも「八宗九宗」(第九条)と規定して体制下の宗教と見なしていたが、翌19日の「追放令」ではこれを覆すかのように「邪法を授け」るものとしてキリスト教を厳しく規定しなおしている。

2.のキリシタンによる神道・仏教への迫害については、九州において領民を強制的にキリスト教に改宗させたり、神社仏閣を破壊する[注 45]などといったことが有馬氏大村氏などで行われていた。[信頼性要検証]

3.の人身売買説に関しては、11か条の「覚」に、日本人を南蛮に売り渡すことを禁止する一文がある一方[注 3][注 48][注 49]、翌日の「追放令」にはそのような文言は見当たらない。秀吉は1587年の九州征伐の際、九州を中心として奴隷貿易が行われていたことについて当時のイエズス会の布教責任者であったコエリョを呼び詰問するとほぼ同時期にバテレン追放令を発布している。ただし、1537年に発令された教皇勅書スブリミス・デウスは異教徒を奴隷とする事を禁じ、イエズス会は日本人を奴隷として売買することを禁止するようにポルトガルに呼びかけていたこと、ポルトガル国王セバスティアン1世は大規模になった奴隷交易がカトリック教会への改宗に悪影響を及ぼすことを懸念して1571年に日本人の奴隷交易の中止を命令した[134][135]ことについて秀吉が知っていたかどうかについては不明である点には留意が必要である。

デ・サンデ天正遣欧使節記では、同国民を売ろうとする日本文化宗教の道徳的退廃に対して批判が行われている[48]

日本人には慾心と金銭の執着がはなはだしく、そのためたがいに身を売るようなことをして、日本の名にきわめて醜い汚れをかぶせているのを、ポルトガル人やヨーロッパ人はみな、不思議に思っているのである。 — デ ・サンデ 1590 天正遣欧使節記 新異国叢書 5 (泉井久之助他共訳)雄松堂書店、1969、p232-235[注 19]

デ・サンデ天正遣欧使節記はポルトガル国王による奴隷売買禁止の勅令後も、人目を忍んで奴隷の強引な売り込みが日本人の奴隷商人から行われたとしている[48]

また会のパドレ方についてだが、あの方々がこういう売買に対して本心からどれほど反対していられるかをあなた方にも知っていただくためには、この方々が百方苦心して、ポルトガルから勅状をいただかれる運びになったが、それによれば日本に渡来する商人が日本人を奴隷として買うことを厳罰をもって禁じてあることを知ってもらいたい。しかしこのお布令ばかり厳重だからとて何になろう。日本人はいたって強慾であって兄弟、縁者、朋友、あるいはまたその他の者たちをも暴力や詭計を用いてかどわかし、こっそりと人目を忍んでポルトガル人の船へ連れ込み、ポルトガル人を哀願なり、値段の安いことで奴隷の買入れに誘うのだ。ポルトガル人はこれをもっけの幸いな口実として、法律を破る罪を知りながら、自分たちには一種の暴力が日本人の執拗な嘆願によって加えられたのだと主張して、自分の犯した罪を隠すのである。だがポルトガル人は日本人を悪くは扱っていない。というのは、これらの売られた者たちはキリスト教の教義を教えられるばかりか、ポルトガルではさながら自由人のような待遇を受けてねんごろしごくに扱われ、そして数年もすれば自由の身となって解放されるからである。 — デ ・サンデ 1590 天正遣欧使節記 新異国叢書 5 (泉井久之助他共訳)雄松堂書店、1969、p232-235[注 19]

デ・サンデ天正遣欧使節記は、日本に帰国前の千々石ミゲルと日本にいた従兄弟の対話録として著述されており[48]、物理的に接触が不可能な両者の対話を歴史的な史実と見ることはできず、フィクションとして捉えられてきた[注 19][136]。遣欧使節記は虚構だとしても、豊臣政権とポルトガルの二国間の認識の落差がうかがえる[注 11]。伴天連追放令後の1589年(天正17年)には日本初の遊郭ともされる京都の柳原遊郭が豊臣秀吉によって開かれたが[16][注 4]、遊郭は女衒などによる人身売買の温床となった[注 5]。宣教師が指摘した日本人が同国人を性的奴隷として売る商行為は近代まで続いた[17][18]

4.の女性問題で秀吉が激怒したと言うのは(フロイス日本史)、正確には「女を連れていこうとした施薬院全宗が怒って、秀吉にキリシタンを讒言した」というものであり、「秀吉が女漁りを邪魔されて怒った」というのは誤りである。よってこれが理由ということは考えられないとの説があるが、女漁りが施薬院全宗個人の嗜好である場合、宣教師から秀吉に告げ口される前に施薬院全宗が先を制して噂、憶測等をもとにした讒訴をしたとも考えられる。「(秀吉のために)キリシタンの女を連れていこうとした施薬院全宗が命令への不服従に怒り、秀吉にキリシタンの女が命に逆らったと讒訴をして秀吉が激怒した」のであれば矛盾は無くなる。

5.は自身も仏教徒である秀吉が元僧侶である施薬院全宗大村由己の讒言を受け入れたことを前提とし、秀吉側近だった施薬院全宗等が九州で一定の信者数を持ち、前年に布教許可まで受けたキリスト教に対する危機感を主要な動機とした宗教戦争との見解である。必ずしも神国皇国史観に沿った魔女狩り、宗教弾圧であったとする俗説と対立するわけではない。豊臣政権から徳川幕府に移行してからも、仏僧である以心崇伝がキリスト教弾圧において主導的役割を果たしている。一方で、キリスト教の禁止を働きかけたのを神道側とする見解もあり、その直接的なきっかけが、伊勢神宮がある伊勢国南部を与えられていた蒲生氏郷がキリスト教の洗礼を受けたことに伊勢神宮や神宮と密接な朝廷が危機感を覚えたとするものである[141][142]

6.のポルトガルやスペインによる植民地化[注 1]を懸念した陰謀論については、大航海時代のポルトガルはゴア、マラッカ、マカオ等の独立した港湾都市、小規模の貿易拠点、居留地を手に入れる一方で、すでに文明が発達していたインド、中国等のアジア諸国の植民地化には成功していない。ゴア、マラッカ等の港湾都市の領有と要塞化は法制度が異なり財産権が十分に保証されない国との香辛料貿易を行うために不可欠な環境整備であり、ヨーロッパの小国だったポルトガルが最優先すべき目標は安全な貿易路の確保、ポルトガル人の資産保全、香辛料貿易の独占であって大規模な軍事紛争を伴う内陸部の植民地化ではなかった。イエズス会の布教を支援したポルトガルと対比するかのように、キリスト教の布教を重視しなかったオランダやイギリスがアジアで植民地を増やしていった。

フランシスコ会の宣教師が米大陸に上陸したのは、コルテスによる1522年のメキシコ征服の翌年の1523年であり、侵略が完了した後に布教をしているため、フランシスコ会の宣教師が侵略を支援した事実はなく、また布教活動が侵略に重要な役割を果たした事実はない[143][144]。米先住民に対するフランシスコ会の布教については、スペイン人の支配者に対する反乱に繋がる可能性が懸念されており、当初は否定的に受け止められていた[143]イエズス会が新大陸での布教を始めたのは1570年以降だったが、1500年のペドロ・アルバレス・カブラル率いる艦隊がブラジルに上陸してから70年経過した後のことである[145][146][147]。宗教を絡めないイギリス、オランダ等によるアジアの植民地化の成功、コルテスによるアメリカ征服が宗教の介入なく軍事的になされたことからも、キリスト教の布教から文明の発達した国家の征服に乗り出すという想像上の政策の実現性は低く、またはそのような政策が実際に存在したかについても見解は分かれている。1591年から1593年に秀吉はフィリピン総督に服従を迫っており、豊臣政権はアジアにおけるポルトガル、スペインの脆弱な戦力を把握していたとみられる。追放令でもポルトガル、スペインを軍事的脅威とはみなしてはいない。

7.の出来事の直後に発令している。これより前にも大坂で同様な頼みを、やはり「大坂湾の水深が浅い」という理由で断られており、機嫌を損ねていたと思われる。

追放令の影響

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1587年の禁令を受けたイエズス会宣教師たちは平戸に集結して、以後公然の布教活動を控えた。

南蛮貿易のもたらす実利を重視した秀吉は京都にあった教会(南蛮寺)を破却、長崎の公館と教会堂を接収し、1592年(文禄元年)には長崎をイエズス会から奪還し直轄地にしたが[要出典]、キリスト教そのものへのそれ以上の強硬な禁教は行っていない。1591年インド総督大使としてヴァリニャーノに提出された書簡(西笑承兌が秀吉のために起草)によると、三教神道儒教仏教)に見られる東アジアの普遍性をヨーロッパの概念の特殊性と比較しながらキリスト教の教義を断罪した[24]秀吉ポルトガルとの貿易関係を中断させることを恐れて勅令を施行せず、1590年代にはキリスト教を復権させるようになった[148]。勅令のとおり宣教師を強制的に追放することができず、長崎ではイエズス会の力が継続し[149]豊臣秀吉は時折、宣教師を支援した[150]

追放令を命じた当の秀吉は勅令を無視し、イエズス会宣教師を通訳やポルトガル商人との貿易の仲介役として重用していた[151]。1590年、ガスパール・コエリョと対照的に秀吉の信任を得られたアレッサンドロ・ヴァリニャーノは2度目の来日を許されたが、秀吉が自らの追放令に反してロザリオとポルトガル服を着用し、聚楽第の黄金のホールでぶらついていたと記述している[152]

秀吉が明と朝鮮の征服を試みるのと並行して、1591年に原田孫七郎はフィリピンの守りが手薄で征服が容易と上奏、1592年5月31日に入貢と服従を勧告する秀吉からの国書をフィリピン総督に渡し、1593年には原田喜右衛門もフィリピン征服、軍事的占領を働きかけ、秀吉もフィリピン総督が服従せねば征伐すると宣戦布告ともとれる意思表明をしていたが、フィリピン占領計画が実施されることは無かった[153][154][155]

1593年(文禄2年)、フィリピン総督の使節としてフランシスコ会宣教師のペドロ・バプチスタイタリア語版平戸に来着し、肥前名護屋城で豊臣秀吉に謁見。豊臣秀次の配慮で前田玄以に命じて京都の南蛮寺の跡地に修道院が建設されることになった。翌年にはマニラから新たに3名の宣教師が来て、京坂地方での布教活動を活発化させ、信徒を1万人増やした。前田秀以(玄以の子)や織田秀信寺沢広高ら大名クラスもこの頃に洗礼を受けた[154][155]

秀吉がキリスト教に対して態度を硬化させるのはサン=フェリペ号事件以後のことであるが、事件を発端とした弾圧からはイエズス会が除外されており追放令は空文化していた。

日本において、キリスト教が実質的に禁じられるのは徳川家康の命による1614年慶長19年)のキリスト教禁止令以降のことになる。慶長18年(1614年)12月19日、家康は新たなバテレン追放令の作成に着手した。幕府の重要文書を起草した臨済宗の僧で黒衣の宰相の異名を持つ以心崇伝を江戸に呼び、文案を作成させ、翌日、これを承認、秀忠に送り捺印させた[156]。その結果、「伴天連追放之文」ができあがった。伴天連追放之文は排吉利丹文ともいう[156]。「伴天連追放之文」の大半は神道儒教仏教に関するもので、キリスト教を統一された日本の宗教(神道儒教仏教の三教一致)の敵とし、キリスト教を禁止するための神学的正当性を示そうとした[25][26][27]。言い回しなどは基本的な部分において施薬院全宗が起草したバテレン追放令にならっている。徳川家康は長崎と京都にあった教会等の全国の宗教施設を破壊、キリスト教徒は日本各地に散らばることになるが弾圧は徹底されなかった。以心崇伝が関与した紫衣事件では仏教を介して幕府が天皇よりも上に立つことを公に示すことになった[157]

徳川秀忠元和2年(1616年)に「二港制限令」、元和5年(1619年)に改めて禁教令を出し、キリスト教の本格的な宗教弾圧キリスト教徒に対して仏教への強制改宗が行われた。キリスト教に好意的で弾圧に乗り気で無かった京都所司代板倉勝重に対して秀忠はキリスト教徒の火炙りを直々に命じ、元和5年(1619年)10月6日、京都六条河原で52名が処刑される(京都の大殉教)、この52名には4人の子供が含まれ、さらに妊婦も1人いた。元和8年(1622年)には計55名を長崎西坂において処刑(元和の大殉教)、中には3歳、4歳、5歳、7歳、12歳の子供が含まれていた[158]

島原の乱後に出版された『吉利支丹御退治物語』には火炙りによる処刑を成仏のためと処刑法に抗議するような記述はない。

火あぶりに、なるも。うしざき。車ざき、さかはりつけ。かやうのなんに、あふか。のそみの、かなふ成仏と心へて、いのちを、いとひ。かなしむもの、なきと、みえたり。あはれなる事共かな、ちゑのなきものハ。をのれが、みヽに聞入、心に、おもひ。さだめたる事をハ。かつて、ひるかへす事なし。たとへは、二三さいの、わらんべか。かヾみのうちの、かちを見てハ、まことの、かたちと思ひ。水の中の月を、みてハ。ゑんこうが。てにとらんと、おもふ、おろかなる心と、ひとしきもの也。ぐ人はみな、かくのごとし。げたうの法、まほうなるべし[159]

火あぶり」「牛裂き」「車裂き」「逆さ」にあうのは外道邪教のせいであると批判の矛先をキリスト教に向けており、現代の基準では野蛮な行為を異教徒に対する攻撃として正当化している。

島原の乱の後、寛永17年(1640年)に幕府宗門改役を設置、寺請制度(檀家制度)によって宗教弾圧は強化されたが、その余波として神式の葬儀である神葬祭は禁じられ仏式が強制されるなど信仰の自由が制限・統制され宗教界全体に影響が及んだ。寺請制度邪宗門の発見を目的とした宗教迫害制度であり、キリスト教だけでなく日蓮宗不受不施派にも狙いを定め受布施派か天台宗への強制改宗または刑罰を選ばさせた。宗教弾圧は民間宗教新興宗教にまで及んだ。寺は寺請証文の発行を拒否することで、檀家を宗門人別改帳から削除し無宿非人に落とせる強力な権限を背景に、檀家に対して経済的負担を強いることができた。

追放令後の外交関係

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欧米の歴史学者の中には豊臣秀吉の反キリスト教的な外交政策は、伝統的な社会序列に従わない反体制思想として危険視されていたキリスト教から秀吉の独裁政権を守るために行われたと主張する者がいる[28]。スペイン人歴史学者ホセ・エウゲニオ・ボラオ・マテオはスペイン領フィリピン在住のスペイン人がバテレン追放令を秀吉のフィリピン侵略作戦の前触れとして理解し、スペイン人が日本からの侵略に備えていたことをスペイン側の資料から提示しており[29][30]ブリル (出版社)の日本キリスト教史ハンドブックも1587年のバテレン追放令から1592年の原田喜右衛門のフィリピンへの降伏勧告(フィリピン侵略計画)、1596年のバテレン追放令の更新を一連の流れとして記述している[31]

1587年、日本からの2隻の船がフィリピンに来航したが、バテレン追放令の敵対的外交政策と整合性のとれない和船の来航に警戒したスペインは日本の侵略に備えるようになった[29]1589年には巡礼者と称する日本人の集団が、マニラ周辺を歩き周り偵察しており、バテレン追放令を契機とした膨張政策の始まりであるとスペイン側は記録している[30]1591年には原田孫七郎がフィリピン征服の実地調査を行ったとされ、侵略を警戒するスペインと日本の相互不信が強まっていった[160][注 50]

日本人によるフィリピン侵略の恐れについて書かれた最古のものは1586年の評議会メモリアルである[注 9]マニラでは日本人の倭寇が単なる略奪以上の野心を持っているかもしれないと推測されており「彼らはほとんど毎年来航しルソンを植民地にするつもりだと言われている」[116]と警鐘を鳴らしていた。

天正20年(1592年)6月、すでに朝鮮を併呑せんが勢いであったとき、毛利家文書および鍋島家文書によると、秀吉はフィリピンのみならず「処女のごとき大明国を誅伐すべきは、山の卵を圧するが如くあるべきものなり。只に大明国のみにあらず、況やまた天竺南蛮もかくの如くあるべし」とし[3][161]インド南蛮東南アジアポルトガルスペインヨーロッパ等)への侵略計画を明らかにした。秀吉は先駆衆にはインドに所領を与えて、インドの領土に切り取り自由の許可を与えるとした[162][注 50]

1592年原田喜右衛門がマニラに来航して秀吉の親書を総督に渡した[注 51]豊臣秀吉フィリピンに対して降伏朝貢を要求してきたが、フィリピン総督ゴメス・ペレス・ダスマリニャスは1592年5月1日付で返事を出し、ドミニコ会の修道士フアン・コボが秀吉に届けた。コボはアントニオ・ロペスという中国人キリスト教徒とともに日本に来たが、コボとロペスは、朝鮮侵略のために九州に建てられた名護屋城で秀吉に面会した。原田喜右衛門はその後、マニラへの第二次日本使節団を個人的に担当することになり、アントニオ・ロペスは原田の船で無事にマニラに到着した[163]

1593年6月1日、ロペスは日本で見たこと行ったことについて宣誓の上で綿密な質問を受けたが、そのほとんどは日本フィリピンを攻撃する計画について知っているかということに関するものであった。ロペスはまず秀吉が原田喜右衛門に征服を任せたと聞いたと述べた[164]。ロペスは日本側の侵略の動機についても答えた。

フィリピン黄金が豊富にあるという話は万国共通である。このため兵士たちはここに来たがっており、貧しい国である朝鮮には行きたがらない[165]

ロペスはまた日本人フィリピン軍事力について尋問されたとも述べている。アントニオ・ロペスはフィリピンには4、5千人のスペイン人がいると答えたのを聞いて、日本人は嘲笑った。彼らはこれらの島々の防衛は冗談であり、100人の日本人は2、300人のスペイン人と同じ価値があると言ったという[166]。ロペスの会った誰もが、フィリピンが征服された暁には原田喜右衛門が総督になると考えていた[167]

その後、侵略軍の規模についてロペスは長谷川宗仁の指揮で10万人が送られると聞いたが、ロペスがフィリピンには5、6千人の兵士しかおらず、そのうちマニラの警備は3、4千人以上だと言うと、日本人は1万人で十分と言った。さらにロペスに10隻の大型船輸送する兵士は5、6千人以下と決定したことを告げた[168]。ロペスは最後に侵攻経路について侵略軍は琉球諸島を経由してやってくるだろうといった[169]

1596年、空文化していたバテレン追放令がサン=フェリペ号事件を契機にして更新された[31][注 50]1597年2月に処刑された26聖人の一人であるマルチノ・デ・ラ・アセンシオンスペイン語版フィリピン総督宛の書簡で自らが処刑されることと秀吉のフィリピン侵略計画について日本で聞いた事を書いている。「(秀吉は)今年は朝鮮人に忙しくてルソン島にいけないが来年にはいく」とした[170][171]。マルチノはまた侵攻ルートについても「彼は琉球台湾を占領し、そこからカガヤンに軍を投入し、もし神が進出を止めなければ、そこからマニラに攻め入るつもりである」と述べている[170][171]。バテレン追放令の更新によってスペリン領フィリピンでは、秀吉によるフィリピン侵略への懸念が再燃した[172][注 52]

脚注

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注釈

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  1. ^ a b c 寒村に過ぎなかった長崎には、各地で迫害され追放されたキリスト教徒たちが集まっていた[6]大村純忠は都市の無期限使用権と治外法権を与える代わりに、港の関税、入港税を永久に確保し、徴収のための役人を常駐させることを条件に新町長崎と茂木寄進1579年に打診し、1580年に寄進状を発行した[7]。イエズス会は迫害により土地を追われたキリシタンのための避難所を確保できることや土地をいつでも手放す自由があることを考慮して、大村純忠の打診から3年後の1582年に受け入れた[8]
  2. ^ ポルトガル商人はキリスト教の教会を破壊し、キリストの肖像画を燃やさせた領主の港へも来航して宣教師と対立した[15]
  3. ^ a b c d e f g h イエズス会1555年の最初期の奴隷取引からポルトガル商人を告発している[9]。イエズス会による抗議は1571年セバスティアン1世 (ポルトガル王) による日本人奴隷貿易禁止の勅許公布の原動力としても知られている[10]日本人奴隷の購入禁止令を根拠に奴隷取引を停止させようとした司教に従わないポルトガル商人が続出、非難の応酬が長期に渡り繰り返される事態が続いた[11][12][13]。ポルトガル国王やインド副王の命令に従わず法執行を拒否して騒動を起こすポルトガル商人や裁判官等も数多くいたという[9][14][注 2]
  4. ^ a b 豊臣秀吉は「人心鎮撫の策」として、遊女屋の営業を積極的に認め、京都に遊廓を造った。1585年に大坂三郷遊廓を許可。89年京都柳町遊里(新屋敷)=指定区域を遊里とした最初である。秀吉も遊びに行ったという。オールコックの『大君の都』によれば、「秀吉は・・・・部下が故郷の妻のところに帰りたがっているのを知って、問題の制度(遊廓)をはじめたのである」やがて「その制度は各地風に望んで蔓延して伊勢の古市、奈良の木辻、播州の室、越後の寺泊、瀬波、出雲碕、その他、博多には「女膜閣」という唐韓人の遊女屋が出来、江島、下関、厳島、浜松、岡崎、その他全国に三百有余ヶ所の遊里が天下御免で大発展し、信濃国善光寺様の門前ですら道行く人の袖を引いていた。」 [138]のだという。
  5. ^ a b 江戸幕府が豊臣秀吉遊郭を拡大して唐人屋敷への遊女の出入り許可を与えた丸山遊廓を島原の乱後の1639年(寛永16年)頃に作ったことで、それが「唐行きさん」の語源ともなっている[139][140]。秀吉が遊郭を作ったことで、貧農の家庭の親権者などから女性を買い遊廓などに売る身売りの仲介をする女衒が、年季奉公の前借金前渡しの証文を作り、本人の意志に関係なく性的サービスの提供の強要が横行した(性的奴隷)。日本人女性の人身売買はポルトガル商人や倭寇に限らず、19世紀から20世紀初頭にかけても「黄色い奴隷売買」、「唐行きさん」として知られるほど活発だった[17]
  6. ^ a b 伴天連追放令後の1589年(天正17年)には日本初の遊郭ともされる京都の柳原遊郭が豊臣秀吉によって開かれたが[16][注 4]、遊郭は女衒などによる人身売買の温床となった[注 5]。宣教師が指摘した日本人が同国人を性的奴隷からゆきさん)として売る商行為は近代まで続いた[17][18]
  7. ^ この箇所には出典がないため独自研究の疑いがあります(Wikipedia:独自研究は載せない)。第一に長崎がイエズス会領だったと秀吉が認識していた(もしくは施薬院全宗がそう主張した)という主張に出典がなく、イエズス会の港湾使用権を「イエズス会領」とみなせる(もしくは施薬院全宗がそう主張した)根拠となる出典がない。第二に非キリスト教徒が連れ去られたとの主張(もしくは施薬院全宗がそう主張したこと)を示す出典がなく、事実かのように言葉を濁すべきでない。仮にあったとして誰がしたのかも記述されておらず、それが秀吉が信じたとの出典がありません(Wikipedia:言葉を濁さない)。第三に「施薬院全宗らから知らされたとされる」と書かれてますが、表現として目撃情報を報告したとも読めるので、「学者Aによると施薬院全宗がそう主張していた」ぐらいに文章を帰属化、明確化をして、不正確な表現を避けてください。全体としては信頼できる情報源からの出典と矛盾するようにも見えるので、これら全てを具体的に支持する出典と文章の帰属化が必要です。WP:RSに該当する査読や追試のついた資料から出典してください(Wikipedia:信頼できる情報源#歴史)。
  8. ^ a b 追放令をスペインは膨張政策の予兆と捉え、未遂に終わったがフィリピンへの侵略計画を予想し的中させた。フィリピン侵略の偵察と見られる和船来航は1587年、1589年にあり、1591年には具体的な侵略計画に関わったと見られる原田孫七郎がフィリピンを訪問している。その一方で秀吉は1591年にフィリピンとの交易を認可しており[29]、フィリピンとの交易と侵略計画を同時に行っていた。
  9. ^ a b c 1586年3月、秀吉はガスパール・コエリョに対しへの侵略計画を明かしている[3][4][5]
  10. ^ 日本の奴隷市場は倭寇による中国人奴隷や朝鮮人奴隷の供給だけでなく、日本国内からの供給にも依存していた[33]
  11. ^ a b 天正遣欧使節記の目的をヴァリニャーノはポルトガル国王やローマ教皇に対して政治的、経済的援助を依頼するためと書き残している。天正遣欧使節記はポルトガルの奴隷貿易に関連して引用されることがあるが、宣教師によって記述された情報はポルトガル王室への奴隷貿易廃止のロビー活動[137]として政治的な性質を帯びており、宣教師側がポルトガル王室から政治的援助を受けるため、さらにポルトガル商人を批判して奴隷売買禁止令の執行実施を促すために生み出した虚構としての側面からも史料批判が必要と考えられる[注 3]
  12. ^ 牛や馬の皮を生きたまま剥いで、そのまま食べるといった
  13. ^ ポルトガル人を貶めるために捏造された歴史資料や、政治的煽動に使うためのプロパガンダ
  14. ^ 現代語訳をつける場合はWP:RSに適合した二次資料の現代語の解説をつけるようにしてください
  15. ^ (『九州御動座記』の抜粋、黒字がホムロ・ダ・シウヴァ・エハルトが論文で指摘していた「牛馬を生きている状態で皮を剥いで素手で食べる」と記述している箇所[35])日本仁を数百男女によらす黒舟へかい取、手足ニ鉄のくさりを付舟底へ追入、地獄の荷責ニもすくれ其上牛馬をかい取、生なから皮をはぎ坊主も弟子も手つから食し親子・兄弟も無礼儀上䣍今世より畜生道有様目前の二相聞候[注 14]
  16. ^ 中国人奴隷は目撃の20年前に日本人家族によって購入されていた[38]
  17. ^ 島津による豊後侵攻ではキリスト教徒、非キリスト教徒を問わず少年少女が乱妨取りによって奴隷とされた[40][41]
  18. ^ 秀吉は乱妨取りなどによって人身売買されたものだけでなく、日本各地で自発的に領地を出た農民をも領地に返すよう命じていた[44]。さらに肉食によって農業生産が落ちることを懸念していた[45]
  19. ^ a b c d 天正遣欧使節記は幻想をあたかも現実かのように描いており、文学のジャンルに分類できると考えられている。実際に起きた会話を書き写したものではない[47]フィクションであるため歴史学の一次資料としての使用はできず、ラテン語で出版されているため読者はヨーロッパの人々を念頭に創作されていたと考えられる。
  20. ^ Wikipedia:信頼できる情報源#研究史・史学史という観点
  21. ^ 奴隷に関する記述は姉崎正治レオン・パジェスの著作にもあるがWP:RSガイドラインに準拠しない。
  22. ^ 牧英正は学術雑誌掲載の査読論文が確認できずWP:RSの専門家に該当しない可能性がありますが、古すぎて確認が困難なため当面は放置します。黎明期の法制史の分野に詳しい方がいれば、ノートで教えてください。
  23. ^ 2024年時点で社会科学高等研究院教授。
  24. ^ 「The Portuguese Slave Trade in Early Modern Japan」については単純な誤りも指摘されている[58]が、ミスはあり得ることなので重大な問題とは言えない。
  25. ^ 査読付き学術雑誌の書評はWP:RSOPINIONの権威のある意見に該当しWP:RSに準拠しています。研究史などの専門家どうしの意見の信頼できる情報源(WP:RS)とはなりますが、歴史的に起きた事実の記述としてではなく、先行研究を含む資料の重みを客観的に評価・整理する「意見」や、研究史または二次資料に関しての所見や補足資料として使うことができます(en:WP:NEWSOPEDen:WP:EXTRAORDINARY)。
  26. ^ 近世日本社会経済史を専門とするギヨーム・カレ[注 23]はデ・ソウザが西洋圏の一次資料二次資料に焦点を当てる一方で、日本における中世末期から17世紀までの奴隷制の慣行に関する膨大な研究成果を利用しなかったことで、依存と服従の形が隷属と見分けがつかないようなポルトガル人来航以前の日本社会状況を知ることができず、日本における隷属歴史から見たポルトガル人の特殊性への考察が欠けているとも論評している[57][注 24][注 25]
  27. ^ アジアでの奴隷貿易に関する著作「European Slave Trading in Asia」(2014年[59]で知られている[60]
  28. ^ リチャード・B・アレン[注 27]は、デ・ソウザは研究と議論の十分な文脈化ができておらず、ミクロとマクロの歴史を結びつける試みに失敗したという。発見した史料を埋もれさせたくない気持ちが先走って、木を見て森を見ずの状態に陥いることになったと指摘している[61]
  29. ^ または先行研究との整合性がなく、根拠が提示されていない叙述表現
  30. ^ 歴史学者ホムロ・エハルトもデ・ソウザの書籍中での主張には矛盾[注 29]があると言及している[62]
  31. ^ 近世アジアの人身売買に関する研究をしている[63]
  32. ^ ソウザの著作はバテレン追放令前に実施された秀吉とコエリョの質疑回答に関する分析を行っているが、記述の信頼性や議論の文脈化について懸念があるため記載しない。
  33. ^ a b 1555年に「A Arte da Guerra do Mar」(海戦術)を出版したポルトガル人ドミニコ会修道士フェルナン・デ・オリヴェイラは異教徒との戦争であっても、キリスト教徒のものであった領土を侵略した国々に対してのみ行えるとした[76]。1556年に出版され、ジョアン3世 (ポルトガル王)宛に書かれたと見られる「Por que causas se pode mover guerra justa contra infieis」では、異教徒に対する正戦を宗教的なものでなく完全に政治的な行為とし、共同体の領地を占領したり、犯罪をしたものを罰するために行われるとしている[77]
  34. ^ a b 日本人や中国人の奴隷は正戦[注 33]の虜囚(iustae captivitas)でも、一般的な奴隷にも該当しなかった。日本人の奴隷は期限付きの隷属(temporali famulitium)のみが許容されていた[78]
  35. ^ a b c 日本人の奴隷については「voluntary servitude」が許容されており[79]、ポルトガル人イエズス会士ルイス・セルケイラは年季奉公: indentured servitude)の意味で言及している[80]
  36. ^ 江戸時代前期の年季奉公の主流は奴婢下人の系統を引くもので、奉公人は人身売買の対象となった。江戸幕府は法律上は営利的な人の売買を禁止したが、それは主として営利的な人の取引に関したもので、実際においては父や兄が子弟を売ることは珍らしくなく、また人の年季貫は非合法でなかった[83]。主人と奉公人との間には、司法上ならびに刑法上の保護と忠誠の関係があるべきものとされた。奉公人は主人を訴えることが許されず、封建的主従関係であったという[84]江戸時代に入り雇用契約制度である年季奉公が一般に普及しはじめると譜代下人(または譜代奉公人)としての男性の売買は江戸時代中期(十七世紀末)にはほとんど見られなくなった。しかし遊女飯盛女の年季奉公ではいくつかの点で人身売買的な要素が温存された[85]
    1. 家長権を人主から雇い主へ委譲
    2. 転売の自由
    3. 身請け・縁付けの権利を雇い主に委譲
    4. 死亡後の処置も雇い主へ一任
    中田薫 (法学者)は「奴婢所有権の作用にも比すべき、他人の人格に干渉し、其人格的法益を処分する人法的支配を、雇主の手に委譲して居る点に於て、此奉公契約が其本源たる人身売買の特質を充分に保存する」[86]として「身売的年季奉公契約」と名付けた[85]
  37. ^ 中世日本では人身永代売買が広く行われており、年季奉公が一般的になったのは江戸幕府以降だが[75]、ポルトガル人が日本で購入した奴隷の中には、数年で契約期間が終了する年季奉公人が記録されている[91]。日本人の年季奉公制度(期限奴隷制度)では、マカオへの渡航のみを希望したり、ポルトガル人に雇われることができず、自らを売った者などがいたという[92]。マカオに上陸するなり、明の管轄する領土に移動して労働契約を一方的に破棄する日本人の年季奉公人が続出した[93]。この結果、多くのポルトガル人は以前と同じ量の日本人奴隷を買わなくなったという[92]。自らの意志で奴隷になろうとした者の背景としては、軍資金を求めて領主が要求した増税は、領民の貧困化を招き、多くの日本人が奴隷制を生き残るための代替戦略として捉えていたことがある[94]。中世の日本社会では、百姓は納税が間に合わない場合に備えて、自分や他人を保証人として差し出すことができたという。税金を払わない場合、これらの保証は売却される可能性があり、農民奴隷の区別をいっそう困難にしていた[95]
  38. ^ 廃止の最終決定にはイエズス会総長のクラウディオ・アクアビバ英語版の支援があったとされている[97]
  39. ^ ヴァリニャーノは文禄・慶長の役正戦[注 33]とは考えなかった[99]。1594年に日本のイエズス会からヨーロッパに送られた質問状によると、日本の紛争では正戦の概念に従わず、弱肉強食の原理で領地を占拠する慣習が認められているため[100]、合法的で自然な領主を見つけることができないとした。宣教師達は日本における唯一の合法的な土地所有者は天皇だと考えていた[101]。キリシタン大名に征服した領地を返すよう戒めたとしても、彼らは合法的な所有権を持つと考えるために返還は失敗するであろうと警告し、問題をごまかして見てみぬふりをすべきか問うている[102]。宣教師達は戦争について自由に助言すれば、キリスト教の教義と日本の慣習との間に対立する状況が生まれると考えていた[103]
  40. ^ 飢饉自然災害時に保護と引き換えに労働を申し出た者は日本社会では下人とみなされたが、宣教師は提供された対価の量に見合うだけの労働が完了した時点で下人の解放を助言するよう1567年のゴア評議会は定めていた[105]
  41. ^ 1567年ゴア評議会によれば、キリシタンは不当な理由で死刑判決を受けた犯罪者を救うときに身代金を提供することができたが、いかなる者も無償で金銭を提供することを強制されるべきではないため、救出者は引き換えに使用人として働かせることが許容されていた[107]。日本では夫が領主によって刑罰をうけたときに、妻子も下人として所有人身売買されることが頻繁にあったが、イエズス会士は犯罪者の妻子が下人になるべきでないと助言していた[108]。また女性父親から逃げて領主の屋敷に保護を求めたときに、日本の慣習では女性を下人とすることを許容していたが、彼らが重大な犯罪を冒した場合を除いて、宣教師が解放を働きかけるよう定めていた[109]
  42. ^ 1587年マニラに来航した日本人に日本の奴隷制度について聞いたところ、息子父親の身分を継承し、母親の身分を継承して主人に所有権が引き継がれるとの律令制の法令と合致する回答をしたという[111][112]
  43. ^ セルケイラはキリシタン大名でない日本の領主の課す重税によって親が子を売るよう強いられていたと述べているが、極限状況でない場合でも子供が売られていたことを問題視していた[113]
  44. ^ 八家九宗のことで、日本に広まった仏教の南都六宗倶舎宗成実宗律宗法相宗三論宗華厳宗)に、天台宗真言宗を加えて8つとし、さらに禅宗あるいは浄土宗を加えた9つの宗派を指す。
  45. ^ a b キリスト教に敵対的な領主は領内の十字架を倒し、キリスト教徒を元の教えに強制改宗するように命じたり(1564年十月十四日)[120]、1563年十一月七日頃には修道院とキリシタンの農民たちの家を燃やした[121][122]。1573年には教会が焼き払われている[123]。このようにキリスト教と仏教の信者間での対立関係が悪化していた[15]
  46. ^ 神国」や「神州」という語は、対外的な緊張が高くなったときに用いられた。
  47. ^ a b 本来は「邪法」の対語は「正法」であるが、ここではこれを仏法(仏教そのもののこと)と言い表している。
  48. ^ 徳富蘇峰の『近世日本国民史』の初版には、「秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録や天正遣欧使節の報告書にはヨーロッパ人がアジア人を奴隷貿易していたことが書かれている」と記されているが、これは出典が不明な上、朝鮮出兵の時代の日本になぜか「記者」がいたり、当時は外国人が入ることを許されなかった朝鮮においてヨーロッパ人がアジア人を使役していたりなど、事実と異なる記述がある。このため信憑性を疑問視する説もある。
  49. ^ その他の条文で「商人は出入り自由」としていること、後の朝鮮出兵において朝鮮人捕虜を日本に連れてきて労働力としていることなどから、これは主要な目的ではなく、明征服にあたって少しでも人口を減らしたくなかったために盛り込まれた条項と推測する山本博文の説もある[133]
  50. ^ a b c 1587年の追放令から1592年の原田喜右衛門のフィリピンへの降伏勧告、1596年の追放令の更新を一連の流れとして記述することがある[31]
  51. ^ 秀吉の親書も含めた4通の手紙を受領したことが記録に残されている。
  52. ^ 日本によるフィリピン侵略は秀吉だけでなく、1630年松倉重政によって計画が行われた。マニラへの先遣隊は1631年7月、日本に帰国したが1632年7月までスペイン側は厳戒態勢をしいていた。1637年には息子の松倉勝家の代においても検討がなされた[173]
    その後、5年間はフィリピンへの遠征は考慮されなかったが、日本の迫害から逃れてきたキリスト教難民がマニラに到着し続ける一方で日本への神父の逆流が続いていた……松倉重政の後を継いだ息子の松倉勝家は、父に劣らず暴君でキリスト教であったが、勝家が島原の大名として在任中に、最後のフィリピン侵略の企てに遭遇することになる。 — 海軍大学校 (アメリカ合衆国)レビュー、69(4)、10、2016、pp. 8-9[173]

    オランダ人は1637年のフィリピン侵略計画の発案者は徳川家光だと確信していたが[174]、実際は将軍ではなく、上司の機嫌をとろうとしていた榊原職直馬場利重だったようである。遠征軍は松倉勝家などの大名が将軍の代理として供給しなければならなかったが、人数については、松倉重政が計画していた2倍の1万人規模の遠征軍が想定されていた[175]。フィリピン征服の司令官は松倉勝家が有力であったが、同年におきた島原の乱によって遠征計画は致命的な打撃を受けた[176]

    島原の乱の数ヵ月後、将軍徳川家光の諮問機関は廃城となっていた原城を奪うために必要な努力と、何百マイルも移動して(当時の東アジアで最も要塞化された都市の一つであった)マニラ要塞に対抗するために同様の規模の軍と同様の海軍の支援を計画することを比較検討した。フィリピン侵攻のために用意した1万人の兵力は10万人、つまりその3分の1の反乱軍に打ち勝つために原城に投入しなければならなかった兵力であるべきとの分析がなされた[176]

出典

[編集]
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  28. ^ a b Sansom, George Bailey, Sir (1965). The Western world and Japan. CHaddon Craftsmen, Inc. p. 129. ""From his standpoint as a dispotic ruler he (=Hideyoshi) was undoubtedly right to regard Christian propaganda as subversive, for no system can survive unchanged once the assumptions upon which it is based are undermined. However high their purpose, what the Jesuits were doing, in Japan as well as in India and China, was to challenge a national tradition and through it the existing political structure. This last is an animal that always defends itself when attacked, and consequently Hideyoshi's reaction, however deplorable, was to be expected and does not seem to need any fuller explanation."" 
  29. ^ a b c d e f La colonia de japoneses en Manila en el marco de las relaciones de Filipinas y Japón en los siglos XVI y XVII, José Eugenio Borao Mateo, Revista anual de Literatura, Pensamiento e Historia, Metodología de la Enseñanza del Español como Lengua Extranjera y Lingüística de la Confederación Académica Nipona, Española y Latinoamericana, ISSN 1344-9109, Nº. 17, 2005, págs. 25-53, "Con ocasión de la llegada de los barcos de Matsuura de Hirado (1585) y de Ohmura de Nagasaki (1586), los japoneses que aún permanecían en Cagayan así como muchos de Lingayen, se desplazaron a Manila. Las primeras relaciones entre españoles y japoneses de Manila estuvieron marcadas por el recelo. Por un lugar estaban las sospechas sobre los verdaderos motivos de la llegada de barcos japoneses, ya que ello no casaba demasiado con la promulgación del decreto de expulsión de misioneros cristianos en 1587, es decir, de los jesuitas portugueses venidos de Macao. Ciertamente, el decreto no tuvo grandes consecuencias, ya que los misioneros disminuyeron sus apariciones públicas, e Hideyoshi se dio por satisfecho. Pero, las sospechas en Manila se agravaron con los dos barcos que llegaron en 1587. En el primero de ellos, perteneciente al japonés Joan Gayo, la tripulación resultó sospechosa de complicidad en una insurrección de nativos, liderada por Agustín Legazpi. Algunos fueron arrestados y, en particular, el intérprete japonés Dionisio Fernández fue ajusticiado el 13 de junio del año siguiente (1588)8. El segundo barco, de Matsuura de Hirado, llegó el 15 de julio con armas y provisiones. Aunque el capitán del barco llevaba un mensaje de buena voluntad de su señor Matsuura y de su hermano, cuyo nombre cristiano era Gaspar, esta vez los españoles tomaron precauciones y los 40 marineros de la tripulación fueron atendidos por la iglesia de Manila y tras acabar sus negocios se marcharon."
  30. ^ a b c d e La colonia de japoneses en Manila en el marco de las relaciones de Filipinas y Japón en los siglos XVI y XVII, José Eugenio Borao Mateo, Revista anual de Literatura, Pensamiento e Historia, Metodología de la Enseñanza del Español como Lengua Extranjera y Lingüística de la Confederación Académica Nipona, Española y Latinoamericana, ISSN 1344-9109, Nº. 17, 2005, págs. 25-53, "En 1589, fueron 30 ó 40 japoneses los que llegaron a Manila. Iban con vestimenta de peregrinos, para visitar las iglesias del país. Llevaban rosarios en el cuello y se movían con gran penitencia. Anduvieron 15 leguas alrededor de Manila y sus esteros, reconociéndolo todo. No se les molestó y se acabaron marchando. El gobernador fue de los que creyó a posteriori que habían venido en misión de espionaje, y con los datos que hubieran obtenido, tras contrastarlos con los de otros de los comerciantes, “se [habría] conocido en Japón la riqueza y la flaqueza de los naturales y la gente española que había para defender las Islas”9. Era el inicio del expansionismo de Hideyoshi10, y los españoles pensaron que también podrían ser objeto de un ataque japonés, y, en previsión de ello, Gómez Pérez Dasmariñas dio instrucciones, a principios de 1592, para preparar la defensa. Una de las medidas adoptadas fue congregar a todos los japoneses residentes de Manila en un barrio extramuros, el de Dilao, confiscarles sus armas y limitar su libre movilidad por la ciudad. La medida no parecía vana, a juzgar por las embajadas de Japón que llegaron a continuación a Manila."
  31. ^ a b c d 「Handbook of Christianity in Japan / edited by Mark R. Mullins. p. cm. — (Handbook of oriental studies, Section 5, Japan ; v. 10) ISBN 90-04-13156-6 I. Japan—Church history. I. Series. p. 9-11
  32. ^ a b c Never Imagine Yourself to be Otherwise: Filipino Image of Japan over the Centuries, Elpidio STA. ROMANA and Ricardo T. JOSE, Asian Studies 29 (1991), pp. 67-68, "In 1591, a Japanese named Harada Magoshichiro was reported to have studied parts of the Philippines and recommended that Hideyoshi conquers the Philippines. Hideyoshi made concrete plans but sent an emissary the following year to Manila and demanded that the Spaniards become his vassals and pay tribute; otherwise he would invade the Philippines. He has just invaded Korea, and the poorly defended Spaniards could only reply that they sought friendship with Japan. Japanese ships entering Manila were checked thoroughly to make sure they carried no weapons. The Japanese community in Manila was disarmed and resettled outside Manila in a place called Dilao district. The next year, the Spaniards tried to guard their north flank by invading Taiwan but a typhoon thwarted that expedition. Later, Hideyoshi also sent a request to the Spanish authorities in the Philippines for shipbuilders but was refused by the Spaniards who realized that they will be used to build warships. The apprehensive Spaniards sought reinforcements from Mexico. 10 The Japanese were also suspicious of Spanish attempts to proselyte in Japan. This mutual suspicion - Spain fearing a Japanese invasion, Japan suspicious of Spanish evangelization and fearful that Japan might be involved in power conflicts in Europe- was to continue into the early 17th century."
  33. ^ a b Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p. 282, "Forced labor was a sub product of these struggles, and the Japanese slave market became dependent not only on Chinese and Koreans captured by Wakō, but also on servants captured domestically."
  34. ^ Peter C. Mancall, ed (2007). The Atlantic World and Virginia, 1550-1624 (illustrated ed.). UNC Press Books. p. 228. ISBN 080783159X
  35. ^ a b c d da Silva Ehalt, Rômulo (2017). Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan (Thesis). Tesis Doctoral, Tokyo University of Foreign Studies. p. 345-346., "The description abounds in horror and awe. The horrific scenario described instantly reminds contemporary readers of the horrors of the slave trade between Africa and the Americas. However, there are issues that may be raised to question the text’s accuracy. The chronicle sounds somewhat fantastic when describing the eating habits of the Portuguese. In fact, the description of Europeans as raw meat-eating monsters was quite common in East Asia."
  36. ^ CRUZ, Frei Gaspar da (auth.) and LOUREIRO, Rui Manuel (ed.). Tratado das Coisas da China (Évora, 1569-1570). Lisbon: Biblioteca editores Independentes, 2010, p. 177.
  37. ^ 千利休切腹の原因およびその後の千利休の死をめぐる言説に関する研究”. 2024年8月28日閲覧。福井幸男、桃山学院大学、博士論文、2014、p. 73、「誤認が何に由来しているのか不明である」
  38. ^ a b Human Trafficking and Piracy in Early Modern East Asia: Maritime Challenges to the Ming Dynasty Economy, 1370–1565, Harriet Zurndorfer, Comparative Studies in Society and History (2023), 1–24 doi:10.1017/S0010417523000270, p. 13, "The wokou also engaged in human trafficking. In 1556, the Zhejiang coastal commander Yang Yi sent his envoy Zheng Shungong (flourished in the sixteenth century) to Japan to ask Kyushu authorities to suppress piracy along the Chinese littoral. When Zheng arrived, he found in Satsuma some two to three hundred Chinese working as slaves. Originally from southern Fujian prefectures, they were kept by Japanese families who had bought them from the wokou some twenty years before.61"
  39. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p. 277, "Chinese forced labor brought to Japan via these pirates is Zhèng Shùn-gōng 鄭舜功’s Rìběn Yíjiàn 日本一鑑. The book was compiled during Zhèng’s six-month trip to Bungo 豊後 in 1556, during the height of the Wakō activities in the region. In the section describing captives in Japan, Zhèng mentions that in Takasu 高洲, southern Kyushu, there were about two to three hundred Chinese people, “treated like cattle”, originally from Fúzhōu 福州, Xīnghuà 興化, Quánzhōu 泉州, Zhāngzhōu 漳州 and other areas serving as slaves in the region.910"
  40. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p.274-275, "[Those from Satsuma, seeing that they were so successful in their intent,started to burn, destroy and devastate throughout those lands of Nangun and otherwere they went through, that nothing would stand still, and those who resisted alittle soon were killed. And what was not the least shameful thing, but the greatest shame, was to see the great crowd of people they would take captured, especially women, boys and girls, to whom they committed the greatest cruelties, and among these there was a great number of Christians.].
  41. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p. 275, "The scenario is confirmed by the diary of Uwai Kakken 上井覚兼, a bushi at the service of the Shimazu clan. In the entry for the 12th day of the 7th month of Tenshō 14 –August 26th 1586 – he writes:「一、十二日、早旦打立、湯之浦ヘ着候、路次すから、手負なとに行合候、其外、濫妨人なと・女・童なと数十人引つれかへり候ニ、道も去あえす候」903"
  42. ^ a b c d Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p. 333, "In conclusion, the interrogatory sent by Hideyoshi shows that the ruler was more concerned with economic aspects and the impact of the way Jesuits acted in Japan rather than moral issues. The depletion of the fields of Kyushu from human and animal labor force was a serious issue to the local economy. This conclusion overturns what has been stated by the previous historiography, since Okamoto, who defended that Hideyoshi, upon arriving in Kyushu, discovered for the first time the horrors of the slave trade and, moved by anger, ordered its suspension.1053 However, as we saw before, the practice was much older and most certainly known in the whole archipelago, although apparently restricted to Kyushu. Because the Kanpaku consolidated his rule over the island, conditions were favorable for him to enact such orders."
  43. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p.333, "The Kanpaku made three irrefutable offers to the Jesuits, effectively establishing the conditions for them to stay in the archipelago."
  44. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. pp. 330-331 ,"Fróis was, in fact, explaining his audience that Hideyoshi’s was poised to demand the return of people who were displaced by events such as war, kidnapping, or even people who had voluntarily fled their village...And the order for return of laborers to one’s fief was one of the necessary maneuvers to guarantee these conditions. These people could be displaced not only by conflict or kidnappings, but also by fleeing economic and social conditions. 1050 These were moves occurring in all Japanese territory and were not restricted to areas of Kyushu."
  45. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p. 328 ,"He explains the necessity they had of cows and horses in the country, as an important resource for war and manual labor. Hideyoshi also explains that eating these animals could deplete the land of this important resource. Once more, the ruler makes an irrefutable offer to the priests: if the Portuguese and the missionaries could not live without eating meat, Hideyoshi would order the construction of a facility to keep hunted animals to be consumed by the foreigners."
  46. ^ MATSUDA Kiichi. Tenshō Ken’ō Shisetsu. Tokyo: Chōbunsha, 1991, pp. 274-5
  47. ^ a b Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p. 366, "First, it is important to consider the format chosen by the missionaries. As Nina Chordas explains, early modern dialogues were a quasi-fictional genre, in the sense that they insisted on being accepted as an entity “with some agency in the actual, material world”. As a literary genre, the dialogue was the result of a “general distrust of imaginative literature” in the late Renaissance, thus offering an alternative for seducing the rational mind.1151 These texts were, as pointed by Jon R. Snyder, “never transcriptions of conversations or debates that actually occurred (although this is one of their enabling fictions); no unmediated traces of orality can be discovered in dialogue, except in the form of carefully constructed illusion.”1152"
  48. ^ a b c d デ ・サンデ 1590 天正遣欧使節記 新異国叢書 5 (泉井久之助他共訳)雄松堂書店、1969、p233-235
  49. ^ a b c d Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan、Rômulo da Silva Ehalt, p.40-47, "According to Maki, the Kanpaku was more concerned with securing labor force in Japan than considering ethical issues regarding the treatment slaves could have been receiving from their European masters.98"
  50. ^ BOXER, Charles R. Fidalgos in the Far East (1550-1771). The Hague: Martinus Nijhoff, 1948, p. 234
  51. ^ MAKI Hidemasa. Jinshin Baibai. Tokyo: Iwanami Shinsho, 1971, pp. 53-74
  52. ^ FUJIKI Hisashi. Zōhyōtachi no Senjō: Chūsei no Yōhei to Doreigari. Tokyo: Asahi Shinbunsha, 1995 (new edition in 2005).
  53. ^ MAKI Hidemasa. Jinshin Baibai. Tokyo: Iwanami Shinsho, 1971, pp. 61-67, 74-77.
  54. ^ FUJIKI Hisashi. Zōhyōtachi no Senjō: Chūsei no Yōhei to Doreigari. Tokyo: Asahi Shinbunsha, 1995, pp. 27-28, 32.
  55. ^ Thomas Nelson, “Slavery in Medieval Japan,” Monumenta Nipponica59, no. 4 (2004): pp. 479-480, "Fujiki provides a wealth of sources to show just how common the practice of abducting slaves was. Koyo gunkan 甲陽軍鑑, for instance, offers a graphic account of the great numbers of women and children seized by the Takeda army after the Battle of Kawanakajima 川中島 of 1553:.... Hojo godaiki 北条五代記 reveals how systematized the process of ransoming and abduction could become... Reports by the Portuguese corroborate such accounts. In 1578, the Shimazu 島津 armies overran the Otomo 大友 territories in northern Kyushu."
  56. ^ Lúcio de SOUSA, The Portuguese Slave Trade in Early Modern Japan. Merchants, Jesuits and Japanese, Chinese, and Korean Slaves, Leiden / Boston, Brill, 2019, ISBN 978-90-04-36580-3
  57. ^ Guillaume Carré, « Lúcio de Sousa, The Portuguese Slave Trade in Early Modern Japan. Merchants, Jesuits and Japanese, Chinese, and Korean Slaves », Esclavages & Post-esclavages (En ligne), 4 | 2021, mis en ligne le 10 mai 2021, consulté le 26 août 2024. URL : http://journals.openedition.org/slaveries/3641 ; DOI: https://doi.org/10.4000/slaveries.3641, "En revanche, on peut regretter que, se focalisant sur des sources primaires, mais aussi secondaires, en langue occidentale, l’auteur n’ait pas plus exploité les résultats d’une recherche japonaise déjà longue, sur les pratiques esclavagistes dans l’archipel ou à ses marges à la fin de la période médiévale et au XVIIe siècle. Il en cite pourtant certains représentants dans sa bibliographie : on y lit ainsi le nom de Murai Shōsuke, qui a étudié cette question dans le cadre de la piraterie japonaise, mais on s’étonne de ne pas trouver plus de mentions de travaux sur l’asservissement et la vente de captifs lors des guerres féodales dans l’archipel (comme ceux de Fujiki Hisashi, par exemple). L’auteur reste allusif sur ces pratiques locales ; pourtant, les exposer plus précisément aurait permis aux lecteurs peu au fait de l’histoire sociale japonaise, de se familiariser avec un contexte insulaire initial où la vente des êtres humains ne semble pas avoir été rare, et où les relations de dépendance et de sujétion se distinguaient souvent mal de la servitude, avant que l’emploi salarié et la domesticité à gage ne prennent leur essor sous les Tokugawa : bref des conditions qui, jointes à l’anarchie politique, offraient aux trafiquants d’esclaves portugais un terreau favorable pour leurs affaires. "
  58. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan、Rômulo da Silva Ehalt, p.218, p.493
  59. ^ Richard B. Allen, European Slave Trading in Asia, 1500–1850 (Athens, OH: Ohio University Press, 2014)
  60. ^ Chevaleyre, Claude. "Beyond Maritime Asia. Ideology, Historiography, and Prospects for a Global History of Slaving in Early-Modern Asia". Slavery and Bondage in Asia, 1550–1850: Towards a Global History of Coerced Labour, edited by Kate Ekama, Lisa Hellman and Matthias van Rossum, Berlin, Boston: De Gruyter, 2022, pp. 31-48. https://doi.org/10.1515/9783110777246-003, p.31
  61. ^ Richard B. Allen, Renaissance Quarterly 74, 2 (2021): 611–12; doi:10.1017/rqx.2021.31, p. 612
  62. ^ a b Silva Ehalt, Rômulo da. "Suspicion and Repression: Ming China, Tokugawa Japan, and the End of the Japanese-European Slave Trade (1614–1635)". Slavery and Bondage in Asia, 1550–1850: Towards a Global History of Coerced Labour, edited by Kate Ekama, Lisa Hellman and Matthias van Rossum, Berlin, Boston: De Gruyter, 2022, pp. 213-230. https://doi.org/10.1515/9783110777246-012, p.215, "Despite showing the continuity of Japanese slavery, Sousa insists on the importance of the 1607 Portuguese law for the end of the trade. Lúcio de Sousa, Escravatura e Diáspora Japonesa nos Séculos XVI e XVII (Braga: NICPRI, 2014): 156–61; Sousa, The Portuguese Slave Trade: 426, 538, 542. As for numbers, for instance, the presence of Japanese individuals in Mexico City seems to have increased sharply after 1617, while records of Asians spread throughout the world suggest that there were enslaved or formerly enslaved Japanese in the Americas until the late seventeenth century. Out of the 35 Japanese Oropeza Keresey lists as living in Mexico City in the sixteenth and seventeenth centuries, only four arrived prior to 1617. Sousa’s lists of 28 Japanese individuals spread around the globe between 1599 and 1642, which he claims to have been enslaved, suggests a similar pattern. Sousa, The Portuguese Slave Trade: 210–59; Deborah Oropeza Keresey, “Los ‘indios chinos’ en la Nueva España: la inmigración de la nao de China, 1565–1700” (PhD diss., El Colégio de México, 2007): 257–91"
  63. ^ Human Trafficking and Piracy in Early Modern East Asia: Maritime Challenges to the Ming Dynasty Economy, 1370–1565, Harriet Zurndorfer, Comparative Studies in Society and History (2023), 1–24 doi:10.1017/S0010417523000270
  64. ^ (書評)The Portuguese Slave Trade in Early Modern Japan: Merchants, Jesuits and Japanese, Chinese, and Korean Slaves, written by Lúcio De Sousa, Harriet Zurndorfer, Journal of early modern history, 2020, pp. 181-195, "This is a deeply unsatisfactory book. The author has a penchant for writing in the first-person plural, which results in an almost child-like storytelling mode of exposition, peppered with a certain conspiratorial tone, rather than giving a systematic and intelligible analysis of the data. Much data cannot be verified because the author does not offer the exact references from where the information may be found, and thus his claims may raise suspicion. The feeble narrative cannot absorb the anecdotal, curiously pompous details of testimonies, remarks, and judgements of the Portuguese rapporteurs.
  65. ^ a b 岡田章雄『キリシタン・バテレン』至文堂、1955
  66. ^ フェルナン・ゲレイロ編「イエズス会年報集」『一六・七世紀イエズス会日本報告集』第一冊、同朋舎、1987
  67. ^ 松田毅一監訳『一六・七世紀イエズス会日本報告集』第二冊、同朋舎、1987、217-289頁
  68. ^ 小学館 2020a, p. 「猿の生肝」.
  69. ^ 東洋文庫所収『日本史-キリシタン伝来のころ』2、58 頁、1963、平凡社
  70. ^ 松田毅一、川崎桃太訳『完訳フロイス 日本史』、中央公論新社、2000 年。6 巻 116 頁
  71. ^ 桑田忠親『太閤の手紙』文藝春秋新社、1959、257-259 頁
  72. ^ 高麗江日本仁を売遣侯事曲事、1587年6月18日
  73. ^ 小学館 2020b, p. 「宗氏」.
  74. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Doctoral Dissertation, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. pp. 19-20
  75. ^ a b ブリタニカ・ジャパン 2022a, p. 「年季奉公」.
  76. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p. 86, "Oliveira states that not all non-Christians could become objects of a just war. He declares that Christians could not declare war against those who were never Christians themselves, and who did not take territories from Christians or performed any detrimental act against Christianity. In this group, Oliveira includes Jews, Muslims and gentiles who never heard of Christ, and who should not be converted by force, but rather be persuaded to conversion, via example and justice. He goes on to classify as tyranny the act of taking their lands, capture their possessions and any aggression against those who do not proffer any blasphemy against Christ or do not resist to their own evangelization261. In effect, Oliveira distinguishes non-Christians from Northern Africa from those of other areas, such as India, thus pragmatically arguing that wars were just only against those who in fact occupied formerly Christian territories262."
  77. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. pp. 86-87, "Traditionally dated as written in 1556, it compiles the necessary conditions upon which an authority could declare just war against the non-Christians, and more specifically how the Portuguese crown was to deal with the natives in Brazil264....Based on Aristotle and Aquinas, it states that a perfect community had the power necessary to punish those who occupy the community’s territory or make any offense against it267....As for just war, the document repeats there were two main reasons that could justify warfare: to make justice and take back what has been unjustly taken, and to address an offense made against the community. Once more, there is no religious justification, and the argument is entirely political."
  78. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. pp. 522-523, "The Spanish jurist thus registers that the enslavement of Japanese and Chinese was admitted as far as it was temporary, and that their servitude was fundamentally different from perpetual slavery. This difference is reinforced by the wording of his Latin text: while Asian slavery is called iustae captivitas, Japanese and Chinese servitude is expressly referred as temporali famulitium, temporal servitude. These were not people enslaved as a result of captivity in war, nor were to be understood as common slaves...Also, the legitimacy of these servants is provided by the understanding that local customs and laws were just according to European standards. This shows a line of interpretation close to what Valignano defended until 1598 in his idea of Japanese slavery’s tolerability."
  79. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p. 146
  80. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p. 473, "Next, Cerqueira deals with the issue of voluntary servitude, which here most probably refers to the practice of nenkihōkō 年季奉公 in Japan. The bishop makes it clear that the Japanese fulfilled all the conditions prescribed by moral theology for voluntary servitude, as for example the six points defined by Silvestre Mazzolini.1446"
  81. ^ a b Rômulo da Silva Ehalt, Jesuit Arguments for Voluntary Slavery in Japan and Brazil, Brazilian Journal of History, Volume: 39, Number: 80, Jan-Apr. 2019., p.10
  82. ^ BRAH, Cortes 566 (9/2666), maço 21, f. 275. RUIZ DE MEDINA, Juan G. Orígenes de la Iglesia Catolica Coreana desde 1566 hasta 1784 según documentos inéditos de la época. Rome: Institutum Historicum S.I., 1986, p. 114-22.
  83. ^ 丹野勲『江戸時代の奉公人制度と日本的雇用慣行』国際経営論集 41 57-70, 2011-03-31, p. 58
  84. ^ 丹野勲『江戸時代の奉公人制度と日本的雇用慣行』国際経営論集 41 57-70, 2011-03-31, p. 62
  85. ^ a b 嶽本新奈『境界を超える女性たちと近代 : 海外日本人娼婦の表象を中心として』一橋大学〈博士(学術) 甲第798号〉、2014年、15頁。doi:10.15057/26725hdl:10086/26725NAID 500000960865https://doi.org/10.15057/26725 
  86. ^ 中田薫「徳川時代に於ける人売及人質契約」『法制史論集』3・上、岩波書店、1943 年。
  87. ^ Servitutem Levem et Modici Temporis Esse Arbitrantes: Jesuit Schedulae & Japanese Limited-Term Servitude in Gomes Vaz’s De mancipiis Indicis, Stuart M. McManus, BPJS, 2018, II, 4, 77-99
  88. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan、Rômulo da Silva Ehalt、p. 426
  89. ^ BRAH, Cortes 566 (9/2666), maço 21, f. 273-276v. Pagès in PAGÈS, Léon. Histoire de la religion chrétienne au Japon – Seconde Partie, Annexes. Paris: Charles Douniol, 1870, p. 70-9. SOUSA, Lúcio de. “Dom Luís de Cerqueira e a escravatura no Japão em 1598.” Brotéria, 165. Braga, 2007, pp. 245-61.
  90. ^ a b Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan、Rômulo da Silva Ehalt、pp. 514-523
  91. ^ OKA Mihoko. “Kirishitan to Tōitsu Seiken.” In: ŌTSU Tōru et alii. Iwanami Kōza Nihon Rekishi Dai 10 Kan, Kinsei 1. Tokyo: Iwanami Shoten, 2014, pp. 185-187
  92. ^ a b Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Doctoral Dissertation, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p. 473
  93. ^ PÉREZ, Lorenzo. Fr. Jerónimo de Jesús: Restaurador de las Misiones del Japón – sus cartas y relaciones (1595-1604). Florence: Collegii S. Bonaventurae, 1929, p. 47.
  94. ^ OKAMOTO Yoshitomo. Jūroku Seiki Nichiō Kōtsūshi no Kenkyū. Tokyo: Kōbunsō, 1936 (revised edition by Rokkō Shobō, 1942 and 1944, and reprint by Hara Shobō, 1969, 1974 and 1980). pp. 730-2
  95. ^ MIZUKAMI Ikkyū. Chūsei no Shōen to Shakai. Tokyo: Yoshikawa Kōbunkan, 1969.
  96. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Doctoral Dissertation, Rômulo da Silva Ehalt, 2017., pp. 486-487, "Four days later, the Bishop took the pen again to write another letter, now addressed to the King, before the ships left to Macao. Thus, Cerqueira started his lobbying campaign to obtain formal secular legal actions against the slave trade...This letter must be read as an appendix to the copy of the September 4th 1598 gathering memorandum sent to the king. Cerqueira here confirms that, since the excommunication issued by Martins, there was already intent of putting an end to the license system. The final confirmation of the end of the system came with the orders sent by the general of the order, Claudio Acquaviva, via the Philippines, eight days after Gil de la Mata arrived in Japan in August 1598."
  97. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Doctoral Dissertation, Rômulo da Silva Ehalt, 2017., p. 481, "The issue of slavery was not restricted to the structure of the mission alone or to a theological debate anymore – express orders from the higher echelons of the order had seemingly decided its fate already."
  98. ^ Silva Ehalt, Rômulo da. "Suspicion and Repression: Ming China, Tokugawa Japan, and the End of the Japanese-European Slave Trade (1614–1635)". Slavery and Bondage in Asia, 1550–1850: Towards a Global History of Coerced Labour, edited by Kate Ekama, Lisa Hellman and Matthias van Rossum, Berlin, Boston: De Gruyter, 2022, pp. 213-230. https://doi.org/10.1515/9783110777246-012, p.217, "In spite of this assertion, the fact is that the Japanese-European slave trade continued for a number of years beyond this date.7"
  99. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p. 404, "All the Christian daimyō became involved in the conflict because of their subjection to a tyrannical ruler: Toyotomi Hideyoshi. Valignano justifies that they were dragged into war because of the risks that refusing to enter the battlefield represented to the security of their republics. They were good Christians but forced to enter in an unjust war because they were responsible rulers of their kingdoms, according to the Visitor’s justification.126"
  100. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p. 445, "In Japan there is the universal custom, accepted since ancient times, according to which those who are more powerful attempt to eliminate those of less power, and take over their land and put under their dominion. Because of this [custom], we can hardly find true and natural lords in Japan.1400"
  101. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. pp. 444-445, "According to it, analysis of Japanese practices using European civil and canonical law results in a fruitless effort, and all Japanese lords would be taken as illegitimate according to any legal principle. Because of the custom of overtaking militarly lands without following European notions of just war, it was impossible to find “ueri et naturales domini” [legitimate and natural lords]. It is interesting to notice that the missionaries concluded that even natural law was useless to justify Japanese military territorial conquests. They also suggest that, because of the political structure of Japanese society, no lord could achieve the power of the Emperor, here referred as the descendant of the first king of Japan, and which he understands to be the only legitimate land owner in the archipelago."
  102. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p. 445, "The issue raised by the questionnaire is whether land possessions could be retained in good conscience. Of course, its concern with the conscience of the lord means that the missionaries were in reality worried with local Christian lords and their territorial conquests – whether converts could be forgiven for conquering land militarily or if they should be admonished to return these. In fact, it warns that any attempt to make them restitute an illegitimate conquest would fail, as they themselves considered these to be legitimately owned and conquered. The problem, thus, is whether Jesuits should dissimulate and pretend to ignore this issue."
  103. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p. 450, "If the missionaries were to advice local lords on matters of war, considering they were following their customs and, therefore, acting in good faith, the only option for the Jesuits was to act deceitfully, avoid the issue and offer non-answers that could not compromise their mission and the souls and consciences of Japanese Christians. The main problem here to the Japan Jesuits was the control they exerted on the level of knowledge Japanese converts had regarding Christian doctrine. If the priests spoke freely about all religious matters, they would create a situation of conflict between local Japanese customs and Christian dogmas."
  104. ^ Rômulo Ehalt, Geninka and Slavery: Jesuit Casuistry and Tokugawa Legislation on Japanese Bondage (1590s–1620s), Itinerario (2023), 47, 342–356 doi:10.1017/S0165115323000256, "This was due not to theoretical or legal reasons, but to the lack of authoritative power held by Jesuits in Japan. As argued numerous times by the visitor of the vice-province, Valignano, missionaries could not expect positive outcomes from their reprimands and admonitions because of their limited capacity to alter or influence the courses of action taken by Japanese Christians, particularly powerful individuals, when facing moral doubts.46 "
  105. ^ Rômulo Ehalt, Geninka and Slavery: Jesuit Casuistry and Tokugawa Legislation on Japanese Bondage (1590s–1620s), Itinerario (2023), 47, 342–356 doi:10.1017/S0165115323000256, p. 354, "The same suggestion was repeated in other cases. For instance, those who offered themselves to work in exchange for protection during events like famines and natural disasters were often considered genin in Japanese society, but confessors were to admonish penitents that they should free these genin upon the completion of enough labour to pay for the amount of food, clothing, and shelter provided."
  106. ^ Rômulo Ehalt, Geninka and Slavery: Jesuit Casuistry and Tokugawa Legislation on Japanese Bondage (1590s–1620s), Itinerario (2023), 47, 342–356 doi:10.1017/S0165115323000256, "Because of this disadvantage, there was the need to create grey areas where missionaries could let go of otherwise inadmissible situations. Hence, from the get-go, the debate envisioned three outcomes: forms of Japanese bondage equal to slavery; situations that were not the same as slavery but could be tolerated by the missionaries; and intolerable cases."
  107. ^ Rômulo Ehalt, Geninka and Slavery: Jesuit Casuistry and Tokugawa Legislation on Japanese Bondage (1590s–1620s), Itinerario (2023), 47, 342–356 doi:10.1017/S0165115323000256, pp. 352-353, "Rescuing people condemned to death could result in tolerable slavery, but the condemnation had to be unjust—a conclusion evocative of the Mediterranean and Atlantic doctrine of rescate. In that case, a Christian could offer a fair ransom and, since no one should be forced to give his or her money for free, the benefactor could hold the rescued person in exchange as their servant, especially when some spiritual good came as a result of such transaction"
  108. ^ Rômulo Ehalt, Geninka and Slavery: Jesuit Casuistry and Tokugawa Legislation on Japanese Bondage (1590s–1620s), Itinerario (2023), 47, 342–356 doi:10.1017/S0165115323000256, pp. 353-354
  109. ^ Rômulo Ehalt, Geninka and Slavery: Jesuit Casuistry and Tokugawa Legislation on Japanese Bondage (1590s–1620s), Itinerario (2023), 47, 342–356 doi:10.1017/S0165115323000256, p. 354,"Similar argument was made in the discussion of the case of women who had fled their fathers or husbands and sought shelter in the local lord’s house. While Japanese custom accepted that these women could be trans- formed into genin by the lord, the Goa theologians established that they could be considered enslaved only when they had been accused of and condemned for a crime. Otherwise, missionaries should campaign for their liberation in advising Japanese Christians through confession."
  110. ^ Rômulo Ehalt, Geninka and Slavery: Jesuit Casuistry and Tokugawa Legislation on Japanese Bondage (1590s–1620s), Itinerario (2023), 47, 342–356 doi:10.1017/S0165115323000256, "Tolerance was a rhetorical device closely related to dissimulation, a legal strategy tacitly approved by canon law that authorised missionaries to conform to local practices while adhering to established theological and legal principles, a much-needed rhetorical device for those attempting to accommodate the Christian dogma to local social dynamics.48"
  111. ^ University of Santo Tomás, Manila, Archivo de la Provincia del Santo Rosário [hereafter APSR], Consultas 2,Japón 2, Miscelanea, vol. 1, 323v–4, 325.
  112. ^ Rômulo Ehalt, Geninka and Slavery: Jesuit Casuistry and Tokugawa Legislation on Japanese Bondage (1590s–1620s), Itinerario (2023), 47, 342–356 doi:10.1017/S0165115323000256, pp. 352-353, "Nevertheless, the authority of the Ritsuryō was always on the minds of early modern Japanese. In 1587, when a group of Japanese visiting Manila was questioned on bondage practices in their country, their response to the fate of genin children replicated the model established by the code.5"
  113. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p. 472, "Cerqueira said that these parents would be led to subject their children to slavery because they could not pay taxes demanded by non-Christian Japanese lords. However, the problem he had in Japan was that gentile rulers were creating this situation...On the other hand, the problem of definition of necessity also permeates this discussion. Cerqueira indicates that some children were sold not out of extreme necessity, but rather of great necessity. The issue here is relativism: given the local living standards, the Japanese were supposedly able to live in conditions that could be deemed extreme in other areas but were rather ordinary in the archipelago"
  114. ^ OM, Lib. 4, Tit. XVI; LARA, Silvia Hunold. ‘Legislação sobre escravos africanos na América portuguesa’. in: ANDRÉS-GALLEGO, Jose (Coord). Nuevas Aportaciones a la Historia Jurídica de Iberoamérica. Madrid: Fundación Histórica Tavera/Digibis/Fundación Hernando de Larramendi, 2000 (CD-Rom), p. 57. Tit. XCIX.
  115. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Doctoral Dissertation, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p. 91
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  117. ^ a b Visiones de un mundo diferente: Política, literatura de avisos y arte namban Imagen de portada del libro Visiones de un mundo diferente: Política, literatura de avisos y arte namban, Osami Takizawa (coord.), Antonio Míguez Santa Cruz (coord.), Centro Europeo para la Difusión de las Ciencias Sociales, 2015, ISBN 978-84-608-1270-8, p. 63, "Tras el edicto de expulsión de los jesuitas en 1587, Hideyoshi se interesó por abrir una posible vía de comercio que no pasase necesariamente por los portugueses y, puesto que el trato con los chinos seguía cerrado, las Filipinas eran una de las pocas alternativas disponibles; así, a partir de 1591 se autorizó el comercio con Manila9 . De todas formas, se trató de un lujo muy luctuante y bastante pobre, tal y como se extrae del reducido número de navíos comerciales japoneses llegados a la capital ilipina durante los años analizados en este artículo, diecisiete según nos dice el profesor Emilio Sola10. En cuanto a las mercancías intercambiadas, sabemos por los documentos castellanos que el principal negocio era el de la plata japonesa –Japón producía en ese momento nada menos que un tercio de la plata mundial11– a cambio de la seda china, con lo que realmente se trataba básicamente de hacer de intermediarios en el interrumpido comercio entre Japón y China. Aparte de esto, Filipinas importaba cáñamo, cobre, hierro, acero, plomo, salitre, mantas, pólvora, espadas, etc.12 y en Japón estaban muy interesados por cierto tipo de vasijas de cerámica ilipina."
  118. ^ Never Imagine Yourself to be Otherwise: Filipino Image of Japan over the Centuries, Elpidio STA. ROMANA and Ricardo T. JOSE, Asian Studies 29 (1991), pp. 67-68, "In 1587, an ill-fated Filipino anti-Spanish rebellion led by Don Agustin de Legaspi, Martin Panga and Magat Salamat took place in Manila and adjacent areas. The Filipino rebels got in touch with a Christian Japanese adventurer named Juan Gayo and enlisted him in a plan to use other armed Japanese to be disguised as traders stationed offshore. On signal, Gayo and his men were to attack from the sea and help the Filipinos drive the Spaniards out of Manila. But when the time of the attack came, Gayo either simply lost interest or betrayed the rebels. The Filipino rebels waited in vain for his help; meanwhile, the Spaniards discovered the plan, rounded up the leaders and executed them publicly. 9 The involvement of a Japanese naturally made the Spaniards more suspicious."
  119. ^ a b Geoffrey Parker, The Grand Strategy of Philip II (New Haven and London: Yale University Press, 1998), 6.
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  160. ^ Never Imagine Yourself to be Otherwise: Filipino Image of Japan over the Centuries, Elpidio STA. ROMANA and Ricardo T. JOSE, Asian Studies 29 (1991), pp. 67-68, "In 1591, a Japanese named Harada Magoshichiro was reported to have studied parts of the Philippines and recommended that Hideyoshi conquers the Philippines. Hideyoshi made concrete plans but sent an emissary the following year to Manila and demanded that the Spaniards become his vassals and pay tribute; otherwise he would invade the Philippines. He has just invaded Korea, and the poorly defended Spaniards could only reply that they sought friendship with Japan. Japanese ships entering Manila were checked thoroughly to make sure they carried no weapons. The Japanese community in Manila was disarmed and resettled outside Manila in a place called Dilao district. The next year, the Spaniards tried to guard their north flank by invading Taiwan but a typhoon thwarted that expedition. Later, Hideyoshi also sent a request to the Spanish authorities in the Philippines for shipbuilders but was refused by the Spaniards who realized that they will be used to build warships. The apprehensive Spaniards sought reinforcements from Mexico. 10 The Japanese were also suspicious of Spanish attempts to proselyte in Japan. This mutual suspicion - Spain fearing a Japanese invasion, Japan suspicious of Spanish evangelization and fearful that Japan might be involved in power conflicts in Europe- was to continue into the early 17th century."
  161. ^ 辻 1942, pp.410-411
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  165. ^ The Philippine Islands, 1493–1803, ed. Blair and Robertson, vol. 9, p. 41.
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  173. ^ a b Turnbull, Stephen (2016) "Wars and Rumours of Wars: Japanese Plans to Invade the Philippines, 1593–1637," Naval War College Review (海軍大学校 (アメリカ合衆国)レビュー): Vol. 69 : No. 4 , Article 10., pp. 8-9
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同時代史料

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参考文献

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関連項目

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外部リンク

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