コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ベルナール・イノー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ベルナール・イノー
Bernard Hinault
基本情報
本名 ベルナール・イノー
Bernard Hinault
愛称 Le Blaireau(アナグマ
生年月日 (1954-11-14) 1954年11月14日(70歳)
国籍 フランスの旗 フランス
選手情報
所属 引退
分野 ロードレース
役割 選手
特徴 オールラウンダー
プロ経歴
1977
1978-1983
1984-1986
ジタン・カンパーニョロ
ルノー・ジタン
ラ・ヴィ・クレール
主要レース勝利
ツール・ド・フランス 総合 1978,1979,1981,1982,1985
ジロ・デ・イタリア 総合 1980,1982,1985
ブエルタ・ア・エスパーニャ 総合 1978,1983
世界選手権・プロロード 1980
ツール・ド・フランス ポイント賞 1979
ツール・ド・フランス 山岳賞 1986
ドーフィネ・リベレ 総合 1977, 1979, 1981
ツール・ド・ロマンディ 総合 1980
パリ〜ルーベ 1981
リエージュ〜バストーニュ〜リエージュ 1977, 1980
ジロ・ディ・ロンバルディア 1979, 1984
ヘント〜ウェヴェルヘム 1977
フレーシュ・ワロンヌ 1979, 1983
アムステルゴールドレース 1981
グランプリ・デ・ナシオン 1977, 1978, 1979, 1982, 1984
ダンケルク4日間 総合 1984
獲得メダル
1980 サランチェ プロ・個人ロードレース
1981 プラハ プロ・個人ロードレース
最終更新日
2012年11月14日

ベルナール・イノーBernard Hinault1954年11月14日 - )は、フランスブルターニュ地方コート=ダルモール県イフィニアック(サンブリュー近郊)出身の自転車プロロードレース選手。

来歴

[編集]

兄に借りた自転車で、地元のレースに出場したのが初めてのレース参加であった。1974年20歳の時にプロ入り。

イノーは、「平地に見えるところでも決して速度を緩めないこと」をポリシーとし、その後ツール・ド・フランス5勝(1978年1979年1981年1982年1985年)をはじめ、ジロ・デ・イタリア3勝(1980年1982年1985年)、ブエルタ・ア・エスパーニャ2勝(1978年1983年)、世界選手権優勝(1980年)、パリ〜ルーベジロ・ディ・ロンバルディアアムステルゴールドレース等主要ロードレースで数多くのタイトルを獲得した。

イノーの活躍ぶりといえば、平地、山岳、タイムトライアルと、いずれも超一流の実力を兼ね備え、エディ・メルクスと並び称される、真のオールラウンダー選手という評価もされている[誰によって?]加えて無類の戦略家でもあり、集団で膠着状態が続いた場合には、自らアタックをかけてライバルと思われる選手たちをリタイア等で潰したケースも少なくない[要出典]

一方、現役時代は膝の故障を常に抱えたままレースに出場していた。総合3連覇がかかった1980年ツール・ド・フランスでは、マイヨ・ジョーヌ着用のままリタイア。1983年ツール・ド・フランスでは、出場すらままならず、結果、代替出場となったローラン・フィニョンの台頭を許し、翌1984年、フィニョンにルノーのリーダーの座を奪われ、自身でチームを結成せざるを得なくなった。しかし、1985年ジロ・デ・イタリアツール・ド・フランスの両レースで総合優勝を果たし、当時発行されていた自転車競技マガジンでは、『不死鳥イノー』と銘打った。しかしその頃から、既に膝の状態は限界に達していたようである。したがって、イノーは『翌1986年ツール・ド・フランスでは、グレッグ・レモンに優勝させる。』と明言したが、その裏には、もはやツールで優勝できる力は残っていなかった、という含みがあったものと考えられる[誰によって?]。そして、1986年のツールにおいて明言通りレモンに総合優勝をもたらし、総合2位となったのを事実上最後に32歳で現役から退いた。

現役引退後は、妻と二人の子供と共に農場で暮すかたわら、ASO(アモリスポーツオルガニザシヨン)の渉外担当としてツール・ド・フランスの運営に関わったり、自転車フレームメーカーであるルック社の技術的なアドバイザーも務めている。この他、近年はツール・ド・フランスで『ポディウムの番人』としての役割も務めていて、ツールの表彰台の脇に陣取りリーダージャージの着用を手伝ったり、表彰台に乱入する不心得者をつまみ出すシーンが度々見受けられる[1]

また、広島・長崎への原爆投下60周年に当たる2005年から毎夏ブルゴーニュにて開催されている平和記念自転車競走にゲストとして参加している。2008年2月には20年振りに来日して東京、長崎、広島、京都を訪問した。東京では明治神宮外苑でのクリテリウムに被爆マリア像が描かれたジャージを纏って参加。その後被爆地である長崎と広島を巡り、長崎では被爆マリア像との対面を果たしている[2]。京都では桂川サイクリングロードでのサイクリングイベントが行われた。

ツール・ド・フランスの軌跡

[編集]
  • 1978年 
    初出場でステージ3勝をあげ総合優勝にも輝く 
  • 1979年 
    ステージ7勝、更にスプリント賞であるマイヨ・ヴェールも獲得し正に完勝であった。 
  • 1980年 
    ジロ・デ・イタリアを総合優勝しツールでも総合優勝が期待されステージ3勝をあげるも、右膝を痛め途中棄権する。この時、さすがのイノーも記者会見の重圧に耐えかね、夜闇にまぎれて宿舎を後にしている。 
  • 1981年 
    ステージ5勝をあげ総合優勝に輝く 
  • 1982年 
    ステージ4勝(シャンゼリゼ含む)をあげ4度目の総合優勝に輝く 
  • 1984年 
    ベルナール・タピが立ち上げた新チーム「ラ・ヴィ・クレール」に移籍し心機一転、総合優勝を目指すも前チームメイトでありイノーのアシストを務めていたローラン・フィニョン(ちなみに1983年は不参加であったイノーに代わり出場し見事総合優勝に輝いている)が立ちはだかりステージ1勝に留まった。総合は2位だったがフィニョンにはなんと10分半もの差をつけられていた。 
  • 1985年 
    この年、イノーは落車により鼻を痛め、呼吸困難になってしまうが、チームメートのグレッグ・レモンに「来年はレモンに優勝を譲る」と頼み込みレモンのアシストを受けステージ2勝をあげ総合優勝に輝く(この年を最後に2013年現在までフランス人の個人総合優勝者が出ていない) 。
  • 1986年 
    前年のレモンのアシストに報いる為レモンのアシストに徹するかと思われたが、約束を反故にし第12ステージで単独で飛び出しリーダージャージであるマイヨ・ジョーヌを獲得する。しかし翌日のピレネーステージでレモンもアタックをかけ、前日の差を大幅に取り戻す。ここから二人の確執が噂され、協力するはずのチームメートで総合優勝を争うこととなる。
    イノーに対しては前年の約束を反故にした批判と前人未到のツール6度目の総合優勝を見たいという期待があったが、結局世論はイノーに対して好意的に傾いていく。しかしすでに時代はグレッグ・レモンの時代になっており、後のステージでアタックをかけたレモンについていく事が出来ず、自転車の上で涙を流す。有名なラルプ・デュエズのステージでは二人は肩を組み共にゴールラインを切った。
    これで二人は和解したのか、それとも見せかけだったのか、真相は二人にしかわからないが、結局イノーはステージ3勝と山岳賞を獲得し総合2位となり、レモンが総合優勝の栄冠に輝く。かねてからの宣言通りイノーはこの年限りで現役を退き、ここからグレック・レモンが一時代を築くこととなるのであった。 

所属チーム

[編集]
  • Gitane(ジタヌ): 1977年 
  • Renault elf(ルノー・エルフ): 1978年-1983年 
  • La Vie Claire(ラ・ヴィ・クレール): 1984年-1986年

使用機材

[編集]
  • スキーのビンディングを応用したルック社のビンディング・ペダルを初めて使用した。当時世界最高の選手の一人だったイノーが使用したことにより、ペダルに足を固定する方式はトウクリップ式からビンディング式へと一変した。
  • サドルを比較的後退させ、やや前上がりに固定するポジションで知られる。なおサドルはサンマルコ社のロールスを愛用していた。
  • クランク長はデビューから一貫して172.5mmを使用する。タイムトライアルや山岳ステージでは普段より長めのクランクを使う選手もいるなか(ジャック・アンクティルエディ・メルクスなど)で、常に同じ長さのクランクを使い続けた。これは当時の自転車競技界では比較的珍しいことであった。

主な戦績

[編集]

1972年

1974年

1975年

1976年

1977年

1978年

1979年

1980年

1981年

1982年

1983年

1984年

1985年

1986年

エピソード

[編集]
  • 1980年のリエージュ~バストーニュ~リエージュは吹雪となり、170人以上が出走したものの完走者はわずか21人という厳しいレースだった。イノ―は優勝したものの指二本が凍傷となり、厳しく冷え込んだ際には指が疼く後遺症が残ってしまった。
  • 1985年にNHKが日本のテレビ局として初めてツール・ド・フランスを紹介した際に、『フランスの英雄』という触れ込みをしたことで、日本では、海外のロードレース選手として最初に知名度を上げた選手ともいえる。

関連項目

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ ツール・ド・フランス2008第3ステージツール・ド・フランス2009第14ステージ
  2. ^ 自転車で走り、ファンと過ごしたベルナール・イノーの東京の一日 : CYCLINGTIME.com

外部リンク

[編集]