アル・アンサーJr.
アル・アンサーJr. Alfred Unser, Jr. | |
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2007年のインディ500、出走前 | |
基本情報 | |
国籍 | アメリカ合衆国 |
生年月日 | 1962年4月19日(62歳) |
出身地 | ニューメキシコ州・アルバカーキ |
親族 |
アル・アンサー(父親) アル・アンサー3世(息子) ボビー・アンサー(叔父) ジェリー・アンサー(叔父) ロビー・アンサー(いとこ) ジョニー・アンサー(いとこ) |
IRL インディカー・シリーズでの経歴 | |
デビュー | 1982 |
過去所属 |
フォーサイス・レーシング ダグ・シアソン・レーシング マールボロ・チーム・ペンスキー ギャレス・レーシング ケリー・レーシング パトリック・レーシング ドレイヤー・アンド・レインボールド・レーシング A.J.フォイト・エンタープライズ |
出走回数 | 329 |
優勝回数 | 34 |
ポールポジション | 7 |
シリーズ最高順位 | 1st (1990, 1994) |
過去参加シリーズ | |
1982 1982-1999 |
Can-Am CARTインディカー・ワールド・シリーズ |
選手権タイトル | |
1982 1986, 1988 1990, 1994 |
Can-Amチャンピオンシップ インターナショナル・レース・オブ・チャンピオンズ CARTインディカー・ワールド・シリーズ |
受賞 | |
1992, 1994 1994 |
インディ500チャンピオン ABC Wide World of Sports Athlete of the Year |
アルフレッド・アンサー・ジュニア (Alfred Unser, Jr.、1962年4月19日 - ) は、アメリカ合衆国ニューメキシコ州アルバカーキ出身のレーシングドライバー。インディ500を2度制した。愛称は「リトル・アル」(Little Al)。
生い立ちおよび経歴
[編集]父がアル・アンサー、叔父がボビー・アンサーといういずれもレーシングドライバーの家庭でレースに囲まれて成長した。11歳の頃までにはスプリント・カーのレースに出走していた。高校卒業後には、すでにスプリント・カーのワールド・オブ・アウトロー・シリーズに出走するようになっていた。
1982年、アンサーはCART(現在のチャンプカー)にデビューし、カリフォルニア500で5位という結果を残した。翌年、彼は初めてインディ500に出場し、10位完走を果たした。アンサーはCARTへの挑戦を続け、同シリーズにおける期待の新星となっていった。1986年にはIROC選手権にも参加するようになり、4レース中2勝を挙げてチャンピオンとなった。これが24歳のときであり、2004年現在IROCの史上最年少チャンピオン記録となっている。同年、アンサーはデイトナ24時間レースでも優勝した。
アンサーはCARTにおいても1986年に年間4位、1987年に3位、1988年に2位とじわじわ強さを増していき、1990年にはついに最初のチャンピオンを獲得するに至った。1989年にはインディ500での勝利にあと一歩のところまでこぎつけたが、トップを争うエマーソン・フィッティパルディと接触しアンサーはスピン、防護壁に衝突してチャンスを逃した。それでも1992年には、スコット・グッドイヤーをわずか0.043秒押さえてインディ500での初勝利をものにした。これは2017年の時点で、インディ500における最小差での勝利である。
1994年にはインディで2度目の優勝を成し遂げたが、このときはペンスキー・レーシングからの出走であった。チームメイトは5年前に優勝を争ったエマーソン・フィッティパルディであった。アンサーはこの年、シーズンを通して圧倒的なパフォーマンスを示し、16レース中8勝を挙げて2度目のCARTチャンピオンに輝いた。この頃にはマイケル・アンドレッティと共にF1移籍の噂があり、実際にウイリアムズのテスト走行も行った。
しかし、この頃からCARTにおけるアンサーには陰りが見え始めた。1995年にはジャック・ヴィルヌーヴに次ぐ年間2位の座を得たものの、1996年には4位、1997年に13位、1998年に11位、そして1999年には21位となってしまった。結局アンサーはCARTから離れ、設立されたばかりのインディ・レーシング・リーグ(IRL)の2000年シーズンに参加することになった。同年、ラスベガスにおいてIRLでの初勝利を挙げた。
IRLにおいてアンサーは通算3勝を記録したが、2003年10月にバギーでの事故で骨盤を折る怪我を負ったため、2004年シーズンの出走は困難を極めることになった。結局彼はパトリック・レーシングとの間で3レースの出走契約を結んだものの、リッチモンドでのレースで22位完走を記録したのを最後に、2004年6月30日をもって引退を宣言した。
しかし、アンサーはなおもレースに関わり続けている。彼はパトリック・レーシングのアドバイザーとして、また彼の息子であるアルフレッド・アンサー(現在IRLの下位カテゴリーに参加)の指導者として活動している。
チャンプカーにおける成績
[編集]年 | チーム | 勝利数 | ポイント数 | 最高位 | 年間順位 |
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1982 | フォーサイス・レーシング | 0 | 30 | 5 | 21 |
1983 | ギャレス・レーシング | 0 | 89 | 2 | 7 |
1984 | ギャレス・レーシング | 1 | 103 | 1 | 6 |
1985 | シアソン・レーシング | 2 | 150 | 1 | 2 |
1986 | シアソン・レーシング | 1 | 137 | 1 | 4 |
1987 | シアソン・レーシング | 0 | 107 | 2 | 3 |
1988 | ギャレス・レーシング | 4 | 149 | 1 | 2 |
1989 | ギャレス・レーシング | 1 | 136 | 1 | 5 |
1990 | ギャレス/クラコ・レーシング | 6 | 210 | 1 | 1 |
1991 | ギャレス/クラコ・レーシング | 2 | 197 | 1 | 3 |
1992 | ギャレス/クラコ・レーシング | 1 | 169 | 1 | 3 |
1993 | ギャレス・レーシング | 1 | 100 | 1 | 7 |
1994 | ペンスキー・レーシング | 8 | 225 | 1 | 1 |
1995 | ペンスキー・レーシング | 4 | 161 | 1 | 2 |
1996 | ペンスキー・レーシング | 0 | 125 | 2 | 4 |
1997 | ペンスキー・レーシング | 0 | 67 | 3 | 13 |
1998 | ペンスキー・レーシング | 0 | 72 | 2 | 11 |
1999 | ペンスキー・レーシング | 0 | 26 | 5 | 21 |
通算31勝、チャンピオン2回。
インディ500の成績
[編集]括弧内はリタイア原因。
- 1983年 - 10位(燃料切れ)
- 1984年 - 21位(ウォーターポンプ)
- 1985年 - 25位(エンジン)
- 1986年 - 5位
- 1987年 - 4位
- 1988年 - 13位
- 1989年 - 2位(クラッシュ)
- 1990年 - 4位
- 1991年 - 4位
- 1992年 - 優勝
- 1993年 - 8位
- 1994年 - 優勝
- 1995年 - 予選落ち
- 2000年 - 29位(ラジエーター)
- 2001年 - 30位(クラッシュ)
- 2002年 - 12位
- 2003年 - 9位
- 2004年 - 17位
外部リンク
[編集]タイトル | ||
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先代 リック・メアーズ |
インディ500優勝者 1992 |
次代 エマーソン・フィッティパルディ |
先代 エマーソン・フィッティパルディ |
インディ500優勝者 1994 |
次代 ジャック・ヴィルヌーヴ |
先代 エマーソン・フィッティパルディ |
CARTシリーズ チャンピオン 1990 |
次代 マイケル・アンドレッティ |
先代 ナイジェル・マンセル |
CARTシリーズ チャンピオン 1994 |
次代 ジャック・ヴィルヌーヴ |
先代 ハリー・ガント |
インターナショナル・レース・オブ・チャンピオンズ チャンピオン IROC X (1986) |
次代 ジェフ・ボーディン |
先代 ジェフ・ボーディン |
インターナショナル・レース・オブ・チャンピオンズ チャンピオン IROC XII (1988) |
次代 テリー・ラボンテ |
先代 ジェフ・ブラバム |
Can-Am チャンピオン 1982 |
次代 ジャック・ヴィルヌーヴSr. |