ティレル・020
カテゴリー | F1 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
コンストラクター | ティレル・レーシング・オーガニゼーション | ||||||||||
デザイナー |
ハーベイ・ポスルスウェイト ジョージ・ライトン | ||||||||||
先代 | ティレル・019 | ||||||||||
後継 | ティレル・021 | ||||||||||
主要諸元[1][2][3] | |||||||||||
シャシー | カーボンファイバー モノコック | ||||||||||
サスペンション(前) | ダブルウィッシュボーン プッシュロッド コイルスプリング | ||||||||||
サスペンション(後) | ダブルウィッシュボーン プッシュロッド コイルスプリング | ||||||||||
エンジン |
1991年: ミッドエンジン, 縦置き, 3,493 cc (213.2 cu in), ホンダ RA101E, 60度 V10, NA 1992年: ミッドエンジン, 縦置き, 3,478 cc (212.2 cu in), イルモア LH10, 72度 V10, NA 1993年: ミッドエンジン, 縦置き, 3,493 cc (213.2 cu in), ヤマハ OX10A, 72度 V10, NA | ||||||||||
トランスミッション | ヒューランド製 6速 MT | ||||||||||
燃料 |
1991年: シェル 1992年: エルフ 1993年: BP | ||||||||||
タイヤ |
1991年: ピレリ 1992年 / 1993年: グッドイヤー | ||||||||||
主要成績 | |||||||||||
チーム |
ブラウン ティレル ホンダ ティレル・レーシング・オーガニゼーション | ||||||||||
ドライバー |
3. 中嶋悟 4. ステファノ・モデナ 3. オリビエ・グルイヤール 4. アンドレア・デ・チェザリス 3. 片山右京 | ||||||||||
コンストラクターズタイトル | 0 | ||||||||||
ドライバーズタイトル | 0 | ||||||||||
初戦 | 1991年アメリカグランプリ | ||||||||||
|
ティレル・020 (Tyrrell 020) は、ティレルがF1世界選手権参戦用に開発したフォーミュラ1カー。020は1991年の開幕戦から最終戦まで、020Bは1992年の開幕戦から最終戦まで、020Cは1993年の開幕戦から第9戦まで実戦投入された。
020
[編集]1990年シーズンに実戦投入した019に引き続いてアンヘドラルウイングを採用。フロントダンパーは018以来継続するモノショック方式。
エンジンはカスタマー仕様のフォードDFR (V8) に代わり、ホンダのワークスV10エンジンを獲得。中嶋のイニシャルである「SN」を含めた「RA101E-SN」と命名。バタフライスロットルから中嶋の好みであるスライド式に変更。前年のチャンピオンエンジンを搭載して、さらなる速さを追及した。しかしパワーはあるものの、DFRエンジンよりも数十kg重いホンダエンジンを積んだことによりマシン全体の重量バランスが崩れ、主に駆動系のトラブルなどが多く発生し、ホンダエンジンのパワーを活かしきれているとは到底言い難いマシンであった。背景にはチームの資金力の問題が有り、後に中嶋が語ったところでは「エンジンがV8からV10に変わることに対して、シャシーのすべてを一新するだけの資金力はなかったんです」との事情があった[4]。
また、この年に行われたレギュレーションの変更が大きな影響を与えた。フロントウイングの幅が1990年よりも100mm縮小されたためにフロントのダウンフォースが不足気味となった。さらにピレリタイヤのグリップ不足も常に問題となった。この他にもモノコックの製造不良に起因する問題もあり、ドライバーのモデナによれば「7月中旬にシルバーストンで、ある偶然から剛性が足りないものがいくつかあることがわかった」という。ただ、ジョージ・ライトンは「エンジンとシャーシはかなり優れたパッケージングであったが、マクラーレンを脅かし始めたモナコ以降、明らかにホンダエンジンはパワーダウンした。計算によるとその差は20〜30馬力ほど。彼らは決して認めないだろうが、戦略的な判断があったのは間違いない。これに関してチームでミーティングを行った際、ハーベイの顔には激しい怒りが見てとれた」と語っている[5]。
結局このシーズンは入賞は両ドライバー合わせて4回にとどまった。
1990年夏にホンダエンジンの獲得が決定したとき、当時のテクニカルディレクターであったハーベイ・ポスルスウェイトが、「ケン(・ティレル)には、020に搭載するエンジンはフォードHBエンジンを選んでほしかった」と語っていた。1991年シーズンにHBエンジンを搭載したジョーダン・191が快走を見せたことから、ポスルスウェイトの指摘は間違いではなかった。
1991年シーズンオフテストでは、翌1992年からF1参戦する無限ホンダが020を購入し、無限ホンダV10エンジンを搭載。F1参戦がまだ具体化していなかったブリヂストンがタイヤを供給する真っ白なボディのテストカーとして登場した(ドライバーを務めたのは92年にフットワーク・無限に乗ることになっていた鈴木亜久里)[6]。
スペック
[編集]シャーシ
[編集]- シャーシ名 020
- 全高 1,000 mm
- ホイールベース 2,940 mm
- 前トレッド 1,800 mm
- 後トレッド 1,670 mm
- ブレーキキャリパー AP
- ホイール ダイマグ
- タイヤ ピレリ
- ダンパー コニ
エンジン
[編集]- エンジン名 ホンダRA101E,RA101E/SN
- 気筒数・角度 V型10気筒・72度
- 排気量 3,498cc
- 全長 620mm
- 全幅 550mm
- 全高 540mm
- 最高回転数 12,000回転
- 最大馬力 650馬力
- 重量 150kg
- スパークプラグ NGK
- 燃料・潤滑油 シェル
020B
[編集]1991年にタイトルスポンサーであったブラウンやエンジンサプライヤーであったホンダが撤退した影響で一転してチームは資金難に陥った。そこでマールボロから持ちこみ資金が豊富なアンドレア・デ・チェザリスと、オリビエ・グルイヤールの布陣で臨んだ。またカラーリングは1990年以来のブルー/ホワイトを基調としたティレル定番カラーとなった(ただし019とは若干カラーリングは異なる)。
020Bは前年用020のエンジンをイルモアV10エンジンに積み替えただけという状態だったが、パワーはあったものの重いホンダエンジンよりも軽量で駆動系への負担も減った。同年に中堅〜下位チームに供給されたカスタマーエンジン(ジャッド・GV、フォード・HBエンジンのカスタマー仕様、ランボルギーニ・3512など)の中ではそこそこの戦闘力を持っていたものの、信頼性には今一つ欠けていた。しかしながらタイヤが相性の悪かったピレリから全チーム共通のグッドイヤーに変更されたこともあってほぼエンジンを変えただけの1年落ちのマシンでも好走を見せ、デ・チェザリスが4度の入賞をもたらした。
スペック
[編集]シャーシ
[編集]- シャーシ名 020B
- 全高 1,000 mm
- ホイールベース 2,940 mm
- 前トレッド 1,800 mm
- 後トレッド 1,670 mm
- ブレーキキャリパー AP
- ホイール ダイマグ
- タイヤ グッドイヤー
エンジン
[編集]020C
[編集]新たに片山右京が加入したことで日本のタバコブランドであるキャビンからのスポンサーを得られた。シーズン前には、僚友であるデ・チェザリスはマールボロの資金を持ち込んでいたため銘柄のバッティングからチームを離脱する憶測もあった。結局マールボロではなくキャビンロゴをマシンに掲載することで話はまとまったが、デ・チェザリスによるマールボロからの資金もチームにはもたらされていた。
エンジンはジョーダンと決別したヤマハとワークス契約を結び、新開発[注釈 1]V10エンジン「OX10A」を搭載した。フロントウイングはフラップが大型化されるなどの変更が施された。しかし、資金難のため1991年に中嶋が使用したモノコックを改良したものもあり、2年落ちのシャーシでは戦闘力は乏しく経年劣化によるシャシー剛性の低下も激しい為に、ストレートを真っ直ぐ走る事さえままならない状態であった。またF1に到来した著しいハイテク化(アクティブ・サス、ライドハイトコントロール、セミ・オートマ、トラクションコントロール等がトップチームの必須デバイス化)の流れにも取り残されており年間ノーポイントに終わった。後年、右京は「F3000以下のひどいマシン」と酷評している[7]。シーズン中盤の第9戦にデ・チェザリスが、第10戦に右京が新マシン021にスイッチし、020シャシーの実戦投入は終了となった。
- コンストラクターズランキング-位(020Cと021)
- ドライバーズランキング-位(片山右京)予選最高位13位 決勝最高位10位
- ドライバーズランキング-位(アンドレア・デ・チェザリス)予選最高位15位 決勝最高位10位
スペック
[編集]シャーシ
[編集]エンジン
[編集]F1における全成績
[編集](key) (太字はポールポジション、斜体はファステストラップ)
年 | チーム | エンジン | タイヤ | No. | ドライバー | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | ポイント | 順位 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1991年 | ティレル 020 | ホンダ RA101-E V10 |
P | USA |
BRA |
SMR |
MON |
CAN |
MEX |
FRA |
GBR |
GER |
HUN |
BEL |
ITA |
POR |
ESP |
JPN |
AUS |
12 | 6位 | ||
3 | 中嶋 | 5 | Ret | Ret | Ret | 10 | 12 | Ret | 8 | Ret | 15 | Ret | Ret | 13 | 17 | Ret | Ret | ||||||
4 | モデナ | 4 | Ret | Ret | Ret | 2 | 11 | Ret | 7 | 13 | 12 | Ret | Ret | Ret | 16 | 6 | 10 | ||||||
1992年 | ティレル 020B | イルモア LH10 V10 |
G | RSA |
MEX |
BRA |
ESP |
SMR |
MON |
CAN |
FRA |
GBR |
GER |
HUN |
BEL |
ITA |
POR |
JPN |
AUS |
8 | 6位 | ||
3 | グルイヤール | Ret | Ret | Ret | Ret | 8 | Ret | 12 | 11 | 11 | Ret | Ret | Ret | Ret | Ret | Ret | Ret | ||||||
4 | デ・チェザリス | Ret | 5 | Ret | Ret | 14 | Ret | 5 | Ret | Ret | Ret | 8 | 8 | 6 | 9 | 4 | Ret | ||||||
1993年 | ティレル 020C | ヤマハ OX10A V10 |
G | RSA |
BRA |
EUR |
SMR |
ESP |
MON |
CAN |
FRA |
GBR |
GER |
HUN |
BEL |
ITA |
POR |
JPN |
AUS |
0 | NC | ||
3 | 片山 | Ret | Ret | Ret | Ret | Ret | Ret | 17 | Ret | 13 | |||||||||||||
4 | デ・チェザリス | Ret | Ret | Ret | Ret | DSQ | 10 | Ret | 15 |
関連商品
[編集]- タミヤから1/20のプラモデルと、タミヤミニF-1(モーター動力)のバージョンで020が発売されていた(いずれも絶版)。
- 京商から1/10スケールの電動ラジオコントロールカーが発売された。
- WAVEからは、020Bが1/24プラモデルで発売されていた。
- 1993年のカルビー製ポテトチップスには、裏面にティレルF1の設計場面が描かれたものが発売されていた。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ “STATS F1 - Tyrrell 020”. Statsf1.com. 2010年8月23日閲覧。
- ^ “STATS F1 - Tyrrell 020B”. Statsf1.com. 2010年8月23日閲覧。
- ^ “STATS F1 - Tyrrell 020C”. Statsf1.com. 2010年8月23日閲覧。
- ^ 名車列伝:ティレル020・ホンダ(1991) - F1速報・2016年3月24日
- ^ ティレル020の真実が見えてくる『GP Car Story Vol.33 Tyrrell 020』は全国書店やインターネット通販サイトで好評発売中 - オートスポーツ・2020年10月16日
- ^ 3人の日本人ドライバーが走らせたティレル020 Motorsport.com 2021年1月08日
- ^ 『爆走!日本カーレーサー列伝』、株式会社洋泉社、2014年、117頁。